四 七〇年闘争は開始された
 
 六七年二・二六――五・二八――七・九砂川闘争は、同年秋の十・八羽田への歴史的決起を準備するという意味でも決定的なたたかいであった。再建全学連(六六年十二月成立)が初代委員長斉藤克彦(ブント、明大)の裏切り=失脚のあと、秋山勝行新委員長の執行体制のもとに圧倒的に強化され、全学連運動のあらたな革命的高揚期が現出されるのであるが、その最初の跳躍台こそ六七年春〜夏の砂川闘争にほかならない。本稿は、七〇年安保決戦を戦略的射程に入れ、そこから逆規定されたものとして六七年の階級情勢とたたかいの展望を明示したものである。
 
 
 開始された七〇年へのたたかい/革命的左翼の独自の力量示す/日共、反動的勢力として登場/あばかれたブントの日和見主義
 
 
 二・二六実力闘争の炎のなかから不死鳥のごとくよみがえった砂川闘争は、全学連・反戦青年委員会一万二千名を結集した五・二八砂川基地拡張阻止・青年学生決起集会を突破口に、いまや、七・九現地五万人集会にむかって総評系労働者を主軸とする階級本隊の闘争に発展しはじめた。七〇年安保再改定をめぐってすべての政治過程が集約されようとしているこんにち、すべての革命的左翼は、五五年以来一二年間、権力の弾圧と買収に抗して砂川の土地を守り、反戦のとりでを守りぬいてきた地元反対同盟と固く団結して、砂川基地拡張実力阻止を勝利的にたたかいぬくとともに、砂川闘争を七〇年安保闘争にむかっての現実的な突破口とするために、いまこそ全力をあげて奮闘するときである。
 
開始された七〇年へのたたかい
 
 五・二八砂川闘争の第一の意義は、それがベトナム侵略戦争への日本帝国主義の加担政策にたいする実力の痛打としてたたかいぬかれたこと、そして、それが同時に、七〇年安保再改定への日本帝国主義の反動的布石にたいする反撃の突破口をきりひらくものであった点である。
 こんにち、ベトナム情勢は、アメリカ帝国主義の軍事行動の失敗を軸としてあらたな展開をみせている。年間三〇〇億ドルにおよぶ軍事費の投入と、巨大な近代軍事力の発動にもかかわらず、アメリカ帝国主義の軍事的、政治的情勢は悪化の一途をたどっている。とくに、いわゆる非武装地帯侵略作戦では、米軍は部隊全滅など手痛い軍事的敗北をこうむっている。こうした情勢を背景にアメリカ本国では史上最高の反戦デモがまき起こっており、前線では命令拒否や集団脱走がひん発しはじめている。また、大統領選挙をめぐって南ベトナム軍内部の紛争が深まっており、米国とそのカイライ軍の民衆からの孤立は絶望的状況に達している。
 アメリカ帝国主義には、こうしたベトナム情勢の悪化を打開するための方策として、より強大な軍事力の凶暴な投入をもってする戦争のベトナム全域化と、そのための戦争責任の太平洋・アジア諸国による共同負担化の道しか残されていない、その集中環をなすものは、いうまでもなく日本帝国主義のベトナム参戦国化である。アメリカと日本の両帝国主義は、安保条約をテコにして日本のベトナム兵站基地化を徹底的におしすすめるばかりでなく、七〇年安保再改定にむかって日本の核武装と参戦国化を強行しようとしている。
 もともと、戦後の日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の世界支配を前提とし、アメリカ帝国主義との特殊な同盟関係を維持することをとおして、重化学工業化の特異な発展の道をあゆんできた。だが六三年を画期とする高度成長の終末と、その後の対外膨張の本格的開始は、日本帝国主義の戦後的発展のもつ構造的矛盾を鋭くあばきだすとともに、戦後世界における日本帝国主義の国際的位置のきわめて危機的な性格を照らしだした。日本帝国主義は、構造的不況からの脱出策として独占救済のための公債経済への移行をはかるとともに、アジアとアメリカにむかって本格的な対外膨張をすすめたが、それと同時に日本帝国主義をとりまく国際的条件の異常な困難を暴露する過程であった。日本帝国主義には、帝国主義としての存立を維持していくためには、アメリカ帝国主義のアジア支配と一体的に運命を結合することをとおして発展する通しか残されていないのであり、その具体的な政治過程が、日米同盟をテコとする日本の兵站基地化から核武装・参戦国化への道である。
 七〇年安保再改定は、疑いもなく、ベトナム危機を導火線とする戦後世界体制の歴史的動揺と日本帝国主義の体制的危機との結合の過程となるであろう。われわれが小選挙区制を頂点とする政治支配体制の反動化を阻止しつつ、労働者階級の戦列を強めながら七〇年にむかって進むことができるならば、七〇年安保再改定をめぐる日本階級闘争が、かつてなく厳しくかつてなく激しいものに発展することは、まったくうたがう余地がない。日本帝国主義は、日本経済の六〇年当時とは一転した困難な情勢のなかで、十分な政治支配体制の確立もなしに、核武装・ベトナム参戦国化という重大な政治課題を強行しなければならない。それは、労働者人民にたいする極度に厳しい政治反動攻撃の到来と、それにたいする労働者人民の組織的命運をかけた実力の反撃の「力と力との激突」を意味している。
 七〇年安保再改定は、あきらかに、ベトナム侵略戦争を導火線とする世界危機を帝国主義国内体制の政治危機に転化する重大な契機となる歴史的性格を強めている。砂川闘争および沖縄闘争は、ベトナム反戦闘争と七〇年安保闘争を具体的に結節する政治課題である。したがって、われわれは、ベトナム反戦闘争を砂川基地拡張・沖縄永久核基地化・佐藤ベトナム訪問など日本帝国主義の侵略加担政策に反対するたたかいに具体的に結びつけながら、<安保再改定阻止・小選挙区制粉砕・諸闘争の激発>という展望のもとに七〇年安保闘争に鋭く集約していかねばならない。五・二八砂川闘争を突破口として、七〇年安保闘争にむかっての階級的胎動は、いまや意識的に開始された。
 
 革命的左翼の独自の力量示す
 
 五・二八砂川闘争の第二の意義は、これが文字どおり革命的左翼を政治的主導勢力として計画され組織され、たたかいぬかれたこと、そして、それが同時に、七〇年安保闘争を担いうる政治的主導勢力が誰であるかを明瞭に照らしだした点である。
 周知のように、五・二八砂川闘争は、当初一一年の沈黙を破ってたたかわれた二・二六青年学生決起集会の衝撃のなかで、地元反対同盟が三多摩の社・共両党、労働組合(三多摩労協)などに呼びかけて四団体の共催として準備されたものだが、準備の過程のなかで前記四団体に都段階の社・共両党、東京地評、全国実行委員会(社会党・総評系)、中央実行委員会(日共系)の五団体を加えた九団体共闘に発展し、砂川闘争のかつてない大衆的高揚が予想されるにいたった。ところが全学連・反戦青年委員会を突破口とする砂川闘争の下からの大衆的戦闘化の展望に恐怖した日本共産党は、戦闘的翼への統制強化をめざして、(1)前記九団体に東京平和委員会、武三労協(ともに日共系)を加えた一一団体共闘にするか、(2)全国、中央の両実行委員会に地元四者共闘を加えた三者共闘にすることを拒否した場合には中央実行委員会の単独集会とするという一方的通告をおこない、地評二万を先頭とする首都労働者の砂川闘争への決起の道を破壊してしまったのである。
 昨年十二月に再建された全学連は、秋山委員長を先頭に五・二八砂川闘争の継続遂行をただちに宣言するとともに、地元反対同盟および反戦青年委員会と団結して一万二千の大量動員をかちとり、機動隊の凶暴な弾圧に屈することなく「砂川基地拡張実力阻止」の戦闘的示威行進を展開した。かくして五・二八砂川闘争は、砂川闘争の「平和的カンパニア」化という日共の反動的意図を決定的に粉砕するとともに、労組の民同系指導部を動かし、再度の砂川闘争への取り組みを可能とする戦闘的陣地を構築した。
 五・二八砂川闘争をめぐる政治的配置は、七〇年安保闘争の原型を明示している。日本共産党は、いまもなお五・二八砂川闘争の誹謗と中傷にやっきになっているが、それは一方では、杉並につづく砂川の敗北という「トロツキズムへの恐怖」のあらわれであり、他方それは、日共系単独集会の真実の目的を裏から自己暴露するものである。まさに、日本共産党は、砂川基地拡張阻止のためでなく、いわんや、そのための実力闘争準備のためでなく、ただ、砂川闘争の戦闘的展開を阻止するために、実力阻止のたたかいに日共系大衆が合流することを阻止するために五・二八単独現地集会なるものを強行したのである。
 六〇年安保闘争においては、日本共産党は、社共共闘をカクレミノとして全学連をはじめとする戦闘的左翼への反動的弾圧をくりかえし、安保敗北の決定的支点となったが、七〇年安保闘争においては、一〇年間の党勢拡大を基礎にして、それがより反動的な勢力として登場するであろうことは、火をみるよりもあきらかである。七〇年安保闘争の主力に「社共共闘」を想定することは、どんな善意から出発したものであろうとも誤っている。それはただ、敗北の条件を準備するだけである。
 
 日共、反動的勢力として登場
 
 七〇年安保闘争の基本的性格はうたがいもなく、わが同盟を中核とする革命的左翼の主体的力量、すなわち反帝・反スターリン主義を立脚点とする革命的プロレタリア党のための闘争の前進と、それを指導勢力とする大衆的戦闘部隊の強化にかかっている。全学連を六○年当時をこえた強大な勢力に再建することとならんで、組織労働者の大衆的かつ戦闘的な登場こそ七〇年安保闘争の勝利を保障するきわめて重大な主体的基礎である。
 もちろん、このことの強調はいわゆる統一戦線戦術の否定を意味するものではない。六五年以来の反戦青年委員会の活動や、六三年以来の各種の「交流経験」にふまえて、諸傾向・諸潮流との共同戦線をよりいっそう強めていくべきことはいうまでもない。とりわけ、社民的潮流と革命的左翼との戦闘的統一戦線の形成が、七〇年安保闘争の主内容を決定するであろうことを大胆に確認せねばならない。だが、そのためにも問題の中心が、あくまでも統一戦線戦術の適用主体としてのわが同盟組織の強化・拡大・発展にあることを、われわれは一刻も忘れてはならない。わが同盟組織の政治的・組織的力量のみが、安保敗北以後の七年間にわたる革命的左翼の前進と強化の決定的保障であったことを、われわれはこころに銘記して七〇年にむかっての進撃を開始する必要がある。
 砂川闘争をとおしての地元反対同盟と革命的左翼とのたたかう団結形成の経験は、お互いに民衆の利益を徹底的につらぬきとおすという立場にたつかぎり、どんな人たちとも心をかよいあわせてたたかうことができることを教えている。六五年以来の杉並の経験にならんで、わが同盟はいままた、もう一つの確信をうることができた。われわれは、労働者階級の本隊のなかに確固とした革命的中核を大衆的に創成し、また全学連の飛躍的な発展と、その内部における中核的主流派の不動の位置を固めながら、この両者を主体的基礎として民衆のありとあらゆる層のなかに戦闘的拠点をうちこんでいくであろう。
 五・二八砂川闘争の第三の意義は、それが昨年暮に無原則な野合的「再建」を達成したブントの革命的左翼の追従的同伴者としての本質をあまさず暴露したこと、そして、それが同時に、七〇年安保闘争にむかってのブントの分解と死滅の現実の第一歩を意味せざるをえない点である。
 
 あばかれたブントの日和見主義
 
 青年労働者・学生一万二千の戦闘的結集をかちとった五・二八砂川闘争が、カクマル「全学連」の貧弱な肉体と歪小な精神をあばきだし、その現実の没落の姿を示したことは、誰の眼にもあきらかである。だが、歴史はもっと非情な方法で未来を予告する。五・二八砂川闘争は、七〇年安保闘争における日本共産党の裏切りと動揺を予知せしめたばかりでなく、また同時に、革命的左翼の親スターリン主義的追従者としてのブントの命運な決定したのであった。
 もともとマル戦派を主軸とする「再建ブント」なるものは、六〇年安保当時のブントを名称的にのみ「継承」する喜劇的小集団であり、その成立根拠は未来ではなく過去への幻想に基礎づけられている。事実、「成立」後わずか三ヵ月にして最大の拠点校たる明大で「民同以上の裏切り」(『戦旗』、六六年二月五日号)者を生みだしたブントは、それから六ヵ月にしてはやくも明大闘争におけるブントの裏切りの弁護と美化を開始した(『共産主義』一〇号、水沢論文参照)。水沢はかつて明大闘争を「隠された内乱」と規定したが、ブントが明大闘争で立証してみせてくれたものは「隠された反革命」以外のなにものでもない。
 われわれは、明大闘争におけるブントの裏切りと破産、そして、その裏切りと破産をかくすための寄木細工としての水沢論文(改良闘争の改良主義的美化の理論)にかんしては別稿で徹底的に検討することになるであろうが、五・二八砂川闘争に関連したブントの三つの総括的視点、すなわち(1)「五・二八集会の動員の約七割はブント系の労働者学生であった」、(2)「社民の闘争放棄にくらべれは日共の方が集会を開催しただけましであった」、(3)「地元反対同盟は日共系と全学連・反戦青年委員会の双方に代表を送るべきであった」(『戦旗』、六月五日号)という驚くべき評価にかんして最後に一言しておきたい。
 まず、第一点にかんしていうならば、この評価がブント首脳をふくめて誰も信用しえない漫画的宣言であることは論外としても、当面、問題になることは、このような漫画的宣言がなぜ必要なのか、という一点である。いったい、自分の責任で主導的にひらいた集会の場合、参加者内の「自派」の比率などが気になるものであろうか。まさに、参加者のうち何割がブント系というデタラメな総括の底にひそむものは、ブントが五・二八砂川闘争にたいして外在的にしか関係しえなかったことにかんする敗北感と焦燥感であるといえよう。不愉快な事実を言葉で「愉快な事実」に改作することは、すくなくともマルクス主義者のすることではなかろう。
 第一点に比較すると、第二、第三の視点は、完全に正直であり、また、論旨が積極的である、という美点をもっていよう。だが、この正直かつ積極的という美点こそ、ブントの革命的左翼の親スターリン主義的追従者としての本質を示したはかりでなく、五・二八砂川闘争をめぐる日共の分裂策動にたいしブントが砂川の普通の農民たちの認識すらもつ能力がないことを自己暴露しているのである。
 全学連は、明大闘争におけるブントの「隠された反革命」を粉砕し、五・二八砂川闘争をとおしてその戦闘的勇姿を社会的に登場させ、さらに七・九闘争にむかって巨大な前進をつづけているが、この過程のなかでふたたび明瞭となった「新しい日和見主義」を非妥協にあばきだし、克服していかねばならない。それもまた、七〇年安保闘争の勝利にむかっての生みの苦しみの過程である。
        (『前進』三四一号、一九六七年七月三日 に掲載)