七 社民の「最後の先兵」カクマル
      恥ずべき転落の根拠を問う
 
 激動の七ヵ月の熱気のなかで迎えられた六八年の六・一五反戦反安保大統一行動は、東京二万(昼夜)、大阪一万など全国七〇ヵ所で数万の労農学市民を結集し、圧倒的な高揚と成功をおさめた。これにたいして、社会党・総評傘下の労働者本隊と革命的左翼との大合流に危機感をつのらせたカクマルは、中核派排除をもくろむ一部社民指導部の手引きで東京・日比谷集会に乱入し武装襲撃をかけるという憎むべき暴挙にうってでた。本稿は、右翼社民の先兵に堕し、やがては帝国主義的代弁者として現代のファシストへと純化をとげてゆくカクマルの転落の姿を六八年という一つの節目において鋭く暴露し断罪したものである。
 
 
 七〇年へ決意示した六・一五闘争/社民の「最後の先兵」カクマル/革命の現実性を正面から否定/激動の七ヵ月に右翼的に敵対/社民への醜悪な追従とその破綻
 
 
七〇年へ決意示した六・一五闘争
 
 本年度の六・一五闘争のきりひらいた地平は、きわめて巨大な意義をもつものであった。とくに、東京・大阪においては、砂川を突破口として、羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄の激動の七ヵ月をたたかいぬくなかで、六・一五闘争の戦列のなかに労働者階級の組織的本隊を公然と登場せしめた。
 このような階級的前進は、当然のこととして、七〇年を準備する帝国主義国家権力の憎悪にみちた弾圧と、これに呼応した日共スターリン主義者の反労働者的妨害とのたたかいをとおしてかちとられたのであるが、それは同時に、社民右翼指導部の反動的制動の強化と、それにもとづく戦闘的左翼諸潮流の動揺・腐敗との厳しい対決をとおして、「社民との革命的統一戦線」の発展に重大な教訓をもたらすものとなった。
 社民指導部は、激動の七ヵ月をたたかいぬいた青年労働者の階級的経験の前進のまえには、もはや「六・一五」を避けて通ることはできないことを察知して、六・一五大統一行動を提起しながらも、その背後で、六〇年安保闘争の階級的教訓の大衆的確認を回避し、地評機関決定という官僚的制動をデタラメにふりかざし、激動の七ヵ月の中核的担い手をセクト主義的に排除して、六・一五闘争の根本的解体を当初意図していたのである。
 これにたいしてわが同盟を先頭とする東京地区反戦、全学連主流派の青年労働者・学生は、六・一五関係三団体との協力を得て、独自の前夜集会の準備をすすめるとともに、六・一五大統一行動を実現する立場から、地評・全国反戦事務局の関係者とも誠実な準備活動をつづけ、秋山全学連委員長の発言を含む行動予定の基本的確認をみるにいたり、社民右翼指導部の反動的制動を突破して青年学生大統一行動の巨大な展望をきりひらいたのである。残る問題は、ただ東京地方の青年労働者・学生・市民の大結集をもって戦闘的国会デモをかちとり、日米帝国主義にむかって七〇年安保闘争の戦闘的挑戦状をつきつけることであった。
 
 社民の「最後の先兵」カクマル
 
 だが、このような六・一五中央大統一行動に一部社民指導部の反動的、官僚的制動の「最後の先兵」として反階級的妨害を加え、帝国主義国家権力と日共スターリン主義者に「限りない激励」を与えたものこそ、社民右翼指導部・解放派に踊らされたカクマルのセクト主義的な集会破壊策動であった。すなわち、カクマルは、六・一五大統一行動の大綱がすでに決定された六月一一日まで、ブントとともに実行委員会を完全にボイコットしていながら、地評、東京地区反戦、全学連の大統一行動が実現にむかって前進し始めたことを知るや、地評翼下の青年労働者と革命的左翼の分裂をゆいいつの獲得目標として実行委員会への介入を開始し、社民指導部内の右翼的部分と結託して秋山全学連委員長の発言を「実力阻止」しようとし、角材、石、牛乳ビンなどをもって素手の全学連主流派や反戦青年委員会の青年労働者に錯乱的襲撃を準備し、これを制止しようとした実行委員会関係者、来賓に乱暴を加えようとしたのである。
 もちろん、カクマルと、その目下の同盟者・解放派の反階級的破壊策動は、地評の一部指導者に集会分裂の官僚的口実を与えはしたものの、結局、六・一五集会に結集した青年労働者、学生、市民の圧倒的部分は、会場を埋めつくして整然と集会をつづけ、孤立し動揺した分裂主義者の錯乱的な襲撃をはねかえし、逆に粉砕しぬくことをとおして、カクマルの反階級的破壊策動を「みじめな敗残の序幕」にかえてしまったことはいうまでもない。
 かくして、権力とのたたかいでは角材を「割ばし」と嘲笑しながら、激動の七ヵ月の中核的担い手にたいしては、角材を振るって「非妥協的」襲撃を「激突主義」的にくりかえしたカクマルは、デモをおこなう気力も組織性も喪失して四散し、総括をめぐって批判や脱落者が続出し、いまや大混乱におちいってしまったのである。
 六・一五闘争は、日本革命的共産主義運動のうちに生みだされたメンシェビキ的歪曲がついに、直接に社民指導部の反動的制動の先兵になりさがったという恥ずべき現実を、思想的=組織的に粉砕することなしには、七〇年安保闘争の革命的爆発を断じてかちとりえないことを「怒りと恥じ」をもって教えているのである。まさに社民の先兵に堕落したカクマルと解放派の許しがたい反階級的同盟にたいし、われわれは、その粉砕のたたかいをいまいっそう強めるとともに、その反階級的犯罪行為と錯乱的暴力の発現の根拠が「没落し零落するもの」の自己恐怖以外のなにものでもないことを仮借なくあばきだすであろう。
 
 革命の現実性を正面から否定
 
 カクマルがこのような恥ずべき反階級的策動の先兵にまで転落するにいたった第一の根拠は、かれらが、革命の現実性の否定のうえに「革命党建設」の基本路線を設定していることであり、その破綻が「激動の七ヵ月」をとおしてだれの眼にも明らかになったことにある。
 いいかえるならば、現代プロレタリア革命の実現の過程は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の世界史的深まりと、それにもとづくスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産、そして、両者の複合的過程の統一的=場所的反省を綱領的立脚点としつつ、両者の危機を媒介とした具体的階級関係のうちに創成される革命党の組織的実践、という三つの契機の相互関係のうちに求められねばならないにもかかわらず、カクマルにあっては、革命はただ「革命的組織づくり」なるものの同心円的拡大のうちに実現されるものとして歪小化されているのである。
 もともと、反帝国主義・反スターリン主義というわれわれの綱領的立脚点は、ロシア革命を突破口とする世界革命のスターリン主義的歪曲と、それにもとづく帝国主義の基本的延命を歴史的条件とする「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」の「平和共存形態」的変容を、世界プロレタリア革命の勝利にむかって統一的に突破しようとするものであり、その根底には、当然、二〇世紀=戦争と革命の時代という世界史的認識がよこたわっているのである。しかも、第二次大戦以後、アメリカ帝国主義を中心として特異的病的に成立した戦後帝国主義世界体制が根底的動揺を深めつつあり、そのなかで国際階級闘争のあらたな激動が展開されつつある現在、「反帝・反スタ」世界革命をめざす革命的共産主義者にとって、こんにちの帝国主義の体制的危機のもつ世界的性格を革命との関連において現実的に把えかえすことが、より鋭く要請されているといわねばならない。
 ところが、わがカクマルにあっては、革命の現実性とは、直接的な革命情勢を規定するものとして単純化されており、そこから逆に、革命の現実性の否定にいたり、革命党建設の根拠をただただ「共産主義的人間としての主体性の確立」の同性生殖的拡大に歪小化していくこととなるのである。そこにはまさに「反帝・反スタ」戦略の世界史的基底をなす帝国主義段階論と、延命した帝国主義世界体制の危機の世界史的性格の分析が完全に欠如しており、資本主義の本質的矛盾に、政治的反スタ主義を直接的につぎ木するという理論以前的誤謬が横行しており、行きつく先は、「スターリン主義千年支配説」といった裏がえしの帝国主義美化の理論でしかない。まさに、カクマルには「革命の現実性」は永遠の未来の課題であり、「革命の現実性」を媒介として党建設を論ずることは「小ブル急進主義」の思想的根拠になるというのだから、ベルンシュタイン以下の改良主義というほかはない。
 
 激動の七ヵ月に右翼的に敵対
 
 カクマル派がこのような恥ずべき反階級的策動の先兵に転落した第二の根拠は、かれらが七〇年安保闘争の革命的爆発からの召還路線にふまえて羽田闘争以来の激動の七ヵ月にたいし一貫して右翼的に敵対してきたにもかかわらず、「激動の七ヵ月」における先進的労働者・学生の階級的前進のまえにいかんともしかたい孤立と焦燥感に襲われてしまったことにある。
 いいかえるならば、日本プロレタリア革命と、その勝利のための革命的労働者党建設の課題は、抽象的な労使関係の把握のうちにとどまるものではなく、帝国主義の具体的な攻撃と、それへの階級的=全人民的反撃という具体的な諸過程との生きた交通の発展のうちにもとめられるべきであるが、カクマルは、七〇年安保闘争と「革命」とのあいだに万里の長城を築くことによって、七〇年安保闘争の戦略的展望を完全に放棄してしまい、その結果として、当然、羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄とつづく七ヵ月の激動にたいし、右翼的に敵対することしかできず、安保粉砕・沖縄奪還・ベトナム反戦をめざす労働者階級=人民大衆の巨大な階級的前進のまえに色あせた存在に転落してしまったのである。
 周知のとおり、六七年十月の羽田闘争のあと帝国主義国家権力の憎悪にみちた弾圧と、羽田闘争への小ブル的動揺の広がりのなかで、カクマルは、羽田のたたかいにたいし「悪名高きブハーリンの電撃的攻勢論の再版」(対馬忠行)という社民的総括をもちまわり、右翼日和見主義への道にむかって恥ずべき逃亡を強めたが、第二次羽田闘争に際しては「中核派はダイナマイトを準備している」などという挑発デマを社民指導部や単産青年部指導者のあいだにまき散らして、反戦青年委員会の再度の羽田デモに右翼的制動を加え、それ以後、佐世保・三里塚・王子・沖縄とつづく「破防法・騒乱罪の弾圧」に抗しての激動のなかで右翼的逃亡をいっそうおし進め、全自連メンシェビキへの道を完成していったのであった(カクマルの労働者組織の基幹部のすべてが社会党に入党している事実はこのことと無関係でない)。
 だが、カクマルのこのような右翼的逃亡にもかかわらず、中核派を中心とする全学連主流派は、帝国主義の攻撃にたいし真正面から血みどろの反撃を加え、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかっての死活をかけた試練に耐えぬくことをとおして、逆に自己を強化し、全学連主流派としての位置を不動のものとして確立していったのである。
 事実、カクマルの動員する学生たちのあいだにすら中核派への関心と支持が日増しに広がっていくような状況のもとでは、これに対抗するためにカクマルが行使する手段は、ただ、カクマルお得意の錯乱的デマ宣伝しか残されていないのである。「七一年にかける」という、かれらの客観主義的決意は、事前的にはやくも破産したのである。かくして、かれらは、警視庁公安部の製造した「革共同の内部分裂」というブル新記者すら信用しなかった謀略デマに踊らされて「本多と清水の対立」や「野島の戦線逃亡」といったヨタ記事を書きまくって、満天下のもの笑いの種となったのである。〔なお、カクマルはこともあろうに同志梶村にたいし「国家権力のスパイ」という許しがたいデマを流しているが、そんなデタラメを製造する余裕があるならば、黒田の反階級的規律違反行為についてどう自己批判を深めたのか、責任をもって明らかにしたまえ。〕
 
 社民への醜悪な追従とその破綻
 
 カクマルがこのような恥ずべき反階級的策動の先兵にまで転落した第三の根拠は、かれらか一方では社民への醜悪な追従をつづけなから、他方では革命的左翼と「社民との革命的統一戦線」には、凶暴な妨害を加えることを基本戦術としていることであり、この基本戦術が、とりわけ六・一五闘争の前進の過程で見るも無残な破産に直面したことにある。
 すなわち、カクマルは革命の現実性を否定し、七〇年安保闘争の革命的爆発に敵対し、「激動の七ヵ月」を右翼的に清算しようとして醜悪な策動をくり返したにもかかわらず、中核派の不屈の前進のまえに、みじめな敗北に終わらざるをえなかったのであるが。
 わが同盟の「革命的左翼と社民との統一戦線戦術」の卒直大胆な提起にたいし、従来からカクマルは「社民追従の大衆運動主義」という低水準の非難をなげかけてきたが、そのことは、かれらが社民にたいして原則的態度を硬直的に示したものと安易に評価することはできない。なぜならば、カクマルの労働者組織の基幹部がすべて社会党に没入していることからも明らかなように、カクマルは、紙面や口先では社民の裏切りをいぎたなく非難するが、現実の行動では、構改派以下の右翼路線の実践者であることはあまりにも有名だからである。
 事実、十・八以後、カクマルは、社民指導部による中核派への官僚的制動の先兵として、解放派とともに、もっとも忠勤に励んできたのである。
 だが、六・一五大統一行動の発展は、砂川を突破口として羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄と連続してたたかわれた激動の七ヵ月の成果のうえにたって、革命的左翼と社民との革命的統一戦線の豊かな可能性を現実的に保証するとともに、他方、社民指導部の官僚的制動の必要性をいちじるしく強めるものとなった。
 社会党や地評内の一部指導者にとって、もともと六・一五は好ましいものではなかったが、そのうえ、決定どおり大統一行動が集会→国会デモとしておこなわれるならば、地評の青年労働者と革命的左翼とのキズナはますます太くなり、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかっての戦闘的出発点は、強力に構築されることは火をみるより明らかであった。
 かくして、社民指導部の一部右翼分子は、すでに事務局で正式確認している秋山委員長の発言を官僚的にとり消し、六・一五大統一行動の根本的破壊を狙うとともに、これに抗議する全学連主流派にたいし、カクマルの角材部隊を激励し、その暴力的襲撃をもって対抗しようとした。こうした混乱を陰謀し、もっとも悪質な役割をはたしたのは、社民親衛隊としての本性を日増しに明らかにしつつある解放派樋口一派であり、この責任は当然きびしく糾弾されねばならない。だが同時に、カクマルが口先では社民批判をドグマ的にわめきたてながら、現実に社民の醜悪な先兵として六・一五大統一行動の破壊のために利用されざるをえなかったことは、偶然の誤りというよりは、もつと深い根拠をもつものであることをはっきりと直視せねばならないのである。
     (『前進』三八八号、一九六八年六月一七日 に掲載)