8・6ヒロシマ ―平和の夕べ―
生々しい被爆の実態を世界へ
『はだしのゲン』中沢啓治さんが講演
中沢さんの言葉に聞き入る参加者 (6日 広島YMCA・国際文化ホール) |
「ことしの8・6は特別だった。8・6ヒロシマ平和の夕べ(主催、同実行委)に参加したが、『はだしのゲン』作者・中沢啓治さん、小林圭二さん他、どの人も、そして私たちも、ヒロシマと福島という重さを考えた。66年間、被爆体験をほんとうに受けとめてきたのかという思いと憤りを込め、聞いたように思う」(参加者の感想)。
初めて参加した記念式典
広島YMCA・国際文化ホールには、約300人が集まった。
河野美代子さん(広島被爆2世、産婦人科医)のインタビューに答えるかたちで平和講演をおこなった中沢啓治さんは、『はだしのゲン』に託した生き様を静かに語った。
「ぼくは66年間、一度も8・6広島平和記念式典に出席しなかった。見納めになるかもしれないと今回は参加したが、いたたまれないようなジリジリとした思いを感じた」。「8時15分というのは、地獄の底を這いずり回ったとき。平和の鳩が飛び、平和宣言があり合唱があるけれど、もっと追求するべき深い何かがあるんじゃないか。オブラートに包んだようだった。もっと生々しい体験、反吐が出るような被爆の実態。それを世界にぶつけてほしかった」。〔2面に講演要旨〕
人間は核を扱えない
愛媛県・伊方原発訴訟や政教分離裁判をたたかってきた弁護士の草薙順一さんは、「靖国法案に反対したのが私の原点。天皇と国家のために死ぬことが最大の規範とは何か。私の思いは、一人ひとりの生命を大事にすること。原発に即して言えば、それは、核は人間が扱ってはならないということだ」と。
伊方原発について「伊方は中央構造線が走る地震地帯。建設から34年になる施設、配管の腐食や劣化。プルトニウムMOX燃料が使用されている」と三つの危険を指摘し、「ただちに廃止するべきである」と断じた。
1号機の差し止め訴訟の際、「最高裁は、国が安全というから裁判所は安全と判断する、と言った。国や電力会社だけではなく、裁判所の責任を問う」「上関、祝島の皆さんの、ねばり強いたたかいに学び伊方を廃炉にする。権利のためにはたたかわなければならない」と、今後の反対運動にむけた力強い発言だった。
原子力マフィア
元京都大学原子炉実験所講師・小林圭二さんは「私も伊方訴訟に参加したのが出発点。徹底的に安全性を争い、すべての弁論に勝利したが、急に裁判官が交代して原告敗訴の判決だけ書いた。そのときから言ってきたことが、福島で全部起こって残念。しかし、いまをおいて原発をとめる機会はない、と私は決意を新たにしている」と話した。
「原爆とは形態がちがうが、福島の人たちは突然ふるさとを追われ二度と帰れないかもしれない。長年育てた牛を、涙ながらに手放さなければならない農家の人たちの不条理はどれほどのものか」と悔しさをにじませ、「原子力村≠ニ言うと村≠フ人たちに失礼だから原子力マフィアと呼ぶ。国・官僚、電力会社、財界・産業界、マスコミ、何よりも御用学者。彼らは、一切の批判、意見に耳を貸さない。弾圧し排除する。そういう意味では戦前の軍部と同じ」と原発推進派を批判。
「彼らは、事故は起こらない、何重にも対策しているとずっと言ってきた。私たちが伊方で争ったのは、まさにそれ。福島では外部電源が4回線あったが地震ですべて倒れた。非常用発電機も全部やられた。大災害のとき、同じところに同じものをいくつ並べても共倒れになる、と私たちは主張した」。「普通の人なら分かることが、原子力を推進する人には分からない。彼らの基準は営利だからだ」と。
「財界、マスコミの巻き返しが始まっている。推進してきた財界が、他人事のように、早く動かせという資格はまったくない」と弾劾し、「反核と、反原発の結びつきの弱さが言われる。私も原爆の惨状は知りながら、いったんは原子力開発の研究をし、後に反省した。伊方のたたかいに学び、原子力研究が原爆開発、軍事から始まり軍事と平和の区別はないことを認識した。それを『区別』してきた結果が、今回の事故。これまでの安全基準が間違っていたと言うなら、そのもとで作ったものを動かしてはならない」と語った。
サヨナラ戦争
エンディングは早苗NENEさん。NENEさんは毎年8月6日に、広島でのジョイント・コンサートに参加している。今回、平和の夕べでは『ヒロシマから平和と愛を放て〜ラブソング・フロム・ヒロシマ』、『…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては〜永久にこれを放棄する〜サヨナラ戦争』を熱唱。
放射線対人間の視点で
被爆66年、フクシマ原発災害後はじめての8・6ヒロシマだった。
「『原爆のことは話したくない』という父に、それ以上聞いたことはなかった。ヒロシマ・ナガサキが、ひとごとではなくなった」(福島から原水禁大会に初参加した被爆2世)。
「東日本大震災が起きるまでは、核兵器対人間ととらえてきた。フクシマを機に、放射能対人間の視点で核を見つめ直す必要があると、“自己批判”せざるを得ない」(元中国新聞編集局長・元広島市長、平岡敬さん)。
「福島第一原発事故に、私たちはがく然とした。被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に怯えることになってしまったのか。どんな社会をつくろうとしているのか」(長崎平和宣言)。〔いずれも新聞報道から〕
国、資本、御用学者、マスコミあげて原発を推進してきたのは、そのとおりである。しかし、私たちの側に無知や油断や日常への慣れがなかったとは言えない。
『はだしのゲン』を、中沢啓治さん、被爆者の怒りを、ほんとうに真剣に受けとめていたら、このような事態にはならなかった。中沢さんの「生ある限り、反核・反戦を問い詰める」という言葉は重い。
天神峰現闘本部の破壊を弾劾する
6日朝、国家権力・NAAが暴力的に撤去 三里塚
6日朝、国家権力とNAA(成田空港会社)は、三里塚芝山連合空反対同盟が所有する天神峰現地闘争本部を破壊した。
1966年に建設された天神峰現闘本部は、45年間にわたる三里塚空港反対闘争の歴史そのものであり、反対同盟とたたかう人民のかけがえのない財産である。国家権力は憲法違反の成田治安法によって90年から現闘本部を封鎖してきた。しかし現闘本部の鉄骨造り建物の内部には、反対同盟が旧地権者との間で地上権を設定した木造建物が存在している。この木造建物がある限り、空港会社は現闘本部に手をつけることはできないのだ。
ところが千葉地裁は反対同盟が有する地上権を無視して、現闘本部の収去命令を決定した。そしてたたかう人民が広島に結集している8・6ヒロシマの当日、夜陰にまぎれて現闘本部を暴力的に撤去したのである。
反対同盟は「悔しい思いはあるが、これは勝てるという思いを手にすることができた」と決意を固めている。これに応え、10・9三里塚全国集会に総決起しよう。
2面
生あるかぎり反戦・反核を問いつめる
8・6ヒロシマ―平和の夕べ― 中沢啓治さん講演要旨
中沢啓治さんの講演は、河野美代子さんによるインタビューでおこなわれた。中沢さんは『はだしのゲン』の生き様そのものを、病をおして1時間話した。地元広島で、メディアの取材にも応じ、「原子力を人間は制御できない」「ヒロシマ、ナガサキから何を学んだのか」と、核と原発を批判。「生あるかぎり反核・反戦を問いつめていく」と、講演を結んだ。「血反吐を吐くような話。私たちが何をするのか、問われた」(参加者)。その要約を紹介する。〔文責・見出しとも本紙編集委員会〕
インタビュアーの河野美代子さんと中沢さん(6日 広島市内) |
ぼくは66年間、一度も広島市の平和記念式典に出席しなかった。昨年、肺がんを患い死線をさまよい、見納めになるかもしれないと、今回は参加した。何かいたたまれないような、ジリジリとした思いを感じた。「8時15分」というのは、地獄の底を這いずり回ったとき。平和の鳩が飛び、平和宣言がある。言うたらいけないかもしれないが、もっと追求するべき深い何かあるんじゃないか。市長の宣言に被爆者の声も紹介されたが、オブラートに包んだようだった。もっと生々しい体験を語ってほしかった。反吐が出るような被爆の実態。それを世界にぶつけてほしい。
〜きのう生まれた蛸の子が 蜂に刺されて名誉の戦死 蛸の遺骨はいつ帰る 骨がないからぁ 帰れない 蛸のカアチャン悲しかぁろ〜 (『はだしのゲン』に出てくる替え歌。河野さんの問いに、『湖畔の宿』の節で歌う)こんな歌、歌ってましたよ。これは反戦歌ですね。
父親の姿
父親は、若いころ京都で日本画と蒔絵の修行をした。その後、演劇にも参加した。当時の新劇、藤村の『夜明け前』、ゴーリキーの『どん底』。滝沢修さん、小沢栄太郎さんらと知り合い、左翼劇ですよ。官憲、特高にねらわれ、いっせいに捕まった。お袋が髪を振り乱して叫んでいた、そのときのことをよく憶えている。
1年半ほど拘置所に入れられ拷問をうけた。やっと帰ってきたとき歯はぐらぐら、茶碗を持つ力もないほどだった。しかし、親父は頑固一徹。ちゃぶ台を前に子どもたちに「日本は天皇制によってがんじがらめにされ、戦争を始めた。この戦争は間違っている」と、何度も言った。
子どもにだけでなく、海軍で潜水艦に乗っており出撃前に別れにきた(私の)叔父に、「天皇制打倒だ。この戦争は間違っている。生きて帰れ」と、こんこんと説教した。叔父は「天皇陛下のため名誉の戦死」を覚悟していたのに「気持ちが乱れた」と、かろうじて生還してから言っていた。そういう親父でした。
天皇が戦争の張本人
親父に徹底的に叩き込まれましたからね。敵がはっきり見えてくる。戦後、広島に天皇が来たときも、学校の先生が半紙を配り真ん中に赤い丸を入れて歓迎の「日の丸」をつくれと。相生橋のところに並ばせ万歳を言わせる。ぼくは、何を言うか、こいつらがみんなを殺した張本人じゃと思うと、12月の寒風の中で背中がカッと熱うなったのを憶えている。
下駄で蹴ったら、破片が天皇の乗ったフォードのタイヤに当たった。
九死に一生
原爆のとき、ぼくはちょうど舟入本町の国民学校の校門を入るところだった。そこで近所のおばさんに声をかけられた。
その日の広島は、真っ青な青空。B29が1機、白線を引いて飛んでいた。突然、巨大な火の玉がピカッと光った。「ドーン」は聞こえなかった。光ったあと、突然の闇。気がついたら顔から血が流れ、塀が倒れていた。
おばさんに声をかけられ、街路樹のそばで立ち止まった、そのちょっとした偶然で、塀の直撃を大きな街路樹が支えてくれた。もう少し歩いていたら、塀の下敷きだった。おばさんは髪の毛は焼け真っ黒。白い眼だけギラギラ光っていた。
音のない世界
家に帰る途中に見た光景は、いまも眼に焼きついている。素っ裸の人、爆風を受けた側にガラスの破片が、ある人は右、背中、前から受けた人は眼球にもガラスが刺さっている。みんなひどい火傷。火傷がすぐに水ぶくれになった。ぶよぶよ。そして破れて汁が出る。皮膚が垂れ下がり、腕の皮膚は指の爪のところで裏返ってとまって垂れ下がる。背中はズボンのベルトで、足の皮膚は踵でとまり後ろに引きずっている。爆風で腹が裂け、腸を1メートルくらい引きずっている人。そういう人がぞろぞろ。一体、何が起きたんだ。
よく映画などでは「助けて」と泣き叫ぶが、そうではない。音がない、シーンとした世界だった。
弟の声がいまも
どうにか家の近くまでたどり着き、「お父ちゃーん、お母ちゃーん」と叫んだ。一帯は燃えている。近所の人が「電停のとこにおってじゃ」というので行ってみると、母親がいた。母親と家に引き返すと、4歳の弟が崩れた柱に挟まれて「痛いよー」と泣いている。奥の方から父親の「何とかせー」という声。姉は即死したのか声がなかった。母親と、柱を動かそうとしたがビクともしない。
そのうち弟が「熱いよー」と言い出した。火がきている。母親は半狂乱(ママ)になって、「お母ちゃんもいっしょに死ぬけんねー」と。通りかかった近所の人が、「あきらめんさい、いっしょに死んじゃいけん」と必死に母親の手を引っ張ってくれた。振り返ると家は火の海。弟の「熱いよー」という声は、いまも耳から消えない。親父、姉、弟は、そうして死にました。
原爆の日の夕方、母親が川原で産気づいて妹が生まれた。漫画の名前は実名です。食べ物がなくお乳も出ない。わずかの米を重湯にして汁を吸わせた。しかし4カ月で死んでしまった。栄養失調か、髪の毛が抜けて死んだから放射能でしょう。
在日朝鮮人、原爆孤児
朴さんという朝鮮人が、ぼくの家の裏手に住んでおられた。ぼくは、朴さんに可愛がられてね。同じ歳の子どもがいて仲が良かった。朴さんの家に行くと、メリケン粉を水で溶いて塩を入れフライパンで焼いてくれた。いつも腹がすいていたから、うまかったですよ。原爆のあとはバラバラになり、お袋が偶然、町で出会ったら「朝鮮へ帰る」と言っておられ、それっきりになってしまいました。
弱いものいじめもいっぱいあった。原爆のあと江波(えば)〔注@〕の方で物置小屋を借りて住んだが、ぼくは後頭部を火傷して傷になっていた。町を歩くと、子どもたちに囲まれ「よそ者、出ていけ」と頭を叩かれる。そうすると、傷が破れて血膿が出る。悔しかった。
母親が生きていなかったら、住むところも食べるものもなく栄養失調で死んでいたか、悪党の世界に入っていたでしょう。当時、広島駅の周りには、孤児たちがいっぱいでした。寒い冬は、ドラム缶に火を燃やし、その周りに栄養失調の子どもたちが十重二十重に囲んで、バタバタ死んでいくんです。きのう死んだ子が片づけられて、そのあとに別の子が倒れ込んでいく。悲惨でした。
漫画家めざし上京
ぼくは絵描きの子だったから、絵は好きでした。手塚治虫さんが大好きでね。ない金をためて漫画を買い、何百回と模写した。画用紙がないから闇市で映画のポスターを剥がしてきて裏に描いた。高校へ行きたかったけど、朝から晩まで働いていた母親を見ると、とても言えない。就職するなら絵が生かせるところと思い、看板屋さんに頼み込んだ。
看板ではデッサンの基礎、色彩、レタリングなどを学べるんです。ところが広島には、漫画を教えてくれるところはない。それで22歳のとき、漫画のアシスタントを紹介してくれた編集者があり、意を決して上京した。
被爆者差別
東京で「原爆にあった」と言うと、異様な眼で見られましたよ。広島では被爆者ばかりなので、「あんたは、どこで原爆におうたんか」というのがあいさつのようなもんだったが、東京はちがう。
ある人に聞くと「みんな原爆、被爆のことを何も知らん」と言う。被爆者と分かると、そばに寄らない。呑んだ湯のみにも触れたがらない。放射能への恐怖ですよ。原爆差別とは、こんなものかと、辛い思いをしました。
漫画でたたかう
お袋が7年間、原爆病院に入院し亡くなった。焼き場で骨を拾おうとしたら、骨がない。ふつうは、頭骨、腕、足、ありますよね。それが、小さなかけらだけ。「原爆は大事なお袋の、骨まで奪うのか」と腹が立って腹が立って。原爆と対決するぞ、許さんぞ、という気持ちがわいてきた。
東京へ帰る汽車の中で思ったのは、原爆、戦争のこと。日本人の手で戦争責任を明らかにしたのか、原爆の問題を解決したのか。どうしても、そこにぶち当たる。もう黙っておらんぞ、自分にできることは漫画しかないから、漫画のなかで徹底的にたたかってやろうと、はじめて描いたのが『黒い雨にうたれて』〔注A〕。
過激だ、と受けてくれる出版社がなかったですよ。それで、とにかく読んで感じてもらえたらどこでもいい。そこで、成人漫画の出版社に持っていった。その編集長がいい人で、「やりましょう。しかし中沢さんも私も、CIAに捕まるかも知れないですよ」と言う。驚いたけど、「喜んで捕まりますよ」と、ようやく連載された。
『はだしのゲン』は、最初『少年ジャンプ』に掲載。ところが、オイルショックで紙面が減らされ、1974年に掲載をやめた。次に月刊誌『市民』に掲載するも、これもつぶれ、『文化評論』は原稿料が払えない。そのあと『教育評論』に3年半連載しました。
いま英語、韓国・朝鮮語、フランス語、ロシア語など14か国の言葉に翻訳され、ブラジル(ポルトガル語)、中国語に翻訳中。
ぼくは、生あるかぎり反核・反戦を問いつめていく。
〔注@〕 江波(えば) 広島市南部の地名。広島湾に近い。
〔注A〕 1968年から芳文社の漫画誌『漫画パンチ』に連載。余命のない被爆青年が悪徳アメリカ人を次々に殺すというアクション物。『はだしのゲン』に先行する作品。現在、ディノボックス社から合本で出版されている。(1600円+税)
3面
左翼の運動は全然足りなかった
被爆電車・平和学習(7日)
―米澤鐵志さん(電車内被爆者)
8・6ヒロシマ―平和の夕べ―の関連企画として毎年おこなわれている、8月7日の「被爆電車・平和学習」。ことしも満員、70人近くが乗車した。
11時、貸し切りの651号電車が広島駅を発車。日曜休診で参加できた河野美代子さんがあいさつ。「電車内で被爆し、生きて証言できるのは米澤さんだけに。貴重なお話を、まず電車内でお聞きします」。さっそく米澤鐵志さんが車内でマイクを持った。
米澤さんは、電車内で次のように話した。
米澤鐵志さん(7日 広島市内) |
満員電車の中で被爆
―66年前の6日の朝、母親と、この同じ乗り場についたのが7時半。もう、ずらっーと人がいっぱい並んでおり、ようやく電車に乗れたのが8時。子どもだから窓際で外を見たかったが、超満員で背丈の小さな母親といっしょに真ん中で、もみくちゃだった。当時は男が戦争でいないので女の人が工場の仕事などに出され、その電車の運転手も女性。その人は即死したということでした。いま駅から二つ目の的場町。高校出たころ知っていた女性に何十年ぶりに会った。その人は私が電車で被爆したことを知って「見送った電車」という一文を書いた。「的場(まとば)町で電車を待ったが、満員ばかりで乗れず。数台見送ったところで原爆が爆発、なぎ倒されたが、もし電車に乗っていたら生きてはいなかっただろう」。その時見送った1台に私が乗っていた。稲荷町、銀山(かなやま)町、超満員で身動きできない、車内は暑くてたまらない。「ようやく福屋(百貨店)」と思っていたとき、爆風がきた。いちばんの繁華街で8階建ての福屋、鉄筋の中国新聞社のちょっと陰に入ったところ。真ん中にいた私と母は、周りの人がガラスの破片を全身に浴び、おそらく放射線も少しは遮ってくれた。周りは即死の人、重傷の人。爆風で土煙が巻き上げられたのか、あたりは真っ暗。とにかく母親と北の方、白島(はくしま)方面に逃げた。その途中に見たのは、阿鼻叫喚というか…電車が(ドーム前に)着くのであとは午後に話します。―と電車内を終わった。
被爆直後の地獄図
午後の平和学習も会場いっぱいの参加者となり、椅子を出し入口で立って聞くという状況。米澤さんが語る、逃げながら見た様子はとても紙面に紹介しきれない。
髪の毛に火がつき、衣服が燃えている人、火傷の皮膚が垂れ下がっている人、人。眼球が飛び出し手で受けている人。
やっと疎開先に戻れたが、米澤さんもお母さんも15、16日から髪の毛が抜け始めた。40度の高熱。お母さんは9月1日に亡くなった。その間、1週間ほどお母さんの母乳を飲んだ1歳の妹さんも10月19日に死ぬ。
「米軍による無差別空襲、原爆は許されないが、日本軍は率先して中国の重慶へ都市空襲をおこなった」と話した。
広島で被爆死した朝鮮人は、約3万人。当時広島に住んでいた朝鮮人の6割に達する。人口比概算でも日本人死者は約3割である。朝鮮人部落が中心部に少なかったことを考えると、実際はもっと多いだろう、と言う。疎開も許されず被爆後も市内から逃げる先もなかった。戦後の被爆者補償問題でも、いかに差別がつづけられてきたか。
自らの運動の見直しを
福島原発から起こった問題にふれ、「核と人類は共存できない、原爆と原発は同じと、これまで何百回も話をしてきた。反原発の集まりに行った。しかし今日の事態を起こしてしまった。ぼくも、いろいろかかわった。左翼の運動というのは全然足りなかったと思う。ぼくらにも責任がある」。米澤さんは、「自分たちの運動を見直して、いろんな人たちと手を結んでいかなければ」と語った。
参加者からは「広島の被爆後もそうだった。いまの福島もあまりに知らされていない。知った上で自分たちが判断することが大事」との意見があった。
JALのスト権投票妨害は不当労働行為
3日、東京都労働委員会が救済命令
日本航空乗員組合(日航乗組)と日航キャビンクルーユニオン(CCU)が、東京都労働委員会に救済を申し立ていた事件。3日、都労委は「不当労働行為である」と認定し、日航に「このような行為を繰り返さない」と誓う謝罪文の交付、および謝罪文を「会社内の従業員の見やすい場所」に10日間掲示することを命令した。
スト権投票を妨害
昨年11月、日航乗組とCCUの両組合は、日航による組合員への「退職強要」、予想される「整理解雇」攻撃に対して争議権確立の組合員投票をおこなった。その期間中に、管財人株式会社企業再生支援機構および管財人は、「整理解雇を争点とした争議権が確立された場合、それが撤回されるまで、更生計画案で予定されている3500億円の出資をすることはできません」(11月16日公式事務折衝での支援機構・飯塚デイレクター発言。管財人代理と日航労務部長も同席)と脅した。
日本航空乗員組合(日航乗組)と日航キャビンクルーユニオン(CCU)は、この支配介入行為について、昨年12月、都労委に不当労働行為救済申立をおこなっていた。
稲盛会長に命令書
都労委は「組合員に対して威嚇的効果を与え、組合らの組織運営に影響を及ぼすものであり、組合らの運営に対する介入である」と明確に認定、断罪した。不当労働行為の責任は、支援機構が管財人の任務を終了したことから、経営権と労働契約関係を継承した日航にあるとし、稲盛会長(日本航空株式会社代表取締役)宛に命令書を出した。
解雇撤回を
両組合は同日、厚労省内で会見。小川和廣日航乗組委員長は、「会社は重く受け止め、命令に従うべきだ。不当解雇撤回裁判についても、会社は解決させるべきだ」と強調。内田妙子CCU委員長は、「命と安全を守る航空会社に違法行為があってはならない。解雇撤回も要請していく」と述べた。
この勝利は、この間の全国に広がるナショナルセンターをこえたJAL支援共闘の拡大と、闘いの国際的広がりなどの成果だ。
「謝罪文の掲示」命令
今回の都労委による認定は、昨年末の解雇強行が不当労働行為そのものであることをあきらかにした。さらに、その手続きの違法をもあきらかにした。
ポスト・ノーティス(謝罪文の掲示 〔注〕)を日航に命じた点も重要である。近年このポスト・ノーティスは労働者側が求めても、労働委員会ではほとんど認められてこなかった。不当労働行為の犯罪性を労働者全体に周知し、資本に繰り返させないためには、重要な「救済措置」なのである。今回これを復権させたことは大きい。今回の解雇攻撃がいかに違法・不当であるかを示すものである。
稲盛会長への証人尋問
148人が解雇撤回を求める裁判も9月にヤマ場をむかえる。8月10日にひらかれた進行協議の場で、稲盛会長にたいする証人尋問を9月30日におこなうことが決まった。
日航は165人の違法大量解雇を撤回せよ。ただちに職場にもどせ。8・28労組交流センター関西協議会・夏季セミナー(講師:JAL不当解雇撤回裁判原告団長・山口宏弥さん)を成功させよう。(労働者通信員 M)
〔注〕 ポスト・ノーティス(post notice)
資本に不当労働行為の事実を認めさせ、今後この種の行為を繰り返さない旨を工場・事業所に掲示すよう命ずること。資本の自戒と将来の再発防止の効果を求める重要な救済方式。
解雇撤回をたたかう原告団(6月20日 大阪市内での支援集会) |
「原発の海外輸出は継続」 5日 閣議決定
政府は5日の閣議で、原発海外輸出の継続を表明した答弁書を閣議決定した。
同答弁書では、「原発受注などに関する合意文書に署名しているベトナム、ロシア、韓国、ヨルダンとの2国間原子力協定」についても国会承認を要請している。
人類と共存できない原発。これを世界にばらまく政策を、3・11がおきてもなお続けようというのか。
北海道電力・泊原発3号機
定期検査修了証を交付するな
泊原発3号機について、「海江田経産相が定期検査修了証を交付しないよう求める」訴訟と仮処分の申し立てを1日、北海道の住民38人がおこなった。「国の誤った安全設計審査指針に従い原発の運転再開を認めるのは違法」として、国を相手に訴えたもの。
3・11以降、人民の怒りに包囲され、定期検査中の原発は全国で1基も再稼働できていない。当初、九州電力・玄海原発で再稼働を狙ったが頓挫、関西電力・大飯原発で次を狙うも、事故のため調整運転を中止、停止した。
泊原発3号機は、3・11以前に定期検査最終段階の調整運転に入っていた。通常は、調整運転を1か月ほどおこない、再稼働となっていた。調整運転とは、法的には営業運転ではないが、事実上のフルパワー運転状態。
ここにきて、経産省は、検査修了証を交付して3・11以降、初の再稼働・営業運転にのりだそうと画策している。このままでは、来年3月までに全国すべての原発が営業運転停止状態においこまれるからだ。
地元北海道では、「住民説明会を開け」「3号機を停止せよ」の声が高まっている。
戦争挑発の米韓合同軍事演習を中止せよ
16日から26日まで、米韓は合同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダムガーディアン(UFG)」を強行する。
「朝鮮民主主義人民共和国の核やミサイル、生物化学兵器など大量破壊兵器を処理する合同機動部隊を編制し、コンピューターシミュレーションを使った仮想演習と実践演習を並行しておこなう」としている。
米軍25000人余、韓国軍20万人余が参加する。韓国の陸海空3軍参謀総長や、韓国軍予備役大隊が初参加。
朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍板門店代表部は7日、演習の中止を求める書簡を発表した。
4面
医療・福祉が治安の道具に
医療観察法廃止! 全国集会 7月31日
「実態を隠した『国会報告』を許さない! 医療観察法廃止! 全国集会」が、7月31日、都内で開かれ、全国各地から「精神障害者」、精神医療従事者、弁護士、労働者、市民など80人が参加した。
池田小事件が契機
心神喪失等医療観察法は、2001年6月に起きた大阪・池田小児童殺傷事件を契機に、当時の小泉首相の提唱でできた保安処分法。戦後、様々な保安処分法が浮かんでは消えてきたが、小泉の扇情的なキャンペーンの下に成立が強行された。
しかし、「精神障害者は重大事件を繰り返す」というこの法律の前提そのものが成り立たない。メディアは事件の容疑者に精神病院への通院歴があると、ことさらに強調するが、実際には「精神障害者」の犯罪率は一般よりもかなり低い。労働者はメディアの影響を受けて「精神障害者」と犯罪を結び付けてしまいがちだが、それは差別分断支配に屈服するものだ。
集会では、国会議員2人からの連帯メッセージを読み上げ、宮城精神しょうがい者団体連絡会議の山本潔さんから「震災と精神障害者隔離」と題した講演、弁護士の池原毅和さんの基調報告「医療観察法をめぐる状況」、精神医療従事者の大賀達雄さん「『国会報告』批判」、弁護士の大杉光子さん「精神障害者と刑事政策」の他、三里塚不当弾圧の獄中闘争報告などを受け、最後に精神科医の岡田靖雄さんのまとめで締めくくった。
被災地の「障害者」
山本潔さんの報告は、震災4カ月半を走り抜けた現場からの貴重な報告だった。
「最初の1カ月は耐乏生活でとくに水に困った。『障害者』にとっては、重い水を運ぶのは大変なことだった。避難所は『健常者』であることが前提。実際に、車椅子利用者ということで追い返された『障害者』がいた。一方精神病院では暖房が壊れ、停電、断水し、食料が枯渇し栄養失調になる人が多いなか、全病棟(開放病棟を含む)を24時間施錠し、親族以外の面会を禁止するなどの対応だった。そのなかで、あっという間に6割の有床率から満床・オーバーベッドになった。精神科外来にも人が殺到し、薬が不足した。その状態が1カ月続いた。地域で助け合いや情報交換が始まると、共同体の一員であることがうれしかった。落ち着いてから、ピアサポート相談電話(「精神障害者」による相談)を始めたところ、親戚宅に身を寄せ、いじめに会っている『障害者』からの相談などがあった。1日に2〜3件の電話を3人体制で受けている。4カ月半、いまエネルギー政策を始めとして、変革期を迎えていることを感じる」ということだった。また、質問に答えて、東北での医療観察法廃止の運動の状況も報告された。
17人自殺、23人未遂
池原さんは「戦後福祉国家をめざしてきた日本は、新自由主義の下で、治安と軍事に力点を置き、国家は人びとの生活に責任を持つという方向性を捨てた。民衆は生活を破壊され、貧困層の増大が起こっている。こうした中で政府は、医療や福祉を治安の道具として使うことまで始めた。その象徴が医療観察法だ。」
大賀さんは、「2005年に成立した同法は5年後に『国会報告」と必要な検討を加えることが定められており、昨年が5年見直しの年だった。昨年11月に菅政権は法務省・厚労省提出の『国会報告」を承認する閣議決定をおこなった。しかしその報告は病棟の設置状況や審判(裁判に相当)の状況を外形的に報告したに過ぎない。同法の下で17人の自殺者、23人の自殺未遂者が出ており、社会的入院者も存在する(社会的入院とは、病状は回復しているが社会の受け皿がないために退院できないこと)。『国会報告』はこれらの事実を隠蔽している」と批判するとともに、法の見直しを実現させようと提起した。
三里塚弾圧と闘った報告は、「5月20日に東京高裁内で50人が逮捕された。三里塚不当判決に抗議したことを理由とする不当弾圧。獄中でも精神障害で苦しんだが、出獄後も拘禁性の障害が続いた。1カ月で拘禁性のものは抜けたが、もともとの精神症状が悪化した。裁判所は精神障害であることを全く無視して勾留を認めた。獄中でも何の配慮もなかった。22日間勾留しておいて全員不起訴という、根拠のない逮捕だったことは明らか」と弾劾した。
差別法を撤廃せよ
いま政府は、「障害者権利条約」を批准するための国内法整備を進めている。障害者基本法改正、障害者差別禁止法などが、内閣府の下に設けられた障がい者制度改革推進会議で検討されてきた。
しかし議員立法で6月17日に成立した障害者虐待防止法では、精神病院における虐待が禁止されていないし、7月29日に成立した基本法改定では、「可能な限り」において実施すればよいという文言が6カ所も入れられるなどの、骨抜きがおこなわれている。
精神病院への社会的入院10万人が問題になって20年間何の解決もしていない。差別禁止と言いながら、特定の職業に就く資格を認めないとする差別欠格条項(相対的欠格・絶対的欠格)が多数存在し、医療観察法という差別法をこの国は持っている。精神保健福祉法も不当な強制入院を許す差別法だ。差別禁止と言うならば、これらの差別法を廃止しなければ矛盾する。
「精神障害者」は、差別法であるこれらの諸法を廃止するために「障害者」、労働者・市民とともに闘う。(TM)
「障害者基本法」改定が成立
改革推進会議の意見ふみにじる
6月に衆院で可決され、参院で審議されていた「障害者基本法」改定法案が、7月28日、参院内閣委員会で可決、翌29日の参院本会議で可決、成立した。「障がい者制度改革推進会議」が昨年12月にまとめた第二次意見で、基本法改正にむけた詳細な意見を出しており、今回の改定には、それをふまえた改善点もあるが、核心において、推進会議の意見を踏みにじるものだ(本紙85号5面参照)。
内閣委のひどい質疑
28日、内閣委の質疑では、かなり象徴的とも言えるやりとりがあった。
山東議員(自民)は「『障害者』自身も特別な権利意識は捨てて社会に溶け込んでもらいたいと思います」、衛藤議員(自民党、「拉致問題」や歴史教科書問題の急先鋒にたつ右翼。自民党の障害者特別委員長)は「(推進会議の第二次意見を見て)いきなり権利条約という話が出てきまして、(中略)やっぱり権利の問題なのかなということを思いました」と述べた。自民党は、「障害者」が権利を主張することに反対なのだ。
また、山東は具体的な事件を3件あげて、いずれもアスペルガー症候群の子どもが引き起こしたものとして、アスペルガー症候群の調査研究の現状について質問した。これは、これまで「精神障害者」を保安処分(今日的には医療観察法)の対象としてきたことに加え、アスペルガー症候群や「発達障害」と言われるものにまで保安処分の対象拡大につながる、とんでもない発言だ。
みんなの党の桜内議員は、「障害者」の自立生活に関して、「精神障害者」の犯罪予防的観点からどう考えるか、と質問。「精神障害者」=犯罪予備軍とする暴言だ。また桜内は、「特に共生という言葉でもって一般私人にたいして差別禁止ということを強く言いすぎると、今度は他者の基本的人権、例えば私人の経済的・政治的活動の自由、これを少なからず侵害するおそれがあるのでは」と質問。要するに「差別する自由」を要求するものだ。
糸数議員(無所属)が「可能な限り」という文言が6カ所入っていることを追及したのに対し、政府側は「例えば『障害』が重度で、設備の整った施設で適切な医療的ケアを受けなければならない方々等は、必ずしもどこで誰と生活するかについて完全な選択の機会が確保できないということもあり得るといったことを勘案して」と説明した。
しかし、「『障害者』は設備の整った施設で」というのは、「障害者」を排除・隔離する時に、常套句として使われてきた言葉だ。障がい者制度改革推進会議の意見は、医療的ケアが必要な人についても、地域生活ができるようにすることを求めている。この政府答弁は、政府・厚労省が「障害者」の地域自立生活を保障するつもりがないことを示している。
大きな運動のうねりを
今次改定によって、前進した点もある。「障害者自立支援法」撤廃を約束させた、「障害者」を先頭とした運動の力でかちとったという面は大きい。しかし、核心部分、特に「障害者」が人間らしく生きる当たり前の権利を、国の責任において保障するという点で、政府・厚労省・国会での巻き返しにあっているというのが現状だ。
推進会議が提起する、画期的な「障害者」施策への転換をかちとるには、運動の力が絶対に必要だ。今いちど、「障害者」を先頭とした大きな運動のうねりをつくりだしていこう。
5面
日本軍「慰安婦」被害者
金学順(キム・ハクスン)さん証言から20年
7月31日、―〈日本軍「慰安婦」被害者金学順さん証言から20年 『20年間の水曜日』日本語版出版を記念して〉―集会が大阪歴史博物館において開催された。
在特会が妨害
日本軍「慰安婦」問題をめぐる取り組みに対してこの2年、在特会は大阪駅前(梅田)や兵庫県西宮市での水曜デモに何度も押しかけ、各地の証言集会にも妨害行動を繰り広げてきた。7月6日の水曜デモ(大阪駅前)に対しても在特会は、妨害を狙って、周辺の複数カ所で街宣許可を取り、水曜デモをやらせないよう画策した。警察は、すでに場所が押さえられているなどと言って、水曜デモの街宣を不許可にした。
やむなく梅田・丸ビル前で水曜デモはおこなわれたが、100メートル以上離れた阪神デパート前にたむろしていた在特会はそれを知って10数名が押しかけた。これを警察は一切制止せずに妨害行動を黙認し続けた。水曜デモの「無許可街宣」は絶対認めないのにである。
7月31日の集会にたいして、在特会はさらに攻撃をエスカレートさせた。この日の集会にたいして、同じ建物の同じ4階の向かいの部屋を借り、集会を開催すると打ち出したのだ。在特会の目的はもちろん自分たちが集会を開催することではない。会場フロアで妨害行動をおこなって「混乱」を引き起こす事で、会場管理者に「退去命令」を出させて集会を潰すことだ。大阪府警はそれを口実に弾圧を策動していた。当日朝から大量の機動隊や私服警官を動員し、隙あらばとの体制を敷いてきた。
こうした中で、主催者である日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークは、在特会の暴力に屈せず集会を必ず成功させることを決意し、「排外主義とたたかうネットワーク関西」をはじめ多くの人々に支援を要請した。集会開始の4時間前から、70人を越える人びとが防衛行動にかけつけ、在特会や警察に一指も触れさせることなく、集会は成功した。
会場を埋める400人
会場には人が溢れ、通路にも参加者が座り込み身動きが取れない状態。それでも入れきれず、会場入り口のドアを開放し多くの人が外のフロアで聞き入る中で、約400人が参加し開催された。
開会のあいさつに続いて、「追悼の時間」がもうけられビデオが上映された。金学順さんが1991年8月14日に証言して以来、日本軍「慰安婦」被害者として名乗り出た方々の多くが他界している。解決を見ることなく無念にも亡くなられた方々を偲んで、一人ずつの写真が映し出された。そして参加者による黙祷がおこなわれた。
そして張智恵(チャン・チヘ)さんによるサルプリが舞われた。サルは「災厄」、プリは「解きほぐす」という意味で、生の葛藤、苦悩、深い哀しみを白い布に託し、解き放たれようとする姿を表す。
続いて、金学順さんの映像が流された。日本軍によって「慰安婦」を強制された事実を、1991年8月14日に初めて証言した時の映像。自宅でのインタビュー。ソウルの日本大使館前での水曜デモの映像など、金学順さんが名乗り出て以降の映像も映し出され、最後に、「日の丸」を振りかざして妨害する在特会と対峙しながら闘う大阪梅田の水曜デモの様子が映し出された。
被害者の証言が社会を動かした
稲見哲男衆議院議員のあいさつに続いて、韓国挺身隊問題対策協議会常任代表の尹美香(ユン・ミヒャン)さんが話をした。
88年ソウルオリンピックの際に「キーセン観光」が問題となり、当時の女性団体はそれを「現在の慰安婦問題」として批判していたが、自分は「慰安婦」問題をよく知らなかった。91年の金学順さんの証言を聞いてこの運動を始めたと、20年前当時を振り返った。
そして、20年の闘いの中で、ハルモニたちは被害者なのに、韓国以外の女性のために世界中に出向いていることに感動したと述べた。
さらに、982回目の水曜デモには高校生が300人以上も集まったが、最初から市民が関心を寄せたのではなく、92年に初めて水曜デモをおこなった時には市民は指をさし笑いながら通り過ぎ、ハルモニたちは恥ずかしくて顔を隠していたが、あきらめることなく頑張る中で国際社会も市民も耳を傾けるようになった、ハルモニから力をもらった。
そして、ベトナム戦争で韓国軍がおこなった性暴力と戦争犯罪にも触れた。「慰安婦」被害者である李容洙(イ・ヨンス)ハルモニは、「ライタイハン〔注〕」と呼ばれる2世にたいして、「ベトナムの韓国大使館で水曜デモをしてください。応援します。つらい過去を隠しても記憶はなくならない」と話したことに触れた。挺対協の共同代表だった尹貞玉(ユン・ジュンオク)先生は被害者と会い、被害者が何を求めているのかを調べた上で支援活動をおこなっている。そうした被害者と共に歩もうとするのではなく、「ライタイハン問題」を使って在特会が「慰安婦」問題を攻撃していることが、「ライタイハン」と呼ばれる人びとをどれだけ傷つけていることだろうか。
韓国で名乗り出た「慰安婦」被害者234人のうち、生存者は70人。その2割以上の人が病気に苦しむ中、今われわれは何をなすべきか。
金学順さんの証言から20年目の今年、12月10日、この日は世界人権宣言の記念日でもあり、金学順さんが提訴した日でもあるが、この日に「戦争と女性の人権博物館」の開館を予定している。光復会が妨害している土地はあきらめて他の場所に敷地を確保した。妨害があるから逆に力になる、在特会が妨害すればもっと力がつくと述べた。
被害者の恥から加害者の罪へ
続いて、2000年の女性国際戦犯法廷で証言した女性史研究家・藤目ゆきさんと、在日朝鮮人「慰安婦」被害者の宋神道(ソン・シンド)さんの裁判支援を続けてきた梁澄子(ヤン・チンジャ)さんによるパネルディスカッション「20年間の運動から何を学び、何を継承するのか」がおこなわれた。コーディネーターは関西「慰安婦」ネット共同代表の方清子(パン・チョンジャ)さん。
梁(ヤン)さんは、金学順さんとの出会いを振り返りながら、当時、「日本軍による強制の証拠はない」などの反動的意見が噴出する中で、本人が望まないことを強いられた事実こそ強制連行であり、このタイトルは絶対外してはならないと挺対協から言われたことを話した。そして、被害者の証言が集会によって食い違っている点を取り上げて反動的攻撃が繰り返されたことにたいして、自身が受けた性奴隷にされた被害を、人びとの前で話すことがどれだけ大変なことか考えてみなければいけないと話した。宋神道さんが7年間もの長期にわたる「慰安婦」生活を強いられた中で、「慰安婦を強いられることは耐えられないという自らの思いを自ら殺すことで生を生き延びてきた」ことを考えなければならないと述べた。
藤目さんは、この20年の闘いは、「被害者の恥から加害者の罪へ」大きな転換をもたらしたと最初に述べた。そして、先に映し出された映像の中に日本人「慰安婦」の姿がなかったことに触れ、それは日本人女性が経験してきた苦難を引き継いでいないことの表れであり、日本人「慰安婦」被害者が存在しなかったわけではなく、名乗りを上げた途端に「売春婦」と罵倒されることがわかっているから誰も名乗り出られなかったのだと述べ、そういうネガティブキャンペーンがまかり通る日本社会とは何か、と問うた。
日本社会の闇を変えよう
方(パン)さんは、20年間全力で闘ってきた。しかしいまだに解決していない。20年にどう向きあうか。無力だったわけではない。35の地方議会の意見書をはじめ、あらゆる運動を進めてきた。「慰安婦」問題のみに限定して訴えていては解決できない。日本社会の中にある深い闇を変えなければいけない、と話した。
梁さんは、20年間で獲得したものとして、一つには「被害者が変わった。人権活動家になった」ことをあげ、自らの被害を「語る」ことが大きかったと述べた。さらに「耳を傾けること」の重要性を指摘。さらに、日本軍「慰安婦」問題のみに限定していては解決しないことを認識したことの重大性を指摘した。
藤目さんは、「慰安婦」問題をマスコミが取り上げなくなり、教科書からもすべて消えた中で、「慰安婦」問題を知らない学生が増えている。どうすれば闘いを継承していけるのか問われていると述べた。
最後に、集会に参加している地方議員と国会議員のメッセージが紹介され、3時間に及ぶ集会が成功裏に幕を閉じた。
この日用意された『20年間の水曜日』はすべて売り切れた。
金学順さんの証言から20年目を迎えて開かれたこの日の集会は、この20年に何を切り開き何が問われているのかを、真剣に向きあって闘ってきた方々と運動の到達地平であろう。
20年前、私も大阪で開かれた金学順さんの証言集会の場に身をおいたひとりとして、決意を新たにする集会だった。(中沢慎一郎)
〔紹介〕
『20年間の水曜日―日本軍「慰安婦」ハルモニが叫ぶゆるぎない希望』
/著者 尹美香/訳者 梁澄子/発行所 東方出版/定価 1500円+税
〔注〕ライタイハン ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士たちとベトナム女性の間に生まれた子どもをさす。ライはベトナムで軽蔑の意味を込めた混血を指し、タイハンは大韓のベトナム語読み。(『20年間の水曜日』の注より)。
世界同時水曜デモ 大阪で集会・デモ
政府は被害者に謝罪しろ 私たちは黙ってへんぞぉ!(10日 大阪市内) |
10日、ソウル、ベルリンなどの世界各地、そして日本では北海道、東京、大阪、広島、福山、福岡など全国で一斉に水曜デモが開催された。
大阪では、「世界同時水曜デモinおおさか」が、市役所前の中之島公園でおこなわれた。夕方から集会がひらかれ、その後、大阪駅の西側までデモ行進した。150人が参加。(詳報次号)
〔注〕水曜デモ 日本軍「慰安婦」被害者のハルモニたちと支援者が、ソウルの日本大使館前で続けている抗議行動。
1992年以来、毎週水曜日に取り組まれ、今年12月には1000回を超える。
6面
投稿 8月15日は「終戦」ではない 佐藤三郎
父の出征―私が初めて戦争を意識したのは1941(昭和16)年の晩秋のことだった。
早朝、食事を始めようとした私宅に中年の男性が入ってきた。「赤紙でっせ」と気軽な調子でその男が差し出した小さな赤色の紙切れを見た母親の顔色が変わった。小学6年の姉、3年の私、生後1年余りの妹、74歳の祖母と母の5人の家族を残し、父を戦場に駆りたてる召集令状だった。小声で話し合う両親の言葉が遠くに聞こえ、暗闇に引き込まれる様な朝食だった。
父は徴兵検査は乙種合格で、それまで兵役に服することなく既に35歳を迎えており、「まさかこの年になって…」との思いは、家族みんなの思いだった。
数日後、姫路の聯隊に入隊、1週間後には外地(中国)へ送られることになった。連絡を受けて、乗船を待つ大阪築港の旅館へ、母親に連れられて最後の面会に出かけた。
薄暗い波止場付近には、あちこちに憲兵や腕章をつけた在郷軍人会らしき男たちが立ちはだかり、「何者だ」「どこへ行くのか」と誰何(すいか)している。父がいる旅館がどこにあるのか分からない。異様な雰囲気にのまれ足の震えが止まらなかった。同行してくれた父の兄が在郷軍人会の世話人であり、その繋がりに頼って、立ち番をしている男たちから旅館の所在を聞き出すことができた。
数10人の兵隊とともに旅館大広間に父がいた。どんな話しをしたのか全く覚えていないが、その晩大広間で親子3人が寝た。父親に抱かれながらなかなか寝付けず、便所に行きたかったが我慢を続け、とうとう漏らしてしまったことは忘れることができない。
こうした「暗い不気味さ」の中で父と別れて何週間か後に、真珠湾奇襲攻撃の戦果の報道とともに太平洋戦争の幕が切って落とされた。
戦争の惨禍―それは、すべての人の上に等しく降りかかるものではない。召集されるのも、危険な最前線におくられるのも、「非国民」と怒鳴られるのも、腹を空かせて泣くのも、貧しい者たちだ。権力やお金を持つ者は兵役を免れるだけではなく、戦争を「好機」に威張り、金儲けに精をだす。
時流をみて権力にすり寄り、地域で民衆を痛めつけるのは、憲兵・特高・在郷軍人、学校への配属将校、その鼻息をうかがう教員、行政権力の末端に組み込まれた町内会会長らである。私はその実際を見てきた。抵抗を放棄した者たちが自らを守ろうとするとき、下に向けて時流を先取りした圧力を加えてくる。それらが民衆の苦しみを倍加させるのだ。
国鉄分割・郵政民営化、様変わりした日教組の中でたたかい続ける北海道教職員組合へ弾圧が集中した。都教委「日の丸・君が代」関連裁判の最高裁判決が、5月30日から7月19日のほぼ1か月半に11件。しかも、そのいくつかは以下同文=Aかつ相部屋#サ決であり、最高裁の憲法無視、三権分立放棄の露骨さと強気は尋常ではない。原発災害に国民の不安の高まるいま、戦後の66年を根本から振り返る必要を私たちに示している。
「終戦」ではない―「8月15日」を終戦記念日と呼ぶのは、マスコミだけではない。私の周りでもそういう人が多くいる。「終戦」ではない、「敗戦」だ。敗戦によって、私たち自身の生活を破壊され、アジアの人たちを侵略してきた戦争と、それを強制してきた国家体制から「解放」されたのが、「8月15日」である。誤った言葉は、認識を誤らせる。(元高校教員)
「核の平和利用」という幻想 「8・6ヒロシマ」プレ企画
今年も、「ききたい つなげたい 8・6ヒロシマを」実行委員会主催で、8・6ヒロシマにむけてのプレ企画を神戸市内で開催し、昨年を上回る約70人が参加した。
7月17日、元京都大学原子炉実験所助教授の海老澤徹さんを招いて、〈「核の平和利用」という幻想〜フクシマを通して見えてきたもの〜〉と題する講演をお願いした。
主催者あいさつの後、実行委員会代表がスライドを交えながら東日本大震災被災地報告をおこなった。
カタストロフィー
つづいて、海老澤徹さんが約90分の講演をおこなった。
海老澤さんは、今回の福島第一原発の事故について、@事故の原因、経過、現状、A事故収束について、B放射線の性質と危険性、C線量限度と放射能汚染、の4点に分けて説明した。
@について。原因は地震と津波のために多数の安全装置が一挙に破壊されたことにあると指摘し、まだ予測される最悪の事態として、耐震性が失われた4号機の燃料プールの倒壊、水素爆発による格納容器の破裂、この両方とも大量の放射能が環境に放出され、カタストロフィー(破滅的な災害、悲劇的な結末)的事態を引き起こす可能性がある。
Aでは、「破損燃料を回収し、再び人間の管理下に置くこと」それには密閉型循環冷却系の確立(破損した圧力容器内の放射能を再度閉じ込め、水で冷やし続ける装置を作るということ)を、たとえ10年かかろうともやらなければいけない。
BCでは、放射能が人体に与える影響。政府の出した計画的避難区域の線量基準値年間20ミリシーベルトは、福島市、郡山市などの人口の多い地域を避難区域から外すための数字ではないか、などの説明があった。
共闘の輪
専門用語が多く「難しかった」との感想もあったが、原発推進派との論争のために必要な知識が詳しく説明された。反原発に取り組む団体からの参加も多数あり、共闘を広げるためにも有意義な集会だったと思う。(労働者通信員 S)
関西合同労組 暴処法弾圧
控訴審第1回公判 大阪高裁
昨年5月31日に強行された暴処法デッチあげ弾圧裁判の控訴審が、7月26日、大阪高裁でひらかれた。大阪高裁第3刑事部・松尾昭一裁判長は、証人調べ請求を却下し、被告人質問を認めたのみで結審を強行した。
戦前の治安法
この弾圧は、関西合同労組組合員Nさんが、同じ組合員のTを、「電話の会話で脅迫した」として、大阪府警公安三課と兵庫県警とが合同で事件をでっちあげたものである。
デッチあげ起訴状を無批判に追認した大阪地裁は、今年2月2日、「懲役1年4カ月、未決算入80日、執行猶予3年」の不当判決を出した。
この弾圧との闘いは、暴処法(暴力行為等処罰に関する法律)という戦前の1926年につくられた治安法の拡大適用を打ち砕く闘いである。労働運動、労働組合運動への治安法弾圧を許さないたたかいである。
でたらめな一審の認定
被告Nさんと弁護団は、事実誤認を含めて1審判決の不当性を徹底的に暴いた控訴趣意書と証人調請求書を提出し、さらに控訴趣意補充書3通を提出していた。
控訴趣意書は、1審判決がなんの論理性もなく暴処法を当てはめ的に適用している論理的破綻の事実を鋭く暴いている。また、一方的な推測に基づく事実認定のでたらめさを暴き出した。
暴処法という悪法は、「団体の威力を示し」ということを理由に刑罰を1・5倍に加重するものであるが、「団体の威力を示し」とは、当該団体以外のものにたいする行為において初めて意味を有するものである。ところが、1審判決は、公安警察のデッチあげに乗り移って、「被害者」Tは、「事件」当時には、被告と同じ関西合同労働組合の組合員であり、同じ団体の仲間同士であるという事実をまったく認識せず、判断をしていない。
控訴審無罪を
1審有罪判決をうちやぶり、控訴審無罪をかちとろう。判決公判は9月20日午後1時30分から大阪高裁1002号法廷で開かれる。多くのみなさんの傍聴参加をお願いします。(関西霜月社)
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