一 獄中からのメッセージ
   (日本帝国主義打倒・社会主義革命めざし、日米安保同盟政策に反対し、沖縄奪還を推進する目的をもって……
 
 一九六九年四月二七日、沖縄デーの大衆的戦闘的高揚を翌日にひかえた日帝・佐藤内閣は、わが革共同の本多延嘉書記長にたいして破防法四〇条を通用して逮捕し、翌日には藤原慶久反戦青年委世話人、つづいて青木忠全学連書記長ら三名の計五名にたいして、制定後初めての左翼にたいする本格的適用にふみきった。これをもってわが革共同と日帝国家権力との対決は、名実ともに国家の存立と革命の成否をめぐる永続的死闘の段階に突入したのである。破防法攻撃にたいする反撃のたたかいの一環として、同年五月には弁護団および先進的人士の手で破防法研究会が結成され、雑誌『破防法研究』が創刊された。本メッセージは、その記念すべき創刊号のために獄中から寄せられた格調高い、烈々たる気塊にみちた名文である。
 
 
 「法とは事実追認の無理論である」とは僕のかねてからの持論ではありますが、このたび、有志の方々が雑誌『破防法研究』を発刊するとの話でありますので、破防法違反を問われている「被告」としてあえてひとこと所感をのべてあいさつにかえさせていただきます。
 革命は、法律的にいうならば、人間の自由を求める心が、法規範を超えて自由を実現する行動を開始することであります。だから、史上最大の法律主義者といえども、革命の正当性を法によって証明することもできないのでありますし、また、同様に革命の不当性を法によって断罪することもできないのであります。もともと、法を侵すとか侵さぬとかという問題は人間的生活のうえに法の大権を君臨せしめんとする現代の神官たちの荒唐無稽な託宣であって、人間の至高の存在は人間なり、との自覚を有する自由人にとって、法は他律的な構成要件にすぎないのであります。近時、バチカン市国でガリレイ裁判の再審判決がおこなわれるそうであります。ただ、ガリレオ・ガリレイにとって地動説は天地自然にかんする人間意識の自由な流出を意味するのであって、それが法に抵触するか否かは処世にすぎなかったのではないでしょうか。また、何年か前に往年の大逆事件にかんする坂本老らの再審請求が棄却されました。だが、これとて裁判所の真理への断ちがたい脅威を自己暴露するだけのことであって、大逆事件の本質はますます万民の知るところなのであります。革命や、日米安保同盟政策や沖縄問題にかんする所説の是非は、民衆が選択するすぐれて政治的な過程であって、検事や判事の諸君が適不適を裁定するなどということは、まことに人語道を断つ不遜の行為というほかはないのであります。
 もちろん、国家という怪獣は、人間支配の規範として法をもっていますかぎり、国家意志として一般的に表出する支配階級の特殊利害に反抗するものにたいし、法適用の名のもとに暴力的制裁を加えます。だがそれは、しょせん、支配階級によるリンチであり、テロであるにすぎないのであります。こうした人間による人間の非人間的制裁をイデオロギー的に転倒したものこそ、法の適用であるといえましょう。したがって、革命は、国家の実体をなす階級支配とその暴力装置を追認的行為として現実的に粉砕し、民衆の武装した国家機関をもってそれにかえることから始まる巨大な歴史的過程でありますが、このような世界史的試練に勝利するためにも、支配階級の特殊利害が国家の共同的意志として表出する国家の本質を徹底的にあばきだしておくことが必要なのであります。たしかに、寛容は抑圧の一形態でありますが、こんな程度の認識は革命なき市民の文学的自慰行為にすぎないのであります。必然の王国から自由の王国への飛躍の歴史は流血条々、死体累々でありましょう。二十数年前、日本国家は、民衆にむかって革命の思想をもつ自由を保障すると寛容にも約束してくれましたが、社会体制の歴史的選択が現実の問題になろうとしているこんにち、国家はどれほど寛容であったというのでしょうか。かつてトルーマンものべたとおり、暴圧は革命のバチルスの培養にとって最良の条件であります。幸か不幸か、今回、僕は破防法被告という機会が与えられましたので、公判をとおして革命がいかに「明白かつ切迫した危険」になっているか、を満天下に明らかにするとともに、革命の問題にかんして国家とその法的神官たちがいかに非合法主義者たりうるか、を身をもって検証し、世の合法主義者の蒙昧を啓(ひら)く一助とする所存であります。
 雑誌『破防法研究』が、破防法に反対し、国家の強権支配を打破し、沖縄奪還をかちとり、安保粉砕・日帝打倒をめざす幾百万の民衆の共同の武器となるよう期待してやみません。
       六九年六月一八日、東京拘置所にて
            (『破防法研究』創刊号一九六九年七月に掲載)