解 題
 
 (1)本書第六巻は、七〇年の一月から獄中において本多書記長がみずからの戦争理論を構築するための基礎的な作業として作成した「クラウゼヴィッツ『戦争論』ノート」を第一部とし、第二部は、七二年七月全学連大会における講演「反帝・反スターリン主義とはなにか」を収録し、第三部には、六三年の四全総討議のまとめ、六四年の五全総第三報告、六六年の第三回大会第三報告を収録した。さらに第四部には、六四年新年号論文から六六年までの政治論文をあつめ、第五部には大学闘争にかんする論文を収録した。全部で一八篇である。
 
 最初に各論文の掲載紙、誌、日付をかかげる。
 
T 戦争理論の深化のために
 クラウゼヴィッツ『戦争論』ノート(七二年五月、小冊子として刊行。『破防法研究』二四号、二五号に再録一九七五年十二月、一九七六年三月)
 
U 反帝・反スターリン主義世界革命戦略
 反帝・反スターリン主義とは何か(七二年七月一五日 全学連大会において講演)
 
V 第三回大会への同盟の歩み 
  1 四全総討議の深化のために(『前進』一五一号一九六三年九月一六日)
  2 五全総第三報告(『共産主義者』一一号一九六四年十二月)
  3 三回大会第三報告(『共産主義者』一六号一九六六年十二月、『勝利にむかっての試練』に再録 一九六九年六月)
 
W 六七・十・八羽田闘争へ――党建設と諸闘争
 1 日本帝国主義のあらたな攻勢と労働者階級の任務(『前進』一六五号一九六四年一月六日)
 2 フランス帝国主義の中国承認問題について(『前進』l六九号一九六四年二月三日)
 3 反スターリン主義運動の結集と前進をかちとろう――八・二大阪反戦集会に際し訴える(『前進』』一九四号一九六四年七月二七日)
 4 四・一七スト中止の教訓と日本労働運動の展望(『共産主義者』一〇号 一九六四年六月)
 5 革命的共産主義運動の現段階と同盟の任務(『前進』二〇〇号一九六四年九月一四日)
 6 激化する反動の嵐に抗して労働運動の転換を進めよう(『前進』二一五号一九六五年一月四日)
 7 浜野哲夫統一候補の決定に際して(『前進』l三三号一九六五年三月一日)
 8 総力あげてベトナム・日韓をたたかいぬこう(『前進』二二九号 一九六五年四月一二日)
 9 資本攻勢に対決し、生活防衛闘争の先頭に(『前進』二六五号一九六六年一月三日)
 10 反帝・反スタの旗のもと、日本革命の勝利へ前進せよ――八・二反戦集会の成功のために(『前進』二九四号一九六六年七月二五日)
 
X 大学闘争論
 1 早大闘争の意義は何か――「真理の大学」を回復するために(『前進』二七〇号一九六六年二月七日)
 2 資本制社会と大学――「人間解放の学」のために(『前進』二七八号一九六六年四月四日)
 3 革命的日大生諸君に、獄中より連帯のあいさつを送る(マルクス主義学生同盟中核派日大支部発行小冊子に寄稿一九七〇年九月)
 
 (2)Tは、七〇年の獄中ノートである。「手足のしもやけの痛さとむずがゆさの抵抗と対峙しながら『戦争論』を読みすすみ、ノートをとっていって、戦争論にかんする自分なりの心象が形成されたときの新鮮な感激は二年以上もたった今日でも忘れることはできない。この『ノート』は、そのときの筆者の心象の構成以外のなにものでもない」と、著者自身が冒頭に記しているとおり、自由を奪われた約二年間の獄中生活の主要な努力を、戦争論(暴力論)の独自の理論的構築に注いだのである。いうまでもなく、この場合の戦争論の焦点は、プロレタリアートの革命戦争であり、そのもっとも直接的形態としての二重対峙・対カクマル戦争である。著者は、この問題意識から、クラウゼヴィッツの戦争理論の特徴点、学習すべきポイントをきわめて要領よくかつあざやかにぬきだして描きだしている。
 二重対峙・対カクマル戦に即してこのノートをみるとき、「戦争における政治の優位性について」は、カクマルの反革命的本質を全人民のまえに徹底的にあばきだし、広範な政治宣伝を組織することによって先進的な全人民の対カクマル戦争への参加と協力をつくりだし、日本帝国主義打倒の武装闘争、蜂起の準備を現在的に獲得していくたたかいにおいて、きわめて重要な指導的原理を提起している。
 「戦争指導における人間精神の役割」は、いっそう重要である。こんにちカクマル反革命は内戦論を欠如しているがゆえに、わが革共同革命軍の戦略的総反攻完遂の猛然たる攻撃のまえに戦闘精神を完全に喪失し、完全な敗北主義におちいっている。「謀略論」こそその証左である。これに反してわれわれは、三・一四の逆流にもかかわらず、それをのりこえ強烈な武徳をわが党と軍の内部に定着させ築きあげつつ勝利へむかって前進しているのである。まことに「戦争における成功の四分の三は、精神的要素によって決し、物質的状況いかんで決するのは、ただその四分の一にすぎないのである」。
 いまやわれわれは、カクマル反革命の反帝・反スターリン主義の公然たる放棄、日共スターリン主義との醜悪な野合という事実を全面的に暴露し、総反攻完遂の絶好の勝機を逃さず、総決起すべき秋(とき)である。われわれにはそれがいま、ほんとうに可能なのである。
 
 (3)第二部の講演は、七二年七月全学連大会の参加者にたいしておこなわれたものである。本多書記長は、ここできわめてわかりやすく反帝・反スターリン主義世界革命戦略の具体的内容を説きあかし、革命党建設への聴衆全員の参加をつよく訴えたのである。
 この講演の特徴は、第一に反帝・反スターリン主義世界革命戦略の具体的内容を、資本主義社会の基本的矛盾の原理的解明と現代国家論の現実論的展開をなしとげつつ、あきらかにしたことである。第二に、カクマルの木質を現代のナチス、民間反革命として鋭くあばきだし、その反帝・反スターリン主義の放棄を批判しつくしていることである。第三に、帝国主義国の武装解放闘争と後進国・半植民地の民族解放・革命戦争との有機的結合を現代世界革命の具体的内容として明快におしだし、帝国主義国におけるプロレタリア人民の実践的任務として「日帝のアジア侵略を内乱へ」という戦略的総路線をあきらかにしていることである。最後に、革命党の建設の課題を「プロレタリア独裁権力を樹立し維持する党」として強烈にうちだしていることである。
 (4)第三部は、かの六七年十・八羽田闘争を準備した前年の第三回大会報告にいたる主要な革共同の全国会議の報告を収録している。
 四全総は、六三年八月下旬に開催された。この当時の政治状況は、六二年の三全総以来約一年間、黒田=カクマルのわが同盟からの脱落と反革命組織の結成にたいして、激越な分派闘争がたたかわれ勝利した時期であり、同時に、「国際共産主義運動」の一枚岩の団結の幻想が中ソ対立の全面的激化によってうちやぶられ、わが革命的共産主義運動の飛躍が歴史的に迫られていたときである。「四全総討議の深化のために」は、中ソ対立の本質を鋭くあばきだし、中ソ両スターリン主義を.プロレタリア世界革命の敵として厳しく断罪し、わが革命的共産主義運動こそ全プロレタリア人民の前衛であることを鮮烈にうちだし、黒田(山本勝彦)=カクマルの日和見主義的逃亡を痛烈に弾劾しているのである。
 五全総第三報告は、一九六四年秋に開催された五全総の基調報告全三部のうちの第三報告である。五全総討論の主要な内容は、当時激化しつつあったベトナム侵略戦争にたいして、わが革共同としていかなるたたかいを組織するのかという問題であり、現代帝国主義における民族=植民地問題の決定的な意義と帝国主義国人民のベトナム人民と連帯すべきたたかいの方向性をめぐってであった。すなわち、当時わが同盟内に存在した、「ベトナム人民の指導部はスターリン主義者であり、したがってスターリン主義を援助することは反スターリン主義の利益にならない」といったアメリカ帝国主義の侵略と侵略戦争を見すえることを拒否した意見、あるいはベトナム人民の民族解放闘争(民族解放・革命戦争の歪曲的創成)にたいする小ブル平和主義的な反発にたいして、本多書記長は、マルクス・エンゲルスのアイルランド問題、ポーランド問題をとおしての民族問題にかんする体系的見解の創成、レーニンのマルクス・エンゲルスの革命的継承と帝国主義段階における民族理論の現代的展開、この両者の理論の革命的核心を簡潔に提起し、十・八羽田闘争の実践的立場を築きあげる端緒をきりひらいたのである。
 第三回大会報告は、いうまでもなく十・八羽田闘争にはじまる激動の七ヵ月と第一、第二の十一月→激闘の七〇年代を理論的、政治的、組織的に準備したわが革共同のもっとも重要な党的文献の一つである。第三回大会報告は、「第二次大戦後の世界体制の根底的動揺と日本帝国主義の危機」という時代認識を、早くも一九六六年にまさに前衛的に提起し、激動期に備える党建設を鋭く提起したのである。第三報告「日本階級闘争の危機と革命的左翼の任務」は、主要に同盟の方針と組織建設の内容であり、六七年十・八羽田闘争をまさに党建設の面で指導し、準備した重要な党文献である。
 (5)第四部は、六四〜六六年の機関紙誌に発表された政治論文である。
 1は、六四年新年号論文である。新年にあたって、「職場に闘いの拠点」を着実にきずきあげ、たたかう労働者党の創成を力づよくおしすすめることを訴えている。
 2は、一九六四年当時、こんにちとはくらべものにならないほど強力な世界的支配力を誇っていたアメリカ帝国主義の世界政策に抗して、フランス帝国主義=ドゴールがおこなった中国承認についてのきわめて正確なかつ簡潔な論評(政治局署名)である。こんにちの帝間争闘戦の端緒ともいうべきこの問題を、本多書記長は、欧日帝国主義の復興による帝国主義の市場戦争の激化、スターリン主義国家間の対立の激化の複合的結果の表現としておさえ、世界危機の端緒として明快にとらえている。
 3は、六四年八・二大阪反戦集会に際しての革共同の立場表明である。この反戦集会は、わが同盟をはじめ、第四インター、ブント系諸派(三派)、社青同学協班、長船社研、さらにカクマルまでふくめた統一集会であった。わが同盟を代表して本多書記長は演壇にのぼり、「本集会の責任ある多数派としての立場から発言する」と断言し、全参加者にたいして指導的立場から本論文の内容を簡潔に提起したのであった。
 4は、六四年四・一七スト中止に際して、労働運動の内部に生じた巨大な流動状況を正しく総括し、わが革共同の労働運動内部での組織戦術をうちだした論文である。六四年四・一七スト中止とは、公労協、民間一体となって計画された巨大な賃闘ストにたいして、日共スターリン主義が「挑発にのるな」と称して反革命的なスト破壊策動に走り、全労働者階級のまえに赤裸々にその本賃を自己暴露した歴史的事件であり、日共スターリン主義にたいするきびしい批判を展開したわが革共同が、国鉄をはじめとする労働戦線で大々的に進出する歴史的契機となった事件である。
 5は、『前進』二〇〇号記念論文として発表された政治局論文である。わが同盟の網頭の決定的優越性をとき、中ソ対立の激化のもとでのスターリン主義および社会民主主義の分解にたいして革命的に介入し、わが同盟の飛躍をかちとるべき任務をといている。
 6は、一九六五年の新年号論文である。構造改革路線と反米愛国路線双方の全面的破産のもとで、わが革命運動が革共同を前衛として大きく結集すべき時機にきていることを鋭く指摘し、その「責任ある組織者」として成長すべきことを幹部と全党員に訴えている。
 7は、一九六五年三月、参院選全国統一候補(ブントとの)に浜野哲夫同志が決定した際の政治的呼びかけである。
 8は、六五年四月、日韓、ベトナムを総力をあげてたたかうべく訴えた論文である。
 9は、六六年新年号論文である。日韓条約強行批准と政治反動の情勢のもとにあって、資本攻勢に対決し生活防衛闘争の先頭にたつことを訴えている。
 10は、六六年八・二反戦集会にたいする革共同の立場表明である。
 
 (6)第五部は大学闘争論である。六六年冒頭より学費・学館闘争として大衆的大爆発を開始した早大闘争は、高度成長の過程で資本に奉仕する大学としての本質を露骨化してきたことにたいする全学生大衆の怒りの爆発であった。ここで、大学の歴史の回顧にふまえ、「真理の大学」論がうちだされたのであるが、このスローガンは六八年、六九年の日大・東大闘争、全国大学闘争の爆発的拡大のなかで、「大学を安保粉砕・日帝打倒の砦に」というより包括的、政治的、全面的な運動的スローガンに変更されていったのである。
 1、2は「真理の大学論」の展開である。
 3は、獄中より日大の同志へむけられたアピールである。     一九八〇年十月        前進社出版部