原発いらない
全国各地で6・11脱原発100万人アクション
新宿アルタ前を2万人がうめた(11日 夕方) |
東京・芝公園には、6千人(11日) |
芝公園6千人 新宿1万人
午後1時半から、東京・芝公園で「くり返すな!原発震災 つくろう!脱原発社会 6・11集会&デモ」が開催され、6千人が集まった。たんぽぽ舎など7団体が呼びかけたもの。
冒頭主催者が「コストの問題で命の問題を語ることは、もうやめよう」「一人ひとりの命を基本にした社会をつくろう」と訴え。
福島県から40人が参加
福島県郡山市から40人がバスで上京、東電への申し入れを終えて集会に参加。
福島県教組・郡山支部の書記長は「子どもたちの被ばくを少しでも抑えるために、何ができるか考えている」。放射線測定器を持参した男性は、「東京で測っても、0・2とか0・1マイクロシーベルトあった。福島だけの問題じゃない。」「みんなで声をあげれば、必ず原発を無くすことはできるはず」と訴えた。福島県出身で東京在住の女性は、6・26福島1万人パレード(福島市)への参加をよびかけた。
郡山から参加した20代の男性は、「(申し入れでの)東電の対応を見て、現状を変えられるとは思わなかった。現状を変えられるのは、ここに集まっている皆さん。福島の人たちと、日本中の皆さんが力を合わせてがんばっていきましょう。」
20数万人のデモを
女川原発反対同盟から85歳の阿部宗悦さん、大間原発に反対してたたかう小笠原厚子さんが発言。
集会の最後によびかけ団体から3人が発言。たんぽぽ舎の柳田さんは、「たんぽぽ舎は今日、2つの会場に参加している。従来から脱原発でがんばってきたグループと新しい若い人や女性ががんばっているグループ。この2つを大きくつないで、ドイツのように20数万のデモをつくる、そうした役を果たしたい」と訴えた。
デモでは、思い思いのプラカードやコスチュームで脱原発を訴えた。
新宿アルタ前に2万人
この日東京では昼間、芝公園、新宿中央公園、代々木公園の3カ所で集会がおこなわれた。夕方6時からは、新宿駅東口・アルタ前広場で“原発やめろ広場”が呼びかけられており、3カ所の参加者が合流した。
新宿中央公園からのサウンドデモは、解散地点がアルタ前。デモの最初のてい団が到着して以降、人は増えていった。6時になっても、デモの隊列が次々とアルタ前広場に入ってくる。新宿以外のデモから合流した人も含め、アルタ前広場は人で埋めつくされた。
警察は周辺に大量の警官を配置、広場への人の流入を規制しようとしていたが、まったく無意味。
「原発いらない」の大コールの後、街宣車の上でリレーアピール。松本哉さん(素人の乱)と雨宮処凛さんの司会で、アピールや演奏を、2時間以上にわたって続けた。
少し離れた所には、デモの中にいたサウンドカーが停まり、バンドが演奏を続けている。街宣車から離れた歩道上では、ドラム隊を中心に声をあげている。アルタ前は完全に解放区となった。
最後に、稼働中の原発の停止、定期検査等で停止している原発を再稼働しないことなど5点を政府に要求することを確認。
誰もが今までに経験したことのない、ものすごいエネルギーを感じる時間だった。“絶対に変えていける”参加したすべての人が、そう確信した。この力をさらに前進させ、すべての原発を止め、廃炉に追い込もう。
大阪で4500人がデモ
デモ隊のしんがりに長いサウンドデモ(11日) |
会場の中之島剣先公園には4500人が集まった。「ストップ・ザ・もんじゅ」など11団体の呼びかけでおこなわれた行動には、114の団体が賛同した。主催者から、集会と平行して関電への申し入れがおこなわれていることが報告された。
冒頭、「ストップ・ザ・もんじゅ」の池島さんが主催者あいさつ。
つづいて、福井県小浜市から参加した、中嶌哲演さん(明通寺住職)が登壇し、「大量生産、大量消費、自然破壊という戦後社会のあり方を下支えしてきたのが巨大原発群。40年で45万人もの被曝労働者を生み出した。いい加減原発はとめよう。安心して若狭の海で泳げるようにしよう」と訴えた。
福島からメッセージ
「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」からのメッセージは、「文科省が『年間1ミリシーベルト以下を目指す』と、20ミリシーベルト基準を事実上断念したのは、運動の力が国を動かし始めた瞬間だった。疎開、除染など、さらに国を動かしていこう」と呼びかけた。
集会アピールを若狭ネットの久保さんが朗読、拍手で確認した。
国会議員の発言は社民党(服部良一さん)と共産党から。
「これ以上迷惑をかけられない」と所属事務所を辞めて反原発活動を続ける俳優の山本太郎さんからのメッセージが紹介され、ひときわ大きな拍手が起こった。
デモは御堂筋を南下し、難波まで約6キロを行進した。沿道からの飛び入り参加も多く、4月の第一波をこえるたたかいとなった。
新宿のサウンドデモの先頭には ドラム缶の太鼓(11日) |
38人全員を奪還
東京高裁・警視庁による5・20三里塚弾圧
先月20日、東京高裁内で50人が逮捕され、その後も勾留されていた38人にたいする起訴策動を粉砕し、6月10日、全員の釈放を勝ちとった。
判決に不服なら逮捕
今回の大量逮捕は、裁判所と警察が一体となった、前代未聞の大弾圧である。
先月20日、東京高裁・井上繁規裁判長(第15民事部)は、三里塚現地闘争本部明け渡し請求裁判(成田空港会社が提訴)で、三里塚闘争のシンボルである現地闘争本部建物の明け渡し・撤去を認める不当判決を出した。しかも仮執行宣言(上告審での判決確定を待たず建物撤去にゴーサイン)をつけるという「国策」判決を強行。
反対同盟と弁護団は、直ちに上告するとともに、「本部建物撤去の仮執行停止申立」をおこなった。これに対し、東京高裁は「(担保金積み立てが可能な)午後5時に間に合うように決定を出すから、待機を」と言い、北側待合室での待機を指示した。
しかし、高裁は5時直前になっても決定を出さず、弁護士との面接も拒否した。裁判所が言う「退去命令」なるものは、誰がいつ出したのかはっきりせず、現場にいたほとんどの人はそんなものは聞いていない。裁判所建物内に乱入した私服刑事100人以上と機動隊の集団が、問答無用に50人を逮捕した。退去できないように廊下を封鎖し、エレベーターに乗った人も引きずり出しての逮捕だ。その直後に高裁は、仮執行停止申立を却下した。
この弾圧は、3・11東日本大震災以後、支配の危機におびえる国家権力が治安対策として強行したものである。不当判決をはね返し、三里塚現地闘争本部を守り抜こう。
2面
全国各地で6・11脱原発100万人アクション
郡山市(福島県)
「フクシマから世界へ」郡山市内をパレード(11日) |
11日「原発いらね! 郡山パレード」が、郡山市内でおこなわれた。主催は、「6・11原発いらね! 実行委員会」(協賛 脱原発福島ネットワーク、ハイロアクション福島、 子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)。約300人が参加した。
集会は雨模様の中、JR郡山駅前公園で12時からはじまった。会場で申し込んだ人が次々と1分間スピーチ。地元で運動をしている人たちが、行政や職場でのたたかいを報告、「フクシマから世界に発信しよう」と訴えた。最後に全員で「We Shall Over Come」を唱った。
集会後、市内中心部を一周するパレードが、太鼓やクラリネットなどでにぎやかにおこなわれた。(福島・S)
静岡市
浜岡原発を廃炉に(11日 静岡市内) |
5月中旬に浜岡原発すべてが運転を停止した中で、県内に浜岡原発をかかえる静岡では「菜の花パレードはまおか」がおこなわれ、250人が参加した。
会場は、歩行者天国でにぎわう呉服町商店街と市役所の間にある青葉イベント広場で、午後1時半から始まった。主催は、3・11フクシマ以後に急きょ結成された若者グループ「ふきのとう」。
4月24日に800人を集めてパレードをおこない、今回は第2弾。静岡を自然エネルギーの拠点にしようと「しずおかエネルギー王国宣言」をサブタイトルにした。
前夜からの大雨で、県内の一部新幹線が運転を停止していたが、午後には雨も上がった。集会では、静岡県と静岡市にたいする「原発再稼動の停止」要請と「福島の子供を守る要請文」が確認され、二度と運転させない運動の継続が訴えられた。
集会場の隣の広場には、〈福島の子どもたちを救おう〉〈浜岡原発を廃炉に〉のブースが設営され、多くの市民が双方の会場への出入りを繰り返しながら、あらためて「原発はいらない」の思いをわきあがらせていた。
パレードには老若男女が参加。子どもたちも多数参加して、市内の歩行者天国を行進した。
また、午前中には原水禁と平和・国民運動センター主催の集会デモもとりくまれた。
同日、浜松市においても集会デモがおこなわれた。(労働者通信員A)
神戸市
世代をこえて「さよなら原発」のパレード(11日 神戸市内) |
神戸市では、「THINK FUKUSHIMA いのちを考える神戸パレード」がひらかれ、三宮・東遊園地に約500人が集まった。呼びかけたのは「さよなら原発神戸アクション」。
映画「祝の島」監督の纐纈あやさん、京都大学原子炉実験所助教・小出裕章さんが同時刻に予定されている講演会の会場からかけつけた。
纐纈さんは「昨年4月から上映して回っているが、福島の災害が起こってから、それまでとは違う目線で多くの人たちに見てもらっている。撮影を始めた当時は、21年間あらゆる困難に会いながら原発に反対している祝島の人たちは、どんなにか閉鎖的で、悲壮感ただよう島じゃないかと思っていた。ところが島の人たちは、とても温かく明るくて、(私は)生きること、幸せって何だろうと心底から考えさせられた。ぜひ映画を見てください」と話した。
使ってはならない原子力
小出裕章さんは「福島以降、たくさんの方にお会いし、私は原発に反対しながら、こういう事態になったことをとても残念に思う。(放射性廃棄物という)処理できないものをつくるべきではない。今は、次の悲劇を何としても防ぐことに全力をあげたい。しかし仮にそれができたとしても、すでに生み出した廃棄物は何十年、何百年、十万年、百万年も残る。原発をやめると電気が足りなくなるという人がいるが、水力・火力で十分まかなえる。私が言いたいのは、電気が足りようと足りまいと原子力は使ってはならないということ。ぜひ、やめさせましょう」とあいさつし、大きな拍手が起こった。
岡本光彰さんのギターと歌、関電神戸支店・兵庫県・神戸市への申し入れの報告、被災地へボランティアに行った人、神戸で放射線測定している人、愛媛県から大型バス1台で参加した「伊方原発を考える会」の学生たちが次々に報告。
雨もあがり、ほっとした顔、顔。若い人たち、学生、子どもづれのお母さん、夫婦、年配のかたがた。30年前から保育園に放射線計を置いていたという園長さんが参加していた。
集会のあと、元町まで往復のパレードで「原発いらん」と訴えた。(Y・M)
高島市(滋賀県)
11日、「原発銀座」と言われる福井県若狭と隣接する滋賀県高島市においても「さよなら原発! 高島パレード」が取り組まれた。主催は高島市民らでつくる「さよなら原発・高島の会」。
JR近江今津駅前に集まった参加者80人を前にして、主催者は「福島原発で事故があり、高島市は若狭に近く、同じ事故が起これば間違いなく私たちは避難民になるだろう。この機会に何か意志表示したいとパレードを企画した」とあいさつ。
この後、福島県中通りから避難している男性がマイクを握り、「子どもに深呼吸をさせてやりたい」と心境を述べた。
続いて、「子どもたちへの影響が心配。大人がつくった原発、大人が停めよう」(女性)、「昨年9月から稼働していない放射線測定器を回復させよと県に要望している」(男性)、「3・11のあと、昔から原発問題に取り組んでいるお母ちゃんとちょっと若めのお母ちゃんが手を結び、プロジェクトを立ち上げた。7月3日の『アースデイ・しが』にぜひ来てほしい」(女性)、「自然豊かな高島を子孫に残したい」(男性)など、次々とアピール。
替え歌「さよなら原発 高島音頭」を先頭に、にぎやかに市内をパレードし、原発依存社会からの脱却を訴えた。(投稿 滋賀 T)
投稿 電力逼迫キャンペーンの嘘
原発の稼動停止にともない大規模な停電がおきるというキャンペーンがあふれている。
理由として、「原発で電力の3割を担っているから、その原発が停止したことにより、電力不足がおきている」という説明である。しかし、電力は本当に逼迫しているのだろうか?
大々的な逼迫キャンペーンは、原発の存在を何が何でも守らないといけない、「原発を廃止すると、皆がこんなに困る」という脅迫に過ぎない。実際には、火力発電は夏のピーク期を乗り越えるのにも十分な能力があるという。
そもそも原発が発電総量の3割を占めているという一般に流布されている通説には、大きな嘘がある。現実には、火力発電所の供給能力は、原発がなくても十分すぎるくらい存在している。
電力の需要は、季節・昼夜等に応じて大きく変動している。しかし、原発は融通が利かず、年中同じ出力を出すしかない。このため、需要の変動に対応させるためには、原発をつくればそれに見合うだけの火力、水力等、柔軟に調節できる設備も一緒に増設せざるをえないのである。
要するに、通常、火力発電の稼働率は極端に低く抑えられ、原発は目いっぱい高く稼動している。「原発3割」とは、そういう事実を隠した上でペテン的に流布されている通説である。
地震発生当初、確かに、一時的に供給能力が低下した。しかし、それは原発の停止によるものではない。
今回の地震・津波により、原発が被災したのと同様に、同じ地域にある火力発電所も被災したのである。しかし、火力発電所の場合には、原発とは違って単に停止しただけで、放射能を巻き散らしたりする2次災害を発生させていないこともあり、その被災についてはほとんど報道されていない。
しかしながら、火力発電所の被災が報道されていない理由には、もっと大きな背景がある。原発の必要性をペテン的に強調しなければならない立場からすれば、火力発電所が被災して電力が供給できないという事実が知れ渡ることはまずいのである。
これらの事実が露呈するのを防ぐために、原発推進勢力としては、火力発電所が修復されても電力供給力の不足を宣伝せざるをえないのである。
(5月8日 東京・読者K)
3面
日米合意は破たんした
普天間基地撤去もとめ京都で集会 6月12日
12日、京都市の円山野外音楽堂において「危険な普天間基地の即時閉鎖・返還を! 沖縄に連帯する6・12京都集会」が開かれた。あいにくの雨模様にかかわらず、460人が参加した。
最初に、主催者を代表して京都沖縄連帯集会実行委員会の共同代表・小笠原伸児さんがあいさつをおこなった。
新崎さん(中央)仲村さん(左端)を先頭に「辺野古 に新基地をつくるな」と京都市内をデモ(12日) |
普天間の無条件撤去を
小笠原さんは、「普天間基地を撤去せよ、辺野古(へのこ)に新基地をつくるな、昨年の5・28日米合意を撤回せよという私たちの要求を確認しましょう」「普天間基地問題の出発点は、終戦時に米軍が住民の土地を強奪してつくった基地であり、現在、世界でもっとも危険な基地であるという明白な事実であります。だからこそ、普天間基地は無条件で即時に返還すべきなのです」「抑止力論は破綻しています。思いやり予算をやめて東日本大震災の被災者のために使うべきです」「昨年の沖縄連帯集会を引き継ぎ、沖縄の人たちと連帯して、この運動を前進させよう」と訴えた。
つづいて、沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(あらさきもりてる)さんと名護市議会議員の仲村善幸(ぜんこう)さんが講演をおこなった。〔別掲記事参照〕
カンパの訴えをはさんで、参加者からのアピールがおこなわれた。
98%が県内移設反対
最初に発言にたった京都沖縄県人会会長の大湾宗則さんは、次のように訴えた
「昨年11月の沖縄知事選では仲井真さんが選挙の直前に『基地は県外移設』を掲げて、伊波さんとたたかいました。仲井真さんの得票率が52%。伊波さんが46%。両方あわせれば、98%の人が普天間基地を県内に移設することに反対という投票をしたのです。昨年の5・28日米合意はもはや破たんしています」「いま米政府の中から嘉手納への統合案が出ていますが、第三次嘉手納爆音訴訟には2万2千人以上の人が参加しています。オスプレイ配備に反対するたたかいや、日米地位協定の全面改定を求めるたたかいなど、沖縄は一つになって前に進んでいます。本日、嘉手納では統合案の粉砕をめざす住民集会が開かれています。わたしは沖縄のたたかいは必ず勝てるという力強いものを感じています。沖縄の人々としっかりと結んでがんばっていきましょう」と訴えた。
つづいて、「沖縄・辺野古への新基地建設に反対し、普天間基地の撤去を求める京都行動」と京都民医連からアピールがおこなわれた。
最後に「琉球国 祭り太鼓 京都支部」によるエイサーが披露された。集会後、目抜き通りを市役所前までパレードした。
変えよう日本 変わろう日本
新崎盛暉(あらさきもりてる)さん(沖縄大学名誉教授)
新崎盛暉さん(12日) |
東日本大震災は「原発のエネルギーと軍事基地」「豊かさと平和」、そういう問題を根底から考え直させるきっかけになった。つまり中央から遠い過疎地や僻地に「負の部分」を押しつけ、中央が「豊かさと平和」を享受している、そうした差別構造の上に日本の政治は成り立っている。この問題を浮き彫りにした。
名護市への交付が止められた米軍再編交付金。あれは原発交付金をモデルにしている。誘致とか調査とか建設状況の出来高払いで金を出す。この原発交付金から学んだものだ。これに反対したのは民主党であり、今それを最大限に使ってるのも民主党政権。
菅政権が、この大災害を旧来の政治のあり方を変えないために利用しているということを象徴的に示している言葉が「頑張ろう 日本」。あえて今そういうスローガンが必要だとすればむしろ「変えよう日本、変わろう日本」でなければならないはず。こっちが変わらなければならない。
日米同盟とか普天間の問題で言うと、アメリカ自体が変わりつつある。普天間問題はこのままでいいんだろうか、もう無理じゃないの、というのが噴出してきている。もちろん彼らの「無理ではないか」と言うのは主として財政的な問題。米軍の再編計画それ自体をもっと費用対効果のあるような形で見直すべきではないかという点なんですが。震災がおきた日本に、辺野古に巨大な基地を造る金があるのかという話がちゃんと出ている。
震災直後、3月の末に思いやり予算が国会を通過した。毎年、約2千億円を5年間アメリカに支給し続ける。
アメリカ自体が、もう日本はああいう大災害にあって新基地を建設するのなんかは不可能だろうというようになっても、「これは日米同盟を維持していくために、前から決まってることだから別だ」と北沢防衛相は言う。それで思いやり予算を通過させて、そして辺野古についても既定方針どおりと言っている。
じゃあ震災の復興資金はどこから出すのか。消費税だとか国家公務員給与のカット削減といっている。やるんだったら所得税の増税をするべき。累進課税で。
マスコミの公務員バッシングを利用しながら、公務員給与をカットしようとする政策の論理というのがまさに「頑張ろう 日本」というスローガンに象徴されている政策。
そうではなくて、「変えよう日本、変わろう日本」というスローガンが象徴するものは、例えば「5・28日米合意」破棄であり、思いやり予算の停止であり、基地建設費を被災地へ回すことだ。
東日本で起こったことと沖縄で起こっていること、直感的にこれは多分どっかで結びついているというふうに感じた人も少なくはない。その実感をもう少しきちんと論理化していく努力、それを運動として目に見えるようにしていく努力、そういうのが私達には問われている。
この東日本大震災の問題と沖縄の問題というのは、私達が享受している豊かさと称するものは、本当に「豊かさ」なのかということ。それから私達が日米同盟とか、沖縄に74%も押し付けている在日米軍基地によって維持しているという平和が、本当に「平和」なのかという問いかえしの機会にしていかなければならない。
〔文責・見出しとも編集委員会〕
海にも陸にも基地はつくらせない
仲村善幸(ぜんこう)さん(沖縄県名護市議)
仲村善幸さん(12日) |
5月の9日と10日、福島県の相馬市、南相馬市、25q地点まで行ってきました。翌日には宮城県の石巻市と女川町にも行ってきました。現状を見て呆然としました。現在進められてる政府の政策のいたらなさ、無政策ぶり。
同時に、それを批判している自民党に対する怒りのほうが、僕は強かった。もともとは自民党が原発政策を推進し、東電などと癒着をして、その結果生み出されたのが原発事故。この原発事故も沖縄の問題も、国策によって生み出されたもの、国策による被害。
オスプレイを沖縄に来年配備するとアメリカが通知してきたことを、日本政府がFAXで沖縄県に伝えてきた。その演習を高江でやる。今日の午後、県内でオスプレイ配備反対の抗議集会がおこなわれます。
また名護市では、沖縄防衛局名護事務所、今までは3名体制だったのを40名体制にするということで、改築をしようとしている。辺野古新基地建設用の事務所です。辺野古の浜の金網フェンスも強固なフェンスに建て替えられました。
海にも陸にも基地は造らせないということを、きっぱりと表明します。
環境アセスの補完としておこなわれようとしている現況調査、今年もまた先月来ました。稲嶺市長は昨年と同じように、基地を前提にした調査は受けられないということで、拒否する姿勢を表明しました。
国頭村の安波地区、高江のずっと北側にありますが、そこに普天間基地を誘致しようという動きがあります。国頭村長は、国頭村として断固反対する村民大会をもつということを表明しています。
1月、米軍属による19歳の少年轢き殺し事件にたいして、日米地位協定17条をもって公務中を名目に不起訴にした。地位協定が全く改定されず、運用でお茶を濁すことによって、このような事件・事故が頻発し続けている。今月25日には、地元の北中城村(きたなかぐすくそん)で抗議集会がおこなわれます。県民大会もひらきます。
地位協定を撤廃し、安保条約は廃棄。これを大きな目標として、運動は継続していかなければならない。基地は「移設」とか整理縮小すればいいということではなく、根本的・最終的には撤去させていくということを目指してたたかう。
軍事に頼らない、あるいは、戦争政策に巻き込まれない、拒否する、大きな平和運動をつくり出していくことが、私たちの課題です。
私達は国と対峙しながら、平和な沖縄、平和な日本を目指して頑張っていきたい。一緒にがんばりましょう。〔文責・見出しとも編集委員会〕
夏期カンパをお願いします
6・11脱原発アクションは、全国各地で画期的な成功をおさめました。原発事故は3か月を経ても「収束」のめどがたっていません。核と人類は共存できません。すべての原発の停止・廃止と同時に資本主義社会の根底的な変革をなしとげましょう。この大震災と原発事故を反省せずに延命しようとする帝国主義ブルジョアジーの支配を打倒し、協同的生産を基礎とする共産主義社会の実現のために、広範で戦闘的な大衆運動を推進しましょう。革共同再建協議会への夏期特別カンパをお願いします。
《カンパ送り先》
◎郵便振替
口座番号:00970-9-151298 加入者名:前進社関西支社
◎郵送:〒532-0002 大阪市淀川区東三国 6-23-16 前進社関西支社
4面
門真三中「君が代」処分取消裁判が山場に
起立強制は憲法違反 7月4日に証人尋問
きたる7月4日、門真三中「君が代」処分取消裁判の第11回口頭弁論が大阪地裁でひらかれる。
門真三中のたたかいは、教育基本法改悪反対闘争や東京・大阪をはじめとした「日の丸・君が代」闘争と一体となって、不屈にたたかわれている。「起立斉唱命令は合憲」との最高裁判決があいつぎ(5月30日、6月6日、6月14日)、大阪では「君が代」起立斉唱を強制する府条例が強行成立。このたたかいの渦中で、広範な反撃を組織していく一翼を担っている。
大阪府の「君が代」起立斉唱強制条例に反対する集会で発言する原告の川口さん(5月26日 大阪市内) |
裁判闘争は、7月4日の第11回口頭弁論で大きな山場を迎える。今回は、原告・川口さんと、被告・門真市への証人尋問があわせておこなわれる。
文科省・府教育委員会がこの処分にかけた狙いは明確だ。それは単なる教職員の不起立に対する処分ではなく、門真三中の教育活動そのものに対する処分だという点にある。
すなわち、生徒たちに「起立・不起立を選ぶ自由がある」ということを教えてはならない、ということである。生徒には何も考えさせず、「教師に従え」、「国家に服従する生徒を育てよ」ということなのだ。
川口証言を武器に政府・文科省のもくろみを打ち砕こう。法廷を圧倒する傍聴人の怒りで、門真市教委・府教委を追いつめていこう。
職務命令なしの処分
原告・川口さんと被告・門真市教委、大阪府教委の、双方の主張における主要な争点は次の3つである。
第一の争点は「職務命令なしの不起立処分は無効」だということだ。
5月30日、「日の丸・君が代」不起立にたいして初の最高裁判決が出された。これは、起立して「君が代」を斉唱するよう求めた校長の命令が「思想・信条の自由」を保障した憲法に違反するかどうかが争われた訴訟であったが、最高裁は「起立斉唱命令は合憲」とする初の判断を下した。この最高裁判決(第2小法廷)をかわきりに6月6日(第1小法廷)、6月14日(第3小法廷)と最高裁のすべての小法廷が「起立斉唱命令は合憲」の判断を下したのである。
これら最高裁判決は絶対に許されないものだが、門真三中においては「職務命令」は出されず、不起立しただけで処分された点が重要だ。これまで「職務命令」が出されずに不起立のみで処分された例はない。職務命令なしで処分するには、教職員に起立する法的義務がもともとあったということを立証しなければならない。
府教委は学習指導要領の「法的拘束力」だけを根拠に「教職員には自ら率先して起立し、斉唱を指導する『義務』がある」と主張した。しかし学習指導要領の文面には「入学式・卒業式などの儀式的行事においては、その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とあるだけで、起立を求めた文言などない。
また門真市教委は、「日の丸・君が代」実施の6点指示を盛り込んだ03年市教委通知に「法的拘束力」があると強弁し、「教職員に起立の義務があった」と主張している。しかし、そもそも教育にかかわって指導・助言をする権限しか持たない教育委員会が、一片の「通知」で校長の頭越しに各教職員に法的義務を課すことなど、できるはずがないのだ。
生徒の意思
第二の争点は、自由な選択として、自分の判断で着席した卒業生の意志と名誉が踏みにじられたことを明らかにすることだ。
市教委は、事態を引き起こした担任団全員の指導内容を「偏向教育だ」と問題にし、半年以上にわたって事情聴取と称して門真三中の教育そのものを攻撃した。不起立の教員は「不適切」であり、生徒は自分の意志ではなく「付和雷同」で着席したと言わんばかりだ。
思想・良心の自由
第三の争点は、起立強制は「思想・良心の自由」を侵害する点だ。
09年9月に大阪高裁で出された東豊中高校「日の丸・君が代」処分控訴審判決では、卒業式における国歌斉唱が思想・良心の自由に関わる問題であり、思想・良心の自由を侵害する可能性があることから、そこでの教員の発言が正当化される余地を認めている。
また2011年3月10日の東京「君が代」一次訴訟、控訴審判決では、「処分は無効」との一部勝訴を勝ち取っている。この判決では「生徒に対し正しい教育を行いたいなど歴史観・世界観・信条・社会生活上の信念にもとづく真摯でやむにやまれぬ行為」「日の丸・君が代について控訴人らと同様の歴史観・世界観を有するものは国民の中に少なからず存在し、控訴人らの歴史観等が独善的でない」と述べられている。
ところが、「起立斉唱命令は合憲」との最高裁判決が今年になって初めて出された。ここでも少数の反対意見や補足意見として「積極的に声を出して歌う『斉唱』の強制は、君が代に否定的な歴史観、世界観を持つ人の内心の核心部分を侵害しうる」とし、「審理を尽くさせるため高裁に差し戻すべき」という旨が示されている。
情勢いかんによって判決は変わる。起立強制は憲法違反であることを断罪する広範な大衆運動をまきおこそう。
橋下独裁うちたおそう
6月3日、橋下・大阪府知事が率いる大阪維新の会は、府議会において「君が代」起立斉唱強制条例(「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」)の採決を強行した。審議時間はたったの15分。しかもこの条例は教職員だけでなく児童生徒に対する起立強制をねらっている。
同条例第一条(目的)で「次世代を担う子どもが」「我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する」として、子どもに愛国心を植え付けることをうたっている。さらに9月議会では、教職員にたいする罰則(免職処分)を盛り込んだ条例案を出すと明言している。
橋下知事・大阪維新の会への反撃を組織しよう。「起立斉唱強制条例」による基本的人権の侵害と民主主義破壊を許さず、橋下独裁政治に対する広範な怒りを組織しよう。
東京をはじめ、不屈にたたかう全国の教育労働者と連帯し、門真三中「君が代」処分を打ち砕こう。
入学式の不起立で処分
東京都教委が1人に戒告 5月26日
都教委は、今年の入学式での「君が代」不起立を理由に、5月26日、都立特別支援学校の教員1人を戒告処分とした。
今春の卒業式処分6人に続く攻撃だ。03年10・23都教委通達以降、これにもとづく処分者はのべ437人となった。
本の紹介
『熱い港』 ―大正十年・川崎三菱大争議―
(武田芳一著、太陽出版・1979年刊)
「これは、大正10年(1921年)に神戸で起こった川崎・三菱造船所の大争議を扱った社会小説である。労働側の争議指導者の動きと、それを何とか取りしずめようとする会社側のあの手この手や、当時の官憲の動きなどが、目のあたりに見るように描かれている。・・・その悲劇の真実を、あらゆる資料を駆使して究極まで追いつめ、文学に昇華させた・・・」(1979年、新田次郎氏による出版時の推薦文)。
この本は労働運動関係者による記録や総括ではない。著者は歯科医の傍ら、同人誌に所属する文筆家であった。著者あとがきにも「私が描こうとしたのは、歴史的事件の表舞台ではない。その内側にいた人々、渦中に巻きこまれた人々の生の姿である」「大半は無自覚な未組織労働者。ごく少数の人々が、友愛会や知識人の指導を得てアクティブな精鋭となり、一般職工を起ち上がらせた。精鋭化した人々は、大争議の勝利が資本主義を崩壊させ労働者の社会を実現させるのだと本心から信じ、人生を、生命までも賭けて闘った。だが、悲惨の最大限を背負わされたのは、親や妻や子どもたちである」とのべている。
著者は労働者ではなく、もとより共産主義者ではなかろう。圧倒的な資本の攻撃、分断、篭絡、官憲の弾圧。争議中の苦しい毎日。生活と闘争資金のために「商品販売」活動に手を出すも、ほとんど失敗。『熱い港』という表題に反し、最終章は「惨敗の歌」である。読んだあと、しばらく気分が重くなる。なぜこのような記録、小説なのかという反発もあろう。
しかし、著者は構想から15年をかけ、当時まだ高齢であっても存命していた体験者30人余を探し訪ね、取材を重ねた。談話を嫌がる人や「もう、忘れたこと」という人から丹念に(というより執念といえる)聞きとり、小説という形をとって再現している。「敗北」しながらも、たたかい抜いた5万人の労働者、その家族、人間としての生の声、姿を残そうという著者の「熱い」想いを感じる。
1921年6月26日に三菱職工組合結成、30日には川崎本社工場にも組合が結成され、ついに「怠業」・大ストライキに突入。「造りかけの潜水艦、軍艦、商船などが未完成のまま繋がれ、両工場は死んだようにしずまった」。7月10日、(現在の)神戸市兵庫区の山手にある会下山公園に集まったナッパ服やカンカン帽の職工たちは、3万3千500人。前年に東京上野で開かれた第1回メーデーが5千人だから、まさに「日本開闢以来」の結集となった。
川崎三菱工場を通り、須佐野に至るデモは延々6キロに及んだという。工場前でジグザグデモ。報告会では幹部らが論争、「僕は、革命のほかに労働者階級の解放はないと思うとる。賀川(豊彦)君のようなインテリが労働者を指導するのは癪や」(川崎の労働者・伊藤友治郎)、「いまはそんな内輪げんかしてるときやない。結束して敵と対決せねばならん」(友愛会主事・久留弘三)。「工場委員制の採用、日給増額、病欠の場合日給の七割支給、団体交渉権を認めること」などの要求項目。
文章は具体的で豊富である。警察、軍隊も投入されるなかで、5万人の労働者が45日間にわたり市中を焦がした大争議。人々の意気込みと無念が活写されている。一部に差別的表記もあるが、歴史的制約と考え、そのまま紹介する。
インターネット「日本の古本屋」で購入できる。
神戸市立中央図書館、東灘、中央、北区の各図書館に在庫。カードとパスワードを取得すればネットでの借り出し可能。(俊)
5面
処分撤回まであと一歩
加古川郵便局労働委員会闘争の教訓
中労委が申立て棄却
9日、中央労働委員会第三部会は、加古川支店不当労働行為再審査事件にかんする命令書を交付した。命令は「組合員3名に対する処分は、いずれも相当な理由があり、不当労働行為に当たらない」として再審査の申立てを棄却するというものであった。
この中労委命令は明らかに不当なものであり、認めることはできない。しかしながら、08年の兵庫県労委への申立てからあしかけ4年にわたるJP労組加古川分会の労働委員会闘争は、さまざまな教訓にとむ貴重な経験であった。ここではその一端に触れることしかできないが、それが今後の郵政労働運動をになう仲間たち、とりわけJP労組の下で苦闘する仲間たちの一助になれば幸いである。
ワンフロアー化
事件の発端は、郵政民営化直前の07年9月、分会に提示された「ワンフロアー化」であった。それまで加古川局では1階に第二集配課と郵便課が、2階に第一集配課が置かれていた。これをすべて1階に集約するというのである。そうなれば、集配課の作業場が著しく狭くなる。現場の不満も大きい。
だから総務課長は窓口説明で「組合の意見も聞きながらすすめていきたい」と発言したのである。
その後の局側の提案では、「集配課の各班の作業スペース(幅4メートル×奥行き10メートル)の幅が30センチほど狭くなるだけ」ということだった。しかし組合が実際に計測すると、幅は1メートルほど狭くなり、総面積はほぼ半分となることが判明した。
ところがその年の12月になると、局側は組合との約束を無視して、「ワンフロアー化」を前提とした年末繁忙期のレイアウト変更をおこなった。
新たな案の提示を待っていた分会は、局側の一方的なやり方に、「約束がちがう」と12月22日の窓口交渉で抗議した。しかし総務課長は前言をひるがえして「そんな約束はしていない」と突っぱねた。窓口は決裂した。
処分攻撃の始まり
この窓口決裂の直後からU加古川支店長(当時)による分会や支部の役員4人への、明らかに処分をねらった挑発行為が立て続けにおこなわれた。
翌08年に入ると、分会機関紙『躍動』が当局の姿勢を批判したことを、「支店長への誹謗・中傷」と決めつけ、「今後も支店および支店長批判を続けるなら、組合事務所の貸与を取り止める」と「最後通告」をしてきた。これによって分会は『躍動』の組合掲示板掲出は断念せざるを得なくなった。
労働委員会闘争を決断
5月に入ると分会役員らへの処分が発令されはじめた。なかでも当時安全衛生委員のT氏は、戒告という重処分であった。08年1月15日、U支店長は、T氏と口論となったさいに、「Tが右手拳を振り上げ支店長を威嚇した」とでっち上げたのである。
この不当な処分の発令を受けて、E分会長(当時)は労働委員会への申立てを分会に提起した。しかし分会内の討論では労働委員会闘争に取り組むことについて賛否が分かれ、なかなか結論が出なかった。
10月、やむなくE分会長は個人の資格による申立てをおこなった。兵庫県労働委員会への申立ての内容は『躍動』への禁圧と3人の役員への処分とが、ともに組合弱体化を目的とした不当労働行為にあたるとするものだった。これは郵便事業会社を相手どった全国初の申立てとなった。
県労委闘争は、E分会長の「孤立」した闘いとしてはじまった。しかし、「労働組合としての筋をとおす」たたかいは、分会の中から協力者を生み出していった。
県労委の審問ではR分会書記長が正窓委員として、当局の不当労働行為を断罪する証言を行なった。「JR尼崎事故は労働組合が会社の言いなりになったときの恐ろしさを示した。労働組合は組合員の立場を貫かねばならない」との証言は聞くものに深い感銘を与えた。
支部・分会あげた闘いへ
09年12月、兵庫県労働委は『躍動』禁圧を不当労働行為とする命令を出した。労働組合の教宣活動を当局の不当な干渉から守った画期的命令であった。しかし3人への処分は当局の主張を丸呑みしたものであった。
3人の処分撤回を求める中労委闘争は、県労委の実質的な勝利命令をうけて、JP労組はりま東支部と加古川分会をあげての取り組みとなった。県労委での勝利が、分会全体の決起を実現したのだ。JP労組下でも十分たたかえることが実証されたのである。
10年9月の中労委の審問では、N副支部長が証言台にたった。それに向けて分会の決起集会、カンパの取組み、300名を超えるT氏処分撤回を要求する署名、責任傍聴の派遣、そして報告集会がもたれた。N氏は証言台で「Tさんのぬれぎぬをやっとはらすことができて感無量だ。7月のJPEXの大混乱の責任は労働組合にもあり、しっかりチェック機能を果たせる労働組合を作っていかねばならない」と述べた。
こうした闘いの高揚に押され、支社側の弁護士も、一時はT氏の処分撤回の和解を口にする程だった。
支店の不手際は明らか
中労委命令の主文は「申立て棄却」だが、その内容を検討すると、N氏処分、T氏処分では、処分撤回の一歩手前まで追い込んでいたことがわかる。
まずN氏の処分について。事件の概要は次のようなものである。
07年の大晦日、当局は当初超勤3時間発令を行なったが、夕方になってあわててもう1時間の超勤を追加発令した。組合への説明もなく追加発令をしたことに当時副支部長だったN氏は追加1時間の超勤を断った。これに対し、U支店長は組合との協約を無視して、超勤拒否を理由にN氏に訓戒処分を発令した。
中労委命令は、N氏への追加超勤への協力要請がなかったことについて「支店の対応に配慮が欠けていた事は否めない」、また追加超勤が勤務終了間際となったことについても「業務上の対応の不手際があったとされてもやむを得ない」と判断した。
しかし、追加発令で4時間前協約が守られなかった事については「4時間前発令」は協約上の「原則」に過ぎないとし、原則に逸脱したときでも支店が組合に協力要請を行なうとの明文の規定はなかった、とした。またN氏の超勤拒否事由についても、「(4)その他本人に重要と認められる事由のあるとき」には該当しないとしている。
この判断は明らかに不当である。当局側が配慮に欠け、不手際も重なったなら、当然にも処分は撤回されるべきであろう。
T氏の名誉を回復
T氏処分の件では、中労委が安全衛生委員会としてのT氏の活動を認定し、U支店長との口論も「業務の遂行が困難なほど狭隘な職場の現状は安全衛生委員会である自らの問題であると考えた」がゆえのこととしている。
そして「判断」部分では「U支店長及びT第二集配課長の供述は、仮にTがU支店長に対して右手拳を振り上げる行為に及んだとすれば、その経緯につき具体性、迫真性を欠いており、採用することはできない。…したがってTがU支店長に右手拳を振り上げて威嚇する行為があったとは認められない」(24ページ)。また「殴りかかれるものなら殴ってこい」とのU支店長の挑発発言については「このようなU支店長の態度は、支店の責任ある地位にある者として適切さを欠く面がないとは言えない」(同)と述べている。
中労委は、T氏に対する唯一の処分理由である「右手拳を振り上げ」の事実がないことを認めたのである。
そうであるなら、T氏への戒告処分は当然撤回されるべきだ。ところが、中労委命令は、U支店長と言い争ったことは粗暴なふるまいであり、職場秩序を乱したものとして「なんらかの懲戒処分が行なわれることはやむを得ないというべきである」というのだ。当局の破たんした処分を中労委がとりつくろうとは、一体何ごとであろうか。
労働組合の原則貫き
いずれにせよ加古川分会の中労委闘争はT氏の名誉を回復し、「処分撤回」の一歩手前まで進んだ。だがこの「あと一歩」は簡単ではない。今月、県労委で証言したR分会書記長に対して、他支部への強制配転攻撃がおこなわれた。加古川労働委闘争の地平をめぐる攻防は新たな局面にはいった。
JP労組は春闘の一時金交渉で3・0カ月の回答を飲んだ。会社側は早くも来年も3・0カ月を既成事実化しようとしている。期間雇用社員の賃上げも頑なに拒否している。まさに労働組合の鼎(かなえ)の軽重が問われているのだ。
闘うべき時に闘わない労働組合は現場組合員から見限られていくであろう。「あと一歩」の突破は、JP労組を内側から食い破っていく闘いと一体である。加古川労働委員会闘争は、労働組合の原則を貫くたたかいこそが、幾多の困難を乗りこえ、分会あげての運動に発展する可能性を示した。いまこそJP労組下でのこの教訓を生かしていきたい。(柄本 勲)
コンピュータ監視法
立強行を弾劾する 6月17日
コンピュータ監視法(情報処理の高度化等に対処するための刑法等の一部を改正する法律案)は、衆院で可決されていた(本紙前号既報)が、16日に参院法務委員会で、17日に参院本会議で採決され、可決・成立させられた。
過去3度も共謀罪が廃案に追い込まれたことを“総括”した政府・法務省は、報道規制をしき、こうした法案が審議されていること自体がほとんど報じられなかった。しかし“コンピューター犯罪の取締のために規制は必要”といった空気を跳ね返すねばり強い運動が進められてきた。
東京では、6月1日には院内集会が。参院法務委員会がひらかれた9・14・16日、参院本会議の17日には、国会前行動が取り組まれた。
関西でも、6日に関西救援連絡センターの主催で、「コンピュータ監視法を許すな!関西集会PartU〜共謀罪法案の復活を許さない〜」が70人の参加で開催された。
この集会で、講師の小倉利丸さん(富山大教員)が指摘した問題点は、次のとおり(一部)。
「共謀罪」に道ひらく
最大の問題は、「ウイルス(とみなされるソフト)」をつくっただけで犯罪とされること。治安政策全体が、「安全・安心」をキーワードに、「犯罪の予防」にシフトしてきている。実行・実害がなくても、犯罪として取り締まる。
そのためには、当然(ウイルスなどの)作成過程も監視する必要が生じる。今回のコンピュータ監視法には、そうした網羅的な監視ということが含意されている。次は、間違いなく「共謀罪」が出てくる。「犯罪」の相談をしただけで逮捕になる。
そのほかにも、ネットで接続したコンピューターをすべて捜索差押の対象とすることにより、場所を特定した令状が形骸化するといった問題をはじめ、様々な問題がある。野放図な権力行使に歯止めをかける、新たな闘いが必要。
争議弾圧の悪法も
あわせて成立した強制執行妨害罪の重罰化等は、労働組合の倒産争議の手段を、のきなみ弾圧するものだ。こうした治安弾圧法が、震災のドサクサでろくな審議もされずに通されている。
自民党は、あくまで共謀罪の新設を唱えている。原発を止める闘い、非正規雇用労働者の生存権を求める闘いなど、これまでにない闘いの前進の中で、治安弾圧法・共謀罪を絶対に阻止しよう。
6面
投稿 相馬市の友人をたずねて もりや・きみこ
今回の東日本大震災、本当に日本中が大きな悲しみに包まれました。
福島県相馬市に住む私の友人、旅館経営のご夫婦も津波の被害を受けました。鉄骨3階建ての旅館は無残にも鉄骨が残るだけ。
がれきの山
現地を震災2か月後の5月11日に訪れました。新幹線で福島まで行き、栃木の知人の車で2時間かけて相馬市に向かいました。途中の景色は何も変わらず。しかし、近くになると様相が一変。辺り一面はがれきの山、車が何台も仰向けや横転状態で転がっています。
2か月間の避難所生活からやっと抜け出し、仮設暮らしが始まったご夫婦とは10か月ぶりの対面でした。やはり、かなり痩せておられました。 精神的なご苦労と、津波から逃げのびる心を思うと、笑顔で迎えて下さったことに感動しました。阪神大震災で多くを失った私も、同じでした。 会う人ごとに努めて明るく振る舞いましたから。
地震では無事
鉄骨建ての旅館は、地震では倒れず無事だったそうです。揺れの後、奥さんは地震の大きさに津波が来ると感じ、ご主人と「とにかく逃げよう」と決めました。ご主人は通帳と印鑑、彼女はお位牌4個と携帯を握りしめ、車で高台の町役場をめざし逃げ出しました。
まず息子さんの職場に向かいましたが、途中で思い直し、高台へ逃げたそうです。そ
被災した友人の旅館 (福島県相馬市 5月11日撮影) |
夜中の悲鳴
避難所での生活で一番辛かったのが、夜中の悲鳴、声だったそうです。「お母さん、手を離さないで…」「きみちゃん、どこに居るの…」「苦しいよ〜助けて…」。そういう声が、何人もから聞こえたそうで、辛くてみんな耐えて聞いていたとか。
しかし、辛い中にもいい話も聞けました。あんまり優しくなかった息子さんが優しくなり、「結婚するよ」そう言い出されたそうです。自分を命がけで助けに来てくれた両親を見て、親の愛を感じられたのかも知れませんね。息子さんは、二世帯住宅を新築するために頑張るそうです。「災い転じて」・・・その話には、私までもが幸せな気持ちになりました。
放射線管理手帳を
たくさんの命を奪った今度の災害。福島は原発という恐ろしい問題を抱えています。相馬市の、その場所は原発から50キロ地点ですが、洗濯物も外に干し、みなさんマスクもかけないで大丈夫と、町を歩いています。「ここは大丈夫」。みなさんが、そう思い込んで暮らされているのを感じました。国や行政の説明を信じて生活されています。本当なのか。それが心配です。
これから必要なこと。それは放射線管理手帳を被災者全員に配ることです。定期的に被曝数値を記載し、保存する必要があります。これから数年後、数10年後に放射能が原因で発病した場合、訴訟の問題もあります。その時に必要なのが「手帳」です。私たちの仲間でも、この問題に早急にとりくみたいと思います。
被災地では、悲しいことに自殺される方もおられます。いま、心を新たに被災地支援を広い角度からとりくまなければ、と思って帰ってきました。
在韓被爆者の医療費裁判
6月1日 大阪地裁に提訴
被爆者援護法に基づく医療費支給の申請を大阪府が却下したのは違法として、韓国在住の被爆者ら3人が、府と国を相手取り、却下処分の取り消しと国家賠償を求めて6月1日、大阪地裁に提訴した。
この提訴の報告集会が、当日の夜、大阪市内で開催された。主催は、韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下「市民の会」)。
孫振斗(ソンジンドウ)さんの闘い
在韓被爆者が被った差別との闘いは、1970年代の孫振斗さんの「手帳裁判」の闘いにより、1978年の最高裁勝訴で、在韓被爆者も日本に来れば手帳交付を受け、被爆者法(当時は原爆医療法と原爆特別措置法)の適用を受けられるようになるが、国は1974年の「402号通達」により、韓国に帰れば手帳も手当も無効とした。
1998年に在韓被爆者の郭貴勲(カクキフン)さんが、402号通達の違法性を訴えて大阪地裁に提訴し、控訴審でも勝利して、健康管理手当の支給認定を受けた被爆者が出国しても手当の支給を受けることができるようになった。
新 手帳裁判
しかし国は、在外被爆者による「国外からの被爆者健康手帳の交付申請」は認めてこなかった。これも2006年の「新手帳裁判」の提訴とその勝利により、国外からの手帳申請と手当の受給が可能になった。
そして違法な402号通達により長年差別的取り扱いを受けてきたことへの慰謝料を求めての国家賠償訴訟を、2008年に集団提訴。2011年初めまでに約2400人の在韓被爆者が和解金を受け取っている。
在外被爆者の医療費問題
現在も遺族の慰謝料裁判の和解協議が継続しているが、そのうえで未解決の被爆者援護法(1994年制定)上の不平等問題がある。日本国内在住者とちがい、在外被爆者には医療費支給がなされず、支援事業として一人当たり上限年間16万5千円までの医療費が支給されている。この医療費支給の格差は、残された最後の課題と言われる。医療費の自己負担増に苦しむ3人の在韓被爆者とその遺族が今回の提訴に踏み切った。
集会には韓国から郭貴勲さんが参加。郭さんの大阪地裁での勝訴が2001年の6月1日であり、勝訴10周年記念集会としても、もたれた。
はじめに「市民の会」大阪支部長の重さんからあいさつ。次に「市民の会」代表の市場さんが、訪韓ビデオを上映しながら原告の3人の方を紹介し、在韓被爆者の被った差別との闘いの歴史を説明した。さらに永嶋弁護士から裁判の説明。そのあと郭貴勲さんからあいさつ。さらに今回の裁判の弁護団の紹介等があり、約70人の参加で、盛況のうちに集会を終えた。
金稔万さん 本名(民族名)損害賠償請求裁判
本名を名乗れる社会をもとめて
5月12日に大阪地方裁判所で公判が行われました。この裁判は、金稔万さん(在日コリアン2世)が本名(民族名)で日雇いとして働いていた梅田阪急百貨店の解体工事の現場において、突然「通名(日本名)」を強制されたという「事件」に対する損害賠償請求です。
原告の金さんが昨年5月24日に日本国政府ならびに大林組とその下請けの三者を提訴してから、一年が経とうとしていました。
「在日朝鮮人は通名を名乗るのが当たり前ではないのか」と思われている風潮があります。「本名を名乗るということが、いかに困難で勇気のいることか」ということを証明していくには、100年以上もっと以前からの歴史を語らなくてはいけません。創氏改名を強制されてきたこと、そして今でもなぜ通名を名乗らざるを得ないのかという、人の心の奥深くにまで及ぶことになります。本名の人、通名の人、在日コリアンが自分の名前を名乗るたびに今でも心に抱く恐怖、葛藤があると思います。
その気持ちは、日本人である私たちには計り知れません。本名を名乗りたくても名乗れない、朝鮮人であることを隠すために通名を名乗らざるを得なかった、その苦しみの背後に存在する永く陰湿な歴史と、今も続く差別の実態を知らずして「通名を名乗るのが当たり前」と思わせていることは断じて許されないことです。
これほどの永きに渡って、人を苦しめ続けるようなことは、世界中のどこにもない。そして、戦後66年も経った今でも目の前で起こっている。これは、侵略戦争の罪悪を認めず、謝罪せず、すべての補償をしていない、排除しようとする日本国政府の責任であり、問題意識を持っていない日本人の問題でもあります。
そんな、日本国政府への抵抗としてこの裁判を金稔万さんと支援者の皆さんと共に闘います。傍聴に来てください。
次回、第7回口頭弁論
6月30日(木)11時 (どなたでも傍聴いた だけます)
場所:大阪地方裁判所 510号法廷 10時〜10時45分の間に傍聴券が配布されます。
ブログ 「イルムから― 当たり前に本名が名乗れる社会を求めて」
(投稿 小島衣里)