安田派中央の日帝権力への投降と転向を断罪する
―「TSG問題」、与田の二つの「自己批判書」、安田政治局員らの腐敗と転向―
飛田 一二三
はじめに
T 安田派中央の腐敗と変質
U 現代帝国主義の新自由主義攻撃に屈服
V 安田派中央の対権力問題での投降と転向
(1)「TSG問題」とは何か
(2)「TSG問題」に関する与田の二つの「自己批判書」
(3)「TSG問題」での政治局の投降と転向
・安田政治局員の言動
・安田政治局員の開き直りと自己合理化の手口
・「3・14決起」に対する恐怖と憎悪
・清水議長の指導の破産―二つの私党グループの共存と暗闘
・安田同志と清水議長による「3・14決起」の転覆
W 安田派中央による重大文書押収事件の隠蔽と同志の売り渡し
・07年11・12事件
・06年5・29事件
おわりに
はじめに
世界を戦争と格差・貧困にたたき込むG8サミット(3〜6月における各分野の閣僚級会議ののち、7月7日〜9日に北海道・洞爺湖で8ヵ国の帝国主義の首脳による強盗会議が開かれる)にたいする決戦への真っただなかで、「3・14決起」2周年を迎えた。(※「06年3・14決起」は、権力に投降・転向し、不正・腐敗を重ねた政治局員・与田を打倒し、与田を免罪・擁護しつづけた「革共同中央」の根底的自己批判と革命的変革を要求した労働者党員を先頭とした革命的蜂起) 全世界の労働者階級と被抑圧民族人民と連帯し、4〜7月、たたかう人民の怒りの総決起でG8サミットを粉砕しよう。今こそ「戦争国家化阻止=改憲粉砕・日帝打倒」を高くかかげ、「闘うアジア人民と連帯して、日帝の朝鮮・中国・アジア侵略戦争を内乱へ」、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」とひとつのたたかいとして改憲阻止決戦の全人民的発展を切りひらこう。
日本帝国主義の新自由主義攻撃のもとで苦闘する幾百千万労働者階級人民の戦争と差別・抑圧、生活と権利をめぐるすべての怒りを〈9条破棄=改憲〉阻止のたたかいにむすびつけ、その大衆的・戦闘的・内乱的発展をかちとり、改憲攻撃を粉砕しよう。そうして、資本家階級とその国家権力を打倒し、プロレタリアート独裁をたたかいとる革命的展望を切りひらこう。職場生産点のたたかいを基軸に、あらゆる戦線、地域・学園で地の底からの怒りと決起を組織し、解き放ち、08年G8サミット粉砕・改憲阻止に立ちあがってゆこう。
われわれは、「06年3・14決起」とその精神を継承し、非妥協的に貫徹する。その核心は、〈「反スタ・革命的共産主義の革共同」の奪還〉である。安田派中央(※中央をみずからの私的独裁のもとにおく安田同志とそれを補完する清水議長による「革共同中央」の体制)の機関紙『前進』新年号には、G8サミット粉砕闘争の方針は皆無である。改憲決戦についても同様である。かれらは、その基本路線(「階級的労働運動路線」)から政治闘争としての政治闘争を追放した。そして、「4大産別(国鉄、全逓、自治体、教労)」をめぐる労働組合運動と「11月労働者集会」、それによる「階級的団結」が改憲闘争であるなどといっている。それどころか、「改憲が強行されても労働者の団結が拡大すれば勝利なのだ」という言説さえ振りまいている。かれらは、このように、たたかわずしての敵前逃亡を合理化するまでに腐敗を極めている。
われわれは、安田派中央の政治決戦からの全面的召還という恐るべき危機を全力をあげて乗りこえ、反帝・反スターリン主義世界革命、「連帯し、侵略を内乱へ」のもと、サミット・改憲決戦の先頭に立ち全階級的決起を死力をつくしてきりひらく決意である。そして同時に、安田派中央のもとで苦闘する同志たちに、ともに決起することをこころから呼びかける。革共同の革命的奪還の第一の実践的課題がここにあることを明確にし、G8サミット粉砕・改憲阻止決戦の大衆的大爆発と階級的労働運動の戦闘的発展を断固として切りひらくことを宣言するものである。
●安田派中央の変質の核心問題は何か
この小論では、安田派中央の変質とはどのようなものであるのか、さらにその変質はどのような情勢を背景として生まれたものかについて述べ、最後に対権力における投降と転向こそが変質と腐敗の最深の根拠であることを「スパイ=TSG」問題に焦点をあてて明らかにする。この2年間の安田派中央とのたたかいをとおして浮かび上がってきた問題の所在と核心を中括したものである。むろん、革共同の「5月テーゼ」いらいの、さらには「75年3・14反革命」(※反革命カクマルによる革共同書記長・本多延嘉同志の虐殺)いらいのトータルな党史的総括の作業はいまだ道半ばであるが、反スタ・革命的共産主義の革共同の革命的奪還にむかってのたたかいの一助となればと考えて書いた。 安田派中央による「革共同」の権力への投降と転向という現実は、私自身をふくむ革共同の一員にとって、言い表すことのできない苦痛と恥辱である。ましてこの現実を暴きだすことについては、その信じがたい変質を生み出した安田派中央に対する怒りとともに、慚愧の念を禁じえない。また、この暴露が、反スタ・革命的共産主義運動とその党に信頼を寄せ、期待した多くのひとびとの深い失望を呼び起こしかねないという危惧も率直にいって感じざるをえなかった。しかしそうしたさまざまな思いをこえて、やはり安田派中央の転向については事実を事実として徹底的に明らかにすることが不可欠であると考えた。 ひとつは、何よりも安田派中央の投降と転向がもたらす権力の弾圧から同志と階級を絶対に守り抜くためである。のちに明らかにするように、安田派中央はみずからの官僚的自己保身のためには、同志を敵階級に売り渡して恥じないまでに腐敗している。その反階級的正体をすべての同志とたたかう人民が正しく認識し、革命的警戒心をもってたたかうこと抜きには、もはや安田派による権力への売り渡しからたたかいの戦列を守ることはできない。
もう一つは、安田派中央がデマゴギー集団に転落していることである。みずからの私党的あり方の隠蔽と防衛のために、同志と階級をペテンにかける。かれらの目から事実をおおいかくす。情報操作する「革共同」をおおうこうしたデマゴギー政治を粉砕すること抜きに「革共同の革命的奪還」はありえない。そのため、どんなデマや恫喝によっても消し去ることができない事実をもって、転向した私党集団の正体を暴かなければならないのである。
革共同とその反帝・反スターリン主義世界革命綱領は、全世界の労働者階級と被抑圧民族人民の未来がかかったものとしてある。筆者は、革共同の一員として現在の安田派の同志たちとつい昨日まで同じ戦列にあった。にもかかわらず、安田派中央が日帝権力に投降、転向しはててしまっている現実をつかみとることができないままにきた。その結果、安田派中央の投降と転向を根拠とした革共同の綱領的路線と党組織におけるここまでの変質をゆるしてしまった。このことについて、日本と世界の労働者階級と被抑圧民族人民、被差別人民にたいし、痛恨の思いをこめて謝罪し自己批判するものです。
長年にわたって革共同を信頼し、権力、反革命・反動のいかなる弾圧、攻撃にも屈せずともにたたかってきたたたかう労働者と被抑圧・被差別人民の皆さん。みずからの解放をかけて反スターリン主義・革命的共産主義の旗を守ることに生死してきた無数の同志たち。そして、本多書記長をはじめ日帝権力、反革命カクマルとの死闘のなかで無念にも倒れた多くの同志たち。革共同をプロレタリア自己解放、全人民解放の党としてつくり、まもり、その発展と勝利を切りひらこうとしてともにたたかってきた無数の労働者人民と革命家たちをおもうとき、このような事態の現出をゆるしたわれわれの不明と力不足をこころからお詫びし自己批判します。
安田派中央のもとでの「革共同」の変質と惨状を痛苦の念をこめて暴きだし断罪しつつ、革共同関西地方委員会に結集した同志たちとともに、安田派中央のもとから革共同を奪還するために徹底的にたたかうことを誓う。同時に、革共同とともにたたかってこられたすべてのたたかう労働者人民の皆さんと、そして安田派中央のもとで苦闘する同志たちにたいし、革共同の奪還と革命的再生のたたかいにともに決起することを断固として呼びかけるものである。
T 安田派中央の腐敗と変質
(1)反帝・反スターリン主義世界革命の放棄、差別・排外主義への転落
安田派中央は、差別・排外主義を合理化する「7月テーゼ」(07年7月)なる文書によって、ついに「7・7思想」を全面的に否定し、投げすてるにいたっている。
「7・7思想」(「70年7・7自己批判」の立場)は、「70年7・7廬溝橋事件33周年集会」の実行委員会における、革共同の在日朝鮮・中国・アジア人民の入管体制下の苦闘にたいする排外主義的無知・無自覚を露呈した言動と、世界革命の一方の主力として被抑圧民族人民の存在とたたかいを措定しないありかたとにたいする華僑青年闘争委員会の糾弾を受けとめ、自己批判し、反帝・反スターリン主義世界革命と戦略的総路線の決定的前進をたたかいとったものである。
「7・7自己批判」を媒介とした、それまでかかげてきた「日帝のアジア侵略を内乱へ転化せよ」から「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ転化せよ」への飛躍を通して、反帝・反スタ世界革命綱領は全世界の労働者階級と被抑圧民族人民にとっての普遍的な共同の解放綱領たる実践的全体性を獲得し、全世界を獲得する綱領への深化と飛躍をかちとった。そのように、われわれの「反帝・反スターリン主義世界革命」は、「7・7糾弾にたいする自己批判」「7・7思想」の獲得によって真に開かれた革命綱領へ飛躍した。全世界と日本の労働者階級、被抑圧民族人民、被差別人民との生きた交通と結合の道筋を開いたのだ。また、「7・7思想」は、日本労働者階級人民の戦後的反省に内在し、それと結合することをとおして、アジア侵略戦争と植民地支配、2000万アジア人民の虐殺と殺戮、強制連行と強制労働、日本軍軍隊慰安婦、ヒロシマ・ナガサキ、沖縄戦、沖縄の米帝への売り渡しと軍事的分離支配、「日の丸・君が代」、歴史教科書、等々をめぐる日帝と天皇の戦争責任にたいする階級的怒りを解き放ち、日帝のアジア再侵略阻止と「連帯し、侵略を内乱へ」の労働者人民の広大な決起をつくり出してきたのである。
カクマルはもとより、いわゆる「新左翼」のすべてが「7・7糾弾」を受けとめず、あるいは拒否するなかで、わが革共同はこれを真正面から受けとめ自己批判し、断固として「7・7思想」を堅持し、つらぬいてきた。それが、日帝ブルジョアジーとその第5列たちによる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にたいする排外主義キャンペーンから「つくる会」教科書にいたる差別・排外主義攻撃の嵐のただ中で、たたかう労働者階級人民が進むべき階級的方向性にたいしてどれほど強力な光を放ちつづけてきたのかは、はかり知れない。改憲とアジア再侵略を阻止してきた戦後日本労働者階級人民のたたかいを最深部において守り、ささえ、発展させてきたのは、アジア人民・在日アジア人民のたたかいであり、そしてそれに学び、連帯してたたかうわが革共同と階級人民による「7・7思想」とその実践であったのだ。
言い換えれば、「7・7思想」は、労働者階級とその党にとって、もっとも鋭い帝国主義批判の武器であり、差別分断攻撃をうち砕いて団結をたたかいとってゆく階級的ちからであったのである。それはまた、スターリンの大ロシア民族主義にたいするレーニンの「最後の闘争」を今日的に継承し、深化・発展させた地平でもあった。
安田派中央は「7月テーゼ」なる論文などで、「労働者階級の特殊的階級的解放が、同時に(※自動的に、と読め)人間の普遍的解放になる」「労働者は、被差別・被抑圧人民にプロレタリア性を刻印し、階級移行を強制する」「糾弾は労働者の団結を破壊する」などの反動的言説を弄している。言い換えれば、「労働者がすべて。被抑圧・被差別人民はその従属物」、「7・7思想は自虐史観。労働者をその呪縛から解放する」というにひとしい主張を振りまいている。
かれらは、「7・7思想」を根こそぎ清算し、否定し、投げすてたのである。ついに、日帝の改憲とアジア侵略、排外主義と差別主義の攻撃の前に投降し、はいつくばってしまったのである。そして、今や広島差別事件をはじめとして差別糾弾闘争にたいする撲滅運動にのめり込むまでにいたっている。さらに他方、全線戦にわたって大衆運動・大衆組織や統一戦線を破壊する暴挙をくり返している。その中で、安田派中央のもとで「革共同」は今やたたかう人民の妨害物に急速に転落しつつある。
以上述べてきたことからも明らかなように安田派中央は、かれらの「反帝・反スタ」からプロレタリア世界革命の一方の主力である被抑圧民族人民とその民族解放・革命戦争、被抑圧・被差別人民とそのたたかいを切りすて、追放した。そして、被差別・被抑圧人民にたいする差別と蔑視の思想で労働者を扇動し組織することによって、敵階級による分断と団結破壊の手先に転落し、そうして労働者の階級性を阻害し解体するという最悪の役割をになうにいたっている。
こうして、かれらは、あらゆる意味でプロレタリア世界革命の道をみずから最後的に閉ざしたのである。「反帝・反スターリン主義世界革命」の開かれた綱領体系を解体し、カクマルと何ら変わらないカルト集団のセクト的紋章に置き換えてしまったのだ。
(2)安田派中央のもとでの「革共同」のスターリン主義的変質
以上の事態と一体で、安田派中央のもとで「革共同」のスターリン主義的組織への変質が急速に進んでいる。
安田同志の路線が党の路線である。安田同志の方針が党の方針である。安田同志の意思が党の意思である。安田同志の言動が党の規約である。
「学生をどんなことがあっても守れ。絶対に糾弾などさせるな」(昨9月)、「全国連大会は、革共同を糾弾する場となる。しかし、オレは一歩も引かない」(昨11月、「24全総」〔全国委員会総会〕)。広島差別事件をめぐる居なおり、事実確認と糾弾にたいする拒否、「広島問題はデッチあげ」論、全国連にたいする分裂・解体策動などのすべてが安田政治局員の意思で決定されている。そして、「政治局」をはじめとした「革共同」の全組織を糾弾撲滅運動に駆りたてている。あるいは、昨年9月以降の「関西WOB」デッチあげの方針もまた、安田同志が「23全総」の現場で突如出してきたものだ。これがそのまま「党の方針」とされる。そして、関西地方委員会の多数の反対意見を無視して暴力的に強行される(昨10月)。こうしたことは枚挙にいとまもない。そこでは、「政治局」は安田同志の翼賛機関、安田同志の方針と意思を「党の方針と意思」として祭りあげ、忠実に執行する機関でしかない。
まさに、安田同志による党の私党化・私物化、党の簒奪である。
そして、そのもとで党内民主主義の徹底的な破壊と解体、デマゴギーと情報操作、踏み絵と密告政治、規約や組織原則を無視した除名と処分、粛清と追放の乱発が際限なくおこなわれている。
革共同は、1962年の第3回全国委員会総会いらい、労働者階級人民と党との生きた交通関係の形成のための絶えざる主体的格闘を土台に、党としてのたたかいと党のためのたたかいとの弁証法的・統一的発展を通して党をつくってきた。そして、プロレタリア階級闘争と相互に呼吸しあうことを基礎としてつくり出される党内民主主義のもとで、中央委員会と細胞との有機的・相互媒介的関係を建設することを目指してたたかってきた。
そうした立場から、さまざまな条件のもとで発生しうる階級からの乖離や、組織のルーチン化のもとでの手段の目的化の傾向などから生起する官僚主義や権威主義などとも意識的にたたかってきたのである。また、これらとむすびついたデマゴギー政治や陰謀政治を徹底的に排して、党の建設をおし進めてきた。そうした組織思想に立って、与田、遠山らの恫喝とデマゴギーによる党内民主主義の圧殺にたいしてたたかってきたのである。それは、スターリン主義とそれに屈服・敗北したトロツキー主義をいかに内在的に乗りこえてゆくのかという課題を、現代革命の成否を決する死活的なテーマとして自覚してきたからである。
●国際共産主義運動の血の教訓=トロツキーの組織日和見主義の敗北をのりこえよう
「反帝国主義・反スターリン主義」はプロレタリア世界革命の綱領的立脚点である。それと同時に、そこにおける「反スターリン主義」は、「反帝国主義」を真につらぬくためにはその主体である共産主義者としてのあり方はどのようなものでなければならないかという課題を措定したものである。
レーニンとロシア革命の勝利を引き継いで世界革命を目指してたたかいながら、トロツキーはなぜ一国社会主義のスターリンによって、世界革命もろとも血の海に沈められてしまったのか。
勝利したスターリンとスターリン主義による世界革命の放棄と裏切り、一国社会主義の自己目的化とそのもとでの革命ロシアと国際共産主義運動のスターリン主義的変質、トロツキーをはじめとしたロシアと全世界の無数の革命家の処刑、暗殺、粛清、追放、それらによる帝国主義の基本的延命、30年代階級闘争の絞殺と独ソ・日ソ不可侵条約の締結、「大祖国戦争」と第二次帝国主義戦争への参戦、帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制(ヤルタ・ジュネーブ協定による戦後世界の複合的分割支配体制)、戦後革命の圧殺、戦後のアジア・中東をはじめとした民族解放闘争のスターリン主義的歪曲、ソ連スタのハンガリー、チェコ、アフガニスタンへの侵攻、中ソ論争‐中越戦争、中国文化大革命、ソ連スターリン主義の崩壊と帝国主義の新自由主義の展開、マルクス主義・レーニン主義革命理論の歪曲、改竄、解体…。
こうした国際共産主義運動の血の歴史からまなび、その敗北をのりこえてゆかなくてはならない。その血の歴史の出発点にはスターリンとの党内闘争におけるトロツキーの組織日和見主義による敗北があったのである。その端緒は、スターリンのグルジア問題にたいする大ロシア民族主義的政策をめぐるレーニンの最晩年の命がけのたたかいと、そのもとでの「トロツキーとの同盟とスターリン排除」というレーニンの決断にたいする日和見主義であった。そして何よりも、レーニン死後のスターリンによる一国社会主義路線と党の官僚主義的変質にたいする左翼反対派のたたかいをめぐる組織日和見主義こそ世界史を左右していったのである。幾度かの重要な勝機がありながら、左翼反対派が党的・全国的結集を決断してたたかうことをめぐって、トロツキーは動揺と不決断に終始したのである。そうして、トロツキーをはじめとした左翼反対派は、スターリンの官僚的恫喝、デマゴギーと陰謀政治に切り崩され、ついにはそのすべてが粛清、処刑、暗殺をもって一掃されていったのだ。
※「トロツキー主義」の烙印による粛清の一例。ジノヴィエフは1927年除名、34年処刑。カーメネフは26年除名、36年処刑。ブハーリンは29年除名、38年処刑。いずれも、「国家転覆の陰謀事件の首謀者」「右翼トロツキスト」などのデッチあげによる。また、第17回党大会(1934年)で選出された139人の中央委員及び候補のうち、第18回大会(1939年)まで残れたのは24人。消された115人のうち、98人が処刑された。その多くは、34年の「キーロフ暗殺事件」(※キーロフはスターリン派の指導的人物。レニングラード党委員会第一書記)を「トロツキー=ジノヴィエフ反対派のテロによるもの」とするデッチあげを口実として粛清・処刑された。そして、トロツキーは1940年メキシコでスターリンが送り込んだ刺客によって暗殺された。
共産主義の党におけるあらゆるかたちをとった政治的、組織的、思想的、理論的な変質と腐敗にたいして、いっさいの組織日和見主義を排して非妥協的にたたかう自立した共産主義者とその党的結集が階級とその党の命運を決するものとなるのである。
反帝国主義・反スターリン主義の革命的共産主義運動はそうした巨大な歴史的課題をになって出発したのである。言い換えれば、「反帝国主義・反スターリン主義」はトロツキーの敗北を教訓化し、乗りこえることを主体的課題として世界革命を実現するという綱領的立場なのである。ここに、カクマルのエセ「反帝・反スタ」(たんなる「戦略問題」へのその一面化。「帝国主義打倒! スターリン主義打倒!」のスローガンが示すように、反帝と反スタとの相互関係を抹殺し、帝とスタを実体化する誤り)にたいするわが革共同の圧倒的な綱領的優位性があったのである。
以上からも明らかなように、安田派による反スタの立場の放棄と「革共同」のスタ的変質は、かれらがもはや「反帝・反スタ世界革命」の実現の主体たりえなくなってしまっていることを示している。また、かれらがかかげている「反帝・反スタ」が、66年の第3回大会をはじめとした革共同の「反帝・反スターリン主義世界革命論」とは何の継承性も持たない、まったく似て非なるものであることも明らかであろう。
安田派中央は、「7・7思想」の否定と破棄、党組織のスターリン主義的変質という「二重の腐敗」によって、「反帝・反スターリン主義世界革命」を破壊・解体したのである。
(3)権力に平伏し、安田私党の延命を画策
安田派中央による、上述したような「7・7思想」の否定と破棄、それによる反帝・反スターリン主義世界革命論の放棄、「革共同」のスターリン主義的変質・それは何を動機とし原因として生起していることなのか。
安田政治局員は、〈安田私党〉ともいうべき私党集団を何年も前から組織してきた。そして、今やかれは、(2)で見たように「革共同」を私的に独裁するまでになっている。その安田同志が今、日本帝国主義の新自由主義攻撃との対決と激突を回避し、権力の前に平伏して安田私党集団の延命をはかるために躍起となっている。それが、この間起こっていることの動機であり、原因である。
安田政治局員がやっていることは、安田私党の防衛と延命のために、ひとつは徹底的に権力への投降・屈服路線を突き進むことである。もうひとつは、安田私党にたいし反対し、あるいは批判を投げかける(おそれのある)ものをあらゆる手段で根絶・一掃しつつ、「革共同」を安田私党そのものとしてうち固めることであり、動労千葉をそのために徹底的に利用することである。これらのことが「階級的労働運動路線」なるものにおける安田政治局員の真の狙いなのである。
「権力への投降・屈服路線」については、あまりにも明らかであろう。「階級的労働運動路線」の内容は、権力への恭順の態度にあふれている。サミット・改憲決戦はやりません。つまり、政治闘争としての政治闘争はいっさいやりません。「革命的情勢の急接近」は口先では言わせてもらいますが、レーニンの「三つの義務」は言わないし、やりません。「連帯し、侵略を内乱へ」、内乱・内戦―蜂起の戦略的総路線に反対します。「労働組合運動で革命を」がすべてです、それ以外やりません。等々。
差別主義的な「労働者主義」(「労働者だけが至高の存在、労働者は選ばれた民であり、他のすべてはその従属物」という差別主義思想)。これが安田私党集団の唯一絶対のイデオロギーである。まさに、この点こそが安田私党の特異性、顕著な特徴である。そして、ここにこそ安田派の破産の必然性がある。
●「特化路線」で踏み絵を踏ませ、屈服か排除を強行
「階級的労働運動路線」の実体は、「動労千葉労働運動特化路線」、「体制内労働運動からの決別」、「7月テーゼ」(「血債主義・糾弾主義」根絶、階級移行)である。安田政治局員をはじめとした安田私党は、これらについて「イエスかノーか」を突きつけて反対派・批判派を粛清・追放し、またこれらを踏み絵に使って批判者をあぶり出し、屈服かさもなくば排除・処分を強行している。
「特化路線」の実践の具体的方針は、動労千葉の物販運動のとり組みと「俺たちは鉄路に生きる(V)」の産別職場での学習会である。これが、安田派中央の労働運動・労働組合運動の指導の破産の結果であることは明らかだ。また、これが「党中央」の労働(組合)運動の指導方針であるというのもお粗末を通りこしている。しかし、問題は「動労千葉労働運動=安田」の図式のキャンペーンのもとに、「『特化路線』に忠実な実践者=安田への忠誠者」かどうかを選別するためにこれを使っていることだ。「特化路線」というのは、そうした選別の墨縄を引いて、その外側にはみ出した者はいつでも出ていってくれていい、あるいは反対や批判する者は安田批判者と見なして追放する道具なのだ。
「体制内労働運動からの決別」というのは、「特化路線」とメダルの裏表のものだ。これが労働運動・労働組合運動において何ほどの実践的意味も持つものでないことは明らかだ。要するに、「階級的労働運動=動労千葉=安田」の図式を突きつけ、安田同志とその私党にたいして反対・批判する者は「体制内だ」として排除・追放し、安田同志に忠実に従うものを私党に選別する道具なのである。それは、昨年4月1日の全国全逓委員会で安田批判をおこなった同志にたいする安田同志の「お前がやっているのは体制内労働運動だ。オレの方針に従わないのなら党を出ていってからやれ」という言動がハッキリと裏書きしている。
●「7月テーゼ」も安田私党への改造の道具
「7月テーゼ」は、「革共同」を安田私党として根底的に改造するためのものである。安田政治局員の私党は、差別主義的な「労働者主義」をイデオロギー的支柱とする私党である。その目的を正当化、合理化するための「理論」が「7月テーゼ」に他ならない。
広島差別事件をはじめいま起きていることは、安田派の差別主義的な「労働者主義」と被差別・被抑圧人民の怒り、糾弾とが非和解的に対立せざるをえないがゆえに必然的に生起している事態である。しかし、それにとどまるものではない。ここが重要な点である。安田同志の目的は差別主義的な「労働者主義」による「革共同」の丸ごとの私党化である。この目的に決定されて、被差別・被抑圧人民の存在とたたかい、とりわけその糾弾闘争にたいするきわめて意識的・計画的な粉砕・打倒・撲滅運動が推し進められているのだ。広島差別事件の全事実は、そのことをハッキリと物語っている。「7月テーゼ」の言ういわゆる「被差別・被抑圧人民へのプロレタリア性の刻印・強制、階級移行」も、すべて安田政治局員の「革共同」の丸ごとの私党化のための「理論」なのだ。「党の階級移行」とか、「党常任の階級移行」とかといっていることも同じである。すべて、差別主義的な「労働者主義」にもとづく安田私党を完成させるための欺瞞に満ちたスローガンである。
安田政治局員とその私党集団は、このような目的から「血債主義・糾弾主義を根絶せよ」とさけび、「自立した共産主義者」論を憎悪し、「関西の一部指導部打倒」をキャンペーンしてきたのである。
安田政治局員による、このような所業はもはや絶対に放置されてはならない。何よりも、動労千葉とそのたたかいの正義と地平を己れの私党のための手段に使うことを断じてゆるしてはならない。JR総連=カクマルとの死闘をたたかいぬき、大量処分を受けながら国鉄分割・民営化攻撃をうち破って、こんにちなお新自由主義攻撃と不屈にたたかいつづける動労千葉の偉大なたたかいをおとしめることをこれ以上ゆるしてはならない。また、動労千葉とそのたたかいを守り抜くために必死にたたかってきたすべての同志とたたかう労働者人民のおもいを裏切ることをけっしてゆるしてはならない。
(4)安田派の腐敗をのりこえ、反帝・反スタ綱領の発展を
「反帝・反スターリン主義世界革命と革共同」は、安田政治局員と安田派中央のそれにおいては、完全に死んだ。空疎な残骸だけが残った。安田派のもとでは反帝・反スターリン主義世界革命綱領の生きいきとした豊かな思想性と全体性は完全に息の根をとめられた。
「労働者だけが至高の存在である」などという、労働者階級の革命性とその偉大な歴史的任務をかぎりなく辱め、いやしめる思想が「ついに発見されたプロ自己解放の思想」だと宣言された。階級的一斉武装蜂起、権力奪取―プロレタリア暴力革命の旗に、「労働組合運動で世界革命を」がとってかわった。現代革命から戦争、民族・植民地問題、農業・農民問題の3大戦略課題が消滅した。そして農民と被抑圧・被差別人民は耐えがたきを耐え、労働者による団結の究極的拡大まで待機せよと主張する新哲学が現れた。マルクス、レーニン、本多書記長は不可侵の神棚にまつりあげられ、安田政治局員が世界革命のあらたな旗手として登場した。こうして、「刻印・強制、特化」と書いた白旗をかかげるカルト集団が革共同の支配者となった。
われわれは、これらを断じて看過するものではない。本多書記長が「反帝・反スターリン主義世界革命綱領」と革共同を黒田=カクマルによるその換骨奪胎、容帝反共主義への反動的歪曲からまもりぬき、カクマルとのたたかいを通して「反帝・反スタ世界革命綱領」を労働者階級と全人類の解放の生きた革命綱領としていっそう豊かなものとしてうちきたえていった精神をひきつぎ、安田派の腐敗を徹底的に粉砕し乗りこえて、継承・発展させてゆくであろう。
U 現代帝国主義の新自由主義攻撃に屈服
●国独資政策の破産と新自由主義攻撃
全世界の労働者階級と被抑圧民族人民はいま、帝国主義の侵略戦争・世界戦争か、プロレタリア世界革命かが根底から問われる時代に直面している。現代帝国主義は、新自由主義政策の断末魔ともいうべき凶暴な展開のもとで、その基本矛盾を帝国主義的侵略戦争と労働者階級人民にたいする未曾有の団結破壊と抑圧、搾取と収奪の攻撃として根源的に爆発させつつある。
過剰資本・過剰生産力の矛盾が1971年ニクソン・ショックとなり、74〜75年恐慌として顕現し、帝国主義の戦後発展の行きづまりはだれの目にも明らかになった。帝国主義の不均等発展と争闘戦の激化、75年ベトナム侵略戦争の敗北による米帝の歴史的没落。「アメリカ体制」としての戦後帝国主義世界支配体制とその一環としての新植民地主義体制の崩壊、戦後革命期以降も間断なくたたかわれた労働者階級と被抑圧民族人民の国際階級闘争の永続的・内乱的発展。
そして、これらに万力のような締めあげられた帝国主義の死の苦悶のなかから新自由主義が登場してきた。70年代終わりの米帝・レーガン、英帝・サッチャーらによってはじまる新自由主義の攻撃は、91年のソ連スターリン主義の崩壊、帝国主義とスターリン主義の戦後体制の崩壊をとおして、ますますむき出しの凶暴さをもって展開されている。それは、パレスティナ人民の不屈の解放闘争を軸としつつ永続的に展開されてきた戦後のアラブ・中東、ムスリム人民の民族解放・革命戦争が、79年イラン革命から2001年9・11反米ゲリラ戦争にのぼりつめ、イラク・アフガニスタンを焦点に被抑圧民族人民の民族解放・革命戦争と労働者階級の連帯闘争が帝国主義と全世界的に激突するなかで、さらに激化している。
この中で、米帝のイラク侵略戦争の泥沼化と敗勢、ITバブルの崩壊・昨夏以降のサブプライム問題を引き金とした国際金融危機の深まりとドル危機の歴史的激化という重大情勢が到来している。帝国主義的侵略戦争、世界戦争が加速され、極限的な支配と抑圧が労働者階級と被抑圧民族人民をおそっている。これにたいして、日本をはじめとした全世界の労働者階級と被抑圧民族人民は、帝国主義の戦争、労働運動解体、格差と貧困の階級的攻撃にたいして、革命的出口をもとめて巨大な胎動を開始している。こうして日に日に革命的情勢の主客の条件が成熟しつつある。
現代の時代的本質が、以上のような事実の中からふたたび生々しく浮かび上がっている。国家独占資本主義政策の最後的破産と新自由主義政策への転換とその絶望的展開。戦争と殺戮、労働者階級と被抑圧人民への極限的抑圧、生活と生命の徹底的破壊。現代帝国主義の危機は歴史的分水嶺をこえたのである。この現実のうちに、現代帝国主義がスターリン主義による世界革命の裏切りと絞殺によってかろうじて延命してきたという存在にすぎないことが暴き出されている。そして、現代帝国主義はいまやその基本矛盾の爆発をくり延べるいかなるすべも失い、ただ世界戦争として爆発させざるをえないことが明らかとなってきたのである。
同時に、それは全世界の労働者階級と被抑圧民族人民の生きんがための総決起、帝国主義による分断支配をのりこえた団結によるプロレタリア世界革命への総決起の情勢の成熟を急速に生み出しつつある。そのなかでわが日本階級闘争は、08〜10年の改憲決戦のただなかに突入し、この08年、全世界の労働者階級・被抑圧人民と連帯したサミット・改憲決戦に総決起しようとしている。
まさに、現代世界の時代的本質がロシア革命を突破口としたプロレタリア世界革命の世界史的過渡期に他ならないことがますます鮮明になっている。
●第2インターと同じく階級決戦の切迫のなかで転向した安田派
「革共同」を僭称する安田派中央は、まさにこうした日本―全世界の階級決戦の切迫、プロレタリア世界革命―日本革命を根底から問う情勢の到来のまっただ中で、帝国主義の改憲・戦争と労働運動撲滅・解体の階級的大攻撃の前に膝を屈し、プロレタリア階級闘争からの召還主義に完全に転落している。カウツキーらを指導部とするドイツ社会民主党をはじめとした日和見主義の潮流は、切迫する帝国主義世界戦争にたいする闘争への決起を採択した第2インタナショナルのバーゼル大会決議〔1912年〕に賛成しながら、14年に第1次世界大戦が始まるや社会排外主義に転落し、自国政府の戦争政策を支持し、帝国主義強盗戦争の手先となった。まさに安田派は、当時レーニンが徹底的に断罪し、たたかった「第2インタナショナルの崩壊」に比すべき腐敗と変質の急坂を転がり落ちつつあるといわなければならない。
われわれは、レーニンとボルシェビキ党が第2インターの歴史的裏切りの逆流に抗して革命的祖国敗北主義をつらぬき、「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」「全権力をソビエトへ」のスローガンをかかげてたたかい、1917年10月、ロシア革命を切りひらいていったことに深くまなんで、今こそ反帝・反スターリン主義世界革命、「連帯し、侵略を内乱へ」を高くかかげてサミット・改憲決戦の先頭に立つとともに、すべての労働者とたたかう人民にともに総決起することを呼びかけるものである。
安田派中央がこの間おこなってきたことが、若干の路線変更、部分的誤謬や偏向などではないことは明らかである。それは、マルクス主義・レーニン主義の革命理論と思想、それを復権・継承した本多書記長以来の革共同の綱領路線とは無縁のものである。否、その全体系における変質あるいは崩壊である。
これは、何を根拠として起こったことであるのか。核心をひとつに絞りあげれば、新自由主義攻撃とそのもとでの日帝権力と大資本攻勢にたいする投降と転向ということである。
●対権力問題での屈服が転落の契機
それは、「06年3・14」以降の2年間に起こったことではない。5年〜10年あるいは十数年の長さのなかで進んできたものである。04年4月に「TSG問題」という党史上最大のスパイ問題が発覚した。当時および「06年3・14決起」後において政治局をはじめとした安田派中央がこの問題に対してとった態度は、対権力のたたかいにおける腐敗と崩壊がそのはるか以前から発生していたことを隠しようもなく物語っている。したがって、反帝・反スタ世界革命、戦略的総路線とその闘争路線と実践も、権力への投降と転向と軌を一にして換骨奪胎されていったのである。安田政治局員をはじめとした安田派中央は、革共同の綱領路線の継承を形式的にはかかげつつも、日帝権力の弾圧と大資本攻勢の重圧に屈服するなかで、経済主義と合法主義、排外主義と差別主義へと転落していったのである。
安田派中央との「06年3・14決起」以来の2年間のわれわれのたたかいは、分厚いベールで覆いかくされ、暗い闇のなかに包まれていたかれらの転向と腐敗を誰の目にもわかるかたちで暴き出したのである。「3・14決起」は直接には、権力に投降・転向し不正・腐敗に転落した政治局員・与田らを打倒したたたかいであった。しかし、それは同時に、与田の転向を容認する党中央による、権力とたたかわない・たたかえない党への変質の危機を徹底的に断罪し、「武装し、戦う革共同」の革命的再生をたたかいとることを目的とした決起であった。その目的を断固として堅持し貫いて、その後2年間われわれは、「3・14決起」をひきつぎ、「党の革命」の革命的貫徹のためにねばり強く最大の精力を傾注してたたかってきた。同時に、革共同の反帝・反スタ綱領と戦略的総路線のもとに、労働者階級人民への総決起を呼びかけつつ、教基法闘争・国民投票法案阻止闘争をはじめとした憲法闘争、イラク反戦―反テロ給油新法阻止闘争などの諸政治闘争、全国連とたたかう地域医療運動にかけられた弾圧にたいするたたかい、非正規・不安定雇用問題、国鉄・全逓・教労・自治体・医療などをめぐる攻防を全力でたたかってきた。
しかし、安田同志をはじめとした安田派中央は、権力への投降と転向、党の路線的・組織論的変質をめぐる自己批判と自己変革を拒否した。さらに、それにとどまらず、そうしたあり方にたいする批判者の粛清・打倒に突き進んでいったのである。
●再度の「3・14決起」の力で革共同の奪還を
「3・14決起」とその後の2年間の非妥協的たたかいは、権力に投降・転向し、党の変質をおし進める安田同志をはじめとした安田派中央の階級的正体をあぶり出し、全同志と階級人民の前に引きずりだした。
そのただ中で、われわれは昨11月、関西の党員の過半数を結集して「関西党員総会」の歴史的成功をかちとった。マルクスの労働者自己解放の革命理論と思想、レーニン主義革命論、これを復権・継承した本多書記長を先頭とする革共同の反スタ・革命的共産主義の綱領路線の革命的再生の主体的拠点をたたかいとったのである。安田同志による革共同の簒奪と党の変質策動を徹底的に粉砕し、革共同を革命的に奪還する展望を力強くかちとったのである。そして、昨年12月の『関西党員総会報告・決定集』の発刊、08年1月はじめの『革共同通信』の創刊と継続的発行、他方で、2・10集会の大成功と08年サミット・改憲決戦への突入、PACV闘争、沖縄・三里塚闘争をはじめとした全戦線における大衆闘争の再建、職場生産点の深部から労働組合を戦闘的に再生するたたかいと一体化して、非正規雇用問題の戦略的課題化と08春闘における実践の開始、などの前進を切り開きつつあるのである。
安田派中央による「革共同」の変質をゆるしてしまったわれわれの自己批判の実践は、私たちみずからが日本の6000万労働者階級の階級的組織化を軸とした階級的労働運動とサミット・改憲決戦をはじめとした全戦線にわたるたたかいの前進を切り開くことをとおして安田派の破産を突き出し、徹底的に粉砕することである。そしてそれと一体で、安田派中央のもとで苦悩しつつもなお屈することなくたたかいつづける労働者同志をはじめとした革命的同志たちと結合・合流し、ともに革共同を反スタ・革命的共産主義の党として革命的に奪還してゆくことである。
革共同の革命的奪還のたたかいにむかって、すべてのたたかう労働者・人民の皆さんがともに立ちあがられんことをこころから訴える。そして、何よりも安田派中央のもとで苦悩し、呻吟するこころあるすべての同志に決断と決起を呼びかける。
対権力における腐敗問題はすべて安田派中央によって塗り隠されてきた。それゆえ、何にもまして〈事実〉が大事である。以下に明らかにする事実について、「革共同」のすべての同志に、この事実をめぐる真剣な論議をおこない、自立した共産主義者としての革命的判断と決断をおこなうよう訴える。そして、すべての同志とたたかう労働者人民に、安田派中央にたいする徹底的断罪のたたかいに総決起することをうったえる。
V 安田派中央の対権力問題での投降と転向
(1)「TSG問題」とは何か
「TSG問題」を開き直り、権力への投降と転向の道に転落した安田派中央を徹底的に粉砕し、すべての戦闘的・革命的同志とたたかう労働者人民は内乱・内戦・蜂起、プロレタリア暴力革命をめざす労働者党の革命的再建のたたかいに総決起しよう。
(A)TSG問題(04年5月に発覚)は、反スタ・革命的共産主義運動とその党の歴史上最大のスパイ事件である。
日帝権力・公安調査庁(以下、「公調」)、福岡県警・警備部は85(or86)年ころから、党から脱落し九州・福岡に逃げ帰ってスナックを経営していたTSGに対する工作を開始した。TSGは87年に関西に戻り活動するが、94年夏、近畿公調・藤原の工作でスパイとなることを約束し、100万円を受け取った(※87〜94年の間が「不明」だが、TSGが権力との何らかの関係を持ち続けていたと考えるのが妥当であろう)。以降、02年5月までの8年間にわたって月一回の頻度でホテルで密会し、毎回10万円を受け取り、知りうるすべての党内情報、入手可能なあらゆる文書を権力に売っていた。
何よりも、中央指導部会議の時期、頻度、会議の雰囲気、ある指導的同志の動向などの情報を公調に提供し続けた。また、97年から5年間、与田の主催する「F細胞」対策会議に参加し、構成員の実体、討議の全内容を公調に流し、その議案書のすべてを渡していた。この議案書は中央文書そのものではないが、「中央討議の問題意識や核心点はかえって鮮明に出ている」(与田談)というものである。さらに、TSGが勤務し、活動していた○、あるいは○○、○○○、さらに大阪のいくつかの組織の活動拠点となっていた○○○○を中心とした全関西の諸組織・個人の実体・実態を権力に売り渡しつづけた。
また、与田の不在時に中央の諸文書、「ソナタ」(※01年夏、与田が党の私党化のために関西地方委員会を無視して、そのうえにデッチあげた機関の名称)メンバーの定期報告書類のコピー取りと公調への提供をおこなっていた。また、近畿公調による「革共同・中核派の関西地方委員会の組織と構成員」(1994年度年報用)編集に協力。さらに、ある党的拠点の内部の見取り図の作成と提出、諸同志各人の部屋、机の場所・位置などに関する情報の提供をおこなった。
権力は、与田の対権力の脆弱性・解体性、与田―TSGの非原則的・私(党)的関係に目をつけ、TSGを通したあらゆる形での与田への密着・肉迫に全力をあげた。とりわけ与田が95年に政治局員となって以降は、非公然部をはじめとした党中枢の壊滅のための戦略的準備そのものとしてTSGを使った情報収集と調査を全体重を傾注しておこなってきた。このように「TSG問題」は、数年間の「不明」な期間を含めれば、権力による足かけ16〜7年もの長期にわたって推し進められた空前の一大スパイ事件であった。
何よりも、権力が「与田のカバン持ち」と評し、与田自身が「兄弟同然」(※与田のエセ「自己批判書」に出てくる表現)と自認したTSGと与田との極めて密着した私(党)的関係から、権力のスパイが非公然部を含む党の中枢に8年間にわたって攻め込みつづけたという、その規模、質ともに超弩級のスパイ事件であったということである。
(B)「TSG問題」は、反スタ・革命的共産主義の党の血が現在も日々流されつづけている、党の生き死にがかかった問題である。
「TSG問題」は、すでに克服され、乗りこえられた歴史的過去の問題などでは断じてない。われわれが日々直面している現在的な死活的問題そのものである。それは何よりも、今ひとつは、非公然部壊滅を狙いとする弾圧、与田の不正・腐敗問題と「TSGスパイ」問題が一体となって刻印された党の公然拠点にたいする弾圧の現実性、現在性である。
のちに見る「二つのエセ『自己批判』」に明らかなように、「TSG=スパイ」問題が発覚した時点で、少なくとも与田の主体は対権力において完全に崩壊し、すでに権力に投降、転向していたと断定してよい。その上で、与田はいかなる意味でも自己批判=自己変革と革命的再生をおこなうことなく、またそれゆえに打倒されたのだ。そして、「06年3・14」直後に本社に書き送ってきた文書に明白なように、自らの所業に何らの反省も痛みもなく、むしろ党による断罪と除名の措置にたいして逆恨みを募らせている存在である。
問題は、そのとき「権力にとって与田はどういう存在となったのか」ということである。中央の責任のもとでの可能な監視と統制、掣肘などの体制の構築についての、われわれによる一昨年来からの再三の要請について、これ以上の安田派中央のネグレクトは断じて許されない。今や、内乱・内戦―蜂起、暴力革命を投げ捨て、経済主義と合法主義の道に転落した安田派中央とその「階級的労働運動路線」にとって、かれらが口先で当座なにを言っているかは別にして、レーニンの「3つの義務」とそれにもとづく非非の地下党建設のたたかいは、すでに位置づかないものになりつつある。「ネグレクト」は、その所産であるが、断じて許されない。
安田政治局員をはじめとした安田派中央が、「与田=TSG」問題について、「オレは自己批判などしない」、「与田=TSG問題は関西問題」などといって誰ひとり自己批判せず、責任を非公然中央指導部にすべて丸投げし、「▽▽(※ある指導的同志)の自己批判を23全総として確認する」と「TSG問題」の幕引き宣言をしたことは「合法主義の党」への転落宣言である。
安田派中央の「経済主義・合法主義=権力への投降と転向」を徹底的に粉砕し、権力による「与田のスパイ化」策動とそれにもとづく権力の弾圧を断じてゆるさず、武装し戦う革共同を奪還しよう。○○における反弾圧闘争の勝利の歴史的地平をうち固め、党と労働者階級・人民大衆の団結で権力の拠点弾圧を粉砕し、プロレタリア階級闘争の革命的・内乱的・武装的発展を切り開こう。
(C)「TSG問題」の核心は、安田派中央の日帝権力にたいする投降と転向である。
最初に、「TSG=スパイ」の発覚と、「TSG問題」をめぐる党中央の反動的対応についての事実経過(概要)を見る。
★04年4月、元公調=野田敬生(ひろなり)のメールマガジンが関西中核派内の公調スパイ分子に関して言及していることが判明。
その内容は、近畿公調の藤原について、「一時同派(※中核派)から離脱し九州に逃亡していた構成員を『獲得』することに成功し、組織に『投入』した。関西地方のある組織トップの『カバン持ち』となった同構成員は、党内の地位はさほど高くなかったようだが、数々の秘密の内部文書に目を通し得る立場になった」と記述したもの。
★5月上旬、与田がある同志から野田のホームページの該当箇所の記述を示され、「これはTSGである」と断言。
★5月中旬、与田は政治局員・Kに「TSG=スパイ」に関わる事実について報告。しかしその日の政治局会議には一切報告せず。
★5月中旬、上記政治局会議の数日後、与田は二人の同志に命じてまったく私的にTSGへの査問をおこなった。査問に対しTSGは公調のスパイであったことを認めた。与田は、この査問にあたった二人の同志を介してTSGにたいし「北海道に行け」と逃走を指示。
★5月下旬、与田は政治局会議で「TSG=スパイ」の事実、私的査問とその結果などについてなおもいっさい報告せず、隠蔽しつづける。会議直後、政治局員・Kと論議。
★6月上旬、与田が政治局に「スパイ問題の経過と与田の自己批判」と題する計8ページの文書を提出。
★6月中旬「B会議」で、ある指導的同志が「TSG問題」について与田を批判、「革命的決着をつけるまでやる。この問題は口外禁止とする」と表明。
★6月下旬、与田が政治局に「WS 与田の自己批判」と題する計12ページの文書を提出。 (※「WS」は、「TSG=スパイ」問題のこと。)
★05年秋以降、「3・14決起」指導部による「TSG=スパイ」問題の究明作業が開始される。06年3・14での「全党同志への決起のアピール」で「TSG問題」の暴露と提起をおこなう。
★06年5月、ある指導的同志が「TSG問題」について、「二つの日和見主義」を自己批判。
「ひとつは、この問題の徹底的な究明は権力とのすさまじい死闘となり、これを徹底的に行うならば、当時、新指導路線を打ち出した直後であり、11月集会への闘いに突入するにあたり、この始まった新指導路線が軌道にのらなくなることへのひるみがあった。…。いまひとつは、別な面では、この闘いがもたらす○○、○○○(※与田の指導していた戦線)にもたらす混乱への日和見主義があった」
★6月上旬の関西地方委員会で、「TSG問題」「不正・腐敗問題」をはじめとした与田らの階級的犯罪に関わる責任について中央政治局全員の自己批判を要求することを決定。これに対し、安田同志が「オレは自己批判しない」と言明。
★7月、ある指導的同志が5月と基本的に同趣旨の自己批判。
★9月、22全総で安田同志が「TSG問題」について、「与田がおり、K(※上記の政治局員)がいてさ、なんでこの問題が決着つくの?自分の都合の悪いこと全部、隠しますよ。担当者なんだから。Kが関西と話し合ってやってるわけじゃないですか、…。」と発言。さらに、22全総における全体討議では、「TSG問題は、中央の問題ではなく関西の問題」という発言も出された。「関西の問題」という意見は、その後も、ある産別会議での「TSG問題は関西の問題。だから○○弾圧は自業自得」発言をはじめさまざまな場で出されている。
★12月、政治局は自己批判の表明を依然として拒否。むしろ、もっぱらT政治局員への責任転嫁の論議がおこなわれる。
★07年1月、与田の二つのエセ「自己批判」がある指導的同志の手許から「発見」される。
★2月、政治局がT政治局員にたいし、「スパイ問題が発生したことについて全面的な自己批判をおこなおうとしていない」という批判をおこなう。
★5月、M同志が「TSG問題」をはじめとしたT政治局員の「自己批判書」の配布を全組織に徹底するよう指示、責任転嫁の完成を画策。
★9月、「23全総」において、「TSG問題にたいする○○(※ある指導的同志)の自己批判を全国委員会総会として確認した」。
(2)「TSG問題」に関する与田の二つの「自己批判書」
(a)これは、与田がTSG問題について書いた唯一の文書である。その内容およびそれに対する中央の腐敗した対応・措置に「TSG問題」の核心問題が凝縮されている。この文書は、07年4・29拡大関西地方委員会で地方委員に配布されたが、安田派中央によって今も全党の圧倒的大部分の同志に隠蔽されつづけているものである。
ここでは、その核心部分を明らかにする。そうすることによって、この二つの文書をもって事実上の〈与田自己批判の承認〉とした政治局をはじめとした党中央の態度が正しいと言えるのか否かについて、またこの〈承認〉が実践的に何を意味し、どのような事態を党に引き起こしているのかについて、全党の同志の真剣な討議と主体的判断を要請するものである。
(なお、与田のTSG問題に関する自己批判が当時党中央に提出されたのかどうか、また自己批判書が現存するのかどうかは、「3・14決起」後も一年近く不明であった。われわれが聴取した政治局員各自の意見も、「出された」「出されてない」「記憶にない」とバラバラの有様だった。この中で昨年1月、与田によるTSG問題をめぐる2点の「自己批判」文書が「発見」され、ある指導的同志から政治局に提出された。いずれも、04年6月に書かれたものである。)
以下、最初に書かれた「スパイ問題の経過と与田の自己批判」と題された文書を「第一文書」とし、二つ目の「WS問題 与田の自己批判」を「第二文書」と表すこととする。
(b)第一文書(04年6月上旬、計8ページ)の内容の要旨はつぎの通りである。
構成は、@「結論」、A「TSGの党歴と与田との関係」、B「発覚にいたる経過」、C「TSGと公調との関係実態」、D「総括」となっている。
この「自己批判」の反動的核心は、「摘発=偉大な勝利」論であり、「TSG=傑出した大衆運動家」というTSG絶賛論であり、「優秀なスパイ=革命闘争への貢献者」論である。
与田がそれをどのように言っているか見てみよう。
●まず、「大勝利」論について
与田は、8ページ分の文章において、「TSGがスパイであることを永年にわたってつかむことが出来ず、党へ多くの打撃を与えたことを全党に心から謝罪しなくてはいけない」「全党の同志、とくに○○、○○○の全同志にみずからのいたらなさと不明を詫びる…」といった文句をわずか計4行のみ書いている。
その一方で、「大勝利」論を各章でゴリゴリ展開している。破廉恥の極みである。
▽冒頭の@「結論」と題する章。
「実に大きな損失を受けたが、同時に公調のスパイを遅きに失したとはいえ、摘発・粉砕し、これ以上の損失を防いだことは対権力闘争上の大きな勝利だと確認したい」
▽また、Aでも次のように言っている。
「…摘発は、敵の党破壊工作の切り札を叩きのめしたという点で、大きな対権力闘争上の勝利である」
▽さらにD「総括」ではなんと、「偉大な勝利」とまで謳歌している。
「…公調のスパイを、いかに遅きに失したとはいえ摘発・粉砕したことの意義はやはり大きな勝利であると確認したい。負け惜しみではない。摘発できずに何年にもわたってスパイの跳梁を許すことの組織的打撃の大きさを想像してみれば、この地点で権力の最大の手蔓(てづる)を断ち切ったことはやはり偉大な闘争であったと総括したい」「失ったものも大きいが、水際で公調の跳梁を粉砕したことの意義は実に大きな勝利であったのだ」
●「TSG絶賛論」について
▽Aで、「党の活動家として大衆オルグなどで傑出した能力を発揮」「(○○細胞で)TSGは住民運動の組織化や選挙闘争で、大きな成果をあげ、奴の手によって活動家が育成された」
▽Cで、「(○○細胞で)地域住民の『○○○』運動の組織化で数多くの成果をあげたり、選挙戦で大きな功績をあげた。大衆運動場面におけるTSGの指導性は、他の同志が持ち得ない独特の能力によって党内にうちたてられ、党内的評価も高まった」
▽Dでは、「TSGは○○細胞における住民運動の組織化に大きな功績を残した。○○団地の住民組織をはじめ有力な活動家の発掘と育成に大きな寄与をした。○○○の建設にも多大の貢献をした」
●「優秀なスパイ=革命闘争への貢献者」論について
これを「総括」の項でゴリゴリ書いている。
▽「権力にとって有力なスパイであるためには、スパイは革命闘争に大きな寄与をしなくてはならない。階級と党の利益のために『必死に』闘う姿がない限りスパイが党の中枢にのしあがり、党の全貌をつかみ、党を内側から破壊することはできないのである」
▽「スパイが優秀なスパイであるためには革命闘争にはかり知れない貢献をしなくてはならないのである」 権力とそのスパイTSGにたいする怒りと断罪のひとかけらもないばかりではない。
・スパイと革命闘争への貢献とが両立する!?
・優秀なスパイであればあるほど革命闘争に多大に寄与し、貢献する!?
・スパイは憎むべき階級敵として徹底断罪されるべき者ではない!?
・むしろ与田の評価にもとづく「革命闘争への貢献度の低い党員」よりは、優秀なスパイこそその高い貢献度によってはるかに賞賛されるべきである!?
・だから、スパイであるからという理由で決して非難されることなどあってはならない!?
実におぞましさの極致というべきスパイ肯定論、絶賛論である。TSG絶賛論である。対権力における完全な崩壊と転向である。これはもはや批判の対象ではない。徹底的な粉砕と打倒あるのみである。
まさに、このようなすさまじい転向文書が出されたという時点で、政治局は即座に与田にたいして政治局員はもとよりいっさいの役職からの解任を決定すべきではなかったのか。政治局をはじめとした党中央は転向者に転落し果てたことを告白している与田文書にたいして、その本質を何ひとつ看破できず、したがっていかなる処分・処断もおこなわなかった。むしろ、おこなう立場、思想がなかったのだと言うべきだ。そして、結局はこの文書にたいする「政治的批判」や「弾劾」の議論をくり返しただけにすぎなかった。この事実のなかに、党中央政治局の対権力闘争における崩壊、屈服と投降の現実が隠しようもなく明らかだということである。
(c)「第二文書」(04年6月下旬、計12ページ)について。
構成は以下のようである。
[はじめに]
[T]経過にかかわる問題‐(1)WS(※「TSG=スパイ事件」のこと)の発覚の経過、(2)査問以降の経過
[U]与田の自己批判‐(1)WSとはいかなる問題であったか、(2)なぜWSを与田は生み出したか、(3)政治局の細胞性確立の闘争と与田の自己批判
[V]解明と対策‐(1)公調に売られた情報、(2)今後の対策
この文書の本質は、「第一文書」と完全に同一である。なぜなら、「第一文書」について上述した「摘発=偉大な勝利」論、TSG絶賛論、「優秀なスパイ=革命闘争への貢献者」論の3点に関して、まったく撤回も自己批判もしていないからである。従って、「第一文書」の立場と思想を1ミリも変えず、完全に維持していることは疑う余地がない。
「第二文書」の[U]‐(2)では、次のようにいっている。
「TSGは大衆運動の大きなリーダーシップを発揮した」「○○細胞の誰もがなしえない住民の組織化の工作をつぎつぎと成功させ、住民運動の指導者を育てた。○○細胞の指導的同志は茫然としてTSGを眺めるしかなかった」
「第一文書」をさらに上回る「TSG=傑出した大衆運動家」のTSG絶賛論をくり返している。ここで与田は、「優秀なスパイは、党に貢献する優秀な活動家」と直接には書いていないが、その撤回はいっさいしていない。つまり、撤回をハッキリ拒否している。
だからここで再び、「TSGがスパイというが、それがどうしたというのだ」「TSGはスパイ行為による損失をおぎなって余りある、党にたいする多大な貢献をしたのだ」と完全なスパイ肯定論、「優秀なスパイだったら大歓迎」論、「優秀なスパイ=TSGを失って残念無念」論という「第一文書」のもっとも反革命的な主張とイデオロギーをTSG絶賛論の形で貫徹しようとしているということである。ここには、与田のそうした意思、意図が明白である。
なぜ、「第一文書」につづいて「TSG絶賛」論がかくも堂々と登場しているのか(できたのか)。政治局は、「第一文書」をめぐって、一体どのような議論をしたのか。
この文書は、「第一文書」とともに与田がすでにこの時点で徹頭徹尾転向分子であること、そうした立場から政治局をはじめ党中央を権力への投降・転向集団に変質させるため立ち働いていたことをハッキリと証明するものである。重ねて言うが、与田はこうしたことを自覚的にやっているのだ。ひとつは、自らの私党的あり方と存在、不正・腐敗、「3日4日」生活、(※週の半分以上が小ブルマイホーム主義の生活、党活動は週の半分以下という、与田の腐敗した生活のこと)などの隠蔽・維持・防衛のために、党を権力とたたかわない党、組織原則・規律が解体した党に変質させること自体が目的と化しているからである。もうひとつは、逃亡願望である。TSG絶賛、スパイ賛美の主張が絶対的に認められないとなれば、それを機に党から脱落、逃亡して、これまで張りめぐらしてきた私党の網の中で生き延びようという魂胆でやっていたのだ。
二つのエセ「自己批判書」は、政治警察と徹底的にたたかい、権力の打倒をめざす革命党として絶対に認めることのできないものである。
要するに、この文書は「第一文書」の転向的本質をさらなるペテン的言説をもってつらぬき、そうすることで政治局をはじめとした党中枢を権力とたたかわない・たたかえないものへと変質させ、そうして党の私党化をよりあくどく推し進めてゆこうとする意図をもつものであるということである。
以上、与田の「TSG問題」に関する二つの「自己批判書」の核心部分を見てきた。これが、いかなる意味でも自己批判ではなく、おぞましい権力への転向文書いがいの何ものでもないことにだれも異論はないであろう。にもかかわらず、これ以降、与田がTSG問題に関する自己批判を出したという事実はない。「B会議」(04年6月)におけるある指導的同志の批判や関係者への事後聴取がおこなわれ、また「第二文書」をめぐる政治局における何がしかの批判、弾劾や討議はおこなわれたであろう。しかし、それがどうであれ、二つのエセ「自己批判書」の徹底的粉砕・打倒と自己批判の完遂のたたかいはまったくおこなわれることがなかった。また、いかなる処分もおこなわれることはなかったのだ。
安田派中央は、二つのエセ「自己批判」をはじめ「与田=TSG問題」について、政治局内の直接の担当者であったことをもって「全責任はT政治局員にある」などと責任転嫁と自己保身に腐心している。T政治局員に重大な責任があり、徹底的に自己批判しなければならないのはあまりにも当然だ。しかし、安田同志をはじめとした政治局員一人ひとりの責任を免れることは絶対にできない。当たり前のことである。党の中枢で爆発した党と階級の生き死にに関わる一大スパイ問題について、「オレが何で自己批判しなければならないのだ」とか、「これはT政治局員の責任」とか、「○○同志の自己批判がボクの自己批判です」とかを平然と口にして恥じない自称「革命家」たちが政治局を名乗っている! これを誰がゆるすであろうか。また、二つのエセ「自己批判書」を全党から隠蔽し、密室で議論し、処理しておきながら「TSG問題は関西の問題」などという言説は断じてゆるされない。
(3)TSG問題での政治局の投降と転向
安田政治局員こそ、「党中央」の権力への投降と転向の主犯であり、最大の推進者である。安田政治局員の「TSG問題」、スパイ問題に関する発言、態度を事実に即して見てみよう。
●安田政治局員の言動
(a)06年6月上旬の関西地方委員会での政治局全員への自己批判の要求決議にたいし、「オレは自己批判しない」という態度表明。
(b)06年5月、「△△会議」での発言。
「われわれはブルジョア社会に生きているので、NC(※革共同のこと)といえどもこれからもありうる。ボルシェビキにだってスパイが入っていた。マリノフスキー。レーニンは彼をかわいがっていた」
(c)06年9月、22全総での発言
「与田がおり、Kがいてさ、なんでこの問題が決着つくの? 自分の都合の悪いこと全部、隠しますよ。担当者なんだから。Kが関西と話し合ってやってるわけじゃないですか」 (※政治局員・Kは当時、公然部における「TSG問題」の担当者であった。)
(d)07年3月、政治局会議での発言。
「戦線を地区に再編するのも、それ以外にTSG問題のようなことが防げないからだ。関西の〇〇拠点はスパイが暗躍するなど、不審事態が相次いだ。〇〇拠点は戦線が使っていて、戦線はスパイにしゃぶり尽くされていた。それに比して、OZ関係はほとんどやられていない。このようなことを克服するには、戦線を地区に再編するいがいにない」
(※安田同志はすでに、この年の1月ころから同趣旨の発言を各種の会議でおこなっていた。)
※※戦線を解消する意図にもとづく地区党への行政主義的再編は、戦線の多くの同志たちによる反対意見にもかかわらず、06年12月頃から強権的に推進された。戦線の行政主義的再編は、「戦線=スパイの温床」論のデッチあげにともなって、のちの「7月テーゼ」(07年7月)の「『糾弾主義・血債主義』粉砕」路線を先取り的に実行したものであった。
※※※OZは、「前進社関西支社」のこと。
(e)07年5月、「中央労働組織委員会全国会議」での発言。
☆(「政治局は誤りを犯したのだから自己批判すべきだ」の意見にたいして)
→「お前らはどうなんだ。スパイが入ってきたのは関西の党だ」
☆(「スパイが10年間も党に潜入し、ほとんど中枢的な情報をつかんでいたことについて、全党員の闘いにするのではなくて、隠蔽するという決定を政治局がした。スパイの問題を階級にたいして隠蔽した。全党が革命のために燃え上がってたたかえば、たたかえるはずなのに、たたかうことができなかった」という意見にたいして)
→「全党員でやるなんて、難しい」
☆(本質的に党にとって必要なことだって下ろしていない。だから、こういうことが起こっている」という意見にたいして)
→「関西の必要な部署に下(お)ろすっていうことでしょ?」
(f)07年9月、「23全総」の「まとめ」での発言。
「彼ら(※関西の一部指導部)は、権力とたたかえない党にしたと言って、オレに自己批判を求めた。冗談じゃないよ。なんでオレが自己批判しなくちゃならないの」
(g)同「23全総」の「決定」。
「TSG問題にたいする○○(※ある指導的同志)の自己批判を全国委員会総会として確認した」
●安田政治局員の開き直りと自己合理化の手口
「TSG問題」の発生以降の、とくに「3・14決起」以降の経過、および上述したような「TSG問題」に対する安田政治局員の言動から、以下のことが浮かび上がってくる
(a)「06年3・14決起」以降、安田政治局員が一貫して自己批判拒否、全面的開き直りと自己合理化の態度をとり続けていることである。これは、安田派「政治局」をはじめとしたエセ中央の各人が「3・14」以降も、「TSG問題」にたいして態度表明を回避し、沈黙しつづけているなかで、際だったものである。安田同志が党と全同志を権力に投降・屈服させ転向の道に引き入れるもっとも悪質な先導役を果たしていることを明白に示すものだ。
(b)「開き直りと自己合理化」の手口がまた、すさまじい。
安田同志の言動のなかには、「TSG問題」にたいし自らがどのように受けとめ、たたかったのかということがまったくない。たたかわなかったから、ないのである。
また、自らが「たたかわなかった」「たたかえなかった」ことについての反省も痛みもない。労働者党員をはじめとした全党の同志と階級大衆にたいする責任に関わる言葉もない。そうした感性が崩壊し、自らの腐敗と危機を何とも思わないあり方に変質しているから、ないのである。
「与田がおり、Kがいてさ、何でこの問題の決着がつくの?」こう言って、与田の二つのエセ「自己批判書」を承認したことを合理化、正当化している。つまり、安田同志は初めから与田とその「TSG=スパイ」問題に決着をつける決意も立場もなかったことを告白しているのだ。つまり、安田同志は権力とそのスパイ攻撃に投降、屈服したことについて自己批判するのではなく、まったく逆にそれを正当化することによって真正の転向に突き進んだということである。
またこの発言は、安田同志にとって「TSG問題」という党と階級の死活に関わる問題も、与田らとのブルジョア的権力闘争の材料にすぎず、「この問題で与田らを叩いてポイントをあげれば、それで終結」といった事柄でしかなかったということを端的に示すものである。
安田同志が「TSG問題」にたいしてとった態度は「3・14」の前も後も、中央政治局のとるべき態度とは無縁のものである。これは、いかなる意味でも、もはや革命家、共産主義者のものでは断じてない。まして労働者の指導部の態度ではない。このような人物が革共同中央を僭称することなど一刻もゆるされない。
(c)「スパイが入ってきたのは関西の党だ」
まるで「TSG問題」が、「政治局」をはじめとした安田派中央とは無縁の地点での出来事であるかのような言説である。他のいろいろな場でも「TSG問題は関西の問題」という発言をくりかえしている。
権力・公調は、非公然中央指導部、非公然組織の壊滅を最大の目的にして、さらに党中央全体を最重要の対象として「スパイ=TSG」を使って8年間攻撃し続けてきたのではなかったのか。安田同志は、中央政治局員として全党の同志と階級大衆への責任を感じないのか。この痛苦な現実から目をそむけて、見すえることもできないのか。さらに、与田の二つのエセ「自己批判書」をめぐる議論や与田にたいする事実上の無罪放免はどこでおこなわれたのか。これらはすべて、「政治局」で安田同志らが全党に隠蔽しつつ行ったことではないのか。その結果、与田を2年間も延命させ党中枢の腐敗を推進したことについて安田同志ら中央に責任はないのか。
「TSG問題は関西の問題」なる安田同志の態度には、全党の同志と階級大衆にたいする党中央としての階級的責任をすりぬけ、逃げ回る官僚的自己保身しかない。中央を直撃する大スパイ問題にたいする信じられないような無責任な腐敗した態度を怒りをこめて断罪する。
(d)安田政治局員は、「06年3・14決起」から07年9月の「23全総」(さらには同年11月の「24全総」)にいたる全過程で、「TSG問題」をめぐる反動的決着のためにエセ中央の最先頭で立ちはたらいてきた。
安田同志が、その「反動的決着」のためにおこなった道具立ては、「政治局員・Kらがやっていたから手が出せなかった」論→「TSG問題はすべてT政治局員の責任」論→「『関西の一部指導部』こそ権力に屈服している」論→「23全総決議」での「〇〇の自己批判が政治局はじめ党中央全員の自己批判」論とそれによる「TSG問題」幕引き策動である。加えて、「関西の責任」論と「戦線=スパイの温床」論である。
(e)「戦線=スパイの温床」論について。
「戦線を地区に再編するのも、それ以外にTSG問題のようなことを防げないからだ。戦線はスパイにしゃぶり尽くされていた。このようなことを克服するには、戦線を地区に再編する以外にない。」
戦線は必ず腐敗する。かならずスパイに入り込まれ、しゃぶり尽くされる。―おぞましいばかりの差別主義にもとづく戦線観である。戦線の諸同志の苦闘にたいするゆるしがたい侮辱である。この根底には、被抑圧民族人民・被差別人民の存在とたたかいにたいする牢固とした差別・排外主義の思想がある。それと表裏一体の歪小な「労働者がすべて、他はその従属物」というべきイデオロギーがある。こうした反動的思想から、戦線は地区に再編し、労働者が監視し、「プロレタリア性を刻印し、強制しないと腐敗とスパイの巣窟になる」と主張しているのである。
しかも、こうした主張自体が何の根拠もなく語られている。
安田同志は「戦線=スパイの温床」論の根拠として、「関西の〇〇拠点はスパイが暗躍するなど不審事態が相次いだ。〇〇拠点は戦線が使っていて、戦線はスパイにしゃぶり尽くされていた」などといっている。事実無根のまったくのデタラメである。
〇〇拠点は、その大半をある府県の地区党の常任、WOB(※安田同志が直轄していると称していた労働者組織委員会)の常任が使用し、戦線はほとんど使用していない。無関係である。TSGは〇〇戦線であるが、その他の「スパイが暗躍するなど(の)不審事態」は決して〇〇戦線に限って生起したものではない。安田同志は他方、「それに比して、OZ関係はほとんどやられていない」と言っている。「OZには戦線が在住していないからやられていないのだ」と言いたがっているわけである。しかし、OZこそ戦線の大部分の常任同志が長期にわたって活動してきた。
以上の諸事実からも、安田同志の言っていることが事実無根のデマゴギーであることが明らかである。安田同志は、こうした差別主義的デマゴギーをもって戦線解消論を推進し、「差別主義・排外主義の党」への変質の先頭に立っているのである。そして、その「路線的」完成が「7月テーゼ」である。
(f)安田同志は、みずからの権力への投降と転向の紋章である「TSG問題」の幕引きと「関西の一部指導部打倒」とに躍起となってきた。しかし、その反動的思惑は、決定的な破産を開始している。
なぜなら一方では、「TSG問題」で突き出された安田同志と安田派中央の投降と転向の現実がくりかえし大爆発したからである。のちに述べる「政治局員・Aによる2度の重大文書押収とその事実の隠蔽、権力への同志売り渡し事件」である。安田同志はこの事件をめぐって、安田派中央の権力への投降と転向の現実を弾劾し、たたかうどころか、まったく逆にその先頭に立ってこの腐敗した現状をかばい、維持していることを自己暴露した。「TSG問題」の幕引き劇を何度演じてみても、「投降・転向」の現実を塗り隠すことはできないのである。
他方では、「11月関西党員総会」の歴史的成功による革共同の革命的奪還のたたかいの開始が、安田政治局員の転向を隠蔽する策動を粉砕したからである。つまり、「3・14決起」の指導部の粛清・打倒によって「TSG問題」が突き出した権力への投降と転向の事実を抹殺しようという安田同志のたくらみは木っ端微塵に粉砕されたのである。要するに、「TSG問題」をめぐって突き出されたみずからの共産主義者、革命家としての腐敗と転向の正体は、結局どんなペテンも陰謀も、それを覆い隠すことなどできなかったということなのである。
(g)以上、安田同志の対権力問題における腐敗について事実にそくして見てきた。
そこで明らかとなったことは、安田同志その人においてスパイ問題、対権力問題という階級とその党の生き死にに関わる闘争を徹底的に非妥協的にたたかう思想が土台から崩壊しているということである。それどころか、そうしたみずからの思想的崩壊と転向的現実を徹底的に開き直り、合理化するなかで、ついに党と同志を権力に売り渡す犯罪さえ容認するにいたっているということだ。
安田同志は、わが革共同の91年「5月テーゼ」転換をはじめきわめて重大な役割をはたしてきた。さらに、政治局員となってのちも動労千葉のたたかいの経験にもとづく労働運動などをめぐるわが党における影響力は多大なものであった。そうしたことから、近年は議長とならぶ、いやある意味では議長をもこえる位置さえ占めてきた。それゆえ、現在の「革共同」をめぐる安田政治局員の責任はきわめて大きく重い。安田政治局員こそ、「革共同」における反帝・反スタ綱領の放棄と組織のスターリン主義的変質、党の私党化と権力への投降・転向に関する最大の政治的・組織的責任を負うべきものであることをハッキリさせなければならない。
そして安田派中央の諸君は、そうした安田同志の対権力問題をはじめとした腐敗とたたかわず、これを容認、支持することでみずから腐敗を深めているということである。すべての政治局員と全国委員の諸君も厳しく責任を負わなければならない。
安田同志は「3・14」直後に言った。「魚は頭から腐る」。たしかに名言である。しかし、今や安田同志その人がそのことを身をもって示している。
●「3・14決起」に対する恐怖と憎悪
しかし今ひとつ重要な問題は、(一)の諸事実、(二)で述べた安田同志の行為の政治的意味と目的の、その真の基底にあるものとは何かということである。
それは、「3・14決起」にたいする恐怖と憎悪ということなのである。
「3・14」は直接には、与田らの日帝権力に対する投降と転向、そうした与田らとそのあり方をともにしていた党中央にたいする決死的糾弾であり、その根底的自己批判なくしては中央全体(全員)の打倒いがいにないことを確認して敢行された革命的蜂起であった。
問題は、これを安田同志と安田派中央がどう受けとめたのかということであった。
安田同志は、「3・14蜂起」を他の誰でもない、みずからに向けられた刃であると直観したのである。なぜなら、「3・14」が、「TSG問題」が突き出した権力にたいするみずからの投降・屈服、転向の正体、またみずからの腐敗した私党的あり方、さらに腐った私生活のいっさいを暴き出し、これらを真っ正面から打倒対象とする革命的蜂起であることを誰よりも鋭く察知したからである。まさに、安田同志は「3・14蜂起」に心底から震撼したのである。
したがって安田同志は、「3・14決起」を知ったその日から「3・14の転覆と打倒」を決意したのだといって言い過ぎではない。「3・14」直後ただちに「断固支持」を打ち出したのも、ただそのためであったにすぎない。実際、安田同志の「3・14」直後からのすべての言動は、一方での恫喝と脅迫、デマと陰謀、他方での懐柔と籠絡などそのときどきの手練手管の変遷はあっても、一貫して「『3・14』の転覆と打倒」の意思につらぬかれたものであった。
●清水議長の指導の破産―二つの私党グループの共存と暗闘
以上、TSG問題にたいする安田政治局員をはじめとした「革共同中央」の態度について、それがかれらの権力への投降と転向を突きだしているものであることを見てきた。その上で、この問題を若干組織論的に検討してみよう。それは、一言でいえば清水議長による党中央における細胞建設、中央指導部建設の破産にもとづく政治局における細胞性の解体、崩壊ということである。
なぜか。清水議長そのひとの帝国主義権力による重圧への屈服と戦闘性の喪失、労働者階級とその党の苦闘に現実的責任をとることにたいする日和見主義と逃避、それらにもとづく官僚的自己保身と権威主義的自己絶対化ゆえである。そのあり方の問題性は、「3・14決起」という非常事態、それにつづく一連の重大事態の現場に身を投ずることを拒否しながら、1年以上を「『3・14』に関する自己批判」の文書活動に費やしていたことに集中的にあらわされている。生きた現実とまったく切り合うことのないこのような空疎なあり方こそが実は、中央における細胞建設、指導部建設の破産の根拠だったのである。
一方における清水議長をはじめとした中央による階級大衆との結合の格闘の欠如と権力・資本にたいする敗北主義、他方における清水議長の中央における細胞建設の破産と権威主義、そのもとでの中央指導部全体の細胞性の解体が進行する中で、一定の組織的基盤をもつ私党集団が発生、登場してきたのである。議長の空疎さと観念性はこれらにたいして無力であった。その結果、議長は安田私党グループと与田私党グループの上に権威主義的に君臨するにすぎないという事態が長期にわたってつづけられたのである。この中で、一方では「TSG問題」と結びついた与田の転向問題に対する党中央の屈服が生み出され、他方で観念的な「路線的一致」による政治的裁断運動が始まり、今日の安田私党のもとでの「7月テーゼ路線」、「動労千葉労働運動特化路線」、「体制内労働運動との決別路線」という名のカルト運動につながるあり方を胚胎・生成したのである。党中央のこうした腐敗したあり方が党をどれだけ破壊し、ゆがめてきたかは計り知れない。
「3・14決起」は清水議長の中央における細胞建設の指導の破産と、そのもとでの以上のような腐敗した構造とを根底からあばき、弾劾するものであった。だから、清水議長はこれに心底から恐怖し、憎悪したのである。07年5月の「BZ会議」以降の清水議長の「3・14」にたいするあらわな否定と抹殺への突進は、そのことをよく物語っている。
●安田同志と清水議長による「3・14決起」の転覆
今日、問題は明確になっている。議長の「自己批判」はただ自己保身だけが目的であった。いや、「3・14決起」への報復と抹殺がその真の目的であった。安田同志とほとんど同時に、「3・14決起」を知ったその瞬間から以後2年間、その反動的ひっくりかえしのために血道をあげた日々であったということである。
「3・14決起」は議長に何を問うたのか。清水議長は膨大な「自己批判」を書きながら、党中央の細胞的建設、中央指導部建設の指導の破産、それが生み出した与田私党(さらに、安田私党)という核心問題についてまったく言及しない。そうした観点から「TSG問題」について総括しない。できない。一貫して逃げている。どこまでいっても官僚的自己保身である。だから、革共同の組織思想、組織論とは無縁のあり方だ。こうした組織論的問題性の中に「与田問題」の発生と登場をゆるす根拠があったのだ。そしてまた、「3・14決起」以降の安田政治局員による党の私的簒奪、党の安田私党化の組織論的根拠があるのである。
TSG問題とそれをめぐる与田のエセ「二つの自己批判」(04年4〜6月)にたいして、安田政治局員らはなぜ最後の決着まで断固としてたたかわなかったのか。「3・14決起」後も、なぜ「与田がおり、Kがいてさ、なんでこの問題が決着つくの?」などという態度が出てくるのか。ここに、与田らの私党グループにたいして安田政治局員らが今一つの私党グループとして「対抗」していたにすぎなかったことが浮き彫りになっている。もし、そうではなく、安田政治局員らが真の共産主義者の集団として存在していたのであれば、超反動的な「自己批判書」を出してきた与田とその私党グループの犯罪を政治局内外でいのちをかけて暴き出し、徹底的に粉砕するまでたたかいぬいたであろう。安田政治局員は、現在の「政治局」をはじめとした「革共同中央」における私的独裁、党の私党化・私物化につながる私党グループをすでに当時、政治局の内外で形成し、与田私党グループとの間でブルジョア権力闘争政治にもとづく野合と「対抗」をくり返していたにすぎなかったということである。
両者は以上のような意味で、本質的におなじ穴のムジナでしかなかったのである。与田の対権力の転向問題ではほどほどのところで矛をおさめ、「手打ち」し、その後2年間もこれと野合した安田政治局員らは、「3・14決起」を青天の霹靂のチャンスとばかりに、一転して与田私党グループの全国的粛清運動を展開した。そして、その決着後は「3・14決起」を中心的にになった同志たちをはじめとした「反スタ・革命的共産主義者の集団」を「真の敵」として根絶・一掃に血道をあげている。これがこの間の事態の本質である。
つまり、権力への投降・転向と私党化がたがいに原因と結果となって、今日の安田派中央の腐敗した現実に行きついたということである。
W 安田派中央による重大文書押収事件の隠蔽と同志の売り渡し
安田派中央は、TSG問題にたいする態度のなかに突き出された権力への投降と転向を、「06年3・14」後もさらに深めている。ここでは昨年、一昨年に起きた文書押収事件について取りあげる。
(A)「07年11・12事件」
@事実経過
昨年11月12日、本社にたいし11・4労働者集会のデモに関連して「公務執行妨害」を口実とした警視庁公安部によるガサ弾圧がおこなわれた。その際、政治局員・Aが権力に「○○報告」(※防衛上、○○とする)と題した関西に関する、以下の内容が記載された文書を押収された。
ひとつは、「拡大24全総」の日時である。これは、単純な暗号(※たとえば「11・23xy」といった)を施して記載されていた。もうひとつは、「11月関西党員総会」についてである。これは、ナマのまま日時が書かれていた。さらに、昨年10月の関西地方委員会における「11月関西党員総会開催」の採決結果である「9:6:2:1」について、その実体が全員ペンネームで記載されていた。
安田派中央は、この事実をひた隠しにしたまま「24全総」を強行した。また、関西地方委員会指導部および地方委員のだれにも連絡、通報をおこなわなかった。
A安田派中央は、総会に結集した全関西の過半数の党員同志、「24全総」に参加した全国委員、安田派を中心とする関西からの参加者、本社・東京・首都圏の常任などの諸同志を権力に売り渡したということである。この日、権力は▽日間の周到な準備のうえに、全関東、全関西に大々的な観察・監視・尾行の体制を敷き、弾圧の網を張りめぐらした。東西の会議参加者全員はそのもとにさらされたのだ。
またこれは、安田派中央が現在の党の「分裂」の危機の現実・実態を権力に知らせ、党の脇腹を権力にさらし、そうしてこの危機への権力の反革命的介入とあらたな弾圧を呼び込むという絶対にゆるすことのできない行為をおこなったということに他ならない。
B上記のような内容の文書の押収を許したこと自体が、極めて深刻な敗北であることはいうまでもない。断じて曖昧にされてはならない。しかし、それ以上に重要なことは、生起した事態を直ちに関係諸同志に明らかにし、必要な防衛上の対策と措置を全力でとることである。
しかし、政治局員・Aをはじめとした安田派中央は、事態と事実のいっさいについて隠しつづけた。ここには、すべてに優先して権力の弾圧から党と同志、階級大衆を絶対に守り抜くためにたたかうという共産主義者とその党としての最低限のあり方さえ皆無である。ただ官僚的自己保身しかない。
「11・12事件」が単に対権力闘争における原則を逸脱しているといった次元の問題ではないことは明らかだ。「TSG問題」につづいて、安田派中央における権力にたいする恐るべき思想的・イデオロギー的屈服、対権力闘争における崩壊と転向の現実を衝撃的に暴き出した事件である。
(B)「06年5・29事件」
@一昨年5月29日(※「3・14決起」の2か月半後)の本社ガサにおいて、「11・12事件」と同じく、政治局員・Aが警視庁公安部によって重要文書を押収された。「▽▽▽▽報告(3)」(※▽は伏せ字とした)と題する計5ページの文書である。
Aその内容は、真に戦慄すべきものである。
これは、「新体制の考え方について」、「政治局および中央執行委員会に関する暫定体制について」、「部局長会議および理論委員会の体制について」、「各地方委員会の体制再編」、「学生戦線の指導体制」の5章から成っている。
「3・14決起で現在の政治局、中央執行委員会、理論委員会は打倒された」として、粛清・再編人事の対象者として若干名の重複を含む約90名の名簿が掲載されている。
そのうち処分・粛清の対象とされた者は一人ひとりについて、「3・14決起反対の態度をとった。○○の任務に耐えるものではないと判断した。新たな任務で一からやり直す」、「とんでもない◇◇破壊行為をした。▽▽所属で一党員としてやり直す」、「全役職を解任して、▽▽の一党員としてやり直す」「▽▽▽から外す」などというようなおぞましい「判決文」が書かれている。
また、政治局、中央執行委員会の旧来メンバーは数字コード(※たとえば政治局員X同志は「789」という数字で表すなど)だが、その新参加者および地方委員長全国会議の全員、本社部局長の全員、理論委員会の全員がペンネームで記載されている。中四国、九州の各地方委員会をめぐる粛清&落下傘人事はより詳細に書かれている。
要するに、このガサ弾圧をめぐる敗北によって、その後の粛清・追放・除名となった「関西の一部指導部」および若干の諸同志をふくむ党中央の構成と実体が権力の手のひらのうえに乗せられてしまったということである。
Bこの問題もまた、A同志と政治局をはじめとした安田派中央によって今なお隠蔽されている。この事件は、後日の「中央執行委員会」で一度問題にされかけたが、政治局員の数名がその場でもみけしに全力をあげ消し去られた。「07・11・12事件」、「06・5・29事件」、そして「TSG=スパイ」事件――権力はこれらによって最重要の組織機密を手に入れた。わが同志たちは安田派中央の隠蔽によって、権力の攻撃の前に武装解除されるままである。このような革命党がどこにあるのか。
C政治局員・Aによる重大文書押収の敗北は、われわれが知るだけでも以上のように少なくとも2度もくりかえされている。断じて許されるものではない。権力にたいする文書の防衛は完黙・非転向の思想の貫徹のたたかいそのものである。特に組織問題に関わる文書(「06年5・29文書」はその典型である)や、対権力の防衛をはじめとする軍事問題が記載された文書(「07年11・12文書」はその典型である)を敵の手に渡すことは、権力による弾圧と党の公然主義的解体攻撃に手を貸すことになることから、その防衛は絶対的なものである。
そうしたことを鑑みれば、「文書問題」の敗北は、完黙・非転向を実際には貫くことができなかったにひとしい事柄として厳しく総括されるべきことではないのか。上記した二つの敗北は、それだけでも実践的な意味としては「『完ゲロ』にひとしい事態だ」というべきではないのか。ところが、安田派中央は、そうした真剣な自己批判的とらえかえしどころか、事実の隠蔽と同志の売り渡しに走ったのである。腐敗の極みといういがいにない。
さらに筆者が知る限り、この十数年間、本社ガサにおける文書問題の敗北は、大なり小なりほとんど2回に1回は発生している。「関西の一部指導部は完黙・非転向の否定者に転落した」というデマを大合唱している安田派中央の同志諸君は、自らとその足元で完黙・非転向の思想がどれほど無惨に崩壊しているか、謙虚に直視すべきである。
(C)安田派中央の対権力問題の崩壊ぶりを、もう一つ事実をあげて示しておきたい。
N同志(※京都府委員会所属)の問題である。対権力におけるデタラメな態度で知られるN同志をあえて中央指導部にすえた安田派中央の腐敗だ。
N同志は、「取り調べでオレは権力と論争して勝ったんや」とか、「名前を言えといわれて、『オレはNや』と押し通して権力に認めさせたんだ」などと吹聴している。完黙・非転向の逸脱、獄中闘争のありかたにおける問題性を厳しく批判した諸同志にたいし、「完黙などというのは、運動をはじめたばかりの学生のやる話しや。オレは長い間の経験を積んだ革命家や。そんなのと一緒にするな」などと開き直った。90年代の「免状不実」での2回の逮捕で、いずれもこうした言動を平然とおこなった。しかも、いまだに反省するどころか、これを「自慢話し」にしている。
安田派中央は、N同志のこうした対権力における問題性を問うこともただすこともなく昨秋、「全国委員」やエセ関西地方委員にすえた。要するに、「N同志は安田同志に忠勤を誓った人間なのだ。それで充分。獄中で権力と論争しようが、お喋りに興じようが、何が問題だというのか。完黙・非転向は『ケースバイケース』なのだ」ということである。この見境のなさは何か。安田同志の権力への投降と転向にもとづく対権力闘争の原則の崩壊ゆえである。そして、「革共同」の安田私党への変質ゆえである。
(D)安田政治局員と、安田派中央の責任を問う
@与田の私的査問、「二つの自己批判書」問題をはじめとした「TSG問題」をめぐるすべての経過と事実を全同志の前に明らかにせよ。
「TSG問題」をめぐる、安田政治局員をはじめとした「政治局」と「全国委員会」としての責任を明確にし、自己批判と総括を全同志の前に明らかにせよ。
A「07年11・12事件」、「06年5・29事件」に関わるすべての事実を全党員の前に明らかにせよ。
B権力に重大文書の押収をゆるしたことについて自己批判せよ。
C事実の隠蔽によって、党と同志を権力に売り渡したことについて、謝罪と自己批判をせよ。
とくに、「11・12事件」に関しては、昨11月の「関西党員総会」参加者は全員直接の当該である。「11・12事件」の責任を明確にし、謝罪と自己批判をもとめる。
X おわりに
この間安田派中央によって、「5月テーゼ以来の16年間は路線的反対派との非妥協的な党内闘争の過程であった」とか、「3・14決起は、新指導路線反対派にたいする党内闘争の勝利であった」とかいう総括がくり返されている。キレイゴトの総括をしてはならない。歴史の事実を歪曲してはならない。このようなインチキな総括の陰で「TSG問題」をめぐる自己批判をごまかしたり、責任転嫁したりする官僚的自己保身に腐心することなど断じてゆるされない。
安田同志をはじめ安田派中央は、「新指導路線」の実践の先頭にたってたたかっていた兵庫県委員会にたいして与田のおこなった粛清・打倒運動を、全員よく知っていたではないか。そして皆これを全面的に擁護し支持していたではないか。「新指導路線をめぐる非妥協的党内闘争」なるものが、このどこにあるというのか。
さらに、安田同志をはじめとした中央は「TSG=スパイ問題」をめぐる与田のTSG=スパイ絶賛のエセ「自己批判」と転向という党存立の危機に直面しながら、だれ一人命がけでこれと対決し、たたかい抜かなかったではないのか。それどころか、いかなる処断もおこなわず与田のエセ「自己批判」を承認したではないのか。そうして、その後「3・14」まで2年間も与田と平和共存してきたではないのか。こうした事実と、「安田派中央と与田らとの非妥協的な路線対立」なるものとがどこをどう押せば両立するというのか。
要するに、「TSG問題」にせよ、「兵庫県委員会=分派」規定=粛清・打倒運動にせよ、○○細胞における粛清・追放運動にせよ、安田派中央は与田の犯罪的所業を百も承知しながら与田を支持し、ハッキリいって完全に一体となってやっていたということなのだ。 ちなみに、政治局の議論の中にも昨年中頃には、比較的まともな意見もあった。
「…、N、Kも、与田らとほとんど同じ思想・路線・体質に染まっていることを明確にすべき。かれらの新指導路線反対は、単に路線に反対というきれいごとの話しではなく、党を権力と闘わない党、権力に投降する党に変質させるものとしてあった」(06年7月、「▽▽会議」。S発言)。ところが、この同じ人がその後安田派に軽々と乗りうつって、「安田同志による与田ら新指導路線反対派との死闘の歴史」を唱道し、「塩川一派打倒」の先頭に立っている。今や、「政治局」はこういう変節を生産・再生産する機構(マシーン)になってしまっているということだ。
3・14決起は、以上に明らかにしてきたような政治局をはじめとした党中央の政治的・思想的腐敗、その反動的結晶というべき「TSG問題とそれに対する中央の態度」に凝縮して表現された日帝権力への投降と転向の危機にたいする怒りを大爆発させた蜂起だったのである。改憲、侵略戦争、大民営化=労働運動・労働組合運動撲滅の階級的大攻撃―これにたいする労働者階級・人民大衆の革命的出口を求める決起の開始という革命的情勢の急接近のなかで、レーニンの「3つの義務」をいまこそ真っ正面から実践する党の革命的再生をかけた蜂起だったのである。すなわちこれは、反帝・反スターリン主義世界革命の基本戦略、「連帯し、侵略を内乱へ」をはじめとした戦略的総路線を復権し、職場闘争と労働者細胞建設を基礎に、階級的一斉武装蜂起、権力奪取、プロレタリア暴力革命に向かっての本格的準備を実践的企てとして開始する党への革命的再生・再確立をかけてたたかわれたのである。
それはまた、与田によるTSG問題、不正・腐敗問題、「F細胞」粛清事件、「兵庫県委員会=分派」規定問題などを許してきた「3・14決起」指導部としての痛苦の自己批判を与田打倒の実践をもって開始するたたかいでもあった。こうした3・14決起の革命的核心の安田派による歪曲、否定、抹殺を断じてゆるしてはならない。
すでに見てきたように、安田派中央は国家権力に屈服、転向している。この十数年間のなかで権力の弾圧、大資本攻勢にたいし、無展望と敗北主義を深め、ついに対権力における骨折れに転落していったのだ。そうして、安田派中央は、反帝・反スターリン主義世界革命綱領、「連帯し、侵略を内乱へ」、内乱・内戦・蜂起の総路線を投げ捨て、革共同を経済主義と合法主義、排外主義と差別主義の党へと最後的に変質させるための策動をくり広げている。その本質は、「労働者階級と被抑圧民族人民の団結による暴力革命と革命的内乱」にたいする恐怖と反動である。「広島事件」をめぐる糾弾撲滅運動はそのことを鋭く示すものだ。安田派中央は、第3次分裂における黒田=カクマルの道を45年遅れで、「70年7・7自己批判」を「先駆的」に拒否し敵対したカクマルを30数年遅れで、プレハーノフの「武装闘争への決起は労働者の敗北」論を90年遅れで追いかけ始めたのだ。
わが革共同は、日帝権力ともっとも原則的にもっとも非妥協的にたたかってきた党である。破防法弾圧、「5・7宣言体制」のもとでの革共同・革命軍の絶滅・解体を狙った弾圧、星野同志をはじめとした超長期獄中攻撃、数え切れないデッチあげ弾圧、あらゆるかたちのスパイ攻撃、公然主義化・合法主義化の攻撃と徹底的にたたかい、党と労働者階級をまもりぬいてきた。昨年の○○をめぐる闘争拠点解体の弾圧にたいしても、かつてない大衆的反弾圧闘争を展開し、あらゆる困難を乗りこえ獄中の仲間を完黙・非転向のうちに奪還した。そうして、「連帯し、侵略を内乱へ」の非合法・非公然の党、「レーニンの『三つの義務』」を遂行する党を建設してきたのだ。
まさに、「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」がいっさいの核心問題として問われている。
すべてのたたかう労働者人民の皆さんに呼びかける。そして、安田派中央のもとで苦闘するすべての同志に訴える。権力に投降・転向した安田派中央を徹底的に粉砕し、のりこえる党として革共同をともに再建しよう。サミット・改憲決戦の大衆的・階級的高揚と階級的労働運動の本格的前進をともにかちとろう。革共同を奪還し、反スターリン主義・革命的共産主義の労働者党のあらたな発展をともにかちとろう。
(展望創刊号掲載)