すべての原発を停止へ
全国各地で「原発とめろ」デモ 7日
渋谷のど真ん中を1万5千人がデモ 東京
”さよなら原子力発電”(7日 都内・代々木公園) |
7日午後2時、代々木公園のケヤキ並木は、人で埋めつくされた。先月10日の高円寺1万5千人デモで中心となった若者たちが呼びかけた、第2弾の「原発やめろデモ」。
若者が多いが、幅広い年齢層が集まった。1時間の集会の前半は、さまざまな団体・個人の発言。後半はバンド演奏。
冒頭、主催者を代表して発言した「素人の乱」の若者は、「こんなあぶない事故おこして、これで原発が残ったらたまったもんじゃない。絶対何かしなくちゃいけないと、デモを呼びかけた」「あぶない、オソロシイ。それだけ。原発いらない。一刻も早く止めて、それで、どうしていくか考えていこう」「菅首相は浜岡原発を止めると、ついに言った。この勢いで、全部の原発止めるまで、みんなで騒ぎ続けよう」と呼びかけた。
発言は、環境・原発などに取り組む団体、福島瑞穂社民党党首、原発事故後に素直な心情を発信して話題になったタレント・歌手の藤波心さんなど。演奏では、それぞれのバンドが思いをこめて発言・演奏。有名バンドのメンバーは「力をあわせて、それを全国に拡げて、今こそ本当の民主主義をみんなでゲットしよう」「オレたちの気持ちはみんな同じはず。だから、声をあげよう。みんなで声をあげれば、絶対いけるはず」と呼びかけ、故・忌野清志郎さんが替え歌を作詞した反原発ソング「サマータイム・ブルース」を熱唱した。
サウンドカーを先頭に
デモは、渋谷のど真ん中をグルリと回った。最後の隊列が出発したのは、先頭が出てから1時間半後。各隊列の先頭には、バンドがたつ。荷台に音響機材を積み込んだサウンドカーが何台も。
大音量の音楽で、ノリのいいサウンドデモ。途中、思い思いにコールでアピール。参加者はそれぞれ趣向を凝らしたプラカードを掲げている。渋谷の街は「原発とめろ!」の熱い空気で満たされた。
デモを分断、4人逮捕
警視庁はデモ隊をいくつにも分断したうえ、サウンドカーに弾圧を集中。4人の身柄を拘束し、うち2人を「公務執行妨害」「傷害」をでっちあげて逮捕した。抗議を集中し、とりもどそう。
脱原発!! 大阪・ミナミに1000人 大阪
”原発とめろ、廃炉にしろ”(7日 大阪市内) |
7日、大阪市内でもサウンドデモがおこなわれた。主催は5・7大阪脱原発デモ実行委員会。
デモに出る前に、主催者を代表してあいさつした青年は「大阪のメシはうまい。なぜか。それは、まずければ大阪人は文句を言うから。いろいろ言われて、大阪の味はおいしくなったのだと思う。原発も同じ。黙っていたら何も変わらない。いまこそ声をあげよう。大声で騒ごう」とよびかけた。
ただちにデモに出発。アメリカ村、心斎橋、御堂筋へとナンバ界隈を、サウンドカーを先頭に1000人がねり歩き、「原発を止めろ。廃炉にしろ」「関西の原発も危ない。浜岡につづけ」と訴えた。
「子どもたちを守って」 いわき市長に申し入れ
1日に、いわき市在住の若いお母さんたちが、メールなどで連絡を取り合い、「いわきアクション! ママの会」を立ち上げ、行動をはじめた。
13日午後には、いわき市長への申し入れをおこなった。赤ちゃんを抱いた人など20人をこえるお母さんたちと市民が参加、市長の代理として出席したいわき市危機管理監にたいして、要望書を読み上げた。そして「放射線のモニタリングをなぜやらないの」「子どもを安心して育てられるように取り組んで」など、切実な訴えがなされた。〔2面に関連記事〕
赤ちゃんを抱いて市長に申し入れ(13日 いわき市) |
いわきアクション!ママの会 要望書(要約)
いわき市長 渡辺敬夫殿
東京電力福島第一原子力発電所の事故による環境の汚染から大切な子供たちの健康を守るため、いわき市行政による子供たちへの手厚い対応を要望いたします。
@福島第一原子力発電所敷地内での事故処理のための無断のドライ及びウエットベントの禁止。ベント(※排気=引用者注)の6時間前には必ず学校、幼稚園、保育所、児童施設に連絡をすることを東京電力に厳しく申し入れること
A学校、幼稚園、保育所、児童施設、それぞれに1台のガイガーカウンターの設置
B子供の放射線許容量を非常事態の年間20ミリシーベルトではなく、平常時あるいはWHOの規定を参考にいわき市独自の規定を
C各施設でのヨウ素剤の備えを
D給食で使用する水および材料の産地と放射線量の情報の公開を
E登下校時の安全のための服装の徹底の呼びかけを
Fプール、運動会など季節ごとの行事への細かい注意と配慮を促し、校庭の土の入れ替え、施設の外壁の洗浄などの準備を
G通学路の下水道泥水の線量チェックと、高い線量の泥水の除去
H国立がんセンター提案の放射線量測定バッジを子供たちに配布
I0.6マイクロシーベルト以上の児童施設については閉鎖し、学童疎開の実行を
私たちは、いわき市内在住の未成年の子供たちを持つ母として、今回の事故による環境汚染に大きな悲しみを感じています。(中略)この先、何年もの長きにわたって、この状況が続くことを思うと、その中で成長する子供たちの健康が心配でなりません。親として子供たちの心身の行く末に誠実に向きあい、ほんの少しでも良い方向に進んでいけるよう努力いたします。そのような環境、状況の中、保護者のいない場所でも子供たちが安心して活動できますよう、いわき市行政の手厚い対応をお願いいたします。
2011年5月13日 いわきアクション!ママの会
6・11「100万人アクション」を成功させよう
福島原発事故が発生してから3ヶ月目の6月11日に、「脱原発を求める100万人アクション」が行われる。
この行動を呼びかけているのは、4月10日の高円寺デモ、4月24日の代々木公園のパレードと芝公園のデモを主催した人々や、3月11日以降に立ち上がった「脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会」(略称・eシフト、http://e-shift.org/)と「福島事故緊急会議」(略称・緊急会議、http://2011shinsai.info/node/125)などである。
福島原発事故には世界の人びとも注目していることから、世界各国にも行動が呼びかけられている。すでにフランスでは6・11デモの準備を開始している。6・11「100万人アクション」を成功させ、すべての原発の運転を停止させよう。
左記のサイトで「脱原発100万人アクション」に賛同することができる。
http://nonukes.jp/wordpress/(6・11脱原発100万人アクション)
2面
いわき市 『四重苦』の原発30q圏
いわき市は東北第二の都市。人口34万1402人。就労人口17万5300人。1966年14市町村が合併してできた市。かっては常磐炭鉱があり労働運動も活発だった。映画「フラガール」の舞台となったスパリゾートハワイアンズ(常磐興産が経営)が有名。いわき市の震災被害は死者301人。行方不明者は調査中。被害住宅1万6千棟(5月11日現在)。原発30q圏内にかかることで取り残され、瓦礫撤去は、4月12日になって始まった。 |
東日本大震災から2ヶ月近くとなる連休中、関西合同労組の仲間たちと短期間であったが被災地支援の取組みをおこなった。「地震、津波、原発事故、風評の“四重被害”に苦しむ、一部が30km圏にかかる」「忘れられた被災地」(東京新聞)福島県いわき市を訪問した。阪神大震災時の支援へのお礼の意思をもって、現地の現実を知り、今後の支援をおこなうため。ガイガーカウンターを持参し、放射線測定もおこないながら行動した。(労働者通信員 K)
放射能汚染で農園閉鎖
3日、地元で「障害者」の就労支援事業の運営にかかわっている被災者Aさんの案内で、作業所である農園を訪れた。ここでは、ぶどうなどの果樹栽培がおこなわれ、将来はワイン製造やオリーブ栽培も構想していた。利用者20人の仕事場作りに夢がふくらんだ矢先の大震災。原発事故への恐怖から、外での作業ができなくなったり、症状が悪化している利用者もでているという。
いわき市に隣接する広野町にあるもうひとつの農園は、福島第一原発から20q圏内ということで閉鎖され、10人余の利用者は仕事場をなくした。新たに弁当事業への挑戦を開始したという。
原発40q圏内で活動のBさんたち
活発な救援活動をおこなう市内中心部のキリスト教会を訪問し、責任者のBさん(新潟、スマトラ、ハリケーン・カトリーナなど災害救援を経験)の話を聞いた。「原発40q圏内活動中」のこの教会は、ボランティア活動と物資集配の拠点になっている。世界各国と全国から、若者を中心に多くの人々が集い、連休中、最高時は百人に達し、屋上にテントも張られていた。
彼は語る。「復興はまず遺体の捜索、瓦礫の撤去、港や堤防の修復、そして復興・まちづくりという過程だが、瓦礫の撤去がやっと始まったところ。原発問題が厳しい。人が戻ってきたいと思う街を、どうつくっていくか。産業と雇用の創出が必要。社会福祉と建築をベースに農業再建を考えている。農民の自殺を契機にNPO立上げを決断した。人を大事にする魅力的なコミュニティーづくりが目標。その長期的な答えの出ない日々を乗り越えるために、重要なのが心のケア」と。
政治家を含め、様々な人々が災害への対応を学びにここを訪れるという。原発を抱える市からも議員が訪れていた。
寄り添い続ける活動
Bさんの話はつづく。「震災直後の1週間、いわきはゴーストタウンと化した。NPO、NGO、医療福祉関係者、民生委員などが皆いなくなった。行政も機能停止。外から支援物資は送られてくるが、配る者がいなくて山積み。残った者がやるしかない。自らトラックを調達し、原発20q圏内にも運んで行った。コンパスで引いた線で避難区域を決めたことが大混乱の原因にもなった。被災者の声を傾聴し、市民の葛藤に寄り添い、お手伝いしてきた。全ての避難所に入り、物資配布、子ども達の相手、足湯と傾聴ケミストリー、炊き出し、そして瓦礫撤去など。いかに一人一人のニーズにすばやく応えられるか。住民の声こそ最も大切な発信源。避難所格差がでてきている。政治・行政は頼りにならない。具体的に提言し、やらせていく。外からの支援が引いた時、自立できる地元のリーダーシップを立てる。(双葉郡)広野町〜南相馬市までが全く手付かず。区長会議にも出て水産加工業の人と連携とってきた。原発問題がネックだ」
「時間が止まっている」
津波被害が生々しい (3日 いわき市・久之浜) |
防風林が大津波被害をくい止めた現場をみる。従業員を全員解雇(百人近い?)して閉鎖された「ホテル蟹洗」。JR常磐線車両が停車中の現場。
久之浜を訪問。震災直後の焼け野原が手つかずの状態で残っている。「ここだけ時間が止まっているみたいだ」(地元の方)。軒並み崩れた家屋、ひしゃげた換気塔だけ残し無残にこわれた水産加工工場。石柱だけを残してあとはない。「撤去してください」の文字の入った蔵や建物。「母がつくった庭なのでつぶさないで下さい」のたて看板に、地区を襲った津波の恐怖を思う。原発30q圏の内と外とに分断された久之浜地区5800人のうち、7割が県外に。1.5割が避
家があったところに看板が(3日 いわき市・久之浜) |
4日、私たち一行は、瓦礫の片付け、物資集配の手伝いなど、ボランティア活動に参加。瓦礫片付けは70歳の方の家。倒れた木の伐採や、土台が残った家の土砂出しをした。申し出の数件をこなした。こういう細かい対応が遅れているのが現状。余震で再度の被害にあい、立ち上がれないところにも出向いた。
「母親たちの反原発に希望」
地元紙編集長Cさん(元地方紙記者)から話を伺う。「まだ混乱は続いている。合併による行政の問題が出てきている。スパリゾートハワイアンズは契約社員の500人近くの雇用を打ちきり。労働運動は沈没。瓦礫の処理に30年かかるとも言われている。防災計画をもたなかった市。放射能モニタリングポイントもなかった。いま四重の被災にあっている。表面は日常という人でも傷が深い。原発問題はぬぐい去れない。やっと原発問題でお母さんたちが動き出した。ここに期待している。いわきの新しい運動」「既存のリーダーと違う運動が必要」という。「この中から新たな自治が生まれれば…」と希望を語っていたのが印象的。
工場地帯である小名浜地区へ。津波で閉鎖された環境水族館「アクアマリンふくしま」。信号も停止中。福島臨海鉄道は砂と瓦礫でおおわれ、レールは塩で赤錆。信号機も波で捻じ曲がっている。近くで片付けをしていた鉄くず会社の経営者は、「コンテナが家を襲った。原発がおさまらないと、どうにもならない」と話はつきない。
炊き出しに涙の交歓
5日、Aさんたちの真新しい弁当作業所を訪問。今後の発展を願う。
午後から、津波被害の大きい小名浜地区住民の避難所である、体育館でのボランティア活動に参加。衣服など物資配布、足湯・傾聴ケミストリーと炊き出しなどをおこなった。足湯ではカナダや韓国からの支援者と避難者との会話がはずむ。
おでんや野菜など和食の炊き出しに「こんな食事は被災以来はじめて」「一緒に食べて欲しい」の要望。別れ際には避難者と抱き合う組も。辛く、行き場のない被災生活、先が見えない原発被害の恐怖、深く傷ついている人々へのささやかな手助けとなっただろうか。
混雑するハローワーク ― 「何が特例か!」
6日未明、震度5弱の余震が襲った。大きな横揺れがしばらく続く。日常的に余震にさらされている人々の恐怖と不安はいかばかりか。
午前中、行政機関を訪問。平ハローワークはごった返していた。阪神大震災の時、多くの雇用保険未加入者の遡及加入と支給を闘いとってきたが、この震災ではどうか。
担当職員に尋ねると、同様の措置はとられており、申請数は多いとのこと。が、案内チラシは担当者の机にしかなく、広報は行き届いていなかった。「職業訓練を受けながら生活費支給(10万〜)を受けられます」の案内が目立つ。
今回、無給休業中に雇用保険を受給できるという雇用保険の特例措置が出されていたが、「これを受けたら、過去の被保険者期間がすべて消えてしまう。なにが特例だ、2ヶ月分もらったが現金を返したよ」(後述の原発労働者)。これが現実だ。
労基署監督官は「これから失業が大規模になるだろう。多くの事業所が流失した。破産・事業休止扱いにして、立替払いについても対応したい」と説明していた。しかし阪神大震災で経験したが、労働組合による取組みなしに、それは実現しないと強く感じた。
文化センターには、市災害対策本部雇用・労働窓口が設置されていたが、相談者は誰もいなかった。窓口の存在が被災者に届いているのだろうか。
広野町・楢葉町へ
国道6号線を北上し、いわき市に隣接する双葉郡広野町に入った。福島第一原発から23q地点の国道沿いに民宿レストランがある。ここは原発や近くの火力発電所工事関係労働者の宿舎となっていた。駐車場敷地にも「○○建設」と書いた宿泊用コンテナが多数並ぶ。車輌の多くは他府県ナンバー。「東京電力協力―清水建設」等と書かれている。人影は無い。全国から集められた下請・日雇労働者が今、被曝労働を強いられているのだ。〈ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ〉の現実がここで進行している。
さらに北へ向かい楢葉町に入った。Jヴィレッジ(トレーニングセンター・スポーツ施設)が福島第一原発対策の資材、車両、労働者の基地となっていた。20q圏内に入る関係者は、すべてここで車両を乗り換え、原発に向う。自衛隊、警備員、労働者など多数が防護服で動いている。作業に使ったものをビニール袋に入れて、施設に出入りしているのが見える。放射能汚染物だろう。
福島第一原発はツギハギ
今回の震災がおこるまで第一原発で10数年間働いてきたという労働者と、近くで遭遇した。57才の彼は、双葉町の農家で、今は埼玉県に避難中。「福島第二原発で働かないか、と呼び出された」「第一原発の中は、今回の事故以前からボロボロの状態。20ミリ厚の蒸気管は、5ミリに減肉している。それをつぎはぎしている」「非常用ディーゼルだって、定期点検の時に、30分もチェックしてない。使うことはないという前提でやってきた」と。「ベントを開けたことで、核生成物は双葉(郡)に飛び散ってる。これがヨウ素より怖い、もう終わりだよ。魚沼に次ぐ米どころの双葉が」とやりきれない怒りの声。
JR広野駅(閉鎖、不通。電車は線路上で停止中)、高萩地区(田んぼが壊滅、道路破壊、地区破壊、寺、神社の建物がない、石柱だけ)を見て、いわき市沿岸部の深刻さをさらに実感した。
現地で支援の継続を
福島県いわき市とその近辺という被災地の一部を数日間の訪問だったが、今回の被害の大きさ、深刻さにふれた。われわれが生きてきた戦後社会のあり方全体が問われている。
ノーモア・ヒロシマ・ナガサキとして出発した戦後。それが国家と電力資本が地震列島日本(注)に54基もの原発(=核発電)を作ることを許してしまった。この結果が3・11(死者・行方不明2万4834名、避難11万5098人警察庁まとめ5・11現在)だった。
これをいま見つめ直し、この救援・支援・連帯の共同の取組みから、新たな人間のあり方をつくりだそう。恒常的支援を続け、いま現地に身をおき闘う人々に学ぼう。若者たちの反原発決起に勝利を、との思いを深くした。
注:日本は国土面積で世界の0.25%だが、世界中で発生するM6以上の地震のうち20.5%が日本で発生しているという。
「新たな被ばく者にされている」
郡山メーデーに参加して
発言する石丸さん(14日 郡山市内) |
14日、郡山教組会館でおこなわれた第82回郡山メーデーに参加した。福島県郡山市は、県内でも放射線量が高い地域で、市民は強い危機感を持っている。マスクをしないで歩いていたら、集会参加者から「危ないよ」と注意を受けた。
集会では、双葉地方原発反対同盟代表の石丸小四郎さんと若い母親の発言が強く印象に残った。
いずれも、原発とそれを推進してきた者への激しい怒りと悔しい思いが語られた。若い母親は、「子どもの命を守るために、逃げたいが逃げられない」というつらさ、不安、葛藤を切々と訴えた。
行政はほとんど文科省の言いなりで、子どもを放置する態度をとっている。教組などが校庭の表土の入れ替えを要求し、一部実現しているが、はがした表土を処理する場所がない。また公園の線量も高いが、手つかずの状態だ。だから子どもだけでも集団疎開させたいという思いが強い。
郡山の人々の「私たちは新たな被ばく者にされている」という憤りを、全国の人が共有する必要を痛感した。(O)
私たち怒ってます さよなら原発パレード いわき市
震災後、はじめてのパレード(15日 いわき市内) |
15日、いわき市内で「さよなら原発 in Iwaki,
FUKUSIMA 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」が開催された。参加者はおよそ500人。市の中心部にある平公園で集会をおこない、いわき駅まで1時間のパレードをおこなった。
主催したのは「いわきアクション! ママの会」と「NO NUKES MORE HEARTS」。福島県下では、地震発生いらいはじめての街頭行動である。
「ママの会」代表・鈴木さんは「福島にある10基の原発を、すべて廃炉にして」と訴えた。
3面
「国の屋内退避指示は間違い」
福島県南相馬市 桜井勝延市長
南相馬市は、警戒区域(原発から20q圏内)、計画的避難区域、緊急時避難準備区域(同20〜30q)、その外側の区域の4つに、市が分断されている。今月10日、東日本大震災緊急支援市民会議(江田忠雄・共同代表)のメンバー7人が第7次の支援活動を行い、南相馬市役所を訪問した。そこで桜井勝延市長から現況について貴重な話を伺った。〔文責本紙編集委員会〕
桜井市長 (10日 南相馬市役所) |
――避難された人たちで、地元に戻っておられる方もいるようです
当初は、みんな不安だったからできるだけ遠くへ逃げようという感じでした。でも時間がたつにつれて、地元のことが気になってくるし、自分のところに戻りたいという意識が強くなってきます。
――現時点で市長から要望されることは
政府に対してもボランティアの皆さんに対しても同じなのですが、基本的に住民が主体となって復興できるように支援してほしいと思います。それはどこの自治体でも同じです。
――民間のボランティアの活動状況は
最初は全然きませんでした。最初の3週間くらいはゼロに近い数字だったですね。ただ災害援助協定を結んでいた杉並区からは、区長はじめ職員のみなさんたちや民間の人たちもきてくれましたが、一般のボランティアの人たちはなかなか入りづらかったようです。
――私たちも現場に入り、少しずつ状況がわかってきたところです
そもそも国が原子力防災計画を作ってはいけないと指導していましたから、自治体 は原子力災害に対するノウハウをまったく持っていませんでした。ですから援助を受け入れる態勢もありませんでした。最初は次々と起きる現象への対応に追われているだけでした。
それに全力で当たってきた職員たちも疲れてきています。疲れの最大の要因は原発不安です。「ここで働きつづけて大丈夫か」「若い職員をいち早く避難させなければならないのでは」というような不安です。
――昨日、東電の社長がこちらに来ました
なにも、となりの自治体のことを悪くいう訳ではありませんが、わたしたちは(原発立地自治体ではないので)原発でお金をもらってきたわけでも何でもないんですよ。被害だけを受けているんです。ですから復興についても、今後のことについても、東電の責任ですべてやっていただきますと強く申し上げました。
――緊急時避難準備区域が設定されました
これは政府の出した屋内退避指示に問題があったということなんです。屋内退避はせいぜい3日程度で解除するのが普通です。そうしなかったから物資も入らなくなり、今でも影響が出ています。
緊急時避難準備区域とは南相馬市対策なんですよ。ほかの地域は30q圏外に町村単位で移動しています。30q圏内で残っているのはここだけです。
屋内退避を解除して、通常と同じような行動をしていいですよというのがその趣旨です。ただし、放射線が排出される可能性が高まった場合には自主避難が求められるということです。そういう可能性がなくなるまでは子どもや自主避難できない人たちは避難先で我慢してくださいということなのです。
ただ戻ってますけどね。自分の家がある人は戻りたいし、できるだけ自分の家の近くに戻ってきたいというのは人情です。
――全国的に原発に反対する運動がもりあがっています
今回の原発問題で象徴的なことは、思想・信条や政党の区別に関係なく、みんながその影響を受けるということです。それを前提として国は政策展開をすべきです。これまでの共産党とか市民運動の過激な部分が原発に反対しているというイメージは今回の原発事故で払拭されるでしょう。
ただ、いま必要なことはみんながそれぞれの持ち場で何をしなければならないか、知恵を出し合うことだと思います。これから脱原発でいくのか、自然エネルギーでいくのか、その過程をどうするのかという議論を一部の人のものにしてはなりません。
4面
投稿 沖縄訪問記(その2) 辺野古新基地ゆるすな
前々号で、3月中旬に訪問した、東村・高江でのことを書いたが、今回は辺野古のことをまとめる。
普天間代替ではない
辺野古でも高江でも、お話をうかがった方全員が強調されていたのは、辺野古に計画されている新基地は、「普天間基地の代替ではない」ということだ。
辺野古には、海兵隊の弾薬庫とキャンプ・シュワブがある。嘉手納にも弾薬庫はあるが、空軍のもの。現在、普天間のヘリは嘉手納で弾薬を積んで(※普天間基地には装弾場がない)、伊江島の射爆場に飛んでいく。これが、辺野古に新基地をつくることで、キャンプ・シュワブの部隊、弾薬庫、飛行場が一体になる。キャンプ・ハンセン(グリーン・ベレー)も近い。さらに高江の北部訓練場も近い。新たに軍港もつくる。そもそも1966年に米軍が“こんなのが欲しい”と計画した案が、辺野古新基地計画のベースだ。これは「普天間の代替」などではない。新たな一大軍事拠点だ。
防衛省などは、新基地ができたらヘリは辺戸岬(※沖縄本島北端)を回って伊江島に向かうと説明しているという。しかしそんなことはありえない。弾薬を積んだヘリが、名護市の上空を飛ぶことになり、非常に危険だ。危険なオスプレイ(※垂直離着陸機。本紙64号参照)も配備される。
簡単ではない地元
案内して下さった方は、辺野古の簡単ではない状況についても、語ってくれた。
キャンプ・シュワブは、沖縄戦当時からの基地ではなく、1950年代後半につくられた、沖縄で一番新しい米軍基地だそうだ。50年代なかば、伊江島の「乞食行進」などが「島ぐるみ」闘争に発展していく過程で、基地がつくられ、軍用地料が入るようになった。そうした経緯から、地元には「闘っても(基地は)つくられる」という意識も根深いらしい。辺野古には、名護市の軍用地主の7割がいる。沖縄の中の格差問題も大きい。
防衛省は、新たに名護に事務所をつくり、44人の人員を配置する。久辺3区と二見以北10区を、戸別につぶして回るのは明らか。市議会の中も微妙な力関係。昨年11月の知事選では、名護市では伊波候補は仲井真に負けている。非常に厳しい状況があるという。
辺野古の集落で
辺野古の「上集落」の中を通ったが、米兵相手のスナックやバーといった趣の古びた店が多い。ほとんどつぶれている様子だった。歩いて回ると基地賛成派の人たちからいやがらせがあるからということで、車で回った。人が生活している所を「見て回る」というのは、気が引けるものだ。
また、辺野古テント村に行き、キャンプ・シュワブのフェンスを見に行く時も、「ちゃんと歩道を歩いて、騒がないように」と注意された。市議会の中で基地賛成派の議員が、「(座り込みの)テントは、風紀を乱す」と言っているのだそうだ。
キャンプ・シュワブの浜辺のフェンスは、大がかりな工事をしていた。これまで鉄条網のフェンスだったものを、固定フェンスにする工事だという。
基地のない経済
辺野古の高台からの「上集落」(3月18日 名護市内) |
キャンプ・シュワブとの境界にフェンスを新設工事中。仮設の塀の前にリボン。以前は有刺鉄線につけられていた (3月19日 名護市内) |
筆者も所用で「新都心」に立ち寄ったが、10年以上前に沖縄に行った時には、フェンスに囲まれ荒れ地だった所に、多くの店や施設が建ち並び、人と車であふれているのを目の当たりにした。
地元で闘っている方々は、当然のことながら、そこに生活する住民の思いを大切にしながら、基地撤去にむけた闘いを営々と積み重ねていることを、改めて痛感した。(YH)
「5・27国労臨大闘争」弾圧裁判 最終弁論 東京高裁
団結権侵害をゆるさない
4月26日、「5・27国労臨大闘争」弾圧裁判が開かれた。
佐藤弁護団長をはじめ各弁護士から最終弁論がおこなわれ、被告とされた松アさんの意見書を大口弁護士が代読した。
次回、9月6日(東京高裁 429号法廷 14時30分)判決、多数の仲間の結集を。
完全無罪判決を
「5・27国労臨大闘争」弾圧は、国鉄闘争の最終的解体を企図した国家権力・警視庁公安部が、闘う闘争団の前進に追い詰められた本部を救済すべく強行した弾圧だ。権力は、国労本部の協力をとりつけ、臨大会場に向かうバス乗り場であるホテル前でのビラまき、説得活動を「集団暴行」にねつ造した。
一審判決は「中核派の組織的関与・犯行」「暴力行為等処罰に関する法律違反」という検察の主張は認めなかったものの、ホテル前でのビラまき、説得活動をおこなった松アさんらの行為は「社会的に許容されるものではなく、罰金刑に値する」として単純暴行を認定し有罪にした。
控訴審は、一審の「有罪=暴行罪」をうちやぶり、松アさんらの完全無罪判決をめざしてたたかわれてきた。
検察は反論できず
最終弁論は、「労働運動に国家権力が介入することは憲法28条、団結権保障に対する侵害である。松アさんらのホテル前でのビラまき、説得活動に対して、本部派組合員が3列縦隊でぶつかってくるなかで起きた『もみ合い』であり一方の側だけを問題にすることは間違いである。また、ケガ人が出たわけでもなく大会も予定どおりおこなわれている。これまでの最高裁判例にてらしても無罪だ」と述べた。
松アさんの意見書は、「この裁判で無罪をかちとることが労働運動の未来をきりひらくたたかいである。JRの雇用へ全力でたたかう」という趣旨だった。
なお、控訴審において検察官は具体的な反論を一切おこなうことができなかった。02年5月27日の国労臨時大会、同年10月の弾圧から9年をむかえようとしている。控訴審での無罪判決めざし、残された期間取り組みを強めよう。(国労組合員 T)
関生支部に報復弾圧 13人をでっち上げ逮捕
11日朝、大阪府警は全日建連帯労組関西地区生コン支部(関生支部)の高英男副委員長をふくむ組合役員と組合員あわせて13人を不当逮捕した。
これは関生支部が、昨年5月14日に関西宇部株式会社に対してとりくんだ抗議行動を「威力業務妨害」とでっち上げたものである。関生支部と関西宇部とのあいだでは3年前から労働協約の履行をめぐり労働争議が続いており、09年2月にも協定履行を求めた抗議行動を「威力業務妨害」としてでっち上げた刑事弾圧がおこなわれている。
関西宇部の代表取締役、木村貴洋は今年4月に大阪広域協組理事長に就任したばかりで、就任にあたっては、「長期ストで失われたゼネコンからの信頼回復に全力でとりくむ」と発言している。今回の弾圧が、昨年7月から11月にかけて139日間のストライキ闘争で生コン販売価格の適正化を実現したことへの報復であることはあきらかだ。
関生支部への弾圧は、日本労働運動の戦闘的再生をめざしてたたかうすべての労働組合への攻撃である。でっち上げ弾圧を強行した大阪府警に怒りの声を集中し、高副委員長をはじめとする13人の仲間を早期奪還しよう。
「君が代」不起立で処分 大阪府教委が3人に戒告
今春の卒業式および入学式における「君が代」斉唱時の不起立で、大阪府教委は3人を戒告処分とした(義務制1人、3月30日付。府立高校2人、5月6日付)。
不起立は、他校でも多数あったが、処分は出ていない。この3人には、あらかじめ狙いをつけ、校長が職務命令を出したうえでの処分だった。
昨年の戒告処分4人に続く連続処分。都教委のあとを追う大阪府教委の暴走を止めよう。
5面
ウィキリークスが暴露した米外交公電
米軍再編のペテンが明るみに
昨年11月末から、内部告発サイト「ウィキリークス」が、アメリカの外交公電25万1287件を順次、暴露しはじめた。1966年末から2010年初めまでの在外大使館からワシントンへの状況報告、および国務省から大使館への指令などである。朝日新聞が5月4日に暴露した日米関係分は、このうち今年1月にウィキリークスから提供された計6963点に基づいている。
これまでウィキリークスは、イラク戦争の民間人殺傷映像、アフガニスタンにおける民間人殺傷とアフガニスタン内の米側スパイの暴露、イラク戦争の米軍機密文書公開(民間人の無差別殺害や捕虜の拷問)など、主に米軍関係の内部告発を行ってきた。
今回の暴露は、米政府の外交関係が中心となっており、それが与える衝撃ははるかに大きい。
重要な暴露2点
@米軍再編関連費用の数字操作
第1に、日米両政府が在日米軍の再編について、06年春に合意したロードマップ(行程表)で、米政府が、関連費用の総額を水増しして日本側の負担率を見かけ上減らし、日本政府も08年に追認していたことである。〔右図〕
日本側の負担額は61億ドル。実際は総額92億ドルの約3分の2にあたる負担を、総額を10億ドル増やすことで比率が60%を切るよう操作していた。日本人民の怒りをそらすためだ。
A米海兵隊グアム移転人数のウソ
第2に、沖縄の米海兵隊のグアムへの移転人数について、削減をアピールしやすいよう、水増し操作をしていたことである。
沖縄の海兵隊は1万8千人が定数で、うち8千人が移転するというのが公式説明だった。しかし実際には沖縄の海兵隊は06年時点で「1万3千人水準」だった。これに対応する移転の実数が、8千人を下回るのは確実。これまでも、沖縄県などが実数は約1万2千人だけだと指摘していたが、日本政府は確認を拒んできた。
腰が引けた朝日
朝日をはじめとする日本のメディアは歪小にもこれを、民主党政権叩きに利用しようとしているが、起こったのは自民党政権時代のことである。この暴露でもっとも危機にたつのが米政権・米軍部であることも含め、われわれは問題を見誤ってはならない。
朝日が、公開の判断基準として、「個人の安全、生命を危険にさらす恐れ」を挙げていること自体、許しがたい。沖縄基地の存在や、アメリカの中東侵略戦争で日々、人間的尊厳や生命の危険にさらされている労働者人民を顧慮することなく、アメリカの外交官や軍人を防衛し、米国のスパイの秘匿に協力する宣言以外のなにものでもない。
「東アジア共同体」構想を警戒
朝日が暴露したその他の点は、(1)09年10月にキャンベル米国務次官補は、グアムへの完全移転案や嘉手納統合案を封じるために、中国の軍事力増強を理由に、有事には3本の滑走路が必要(3つの施設が必要という意味らしい)と述べた。
(2)09年12月、鳩山首相をはじめとする5閣僚は、現行案以外の代替案に米国が賛成しなければ、民主党は現行の再編計画を進め、必要ならゴールデンウィーク後に(社民党との)連立を解消する用意があると米側は理解していた。
(3)09年12月、民主党政権に不信をもつ日本の外務・防衛官僚らの幾人かが、キャンベルらに「米側は(民主党政権に)妥協したり、柔軟な姿勢を見せるべきでない」と助言していた。
(4)07年段階で米側が日米合意から一切の修正に応じない姿勢を示していたのに、自民党政権の防衛相だった久間章生と小池百合子は、仲井真知事に50mの沖合い移転は可能と約束していた。
(5)民主党政権が成立した後、米側は鳩山首相の「東アジア共同体」構想が米国排除になると非常に警戒していた。
地震が原発を直撃と指摘
今回暴露された公電には、08年3月に在日米大使館が、地震を含む日本政府の災害や危機への対応の弱点を指摘しているものがある。柏崎刈羽原発事故の例などを挙げ、地震が原発を直撃する危険性も指摘している。
また民主党政権が昨年3月に公開に踏み切った1960年安保改定時の日米「核密約」をめぐって、公開は米国の世界戦略に影響を与えかねないと、米側が強い懸念を繰り返し伝えていたことがわかった。核を積んだ米艦船の日本寄港を認めた密約は、1991年冷戦終結後に米軍が水上艦の核搭載をやめたことによって意味を失ったとされてきたが、公電からは、将来の政策変更のために「暗黙の合意」の継続に米側がこだわっていたことがわかる。
原発と核問題をめぐっては、IAEAの原発耐震安全性ガイドラインが過去35年間に3度しか改定されていないことを、G8の諸政権が危機感をもっていたことを暴露した。また米の原発の海外(ベトナム、南アフリカ、イタリア)への売りこみに、中立的規制機関であるはずの米原子力規制委員会(NRC)が関与していることなどを明らかにした。
日本が朝鮮統一を妨害
朝鮮・中国については、ウィキリークスは10年2月のスティーブンス駐韓米国大使と韓国外交通商部の千英宇第二次官の会談を暴露した。そこで千第二次官は、「朝鮮が南北統一しても中国は介入しないし、できない。むしろ妨害しようとするのは日本である」と言っている。また在中国米大使館からの公電によると、米国と中国の専門家は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記が死んでも北朝鮮が内部崩壊すると仮定すべきではないとしていた。
今回暴露された内容は、すでに人民の側から指摘されてきたことを裏付けるものとなっている。米政府・米軍が、世界支配をめぐって行きづまっていることもよくわかる。日本政府、官僚が人民の利益をアメリカに差し出し、おのれの延命を図ってきたことも暴かれた。
腐敗した帝国主義の支配をいまこそ打ち破ろう。日米安保粉砕、沖縄基地撤去を。(富樫 優)
ビンラディン虐殺を弾劾する
米「対テロ戦争」の破産
5月1日、オバマ米国大統領は米海軍特殊部隊をパキスタンの首都イスラマバード近郊のアボタバードに侵入させ、同所に潜伏中のオサマ・ビンラディン氏ら4人を殺害した。報道によれば、特殊部隊はビンラディン氏を発見するや問答無用で射殺した。拘束した後、銃殺したとの報道もある。
オバマは同日のテレビ演説で「銃撃戦のすえにオサマ・ビンラディンを殺害した」と述べているが、実際には殺された4人はいずれも武器を持っておらず、米特殊部隊は丸腰の相手を次々と射殺していたことが明らかにされている。オバマはこのような恥ずべき殺りく行為をもって「正義は、なされた」といい、「アメリカがいかに偉大かが証明された」と自画自賛した。しかし証明されたのは「アメリカの偉大さ」ではなく、01年以来、アメリカ帝国主義が10年間にわたって継続してきた「テロとの戦争」の歴史的な破産である。
アフガニスタン侵略に派兵されている米軍は、今年7月に撤退を開始することになっている。しかし、反政府勢力・タリバンはおりしもこの5月1日から「春季攻勢」を宣言してアフガニスタン全土で攻撃を展開し、傀儡カルザイ政権を揺さぶりつづけている。
米帝はビンラディン氏がパキスタンに潜伏していたことを絶好の口実にして、パキスタン領内におけるタリバン掃討戦を激化させようとしている。米軍のパキスタン北部への無人爆撃機による攻撃は03年から開始されたが、昨年は年間100回をこえる爆撃をおこなった。今年に入っても、3月17日には北ワジリスタン地区で民間人41人を殺害し、4月22日には同地区で民家にミサイル10発を撃ち込んで、女性や子どもなど25人を殺害した。
こうした米軍による無差別殺りくにつづいて、ビンラディン氏暗殺が凶行されたことにパキスタン人民の怒りが爆発している。
米国内からも非難の声
また米国内においても非難の声があがっている。
イラク帰還兵で組織するIVAW(戦争に反対するイラク帰還兵の会)は、5月3日に発表した声明の中で「9・11以降のテロとの戦争によって、われわれに強いられた犠牲は、どんなテロリストの企みよりも勝る」とし、「イラクやアフガニスタンでの、われわれの誤った戦争で戦死した合衆国兵士は6000人を超えたが、イラク、アフガニスタン、パキスタンの市民の死者は数十万人に及ぶ」「真の正義は、合衆国がすべての占領軍を撤収し、アフガニスタンとイラクの人民に自己決定権を返還するまでは決して実現することはない」とオバマ政権を批判している。
イラク・アフガニスタン・パキスタン人民、そして全世界の労働者人民と連帯して、米帝国主義の侵略戦争とたたかおう。
アフガニスタン地上戦闘への陸自派兵を狙う民主党政権を打倒しよう。
6面
石川一雄さんのメッセージ
今年が勝負 再審の実現を
部落差別によるでっちあげで、石川一雄さんが逮捕されてから、この23日で48年目を迎える。石川さんからメッセージが発せられたので、掲載する。
〔見出し・小見出しは編集委員会〕
石川一雄さん(昨年10月) |
巨大地震、大津波、原発事故と未曾有の大震災に胸が痛み、まずは何をおいても震災に遭遇し、亡くなられた方、今もまだ行方不明の方、住居・職場を無くされたり、原発事故により移転を余儀なくされた方々に、心深くご冥福とお見舞い申し上げるものであります。
被災地の皆様方の悲哀や、苦悩、怒りなどを推し量れば、今、この時期に狭山再審闘争における尽力要請を乞うこと自体に躊躇しつつも、5月23日は、私が不当にも別件逮捕されて48年になり、加えて重大な7回目の三者協議が2ヵ月後に迫っていることもあり、なんとしてもせめて、東京高裁が証拠開示勧告した残りの3項目だけでも開示させ、再審実現のために支援者皆さん方にご理解を求めるべくペンを執った次第です。
さて、前述のように、甚大な被害、非常事態の中にあって、尚且つ支援者皆さんに狭山事件の犯人にされ、やがて半世紀になろうとする私自身のえん罪を晴らすためには、特に今現在の闘いによって再審の有無が決定されるであろうことなど鑑みれば、皆さん方の大震災に対する復興支援活動と共に、私の狭山支援活動にも心をお寄せ頂きたいのであります。
部落差別に貫かれた冤罪
多分、支援者皆さんも、第7回の「三者協議」ばかりでなく、今までの三者協議においても夫々の思いで緊迫感と、固唾を呑むように張り詰め見守っていてくれていたものと思います。言及するまでもなく、私の「狭山事件」というよりも、狭山差別裁判糾弾闘争は、皆さん方の弛まぬ闘いと、努力によって、部落解放闘争、あらゆる差別をなくし人権を確立する闘いの新たな前進の水路を切り拓いて頂きましたし、そういう意味では、狭山事件は部落差別に貫かれた冤罪であることを認めさせるために圧倒的な力と、司法権力を包囲する大衆的な闘いとして飛躍的な発展を遂げてきたことも事実であります。
然しながら、今迄、無実のものを「有罪」としてきた司法権力に対する責任を徹底追及するためには今時の再審を開始させる必要があり、その上で48年に及び「犯罪者」のレッテルを貼ってきた司法権力を満腔からの怒りを込めて弾劾しなければならないと思っています。そういう関係で、現時の裁判闘争を、どのように勝利への新たな出発点にするかということこそが、理論的にも実践的にも問われていると思いますし、また、急務の課題であると、自己の置かれている立場を精査し、皆さんにも喚起して一層のお骨折りを賜りたいのであります。
47年目の証拠開示
私は、何時、如何なる時でも「真実」と「正義」は必ず勝つ、との信念と、私の無実は必ず「国民大衆に解ってもらえる日がくる」と信じて48年闘って参りましたが、皆さんもご承知のように、昨年の三者協議において私が不当逮捕された当日書かされた狭山警察署長宛の上申書が、47年目にして証拠開示され、当時の私には、あのような脅迫状は書き得なかったことが証明されました。だからこそ検察当局は47年も隠し続けて出さなかったのです。
この上申書を脅迫状と比較すればその違いは一目瞭然なので、検察側は隠し通したかったのでしょうが、弁護団の粘り強い闘い、努力と、支援者皆さん方の証拠開示の必要性の署名、要請行動等、世論の声などに抗しきれず出さざるを得なかったと思われます。従って「証拠開示」の「意義」は兎も角、私が書いた重要な筆跡資料が47年以上も隠されていたことこそが大問題であり、更に沢山の未開示証拠を出させる運動の展開をしていただきたく、声を大に訴えます。
再審実現を
泣くも笑うも今年の闘いにかかっているといっても過言ではないと思いますが、私のような悲劇を二度と繰り返させないためにも証拠開示を法的に義務付けるための活動も展開して参る所存です。何卒「今年が勝負」の年と位置づけて今まで以上のご協力をくださいますよう心からお願い申し上げます。
それでは犯人に仕立て上げられて48年に及んで現在に至っても無実の罪が晴らせない現実を通して、第三次再審裁判にかける私の意気込みと皆さんの更なるお力添えの程をお願いして失礼いたします。
2011年5月
石川 一雄
全国の狭山支援者皆さんへ
投稿 さようなら 「平和利用」幻想
福島第一原発の事故・崩壊が起こり、「無関心、容認」から、反対・脱原発をいう人が増えた。東京のデモには『いままで、無関心ですみません』というプラカードを持った人がいた。新聞も投書欄で「原発依存の社会を変えよう」という声を載せる。太陽光や風力など自然エネルギーの利用、節電、生活を考え直すという意見が多い。
週刊誌のグラビアに浜岡原発の内部が写されていた。古い配管やコンクリート。しろうと目にも、とても精緻と堅固さを極めたものに見えない。核分裂制御はもとより、大量の放射性物質を何10年どころか、何100年も何万年も、人間は管理することができるのか。原発が低コストどころか、とんでもない金喰いモンスターであることも、分かってきた。
しかし、よくよく思いを固めなけなければ、利権と利潤追求にまみれた原発推進の構造に、また押し流されることになりはしないか。今後、彼らはメディアを総動員し「収束の見通し」「科学、技術の勝利」を喧伝してくるだろう。
昔読んだ『詩の中にめざめる日本』(岩波新書、1966年初版・現在は絶版)、真壁仁・編という民衆詩集がある。
「よしこちゃんは、とまとがたべたいといって、死んだ」という少女の詩、八島藤子(本名・栗原貞子)「私は広島を証言する」、峠三吉の「平和への証言」などとともに「原子力を農業生産に」という農民の詩がある。
戦争の惨禍から立ち上がる、平和への夢が詠まれている。「殺人兵器ではなく、人類の繁栄のためにという若い農業技術者の夢を、稚いと笑うことができようか」と真壁は書いた。
だが、このとき学者・文化人たち、自称「前衛党」、そして私たちも「原子力の平和利用」という思想を超えられなかったのではないか。
米ソの水爆実験と原水爆禁止運動の高揚のもとで、「平和利用」という政策は始まった。1953年、ソ連が水爆を完成。54年には米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験。同年、ソ連はモスクワ郊外で世界初の原発運転を開始。バートランド・ラッセルや湯川秀樹ら物理学者たちは、「核戦争への危機」をアピールした。
私が原水禁運動に参加した60年代半ば、「社会主義の祖国を守る核は正しい」「いかなる国の核実験にも反対、を降ろせ」と原水禁運動に持ち込んだ共産党の政治方針があった。
時代の制約はあったとしても、「人類の危機、平和」を言うときも、それを是とする科学や思想の残像がつきまとっていたのでは。どこか「科学は克服する」という意識に支配されてきたのではないか。
もう一度ヒロシマ・ナガサキにたち返り、人類がつくり出した核兵器と平和利用とは何だったのかを考えたい。それをフクシマは、三たび教えてくれた。代替エネルギーや節電の問題ではなく、はっきりと「原発はいらない」と言うほかはない。(Y・M)