原発の再稼働ゆるすな
政府・東電・県知事は謝罪せよ
県庁前に1500人 6・26 福島
福島駅近くの繁華街を行進。横断幕は、故・丸木俊さんがチェルノブイリ事故の後、作成したもの(6月26日) |
6月26日、福島市で1500人が「グッドバイ原発。さよなら放射能」と訴えてパレードをおこなった。主催は、「6・26福島アクションを成功させ隊」。
パレードに先立ち、午前中は福島駅近くの屋内会場で、避難や除染についての相談がおこなわれ、多くの人が詰めかけた。
午後1時半から1時間のパレード集会。強い雨が降りしきる中、県庁前広場が埋まった。
主催者あいさつにたった佐々木けい子さんは、「福島はいまや被ばく地・フクシマ。県民は被ばく者。だれの責任か。もちろん東電、政府。しかしそれだけではない。福島県知事こそ、子どもたちに、全世界にたいしてあやまるべき。だから福島県庁前で怒りの声をあげる。私たちは負けない。すべての原発を廃炉に」と訴えた。
浪江町で畜産を営む男性は、「牛300頭を飼っている。避難を強いられているが、いまでも週1回、帰って世話をしている。ところが国は『殺処分にしろ』と迫ってきている。仲間も泣く泣く殺処分にした。私は、牛を飼い続けることが、政府と東電への抗議だと思っている」と、怒りの涙で言葉を詰まらせながら訴えた。
最後に集会宣言で、「原発に依拠した文明は終わった。福島から新しい文明をつくり出そう」と提起され、参加者が盛んに拍手を送った。
パレードは、県庁から福島駅を往復。2時間近くかかったが、東京からも、東電前アクションをたたかっている仲間たちが太鼓部隊で合流、大いに盛りあがった。
除染と測定について相談をおこなっているブース (6月26日 MAXふくしま内) |
福島原発に地下遮蔽物を
6・24 東京・日比谷野音
6月24日、「くり返すな!原発震災 つくろう!脱原発社会」集会がひらかれ、会場の日比谷野外音楽堂には450人が集まった。
衆院議員面会所前(6月24日) |
今まで生ぬるかった
主催者あいさつに続き、「福島原発の現状と問題」を原子力資料情報室の澤井正子さんが報告。メルトダウンした核燃料が、今どこにあるのかさえ東京電力はつかめていない。原発は人間の手に負えるものではない。今までの私たちの対応は生ぬるかった。
再稼働とめよう
社民党・福島みずほ党首は、停止原発の再稼動にむけて、経産省が動きだしたことをとりあげ、安全審査指針、安全基準は、事故後も手直しされていないと弾劾。定期検査で止まっている原発を再稼働させなければ、来年3月には、今動いている原発も全部定期検査で止まる。稼働再開を絶対とめようと訴えた。
地下遮蔽物を
海渡雄一弁護士は原発裁判についての報告。当初から反原発裁判にかかわってきた。そのなかで勝ったのは1回、もんじゅの高裁判決だけ。それも含めて、最後はすべて最高裁で負けている。
メルトダウン、メルトスルーしている福島第一原発は、一刻も早く地下遮蔽物を作れ、と訴えた。
命より経済優先
「福島原発での労働者被曝について」を東京労働安全センターの飯田さんが報告。このかんの被曝労働基準緩和に強く反対。原発労働の被曝上限値5年間合計で100_シーベルト、1年で50_シーベルトを超えないことという基準が、福島第一原発では250_シーベルトまでかまわないとしたことを強く弾劾し、元に戻せと訴えた。
原水禁事務局長の藤本泰成さんは、菅政権が「日本経済のために原発再稼動を」と言い出したことをとりあげ、「命より経済優先なのか」と問いかけ、国のために命を失うような社会はあってはならないと強調した。
高速増殖炉もんじゅ
最後に高木章次さん(プルトニウムなんていらないよ!東京)が、「もんじゅ・再処理・プルサーマル」について報告。特に、この日未明に落下中継装置を取り出したと報道されたもんじゅについて、3・3トン(トヨタ車プリウス2台分の重さ)もの装置が落ちて、炉内が無傷ということはありえない。このまま、運転再開に進むのは認められない、と訴えた。
デモは、経産省別館、文科省、経産省本館を経て、永田町までおこなった。衆議院と参議院の議員面会所では請願行動もおこなった。
京都で1000人がパレード 6・26
放射能汚染はごめんだ(6月26日 京都市内) |
6月26日、京都・梅小路公園で「放射能汚染はごめんだ! バイバイ原発・京都 パレード&デモ」がおこなわれ、1000人が参加した。この集会・デモは、京都の市民団体を中心に、広範な陣形で取り組まれた。
6月11日、全国で「100万人アクション」がおこなわれたが、京都ではこの26日の行動が予定されていたため、11日には各団体がそれぞれ取り組み、京都の全体での取り組みはこの26日の行動となった。
正午からはミニ・コンサートとチャリティー手作り広場。さまざまな団体・個人が脱原発や再生可能エネルギーの利用を訴える店や展示。
午後1時半から、5人のリレートーク。同日、福島市でおこなわれている「6・26 グッバイ原発!さようなら放射能! 福島アクション」からのメッセージも紹介され、京都からも福島の集会にメッセージを送ったことが報告された。
リレートークのあと、パレード&デモ。京都駅前の関西電力京都支店前を通って、「すべての原発を今すぐとめろ」と訴えた。
2面
福島県いわき市川前町 志田名地区・荻地区
たちあがる“ホットスポット”の住民
住民が調査・告発
住民が自ら、放射線量を調査し、ホットスポット(局地的に放射能汚染が高い地点)であることを告発している地域がある。いわき市の北端、福島第一原発から約28キロの地点にある川前町の志田名地区と荻地区。
先月18日、この地区を訪ねた。いわき市の中心部から車で2時間近く。車1台がやっとの山道を走りぬけ、なだらかなところに出ると、点在する民家が視界に入る。雨に濡れた新緑の里山がきれいだ。が、6月なのに田植えがおこなわれていないことに気づく。
同地区には、44世帯140人が生活する。大半が兼業農家。小・中・高校生も約20人いる。
ここで、放射能汚染の調査と告発の先頭に立つ酒井忠平さん(61)にお会いした。
「悔しいよねえ」
酒井忠平さん。34年間農協に勤務。酒井さんの作る山菜の漬け物は町でも人気。しかし今は生産を中止している(6月18日 酒井さん自宅) |
一番低い数値で1.03マイクロシーベルト/時。一番高いのは6.39マイクロシーベルト/時。2〜3マイクロシーベルト台が一番多い。年間累積にしたら、約18〜26ミリシーベルト。飯舘村と同じ「計画的避難区域」に相当する。
ところが、原発事故から3カ月以上経っても、行政は動いていない。住民は、放射能汚染下に放置され、被ばくしている。
「悔しいよねえ。私らがここに住んでいるってことを、行政は全く考えていない。それが悔しくてね」。
何の指示もない
同地区は、3月11日の地震被害はほとんどなかった。だが停電となり、テレビと電話がとまった。酒井さんは、車のラジオで情報を得ていたという。
3月13日あたりから、同地区内を通る国道を、第一原発のある双葉郡の方向から、車がどんどん走り去っていく。だけど、同地区には、何の指示もない。そういう異常な状態におかれた。
酒井さんは、自主判断で、まず家族を避難させ、15日の3号機の水素爆発直後に、自身も郡山を経て、埼玉に避難。3月27日に戻ってきた。
根拠ない「解除」
同地区は、「屋内退避地域」に指定されたが、4月22日、指定を解除。
解除に当たって、同地区の放射線量を調査したわけではない。他方、すぐ隣の川内村は「緊急時避難準備区域」の指定が残った。志田名・荻地区が安全という科学的な根拠は示されていない。住民は不安を募らせた。
エレイことだ
そういう中で、放射線量を自主的に測定する動きが生まれた。同地区で、線量計をインターネットで購入し、測定を始めたのは大越キヨ子さん(62)。大越さんは、4人の孫と暮らしていたが、孫はいま広島に避難。孫が早く戻れるようにと、測定を始めたという。
「これはエレイことだ」。大越さんが測定した数値を見て、酒井さんは跳び上がった。そして、「『毎日、調べるべ』となった。誰かに言われたんでなく、自分たちで始めた」。やがて、「あれ、自分とこ、こんなに高いんだ」と住民の多くがわかるようになってきた。
「もしやらなかったら、行政の言うとおりに、(10キロも離れた)川前支所で測った数値で、『安全だ』とされていた」。
志田名地区の集落。田植えは例年5月20日頃。屋内退避が4月22日に解除になったが、苗が作れずやむなく休耕(6月18日) |
6月14日には、いわき市川前支所との会合が初めてもたれた。酒井さんは、「(測定結果を)ぶつけてやった。だけど支所からは何もなし。こんな事実があるのに。だから悔しいの」。
挙げ句に支所の職員が吐いた言葉は、「あんたたちは何をしてもらいたいんだ?」。
これには強い怒りを覚えたという。「ふざけんじゃないぞって。そんなことをおれは求めていない。最初の出だしからやれよと。まず、この3カ月間(住民を放置したこと)の謝罪がないと」。
線量計が17.6マイクロシーベルト/時
同地区内では、概ね2〜4マイクロシーベルト台だったが、Iさんの田んぼ付近の側溝では、17.6マイクロシーベルト/時という驚愕の数値が。これは年間累積で154ミリシーベルト。ICRP(国際放射線防護委員会)とIAEA(国際原子力機関)の緊急時の放射線防護の基準値=年間20〜100ミリシーベルトも超えている。
ところが、川内村に入ると、放射線量は下がっていく。川内村は、志田名・荻地区より原発寄りで、「緊急時避難準備区域」に指定、住民の多くが依然避難している。原発からの距離とは別に、同地区がホットスポットになっているのだ。
〔使用した線量計は、校正(標準に合わせること)をしたものではない。〕
チェルノブイリに匹敵
木村真三さん。放射線科学者。チェルノブイリの被害を研究。厚労省・労働安全衛生総合研究所を辞し、福島の放射線汚染測定に奔走。NHK・ETV特集で有名に(6月18日 志田名集会所) |
第1ゾーン=避難地域
木村さんは、パワーポイントを使い、この間の採取した土壌の分析結果を説明していった。畑、田んぼ、牧草地、小学校の校庭・・・。1平方メートルあたりのセシウム濃度が発表される。数値だけでは実感がわかない。木村さんは、チェルノブイリにおける汚染と規制の区分を対比させながら、その意味を説明していった――
(単位 キロベクレル/平方メートル)
・Iさん畑 1485 これはチェルノブイリでは第1ゾーン=避難(特別規制)地域に匹敵する値。
・小学校校庭 245 第3ゾーン=移住権利対象地域に匹敵する値。
――すでに自分たちの調査で、ある程度覚悟していたとはいえ、数値の深刻さが分かる毎に、「アー」という嘆息がもれた。
野菜は…子どもは…
木村さんは、「辛い。『ここには住めない』ということを言うのは」と苦衷を吐露しながら、科学者としての見解を述べていった。と同時に、「しかし見捨てられない。チェルノブイリのようにしない。いまならまだ間に合う」と心を込めて語りかけ、6月にチェルノブイリを訪問した際に、現地の医師から受けたアドバイスを紹介した。それは、@農地は表層5センチを除染すれば、耕作は可能。A子どもには、汚染されていない地域の食品を。B子どもは外から帰ったら、シャワーを浴びさせて―など。
木村さんの話と質疑を受けて、最後に酒井さんが、住民を代表する形で意見を述べた。「『子どもたちがここのものを食べられない』ということは、われわれの後継者が住めないということ。厳しい。集団で移住はある。歯抜けのようになるのが一番悪い。地域の絆が壊れる。4月22日(何の調査もなく)屋内退避を外したのが納得いかない。ふるさとをなくさな
140人の住民のうち、80人以上が集まった(6月18日 志田名集会所) |
徹底的にいく
終了後、参加者が三々五々帰る中で、酒井さんは、「われわれがいろいろ積み重ねてきて、やっとここまで来た。3カ月。今晩の結果を受けて、(政府と行政にたいして)、徹底的にいこうと思っている」とたたかいの決意を語ってくれた。
・ ・ ・
この翌日19日には、木村真三さんによる同じ内容の報告会が、いわき市小名浜で開催。900人が詰めかけた。
3面
沖縄・三里塚 ともに国策を撃つ
三里塚の今を考える沖縄集会 6月22日
「三里塚の今を考える沖縄集会」が、6月22日、那覇市の沖縄船員会館で開かれ70人が集まった。市東さんの農地を守る沖縄の会(共同代表=金城実、安次富浩、知花昌一)と、三里塚芝山連合空港反対同盟が共催。
沖縄の会・共同代表の金城さん、安次富さんはじめ、辺野古や高江で新基地に反対している住民、かつて三里塚で活動していた人たちなど、多数がかけつけた。
三里塚からは、反対同盟をはじめ、市東さんの農地取り上げに反対する会など8人が参加。
国策をおしつけ
主催者を代表して金城実さんがあいさつ。「私にとっての三里塚。30年ほど前、三里塚の鉄塔に彫刻を置くということになり、軽トラックで運んだ。機動隊が、彫刻を異様の物と阻止しようとする。それが出会い。鉄塔が破壊され、戸村委員長と彫刻を取り返しに行った。いまの沖縄と、三里塚がどうかかわるのか、それを検討する集まりにしたい」。
市東さんの農地取り上げに反対する会が製作した『異常気象と、降ってわいた権利侵害』(DVD、本紙第79号に紹介記事)を上映。市東さんの丁寧な農作業、団結街道封鎖の暴挙などが映し出される。
「沖縄の会を結成し、私が三里塚現地に代表派遣されたとき持っていったのが、この旗」と司会の豊見山さんが紺色の旗を示し、「きょうは、三里塚から反対同盟に同盟旗を持って参加してもらった。感慨深い。国策という名前でお互いに押しつけられている問題がある。いま沖縄のたたかいのなかで、三里塚を共有し、考えながらつながっていけるのではないか。三里塚は沖縄との連帯を言いつづけてきた。ともに国策を撃っていこう」とあいさつ。
三里塚反対同盟が登壇
反対同盟から鈴木謙太郎さん、伊藤信晴さん、萩原富夫さんがそれぞれ報告。
市東孝雄さんは、「3年つづけて沖縄に来させてもらった。私は農民であり農地をとり上げられるのと、辺野古のみなさんがきれいな海を汚されるのと同じと思う。そういう気持ちを共有できるならいいなと、毎年つづけて来たい。空港と基地という違いはあるが、土地とり上げというのは同じ。ヤマトと沖縄の難しい問題はあるが、農地を守りつづけながら力を合わせたい」と話した。
萩原進さんが「先日の弾圧(5・20東京高裁での50人逮捕)では、20歳の娘から90歳までみんな逮捕する。これは何か。3・11の大震災以降、社会と政治は激変した。そういうものをつながらせてはならないという(権力側の)意図が明確にあっただろう。三里塚は砂川や北富士、沖縄のみなさんと結びながら40数年たたかってきた。沖縄も三里塚も福島の人たちも、基地・空港・原発への怒りの根は同じではないか。手を携えやっていこうと思う。敵にとっては、三里塚が沖縄と手を結ぶなど、とんでもないこと。あした6・23沖縄の集いに、私たちも参加させてもらう」と、三里塚と沖縄のたたかいを訴えた。
沖縄の訴え
沖縄からは、辺野古のヘリ基地反対協議会・安次富さん、高江で座り込みをつづける佐久間さん、一坪反戦地主会北部ブロック・儀保さん、普天間から高橋さんが、それぞれ現地のたたかいを報告。「沖縄県民にウソばかりついてきた」「思いやり予算年間1800億円余、1日5億円だ。被災地に回すべき」「オスプレイの配備を明言してきた。民衆の力で粉砕する」…。この1年、そして前日の2プラス2など日米両政府のやり方に、怒りを表明した。
最後に、沖縄の会・共同代表の安次富浩さんが「沖縄の地で三里塚反対同盟と、こういう集会をおこなうことができた。これを契機にみなさんとの交流を深めていきたい。アメリカ政府も、辺野古のたたかいを『怪物』と評価している。沖縄、福島、三里塚という結びつきを、大同団結して国を撃っていく力にしたい」と、まとめた。
発言する萩原進・三里塚芝山連合空港反対同盟事務局次長(6月22日 那覇市内) |
涙ではなく抵抗の継承を
6・23 国際反戦沖縄集会
同盟旗をかかげデモ行進に参加した三里塚反対同盟(6月23日 沖縄県糸満市) |
6月23日の沖縄慰霊の日に、20を越す反戦・市民団体で構成される実行委主催で、第28回国際反戦沖縄集会が開催された。11時に「ひめゆりの塔」近くに集まった沖縄の反戦・市民団体、三里塚反対同盟、関西実行委などは「魂魄(こんぱく)之塔」前の会場まで、炎天下のデモ行進をおこなった。
昼食休憩ののち、13時前から集会が開催された。主催者あいさつ、安里えいこさんのメッセージののち、まずは海勢頭(うみせど)豊さんらのミニコンサート。つぎに沖縄キリスト教学院大学・短期大学学生の「チーム琉球」の活動報告。そして照屋秀傳(しゅうでん)反戦地主会会長が発言。
つぎに、各地に残る膨大な遺骨収集活動を行っている「ガマファー」代表の具志堅隆松さんの報告。
同日50人で行われた菅総理来沖抗議行動の報告をおこなった城間勝さんは「沖縄にウソをつき、基地をおしつけ、いまオスプレイを配備しようとしている」と激しく弾劾し、「沖縄と米軍は仲良しではない。インティファーダを」と訴えた。
靖国合祀ガッティンナラン!訴訟団の金城実さんは、涙ではなく抵抗の遺伝子の継承をとアピール。泡瀬干潟を守る連絡会からはウミガメの産卵が語られ、これは泡瀬の干潟を守れとの啓示だと訴えた。
つづいて三里塚反対同盟が登場。萩原進さんは、「成田の闘いは砂川などの闘いを受け継ぎ46年闘ってきたが、終わっているわけではない。政府は結局土地を買収できなかった。沖縄の人たちと結び、どうやったら勝てるか考えたい。福島・沖縄と結びともに闘う」と訴えた。市東孝雄さんは「耕すものに権利あり」と発言。
ついで、辺野古をたたかう安次富さんと、高江をたたかう儀保さんから、最前線の攻防が報告された。
最後に大城しんやさんのミニコンサート。閉会のあいさつは真喜志好一さんがおこなった。
アメリカの世論を動かそう
第2期沖縄意見広告・関西報告集会 6・17 大阪
5月沖縄2紙(沖縄タイムス、琉球新報)と本土1紙(朝日新聞)に掲載し大きな反響をよんだ「沖縄意見広告」。この運動の報告と9月米紙への意見広告掲載にむけて、東西で集会がひらかれた。関東集会は6月15日、関西集会は同17日、それぞれ300人、250人が参加した。両集会とも、沖縄と福島を結び、国策としての米軍基地と原子力発電という「棄民政策・核安保体制」を告発する集会となった。
以下、大阪市内でひらかれた関西集会のもよう。
弾圧に反撃しようと訴える西山さん(6月17日 大阪市内) |
2つの講演
冒頭、よびかけ人の増田幸伸さんから、意見広告運動の意義が語られた。
次に、衆議院議員の服部良一さんが講演。「米議会においても、辺野古新基地建設が困難という論議が高まっている。今こそアメリカの世論をも動かし、辺野古断念・普天間基地撤去をかちとるための闘いを強めよう」と訴えた。
続いて意見広告発起人で連帯労組関西地区生コン支部の武建一委員長が講演。「フィリピン、エクアドルなど世界各地の人民の抵抗で米軍基地は現実に撤去されている。原発ではドイツ・スイス・イタリアと欧州の中央部が脱原発にすすみ、国内では電力独占と連合・電力総連などの矛盾も深まっている。いまこそ、まともな労働組合運動が、この敵の弱点をうち破る闘いをやらなけばならない」と提起した。
福島原発事故 特別報告
つづいて、元京都大学原子炉実験所助教授の海老沢徹さんから特別報告がおこなわれた。「原発事故では『止める、冷やす、閉じ込める』をしなければならないが、これに失敗し3カ月たっても収束の目途は一切たっていない。東電だけの責任ではなく、日本列島に住む人の生活を守るため、国家が総力をあげなければならない。」と政府の責任を強調した。特別報告への質疑討論では、「沖縄に原発が無いのは、原発が攻撃されたら沖縄全島の米軍基地から米軍が退避しなくてはならなくなるからか」の質問があり、海老沢さんは「そう思います」と回答。参加者は原発事故の規模の大きさと、その深刻さをつよく認識した。
弾圧への反撃を
最後に、生コン支部・西山執行委員が運動提起。闘う労組などへの弾圧、これに反撃しよう。9月米紙への意見広告を実現しよう、と訴えた。
4面
第13弾《下》
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今年も「8・6ヒロシマ 平和の夕べ」が呼びかけられている。被爆死した人びとへ鎮魂、その後を生きた人びとの叫び。『黒い雨に打たれて』『はだしのゲン』を描きつづけた中沢啓治さんが、その怒り、想いを話す。「小林圭二さん、草薙順一さんに発言をお願いし、案内状の印刷にとりかかっていた」(実行委員会)。その矢先に大震災と福島第一原発事故が起こった。ヒロシマ、ナガサキにつづくフクシマは、何を私たちに問いかけるだろうか。元京大原子炉実験所講師・小林圭二さんに聞いた。(6月16日・大阪府和泉市内、聞き手・見出しは編集委員会)
核は本質的に生命に敵対する
――原発災害のあと、はじめての「8・6ヒロシマ」で話されます。福島の事故が起こったとき、何を考えられましたか
すぐに思い浮かんだのは、「化けの皮が剥がれた」「ヒロシマ、ナガサキに戻った」ということでした。原子力はもともと軍事用、核兵器製造用として開発されました。原子力、核分裂反応というのは軍事用、兵器にうってつけです。他に類をみないエネルギー密度の高さ、小さな容積で巨大な爆発力を生み出すという特徴があります。後の「平和利用」とは、あくまでその一面です。
今回の事故で「核というもの」が持つ生命に対する本質的な敵対性が、あらためて明らかになりました。ヒロシマ、ナガサキでは瞬時の爆発というかたちで現れ、一方で「平和利用」として生きのびてきた、それが崩壊しました。福島の大事故を知ったとき、いちばんに感じたことです。
――原発推進の背景には、どのようなことが
「平和利用」を謳い出したのは、1953年アイゼンハワーの国連演説からです。イギリスや旧ソ連は、すでに先行していましたが、これで世界がいっせいに原子力開発に走り出しました。「平和利用」というのは、基本的には幻想です。戦争経済を維持拡大し、核兵器開発競争を経済的に支える原発推進という面があったと思います。
「軍事」と「平和」に境界はない
――それらの問題について、少しくわしくお話ください
原爆開発によってウラン濃縮施設を持っていたアメリカは、優位な立場でした。当時、濃縮技術を持たないイギリス、フランス、旧ソ連は(濃縮でない)天然ウランから核兵器、原爆をつくっていきます。そこで原子炉が必要になります。だから天然ウランを燃料にできる黒鉛型、重水型からスタートしました。
アメリカはウラン濃縮技術を持っており、軽水炉でやれる。その利点を生かして原発市場を支配しようとねらいました。「平和利用」「原子力発電」が、あたかも明るい未来を象徴するように登場する。そういう流れがありました。
問題は原子力を「平和利用する」「軍事と分ける」という流れ、考えが広まったこと。これは広島、長崎の反核運動もそうだったのでは。ぼくは、「被爆地の人たちは反核に熱心なのに、なぜ反原発に関心が薄いのだろう」と、不思議に思いました。むしろ反核運動をやっている人たちに、「平和利用」推進ともとれる動きもありました。もちろん、日本全体がそうでした。
原子力としては同じなのに、「反核兵器と反原発」が、ほとんど接点を持たずにきました。しかし原発の技術は原爆から、核兵器開発から、直接につながっています。原子炉は長崎型プルトニウム原爆をつくり、ウラン濃縮プラントは広島型原爆をつくる装置です。
そして、「日本は軍事はやらない、平和利用だ」と。もともと原子力の技術を軍事、平和と区別することはできません。ぼく自身は、非常に違和感を感じていました。
「ヒロシマ、ナガサキ」の不条理
――そこには、どういう意味合いがあるでしょうか
ヒロシマ、ナガサキの被爆者の人びとにとっては、原爆、核兵器というのは、あまりにも不条理な「核との出会い」です。石段に影だけ残った人。突然、瞬時にしてすべてがなくなる。人間の想像力をこえた不条理です。なかなか理解できないし、受け入れられない。おそらく被爆した人びとにとって、その後の精神のあり方、救いのようなものが不条理の裏返しとして「平和利用」というように転移、転化させられた。そういう面があったのでは。
人によっては「原発は緩慢な原爆である」と表現します。それなりの感性による捉え方ですが、「緩慢な原爆」というだけでは、ヒロシマ・ナガサキの不条理を払拭することはできないでしょう。
福島の事故を見て被爆者の人たちは、ぼくらとは違う衝撃、受けとめ、被爆体験に回帰したのではないでしょうか。ぼくらが感じる以上に、痛切な想いでしょう。ぼくの想像力の範囲ですが、被爆者の人たちのことを考えました。
住民運動、全共闘運動に接しながら
――原子力発電の「いま」をどう考えられますか
「瞬時か緩慢か」は違うけども、本質は同じです。「ゆっくり」というのは、順調であってのこと。原子炉自体が不安定なものです。いったん大事故が起こったら、とり返しのつかない破局的な事態になります。「ゆっくり、コントロールできている」状態があったから、「平和利用」という幻想が現実的と見えたわけです。
原爆は、爆発力を高めるための工夫が集積されています。核分裂は、爆発力ということが注目されますが、連鎖反応と考えると分かりやすい。爆発的か、緩慢に反応させるか。いずれも核分裂、死の灰の生成ということは同じです。起こっている現象は原爆と同じ。「平和利用」とごまかし、ひたすら死の灰をつくり続けてきたことに違いはありません。
原子力発電が本格化され始めた1960年代から70年代、ほとんどの研究者は、もちろん推進でした。「新しいエネルギー」「安全であればいい」という考え方です。原発反対に立ち上がったのは、候補地にされた住民、そして学生たちでしたね。
各地の原発反対運動に学生たちが支援に現地に入り、彼らが問題を明らかにし始めました。原子力工学の学生たちは原発問題に直面し、当時の全共闘運動は、大きな意味を提起していました。全共闘は根源的な思想性をもっており、学生たちは自身の専門性を問いました。そのころ、いちばん先鋭的だったのは反公害闘争でしたね。
武谷三男さんの『原子力発電』は、当時としては「許容値はない」というような新しい概念や、「閉じ込める」という問題を、ほとんど指摘しています。そのころの良心的な研究者に共通する考え方です。しかし、根底から問うという点では学生たちでした。
ぼくも考えさせられ、裁判闘争に加わったり住民運動と接しながら「原発は人類と共存できない」ということを学び、捉え返しました。研究者には、基本的にはそういう発想はなかったですね。「科学技術がすすめば解決できる」という姿勢でした。
防ぐ術ない放射能漏れ
――「福島」の現状は、どうでしょうか
いまの状態は、やはりまだ分かっていないことが多いです。新たな事実が出てこなくても、「あった」ということが、まだこれから出てくる可能性はあります。破損箇所が分からない。どこから汚染水が漏れているか分からない。
しかし、何が問題かは早い段階から見当がついていました。少なくとも、圧力容器と格納容器が健全ではなかった。燃料が水面から覗く、そういう状態になったらすべて終わり、お手上げです。温度が2800度くらいになると、それを防ぐ物はないです。溶融というのは、それほど大変です。
いま言われている「メルトダウン、スルー」というのは、圧力容器を溶かして下に落ちること。下の格納容器に落ちた場合、水蒸気爆発が起こる可能性が高いのですが、いまは起こっていない。ただ圧力容器、格納容器に穴が開いていることは間違いないでしょう。とにかく冷やさなければならないが、汚染水がどんどん溜まるし地下水、海水に漏れる。水を入れれば汚染水が増える。ジレンマです。
浄化ということも、うまくいくかどうか分かりません。油分、塩分、もちろん放射性物質など汚染度が非常に高い。吸着剤がすぐに劣化、フィルターも詰まるでしょう。その放射線管理も大変です。地下水に漏れるのは、いまは防ぐ術がないですね。
このまま「小競り合い」ですむのか。ぼくは、まだ水素爆発、水蒸気爆発が起こる可能性は否定できないと思っています。そうなれば90%ほどは閉じ込められている放射性物質が全部出てしまう。それは大変なことです。
――昨年、8・6平和の夕べで高史明さんは、「近代合理主義を基礎にした文明の愚かしさが、核兵器に行きついた」と批判しました
分かるような気がします。ぼくらは、「これから原子力をつくる」という世代でした。放射性廃棄物をどうするかなども考えずに、原発がつくられてきました。水俣の教訓があったにもかかわらず、です。
可能かどうかは別に、後始末をやらざるを得ません。絵は描けますが、できるかどうか。原子力の技術は先送りです。今回、初めて誰もが原子力の負の部分に眼をむける事態が起こりました。「軍事と平和」に分断されてきたことが、またつながったことになります。
「原発、平和利用」というかたちをとってきた、それがじつは「ヒロシマ、ナガサキだった」と思います。
――お忙しいなか、ありがとうございました
小林圭二さん プロフィール
1973年、四国電力伊方原子力発電所1号機建設に反対する住民訴訟を支援。高速増殖原型炉もんじゅの設置許可の無効確認を求めた行政訴訟(もんじゅ訴訟)では、原告特別補佐人、証人をつとめている。
【主な著書】
『動かない、動かせない「もんじゅ」 高速増殖炉は実用化できない』(2010年 七つ森書館) 『高速増殖炉もんじゅ 巨大核技術の夢と現実』(1994年 七つ森書館)他多数
5面
稲盛(日航会長)を法廷にひきずりだせ
JAL不当解雇撤回闘争が9月本番へ
6月20日、大阪市内で「日本航空不当解雇撤回・裁判勝利にむけた学習決起集会」が170人を結集しておこなわれた。主催は、日本航空の不当解雇撤回をめざす大阪支援共闘会議。多くの賛同労働組合、団体、弁護士、労働法学者などが、ナショナルセンターをこえてあつまった。東京・全国から原告団も多数参加した。
裁判原告団の清田事務局長、内田客室乗務員原告団長、吉田乗員組合副委員長から報告がなされた。
「不当解雇撤回!」意気軒昂とたたかう原告団(6月20日 大阪市内) |
整理解雇4要件の破壊―その意図が明確に
清田原告団事務局長は、裁判の目的を「解雇撤回、原職復帰」(全面勝利をめざす)と明確にした。パワーポイントを使い、@裁判経過と主な取組み、A裁判の目的、B整理解雇4要件、CJAL破綻の原因、DJAL再生、E支援の広がり、F運動の広がり、G今後の闘い、を報告。
制服姿の彼は、当該としての鋭さで整理解雇4要件の破綻点を明らかにした。年度末(3月末)再建計画にも関わらず、10年12月27日で希望退職締め切り(違法な退職勧奨強行)、同31日の解雇。労働組合提案のワークシェア・一時休職も検討せず、など諸点を強調。これほどの4要件逸脱はない。その狙いは、戦闘的労働運動破壊、日米航空「利権」の隠蔽が目的(報告ではJAL破綻の原因としてポイントが明らかに。関連記事、本紙75号)。「東電原発事故の損害賠償と政府支援の問題も、JALと全く同じ構図」(レジュメ)と、JAL破綻問題の本質をあばいた。
国際的支援拡大
ITF(国際運輸労連・147カ国、約440万人)、IFALPA(国際定期航空操縦士協会連合会、百カ国以上、約10万人)の支持と、IAM(国際整備工・航空宇宙産業労働組合、約60万人)の支援を得て、ILOに提訴。5月23、24日にはILO本部を訪問し、直接要請をおこなった。
航空法を無視
内田妙子CCU委員長(客室乗務員原告団長)は、「日航は3月の震災直後でも135億円の利益を積み増した」と指摘。165名にものぼる乗員・客室乗務員の解雇は、まったく必要でなかった。稲盛会長が、解雇強行後におこなった一連の発言に怒りをむけた。「(これまでは)安全が第一で利益は二の次だった」(1・19発言)といって、安全第一を否定。5月19日、日経ビジネスで「利益を出して余裕がなければ安全を担保できるわけがない」と述べ、あくまで利益第一を強調。これらの発言には、御巣鷹山事故(1985年)の遺族からも怒りの声が上がっていると訴えた。
これは航空法(連続する事故の中で06年改正)1条(輸送の安全確保)、103条(安全性向上義務)を踏み破り航空の安全を脅かすもの。利益第一主義のJALなど「絶対にゆるされない」と断罪。「明日は伏見の戦い」(京都市での京セラ本社前行動)と訴え、9月口頭弁論では、「稲盛を法廷にひきずりだす」「稲盛の考えを法廷の場で明らかに」すると強調した。
体調不良も申告できない職場
吉田全・日航乗員組合副委員長は、今回の大量不当解雇で職場が荒廃している現状を訴えた。55歳以上のベテランがゼロになった現場では、パイロットから深刻な声が寄せられている。職場が萎縮してしまっている。とくに病欠の基準を上げたことによって(高血圧など)「自己申告しにくい」、安全トラブルがおこっている。空の安全運航が危険にさらされていると告発した。
大阪支援共闘会議事務局長の発言、京都支援共闘会議準備会の発言につづき、最後に萬井隆令大阪支援共闘会議代表(龍谷大学名誉教授、労働法)は「この不当解雇は撤回させる」「裁判闘争の困難と負担を私たちで力強く支えよう」と訴え、集会を終えた。
さらに支援の輪を
5月6日には、あらたに2名が原告に加わり、148名となった。菅首相あての署名は、14万筆をこえている。6月21日には、京セラ(稲盛が創業者。現在、名誉会長)本社前闘争がたたかわれ、同夜、京都支援共闘会議が結成された。
この闘いはナショナルセンターの枠を超えて、200以上の団体、350万人規模の運動となっている。支援共闘会議は、中央(12・27)、大阪(1・31)、福岡(4・25)、京都(6・21)で結成されている。「日本航空による不当解雇者を励ます会」もたちあげられた(4月20日現在、知識人・文化人517人が賛同)。さらに「不当解雇とたたかう日航労働者を支える会」も、まもなくたちあがる。
全力でユニオン運動に取り組んだ1年
関西合同労組 第18回定期大会
地域・職種ユニオンの発展めざして (6月19日 兵庫県尼崎市内) |
6月19日、関西合同労組第18回定期大会が尼崎市内で開催された。会場には闘いの現場に掲げた横断幕が次々と掲げられ、支部、分会の赤旗が並ぶ。各職場ビラ、沖縄・反原発闘争ビラが議案書とともにコーナーに十数種類並ぶ。激戦、激闘の1年の戦闘的雰囲気が漂うなかで大会は開催された。代議員、共闘など60人をこえる仲間が参加。
来賓挨拶、メッセージ紹介のあと、1年間の闘いの総括、情勢(東日本大震災と中国・アジアへ侵略を深める巨大資本)、11年度の方針の討論・採決。会計報告、予算案の討論・採決、新役員選出と進み、関西合同労組の新た体制が確認された。交流会では東日本大震災・原発震災への救援活動の記録を若い副委員長が映像で紹介し、救援と支援をさらにすすめることを確認した。
争議3分会
3分会(コープムービング・興神運輸・中島商運)争議が現場、裁判、共同闘争として前進していることが確認された。
昨年の暴処法弾圧(次の項)はねかえし、大阪支部を中心に各支部、地域で目標を超える組織拡大を実現。一部の組合員らによる組織破壊(16回大会破壊、闘争資金略取)に加え、警察権力の弾圧があったが、職場活動、労働相談、定期的テント活動、団体交渉、争議などの活動が粘り強く闘われ、組織拡大を実現したことが報告された。数年前の組織力を回復し、運輸職種を中心に、いくつかの職場拠点があらたに根付きつつある。
暴処法弾圧
幾多の弾圧をくぐってきた関西合同労組にとって、初めての起訴となったN労働相談員への暴処法弾圧(昨年5月)。起訴されたものの、早期の奪還、広範な支援者がかけつけた公判闘争、大阪労働者弁護団3人による弁護活動で、たたかいぬいた。一審で有罪を許しはしたが実刑は阻止し、現在控訴審闘争に入っている。無罪めざしてたたかいぬくことが確認された。
セクハラとの闘い
この間の労働相談や、組合への新規加入では、職場でのパワハラ・セクハラ問題が契機ということが増加している。合同労組にとっても、重要な課題であることを確認。また、青年の取組みが、沖縄、ヒロシマ企画、原発闘争と着実にすすんでいることが報告された。
共闘の発展と組合基盤強化へ
「長期化する争議におけるあり方の変革」「組織基盤の強化と共闘の発展」(総括)と地域・職種ユニオンとして関西合同労組は、さらに密着した活動をめざすことを確認。
他労組との共闘も積み上げながら、「労働市場規制型」労組へ進もうという方向が示された。反原発運動への取組み、中之島メーデーの統一メーデーへの前進は大きなステップとなるだろう。
来賓あいさつは、関西生コン支部、釜日労、びわ湖ユニオンの3労組から。
メッセージが、全国金属機械港合同、東京管理職ユニオン(橋下委員長)、釜ケ崎地域合同労組、なにわユニオン、港合同南労会支部、部落解放同盟全国連、国労5・27臨大闘争弾圧を許さない会事務局長・佐藤昭夫さん、大阪拘置所在監中の釜ヶ崎の仲間、高槻医療福祉労組、パナソニックPDP偽装請負事件当該・吉岡さん、弁護士、司法書士などから寄せらていることが紹介された。
関西合同労組は、阪神淡路大震災のなかで、95年に結成され、被災地の救援・支援、そごう闘争、長田の闘いから20年近い歴史を持つ。「他労組にない色合い」を持つ組合として、運輸労働者の組織化、旺盛な労働相談と解決をこなしながら地域ユニオンとして進んで行く、新しいイメージを示す大会となった。(労働者通信員 K)
6面
すべての子どもたちにわけへだてなく
即刻、朝鮮学校に〈無償化〉を! 6・23近畿集会
エルシアターは満杯に(6月23日 大阪市内) |
6月23日、朝鮮高校への授業料〈無償化〉即時実施を求める集会が、大阪市内でひらかれ、約900人が集まった。
賛同団体は69団体。同日、同時刻に東京でも同じ集会が開催されていることが紹介された。
去年の4月1日、「高校授業料無償化法」がすべての高校、専修学校、各種学校に適用された。しかし日本政府は、朝鮮高校だけを除外した。
集会では、「延坪島砲撃事件」や「拉致問題を口実とした制裁措置の一環」として朝鮮高校への無償化を実現させないでいること、また、大阪府の橋下知事に至っては、それまで朝鮮高校に交付していた府補助金さえもストップさせるというすさまじい差別行政を続けていることに大きな怒りが湧き上がった。
教育を受ける権利はすべての人間に保障されたものだ。各種学校の教育方針や理念はいかなるものであっても、それらを理由に無償化を妨げられるものではない。
日本政府は「拉致問題」を最大限利用し、排外主義をあおり、朝鮮高校だけを敵視する政策を取り続けている。それは全国の自治体に波及しつつある。
アピールでは、この春、朝鮮高校を卒業した卒業生、朝鮮高校出身の弁護士、オモニ会など、誰もが「この現実を許せば、今以上の差別が広がり、それを後輩たちに引き継がせることは絶対できない」と、日本社会への危機感を強めていた。
各参加団体からのアピールでは、日本人の責任において、日本政府や大阪府のやり方に抗議し、差別、迫害を即時にやめさせる行動に立ち上がらなければならないことが訴えられた。
戦後60数年を経ても謝罪すらしない日本政府。時間の猶予はない。一刻も早い無償化適用を。
ウリハッキョで学ぶ幸せを 大阪朝鮮高校卒業生の発言
私は高校の3年間を大阪朝鮮高級学校で過ごしました。とくに高3の1年間は人生で一生忘れられることのない特別な1年です。そんな宝物のような1年の中で唯一心残りがあります。それは他でもない無償化問題です。私が高校無償化という言葉を初めて耳にしたのは高校2年の時です。その時は何も知らずに、ウリハッキョ(私たちの学校)も無償化の対象になる、学校のことで親に苦労をかけずに済む、と喜びました。
どうして?
しかし、それから少し経って担任の先生から、朝鮮学校には適用されないかもしれないと聞かされました。私はこの時、どうして他の外国人学校には適用されるのに朝鮮学校には適用されないんだろうという疑問以外うかびませんでした。
学校では、放課後の時間を使ってこの問題について勉強することになりました。朝鮮学校は日本学校と同じように、授業も6時間授業、クラブ活動もある。なのにどうして朝鮮学校には適用されないんだろう。やっぱりおかしい。こんな考えが頭から離れませんでした。
できることは何でも
私達なりにこの問題を解決するために、朝鮮学校生徒として大阪駅周辺でのビラ配り・署名活動などに参加したり、また、大阪府庁ホームページへの書き込みやハガキを使っての抗議活動など、できることは何でもしました。
橋下知事の訪問
そして2010年3月、朝鮮学校の視察という名目で橋下徹大阪府知事が大阪朝鮮高級学校を訪問することになりました。朝鮮学校は橋下知事を喜んで出迎えました。
私は橋下知事が見学した授業に生徒として座っていました。橋下知事は何も言わずにその授業を見ていました。2、30分ほどして「みんな頑張ってね」とひとこと言って教室を出て行きました。
橋下知事は一体何を頑張ってねと言ったのか、私には分かりません。結局、大阪府は朝鮮学校を支援するための条件として、民族性を一切無視した様々な無理難題を提示しました。
私は橋下知事のこの朝鮮学校の視察が、卑怯なやり方に見えて仕方がありません。「自分で見て決めたことなんだから、文句は言うな」。私にはこう聞こえます。私は橋下知事の卑劣なやり方に言葉に表せないほどの怒りを覚えます。
そして後悔しました。もしかしたら、朝鮮学校に無償化が適用されるかもしれないと、淡い期待をよせた自分が憎らしくも思えました。
府助成金も凍結
朝鮮学校無償化の動きは二転三転を繰り返し、結局今のように朝鮮学校無償化適用は絶望的になってしまいました。それだけでなく大阪府がこれまで支給していた朝鮮学校に対する私学助成金すらも凍結されてしまいました。私達第57期卒業生は、朝鮮学校だから、朝鮮人だからという不当な理由で無償化を受けることなく卒業をむかえました。後輩達に私達のような思いをしてほしくはありません。
私は朝鮮学校の卒業生として、この無償化問題が何よりもまず第一に解決され、自分達がウリハッキョで学ぶことのできた幸せを、後輩達も同じようにかみしめることができるよう努力していかなければならないと、あらためて思います。
(文責、見出しとも本紙編集員会)
非公開での協議を強行
動きだした生活保護法改悪
生活保護法改悪の攻撃が急速に動き出した。
生活保護法の改悪を企図する厚生労働省は、有期保護や医療費の一部自己負担等を主張している平松邦夫・大阪市長など4自治体首長を呼んで、生活保護法改悪のための協議を5月30日に非公開でおこなうと、24日に公表した。
それを知ったさまざまな団体が、インターネットで公開を求める賛同をよびかけたところ、数日のうちに50団体が賛同し、これを背景に厚労省に公開を申し入れた。しかし、厚労省は一般傍聴を認めず協議を非公開で強行した。
8月にも「改正」案
協議の内容は新聞報道で明らかにされた。それによれば8月にも具体的「改正」案を出すとのことである。その内容は、就労可能な受給者に対して就労指導をきびしくおこない、生活保護を期限付にし、医療費や住宅扶助の一部有料化、保護費の引き下げを含むとされている。
反撃が始まる
社会保障運動団体を中心にして、生活保護受給者の生の声を集める運動が始まっている。8月末を期限に受給者のアンケートを集約し、その結果を背景にして改悪案を具体的に批判し、おし返していく運動である。私たちの周りの受給者によびかけて、アンケートに協力してもらおう。
また、7月13日には星稜会館(東京)で「生活保護受給者200万人時代の処方箋 〜今こそ、使える『第2のセーフティネット』を〜」と題する全国集会がひらかれる。
20代、30代に集中攻撃
国や大阪市は、生活保護法改悪の理由として、リーマン・ショック以後、若い就職可能年齢の受給者が約11万8千世帯(08年8月)から約23万9千世帯(今年1月)へと倍増したことをあげている。
就労可能世代とりわけ20代、30代の受給者が急増したのは何十万人という膨大な派遣切りが強行されたからである。派遣切りを強行した大企業の責任は一切追及せず、受給者に矛盾をおしつけようというのである。
実際に大阪市の西成区役所では、「安い賃金でも劣悪な職場でも、就労しろ」ときびしい就労指導がおこなわれている。これに従わなければ保護を受けられなかったり、打ち切られたりするのである。これが全国に拡大ようとしている。これは、08年末の年越し派遣村に対する逆流だ。
日本社会をさらに破壊
生活保護は、低所得層・貧困世帯の最後の生活保障である。これが破壊されれば日本社会の底が抜けてしまう。
アメリカはすでに1996年、「福祉から就労へ」をスローガンに、公的扶助の利用を生涯で5年間とする改悪が強行された。この結果、福祉は権利から恩恵に変わり、受給者を就労に追い立てる道具に変質し、金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます底なし沼に落されていった。厚労省・大阪市はこれを強行しようというのである。
大阪市は生活保護の全国一律適用を廃止し、3〜5年程度集中的に就労支援し、自立の意欲が見られない場合は支援打ち切りを認める特区の設置を要求している。
最低賃金や年金と連動
保護費は最低賃金や年金と連動している。保護費の切り下げは最低賃金や年金の引き下げに直結していく。この大きな構造をしっかり認識し、社会保障運動と労働運動がともにスクラムを組もう。とりわけ労働組合は、生活保護法改悪阻止のたたかいをしっかり取り組もう。