未来・第63号


            未来第63号目次(2010年8月17日発行)

 1面  被爆体験と侵略・加害の歴史を語りつぐ
     核廃絶と侵略阻止へ 8・6ヒロシマ

     菅「核抑止力必要」 6日 広島で

     普天間基地 撤去せよ
     国会前に座り込み
     普天間爆音訴訟団 2〜3日

 2面  8・6ヒロシマ 発言要旨

     投稿 池田さんのお話に感銘
     核兵器のおそろしさ

     豊かな海に原発ゆるせない 上関・祝島交流ツアー
     主催・原水禁山口 5日

 3面  ソウル930回目の水曜デモに連帯
     大阪のおばちゃんは黙ってへんぞ!

 4面  【翻訳資料】
     韓国労働社会研究所機関紙『労働社会』09年10月号
     クイック・サービス運転士労組組織化事例(下)

 5面  処分の法的根拠なし
     弁論で矛盾追求 門真三中裁判

     9月 三者協議へ
     要請団 高裁・高検を追及
     全国連 狭山要請行動

 6面  9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会

     本の紹介
     『平壌で過ごした12年の日々』 佐藤知也 著

       

被爆体験と侵略・加害の歴史を語りつぐ
核廃絶と侵略阻止へ 8・6ヒロシマ

3つの報告で3時間、充実した内容だった。演壇は池田さん(6日 広島市内)

被爆65年目の8月6日、夕方から広島YMCAホールで、「8・6ヒロシマ―平和の夕べ」が開かれた。
被爆二世で産婦人科医の河野美代子さんの司会で、@広島県被団協副理事長の池田精子さんのお話、A沖縄から読谷村議員・知花昌一さんの報告、B在日朝鮮人の作家である高史明さんの平和講演がおこなわれた。
池田さんは、壮絶な被爆体験とその後の苦しみを語り、「生き残ったものとして、二度と被爆者を生みだしてはならない。核兵器は廃絶を」と、決意を述べた。知花さんは、侵略戦争における加害と被害の問題を問いなおし、日本の政治と運動の限界を批判、沖縄が徹底した不服従でつき破っていく決意を語った。〔発言要旨2面〕

合理主義の文明が核に行きついた 高史明さん

高史明さん(6日 広島市内)

高さんは、今日、核兵器が世界を覆うまでに至っている現実、広島型の原爆どころか、その数千倍の破壊力の水爆を手にするに至った文明のおぞましさを告発した。
そして、「2×2=4」といった合理主義ですべてを割り切り、分子レベルに分解して生命存在を解明したつもりになっている―こうした近代合理主義を基礎にした文明の愚かしさと根本的な非人間性が、核兵器にまでゆき着いたと批判した。
同時に、高さんのお話には、一貫して、人びとにたいする優しい目線、人間への根本的な信頼が流れていた。そして、親鸞の教えを手がかりにしつつ、人間が立ち戻るべき文明・思想を説いた。

300こえる賛同
3つの報告・講演で3時間。「ヒロシマの継承と連帯を考える」というテーマ設定から、広島・沖縄・朝鮮がつながり、「侵略と戦争をくり返さない」という誓いを、不退転で実践する意志と力が示された。心を揺さぶられ、深く考えさせられる集会だった。
この集会には、三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長・北原鉱治さんからのメッセージと、300をこす個人・団体から賛同がよせられた。

原爆被害おそろしさ
7日には、原爆被害の実相を学ぶ企画と講演がおこなわれた。
当時広島市内を走り被爆した電車が現存している。その電車に乗りあわせて被爆し、ただ一人生き残っている米澤鐡志さんのお話を聞いた。また、爆心直下で、にぎやかだった町が一瞬にして消えてしまった旧中島町。ここに住み、工場への動員のために出かけていて、家族で一人だけ助かった福島和男さんに案内していただいた。このお二人の壮絶な証言を聞いて、核廃絶の思いを新たにした。
〔講演要旨3面〕

被爆電車に乗車、旧中島町の案内のあと、平和記念資料館の会議室で講演を聞く。地図を指して説明する福島和男さん(7日 広島市内)

菅「核抑止力必要」
6日 広島で

菅首相は、6日、平和記念式典に出席後の記者会見で、「国際社会では、核戦略・大規模な軍事力が存在する現実があり、核抑止力はわが国にとって引き続き必要である」と述べた。
平和記念式典のあいさつで「核兵器のない世界の実現にむかって行動する道義的責任」といってみたが、その端から裏切っている。
「核抑止力」とは、アメリカを中心とした一部の国が核を独占し、その恫喝で世界を支配するということ。日本もその一角に食い込み、核保有国になりたいと願望している。奇しくも1年前、麻生首相(当時)が同じ発言をしているが、菅政権の性格をよく示している。

長崎被爆者団体が弾劾

菅「核抑止力」発言にたいして、9日、長崎被爆者5団体の代表が菅首相と面談、厳しく批判した。 「慰霊の日に核兵器を肯定し、(被爆者は)みんな泣いている」「麻生さんの発言とまったく同じ」「広島での発言は取り消していただきたい」。この被爆者の怒りと連帯して、民主党の核政策との対決を強めよう。

普天間基地 撤去せよ 国会前に座り込み
普天間爆音訴訟団 2〜3日

普天間爆音訴訟団と本土の爆音訴訟、支援の仲間など80人が国会前で集会(2日 衆院第2議員会館前)

8月2日、国会前、沖縄・普天間爆音訴訟団15人と沖縄の仲間10人が上京してきた。普天間基地の飛行差し止めなどをもとめた訴訟の棄却判決(先月29日福岡高裁那覇支部)に抗議するためだ。普天間のほかに、嘉手納、岩国、横田、厚木の訴訟団、支援の仲間などがかけつけた。
正午過ぎから炎天下で、座り込みによる抗議と集会がおこなわれた。牧師で普天間爆音訴訟団長の島田善次さんが、「日本人は、なぜ黙っているのか」と、厳しい弾劾をたたきつけた。〔要旨別掲〕
伊波洋一宜野湾市長は、「沖縄海兵隊の移転問題はすでに決定事項であり、辺野古新基地建設と無関係。普天間の撤去・無条件返還を絶対実現する」と決意の発言。各訴訟団などから発言がつづいた。
午後1時半から院内集会がおこなわれ、夕方からは、水道橋の全水道会館で報告集会。島田さん、伊波さん、山城沖縄平和運動センター事務局長らが発言。11月沖縄県知事選で、新基地建設反対の候補を勝たせようなどの訴えがなされた。その後の交流会は、知事選出馬の意向を表明している伊波市長をかこんで、総決起集会のようになった。
翌3日も、朝9時から午後1時まで国会前座り込みがたたかわれた。

日本人は、なぜ黙っているのか 島田善次さん

このかんの日本人の卑劣さに我慢できない。安保が必要なら、基地問題を自分らで解決せよ。なぜ沖縄に犠牲を押しつけ、のうのうとしていられるのだ。私は国内移設を言っているのではない。普天間基地の撤去、辺野古基地建設反対に、日本人が総決起してほしいと言っているだけだ。なぜ鳩山政権が裏切り、菅政権にいたっては、日米合意をごり押ししているのか。それにたいして日本人は、なぜ黙っているのか。本当にゆるせない気持ちだ。〔発言要旨〕


2面

8・6ヒロシマ 発言要旨

すわって待っていれば平和がくるんじゃない。
残された命を平和のために役立たせる
池田精子さん

熱線、爆風、放射能
12才・女学校1年のとき、学徒動員・勤労奉仕で爆心地から1・5キロの地点で建物疎開の後片付け作業をしていた。その最中に原爆がおちた。
原爆は地上600メートルで炸裂し、その熱線は数百万度もあり、地上でも3000度
池田精子さん(6日 広島市内)
から4000度だった。溶鉱炉でも1350度くらいなのに。爆風は風速440メートルもあった。木造家屋は全てなぎ倒された。たくさんの人が生きたまま下敷きになった。あちらこちらから「助けて」の悲鳴があがった。それから放射能。この「熱線、爆風、放射能」の恐ろしさが、普通の爆弾との違いだ。

原爆ドーム。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にある(7日)
市内は地獄絵
皆、「水が欲しい」と川に入った。川は、水面が見えないくらい死体でうまっていた。
4キロメートル四方が火の海になり、市内は一晩中燃え続けた。生きたまま下敷になっていた多くの人たちも焼け死んでいった。広島の町は、地獄絵の世界だった。
私はひどい火傷を負ったが、20キロ離れた自宅に、やっとの思いでたどりついた。生死の境をさまよったが、両親の懸命の看護で、奇跡的に生きのびた。8カ月たって、やっと通学できるまで回復した。

顔にケロイド
体全体に火傷を負い、顔にもケロイドができた。列車通学時、好奇と冷たい眼差しにさらされ学校にも行けなくなり、心にも深い傷を負った。「死んだほうがよかった」と親にあたりちらした。しかし父親の深い愛を感じ、立ち直った。
ケロイドを治すために15回も手術をうけた。それは美しくなりたいなどということではない。前の自分を、失われたものを取り戻したかったからだ。

核廃絶の決意
生き残ったものの責任として、二度と被爆者を生みだしてはならない。核兵器の根絶を。世界には、「平和」を知らない子がたくさんいる。
15日で私は78歳になる。生きている間に核兵器の廃絶を見たい。すわって待っていれば、平和が来るんじゃない。残された命を、平和のために役立たせることを誓う。

広島・長崎・沖縄をくり返してはならない。
その力があるのかが問われている
知花昌一さん

知花昌一さん(6日 広島市内)

チビチリガマが根本に
チビチリガマの集団自決(集団強制死)の調査をして、自分の生んだ子どもに手をかけていく、そして自分は生き延びる、このお母さんたちの話を聞いた一人として、追体験として言い伝えていかねばいけないと思っている。
そのひとつとして、(87年、沖縄国体での)日の丸ひきおろし、焼却をやった。チビチリガマが、自分の生き様の根元にある。

「命どぅ宝」の含意
「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」という沖縄の言葉があるが、必ずしもきれいな言葉ではない。いまの時代でいえば、卑怯なこと、非人間的なことをした人たちが、「それでも生きぬいたんだ。そういう自分の支えとして、それでもよかったんだ」ということを言うために、自分に言う言葉として「命どぅ宝」という言葉があった。
沖縄戦のなかで、自分の子を殺し、助けを求めるきょうだいを助けることもできず、戦後も生きぬいた人の精神的糧として「命ど宝」があった。
献血運動で皇太子が沖縄にきて、「命どぅ宝」と言ったらしいが、そんな薄っぺらいものではない。
広島・長崎・沖縄をくり返してはならない。その力があるのかが問われている。

被害と加害
韓国人原爆犠牲者慰霊碑。最初は、差別により、平和公園の外にあった。現在は公園内に。「広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない」と記されている。
広島も沖縄も犠牲になった。しかし、被害と加害という問題が、正しく伝えられているだろうか。
昨日(5日)から広島にきて、韓国人被爆者の碑にいった。その前で考えた。ガイドさんの説明には、なぜ韓国人被爆者が存在するのかが語られていない。韓国人被爆者の碑は、私たちが侵略をした、その証である。その侵略の結果が、沖縄戦と広島への原爆投下だった。

党派こえたうねりを
今の沖縄は、第四次琉球処分(というべき状態)だ。
鳩山の発言に(期待して)一票を投じ、昨年、政権が変わった。ところが、(国外移設、最低でも県外どころか)元の辺野古だ。沖縄の民意は86%が県内移設反対だ。
4・25県民大会には9万人が集まった。これからどうするのかが問われている。
菅首相は、沖縄県民をなめている。
沖縄は、政局や本土のたたかいに一喜一憂せずたたかう。
今日も広島ではたくさんの集会がおこなわれているが、ばらばらではなく、党派をこえた大きなうねりを作りだそう。命の大切さと、戦争を絶対させない、それにつながる基地をゆるさない、そういうたたかいをやっていきたい。

日本人被爆者の被爆死の割合が3割。朝鮮人被
爆者の被爆死は6割。この差はどうして生まれたのか
米澤鐵志さん

広島の被爆市民35万人のうち、被爆死した人(被爆して1945年12月末までに死亡した人)は14万人。25年前の調査で、朝鮮人被爆者が5万人いて、そのうち3万人が被爆死していることがわかった。
日本人被爆者の被爆死の割合が、3割なのにたいして、朝鮮人被爆者の被爆死は6割。この差はどうして生まれたのか。

疎開もできない朝鮮人
私は、爆心地から750mの地点で被爆した。ところが満員電車の真ん中に乗っていたことや、その日のうちに、広島市内から一直線に逃げたことによって、二次放射能を受けなかった。そうした幸運が重なって生き残った。
しかし、朝鮮人被爆者はどこにもいくところがなかった。彼らは、残留放射能が渦巻く市内で生活していた。だから日本人の倍以上の差がでたんだと思う。そのことを一つしっかりと考えてほしいと思う。
僕の近所が朝鮮人部落で、朝鮮人の友達がたくさんいた。ところが朝鮮人の同級生がたった一人しか生き残っていない。そういえば僕が集団疎開したお寺には朝鮮人はいなかった。「他の疎開先に朝鮮人はいたか」と人に聞くと、「そういえばおらんかった」とみんな言う。小学校3年生以上は、みんな強制的に疎開させられたのに、朝鮮人がいない。そのことを朝鮮の人に聞くと、「半島人にもかかわらず、天皇陛下の赤子にしていただいたんだから、日本国籍であるといえども疎開するなどもってのほかだ。児童といえども銃後の守りをしなければいけない」ということで朝鮮人は疎開させなかったということだ。
この話を聞いたとき、僕の朝鮮人の友だちが、みんな被爆死した3万人の中に入っていたことを知り、涙が止まらなかった。

被爆者手帳も差別
朝鮮人被爆者は、1952年に日米講和条約が発効すると、日本国籍を失って、年金や恩給などを削られ、韓国に帰った被爆者はなかなか被爆者手帳をとれまなかっ
被爆電車の中で、米澤鐵志さん(写真中央マイク)が当時の状況を生々しく語った(7日 広島市内)
た。韓国で被爆者手帳や健康管理手当がとれるようになったのは昨年。実に64年かかった。北朝鮮に帰った人はいまだにとれない。これはとんでもない犯罪だ。
だから学童疎開を含めて、日本が、朝鮮人被爆者にやってきたことをきちっと謝罪し、その補償をしなければ、「拉致問題」などを非難する資格はないと思う。これは僕が被爆者であるがゆえにいえることだ。

その日の朝、家族はみないつもどおりだった。
原爆は家の真上で炸裂した。家族は遺体も残らなかった
福島和男さん

8月6日、私は、学徒動員で働いていた己斐駅(現在の西広島駅)の近くの工場で、被爆した。中学2年生の時。爆心地から2・5キロくらい。

家の真上で
中島本町の実家の旅館では、父母など5人が亡くなった。完全に焼きつくされて、遺体はわからずじまいだった。
6日の朝、私は、父を起こし、朝飯を食べ、電車で工場にいった。家をでるとき、祖父がいつものように自己流の体操をしていたし、母と祖母が、食事の支度をしていた。それが私と家族との最後の別れとなった。原爆は、私の家のほとんど真上で炸裂した。
原爆投下のとき、私は工場1階で、みんなと雑談をしていた。突然、目の前でフラッシュをたいたような閃光がして、目が見えなくなった。みなびっくりして工場の前の畑に逃げだした。後ろを振り返って見たら、2階建ての工場の1階部分がつぶされていた。

黒い雨
しばらくすると空が真っ黒になって、黒い雨が。雨がやむと、隣町の3年生とふたりで自宅へと向かった。本川の住吉橋まできたが、とてもそこから先は進める状態ではなかった。そこにいた女学生たちは、髪の毛は縮れ、顔や首が腫れあがって、首と顔の区別がつかない状態だった。前に差し出た手の先から薄皮が垂れ下がっていた。建
消えた町・中島町の当時の町並みを復元した「中島本町被爆復元地図」。大きな店舗や映画館、カフェがならび当時の賑わいがしのばれる。住民はほぼ全滅、458人が犠牲になった。生き残った町民らが、当時の記憶や米軍撮影の航空写真を頼りに作成。失われた町への思いと記憶を伝えている。
物疎開をやっていた中学1年生たちだ。
そのなかのひとりが「福島さん」と声をかけてきた。顔を見ても大やけどで誰だかわからない。「誰じゃあんたは」と聞いたら、「福田です」と。近所の福田君だった。

遺体の川
西の方に逃げて帰る途中で、天満町の鉄橋をわたった。川に死体が一杯浮いていた。不思議なもので、何百、何千という遺体を見ているとなんにも感じなくなっていた。
私が自宅に戻ったのは、原爆投下から4日目くらい。なんで8月6日に行かなかったのか、今でも残念に思う。投下の直後に中島本町に入った人たちもいたが、強い放射能が残っていて、原爆症で早く死んでいる。

投稿 池田さんのお話に感銘
核兵器のおそろしさ

池田精子さんの被爆体験のお話に、胸を打たれました。
私は、今日まで、ヒロシマ・ナガサキについて考えるとき、いつも「加害と被害」という両方の視点から見るようにしていました。日清、日露戦争から50年におよぶ日帝のすさまじいアジア侵略の結果として、ヒロシマ・ナガサキが強制された―と考えていました。
それは、いまでも間違った認識ではないと思っていますが、池田さんのお話は、そんな「軽い認識」など、吹っ飛んでしまいそうな重い内容でした。
私も私なりに、今日まで学び行動してきたつもりでしたが、お話を聞き終えて、「(核の恐ろしさについて)自分は何も分っていなかったのでは・・・」と思わざるを得ませんでした。これから被爆者のみなさんの訴えを、もっともっと真剣に受けとめ原爆、核兵器の恐ろしさ、無謀さを学び、核兵器廃絶にむけたたたかいをおこなっていかなければ、と肝に銘じた次第です。(YO)

豊かな海に原発ゆるせない 上関・祝島 交流ツアー
主催・原水禁山口 5日

写真左:室津港への帰途、イルカの群に遭遇。海の豊かさを実感した
写真右:筏で埋め立てをゆるさない座り込みを続ける漁民と青年
(いずれも5日)

上関町・室津港から定期船で祝島へ。祝島の港につくと、漁船が出迎えてくれ、そのまま沖に出て釣りに。穏やかで豊かな海だ。こんなところに原発はゆるせない。
島民との交流会では、用意してくれたお昼を食べながら、お話をきいた。生活の場である海に原発ができることに、9割の島民が反対しているという。その思いがよくわかった。たたかいは、1982年から28年間つづいている。毎週月曜日の反対デモは、千回をこえた。ただ島民の高齢化がすすんでいる。
帰路は、定期船ではなく、漁師さんのご厚意で漁船で。途中、原発建設予定地にも。中国電力が埋め立て海域にブイを投入したが、その後、カヌーと筏で、海面に座り込むたたかいがつづいている。
上関原発反対署名が現在、85万筆以上、来月までに100万筆が目標とのこと。呼びかけにこたえよう。(KR)

3面

ソウル930回目の水曜デモに連帯
大阪のおばちゃんは黙ってへんぞ!

250人で大阪市内をデモ。ソウルと連帯し全世界で同時におこなわれた(11日)

日本軍「慰安婦」問題の解決を求めて、被害者の女性たちが、毎週水曜日、韓国ソウルの日本大使館前でおこなう抗議行動を、水曜デモと呼んでいます。日本でも各地で、水曜日に定期行動をおこなってきました。930回目の8月11日、この日は、世界同時抗議行動の日です。
大阪では、中之島公園の女神像前に250人が集まりました。

水曜行動の歌から

午後6時20分、いつもの水曜デモで歌っている「水曜行動の歌」をみんなで歌ってから集会開始。
1990年6月、金学順さんが「慰安婦」だったことを初めて明かしたときから始まったソウル水曜デモについて司会が紹介しました。

◇排外主義と対決
最初に、排外主義とたたかうネットワーク関西の女性が、「水曜デモや朝鮮学校が、在特会のターゲットになっている。差別的な言葉の暴力は、きくにたえない。わたしたちも、防衛行動にがんばる」と決意を語りました。水曜デモが在特会と衝突するようになってから、水曜デモの防衛のために多く人がかけつけています。

◇朝鮮学校無償化を
朝鮮総連は、「韓国併合100年、解放65年の今年。高校無償化から朝鮮高校のみを排除している。政府が無償化を検討し始めたとたん、産経新聞などが排外キャンペーンを始めている。一日も早く無償化してほしい。大阪府は助成金を出してほしい」と語り大きな拍手を浴びました。

◇部落差別なくせ
次に、部落解放同盟大阪府連女性部は、「いまだに部落差別は後を絶たず、陰湿化している。一日も早く差別をなくしてほしい」と語りました。

◇沖縄差別ゆるすな
辺野古に基地を絶対作らせない大阪行動は、「日本と沖縄の関係は差別の構造だ。日本の面積の1%に満たない沖縄に在日米軍基地の75%が集中している。かつて日本の軍隊は誰を守ったのか? 沖縄の空が青ければ青いほど悲劇が胸につきささる。この差別の構造を変えていかなければならない」と力強く語りました。
沖縄では多くの地方議会で、日本軍「慰安婦」問題の早期解決を求める意見書が可決されていると、司会が紹介しました。

◇米日による軍事重圧
韓統連大阪からは、「日本海の軍事演習など、韓米日の北朝鮮への圧迫は続いている」と訴え。日朝国交正常化連絡会は、「このアジアで一番近い国といまだに国交がない。この国と緊張関係がなくなれば、沖縄の基地の意味もなくなる。すべてがつながっている」と明快に話してくれました。

手づくりの横断幕で

7時15分、手づくりの横断幕をかかげてデモに出発。コールもみんなで考えたものですが、ずっと在特会と衝突し続けてきたので、「大阪のおばちゃんは負けてへんぞー」「大阪のおっちゃんもだまってへんぞー」とコールしました。
デモ解散地点で、在特会とおぼしき男が一人、デモ隊に襲いかかってきましたが、撃退されました。私は近くを通りがかった若い女性から、「あの男の人(=在特会)は何を主張しているのか?」と聞かれ事情を説明すると、その女性は「在特会に反対している人が、こんなに多いなんてうれしい」といっていました。
関西でも、早期解決を求める意見書を、各地方議会で可決させる運動が進んでいます。水曜デモの広がりとともにこの運動を広げていきたいと思います。(岡田恵子)

4面

【翻訳資料】
韓国労働社会研究所
機関誌『労働社会』09年10月号
クイック・サービス運転士労組組織化事例(下)

キム・ジョンジン(韓国労働社会研究所研究室長)/翻訳=中村猛

【61号から続く】

初動主体形成期(2006年下半期〜2007年)

2006年1月の「クイック・サービス従事者生存権保障要求大会」以後、クイック・サービス労働者の待遇問題がメディアに報道され始め、このようなメディアの報道内容は、クイック・サービス運転士の集いであるオンライン コミュニティーの掲示板にも自然に掲載された。このような外部的な条件は、以前から労組結成のために自然的に発生した内部の主導者の活動を再度引き上げる契機になった。
こういう状況の中でクイック・サービス労働組合を準備していた初期の主導者は、2006年にクイック・サービス労組結成の予備的な集まり(2006年10月27日)を行い、クイック・サービス従事者の集りを知らせる内容を、該当のオンライン・カフェと運転士に公示した。
初めての集会は、クイックライダー連帯と、クィックサービス人権運動本部に加入して活動しているクイック・サービス労働者が中心になり、1回目の集会(2006年11月6日、瑞草、ソウル高等学校の近くの食堂)には16人が集まった。当日の集会の趣旨は、翌日の民主労総訪問を前に、クイック・サービス従事者の意見を集約するためのものだった。これらは当日参加した人の中から臨時代表と幹事を選出し、集まりの名前を労組に切り替える間は「クイック・サービス労働者協議会」(仮称)と決めた。
こうしてクイック・サービス労働者協議会(以下「協議会」)は2006年11月7日、民主労総を訪問してクイック・サービス労働者の実態と集まりの設立趣旨などを伝え、その後は民主労総の産別連盟の中の所属単位をサービス連盟と定めて現在まで活動している。サービス連盟に配定された協議会(以後「クイック・サービス労組」に名称変更)は、その後労組結成のための基本的な活動を進めた。こうした流れの中で、協議会は民主労総のゼネスト時期の2006年11月11日、労働者大会、特殊雇用職労働者問題などのストライキ集会(2回、10人余り)、テグ代行運転労組のストライキ決起大会(2006年12月20日)等に参加した。そして、これらはサービス連盟の中で週1回の幹部教育を受け、自主的に週2回の定期集会と不定期集会(TV会議)を行った。
一方、労働組合は組織化の初期の2007年1月、サービス連盟の産別労組建設のための単位労組代表者修練会(2007年1月4日)に参加した。以後クイック・サービス運転士2次集会(「クイック・サービス労働組合設立のための出会いの日」、2007年1月6日、15人)と、3次集会(「クイック・サービス労働組合決起大会」、2007年1月20日、17人)を行って、労組結成のための本格的な活動に入った。2次集会では「代行運転」の運転士の労組結成事例の教育と、参加者の具体的な要求事項の聞き取りが行われた。3次集会では、レミコン、貨物、ダンプ労働者の組織化事例の教育が行われ、主な要求事項と今後の組織化対策について議論した。この席ではクイック・サービス運転士の組織化を担当するソウルと京畿の主要地域の支部長を選定した。
当時のクイック・サービス労働組合の主要な活動は、クイック・サービス運転士が集まっている主要な拠点地域での広報と署名運動だった。労働組合の主要な要求事項としは、クイック・サービスの法制度的な保護対策作り、二輪車の通行禁止緩和、クイック・サービス労働者の4大保険適用などだった。また、これらは労組活動のための基本的な資源を確保するために後援支援金の募集を併行し、初期にオンライン・カフェ会員たちから集めた後援支援金(約70万ウォン)で広報物(ビラ800枚、荷札500個)を作った。労組の広報と要求事項が書かれた広報物(荷札)をクイック・サービス・ライダー(運転士)の作業手段であるバイクの後方に付着するなど、次第に活発な活動を展開した。
ところがまもなくクイック・サービス労組の組合員の間で、組織形態と上部団体の問題などで内部葛藤が始まった。2007年、当時の一部の労組員たちは、バスとタクシーなどの運送労組が多数加入している公共輸送連盟が、クイック・サービス労組の上部団体に相応しいという意見を出し、労組活動に消極的な態度を示した。こうした問題によって労組活動がうまくできないため、労組内部で早期に執行部を選んで組織を安定化させようという案(「早期執行部選挙案」)が提起された。そして組合員の意見収斂を経て、クイック・サービス労組の執行部選挙が行われ、投票の結果、上部団体をサービス連盟とすると公約した候補が当選した。しかし選挙で敗北した候補者と組合員の5分の2ほどが労組から脱退し、韓国労総に加入した。このような労組の内紛過程以後、現在まで安定しない状態で、相対的に労組活動が萎縮している。

組織化方案および経路

この数年間、クイック・サービス労働者たちは自らの待遇改善のために様々な活動をした。クイック・サービス運転士を対象にしたアンケート調査の結果を見ると、クイック・サービス労働者10人中の8人程は、働く権利と勤労条件改善の代弁団体の必要性(78・5%)に共感している。しかし、これらの労働者は該当職種従事者の代弁団体の望ましい形態として「労働組合」(50・8%)と「非労組団体/協会」(49・2%)に両分化された意見を示した。実際にオンライン・コミュニティーに加入したクイック・サービス運転士を除いては、当時クイック・サービス労働組合に対する情報を知ることができない者たちが多かった。このような理由は、より綿密な分析が必要だが、労組活動自体がオンライン掲示板を通じて、制限的に行われたためと見ることができる。
このような労働組合に対する反応は、オンラインの集団というインターネットの仮想空間の構造的な限界点を認めるにしても、多少不十分だと思われる。ただクイック・サービス運転士の10人中8人程が代弁団体の必要性を感じているという点を考慮するなら、今後の労働組合の活動によって制度改善(クイック・サービスの制度化、従事者の待遇改善問題の解決など)の期待値がある程度充足されれば、組織化の余地は大きいと見ることができる。一例として、テグ地域の代行運転運転士労組は設立(2005年9月)以後ほとんど活動ができていなかったが、2006年8月にサービス連盟から労組幹部を派遣した以後、約30人程だった組合員が5カ月間で1千人余りに増えたという経験がある。
反面、当時のクイック・サービス労働組合の主要な主導者は、個人的な現業活動のため労組活動を積極的に展開できない状況だった。従って今後は、労組の組織化成功のためには内部の自発的な努力も重要だが、他の一方で、上部団体と関連労組の支持と支援(人材と予算)が必要だ。実際アメリカのクイック・サービス(自転車メッセンジャー)関連の労働組合の組織化が成功した要因は、該当主導者のリーダーシップと同時に、既存の労組や構成員の支持がその核心だった。

示唆する点

宅配サービスの一種のクイック・サービスは、産業社会が発展して情報化が急速に進み、新しい形態の職種として登場することになった。都心地域を中心にした地域内の運送サービス労働市場で、クイック・サービスの規模が増加したのだ。このような推移を反映するように、クイック・サービス労働者の自発的な集団がインターネットのオンライン・コミュニティを形成することになり、これを契機に該当の主導者の声を代弁する組織まで構成することになった。しかし2007年の労組結成直後の内部葛藤を経た後には、実質的な活動は非常に萎縮している状態だ。 クイック・サービス労働者の組織化問題を考える時は、既存の特殊雇用形態労組の組織化事例を鏡としなければならない。まず、既存の運送(貨物)と建設(ダンプ)部門の特殊雇用形態労働組合の組織化の成功要因の一つとして、企業別あるいは地域的な形態よりは、全国的な単一組織を作ったという点を挙げることができる。そしてこれらの組織が短時間に全国化できたのには、労組以前に存在していた自発的集団(相助会など)が重要な役割を果たした。また既存の組織(民主労総や既存の正規職)の助けもやはり重要な要因として作用した。最後に、これらの過程で、労組組織化の主要戦略として「労働者性に対する闘い」よりも「制度的な問題を巡る対政府闘争」を採ったという点を指摘できる。 クイック・サービス労働者を実質的に組織するためには、このような経験を基盤に、組織化戦略と目標設定だけでなく、該当従事者の状態に対する綿密な判断が先行しなければならない。労組主体の条件と状況、そして接近性と使用者の態度(抑圧)と交渉問題などを複合的に考慮しなければ、この2年間の組織化失敗の経験を繰り返すことになる。従ってクイック・サービス労働組合の主な組織化戦略は「ポートフォリオ式組織化対策」が相応しい。具体的に言えば、クイック・サービスを含む郵便送達業の65・5%(従事者の52・9%)が密集している首都圏を組織化対象の主要拠点として選定し、その後に労働組合の状況と条件によって、全国的な組織化対策を模索しなければならないということだ。 このような条件で1次組織化目標としては、首都圏の「地域クイック・サービス」と「広域クイック・サービス」労働者を設定し、2次目標としては「個人クイック・サービス労働者」を設定する必要がある。一方、全国の事業場と使用従属性が弱い労働者を主要な組織化対象にした、今までの特殊雇用労働者の組織化成功事例とは違って、クイック・サービスの場合、初期に全国単一組織として組織するのは容易ではないという条件を考慮しなければならない。またクイック・サービス運転士の場合、相対的に使用従属性が弱いことを考慮するならば、広域クイック・サービス労働者を組織化の1次対象と考えることもできるだろう。(了)

5面

処分の法的根拠なし 弁論で矛盾追及
門真三中裁判

7月28日午後4時半から大阪地裁で、門真三中「君が代処分」取消訴訟・第5回口頭弁論がおこなわれた。傍聴席は満席となり、入れない人も。
前回口頭弁論時、裁判長は「証人申請も含めて準備を」と、早期結審をにじませていた。それをはねのけて、今回、太田弁護士が、「そもそも門真市教委が出した文書訓告書の文言がわかりにくい。『校長が所属教職員に対し、学習指導要領に則り起立して国家を斉唱するという指導を受けていたにもかかわらず』というくだりは日本語として意味をなしていない。また、学習指導要領では国旗・国歌について、『国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする』となっているが、『起立して』という文言はない。『起立して』は、どういう規範から出てきているのか。論理的飛躍がある」と語気強く矛盾点を指摘。求釈明書を追加提出することなどを明らかにした。(次回口頭弁論は、9月22日4時15分、809号法廷)

元都立学校教員・河原井さんを囲んで

大阪・中之島公会堂会議室に移動して、6時半から、河原井純子さん〔注1〕を招いて集会がひらかれた。
まず、太田弁護士から、「法廷に入れない人も出るほどの多くの傍聴人で、心強い。裁判所も人の目を気にする。『ひどい判決を出したら許さんぞ』というオーラをだしてください。府教委は『通知は単なるお知らせ』と、以前の府教委交渉で言っていた。ところが門真市教委は、通知にいかにも法的拘束力があるかのように言っている〔注2〕。どの文言から処分できるのかが、今後の焦点になる」と報告があった。

反対の声 止めてはいけない
原告・川口さん

原告の川口さん(門真三中教員)は「夏休みに入って、府教委主催の和太鼓の研修があった。指導計画を立てるにあたって、指導要領に触れ、『国歌が歌えるように』、『道徳教育の目標に基づいて』と、まさに戦前と同じ教育を追求してきている。反対の声を絶対止めてはいけないと思った。反対の声を止めたら相手はしつこくやってくる」と訴えた。
河原井純子さんが講演、「戦争は一人ひとりが、目をつむり、口をつむぐ、そんな態度や日常が引き起こす」と、教育実践や処分とたたかう思いを語った。
〔講演要旨別掲〕

〔注1〕

河原井さんは、都立養護学校の教員を35年つとめ、今春退職。「『しょうがい』があってもなくてもあたりまえに共生・共学のできる社会や学校をつくりたい」という思いを実践し、都教委の不当処分とたたかう。その河原井さんが、全国を行脚、各地で共闘の輪をひろげる。今回は、7月28日から8月1日、兵庫県を行脚、大阪で集いがもたれた。
〔注2〕
門真市教委は、「日の丸・君が代」実施の6点指示を盛り込んだ03年市教委通知に、法的拘束力があると強弁している。

おかしいと思ったら抵抗を 河原井純子さん

「決してあきらめず-雑木林の決意」という詩を披露しながら話す河原井さん(7月8日 大阪市内)
裁判だけに頼るな
東京地裁は、入り口でまず荷物検査、開廷時に座っていたらしつこく立て立てと言ってくる。裁判所から戦争が始まると実感している。
7月15日、東京地裁で、東京教組「君が代」不起立処分撤回10人裁判の判決があった。10人の原告が、「人間として10・23通達(03年、都教委)にはどうしてもしたがえない」という膨大な意見陳述を出したが、門前払い。判決は3秒。小さい声で言って、裁判長は逃げるように去った。
06年9・21「予防訴訟」難波判決は、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務はなく、ピアノ伴奏の義務も存在しない」という画期的な勝訴だった。でもその年度の卒業式で不起立者は増えなかった。
裁判だけに頼っていてはいけない。日常生活、地域で職場で具現化しなければ、(判決も)ただの紙切れになってしまう。

共闘の輪が大事
私は、今8つの裁判をしている。この3月に定年退職した。分限対応指針、いわゆる首切りガイドラインがあったが、私にたいして分限免職も懲戒免職もできなかった。 都教委も人の目を気にしている。多くの民のうねりがあると、勝手なこと、不当なことはできない。だから共闘の輪を広げていくことが大事だと思う。
おかしい、変だと思ったら、自分のできることで抵抗していく。決してあきらめない。戦争は一人ひとりが、目をつむり、口をつむぐ、そんな態度や日常が引き起こす。自己規制が一番こわい。

現場は窒息
今年、東京の教育現場は、「タイムス」(という管理システム)が導入され、一人ひとりにパソコンがあたえられ、都教委の管理機構に直結している。朝一番に、メールのチェック。メールを見落としたら自己責任。学校現場は窒息している。
雑木林行脚、多種多様な雑木が共生共存する。それが私たちの望む学校・社会なんだという思いだ。



9月 三者協議へ  要請団 高裁・高検を追及
全国連 狭山要請行動

東京高裁にむかって拳を突きあげる全国連と共闘の仲間(7月27日)

7月27日、部落解放同盟全国連合会の呼びかけで、東京高裁と東京高検にたいし、狭山要請行動がおこなわれた。

訟廷管理官が暴言

要請団は、朝から霞ヶ関にある弁護士会館に集合した。会館内で小集会をもち、これまでの経過報告と、この日のたたかいの意義について、全国連よりの提起をうけ、ただちに東京高裁にたいする要請行動をおこなった。
高裁では、要請団が、「要請を間違いなく裁判長にとどけるように」という要請。しかし、訟廷管理官が、「要請は裁判とは無関係にやっている」と暴言を吐いた。これには、激しい怒りと糾弾がたたきつけられた。

新任検察官、要請に沈黙

昼の霞ヶ関デモにつづいて、東京高検にたいする要請行動をおこなった。高検では、9月に予定されている三者協議にむかって、担当検察官が交代、新任の検察官が対応した。
新任の検察官の名は上田邦彦。上田は、これまでの検察官とはまったく違って、要請団の要請・糾弾にたいして一言もこたえず、ひたすら黙って時間をすごすという態度にでてきた。
これは、高検が、《要請団には、事務的に対応するが一切答えない》という意志と方針をもってのぞんできたということだ。要請団は、いっそう激しい弾劾と糾弾をたたきつけた。

従来の枠こえた運動

第三次再審請求のたたかいは、この9月に、4回目の三者協議が予定されている。
5月13日の3回目の三者協議で開示された4項目、36点にわたる証拠は、不十分とはいえ、狭山闘争がやっとつかんだ一筋の光だ。
狭山弁護団は、高検が開示したこれらの証拠を精査し、新証拠提出を準備しているという。
石川一雄さんは8月下旬から、高裁前で連続アピール行動を再開する決意をあきらかにしている。
また、各地の「市民の会」や市民グループは、文化人署名活動をすすめるべく、活動を開始した。さらに全国各地で学習会や小集会がもたれている。まさに全国で、従来の運動の枠を超えた「草の根」運動が開始されようとしているのだ。
全国連が9月10日に要請行動を呼びかけている。狭山闘争をたたかう全国の仲間のみなさん。この秋、石川一雄さんと固く連帯して、狭山第三次再審請求勝利に向かっての大進撃を、ともに開始しよう。

6面

9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会

沖縄から 安次富浩さん(ヘリ基地反対協 共同代表)
三里塚から 萩原進さん(三里塚芝山連合空港反対同盟 事務
局次長)

集会スローガン

米軍基地撤去/日米安保はいらない
第3誘導路建設絶対阻止
市東さんの農地を守ろう
10・10三里塚現地へ総決起しよう


【主催者チラシより】
辺野古の浜で、外国メディアに新基地建設の問題を説明する安次富さん(4月24日 座り込みテント前)
「日米合意」による基地押しつけの攻撃に対して、この夏から秋、沖縄は名護市議選(9月12日投票)、沖縄県知事選(11月28日投票)を軸に決戦に入っています。名護ヘリ基地反対協の安次富浩共同代表をお招きし、「沖縄・辺野古と安保体制」(仮題)をめぐる講演をしていただきます。今こそ、私たちヤマトの人間は、この沖縄の皆さんの基地撤去にかけた闘いに応え、「日米安保はいらない」との国民的議論をわき起こし、その一翼を私たちも担いたいと思います。

三里塚では、今年前半、2・25天神峰現闘本部解体を叫ぶ反動判決にはじまり、6・28団結街道封鎖、7・26市東
じゃが芋掘り大会で、参加者に芋の掘り方を説明する萩原進さん(昨年6月7日 成田市内)
さんの畑の囲い込み、第3誘導路建設へと2014年30万回/年飛行、ハブ空港化実現にむけた市東孝雄さん叩き出しに一切をかけた攻撃が吹き荒れました。しかし反対同盟の実力決起を軸とした闘いは、この追い詰められた空港会社NAA、国家権力の「コソ泥」的な卑劣な攻撃をはね返して前進しています。「三里塚からの訴え」として、反対同盟事務局次長萩原進さんから、この三里塚の決戦に入った闘いの報告と10・10三里塚現地への総決起の訴えをお聞きするとともに、沖縄からの提起を踏まえた「今こそ三里塚と一緒に闘おう」「大衆的統一戦線を実現しよう」という訴えをお聞きします。

本の紹介
『平壌で過ごした12年の日々』 佐藤 知也 著

朝鮮学校の無償化除外問題を考えるために

康宗憲さん(韓国問題研究所代表)の講演を聞く機会があった(先月17日神戸市内)。その中で、康宗憲さんが一冊の本を紹介した。『平壌で過ごした12年の日々』(佐藤知也著)。
1945年解放直後の朝鮮に、日本人学校があった。それだけでも驚きだが、さらに、設備や経費が保障される一方、教育内容への介入はいっさいなかったという。
現在、日本政府がねらう朝鮮学校の無償化除外問題と対比して、考させられる一冊だ。

植民地支配者として
著者の父親は鉱山技術者。1936年から日本敗戦直前まで、朝鮮北部・寧辺で鉱山開発に従事。家族は、平壌・大同江近くの日本人専用の借家で暮らした。著者も4歳から16歳までを朝鮮で育った。
父親が朝鮮にわたったのは、「内地」に仕事がなかったためだが、それは、植民地支配への加担にほかならなかった。
「振り返ってみると、私にとって朝鮮の人たちとのかかわりがいちばん心に残っているが、敗戦までは、朝鮮人と話したり交流することはなかった。私も植民地支配者の立場に立っていて、優越の気持ちがあったのだろう」。

8・15で一変
8月15日の日本敗戦から、立場は一変する。
ソ連軍の進駐、極端な食糧不足。そして38度線を境界に米軍とソ連軍が占領、北部の日本人は帰国できない。さらに中国東北部からの引き上げ者が滞留する。
そんな中、敗戦直後に、朝鮮人生徒から同級生が殴られる事件などがあったが、「一時の混乱期を除き、朝鮮人から報復とか差別扱いをうけることはなかった」という。

復興に日本人技術者
帰国の目処が立たないなか、臨時人民委員会から、「日本人技術者確保令」がだされた。
植民地支配下の朝鮮では、産業の基幹を、統治者である日本人が握っていた。朝鮮人を技術者として養成はしなかった。だから日本人技術者がひき上げると、朝鮮の産業復興ができない。
あまり知られていないが、千人近い日本人技術者が残留し、窒素、製鉄、精錬、発電、電機、セメント、製紙などの工場再開に当たった。

教育へ介入なし
その在留日本人家族のために、日本人学校が開設された(平壌、興南、咸興、清津など)。著者も、15歳で代用教員として小学生たちを教えた。
授業内容やカリキュラムづくりに頭を痛めたという。天皇制が瓦解したのに、今さら修身や歴史は教えられない。国語、算数の2教科にしぼられた。
朝鮮当局は、机、椅子、黒板、オルガンをはじめ文房具などを十分にそろえてくれる。一方、植民地支配の反省を、授業に強いるといったことはまったくなかった。日本人の自主性にまかされた。
当時の朝鮮人一般事務員の給与は千円弱、金日成・人民委員長で4千円。他方、日本人部(日本人会)部長が6千円、代用教員の著者も2千円。住宅、米、嗜好品、石けん、衣類も保障された。
政策とはいえ、差別どころか優遇されていた。

いま体験残さないと
著者は、昨年、喜寿をむかえ、「いま北朝鮮は、核問題や拉致問題でマイナスイメージをもつ人が多いが、私のいたところは、こんなところでしたということを残しておきたい」と筆をとったという。(み)
佐藤知也著
光陽出版社 1600円
09年2月刊

★著者略歴
1931年東京生。36年一家で朝鮮へ。48年帰国。57年中央大卒。57年〜92年川崎市役所に勤務