二 資本制社会と大学
     ――「人間解放の学」のために
 
 前掲「早大闘争の意義は何か」につづいて発表された本多書記長の大学論――大学闘争論である。
 近代的学問の成立根拠にまでさかのぼりつつ資本制社会と大学の関係を歴史的、原理的にあきらかにし、帝国主義支配下のこんにちの時代において、大学および学問が真実の意味をもちうるとすれば、それは「人間解放の学」として資本主義の没落と社会主義の到来の必然性とを学問的に基礎づける方向、すなわち、新しい社会秩序の建設を志向する創造的な思想的・学問的営為とその担い手を創造するたたかいのうちにこそある点をうちだしたものである。
 
 
 早稲田大学の学園闘争を頂点として教育=学園闘争が全国的に激発している。大学の運営権をのぐる高崎経済大学、都留文科大学、熊本大学の闘争、大学制度改編をめぐる横浜国立大学、埼玉大学、東京学芸大学、宮城教育大学の闘争、学生会館の運営権をめぐる山形大学、長崎大学、お茶の水大学、東京学生会館などの闘争、学費値上げをめぐる慶応大学、理科大学、学費と学館をめぐる早稲田大学の闘争など、ここ一年のあいだに数多くの教育=学園闘争が起こっている。東京都学連を先頭とする全国の戦闘的学生たちは、各大学における個別的な教育=学園闘争をまもり強めながら、これらの闘争をバネとして、反動文教政策=教育免許法改悪・大学設置規準省令化にたいする全国的な教育=政治闘争の大衆的爆発にむかって決定的な準備をすすめている。
 大学教育=大学自治をめぐる帝国主義的反動と学生の死活の闘争のルツボは燃えたぎりはじめた。早稲田大学の学生たちの再度の試験ボイコット闘争は、反動的文教政策にたいする全国的な教育闘争の不屈の戦闘的橋頭堡をなしている。早大闘争にたいする官憲のたび重なる弾圧と、新聞報道にかんする反動的規制の強化は、大学教育の帝国主義的改編にたいする反動どもの異常な決意を示すものといえよう。
 こんにち、いっさいのブルジョア的宣伝機関は、当初の改良主義的ポーズをかなぐりすてて、試験再ボイコット闘争にたいする思想的攻撃を開始した。かれらによると、早大闘争は七〇年革命をめざす一部の極左勢力の故意の泥沼闘争だ、という。だが、これほどくだらない意見はまたとあるまい。なぜならば、早稲田大学における学園闘争の泥沼化が、直接には大学当局のまったく無反省な既定方針固持の結果として生じたものであることは、すこしでも理性ある人ならすぐ気がつくはずだからである。早稲田大学の学生たちが、三ヵ月の苦しい闘争をとおして学費学館問題の根底によこたわる大学の腐朽化=産学協同路線として現実化する独占資本と大学のゆ着、大学教育の粗放的膨張=非人間的・非学問的な肥大化にたいする非妥協的な闘争を決意したとしても、したがって、また、大学当局の卑劣な官憲導入と自治権破壊を背景とする既成事実の押しつけにたいして問題解決まで闘争態勢を継続すると決定したとしても、それはまったく当然なことではなかろうか。
 二ヵ月前、わたしは、『前進』に執筆した小論のなかで、今回の早大学園闘争は学費の大幅値上げを直接の契機として大衆的に爆発したが、その根底には(1)学費値上げ→校舎増築→マスプロ教育→学費値上げという大学教育の粗放的膨張、(2)産学協同路線として深化する独占資本と大学のゆ着、資本制社会の要請する中級労働力の養成学校への大学教育の変質、(3)理事会専制=学生自治権破壊として現象する大学自治の腐朽化にたいする根深い人間的・学問的反省が存在していることを指摘した(「早大闘争の意義は何か」=本巻収録)。
 早大学園闘争は、帝国主義段階における大学の腐朽化にたいする学生たちの「人間回復」「大学回復」のたたかいとして把えかえされねばならない。
 従来、いわゆる知識人の一部には、学生運動=後進国論ともいうべき俗論があり、日本学生運動の原因を日本の「後進国的特質」や「対米従属状態」に求めようとする傾向があるが、このような俗論が崩壊する過程が先進国における最近の「大学=学生問題」であるといえよう。パリ大学などフランス学生の学費値上げ反対闘争、イギリス学生や北欧諸国学生の反戦闘争、ニューヨーク大学、カリフォルニア大学などアメリカ学生のティーチ・イン運動やフリー・スピーチ運動の発展という最近の動向は、帝国主義本国においても「大学=学生問題」にかんする新しい矛盾がようやく意識化されはじめたことを意味している。旧植民地諸国における学生運動の分極化傾向(支配的民族ブルジョアジーの反動化に対応した学生層の分極化)と対照的に、帝国主義本国における学生層は、大学=社会の閉塞的な停滞を打破する知的変革者として登場しはじめている。大学の資本制社会的位置の傾向的低下は、一方では大学教育の粗放的膨張=非学問的肥大化を生みだすとともに、他方ではこのようなブルジョア的学問教育の堕落にたいする人間的・学問的反省をきわめて広範囲に生みだしている。
 大学の勃興は周知のように中世の崩壊=近代社会の成立と不可分に結びついている。いわゆる学問の自由というスローガンは、学問の研究=教育を中世的な教権的・王権的支配から解放することを意味していた。近代における社会科学の成立は近代ブルジョア社会と政治的国家の分裂を歴史的前提とするものであり、自然科学の確立もまた、産業革命にもとづく資本制的機械工業の発展を社会的実験室として可能になったといえよう。
 近代的学問の成立の歴史的・社会的前提をなす近代ブルジョア社会の形成=資本制的機械工業の発展は、もちろん、土地および生産条件の所有からの労働者の分離の結果として生じたものであり、労働力の商品化を根底的矛盾としている。自由主義段階において、約一〇年を周期として起こった恐慌現象は、資本制社会の根底的矛盾の発現として、したがってまた資本制社会の歴史的命運を示すものとして、新しい社会秩序にむかっての社会的変革の必然性を基礎づけるものであった。
 しかし同時に、資本制的商品経済は賃労働と資本の矛盾的自己同一性を基底として、一方では恐慌としてその矛盾を発現しながら、他方では商品経済機構をとおして、その矛盾を現実的に「解決」しつつ、より大きな矛盾を形成するものとして発展した。かくして、資本制的商品経済を本質とする近代ブルジョア社会は、自由主義段階において政治的・イデオロギー的上部構造をますます傾向的に分離しつつ経済的に純化する方向を示した。
 したがって、国民経済学を代表とするブルジョア的学問は、資本制的矛盾を根底としながらも自由主義段階にあっては資本制社会の特殊的、個別的利益とは相対的に独立したものとして発展する傾向をとった。若き勃興期ブルジョアジーは学問を「真理追究の学」として独立的に発展させることが、とりもなおさずブルジョア階級の利益につながるものと確信していた。中世崩壊期のなかで王権的・教権的支配との闘争をとおして確立した大学は、一方では国家的支配からの解放として、他方では近代ブルジョア社会からの独立として「真理の大学」の方向を傾向的に強めた。近代におけるブルジョア的学問は、資本制的矛盾を根底としながらも、このような分離傾向を基礎として、したがってまた、近代ブルジョア社会と政治的国家との分裂・私有財産と分業にもとづく資本制社会の発展に対応した個別諸科学への発展をとおして発展した。
 だが、一八七〇年代から二〇世紀にかけて進行した自由主義段階から帝国主義段階への資本主義の段階的発展、帝国主義諸国間の対抗関係を規定要因とする資本主義の「世界的統一性」の解体は、大学の近代ブルジョア社会からの独立傾向を可能とした時代的存立条件を崩壊させるとともに、ブルジョア的学問、とりわけ個別諸科学の統一性を基礎づけていた資本制的「統一性」を崩壊させるものとなった。資本主義の没落期の到来である。老いた没落期ブルジョアジーは、経済的力を直接に政治的力として転化する傾向を強めるとともに、大学の相対的独立を破壊し大学と独占資本とのゆ着を強行的に形成する傾向をとりはじめる。〔なお、わが国においては、資本主義発展の歴史的特質として、自由主義段階の確立期が同時に帝国主義段階の成立期としてあらわれるために、自由主義段階に対応する大学理念はたえず帝国主義段階に基底的な腐朽化傾向との矛盾として発現しながら、先進諸国の現状に接近する傾向をとる。〕
 かくして、帝国主義段階においては、大学=学問は、ブルジョア的世界性の解体と没落の危機の深化を基礎として、腐朽傾向と偏奇傾向(全体像の喪失)を強めながら、資本主義の没落と社会主義の到来の必然性を学問的に基礎づけようとする新しい学問的運動の波に遭遇する。なぜなら、資本制社会を生成・発展・没落の歴史的性格をもつものとして把握してはじめて、資本制社会の全体像を、それゆえ人間の自然史的・社会史的全体像を学問的に理解しうるからだ。
 大学とブルジョア的学問は、その発展のうちに自己の学問的遺産相続人を発見するのである。したがって、帝国主義段階の没落期ブルジョアジーは、学問の研究=教育の反動的・反学問的堕落に反抗する学問的・人間的反省の傾向的増大をたえず抑圧せねばならない。
 したがって、帝国主義段階における大学の深まりゆく危機は、基本的には、このような危機を必然化する資本制社会の根本的矛盾の解決を基礎としてその解決の前提をもつ。「真理の大学」回復は、利潤を動機とし価値法則を媒介としてのみ学問と産業の結合を実現するところの、したがって 現実には学問が独占資本の下僕としてしか生存することができないところの資本制的経済法則の廃棄をとおして真の実現をみるであろう。
 それは、こんにちのソ連や中国における大学教育のような卑俗な政治主義的偏奇傾向や実利的な科学技術主義を克服し、「人間解放の学」としての全面的発展を実現する道である。労働教育のごとき単純なる「肉体労働と精神労働の分裂」の止揚ではなく、人間的解放という統一原理にふまえ ながら学問の全体的・個別的な徹底的発展をとおして、それゆえ「肉体労働と精神労働の分裂」の社会的止揚を基礎として、学問は人間活動そのものに止揚されるであろう。
 産学協同路線に象徴される今日的な大学の帝国主義的改編攻撃は、資本制社会と大学との歴史的相互関係を一般的前提としつつ、特殊的には戦後日本資本主義と大学との具体的相互関係を基礎にした露骨な教育反動である。大学を「中級労働力の養成のための訓練所」として学問的・制度的に改編しようとする独占資本と大学当局の反動的意図は、大学の大学としての存在理由そのものにまでかかわる大学崩壊の攻撃として把えかえされねばならない。だからこそ、早稲田大学の学生たちは、たたかいのなかで「大学はどうあるべきか」「人間はいかに生くべきか」という根底的反省を深めはじめているのである。
 「真理の大学」回復の出発点はこの反省のなかにある。それは、構改派のように安易に「大学改革」を提起する改良主義の道でもなければ、社青同解放派のように「大学=個別社会権力(?)との闘争」なるものを「政府=政治権力との闘争」なるものに実体主義的に結合する「反帝教育闘争」=戦闘的改良主義の道でもない。われわれは、「大学はこれでいいのか」という学生の真剣な反省に徹底的にふまえながら、早大などの個別的な教育=学園闘争と教免法などの全国的な教育=政治闘争を、大学にたいする帝国主義的改編=反動的文教政策にたいする反撃の一環として非妥協的にたたかいぬくとともに、これらの闘争をとおして現存の社会秩序を根底的に変革しうる人間的主体を確立していかねばならない。それは同時に、大学とブルジョア的学問の遺産相続人を形成するたたかいとして、したがって新しい社会秩序を建設する「人間解放の学」の全面的発展のための思想的・学問的担い手を創造するたたかいとして展開されねばならない。
     (『前進』二七八号一九六六年四月四日に掲載)