日帝の体制的危機と対決する戦闘的労働運動の課題
 牧 野 良 雄
08春闘を前に3全総来の労働者メンバーである牧野同志を囲んでの学習会が行われた。労働運動の戦闘的再生のための全課題を縦横に述べた報告である。
 
はじめに
 
このところ、安田派は、「プロレタリア革命は労働者階級の事業なのだから、労働者党員が党の主人公である」ということを一面的に強調しています。そしてインテリ出身の党員や職業革命家をその下に置くような傾向がでてきています。
革命運動の大きな推進力は、インテリ出身の党員、職業革命家、労働者党員の共産主義的共同性によって担われるといのうが革共同の伝統であり、レーニン主義の労働者党、共産主義者の党の姿であることをはっきりさせねばなりません。06年3・14決起とは、革共同の中央指導が、長い間、労働組合運動を本気で取り組まず、そのことが労働者細胞を基礎とした党建設を遅らせてきた現実を改革するためでもあったのですが、この3・14決起に対する反動を扇動し、党員を分断する安田派の「労働者党員=主人公」論を許してはならないと思います。
そして労働組合運動の組織化を正面課題にして、労働者党員とインテリ出身の党員や常任・専従の党員が一致協力して、取り組もうではありませんか。常任同志の中には、労働組合運動をやった事がないと苦手意識もあると思いますが、とにかく始めることです。労働運動を正面課題として対象化してもらいたいという気持で熱烈に提起させてもらいます。
 
(T)戦闘的労働運動を破壊する安田派の手口
 
●スト権ストの評価について
問題は二つあります。
一つは、これは07年9月9日から10日にかけておこなわれた全国労組交流センター第18回拡大全国運営委員会での中野洋(動労千葉顧問)発言です。そこで彼は、75年のスト権ストについて、「75年のスト権ストがなんでできたのですか。・・・(政府や財界は)体制内労働運動だから認めたのです。このことをわかってもらわなければ困る。私が富塚のかわりに総評議長をやっていたら、スト権奪還を掲げた8日間の闘いを認めるはずがない」(「月刊労組交流センター」2007年10月号)といっています。これをうけて、「中野さんは総評の責任者の立場に立ってものをいえるようなすごい人」という「ヨイショ発言」をする連中もでてきています。
実は彼は、この発言と同じことを『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』(2000年 アール企画)という本の中で書いています。そこでは「8日間のストライキにもかかわらず、日本経済と国民生活はマヒしませんでした。・・・飛行機、船、トラック、私鉄、タクシーはみんな動いていました。スト権ストというのは、総評労働運動の最後のあだ花だったと思います」と書いています。さて、この本が出たとき、そこのところを「この野郎!」って思った人はいますか。さっと読み飛ばしていると思います。本当は、直感的に「ここでいっていることは一体どういうことだ!」という思いがでてこないとダメです。実はここに中野洋という人の労働運動への敗北主義、労働者階級の不信が如実に表れているのです。この発言を単なるダボラですますわけにはいかないのです。
スト権ストは8日間にわたる歴史的な大ストライキです。動労カクマルの松崎明はストの間に国鉄当局の幹部といっしょにゴルフをやっていましたが、基本的に官公労は全部ストに入ったのです。日本の階級闘争の中で官公労の組合がスト権を奪還するために8日間にわたるストライキに入ったというのは歴史的なたたかいです。中野洋はそれを「俺が総評議長だったらスト権ストは認められなかった」といっているわけです。これはどういう意味かといったら、スト権ストというのは、総評議長の富塚が民同だったから、労働者のガス抜きのためにやらされた官許のストライキだったのだということなのです。
これほど労働者のたたかいを見下した分析はありません。たとえ民同によって指導されていたとしても労働者階級がこのたたかいに込めた決意とか、息吹とか、戦闘性とか、そこに秘められた革命性をつかみ取るっていうことがまるでない。だから「飛行機もトラックもみんな動いていた」(『前掲書』)と消耗感まるだしの総括しかできないのです。これが中野洋の労働運動の基本的な考え方です。革命家の見方ではありません。ここをちゃんと批判しきらねばだめです。
 
●実践方針の欠落した「新指導路線」
それからもう1つ。何でも○○路線にしてしまう傾向です。特に91年に「5月テーゼ」が提起されたあとから、その傾向が強い。その典型が、03年に提起された「新指導路線」です。これだけいわれてもなんの具体性もなく、実践的でもないから、いかようにも解釈出来るわけです。つまり路線というのは一目で見て、具体的にわかるものでなければだめなのです。
「新指導路線」の内容は当時の『前進』などでは「労働組合運動に党の力を傾斜投入して、党の総力を挙げた労働組合運動のたたかいに突入する」ということでした。それなら、「労働運動路線」といえばいい。そのほうがずっとわかりやすいし、そういっていた時期もありました。それをなぜ、新指導路線といったのか。実は、労働運動といっても「動労千葉防衛のための労働運動だけをやる」という正体をカモフラージュするためです。
革共同の路線は、「反帝国主義・反スターリン主義世界革命」です。その実現にむけた過渡的スローガン、戦略的総路線が、「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ転化せよ!」です。これは極めて具体的で実践的です。内乱を起こして、侵略を内乱でもって阻止する。革命を起こす、内乱を起こすという実践方針をはっきりと提起しています。それから「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒!」もそうです。日帝打倒に向けて過渡的スローガンのもとで闘うためにきわめて実践的に方針を出すのです。そのスローガンを実践する土台を形成する方針は、労働者階級の組織化であり、戦闘的労働運動の実践です。われわれはもっともっとここへ力を投入しなければなりません。現状はまったく不十分です。「戦闘的労働運動」といいましたが、それは戦闘的な労働組合運動として実現されていく。一般的に労働運動という領域はあります。ありますけれども「その実践方針は労働組合運動でないといけない」とそこまでいい切って提起をしないとだめです。そこがはっきりしないと、「労働運動で革命をやろう」と叫んでいるだけで、何をやるのかわからない、というようなものになってしまう。
つまり革命の綱領とか革命の戦略を破壊して、実践的には何の指導性も必要のないものにしてしまう。とくに安田派のこの間の傾向は、そうなってしまっている。ここを見すえて、われわれは革命戦略とか、革命の綱領とか路線とかいうものを形成していかなければダメだと思います。要は実践的方針だということです。実践方針を出さなければ革命党は何の意味もないということです。この2つの問題点を、安田派への批判として確認し、戦闘的労働運動を再生・創造する路線を、正しく豊富化していく観点としてしっかり押さえたいと思います。
 
(U)労働運動史のとらえかたについて
 
陶山健一同志の『反戦派労働運動(上)』(前進社刊)で「敗戦から1950年までの5年間の日本労働運動はスターリン主義が支配した、55年から今日まで、15年間日本労働運動は社会民主主義が支配した。1970年からは、この過去の両者を共に拒否し、乗りこえた新しい運動が、日本労働運動を指導するであろう。反戦派労働運動は、来るべき新しい時代の労働運動である」(90ページ)と明確にいっています。これが、三全総以来の革共同による労働運動史のとらえかたです。
さて、われわれと交流のあった斉藤一郎は、その絶筆となった『戦後賃金闘争史(下)』(1968年 三一新書)の中で、「羽田、佐世保とそれに続いた三里塚、王子闘争の中で反戦、反帝を合い言葉とする70年闘争はすでに始まっている。その中で戦後20年の解放運動、労働運動の逸脱と誤りを訂正する力が育ち始めている。」と反戦派労働運動への期待を表明しています。彼はそれまで、いろいろと労働運動史を書いてきたけれど、ナショナルセンター内の派閥争いとか政権交代とか、共産党批判だと、民同批判とか、そういう組合運動の指導部を中心とした労働運動史を書いていました。しかし、これじゃあ本当の労働運動史にならないと気がつくわけです。労働者がどんな情勢の中で資本とどんな具体的なたたかいをやったのかという歴史を掘り起こさないと、本当の意味の労働運動史にならないと気がつくのです。そこで彼は、自分の書いた『戦後労働運動史』を絶版にしてこの『戦後賃金闘争史』を書いて、これが絶筆となったのです。その最後の章が反戦派労働運動への期待の表明だったのです。
労働組合運動の歴史っていうのは、組合が百あれば、その歴史も百あるといっていい。どういうことかというと、安田派がさかんにいっているような、一つの優れた戦闘的な組合、たとえば動労千葉のたたかい方だけが勝利することができて、それ以外の組合のたたかい方では、すべて敗北してしまうなどというようなことはありえない。動労千葉のたたかいがあらゆる職場で全部通用するというようなことはありえないということです。産別、業種、職種のちがいで、たたかい方はちがいます。
たしかに動労千葉は、われわれのたたかいの精華です。しかし、それでも一つのたたかい方にすぎません。「動労千葉だけが国鉄分割・民営化と闘えた」と、自分たちの内部で総括するのは勝手ですが、「動労千葉いがいはすべて体制内化した」などといい出したら、百害あって一利なしです。
 
●斉藤一郎の『戦後賃金闘争史』
斉藤一郎は、労働者が資本と闘う現場をとらえて運動史をつかむべきだ、ということで賃金闘争に着目しました。賃金闘争というのは「金をよこせ」ということです。そのときの組合はどういう指導をし、どんなストライキをやり、どういう賃金体系を獲得したのか。それが負けたのか、勝ったのかということをつかんで、『戦後労働運動史』を書き直したのです。敗戦から1950年までの5年間は、日本労働運動をスターリン主義が支配した。それは産別会議というナショナルセンターの時代です。日本共産党が組織した運動です。敗戦後の5年間ですごい勢いで伸びます。最高時には163万人の労働者を組織しますが、最終的に1万6千人まで減少し、12年間でその歴史を閉じます。共産主義者がどれほどのたたかいがやれるかという観点から見たとき、産別会議の運動はわれわれが手本とすべきところがあります。敗戦によって獄中から出てきて、戦後革命情勢の中とはいえ、労働組合運動の先頭に立った共産党とその傘下の労働者たちのたたかいは、目を見張るものがあります。単に「共産党はダメ」というのでは話になりません。
 
(V)60年安保闘争以来の総評のたたかいと反戦派労働運動の前進
 
60年安保闘争や三井三池闘争にまでのぼりつめた階級闘争の高揚を圧殺する狙いをもって、64年に金属労協がIMF―JCを結成します。総評が官公労を先頭に、60年安保にまでのぼりつめた、その戦闘的なたたかいをつぶすために、ブルジョアジーは民間大資本の労組への支配力を強めたのです。それが民間大労組の右翼的な分裂攻撃でした。松下電機産業労組などは、当時は共産党が中央執行部で、電機の中でも戦闘的な組合だったのですが、そこへ元共産党指導部だった三田村四郎を雇い、職制を使ってインナー組織をつくり、バンバン組合をひっくり返していきます。彼らは温泉地などで合宿や研修会をやって作戦指導して組合組織を制圧していった。実はこの過程で反戦派労働運動が始まるのです。
この当時、自動車もすさまじい分裂攻撃でした。プリンス自動車が日産に合併される時、プリンス労組の日産労組への解体吸収をめぐる分裂攻撃なんかも激しいものでした。鉄鋼、造船、化学、でも同じような右派の組合支配が進みます。民間大資本の労働組合がIMF―JCを結成して、総評内の民間労組の戦闘的なたたかいが制圧されてしまった。総評・民同はこれに対抗できなかったのです。いったんブルジョアジーは成功するんですが、しかし事態はそう簡単じゃなかった。
 
●50年代の職場闘争と総評組織綱領草案
われわれは総評をさして、「民同はしょせん民同だ」なんていいますが、しかし官公労の労組の組合規約などに、一応社会主義をうたっている組合が多かった。それを実現するためには、「議会と労働組合の力で社会を変えよう」「資本に勝てる労働組合をつくろう」ということに、本気になります。それはそれなりのたたかいをやるのです。これをいい加減に扱っちゃいけない。労働組合の力で天下をひっくり返すためには、まず労働組合が資本に勝たなきゃいけない。資本に勝つにはどうするのだということで、職場闘争の組織方針を練り上げるのです。
そして彼らは、58年に総評組織綱領草案というのを作成します。これは、ものすごい事業で、社会党左派系を中心に、その当時の相当の力を投入し、全国のあらゆる労働組合の職場闘争を徹底的に調査します。そして、それぞれの職場にどのような問題があるのか、組合との関係で大衆がどんな不満を持っているかをリストアップし、分析を加えて、この組織綱領を作るのです。この組織綱領は、当時の総評議長だった太田薫が気に入らなかったようで、結局、「お蔵入り」になりましたが、全国の地区労の活動家たちはこの組織綱領草案を指針にして闘ったのです。そうした地道な取り組みが、三井三池の実力闘争や、60年安保闘争を爆発させていく基盤を形成していったのです。
 
●反戦青年委員会の登場と反マル生闘争の勝利
総評は、64年の4月、公労協の半日ゼネストをたたかいます。これは民間大資本の総評解体攻撃に対する反撃です。このとき、有名な共産党の4・8スト破り声明が出ます。総評は、共産党が震え上がるほどの激しいたたかいをしかけたわけです。総評はこれを貫徹し、スト破りに走った共産党員は処分されます。これによって共産党は多くの差別でその影響力を失います。
こうした情勢の中から、反戦青年委員会が誕生し、それが69年と71年の11月決戦をになう反戦派労働運動へと発展していくのです。
この過程で、69年の国鉄再建計画・生産性向上運動に対する反マル生闘争の戦闘的な高揚と、その闘争が70年10月に完全勝利するというすごいたたかいがあります。生産性向上運動とは、職場で労働者が勝ち取ってきた権利を全部奪う攻撃です。職制を総動員して、労働者を暴力的な「カンヅメ教育」によって、組合脱退を強制したのです。それを実に見事にひっくり返して粉砕するのです。その当時の職場長とか、先兵に動員された労働者たちを全部土下座させて、責任者を追放して、完全勝利します。これが実は69年とか71年のあの戦闘的息吹と一体となって、労働運動全体の高揚感を生み出したのです。反撃が始まった、負けてたまるかってことです。
その時代を闘った電機産業でのたたかいの記録として『光跡』という本があります。その当時の反戦派の労働者がどんなたたかいをやったのかということがよくわかります。あの時期、反戦派の産別集会をやると300名くらい集まりました。そして、69年と71年の「二つの11月決戦」が闘われます。この階級的高揚が、75年の公労協の8日間スト権ストへとつながっていくのです。中野洋は「総評労働運動はスト権ストで終わった」というけれども、実はそう単純じゃない。スト権ストからずり落ちた全逓は、78年に反マル生越年闘争に突入します。それまで「タブー」だった、年賀はがきの物ダメ闘争に突入するのです。現場でこの闘争を牽引したのは反戦派でした。
それから国鉄分割・民営化に対して、86年修善寺大会にまで登りつめる国労を守るたたかいです。動労千葉による2波の渾身のストライキをはじめとする、解雇された1047人の戦闘的労働者のたたかいです。分割・民営化を絶対認めず国鉄労働運動を守ろうというたたかいです。この1047人のたたかいが、国鉄分割・民営化を許さないたたかいとして長期に闘われ発展してきた。こうしたたたかいをになったのは基本的に反戦派労働運動の世代です。動労カクマルが国鉄労働運動破壊の先兵として登場しましたが、このときこそ、反戦派労働運動の発展の決定的チャンスだったのです。分割・民営化攻撃の「最弱の環」カクマルを切り落とすことが出来るか、分割・民営化攻撃の屋台骨をになうファシスト労組の存続を許すかをめぐる労働運動の歴史的な決戦だったのです。
60年安保から70年安保にいたる労働運動や、とりわけ70年以降の労働運動史は、ほとんど誰も書いていません。その当時の労働党だとか、共労党だとか、社青同解放派だとかが部分的に書いているものもありますけれども。やはり陶山同志や斉藤一郎がいったように、70年代とは反戦派労働運動の時代だったといえると思います。だから、2つの11月決戦以降のたたかいは、革共同の党としての指導責任が問われたのです。50年代の共産党や、60年代の社会党・総評への批判がわれわれに問われたのです。
実際には、二重対峙・対カクマル戦の中で、労働組合運動を主導する反戦派労働運動にたいする革共同の「指導」は非常に困難な状態になってしまった。ここのところは重要なテーマですから、ちゃんと検討していかなければなりません。われわれは二重対峙・対カクマル戦争の中でも、三全総路線を堅持し実践するという路線だったのですから。
 
●新たなナショナルセンター建設をめざして
次に、総評解散後のナショナルセンター建設の問題です。
89年に総評が解散に追い込まれ、連合が結成される。その時に共産党は全労連へ、そしてどちらにも「行かない、行けない」という国労や都労連などが全労協を結成します。われわれは89年に全国労働組合交流センターを結成しました。交流センターは、全国のナショナルセンターをめざしてやるのだということで結成されたのです。代表の佐藤芳夫さんはナショナルセンターをめざしてがんばっておられた。各地域の交流センターは地区労をめざすべきだったのですが、いつのまにか「目的はファジーでいい、活動家集団や組合フラクションでよい」とされるようになってしまった。
総評解散後、全逓解体を目的とした郵政民営化とか、自治労解体と一体となった「地方分権」攻撃、日教組解体をねらう教育基本法改悪などが次々と加えられてきましたが、これに対して連合幹部は「国労のようになるな」と恫喝して、たたかいを押さえ込んできました。
90年代の革共同のたたかいは、91年5月テーゼによって革命軍戦略から、「労働者の中へ」と路線転換を行なったのですが、その実践はなかなか前進しませんでした。
95年の阪神大震災に直面した革共同は、被災者支援闘争に全力で取り組む決断をしました。その年の2月には関西合同労組を結成され、「労働者の中へ」を実践する第一歩を踏み出したのです。個人加盟の合同労組の運動は、雇用破壊によって分断される労働者を労働組合に組織化する有効なたたかいであり、党として全力上げて取り組んだたたかいです。大庭伸介さんが書いた「今、労働運動はキミになにを求めているか− 非正規雇用と地域合同労組運動の可能性」というパンフがあります。これは、非正規雇用労働者の組織化の有効な武器です。これをちゃんと学習してください。
 
(W)戦闘的労働運動の現状と課題
 
●国鉄闘争と教育労働運動
まず国鉄労働運動です。
今年1月23日に全動労判決、3月13日に鉄道運輸機構訴訟判決が出て、1047名闘争は正念場となります。これを最後の勝利まで徹底的に闘うということだと思います。5・27臨大弾圧裁判のたたかい、それから、尼崎事故から3年目になりますが、合理化とたたかい、安全を守るための職場闘争をたたかうことです。
教育労働者のたたかいは今、大変な段階に入っています。「革共同関西党員総会報告・決定集」の135ページに、月谷同志の「教育現場からの報告」があります。教育労働者が、労働組合運動をやろうとしたときに必ずぶつかる問題が全部この「報告」にあります。「俺たちは賃金労働者なのか」ということからはじまるのです。教育労働者はモノを生産する労働者ではない。しかしその労働は、完全に賃労働なのです。強労働を強制され、未払い労働をやらされて、へとへとになって病気になる教師がたいへん多い。こういう過酷な職場になっている。だから彼は、現場で労働者の権利や労働条件をめぐる要求闘争を組織し、職場闘争で団結を形成していかなければならないといっているのです。
教育労働運動が高揚するときに必ず出てくる議論が、「教師の労働は賃労働ではない」とか「教育労働運動の特質性にふまえなければならない」というの議論です。「政治闘争としての教育闘争が教育労働運動なのだ」という人もいます。しかしこれは、対立的な問題ではないと思います。職場の団結とか、職場の要求闘争から月谷同志は始めるといっています。労働基準法だとか労働法を守らせるたたかいから、職場・分会の団結を作りだそうとを彼はいっています。職場闘争もやる、「教育実践」もやる、そういうことだと思います。
昨年9月、沖縄戦において日本軍が自死を強制したという記述を削除させる教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民12万人決起がいかに実現されたのか。そこには沖縄高教組を先頭とする教育労働者のたたかいがあります。それが日本軍による自死強制を消し去った教科書による授業の強制を、ぎりぎりのところで拒否する切迫した決起だったからこそ、県民の激しい怒りと結びついた。そして島ぐるみの12万人決起を実現することができた。日帝の沖縄支配に対する沖縄県民全体の怒りの爆発だったのです。
1957年、勤評闘争の前年に、日教組は非常事態宣言を発しています。翌年の1958年から群馬や和歌山、高知で激しい闘争が県下全校、全分会、そして地域の保護者の総決起で闘われたのです。教育労働運動というのは、やはり職場・分会の団結の形成と、それ以上に地域や保護者との結合がたたかいの発展の条件になります。沖縄のたたかいの核心もそこにあると思います。そういうことを労働運動として学ばなければいけない。
 
●自治体労働運動
自治体労働運動もやはり同じような面があります。地域住民の利益を守る労働運動という側面があるのです。もちろん民営化反対とか、現場の要求闘争とか、組合運動の戦闘化とかいうようなことがありますが、やはり地域住民と共にたたかう自治体労働者の運動ということを打ち立てないと、階級的にたたかえないと思います。権力、行政が労働者の権利を抑圧するために、「住民のために働け」ということを攻撃に使いますが、それに先んじて、われわれはこの領域で新たな挑戦をやらなければならないと思います。
 
●郵政労働運動
郵政労働者のたたかいは、民営化された職場における権利破壊、労働条件の悪化、管理職による専制支配等をめぐる職場闘争、非常勤労働者・ゆうメイトや下請労働者の組織化に全力あげて取り組むことです。組織化の方針は「報告集・決定集」の133ページに掲載されている国崎同志の「ABC論」です。あれは30年間の実践の中でつかんだ、労働組合運動論です。そこでは次のように述べられています。
「分会の基礎的団結形成のたたかいをわれわれが引き受けて闘うこと《A領域》
その中で形成される良心的、戦闘的、意識的な職場の仲間との支部、分会運営をめぐる信頼関係の形成《B領域》
《A》のベースの上で《B》を分会の基本会議としてともに運営して活動家集団を形成し、その中の意識的な活動家をフラクションに組織していく《C領域》というオーソドックスなやり方が、回り道のようでも一番堅実なやり方です。『職場に1人しかいない』ことを嘆く必要はないのです。」
 
●地域医療と労働組合運動
次に民主的医療や地域医療と労働組合運動の課題を検討したいと思います。地域住民とともにつくった病院、つまり党が経営している病院では、その経営難の解決を優先すると、労組としての要求闘争を抑制することになり、組合員から厳しい批判を受けることになります。国や行政を相手どったたたかいだけでは、病院で働く労働者の権利を守り要求を実現することはできないと思います。日本共産党の民主医療労働運動は、長い歴史がありますが、そのほとんどは医療生協に労組を解消し、労働者を「経営者の立場」に縛りつけて支配しています。民主的医療を標榜する経営者の責任は、そこに働く労働者の権利と生活を守り、労働組合の活動を奨励し、労組と共同で地域住民の医療を守っていく力を持たねばなりません。経営の困難を労働者に押しつけるのではなく、労働組合の力を強化して、経営の徹底した民主化をはかり、病院で働くすべての人の公平・平等の原則を確立し、労働組合の経営への参画に大胆に挑戦することだと思います。したがって労働組合は、労働者の要求に基づく原則的な組合活動をゆるぎなく推進し、その要求実現のためにストライキでたたかう労働組合でなければならないと思います。きれい事ではやれませんがやはり原則的に取り組むということだと思います。
 
(X)日帝ブルジョアジーによる構造改革、「政界再編」と体制危機の深まり、階級的激動情勢について
 
いまの情勢をどうとらえるのか。安田派は「世界は革命情勢だ」と何の論証もなく空叫びしています。こんな主観主義はありません。彼らは「革命情勢だ」といえば「勝ちだ」と思っているようですが、革命情勢というのは、帝国主義の経済危機と政治危機を分析し、それに対する労働者階級人民の主体的たたかいが、体制を打倒する力を持つたたかいとして巻き起こっているのかを分析して、判断するものです。
現在の情勢の重要な指標は、07年の参院選における自公政権の惨敗という結果です。これを党としてどうとらえるか。07年参院選は、非正規雇用とか、派遣とか、格差社会とか、ワーキングプアーといわれるすさまじい生活破壊に対して労働者が投票という形で断を下したのです。それと同時に、「日本の農家を300万戸から40万戸に減らす」というすさまじい農業破壊に直面した農民が死活かけて帝国主義にノーを突きつけたということです。80年代以来、たたかいらしいたたかいがない中で、ついに労働者・農民がその意志を示したと思います。それはこの20年間で最大の地殻変動が起こったといっていいと思います。
海上自衛隊のペルシャ湾沖での給油問題でも、ガソリン税でも、対テロ特措法でも、参院選の結果が自公政権を締め上げ、勝った民主党も縛りにかけて、何一つまともに進まない。読売新聞の渡辺恒雄がしかけた「自民と民主の大連立」構想はブルジョアジーのあせりをよく示しています。こうした階級的な力関係が、いつまで続くのかということはもちろんあります。そこは具体的な闘争を起こして、組織的な力に転化していかねばならない。
現在の情勢は、革命的激動情勢です。そこにおける革命党の責任は、この激動情勢を労働者と農民の組織的たたかいに発展させ、政治闘争との結合を追求することです。大衆運動を統一戦線の拡大を軸に発展させ、きたるべき改憲阻止決戦の準備を進めることです。すなわち、たえずプロレタリア革命の勝利に向けて、階級的力量を増大させていく実践的な闘争と組織の方針がわれわれには要求されているのです。
 
(Y)戦闘的労働運動の組織化とその実践方針
 
戦闘的労働運動の再生・創造に向けた実践的な方針は次の三つにまとめることができると思います。
第一に、労働者階級の中に根を張った労働者細胞を土台にした労働者党の建設です。第二に、職場・生産点の要求闘争からはじまり、組合づくり、職場組織づくりをとおして、拠点をつくりだすことです。これを「第2第3の動労千葉をつくろう」といってきました。第三に、統一戦線を発展させその基軸をにない、階級の前衛としての責任を果すことです。
以上の三つを党の全力をあげてやるということは、労働者階級の中に入り、党の「堅実で全面的な発展のたたかい」をつらぬいて、「たたかうアジア人民と連帯し日帝のアジア侵略を内乱へ」のたたかいをやりぬく強大な労働者党をつくりだそうというプロレタリア革命の戦略的な方針なのです。
この方針を提起したのが、「報告・決定集」の「第2号議案 党を分裂させる『関西WOB』 を凍結せよ」の後半部分です。そこでは「今日においても高い政治意識を持ち、・・・献身的活動している活動家はいたるところに存在している。彼らこそ階級の前衛であり・・・こうした活動家が日共系や新社会党系など他党派の系列に組織されている場合が多いが、そうだからといって彼らをあらかじめ獲得の対象から外してしまってはならない」と提起しています。
あれは相当踏み込んで提起しています。つまりわれわれの労働運動の考え方、その実践的な立場を提起しているんです。何回も読んでみてください。あれは短文ですが非常に重要な文書です。労働運動の先頭に立って活動する労働者は、共産党であれ新社会であろうと、それは階級のたたかいを体現しているわけです。それが党派的には批判するところがあろうと、それは労働者階級のたたかいの一環を担っているわけです。そういうたたかいも労働運動として、われわれの手で対象化してみないといけないわけです。
「体制内労働運動との決別」なんていうことは、革命党の労働組合運動方針では絶対にありえない。そんなことを実践したら、それは労働組合運動から召還することを宣言することです。民同であれ、どんな敗北的な指導をやっている組合であれ、そのもとに労働者が組織されているかぎり、そこに入って労働者を組織し、組合を戦闘化させていかなければなりません。それが革命党の役割です。だから安田派のように「動労千葉のたたかいだけが正しく、他の組合は体制内」なんていっていたら、革命党失格です。革命党は「体制内」も含む、労働者階級全体のたたかいの勝利に責任を取らねばならないのです。
そうした革命党のあり方を学ぶには「ロシア社会民主党綱領草案」(レーニン全集第2巻)が絶好のテキストです。党の組合指導のあり方、党と労働組合の関係のあり方など、今日的でも非常に勉強になります。
戦闘的労働組合の実践論として、以下の三つ運動から学びたいと思います。一つは動労千葉のたたかいです。ふたつ目は戦後の国鉄労働運動の歴史に学ぶことです。三つ目は1945〜54年の尼崎製鋼のたたかいです。
 
●動労千葉の反合・運転保安闘争
やはり動労千葉は、戦後の産別会議に肩を並べるようなすごい組合です。すごいけど「普通の労働組合だ」といわれます。学ぶべきものはいっぱいあります。2つののたたかいを特に取り上げ、学び取りたいと思います。
第一に、反合・運転保安闘争です。1972年船橋事故闘争以来の「事故責任転嫁許さず、合理化反対、運転保安要求」の反合・運転保安闘争の蓄積は、2006年尼崎事故への抗議から、レール取替えなどの保安闘争へ発展させてたたかわれています。国鉄労働運動の伝統を引き継ぐ、労働者の誇り高きたたかいです。
ハンドルをにぎって働き、職場支配権を握る。ここに動労千葉の強力なたたかいがあります。このたたかいは、背面監視などの弾圧を一人で跳ね返して、闘争指令を貫徹する一人一人の労働者としての強さと組合への信頼を作り出しています。
第二に、1977年12月からの100日間の三里塚空港ジェット燃料輸送阻止闘争です。77年12月からジェット燃料貨車輸送が始まります。動労千葉は、三里塚空港反対同盟との労農連帯をかけて、「危険な燃料は運ばない」「労働強化反対」「組織破壊許さない」という闘争目標を掲げて敢然とたたかいに突入します。権力の弾圧や動労カクマルの妨害と対決し、12月3日から三日間の順法闘争に突入します。動労本部による貨車牽引機関車の全国からの転配承認という屈服を乗りこえ、千葉単独のたたかいをやり抜きます。「助役機関士」によって始まった暫定輸送を、組合員に強制する攻撃を前に、78年4月に「拒否からハンドルをにぎって阻止へ」と転換します。これは三里塚闘争を労働組合の闘争として闘う転換であり、戦闘的労働運動の真髄です。
たたかいは、81年3月、燃料貨車輸送の三年期限を延長する攻撃に対して、指名ストから一週間、全線24時間ストにいたるたたかいをやり抜きます。このたたかいは4人の執行委員の解雇を受けながらたたかいぬかれた歴史的なたたかいです。これは1953年に闘われた内灘基地反対闘争の中で、「武器輸送阻止」をかかげてストライキをおこなった北陸鉄道労組と並んで、特筆されるたたかいです。
 
●国労新潟闘争と動労の機関助士廃止反対闘争
次に、国鉄労働運動です。国鉄労働運動から学ぶべき領域は膨大ですが、その代表的なたたかいとして、1957年の国労新潟闘争と、1967年から69年まで闘われた動労の機関助手廃止反対闘争を取り上げます。
1957年の新潟闘争とは、57春闘後の国労に対する解雇19名をふくむ大量処分に対して、国鉄革新同志会(革同)の拠点であった新潟地本は、1週間にわたる職場放棄をはじめとした激しい実力闘争で処分撤回闘争をたたかった。この闘争には警察が介入し、幹部を逮捕し、これに対する反弾圧闘争が爆発するという事態に発展していったのです。全国の国鉄労働者の総力を結集して激突するたたかいになった。これは国労左派がその拠点と、自分たちの労働運動の路線をかけて、当局と激突したたたかいです。スト権がない中での「無期限職場大会」などの数々の戦術を生み出し、職場を制圧してたたかったのです。
それから1967年から69年まで闘われた5万人合理化反対闘争の中で、動労の機関助士廃止反対闘争です。この機関助士の大半は青年労働者でしたが、その廃止は約1万人の首切りにつながる攻撃であり、組織の存亡をかけたたたかいだったのです。青年労働者が戦闘的な戦術を編み出しながら、たたかいの中心になって動労の戦闘化を実現します。
こうした国鉄労働運動の階級性をつかみとるためにはこうした闘争戦術を学ぶことが重要です。
 
●尼崎製鋼労組の職場闘争
最後に、1945〜54年に闘われた尼崎製鋼労組のたたかいです。このたたかいは、労働組合運動研究会で取り上げ、当時の尼崎製鋼労組の中心的な活動家であったの鈴木栄一さんの本(『尼綱の職場闘争』)を復刊しました。一人の共産主義者が職場闘争を組織し、職場を拠点化し、工場の支配権をにぎり、地域労働者住民との共闘をつくりあげたたたかいです。尼綱闘争の学習で、われわれはじめて、共産主義者が労働者階級の解放闘争と結びついて、一斉武装蜂起を準備していくたたかいをいきいきとイメージすることができたといっていいでしょう。鈴木栄一さんは「前段階的解放区」と表現していますが、職場でいろんな要求闘争を闘っていくうちに、職場の支配権を組合が掌握していき、職制もそして組合の上部機関すらも、職場の労働者のたたかいに口出しできなくなってしまうのです。業務も運営も計画も全部職場の労働者が支配していったのです。鈴木さんがレッドパージで職場を追われて数年後の1954年、大手の神戸製鋼が中小の鉄鋼資本の再編によって尼崎製鋼をつぶすという攻撃に対して大争議がたたかわれます。尼崎製鋼の周辺の地域商店街や住民をまるごと組織したたたかいです。
鈴木さんが職場で活躍していた時期は、尼綱労組は産別会議の拠点であり共産党の指導のもとにありました。当時、共産党に入党していた鈴木さんは、「全国の党が自分と同じ事をやっていると思って、いつ党が武装蜂起を提起しても決起できるように考えてたたかっていた」といっています。戦闘的組合運動の実践として、職場要求、職場闘争で組合の主導権を握り、労働者の自主的なたたかいに依拠し、職場支配権をめぐって資本との力関係を変えていく典型的なたたかいです。われわれの目標になるたたかいではないかと思います。もっと掘り起こしたら、いくらでもあるかもしれないけれども、僕らが出会った組合運動の中では感動的たたかいです。
 
●分会運動を重視
われわれの組合運動は、身丈にあったということがあるけれども、職場単位の分会運動に焦点を当てて、そこで要求闘争から団結づくりをめざすということです。職場に根づく前に資本から追い出されるようなことをやっちゃダメです。それは陶山さんが口を酸っぱくしていっています。「自分の自己満足で飛び出すな。もぐりこんでやれ」ということです。
それから教育現場の組合運動としては、月谷同志の意見は重要です。日教組の分会活動と職場闘争の復権という意見です。非常に重要な提起です。80年代前半の荒本闘争をたたかった東大阪の意岐部東小学校の教育労働者たちは、天皇制反対で天皇誕生日に集団登校し、部落差別と天皇制の学習、部落解放運動を教育実践としてやり抜きました。やはり分会の団結と校区内の解放同盟荒本支部との強力な共闘があってたたかい抜いたのです。こうした意岐部東小のたたかいをつぶすために猛烈な配転攻撃をかけられました。みんなそれに対して、どうたたかうのか、悩みに悩みました。その期限の1日前に、「東大阪全域に散らばって、第2第3の意岐部東小をつくろう」という方針を決定して、応諾の文書を書いたのです。配転先でも意岐部東小分会がつちかってきた、親や保護者や子どもが全部一緒になったたたかいを追求しています。それは教育実践の力も必要だし、職場闘争もちゃんとやらなきゃいけないし、地域の人たちとの結びつきもしっかりやる。そういうことをやる能力は、そう簡単じゃありません。ですが、教育労働者の組合運動は、地域のソビエトのような共同闘争の中心になります。そのような教訓は勤評闘争の中にも無数にあります。
 
●被差別・被抑圧人民との共同闘争
次に、被差別・被抑圧人民との共同闘争を組合運動としてどうたたかうのか。これは7・7思想の実践、発展のたたかいです。
関西合同労組の石田委員長は、「労働者の解放をめざし、反差別を闘う仲間との連帯は、理念的に確認しているだけでは生きた連帯ではないという厳しい自己批判と、日常的に闘う被差別民衆との共闘から学び、自らのたたかいの質を常に問い直すということが問われています」「資本家階級や権力と闘う最大の力は、団結であり、この団結を破壊する最大の攻撃は差別分断攻撃です。団結を守り強くするためには、差別を許さず、差別と闘う労働組合運動を共に闘う中で労働運動も本物になると確信します」といっています。
被差別・被抑圧の労働者人民のたたかいは、日常生活の全領域にわたる差別攻撃と立ち向かうたたかいです。行政による差別とのたたかい、地域での生活破壊や人権破壊、職場での差別分断攻撃とのたたかい、労働者人民の差別を糾弾し、獲得をめざすたたかいです。厳しく、死活のかかった大変なたたかいです。
労働組合がこのたたかいと連帯できるのは、被差別労働者と一体になって職場での団結を作り出し、被差別労働者の要求を、自らの要求として資本や行政と一緒にたたかえるかということです。そうした職場の団結力を基礎に、地域闘争や行政闘争を発展させることです。
職場で加えられる解雇や、権利侵害や、民営化などの攻撃が、真っ先に被差別の労働者にかけられてきます。攻撃を受けた被差別の労働者は差別反対闘争としてたたかうと同時に、労働者全体に加えられた攻撃として積極的に労働組合に持ち込み、組合のたたかいとして取り組ませ、仲間を立ち上がらせ職場の団結を組織してたたかう事です。
 
●「地区労」としての労組交流センターの課題
それから労組交流センターをどう発展させるのか。
労組交流センターは、結成当初は、ナショナルセンターをめざしていました。たたかう労働組合の上部組織として全国的、全産別的に戦闘的な労働組合を糾合し、指導できるナショナルセンターをめざしたのです。それは各地方や地域には、総評時代の地区労のような組織と運動を作り出すことでした。しかし現在の交流センターは、党員や活動家のフラクションのような狭い組織にねじ曲げられています。それではだめです。労組交流センターは、非正規雇用労働者の怒りの決起を組織することを大きな軸にして、新たなナショナルセンターをめざしてたたかわねばならい。
08春闘の特徴は、御手洗・経団連が非正規雇用労働者の膨大な怒りの蓄積におそれをなして、「賃上げ容認、非正規雇用の是正」に舵を切ったことです。すべての資本がすぐに右へならえとはならないが、賃上げを認めざるをえないという方向になっている。だから取れる時は取る、賃上げを実際に勝ち取っていくというようなたたかいを、われわれは本気になってやらなきゃいけない。とにかく各組合の内部からたたかいの先頭に立つことです。
「非正規雇用廃止」のたたかいに非正規雇用労働者を組織してたたかおう。非正規雇用労働者の猛然たる組織化をやり抜こう。とくに自治体、JR、郵政での非正規労働者の増大は抜き差しならない段階に入っています。連合内でも非正規の組合への組織化が始まっている。自らが現場に入ることが重要です。合同労組と二重加盟して、資本と闘っていくということも有効です。難しい問題もあるが、全体の流れとしてはいろいろな形態で非正規雇用労働者の組織化とそのたたかいは始まっている。
 
(Z)労働者細胞を軸とした革命党建設へ
 
労働者階級の革命党をいかに建設していくのか。革共同は、スターリン主義の党官僚支配に反対し、レーニン主義党組織論を踏まえて党を建設してきたはずでした。しかし現実に明らかになっているように党内民主主義が著しく後退しており、党の官僚主義的な変質が進行し、与田問題で突き出されたように、政治局が深刻な財政的腐敗と権力のスパイ攻撃への屈服を生みだしています。こうした政治局のあり方が、指導部からたたかう意思を摩滅させ、革命路線を放棄する変質を生み出していたのです。
06年3・14決起をもってわれわれは、党内民主主義を再確立し、党を作り変えるたたかいを始めました。ところが、清水議長のペテン的な「自己批判」をもって、安田副議長は「代表が自己批判したからこれでおわり」といって、政治局員ひとりひとりの自己批判を拒否したのです。安田副議長は、3・14決起を奇貨として、一気に政治局内の反安田分子を除名・追放しました。それが一段落すると、つぎは「3・14決起を実行した、関西を叩きつぶせ」というわけです。
安田の「独裁のやり方」というのは、民同や企業組合幹部の組織独裁のやり方と同じです。彼は動労千葉の権威を利用し、自分が労働者出身の政治局員であるという「権威」を盾にして、党を私物化し、独裁的な権限を発動しているのです。安田の労働運動指導の中身とは、動労千葉の防衛に、党の力の大半を投入することにつきます。
 
●「唯物史観の定式」を実践に生かそう
マルクスの『経済学批判』の序言に有名な「史的唯物論の定式」があります。少し長くなりますが引用してみます。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係をとりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人を判断するのに、彼が自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の体内で孵化し終わるまでは、古いものに取って代わることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。」(マルクス『経済学批判』岩波文庫版)
これがマルクス主義の理論です。マルクスは、この理論を「導きの糸」と表現しています。私たちも実践の場でこの理論をプロレタリア革命への「導きの糸」として活動していかなければなりません。ここで重要なことはマルクスが、社会の「諸変革の考察する際には、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、・・・の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない」として「物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突」から社会革命を「説明しなければならない」と述べているところです。ここに、なぜ党というのは生産過程の現場に立つ党組織すなわち、細胞を作らなければならないのかが、明確にされています。工場や地域において、「物資的生活の諸矛盾」や「社会的生産諸力と社会的生産関係のあいだに現存する衝突」の真っ只中で活動する党組織=細胞こそが、「課題を解決する物質的諸条件」をつかみ取ることができるのであり、そうした細胞なくして、革命の路線、戦略、方針を形成することはできないのです。つまり、工場で働いている労働者が革命をやるのです。このように、マルクス主義とは徹頭徹尾、「プロレタリアートの解放はプロレタリアート自身の事業である」というプロレタリア自己解放の思想でつらぬかれています。ですから、「中央が考えて、決定した路線や方針に細胞は従っていればいい」というような考えた方は唯物論でもマルクス主義でもありません。
 
●共産主義者の党の団結を
なぜ91年5月テーゼが貫徹しなかったのか、という総括は重要です。ここまでの提起は、戦闘的労働運動の再生・創造にむけた今後の討論のためのたたき台です。これから実践的に勉強していかなければなりません。その構えと決意がある同志はどんどん労働運動、組合運動に突入してほしい。安田派は、インテリゲンツィアを敵視して、「労働者だけが革命的だ」といって、共産主義者の党の団結を否定しています。党を組合主義へと変質させようとしている。そんな連中に制圧されてたまるか。もちろん現実には、わが党の中で労働者党員が指導部になるのは簡単なことではなかったし、いまもその壁があります。しかし、それは全力をあげて突破しなければなりません。戦闘的労働運動の再生・創造を正面課題にすえて、諸戦線のたたかいにおいても、労働現場の課題に直面すれば、思い切って組合運動に突っ込んで、職場の団結を組織するたたかいを取り組もう。
(展望2号掲載)