未来・第64号


            未来第64号目次(2010年9月7日発行)

 1面  飛行経路を隠ぺい<8・31辺野古報告書>
     危険なオスプレイが 住宅の上を低空で

     沖縄現地の声の紹介

 2面  沖縄は日米共同声明を認めない
     高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会 共同代表)
     が講演

     マイノリティの問いかけ受けとめて
     8・15集い(大阪)

     朝鮮学校 高校授業料無償化 適用除外やめよ

 3面  「日の丸・君が代」強制反対
     都教委を150人が包囲

     全国連の呼びかけにこたえ
     9・10狭山要請行動へ

     解説 円高問題
     投機資本が市場かく乱
     米欧が日帝に矛盾おしつけ

 4面  沖縄差別うち破り
     5・28日米共同声明粉砕を 鮎川 晨

 5面  菅談話を批判する
     韓国併合100年 日本政府を追及する日本人民の運動を

 6面  8・22デッチあげ弾圧うちやぶった
     APEC口実の弾圧

     「暴処法」弾圧裁判
     デッチ上げの核心つく

     シネマ案内
     長編記録映画『月下の侵略者』
     「耳塚」から歴史認識あらためる

       

飛行経路を隠ぺい 8・31辺野古報告書
危険なオスプレイが 住宅の上を低空で

地元をだました

「報告書は到底受け入れられない。」「地元には、『被害は少ない』と宣伝してきたが、実はそうではなかったことが分かった。だましたということだ。」(稲嶺進・名護市長)
「(米側要求の)飛行経路を隠していたとすれば、怒りがこみあげてくる」(宜野座村松田区 当真嗣信区長) 8月31日、日米両政府が、「普天間飛行場の移設にかんする専門家検討会合の報告」を発表した。これにたいして、地元は怒りの声であふれている。

書いてないことが重大

報告書は、1800m滑走路2本のV字案(06年日米合意の現行案)と、滑走路1本の I 字案の2案を併記。米側はV字案、日本側は I 字案をおしている。報告書は、2案のメリット・デメリットを列記した上で、2案とも「安全性の水準を満たす」としている。ただ、米側はあくまでV字案で、日本側の I 字案については、「単に自民党と同じ案にしたくないだけだ」(米政府関係者)。
この報告書からも、基地の危険と被害、環境破壊は明らか。「被害は小さい」という政府説明のウソを突きだしている。しかし、より重大なのは、日米間で協議されながら、この報告書に書かれていない事柄だ。

V字案では名護市安部、宜野座村松田が、計器飛行経路に接近する。I字案では宜野座村松田に近接し、名護市安部の上空が計器飛行経路になる。

民家上空を飛行

まず、I 字案について、「北東方向からの計器飛行経路は陸上となる」「陸地をより多く上空飛行する」と明記。名護市安部地区の上空を飛び、宜野座村松田地区の直近を通るということだ。〔上図参照〕
これまで政府は、「住宅上空は飛ばない」と説明してきた。しかしその日本側が、住宅上空を飛ぶ案を出していた。政府は、地元にたいしてウソをつき、だましてきたのだ。

日本政府が説明していた飛行経路と米側が要求していた飛行経路の違いにより、騒音影響地域も大幅に拡大する

米、飛行経路拡大要求

さらに、V字案の飛行経路にかんして、報告書には、重要な事柄が記載されていない。
報道によれば、米側は、日米協議の早い段階から、最新鋭の垂直離着陸機MV22オスプレイを念頭に、飛行経路の変更・拡大を要求していた。日本政府の従来説明より住宅地に近接したものだ。〔右図参照〕
「地元に説明を」という米側の求めにたいして、日本政府は、この事実を隠し、ウソの説明を続けてきた。今回の報告書でも、日本側の要望により、飛行経路の拡大については記載がない。
8月31日の記者会見で、岡田外相が、初めてオスプレイ配備に言及、米が飛行経路拡大を要求する理由と認めた。

MV22オスプレイ。海兵隊の侵略殴り込みに使うため、垂直に離発着し、谷間や海面すれすれをぬうように飛行する。辺野古や北部地域でそういう危険な訓練を実施しようとしている。

危険なオスプレイ

オスプレイは、ヘリコプターのように垂直に離着陸しながら、固定翼のプロペラ機のように飛行。侵略作戦で海兵隊員や装備を輸送する。無理な機体構造ゆえ、開発中に墜落事故が多発し、数十人が死亡。騒音も激しい。
この事故多発・騒音甚大のオスプレイが、住宅地の上を低空で飛ぶというのだ。
環境アセスメントでは、オスプレイを想定していなかった。実施された環境アセスメントは無効だということだ。

陸自部隊の配備も

また日本政府は、新基地を米軍と自衛隊との共同使用にすることをねらっている。このことは報告書に記載されていないが、5・28日米共同声明では言及しており、8月31日の記者会見で、北沢防衛相が、陸自部隊の常駐を念頭に、日米作業チームを立ちあげて検討するとした。イラク派兵を通じて急速に進んだ海兵隊・陸自の一体化をさらに進行させようというねらいだ。
沖縄県民は、自衛隊に強い不信を抱いている。日本軍による集団自決強制の歴史があるからだ。それを日本側からあえて要求することは、沖縄にたいする新たな差別だ。

東京ドーム35個分

I 字案もV字案も、環境破壊は甚大だ。
V字案では160ha、東京ドーム35個分を埋め立てる。名護市東側の海岸が消滅、いくつかの動植物の生息環境が失われるといわれる。
I 字案でも120haで、海岸は残るものの環境破壊は免れない。

名護市議選から知事選勝利へ

政府は「最終決定は11月の沖縄県知事選後」として、新基地容認の仲井真知事の再選をねらう。
しかし、新基地建設に反対し、海兵隊撤退を要求する伊波洋一宜野湾市長が知事選への立候補を表明、真っ向から対決する。
名護市議選(5日告示、12日投開票)と県知事選に勝利し、日米政府に大打撃を。5・28日米共同声明と8・31報告書を撤回せよ。〔関連記事 2面、4〜5面〕

(沖縄現地の声の紹介)

名護市の稲嶺進市長

報告書は到底受け入れられない。V字であろうがI字であろうが、そもそも辺野古に新しい基地はいらないと言っている。どんな形にしようと言語道断だ。
(米側が求める飛行経路の記載がないのは)都合の悪いことは隠して、都合の良いところだけ提示してきた。とても真摯な態度で県民に向き合っているとはいえない。
地元には「被害は少ない」と宣伝してきたが、実はそうではなかったことが分かった。だましたというこだ。どう責任をとるのか。
辺野古が前提ならば、折り合いがつくことはあり得ない。
国防だから専権事項だからと、日米両政府だけで進められるものではない。沖縄と名護に生活をしている人たちを無視して進めるのは、民主主義の世界では許されない。

ヘリ基地反対協の安次富浩共同代表

一番肝心な飛行経路ですら政府間で認識が異なっていた。そんな状況で締結された日米合意とは何だったのか。 どんなに日米政府間で決めようとも、私たち県民は従うつもりはない。
日本政府は、結論は11月の沖縄県知事選以降といっている。海兵隊撤退を掲げる伊波洋一宜野湾市長の県知事選の勝利で、日米両政府に大きなダメージを与えよう。

久志区の森山憲一行政委員長

飛行経路が記載されていない報告書は、欠陥だらけのアセス同様、論外だ。

宜野座村松田区の当真嗣信区長

(米側の主張する)飛行経路を隠していたとすれば、怒りがこみ上げてくる。

ヘリ基地いらない二見以北十区の会の渡具知智佳子共同代表

(飛行経路の記載がないことに)また隠してるなという感じだ。建設を止めるには名護市議選や県知事選で民意を示すしかない。


2面

沖縄は日米共同声明を認めない
高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)が講演

8月28日東京都内で、高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会 共同代表)の講演があった(主催:辺野古への基地建設を許さない実行委員会)。その要約・抜粋を掲載する。〔文責・編集委員会〕

8月28日東京・文京区民センター

安保の深化がねらい

5・28日米共同声明は、沖縄だけの問題ではない。
この日米共同声明の趣旨は、1つは、「普天間の代替を辺野古に」と明記し、8月末までに滑走路の使用や方法を決定するというのがある。
2つは、「緑の同盟」。新たに米軍基地を建設していく場合、自然エネルギーとか環境に配慮する。そのために日本は負担するというわけだ。
3つは、「沖縄の自治体との意思疎通及び協力」。日本政府だけでなく米政府も。米軍基地をスムーズに受け入れさせ、安定的に存続させるために、地域との関係を密にすると。
これらが何のためかというと、4つは、「安全保障協力を深化させるため」だと。日米共同声明は沖縄という場所に特化するようにあらわれているけれども、最終的には日米安全保障協力を深化させていくという日本の立場に基づいてかかれている。そういう日本全体にかかわる大問題が、国会での承認もなく、地元の了解も全くないまま進められている。
沖縄では、日米共同声明は全く認められていない。米日の専門家が何を話し合おうと認めない。

名護市議選

沖縄は、日米共同声明撤回を求めて声をあげている。
12日には、各市町村議会の選挙があり、名護も市議選。今年1月の名護市長選で新基地反対の稲嶺市長が誕生した。ところが、政府は、民意として誕生した市長にたいして、それをねじ曲げていく動きをしている。沖縄担当大臣の前原さんが、落選した前市長や受け入れ派の辺野古区長を東京に呼んで、市議選の論議をしている。人口5万の自治体の市議選に国が介入するとはどういうことか。国是としての日米共同声明を何としても打ち込みたいのだ。
名護市議選で、新基地反対の候補は18人、容認・推進の候補が16人、中間が3人。定数は27人。15人をどこが本当に獲得するか。とても厳しい選挙だ。新基地反対を貫く稲嶺市長を孤立させてはならない。
私は那覇に住んでいて、那覇からとくに東恩納琢磨さんを応援にいっている。稲嶺市長を支える立場で、みなさんできる限りの支援をお願いしたい。

沖縄県知事選

11月28日、沖縄は知事選だ。8月6日、北沢防衛相が、現職で新基地容認の仲井真知事に当選して欲しいといっている。沖縄の選挙は、知事選も、主な市町村の首長選挙も、相手候補とたたかうというより、国・政府とたたかう選挙になっている。
伊波洋一宜野湾市長が出馬を表明している。知事選で、沖縄の民意はこれだということを、また新たにつくり出していくような選挙戦をやりたい。

辺野古の浜をしきる有刺鉄線。その向こうがキャンプシュワブ。全国からよせられたメッセージが結びつけられている。ここに2mの塀をつくろうとしている(写真は今年1月)

辺野古の浜に2mの塀

辺野古の浜には、キャンプシュワブとの境界線があり、有刺鉄線がある。有刺鉄線の向こう側に、沖縄の人たちは入れないが、米兵は、辺野古が大問題になる前などは、ジョギングでこえてきたりしていた。
ところが、情報によれば、辺野古の境界線に、高さ2mもの塀をつくろうとしている。
基地を囲む塀は、(沖縄のためではなく)軍人・軍属の安心のためだ。沖縄の人にとって、基地の騒音や犯罪から生活を守る手段はなかった。
なぜいま塀なのか。日本政府は、日米共同声明をそのまま実践し、もっと強硬な手段をとる必要があると見て、そのような塀をつくろうとしているのではないか。
日米共同声明の一方的な軍事優先と、そのための地域との融合というやり方に矛盾を感じる。

マイノリティの問いかけ受けとめて
8・15集い 大阪

「戦後解放されなかったマイノリティの声を聞く 8・15戦争と平和を考える集い」に参加した。戦争体験を語り継ぎ、世代をこえて戦争を考えていくという主旨で、昨年から始まったとり組みだ。(主催・戦争と平和を考える集い実行委員会)

大城盛俊さん(8月15日)

日本兵に殴られ右目失明。母は殺された

まず大城盛俊さん(沖縄県旧玉城村出身、兵庫県伊丹市在住)から、沖縄戦の体験を聞いた。
大城さんは、沖縄戦のとき12歳。その体験を1985年から語り続けている。喉頭癌で声帯を失くしたが、人工声帯をつけ、身振り手振りを交えながら、体験した沖縄戦の実相を、参加者の眼前に浮かびあがらせた。(以下、発言要旨)
「沖縄を守る」とやってきた日本軍。沖縄の人びとをまき込んだ戦争体制。1945年3月25日、米軍54万人、米艦隊1700隻、海と空からの猛攻撃。対する日本軍は9万。
「米軍に捕まったら女は強姦され、皆殺される」という日本軍のデマによって、沖縄の人びとは、「集団自決」に追い込まれた。
日本兵は、泣く子に毒液の注射を強要した。
私が隠れていたガマに、最後の別れにきた母は、夜中、帰っていく途中、日本軍に見つかり、「スパイ」と追いかけられ、手榴弾で殺された。
私は、命をつなぐ一かけらの黒砂糖を日本兵に盗られそうになり、抵抗したために殴られ、右目を失明。
「沖縄ではいまだに基地問題がある。差別だ。戦争が起きたら、沖縄が一番にやられる。基地があるから」―最後に、こう訴えた。

金城馨さん

他民族を迫害している意識が欠落

次に在日コリアンの若者は、「在日コリアンの戦後と現在〜民族的アイデンティティの観点から〜」と題する報告をおこなった。(以下、発言要旨)
植民地時代の民族差別を温存し、「反共」によって、「合法的に」朝鮮人を排除した戦後の歴史。
現在の日本社会は、「北朝鮮」バッシングと在特会、朝鮮高校無償化除外など、ナショナリズムと排外主義が台頭している。歴史認識の欠如、他民族を迫害している意識が欠落している。
多民族共生社会に通ずる教育の見直しが必要である。

差別やめさせるため日本人に向き合う

沖縄コザ(現沖縄市)出身の金城馨さん。(以下、発言要旨)
明治政府によって滅ぼされた沖縄は、130年間、植民地としてあつかわれ、日本に同化しようとして、同化しきれずにきた。
基地問題にたいして、「これは差別だ」と民衆が突きつけたことで、日本人が「普天間基地は危険」と知った。
運動体が言わなかったことを、民衆が飛びこえた。日本人は、解決のために努力してきたのか。皆無だ。
悶々としてきたが、これからは沖縄人として、「日本ではない沖縄」を自覚し、戻っていくべきと考えている。 より危険な差別がおこるだろうが、それにたいして、同化ではなく、差別をしている日本人に差別をやめさせるために、差別をする日本人に向き合って、自らを鍛えていく。
そして沖縄人は、日本としてアジアにたいしてきたことを、自らとらえかえしていく。

加害と被害の歴史

最後に実行委員会から、「私たちをとりまく現状はきびしい。それは《われわれの親が、祖父が、何をしてきたのか》に向き合うことをしてこなかったことと、無縁ではない。戦争責任と植民地責任に向き合う」と提起があった。
重い課題に正面から率直に向き合えて、内側から新鮮な意志と力が湧いてくる集会であった。(労働者通信員N)

朝鮮学校 高校授業料無償化 適用除外やめよ

朝鮮学校も無償化法適用対象とするかどうか、当初8月末までに結論を出すとしていたが、政府は先延ばしを決定した。
4月から高校授業料が無償化されたが、中井拉致問題担当相ら右翼の政治的介入により、無償化法を無視して、朝鮮学校のみが適用除外された。
たかまる批判のなか文科省は、専門家会議を設置、8月末までに結論を出すとした。しかし、31日に公表された報告書では、「具体的な教育内容」を理由に適用除外すべきでないとしながらも、適用判断は避けた。法律上、判断は文科相がおこなうとされているが、菅首相が結論先送りの指示を出したためだ。
今後、民主党政策調査会で議論し、党としての意見をまとめるという。こんなことは、いままで言ってなかったことだ。
こうした日本政府の対応は、国家まるがかえで、排外主義・民族差別を扇動する行為だ。高校授業料無償化を、朝鮮学校にも適用せよ。

3面

「日の丸・君が代」強制反対
都教委を150人が包囲

8月28日、炎天下の新宿で、都教委包囲行動がおこなわれた。主催は都教委包囲・首都圏ネットワーク。 午後2時から、新宿駅の西口、東口で街頭宣伝と署名行動をおこなった。のぼり、横断幕を林立させ、ビラまき、マイクアピールで、3時からのデモと都教委抗議集会への参加を訴えた。

新宿駅1周の繁華街デモ

デモ参加者は、3時から新宿・柏木公園に集まり、シュプレヒコール、主催者からのあいさつを受け、ただちにデモにうってでた。04年から始まった都教委包囲行動は、今年で7回目、新宿繁華街デモは初めてだ。150人のデモ隊は、《「日の丸・君が代」強制反対、10・23通達を撤回させるぞ》とアピールしながら、終始人波あふれるなかを元気よく行進した。

都庁前で集会

デモは都庁裏側の公園で終了。その後、第2庁舎前に移動して、都教委抗議集会をおこなった。
はじめに、青木茂雄さん(「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会)が主催者を代表してあいさつ。
分限免職裁判をたたかっている疋田さんが、ギターをひきながら、自作の「東京怨頭(東京音頭の替え歌)」を披露。
その後、「君が代」訴訟にかかわっている首都圏の6つの団体・個人から発言、石原都政とたたかう都民などの発言がつづいた。
全国からは、金沢、仙台、三重、兵庫(「日の丸・君が代」の強制に反対する阪神連絡会、憲法の改悪に反対する元教職員ひょうごネットワーク)、大阪(門真三中への「君が代」処分をただす会)が発言した。
映画『死んどるヒマはない』の益永スミコさん(86歳)も発言。
最後に集会決議を採択し、都教委にむけてのシュプレヒコールでしめくくった。

都教委と石原がいる都庁にむかって怒りの拳(8月28日都庁前)

30日 都教委を徹底追及

28日のたたかいにふまえ、週明けの月曜日に、都教委への抗議・要請行動がたたかわれた。26人の要請団が都教委にでむき、1時間45分にわたり都教委を追及。要請書は16団体・個人が読み上げて、つきつけた。

都教委のもくろみは失敗

《集会決議より》学校現場が厳しい状況におかれる中であっても、卒・入学式における「日の丸・君が代」の強制に屈しない教職員の闘いは続いています。
2010年にも7名が「君が代」不起立・不伴奏をおこない処分されました。被処分者の累計は合計430名にものぼっています。不起立・不伴奏をゼロにするという2003年当時の都教委のもくろみは見事に失敗しています。
私たちは、被処分者と連帯しつつ、石原都政下の都教委を糾弾し、都の教育行政の民主化を強く求め、さらに改悪教育基本法の実働化を阻止していこうではありませんか。

全国連の呼びかけにこたえ
9・10狭山要請行動へ

狭山事件は、1963年の事件発生と、石川一雄さんの不当逮捕から、47年もの歳月がながれている。現在、石川さんは、東京高裁にたいして、第三次再審請求を申し立てている。

貫かれる部落差別

 

石川一雄さんは、晴天白日、無実だ。
この裁判のすべて、事件発生から、捜査、逮捕、取調べ、そして起訴、裁判、判決、また棄却、決定などすべてにわたって部落差別が貫かれているということを、もっと声を大にして訴える必要がある。
石川さんの47年にもわたる訴えに、心底からこたえ、ともに狭山の完全勝利にむかってたたかおう。

こじ開けた証拠開示

第三次再審請求は、この秋、重大な時期をむかえている。昨年12月、東京高裁・門野裁判長が「証拠開示」勧告をおこなった。これをうけて東京高検は、今年5月13日、勧告を受けた8項目のうち5項目について、36点の証拠を開示した。
開示された証拠は、「殺害現場」とされる雑木林に隣接する畑で、事件当時農作業をしていたOさんにかかわる捜査報告書2通をはじめ、石川さんの筆跡資料6通、取調べにかんする捜査報告書など19通、そして取り調べの録音テープ9本。
◇1981年の開示
再審段階に入ってからは、1981年に、Oさんの供述調書や捜査報告書など4通の証拠開示がおこなわれた。 この証拠開示で初めて、「殺害現場」とされる雑木林に隣接する畑で農作業をしていたOさんの存在が、明らかになった。Oさんは、事件当初から「悲鳴は聞いていない」「何も変わったことはなかった」と調書で述べている。
今回の開示は、81年段階には開示されなかったもの。
◇1988年の開示
その後、この殺害現場とされる雑木林で血液検査をおこなっていたということが、当時の鑑識課員の証言で明らかになった。国会でも問題になり、その経過の中で1988年、「逆さづりをした」とされる「芋穴」の血液検査報告書が証拠開示された。
◇今年5月の開示
この88年以降、証拠開示の流れは、いったん止まった。それから20年以上のたたかいをへて、今日、三者協議が開催され、今年5月の証拠開示に至った。これには大きな意味がある。狭山再審をめぐる状況が動いたということだ。
たしかに、開示された証拠には、核心をあえてはずした欺瞞的な意図が感じられる。しかし、狭山闘争の大きな流れからいえば、やっと握り締めた勝利への「ひとすじの光」だ。

石川さんと心ひとつに

東京高検がすべての証拠を開示するよう、岡田裁判長がさらに勧告をつよめるよう、強く要請していかなくてはならない。裁判所の外の運動の力は、内にある裁判闘争の大きな推進力になる。弁護団のたたかいを力強くささえ、石川一雄さんと心をひとつにたたかっていこう。
石川さんは毎週2回、東京高裁前でアピールを行っている。部落解放同盟全国連が9月10日の要請行動を呼びかけている。わたしたちも、このたたかいにこたえ、連帯して、東京高裁、東京高検への要請行動に決起しよう。

解説 円高問題
投機資本が市場かく乱
米欧が日帝に矛盾おしつけ

リーマン・ショック時に1ドル=110円だった為替相場が、8月24日に83円台になるなど、急激な円高となっている。輸出関連企業を中心に株価も下落して、民主党代表選の迷走ぶりと日銀の無策ぶりにブルジョアジーからの批判が集中している。しかし、そもそも日本帝国主義に打開策などない。

追加金融緩和も効果なし

08年以降の円高傾向は、リーマン・ショック以来の米経済への不信と低金利政策によるものだった。そこにギリシャ・スペインなどの財政危機でユーロ安が重なり、この間は、円の独歩高となっている。
日本経済の長期低迷と財政危機のなかでのことであり、「非常事態だ」という悲鳴になっている。
しかし、日本が単独でドルとユーロを買い支えられるはずがない。もともと市中マネーはじゃぶじゃぶ状態だと言われてきたが、グローバリズム下では国外に流れでるだけで、日銀が10兆円の追加金融緩和策をうち出したところで、一時的効果も期待薄だ。

米・欧は歓迎

米オバマ政権は、ドル安のもとで輸出を拡大しようとしており、ドイツもこのユーロ安を背景にギリシャなどの国債を買い支えた分をとりもどそうとしている。ドル安・ユーロ安は、米欧帝国主義の歓迎するところだ。
さらに、中国が、外貨の一部を円に振り替え、ロシアが、カナダドルを買っていると言われる。
国家ファンドを先頭に、行き場を失った投機的資本がリスク回避を求めて引き起こされた円高なのだ。過剰資本による市場の混乱と帝国主義間争闘戦のなかで、日帝の一人負けという問題だ。即効薬などあるはずがない。

なお儲ける大企業

ただし、原料・エネルギー資源の割安化のメリットに加えて、生産拠点の海外移転や円建て決済貿易の増加などで、日本の大資本にとって、円高による損益は90年代までのようなことはなくなっている。
「1円の円高で350億円の減益になる」(トヨタ)というのは計算上の事実であろうが、円高で有利になった海外投資でもっと儲けたいための言い訳にすぎない。

労働者・中小企業が犠牲に

本当に問題なのは、海外移転の加速で雇用を奪われようとしている労働者と、輸出が困難になり、国内市場も輸入デフレで打撃をこうむる中小企業だ。
資本主義は、勝手に自滅してくれはしない。国民生活をボロボロにしてでも生き残ろうとするのであり、労働者人民の生き死にのかかった情勢がつづいている。

4面

沖縄差別うち破り
5・28日米共同声明粉砕を
鮎川 晨

沖縄に米軍基地が集中しているのは、日本人(大和民族)による 琉球・沖縄人にたいする差別の結果だ

自己決定権と構造的差別

ここ数年の沖縄におけるたたかいの中で、つぎの二つの言葉が、キーワードとして浮かびあがってきている。「自己決定権」と「構造的差別」だ。
この二つのキーワードは、日本人が、通常思い描くような、「日本のなかの沖縄」というイメージをうちこわし、「日本 対 沖縄」という対立構造を前面化させている。
もはや、この対立構造と正面から向き合うことを避けて、日本の民衆が、沖縄の民衆との間で、真の意味での連帯をきずくことは不可能であろう。
今年5月28日、辺野古への新基地建設を再確認した日米共同声明が、日本人民に突きつけたもの―それは、日本と沖縄の間に横たわる緊張関係を自覚することなしには、けっして克服することのできない、日本階級闘争それ自身の弱点なのだ。

知事の反乱

沖縄の自己決定権という問題が、日本社会の中で最初に表面化したのは、1995年に大田昌秀・沖縄県知事(当時)が米軍用地を強制使用するための代理署名を拒否したときであった。このとき大田県知事のたたかいを支えたのは、米兵による少女暴行事件にたいする沖縄県民の圧倒的な怒りの声であった。
この「知事の反乱」は、日米安保体制を根幹から揺るがす事態であった。
それは、次のような事情による。
◇ソ連崩壊
まず「ソ連の侵攻を未然に防止する」という日米安保体制を維持・強化するための大義名分が、91年のソ連崩壊によって失われてしまったことだ。90年代前半は、日米安保の存在意義、そして日米安保に基づく在日米軍の存在意義そのものが問われていた。
まさにそのときに、在日米軍基地の75%が集中している沖縄で、「知事の反乱」が起こった。
◇日米安保の再定義
当時、日米両政府は、94年の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のNPT(核拡散防止条約)からの離脱問題をクローズアップさせながら、「アジア・太平洋地域の軍事的脅威に対処するため」の軍事同盟として、日米安保を再編する方向へ大きく踏み出そうとしていた。それは海外で米軍と自衛隊とが共同して軍事行動を行うということであり、日本防衛を建前とした日米安保や自衛隊の性格を一変させてしまうものであった。
「知事の反乱」は、そうした「日米安保の再定義」を吹き飛ばしてしまう可能性をはらんでいた。
SACOと安保共同宣言
日本政府は、一方では、知事の代理署名拒否を違法とするきわめて強権的な司法判断を下しながら、他方で、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)中間報告で、「普天間基地返還」を目玉とする在沖米軍基地の「整理・縮小」案を発表した。
これによって「知事の反乱」は終息する。日米両政府は、SACO中間報告発表から2日後の96年4月17日、「日米安保共同宣言」を発表した。
このようにして、自己決定権を求める沖縄の声は、無残にも踏みにじられた。

4月25日沖縄県民大会(読谷村運動場)

新たな島ぐるみ闘争

07年、文科省が高校歴史教科書から、日本軍が沖縄戦において集団自決を強制したという記述を削除させた。このとき、ふたたび沖縄の怒りが日本社会を揺るがした。
文科省にたいして検定意見の撤回を求める県民大会が、同年9月29日におこなわれ、沖縄県全体で12万人という空前の結集を実現した。
このたたかいは、自公政権下で猛威をふるった新自由主義的構造改革と改憲・日米軍事一体化路線に対決する大規模な大衆闘争が可能であることを証明した。
当時、小泉政権の後を継いだ安倍政権は、教育基本法改悪と国民投票法制定を次々と強行し、集団的自衛権の行使の容認から改憲に向けて一気に攻撃を進めるかに見えていた。
しかし、同年7月29日に行われた参議院選挙で自公が大敗を喫し、安倍は県民大会が開催されたときには、退陣していた。
07年9月の沖縄県民大会は、まさに政党・党派を超えた「島ぐるみ」のたたかいであった。また集団自決を経験した世代から高校生・中学生まで、沖縄のすべての世代が闘争に参加した。それは、労働組合や自治体などによる組織動員の枠をこえて、さまざな個人・グループが友人・知人を誘い合い、また家族・親族ぐるみで参加した。こうした巨万の人の波が、会場となった宜野湾海浜公園に押しよせていった。
この闘争に参加した人は誰もが、まったく新しい民衆の運動が始まっているということを実感した。

沖縄と日本の意識のギャップ

このたたかいのうねりは、昨年の政権交代をめぐる過程で、普天間基地撤去闘争の爆発へと発展していった。今年1月の名護市長選における新基地絶対反対派の稲嶺進市長の当選、県議会で全会一致の普天間基地撤去・新基地建設反対の意見書可決(2・24)、4・25県民大会への9万人決起、5・16普天間基地包囲闘争への1万7千人の決起など、昨年夏から今年の5月28日までの普天間基地撤去をもとめるたたかいは、1956年の島ぐるみ闘争に匹敵する高揚を実現した。
日本民衆の意識
しかしその一方で、日本国内の運動は、沖縄のたたかいの高揚と一体的に進んでいったわけではなかった。むしろ沖縄の民衆と日本の民衆の意識のギャップが、はっきりと表面化してきたというべきであろう。それは、日米安保の評価にかんする最近の世論調査の数字にも、はっきりと表れている。
昨年11月に行われた読売新聞社と米・ギャラップ社による日米共同世論調査によれば、日本国民で「日米安保条約がアジア・太平洋地域の安全に役立っている」と答えた人は75%であった。今年4月の読売新聞社と韓国日報社による日韓共同世論調査でも、日本国民で「日米安保条約が東アジア地域の平和と安定のために役立っている」と答えた人は69%に上っている。
構造的沖縄差別
これにたいして、今年5月末に琉球新報社と毎日新聞社が共同しておこなった沖縄県民世論調査では、「日米安保条約を維持すべきだ」と答えた人はわずか7%であった。この数字は、昨年に比べると半減している。 沖縄では日米安保の破棄を求める声が圧倒的多数になっているが、日本国内では安保容認派が依然として大多数を占めているのである。
住民の圧倒的多数が「日米安保は必要ない」と表明している沖縄に在日米軍基地の75%が集中している。
構造的差別とは、《社会の中で自己の当然の権利を主張することができないか、もしくは一方的に不利益を強制されていて、それにどんなに反対しようともその社会の意志決定過程で完全に否定される》ということだ。このようなかたちで社会システムに組み込まれた差別であると定義するならば、沖縄への米軍基地の集中は、まさに日本社会の構造的沖縄差別そのものだ。

日本は琉球を併合した

日本人民が、この構造的差別とたたかうためには、第一に、1879年に、明治政府がおこなった琉球処分が、日本による琉球王国の併合であったという歴史的事実を明確にしなければならない。
薩摩藩の侵攻
琉球王国は1609年の薩摩藩の侵攻によって、奄美大島から与論島までの五島と、国王の最終承認権や貢租の徴収権の一部など、主権の一定部分を薩摩藩に委ねることになる。
しかし、琉球全域を薩摩藩が実効支配しているわけではなかった。琉球政府は、1850年代、米国、フランス、オランダと条約を締結しており、当時の国際法上の主体としての権利を有していた。
台湾出兵と「琉球処分」
明治政府は、琉球全域を日本の領土として併合するために、まず1872年、琉球王国を廃止して、「琉球藩」という新たな藩を設置する。なぜ廃藩置県(1871年)の直後に、新たな「藩」を設置しなければならなかったのか。
それは、1871年12月に発生した「琉球宮古漁民遭難事件」と密接な関係がある。この事件は、台風のために台湾南東部に漂着した宮古の住民69人のうち、3人が水死し、54人が先住民に襲われて殺害され、残りの12人が中国人に救助されて帰郷したというものであった。
この事件を口実として台湾への出兵を企てていた日本政府にとっては、琉球王国が独立国として存在しており、なおかつ中国との冊封関係(朝貢・貿易関係)にあるという状態をなんとしても解消しなければならなかった。そして琉球王国廃止の2年後の1874年に日本政府は台湾出兵を行う。
1875年、日本政府は「琉球藩」にたいして、その内政権と中国にたいして残された外交権を剥奪する9項目の要求を突きつけたが、「琉球藩」は、外交権の剥奪を断固として拒否し続けた。1879年3月27日、日本政府は、武装警官160人余、熊本鎮台兵400人など総勢600人で首里城を占拠、「琉球藩」を廃止したのち沖縄県を設置した。
日本政府は、この「琉球処分」によって、琉球王国を最終的に廃止し、日本に併合したのだ。

琉球・沖縄への植民地政策

第二に、その後日本政府は琉球・沖縄人民にたいして、一貫して植民地政策をとり続けてきたということである。
それは、「方言の撲滅」と「標準語の常用の強制」による、琉球・沖縄人固有の言語、文学、芸能、宗教など文化的価値の剥奪であり、徹底した皇民化教育による「天皇の臣民化」「天皇制国家への奉公と犠牲の強要」であった。
その帰結が、太平洋戦争末期の沖縄戦であった。そこでは「出血持久作戦」という、終戦工作を有利に進めるために米軍にも出血を強いる時間稼ぎの戦法がとられた。これは文字通りの「捨て石作戦」であり、米軍による掃討戦の長期化、日本軍による住民虐殺や「集団自決」の強制を引き起こした。その結果、戦闘員よりも一般住民の犠牲者が上回ることになったのだ。
植民地の戦後的継続
第三に、こうした沖縄にたいする植民地政策は戦後も形を変えて継続しているということである。
それは、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約によって、米軍の日本占領は終了するが、沖縄は引き続き米軍の占領下におかれたことに示されている。
日本占領の終了にともなって、日本本土の米軍基地はつぎつぎと沖縄へと移転していった。
米軍政の最高権力者であった高等弁務官(植民地総督に相当)は、琉球政府の首長の任命権をもち、琉球政府が制定した立法案を拒否したり、立法の制定後45日以内にそれを無効にすることができた。また琉球政府の公務員の誰をも罷免することができ、刑の執行停止や刑の軽減、恩赦をなす権限さえももっていた。まさに高等弁務官は「オールマイティ」だった。その対極で、琉球・沖縄人の基本的人権が剥奪されていた。
復帰運動とはこの過酷な米軍支配からの解放をもとめたものであったが、日米両政府はまたしても琉球・沖縄人の要求を踏みにじり、72年の「復帰」から今日にいたるまで沖縄に米軍基地を強制し続けている。
アジア侵略と沖縄差別
以上のべてきた日本と沖縄の歴史的な経緯から明らかなように、「琉球処分」(=琉球併合)とは、日本帝国主義の朝鮮・中国―アジア侵略の出発点であった。
日本社会に構造的沖縄差別が存在しているということは、1879年の「琉球処分」(=琉球併合)いらいの日本の琉球・沖縄にたいする植民地支配が、今日もなお継続しているということであり、日本帝国主義のアジア諸国にたいするスタンスは、戦前と何一つ変わっていないということだ。すなわち《沖縄に米軍基地が集中しているのは、日本人(大和民族)による琉球・沖縄人にたいする民族差別の結果である》ということを自覚しなければ、日本人民は、アジア諸国の人民と連帯して日米帝国主義とたたかうことはできないだろう。
象徴天皇制と沖縄差別
また、戦後の象徴天皇制こそが、沖縄差別を日本社会に組み込んでいるということだ。
すでに述べたように、戦前の日本帝国主義の沖縄にたいする植民地政策の基軸は、皇民化教育であった。沖縄戦も、日本の敗戦が必至であるにもかかわらず、天皇が「国体護持」のために強行した。
また敗戦直後の47年、天皇は、占領軍最高司令官マッカーサーにたいして、「アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を占領し続けることを希望する」「アメリカによる軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与をする擬制の上になされるべきである」というメッセージを送った。そしてその通りに米軍の沖縄占領が継続された。
果たして、このような天皇を日本国憲法第1条がいうように、「日本国民統合の象徴」といえるのだろうか。日本国憲法第1条と琉球・沖縄人との関係は、「排除か同化か」を迫る、差別・抑圧の関係そのものである。
こうした観点から戦後の憲法闘争を洗い直していかなければならない。

日米首脳会談と県知事選

5・28日米共同声明が発表された日、名護市の稲嶺市長は土砂降りの雨の中、市民を前にして「今日、わたしたちは屈辱の日を迎えた」と発言した。この発言が糾弾しているのは、日米両政府だけではない。日本人民に対するきびしい糾弾である。
冒頭に述べた「日本階級闘争の弱点」とは、《日本人(大和民族)が琉球・沖縄人を抑圧し、差別していることにあまりにも無自覚である》ということだ。われわれは、今秋の日米首脳会談―日米共同宣言粉砕のたたかいと沖縄県知事選の歴史的な勝利を実現するたたかいに全力を挙げて取り組みながら、同時に自らの沖縄差別を自覚することを起点として、日本人(大和民族)と琉球・沖縄人との真の連帯の道をつかみ取り、反戦・反基地・反安保闘争を再形成していかなければならない。

(沖縄関係年表)

1609年 島津軍が琉球国を侵略
1872年 明治政府は琉球国を強制廃止し、琉球藩を設置
1879年 明治政府は琉球藩を廃止し、鹿児島県に編入。同年中に沖縄県を設置(琉球処分)
1952年4月28日 サンフランシスコ平和条約(「屈辱の日」)発効
1972年5月15日 沖縄の施政権返還
2010年5月28日 日米共同声明

5面

菅談話を批判する
韓国併合100年
日本政府を追及する日本人民の運動を

1910年の日本帝国主義による韓国強制併合から100年を目前にひかえた8月10日、菅首相の談話が発表された。

右からの反発

まず問題なのは、内容以前に、菅談話が発表される前の時点で、右から激しい反発が相次いだことだ。
民主党内部からは、「何度謝罪すれば気がすむのか」「補償問題の蒸し返しにしてはならない」などの反対がでた。自民党の谷垣総裁や安倍、平沼なども、談話を出すことに猛反対した。いかなるレベルであれ、「反省や謝罪など許されない」というのだ。

「慰安婦」・強制連行ふれず

では内容はどうか。仙石官房長官によれば、菅談話は、95年の村山談話の踏襲だという。はたしてそうなのか。 菅談話は、「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人びとは、その意に反しておこなわれた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられました」とした点では、村山談話より踏み込んでいる。
しかし、「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛」の具体的解決策として述べているのは、在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援、朝鮮王朝儀軌等の文化財の返還など。
日本軍「慰安婦」被害者や強制連行・強制労働被害者などの問題には、一切触れていない。
さらに、この「反省や謝罪」は、韓国にたいしてのみであり、朝鮮民主主義人民共和国は対象にすらしていないのだ。

なぜいま菅談話か

それは、一方で、日本が行った1910年の韓国強制併合を「合法・正当」とする「強盗の論理」をあくまでも維持した上で、しかし他方で、韓国や中国、アジア諸国との関係を形成し、「東アジア共同体」の目論見を進めるために、一定の「反省と謝罪」が必要と、日本政府として判断したからだ。
菅談話は、「反省・謝罪」を口にしつつ、あくまでも韓国併合は「合法・正当」とする態度で貫かれている。
1910年の韓国併合は、不法・無効に他ならない。韓国併合は、日本軍の銃剣による脅しで、当時の大韓帝国の閣僚に署名を強制したものだ。
当然にも、韓国政府も朝鮮民主主義人民共和国政府も、韓国併合は不法であり無効であると一貫して主張している。
しかし日本政府は、それを一切無視して、「合法・正当」との態度を変えようとしていない。この根本問題を居直った「反省・謝罪」の言葉は、反省や謝罪ではない。朝鮮人民が謝罪と認めないのは当然だ。

なぜ「合法・正当」の主張を崩さないのか

それを崩せば、《植民地支配への賠償問題などは解決した》とする1965年日韓条約での決着が、反故となるからだ。日韓条約の見直しが不可避となり、すさまじい賠償要求が吹き出すからだ。それは賠償問題にとどまらずに、朝鮮・中国・アジア人民の激しい反日闘争の引き金になりかねない。「東アジア共同体」の構築どころか、日本が、アジアから吹き飛ばされかねない。
さらに、韓国強制併合は不法・無効と認めれば、《植民地支配は合法的で正当であった》という前提で進めてきた戦後日本社会のありかた(例えば学校教育など)をすべて覆すことにつながる。それは日本帝国主義にとって絶対に譲れない一線なのだ。

菅談話で問われる人民の態度

菅談話にたいして、「民主党政権は、しょせんそんなもの」といったシニカルな態度や、「民主党政権打倒」の呼号のみで、済まされる問題ではない。もちろん民主党政権がこれ以上の談話をだすことはありえない。
問題は、いかにすれば菅談話と、そこにあらわれている戦後の日本社会と日本階級闘争の現実と限界を乗りこえていけるのかである。
植民地支配の中で引き起こされた日本軍「慰安婦」問題や強制連行・強制労働問題などをめぐって、日本政府にその責任を迫り、解決を求める大運動を、日本人民自身が主体的につくりだしていく必要があるのだ。
それこそが、朝鮮・中国・アジア、そして沖縄人民との生きた連帯となり、日本革命を勝利させる本源的力になるのである。それを実践することが、菅談話にたいする日本人民の取るべき態度であろう。    (田崎)

6面

8・22デッチあげ弾圧うちやぶった
APEC口実の弾圧

大阪府警公安三課は、8月22日、「電磁的公正証書原本不実記録・同供用」「免状不実記載」をデッチあげ、Aさん、Bさんを逮捕、関係先として6カ所を不当捜索した。
同日、上記とは別の件で、兵庫県警公安三課が「偽造有印私文書行使」「免状不実記載」をデッチあげて、表現者・Kさんを逮捕、家宅捜索を強行。翌日、さらに2カ所を不当捜索した。デッチあげ「容疑」とは全く無関係な、貴重なテープ、表現物を大量に押収するという暴挙をおこなった。

支配の危機とAPEC

この2つの弾圧は、逮捕された3人が、それぞれ、新自由主義政策、差別・排外主義攻撃と対決し、在特会などとのたたかいでは共同行動をおこなってきたことにたいする攻撃だ。
同時に、08年9月リーマンショック以来、深まる日帝の体制的危機の進行、54年続いた自民党政治支配体制の崩壊=政権交代という情勢の中で、APEC開催国として帝国主義的存立を維持し、労働者人民の怒りの先頭に立ってたたかう勢力を破壊するために強行した弾圧だ。

デッチあげ手法の拡大

この2つの弾圧にたいして、たたかう仲間は、それぞれの支援体制をつくり、獄中の3人とともにたたかった。3人は完全黙秘をつらぬき、権力の勾留延長策動を粉砕、9月1日釈放をかちとった。
国家権力は、かつて90年代に、党派活動家を対象に連続的に強行した「免状不実記載」などのデッチあげ手法を、このかん、無党派層や市民運動家にも拡大適用し、新たに位置づけて駆使しはじめた。
この攻撃をうち破る防衛陣形を形成するとともに、不当逮捕にたいし、完黙・非転向でたたかおう。(関西霜月社)

「暴処法」弾圧裁判
デッチ上げの核心つく

8月13日、関西合同労組「暴処法」弾圧裁判の初公判が、大阪地裁でひらかれた。5月31日の逮捕以来、大阪府警公安三課と大阪地検公安部による転向強要・不当起訴にたいして、完黙を貫き獄中闘争をたたかいぬいている沼田さんは、公判廷に元気な姿をあらわした。

予断と偏見

人定、起訴状朗読の後、弁護団は「起訴事実」とされるものは「被告人が『中核派活動家』であるか否かとはまったく関係がない」にもかかわらず、「被告人が中核派活動家である」から逮捕・起訴したかのような「不当な予断と偏見に基づく起訴」であると弾劾。「公安警察と検察公安部が捜査し、同公安部が公訴権を濫用したものであり、実体判断をすることなく、ただちに公訴棄却とされるべきである」と申し立てた。
裁判長は「現段階では公訴棄却の判断はしない。今後の証拠調べでそのような事情が出れば、その段階で公訴棄却を判断するか、あるいは、情状その他の事情として考慮するか判断することとする」と判断を保留。

でたらめな訴因

つづいて、弁護側が求釈明をおこなった。起訴状に記載されている、沼田さんがしたとされるT証人との30分程度の2回にわたる電話の内容についてだ。これが、暴処法デッチ上げの核心をなしている。弁護側は、会話内容とされる文言に「など」が多用されていることを追及。「などの具体的中身は何か」と迫った。
検事は、「(記載の電話の内容は)中心的な発言を例示したもの。これ以上のものはない。文言はある程度要約した」と釈明。起訴状記載の電話内容なるものが、公安三課、地検公安部によって、T証人にたいする誘導もふくめて、恣意的に作文されたものである疑いがある。
T証人にたいする主尋問(10月4日)、反対尋問(10月18日)が重要な攻防だ。
沼田さんにたいする暴処法デッチ上げをもって、労働組合の団結権、団体交渉権、団体行動権を破壊しようとする大阪府警公安三課の目論見をあばき、粉砕しよう。
沼田さんへの接見禁止を解除せよ。ただちに保釈を認めよ。

シネマ案内
長編記録映画『月下の侵略者』
「耳塚」から歴史認識あらためる

削がれた鼻

「耳塚」をご存じだろうか。京都や中国・四国などに数多くある。地元の人でも、必ずしもそのいわれは知らない。訪れる人もまれだ。
韓国併合から100年、本当の歴史をとりもどさなくてはならない。「耳塚」から聞こえてくる「恨(ハン)」の声に心の耳をかたむけ、現代をどう生きるかを考える必要がある。この映画『月下の侵略者』(前田憲二監督)は、その鋭い問題提起となるだろう。
「耳塚」とは、実は「鼻塚」だ。文禄から慶長年間(1592〜93年 97〜98年)にかけて、豊臣秀吉が、朝鮮にたいして侵略戦争をおこなった。倭軍(秀吉軍)は、何万のもの朝鮮民衆を殺戮した上、戦勝の証として、その鼻を削いでもちかえった。朝鮮民衆の「削がれた鼻」が埋められているのだ。
映画は、「耳塚」をキイワードに、朝鮮民主主義人民共和国、韓国、日本でロケ、歴史学者や、関係者の子孫の証言をあつめ、「文禄・慶長の役」(壬辰・丁酉倭乱)が何だったのかを解き明かしていく。

殺戮と拉致

秀吉は、1592年、「朝鮮侵攻陣立て」を発令、船舶2千隻、15万人余の兵力で釜山に攻め入った。上陸した倭軍は、殺戮し略奪し、何万もの朝鮮民衆を拉致した。
拉致された人は、知識人や陶匠などの技術者だけでなく、農民や子どもも多かった。使役の奴隷、性奴隷として売り飛ばされたり、権力者の私的奴隷にされたという。
倭軍は、結局、朝鮮軍や義兵に追いつめられ、1598年、秀吉の病死もあって、日本に逃げかえった。

明治政府と秀吉

秀吉は、江戸時代、徳川の世では評価されなかった。ところが、明治になって、政府は、秀吉を政策的にまつりあげた。「秀吉の成し遂げられなかったことを成し遂げた」―こういって明治政府は、日清・日露戦争から韓国併合=植民地支配につきすすんだ。

朝鮮軍と雑賀衆

ところで、倭人でありながら、朝鮮軍に投降・決起し、義兵として倭軍とたたかった人びとがいた。沙也可将軍(後の金忠善)だ。
沙也可将軍ら3千人は、雑賀衆といわれている。彼らが、朝鮮軍に鉄砲とその技術、戦闘方法を教えた。
雑賀衆とは、紀伊国・雑賀(現和歌山市)を中心にした一向宗門徒で、信長・秀吉にたいして蜂起した人びと(雑賀一揆)。秀吉とのたたかいに敗れて、瀬戸内海に逃れた残りの衆が、沙也可将軍らだったのだろう。
雑賀一揆で捕らえられた一向宗門徒は、鼻を削がれ、大坂(いまの大阪)・天王寺でさらし首にされたという。
雑賀衆らは、自分たちの親きょうだいの鼻を削いだ秀吉が、今度は、朝鮮の民衆にたいして同じことをおこなったとき、義兵として朝鮮軍の側に決起した。

倭人も弔う

全羅南道の珍島には、倭徳山という山がある。
珍島の人びとは、海戦で水死した倭軍の兵士を、その兵士のふるさと倭国がのぞめる小高い丘に丁寧に埋葬した。そして、死んだ倭人の心が休まるようにと、「倭人に徳を施した山」「倭徳山」と名づけて守ってきた。「耳塚」の歴史や現状と比較して、慨嘆にたえない。
この映画には、私たちの無知をあばき、誤った歴史認識をただす力がある。 (労働者通信員 H)

(お礼)
夏期カンパ ありがとうございました