「7・7思想」と入管闘争
―70年7・7自己批判以来の「7・7思想」と入管闘争の検証と総括について
中 沢 慎一郎
はじめに
われわれが「7・7思想」と呼ぶものは、プロレタリア世界革命を実現していく上での思想的立脚点である。同時に、それは反スターリン主義の思想的立脚点でもある。わが革共同が70年7・7自己批判を通してつかみとった「7・7思想」とその深化・発展、そして「7・7思想」の具体的実践としての入管闘争、さらにそうした地平のすべてを投げだし、「7・7思想」への敵対を深める安田派(註)とのたたかいについて、本稿を通して可能な限りの総括と検証をおこなっていきたい。
1 70年7・7自己批判と「7・7思想」の確立
まず、われわれが「7・7思想」と呼ぶものはなにか。わが革共同をはじめとする革命的左翼は、1970年7月7日に華僑青年闘争委員会に結集する在日中国人青年から告発・糾弾を受け「7・7自己批判」をおこなった。われわれは、この告発・糾弾を共産主義者の党としてきびしくとらえかえし、差別・抑圧問題にたいする帝国主義国抑圧民族プロレタリアートとその党の立つべき思想的立脚点を確立してきた。それが「7・7思想」である。
70年から71年の過程は、日本帝国主義(以下、日帝と略す)の侵略帝国主義への転換をかけた大攻撃が加えられようとしていた時であった。65年日韓条約の締結を突破口にして日帝は、67年ベトナム戦争への参戦国にふみ出し、そして70年安保大改定から71年の沖縄返還協定の強行へとつき進もうとしていた。敗戦帝国主義から侵略帝国主義への大転換を許すかどうかの一大階級決戦を迎えていたのである。これにたいして革共同を先頭とする革命的左翼は、67年10・8佐藤首相の南ベトナム訪問阻止をかかげた羽田闘争から原子力空母エンタープライズ佐世保入港阻止闘争、王子野戦病院阻止闘争、三里塚空港反対闘争を角材で武装し機動隊と激突して闘い、68年新宿騒乱闘争から東大・日大を先頭とする全国大学闘争をバリケードストでうち抜き、69年11月決戦を大衆的武装闘争を組織してたたかいぬいた。全学連はもとより、反戦青年委員会に結集する労働者も、逮捕・投獄・解雇を恐れずに火焔瓶と鉄パイプで武装して機動隊と何度も激突し、数千名の逮捕も辞さずたたかいぬいた。そしてさらに、71年の沖縄返還協定の強行にたいして「第2の11月決戦」を準備していた。その真っただ中の70年7月7日に革命的左翼と華僑青年闘争委員会に結集する在日中国人の共同のとり組みとして7・7入管集会が準備されていたのである。
この日帝の安保・沖縄政策を柱とする侵略帝国主義への転換の攻撃は、在日朝鮮人・中国人をはじめとする在日アジア人民への入管攻撃の一大エスカレーションと完全に一体のものであった。1つには入管法制定攻撃であった。戦後の入管体制は、入管令と外登法を柱としていたが、それは戦後革命に厖大に決起した在日人民の闘いを圧殺するためのものであった。その核心は24条の退去強制条項である。いっさいの政治活動が禁止され違反すれば退去強制とされた。それにとどまらず、「生活保護受給者」「らい患者(ママ)」「精神障害者」も対象に含まれていた。日帝に刃向かうことはおろか、息をすることすら許さないというすさまじい反動的法律であった。この入管令を入管法に格上げしようと69年に入管法が国会に上程されたが、街頭デモも含め在日人民は数十万規模の決起で廃案に追いこんでいた。これを再び71年に国会に上程しようとしていたのである。
もう1つは、65年日韓条約にもとづく日韓法的地位協定による協定永住権の申請期限が71年1月16日に迫っていたことである。戦後の在日朝鮮人の国籍はすべて朝鮮籍であったが、この協定永住権を取得するためには朝鮮籍から韓国籍への国籍変更が条件とされていた。協定永住権を取得すれば、先に述べた退去強制を若干緩和するとして、朝鮮籍から韓国籍に切り替えさせようとしてきたのである。それは、朝鮮総連を離脱させ、類を見ない過酷な軍事独裁支配を敷いていた朴軍事政権に忠誠を誓うことを強いるものであった。戦後革命期に果たした在日朝鮮人の戦闘的たたかいを解体することを目論んでいたのである。その申請期限が71年1月16日であり、在日朝鮮人一人ひとりが民族的尊厳、生活と生存をめぐってその選択を問われていたのである。
こうした入管法制定攻撃と協定永住権申請期限をめぐって、在日人民は帝国主義本国における被抑圧民族の存在をかけたたたかいを不可避に迫られていたのである。
こうした中で、戦闘的在日朝鮮人・中国人は、67年10・8羽田闘争を突破口とする日本の革命的左翼の武装決起と、その思想的核心であるマルクス主義・レーニン主義に接近し、日本の革命的左翼との共闘を求めて決起を開始していった。その中で在日中国人の戦闘的組織として華僑青年闘争委員会が生まれていった。華青闘は、中国スターリン主義の影響を受けていたとはいえ、ヘルメットを被って集会・デモをくり広げ、日帝と激しく対決する闘いを展開していた。日帝は、在留期間短縮などの攻撃を加えて退去強制の恫喝を加え(退去強制されれば送還先は中国ではなく台湾であり、それは投獄や処刑を意味した)、華僑青年闘争委員会を先頭とする在日の闘いへの徹底弾圧で臨んできたのである。
こうした中で、入管法制定攻撃と協定永住権申請期限の71年1月16日を目前に控えて、華僑青年闘争委員会の呼びかけのもとに準備されていたのが70年7・7集会であった。
しかしこの7・7集会の開催をめぐって、日本の革命的左翼の側の消極的かかわりや没主体的あり方にたいして華青闘からきびしい批判が出され、集会の2日前の7月5日の実行委員会において華青闘は抗議し、実行委員会の席上から退場する事態に立ちいたった。しかしわが革共同の同志は、華青闘の抗議退場の意味を真剣にとらえようとせず、華青闘の抗議退場に、「(出ていっても)いいじゃないか」という差別的敵対的暴言を浴びせたのである。華青闘は、革共同をはじめとする日本の革命的左翼のあり方をきびしく糾弾した上で「決別宣言」を発し、日本の革命的左翼と華青闘との共同のたたかいは失われてしまったのである。こうした中で2日後の7・7集会において、革共同は党として全面的に自己批判を明らかにする発言をおこなったのである。それが華青闘による「7・7告発」であり革共同の「7・7自己批判」である。
われわれはこの「7・7告発」をどのように受けとめたのか。
一番大事なことは、被差別・被抑圧人民の糾弾にたいして、それをわれわれがめざすプロレタリア世界革命の根本にかかわる問題としてうけとめたことである。階級社会の廃絶を通して、人間の人間的解放をめざすわれわれが、真剣に必死に闘っていながらもなお、被差別・被抑圧人民の不信をぬぐいえていない現実を痛烈に自覚したことである。言いかえれば帝国主義本国のプロレタリアート、とりわけ共産主義者が、被抑圧民族人民・被差別人民の信頼をかちとりえないかぎり、プロレタリア世界革命は空語であると痛烈に感じとったことである。そうした痛切な受けとめを通して根底的自己批判をおこなったのである。
この「7・7告発」を通して、われわれは、在日人民やアジア人民の歴史と生活、その中での彼らの苦闘をまったく共有しえていない現実をつきつけられたのである。その中で、歴史と現実を知らないこと、知ろうとすらしなかったことを痛感したのである。したがって、「歴史と現実を知り」、「存在と闘いに学ぶ」ことをいっさいの出発点としたのである。「7・7思想」の核心問題は、こうした姿勢と立場に日本のプロレタリアートと共産主義者が立つということである。したがって「7・7思想」とは、その時々によって変更可能ななにがしかの「論」や「路線」ではなく、その立場と精神に他ならない。
日本帝国主義がくりひろげたアジアへの侵略戦争と植民地支配、それはアジア人民にいかなる苦しみと打撃をもたらしたのか。日本の労働者階級がこの侵略戦争を阻止できなかったにとどまらず、屈服し加担し先兵とさせられた事実。それゆえに日本の労働者人民へのアジア人民の不信が抜きがたく蓄積されていること。しかも戦後もなお植民地主義的支配が形を変えて継続し、在日人民にたいする差別・抑圧、分断・同化・追放の攻撃が加えられ、それが在日人民の生活と生存を脅かし、民族的尊厳を蹂躙しつづけていること。それにたいして、在日人民は存在をかけてこれと対峙しつづけていること。にもかかわらず、日本人民はそうした歴史と現実に向きあう点で極めて不充分であり、基本的に無知・無自覚でありつづけてきたのである。そうした日本人民の階級的現実が、革共同の「7・7発言」として端的にあらわれてしまったのである。われわれは在日人民による告発を通してしか、そうした現実を自覚しえなかったのである。こうした現実が日本の労働者階級人民の階級形成を著しく阻害していること。さらには在日人民、アジア人民との連帯・信頼を歴史的に断絶させてしまっていること。われわれは「7・7告発」をとおしてこうしたことを強烈に自覚したのである。
ここから、「存在と闘いに学ぶ」ということの大切さを自覚したのである。それは単に「闘いに学ぶ」ということにとどまらない。在日人民が在日人民として存在しつづけることそのものが、日帝にたいする闘いそのものであることをとらえかえしたのである。
こうして、日帝の入管攻撃にたいして、支援・防衛・連帯をうち出したのである。さらには、具体的な存在と闘いの防衛としての地域闘争と、入管攻撃を政治的にうち砕くための全国政治闘争との「両輪論」をうち出した。以上のことを確認しながら実践的な入管闘争にふみ出していったのである。
以上のことを整理すればつぎのように言うことができる。
在日人民をプロレタリア革命の主体的存在として措定したこと。そして、在日人民にとって日帝打倒・日本プロレタリア革命とは、帝国主義本国における民族解放・革命戦争の貫徹の形態である。
日本の労働者人民がプロレタリア革命の主体として自己を形成する上で、差別・抑圧との闘いを不可欠のものとして措定したこと。労働者階級は、いっさいの生産手段を奪われ、自己の労働力を資本に売ることによってのみ資本主義社会に生存することが許される存在としてあり、したがって資本家階級を打倒し階級社会を廃絶することによってのみ自己の解放を達成しうる階級である。しかしこの資本主義社会は、帝国主義の段階に到達する中で、あらゆる差別・抑圧を支配の柱として組みこみ、労働者階級を絶えず差別主義と排外主義のもとに屈服させ、あるいは加担させることで成立している。したがって労働者階級は、この差別・抑圧との闘いを極めて自覚的・目的意識的に自己の課題としてすえて闘うこと抜きに、自己の階級性を形成することはできないのである。
この入管闘争の日常的実践的闘いによって、差別と抑圧をうち砕くことを通して在日人民との分断をのりこえ信頼関係を回復し、ともに日本プロレタリア革命を共同でかちとることを確認してきた。
総じて、差別・抑圧の課題を、プロレタリア革命の正面課題としてすえきったということである。
われわれが当時、「血債の思想」と表現してきたものは何か。それは当時一部で主張された、いわゆる「民族的責任の思想」というものとはまったく違うのである。プロレタリア世界革命の心棒をなす思想であり、徹底した階級的立場をつらぬいたものなのである。
(註)「安田」と「安田派」…安田は1995年に革共同政治局員。97年に革共同副議長。「7・7思想」の否定をはじめとする革共同の腐敗と変質の最大の推進者。「06年3・14決起」をみずからの党内権力闘争に利用し革共同を簒奪した。清水議長をはじめとした他の政治局員はこれに屈服・追随しており、革共同の実質上の最高指導部が安田であるため「安田派」と呼んでいる。
2 「7・7思想」をつらぬいてカクマルとの戦いにうち勝った
こうした立場と確認にたって、70年7・7以降、われわれは入管闘争の本格的実践に入っていく。戦闘的在日中国人にたいする在留期間短縮攻撃=退去強制攻撃との闘い。朝鮮籍への切り替えをめぐる支援闘争。71年1・16協定永住権申請期限切れをめぐる闘い等々…。地域入管闘を各地で結成し、地域に密着した闘いにふみ出していった。しかし、その実践はわずか数年で断念せざるをえなかった。カクマルによる71年12・4反革命襲撃ゆえであった。わが革共同は、民間反革命カクマルとのたたかいを日本革命の存亡をかけて戦うことを決断した。いっさいをカクマル反革命との戦いに勝利する戦闘態勢へと転換した。こうした中で、開始したばかりの地域入管闘は凍結を余儀なくされ、入管闘争の党としてのとり組みは全面的に縮小を強いられた。しかし、われわれはカクマルとの戦いを、「7・7思想」を根底につらぬくことを通して命がけでたたかうことができたのである。
3 90年入管闘争|入管闘争の再建・再確立の闘いの開始
@ 90年入管闘争にふみ出す時に何が問われていたのか
われわれの入管闘争の本格的実践、再建・再確立の闘いは、90年の外登証の大量切り替え時を目前に控えた88年からである。
何よりもまず、われわれは82年入管法制定攻撃と85年指紋押捺拒否闘争をどうとらえたのかであった。在日朝鮮人・中国人は、戦後40年を経て、差別・抑圧・分断、同化・追放攻撃を受けつづけ、それにたいする日本の労働者人民の無知・無関心の中においてもなお、屈服せず、日帝の攻撃にたいして、民族的尊厳を守りぬいてたたかっていること。この言葉に尽くすことのできない苦闘を衝撃をもって受けとめ、襟を正して向きあうことから始めなければならなかった。
80年から始まった指紋押捺拒否の闘いは、81年から84年にかけて、逮捕・起訴・在留期間短縮=強制送還の恫喝という徹底した大弾圧をはね返し、85年の大量切り替え時に14000名もの拒否・留保の闘いへと発展した。朝鮮籍・韓国籍・台湾籍の在日朝鮮人・中国人が当時約60万名であったことを考えると、逮捕・投獄を覚悟したすさまじい闘いの規模の大きさを見てとれる。しかも、当時、朝鮮総連は拒否という戦術はとらない方針だったことを考えれば、さらにその決起の大きさをうかがい知ることができる。
さらに在日朝鮮人・中国人は敗戦直後から日帝によって、「皇国臣民」から今度は日本国籍を一方的に剥奪され外国人として扱われ、日本国憲法の外におかれて無権利と不安定な在留資格にさらされてきた。しかし日帝は、侵略戦争と植民地支配の結果、200万人ともいわれる朝鮮人・中国人が在日を余儀なくされた事実を消し去ることはできなかった。1945年8月15日以前から引きつづき日本に在住する朝鮮人・中国人にたいしては、その歴史的存在を否定し去ることができず、法律126号で一定の歴史性を認める形で引きつづきの在住を認めざるをえなかったのである。しかしその子どもは入管法4‐1‐16‐2の在留資格とされて3年ごとの更新が義務づけられ、さらにその子どもは入管法4‐1‐16‐3の在留資格とされ、3年以内の範囲で「法務大臣が特に在留を認める者」に在留資格が付与されるにすぎず、引きつづき更新されるかどうかは入管の自由裁量であり、まさに「煮て食おうが、焼いて食おうが自由」と呼ばれるものであった。在日は子から孫へと世代が進むにつれて日本への定住性は高まるにもかかわらず、在留資格はますます不安定にさらされた。こうした現実にたいして日本政府は、住むことも認めないという姿勢をとりつづけていたのである。
こうした中で日本政府は、1965年の日韓条約とともに締結された日韓法的地位協定によって、71年1月16日を申請期限として、朝鮮籍を韓国籍に変更することを条件に日韓法的地位協定にもとづく「協定永住権」を付与するとして、「退去強制と在留条件の一定の緩和」と引きかえに朝鮮籍を切り崩す攻撃を加えてきた。そしてこれと軌を一にして、69年以来3度にわたる入管法制定攻撃を加えてきた。しかし在日朝鮮人・中国人はそれらをことごとくはね返したのである。
「協定永住権の付与」にもかかわらず、実に多くの人びとが朝鮮籍にとどまった。こうした人びとにたいして、政府は協定永住権に準じた在留資格(特例永住)を付与することで、82年に入管法制定にこぎつけたが、その本質は、在日の「歴史的存在性」の抹殺であった。にもかかわらず、当時18884名にのぼる人びとが法律126号によって規定された存在にとどまったのである。そうして在日の「歴史的存在性」をまもりぬいたのである。
戦後40年を経て、在日の多くが2世から3世4世世代へと移り、しかも徹底した同化攻撃にさらされてきた。9割をこえる在日の子どもたちが日本の学校に通うことを余儀なくされ民族教育を奪われ、多くの子ども達が通名を名乗って生活し、母国語を話せない人びとが多数にのぼっている。そうした過酷な現実の中で、82年入管法制定をめぐって、85年指紋押捺拒否闘争において、なおかつこれだけの闘いに立ち上がったという事態をどうとらえるのかが日本の労働者人民、とりわけ共産主義者に問われていた。
そうした上で、5年後の90年に、ふたたび外登証の大量切り替えをむかえようとしていた。さらに「協定永住権」は、71年1月16日までに申請した者とその子どもにのみ認められ、3世以降については25年後の1991年までに日韓で再協議して決めるとされていた。日帝は当時、25年間で在日問題は「解決」する、すなわち同化か追放で決着をつけられるとタカをくくっていたのである。90年の指紋押捺の大量切り替えとともに、91年1月16日以降、「協定永住権」3世代以降の人々の在留が空白状態に突入するという「91年在留権問題」が迫っていた。さらに日帝は、90年に入管法の改悪をたくらんでおり、本格的な外国人労働力の導入を国策として進めようともしていた。
こうして、90年を前後して、日帝の在日への攻撃、入管攻撃は、70年―71年以来の一つの頂点を迎えようとしていた。われわれは90年指紋大量切り替え時にたいして、「91年在留権問題」にたいして、日本の労働者人民が支援・防衛・連帯の闘いに立ちあがらなければ、在日人民との合流は不可能になってしまうことへの激しい危機感を抱いた。とりわけ共産主義者としての存在理由を自らに問わずにはいられなかった。こうして、革命党として絶対にそれに応える階級的義務を死活的に自覚し、もはやまったなしの問題として入管闘争の再建と再確立を決断したのである。
しかしわれわれがこうした決断を実践するためには、さまざまな困難をのりこえる必要があった。
まず何よりも、入管戦線自身が革共同にはほとんど実体的には存在していないという現実があった。しかも革共同中央としての入管闘争の方針・政策は何らなく、実際上は首都圏に存在していた「中央入管」に丸投げされていたのが現実であった。入管戦線を戦線として再建すること、そして革共同中央・革共同全体を獲得すること抜きに入管闘争を実践していくことは不可能であった。ここをまずはどう突破するのかが問われたのである。そのために、入管闘争を主体的に再建しようと決断した数名の同志(入管戦線以外の同志も含めて)が集まって何度も独自の会議を持ち、「7・7思想」の再確立と入管闘争の闘争路線と方針を必死になって形成した。そうした立場と内容で中央をはじめ革共同全体を獲得していったのである。
さらにわれわれは、「7・7思想」を思想的次元においては提起してきた。しかし対カクマル戦によって実践的とり組みはほとんどできていなかった。問われていたのは実践的踏みだしであった。しかし、それを開始した途端、「論」や「思想」一般ではすまない問題に直面した。われわれは入管闘争の実践をまったくといっていいほどおこなってこなかったのであり、入管闘争はほとんど在日人民や良心的日本人民の闘いによってとり組まれてきた。こうした人びとから、われわれは何ひとつ実践上の信頼をかちえていなかった。われわれはマイナスからの出発であることを肝に銘じてとり組みを進めることを決意した。いわば「雑巾がけから始める」立場で闘うことを確認したのである。
さらに、理論的・思想的・路線的深化と確立の闘いも問われていた。「7・7思想」に裏づけられた入管闘争の路線と方針を確立することが求められていたのである。しかもそれは、80年代の指紋闘争を担ってきた多くの勢力が90年指紋拒否闘争から召還する動きが進む中で、実践上何ひとつとり組んでこなかったわれわれが、実際の具体的闘いにふみ出す中でひとつひとつ信頼をかちとり、戦闘的良心的在日人民や日本人民の闘いと結合しつつ、しかも路線的論争をおこないながら闘いの全体の発展をかちとっていくというきびしい課題であった。
われわれは、こうした課題を対象化し、青年アジア研究会の雑誌「日本・朝鮮・中国」(以下、「日朝中」と略す)を通して理論的・思想的・路線的深化と確立のとり組みに着手していった。そしてそれと同時一体的に実践的な闘いに着手していった。
A 「日帝との非和解的存在としての在日」規定の確立
われわれは、前節で述べたように、入管闘争の再建・再確立にむかって、実践の場に踏みだそうと決断した途端、、「在日とは何か」をあらためてとらえかえさなければならなかった。
「日朝中」13号金英植(キム・ヨンシク)論文(1989年5月)で、金賛汀(キム・チャンジョン)氏の「甲子園の異邦人」を俎上にのせ批判を提起した。金賛汀氏が「今、在日を生きる人々は、二極に分化しつつあると思える。一つは日本社会の中に『同化』し埋没して生きる生き方。もう一つは民族的な主体性を確立してその意義のもとに生きようとする生き方である。民族的な主体性を確立して生きようとする生き方の端的な表現が本名を名乗り、自らの出自を明確にして生きようという人間としての尊厳を大切にした生き方であろう」と述べていることを批判したのである。金英植論文では「民族的尊厳を守り抜いて生きることのなかに、激しく日帝とたたかうことが何ひとつ措定されることなく、差別論一般のなかに解消してしまっているのだ。何とたたかうことで、在日が人間として朝鮮人として自己をまっとうできるのか、(在日)朝鮮人はなぜこんなにまで圧迫を受けるなかで生きていかなければならないのか、何がその元凶であり、その歴史はどうやって根底的に解決すればよいのか。それらのいっさいを『在日の二極化』や『民族的主体性』や『本名を名乗る』ことで『解決』させてしまおうとしているのだ」と批判し、「歴史的存在としての在日」とは、実は「日帝との非和解的存在としての在日」であることを明らかにし定義したのである。
戦前日帝は侵略戦争と植民地支配の中で、朝鮮・中国・アジア人民を日帝支配の下に組みこみ、すさまじい民族抑圧と差別を強いてきたが、戦後日帝はそれへの責任をいっさいとらず、むしろ日本国籍を剥奪することを通して日本国憲法のらち外に置き、人間的権利を奪ってきた。帝国主義国内における形を変えた植民地支配そのものである。在日人民にとっての民族的人間的解放は、帝国主義による母国の植民地支配をうち破り民族的解放を実現することと、自らを支配する(支配し抑圧しつづけてきた)帝国主義をうち倒すことを抜きにない。
こうした諸点を確認して、われわれは在日の在日としての存在自体が、日帝を打倒し日本プロレタリア革命を闘う主体であると措定したのである。そして、在日と日本人民の共同の闘いとして日帝を打倒することが、アジアの民族解放・革命戦争との限りない結合・合流に向かう闘いそのものであることを明確にしたのである。
戦後の在日社会において、とりわけ50年代から60年代においては、「日本人と結婚することなど論外」「帰化して日本籍を取得するなど論外」といわれ、それは「民族の裏切り者」とまでいわれた。実際、血統を守ること、国籍を守ることが、在日朝鮮人にとっての民族性の担保であるかにいわれ、それを目的とする運動まで存在した。今日では、日本人との結婚が多数を占め、85年の国籍法の改定などを通して多くの人びとが日本国籍を余儀なくされている。しかし、血統や国籍を守りぬくという根底には、日帝とは絶対に和解しない、屈しないというあり方が脈打っているのである。
さらに民族の定義に関して、これまで言語共同体、あるいは文化共同体など、国籍、言語、文化、宗教などによる様ざまな定義がおこなわれてきた。しかしわれわれは在日を定義するにあたって、帝国主義による植民地支配、それにもとづく民族抑圧という現実にふまえておこなわなければならないと考えた。在日朝鮮人・中国人を、これまでの民族の定義にもとづいて「少数民族」規定するなどという考え方にとらわれずに、植民地支配と民族抑圧、戦後も帝国主義本国内における形を変えた植民地支配と民族抑圧の現実にふまえ、それに屈せず闘うことによって民族的存在と尊厳を守りぬいている現実にふまえて、「日帝との非和解的存在としての在日」という定義をおこなったのである。これは、「7・7思想」にふまえることで明らかにすることができた定義である。
B 90年指紋・入管・天皇決戦論の確立
さらには、先に述べたように、90年の入管闘争は、85年の指紋押捺拒否・留保の14000名の決起から5年を経て再度の外登証の大量切り替えの時期を迎えて、指紋闘争の永続的発展から指紋制度の撤廃、外登法の撤廃に向かってどのような闘いを闘いぬくのかが問われていた。同時に91年1月16日を目前に控えて、協定永住権3世代以降の人びとの在留資格が未確定という「91年在留権」問題が日程に上っていたのであり、在日にとっては、日本に引きつづき居住すること自身の先が見えないという状況を迎えようとしていたのである。さらに、90年は天皇即位式・大嘗祭の大攻撃が襲いかかろうとしており、日本全土をあげて「祝賀」に人民を根こそぎ動員し、それに従わない者は「非国民」として弾圧・排除する攻撃が加えられようとしていた。日帝はこの攻撃の一環として、指紋押捺拒否をつらぬいた人びとを弾圧し、起訴攻撃にうったえてきたが、これにたいする裁判闘争自身が日帝を断罪する闘いの場に転化し、有罪判決を下すことが闘いの火に油を注ぐ結果をもたらしていた。日帝はこのことへの危機感から、天皇の名による「恩赦」=免訴の攻撃を加えようとしてきたのである。さらに90年には入管法の改悪を通して本格的な外国人労働者の導入政策がたくままれるという情勢を迎えようとしていたのである。
われわれはこうした中で、この一連の攻防の一つひとつを分析し、それら全体を通した日帝の攻撃と、しかしそれが本質的には在日の闘いによって追いつめられ破綻にさらされてきた現実であることをつかみとり、この一連の攻防にたいして、90年指紋・入管・天皇決戦論をうち出し、闘うことを訴えた。大切なことは、それが抽象的な「論」一般ではなく、在日の苦闘と闘いに連帯する日本労働者人民の具体的な方針であったことである。
戦前以来、そして戦後も、45年の日帝の敗戦から50年朝鮮戦争を前後する戦後革命期の在日の闘い、65年日韓条約と法的地位協定にたいする在日の闘い、そして70年を前後する入管法制定攻撃との闘い、さらには70年代に入って本格的に開始された民族差別糾弾の闘い、80年から85年につき進んだ指紋押捺拒否の闘い─こうした在日の日帝との民族的存在と尊厳をつらぬいた非和解の闘いが、ついに、指紋闘争と在留権・永住権問題をめぐって日帝をギリギリと追いつめる攻防の局面をたぐりよせた。90年指紋・入管・天皇決戦論は、それにたいして、日本人民として、とりわけ共産主義者としていかに応えるのかをかけた闘いの方針だったということである。戦前、そして戦後革命の敗北の中でもたらされた在日と日本人民の断絶を日本人民が主体的にのりこえて、信頼関係の回復をかちとり、共同の闘いをつくり出すために必死に闘うことを決意した方針だということであった。
(註)日本に入国・在住する外国人は、「出入国管理及び難民認定法(入管法)」と「外国人登録法」によって管理・監視されている。在留資格や在留期間は法務省入管局が管理し、外国人登録は地方自治体が管理してきた。日本に90日以上在留する外国人は90日以内に、日本で出生した外国人は60日以内に、市区町村に外国人登録をおこなうことが義務づけられている。外国人登録をおこなった外国人には外国人登録証(外登証)が発行され、16歳以上の外国人は外登証の常時携帯が義務づけられ、また警察などが提示を求めた場合提示が義務づけられ、それに違反した場合は刑事罰が科せられていた。90年を前にしたこの当時は、外登証は5年ごとの切り替えが定められており、その際に指紋の押捺が義務づけられていた。また外登証の常時携帯義務をめぐっても、50~60年代にかけて警察は在日の弾圧に意図的に活用し、銭湯の前などで提示を求め、摘発された人びとは50万人にのぼり、「犬の鑑札」と呼ばれた外登証の常時携帯・提示義務の撤廃と外登証そのものの撤廃を求める運動が指紋闘争とともに闘われた。
C 党と戦線の関係の明確化と、大衆闘争論・統一戦線論・人民との結合論としての「7・7思想」の発展
第3には、入管闘争の実践的闘いのための大衆闘争論・統一戦線論・人民との結合論、さらに言えば党建設論などを明らかにしたことである。
先に述べたように、革共同中央には、入管闘争を責任をもって指導する思想も方針も形成されていなかった。こうした全党と革共同中央の現実を覆し、中央と全党を獲得することから始める以外になかった。当時われわれは、入管闘争を担いながらも正規の戦線組織として党から承認されていたわけではなかったが、そうした現状を突破してまずなすべきことは、入管戦線として自ら実際に登場し全党にたいする責任をとりきることを明確にすることをおいて以外にはありえなかった。われわれは「日本・朝鮮・中国」13号(89年5月)中沢論文においてつぎのように提起した。
「7・7以来の革命党と革命運動における入管闘争の位置と役割を考えたとき、われわれは入管闘争の責任の重大性を痛感せざるをえない。7・7以来の入管闘争のあり方、考え方が問題となっているのである。入管戦線の現実が、革命党の入管闘争の現実として、82年入管法、80―85年指紋闘争をめぐる革命党の入管闘争の問題点として、厳しく問われているのである。したがって逆に言えば、革命党にとって入管戦線とは何か、入管闘争とは何か、として問われていることでもある。この点をさらに掘りさげて総括したとき、一つは、入管戦線自身の結果として『気づかない、とらえきれない、自覚しきれない』問題としてあるということだ。入管戦線自身が『たえず無自覚に陥る抑圧民族プロレタリアート(そのなかでたたかう共産主義者)の危険性』から決して“自由”ではないということである。そしてこの“自由”でないことへの無自覚でもある。二つは、革命党の入管闘争の『入管戦線まかせ』である。三つは、革命党の『いそがしさ』のなかでの入管戦線指導の弱さである。四つには、『基軸的闘い』と入管闘争との、時間的・力量的=物理的『対立』であり、余裕のなさである。そしてこうしたあり方全体が、革命党と入管戦線とのあり方が『相互依存』でしかないということである。そして大事なことは、こうした革命党と入管戦線のあり方によってもたらされるわれわれの入管闘争は、結局、根本的には、在日朝鮮・中国人民に依存する、依存していたあり方にほかならないということなのだ。今や革命党と、戦線(入管戦線)に関する考え方、あり方が問題となっているのだ」。
以上の諸点を明らかにした上で、90年指紋・入管・天皇決戦をつぎのように提起した。
「90年を前にして、もはやこれまでのあり方、闘い方では闘えないのだ。在日朝鮮・中国人民が民族的尊厳をかけて立ち上がっているなかで、われわれ日本人民の支援・防衛・連帯の闘いの立ち遅れは許されない。それは日本の労働者人民の国際主義的内実をも失っていくことになるのだ。われわれは今、ギリギリのところにたっている。『最後のチャンス』を迎えているのだ。90年まであと一年ある。しかし1年しかないのだ。この1年のわれわれの闘い(闘い方)が問われているのだ。82年、80─85年の過ちを繰り返してはならないのである」
こうした立場を明確にすることを出発点にして、以下の内容を掘り下げてきた。
「7・7思想」の核心の第一は、被抑圧民族をプロレタリア革命の主体として措定したことであり、第二は、差別・抑圧との闘いは労働者階級にとって主体的課題であり、それは労働者階級が自らを階級として形成していく階級形成論・階級性の獲得論であることを明らかにしたことであった。そのことはさらに言えば、それは党としてとらえかえした時、差別・抑圧との闘いの実践は大衆闘争の発展の重要な柱であり、人民を階級的に獲得していく内容そのものであるととらえかえすことができるということである。こうした観点から、入管闘争の実践的闘いを通した大衆闘争論・統一戦線論・人民との結合論などをうち出したのである。さらにそのことは、いかなる党をどのように形成してゆかなければならないのかという、党建設論・党改革論そのものでもあったということである。
これらの理論的作業の前提として、まず最初に、党が果たすべき責任を明確化させた。とくに、戦前・戦後の闘いの中で、日本共産党スターリン主義は、在日が日帝と闘うことの意味をつかむことができず、またつかもうとしないがゆえに利用主義に陥り、在日への過酷な弾圧をもたらし、在日の戦闘的部分における失望を生みだし、結果として60年代以降、在日運動と日本の運動との断絶をもたらしてきたことを真剣に総括し、それをのりこえる闘いを指紋闘争の中でつくり出すことを決意したのである。戦前・戦後の在日運動と日本の共産主義運動と党との関係を総括し、それをのりこえようとしながらわれわれ自身が実践には大きく立ち遅れている現実をどのように総括するのかであった。この場合、われわれの考え方は、何よりも入管戦線自身の責任を明確化させるという立場に立ったことである。その上で、権力・カクマルとの死闘を闘うわれわれと、権力によって内乱勢力と認知され、われわれの運動に関われば退去強制がおそいかかる在日との共同闘争をいかにつくりだすのか、この困難をどのようにしてのりこえるのかを真剣に考えたのである。さらに、先にも述べたようにわが党は、入管闘争における実践からはまったく立ち遅れている現実を直視し、大衆運動と大衆的統一戦線をつくりだしていくための党のあり方の全面的再検討をおこなったのである。
その点に関して、われわれは『日本・朝鮮・中国』14号(89年12月)中沢論文においてつぎのように提起した。
「本小論は~第三に、天皇制ボナパルティズム攻撃をめぐって、天皇制テロルによる革命党・革命運動・革命的拠点をめぐる攻防の死活的重大性を明確化するとともに、天皇制ボナパルティズム支配への転換=移行期ゆえにわきあがってくる人民の怒りとたたかいを真剣に対象化し、獲得し、組織化する戦闘的大衆闘争の必要性、人民獲得の必要性を明確化したいということである。第四に、それらの大衆闘争論、人民獲得論を、いわゆる『大衆闘争論』一般としてではなく、天皇制攻撃と排外主義とのたたかいを、普遍的に貫く視点をもつ必要があるということを明確にしたいということである。よりいえば、7・7自己批判以来の入管闘争論を思想的レベルでのとらえ方と限定するのでなく、戦闘的大衆闘争論・人民獲得論として~深めていきたいということである」
「われわれは今、人民が立ち上がり始めているすべての領域に大胆にうって出ねばならない。人民の怒りに依拠し、その自己解放性を心から信頼し、共にたたかいをつくっていく中で、人民に心から信頼される存在にならなければならない。われわれはのっかりやのりうつりではなく、ましてや、われわれが陥りがちなセクト主義的引き回しを排して、ともに勝利をつくり出していく関係を形成していくことである。あえて極論すれば、われわれは、90年天皇決戦の巨大な人民のたたかいの陣形の形成をめざすのであるが、それをあらかじめ、われわれのプランと枠の中にいかにはめていくのかという従来のあり方を排すところから始めなければならないのである。われわれは、さまざまな人民のさまざまなたたかいとしっかりと結びつき、心から信頼された時、こうしたあらゆるたたかいが、歪曲と屈服の道をはね返し、三里塚闘争のように激烈に発展していく可能性を無限に発揮していくのだ。今日、日帝の危機性・硬直性は、あらゆる点で、妥協的・中間的改良主義的余裕をなくしており、すべてのたたかいは、発展すればするほど三里塚闘争的発展を本質的にたどる以外にないのである。こうしたことは、三里塚闘争20余年の豊かな教訓である。この偉大さ、すばらしさを、ひとり三里塚闘争のみにとどめておいてはならない。逆に、あらゆる課題とたたかいがこうした発展をたどる時、三里塚闘争もまた、その『小ささ』をつきぬけて、より激烈に無限に発展していく可能性を手に入れるのだ」
「多くのさまざまな人々にとって、われわれとともにたたかいをつくりだしていくということは、あらかじめ簡単なことではないのだ。一つには、われわれは、日帝・権力からせん滅戦的攻撃をうけている存在であり、それに対して、革命的武装闘争でたたかいぬいている存在だということである。それは心ある人々にとって、一方で限りない勇気を与える存在ではあるが、しかし、現実にはわれわれとともにたたかいをつくっていくことは、やはり安易なことではないということである。二つは、われわれのありがちな否定的現実としてのセクト主義的あり方(内容の押しつけや引き回し)に労働者人民の中に少なからぬ反発があるということである。三つめには、われわれは、労働者人民のかかえる個別的な、具体的な運動やたたかいに、直接それ自身としてほとんど責任を取り切れていない、という現実があるのである。われわれは、実際上、一から始めていく覚悟が必要なのである。われわれは、労働者人民がかかえるあらゆる課題と領域を対象化し、措定しきりそれに責任ある見解と内容を、しっかりと確立せねばならない。そして、ともにたたかいをつくっていく中で、ともにたたかいぬいていける信頼関係を形成するために全力をあげねばならない。内容の一方的押しつけではなく、労働者人民一人一人が、われわれのたたかいと内容に本当に確信をもっていくために、どういう論議と提起が政策と方針が必要なのかについて、われわれ一人ひとりが苦闘し、つくり出していくことである。したがってそれは、われわれがどういう党を建設し、どういう党に改革していくのか、という問題でもあるのだ。以上述べてきたことは、入管闘争にとっては、先制的内戦戦略の第二段階(PII)─対権力闘争を基軸にし、そのもとで対カクマル戦を激化させていく─における入管闘争論として、しっかりと確立し、本格的実践に着手するということに他ならない」
以上のように、「7・7思想」を思想的レベルの確認にとどめるのではなく、また入管闘争における実践的闘いの思想の問題に限定するのではなく、労働者階級人民による帝国主義にたいする闘いの普遍的な立場からとらえかえし、大衆闘争論、統一戦線論、党建設論の観点から深める作業をおこなってきたのである。
この問題意識を今日的にさらに深めれば、「7・7思想」の根幹につらぬかれている思想とは、差別・抑圧の問題にたいする立場や思想にとどまらず(限定せず)、帝国主義のもとで呻吟し、帝国主義支配に抗し、それとたちむかうすべての階級・階層の人民の苦闘を受けとめ、その存在と闘いを措定し、そうした人びととともに帝国主義を打倒し、ともにプロレタリア革命を闘いとっていこうとする、共産主義者にとっての普遍的な思想と立場であることを積極的・普遍的に確認する必要があると考える。
D 戦前、戦後革命期の在日朝鮮人運動と日本の共産主義運動の検証
さらにわれわれは、先にも少し触れたが、今日の在日運動と日本の労働者階級人民の運動の断絶をもたらしている問題、もっと言えば日本の運動への大きな不信を在日にたいしてもたらしている根拠は何かについて、徹底的に検証する立場にたった。在日の「歴史や現実」をほとんど知らないというわれわれ日本人民の現状が断絶と不信の大きな根拠である。
では日本の労働者人民と在日人民の関係は最初からそうであったのか。決してそうではない。1910年韓国併合と土地調査事業の開始の中で、日本に渡航する朝鮮人はしだいに増加し、1923年には約8万、1930年には約30万に増大し、1945年の日帝敗戦時には200万を超えていた。そして、戦闘的朝鮮人は共産主義運動に決起し、また朝鮮人労働運動も活発に展開され、1925年には朝鮮労総(在日本朝鮮労働総同盟)が結成された。最大時(1927年)には3万にのぼる組合員を擁する労働組合として、日本の労働者とともに果敢な闘いがとり組まれていた(27年当時の在日の居住人口は約18万人)。1923年の関東大震災時の朝鮮人大虐殺にもかかわらず、日本の労働者との連帯した闘いがとり組まれていた。
そして戦後革命から1950年朝鮮戦争をまたぐこの時期、日本共産党の五全協の「軍事路線」にもとづいて、吹田・大須・メーデーの三大騒乱事件や、軍需工場にたいする「火炎瓶闘争」などが闘われたが、その主力が在日朝鮮人であったことは周知の事実である。騒乱罪で起訴された被告の多くが在日朝鮮人であったことがそれを物語っている。
日本の労働者階級と在日朝鮮人は、労働運動や生活防衛闘争、反戦闘争から日本帝国主義打倒を目指す闘いを、戦前・戦後革命期に「共同の闘い」として闘った歴史を有している。にもかかわらず、何ゆえに今日、断絶と不信をもたらしてしまったのかを解明し、それをのりこえることを抜きに、入管闘争を闘いぬくこと、支援・防衛・連帯の闘いをつくり出すこと、共同闘争をつくり出すことはできなかったのである。
この問題は、一般的には日共スターリン主義の裏切りといわれているが、しかし、「日共スターリン主義の裏切り」とは何かを具体的に解明し、それが何ゆえに生み出されたのか、その思想的誤りはどこにあったのかを総括しなければそれをのりこえることはできない。当時、われわれは以下の事実をとらえかえすことでそれを解明しようとしてきた。
ひとつは、1910年に朝鮮が日帝の植民地支配のもとにおかれ大日本帝国に併合されてしまったことをもって、日本共産党がすでにスターリン主義的変質を完成させていたコミンテルンの「一国一党原則」を適用し、朝鮮共産党日本総局に結集していた在日朝鮮人共産主義者を日本共産党に合流させ、あまつさえ、大衆的な労働組合であった朝鮮労総を全協(日本労働組合全国協議会。組合員数約7千名)に「合同・解消」させたことであった。ほとんどの朝鮮労総の組合員はこれに応じず、全協に合同したのはわずか3000名(朝鮮労総組合員の10分の1)にとどまったが、在日朝鮮人労働運動の主力を占めていた朝鮮労総は分断・分散・孤立を強いられ、しかも日本共産党から離反する結果となっていったのである。日本共産党や全協に合流した人びとも、それを拒否した人びとも、いずれも日本帝国主義の打倒をめざしていたことに変わりはない。では、なぜ在日朝鮮人が日帝の打倒をめざして闘っていたのかである。それは朝鮮の植民地支配から民族の解放を闘いとるためには、日帝の打倒が不可欠であったからである。在日朝鮮人は、朝鮮民族解放のために日帝と闘っていたのである。このことを、日本共産党と日本人民はたえず自覚的にとらえかえすことが求められていたのであるが、その根本問題が欠落していたのである。
(註)朝鮮労総の全協への合同・解消は、プロフィンテルン第4回大会(1928年)およびコミンテルン第6回大会(1928年)のいわゆる「一国一党の原則」に依って行われた。29年から合同が進められ30年10月に終了した。在日朝鮮人の民族的契機は否定され、「資本と賃労働」一般の中に解消された。民族独立の要求は階級解放に解消させられた。当時、民族統一戦線であった新幹会との連携も放棄された。そして朝鮮共産党日本総局は31年に解消された。今日の安田派の思想と態度は、これと寸分も変わらぬものに他ならない。
ふたつは、1945年の日帝の敗戦直後からの、国際スターリン主義による「連合国軍」美化にもとづく米帝との朝鮮分割支配のたくらみであり、これに追随した日本共産党による米軍・GHQの「解放軍」規定の問題である。45年8・15解放直後から、朝鮮人民は全国に人民委員会を結成し、朝鮮人民共和国の建設を宣言するが、米軍の激しい弾圧にさらされ苦闘の渦中にあった。朝鮮共産党もいったんはこの国際スターリン主義の規定を受け入れ「信託統治案」を受諾するが、朝鮮人民の激しい闘いの中で実質的にこれを撤回し、全面的な米軍との攻防に突入していった。日本においても、日共スターリン主義はまさに戦後革命の最大のチャンスを迎えていながら「解放軍」規定に転落し好機を失うこととなった。日共のもとで闘う在日朝鮮人が、本国での米軍との苛烈な闘いに呼応して、日本でも米軍と闘うことを願って決起したことにたいし、日本共産党指導部はこれを裏切ったのである。そこには、日本革命と朝鮮革命の本質的・現実的一体性をとらえることができず、日本共産党の指導のもとで闘っている在日朝鮮人共産主義者を、民族的人間的解放をめざす存在としてつかむことができないスターリン主義の腐敗がある。
みっつは、1950年朝鮮戦争の勃発と、その中での日共五全協「軍事方針」にもとづく三大騒乱闘争や軍需工場にたいする「火炎瓶闘争」であった。そして55年体制の成立の中でこれらの闘いをことごとく否定的に清算し、在日朝鮮人共産主義者を日共から排除することをもって総括としていったことの問題性である。先にも述べたが、この闘いに多くの在日朝鮮人が決起し、逮捕・投獄され、強制送還され、処刑された。それは当該の家族や親族、地域や運動をともにしてきた同胞にとってどれほどの苦痛と困難であったであろうか。それが否定的に総括され、日本の運動と組織からの排除でもって総括されることが何をもたらすのかである。
われわれは、上記のような戦前・戦後革命期の闘いとその誤りを見すえた時、そこにおけるスターリン主義の路線と指導の破産を直視しなければならないし、そうした観点でとらえることはこれまでにもなされてきた。しかし、はたしてそれで終わってよいのか。そうではない。そこに欠如していたのは、被抑圧民族の闘い、朝鮮人民の民族解放闘争、帝国主義本国における朝鮮民族解放闘争の主体的闘いとしての在日朝鮮人の闘い、というものを日本の共産主義者は主体的・内在的にとらえきることができなかったという問題として総括しなければならないという観点であった。われわれは、その欠如によってもたらされている在日と日本の運動の間の分断と在日による不信の現実を、今度こそうち破っていく実践的闘いとして、90年指紋・入管・天皇決戦を闘うことを確認したのである。
E レーニンの苦闘を内在的に追求して闘う立場について
われわれは90年入管闘争の再建・再確立の闘いを始めるにあたって、民族問題、民族=植民地問題にたいするレーニンをはじめとした共産主義者の苦闘に内在的に肉薄し、継承することを確認してきた。その前提として、「帝国主義と民族=植民地問題の今日的教訓」として以下のことを前提的に確認してきた。
「この問題を深めていく大前提として、われわれにとってプロレタリア革命とは一体何なのかを明確にさせる必要がある。われわれは、プロレタリア世界革命(暴力革命)をとおした階級の廃絶、止揚をかちとり、人間の人間的解放(類的解放)をかちとるのである。それは資本主義社会、資本制的生産様式における、生産手段の資本家的所有と労働力の商品化によって生み出されたプロレタリアートの存在ゆえにである。プロレタリアートはだからこそ帝国主義支配の全抑圧と差別の一掃、全被抑圧階級・階層の利害をプロレタリアートの利害として押しつらぬいてたたかうことが求められているのだ。われわれの三里塚闘争(三里塚闘争的実践)はまさにそのことによるのだ。とくに帝国主義段階突入の中で、現代世界が帝国主義と植民地に分裂し、帝国主義による植民地支配が不可避となり、民族抑圧は、民族=植民地問題としてたちあらわれるなかで、現代革命はこの根本的止揚=帝国主義国におけるプロレタリア革命と新植民地主義諸国の民族解放・革命戦争の世界革命的結合のなかにしかない。したがって、民族=植民地問題(植民地人民の民族解放=革命戦争および、帝国主義国内の被抑圧民族人民の民族解放=革命戦争の一環としての反帝闘争)は、帝国主義国のプロレタリア革命の根本問題として問われているのである。とりわけ、帝国主義国内の被抑圧民族の問題にたいして、抑圧民族プロレタリアートは、彼らへの民族的抑圧を打ち砕き、被抑圧人民の民族的利害を守り抜くことを具体的、絶対的な任務としているのである」(「日朝中」13号中沢論文)
以上を前提として押さえた上で、レーニンの民族問題への問題意識の発展と苦闘を、ロシア革命の勝利に向かった指導と実践、革命後に問われた課題と実践に接近・肉薄しつつ、つぎのような検討をおこなってきた。(以下の内容も、「日朝中」13号・中沢論文での検討)
1903年のロシア社会民主労働党におけるレーニンとユダヤ人ブンドとの論争においてレーニンは、「専制にたいする闘争、全ロシアのブルジョアジーにたいする闘争の諸問題では、われわれは単一の、中央集権化された戦闘組織として行動しなければならず、言語や民族上の区別なしに、理論上及び実践上、戦術上および組織上の諸問題を常に共同で解決することによって結束を固めた全プロレタリアートに立脚しなければならない」「疑いもなく今日では、階級対立が民族問題をはるかに後景にしりぞけている」「第一は、民族自治の要求ではなく、政治的ならびに市民的自由と完全な同権の要求である。その第二は、国家の構成に加わっているあらゆる民族にとっての自決権の要求である」として、ブンドの要求を拒否していた。当時、レーニンは、民族問題=ブルジョア民主主義的課題としてとらえ、プロレタリア社会主義にむかって進む過程でのブルジョア民主主義の意義を認めるのと同義の意味で民族自決権を認めるという立場であった。したがってブルジョア民主主義的課題と同様に、民族問題はプロレタリア革命に従属する課題として、プロレタリア革命の中で解決するものと理解されていたのである。ここからレーニンにおいては、社会主義革命へと向かう専制との闘争の中で、民族的「差異」なしに、いかに中央集権的単一党をつくっていくのかという問題意識が根幹を占めていたのである。レーニンが、民族問題はプロレタリア世界革命に向かっての重大な戦略的課題をなすということをつかみとるのは、帝国主義論の確立を通して、「民族=植民地問題」として把握することによってである。レーニンは1903年当時、先に述べたような立場をとったのであるが、しかしなおかつその時点においても、「しかしいずれかの民族問題が政治劇の前舞台に一時的に現れる可能性がないと断定することは、空論主義に陥る危険をおかす」という慎重な立場もしめしている。
レーニンにとっての民族問題に対する実践的格闘は、1917年のロシア革命の勝利以降、本格的に突きつけられた。17年ロシア革命を通して、ロシア内の少数民族やアジアの被抑圧民族が膨大な規模で民族解放の闘いにたちあがった。こうした中で革命ロシアが被抑圧民族人民の信頼をかちとり、世界革命的合流を実現していく上でどういう努力と闘いが求められているのかが具体的死活的に問われたのである。こうした中でおこなわれた、1920年コミンテルン第2回大会におけるレーニンとインド出身の共産主義者ロイとの論争はそうした苦闘におけるひとつの典型である。レーニンは、植民地の共産党がいまだ微弱な存在でしかなく、人民的要求は民族解放・農地解放であることの中で、共産党の独自的強化を前提にブルジョア民族主義者との統一戦線を提起し、ロイらとの論争に発展したのである。ここで大事なことは、レーニンはロイをはじめとするアジアの代表者の意見を慎重に受けとめながら、「われわれは未知の分野を模索しており、実地の経験によって試されるまで、意見の相違の最終的評価はのばすべきだ」という態度をとったことである。
いまひとつは、ロシアソビエト権力の下に民族共和国の経済的統一をはかっていく中で起こった双方の対立、とりわけ1922年の「グルジア問題」をめぐるレーニンのとった態度と「スターリンの書記長からの解任」への決意にいたる「レーニンの最後の闘争」についての検討である。
レーニンはプロレタリア世界革命の達成にむかって帝国主義と反革命にいかにうちかっていくのか、という観点から、民主主義的中央集権制の単一の党、ソビエト権力を基盤とした単一のプロレタリア革命を追求しつづけてきた。一方、民族自決権の徹底した尊重と分離の自由―自由な民族国家形成の権利を主張していた。この一見「矛盾」した問題を革命的に止揚していく内容こそ、レーニンが17年革命勝利以降、追求しつづけてきた、プロレタリア革命(抑圧民族プロレタリアートの自己解放のたたかいの勝利の結実として)がいかにして被抑圧民族人民の民族解放闘争との合流をかちとっていくのか、ということにかかわる問題であった。そして何よりもそこにおいて党のはたす役割の重大性についてであった。「グルジア問題」は、革命ロシアのもとへのグルジア民族共和国の経済的統一をめぐる、スターリンを中心とした「性急な」「大ロシア人的な」「グルジア人の民族感情を無視した」強権的な推進とそれに抵抗するグルジア党中央委員会との対立としてあらわれ、グルジア党の同志に対する暴力的殴打にまで進んだ。それはさらに、革命ロシアさらにはボリシェビキの内部での民族対立、不信へと発展していったが、レーニンはこれにたいして自己批判をおこない、スターリンの書記長からの解任をめざす「最後の闘争」へと進んでいった。
われわれは、レーニンの個々具体的な問題についてとった態度をとりあげてそれを賛美したり、あるいはその裏返しとして「レーニンの限界」「レーニンの問題性」を問題にするという態度ではなく、プロレタリア革命をいかに勝利させるのかというレーニンの実践的問題意識から生み出された中央集権的な単一の党の建設という問題と、同時に民族問題にたいする問題意識の深化と発展過程を、相互の関連を検証しながら内在的にとらえかえす中で、それを継承し発展させる実践的立場に立たねばならないことを確認ししてきたのである。(この問題は、「06年3・14決起」をつらぬき、安田派と決別して革共同の再建を闘いとろうとするわれわれが今日直面している、中央集権的な党の問題と党内民主主義の問題にかかわる問題意識を深めていく課題とも重なりあう。)
こうしてレーニンの「民族・植民地問題」をめぐる苦闘を内在的にとらえかえした時、「7・7思想」は、プロレタリア世界革命の背骨を形成する思想と立場であるということができる。したがって「7・7思想」とは、プロレタリア世界革命を闘いとる上で、レーニン以後の国際共産主義運動における画期的地平でもあるのである。
また「7・7思想」は、反スターリン主義の思想的背骨をもなすものである。反スターリン主義とは、スターリン主義の一国社会主義建設路線のみを問題とするのではなく、そこに至る歪みの問題であり、それがロシア革命以後のスターリン主義による民族抑圧のすさまじい現実としてあらわれていったことをつかみとることでもある。「7・7思想」の欠如が、スターリン主義の民族抑圧を生み出した思想的根拠としてとらえかえすということである。したがってレーニンの民族問題における苦闘を共有し、それをのりこえるものとして「7・7思想」の深化と発展はあったのである。反スターリン主義の思想的内実を形成するものとしての「7・7思想」なのである。
F 梶村秀樹氏の思想と研究、実践の再学習と主体化の立場
われわれは、こうした「7・7思想」を豊かに発展させ、入管闘争の本格的実践を開始するにあたって、梶村秀樹氏の思想と研究、実践から再度徹底的に学ぶことを確認してきた。
70年7・7自己批判の後、われわれは梶村氏から真剣に学んだ。梶村氏は忙しい中、時間を割いて集中的な講演をおこなってくださった。その時の講演が、「排外主義克服のための朝鮮史」「朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動」「8・15解放以後の朝鮮人民」である。そこでは、なぜ朝鮮史を学ぶのかにかかわる基本的態度について、「知らないということ、知らないことに無自覚なこと」がまずあり、その上で、「知らないことに気づいても知りたいという要求を自ら感じ取れない問題」が、日本人民の中に形成されている現実としてあることを明らかにされた。そして、「知らないでいることと切実な要求感の欠落」の循環を抜け出すことの必要性を訴えられた。「7・7思想」の根幹にかかわる提起であった。そして、朝鮮人民の民族解放闘争の歴史と闘い、その中での国際共産主義運動の諸問題を生き生きと提起された。われわれは、70年当時のこの梶村氏の講演を本として出版することを決意し、梶村氏も当時のまま出すことを条件に快諾してくださった。しかしその直後の89年5月29日に急逝された。90年4月、指紋・入管・天皇決戦のただ中で、3つの講演は「排外主義克服のための朝鮮史」と題して出版された。われわれは当時、革共同全体で、この「梶村本」の学習運動を組織し、「7・7思想」の血肉化のための闘いにとり組んだ。
(註)梶村秀樹氏略歴…1935年東京に生まれる。東京大学卒業。69年3月まで東大東洋文化研究所助手。73年に神奈川大学経済学部助教授。79年に同大学同学部教授。その間、日本朝鮮研究所、朝鮮史研究会などで活動。また68年に金嬉老事件にたいして公判対策委員会世話人として闘う。85年指紋押捺拒否闘争では常に闘いの現場に身を置いた。著書に、『解放後の在日朝鮮人運動』(神戸学生・青年センター出版部)、『朝鮮現代史の手引き』(勁草書房)、『朝鮮史の枠組と思想』(研究出版)など多数。
入管闘争を闘うことにおいて共産主義者には二つの使命があると考える。ひとつは、個別的具体的闘争の勝利のために全力で闘うことである。当該の人びとやこの闘いを担う人びととの支援・防衛・連帯のとり組みを強化し全力で支えることである。同時にふたつには、個別的具体的課題は、その個別的具体的勝利で自己完結するのではなく、帝国主義そのものを打倒し、階級社会を廃絶してプロレタリア革命の勝利によってはじめてその全面的勝利が実現できることをうまずたゆまず訴えかけ、宣伝・扇動し、共産主義運動との結合に向かって努力することである。「7・7思想」とその具体的とり組みへの着手とは、極めてオーソドックスではあるが、上記の立場に立ったものにほかならない。
これまでわが革共同は、「党の路線の物質化」の名によって、労働者人民の大衆運動にたいして「革共同の路線」への従属を強制し、この路線をうけいれない人びとのたたかいを批判・否定さえしてきた。今日、安田派は、それを極限的におし進めている。「動労千葉派」でない運動は「体制内」として罵倒している。「7・7思想」の具体的とり組みとは、それとまったく相反するものである。「7・7思想」を否定した安田派が、大衆運動や統一戦線や個別的・具体的課題のとり組みへの罵倒や破壊をくわだてるのは必然でもある。
あらためて述べれば、われわれは90年に入管闘争を再建・再確立し、闘うにあたって、先に述べたような6点(A〜F)を主に論議し、「7・7思想」を実践的に深める検討をおこなっていったのである。
4 90年から本格的に開始した実践的な入管闘争について
われわれは、以上のような内容と立場に立って、90年指紋・入管・天皇決戦を闘った。指紋拒否闘争に決起した在日朝鮮人・中国人、そして闘う左翼諸勢力や闘う日本の労働者人民とともにその一翼を全力で担い闘ってきた。そして以降、20年にわたるとり組みを進めてきた。90年の大量切り替えにたいして、全国各地で数十ヶ所での拒否闘争やそれを支える支援集会が闘われた。90年6月の入管法改悪にたいする闘いや91年入管特例法にたいする闘いがたたかわれた。「外登法・入管法と民族差別を撃つ研究交流集会」が東西で毎年開催されるに至った。さらに、指紋制度の撤廃、外登証の常時携帯の撤廃、外登法の撤廃をめざした法務省交渉・行動が8度にわたって波状的に闘われた。
在日朝鮮・中国人民の苦闘と、それと連帯する日本人民の闘いを通して、85年でもって指紋闘争を終わらせようとした日帝の目論見は破産し、指紋闘争・反外登法闘争として永続化し、それにとどまらずに、入管法・外登法全体を問題にした闘いへと発展していったのである。こうした中でついに、99年に指紋制度は全廃に追いこまれた。外登証常時携帯制度にたいしても「見直し」が国会附帯決議で盛りこまれ、実質的に外登法は破産に追いこまれたのである。09年に外登法を廃止し入管法に一元化する入管法の改悪がおこなわれたが、それは逆にいえば外登法の破産を法務省自らが認めざるをえなくなったことでもある。
さらに日帝の「在日抹殺政策」が破綻の淵に投げこまれたことである。戦後一貫して、在日にたいして不安定な在留資格を強要することで、「同化か追放か」を日帝は強いつづけてきた。それにたいして在日は連綿たる闘いを不屈につづけてきた。先に述べたように、65年日韓法的地位協定による「協定永住権」(申請期限が71年1月16日)、82年入管法制定による「特例永住権」(申請期限は86年12月31日)によってもなお18884名の人びとが「法律126号」として残った。日帝は65年日韓条約締結当時、「25年後には在日は抹殺できる」と高をくくって協定永住権3世代以降の在留資格を決めなかったが、それが破産し、そればかりか「91年在留権問題」として攻防の焦点に押しあがってしまったのである。こうした中で日帝がうち出したのが91年入管特例法による「決着」策動であった。入管特例法の特徴は、協定永住、特例永住、91年在留権問題としてつき出された3世代以降の在留資格を、「特別永住」に一元化したことである。そして退去強制事項も、「内乱・外患・国交・外交上の罪」などに「限定」したことである。こうした方針への転換には2つの問題が含まれている。ひとつは、戦後一貫した「ムチ」による「同化か追放か」を暴力的に迫る日帝の在日抹殺政策が破綻させられた結果、「アメとムチ」を使いわける「坂中路線」(註)による、「融和的手法」による在日の「朝鮮系日本人(日本国民)」への同化的統合政策(※坂中はここで明示に述べているが、それを拒否して朝鮮籍や韓国籍にとどまることは「覚悟が必要」との恫喝を加えている)へと転換を余儀なくされたということである。ふたつは、日帝は、安価で使い捨てのできる労働力としての外国人労働者導入政策へと本格的に舵を切る決断をする中で、在日朝鮮人と外国人労働者を分断支配する手法を用い、そのことでより一層在日を同化的に統合する方針へと転換したことである。
そうした中で一方では、90年入管法改悪による「定住者」資格の制定による日系人(ブラジル人やペルー人)の安価な労働力としての導入と、90年7月の「研修制度」の制定による安価な労働力の導入への転換が始まった。これは、以後、坂中が提唱する、日本の人口減少=労働力人口の不足の中で、「移民国家」への転換のための外国人労働力の導入の出発点でもあった。
他方では、在日朝鮮人・中国人をはじめとした指紋闘争・反外登法闘争の共同闘争の闘いは、当初より一貫して、民族差別との闘いや戦争責任追及を闘う人びと、難民・外国人労働者支援にとり組む人びととの連帯をめざしてたたかわれてきた。今日、こうした闘いは、さらに大きな闘う陣形と統一戦線を形成してきている。こうした成果と地平を確認したうえで、今後の闘いについて提起したい。
(註)75年に法務省出入国管理行政発足25周年にあたっての懸賞論文で選ばれたのが、坂中英徳が書いた「今後の出入国管理行政のあり方について」である。坂中はそこで、これまでの法務省の「同化か追放か」を迫るやり方では在日問題を解決することはできないとして、融和的手法によって在日朝鮮人を「朝鮮系日本人」に導いていくことを提言した。同時に在日朝鮮人にたいしてもそのような「生き方」をすべきと主張した。これが、「坂中論文」と呼ばれるものである。以後、この坂中の提言が入管行政の流れとなっていった。これを「坂中路線」と呼んでいる。坂中は以降、各地方の入管局長を歴任し、2002年には東京入管局長に就任。その間、「朝鮮系日本人(日本国民)への道」をより一層明確にうち出してきた。05年に退職し、北朝鮮脱北帰国者支援機構などをたちあげ、また中川秀直元自民党幹事長が中心となって「自民党外国人材推進議員連盟」がまとめた「1000万人の移民受け入れ提言」のブレーンでもある。
5 問われている入管闘争の課題
@ 破綻に追いこまれた外登法と日帝の新たな入管攻撃―入管法の一元管理での再編・強化と、在日の日本国家への統合と「1000万人の移民導入」政策
先に述べたように、戦後の入管体制の骨格を形成してきた入管法─外登法体制においては、外登法そのものが、80年以来の指紋押捺拒否闘争の闘いによって基本的に破綻に追いやられた。日帝・法務省にとって、もはや外登法そのものを維持することは不可能となった。しかし日帝にとって、入管法─外登法につらぬかれたものは、在日外国人の治安管理の根幹にかかわる問題である。外登法の維持を断念した日帝は、外登法にかかわる治安管理を入管法の中に新たに規定したのである。外登法はこれまで、地方自治体への機関委任事務(その後は名称が変わって法定受託事務)としておこなってきたのであるが、新たな入管体制のもとで、直接入管局が管理するより激しい治安管理体制へと転換したのである。これが、破綻に追いこまれた指紋制度の復活とも言える「入国時の外国人からの指紋採取」であり、09年に改悪が強行された外国人登録証にかわる「在留カード」の新設である。いわば、戦後の入管法―外登法体制以上の入管局の一元管理によるすさまじい治安管理体制の強化である。
日帝はイラク・アフガニスタン侵略戦争に米帝とともに参戦し、在日朝鮮人・中国人にたいして戦争責任を果たすどころか差別と抑圧をより過酷に加えつづけ、外国人労働者を安価な使い捨ての労働力として導入しつづけている。日帝が戦争と差別、格差と貧困の上に成り立つ帝国主義である以上、入管体制の強化は不可欠なのである。
日帝にとって以上のことは絶対的大前提である。その上で日帝にとっての入管体制とは、日帝の外国人政策と不可分一体の問題である。これを日帝はどのように考えているのであろうか。ひとつは在日朝鮮人政策である。ふたつは外国人労働者(移民)導入政策である。
先に述べたように、日帝の在日朝鮮人政策は、徹底した差別・抑圧と弾圧によって「同化か追放か」を迫り、在日の存在そのものを抹殺していく政策であった。実際これによって抹殺できると踏んでいた。しかしそれらはことごとく破綻に追いやられた。日帝は、「ムチによる抹殺」政策の変更を余儀なくされ、坂中路線という「アメとムチ」の政策へ転換せざるをえなくなった。一定の権利を付与し、「朝鮮系日本人(日本国民)」へと統合していく政策である。しかし同時にそれに抵抗する者にたいしては容赦しないという政策でもある。これは朝鮮総聯や民族学校にたいするたび重なる弾圧に現れている。
もう一方で、外国人労働者導入政策は、90年から開始され、「研修制度」から「研修・技能実習制度」へと拡大する中でより大規模におし進められてきた。さらに、近い将来、日本の労働力人口が大幅に減少し労働力不足が避けられない見通しの中で、「1000万人の移民導入」(2008年)をうち出してきた。新自由主義政策の結果、日本の労働者の多くが、明日の希望を持つこともできず、今日を生きることも大変な状況を強いられ、子どもを生み育てることもできない現実を強いられる中で、少子化と人口減少は不可避に進んだ。しかし日帝の対応は、この根本問題の原因の解明と対策をはかるのではなく、「不足する労働力」を「移民導入」によって埋めようというものでしかなかった。しかし格差と貧困、戦争と差別・抑圧にたいする労働者階級人民の怒りの爆発によって、09年8・30総選挙によって自公政権が打倒され民主党政権が誕生する中で、鳩山政権もいったんはこの新自由主義政策の手直しを余儀なくされている。したがって今、坂中や中川秀直、日本経団連が目論んでいた「1000万人の移民導入」政策は頓挫した状態であるといえる。それに加えて民主党政権は外国人政策への定見を持っていない。もちろん帝国主義支配体制を護持しようとする限り、新自由主義政策に傾斜していくことは不可避である。したがって今、問われているのは、民主党政権との諸政策にたいする労働者人民の闘いの攻防である。かちとった時間と空間を活かしきって自公政権の反動攻撃をリセットさせる闘いが求められている。新たな入管法と「在留カード」新設にたいしてそれを廃止に追いこむ闘い、そして入管法をめぐる在日・滞日外国人にたいする攻撃への具体的反撃の闘いが問われている。
A 「在特会」など極右勢力の跳梁と排外主義暴力との闘い
自公政権が打倒されるという戦後政治が始まって以来の階級支配の危機の中で、それに苛立ち、危機感をあらわにした排外主義勢力が台頭し始めている。「在特会」(在日特権を許さない市民の会)などである。
とりわけかれらは、朝鮮学校と日本軍「慰安婦」問題をとり組む「水曜デモ」そのものをつぶしてしまうことを目的にし、妨害行動から襲撃へとエスカレートさせている。朝鮮学校に通う子どもたちへの排外主義暴言・暴力を絶対に許してはならない。朝鮮学校の教員、保護者、地域の在日や日本人との共同の闘いをつくり出し、防衛しなければならない。「在特会」と対峙しながら日本軍「慰安婦」問題をとり組む人びととの、連帯したとり組みを強めなければならない。
かれらは、「外国人追放」を叫び、未来への希望も持てず、今日を生きることもできない人びとをはじめとする社会的に弱い立場の人たちをターゲットにして排斥することで、社会にたいする人民の不満や鬱憤を晴らさせ、排外主義へと組織する民間の新たな運動である。かれらは、「標的」への攻撃と街頭進出・街頭制圧をくわだて、左翼的階級的な運動と組織の粉砕・一掃をたくらむ勢力として登場し始めている。ヨーロッパやアメリカでも生み出されている状況と同じく、「在特会」は階級支配が危機に瀕する中で、「外国人排斥」をかかげ、警察権力と有無通じ、排外主義暴力で外国人と闘う勢力とを粉砕して、労働者人民を排外主義で組織しようとするファシズム的運動である。これとの街頭の支配をめぐる激突が不可避である。そしてこの中で、在日朝鮮人民、アジア人民とそのたたかいを体を張ってでも守ろうとする人民の闘いが始まっている。われわれはその先頭に立ち、「在特会」の排外主義暴力から闘いと運動を守り、その中で人民の自衛武装を促進する立場に立って闘わねばならない。われわれも含めて、左翼諸党派は、党派的利害に立つのではなく階級的立場に立って闘うことが問われている。すでに党派的立場やとり組みの課題の違いをこえて、闘う統一戦線が形成されつつある。こうした「在特会」との攻防を通して、「在特会」が台頭する日本社会そのものの排外的土壌を人民的規模でうち破っていくことが問われている。
「在特会」はこの1月に関西だけでも10を超える襲撃と妨害行動、街頭デモをくり返している。1月24日には、約500名を組織して新宿までのデモをしている。また「チャンネル桜」などの極右は、その前日の1月23日に約400名を組織して渋谷でのデモをしている。さらに「外国人参政権阻止」をかかげて、国会議面前での「座り込み」もおこなっている。極右勢力の大規模な街頭行動は戦後始まって以来の事態である。日本帝国主義の崩壊的危機の深まりへの激しい危機感のあらわれである。街頭、集会、職場支配をめぐって、極右との本格的な激突は早晩不可避である。1930年代型情勢の到来の中で、台頭する極右との闘いを軽視せず、労働者階級とすべてのたたかう勢力の戦略的課題としてすえて闘うべき情勢が到来しつつある。
B 北朝鮮への排外主義攻撃とのたたかい
日帝にとって国内統治政策の面からも、アジア再支配という面からも、朝鮮への蔑視の政策と排外主義攻撃は不可欠な問題である。日帝にとって、どのような紆余曲折をたどろうとも、帝国主義国家として存立しつづけるためには、天皇をあがめたてまつる排他的な「日本民族」の国家として以外には成り立たない。「多民族共生」なる謳い文句をかかげたとしても、結局のところは天皇を中心とした日本民族のもとにアジアの諸民族を「融合させる」という、形を変えた「大東亜共栄圏」のようなものでしか成りたたない。在日が在日として存在しつづけることは、国内支配の危機をもたらすのであり、「朝鮮系日本人」という形を通した日本国家への統合をおし進める以外にない。そうである限り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する朝鮮総聯や、朝鮮籍を守りぬく人びと、朝鮮学校が存在しつづけることは、日帝にとっては容認しがたいのである。
さらに、日帝のアジア支配の目論見にとっても、北朝鮮にたいする敵視政策が不可欠なのである。また、日本の労働者人民の階級性をへし折り、アジア支配へと動員する最大のイデオロギー攻撃が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への敵視政策である。
したがって、「拉致問題」や「核問題」「ミサイル問題」などをことあるごとにもちだし、北朝鮮にたいする憎悪と敵視、排外主義を、日常的・恒常的にあおっている。マスコミをも最大限動員した北朝鮮にたいする排外主義攻撃にたいして、日常的・具体的に反撃し、労働者人民にうったえ、闘わなければならない。そして、在日にたいするあらゆる形の差別・弾圧・攻撃にたいして、全力で反撃し、共同した連帯したとり組みを、今まで以上につくり出していかなければならない。この中で形成される大衆的広がりと信頼関係の形成が、ともに日帝を打倒していく戦列の形成の基礎となるのである。
C 戦争責任追及の闘いの焦点化・法制定へ
日本軍「慰安婦」問題をはじめとする強制連行・強制労働などの侵略戦争と植民地支配をめぐる戦争責任を追及する闘いは、日帝のアジア再支配にとって重大な桎梏である。アジア人民、在日アジア人民の存在と闘いは、日帝の再支配を決して許さないという闘いとして立ちはだかっている。日帝にとって、戦争責任を全面的に認めることは、最終的には天皇の戦争責任を問うものとしてつき出されるのであり、決して認めることはできない。したがって、「道義的責任」や「遺憾の意」を示す程度にとどめ、日韓条約や日中国交回復のレベルにとどめることでお茶を濁す以外にない。しかしアジア人民、在日アジア人民はそれを許さず闘っている。
日帝が侵略戦争と植民地支配の中でくり広げた犯罪行為の残虐性・非人間性は、決して「戦争の中で起こったこと」などではくくれないものであることをあらためてとらえかえす必要がある。日本軍「慰安婦」制度、731部隊による人体実験、南京大虐殺…。こうした諸事実は、「戦争の中では不可避なこと」でも「軍隊がいれば不可避なこと」でも断じてない。天皇制日本帝国主義の軍隊だからこそ引き起こされたのである。だからこそアジア人民、在日アジア人民は、戦後65年をすぎた今も決して忘れることなく、子々孫々まで語り継ぎ、決して消し去ることはないのである。これが、日帝のアジア再侵略・再支配を許さない根底にある。日帝にとっては、戦争責任を全面的に認めて謝罪・賠償に応じるか、アジア人民・在日アジア人民の怒りと要求を粉砕するか、どちらかしか本質的には選択の余地はないのである。鳩山政権の「東アジア共同体」構想なるものも、どんなに美辞麗句をこらそうとも、この根本問題を素通りしては成りたたない。
こうした中で、日本軍「慰安婦」問題をめぐる攻防が日帝との切っ先をなす闘いとして発展している。90年に金学順(キム・ハクスン)さんが名のり出て以来、20年におよぶ闘いが連綿とつづけられている。日帝は、93年の河野官房長官談話によって「国家的責任」を否定し「道義的責任」のみに切り縮めたうえ、「国民基金」でのペテン的決着をはかったが、それをはねのけて闘われてきた。こうした中で、国連人権委員会などでは度重なる「勧告」が出されてきたが、日帝はそれをも無視しつづけてきた。
2000年には「国際戦犯法廷」での「天皇の責任」を明記した判決が下されたが、これも無視しつづけてきたのである。こうした中で、世界各国の議会で日本政府に解決を求める決議が採択され、これを受けて日本の地方議会でも意見書採択を求める地域運動が全国各地に立ちあげられた。今現在、15の地方議会で意見書が採択され、こうした地域運動と地方議員も含めたネットワークづくりが進められている。関西からはじまったこの運動は、関西でのネットワークの結成から全国ネットワークへの動きとして進んでいる。そして、韓国の日本大使館前で毎週とり組まれている「水曜デモ」に学んで、各地で「水曜デモ」がとり組まれている。この「水曜デモ」と地方議会での意見書採択を求める地域運動を核に、全国的な運動の広がりが進み、国会での「立法解決」を求める運動へと発展している。民主党は野党時代に、社民党や共産党とともに、「立法解決」を求める法案を8度提出しており、政権政党になった途端に反故にすることはできないというジレンマにたたされている。民主党政権という条件を最大限駆使して、国会での立法解決のための法案を採択させなければならない。
こうした状況の中で、当面するとり組みとして、1.地方議会での意見書採択、2.緊急120万署名運動、3.水曜デモ、の3つが呼びかけられている。この日本軍「慰安婦」問題のとり組みを進めていく上で、「在特会」の妨害と敵対をうち破ることが決定的に重要である。「在特会」は、「慰安婦」問題の集会や企画に押しかけて妨害し、意見書を採択した市議会や市役所、議員個人宅に押しかけて脅迫を加え、「水曜デモ」に権力を引き連れて現れ、妨害し弾圧させ、ついには襲撃までくりかえしている。こうした暴力と脅迫をくりかえすことで、会館側に会場使用をことわらせ、議会を萎縮させて採択を断念させ、「水曜デモ」をつぶすことを狙っている。日本軍「慰安婦」問題をとり組む人びとは、これをはねのけて闘っている。
日本軍「慰安婦」問題をめぐる攻防で日帝を追いつめ、それを突破口にして、強制連行・強制労働をはじめとするすべての戦争責任を日帝に認めさせる闘いへと発展させていこう。こうした闘いは、日帝への怒りと憤りを持つすべてのアジア人民、在日アジア人民との国際主義的連帯闘争そのものでもある。
D 入管収容所をめぐる闘い―難民・被収容者への支援闘争
新自由主義とグローバリゼーションは、全世界に内戦と飢餓、貧困と格差を拡大し、生活基盤を奪われて生きていくことのできない難民を増大させている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)ですら、07年末時点での世界の難民は1140万人、国内避難民は2600万人と発表している。
また90年代から始まった日帝の外国人労働力導入政策は、少子化と人口減少を迎える中でさらにエスカレートし、今や「1000万人の移民受け入れ」まで主張し始めている。こうした状況の中で、難民としての庇護を求めて、また「資格外就労」「法外活動」「在留期限切れ」、国際結婚の破綻や日本人夫のDV被害、子どもの権利の剥奪などで、多くの外国人が生活や生存を脅かされている。こうした人びとの多くを、日帝は「入管法違反」として入管収容所に収容し、強制送還を乱発しつづけてきた。そして入管収容所の処遇は劣悪を極め、非人間的処遇にたいしてハンストや集団抗議が頻発している。今や難民問題、外国人労働者問題は日本階級闘争における重大な課題として問われてきている。
こうした中で1つには、収容所の非人間的処遇を弾劾し、改善を求めるとり組みである。医療・食事・運動・外部交通権などの処遇全般に及ぶこうした要求を認めさせていくとり組みである。2つには、早期の仮放免を実現するとり組みである。そもそも入管収容所は本来、裁判で刑が確定した人びとに対する刑務所ではなく、出国のための一時的収容施設にすぎない。したがって1年も2年も収容をつづけることは許されないのである。3つには、仮放免をかちとった人びとの生活を確保するための支援体制の充実である。4つには、安定した在留資格を認めさせることである。仮放免を実現したとしても安定した在留資格がなければ就労すら認められないのが今の入管法である。
関西においては、こうしたとり組みを共同で進めるネットワークが立ちあげられており、全国的にも進められている。
こうした具体的とり組みを強めながら、日帝の難民制度や入管法そのものを問題視し、その改定を求め、早期で透明性を持った難民認定制度の実現、難民や仮放免の人びとへの安定した在留資格と就労と生活の保証を実現させる制度の確立を求めて、政治行動・政治闘争へと広げていかなければならない。
E 外国人労働者問題を労働運動の闘いとして
先に述べたように、日帝による外国人労働力導入政策のもとで、多くの外国人労働者が日本で生活し労働に従事している。日帝は、国家と資本の管理系列にもとづいて導入した人びとにたいしては管理と監視のもとで働かせ、それ以外の「法外就労」にたいしては強制収容・強制送還を乱発しつづけてきた。
日帝が、外国人を労働力として導入しているのはつぎの2つである。1つは、「定住者」資格にもとづく日系人の導入である。2つは、「研修・技能実習制度」にもとづく導入である。(なお、「留学生」「就学生」については部分的に就労を認めている)。そしてそれ以外の、「法外就労」や「資格外就労」者にたいしては強制収容・強制送還を加えてきている。
こうした中で、特に労働運動的課題として重要になってきているのが、「定住者」資格で導入されてきた日系人にたいする「派遣切り」の問題であり、「研修・技能実習生」を労働者として認めずに安価な賃金でこき使ったり、パスポートを取りあげるなどの非人間的扱いをめぐる問題である。(なお、「法外就労」「資格外就労」の人びとをめぐっても、賃金の未払いや労災問題などが起こっている)。
「1000万人の移民導入」が叫ばれ、外国人労働者の導入がますます増大する中で、労働運動の重大な課題として措定し、とり組みを強めなければならない。
F 民族差別との闘い
民族差別は、入居差別、結婚差別、就職差別、教育差別、年金差別など、今もなお在日外国人の生活と生命を脅かしている。とりわけ70年の日立就職差別事件とのたたかいを大きな出発点にして激しい闘いがとり組まれてきた。また82年の入管・難民法が制定され国民年金加入の国籍条項が撤廃されたにもかかわらず、差別的に「遡及措置をとらない」という厚労省によって無年金を強いられた在日の「障害者」と高齢者による闘いは、裁判闘争や厚労省交渉などさまざまな形で粘り強くとり組まれ、また地方自治体にたいする代替措置としての「給付金」を支給させるとり組みとして進められている。公務員や教員に対する「国籍条項」にもとづく「職種と昇進・昇任制限」にたいしても闘いがつづけられている。
これらの民族差別の根源は、日帝が自ら引きおこした侵略戦争の結果、日本に在住を余儀なくされた人びとにたいして、日帝国家がいっさいの戦争責任を認めず拒否していることにある。そして戦争責任を拒否した上で、「日本国民ではない外国人には憲法が保障する権利は認めない」とするところから生起するのである。これをあらわしているのが、無年金差別を糾弾した裁判において、外国人への差別は合法とする判決を平然と出した事実であり、在日外国人の公務員にたいする職種と昇任の制限は「当然の法理」とする日本政府の態度である。こうした日帝(行政・立法・司法)による「外国人への差別は当然」とする姿勢が、民間における差別を激発させ、日本の人民の多くが、「外国人だから日本人と同様の権利がないのは仕方がない」という論理に押しこめられる社会状況をもたらしている。
われわれは、民族差別と権利侵害の現実にたいして、人間誰もが本来享受すべき基本的権利を要求するとともに、「外国人にたいする権利制限はやむをえない」という主張にたいして、在日外国人にたいする日本の戦争責任をはっきりさせることで、在日外国人には日本人民と同様の権利が本来あることを明確にさせ、さらに言えば、本来、外国人としての固有の言語や文化や教育を求める権利があることを明確にさせなければならない。
民族差別は、外国人にとっての生活と生命、民族的尊厳にかかわる問題である。民族差別との闘いという具体的な闘いに真剣にとり組み、日帝の戦争責任をさらに明らかにし、差別・抑圧の具体的撤廃を実現していかなければならない。
G 民族教育の防衛のとり組み
今、「在特会」は、朝鮮学校にたいする激しい襲撃を加えてきている。それは朝鮮学校をつぶすことを目的としている。これを絶対に許さず防衛のたたかいに立ちあがることが何よりも問われている。
朝鮮学校は、日帝の敗戦直後から非常な困難ななかで在日朝鮮人自身の力によってつくられてきた。日帝は、戦後革命の時代から1950~53年の朝鮮戦争へと至る中で、これに激しい攻撃を加えてきた。GHQは1948年に朝鮮学校閉鎖命令を下し、暴力的に破壊しようとした。これにたいして、少年1名が射殺される犠牲をともなう阪神教育闘争が闘いぬかれた。本名を名のり、母国語を学び、朝鮮の歴史と文化を学ぶという、在日朝鮮人が民族的尊厳を持って生きようとすることそのものが、日帝にとって決して認めることのできない「反日的存在」だったのである。だからこそ民族教育と民族学校への大弾圧をくり広げたのだ。阪神教育闘争の後も、50年代~60年代にかけて、在日朝鮮人の独力の闘いによって、朝鮮学校の再建の闘いが連綿ととり組まれてきた。
しかし、多くの在日の子どもたちは、日本の学校への通学を余儀なくされていった。この時代、日本の労働者人民、とりわけ教育労働者の無知・無理解のなかで、日本の学校のなかで「日本人と同等の教育をおこなうことが差別しない教育」とする同化攻撃の手助けをしてきた歴史があった。こうしたなかで、1972年の大阪市西成区の長橋小学校での在日朝鮮人の子どもの、「ウリマル(私たちの言葉)を返せ」という告発を契機に、日本の学校における民族教育のとり組みが始まり、とりわけ大阪においては各小中学校において民族学級の設立の運動が始まっていった。
民族教育の課題を考えるとき、ひとつには朝鮮学校の問題がある。先に述べたように、朝鮮学校は日帝の弾圧をはねのけて、在日朝鮮人の力によって設立され守りぬかれてきた。しかし、「各種学校扱い」のため行政的支援がほとんどなされず、在日朝鮮人の子ども、保護者、教職員の財政的負担は多大なものであり、さらに定期券購入や大学入試などをめぐって著しい不利益を強いられてきた。
ふたつには、日本の学校における民族学級は、放課後の「クラブ活動」扱いでしかない。民族学級といっても、週数時間でしかない。またそこで教える民族講師は低賃金であり、それだけでは生活できず、ほとんどボランティアの状態を余儀なくされている。
朝鮮学校も日本の学校の民族学級も、いずれも在日朝鮮人自身の努力によってのみ守られ維持されているのである。日本の労働者人民に問われている責任は大きい。
先にも述べたように、民族教育をとおして、本名を名のり、母国語を学び、母国の歴史と文化に触れることは、差別と闘い、民族的尊厳を守り、民族的存在として生きていく上での重大な要素である。だからこそ日帝はこれを奪い、破壊しようとしてきたのである。07年に滋賀朝鮮初級学校にたいして機動隊を導入した不当な捜索が強行されたことも記憶に生々しい。朝鮮学校と民族教育を守り抜き、発展させるために闘うことは日本の労働者人民の課題である。
さらに今日、在日朝鮮人にとどまらず、数多くの外国人が日本に定住し永住している。こうした人びとの子どもたちの民族教育を保証することも重要な課題である。
H 在日外国人への参政権問題について
在日外国人にたいする参政権法案が重大な政治焦点となってきている。在日外国人にたいする参政権の問題をどのように考えるべきか、あるいは提出すると言われている参政権法案の内容をどうとらえるべきかという以前に、外国人に参政権を付与することそのものを絶対に許さないとする極右勢力の激しい跳梁が始まっていることを、何よりもまず危機感をもってとらえねばならない。
極右らの主張は、日本国家は日本民族のものであり、その土台を揺るがす外国人への参政権付与はいかなるものであっても許さないというものである。すさまじい民族主義、愛国主義、国粋主義が、外国人参政権問題をめぐって析出してきているのである。そのもっとも激しい姿が「在特会」である。「在特会」も出発点は「外国人参政権反対」の政治主張からはじまったが、一気に「外国人追放」から朝鮮学校などへの襲撃へとエスカレートしているのである。
その上でふたつめに、在日外国人の側から出されている政治への参加を求める権利の主張、「税金は日本人同様に支払っているのに参政権がないのはおかしい」「同等の権利を求める」という意見にたいして、当然かつ正当な意見として受けとめなければならない。
政府は「同等の権利」をなぜ認めようとしないのか。むしろ「在日外国人の権利は制限されて当然」という主張はなぜ出てくるのか、を考えなければならない。それは先に民族差別の問題でも述べたように、「歴史的存在としての在日」の根本にかかわる問題なのである。「無権利は当然」という日帝や極右の主張は、戦争責任をいっさい認めない、むしろ侵略戦争と植民地支配を賛美し正当化するところから生まれているのである。したがって在日外国人の権利、参政権問題とは、在日問題そのものであり、戦争責任問題そのものであることを明らかにしなければならない。
以上の諸点にふまえて外国人の権利を考えたとき、当然の権利として「日本人と同等の権利」が保証されなければならないのであり、そのなかにすべての参政権も当然含まれるべきなのである。その上で、例えば民族教育などの在日の民族的権利はさらに徹底的に保証されるべきなのである。
以上のうえにたって、現在提出が準備されている参政権法案の検討が必要である。ひとつは、そもそも「地方参政権」に限定されており、「国政参政権」は認めないということである。ふたつには、選挙権のみで被選挙権が認められていないことである。みっつは、「我が国と外交関係のある国の国籍を有する者や、これに準ずる地域を出身とする者に限定する」として朝鮮籍の人びとをそこから除外していることである。朝鮮籍はそもそも「北朝鮮国籍」をあらわすのではない。戦後、在日朝鮮人はすべて朝鮮籍であったが、65年の日韓条約締結を通して、「韓国政府が唯一の合法的政府」として朝鮮籍の人びとを「北朝鮮国籍」と一方的に日帝は決めつけて排除してきたにすぎない。今回、朝鮮籍の人びとを排除するというのは、北朝鮮への排外主義攻撃と一体のものにほかならない。
したがって、今回、提出されようとしている参政権法案は、極めて差別的であり、本来求められている在日外国人の参政権、権利の問題とはほど遠いものでしかない。にもかかわらず、極右や安倍元首相などの自民党右派勢力が激しく突出してくるのは、支配体制の根幹にかかわることへの危機感からなのである。
参政権問題をめぐる事態とは、在日問題の本質問題をつき出しているのであり、それは「明治」以来の日帝そのものの根幹を問うている問題なのである。在日問題が参政権問題を通して、政治過程の重大な課題として浮上すればするほど、極右の台頭と析出、結集、それをめぐる激突は不可避であることを肝に銘じなければならない。こうした問題は、日本の労働者人民の階級的背骨がへし折られるか、それとも階級性を形成してアジア人民、在日・滞日アジア人民と連帯して日帝を打倒する闘いを前進させることができるかどうかの試金石にほかならない。
I 民主党政権下での闘い方について
反動法をすべて廃止に追いこみ、反動政策を変更させる闘いを具体的につくり出そう。
民主党政権は、本質的には保守政権である。しかし小泉以来の新自由主義攻撃への労働者民衆の怒りの中で自公政権が打倒され、さしあたっては露骨な新自由主義政策や反動政策をうち出せないでいる。自公政権の中で強行された反動法や反動政策を一つひとつ打ち破り、変更させ、人民の闘いの基盤を徹底的に拡大させ、運動の側の力量を強化することが今求められている。差別・抑圧をめぐって、戦争責任の問題をめぐって、これまでの法や制度や施策を具体的に変更させる要求を突きつけ、実現させよう。この闘いの中で、来るべき大反動をうち破ることのできる大衆的運動力量をつくり出していこう。
6 安田派の差別・排外主義への転落について
安田派は、革共同が90年指紋・入管・天皇決戦にむかって確立してきた「7・7思想」の深化・発展の闘いをすべて清算した。それにとどまらず、88年の入管闘争の再建・再確立のたたかい以来とり組んできた20年にわたる在日朝鮮人・中国人との反外登法・反入管法の闘争陣形を08年春に破壊した。在日・滞日外国人にたいする入管攻撃と闘い差別・抑圧をうち砕くのではなく、「韓国民主労総との連帯が本来の入管闘争」「民族・国籍・国境を越えた労働者階級の団結をつくり出すのが新たな、本来の入管闘争」などと入管闘争を否定する主張を持ち込み、大衆運動の党派的引き回しをおこない、在日主体を排除し、築きあげてきた闘争陣形を破壊するにいたった。共同闘争をたたかってきた在日主体からは「決別」が宣告された。
こうした安田派の腐敗はわれわれ革共同が生み出したものであり、共同闘争をたたかってきた在日朝鮮人・中国人に心からお詫びし、自己批判し、この痛苦な現実をのりこえてゆく決意をあらたにするものである。われわれは、70年7・7に比すべき、否それ以上の事態を、「7・7思想」をつらぬいてきたにもかかわらず、安田派が引き起こしてしまったことを徹底的に総括・検証する必要がある。
世界は資本主義の帝国主義段階において帝国主義国と植民地に分裂し、帝国主義諸国は侵略と民族抑圧を重要な柱とした植民地支配を貫徹し、さらには差別構造を支配体制の支柱としてきた。このことによって労働者階級の階級性を解体し、他民族抑圧や差別の担い手へと動員することを通して帝国主義支配を維持してきた。だからこそ、労働者階級は自らを革命的階級として形成するためにも、差別・抑圧とのたたかいを主体的課題として措定して闘うことが求められている。しかし安田派はこれを180度逆転させ、“差別・抑圧をめぐる問題は、被差別・被抑圧人民が差別や抑圧にいつまでもこだわらずに「階級移行」することが核心だ”と主張するに至った。そして、差別・抑圧を労働者階級への分断攻撃としてのみ一面化し、差別・抑圧が被差別・被抑圧人民の生活と生命、尊厳をすさまじく蹂躙している事実と現実を平然と無視し、差別・抑圧を廃絶するためのたたかいをことごとく投げ捨てるところにまで転落した。わかりやすく言えば、差別され抑圧されている人びとにむかって、「差別なんかに気にするな。労働者階級の仲間になれば解決するんだ」という主張である。ここからは、差別や排外主義にたいして怒りを感じ、それをうち砕こうという内的で主体的な必要性や必然性は絶対に出てこない。この現実が、労働者階級の階級性の解体そのものなのである。左翼勢力と呼ばれる党派の中で、唯一カクマルと安田派のみが、「在特会」の台頭に何ひとつ危機意識も持ちあわせず、闘おうとしないのは、その必然的結果なのである。
安田派は、革命に勝利すれば差別・抑圧の問題もすべて解決できると主張し、だから革命をめざさずに差別・抑圧の撤廃を目的として運動することは革命に敵対することだと叫んでいる。この主張は2つの意味でとんでもないものである。ひとつには、プロレタリア革命が勝利すれば即、差別・抑圧問題が解決するわけではない。資本家階級の支配を打倒しプロレタリアートが権力を握ることは、差別・抑圧の問題を解決していく物質的基礎をつくりだすにすぎない。プロレタリアートは、このプロ独権力を土台にして、被差別・被抑圧人民とともにあらゆる搾取・収奪、差別・抑圧の廃絶をたたかいとっていくのである。ふたつには、だからこそ労働者階級は、権力奪取・プロ独樹立にいたる以前の階級闘争においても、搾取・収奪、差別・抑圧に苦しみ怒り立ちあがるすべての人びとに思いを馳せ、その苦しみと怒りを自分の苦しみと怒りとして共有し、ともに闘っていくことが求められているのである。「革命の勝利がすべてを解決する」ということそれ自身が重大な誤りである。同時に、差別・抑圧に苦しみ、怒り、立ちあがる人びとに心を寄せることのできない「プロレタリアート」や「共産主義者」は、差別・抑圧の問題を解決するどころか、「プロレタリアート」「共産主義者」の名において被差別・被抑圧人民に襲いかかる反動に転落していくのである。それがスターリンやポルポトによる民族抑圧と虐殺であったのである。
先に、スターリン主義の問題を、世界革命の放棄と一国社会主義論の問題からのみとらえるのではなく、そこに至る歪みの問題としてとらえるべきであり、民族問題をめぐる「7・7思想」の立場を欠落させた思想的問題性が、スターリン主義を生み出した重大な要素であると指摘したが、まさに今の安田派はそれそのものなのである。われわれは、われわれのめざす「革命」とは何であるのかについて、あらためて真剣に対象化し検討しなければならないのである。
そのうえで、安田副議長その人が「7・7思想」をいかに憎悪し攻撃を加えてきたのかを見ていきたい。それは安田が革共同中央を簒奪していった過程の本質をなすものでもある。ここでは入管闘争をめぐる安田の攻撃の流れをとりあげる。
具体的には、94年の「2つの入管論文」問題である。94年は、日米帝国主義による朝鮮侵略戦争の攻撃が、戦争発動寸前にまで至った情勢であった。こうした情勢の中で書かれたのが、「7・7廬溝橋事件から57年にあたって 戦後世界体制の形成における50年朝鮮戦争の歴史的位置─日朝中人民の国際主義的連帯のために」(『前進』1680号・94年7月11日)と、「50年朝鮮戦争と日本労働者階級―国際主義を貫き、世界革命を実現する労働者党の建設を」(『前進』1684号・94年8月8日、夏季特別号)の2つの論文である。
安田はこの論文にたいして、「日本の労働者階級への絶望を組織するものだ」と言って激しく非難し、執筆者と執筆責任者を攻撃し、屈服を迫ったのである。なぜ安田は、それほどまでにこの2つの論文を攻撃したのか。安田は、「7・7思想」の物質化が、入管戦線という党内の「限られた」領域での実践にとどまっている限りにおいては渋しぶ黙認していた。しかし、この2つの論文を通して「7・7思想」が全党で武装され、党の思想的骨格を形成していくことにたいして激しい危機感と敵対的態度で臨んできたということである。安田は、「労働者だけが革命の主体。被差別・被抑圧人民はその従属物」と一貫して主張してきた。つまり安田は「7・7思想」とまったく背反する思想で党内を組織してきたのであり、「7・7思想」が全党の思想的骨格をなすことにたいしては絶対に容認できなかったのである。
しかも安田は、「2つの入管論文」をめぐる批判を革共同中央における権力闘争と安田による中央支配の手段として使ったのである。これは95年に与田を屈服させて仁村論文(註)を書かせたことと一体のものであった。「7・7思想」とその実践を放逐して革共同を思想的に変質させ、中央指導部における安田批判派を屈服させて革共同を私党的に簒奪する過程の開始であった。清水議長はこれに屈服し、すべての政治局員がこれと闘わず安田に屈していった。こうして安田とそれに本質的にも現実的にも追随した清水らと、それに本質的には屈服しながら「面従腹背」する安田反対派という私党集団が政治局と全国委員会の内部で互いに暗闘をくり返す事態が進んでいったのである。この関係の「決着」は、06年3・14決起から07年秋の関西地方委員会からの安田派の分裂・脱落までつづくのである。これが真実であることは安田派自身が吐露している。脱落・分裂した直後の07年12月の「エセ関西党員総会」において出した、「7月テーゼと7・7思想の前進」と題する文書で、「94年の『二つの論文』に示された極端な血債主義(日本の労働者階級は腐りきっていてそのままでは革命の主体になれない論)」などと書いているのだ。安田が94年の時点から、「7・7思想」の解体へと党中央をはじめ党内を組織していたことはこの事実からも明らかである。
その上で、仮に政治局が安田の要求に従って、革共同として「7・7思想」を否定するという立場に転換するというのであれば、全党員に問題を提起し、全党員の意見を聞かねばならないはずである。しかし政治局は、この「2つの入管論文」を実質的に破棄しながら、そうした事実すら党員には知らせようとしなかった。こういう形を通して、政治局総体の思想的変質と、スターリン主義的組織への変質とが進行し、安田が実質的に党内権力を掌握していく過程が進んでいったのである。
こうした安田の「7・7思想反対」に本質的には屈服しつつも、これまでの革共同の思想と路線、「7・7思想」を何とか形の上で維持しながら、安田との「バランス」を取りつつ党中央の運営をはかるるために清水議長が執筆したのが19全総第5報告(「共産主義者」107号[96年春]に収録)である。ここで清水議長は、「7・7思想」についてくどいほどリフレインし、「7・7思想」を全否定する安田にたいして一定の歯止めをかけようと試みている。しかし清水議長は、一方では「7・7思想」を極めて倫理主義的に展開している。そして他方では、「われわれは、これまでの7・7路線のつかみ方にあった若干の行きすぎた傾向については大きくのりこえていかなければならない。すなわち、現実の労働者階級を自己解放=普遍的解放の主体として、しっかりと現実的に措定すること、そしてその立場にみずからを立たせきり、その土台、その立脚点にたって、差別─糾弾─自己批判の諸問題ということを位置づけて、全階級闘争の一環としてそれを闘いとっていくというのではなく、差別─糾弾─自己批判を自立的、自己完結的、あるいは自己目的的に一面化していってしまう傾向である」などと記して、安田へのスリ寄りに腐心しているのである。「離党」をちらつかせて恫喝し屈服を迫る安田を取りなすためであった。
しかしこうした、「本質的には安田に屈服しながら安田を取りなし党運営をはかる」というゴマカシに完全な破綻を突きつけたのが「06年3・14決起」であった。直接的には、安田と「対抗してきた」(本質的には屈服していた)関西の最高責任者であり政治局員でありながら、財政的腐敗、党組織の私党的支配と抑圧に深々と手を染めた与田を関西の同志たちが打倒したことを契機に、安田は党中央の安田反対派を粛清し、革共同を安田思想で「特化」していった。そして「06年3・14決起」を担った関西地方委員会への攻撃を強め、路線的思想的変質の全党化へとふみ出してきた。07年新年号論文で差別・抑圧との闘いを否定し、そして「7・7思想」を完全に否定する「07年7月テーゼ」につき進んだ。先に述べたように「07年7月テーゼ」を清水議長は全面的に推進したのである。
今日、清水議長は、安田のうち出した「革共同第1次綱領草案」なるものがあまりにもひどい代物のため、必死に手を入れて「綱領草案」に何とかまとめあげて発表した。しかしこうした「努力」も、先に述べた94年の「2つの入管論文」にたいする安田の攻撃をめぐって、それを取りなす形で執筆した19全総第5報告と変わらないものである。
重大な事実は、今や差別的思想という次元にとどまらず、安田派は、広島差別事件を引きおこし開き直る差別集団であり、あらゆる差別・抑圧との闘いを妨害・敵対する排外主義集団として、すべての闘う人民から認知されつくしてしまっていることである。清水議長が、いくら「手直し」を試みようとももはや決して消え去ることのない差別・排外主義集団の「刻印」を、闘う人民から押されてしまっているのである。安田派は、「血債主義・糾弾主義粉砕」などと一貫して叫んでいる。これはどこをどう読んでも、「血債」ということ、「糾弾」ということへの、憎悪と否定、悪罵以外の何ものでもない。それは安田派の、差別・抑圧問題にたいする階級的感性がいかに腐敗し果てているかを物語っている。
ところで、「06年3・14決起」に反対し、安田・清水との対決から逃亡した元政治局員の永瀬は、今日、大衆運動の様ざまな領域で、「革共同中央には反対」「06年3・14クーデターをおこなった関西派にも反対」などと陰でコソコソふれ回っている。そうして、あたかも自分たちは革共同の腐敗と変質には無関係であるかのように装って様ざまな策動をおこなっている。永瀬は70年代からの政治局員であり、議長・清水の右腕であり、入管戦線の最高責任者ではなかったのか。永瀬はそのことについての根底的な自己批判と総括を労働者人民と在日人民にたいして明らかにする必要がある。永瀬自身が、安田による「7・7思想」への敵対と破棄の攻撃にたいし革共同中央においていかに闘ってきたのか、あるいは闘ってこなかったのか。この論文において明らかにした入管闘争の本格的実践とそのための苦闘の最中に、永瀬はどこでどうしていたのか。問われているのは永瀬自身の総括と自己批判ではないだろうか。
(註)仁村論文…部落解放同盟全国連合会が進めていた〈労働運動路線〉をつぶすために、安田に屈服した清水議長とK政治局員が与田を屈服させて書かせた論文。この詳しい経緯と本質については、『展望』3号の秋川論文を読んでいただきたい。
7 革命的共産主義運動の再生のために
「7・7思想」と安田の思想である「07年7月テーゼ」とは180度違うものであることはもはや明らかである。「7・7思想」は一貫してわれわれ革共同の思想的核心であった。にもかかわらずなぜ革共同の党員の多くが、「7・7思想」の否定と清算という安田思想を「易々と」受けいれるにいたったのか。労働者階級が本来的に持っているもの、そして共産主義者が自覚的・意識的に形成してきたこうした差別・抑圧にたいする基本的な立場や精神がなぜにいともたやすく解体され、それが当然というところにまで転落するのであろうか。ここを共産主義者とその党の問題としてどのように内在的に総括し、のり越えるのか、そうした党のあり方はいかにすれば実現しうるのかを明示できない限り、革命的共産主義運動の再生を考えることはできない。もっと言えばその資格がないともいえる。
わが革共同と党員の「7・7思想」の理解が不充分であったり、倫理主義的・決意主義的なものにとどまっていたという側面は否めない。したがって、「7・7思想」を正しく全党・全党員の中に形成する努力が不充分であった入管戦線の責任は重大であると考える。その点について、率直に自己批判するものである。そのうえで、それはなお問題の一側面である。
わが革共同は一貫して、その理解の度合いはどうであれ、「7・7思想」を絶対に譲れない思想として堅持してきた。にもかかわらず安田が党中央を支配し、「7・7思想」も革共同の基本路線もことごとく否定し、清算していったとき、党員のほとんどがそれに追随していった。この事実は、わが革共同の党建設のあり方そのものに根本的誤りがあったことを示しているのではないだろうか。
本来、労働者階級は、差別・抑圧にたいし怒り、差別され抑圧されている人びとへの限りない連帯感を共有する存在である。また共産主義者は、そのことをより一層、自覚的・意識的に対象化して闘う存在である。そして共産主義者の党は、本来こうした資本主義社会の矛盾の解決を階級支配の廃絶を通してめざす、最も人間的営為にみち満ちた組織であるはずである。党中央がうち出したものであろうと、それが差別・抑圧とのたたかいを否定する決定であるなら、労働者をはじめとした党員全体がそれにつき従っていくことなど本来ありえないことである。必ずや疑問・反対の声が噴出してくるはずである。しかし革共同の多くの党員はそうしなかった。できなかった。逆に言えば、革共同のスターリン主義的硬直化はそこまで進行し、共産主義者の党ならざるエセ「共産主義者」の集団へと変質していたと言える。破防法弾圧のもとでの反革命カクマルとの戦いという非常時の「上意下達」「軍令体制」が、あたかも本来の革命党のあり方であるかのようにその後も継続され強化されていった。そうして革共同は、運動的ゆきづまりと組織的矛盾を深めつつ、変質と腐敗を進行させてきたのである。そうした事態をめぐる全党的な問題の提起は、「06年3・14決起」を通してしかありえなかったのである。
こうした革共同がかかえていた問題の根本的解決はどこにあるのであろうか。この問題は、スターリン主義の問題であり、革命をめざし、あるいは勝利したすべての党が突きあたっている問題ではないのか。
組織であるいじょう、中央集権制は避けて通れないが、中央集権制が生み出す官僚主義や権威主義等の問題をいかに克服するのかが問われている。それは原則的には党内民主主義の確立の問題である。指導機関の決定は絶えず全党員によって検証されること、党員は指導部を選挙し解任・罷免する権限があること、情報の全党的開示など、具体的に決定し実行される必要がある。そうした制度や形式を党内で確立することは重要である。しかしそれは形式的であっては意味を持たない。結局のところ、そうした党内民主主義の制度や体制をも確立しながら、いかに自覚した共産主義者の政治的結集体として党をつくりだしていくのかが絶えず求められているのだと考える。それは、あらゆる搾取・収奪、差別・抑圧の廃絶をめざす共産主義者としての党であろうとする自覚、そして党は絶えず労働者階級人民から検証される存在であることへの緊張感と自覚を日々新たにして、党を組織していくことではなかろうか。このテーマはわれわれにとってもっとも重大な課題であり、さらにすべての同志、党組織外の戦闘的良心的人びとの意見にも謙虚に耳を傾けながら新たな党のイメージを練りあげていく必要がある。
最後に、共産主義者の党は当然にもすべての労働者階級人民、被差別・被抑圧人民の党でなければならない。しかし清水議長は、被差別・被抑圧出身の同志たちを中央政治局に配置しながら、差別・抑圧の課題をその被差別・被抑圧出身の同志に「丸投げ」することで、あたかも革共同は差別・抑圧の課題と闘い、すべての階級・階層の人びとが結集する革命党であるかに装ってきた。しかしそうしたあり方が、与田や安田のような歪みをもった中央指導部が割拠する「私党グループの連合」の党に革共同を堕落させてきた。
われわれは、労働者出身の党員、学生出身の党員、インテリゲンチャ出身の党員、被差別・被抑圧出身の党員など、その同志が抱える固有の困難と課題をたえず全党が共有化し普遍化しうる共産主義者の党をめざさなければならない。われわれがつかみ取り深化させてきた「7・7思想」は、その重大な思想的立脚点ではなかろうか。
(展望6号掲載)