原発の全廃めざそう
再稼働阻止 決意あらたに
東日本大震災と福島第一原発事故から1年。10日から11日にかけて、全国各地で反原発・脱原発をかかげた大規模な集会が開催された。
原発いらない福島県民大集会に1万6千人が参加。東京では日比谷公園に4万5千人。大阪でも1万5千人がデモ行進をおこなった。3・11闘争の全国的な高揚は、多くの人々の原発再稼働の動きに対する強い危機感を示した。〔5面に関連記事〕
3・11福島の怒り 郡山市の開成山野球場のスタンドは1万6千人の参加者で埋めつくされた |
全国各地から福島にかけつけた(11日 郡山市内) |
11日、開成山野球場(郡山市)の内野スタンドは満杯となり、芝生の外野席に人があふれ出た。
午後1時から加藤登紀子さんのオープニングコンサートが始まった。加藤さんはその歌声で福島県民のたたかいに連帯と応援の力強いメッセージを送った。エンディングでは、会場が一体となり、「パワー・ツー・ザ・ピープル!」の合唱が福島の空に響きわたった。
変革の始まりに
集会の冒頭、福島県平和フォーラム代表の竹中柳一さんが実行委員会委員長としてあいさつをおこなった。竹中さんは、「この集会が、終りではなく、大きな変革の始まりとなることを!」とよびかけた。
続いて福島大学副学長の清水修二さんが呼びかけ人を代表してあいさつ。
会場の大きな拍手のなか、作家の大江健三郎さんが司会から紹介された。
大江さんは福島原発事故後、ドイツの国会が国内の原発を全廃することを決議したことに触れ、「原発をどうするのかを最初に議論したのは倫理委員会であった。ドイツでは政治的理由や経済的な理由よりも倫理的な理由を優先して考える人たちが今度の原発廃止の動きをつくった」と指摘した。
そして「倫理的な責任とは人間が人間らしく生きていくことを妨げないこと」であり、今私たちに必要なことは、「絶対に原発事故をなくすことである」と述べた。そして「それはできる。この国の原発をすべて廃止すれば、私たちの子どもたちや、そのまた子どもたちが原発の事故によって被害をこうむることは絶対にない」と力を込めて訴えた。
また電力危機を煽って民衆を脅迫している財界、政府、マスコミに対して、「私たちは、政治的な責任よりも経済的な責任よりも、そして国防的な責任よりも、人間が人間らしく生きていけるかどうか、すなわち倫理的責任を重んじる」と自らの立場を鮮明にした。
最後に大江さんは「私は一つ想像することがあります」と切り出し、次のように述べてあいさつを締めくくった。
「それは近い将来のある日ある朝。この国のすべての学校で、校庭にこのようにすべての生徒が集まり、そして先生が、あるいは生徒代表が、こういうことを告げる。『みなさん、この国は原発を全廃することを、昨日、決議しました。私たちの未来に原発事故の不安はもうありません』そしてこどもたちの大きな歓声があがり、この国の隅々までが響くだろうということを私は想像します」
原発がなければ
福島県民の訴えとして6人が発言した。福島市から山形県米沢市へ自主避難している菅野智子さんは、「福島第一原発の事故がなければ、福島を離れることはなかった。子どもを守りたいと米沢にきたが、福島が好きだという気持ちは変わらない」と切々と訴えた。 二本松市で有機農業を営む菅野正寿さんは、農産物の汚染やガレキ問題で「まるで福島県民が加害者であるような自治体の対応、マスコミの報道に怒りをもっている。マスコミが追及すべきは、電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか」と語気を強めた。そして「東北を犠牲にして繁栄してきた東京は、本当に持続可能な社会といえるのか」と鋭く問いかけた。
富岡町から郡山市の高校に転校した女子高校生は、「原発がなければ、津波や倒壊の被害にあったひとたちを助けに行くことができた。それを思うと、怒りと悲しみでいっぱい。人の命を守れないのに電力とか、経済とか言っている場合ではないはず」と怒りを込めて訴えた。〔他の3人の発言要旨は5面〕
犠牲を無駄にしない
集会宣言には福島県民の心の奥底からの叫びが凝縮されている。原発事故は福島県民に耐えがたい経済的社会的被害をもたらしたが、「最も耐えがたいことは、被災者同士に分断と亀裂をもたらしたことだ」と宣言は糾弾する。そして「福島の犠牲を断じて無駄にしないために、ともに『原発いらない!』の声をあげよう」と呼びかけている。
福島の怒りは深く、重い。この怒りと痛みをわがものとすることを出発点としなければならない。
3・25 三里塚現地へ
反対同盟 市東孝雄さんが大阪で訴え
団結固める恒例の関実集会(18日 大阪市内) |
18日、大阪市中央会館で3・18三里塚関西集会がおこなわれた。120人が参加。
三里塚芝山連合空港反対同盟の市東孝雄さんが対談形式で、現地報告をおこなった。最初に市東さんは三里塚と福島の橋渡しの役割を果たしていたFさんの不当逮捕を弾劾。そして昨年の天神峰現闘本部攻防、第3誘導路建設の現状、福島原発事故、TPP参加をめぐる問題など多岐にわたって自らの思いを語った。とくに「裁判による農地強奪」のやり方に強い怒りを表明し、3・25三里塚全国総決起集会への参加を呼びかけた。
集会には市東さんの農地を守る沖縄の会からメッセージが寄せられた。
2面
ひびけ さようなら原発
福井の原発動かすな
各地で集会やパレード 3・10〜11 関西
福島第一原発事故から1年を迎えた3・11。関西各地でも10日、11日の両日にわたり反原発デモがおこなわれた。
11日、大阪・中之島公園一帯で、「さよなら原発 関西1万人行動」がひらかれ7000人が集まった。集会後、3つのコースにわかれてデモ行進。前日10日には、京都、神戸、大津でもおこなわれた。
さよなら原発3・11関西1万人行動(大阪)
創意工夫をこらしてにぎやかにデモ行進(11日 大阪市内) |
午前11時から中之島公会堂大ホールでひらかれた特別企画では、福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さんが『原発事故が奪ったもの』、福井県美浜町の松下照幸さんが『原発銀座の若狭から』と題して講演した。
午後は、3会場(公会堂、女神像前ひろば、剣先公園)で同時集会となった。
公会堂には、子ども連れの若いお母さんが多く集まった。宮城県名取市(福島県飯館村の北隣)から避難してきた日下育子さんが発言。人が入りきれず、集会は2回おこなわれ、それぞれデモに出た。関電本店を通るコースだ。
女神像前ひろばでは、前半はロックフェスティバルと参加者の発言をおりまぜ、後半は、「福島のアピール」を村上真平さん(飯舘村で有機農業をしていたが、現在は三重県伊賀市に避難中)が、「福井のアピール」を松下照幸さんがおこなった。集会後、サウンドデモを交えて、御堂筋を大隊列でデモ行進。
剣先公園には〈バイバイ原発・京都〉や、全関西から多くの労働組合が集まった。
韓国民主労総初代委員長の権永吉(クォン・ヨンギル)さん、福島から長谷川健一さん、元京大原子炉実験所講師の小林圭二さん、衆院議員服部良一さんらが発言。小林さんは野田首相「12・16収束宣言」のデタラメさを弾劾した。
集会後、大阪駅方面にむけデモ行進。
バイバイ原発3・10きょうと
京都市内では、円山野外音楽堂とその周辺に6000を超える人が集まった。メイン集会では、京大原子炉実験所助教の小出裕章さん、「さようなら原発1000万人署名」京都の会の石田紀郎さんがスピーチをおこない、アイドルグループの制服向上委員会がライブ&スピーチをおこなった。最後は全員で「we shall overcome」を歌い、デモに出た。
3・10さよなら原発神戸アクション
メリケンパークからパレードに出発(10日 神戸市内) |
神戸港メリケンパークに500人が集まり、脱原発イベント、集会、パレードがおこなわれた。
集会では、服部良一衆院議員、アーティストの増山麗奈さん、福島から淡路島に避難している煙山亨さんなどがアピール。煙山さんは「原発は即時全部とめるべき。福島の体験が全国の人の体験になってほしくない。その想像力が求められる」と話した。
3・10さいなら原発・びわこ集会(パート2)
大飯原発再稼働反対を訴え(10日 大津市内) |
講演『原発の運転再開に反対する根拠』(小林圭二さん)、『福井原発再稼働禁止仮処分裁判について』(井戸謙一さん)をはじめ、地元でのさまざまなたたかいが報告された。集会後、150人が大津市内をデモ行進。
原発と共存できない
佐賀で総決起集会 2・26
玄海原発再稼働を許してはならない(2月26日 佐賀市内) |
2月26日、玄海原発の地元佐賀県で、原水禁九州ブロック連絡会議などの主催による集会が開かれた。九州各地の労働組合や玄海原発プルサーマル運転と鹿児島川内原発増設に反対する市民など2100人が集まり、昨年11月福岡での「1万人集会」につぐ規模となった。
「さようなら原発1000万人署名」の呼びかけ人の一人である鎌田慧さんは、署名が540万筆集まっていることを報告。「原発はかならず被ばく労働者や危険な廃棄物をうみだし、一部の者の金儲けや核兵器などにつながる」「今度こそ本気で止めなくてはならない」「7月に東京で10万人集会をひらく」と提起。
福島県からかけつけた「原発いらない福島の女たち」の人見やよいさんは、「原発事故は、核と人類が共存できないことを証明した。原発は止めなくてはいけない。誰かの犠牲の上にある豊かさはニセモノ」と訴えた。
集会後、玄海原発再稼働をめぐる「やらせメール」問題の舞台になった九電佐賀支社前をデモ行進。3月11日には佐賀をのぞく九州6県で反原発集会がおこなわれた。
Fさん 再逮捕・起訴
三里塚と福島支援への政治弾圧
3月8日、大阪府警は三里塚の野菜を運び、福島支援のボランティアをしていたFさんを、「電磁的公正証書原本不実記録・同供用」容疑をでっち上げて再逮捕した。
大阪府警はFさんを2月27日に、「免状不実記載・同行使」をでっち上げて不当逮捕した(本紙前号既報)。これにたいして、Fさんとともに福島支援活動をおこなっていた仲間や反原発運動の仲間などから抗議の声があがっていた。3月7日、大阪地裁でおこなわれた勾留理由開示公判には、法廷からあふれる多くの仲間がかけつけて、逮捕と勾留の不当性を弾劾し、裁判官を追いつめた。
大阪府警は、3月8日にいったんFさんを釈放しながら、その場で再逮捕。この再逮捕の不当性に、大阪地裁令状部は検察の勾留請求を却下。ところが検察は準抗告をして、地裁刑事部に勾留を認めさせた。
大阪府警が再逮捕の容疑としているのは、Fさんが三里塚の野菜を福島に届けるなどの支援活動で使った車の名義がFさんではなかったということである。
18日、大阪地検はまったく不当にもFさんを起訴した。三里塚と福島支援を闘うFさんへの、むちゃくちゃな政治弾圧だ。絶対に許せない。
3面
橋下に反撃ののろし
官民連帯の力で闘おう
大阪市長・橋下に対して、怒りののろしがあがった。6日、大阪市内で「教育・職員基本条例反対 公務員・労組バッシング糾弾―労働基本権を守ろう・官民連帯集会」が開かれた。会場のエルおおさか南館ホールは参加者で満杯となった。
異例の暴挙
集会の総合司会は南大阪平和人権連帯会議副議長の中村吉政さん。全港湾大阪支部委員長の大野進さんの主催者あいさつで始まった。大野さんは「橋下は法を無視したアンケートをあえてやろうとしている。団結権、基本権の破壊であり、自分たち自身に攻撃がおそいかかっている。この暴挙を許してなるものか。広範な労働者市民の力と知恵を結集して橋下を打倒しようと」と発言。
大阪労働者弁護団の在間弁護士の講演では「アンケート問題」を中心に次のように提起された。
まず、2月9日付けの「橋下徹」署名入りの通知文書の異例さ。関市長時代にも同じようなアンケートはあったが、市労連が不当労働行為だと抗議して中止に追い込んだ。今回はこれを「業務命令」とし、拒否や不正確な回答は処分の対象。通知の翌日から実施するという有無を言わせないやりかた。しかもパソコンでの回答を求め、回答の留保を認めないシステムになっているなど異常なもの。労働組合法第7条が不当労働行為として禁じる「支配介入」そのものだ。
勧告が橋下直撃
弁護団は市労連からの要請を受けて、13日に大阪府労働委員会へ「アンケートの中止および廃棄」と「謝罪」を求める救済申立と同時に実効確保の措置申立をおこなった。同日以降、大阪弁護士会、東京弁護士会、広島弁護士会、日弁連などが会長声明を次々と出した。そのなかで大阪府労働委員会は22日、「支配介入(不当労働行為)のおそれがある」として、「アンケート調査の続行を差し控えるよう」という勧告を出した。
橋下は答弁書で「第三者チームがやっていることで、市がやったのではない」という卑劣な言い逃れ。調査チームの野村修也弁護士は、2月18日に「調査凍結」を表明していたが、3月2日には「3月中に府労委の結論が出なければ、回答データを破棄」と表明。実質的な敗北宣言である。
労働基本権を守ろう
在間弁護士は、橋下の攻撃が「競争に勝つためには妨害団体=労働組合をつぶせ」というものであることを指摘。これは公務員だけではなく、全労働者の問題である。公務労働運動のあり方をかけて闘おうと結んだ。
つづいて大阪市労連より市従労組副委員長中原康夫さん、大阪府労連より自治労府職労委員長川本富士夫さんが闘いのアピール。集会は今後も官民連帯の力と行動で橋下の暴走をとめようという力強い発言で締めくくられた。集会には大阪市職労と鎌田慧さんからメッセージ、教育学者などの「教育基本条例に再び反対するアピール」がよせられた。
大阪労働7団体が橋下市長に抗議闘争 (16日 大阪市役所前) |
〔解説〕
3・6集会は、2月冒頭から大阪市の12の行政区を活動範囲とする官民の労働組合によって準備された。呼びかけたのは南大阪平和人権連帯会議と大阪東南フオーラム平和・人権・環境。賛同団体として大阪平和人権センター、おおさかユニオンネットワーク、NPO労働と人権サポートセンター・大阪が加わった。大阪労働者弁護団の素早い動きも重要だった。総評解散後も地域の春闘、争議や反戦・平和の闘いを長年堅持してきた労組グループによって準備され、広範な人々の結集が実現した。
2月24日に野村弁護士に対する「懲戒請求」が市職員ら111名によって東京第二弁護士会に出された。2月28日、大阪市議会初日の抗議宣伝。3月5日、大阪法律家8団体共催の集会。15日、WTC移転問題の96億円請求裁判の開始。16日には大阪労働七団体が呼びかけた労働組合全国署名(400団体)を市長に提出、300人が市役所を取り囲んだ(写真)。市役所前では、抗議の座り込みもおこなわれている。(労働者通信員 K)
一回のミスでも退職 郵便局の過酷な実態
私は郵便事業株式会社A支店集配営業課で期間雇用社員(以前のゆうメイト)として働いている。
自腹を切る労働者
朝の全体ミーティングで、課長などから経営が赤字であることが毎回強調される。営業目標「カタログ販売、今日中に何個」などということが確認され、それが必達であると告げられる。「このままでは倒産する、職場を失ってもいいのか」「言われたことをやりたくなければ、他の仕事を探せ」という恫喝とともに。
月末に近づき、目標を達成するのがとうてい難しいなという感じの時も、結局はぎりぎりにクリアされている。これは不思議なことではなく、プレッシャーに負けた労働者が最後は自分で買っているだけの話だ。
来る日も来る日も「目標」を突きつけられる。本務者(正社員)には、「やる気がなければ辞めろ」。期間雇用社員には、「正社員になりたければもっと営業成績を」と言って。
煽られる競争
一昨年に大きな話題となった〈期間雇用社員からの正社員登用試験〉が、同じ条件で再び昨年11月に一次試験が行われた。その合格者と月給制社員(1次試験免除)が今年1月後半に面接試験を受けた。結果は4月末に出て、6月1日採用という段取りで進んでいるが、今回の正社員登用試験は、前回よりもさらに狭き門となっている感じだ。全体の数がどこにも明らかにされていないのではっきりしない面もあるが、A支店では一次通過者ゼロであったり、その他の支店でも、一次を通ったものは1割〜2割のごく少数だったと聞いている。こういうことを通して、競争がいっそう激しく煽られ、人間関係などでも非常にしんどい職場にますます変わりつつある。
期間雇用社員は、一定の期間で誤配を3回する(対面配達の場合は1回)とスキルダウンになるが(スキルは評価ランクのこと。A、B、Cと3段階あり、さらにそれぞれ習熟度有り、無しがある。要するに6段階評価制度。スキルランクAの習熟度有りが最高)、そこに至らなくても評価を下げよう、または上げないという力が大きくなってきている。
さらに雇い止めの事例も増えている。このような中で、課長などに媚びへつらい、他の期間雇用社員のスキルを下げるよう密告する者も出てきたりと、大変な環境になっている。仕事の遅い人、年配労働者へのいじめ的な対応。弱い立場の者が、さらに弱い立場の者を踏みつける。こういう状況が以前より目につくようになっている。
配達が終わるまで
民営化以降の数年間で、郵便事業会社の業務内容が変わってきたこと(合理化)が、労働組合の変質、労務管理とも相まってこのような職場状況を生み出していると感じる。
いわゆるIT化が進み、郵便課では合理化が激しく、大変な状況になっている。昨年末からの書留授受などのIT化ではほとんどパニック的な事態も引き起こした。集配においても、段階的に、携帯端末1つであらゆる業務をこなさなければならなくなり、非常に煩雑になり、神経をすり減らしている。加えて営業活動をどれだけやっているのかということも報告させられ、全体として労働の密度がかなり増した感がある。
要員が確実に減った(補充されない)ことと、仕事量が増えたことで、支店によっては(労働組合の一定の存在感のあるなしによっては)昼休みも取らないサービス労働が蔓延しているところもある。休憩休息が何分あるか、何時間の超勤に対しては何分あるかということも知らないJP労組執行部もいて、そんなところでは労働者ももちろん勤務時間を認識できない。そのため、勤務時間を過ぎても、配達が終わるまで働き続けている。
その結果としての様々なミス(誤配、書留の落失、亡失など)や、交通事故もよく起こる。ミスに対しては、重大と判断された場合は厳しい処分が科せられるが、その処分の前に事情聴取と称して、まるで警察による取り調べのような事がおこなわれる。退職強要まがいのことが実際におこなわれている。「字を読んで配るだけの仕事ができない者に、どんな業務も任せられない。君はもうここでは無理と違うか」・・・。
こうした過程で追い詰められ、発病する労働者も出てきている。たった1回のミスでも重大と判断された場合、すぐに退職を迫る。こういうでたらめなやり方があちこちで頻発している。
一家心中したいのか
交通事故についても、ミーティングなどで業務中に死亡事故を起こした労働者の末路が一家心中となったことを例に出し、「そうなりたくなかったら事故を起こすな」と恫喝する始末だ。その事例は、事故を起こした者をどれほど当局が追い込んだかを示しているのだが。
JP労組は、こうした職場を生み出した一方の当事者だ。中央委員会の議案を見ても、リアルな職場の状況は見えない。
だが分会単位〜支部まではまだリアルな状況が報告されるし、それへの意見もいろいろ出されている。現場では、「この職場状況を変えたい、社会を変えたい」という意思がある事が示されている。
私は、ちゃんと言葉で行動で示していき、そのことで何かを切り拓いていきたい。
(浅田洋二)
暴処法弾圧裁判 最高裁が上告棄却
最高裁は1月27日付で、関西合同労組のNさんに対する暴処法弾圧裁判で上告棄却決定をおこなった。理由は「上告趣意書の主張は、刑事訴訟法405条の上告理由にあたらない」という常套句を並べただけのものだ。
大阪府警による組合活動への連続した不当弾圧を追認する最高裁の決定は、断じて認められない。
警察権力の組合弾圧、権力濫用・人権蹂躙に対して徹底的に闘おう。
4面
検察が「有罪」の新鑑定
狭山第三次再審請求 どこまで卑劣なのか
7日、部落解放同盟全国連による〈東京高裁と東京高検への要請行動〉がおこなわれた。
この日も、高裁の管理官や、高検の狭山担当主任検事・広瀬公治(ひろせ きみはる)らは、「質問に答える必要はない」と言い放ち、頑迷な態度を崩そうとはしなかった。
検察が新鑑定!?
2年前に出された「証拠の開示勧告」にも関わらず検察は、殺害現場とされる雑木林のルミノール検査報告書や、三大物証など、隠し持つ証拠をいまだに開示しようとしない。
しかし、裁判所が「開示勧告」を出さなければならなくなったことじたい、狭山闘争が裁判所・検察を追い詰めてきた結果だ。
ここにきて検察は「石川さんを犯人とする新鑑定を出す」などと言いはじめた。こんな事は、これまで聞いたことがない。
そもそも犯人にでっち上げ、有罪を確定させた検察に、新たな有罪立証の権限などない。
あくまで「石川さんイコール犯人」を貫こうとする、その暴挙の中に、検察の追い詰められた姿を見てとることができる。
石川さんが逮捕時に脅迫状をなぞって作らされた上申書や、取調べの録音テープなど、開示されている証拠ですら、検察側の有罪立証が崩れてしまっていることを、自己暴露している。
再審開始を
怒りを倍化させ、狭山闘争の陣形を広げ、闘いを強化していかなければならない。
石川さんを三者協議に参加させろ。三大物証をはじめ、検察の隠し持つ全証拠を開示せよ。
検察の「新たな鑑定の提出」など、絶対に認めることはできない。裁判所は、鑑定人への証人尋問をはじめ、直ちに事実調べ・再審を開始せよ。
石川さんは24歳で逮捕され、今年の1月に73歳になった。この日も東京高裁の前に立ち、無実を訴えつづけていた。
足利事件、布川事件など次々と権力犯罪が暴かれ、テレビでも石川さんの冤罪がはっきりと報道されるようになる中で、前代未聞の「有罪立証の補強」までおこなう検察を許すな。こんな差別、理不尽な事を許していいのか。(東京S)
格差に行動の気運 ワールドカフェに参加して
最終回迎えた貧困問題連続市民講座
2年半にわたって27講座と特別講座2つを続けてきた大阪弁護士会の貧困問題連続市民講座が3月8日、最終回となった。同講座は毎回100人前後が参加し、延べ参加者数は約3000人に達した。最終回は少し趣向を変えてワールドカフェ方式で行われた。
衝撃うけた学校現場からの報告
最初に報告に立った小豆島悦子・元養護教員はいう。子どもの貧困はこれまでなかったわけではない。しかし、それが深刻になりはじめたのは2000年頃からで、ここ数年さらに激しくなっている。
「おはよう」と言う代わりに「先生、何か食べるものない?」「おなかがすいて勉強できひん」と言って保健室に来る小学生の生徒が増えてきている。そういう子どもたちのために教師は前日の給食の余った牛乳(賞味期限内)を職員室の冷蔵庫に保管しておく。
保健室にきた母子家庭の子は、当日の朝食も前日の夕食も食べていなかった。お母さんは夕方、何か簡単な食べ物を作って冷蔵庫に入れて水商売の仕事にでかけていく。夜中に帰ってきて早朝のもう一つの仕事に出かける。子どもが学校に行く頃に自宅に戻って朝ごはんを食べさせることになっていたが、お母さんが帰ってこなかったという。
「お母さん、2つ仕事掛け持ちしているから大変やし」というと、その子どもが「先生、3つ仕事やるのは?」と聞いてきた。お母さんは昼間も仕事に出かけていたのである。しかし、お母さんはうつ病になりその後生活保護を受けてようやく生活が安定し、次のステップに向かおうとしている。こういう事例が増えつつあるのが、今の学校現場のひとつである。
夢と希望はもてるのか
次は、ワールドカフェに入った。初めての体験だったが、なかなかおもしろい企画だった。テーマは「私たちは貧困問題にどのようにかかわり、解決していくことができるのか?」である。このテーマに基づき何回か席替えして意見交換していく。
印象に残ったのは「夢と希望」という言葉だった。格差の拡大によって、今の子どもたちからは人生の希望、可能性がはく奪されている。意見交換の中では、医療費、教育費は無償にしなければならない、政治を変えなければいけない等々さまざまな問題意識が出された。
私は、劣悪な労働条件でも労働組合に入ってがんばれば自分の人生を切り開いていける、夢と希望が持てる、そういうようにしていくことも必要ではないかという意見を述べた。ひとりの青年の目がキラッと光ったのを覚えている。
学習から行動へ
大阪弁護士会の貧困・生活再建問題対策本部は、貧困問題の学習から貧困をどうやって解決していくのかというアクション・プランの策定に向かおうとしている。同本部の主催で4月3日午後6時半から「貧困・生活再建問題に関する市民懇談会(仮称)」が始まる。格差拡大に対して、さまざまなところから行動を起こしていこうという気運が生まれてきている。私は、これからも貧困問題に取り組み、多くの人たちと連携しながらともに行動していくようにしていきたいと思う。(Y)
注:ワールドカフェとは、知識や知恵は会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由につながることのできる「カフェ」のような空間でこそ創られるという考え方に基づくもので人々の知識や知恵を引き出す話し合いの手法のひとつ。
つくろう総合福祉法 京都で全関西集会
1300人が参加した全関西集会(2月29日 京都市内) |
全国の「障害者」をはじめとする激しい抗議の中、野田政権は3月13日、「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)案」を閣議決定した。これは、新法ではなく「障害者自立支援法」の一部改正案で、法案化が進められていたものだ(本紙前号で既報)。5〜6月、暑い国会闘争の季節を迎える。
法案の名称は、予定されていた「障害者総合福祉法」と似ているが、似て非なるものだ。主な「改正」点は、法律の名称を変えたこと。「理念」を前文として入れたこと。障害の範囲に「難病等」を加えたこと。障害程度区分の認定を含めた支給決定の在り方を3年をめどに検討すること等の点だ。
しかし、「理念」では、共生社会の実現のための障壁の除去は「可能な限り…行わなければならない」と限定し、難病については千種以上あるうちの130種に限定。障害程度区分を残し、どういう方向で検討するのかも定かでないなど、「障害の原因は個人の側にあるのではなく、社会的障壁にある」という考え方(「医学モデル」から「社会モデル」への転換)を否定するものだ。自立支援法廃止の約束を完全に裏切り、自立支援法違憲訴訟の和解条件に反する。
こうした動きに対し、2月29日には京都市内で「みんなの手でつくろう!総合福祉法を!全関西集会」が1300人を集めて開かれた。2月中旬以降、東京、富山、愛媛、埼玉、埼玉県川口市、兵庫県尼崎市など、政府の改正案に反対し総合福祉法を求める集会が、全国各地で開かれている。また、5日には全国14カ所で同時に、違憲訴訟の元原告団・弁護団の記者会見が行われた。聴覚障害関係6団体は「骨格提言の実現を今こそ求める」共同声明を発表した。
共通するのは、障がい者制度改革推進会議・総合福祉部会の骨格提言、違憲訴訟和解文書、障害者権利条約を基本文書として確認し、自立支援法廃止・総合福祉法の制定を推し進めようということだ。幅広い陣形で5〜6月国会闘争を闘おう。
本の紹介 『福島からあなたへ』
昨年9・19東京明治公園を埋めつくした〈さようなら原発6万人集会〉での武藤類子さんのスピーチが本になった。
危機を伝えるある波長というものがあるのかもしれない。カメラを携えた森住卓さんの耳にすっと入りこんだメッセージは、「福島のみなさん、どうぞ一緒に立ち上がって下さい」だった。しかし、悲鳴や嬌声ではない。
会場にいた私は、ステージから離れた高台で、すべての言葉を聞きとることはできなかった。しかし、武藤さんの声の訴求力には、いままで聞いたことのない、ある切迫した真実味が充ちていたことは忘れられない。
いま、〈さようなら原発6万人集会〉で発せられたメッセージを目で味わっていても、その波長に再び出会っていることに驚き、あらためて、泣きはするけれども、行間にある悲惨にうちのめされることのない、透明で硬い珠玉のようなものに触れる喜びに転移させる力がよみがえってくる。
本書の第二部にあたる書下ろし「福島からあなたへ」は、そうした結晶体となった悲痛の精製過程の物語。「福島に戻ってみると、胸が痛くなる現実が待っていました。国がおこなったことは『情報をかくすこと』『事故を小さく見せること』『さまざまな基準値を引き上げること』だったのです。これらは福島県民を見えない檻に閉じ込めることでした。放射線健康リスク管理アドバイザーによる安全キャンペーンが繰り広げられました。なぜかSPEEDIの情報は開示されず、核燃料がメルトダウンしていたことがあきらかにされたのは2カ月あとのことでした。」
あの事故発生の時、直観した、21世紀日本での原子力ホロコーストは、現実であることが、疑えなくなった。(巌 匠)
福島からあなたへ
武藤類子著 写真・森住卓 1200円+税 大月書店
5面
福島県民の訴え
3月11日、福島県郡山市の開成山野球場でおこなわれた「原発いらない! 3・11福島県民大集会」〔1面参照〕では、6人の福島県民から発言があった。その中から、3人の発言を要約して紹介する。〔文責 編集委員会〕
県民は一丸となって 飯舘村から福島市に避難 菅野哲さん
飯舘村では、高原野菜を作っていました。しかし、今回の原発事故で、すべてを失ってしまいました。飯舘村の農家は、ほとんどが農地も牛も、すべてを失って、涙を流して、廃業しました。もう、飯舘村で農業を行うことができないのです。避難をしていても、何もすることがないのです。農家は、農業をやることが仕事です。どうやって生きろというのですか。
飯舘村は、去年の3月15日の時点で、44・7マイクロシーベルト/時です。この高い放射線量の中に、飯舘の村民は放って置かれたんです。長期間、被ばくをさせられたんです。
死の灰をまき散らしておいて、「放射能は無主物」〔※〕だと言います。何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。東京電力と国は、きちんと責任を取って下さい。
いま、大手ゼネコンが、双葉郡、相馬郡に入っています。「除染、除染」と言葉を並べているだけで、路頭に迷う住民の今後の暮らしのことについては、住民の意向をなにひとつ汲んでいません。
美しかった飯舘村は、放射能で暮らせません。
放射能の心配がなくて元のように美しい安心して安全に暮らすことができる生活の場所。いままでのようなコミュニティーを残した「新しい避難村」を、私たちに建設して下さい。国や行政には、子どもの健康と、若者が未来に希望を持って暮らすことができる、住民の意向を十分に反映した、新しい施策を要求します。
みなさん、この悲惨な原発事故を二度と起こしてはなりません。風化させてはなりません。国民が忘れてはならないんです。福島県のみなさん、県民が一丸となって、もっともっと声を大きくして、全国に、世界に訴えていきましょう。
〔※ 誰の所有にも属さないの意。二本松市のゴルフ場が放射性物質による汚染の除去を東電に求めた仮処分の申し立てで、東電が答弁書に書いた言葉。東電に責任はないという意味〕
福島の魚を届けたい 相馬市 佐藤美絵さん
去年の3月11日、東北沿岸は、巨大津波を受け、私たちが住む相馬市も、甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、すべてを飲み込み、美しかった松川浦の風景は、跡形もありません。
私は、港町で育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、水揚げが毎年70億円と、全国有数の規模を誇っていました。
地震の長い揺れが収まり、ぼう然と落ちてきたものを片付けていると、消防車が「津波がくるから避難して下さい」と、海岸沿いを巡回していました。私は、「ほんとに津波なんかくんのか」と、半信半疑で道路から遠くの海を眺めると、真っ黒い波が山のように見えたのです。「だめだ。逃げろー」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫とともにやっと高台に駆け上がりました。そして、そこから見た光景は、まるで地獄のようでした。
漁師たちは、9月になれば、何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つひとつ揃え、頑張っていました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週、魚のサンプリングをして、「来月は大丈夫だろう。船は出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は、変わり果てた姿です。
現在、漁業者は海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちは「もう一度、漁師として働きたい」、私は市場で夫の穫ってきた魚を売る活気ある仕事がしたいのです。もう一度、あのおいしかった福島の魚を、全国の皆さんに送り届けたいのです。
国策で二度も棄民に 浪江町 橘柳子さん
浪江町は、原発のない町。しかし、原発が隣接する町です。
私は、先の大戦から引き揚げてきて以来、浪江町に在住していました。現在は、本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9か所の避難所を転々としました。
津波で多くの人が亡くなった浪江町請戸(うけど)というところは、原発から直線で6〜7キロの距離です。でも、事故の避難のために、捜索もできずに救助の人たちは、町を去らなければならなかったのです。
3月12日は、「避難して下さい」というのみの町内放送でした。「なぜ」がなかったのです。そこから長い避難生活になると、どれほどの人が考えていたでしょうか。
浪江町長へも、国や東電から、避難指示の連絡はなかったのです。なぜ浪江にだけ、連絡がなかったのでしょう。(浪江町が)原発を作らせなかったからでしょうか。
そんな中で、避難はまた悲劇的です。114号線という道路を避難したのですが、そこは放射線の高いところばかりでした。12日と14日の太陽の光がチクチクと肌を刺すようだったのが、忘れられません。
12日の避難は、私にとっては戦争を連想しました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で集結地に向かった記憶が蘇りました。
原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、えんえんと続く車の列と、その数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして私は、怯えました。国策によって二度も棄民にされる恐怖です。
「福島は、東北は、もっと早く声を出すべきだ」との意見があります。でも、すべてに打ちひしがれ、喪失感のみが心を覆っているのです。声もでないのです。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発・反原発の実現を課題に生きていくことが、唯一の希望かも知れません。
地震は止められないけど、原発は人の意志で止められます。
どうぞ全国のみなさん。脱原発・反原発に関心を持ち、お心を寄せて下さい。そして、もう少しの間、寄り添って下さい。傷はあまりにも深いのです。
原発収束作業の現場から
ある運動家の報告 第2回
――仕事は24時間体制ですか
1F(福島第一原発)も2F(福島第二原発)も24時間、動いてますから。 とにかく稼働している冷却システムに、24時間、人を配置し続けていないと、また大変な事態になってしまいます。
原発の正常運転時でも24時間ですけど、今は、悪化させないために、とにかく人が入り続けないといけない構造になっています。
生産性のない労働なんですけど、それがないと収束もしないという状況なのです。
もしかすると人類初めての作業かもしれないですね。チェルノブイリとはまた違うと思います。
――チェルノブイリとは違う
チェルノブイリの場合は、石棺にしました。しかも作業員が死ぬことを前提に人を投入した。ソ連という体制もあったと思いますけど。
日本は、いまのところ、石棺という道を選んでいないので、あらゆる手立てを尽くして、冷やして、冷やして、最終的に、30年後、40年後に、核燃料を回収するという壮大な世代を超えた仕事に取りかかっているのです。
――拘束時間は
いまの原発作業は、3交代と2交代と、おおまかに2つのシステムがあります。
放管(放射線管理員)の作業も、3交代の部分と2交代の部分があります。だいたい14〜15時間、現場に拘束されます。もしくは3交代の人は10時間拘束されます。
ただ実働時間はすごく短いです。
――それは被ばく線量との関係
そうです。14時間の拘束であっても、実働が4時間ぐらい。あとは休むのが仕事。服を着るのと同じで、その場所にいること自体も仕事なんです。
要するに、原発労働では、いくつものグループがあって、それが順番に同じ作業をやっていきます。交代制をとるのは、被ばく量を平準化するためです。そのために、たくさんのスペアを用意しながら、人を回転させていくのです。
あと、もし何かあったとき、緊急的に対処できる要員という意味合いもあります。実際3・11のときもそうなりました。
「大きな事故があったら、それなりの対処をしてもらう代わりに、何もないときは労働時間は短いけど、普通の人と同じ給料を払いますよ」、ということです。そういうリスクを背負いながらするのが原発労働です。
――汚染の状況は
まず、1Fの作業に入っている車の被曝量がすごくて、問題になっています。
事故前は、カウント数(cpm=counts per minute 1分間当たりに計数した放射線の個数)で、2千とか2千5百くらいが基準。いまは、もう6千が基準。 車の被ばくが1万とか2万もある。それを、6千まで下げるのが大変。拭きまくって除染します。
だけど、実は肝心なところを計測してないのです。ラジエーターまわり。あと車の裏。車が埃を舞いあげて、それをラジエーターで吸気しています。だからほんとはそこを一番やりたいんだけど。それは無理ですよね。
通勤している人は、とにかく終わったら早く帰りたいから、「(値が)少し高いんで、ちょっと待って下さい」と言うと、「何やってんだ」と怒鳴られて、ケンカになるなんてしょっちゅうあります。
そういうケンカを防ぐために、除染をやっている人も、7千くらいだったら、「まあ、いいや」という風にやっていますね。
――車両のサーベイと除染はどこで
2Fは、構内でやっています。 1Fの場合は、Jビレッジの脇の除染場です。そこに一番線量の高いところから車が出てきます。
まずサーベイして、高いところがあったら、とにかく水を掛けたり、拭いたりして、除染します。
――除染に使った水は
結局、流します。世間では除染と言ってますが、僕らは、笑って「移染だよね」と言っています。
――汚染水は排水溝から海へ
それ以外ないでしょう。
――アレバ社の汚染水処理装置は
あれはもっと超高濃度の汚染水の話です。そっちは、配管で循環させる装置が稼働しています。それは、炉心にあった水をやっているだけなのです。
それ以外は、流して、最終的には海に行くのです。(つづく)
6面
書評 貧困はなぜ拡大するのか
ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読んで
ショック・ドクトリンとは『惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革』のことである。アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人々がショックと茫然自失から覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済改革を強行していたという。
経済的ショック療法
ショック・ドクトリンの「始祖」ともいうべき米経済学者のミルトン・フリードマンとその熱心な追随者は、過去30年以上にわたってこうした戦略を練り上げてきた。
大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、チリの独裁者であるピノチェト陸軍総司令官の経済顧問を務めた1970年代半ばのことだった。ピノチェトによる軍事クーデターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、減税、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減、規制緩和といった経済政策の転換を強行するようアドバイスした。
この手法が「シカゴ学派」の改革と呼ばれるようになり、フリードマンは経済的「ショック治療」と名づけた。経済的ショック療法に加え、ピノチェトは独自のショック療法も採用した。数多く設けた拷問室の中で、変革に盾突く恐れがあるとして捕らえられた人々の身体にすさまじい暴力が加えられた。経済的ショック療法と数十万人への拷問の横行は表裏一体の関係にある。
チリに「ショック」が襲いかかってからちょうど30年後、同じ手法が、より大規模な暴力をともなってイラクに登場する。まず初めに戦争がしかけられた。そしてまだ戦火のやまぬうちから徹底的な経済的ショック療法が導入された。大規模な民営化、完全な自由貿易、15%の一律課税、政府の大幅縮小といった政策だ。これに抵抗したイラク人は検挙されて収容所へと送り込まれ、本物の「ショック療法」が心身に施された。
ショック・ドクトリンというレンズを通すと、過去35年間の世界の動きもまるで違って見えてくる。世界各地で起きた数々の忌まわしい人権侵害は、非民主的政権による残虐行為だと片づけられてきたが、じつのところその裏には、自由市場の過激な「改革」を導入する環境を整えるために一般大衆を恐怖に陥れようとする巧妙な意図が隠されていた。
1989年の中国・天安門広場の衝撃的な虐殺事件。中国共産党政権はそのショックを利用して国土の大部分を広大な輸出区とする改革路線に乗り出す。また1993年にはロシアのエリツィン大統領が、最高会議ビルを戦車で砲撃して反対派勢力を封じ込める行動に出て、民営化大売出しの道へと突き進み、悪名高い新興財閥(オリガルヒ)を生むことになる。
新自由主義の暴力性
以上が「ショック・ドクトリン」の概要である。
私の感想は第一に、格差と貧困を拡大する新自由主義に反対と言いながら、新自由主義を単なる経済政策の一理念のようなものとみなして、新自由主義が持つ暴力性(ショック療法)をまったく見てこなかったという反省。誰が考えても民衆にとってより悪くなる政策がなぜ世界に広まっていくのか、いまいちすっきりしなかったことに解答が与えられた。
第二に、ロシアはともかく、中国や、〈連帯〉のポーランド、マンデラの南アフリカで、ショック療法が適用され新自由主義政策がとられていたこと。なんとフリードマンは、天安門事件の8カ月前に中国政府の要請で中国を訪問。12日間も滞在し、ケ小平らの党幹部にアドバイスしていた。民衆に支持された政権が何故反人民的になったのかが納得できた。
第三に、これまで橋下をファシストと見なしていたが、間違いで、大統領型の(疑似)ボナパルティズムと見るべきだと思う。ファシズムとボナパルティズムの特徴的な違いは、自らの運動に民衆を動員するかしないかの違い。橋下は一見民衆に呼びかけているように見えるが、それは選挙に通るためであり、かつ大阪だけで日本全体をショック状態にたたき込んでいないからで、レーガンと同じく妥協的ポーズをとらざるをえない。だから当選後橋下は、国政への参加を声を大にして叫んでいる。もともと橋下・新自由主義は、民衆を呆然自失状態に追い込むのがその手法なので、押しつけはあっても民衆の声を聞く気はない。もう一つの違いは、ファシズムは(具体的政策の是非は別として)青年の失業を減らそうとしたが、新自由主義は失業者をどんどん増やす政策だということ。
第四に、終章・ショックからの覚醒―民衆の手による復興へ―で、南米の諸国がショック療法から20数年後に、新自由主義を掲げたこれまでのクーデター政権の末裔たちを追い落し、選挙を通して自分たちの政権を創り出したこと(およびかつての支配者の多くを罪に問うていること)が紹介されている。
著者は、新自由主義とは「調和のとれた経済体制を作り出すのではなく、富裕層をさらなるスーパーリッチに仕立てる一方で、組織労働者階級を使い捨て可能な貧者へと追いやるもの」であるが、「ショックは一時的なものであって必ず覚醒する」のであり、それは民衆自身が生産および地域・社会の主人公になっていくことで可能となったのだと紹介している。マルクスが未来社会への水路として生産協同組合(化)を唱えたのと同じ考え(生産場面で労働者が主人公性を確保するあり方はいかなる形態かという視点)が流れていると思った。(松崎五郎)
『ショック・ドクトリン』
ナオミ・クライン著 岩波書店 上・下 各2500円+税
共産主義論の発展へ 『展望』10号の活用を
3・11一周年を前に『展望』10号が刊行された。全論文が、「アラブの春」と3・11以降、新たな段階に突入した日本と世界の階級闘争に、どう肉迫していくのかをめぐって執筆された。
とりわけ落合論文と姶良論文は、革命的共産主義運動の組織的総括をかけた挑戦である。なぜなら左翼全潮流の無力さの中で(福島原発事故の発生は、「核と原発に一貫して反対した前衛党」のうさん臭さを示している)、自己省察・自己総括ぬきには何も語った事にはならないからだ。
落合論文は情勢分析にあたり、旧来のように「綱領的立場」や「時代認識」をあてはめるのではなく、生起した事実への接近を基本としている。とくにオキュパイ運動には、安易な評論の前に事実をありのままつかむことこそ共産主義者の立場としている。そこにはアメリカ民衆史へのわれわれの無知があるからだ。そしてこの中に必ず共産主義復興の芽があると確信している。
姶良論文は、単なる革共同の総括ではなく、この情勢に向きあうための主体的総括である。06年3・14決起にあたり我々は「自立した共産主義者」を合い言葉にした。この「自立」を憎み「党中央からの自立などありえない」とした人々が現在の安田派を形成している。この闘いは、その後「総括なき5月テーゼ転換」の検討から、「レーニン教条主義」批判へ、発展していく。そして「自分で考え、自分で学び、自分で行動し、自己と階級の利益を守る」あり方の確立へとむかう。今回初めて「先制的内戦戦略」そのものを検討した。次なる課題は、新自由主義=現代資本主義の根底的批判と、その変革の思想・理論・組織(新たな共産主義論)を明示することであろう。
橋下打倒闘争、沖縄現地と経産省前テントひろばの闘いは、この5年の共同闘争への努力(まだまだ不十分だが)と、われわれを受け入れてくれる階級の懐の深さなしに成立しなかった。また三里塚闘争にかんする寄稿は、暖かい援助として感謝したい。中国論文はいま最も必要とされる分析である。『展望』10号を活用し、様々な読者とのあいだで討論をひろげていこう。(『展望』編集委員会Q)