八 七〇年安保闘争の勝利のために
 
 「十・二一新宿騒乱闘争」として名高い六八年十月二一日=国際反戦デーにおけるたたかいは、羽田以来の微動の七ヵ月をひきつぎ、六九年の四・二八沖縄奪還闘争(破防法適用)〜「第一の十一月」決戦の爆発へと連動してゆく重大な地歩を印したたたかいであった。駅構内を占拠し機動隊の攻撃を実力で撃破する全学連、反戦青年委五〇〇〇の隊列を数万の民衆が歓呼の 声でつつみ、ともに機動隊と対峙する、文字どおり騒乱の巷と化したこの夜の新宿駅一帯の事態に驚愕した日帝・佐藤内閣は、ただちにその場で騒乱罪適用にふみきった。だが、いかなる弾圧や脅しも革共同の鉄の進撃を阻むことはできなかった。
  本稿は、一ヵ月後に開催された十一・一八大政治集会(於渋谷公会堂)における本多書記長の基調講演である。ついにひきだされた騒乱罪弾圧体制下で、なおかつ戦闘的実力決起右もって沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒へとむかう革共同のすさまじい決意と目信と革命的展望を余すところなく明示した演説である。
 
 
 歴史的選択としての七〇年闘争/徹底した破壊をとおして建設へ
 
 
 昨年十月八日の羽田闘争以来、一ヵ月をこえる激闘のなかで、その最前線にたち、一番厳しい部署に耐えぬいて、日本階級闘争の前進のために努力してこられた労働者、農民、学生、市民のみなさんにたいし、革命的共産主義者同盟より心からの連帯のあいさつを送ります。
 ただいまは、日本社会主義運動の草分けであります荒畑寒村先生より、心暖かいご批判と激励のことばを頂きましたが、ちなみにもうしますと、先生が最初にお書きになった本に『谷中村滅亡史』があります。ご存知のとおり、谷中村問題とは、足尾銅山の鉱毒のために渡良瀬川流域の農村が滅亡していく、という、日本資本主義の本源的蓄積期における農村収奪にたいし、田中正造を先頭とする谷中の農民たちが血みどろの抵抗闘争を展開し、日本社会主義運動の原点のひとつを形成したものであります。こんにち、われわれは、日本資本主義の没落期のなかで、砂川で、三里塚であらたな帝国主義的農村収奪にたいする反撃のたたかいを推進しておりますが、この谷中村のたたかいをこんにちのたたかいとして継承し発展させていかねばならないと思います。
 さて、一九六八年十月二一日新宿を頂点として全都全国を揺るがした全学連、反戦青年委員会、労働組合、そして市民のたたかいにたいし、日本帝国主義国家権力は、騒乱罪を基軸とした徹底的な階級的報復をもって臨み、ブルジョア報道機関はうって一丸となって戦闘的反戦闘争にたいする口汚ない非難を投げかけております。こうした状況のなかで、一部の新聞、雑誌には、はやくも「全学連の崩壊」「中核派の壊滅」(『毎日新聞』十一月八日朝刊)すらとりざたされるにいたっております。
 だが、国家権力の憎悪にみちた弾圧にもかかわらず、ブルジョア報道機関の誹謗中傷にもかかわらず、労働者階級=人民大衆のたたかいが一歩として後退することなく、七〇年にむかって巨大な高揚をつづけていることもまた明々白々たる事実であります。騒乱罪攻撃下において十・三〇、十一・七沖縄の爆発をかちとった青年労働者、学生は、十一・二二東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会、十一・二四三里塚空港阻止労農学集会にむかって大決起しようとしております。さらに明春においては日本労働者階級=人民大衆は、国鉄労働者を中核として反合理化・賃上げの非妥協的闘争を展開しながら、沖縄奪還・安保粉砕をめざして文字どおり日本列島を揺るがす巨大なたたかいの火柱をうちあげようとしております。
 まさに、日本帝国主義国家権力の騒乱罪攻撃の開始は、羽田以来の日本階級闘争の発展が、もはや騒乱罪適用なしには抑ええぬ段階まできていることを権力の側から証明したところにその意味がありますが、それは同時に、警察権力の弾圧をもってしては、七〇年にむかって不断に高まりゆく労働者人民の闘争をけっして制圧することができない、ということを歴史的に刻印づけるものとなっているのであります。
 事実、羽田以来のたたかいのなかで、私たちは、一方では、日本帝国主義の参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化の道にたいし一大打撃を与えるとともに、他方では、国家権力との血みどろの対決をとおして、自己を鍛え自己と民衆との有機的関係を発展させてきました。昨年十月、全学連のカンパ部隊をとりまいて羽田闘争への非難や疑問を投げつけた新宿の「群集」は、十月一二日には機動隊の阻止線を突破して新宿駅に到達した全学連を拍手をもって迎え、これを大きく包んで新宿闘争の大爆発を保証したのであります。われわれ自身、激動の七ヵ月のなかで破防法や騒乱罪の問題に直面したとき「いかなる弾圧があろうとも権力に屈服せず七〇年闘争への進撃をかちとること」を一瞬のひるみもなく決意しましたし、また、それなりに確信も勝算もあったわけでありますが、にもかかわらず、未経験の領域に踏みこむということからくる不安もけっしてなかったわけではないのであります。しかし、現実に騒乱罪攻撃が開始されたこんにち、われわれは、いまなお、一〇〇名をこえる多くの仲間を牢獄に奪われ、手痛い打撃をこうむっているにもかかわらず、「とうとう騒乱罪が出てきたか」というように平然と対処する体質を運動総体としてもつことができたのであります。
 騒乱罪攻撃の恐ろしさは、もちろん、直接的には弾圧の広さと厳しさにありますが、しかし、国家権力の弾圧では七〇年にむかって高まりゆく労働者階級=人民大衆のたたかいを制圧することは不可能であります。騒乱罪攻撃のもっている本当の狙いは、たんに直接の検挙、起訴、処罰の広範囲さ、厳重さという点にあるだけではないのであって、むしろ、こうした大量報復をもって闘争参加者を恫喝し、運動の内側からの崩壊を結果させるという点にあるのであります。したがって、敵は国家権力というかたちで存在するだけではありません。むしろ、自分のうちなる日和見主義にあります。われわれは、この自分のうちなる故に勝つことをとおして、かつまた、日本帝国主義国家権力の弾圧を七〇年にむかっての前進のムチとして受けとめることをとおして、騒乱罪を本当に張子の虎にしていくことができるのであります。
 
 歴史的選択としての七〇年闘争
 
 つぎに、七〇年闘争をたたかいぬき、その勝利をかちとっていくうえで、前提的にふまえられねばならない基本的方向について明らかにしようと思います。
 まず第一の問題は、七〇年安保闘争とは日本帝国主義の基本的世界政策としての日米同盟政策の正否をめぐって展開されるところの日本帝国主義と労働者階級=人民大衆との死活をかけた大衆的階級的激突である、ということであります。
 もちろん、七〇年は、日米安保条約の「再検討期」としてわれわれのまえに迫ってきておりますが、七〇年の意味について日米安保条約の「再改定」か「自動延長」か、あるいはまた、「安保廃棄」か「終了通告解消」か、というように条文上の問題として単純に把えるべきではないのであります。われわれにとっての七〇年とは、日本の歴史がどの方向に進むのかを自分自身の行動をとおして歴史的に選択する巨大な過程の区切り目であります。アメリカ帝国主義との同盟を基軸としてアジア侵略と日本人民の抑圧をおしすすめ、そのうえに日本帝国主義の「安全と発展」の道を設定することに国民的合意を与えるのか、そ れとも、過去二五年におよぶ日本帝国主義の日米同盟政策を民衆の巨大な階級的決起をもって粉砕し、日本の政治と経済を変革する糸口をつかむことができるかどうか、――この二つに一つの歴史的選択が問われているのであります。
 したがって、日本共産党のように、安保粉砕と日帝打倒を機械的に分離することはできないのであります。いわんや、安保条約をその実体としての日帝と形式的に切断して、安保がなくなれば日本は「平和、民主、中立の日本」になるのだからその国防については検討する、などと主張することは、帝国主義者の排外主義、祖国防衛主義への恥ずべき屈服であります。安保なき三菱独占、安保なき三井独占、安保なき住友独占、安保なき日本帝国主義を防衛するということは、安保を防衛する以外のなにものでもありません。われわれは、日本帝国主義の日米同盟政策を本当に粉砕していくためには徹底して「日帝打倒」の立場にたちきらなくてはならないのであり、同時にまた、「安保粉砕」のたたかいをもって、日米同盟政策の実体をなす日本帝国主義打倒・日本社会主義革命の突破口をきりひらくものとしていかねばならないのであります。
第二の問題は、沖縄奪還のたたかい、すなわち、沖縄の永久核基地化策動を粉砕し、沖縄の本土復帰と基地撤去をかちとるためのたたかいは、安保粉砕・日帝打倒のたたかいの巨大な火柱をなすものである、ということであります。
 周知のとおり、アメリカ帝国主義による沖縄の軍事=分離支配は第二次世界大戦、とりわけ、アジアと太平洋の支配権の暴力的再編成をめぐる日米間の帝国主義戦争において日本帝国主義が軍事的に敗北し、ヤルタ協定にもとづいてアメリカ帝国主義が日本の帝国主義的戦後処理にあたったことの歴史的結果として生じたわけであります。沖縄諸島のうえで文字どおり本土決戦を経験した沖縄県民は一人ひとりの敗戦記念日をもちながら、それ以後、二三年にもわたってアメリカ帝国主義の軍事=分離支配のもとに抑圧されてきたのであります。このように、帝国主義の本土と人民の一部が他国帝国主義によって多年にわたって支配され、抑圧されてきた、という経験は私たちは歴史上もっていないのであります。もちろん、第一次大戦の戦後処理をめぐってフランス帝国主義がドイツ帝国主義のルール地方を占領したという例がありますが、それは、ドイツ政府のいわゆる消極的抵抗政策と、ドイツ労働者の抵抗闘争の結果、ただちに破産しております。ところが、沖縄ではこうしたことが二三年もつづいており、今後いつまでつづくかもわからないのであります。
 日本共産党は、アメリカ帝国主義による沖縄支配を「日本の主権への不法な侵害だ」と批判し、沖縄の祖国復帰を「日本の主権回復=日本の独立」と規定しておりますが、このような見解は、沖縄問題の世界史的特質を無視するものであり、日本帝国主義の反人民的政策を免罪するものであります。アメリカ帝国主義による沖縄の軍事=分離支配の二三年にわたる継続は、日本の主権が侵害された結果ではなく、逆に、日本の主権者としての日本帝国主義が、したがってまた、日本の主権の公式的代表者としての政府と国会が日米同盟政策を基礎としてアメリカ帝国主義の沖縄支配を「日本と極東の安全にとって必要な処置」として積極的に支持してきた結果なのであります。したがって、沖縄奪還のたたかいは、沖縄の犠牲のうえに自己の再建と発展の道をたどってきた日本帝国主義と、その日米同盟政策を根底的に揺るがすたたかいとして発展させ集約していかねばならないのであります。まさに、日本政府にたいするたたかいとして沖縄闘争は展開されていくべきことを、七〇年にむかってはっきりさせていくことが必要であります。
 第三の問題は、日米同盟政策を基軸とする日本帝国主義とアメリカ帝国主義との強盗的侵略的枢軸の再強化は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺、とりわけ、アジア帝国主義支配体制の崩壊的危機にたいする反動的対応を基礎とする超反動的な攻撃でありますが、それは同時に、安保粉砕のたたかいがアジアにおける帝国主義支配の敗退、したがってまた、帝国主義戦後世界体制の崩壊的危機を不可避とせざるをえないきわめて重大な闘争である、ということであります。
 かつて日本帝国主義は、二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック化の矛盾の不可避的爆発のなかで、アジアの専一的な支配をもとめて太平洋戦争を開始し、アメリカ帝国主義の対抗のまえに敗退したのであります。戦後伝統的宗主国にかわって、アメリカ帝国主義は、危機にたつアジアの超軍事的な再編成を推進してきたのでありますが、ベトナム侵略戦争を爆発点とするアジア危機の深まりは、アジアにおける帝国主義支配の敗退を問題とさせるところまで発展してしまったのであります。三月三一日のジョンソン声明にかんしてライシャワー元駐日大使は「たしかに戦争の終りを意味するものではないが、戦争の終りの始まりを意味するものだろう」との名言をのべたのでありますが、ライシャワーがなんといおうとも、ジョンソン声明がアジアにおけるアメリカ帝国主義の支配権を維持するためのきわめて反動的な攻撃の開始を意味していることは明白であります。しかし、それは同時に、世界史的に把えるならば、帝国主義がアジアから敗退していく断末魔の苦悶であり、ライシャワー流にいうならば、「たしかに帝国主義の終りを意味するものではないが、帝国主義の終りの始まりを意味するものである」ということができるでありましょう。
 こうしたアジア情勢のなかで、もはや独力でアジアを支配する力をもっていない日本帝国主義は、アメリカ帝国主義との強盗的同盟を強化する方向でアジア危機に対応しようとしているのであります。こんにち、日本の労働者階級=人民大衆は、ベトナム侵略戦争にたいしてはっきりとした反対の意志表示をしておりますが、七〇年にむかって強化されようとする日米反動枢軸を見逃していて、なんでベトナム反戦といいうるでありましょうか。こんにちの段階では、ベトナム反戦闘争は、アジア人民への侵略と戦争の政策、すなわち、日米安保同盟政策を粉砕するたたかいとして集約されねばならない、ということをはっきり確認しておきたいと思います。まさに、七〇年における安保粉砕・日帝打倒のたたかいは、日本はどこに行くのか、という問題をめぐる歴史的選択を行動をもって示すものでありますが、それは同時に、アジアにおける帝国主義支配の歴史的敗退、したがってまた、帝国主義とスターリン主義の世界的既成秩序にたいする世界史的変革の突破口を意味しているのであります。
 第四の問題は、七〇年闘争を待機主義的に把えるのではなく、日本帝国主義の日米同盟政策の諸矛盾、すなわち、日米同盟政策の諸実体・諸現実をめぐる矛盾の積極的な爆発として位置づけなくてはならないということであります。
 羽田以来の激動の七ヵ月にひきつづいて、こんにち、全国いたるところで、軍事基地、軍需輸送などの具体的な諸問題をめぐって諸闘争が激発しておりますが、われわれは、こうした諸矛盾にたいし窮極的に攻撃を加え、日米同盟政策の諸実体・諸現実への具体的選択をとおして、局地的にであれ国家権力と民衆との政治的権力関係を逆転させながら、七〇年安保粉砕・日帝打倒にむかって政治的に集約していくこと、こうした諸闘争の激発をとおして、七〇年闘争を先制的に爆発させていくことが重要なのであります。沖縄闘争こそは、日米同盟政策の諸矛盾を「安保粉砕・日帝打倒」のたたかいに転化させる中心的な環をなすものであります。
 歴史的選択としての七〇年安保闘争は、ベトナム参戦国化かベトナム反戦か、安保か安保粉砕か、祖国防衛か革命的敗北主義か、秩序か混乱か、帝国主義か革命か、という具体的な二者択一が一つひとつ問われる過程であります。
 以上の諸課題を断固として展開しながら、われわれは当面、明春に予期される沖縄の闘争の大爆発として七〇年闘争の巨大な火柱をあげるために全力を傾むけてたたかいぬこうではありませんか。
 
 徹底した破壊をとおして建設へ
 
 つぎに、七〇年にむかって安保粉砕・日帝打倒のたたかいを具体的におしすすめていくにあたってわれわれの運動の内部、すなわち、たたかう主体の側に存在している若干の問題について検討しておきたいと思います。
 まず第一の問題は、権力と民衆との血みどろの対決は、不可避的に民衆内部における革命的要素と反革命的要素との分裂と衝突とをともなって発展するのであり、この分裂と衝突に勝利的に耐えることなしには、日本帝国主義国家権力との闘争の前進もありえない、ということであります。
 実際問題として新宿闘争にはっきり表現されておりますように、たたかいの本格的発展は、ただちに、秩序か混乱か、というブルジョア的規範と衝突することになります。われわれ自身のうちなる請個人の利己主義的利害が両立しえぬところまで引き裂かれる状況が、だんだんと前面に出てくるものであります。帝国主義国家権力は一方では、国家の暴力装置を発動して凶暴な弾圧を加えながら、他方では、秩序か混乱かという恫喝をもって民衆内部の利己主義を国家主義的に動員することをもって革命的勢力に対抗しようとします。応援団、体育会系の学生の右翼的利用や、新宿を守る会というようなかたちでの小商店主たちの反動的組織化が、こういう傾向の今日的な萌芽を示しております。まさに、日大闘争が証明しているように、国家権力との革命的対決は、同時に、民間の右翼的暴力を粉砕しながらたたかいぬかなければならないのであります。
 しかしながら、問題がこれだけであるというのなら話は簡単なのですが、そうはいかないのであります。それは、いうまでもなく日本共産党を中心とするスターリン主義者たちの反動的な暴力的襲撃の問題であります。ご存知のとおり、国家権力のまえで猫の子のように温和であった日本共産党がヘルメット、角材、鉄パイプで武装してわれわれのまえに登場しておりますが、それは、かれらが権力にむかって自己を武装しはじめたことを意味するものではないのであります。日共の諸君は、七〇年にむかっての血みどろのたたかいのなかで、ヘルメット、角材をもってまで帝国主義国家権力との対決をおしすすめようとしているのにたいし、このような闘争はあってはならない、といって、ヘルメット、角材で襲いかかってきたのであります。
 日本共産党の暴力的襲撃のもつ反動的性格は、七〇年安保闘争にかんする日共の基本政策の反動的性格にその基礎があるといえるでありましょう。すなわち、日本共産党は本年六月の参院選挙の直前に七〇年闘争の基本方針を提起いたしましたが、その骨子となるところのものは、@安保反対の議員が衆院で多数を占めて、安保終了決議・対米通告をおこなえば、安保条約の規定にもとづいて一年後には安保解消を平和的、議会的に達成することができる、A安保解消後の中立・平和・民主の日本の防衛にかんしては国民にはかって自衛の処置をとる、社会党の非武装中立路線は幻想的であって、独立国は武装して自衛すべきだ、というものであります。民衆の圧倒的部分は、七〇年には六〇年を数倍も数十倍もうわまるたたかいになるかどうか、自分はそのときどうしようか、と直感的に考えているのでありますが、日共スターリン主義者は、このような民衆にむかって、そんな危険な行動をしなくとも、来年予定の総選挙で共産党が躍進すれば、混乱なしに安保解消をかちとることができる、といって、民衆の七〇年にむかっての武装解除に、精をだしているのであります。
 だが、日本の労働者階級=人民大衆は、もはや、かつてのように日共に左翼的幻想をもちああせてはいないのであります。日共が社会党よりも右にいってしまったことを、民衆は民衆なりの知恵で察知しはじめております。だからこそ、労働者階級=人民大衆は、羽田以来のたたかいをとおして、自己の内部に巨大な化学変化を準備しながら、十・二一新宿のような形態をもってその可能性を示したのであります。
 このような事態の一般的進展こそ、国家権力とともに日本共産党のもっとも恐れるべきものであります。このような事態にたいする予防的反動が日共の暴力的襲撃であることを大衆的=階級的に教訓化していくことが、いまほど必要なときはないのであります。スターリン主義の世界史的没落の危機をまえにして、日本共産党の諸君が、かつてスターリン主義の台頭期に示したのと同様の反動的暴力をもって労働者人民を襲ってくるとすれば、われわれは、七〇年闘争の勝利を擁護し、民衆のたたかう権利をまもりぬくために、このような日共の反動的暴力をはっきりと粉砕し、七〇年への道を掃き清めなければならないのであります。
 第二の問題は、こんにちのような歴史の転換期にあっては、行動するもののみが歴史的選択に参加しうるのだ、ということであります。
 七〇年にむかって日本の将来する歴史が行動をかけたものとして問われているとき、われわれは、自分の判断を、自分の運命を、自分の利益を五〇〇人たらずの代議士の手に委ねるわけにいくであろうか。正直いって白亜の殿堂のなかには、ただの一人の護民官もみいだすことができないのでありますが、たとえ民衆の先頭にたってたたかう代議士が数多く誕生したとしても、なおかつ、七〇年闘争の基本的動向は、院外における労働者人民の高揚と発展によって決着づけられるのであります。ノンポリということばがありますが、こんにちのような歴史的局面にあたっては、政治に無関心でいること、行動しないでいること自体が、客観的には帝国主義の侵略と抑圧の道に加担することを意味しているのであります。
 ドイツのSDSドゥチュケ委員長は、挑発をとおしての意識化の拡大ということを申しております。このことばはきわめて挑発的であります。われわれは、われわれのことばでドゥチュケの思想を語らねばならないのであります。しかし、いずれにせよ、こんにちの歴史的段階にあっては、まず敵にたいして徹底的に憎悪の炎を燃し、あってはならないものにたいして非妥協的な攻撃を加えること、たった一人でも変革の意志をもった人間が存在していることを全社会のまえに衝撃的に叩きつけること、ここから閉塞した局面を打破する可能性も生じてくるのであります。昨年十月八日の羽田が歴史につきつけた意味は、したがってまた羽田以来の一年にわたるたたかいの歴史につきつけた意味は、まさに、行動をとおして民衆の意識化の拡大、行動をとおしての民衆の行動化の拡大、行動をとおしての民衆の組織化の拡大にかんする、われわれの経験と認識の深まりであったのであります。ある人たちは、われわれにむかって「諸君はあのような行動をとるが、いったい国民の支持をあらかじめ得ていると思っているのか」と批判いたします。だが、われわれは、そういう人たちにたいし、いつもつぎのように正直に答えることにしています。すなわち、われわれの考え方、われわれの行動の仕方と、国民の圧倒的部分とのあいだに巨大な亀裂が存在しているのは事実である、だが、それゆえにこそ、われわれはあのように行動するのである、と。
 われわれは、たしかに少数者であります。たしかに極少者であります。だが、革命とは、少数者が少数者として多数派になることであります。日本の民衆の圧倒的部分を少数者として獲得するためには、われわれは不断に拡大されてゆく少数者でなくてはならないのであります。
 こんにちもなお、日本労働者階級の組織的本隊の圧倒的部分は、社会民主主義とスターリン主義の規範のもとに閉じこめられています。だが、戦後世界体制の根底的動揺とそのもとでの日本帝国主義の体制的危機の深まりとは、日本労働運動の伝統的指導部の存立条件を根底的に揺るがせております。こうした情勢のなかで総評に代表される日本労働運動は企業防衛主義をテコとした右側からの分裂にたいし、なすすべもなく後退をつづけています。ここに決定的に欠けているところのものは、民社的分裂策動にたいする左側からの積極的な反撃であります。すでに、日本労働者階級の内部においては、反戦青年委員会という形態をもって革命的胎動を示しはじめていますが、この胎動を準備した力をもっていまこそ、日本労働運動の深部に革命的少数派の左翼的基軸を再確立していかねばならないのであります。
 われわれは党創成のたたかいを基礎にして七〇年闘争を全力をあげてたたかいぬき、そのたたかいをとおして党創成のたたかいを推進していくのでありますが、それは同時に、革命的左翼と社民との統一戦線戦術をとおして組織的本隊の戦闘的動員をかちとり、また社民的規範のもとに集約しえぬ巨大なプロレタリアートの戦闘的結集を独自に展開しつつ、社会的混乱の徹底的拡大をもって七〇年代階級闘争への跳躍台をつくりあげていく過程となるのであります。
 第三の問題は、破壊を恐れてはならない、ということであります。
 こんにち、ブルジョア的ジャーナリズムは、寄るとさわると、三派の諸君には破壊の思想しかない、否定の思想しかない、といって非難しています。だが、われわれは卒直に反省してみて、まだまだ破壊の思想がたりない、いわんや破壊の行動がたりない、ということを自己批判的に確認すべきであると思います。
 もとより、われわれは、破壊を究複目標とするものではなく、労働力の商品化を基本矛盾とする資本主義社会を変革し、自然と人間の本源的関係としての共産主義社会の建設を一日もはやく達成しようとしているのであります。だが、人類の後史として、自由の王国への飛躍をかちとっていくためには、まず当面、こんにちの資本主義、こんにちの帝国主義を根底的に打倒しなければならないのであります。そもそも労働者階級の基本的態度は、その救済者、医者たるべきでなく、その墓掘人、遺産相続者たるべきものなのであります。この基本的視点を喪失するとき、運動上のいっさいの誤りが派生してくるのであります。
 日本大学の学生諸君が、七〇〇名を超える検挙者をだしながら、なおかつ、執拗にたたかいつづけているのはなぜなのか、――われわれは、日大のたたかいから徹底的に学ばなくてはならないのであります。学生への抑圧のうえに、民衆への抑圧のうえに、真理への抑圧のうえに立つ日本大学などは破壊しなければならない、という強固な決意を持ってたたかいに立ち上ったからこそ、そうしてたたかいのなかから一日一日とたたかいの決意と確信を固めているからこそ、こんにちかくも困難な情況のなかにあっても、日本大学のあの闘争がつづけられているということを、われわれは心から学んでいかなければならないと思います。
 この決意がいまや東京大学の学生諸君にとっても同じように、魂のなかにはっきりと置かれなければいけないのであります。東京大学は過去一〇〇年にわたる日本の支配階級の歴史において、たえずかれらの指導者を生みだし、人民にたいする抑圧の理論と思想をはぐくむことによって、その栄光の歴史をつづけてきたのであります。かつて「東京大学に灯をつけろ」と申した詩人が居りますが、しかしながらわれわれはいまこそ人民の抑圧のうえに成立している東京大学の栄光をはっきりと粉砕しなければならないのであります。まさにこんにち、学生たちが時計台を占拠し、東京大学のなかであのようなたたかいを開始していることのなかに、反動の殿堂、象牙の塔としての東京大学をうち破って、人民の新しい歴史にむかっての砦としての姿がはっきりと存在しているのであります。
 われわれは東京大学のこんにちの闘争をなにか不正常なものとして把え、それを正常な方向にどう解決していったら良いのか、という考え方にけっして立ってはいけないのであります。いままでの東京大学の有り方がじつに問題であった。今までのような東大がつづいてきたことが、日本の民衆にとっては不正常なのであります。まさにこのようなものにたいして、東大闘争として反撃の第一歩が始まったのであります。
 日大闘争の指導理念を東京大学の闘争の指導理念として受けとめ、さらに東大闘争のより強大な泥沼的発展にむかって事態を押し進めること、こんにちの状態を六九年、七〇年、さらに七一年の向こうまで押し進めていくこと、これが東大闘争にたいする全国学園闘争にたいするわれわれのゆいいつの方針でなければならないのであります。
 大学をまさに反戦と革命の砦として再構築するために、今こそたたかいを前進させるよう強く学生諸君に訴えたいのであります。
 労働者階級=人民大衆の総力を結集して、日本帝国主義の延命ではなしに、帝国主義擁護ではなしに、その打倒にむかって、七〇年闘争の革命的大爆発にむかって、諸君とともに前進していこうではないか。このような革命的闘争をとおしてはじめて人民のなかに新しい秩序が生まれてくるということを、まさにバリケードのなかにこそあらたな民衆の秩序が存在しているということ、このことをわれわれは、労働者階級・農民・学生・市民の一致団結したたたかいをもって七〇年闘争においてはっきりと証明しようではありませんか。
   (『前進』四一一号、一九六八年十一月二五日 に掲載)