7・27革共同政治集会へのアピール
 
昨年11月関西党員総会以降、初めての革共同政治集会に対し、革共同の歴史的総括をかけた訴えが『革共同通信』12号に出された。全国・全戦線で安田―清水体制を打倒し、新たな革共同をつくる闘いに立ちあがろう
 
(T)全国・全戦線で 安田―清水体制打倒の組織化に着手せよ
 
全国の労働者人民のみなさん、同志諸君。 われわれは、「革命的共産主義者同盟全国委員会の再建をめざす全国協議会(革共同再建協議会)」の結成をここに宣言する。
戦争と貧困を拡大する帝国主義の新自由主義政策とグローバリゼーションにたいして、労働者階級と被抑圧人民の怒りが、全世界にあふれている。07年7月参院選における自民党の大敗は、日本における新自由主義攻撃にたいする労働者階級人民の広範な怒りの結果である。既存の政党や運動の枠組みをこえた大衆の自発的な運動がその姿をあらわしつつある。
われわれの任務は、大衆の中に深く分け入り、要求や怒りをつかみ取り、階級闘争の発展をきりひらくために、その先頭に立つことだ。
 
●革共同再建協議会に結集しよう
この対極で、「革共同中央」=安田派は、大衆運動への妨害と統一戦線の破壊に血道をあげている。
5・27国労臨大闘争弾圧裁判において、弁護団を解任し、弁論を分離させるという暴挙を行ない、国鉄1047名闘争への妨害と敵対を深めている。三里塚農民の「農地死守・実力闘争」のたたかいを、真っ向から踏みにじろうとしている。07年「7月テーゼ」によって差別主義と排外主義を路線化し、自ら広島差別事件を引き起こし、糾弾闘争撲滅の先兵となっている。入管体制とたたかう大衆組織を分裂させ、「障害者」解放闘争をたたかう同志たちを追放し、「沖縄主義に死を!」などと叫んで、沖縄闘争の破壊者となっている。そして肝心の労働戦線では、勇ましい空文句のかげで、際限のない破産をかさねている。
革命的左翼がこの半世紀の間に築きあげてきた階級闘争の到達点を、安田派に蹂躙させてはならない。「労働運動で革命を」「団結の究極的拡大が革命」「動労千葉特化論」などに集約される超セクト主義的経済主義による、革共同の解体を許すことはできない。反スターリン主義・革命的共産主義運動の内部から発生した反動をわれわれの責任においてうち倒さなければならない。このたたかいの中で、反スターリン主義・革命的共産主義運動の再生と革共同の再建、階級闘争の転換を必ずやきりひらく。
すべての同志諸君、ただちに革共同再建協議会に結集せよ。全国・全戦線において、安田―清水体制打倒の組織化に着手せよ。
 
(U)06年3・14決起の革命的意義
 
06年3月14日、関西地方委員会の同志たちは、関西地方委議長(当時)の与田を打倒した。与田は、党組織を私物化し、官僚主義的変質とそれにともなう金銭的腐敗を深めていた。また政治局は、公安調査庁のスパイ・高杉が与田の「側近」として潜入していたことを隠ぺいし、革共同を国家権力とたたかえない党へと変質させていた。さらに政治局は階級的労働運動の再生のたたかいの先頭に立つ兵庫県委員会の同志たちに憎悪を集中し、「メンシェヴィキ組織」「分派組織」などと悪罵をなげかけ、党規約を無視した統制処分を決定しようとした。
革共同中央の腐敗と変質がもはや一線をこえた段階に突入したことにたいして、その革命的再生にむけた第一歩を踏み出すものとして、3・14決起はあったのである。
ところが、3・14決起がつきつけたものをうけとめえない、次のような傾向が生み出されてきた。ある者はこれを「クーデター」と呼び、ある者は「常任にたいする労働者党員の決起」と称して、都合よく解釈し、3・14決起によって突きつけられた革共同の根底的な総括と自己切開から逃げ回ってきた。
もはやこうしたデタラメな論議に終止符を打つときがきた。
 
●なぜ3・14を実行したのか
われわれは、なぜ3・14決起を実行しなければならなかったのか。その実行がどうして可能であったのか。それには、次の3つの条件が存在していた。
第一に、91年5月テーゼによる路線転換が、根本的な問題性をはらんでいたことである。第二に、95年の阪神大震災被災地救援闘争を契機とする階級的労働運動の再生のための苦闘である。第三に、20年間にわたる対カクマル戦争と対権力武装闘争の過程で、公然部門と非公然部門で、それぞれたたかいぬいてきた同志たちが合流・結合したことである。
5月テーゼは、91年ソ連崩壊、89年総評解散・連合結成という内外する階級情勢の大激動にたいして、革命党として対応しようとしたものであった。党活動の重心を、武装闘争から大衆運動と党建設に移すという路線転換である。しかし、5月テーゼには、路線転換を必要とした80年代階級闘争、とくに革共同のたたかいの主体的総括が欠落していた。
本来、われわれは、5月テーゼの中で次の2点を明らかにしなければならなかった。
ひとつは、権力の弾圧が非公然部門に集中していたとはいえ、80年代後半から90年代初頭の過程で、清水議長による指導部建設が破産し、革共同の政治局が事実上の崩壊に陥った問題である。清水議長はこの事実を一貫して隠蔽してきた。
ふたつは、85年の10・20三里塚蜂起戦と11・29浅草橋戦闘、動労千葉の2波にわたる「国鉄分割・民営化阻止」のストライキ闘争をたたかいぬき、90年天皇決戦にのぼりつめた結果が、どうして「党としての死しか意味しないという絶対的飢餓の現実」(「5月テーゼについての党内アピール」清水選集第10巻)でしかなかったのかということである。
 
(V)問われる80年代階級闘争の総括
 
80年代は、中曽根「戦後政治の総決算」攻撃、新自由主義政策への踏みだしとの一大階級決戦であった。それは世界史的に見れば、サッチャー・レーガン・中曽根の登場をもって帝国主義の側からしかけられた、70年闘争・ベトナム波及情勢にたいする大反動とのたたかいであった。日本階級闘争においては、その最大の対決点が、国鉄分割・民営化決戦と三里塚二期工事着工阻止決戦であった。
国鉄分割・民営化攻撃は、戦闘的労働運動の壊滅をねらった一大反革命であった。その核心は、71年国鉄反マル生闘争の勝利、とりわけそこで確立された革命的左翼による反戦派労働運動のヘゲモニーを、国鉄労働運動の内部から一掃することにあった。
動労カクマルの裏切りが、決定的な役割を果たした理由はここにある。すなわち「革命的左翼の中から生み出された反革命」だけが、それを行うことができたのだ。
だからこそ、動労カクマルと真っ向から対決して国鉄分割・民営化阻止を階級決戦化する鍵を握っていたのは、わが革共同であった。
国鉄分割・民営化決戦は、70年代の二重対峙・対カクマル戦を全人民的な反ファッショ解放戦争として発展させていく、革共同の先制的内戦戦略の真価を発揮するチャンスであった。全産別、戦線、地域から巨万の決起を実現するため、そしてこの決戦の只中で反革命カクマルを完全打倒するために、全党・全軍が総蜂起するときだった。
ところが、革共同は、「国鉄分割・民営化阻止、日本帝国主義打倒」を戦略的なスローガンとしてうち立てることができなかった。もちろん一定の段階で「三里塚・国鉄決戦」という打ち出しはなされたが、しかし、それは、国鉄分割・民営化阻止の戦略的な大きさを見すえたものではなかった。より根本的には、サッチャー・レーガン・中曽根の世界史的な大反動との階級決戦という認識を確立できなかった。そして「革命軍戦略」に一面化し、本来求められていた大衆的階級的決起と結合できなかった。
国鉄分割・民営化と総評解散・連合結成が日本階級闘争全体に与えた打撃は計り知れない。そこにおける革共同の責任は大きい。
80年代日本階級闘争の敗北、革共同のこのような路線的敗北と、80年代後半から90年代初頭の過程で、革共同の政治局が事実上崩壊した問題は、一体の問題である。清水議長はこのことを、いっかんして隠ぺいしてきた。
また、ここに、80年代のたたかいの結果が、「絶対的飢餓の現実」でしかなかった原因がある。
 
●総括をネグレクトした清水議長
さらに、こうした痛苦な現実を全く総括することなく、機械的に「大衆運動と党建設に重心を移す」とした「5月テーゼ」の「総括なき路線転換」こそが、90年代の党勢の衰退の根本原因である。
清水議長ら政治局は、この路線的・組織的総括をネグレクトし続け、それゆえに中央指導の空疎化が進み、さまざまな私党化が生まれ、その裏返しとして、「党中央への一致」を党員に強制することで乗り切ろうとしてきた。それが、労働運動・政治闘争・党建設の全面的な後退を引き起こしていった。
国鉄分割・民営化と総評解散・連合結成についての深刻な総括をすりぬけて、動労千葉が生き残った―それ自体は大きな勝利であるが―ことをもって、「国鉄分割・民営化攻撃に勝利した。よって80年代に勝利した」などとする安田派の総括は、根本的に間違っている。今日の安田派の腐敗の原点である。
 
(W)95年阪神大震災被災地闘争の教訓
 
こうした政治局の破産的状況にもかかわらず、多くの党員が5月テーゼで提起された「労働者階級の中へ」のスローガンのもとに、労働運動の中に突入していった。
その最大の実践のひとつが、全党をあげてとり組まれた、95年の阪神大震災被災地救援闘争であった。この闘いの中で、わが党は、労働者階級の意識や現状から余りにもかけ離れた存在になり果てていることを否応なしに突きつけられた。
 
●階級闘争を一から学び直す
われわれ自身は、被災地の労働者・住民から、階級闘争を一から学び直すことを始めた。行政による被災者の切り捨てと、資本による労働者への攻撃にたいする反撃を組織する中で、われわれのセクト主義的な狭量さからの脱却が迫られた。また、震災被害の集中した神戸市長田区において被差別部落民、在日朝鮮人、奄美出身者とともにたたかう中で、70年「7・7自己批判」を、改めて生きた思想としてつかみ直していったのである。震災の瓦礫のなかから、労働者階級の新たな団結と運動を産みだしていったのである。
 
●細胞論と中央―細胞関係の再定立
また、われわれは、「上意下達」式の硬直化した官僚主義組織が、労働運動の現場ではまったく通用しないということを身をもって思い知らされた。「中央と細胞」の関係を、「全体と部分」の関係としてしかとらえることができない党組織論の根本的な誤りに気づかされたのである。すなわち、資本主義社会における諸個人の存在は、すでに世界市場を前提にして成立しているのであるから、個々の労働者家族の生活実態や個々の生産点における労働実態の中に、今日の資本主義のありようがトータルに反映されているのである。
したがって、生身の労働者が資本と対峙しているまさにその現場において、共産主義者(=細胞)が実践し思考することによって、党は今日の資本主義のありようを誰よりもトータルに把握するができるであろうし、それを土台にして現実的な革命戦略を形成することができるのである。それを組織論的に表現するならば、中央と細胞の同格性を確認することにとどまらず、中央こそが現場の細胞と同質たるべく、絶えず努力を要求されるということを確認しなければならないのである。
 
●生きた現実が空疎な指導を粉砕
生きた労働運動の実践とそこからつかみ取られた思想は、「党中央への一致」を強制する空疎な指導と不可避的に激突した。05年10月の指導部会議で、清水議長は、兵庫県委員会に対して「社民への追随主義」「メンシェビキ組織」「最悪の帝国主義的民族排外主義への転落」というレッテル貼りをおこなった。
それを受けて与田は、「兵庫は分派組織である」と規定し、06年3月14日に天田書記長を引き連れて、統制処分を決定しようとした。政治局は、一連の過程で、当該である兵庫県委員会からいっさい事情聴取を行なうことなく、「秘密裁判」で粛清を強行しようとしていたのである。
このような政治局による、処分にかんする党規約の破壊と、党の変質の進行に対する危機感と怒りの爆発が、3・14決起であった。
この決起の呼びかけは、腐敗した指導部の暴力支配と不屈に闘ってきた大阪府委員会の圧倒的な労働者党員や、与田が私腹を肥やすためにその事業を利用され、抑圧的な指導の強制とたたかってきた細胞の同志たちに、圧倒的な共感をもって迎えられた。そして新たな決起が巻き起こり、ごく短期間のうちに関西地方委員会の大半を制したのである。
 
(X)公然と非公然の同志の合流
 
こうした3・14決起の爆発的な力は、91年5月テーゼ以降、非公然部門から浮上してきた同志たちが、労働運動などの諸実践を通して、公然部門でたたかってきた同志たちとの合流・一体化を実現し、それを土台としてはじめて可能となったということである。
3・14決起とは、70年代以来、30年余にわたる対カクマル戦・対権力武装闘争と、大衆闘争を担ってきた諸同志による、革共同の歴史的総括をかけた、命がけの決起だったのである。
 
●革命的共産主義運動史の改ざん
今日の安田派の主張の根底には、「動労千葉オンリー主義」ともいうべき立場からの、革共同の歴史の得手勝手な改ざんがある。動労千葉が国鉄分割民営化との闘いで極めて重要な役割を果たしたことはいうまでもない。だがそれは決して孤立してあったのではない。85年の二波のスト自体、党と軍の総力をあげた二重対峙・対カクマル戦と切り離してありえたのか。またそれは三里塚農民を先頭とする二期決戦の爆発と一体の闘いではなかったのか。さらに70年ごろにまでさかのぼれば、動労千葉もまた、沖縄や大学や杉並などなどのたたかいと呼応する中でこそ前進してきたのである。たたかう戦線、部署はそれぞれ異なるとはいえ、われわれはみな革共同の一員としてこの苛烈なたたかいの日々を共有してきたのである。
しかしその闘いも、すでにみたとおり、80年代後半には深刻な壁にぶつかった。しかも5月テーゼがこの総括を回避したところでの路線転換にとどまったがゆえに、政治局はその後、路線的混迷とジグザグを重ねたあげく、ついには安田による「動労千葉特化論」、つまり動労千葉のたたかい以外は、あの長期にわたるカクマルとの戦争から三里塚闘争までをことごとく清算・抹殺するという暴論に行き着くのである。
 
●新たな革共同をつくりだそう
3・14決起が、革共同の根底的な自己総括とその革命的再生を目指すものであったからこそ、安田ら政治局は、自ら生み出した腐敗と変質を真摯に自己批判することを拒否し、3・14決起の地平を解体することに血道をあげてきたのだ。
だからこそ、その後の安田派による革共同の簒奪と党の変質の進行にたいして、われわれの怒りの炎は燃えさかっているのだ。
そしてわれわれは、新たな革共同を創るために、革共同再建協議会を結成したのである。7・27革共同政治集会に結集し、安田―清水体制の打倒と革共同の奪還のために総決起しよう。
(展望2号掲載)