解 題
 
 (1)本著作選の最終巻をなす第七巻には以下のものを収録する。第一部に、一九七一年十月二五日におこな われた破防法裁判闘争を支える会主催の講演会での講演、第二部にレーニンの『何をなすべきか』についての学習会講演(一九七三年)とそのレジュメ、第三部に、マルクス『経済学・哲学草稿』のレジュメとマルクス『ドイツ・イデオロギー』レジュメ、および獄中書簡のいくつか、第四部に、一九七〇年獄中で執筆された「安保体制にかんする覚え書――現代帝国主義の軍事体制」(未発表)を、第五部に六七年から六八年にかけての政治論文を、第六部に破防法裁判闘争に際しての発言を収録している。
  最初に各論文の掲載紙、誌、日付をかかげる。
 T 七〇年代・革命の時代
 七〇年代・革命の時代(『破防法研究』一四号一九七二年一月)
 U レーニン主義党組織論
 1 前衛党組織論序説――『何をなすべきか』に学ぶ(一九七三年マル学同中核派夏期理論合宿にむけての講演、未発表)
 2 『何をなすべきか』レジュメ(未発表)
 V 現代革命と史的唯物論の再建
 1 『経済学・哲学草稿』レジュメ(未発表)
 2 『ドイツ・イデオロギー』レジュメ(一九七三年マル学同中核派理論合宿にむけて執筆、未発表)
 3 獄中書簡(一九六九年〜一九七一年、未発表)
W 安保体制にかんする覚え書
 安保体制にかんする覚え書――現代帝国主義の軍事体制(一九七〇年、未発表)
X 十・八羽田から六八年新宿騒乱へ
 1 激動の一九六七年を迎えて――小選挙区制阻止・安保再改定粉砕(『前進』三一五号一九六七年一月二日)
 2 激動する現代世界と日本階級闘争の使命(『前進』三一八号一九六七年一月二三日)
 3 日本共産党の卑劣な攻撃は何を告白しているか(『前進』三三三号一九六七年五月八日)
 4 開始された七〇年闘争――砂川五・二八→七・九へ――(『前進』三四一号一九六七年七月三日)
 5 帝国主義の重圧をはねかえし、巨大な進撃へ共同の決意を(『前進』三六二号一九六七年十二月四日)
 6 佐世保と七〇年闘争(『前進』三七三号一九六八年三月四日)
 7 社民の「最後の先兵」カクマル(『前進』三八八号一九六八年六月一七日)
 8 七〇年安保闘争の勝利のために(『前進』四一一号一九六八年十一月二五日)
Y 破防法裁判闘争
 1 獄中からのメッセージ(『破防法研究』一号一九六九年七月)
 2 破防法公判にあたって・意見表明(『破防法研究』七号一九七〇年八月)
 3 カクマルの一・一四弁護団襲撃を弾劾する(『破防法研究』二二号一九七四年五月)
 4 破防法裁判闘争で何をかちとるか(『破防法研究』二二号一九七五年四月)
 
 (2) Tは、一九七一年「第二の十一月」がたたかわれるまっただなか、「破防法裁判闘争を支える会」が主催した講演会「日本はどうなる」で、浅田光輝氏、木村禧八郎氏とともにおこなった講演である。七〇年安保・沖縄闘争の大爆発、十一・一四渋谷暴動闘争、十一・一九日比谷松本楼炎上闘争のまさに前夜、都心の会場においてこうした講演が合法的におこなわれたことは、八一年のこんにちの時点でふりかえってみるとまことに感慨ふかいものがある。七〇年代が革命の時代であることを、戦後世界体制の体制的危機の深刻化の問題に焦点をしぼって、きわめてわかりやすく、説得力をもって説いているのが大きな特徴である。
 戦後世界体制を科学的にとらえる出発点となった革共同第三回大会報告から説き起こしつつ、現代世界を「段階・過渡・変容・再編・危機」としてとらえる立場をあきらかにし、革命的内乱の時代の到来は不可避であると力づよく結んでいる。
 (3) Uは、レーニン『何をなすべきか』をテキストとした学習会での講演、レジュメからなる。ここでは、七〇年代、二重対峙・対カクマル戦争の内戦的発展下において、それを先頭で指導した故人の政治家的・理論家的資質のみならず、天才的な軍事指導者としての資質が行間に強烈ににじみ出ているのである。内乱・内戦――蜂起の指導を貫徹しうる党とは何であるのか、まさにそれは二〇世紀初頭において、レーニンが凶暴無比なツァーリズム専制との苛烈なたたかいにおいて追求した課題であり、七〇年の時間と、ロシアと日本という空間とを超越して、帝国主義現代において本質的に同一の革命的目標を真摯に追求し、そのために生命を賭け、血を流しているがゆえにこそ、レーニンの思想がいきいきと再現され、より豊かな肉づけをもって語られているのである。まさにこれこそ、革命的思想の革命的継承のもっとも典型的な姿なのであり、その目標がより豊かな内容をもって実現されていく姿なのである。
 Uを真剣に学ぼうとする読者は、かならず著作選第一巻T「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」とあわせて読んでいただきたい。ここで明快に規定されているように、われわれにとってレーニン主義革命論とは、「帝国主義段階におけるプロレタリア革命の普遍的本質論」であり、前衛党組織論は、その中軸をなす核心的理論としてもっとも重大な内容をなすものである。
 一九世紀が資本主義の発展・興隆の時代であるのに比して、二〇世紀は資本主義の没落の時代、死滅しつつある時代であり、革命の現実性が獲得されるにいたる時代にほかならない。革命の現実性こそは、レーニンの革命思想の核心をなす根本的概念であり、これを中心として前衛党組織論も構築されているのである。著者が強調しているように、この観点からみるならば、『何をなすべきか』のなかでも第三章がもっとも重要な内容をなすのである。そこでは組合主義的政治にたいして共産主義的政治(社会民主主義的政治)の必要性と重要性とがあらゆる角度から説得力をもって主張されている。〔ちょうどいま、テレビでは、ポーランドのワレサがまことに古典的な組合主義的政治の主張をのべている。レーニン主義が死滅させられたのちにはじめてスターリン主義の抑圧体制が存立しうること、そしてその抑圧に抗して全労働者階級が連帯≠ノ結集しつつも、その指導部がまったく自然発生的な組合主義のイデオロギーしかもっていないことを、ワレサは示しているのである。反帝・反スターリン主義こそ決定的な立場である。〕
 レーニンにとっては、前衛党組織論において思想的一致をかちとり、党建設において持続的な努力をつづけうる人こそ同志であり、この党的団結という紐帯のうえでこそ、帝国主義論、国家論=独裁論、民族問題・農業問題の理論、革命的軍事論、過渡期社会建設論を構築しえたのであって、けっしてその逆ではないのである。マルクスが、一九世紀において、労働者階級総体の革命性に十分に楽天的信頼をおいて、革命のプログラムを考察したその生涯の歩みに比し、レーニンが党組織論を出発点とし終結点とした革命家の歩みを歩んだことは、ここに根拠をもつと言えるのである。
 カクマル反革命の一九六二〜六三年の革共同からの脱落は、このレーニン主義党組織論の反革命的破壊をもってはじまったことも、十分に理由のあることであり、二重対峙・対カクマル戦争は、カクマルの白色テロルから革命党の存立を守るたたかいとしての意義をもつものであり、革共同がこの革命的内戦に勝利するということと、党としての存立を守りぬき、日帝打倒・プロレタリア独裁権力の樹立を成就しうるということとは、ひとつのことなのである。こうした観点から、Uを徹底的に学ぶべきである。
 (4) Vは、「経済学=哲学草稿』レジュメ、『ドイツ・イデオロギー』レジュメ、そして獄中書簡のうち理論的な表現をとり、公表可能なもの八篇を収録した。『ドイツ・イデオロギー』は、とくに唯物史観の誕生を告げる書物として、このレジュメをもとに徹底的に学ばれるべきである。
 こんにち、マルクス主義の哲学としての唯物史観は、きわめて無残に形骸化され、解体されており、われわれはこのレジュメの基本精神をいっそう豊かに発展させていく責務を負っているのである。
 解体のひとつの形態は、スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』(一九三八年)を原典とする唯物史観を自然弁証法と等置する客観主義化・客体主義化、唯物論と弁証法の機械的分離による双方の形骸化、社会発展の法則の極端な単線単型化によるプロレタリア革命の機械的必然性化、革命党と革命運動を人間的解放の主体的なたたかいとして理論的に措定しえない客観主義化である。黒田寛一も『経済学=哲学草稿』の人間主義を一面的に強調しただけで、『ドイツ・イデオロギー』から『資本論』に発展するマルクスの思想と理論の総体をけっして体系的に学びえておらず、スターリンの右の著書のテーゼに安易に依存している面がかなりつよいのである。
 解体のもうひとつの形態は、宇野学派による「四〇年代の『ドイツ・イデオロギー』は仮説であり、単なるイデオロギーであり、『資本論』として理論が完成するに及んで、これらはマルクス自身によって捨て去られた」とする低水準な方法である。宇野学派の現代帝国主義に対決する現状分析の不毛、日本帝国主義の侵略と戦争にたいする屈服は、かれらの唯物史観の蔑視と放棄に根底的原因をもつのであり、商品経済的現象のみに理論的分折をみずから限定し、自己規制し、階級対立、国家的抑圧、国家間対立、民族的抑圧と被抑圧といったこんにちの世界史的事象を「イデオロギーの問題」として無視抹殺するという、およそ考えられない愚かな誤りをおかすのである。
 われわれは、これらのスターリン主義、社会民主主義の不毛と屈服にたいして怒りをこめて糾弾し、唯物史観の体系の革命的復活と現代的再建を革命的パトスをもってなしとげなければならない。Vのレジュメは、そのための基礎として徹底的に学ばれるべきである。
 (5) Wは、七〇年に獄中で書きつづられた破防法裁判公判準備資料としての論稿である。十・八羽田に始まる六七――六八年の階級闘争の激動的展開、六九年における日大・東大闘争、四・二八沖縄闘争――十一月決戦にいたる階級的激動と日本階級闘争の革命的・内乱的・武装的発展の事態にたいして、日本帝国主義国家権力ははじめて、内乱勢力一掃のための破防法攻撃にふみこんできた。いうまでもなくこれは、わが革共同のうちに、台頭する内乱勢力としての現実の脅威を感じとったがためであり、同時に、この法のもつ威嚇的、恫喝的効果を十二分に期待しての適用であった。だが周知のとおり、わが革共同と革命勢力は、この日帝権力の破防法恫喝に属することなく、第一、第二の十一月決戦=日本階級闘争の内乱的、暴動的展開の立場を堅持し、帝国主義本国における武装解放闘争の道をいっそう明確にしながら七〇年代革命の過程をつき進んでいった。
 破防法裁判の公判廷にのぞむにあたって本多書記長は、かかる破防法適用攻撃という先鋭な表現をとってあらわれた日帝支配階級と日本労働者階級人民との非和解的な関係を規定する要因について、より根底的で巨視的な、世界史的スケールをもった解明が必要であることを強く感じ、この公判準備資料のテーマを戦後帝国主義――現代帝国主義の「安保体制」の考察という点に設定したのである。これはまさに、安保体制のなかに集中的に体現されている現代(戦後)帝国主義の体制的危機と矛盾の構造、その発現の態様を理論的にあばきだすことをつうじて、法によって革命(党)を規制しようとする現代帝国主義の危機的体質、本質的無力性をつきだすものであり、革命を裁かんとする法廷を逆に帝国主義への断罪、その死を宣告する場へと転化するものである。本論文は、まさしくそれにふさわしいスケールと鋭さを兼ねそなえた論文である。
 本稿の対象領域は、戦後帝国主義の世界支配体制、とりわけアメリカ帝国主義の軍事支配体制と戦争の関係の解明ということである。第二次大戦後四半世紀の過程が、アメリカ帝国主義による巨大軍事体制の恒常化と史上類例のない終了せざる戦争≠フ時代であるという本論文をつらぬく問題視角は、きわめて斬新であり、とくに今日的に重要な示唆をふくんでいる。本多書記長はこの点を分析基軸にしながら、現代帝国主義の特殊戦後的性格を明らかにし、戦後帝国主義の世界支配のあり方としての集団安全保障体制と戦争の継続の問題を分析している。そうした戦後的世界支配の矛盾の集中的爆発点たるベトナム侵略戦争のなかに帝国主義の敗退と崩壊の条件を洞察し、ベトナム侵略戦争がもつ帝国主義戦後体制の世界史的転回点としての意味を明確に摘出している点など、そのまま今日的=八〇年代的時代認識の核心問題につうずるものである。
 この論文の書かれた七〇年は、文字どおり七〇年安保・沖縄闘争の真只中であり、安保再改定=自動延長攻撃と沖縄の七二年ペテン的返還策動をめぐる日帝と人民との対決が内乱的に発展しつつある段階であった。国際的には、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争がそのエスカレーションの頂点において決定的な破綻に直面し、巻き返しのための凶暴かつ狡かつな息つぎ策動を必死に追求する過程であった。ジョンソンの挫折のあとをうけたニクソンの登場は、七一年八月のいわゆる新政策(対中国交と新経済政策)の展開をつうじて全世界をゆさぶりつつ、結局はベトナムからの敗退とアメリカ帝国主義の歴史的没落を準備してゆくのである。
 このような時代背景を思いうかべつつ本稿を読むとき、本多書記長がここで意図した現代帝国主義の崩壊と打倒の条件の明確化という理論的課題が、非常にスケールの大きな構想のもとに考察のメスをあてられていることに気づくであろう。
 (6) Xは、「激動の七ヵ月」から六八年十一月の集会演説までをふくむ。
 Xの1は六七年『前進』新年号論文である。十・八羽田闘争をたたかいとった新年にふさわしく気塊のこもった年頭論文である。
 2は、東京都議選に北小路同志を、杉並区議選に長谷川同志をたててたたかうことを決定し、社会的におしだした二月一七日大政治集会にむけての論文シリーズのひとつである。
 3は、十・八羽田闘争によって幕を切られた「激動の七ヵ月」の跳躍台をなしたと評価できる春の砂川闘争にたいする日本共産党の卑劣な誹謗を完膚なきまでに粉砕した論文である。
 4は、五・二八をふまえて、七・九へ砂川闘争を発展させるために執筆された論文である。
 5は、十・八羽田闘争、十一・一二第二次羽田闘争へと、革共同中核派が同志山崎博昭の血をもってきりひらいた「激動の七ヵ月」のまっただなか、日帝国家権力とのかつてないきびしい対峙のなかでの年末の革共同政治集会での演説である。七〇年闘争へむけて、党の全力を投入する決意がのべられ、満場の感銘をさそった演説である。
 6は、第三の羽田としての六八年佐世保闘争のすさまじい大爆発と全人民的支持のまっただなかで、そして王子、三里塚闘争で、全学連がゲバ棒をもって機動隊を粉砕するたたかいを展開しつつあるなかで執筆された論文である。七〇年闘争への全構図がくっきりと姿をあらわすなかで、七〇年闘争への指針が明快に説かれている。
 7は、六八年六・一五闘争において、全学連内裏切り分子・社青同解放派と結託して、集会破壊をたくらみ、大衆的に粉砕されたカクマル反革命への批判である。
 8は、六八年末、十・二一新宿騒乱闘争の一〇万人の大結集をもってする大爆発の直後、革共同政治集会での演説である。日大、東大闘争を先頭とする大学闘争の大爆発と結合しつつ、七〇年闘争の勝利を、確信をもってきりひらくべきことがのべられている。
 (7) Yは、破防法裁判闘争にかんするいくつかの発言を収録した。
 1は、六九年六月、四月二七日逮捕、未決勾留ののち約二ヵ月、『破防法研究』創刊号によせられたメッセージである。法規範にたいする革命家の意見が明快にのべられ、革命の意志を強烈に表現した名文である。
 2は、あまりにも有名な破防法裁判第一回公判廷における意見表明である。この発言をもって、裁判闘争勝利のレールが敷かれたといっても過言ではない。
 3は、一九七四年一・一四、カクマルの破防法弁護団白色テロル襲撃にたいする怒りの糾弾である。この日、カクマルJAC白色テロリストは、弁護団会議を襲撃し、多くの弁護士や浅田光輝氏を傷つけ、著者をも傷つけようとした。権力の破防法弾圧に抗してたたかう弁護士を、まさか左翼を自称する党派がいかに党派的対立が激化しようと、白色テロルをもって襲いかかることなどありえようはずがない、というおおかたの知識人や弁護士の「良識」を粉砕して、カクマルが日帝国家権力の先兵であり、民間反革命であり、ファシストであることを、みずから表明した日であった。この文章は、この点を明快に批判し、二重対峙・対カクマル戦争の発展と破防法闘争の発展を訴えたものである。
 4は、一九七三年九月一〇日、第二九回公判で、三年間の法廷闘争の勝利的地平を総括した力づよい意見表明である。
  ×  ×  ×
 最後に、これをもって本多書記長の著作選の編集を終えるが、全七巻の仕事を終えていっそう強烈にあらためて感じることは、故人の偉大さにたいする尊敬と敬愛の念であり、不世出の革命家を虐殺したカクマルにたいする腹の底からの怒りである。著作選全七巻を血肉化し、武器として、三・一四復讐戦をなんとしてもかちとり、黒田寛一の首を本多書記長の墓前にささげることをここに誓うものである。
   一九八一年五月    前進社出版部