沖縄奪還闘争の今日的再確立のために(上)
島 袋 純 二 
 民主党政権の成立により、沖縄基地問題は日米帝国主義の最大の矛盾点として顕在化した。日本帝国主義打倒の戦略的水路としての米軍基地撤去=沖縄奪還闘争の今日的再確立をめざす。
 
 
               
はじめに
第一章 沖縄をめぐる現状
 第一節 沖縄問題を把握する出発点
 第二節 2009年1月から8月までの沖縄の主要な出来事
 第三節 沖縄問題の本質的解明と、沖縄闘争の現実的勝利を実現していく視点
第二章 沖縄問題の本質と、その根底的・全面的解決としての日本革命の実現にむけた沖縄闘争の展望
 第一節 米軍再編ー改憲攻撃の重大性と、沖縄ー辺野古闘争の革命的意義
  (1)米軍再編をテコとした日米安保体制の画歴史的なエスカレーション
  (2)日米安保同盟の軍事同盟としての飛躍と改憲攻撃
  (3)米軍再編と改憲攻撃の最大の矛盾点=沖縄ー辺野古闘争
 第二節 沖縄問題の本質と沖縄闘争の意義
  (1)沖縄問題の本質ー日本帝国主義の沖縄に対する構造的差別体制と差別政策
  (2)沖縄闘争の意義ー日帝打倒闘争としての沖縄闘争
 第三節 沖縄奪還論の形成とその今日的確立
  (1)沖縄奪還論の確立と展開
  (2)沖縄闘争の歴史的総括と沖縄奪還闘争の今日的再確立の核心点
   *復帰闘争の歴史的総括
   *沖縄県民の「自決・自己決定権」について
   *「本土」における沖縄出身者の闘い    (以上、今号)
 
第三章 沖縄問題を隠ぺいし、沖縄闘争に敵対する安田派
 第一節 沖縄県民の自決・自己決定権を否定
 第二節 沖縄問題を安田派式道州制論に解消
 第三節 辺野古闘争から召喚し、沖縄闘争に敵対
第四章 辺野古に基地をつくらせない・運動を全国各地に
 第一節 沖縄奪還論=沖縄奪還闘争の再確立の課題
 第二節 労働者・人民のあらゆる組織に辺野古に基地をつくらせない・運動を持ち込もう
 第三節 県人会運動を基礎に、闘う在「本土」沖縄青年運動を
 第四節 沖縄闘争と憲法ー三里塚諸闘争を結びつけ、相互にともに連帯して闘おう
 
 
はじめに
 
さる8月30日、衆議院議員総選挙が行われた。周知のように、民主党が115議席から308議席へ3倍近くを獲得し、自民党は逆に300議席から119議席へと6割も減らして大凋落した。ブルジョア的な意味では、国会内における「革命」=大逆転が起こったのである。しかし、これらは言うまでもなく、労働者・人民が民主党を積極的に支持したというよりも、日本帝国主義の体制的危機下において労働者・人民に矛盾と犠牲を強いる自・公政治に激しい怒りが叩きつけられたということである。民主党を主軸とした政権も、さまざなな諸関係に突き動かされて紆余曲折をたどるにせよ、日本の帝国主義体制を維持しようとする限り、結局は「現実路線」の名の下に労働者・人民を裏切り圧迫していかざるをえない。したがって、情勢の進展・展開の本質的動向をしっかりと見すえながら、自らの生きんがための要求を民主・社民・国民新党連立政権に強制しつつ、それを突き抜けて自己権力を打ち立てる闘いを大きく発展させていかなければならない。その意味で、改憲阻止、安保・沖縄闘争を一大階級決戦として押し上げていく必要がある。その最大の焦点は沖縄・辺野古の新基地建設を阻止する闘いだ。
現在、米軍再編と改憲攻撃が本格化する中で、沖縄−辺野古に新たな米軍基地を建設する動きが進んでいる。日米帝国主義にとって沖縄−辺野古に新たな基地を建設することは、もはや待ったなしである。すなわち、沖縄−辺野古に新軍事基地を建設することは、米帝の世界支配の戦争的再編とそれと一体となった日帝のアジア侵略と戦争へ向けた日米安保同盟の飛躍的強化、そこから不可避となる憲法の改悪にとって、体制的存亡のかかった課題なのだ。したがって辺野古新基地建設の攻撃は、日米両帝国主義(とりわけ日帝)の死活をかけた凶暴なものとなる。それゆえ、辺野古に新たな基地を絶対につくらせないという地元=辺野古の住民を先頭にした沖縄県民や全日本の労働者階級・人民大衆にとっても、闘いの飛躍と強化が今まさに求められている。沖縄−辺野古闘争の全国・全人民的展開と大高揚をつくりだすことが火急的なものとなっているのだ。
だからこそ、沖縄闘争の唯一の勝利の路線である沖縄奪還闘争の綱領的深化と戦略的発展を、今日的に明らかにしていくことが決定的に求められている。本稿はそのようなものとして沖縄奪還論の今日的再確立を試みるものであり、その出発点をなすものである。諸同志と労働者・人民の建設的な意見(批判・提言など)と活発な論議を期待したい。
第一章 沖縄をめぐる現状
 
第一節 沖縄問題を把握する出発点
 
沖縄奪還論=沖縄奪還闘争の今日的再確立にあたって、まず何よりも沖縄社会で起こっている現状をしっかりと見据え、把握する必要がある。このことは問題解明の出発点として当然のことではあるが、しかし日帝の沖縄に対する分断と差別の下にあって、極めて意識的に対象化しない限り見えてこないし、わからない状況がある。
改めて、日帝による「本土」と沖縄の分断、差別を突き破って「基地=沖縄」の現実を意識的に見すえ、対象化し措定することが、沖縄問題の現実的存在と本質的解明、そして根底的・歴史的解決=解放にとって決定的な第一歩となるのである。その意味で、米軍基地を最大の実体とする沖縄の社会的現状について、2009年1月から8月前半までの主だった事柄について見ていくことにする。
 
第二節 09年1月から8月までの沖縄の主要な出来事
 
さしあたって、月ごとに列挙していくことにする。
1月10日 地元が反発する中で、アメリカ・バージニア州ラングレー空軍基地から最新鋭ステルス戦闘機F22が嘉手納基地に6機飛来。
  12日 ラングレー基地のF22がさらに4機飛来。うち1機が着陸直後に軽いトラブルを発生。
  14日 F22が飛行訓練を再開。
  14日 糸満市の工事現場で不発弾が爆発。作業中の男性が顔などに大けが。
  14日 メア在沖米国総領事が、基地の整理縮小は普天間移設が条件、と発言。
  20日 アラスカから米空軍F16戦闘機5機が訓練のため飛来。
  27日 アメリカ軍のヘリパッド移設に反対して座り込みを続けている東村高江の住民らに対し、沖縄防衛局が通行の妨害禁止を申し立てた仮処分について那覇地裁で審尋。
  27日 普天間基地ヘリ飛行ルート調査ではみ出し飛行を確認。
2月5日 嘉手納町議会が外来機の飛行と訓練に抗議。F22の一時配備以降、騒音が増加していることに対して全会一致で抗議決議を可決。
  6日 沖縄戦の集団「自決」をめぐる教科書検定問題で、07年の県民大会を立ち上げた6団体が、政府への要請行動を改めて行う方針を決定。その他の具体的取り組みも今後協議していくことで一致。
  9日 昨年、金武町伊芸区で発見された米軍の流弾事件に関して、町の代表者らが日米の関係機関に実弾演習の廃止を要請。米海兵隊は射撃訓練との関連はなしと開き直り。
  10日 隊員輸送を目的に、空自ヘリがキャンプ・ハンセンに着陸。日米共同訓練の一環と説明しているが、極めて異例のこと。今後のハンセン使用についても否定せず、恒常化の可能性もあり。
  12日 宜野湾市が普天間基地の第三次アクションプログラムを発表。来年中にヘリ部隊のグアム移転を求める。
  14日 弾道ミサイルを監視する米軍特殊偵察機のコブラボール2機が嘉手納基地に飛来。朝鮮情勢の動向に対する対応措置。
  16日 原潜寄港問題で、「沖縄の基地と行政を考える大学人の会」がシンポジウム。ホワイトビーチへの原潜寄港の回数が急増している中で放射能漏れを起こしていた事について、地元が調査にかかわれる仕組みを作るべきだとの意見などが出た。
  16日 海兵隊グアム移転協定について、地元の大学教授など有識者が「負担押し付け」に反対声明。
  17日 日米外相がグアム移転協定に署名。「平和市民連絡会」が強く抗議。
  28日 新嘉手納爆音訴訟で原告が最高裁に上告を決定。
3月1日 金武町流弾事件に対し、伊芸区民が大会に抗議集会に総決起。
  3日 F22などの相次ぐ訓練で騒音が激化していることに対し、嘉手納町長が米軍に直接抗議。
  4日 連合沖縄が県工業連合会に対し、賃上げと雇用確保を要求。
  9日 航空自衛隊が米本国から一時的に嘉手納基地に配備されている部隊との日米共同訓練を今月13日から7日間にわたり沖縄周辺の空域で実施すると発表。
  9日 石垣市が米軍艦船寄港に反対声明。
  9日 米ネブラスカ州のオファット空軍基地所属の電子偵察機RC135Uコンバットセントが嘉手納基地に飛来。
     米海軍の弾道ミサイル監視船も沖縄近海で展開。米韓合同演習の空母艦載機F18ホーネットも飛来するなど、朝鮮情勢の緊迫化に伴う外来機の嘉手納基地への飛来が頻繁化。
  10日 騒音激化で嘉手納町長が沖縄防衛局に緩和策などを要請。
  16日 空自F15と米軍F22の日米共同訓練が沖縄周辺の訓練区域で開始。
  18日 沖縄戦記録フィルムの収集と上映を通して平和運動を展開している「1フィート運動の会」が、集団「自決」をテーマとした新たなドキュメンタリー映画を製作し、那覇市で上映会。
  19日 普天間基地のジェット燃料流出事故に対し、宜野湾市議会が抗議決議。
  26日 同日未明に、カリフォルニア州で墜落事故を起こしたF22と同型機がその8時間後に事故原因も解明されないうちに、嘉手納基地に飛来。
4月2日 普天間基地代替に関するアセスメント準備書の公告縦覧始まる。
  3日 石垣港への米艦船寄港に対し、市長先頭に反対行動。住民の実力抗議行動で激しいもみ合い。
  5日 北朝鮮の人工衛星打ち上げ予告に対し、嘉手納基地は「ミサイル」警戒体制で緊迫続く。
  7日 グアム移転協定に対し、県議会が外務省に反対要請行動。
  8日 普天間移設協で仲井真知事が北部振興策の継続を要請。同時に、改めて沖合い移動も要望。
  14日 グアム移転協定が衆議院で可決。
5月13日 グアム移転協定が国会で成立。
  13日 Y(米軍車両の記号)ナンバーひき逃げ事件で、飲酒運転の米兵が逮捕されずに書類送検。
  15日 「本土」復帰37周年で3日間の平和行進が始まる。16日、平和行進参加者が各地で基地撤去を訴える。17日、平和行進の最終日に宜野湾市で県民大会。基地のない島を目指して決意を新たにする。
  18日 F22一時配備で北谷町議会が抗議決議。三市長連絡協議会(三連協)も米軍などに抗議行動。
  26日 嘉手納基地の在韓米軍機の訓練で騒音激化。
  27日 嘉手納基地に放射性物質調査のイギリス空軍機VC−10K3が飛来。
  28日 泡瀬干潟埋立訴訟控訴審で経済的合理性をめぐって争う。
  29日 4月の県内失業率が7・6%と発表される。昨年11月から連続6ヶ月間7%台で推移。県外の製造業に勤めていた人が失職し、沖縄に戻ってきたことなども大きく影響。
  30日 嘉手納基地に4ヶ月の一時配備予定のF22戦闘機12機のうち4機が飛来。今年2回目の配備で、1回目は3ヶ月間の訓練を終えて先月本国に帰還したばかり、一時配備の連続で常駐化の懸念も。
  31日 宮森小学校米軍機墜落事故50年目の節目を前に、平和を訴える劇を上演。
6月2日 F22飛来に対して三連協が抗議文を送付。
  2日 F22の第二陣4機が飛来。
  3日 F22が訓練開始。
  6日 陸自ヘリの民間空港(石垣港)使用に市長と市民が抗議集会。石垣空港の軍事使用を懸念。
  9日 F22が新たに2機飛来。
  10日 嘉手納基地の外来機が飛行訓練で騒音轟かす。
  18日 F22の残る2機が飛来。これで一時配備予定の全12機が配備完了。
  19日 普天間基地でジェット燃料漏れ。
  19日 那覇空港の滑走路増設計画を検討。
  21日 ボランティアが沖縄戦戦没者の遺骨収集活動。未だに国の戦争責任の放棄によって放置されている遺骨が各地に多数存在。
  22日 沖縄弁護士会が「普天間アセスは違法」と手続きやり直しを求める声明を発表し、関係機関に送付。
  23日 県内各地で慰霊祭。市民団体による反戦慰霊行動に知花昌一氏らも参加。
  24日 金武町流弾事件で町議会が米総領事館に抗議文を手渡す。
  24日 嘉手納町議会が仲井真知事にF22の配備中止を国に求めるよう要請。
  30日 宮森小学校へのジェット機墜落事故から満50年で追悼集会。
7月1日 5月の県内景況で観光業でも落ち込み続くと発表。
  6日 浜田防衛相が自衛隊の与那国配備について検討と発表。
  8日 泡瀬干潟訴訟で裁判官が干潟の現状を視察。
  9日 すでに一時配備されている12機のF22に続き、アラスカ州の空軍基地所属のF22が2機飛来。
  21日 陸自が新たに「科学防護隊」を設置し、来年3月に配備すると公表。
  23日 泡瀬干潟埋立事業の控訴審が結審。控訴審判決は10月15日の予定。
  23日 県が設置した企業による20代から30代の非正規労働者の雇い止めについて、当事者らが県に実態調査を要請。
  25日 県内企業がアンケート調査の結果から「不況打開の見通し依然として立たず」と発表。
  29日 平和運動センターが自衛隊基地の与那国設置反対を県に求める。
8月11日 道州制懇話会で地方分権について討議。沖縄は特殊型の単独州を目指すべきと提言。
  13日 沖国大へのヘリ墜落事故から5年、学内で写真展や普天間基地を使用する航空機の飛行中止を求める集会などが開催される。
 
第三節 沖縄問題の本質的解明、と沖縄闘争の現実的勝利を実現していく視点
 
以上のように、今年前半に沖縄で起こっている主だった事態を見ただけでもすさまじい現状にある。こうした過酷な状況の下で生活している沖縄県民の気持ちがどんなものかは、仮に自分がそのような状況下で生活していることを考えれば、ある程度は想像できるだろう。重要なことは、沖縄県民が現在置かれている過酷な現状に対して、差別的・抑圧的立場から同情するのではなく、沖縄県民の気持ちを真正面からしっかりと受け止め、共有することをバネにして、問題を生み出している実態と本質を明らかにし、その根底的・全面的変革を実現していくことである。
そのような立場から「本土」人民と沖縄人民の共同の闘いとして、「本土」−沖縄関係の革命的転換を実現していく過程の中で「本土」人民と沖縄人民の真の共同性を形成し、発展させていかなければならない。そしてこの革命的な視点と態度を堅持して、沖縄問題の本質的解明と沖縄闘争の現実的勝利の展望を、沖縄奪還論=沖縄奪還闘争の今日的再確立として明らかにしていく必要がある。このことは、単なる実践論ではなく、実現論として実践的に形成・確立していくことが必要だと考える。
 
 
第二章 沖縄問題の本質と、その根底的・全面的解 決としての日本革命の実現へむけた沖縄闘争の展望
 
第一節 米軍再編−改憲攻撃の重大性と沖縄−辺野古闘争の革命的意義
 
(1)米軍再編をテコとした日米安保体制の画歴史的なエスカレーション
アメリカ帝国主義のブッシュ前政権によって打ち出された米軍の世界的再編攻撃(トランスフォーメーション)は、現在のオバマ政権の新戦略に沿ってさらに推進されようとしている。それは米帝のグアム統合軍事計画の中心環をなすグアム移転協定の具体化を通して、アフガニスタン−パキスタン侵略戦争をエスカレートさせていくものである。米帝にとって米軍の世界的再編=戦略的再配置は、新たな世界支配体制を再構築するための不可欠な課題である。
かの「9・11」におけるムスリム人民の米帝の抑圧に対する根源的な怒りの爆発は、それが米帝本国において、しかも米帝を象徴する大都市=ニューヨークのど真ん中で起こったことに根底的打撃を受けた。この「9・11」を決定的な歴史的転換点として、米帝は「対テロリズム」と「大量破壊兵器の所有」を口実として、アフガニスタン侵略戦争とイラク=フセイン政権転覆の侵略戦争を展開していった。しかし米軍はムスリム人民の粘り強いゲリラ戦の展開を圧殺することができず、泥沼的状況に叩き込まれている。
国家を対象として軍事制圧し、米帝の世界支配体制を維持していくといったそれまでの戦略が破綻したのである。ムスリム人民の決死的なゲリラ戦によって敗勢を余儀なくされている米帝が、その体制的存亡をかけた新たな軍事戦略こそ米軍再編(トランスフォーメーション)に他ならない。それは昨秋から本格的に始まったアメリカ発の世界恐慌と各国の利害をかけた政治動向によって、ますます促進を迫られている。
 
(2) 日米安保同盟の軍事同盟としての飛躍と改憲攻撃
米帝による米軍再編の推進は、日米安保体制の軍事的エスカレーションを不可避とする。このことはすでに展開されている海上自衛隊のインド洋における艦船給油活動やソマリア沖海域における「海賊」対処行動など、憲法9条を形骸化した改憲の先取り的事態に示されている。このような安保の軍事的エスカレーションは、日帝−自衛隊の海外での自由な展開や武器の自由使用を容認するものとして日米安保同盟の軍事同盟としての質的飛躍を促進し、9条の徹底的な破壊を突破口とした全面的な憲法改悪となっていく。逆にいえば、現憲法の改悪なくして、安保の質的飛躍=軍事的エスカレーションを全面的に実現していくことはできないのだ。
米軍再編をテコとした日米安保体制の質的転換=軍事的エスカレーションと、それを保証するための憲法改悪は、今日の日帝にとって死活的課題である。すなわち、日帝としてこの体制的危機を乗り切るためには、再びアジアの盟主として権益を確保し、アジアにおける唯一の帝国主義としての勢力圏を形成−確立していく以外ないからである。しかしながら日帝にとって、かつてのアジアにおける朝鮮−中国に対する植民地支配と勢力圏の拡大が、朝鮮−中国、アジア人民の民族解放闘争、および米帝との帝国主義間戦争に敗北したという歴史的事実は、今日乗り越えることが困難な壁として立ちふさがっている。日帝がこの巨大な壁を突破していく唯一の道は、結局のところ日米安保体制に依拠した質的転換=日帝の軍事力の全面的保証と徹底的なエスカレーションしかない。
もちろん、日帝にとって唯一のこの延命策は、何ら展望を保証するものではないし、本質的=現実的には絶望的なものである。われわれはこのことをしっかりと見すえ、米軍再編粉砕=安保粉砕と改憲阻止の闘いを、ムスリム人民、アジア人民−全世界の労働者・人民と連帯して闘いぬいていく必要がある。
 
(3)米軍再編と改憲攻撃の最大の矛盾点=沖縄−辺野古闘争
以上の確認の上にたって、日米安保体制の軍事的エスカレーションの攻撃が最も集中する焦点が、沖縄−辺野古であることをハッキリさせなければならない。
現在、在日米軍基地の75%が沖縄に存在しているしているという事実は、在沖米軍基地が日米安保体制の最大の実体をなしているということを示している。しかも面積が日本全土の1%にも満たない沖縄本島に集中しているということと合わせ考えれば、沖縄の米軍基地問題が「本土」の米軍基地とは単に量的な違いだけではなく質的にも異なっていることがわかるであろう。まさに沖縄の基地問題は、日帝の沖縄政策=沖縄差別の今日的現実の最大実体をなしているのである。
沖縄は沖縄戦による米軍の占領から、サンフランシスコ条約3条によって「本土」と分断されて全面的な米軍支配下に置かれた「4・28」体制、そして1972年のペテン的「返還」による現在の「5・15体制」の下で一貫して米軍基地の重圧と、そこから派生する事件・事故・被害の犠牲となってきた。そして今日の「5・15体制」そのものが、現在の米軍再編と改憲攻撃の過程で急激な変貌を遂げつつある。その最大の攻撃が、辺野古に新たな軍事基地を建設するということである。それに対して地元辺野古の住民を中心に沖縄人民をはじめとした日本の労働者・人民の運動と闘いが広がっていきつつあることは、実に重大なことである。それは、辺野古闘争が現在の沖縄闘争の最基軸−最先端かつ最大の闘いとして位置しているということに規定されている。すなわち、辺野古闘争は沖縄闘争の今日的な攻防の最大の環をなしているという意味で、沖縄−辺野古闘争なのであり、米軍再編を粉砕し、改憲を阻止していく極めて決定的で重大な闘いだということである。
 
 
第二節 沖縄問題の本質と沖縄闘争の意義
 
(1) 沖縄問題の本質−日本帝国主義の沖縄に対する構造的差別体制と差別政策
今日の沖縄問題の本質を明らかにするにあたって、まず押さえなければならないことは、日本帝国主義の下における沖縄問題ということである。
沖縄現地で現在起こっているさまざまな過酷な事態の最大の根源は米軍基地の存在である。裏返して言えば、米軍基地がなくならない限り、沖縄現地の基地に関連した事件・事故・被害はなくならない。一口に事件・事故・被害というが、当事者である沖縄県民にとっては過酷極まりない現実なのである。こうした不安・不満・怒りが蓄積が、島ぐるみの闘いとして爆発するのだ。
復帰闘争の過程におけるコザ暴動(1970年12月)や数度の全県ゼネスト、ペテン的「返還」後の今日にあっては、1995年の少女暴行事件に対する10・21県民大会での10万人決起、2007年の沖縄戦を歪曲するための教科書書き換えに対する9・29県民大会での12万人決起等々は、このような沖縄の過酷な社会的現実に対する沖縄県民の耐えがたい怒りの爆発なのである。米軍再編・強化の中で、基地を根源とする事件・事故・被害がますます頻発し、深刻化していくであろう事は目に見えている。軍事監獄とも言えるような沖縄社会の圧迫状況に対し、これまで以上に県民の激しい怒りが爆発していくこともまた明らかである。このような沖縄人民の怒りの爆発に対して、「本土」人民がどのような姿勢と態度を示すのかが、「本土」人民自身の人間性と自己解放性を問うものとして痛烈に突きつけられているということについても確認しておきたい。
日本帝国主義による沖縄差別(沖縄に対する構造的差別体制と差別政策)は、日帝本国内部における独特の民族問題という形態を取っている。それは1609年の薩摩の琉球侵攻による琉球の属領支配(封建制としての徳川幕藩体制下における鎖国政策と当時の中国=清と琉球との冊封関係に規定された形態)によって生み出された「異民族」的な形をとった沖縄差別を継承し、日本資本主義・帝国主義の形成・確立の過程で構造的に再編し、固定化したものであった。琉球処分と旧慣温存政策−日清・日露戦争と宮古の人頭税廃止運動・謝花昇らの沖縄民権運動、等々は、この過程を具体的に象徴する歴史的事柄であり、メルクマールである。
日帝の沖縄差別体制−差別政策は、そもそも日本の資本主義形成・確立と帝国主義段階への推転過程において形成・強化=強制されてきたのであり、1945年の沖縄戦における県民の3人に1人という20万人の死という事態はその極致であった。
敗戦帝国主義の日帝は、日米安保体制の確立とその実態的支柱としての沖縄の軍事分離支配体制の上に、朝鮮戦争における特需をもテコとして「4・28体制」として沖縄政策を復活してきた。このもとで1972年に至るまで軍事占領と変わらない過酷な「基地の島=沖縄」の現実が強制されたのだ。
現行の日米安保体制は、1972年5月15日のペテン的「返還」体制(5・15体制)に支えられて成り立っている。この沖縄「5・15体制」は、「4・28体制」という名実ともに米帝−米軍支配による軍事分離支配体制が沖縄県民を先頭にした全国的な本土復帰闘争の高揚によって破綻の危機に追い込まれたことに対し、ペテン的「返還」によって日帝支配下に沖縄を取り込み、あくまで軍事分離支配を貫くものとして再編・再確立されたものである。1996年の日米安保共同宣言(安保再定義)とそれに基づいたSACO(沖縄の基地問題に関する日米特別行動委員会)合意、その具体化としての辺野古への新たな基地建設は、「5・15体制」のほころびも含めて新たに再編・強化することに他ならない。
このように日帝の体制的危機が激化すればするほど、沖縄差別が露骨化し、激しくなっていくということを押さえる必要がある。
総じて言えば、沖縄問題の本質とは、日本帝国主義による沖縄差別(日帝の沖縄に対する構造的差別体制と差別政策)ということである。この下で沖縄県民は、在「本土」の沖縄出身者とその「二世・三世」も含めて塗炭の苦しみを強制され、辛酸と苦汁を舐めさせられて呻吟してきたし、今現在もそうなのだ。
 
(2) 沖縄闘争の意義−日帝打倒闘争としての沖縄闘争
沖縄問題の本質=根源が日帝による沖縄差別(日本の帝国主義体制の支柱としての沖縄に対する構造的差別体制と差別政策)にあるということは、その対偶的関係において、沖縄問題の本質的=根底的・全面的な歴史的解決が、沖縄差別を貫き成立している日本の帝国主義支配体制を打倒し、差別的な「本土」−沖縄関係を転覆し、日本革命を実現していくこと意外にはありえないということである。このことは、現実的には日帝による沖縄差別のさまざまな具体的表れに対して個別的に闘うと同時に、それが沖縄闘争の内実を実体的に表現しているという意味で沖縄闘争の一貫として位置付けて闘い、そしてそのような個別的闘いを媒介しながら沖縄闘争としての沖縄闘争をつくりだし発展させ、日帝国家権力を打倒し、日本革命を実現していくことである。
「4・28体制」としての軍事分離支配体制の下にあっては、米帝−米軍が沖縄を直接に統治=支配する、あるいは琉球政府という傀儡(かいらい)を媒介して統治=支配するということに対して、沖縄県民は米軍=異民族支配から脱却し、「4・28体制」としての軍事分離支配(米軍基地の維持・存続と自由使用)を突き破って日本に合流するという願いを込めて、沖縄闘争を「本土」復帰闘争として高揚・発展させていった。
重要なことは、「本土」復帰闘争の核心が軍事監獄とも言うべき基地沖縄からの解放=軍事分離支配体制の打破にあったということである。したがって「本土」復帰闘争は、沖縄に軍事分離支配体制を強制し、その上に成り立っている日帝を変革し、沖縄差別のない日本社会を実現し、そのような日本に復帰していくことを本質的・根底的に有していた。このような本質を持った「本土」復帰闘争の指導理念は、わが革共同の「本土復帰・基地撤去・永久核基地化粉砕=沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線であり、そのようなものとしてしか「本土」復帰闘争は自己を貫徹し実現していかざるをえないものとしてあったのだ。
だがしかし現実的には、復帰闘争はその指導部であった復帰協指導部の社共的性格を帯びた指導理念(「子が親元に帰る」といったような)の限界性=日本の帝国主義体制の下への「復帰」によって歪曲させられていった。日帝=佐藤首相は歪曲された「復帰闘争」=「復帰協運動」の弱点を逆手にとって、米軍基地を存続させたままでの領土的返還という形で1972年5・15のペテン的「返還」を実現した。復帰協指導部は、日帝の下への「復帰」が佐藤のペテン的「返還」に完全に取り込まれ、自己の「復帰協運動」すら総括できずに解散し、敗北していった。
ここでハッキリさせなければならないことは、復帰協指導部によって歪曲された「復帰協運動」が敗北・解消していったのであって、沖縄人民の自己解放的要求として軍事分離支配を打破し、日帝を打倒し、復帰を実現していくという本質を持った復帰闘争は、むしろ「5・15体制」下にあって、そのペテン性を暴き出しながらさらに発展させていかなければならない、ということであった。
これに対しわが革共同は「われわれの5・15宣言」として「本土」復帰闘争の永続化を掲げ、「米軍基地撤去=5・15体制粉砕・沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」としてこれまでの戦略的総路線を継承しながら「5・15体制」下に対応した新たな戦略的総路線を打ち出していったのである。
こうした復帰闘争の展開過程から明らかになったことは、@「5・15体制」そのものが、新たな軍事分離支配体制なのだということ、A「5・15体制」はそれまでの名実ともに米帝−米軍による直接的な軍事分離支配体制が、沖縄人民の「本土」復帰闘争の実力闘争的発展とそれと連帯した全国的高揚によって破綻の危機に瀕し、その立て直しであったということ、B米軍支配の本質は維持・貫徹し、形式的には施政権返還をもって日帝の下で統治するという形をとった軍事分離支配体制であるということ、Cさらに言えば、日米安保体制を外側から支えていた在り方から安保そのものの内部において支えるといった在り方へ転換されたということであり、D沖縄の軍事分離支配体制そのものが、日帝の伝統的な沖縄差別が戦後的にも貫かれ、集中的に体現されている最大の実体であるということ、等々である。
わが革共同が「5・15宣言」で打ち出した「米軍基地撤去=5・15体制粉砕・沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線は、沖縄差別の根源である日帝を打倒し、日本革命を実現していくといった沖縄闘争勝利の戦略的総路線であると同時に、日本革命の戦略的総路線としても圧倒的に正しい、不動の路線である。この戦略的総路線は、今日の沖縄をめぐる情勢下における辺野古への新基地建設を絶対に許さない闘いを最先端−最基軸とする沖縄闘争の展開によって切り開かれ、実現されていく。そのような客体的条件が日々生み出されており、またそのようなものとして主体的に形成していかなければならない。
それゆえに沖縄闘争勝利の主体的条件を形成していくために、沖縄奪還闘争の今日的再確立へ向けた諸課題を明らかにしていく必要がある。
 
第三節 沖縄奪還論の形成とその今日的再確立
 
(1) 沖縄奪還論の確立と展開
 
革共同による沖縄闘争への取り組みー沖縄奪還論の形成は、1964〜65年頃から始められた。革共同第3回大会における「戦後帝国主義世界体制の根底的動揺と日帝のアジア侵略」という時代認識の確立に踏まえた「安保粉砕・日帝打倒」の戦略の実践的貫徹の過程を通して、そしてまた、沖縄県民の「本土」復帰闘争の全県的・全国的高揚を主体的に受けとめることを通して沖縄闘争の持っている位置の決定的重要性があきらかになってきた。そして68年の本多書記長による「沖縄解放の綱領的諸問題について」で革共同の沖縄闘争論の基礎が築かれ、その上に立って68年11−12月において明確に沖縄奪還論として確立されたのである。
沖縄奪還論の確立にとって重要なポイントは、@安保粉砕・日帝打倒の戦略の物質化のために徹底的に闘いぬいていく中で、沖縄問題の重大性と沖縄闘争の戦略的基軸性が明らかになってきたということ。A「本土」復帰という米帝の軍事分離支配下における沖縄県民の苦悩と意識、闘いに肉薄し、学び、自らのものとして受け止め、ともに闘っていくという原点的立場と原則的在り方を確立したということ。したがって「本土」復帰闘争を沖縄県民とともに連帯して闘っていくと同時に、何よりも「本土」人民の責務であり、自己解放の闘いにとって不可欠な課題として沖縄闘争を闘っていくということ。そしてB沖縄闘争を安保粉砕・日帝打倒の戦略的基軸として爆発・発展させていくということである。このような沖縄闘争の内実に踏まえ、徹底的に発展させていくものとして「本土復帰・基地撤去、永久核基地化粉砕=沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線を確立し、闘いを発展させていったのである。
 
●7.7自己批判と9.25皇居突入闘争
沖縄奪還論は、70年における革共同の「7・7自己批判」と71年9・25における沖縄青年委員会の皇居突入闘争によって、さらに発展させられた。
「7・7自己批判」は、革共同の「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領を深化・発展=豊富化させた。それはプロレタリア国際主義の内実を形成するものとして日本の労働者階級・人民大衆がアジア人民の糾弾をしっかりと受け止め、血債を貫いて闘っていくという内容と立場を鮮明にさせた。この立場から入管闘争を具体的に闘い、苦闘することを通して確立したのが、「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」という戦略的総路線であった。そしてそれは、「アジアを反帝国主義・反スターリン主義世界革命の根拠地とせよ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の総路線と一体のものとして提起されたのである。
この「7・7」の思想と精神は、沖縄奪還論にも貫かれ内容豊かに発展させられた。とりわけ沖縄問題を日本帝国主義本国の抑圧民族内部における独特なかたちをとった民族問題として本質的に規定することを通して、沖縄県民もまたアジア人民に対して血債を負っていることを鮮明にさせたことは重要であった。このことによって、沖縄戦線おける独立論ないしはそれに準ずる傾向の人たちがアジア人民に対する血債の立場を不問に付したり、曖昧にしたりするようなことに対して根底的批判を貫くものとなった。また「7・7精神」は、「本土」−沖縄の帝国主義体制における分断・差別をうち破って生き生きとした内実をもった真の一体性を形成していく在り方を鮮明にさせた。
71年9・25における沖青委の皇居突入闘争は、9・26天皇訪欧によって沖縄闘争=「本土」復帰闘争の全国的高揚を圧殺しようとすることに対して、「戦犯天皇=ヒロヒト糾弾、天皇訪欧実力阻止」を掲げ、沖縄の空手の武器であるヌンチャクを持ち、3人の沖縄出身青年と全学連の学生がともに皇居坂下門を突破した闘いであった。日帝による沖縄差別の歴史が、皇民化教育などの天皇制による差別と圧殺であったことを考えれば、それはあまりにも当然の闘いであった。復帰闘争の本質が沖縄差別の根源である日帝を打倒する闘いであるということは、日本の帝国主義体制の国家形態=政治体制の基本である天皇制・天皇制イデオロギーを粉砕し、打倒していくことが基軸に貫かれなければならない。沖青委の皇居突入闘争は、「戦犯天皇糾弾、天皇制・天皇制イデオロギー粉砕=沖縄奪還」として鮮明にさせた。
沖縄奪還論の深化という点で、70年代の沖縄闘争の発展過程で勝ち取ってきた今ひとつの重要な内容は、「7・7精神」の貫徹を通して明らかにした「日本帝国主義本国の抑圧民族内部における独特の民族問題」という沖縄問題の特質にかかわる規定である。これは、沖縄戦による米軍占領支配を継承し再編した「4・28体制」という米軍の軍事分離支配体制が、「天皇メッセージ」にも示されるように、日帝の戦後的延命と成長・発展のために積極的に承認されたことが戦後の沖縄問題の実態であることを出発点としつつ、このように沖縄を犠牲にして成り立っている軍事分離支配体制が、沖縄戦を極致とした日帝の伝統的な沖縄差別にあることを逆規定的に捉え返し、現在の沖縄問題の特質を「本土」−沖縄の分断・差別・抑圧の関係が「民族」的形態をとって貫かれているものとして、「日本帝国主義本国の抑圧民族内部における独特の民族問題」と規定したということである。
したがって沖縄問題の本質的(歴史的=根底的・全面的)解決は、「本土」−沖縄関係の革命的転覆=日帝打倒を通してしか実現し得ないということをハッキリさせたのである。
 
(2) 沖縄闘争の歴史的総括と沖縄奪還闘争の今日的再確立の核心点
 
●復帰闘争の歴史的総括
1969年11月の佐藤訪米を通じて、ペテン的「返還」政策が具体的ににつまってくる中で、復帰協指導部は「核も基地もない返還」を掲げた。しかしそれは、ペテン的「返還」に取り込まれていくことに対する弱々しい抵抗でしかなく、日帝の下への「返還」を前提とするものであった。これに対し、労働組合や闘う大衆の中から「反戦復帰」のスローガンが掲げられるようになってきた。これは、ベトナム反戦闘争と結合し、「本土」復帰闘争があくまで米軍基地撤去=軍事分離支配体制打破の本質的核心を貫いてペテン的「返還」政策を粉砕し、「本土」人民と合流していこうとする苦闘の中から生み出されてきたものだった。
まさに不屈・非妥協に闘う沖縄人民の中から必然的に打ち出されてきたスローガンであり、沖縄奪還論の内容を大衆自身が苦闘する中から実現しつつあったのである。事実、沖縄現地における「反戦復帰」の闘いは、復帰協指導部の制動を突き破って、火炎瓶の炸裂や労組隊列の戦闘的デモなどで街頭を制圧し、金網フェンスを乗り越える基地突入=基地実力奪還闘争も展開されていった。1971年には沖縄人民の中でも、米軍基地の矛盾を最も鋭く体現していた全軍労の労働者は、牧港支部青年部の数百を先頭に白ヘルメットで武装し、「解雇撤回=基地撤去(「死すべきは基地である。労働者は生きなければならない」)の基地内ストライキ決起=基地内実力デモを貫徹して基地機能を麻痺させ、基地の外で闘う労働者・人民の闘いと呼応した。そして、一般の県民大衆もそうした闘いに拍手を送りながら、それを大衆的に包囲し、支えるといった構図が生み出されていった。すなわち「沖縄ソビエト」の樹立も可能であるような現実的状況が、沖縄における「反戦復帰」闘争の戦闘的展開として生み出されていたのである。
ここで問われたことは、@革共同の党的未成熟、A沖縄現地の闘いと連帯・呼応した「本土」における沖縄闘争の弱さ=圧倒的立ち後れ、ということが核心的な事柄であった。革共同の党的未成熟という問題は、歴史的制約に規定されたものではあったが、それでもなお痛苦な現実であった。革共同の党的飛躍と強化、沖縄闘争に対する党的責務という厳然たる課題が突きつけられたのである。「本土」における沖縄闘争の圧倒的立ち後れという問題は、ベトナム反戦闘争や大学闘争、そして三里塚闘争などと結合して沖縄闘争が実力闘争として大きく発展しつつあったし、とりわけ69年・71年の「2つの11月」決戦は極めて決定的闘いであったが、にもかかわらず沖縄現地の質と量に比べれば、まだまだ不十分性をまぬがれなかった。この面でも革共同の党的飛躍と強化、労働運動をはじめとするあらゆる労働者人民の運動と闘いの中でともに闘い抜いていくことを通して革共同に対する信頼を獲得し、影響力を確立していくといった課題が核心的に突きつけられたのである。
1972年以降の「5・15体制」下の沖縄にあっては、反CTS闘争や海洋博闘争、沖縄国体における知花昌一氏の「日の丸」焼却の闘い(87年)、軍用地強制使用を拒否する反戦地主の闘い、「少女暴行事件」に対する95年10・21県民大会10万人決起、辺野古新基地建設に反対する名護の住民投票、沖縄戦における強制集団死の事実を歪曲しようとする教科書検定に対する07年9・29県民大会12万人決起など、連綿と闘いが続いている。こうした闘いに革共同は内在的な関わりを通して闘いの発展を切り開いていくことを追求してきたが、実際にはほとんど外在的にしか関わることができなかった。のみならず、闘いの決戦的局面における「本土」からの党的動員は、その闘争的意義と役割を果たしながらも、沖縄における党の建設・強化という面においては、その代行主義的在り方に規定されて、むしろ県委員会へ重圧としてのしかかり、部分的には押しつぶすというような事態も生起した。こうした現状を打破せんと、革共同沖縄県委員会は地道に克服する努力をしてきたにもかかわらず、その後の革共同中央の無指導の上に、今や安田派の急激な変質のもとで苦闘を余儀なくされているのが現状である。
 
●沖縄県民の「自決・自己決定権」について
 〜(下)において全面展開する〜
ここで95年の軍用地闘争における代理署名を拒否する太田知事の闘いに対して、日帝=橋本が強権を発動して屈服させようとしたことに関して浮上してきた沖縄県民の「自決・自己決定権」に関する問題についても、奪還論の深化・発展という観点から明らかにしておきたい。
95年を前後する沖縄米軍基地をめぐる情勢は、朝鮮戦争の切迫化の中で安保再定義=新安保宣言が打ち出されるような状況であった。在沖米軍基地の比重が飛躍的に高まり、基地機能は一秒たりとも揺るがせにできなかった。そうした中で、基地の使用契約期限切れが迫り、日本政府は基地使用の延長=再契約をスムーズに行う必要に迫られていた。しかしその矢先に反戦地主と反戦地主会が再契約拒否=土地奪還の闘いに立ち上がり、多くの県民がそれを支持して闘いに決起した。「知事の反乱」と言われた太田知事の代理署名拒否の背後には、こうした反戦地主を先頭にした県民大衆の闘いがあった。しかし太田知事は、県民大衆の軍用地強制使用に反対する怒りと闘いに依拠して代理署名拒否を貫くのではなく、逆に県民大衆の闘いを行政的取引の材料にすることで、日帝=橋本の強権発動攻撃に屈したのである。
ここで問われたことは、軍用地強制使用絶対反対という沖縄県民大衆の自決=自己決定権を貫いて日帝=橋本との激突をおそれず闘いを発展させていくのか、それとも日帝の法制にふまえた強権発動に屈するのかということであった。これはもはや行政の枠を突き破って革命の立場によってしか県民の自決=自己決定権を貫くことはできないということであった。
沖縄奪還論は、もともと県民の自決=自己決定権を、その内実を貫く県民の自己解放性として内包していた。だが95年の軍用地闘争において県民大衆が具体的に自決=自己決定権を鮮明にしてきたことに対し、われわれは奪還論に内包されていた自決=自己決定権を改めて鮮明にさせ、その立場から県民大衆の意識と闘いに結びついていく必要性に迫られていた。96年における革共同中央での自決=自己決定権をめぐる論議は、沖縄の闘いの現実にふまえ、奪還論をさらに深め、奪還闘争を大衆的に発展させていくために革命的転換を勝ち取っていこうとするものであった。
 
●「本土」における沖縄出身者の闘い
「本土」においては、1960年代末の沖縄闘争学生委員会の運動と闘いを革命的に継承するものとして1970年代以降沖縄青年委員会の運動と闘いが発展していったが、二重対峙・対カクマル戦−先制的内戦戦略の下で、内戦の勝利的展開と発展に対応して、沖青委運動も大衆運動として解き放たれていくことが求められた。こうした課題に応えるものとして、90年に全国沖縄青年委員会が結成されたのである。
全国沖青委は、@沖縄闘争を基軸にした政治闘争への決起と発展、A労働運動や部落解放闘争、三里塚闘争など諸闘争との階級的共同闘争の推進、B在「本土」沖縄県人の生活と権利を防衛し、文化運動の展開なども含めて紐帯を強めていくこと、という三本柱をうち立てた。そうした課題を実現していく一環として、東京都の杉並区議会議員選挙に沖縄出身の新城節子さんを候補者として押し立て、決起していった。
このような全国沖青委運動の展開の中で、沖縄現地の闘いと一体のものとして、在「本土」沖縄出身者の存在、およびその運動と闘いを捉え返し、沖縄闘争の有機的一環として位置づけることを明確にしていった。そしていわゆる「二世・三世」や奄美出身者もその主体的担い手として、ともに運動と闘いを展開していったのである。
先制的内線戦略の第二段階とその勝利的発展、さらに90年天皇決戦を闘い抜いた日本階級闘争の新たな地平において、革共同に突きつけられた巨大な壁を、革共同は「5月ガイド」をもって突破していくことを提起した。それはレーニン的オーソドキシーの下に先制的内線戦略を位置づけ直し、党活動の重心を大衆運動に移し、集中的に展開していくというものであった。しかし、革共同が長期にわたる内戦の中で、歪曲し蓄積してきた軍事主義的な在り方も含めた代行主義を克服し、正しく解き放ち、大衆運動に転換し、生き生きと発展させていくということは極めて困難であった。それは、自ら陥っていたスターリン主義的な継続的在り方を対象化し、主体的に克服していこことの困難性であった。否、それどころか自己を対象化し、切開しようとすら出来なかったのだ。
革共同の「5月ガイド」的転換の困難性は、全国沖青委運動にも色濃く残り、三本柱としてうち立てた課題の鮮明さにもかかわらず、それを真に大衆運動として展開していく実践的能力を十全には形成することができなかった。全国沖青委はこの壁を突破して、在「本土」沖縄出身者の広範な大衆との接点をつくりだし、交流し、沖縄出身者がおかれている社会的現実と問題意識を正しく把握し、それにふまえて大衆と共に運動と闘いを組織し、外に向かって解き放ち発展させていくことができなかったのである。現在、その壁を突破する努力と挑戦が、在「本土」沖縄出身者の新たな革命的運動と闘いの創造を目指して続けられている。
 
いずれにしても、沖縄奪還論の今日的再確立にとって最も核心的なことは、奪還論を物質化することのできる党的体質と能力の形成ということだといえる。すなわち、大衆がおかれている現実と問題意識を正しく把握し、そこに徹底的にふまえながらともに考え、ともに闘い、それ自体を奪還論の内実としていくような体質・在り方・考え方と姿勢・態度を形成し、貫徹していくことである。この核心を原則的かつ柔軟に貫いて、奪還論の諸課題を理論的に明らかにし、実践的に物質化していくことである。
こうした観点から、われわれは第四章以降において、奪還論の今日的再確立のための諸課題を明らかにし、実践的方針として確認していくことにする。(つづく)
(展望5号掲載)