本多延嘉書記長の略歴
 
 一九三四年二月六日 父光治、母喜美子さんの長男として、東京の下町、神田和泉町に出生、浅草鳥越で育つ。浅草柳北小学校に入学。父は全逓労働者。弟、妹各一名。第二次大戦の戦火がはげしくなるなかで、一家とともに埼玉県北足立郡足立町(現志木市)に疎開。同地で宗岡小学校を卒業。
 労働者の子、農民の孫として、革命家としての生来の資質をみがきあげ、終生それを誇りとしてきた。
 一九四六年四月 第二次大戦の軍事的敗北の翌年、旧制中学の最後の世代の一人として県立旧制川越中学校入学。戦後革命の敗北の嵐のなかで、政治的、思想的にめざめ、民青に加盟。
 高校卒業前にすでに日共に入党。高校および居住細胞で精力的に活動。いまでも故郷にはかれの支持者が数多くいる。
 一九五二年三月 川越高校卒業。
 一九五三年四月 早稲田大学第二法学部入学。※
 一九五四年四月 早稲田大学第一文学部国史学科に転入学(一九五八年中退)。
 早大新聞にて早くより編集長をつとめ、抜群の才をあらわし、多くの後輩を育てる。早大新聞、日共早大細胞(当時四〇〇名いた)の指導的地位を占め、早大および首都の学生運動で大きな役割を演じる。
 一九五五年七月 日共六全協に接し、日本共産党の指導方針にふかい疑問を感じ、スターリン主義の反省への第一契機となる。
 一九五六年十月 バンガリア革命の衝撃。革命家として、人間的に悩みぬき、この現代史的問題性を深刻にとらえかえし、共産主義運動の根本的再生のため、反スターリン主義のたたかいを決意。
 一九五七年末 黒田寛一の弁証法研究会に参加。
 一九五八年 革命的共産主義者同盟の創成にくわわる。トロッキー教条主義者太田竜とのたたかい(革共同第一次分裂)をつうじて、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命の綱領的立場を実践的=思想的に確立する。日共早大細胞にて宮本派を打倒、指導権を掌握。日共早大細胞と早大新聞は、全学連の活動家=学生日共党員の「左への転換」の拠点の役割をはたした。
 一九五九年八月三一日 トロッキー教条主義西派と決別(革共同第二次分裂)し、革共同全回委員会創設、書記長に就任。この過程は、同時に、黒田による書記局活動の解体、非組織的逃亡、サークル主義的非実践性とのたたかいとしてはじめてかちとられた。
 『前進』をみずからガリ版で創刊。以後一貫して機関紙の指導にあたる。
 一九六〇年 六〇年安保闘争の最先頭にたってたたかう。
 一九六一年 六〇年ブントの解体・吸収にめざましい指導的役割を演じる。
 一九六二年 九月末、三全総において、同盟のボルシェビキ的強化・発展(地区党の建設)と、戦闘的労働運動の防衛と創造の路線を提起。革共同の革命党としての全面的飛躍をかけて、同盟内にはらまれていたサークル主義的体質の克服、革命的自己脱皮のたたかいを開始。直後の黒田一派の卑劣な分裂策動=革命家以前的な非組織的態度による党内闘争からの脱落(第三次分裂)とはげしくたたかいつつ、革命的労働者党の現実の生きた階級闘争のなかでの創成と発展を主導。
 一九六三年 カクマルは、四月一日反革命通信『解放』を発刊、分裂と敵対の道を本格的にあゆみはじめる。この卑劣な敵対策動を非妥協的に粉砕するたたかいを先頭にたって指導。九・一三闘争において全都学生のまえで、いっきょにカクマルを粉砕。さらに六四年前半で圧倒的に全国的、全戦線的に決着をつけた。
 一九六四年 秋、五全総の討論を主導。ベトナム・日韓を中軸に世界革命における民族・植民地問題の意義を鋭く提起し、革共同のベトナム・日韓闘争における指導的役割を確定する端緒をきりひらく。
 一九六五年 ベトナム反戦・日韓闘争を指導。
 一九六六年 夏、革共同三回大会の草案を執筆。
 「戦後世界体制の根底的動揺と日帝の体制的危機」の世界史的認識を提起し、それにふさわしい同盟の戦闘体制の構築=同盟の決定的飛躍に、いっそう精力的に活動。十・八羽田からこんにちの同盟の基盤をきずく。
 一九六七年 十・八羽田闘争を指導。「激動の七ヵ月」を先頭でたたかい指導しぬく。
 一九六八年 「激動の七ヵ月」、十・二一新宿闘争をへて日大闘争、東大闘争をはじめとする全国大学闘争を指導。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線を提起。 一九六九年 四月二七日、四・二八沖縄闘争を前に破防法第四〇条にて逮捕→七一年三月末まで二年間未決勾留。獄中よりたえず同志を鼓舞。また獄中にてきびしい読書・研究プランをみずからに課す。
 一九七〇年 『戦争と革命の基本問題』(本書第二巻 所収)の骨格を執筆、内乱・内戦――蜂起の路線の確立を指導。
 一九七一年 三月出獄。七一年秋の「第二の十一月」を指導。非合法下における党の指導体制の確立に尽力。十二・四反革命とのたたかいの先頭にたつ。
 一九七二年 二重対峙・対カクマル戦争を内乱・内戦――蜂起のたたかいの端緒として積極的に位置づけ、戦略的防御の戦いのなかで全党の戦争体制、指導原則を強固に確立。
 夏、『レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か』(本書第一巻所収)を執筆。黒田=カクマルのレーニン主義を小ブル自由主義に反革命的に解体するペテン的論理を完膚なきまでに批判することをとおして、レーニン主義の全面的復権、世界史的激動の七〇年代にふさわしい創造的発展の基礎を確立する。
 一九七三年 革命的報復戦への突入を決断。「九・二一」の実現へ、政治的=組織的=軍事的指導を全一的に貫徹する。
 一九七四年 八月、戦略的総反攻宣言以降、たぐいまれな精神力と体力とをもって全同盟の指導にあたり、勝利への道を驀進しつつあるさなか、
一九七五年三月一四日未明 反革命カクマルの襲撃をうけ激闘のすえ暗殺さる。享年四一才。夫人恵子さん、長男力(ちから)君。
  豊かな人間的感性にささえられたまれにみる理論家であり実践家であり、葬れてなおやむことのない不世出の革命の首領である本多書記長。われわれは、勝利をこの手ににぎりしめる日まで、本多書記長を先頭にたたかうであろう。