未来・第58号


            未来第58号目次(2010年6月1日発行)

 1面  5月28日は新たな「屈辱の日」
     沖縄はまたしても切り捨てられた 名護市長

 2面  6・27三里塚に駆けつけよう
     あいつぐ不当逮捕に反撃を

     日米共同声明を弾劾する
     沖縄差別の元凶・安保体制粉砕へ

     これからが本番 辺野古闘争

 3面  4千人が沖縄と連帯
     米軍再編ゆるさない 5・23岩国

     派遣法抜本改正
     全国で行動つよめよう

     韓国哨戒艦沈没事件

     自衛隊 侵略態勢を拡大

 4〜5面
     白井朗さんへの追悼と革共同の謝罪
     革命的共産主義者同盟再建協議会 2010年6月1日

 6面  被爆・戦後65周年 韓国併合100年
     ヒロシマの継承と連帯

     ビキニ被爆 第五福竜丸展示館を訪ねて
     「核兵器の犠牲は私を最後に」

       

5月28日は新たな「屈辱の日」
沖縄はまたしても切り捨てられた 名護市長

号外を手に

5月28日午前、沖縄二紙の号外が、県内各所で一斉に配布された。「辺野古移設を日米発表」の大見出し。
号外を手にしてしばらく動かない人。受け取って足早にどこかに向かって急ぐ人。「沖縄を愚弄するな」と吐き捨てて立ち去っていく人。黙って号外を手渡してくれる雑貨店の店員さん。この日、沖縄中が、いい知れない憤りに包まれた。そしてその憤りを吐き出すように、那覇と名護で集会がもたれた。

民主主義のかけらもない

午後6時半、1200人が、名護市役所中庭に集まっていた。誰もが、稲嶺進・名護市長がどう発言するかに注目していた。
「今日、私たちは、屈辱の日を迎えた」。稲嶺市長が、厳しい口調でこう切り出した。降りしきる雨をついて決然と立つ姿に、憤りが満ちていた。1952年4月28日、72年5月15日についで、2010年5月28日、「沖縄はまたしても切り捨てられた」(稲嶺市長)。
「地元への説明も、与党3党合意もない。この国に民主主義はあるのか」(稲嶺市長)。一斉に「そうだ。民主主義なんかない」と叫びがあがる。米軍政時代と変わらない。政府は、沖縄を主権者として見ていない。沖縄を民主主義のらち外に置いている。そのことがいまほどはっきりしたことはない。


会場の最前列で演壇を注視する辺野古・久志・瀬嵩の住民。手にするボードがイエローからレッドに、「怒」から「怨」に(5月28日 名護市役所中庭)

日本と沖縄の決戦

「このたたかいに勝利することで、民主主義を取り戻すことができる。この場から新たなたたかいを開始しよう」(稲嶺市長)。そうだ。基地押しつけを跳ね返す名護のたたかいこそ、沖縄差別をうち破り、真の民主主義をつくり出す実践だ。参加者は誰もが、たたかいはこれからだと思っている。稲嶺市長が決然と政府と対峙している姿に自らを重ね、これを支えていくならば絶対に負けないと、この集会でみなが確信を深めた。
「辺野古に基地は絶対につくらせない。今日のこの意志を、日本政府にたたきつけよう」(稲嶺市長)。日本政府と沖縄が正面からぶつかる決戦の開始が宣言された。

住民が次々と

この集会は、日米・辺野古合意に反対して、4日前に、名護市長が実行委員長となって緊急に呼びかけられた。演壇の横に稲嶺与党の市会議員らがならび、演壇の真向かいには、辺野古、久志、瀬嵩など、当該地区の住民たちが陣取った。
この日の発言者は、市長以外、とくに役職や地位にある人はいなかった。市内の各地区の住民、長老や若者など、名護で生まれ育った人たちが大半。大勢の前での発言に不慣れな人が、準備してきた原稿を一所懸命、読み上げて自らの思いを訴えた。
そんな中の一人に、13年前、反対運動の初期に立ち上がり、その後激しい妨害にあって身を引かざるを得なかった比嘉盛順さんの姿もあった。また、13年前の市民投票の年に生まれ、中学生になった渡具知武龍くんも発言した〔左に発言要旨〕。

那覇でも1500人

午後6時半、那覇の県庁前広場でも抗議集会。怒りの声が相次ぎ、国際通りデモに出た。
〔関連記事2面〕

稲嶺 名護市長の発言(要旨)
今日、私たちは、屈辱の日を迎えた。私たちの心は怒りの頂点だ。沖縄はまたしても切り捨てられた。まったく許されない。
日米共同声明は、地元への説明もなく、県民も無視しておこなわれている。与党3党合意さえない。地方自治の侵害、民主主義の否定だ。この国に民主主義はあるのか。
このたたかいに勝利することで、真の地方自治、民主主義を取り戻すことができる。
この場から新たなたたかいを開始しよう。
辺野古に基地は絶対につくらせない。辺野古合意の撤回までたたかおう。今日のこの意志を、日本政府にたたきつけよう。


比嘉盛順さん(70歳 辺野古区)
鳩山総理、外務大臣、防衛大臣、官房長官の胸ぐらをつかんで、何が県外だ、何が友愛だと怒鳴ってやりたい。
子や孫に、うそをつくな、人をだますなと教えてきたが、総理大臣がうそをつき、沖縄をだましている。
政府は、あの手この手で迫ってくるが、稲嶺市長を支え、絶対に基地はつくらせない。

渡具知武龍くん(久志中1年 瀬嵩区)
小さい頃は、両親が基地に反対している気持ちがわからなかった。しかしいまは誇りだ。
両親のことがわかると、わからないのは鳩山首相。沖縄の気持ちは充分伝わっているはずなのに、どうして辺野古なのか。鳩山首相の大きな目はどこを見ているのか。沖縄はまた捨てられた。子どもはちゃんと見ている。子どもだと思って愚弄するな。


降りしきる雨の中、照明に照らし出されながら発言する瀬嵩の渡具知さん一家(5月28日 名護市役所中庭)

2面

6・27 三里塚に駆けつけよう
あいつぐ不当逮捕に反撃を

千葉地裁前で、勾留中の市東孝雄さん(車の中)を激励する(5月25日)

また不当逮捕

5月24日、成田国際文化会館で、成田空港第3誘導路の新設をめぐる公聴会が開かれ、反対同盟を先頭に粉砕行動がたたかわれた。
このデモを機動隊が執拗に規制、それに抗議した反対同盟の萩原富夫さんを、「公務執行妨害」で不当逮捕。5月17日の市東孝雄さんと支援に続いて、3人目の不当逮捕だ。

市東さん勾留延長

28日、市東孝雄さんにたいして、10日間の勾留延長が決定された。
理由は「証拠隠滅のおそれ」と「逃亡の疑い」。しかし、問題の看板は成田警察署のもとにあり、隠滅する「証拠」などない。農業を続けたい市東さんは「逃亡」するはずもない。全くでたらめな勾留理由だ。
三里塚闘争と反対同盟の破壊を目的とした弾圧を許すな。市東孝雄さん、萩原富夫さんを守れ。
団結街道閉鎖阻止、第3誘導路認可・着工粉砕、6・27三里塚現地闘争へ。

【抗議先】
成田警察署    0476-27-0110
千葉県警察本部 043-201-0110


日米共同声明を弾劾する
沖縄差別の元凶・安保体制粉砕へ

5月28日、辺野古への新基地建設を明記した日米共同声明が発表された。日本政府は、すべての沖縄県民にたいして、その主権をあからさまに否定した。それは国家による公然たる沖縄への差別であり、沖縄県民にとっては耐え難い「屈辱の日」となった。

再び沖縄を犠牲に

日本の沖縄差別は、1609年の薩摩藩による琉球への侵攻とその後の属領支配にさかのぼる。徳川幕藩体制のもとで生み出された異民族支配のかたちをとった沖縄差別は、明治以降の日本資本主義・日本帝国主義の形成・成立過程で、日本社会の中に組み込みまれていった。
日本帝国主義は、台湾・朝鮮・中国からアジア全域へと侵略戦争を拡大していくのと一体で、沖縄への差別政策を強めていった。その極致が1945年の沖縄戦である。沖縄は「本土防衛のための捨て石」とされ、県民20万人(県民の3人に1人)の命が奪われるというおそるべき犠牲を強いられたのだ。
敗戦後も日本帝国主義の沖縄への差別政策はなにひとつ変わっていない。戦後の米軍による日本占領は、サンフランシスコ平和条約(1952年)によって終了するが、沖縄は同条約第3条によって本土から分離されて米国の信託統治のもとにおかれ、占領が継続した。これにより、日本全国に駐留していた米軍は、つぎつぎと沖縄に移転していった。こうして沖縄は、アメリカ帝国主義のアジア・中東への軍事侵略の拠点として基地機能を強化されていった。朝鮮戦争(1950〜53年)、ベトナム侵略戦争(64〜75年)からアフガニスタン侵略戦争(01年〜)、イラク侵略戦争(03年〜)に至るまで、沖縄の海兵隊は常に最前線の部隊として投入されてきた。
米帝の侵略戦争に無条件で協力することによって、日本帝国主義はその戦後発展をとげてきた。そして沖縄はふたたび、そのための「捨て石」とされた。この日本帝国主義の基本姿勢は、沖縄のペテン的な「返還」(72年)から38年がたつ今日においても何も変わっていない。
そのことをはっきりと示したのが、28日の日米共同声明であった。

沖縄の糾弾

日米共同声明の前日に開かれた全国知事会議で、大阪府知事・橋下は「大阪府民は安全にただ乗りしている」といって唯一、鳩山に「協力」を申し出た。もちろん日米安保に「ただ乗り」しているのは大阪府民ではなく、在日米軍である。こうした日米安保体制を前提とした議論は、結局のところ沖縄へのさらなる犠牲の強要を合理化するものとなる。
沖縄の米軍基地問題の解決は、日本の労働者人民が沖縄県民のきびしい糾弾の声と正対するところからしか始まらない。そして戦後の日本社会が、構造的な沖縄差別の上に成立してきたことを真剣に自己批判し、この構造的差別の元凶である日米安保体制を粉砕することいがいにはありえない。
たしかにそれは多大な困難を要するであろう。そのことに決してひるんではならない。沖縄県民は、固い決意を持ってそのたたかいに踏み出しているのだ。

これからが本番 辺野古闘争

名護市内の様子を、5月28日の集会前に、地元の女性から聞いた。「町は全然あきらめてないよ。どうせくると思っていたから。上等よ。むしろ今まで怒りを口にしなかった人がどんどんしゃべるようになっている」。

毎週金曜日の朝に行われているキャンプ・シュワブ前の座り込み(5月28日 午前8時頃)
鳩山の2度目の来沖に激しく抗議する沖縄県民
(5月23日 沖縄県庁前)

金に踊る容認派

他方、基地容認派の動きを報道が伝えている。外務省や防衛省の職員が容認派と頻繁に接触しているとか、1月の市長選で落選した島袋が前原沖縄担当相に呼ばれて東京に行ったとか。そういう中で辺野古区の行政委員会が21日に「容認決議」をあげたとの報道には、沖縄でも驚きがあった。
これについて、辺野古に住む男性は、「容認派は金で踊らされているだけ。アメをできるだけ大きくしたいということ」。行政委員会とは町内会のようなものだが、聞けば、辺野古区の行政委員会は選挙で選ばれていないという。行政から降りてくる莫大な金を、自分たちの都合のいいように回している連中だ。「決議」も区の総会にかけられたものではない。民意では全くないということだ。
政府や中央のマスコミは、こういう連中を使って住民の分断工作を行い、その動きを意図的に大写しにして、新基地反対の圧倒的な民意を、何とか相対化しようと躍起になっているのだ。

暴動になるよ

沖縄戦の苦しみ、戦後の苦しみ、村が分断された13年間の苦しみの中で、反対の意志を貫いているオバアが、確信に満ちた言葉で次のように語った。
「これからが本番。これまでは(三線にたとえて)調弦のようなもん。これからたいへんなことになる。容認派は『金がたくさんあるよ』とほえてるけど、言わせておけばいい。鳩山が(5月23日)名護にきたとき、私は『生かして帰すな。殺せ』と叫んだよ。辺野古に基地をつくるとなったら、暴動になるよ。コザ暴動みたいな。沖縄全体が立ち上がるよ」。


官邸前で抗議

5月28日、日米合意発表に抗議し、首相官邸前で、午前10時から座り込み、午後6時半から抗議集会が行われた。

(5月28日 首相官邸前)

神戸で座り込み

5月20日から31日まで毎日午後4時〜6時、神戸市内で、基地撤去を求める座り込みと署名活動。座り込みは、のべ約150人。署名は500筆超。この数日、署名数がかなり増えた。若い人たちの関心が高く、進んで次々と署名に。

(5月29日 神戸市内、三宮駅付近)

3面

4千人が沖縄と連帯
米軍再編ゆるさない 5・23 岩国

参加者全員が「怒」の文字(5月23日 岩国市内)

極東最大の基地計画

米軍再編で岩国に新たに59機の艦載機を配備、岩国を極東最大の軍事基地にする計画が進められている。
防衛省は「爆音被害を減らすため滑走路を1キロ沖合いに出す」としているがペテンだ。現行滑走路の廃棄は予定されておらず、滑走路は2本に。さらに沖合いを埋め立てることによって巨大軍港建設も可能に。沖縄・辺野古の新基地計画と瓜二つだ。
愛宕山開発計画跡地に、米軍住宅建設を計画。鳩山政権はそのために199億円の予算を決定した。

民衆の力で政治うごかすとき

「来るな! 艦載機 いらない! 愛宕山米軍住宅 連帯しよう! 沖縄・全国と 見直せ! 米軍再編 5・23岩国大集会」は、悪天候の中、会場の元町第3街区公園から周辺道路にまであふれる4千人が集まり、沖縄と連帯して米軍再編を許さないという岩国の熱い思いを示した。
岩国市民連絡協議会の岡村寛さんの開会宣言で集会は始まった。つづいて、集会実行委を代表して井原勝介前岩国市長が、「政権は変わったが、アメリカに遠慮し、民衆には内緒にし、勝手に決定して押しつける官僚の政治は変わってない。だがそうした政治は行き詰まっている。今こそ民主主義の原点に立ち返るときだ。それは民衆の力で政治を動かすこと、政治を変えることだ」と発言。
マイクリレーでは、最初に沖縄から普天間基地の爆音訴訟団・宜野座晃さんが連帯を呼びかけ、徳之島の幸千恵子さんが「沖縄の痛みは分かち合うのではなく取り除くのだ」と応じた。厚木の爆音訴訟原告団・野口豊さんは「岩国に爆音を持ってきても厚木の爆音は決して軽くならない。厚木では、岩国に爆音をもって行かないたたかいもやる」とたたかいの連携をアピールした。

嘘つきは政治家の始まり

元国立市長・上原公子さんの連帯あいさつにつづき、国会議員があいさつ。民主党、共産党、社民党の議員が発言。
若者の意見発表として市内の高校2年生が、「嘘つきは政治家の始まり」と。鳩山に向けられた弾劾だ。
集会アピールは、「私たちは、4月18日の徳之島1万5千人集会、4月25日の沖縄9万人集会に連帯してこの集会を計画しました」とはじまり、「沖縄をはじめ全国の皆さんと連携して、たたかい続けることを、ここに高らかに宣言します」でしめくくられている。沖縄とともにたたかうという思いのあふれる集会であった。最後に全員で、黄色地に「怒」と書いた紙を掲げて、怒りの声をあげた。

派遣法抜本改正 全国で行動つよめよう

大阪難波・高島屋前でビラまき宣伝行動(5月13日)

派遣法の改定案は、4月18日に衆議院に上程されたが、4月23日に厚生労働委員会で一度審議されただけで、以後自民党の審議拒否により審議がストップしていた。しかし、民主党はここにきて各種法案の強行採決の動きを強めている。
5月28日の衆院厚生労働委員会では障害者自立支援法の事実上の継続案を当事者らが反対しているにもかかわらず、わずか75分の質疑で強行採決した。つづいて1カ月ぶりに派遣法の審議が再開されたが、十分な審議はまったくおこなわれていない。次回の委員会は6月2日だが、強行採決含みである。民主党は派遣法でも現場の派遣労働者の声を無視して強行採決をおこなおうとしている。穴だらけの政府案強行採決を許すな。

派遣労働者の叫び聞け

08年リーマンショックの後、大量の労働者が派遣切り、雇い止めされた。寮からも追い出され、厳寒の中で生命の危機にまでたたき込まれた。資本によって大穴を開けられた現行の政府案では、派遣切りはけっしてなくならない。派遣法を撤廃し、派遣労働というありかたをなくすために、抜本改正にたちあがろう。

会期末にらみ行動を

5月11日、降りつづく雨を吹き飛ばして、国会前行動がとり組まれた。つづく13日、労働者派遣法の抜本改正をめざす共同行動・大阪のなかま30人が難波高島屋前で派遣法の抜本改正を訴える統一ビラまき・宣伝行動をおこなった。19日、「派遣法抜本改正 国会行動」主催で国会前行動が80人でとり組まれた。28日にも国会前行動がとり組まれた。
派遣法改定がどのような内容になるか、われわれの行動にかかってきている。百の言葉よりも一つの行動が大切だ。
国会前行動、全国各地での行動を強めよう。

韓国哨戒艦沈没事件

3月26日に起きた韓国哨戒艦「天安」沈没事件について、韓国政府が、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)軍の魚雷攻撃によるものと断定したことから、一気に朝鮮半島情勢が緊迫してきた。
鳩山政権は、米韓両国政府と連携して、北朝鮮へのさらなる追加制裁の検討をはじめるとともに、政治焦点となっている普天間基地問題との関係で「抑止力」論の口実にしている。

米韓演習の最中に

事件が勃発したペンニョン島付近は、北朝鮮の統治範囲に近接したところで、これまでも軍事的緊張が絶えなかった海域だ。くわえて、空母や原潜も参加して米韓両軍70万人以上という大規模な合同演習「キー・リゾルブ(戦時増員演習)」と「フォール・イーグル(野外機動訓練)」が3月初旬から引き続いて行われており、その最中に事件が起きた。
韓国側の調査では、北朝鮮製大型魚雷の推進装置部分が引き揚げられたとして物的証拠にされている。が、小型潜水艇で大型魚雷を搭載できるのかなど、さまざまに疑問点が指摘されており、真相が明らかになったとはいいがたい。

危機をもてあそぶな

意図的か偶発かを含め真相がどこにあったにせよ、平和と朝鮮半島統一を求める朝鮮・東アジア人民の声を無視して戦争の危機をもてあそび、政治的に利用しようとする帝国主義とスターリン主義を許してはならない。
とりわけ日本の労働者階級人民は、在沖米軍の存在が朝鮮半島の緊張にたいする「抑止力」として不可欠だとする米帝と、それをこの間「学習してきた」などという鳩山政権にたいしてたたかわなければならない。
韓国政府の発表どおりだとするなら、何十万もの米軍が目と鼻の先で展開していたとしても抑止力にはならず、むしろ戦争の危機を誘発したことになる。戦争を止めることができるのは、人民の力だけだ。

自衛隊 侵略態勢を拡大

貨物検査法の成立

朝鮮民主主義人民共和国に出入りする船舶を、公海上で臨検するための貨物検査特措法が5月28日、与党と公明の賛成多数により参院で可決成立。先の臨時国会で継続審議となっていたもの。
あわせて、同国船籍の船舶入港禁止を来年4月まで延長する特定船舶入港禁止承認案件を全会一致で可決した。
公海上を航行する他国船舶を臨検しようとすれば武力衝突になる。自衛隊と、「世界最強の沿岸警備隊」と言われる海上保安庁による臨検は、朝鮮民主主義人民共和国にたいする戦争挑発だ。

揚陸艦をアジア派兵

5月23日、海自・呉基地から「くにさき」が出航した。米国主催の「パシフィック・パートナーシップ2010」に参加するためだ。パシフィック・パートナーシップは、07年から東アジア地域で米軍が毎年おこなっている準軍事活動。米軍艦船を軸とした各国政府、軍、関係機関、NGOが一体となって「医療支援、文化交流、人員・物資の輸送」をおこなうというもの。
自衛隊はいままで、隊員2人を派遣したことはあるが、強襲揚陸艦の参加は初めて。鳩山「友愛ボート」構想の一環としての参加だ。この構想はアジアでの紛争に自衛隊が軍事介入する狙いで発案された。
「くにさき」は、輸送艦と呼ばれているが、実態は強襲揚陸艦で、正式な略号もLST(Landing Ship,Tank 戦車揚陸艦)である。侵略時、敵地上陸用舟艇の母艦だ。

次々とACSA締結

5月19日、日本とオーストラリア政府は都内で外務・防衛閣僚会議(2プラス2)を開催、物品役務相互提供協定(ACSA)に署名した。日本が米国以外とACSAを結ぶのは初めて。これにより、東チモールPKOなどで、自衛隊がオーストラリア軍の兵員を輸送したり、武器、物資を相互提供することが公然と始まる。共同作戦行動そのものだ。
これが武器輸出3原則に抵触するのは明らか。そのため、平野官房長官は「同原則の例外扱い」とする談話を発表した。
これにつづき鳩山は、韓国とのACSA締結を狙っている。5月28日、日中韓首脳会談(済州島)時の、日韓個別会談で日韓ACSAの締結交渉開始を提案するという。韓国内では日韓の軍事的結びつき強化に懸念の声が上っている。

3軍派兵の常態化

昨春、ソマリア沖「海賊対策」と称して自衛隊3軍を派兵、現在も展開中だ。
今年になってからは、ハイチ地震にかこつけて自衛隊3軍を派兵。ハイチでは「被災地救援」とは程遠い、米軍による軍事占領作戦の一翼を担っている。
自衛隊の侵略戦争態勢の拡大と対決しよう。

4〜5面

白井朗さんへの追悼と革共同の謝罪
革命的共産主義者同盟再建協議会
2010年6月1日

昨年7月、革共同全国委員会の創設メンバーの一人であり、『前進』編集局長であった白井朗さん(山村克同志)が逝去された。
われわれは、白井さんの死を悼むとともに、革共同が第6回大会(2001年)で白井さんを「反革命」と規定して除名したこと、そしてわれわれもその処分に賛成し、白井さんにたいする組織的なテロルを容認したことを全面的に謝罪する。
また、この謝罪が遅きに失し、白井さんの生あるうちに実現できなかったことと、現時点でこれを革共同全体の謝罪となしえていないことを、かさねておわびする。

「白井問題」の本質はなにか

われわれは、06年3月14日に、党組織を私物化し財政的な腐敗を深めていた関西地方委員会議長を打倒し、翌07年11月に革共同の腐敗と変質の元凶である清水・安田体制と決別した。われわれは革命的共産主義運動の再生を目ざす理論的実践の重要な柱として革共同の歴史的総括を行ってきた。
その総括作業のなかで、80年代をとおして清水議長体制の下で党内民主主義が極限的に圧殺され、党が階級との生きた交通を欠落させ、ついには政治局そのものが崩壊していったことを明らかにした。ソ連崩壊、総評解体・連合結成などの情勢に革共同が党としてまともな対応ができなかったのはその結果であった。この政治局の崩壊過程における最大の組織問題であり路線問題が、いわゆる「白井問題」であった。
われわれが清水・安田体制と決別し、革共同の再建に踏み出していく過程で、白井さんからわれわれにたいして、「3・14決起を支持する」という意志が伝えられた。われわれはこの白井さんの意思表示にたいしてどのように応えていくかを検討し、彼と意見交換を行うことにした。すでにかなり病状が悪化していた白井さんから直接話を聞くことができた。この討論から数カ月後に白井さんは亡くなった。
われわれは、白井さんの話をもとに独自の調査を重ね、われわれ自身の根底的な反省と自己切開を行ってきた。そのことをとおしてわれわれは、清水丈夫議長が「白井問題」なるものをねつ造することによって、白井さんが提起した重大な路線的かつ実践的な批判を圧殺したことが、革共同政治局の変質とその崩壊を象徴する組織問題であることをつかみとることができた。

白井さんの提起
80年代後半から90年代前半にかけて、白井さんが政治局あるいは党組織内部において提起した主要な批判は次の3点であった。
1点目は、1986年の『前進』新年号の政治局アピールに入管問題にかんする記述が欠落していたことを白井さんが指摘したことから始まった。すなわち党内における7・7自己批判、7・7思想の風化にたいする批判である。
2点目は、91年のソ連崩壊にたいする無感動と危機感の欠如にたいする批判である。
清水らのスターリン主義にたいする把握は、社会主義論・共産主義論について深化させることを拒否し、いつまでも革共同第3回大会(66年)の「一国社会主義論」批判のレベルにとどまっていたのである。それは国有化と計画経済があれば、スターリン主義権力のままでも社会主義が可能になるというものであり、こうした理解の枠をこえる理論的・実態的解明を党内で行うことを抑圧していたのである。
3点目は、94年に成立した社会党・村山首班内閣にたいして、『前進』が「社会ファシズム」規定を行ったことにたいする批判である。
白井さんはそこに、1930年代のドイツ共産党が「社会ファシズム」論のもとで、国家権力とたたかわずに、ナチスと組んで社会民主党を主要打撃の対象としたのと同根の誤りを見た。

政治局内の路線対立
政治局内部でこのような深刻な意見の対立が生じたときは、党大会の開催をふくめた全党的な討論に付すべきものだ。
ところが清水は白井さんが執筆した民族問題にかんする論文を自分が書いた革共同第3回大会(66年)の第2報告を否定していると見なして、「これは自分にたいする権力闘争だ」と決めつけ、論文の撤回や書き直しを命じ、さらに公表禁止処分にするなどして、白井さんの意見を封殺しようとした。また白井さんが仲山良介の『資本論の研究』を批判したことにたいしても、清水らは、「同書は党決定である」として、その批判を禁じた。
このようにして清水らは、白井さんが理論的路線的な批判を提起したこと自体について「自己批判」を迫り、彼の意見・思想を放棄させようとしたのである。当時の政治局はその声明の中で「本社での自己批判の作成の環境と待遇は決して悪くなかった。これを強制であったと言うならば、獄中に入れられたらすぐ転向するということではないか」(99年8月)といっている。まさに彼ら自身の口から「本社での自己批判の作成」が、国家権力が監獄でおこなう転向強制と同じものであったことを自己暴露している。

組織的テロルで反対意見を圧殺

権力との攻防によって政治局会議の開催が困難になっていたなかで、白井さんは、政治局内の対立を解決するために党内討論を要求していた。

3千点の物品強奪
これにたいして清水らは、94年3月、白井さんの意見を受け入れて政治局会議を開催するという返答を手紙でおこなった。しかしそれは政治局会議開催を口実にして、彼を非公然アジトからおびきだすための方便であった。そして清水の指示を受けたメンバーは、白井さんの留守中にあらかじめ作製していた合鍵を使ってアジトに侵入し、3千点におよぶ物品を持ち去った。異変を察知した白井さんが帰宅したときには、すでにがらんどうになったアジトの机の上に大型のバールが1本、これみよがしに置かれていたという。
清水らはこうした凶行を合理化するために、「党の機密文書の回収」(『共産主義者』123号)のためにやったとか、「党防衛活動」(同書)のためだったと言い訳をしているが、それはまったくのウソである。清水のねらいは民族問題にかんする白井さんの原稿を奪い取って、彼の言論を圧殺することにあったのだ。

反革命規定とテロル
しかし、白井さんがこのアジト襲撃の事実を暴露して、公然と革共同批判を開始すると清水ら政治局は、「山村(白井さんのこと)反革命を徹底的に粉砕する」(パンフ『白井問題とは何か』2000年4月15日発行)と白井さんにたいして反革命規定を行い、01年の革共同第6回大会で除名を決定したのである。
この決定と前後して、01年1月には白井さんの借家に放火した。このとき着火剤を使用して放火したため、木造の隣家を含めて危く全焼するところであった。
そして02年12月に清水ら政治局は白井さんを肉体的に殲滅することを決定し、それを実行した。このとき襲撃者たちは、宅配便業者を装って白井さんの住居に突入した。彼らは、内からカギをかけて電話線と電源を切断したうえで、白井さんをうつぶせにし、両腕関節を脱臼させ、右手に集中的ダメージを与え、両脚膝のほとんどすべての靱帯を切断する重傷を負わせた。そして白井さんのノートや手帳などを奪って逃走した。
白井さんは、このダメージが終生の「障害」となった。彼は、それをのりこえて、民族問題にかんする第2の著書の刊行に執念を燃やし尽くして斃れたのである。

革共同の堕落・変質
ここに見られるような白井さんを肉体的にも抹殺することを狙いとした一連の党内テロルは、革共同を共産主義の党から堕落、変質させるものとなった。
清水らはこれらの党内テロルに革命軍を使いながら、大部分の党員にたいしてはその事実を隠蔽し続けた。ここで「党内テロルだから公表しない」という言い訳は成り立たない。反対意見の抹殺が目的だから党内にも秘密にしたのである。
革命軍の同志たちは、こうした腐敗した党内テロルの発動に黙って応じることによって、自らを清水ら政治局の私兵へとおとしこめてしまったのである。

デマの流布
さらに清水らは白井さんにたいする「反革命」規定や除名処分をもっともらしく見せかけるために、以下のようなデマを党内外に流布した。
そのひとつは、98年の金沢市内における失火事件で、警察権力に逮捕された白井さんが「革共同からの脱党を権力に誓って釈放された」というものである。
「脱党を権力に誓った」というのは事実無根のデマだ。実際、白井さんは、失火事件以降も革共同の党員として激しい清水批判の党内闘争を継続していた。だから清水らは、このような卑劣なデマを流して白井さんを除名したのだ。
いまひとつは、上記の失火事件で逮捕された白井さんが、「救援連絡センターの弁護士を拒否してブルジョア弁護士に依頼した」というデマだ。
これは事実の歪曲である。真相は、白井さんが獄中にとらわれていることを絶好の機会とばかりに、清水らが自分たちの息のかかった弁護士を送り込んで、弁護士接見を利用して白井さんに屈服を迫ろうとしていたのだ。この見え透いた策謀が白井さんによって拒否されたというだけのことである。権力を利用しようとしていたのは清水らのほうだったのだ。
みっつめは、白井さんが肉体的テロルを受けたときに「警察に被害届を提出した」というデマだ。
これは現在でも安田派周辺で「白井=転向者」「白井=権力のスパイ」論を裏づけるものとして語られている。しかしこのような事実も存在しない。これは実際に調べてみればすぐにわかることだ。だから清水らは、決して公式文書にはのせずに、もっぱら口コミでこのデマを流し続けている。

愚劣な誹謗中傷
また、白井さんにたいする個人攻撃として、彼が非実践的なインテリゲンツィアであるとか、党内で討論すべき内容を党外の出版物にのせたとか、党の組織防衛上重要な秘密を公表した、などという非難がなされている。この点について、われわれがつかんだ限りのことを明らかにしておく。
白井さんは党内闘争の初期の段階で、清水によって意見の公表が禁止されたことに抗して、党大会の開催要求をおこなうとともに、党内で彼の文書を回覧することを要求していた。
そうした要求がすべて拒否され、清水らが暴力に訴えて白井さんに屈服を強制してきたときも、白井さんは危険を冒して複数の政治局員に直接面談して自らの意見を訴え続けていた。
しかしそうした努力が実を結ばなかったために、99年に民族問題にかんする最初の著書『20世紀の民族と革命―世界革命の挫折とレーニンの民族理論』(社会評論社)を刊行した。
そして09年4月には、死の床から民族問題にかんする第二の著書『マルクス主義と民族理論―社会主義の挫折と再生』(社会評論社)を刊行した。
このように、清水体制の抑圧と暴力に抗して、全党を獲得し、プロレタリア階級と人民大衆に訴えるために終生たたかいつづけた白井さんの生きざまをみれば、「非実践的インテリ」であるとか、「党の秘密を暴露した」などというのが愚劣な誹謗中傷に過ぎないことはあきらかだ。

革共同のスターリン主義への転落

90年天皇決戦をたたかった革共同は、戦後世界体制の崩壊という歴史的局面において、労働運動に軸足をおいて、革命に向って新たな本格的な前進を開始するために、5月テーゼによる戦略的転換を図った。
そこで問われていたのは、先制的内戦戦略にもとづく軍事偏重路線によって党と労働者階級人民との生きた交通が失われてきたことと、とくに80年代後半において革命党の生命線である党内民主主義を圧殺する清水の独裁的な指導体制が形成される中で、革命的共産主義運動の腐敗と破産が進行していたことの総括であった。
ところが5月テーゼの提起は、こうした全面的な総括をめぐって真剣な党内討論をまきおこしていくものではなかった。
結局5月テーゼ以降の議論が、破産した清水体制の焼き直しでしかない清水・安田体制を、あたかもそれが「レーニン的オーソドキシー」であるかのように美化することで終わったことに根本的な問題があった。

80年代総括の核心
われわれが90年代の初頭に総括すべき核心問題は次のようなことであった。
第1に、80年代の中曽根反革命にたいしてプロレタリア階級と人民大衆による階級的反撃を組織するのではなく、「革命的武装闘争(ゲリラ・パルチザン戦争)」をもって代行させた革命軍戦略の誤りである。これによって革共同は労働者階級・人民との生きた交通を急速に失っていった。
第2に、党組織の準軍事組織化によって上意下達の官僚主義がまん延し、革命党の生命である党内民主主義、プロレタリア民主主義が圧殺されていったことである。それは革共同の党的力量が運動面でも理論面でも著しく後退していったことと無関係ではない。
第3に、そうした結果として、国内においては、総評解散・連合結成、国際的にはソ連崩壊とグローバリゼーションの急進展という歴史的転換点において、帝国主義の新自由主義攻撃の全面化とたたかいえず、スターリン主義を真に克服する社会主義・共産主義像を示すことができなかったことである。

「白井問題」と一体
以上の問題は、91年5月テーゼによる路線転換の裏面で進行していた「白井問題」の根底的総括と不可分一体のものである。
先に述べた白井さんの3点にわたる批判は、本来であれば革命的共産主義運動の内実をより豊かなものにするはずであった。また白井さんの民族問題にかんする二つの著書はマルクス主義の民族理論に一石を投じたものであり、革命的共産主義運動の再生をめざすものにとっては真剣に向き合わなければならないものである。
そうした一切を閉ざしたのは、清水らによる抑圧的な指導体制の完成にある。反対意見の禁止と排除、分派の実質的禁止、処分としての自己批判による自説の撤回の強制、党の執行機関のメンバーや大会の代議員までのすべてが任命制で決定される。こうして革共同を共産主義者の自発性、創意性を抑圧する機構に変質させたのが、清水・安田体制なのである。
「白井問題」に即していえば、清水・安田らは政治局内部の重大な意見の対立を、全党員とプロレタリア階級と人民大衆から隠蔽し、そのうえで反対意見の持ち主に「自己批判」を強制して意見の放棄を迫り、最後は肉体的テロルによって追放、抹殺を図ったのだ。
このどこに「レーニン主義」や「本多思想」があるのか。これこそスターリン主義への転落そのものではないか。

謝罪と決意

もはや清水体制のもとにある「革命的共産主義者同盟」は死んだ。「白井問題」としてあらわれた革共同の汚点、敗北、腐敗、変質を見すえ、えぐりだし、総括と反省を階級の共同財産とすることこそ、革命的共産主義運動を再生する唯一の道だ。
まずなによりもわれわれ自身が「白井問題」にたいしていかなる態度で臨んでいたのかを自己切開しなければならない。
われわれは当時、白井さんのたたかいを「権力闘争」と規定する清水らのやり方に賛成し、白井さんの主張を「反革共同」としてしかとらえることができなかった。そして清水らによる白井さんへの組織暴力に荷担してしまったのである。
とくに第6回大会においてわれわれは、白井さんへの「反革命」規定と除名決議に賛成し、知らされなかったこととはいえ、その後の白井さんへの凶悪な党内テロルを容認してしまった。そして清水ら政治局の問題性にたいして、当時のわれわれはほとんど無自覚であり無批判であった。われわれは、このことを共産主義者としての痛苦の念をもって全面的に謝罪するものである。
今日的にとらえ返すならば、われわれが06年3・14決起で、関西地方委員会指導部の組織暴力を粉砕してこれを打倒したたたかいは、「白井問題」にあらわれた革共同の腐敗と変質をのりこえるたたかいそのものであった。3・14決起によってわれわれは、1920年代のロシア共産党内におけるスターリンにたいするトロツキー・左翼反対派のたたかいの敗北を乗り越え、白井さんによる清水・安田体制にたいする核心的な批判を継承して、社会主義・共産主義を再生する第一歩を踏み出したのである。

誤った評価や態度
以上の革命的共産主義運動の今日的前進をかちとっていく立場から、われわれは革命的左翼内部における3・14決起や「白井問題」をめぐる誤った評価や態度について、批判をおこなっておく責任がある。
ひとつは、3・14決起にたいして「クーデター」や「非組織的」「反革命」などと批判する革共同からの脱落者グループの主張である。きみたちは、3・14決起について非難する前に、自分たちが「白井問題」が起こったとき、どこにいたのかをまず明らかにすべきではないのか。清水の手先として白井さんへの肉体的テロルを組織したり、政治局員として清水の提灯持ちをやっていたのではないか。
指導部が党内テロルの挙に出た場合は黙認するが、党員が腐敗した指導部の組織暴力に抵抗したら「非組織的」と非難し、そのような指導部を打倒したら「テロルだ」などとわめくようなやり方は、共産主義者がとるべき態度ではない。
いまひとつは、革共同のおぞましい過去にふたをしたいと考える人びとである。きみたちの考えがたとえ善意から出たものだとしても、「死んだ革共同」の腐敗や汚点を隠蔽するところに革命的共産主義運動の再生はない。そうではなく、過去および現在の革共同の誤りを、自らのものとして切開することこそ必要なのだ。

めざすべき党
帝国主義の新自由主義攻撃とソ連スターリン主義崩壊後の現代世界と対峙し、新しい革命的共産主義運動を興そうではないか。
われわれがめざすべき党とは、労働者人民のどのようなたたかいの現場にも存在し、そのたたかいから学び、階級全体の当面の利害と究極的な目標を結合することを瞬時も忘れない、そのような存在である。
そのために自覚した先進的な労働者と被差別・被抑圧人民出身の共産主義者と革命的インテリゲンツィアと革命的農民が、自立した共産主義者として、互いの信頼にもとづいて結集する。
その結集の原理は、共産主義革命の政治目的での一致にもとづく誓約にある。
そのようなものとして、われわれは、階級全体の解放のために、いかなる犠牲もおそれずたたかうことを決意する。そして白井さんへの追悼と謝罪にかけて、その決意を必ず実現することを、固く誓うものである。


白井朗さん略歴

1933年東大阪市(当時の布施市)に生まれる
1950年旧制伝習館高校で、50年分裂直後に共産党入党、国際派に所属。マッカーサーの共産党中央追放に反対し、広松渉らとともに高校でびらをまき、停学処分
1955年法政大学経済学部入学。共産党六全協により、反戦学生同盟を大衆的に再建、全国執行委員
1959年革命的共産主義者同盟・全国委員会の創設に参加。『前進』編集局長(〜69年)、政治局員
1999年『20世紀の民族と革命―世界革命の挫折とレーニンの民族理論』刊行
2009年『マルクス主義と民族理論―社会主義の挫折と再生』刊行
2009年7月25日 逝去

6面

被爆・戦後65周年 韓国併合100年
ヒロシマの継承と連帯

今年も、「8・6平和の夕べ―ヒロシマの継承と連帯を考える」集いが呼びかけられている。08年は、路面電車内で被爆した米澤鐵志さんが、被爆の実相と戦後の原水爆禁止運動について講演。昨年は、産婦人科医で被爆2世の河野美代子さんが被爆者の想い、被爆者運動の原点とその継承を話した。
被爆・戦後65周年、韓国併合100年の節目の年。日本の侵略戦争とヒロシマ・ナガサキへの道とは何だったのか。戦後世界に核の時代を開き、被爆者と全人類に共同の苦しみをもたらす出発点にもなったヒロシマ。日本の朝鮮植民地支配の非合理を、自己史と重ねて深く探究してきた高史明さんが、「日本の近代化とその闇」を鋭く突く。広島県被団協副理事長の池田精子さんが重い被爆体験を語る。沖縄から、「基地は沖縄人民の力で閉鎖する」という知花昌一さんが発言する。
8月7日の平和学習は、昨年につづき、いまも現役で走っている被爆電車に乗り、米澤鐵志さんからお話を聞く。福島和男さんは、いま平和公園になっている旧・中島本町、原爆ドームから元安川の西2百mに家があり、朝から工場の作業に動員されていた和男さんのほかは家族全滅。子ども時代の中島本町の暮らしと、核廃絶への想いを語る。
8・6ヒロシマにむかって、今号には、反戦・平和研究集会実行委員会の「8・6ヒロシマ―平和の夕べ― 賛同と参加のお願い」と、「第五福竜丸展示館を訪ねて」を掲載する。

8・6ヒロシマ―平和の夕べ― 賛同と参加のお願い

今年もまた、あの暑い夏がやってきます。
被爆の惨状から65周年。そして、韓国併合から100年という節目の年となります。被爆者の方たちは、この65年間、核廃絶を願いながら平和を訴え続け、そしてつぎつぎと命つきています。
日本において、この国の根幹である憲法の改憲手続きを定めた国民投票法が成立したのが07年5月。3年たった今、いつでも国会の憲法審査会での改憲論議が始められることになります。アメリカの核の傘の下で、自ら核兵器をつくることができる原子力発電所が増やされ続けています。昨年の8月6日には、広島の地において、改憲論者の講演会が堂々と開かれるという状況までつくられています。
一方、世界では、イラク・アフガニスタンをはじめとして、戦争が絶えず繰り返されています。核兵器は一向に減らされる気配がありません。いつでも核戦争が起こされる危機が続いています。
このような状況のなかで、私たちはこれまで、8月6日の広島で「平和集会」をやってまいりました。集まった仲間たちと、これからをどう生きるのか、どう声をあげるのか、自らの問題として、熱い論議をしてまいりました。
今年も、私たちは8月6日の広島に集います。平和講演は、高史明さんにお願いしました。日本の侵略により、命を奪われ、言葉や名前、文化まで奪われた朝鮮半島の方たちの声を聞き、考えたいと思います。
今年も一人ひとりが主人公の集会です。
集いましょう。そして、考えあい、語りあいましょう。

私どもの提唱している8月6日の広島市での集会は、それぞれの個人有志の意思と力でつくり上げようとするものです。財政も賛同していただける皆さんの浄財に依拠したものになります。多くの皆さんのご賛同とご参加をお願い申し上げます。

2010年4月26日
チェルノブイリ事故24周年の日に


2010年呼びかけ人
 秋田明大(自動車整備工)
 中村周六(浄土真宗本願寺派僧侶 釈等正)
 原伸幸(百姓や会、長崎被爆二世)
 横佩智恵(ハンドインハンド広島 代表)
 立川久美子(スペイン・バル オーナー)

連絡先
 〒733-0022 広島市西区天満町9-8 白土ビル1F「百姓や」
 平和の夕べ(反戦・平和研究集会)実行委員会
 TEL:090-1338-1841
 FAX:082-296-1444
 E-mail:heiwanoyuube@excite.co.jp
 郵便振替口座:01330-7-47740 反戦・平和研究集会実行委員会



ビキニ被爆 第五福竜丸展示館を訪ねて
「核兵器の犠牲は 私を最後に」

5月3日にスタートしたニューヨークでの核不拡散条約(NPT)再検討会議には、広島・長崎をはじめ全世界から核廃絶を求める人びと1万人が集まり、その後1カ月近くの行動がとりくまれた。
その中に1954年3月1日、南太平洋・ビキニ環礁での水爆実験で被爆した第五福竜丸の乗組員・大石又七さんの持つ大漁旗も翻った。

アメリカの水爆実験

1954年1月22日、静岡県焼津港を出港した第五福竜丸は、3月1日ビキニ環礁から160キロの地点で、アメリカの水爆実験に遭遇。水平線の先の強烈な光が水爆実験とは知る由もない。やがて空から白い粉が降ってきた。その晩から吐き気や火傷の症状に襲われ、7日目くらいから髪の毛が抜け、3月14日焼津港に戻った。
その後この被害は水爆実験が原因とわかり、乗組員全員が東京の病院に入院する。半年後に無線長・久保山愛吉さんが40歳でなくなり、他の乗組員もその後12人が死亡している。現在、東京でクリーニング店を営む大石さんは、核兵器の犠牲者は自分たちを最後にと、訴え続けている。

原水爆禁止運動のもうひとつの原点

水爆実験にさらされた第五福竜丸は、その後数奇な運命をたどり、67年に廃船となり、東京のゴミ処理場・夢の島に放置されていた。それを青年が新聞に投書して保存運動が始まり、76年6月に、「原水爆による惨禍が再び起こらないように」との願いを込めて、常設の展示館が建設された。
小さな展示館ながら延べ訪問者は、450万人をこえ、毎年400校以上の学校から見学者があるという。
展示館にはいると、中央には木造の船体の実物がある。中には入れないが、考えている以上に大きい。木造ながら、南太平洋までマグロをもとめて数千キロの航海を行っていたのだ。その周辺に、大漁旗、死の灰、カレンダーと日誌、ガイガーカウンターなどが展示されている。
またマーシャル諸島住民の被災の実態や、世界各地のヒバクシャ(ロシアのセミパラチンスクなど)の訴えや、久保山愛吉さんや家族にあてた全国各地からの手紙、ビキ
展示館の中央に実物の第五福竜丸が展示されている
ニ被爆を機に始まった原水爆禁止署名運動の初期の署名簿、読む証言コーナーなどがある。
館の外には、久保山碑と「愛吉・鈴のバラ」や、マグロ塚など。碑には、9月23日に死亡した久保山さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」が刻まれている。また広島市の花・キョウチクトウと、長崎市の花・アジサイも植えられていて、一体となって核廃絶を訴えている。
ビキニ被爆を機に、原水爆禁止の運動が始まった。この運動を途中でとめるわけにはいかない。今年も8・6ヒロシマが近づいてきた。
東京駅から30分、夢の島にある展示場をぜひ訪ねてほしい。(K・M)

東京都立第五福竜丸展示館
東京都江東区 夢の島公園内 TEL03-3521-8494
開館時間:9時30分〜16時/月曜休館(月曜が祝日のときは開館し火曜休館)
入場無料
アクセス:JR京葉線、地下鉄・有楽町線、りんかい線「新木場」駅下車、徒歩10分。/地下鉄・東西線「東陽町」駅下車、都バス(木11)新木場行きに乗り「夢の島」下車、徒歩3分。/車・首都高湾岸線で「新木場」出口より、明治通り沿い1分。