子どもが危ない
文科省20ミリSv(シーベルト)基準を撤回せよ
文科省が、4月19日、学校などの屋外活動を制限する放射線量の基準値を、時間単位で3・8マイクロSv、年間積算で20ミリSvとした。これにたいする抗議と撤回要求があがっている。福島県民と「福島老朽原発を考える会」の集会(4月24日 都内)発言と解説を本面に、集会記事を2面、福島県教組の声明を3面、関連記事を6面に掲載する。(Sv=シーベルト)
疎開させないと
中手聖一さん(原発震災復興・福島会議 福島市在住)
福島の現状を訴える中手さん(4月24日 都内・芝公園) |
いま福島県内の76%の土地が、(放射能で)非常に危険な状態。ここに県民が放置されている。原発の中で働いている人と同じ状態の放射能汚染区域に、県内約30万人の子どもたちが放置されたまま。自分の子どもは疎開させたが、疎開したくてもできない人がいる。
19日に文科省は、「福島の子どもたちは避難しなくていい」という通知を出した。すぐにでも東京に行って、菅総理に撤回させようと思った。撤回するまで帰ってこないという思いで、東京に行こうか一晩悩んだ。首都圏の皆さん。何とかして福島の子どもたちを守ってもらいたい。
20ミリSvまで浴びさせるのか
阪上たけしさん(福島老朽原発を考える会)
年間20ミリSvまでという高い放射線量を、文科省は福島の人たち、子どもたちに押し付けようとしている。
20ミリSvという値は、18歳以下の労働が禁じられている「放射線管理区域」の6倍もの高線量だ。
20ミリSvは、原発労働者で、白血病で亡くなった人の、労災が認定される年間平均線量でもある。福島県では、そのような場所に子どもたちがいる。いままで子どもたちは校庭を使うのを控えてきた。それを、文科省が20ミリSvまでよいという基準を出したために、「もう外に出してもいい」という動きが出ている。
20ミリSvまで浴びさせることが、国の方針だ。首都圏の人間が、福島の皆さんとともに、この方針を撤回させていく必要がある。
「放射線管理区域」に子どもが
放射線被ばくの被害は、若年層ほど受けやすい。〔右図表〕
文科省は4月19日、学校などの屋外活動を制限する放射線量の基準値を福島県に通知した。その基準値とは、時間単位で3・8マイクロSv以上、年間の積算被ばく放射線量で、20ミリSv。
子どもを、「放射線管理区域」より危険な場所に放置するに等しい。
レントゲン室など、3カ月の積算で1・3ミリSvを超える放射線作業をする施設は、法律で「放射線管理区域」と指定され、厳重な防護管理を求められる。また、労働基準法は、放射線管理区域での18歳未満の就労を禁じている。
放射線管理区域指定の基準となる3カ月の積算で1・3ミリSvとは、換算すると約0・6マイクロSv/時、5・2ミリSv/年。これにたいして、文科省通知《3・8マイクロSv/時、20ミリSv/年》は、放射線管理区域の4〜6倍以上。
しかも文科省通知でふれているのは、外部被ばく量だけで、呼吸や飲食で放射性物質を取り込んで起こる内部被ばくは無視している。
実際には、福島県の放射線モニタリングで、県内の小・中学校などの約20%が、「個別被ばく管理区域」(被曝手帳を持ち、線量計をもって働くレベル。放射線管理区域より高い線量)に相当、約55%が「放射線管理区域」に相当しているという。
子どもたちが、ガンや白血病で緩慢に、しかし確実に殺されようとしている。
労働者の被ばく無制限に
福島第一原発の事故処理では、労働者が制限なしで被ばくさせられている。
法律では、一般人の被ばくの上限は1ミリSv/年。原発労働者では50ミリSv/年で、緊急時に100ミリSv。それが、福島第一原発事故にかんしては特例措置だといって、上限を250ミリSvに引き上げた。
250ミリSvという数字自体、危険極まりない。事実、4年余りで累積70ミリSvを被ばくした労働者が、多発性骨髄腫を発症し、労災認定された例がある。
ところが、現場では、250ミリSvを浴びても、放射線管理手帳に記載されていないという。下請け会社が、仕事を受注するために、労働者の被ばく線量を低く見せようとしているためだ。結局、労働者がボロ雑巾のように扱われているのだ。
さらに、厚労省は、全国各地の原発労働者の被ばく線量について、通常時は50ミリSv/年とする上限も撤廃しようとしている。福島原発への応援派遣で、原発労働者が足りなくなっているからという。
これだけの事故をおこしながら、原発を止めず、そのために労働者が犠牲にされている。
2面
東京 4500人 チェルノブイリとフクシマ
4月24日、都内で「チェルノブイリ原発事故から25年 くり返すな!原発震災 つくろう!脱原発社会」集会がひらかれ、会場の港区・芝公園は4500人の参加者でうめつくされた。主催は、「原発とめよう!東京ネットワーク」。
「チェルノブイリ原発から25年 脱原発集会」。4月24日、都内・芝公園。下写真は東京電力前で抗議するデモ隊 |
今も続く汚染
はじめに、ロシアからのゲストとして、パーベル・ヴドヴィチェンコさんが発言。彼は、チェルノブイリ事故による放射能汚染地で活動する社会団体「ラジーミチ」を1987年にたちあげ、活動している。
「こんにち、私の孫たちは、新鮮なミルクを飲むことができない。そこでは非常にしばしば、放射能が基準値を超える。私たちは伝統的に食べてきた、森のイチゴや、野生動物の肉、湖の魚を食べることができない。汚染の無い食料をどこで買ったらいいのか。冬に備えて、汚染されていないジャガイモを買うために、200キロの道を車で行く。川や森に行く時に、どのように慎重に行動したらいいのか、いつも考えている」と、いまでも深刻な放射能汚染が続く現地の状況を伝えた。
福島から怒りの訴え
福島第一原発事故被災地からは、福島県大熊町から首都圏に避難中の女性、福島市在住の男性が発言した。(発言1面)
福島老朽原発を考える会(発言1面)に続き、たんぽぽ舎、「プルトニウムなんていらないよ!東京」から発言。最後に集会決議をあげ、デモに出発した。
デモは、新橋を経て、東京電力本店、中部電力東京支社を通り、日比谷公園まで。思い思いのプラカード、横断幕、のぼり、サウンドデモ、仮装ありのにぎやかなデモだった。
静岡 800人 菜の花パレード はまおか
「菜の花パレードはまおか」。4月24日、静岡市内 |
4月24日、静岡駅近くの繁華街にある青葉公園を中心に、浜岡原発に反対する「菜の花パレードはまおか」が開催された。
「菜の花」と冠したのは、放射性物質を吸収する能力があるという言われに因んで。参加者が手に手に菜の花をもっている。またデモといわずにパレード。そして肩肘を張って「反原発」というのではなく、「浜岡原発を考える」。参加者は、福島原発事故に衝撃を受け、活断層の上にある浜岡原発への強い不安と危機感に駆られて集まった。その多くがネットやツイッターや口コミで知ったという。
800人という主催者の発表。実数は1千以上だろう。静岡では40年来なかった事件だ。
子ども連れの若い女性が、驚くほどたくさんいる。乳飲み子を抱え、歩ける子どもの手を引き、お腹の子どもを気遣いながら。命の危険を感じ、子どもの未来を考え、初めて行動した人たちばかり。
もちろん、経験豊富な活動家たちも、ちゃんといる。が今日は主役ではないから、控え目だ。
午後1時半頃から2時頃まで、公園内で1分前後のスピーチが次々と行われた。青年が、「自分たちは今まで何の関心もなく、何もやってこなかった。警告している人たちがいたのに、無視していた自分たちが招いた災害だ」。このように自分に突きつけるように語った。
スピーチの後、繁華街を1時間半かけてグルグルと練り歩いた。
浜岡を止めるまで
パレードの後、主催者「ふきのとう」のメンバーたちがスピーチ。彼らは、20〜30歳代の若者で、原発事故以降に動き出した人ばかりだ。
「パレードは終わっていない。いま始まったばかり。浜岡原発を止めるまで、続けよう」
「世界が浜岡を注視している。福島の次は活断層の上にある浜岡。静岡の人間がどう動くかにかかっている」
「今日は800人。まだ浜岡は止まっていない。コノヤロー。 だったら今度は1600人だ。それでも止まらないなら、1万人だ」。
若いお母さんらが続々
菜の花パレード参加者の声を聞いた。
◇35才女性(子ども連れ)
友だちから聞いた。初めて参加。理由は子どものことを考えて。
◇35才女性(子ども連れ)
切ない気持ち。上の人たちは何を考えているのかと思う。初めて参加。生協で聞いた。
◇30代女性(妊娠中)
子どもの未来を考えて。何世代先にも負担をかけるようなことをしてはならない。
◇30代女性(子ども連れ)
前から浜岡のことは考えていたけど、変な人と見られるのがイヤで行動しなかった。でももうなりふりなんか構っていられない。
◇35才女性(子ども連れ)
こんな遺産を子どもたちに残せない。もっと希望のあるものを残さないと。
◇30代女性(フィリピン出身、子ども連れ)
焼津から。第五福竜丸のことも知っていたけど、急に自分の問題になって。
◇29才女性
3・11で全部わかったという感じ。それまで知っていたけど無関心。3・11以降、動き出した。
◇33才男性(子ども連れ)
みんな危機感もっている。子どもに影響があることだし、浜岡があるから。
◇73才女性
今日は若い人が多くてうれしい。命のことよ。他はおいても命のことだけはね。
エジプト革命に触発され ―主催の青年
「エジプト革命に触発されたんです」。菜の花パレードを主催したメンバーのA君(30才)がこう教えてくれた。
今年2月、エジプトで、若者たちの蜂起がムバラクを倒した。それを目の当たりにして、自分たちも何かをやろうと話を始めた。その矢先に、地震と原発事故が。3月末に、福島に支援に入った静岡市議の報告会に参加してから、パレードの話が一気に具体化した。
ついこの間までみな普通に働いていた。だからデモ申請も何もかもみんな初めて。「それはもうメチャメチャ大変でした」とA君。
そして、もうひとりの中心メンバーB君は、パレード前のスピーチで、「僕は今日で革命家になりました。みんな革命家になろうよ」と明るく宣言。普通の青年が、「3・11」で価値観が変わり、社会を変えたいという思いを抱いた。それは、参加した人びとの共通の思いでもあった。そういう若者が大量に生み出されている。その一端を東京でも大阪でも、そして静岡でも見た。
投稿 「逃げたいけど、逃げられない」
原発震災 いわき市の被害
関西合同労働組合の蒲牟田さんから、被災地訪問の報告が寄せられたので掲載する。(関西合同労働組合は、95年阪神淡路大震災のなかで、被災地でのたたかいが生み出した労働組合)
4月16〜17日にかけて、東日本大震災被災地の福島県いわき市に入った。
16日、関東方面から車で、福島第一原発20キロ圏の境ギリギリまで国道6号線を北上した。
沿岸部の四倉という地域の津波被害がひどい。海岸沿いにあるホテルなどの施設は1階部分が津波にやられている。標高が10mぐらいの所は屋根の瓦が落ちたり壁が壊れた程度の被害だが、津波が襲った地域は壊滅状態だ。津波によって土台が崩され屋根が落ちた民家、柱だけ残して壁がすべて崩れ落ちた家。
国道脇に、「原発どこかえもってけ」と書いた畳に書かれた看板が立っていた。車を降りて被災状況の写真を撮っていると、50歳代の男性から「写真だけ撮りに来やがって」と言われた。
広野町に入る。集落には人の気配が無い。町役場は無人だった。首輪を付けた飼い犬が道路の真ん中をウロウロしている。一方、国道沿いの民宿は営業している。建
国道脇に、畳でつくった看板が(4月16日 いわき市内) |
さらに進むと、交差点で警察官が検問をやっており、原発から20km境に到達したとわかる。警察官はマスクをつけてはいるが防護服は着ていない。警察官らは、こちらの車がUターンするときジッと見ていた。
やりきれない思い
午後からいわき市労働福祉会館でおこなわれた「放射線からどう身を守るか」集会に参加した。すでに400人を越える人びとが集まっていた。会場に入れない人が廊下にあふれ立ち見している。集会を主催した佐藤和良いわき市会議員と面談し、名刺交換をした。
「今後、どうしたらいいのかを、それぞれに考えてもらうために今日の集会を企画した」と佐藤議員。
集会では、崎山比早子さんが放射能被害について詳細なレジュメをもとに講演した。崎山さんは「東電や政府を被告席に座らせなければならない」と明言した。
講演の後の質疑応答で「逃げられる人は逃げたほうが良い」という崎山さんの発言に、会場から「あはははは」という、やりきれない溜息とも嘆息ともつかない静かな笑い声がもれる。誰でも避難したい。しかし仕事やコミュニティを捨てて簡単には逃げられないのだ。
今は季節風が南から北へふいているが秋から冬になると逆に北から南へふく。その時いわき市の放射線濃度は、まちがいなく高くなる。また原発の炉心爆発や水蒸気爆発の危険も去ってはいない。
最後の一人にまで
私は阪神淡路大震災を経験しているが、今回は被害の規模がまったく違う。とくに目に見えない放射能汚染という原発の問題が大きい。集会の「あはははは」という静かな笑いにショックを受けた。逃げたいけど逃げられない住民のことを思うと胸が痛んだ。
私たちに何ができるのか、それは現地でのこれからの行動によってはっきりしてくるだろうが、阪神淡路大震災の最大の教訓、「逃げずに最後の一人にまで責任をとりきる」ということが重要だと思う。(蒲牟田 宏)
3面
放射線による健康被害
から子どもたちを守る県教組声明
〔文科省が示した20ミリSv基準にたいして、抗議と撤回を要求する福島県教組の声明が発せられた。全文を掲載する。〕
福島原発の大事故以降、放射線量が極めて高い状態が続いています。私たちは、放射線による健康被害から子どもたちを守るために、福島県教育委員会及び文部科学省に対し、安全対策についての指針とマニュアルの提示を強く求めてきました。大事故から一ヶ月が経過した4月19日、ようやく文部科学省は「学校等の校舎・校庭等の利用判断に係る暫定的考え方」を示しました。学校現場及び保護者からは、「本当にこの基準で大丈夫なのか」「子どもたちに影響はないのか」といった不安の声が多く出されています。
文部科学省は、原子力災害対策本部の示した「ICRP(国際放射線防護委員会)の示す『非常事態が収束した後の一般公衆における参考レベル』1〜20mSv/yを暫定的な目安」を、一般公衆レベルのまま学校での判断基準としました。ICRPが示している現行の規制値は1mSv/yです。これをはるかに超え、一般公衆レベルの上限でとされる20mSv/yは、計画的避難地域を設定する基準量でもあり、放射線業務従事者の年間平均許容量(ICRP 1990年勧告)に匹敵します。放射線に対するリスクが大きい子どもたちにこの基準を適用することは、長年の生活の中での累積値は相当に大きくなり、子どもたちの命と健康を守ることはできません。
また、子どもたちが校庭等で活動できる制限値を3・8μSv/h未満としていますが学校等の敷地内の放射線量は一定ではなく、側溝や雨樋の下、塵や木の葉などが集まる吹きだまり、水たまりなどの窪地などは比較的高く、校庭など地面は空間放射線量より高くなっています。子どもたちは、学習で土をいじり、校庭を走り回ります。舞い上がった砂ぼこりを吸い込むことは避けられません。また、転んで皮膚をすりむけば、そこに放射性物質が付着します。空間線量が3・8μSv/h未満であっても、実際は空間線量より高い放射線を浴びることとなります。さらに、内部被ばくの危険性もあります。
文部科学省の示した暫定基準は、子どもたちが学校生活をする上では極めて危険な基準といわざるを得ません。文部科学省は、今回の基準を直ちに撤回し、子どもの健康を第一にした安全策を示すべきです。また、福島県災害対策本部及び福島県教育委員会は、子ども及び保護者が安心できるように、全ての学校施設及び通学路において放射線量の高いところを明確にした放射線量マップを作成し、立ち入り禁止区域を設けるなど万全の対策を講ずることを強く要求します。さらに、子どもたちの受ける線量を減らすための具体的な対策を示し、土壌の入れ替え等の措置を早急に講ずることを要求します。
私たちは、子どもたちを放射線による健康被害から守るため、一刻も早い原発事故の収束と安全確認を強く求めると共に、現在の通常値を大きく超える中での子どもたちの生活について、「直ちに健康に影響がない」というのではなく、絶対に健康に影響がないといいきれる安全策を早急に示し実施することを強く要求するものです。
2011年4月20日
福島県教職員組合 中央執行委員長 竹中 柳一
文科省 20ミリSv基準 福島で親たちの不安と怒り
4月25日、福島市内で「子どもたちを放射能から守るための対話集会」がおこなわれ、100人以上の親たちが参加、堰を切ったように、不安や怒りが語られた。その発言の一部を紹介する。
◇放射能汚染で子どもの健康が不安だが、学校当局や周囲から「心配し過ぎ」「不安を煽るな」と言われ、孤立していた。
◇避難したいが避難先が見つからない。
◇家庭の事情で避難できない。どうしたらいいのか。
◇福島県のアドバイザーは、現在の汚染状況にたいして「全く問題ない」というが、おかしい。
◇県や学校長に除染の要求をしても無視された。
◇教師だが、学校内では文科省通達に従うべきとの指示が出され、子どもたちをグラウンドで活動させている。自分も子を持つ親だが、学校で子どもたちを守れていない。申し訳ない。
内閣参与が抗議辞任
内閣官房参与の小佐古敏荘・東京大教授(放射線安全学)が、文科省の出した20ミリSv基準に抗議し辞任。記者会見で以下のように述べた。
「(文科省の基準を)容認すれば私の学者生命は終わり。自分の子どもをそういう目に遭わせたくない」「学校の放射線基準を年間1ミリSvとするよう主張したが採用されなかった」「年間20ミリSv近い被ばくをする人は、原発の放射線業務従事者でも極めて少ない。この数値を、乳児・幼児・小学生に求めるのは、学問上のみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」。
4面
基地も原発も国策の押しつけ
沖縄意見広告 関西集会
発言する連帯労組関西地区生コン支部 委員長・武建一さん(4月25日 大阪市内) |
39年目の「沖縄5・15返還」の日を期して沖縄2紙と本土紙1紙に、さらに6月には米国紙にも、沖縄米軍基地はいらないという意見広告を掲載する運動をすすめる集会が、4月25日大阪市内で開かれた。いずれの発言者も東日本大震災と福島原発事故にふれながら、だからこそ今、沖縄米軍基地の撤去が必要だと訴えた。
沖縄から安次富さん
発起人である大阪産業大学長・本山美彦さんの、沖縄の闘いの明るさ、しなやかさにふれる開会あいさつで集会は始まった。
つぎに発起人で、名護・ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんが、沖縄からの報告。
安次富さんは、沖縄基地の問題も、福島原発の問題も、国策を押しつけ、カネで支配する同じ問題だと喝破。3月末、衆議院・参議院でまともな審議もなく、それぞれわずか1日で、「思いやり予算」(年間1881億。5年でほぼ1兆円)が可決成立されたことを弾劾し、このお金こそ被災者に回せと訴えた。いま菅政権がやっているのは従属というより米国への隷属。しかし沖縄では、第3次嘉手納基地騒音訴訟が2万2千人の原告団で立ち上がるなど、あらゆる知恵を使った闘いが広がっている。知恵を使い、意見広告で沖縄の思いをアメリカにも伝ようと訴えた。
京都沖縄県人会会長
つづいて、京都沖縄県人会会長の大湾宗則さんから「沖縄の現状と沖縄闘争の教訓―今後の課題」と題する講演が行われた。大湾さんは、ここ1〜2年の闘い、とりわけ名護市長選・市議選・県知事選のなかで後戻りすることのない県民の意思が定まっていることを、静かな口調の中にも確信をこめて語った。そして沖縄出身者・県人会運動の親睦会的なあり方をねばり強く変革し、沖縄では保守層もまきこみ「基地はもういらない」との共同の意思に至ったことにふれ、「不可能なことは絶対にない」と訴えた。
東京から急きょかけつけた服部良一衆院議員は、メア発言の経緯も話しながら、「アメリカという怪物に風穴をあけよう。意見広告でアメリカ世論を動かそう」とよびかけた。
関生・武委員長
二番目の講演は発起人で連帯労組関西地区生コン支部委員長・武建一さんによる「日米安保と基地問題」。武さんは、東日本大震災にふれ、02年から07年の好景気時の大企業の内部留保は240兆円、この2割でも被災者に回させようと訴えた。起きていることの本質を見ぬく力を持たないなら「だまされた」で終わってしまう。抑圧された者は闘いの中で思想性を確立し、心豊かにしよう。沖縄の基地と原発とTPPは一体だ。アメリカへの従属の道ではなく、自主・独立の道を進むため、闘いの重要な一翼を労働組合がが担わなくてはならないと訴えた。
その後、関西各地で意見広告運動をすすめている団体・個人から報告と決意が語られた。全港湾大阪支部の大野委員長、とめよう戦争! 兵庫・阪神連絡会の梶原さん、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動の韓さん、憲法を生かす会・奈良の藤原さんの4人。
最後に、東京事務局から「米軍のトモダチ作戦は沖縄だけでなく私たちをもなめてい
沖縄意見広告・要項 |
・米国紙・国内紙に掲載。目標額 2千万円 |
(通信員・M)
「思いやり予算」撤廃を
大湾宗則さん(要旨。文章・見出しとも編集委員会)
気候とか自然とか沖縄の魅力がいわれるが、本当の魅力は自然が作ったものではなく、自分たちが住みよく平和で人権が確立した地域のため奮闘してきたことにある。その根底には『命どぅ宝』の精神がある。昨年の5・28日米合意は、日米両政府がかけてきた大変な重圧。しかしそのなかで9月名護市議選に勝利した。知事選では仲井真候補にも「米軍普天間基地は県外移設」と言わせ、伊波さんへの票とあわせると、投票した人の98%が「米軍普天間基地は県外へ・辺野古新基地は拒否」だ。昨年の4・25県民大会から1年後に全沖縄41市町村長からアンケートを取ったところ、全首長が「普天間基地は県外へ」となり、県民大会の中身(県民の意思)は揺らいでない。
名護市民投票から13年。ずっと市民は推移を見てきた。そして、「カネ(ひもつき補助金)は要らない」となった。仲井真知事を動かし、県議会の全会一致を作りだしたのは、このおじい・おばあを先頭にした名護市辺野古の闘いだ。
沖縄県人会は親睦会ではあるが、渡航制限撤廃闘争や祖国復帰運動で重要な役割を果たしてきた。72年返還以降に階層分化が広がるが、沖縄への思いは変わらない。その中でねばり強く闘い、闘いの中で変革ができる。不可能なことは絶対にない。いま大きな課題は、「思いやり予算」の撤廃と、日米地位協定の改正だ。1月に沖縄市でおきた米軍兵士による沖縄青年の交通事故死も「公務」を理由に不起訴になった。
昨年の5・28日米合意に対して、沖縄では「主権者は私たちだ、これは沖縄差別だ」との声が広がった。明治の琉球処分と、それ以降の「国策としての沖縄差別」に向き合ってこなかった本土の闘い、とりわけ60年安保と72年復帰運動の過程のヤマトの闘いのとらえ返しが必要。日本全国のわずか1%にすぎない沖縄県民。その98%が基地はいらないと声を上げていることに向きあってほしい。この壁を克服し、沖縄とヤマトが国民的規模で手をつなぎ、全国の基地を撤去していく土台を作ろう。
嘉手納爆音で訴訟 第3次 原告2万2058人
沖縄の米軍嘉手納基地周辺に住む2万2058人(7489世帯)が、4月28日、国を相手に、米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めや爆音被害による損害賠償など求める「第3次嘉手納爆音差し止め訴訟」を那覇地裁沖縄支部に起こした。
第三者行為論の論破へ
1次、2次訴訟の判決は、ともに損害賠償の支払いを国に命じたものの、飛行差し止めを棄却。その根拠にしているのは、《国は、第三者である米軍の活動を規制する権限がない》とする《第三者行為論》。原告は、今回、基地提供者の国が、直接、騒音防止策をとる義務があるとし、第三者行為論の論破を目指す。
昼夜を問わず激しい騒音で、米軍はやりたい放題。これは、日本政府が、基地の管理権・使用権を米軍に委ねているから。航空法の飛行禁止区域や最低安全高度などの日本の国内法が、米軍基地には適用されていない。
植民地扱い許さぬ
これは、第二次大戦敗戦後の日本が、米軍にたいして、沖縄を差し出し、沖縄を犠牲にした矛盾構造そのものだ。沖縄は、今もって、アメリカと日本の双方から植民地扱いを強いられている。
第三次訴訟の提訴は、奇しくも4月28日となった。1952年の同日に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本本土は連合軍の占領から脱したが、沖縄はそのまま置き去りにされ、以後20年におよぶ米軍占領が続いた。この「屈辱の日」が4月28日。
この訴訟は、沖縄が、アメリカと日本による植民地支配をはねのける闘いだ。本土の労働者人民の連帯が問われている。
大江・岩波裁判 軍関与が確定
大江・岩波沖縄戦裁判で最高裁が上告を棄却し(4月21日付)、強制集団死に軍の関与を認めた判決が確定した。
この裁判は、岩波書店発行の『沖縄ノート』(大江健三郎著)などで日本軍が「集団自決」を命じたとされたことが名誉毀損だとして、元座間味島戦隊長・梅澤裕と元渡嘉敷島戦隊長・故赤松嘉次の弟秀一が、岩波書店を相手取り、出版差し止めと慰謝料の支払い、謝罪広告の掲載を求めて起こしていたもの。高校日本史教科書の06年度検定では、裁判係争中を理由に「集団自決」における日本軍強制の記述が削除された。
沖縄の怒りは沸騰し、県議会と県内全41市町村議会が記述の回復を求める決議をあげた。強制された集団死を新たに証言する人が次々とあらわれた。07年9月29日には11万人の参加で検定意見の撤回を求める県民大会が開かれた。
08年3月の大阪地裁判決は、両戦隊長による「集団自決」への関与は「十分に推認できる」とし、名誉毀損の訴えを退けた。同年10月の大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。
今回、最高裁第一小法廷は「原告の事実誤認などの主張は、上告が許される場合にあたらない」として梅澤らの上告を退けた。
当然の内容 怒りも
決定の内容は当然と言えるものだが、これだけの決定を出すのに2年半もかけ、大震災と原発事故のかげでこっそり出すような最高裁のやり方に、歴史の歪曲を許さず裁判闘争をたたかって来た人たちから「たたかいの大衆的盛り上がりを沈静化させようという意図が透けて見える」と怒りの声があがっている。
5面
5・20 東京高裁へ
三里塚・現地闘争本部裁判
「仮執行」判決を粉砕せよ
写真左奥に、天神峰現地闘争本部。封鎖処分によって、全面をスチール板で覆われている(3月27日 市東さん宅前の監視ヤグラから) |
現地攻防と一体
きたる20日、天神峰現闘本部裁判(控訴審)の判決が出されようとしている。当面する三里塚攻防の焦点だ。市東孝雄さんの農地をめぐる3つの裁判闘争、団結街道廃道処分取消を求める裁判闘争、第3誘導路をめぐる現地攻防(取消裁判をふくむ)と一体の闘いだ。
昨年から今日まで続く激しい闘いは、昨年2月の天神峰現闘本部裁判・一審の反動判決・仮執行付き判決粉砕の闘いに始まり、一気に農地強奪にまで進もうとした政府・NAA(空港会社)の思惑を完膚なきまでに粉砕した。市東さんと反対同盟は仁王立ちし、ますます闘志を燃え上がらせ、団結と結束を固めている。
市東さんの農地取り上げをねらって、「外堀・内堀」にむかってかけられるこれらの攻撃一つひとつに、確実に反撃し打ち返し、勝利を重ねていこう。反対同盟と心をひとつにして、三里塚闘争の輪を全国全人民に大きく広げていこう。5・20判決日の東京高裁闘争に決起しよう。
違法・不法の生き証人
東京高裁・井上裁判長は、現闘本部の破壊・撤去を認める「仮執行宣言」付きの反動判決をねらっている。井上裁判長は、昨年7月に始まった控訴審をわずか3回の弁論で打ち切り、2月4日、結審を強行した(本紙既報)。井上裁判長は、「仮執行宣言付き判決」を求めるNAAに意見表明を求める一方で、反対同盟の証拠・証人調べ要求を拒否した。とりわけ旧地主・石橋政次氏長男の妻で、最重要証人である石橋恵美子氏の偽りの証言(一審)に対する反証の機会さえ奪い去り、現闘本部建物の実地検証を一審に続いて拒否したことは許されない。
現闘本部は、三里塚闘争が始まった当初から1990年の成田治安法による「封鎖処分」を受けるまで、現地闘争の本部、司令塔として、また同盟・支援の会議や結集の場として、さらに天神峰地区の公民館的役割をも果たしてきた。まさに「三里塚闘争と言えば天神峰現闘本部」といえる存在である。
旧地主である石橋政次氏は、闘いからの離脱に際し、「現闘本部をどのように使ってもらっても構わない」と念書を書き、現闘本部底地を分筆してまで残した。反対同盟は毎年地代を支払ってきた(領収書あり)。そして木造部分をそのまま1階部分として残し、3階建物に増築した(89年)。したがって反対同盟の地上権、賃借権の保有は明確であり、石橋恵美子証言(一審。弁護側の反証認めず)の偽証は明らかだ。また「木造建物は現存しない」(地上権を有する建物はない)とするNAAの主張が偽りであることは、実地検証をすればただちに明らかとなる。
東京高裁井上裁判長は、このいずれをも拒否しているのだ。NAAの主張を鵜のみにした、およそ「公正・公平な裁判」などと言えたものではない。
なお、国交省による、成田治安法を適用した現闘本部「封鎖処分」は、90年に発動され、この20年間、毎年9月に更新されている。成田治安法は、反対同盟と三里塚闘争の運動拠点を暴力的に奪い取る、憲法違反の反対運動禁圧法である。国・空港会社はその違法・不法をおし隠し、「生き証人」たる現闘本部建物そのものを抹殺しようとしているのだ。
判決日を一方的に指定
2月4日の公判では、反対同盟・弁護団から井上裁判長に対する「裁判官忌避」の申し立てが出された。これによって訴訟手続を停止しなければならないにもかかわらず、井上裁判長は、判決期日を「5月20日午後2時」と一方的に指定した。
反対同盟と共に5・20に全力で決起し、仮執行付きの反動判決を粉砕しよう。天神峰現闘本部を守り抜こう。
尼崎事故 6周年 JRは責任とれ
4月24日、国労大阪会館において「ノーモア尼崎事故、命と安全を守る4・24集会」が開かれ、国労組合員をはじめ70人を上回る人びとが参加した。
今年の集会は、昨年12月から始まったJR西日本山崎前社長に対する裁判報告、4・25ネットワーク遺族からのメッセージ、JR現場労働者、闘う闘争団、日本航空不当解雇原告団のアピールを受け、ともにたたかっていくことを確認した。
「JRに安全と人権を!株主・市民の会」桐生さん (4月24日 大阪市内) |
東電幹部と同じ
「JRに安全と人権を! 株主・市民の会」桐生さんが「山崎社長の『業務上過失致死傷』裁判とJR西日本の体質」という報告をおこなった。桐生さんは、遺族と共に昨年12月21日の第1回公判から17回に及ぶ裁判を傍聴している。以下、報告。
裁判の争点は、(1)危険なカーブにATSを整備するという共通認識があったか、(2)カーブの付け替えとダイヤ改正で事故の危険性が高まったと認識できたか、(3)カーブ付け替え直前に起きたJR函館線脱線事故について「ATSがあれば防げた事故」と認識できたか、である。この裁判において、証人として出廷したJR西日本の社員は、「乗務員が制限スピードをこえて運転するとは思っていなかった、想定外だった」という前提のもとで、都合の悪いことは「隠す、過小評価する、嘘をつく」等をくりかえしている。「速度標識は何のために設置するのかわからない」「曲線は危険でない」「ATSの設置は乗客の転倒防止」「脱線限界転覆速度を知らない」等、まるで、福島第1原発事故で真実を隠す東電幹部と同じだ。そして、組合つぶし・日勤教育などの専制的な職場支配のもと、「物言えぬ職場」になっていた。山崎前社長は、「本当のことを話すことが供養になる」と言っていたが、証人たちは事前レクチャーを受け、想定問答集をつくり会社ぐるみのごまかしをしている。
口裏あわせの証言
4・25ネットワークの遺族は、最初にメッセージを紹介。「『彼らには鉄道マンとしての誇りはないのか!』―山崎前社長の裁判で証人として出廷し、会社と被告人を擁護する口裏合わせによるJR西日本の現・元社員の証言を聞くたびに、傍聴席にあふれる怒りと落胆の声です。被害者が望む〈事故原因究明のための裁判〉というより、明らかなウソで真実をいつわり、会社にゴマをする証人たち。彼らの、国鉄時代からの長年の経験・仕事の実績をみても、『覚えていない』『知らない』を繰り返す証言態度は、法廷を侮辱し、真実に背を向けるJRの姿勢がありありと見られます。愛する家族を奪われ、傷ついた遺族・負傷者の目の前でさらに苦しみを与えないで。事故を検証し、本気で安全最優先の企業になろうとするならば、これまでのような法廷での態度は許されません」。続いて、「命と安全をまもるJR、ノーモア尼崎事故」を実現するために国労組合員と地域の仲間のさらなる監視とたたかいを呼びかけた。
JR現場労働者は、契約社員の実態と社員化への取り組みを報告。
乗務員労働者は「尼崎事故は、『かせぐ』・利益優先のなかで起きたが、その当時の現場にもどりつつある。このかん起きた加島駅・舞子駅事故を受けて乗務員の負担が大きくなっている。そして増収活動も半強制的におこなわれている」と報告した。
佐賀闘争団の大串さんは近況を報告したあと、残された課題である雇用問題・JR復帰に全力をあげると共にJALの不当解雇問題を全国闘争としてたたかおう、佐賀の地でがんばると決意を語った。
日本航空不当解雇
日本航空不当解雇争議原告団の鈴木圭子さん(キャビンクルーユニオン)からアピールがあった。「日本航空は、昨年12月31日に165人の大量解雇を強行した。これに対して1月19日、パイロット74人、客室乗務員72人の計146人は、この解雇は違法・不当と東京地裁に提訴してたたかっている。日本航空の経営破綻に、労働者の責任はない。希望退職目標の1500人を上回る1733人が応じ、新たな解雇の必要はない。たたかう労働組合をつぶすという意識性が貫かれている。許せない。このたたかいは『整理解雇4要件』をまもるたたかいでもある」と訴えた。
国鉄闘争共闘会議の野坂さんが集会の集約をおこなった。野坂さんは、「6年前の尼崎事故、3・11大震災とそのもとで起きた東電の福島原発事故は、新自由主義・グローバリゼーションのなかでおきたもの。東電の対応はJR西日本と同じ。ノーモア尼崎・フクシマを実現していくためにも、たたかう労働組合を強化していこう。国鉄闘争団のJRへの雇用、日本航空の解雇撤回闘争をかちとろう」と訴えた。
最後に集会アピールを採択して終わった。(国労組合員 T)
6面
放射線による緩慢な殺人
文科省が、4月19日、学校などの屋外活動を制限する放射線量の基準値を、《時間単位で3・8マイクロSv、年間積算で20ミリSv》とした。〔1面に記事〕
これを解説する記事が、朝日新聞に掲載された。その結論は、驚くことに「放射線より、たばこの方が危険」。短文だが、政府や御用学者が流すウソとデマの典型なので、取り上げて批判する。〔記事抄録は右下〕
朝日記事の問題点は、自然放射線と人工の放射性物質を混同させ、そして外部被ばくと内部被ばくの危険性の違いを無視している点だ。核政策を推進する国際放射線防護委員会(ICRP)の主張を基準にしているところが大きな問題なのだ。
「ただちに影響ない」の後に・・・
「放射線より、たばこが危険」?! |
朝日新聞4月24日付「ニュースがわからん!」の抄録。「放射線、人の体への影響は?」と設問し、問答形式で答えているが、ICRPの基準に則り、被ばくによる被害を意図的に過小評価。〔下線は引用者〕 |
人工放射性物質
放射線は自然界にも存在している。宇宙線やラドンなど。これも発ガンリスクのひとつになっている。自然に浴びているから無害ということではない。世界の自然被ばくの平均値は2・4ミリSv/年。日本はラドンが少ないため、1・5ミリSv/年。
人工の放射性物質の危険は、自然界の放射線とは次元が違う。
人工の放射性物質とは、核分裂反応によって、人工的に生成された物質で、セシウム137、ヨウ素131、ストロンチウム90、プルトニウム239など。いずれも不安定で崩壊過程で強い放射線を出す。
人類は、2万年の進化の過程で、自然放射線を出す物質については、体内で認知し、尿などで体外に排出するメカニズムを持ってきた。
しかし人工の放射性物質は、ここ60年ぐらい前に出現したもので、人体にとって全く未知。しかも自然界のミネラルや金属と非常によく似ている。そのために人体は間違えて体内に取り込んでしまう。しかも、身体は、新陳代謝に必要な微量元素を濃縮する作用を持っているので、放射性物質を濃縮する結果となってしまう。そして内部被ばくを引き起こすことになる。
外部被ばく
外部被ばくとは、ガンマ線や中性子線など、貫通力の強い放射線が身体を突き抜けることによっておこる被ばくだ。
福島第一原発で事故処理作業に動員されている労働者や、原発から30q圏および高汚染地域の住民は、この危険にさらされている。
朝日記事は、「年間100ミリSvを超えなければ、体に影響は出ない。20ミリSvはかなり、余裕を持った数字だ」としている。
とんでもない。20ミリSv/年は、「放射線管理区域」の4倍。放射線管理区域は、危険だから厳重な防護が必要な場所。18歳未満の就労が禁止されている。その4倍だ。
しかも急性障害(脱毛や致死)には「しきい値」(放射線障害がおきるかどうかの境となる値)があるが、晩発障害(ガンや白血病)にはしきい値はない。「被ばくのリスクは低線量でも存在し、しきい値は存在しない。最小値の被ばくであっても、人類にたいして危険を及ぼす可能性がある」(米科学アカデミー委員会 05年)
内部被ばく
内部被ばくは、体内に取り込まれた放射性物質が、体内で放射線を出すことだ。内部被ばくは、福島に限らない全国の問題だ。
「X線検査の4回分」「100ミリSvを超えなければ」などといっているのは、外部被ばくのケース。内部被ばくはメカニズムが全く違う。
たとえば、線香の火を考えてみよう。線香の火から10センチ程度離れたところで、手 をかざしても熱くない。何時間でも熱さを感じない。しかし、線香の火を直接皮膚に押し付けたら、5秒も耐えられない。これと同じことが、内部被ばくでは起こっている。
ベラルーシでの甲状腺ガン発生の推移〔E・デミチク教授(ベラルーシ)による〕 |
《放射性物質を取り込んでも、大部分は排出されるから大丈夫》という見解もある。しかし、体内に取り込まれた放射性物質の動態はよくわかっていない。大丈夫などといえない。現に、チェルノブイリの子どもたちが甲状腺ガンや白血病で苦しんでいるからだ。
《放射線を浴びても、病気になる人とならない人がいる。だからすべて危ないとはいえない》という見解もある。たしかに全員がなってもおかしくないが、そうはなっていない。だからといって、内部被ばくによるガンや白血病の危険を否定することはできない。現に、チェルノブイリの子どもたちにガンや白血病が異常に増えた。
放射能の影響をもっとも受けやすいのは乳児や胎児だ。 チェルノブイリに近いベラルーシでは、小児甲状腺ガンの発生数が異常に高い。
国際的には、15歳未満の子どもの甲状腺ガンは100万人に1人か2人。ところが、汚染地では、それが100倍、多い地域では130倍に跳ね上がった。〔図表1〕
発生が増え始めたのは事故から5年後で、10年後にはピークを迎えた。〔図表2〕
甲状腺ガンで苦しむ子ども。悲嘆にくれる親。チェルノブイリの悲劇が、福島でくり返されようとしている。にもかかわらず政府や御用学者は「ただちに影響はない」とくり返している。
核推進のICRP基準
政府や朝日記事が「安全だ」と主張する場合、その基準値に問題がある。その基準とは、国際放射線防護委員会(ICRP)がつくったものだ。
1950年に設立されたICRPは、放射線にかんする世界的権威とされている。しかしその実態は、広島・長崎に投下した原爆を開発した「マンハッタン計画」にかかわり、アメリカの核政策を推進するメンバーを中心に組織されたもの。それを批判する研究者は排除された。ICRPとは、核兵器製造と原子力産業の推進を、科学の装いをこらして支える組織だ。
ICRPの示す基準とは、「放射線被ばくを生ずる有益な行為を不当に制限することなく」、「経済的、社会的要因を考慮に入れて合理的に達成できる限り低く」(ICRP勧告)と明記している通り、核兵器製造と原子力産業を推進する立場から、告発や批判をかわし、核政策が妨げられないようにするための基準。守る対象は、人間の健康ではなく、核による支配なのだ。
「ただちに影響はない」という文言に誰しもが疑念を抱くのは、ICRP基準の目的そのものが、人間の生存と相容れないものだからなのだ。
内部被ばくを隠蔽
1949年、アメリカは、広島にABCC(原爆傷害調査委員会) を設置、被ばく者を集めるが、治療は一切せずに、調査だけを行い、死亡者は全身を解剖し臓器をアメリカへ送って、研究資料にした。医者も患者も被ばくの被害について話したり、記録したりすることを禁じられた。情報を厳しく統制し、真実の告発者を弾圧した。そして、「原爆投下後、3〜4週間で死ぬべきものはすべて死んで、9月上旬において原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」と宣伝した。
アメリカは、核によって世界を支配する上で、核兵器が大きな破壊力を持っている点は誇示したかったが、長期で深刻な被害と汚染という事実は隠蔽したかった。だから、ABCCの調査は、原爆による即死者のみを扱い、死の灰による内部被ばくで、多くの人が、原爆投下から数十年後にも、ガンや白血病、様々な内臓疾患に苦しみ、殺され続けている事実を隠蔽した。
この隠蔽が、今日をも支配し、ICRPの基準は内部被ばくを無視するものとなっている。朝日記事も、「広島・長崎のデータ」をあげているが、同じ観点に立っている。
命の危険 未来の破壊
核支配との対決
政府や御用学者がくり返す「ただちに影響はない」という文言の意味が見えてくる。それは、《急性障害は出ない》という意味に過ぎない。その言葉の後に、次にような言葉が伏せらている。《ただちに影響はないが、10年後、20年後には一定の確率で必ずガンや白血病を発症する》と。
アメリカは、ここを伏せることに全力を挙げてきた。事実を隠蔽し、人民を騙して、核による支配(核兵器製造と原子力産業)を肯定させようとしてきた。
言いかえれば、ここが暴かれると、核による世界支配が立ち行かなくなるという問題であった。
「ただちに影響はない」という一見、些細な文言が、実は、核支配体制との対決点をなしてきた。
20万人がガンに
広島の原爆投下では、爆発や熱風だけでなく、その後の放射性物質による被害で、20万人(被爆後5年間)もの人びとが殺された。福島第一原発から放出されている放射性物質の総量は、単純計算で、すでに広島原爆の40倍におよんでいる。〔下欄外〕
しかも、事故から2カ月近くになるが、放射性物質の放出を止める目処がたっていない。こんな長期間、放射性物質を撒き散らす事態は、人類史上、類例がない。
深刻な警告がなされている。「内部被ばくを考慮すると、日本で今後20万人が、福島事故の影響でガンになる」(放射線リスク欧州委員会=ECRR・バズビー科学委員長)〔下欄外〕
被ばくとは、10年、20年かけた《緩慢な殺人》だ。そういう事態に私たちは直面している。
核と現代社会の転覆へ
緩慢な死の強制に立ち向かうのは、容易ではない。それを知らされてもどうしようもない人びとが数多く存在する。避難すべきと言われても、去るも地獄、残るも地獄なのだ。
福島の住民・農民、全国の若者や若い母親たちがいま、この事態に向き合い、憤りを表明し始めている。広範な人民が、「ただちに影響はない」とくり返す政府や御用学者に不信を突きつけている。
命が危険にさらされ、現在のみならず何世代も先の未来までもが破壊される。それが、核であり放射線なのだ。核と生命は相容れない。黙っていたら命も未来も守れない。
核によって支配された現代社会を根底から拒否する決起が始まっている。
ベクレルとシーベルト
ベクレル(Bq)は、放射性物質が持つ放射能の強さを示す単位。1秒間に1個の核分裂(原子の崩壊)がおこるのを1ベクレルと定義する。例えば、100べクレルと計測された水道水は、1秒間に100個の原子が崩壊するだけの放射性物質が含まれている。
シーベルト(Sv)は、放射線を人が浴びた場合の影響の程度を示す単位。弱い放射線を発する物質(ベクレルの数値は小さい)でも、距離が近ければ、人への影響は大きくなる(シーベルトは大きくなる)。
放射性物質の放出量 広島原爆の40倍
福島第一原発事故で事故後1ヶ月に放出された放射性物質は、ヨウ素に換算すると、概算でチェルノブイリ事故の約10分の1(4月11日 原子力安全委の試算発表値)。チェルノブイリ事故で放出された放射性物質は、広島原爆の400倍。とすると、福島第一原発事故で放出された放射性物質は、広島原爆の40倍に相当する。
しかもチェルノブイリとちがって、福島第一原発の放射線放出は現在も止まっていない。
ECRR予測 ガン20万人
内部被ばくの量を考慮しないICRPのリスクモデルでは、福島の原発事故によってガンになる人の数は約3千人。
しかし内部被ばくを考慮したECRRのリスクモデルを使い、日本で発表された放射線量からガンになる人の数を予測すると―
☆原発から100q圏内に住む300万人が、1年間避難せずにそこに住み続けた場合、10年以内にその30分の1(10万人)がガンに。
☆100qから200q圏に住む700万人についても、同様にその70分の1(10万人)がガンに。
よって計20万人が10年以内にガンと診断される。
7面
震災下の排外主義を考える 東京・池袋
4月10日、都内で「震災下の排外主義を考える フィリピン人一家嫌がらせ事件から丸2年〜外国人は日本社会の『邪魔者』なのか」集会がひらかれ、70人が参加した。「差別・排外主義に反対する連絡会」がよびかけたもの。
私たちのあり方の検証
最初にパネリストとして、ジャーナリストの安田浩一さん。「在特会による2年前の埼玉県蕨市での行動が、排外主義をあおる画期となった。なぜ、彼らの行動が本格化したのか。彼らは排外主義で、在日・滞日外国人を攻撃することを快感と感じている。かれらは、社会から見放された自己の存在が、『外国人でていけ』と叫ぶことで日本人になれる、そう自己確認する思考構造になっている。一般社会では、ひそひそ話でおこなわれてきた排外主義を、彼らは大ぴらに叫んでいる。この行為の基底には、日本社会の排外主義がある。しかしこれまでと違う落差はある。在特会を社会的に包囲していくことはこれまでの私たちのあり方を検証していくことでもある。このかんのたたかいで、在特会は低調になっているが、たたかう力を弱めてはいけない」と問題提起があった。
民族教育の危機
在日本朝鮮人人権協会の金東鶴さんは、高校無償化問題が戦後の3番目の民族教育の危機にあることを訴えた。「東北の福島県郡山市と宮城県仙台市にある朝鮮初中級学校が避難所となっており、日本人と朝鮮人が力を合わせて避難生活を送っている。炊き出しや援助物資を共有しながら暮らしている。昨年8月、文科省は教育と外交問題はリンクさせないとしたが、11月の朝鮮半島での砲撃事件を口実に朝鮮高校無償化を葬り去ろうとしている。決着はついていない。その上ほんの微々たる助成金を、この3月に宮城県はうち切ってきた。許せない気持ちだ。在特会などとんでもない団体がいるが、その根底には日本人の共通課題が横たわっている。南、北にかかわらず、在日の民族教育をつぶすことが狙いだ。戦後、阪神教育闘争、1965年韓日条約の法的地位協定の交渉時でも『帰化』同化攻撃が吹き荒れた。今回の問題は民族教育をめぐる3度目の重大事態。今日参加された皆さんや、東北で一緒に被災された方がたとの共同のたたかいがある。心ある日本人、諸外国人と連帯してたたかっていく」と決意を述べた。
最後に、「排外主義とたたかうネットワーク関西」の仲間と、「差別・排外主義に反対する連絡会」の仲間が報告した。
外国人も多数被災
質疑・討論の中で、「東日本大震災の被災地にはどれくらい外国の方がいたのか」との問いに、安田さんは「2万8千人の外国人がいた。7、8割は中国人。そのうち8割は中国大使館の指導で帰国している。水産加工ではインドネシア人が多い。相当数が被災で亡くなっていると思われるが、全く数字がでていない。時給3〜400円でこき使われていた。1万数千人の行方不明者の中には外国人も多いと思う。これからさらに取材するつもりだ」と答えた。
最後に主催者から、集会・デモの準備と実行委員会立ち上げの提起があった。
8面
反核・原水禁運動を語る 米澤鐵志さんが講演
米澤鐵志さん(4月17日 広島市内) |
8・6ヒロシマ平和の夕べ(2011年)プレ企画として、「平和を語る会」が4月17日、広島平和記念資料館で開かれた。電車内被爆者であり、戦後の反核・平和運動に参加してきた米澤鐵志さんが「平和運動、原水禁運動」について話した。
呼びかけ人の一人、河野美代子さんが司会。「今年の8・6は、『はだしのゲン』の中沢啓治さんの話、元京大原子炉実験所・小林圭二さん、伊方原発訴訟など手がけた草薙順一弁護士に話していただく。企画している最中に、大震災、原発災害が起きた。原発についても、お二人から聞かせてもらえる。今年は8月だけでなく、このプレ学習会を持つことにした」とあいさつ。
民衆に根ざした被爆者運動の教訓
米澤さんは小学校5年生のとき、ちょうど8月6日の朝、母親と疎開先の高田郡から日用品をとりに広島市内の実家に戻る途中、八丁堀付近を進行中の路面電車内で被爆した。
戦後、中学高校のころから共産党の運動に加わり、高校を退学処分に。その後、学生運動、反核・原水禁、平和運動にずっと邁進してきた。
◇プレス・コード下で
広島では米占領軍による厳重なプレス・コード(報道規制)が敷かれ、原爆の惨禍を知らせることはもとより、原爆禁止・反対運動は弾圧によって非合法下におかれた。
米澤さんは、「父の影響もあり、はじめは原爆反対というよりも『社会を変える』と、中学校1年ころからいろいろ運動に参加した。米軍占領下では、原爆のことにふれる運動はできなかった。太田洋子、原民喜、峠三吉らが文学という形で表現していた。1948年にはじめて労働者平和祭がおこなわれた。49年、海田の日鋼争議がたたかわれ、平和擁護広島大会ではじめて『原爆破棄の大会宣言』が公けにされた」「50年には、共産党中国地方委員会の機関紙『平和戦線』が原爆の写真を出したが、弾圧され禁止。6月、朝鮮戦争。8月6日、非合法下で同時多発集会をおこない、青年たち、朝鮮人労働者たちが福屋デパートの屋上から『原爆禁止、朝鮮戦争をやめろ』というビラを撒いた。ビラは、私が腹に隠して持ち込み、朝鮮人青年に渡し、彼が撒いた」と、当時のもようを証言した。
◇ソ連核実験めぐって
その後、原水禁運動は大きく広がるが、「社会主義の核」をめぐって共産党から混乱が持ち込まれる。広島、長崎、静岡(焼津、第5福竜丸)の被爆3県と原発反対の新潟、沖縄戦の体験から沖縄が加わり、おもに5県原水協は「被爆者救援を求め、原爆・水爆に反対する。いかなる国の核実験にも反対する」と、重要な役割を果たした。 各地の原水協事務局は共産党の活動家が占め、署名集約のための事務局がいつのまにか『指導部』になってしまうなど、大衆的な署名運動の原点を失っていった。しかし、被爆者と大衆的な運動による平和・反核運動、運動の統一を願う人びとは、いつも運動の中にいた。
米澤さんは、自らの運動参加と体験のなかから原水禁運動の初期、共産党内部の「路線論争」、原水禁運動の曲折など、反戦平和運動史の重要な証言と教訓を語った。
米澤さんは「まだ、話し足りていない」という。原水禁運動、戦後平和運動に参画した総括、教訓、党の係わりなど、くわしく紹介する機会は別に設けるという。(T)
8・6ヒロシマ平和の夕べ 中沢啓治さんが講演
「8・6ヒロシマ平和の夕べ〜2011年の集い」呼びかけ、賛同・参加お願いのチラシが、実行委員会から配布された。〔左〕 今年は、平和講演を、被爆者で『はだしのゲン』作者の中沢啓治さんがおこなう。
「こどもたちの見た戦争、
はだしのゲンとともに」展 〜7月11日まで
広島平和記念資料館で『はだしのゲン』の原画などを展示 |
今年の「平和の夕べ」で平和講演をおこなう『はだしのゲン』作者・中沢啓治さんの「こどもたちの見た戦争、はだしのゲンとともに」展が、いま広島平和記念資料館で開催されている。
会場には、戦後、施設に収容された「原爆孤児」たちの苦しく貧しい生活の様子、写真、『はだしのゲン』の原画などが展示されている。
燃える家の下敷きになって焼け死ぬ家族、多数の遺体や負傷者が似島(にのしま)へ舟艇で運ばれるところの大きな原画の場面に見入る人たち。
会期は7月11日(月)まで。開館時間は毎日8時30分から午後6時。(入館は午後5時30分まで)地下1階展示室5。