三 三回大会第三報告
    日本階級闘争の危機と革命的左翼の任務
 
 本論文は、一九六六年九月に開催された革共同第三回全国大会政治局報告(三部構成)のうち、本多書記長自身が執筆分担した第三報告にあたるものである。この同盟三回大会こそ、六三年の革共同第三次分裂=カクマル派との永遠の決別以降、苦闘の三年間をつうじてようやく、革共同――中核派の組織的・綱領的優位性を全面的に確立することのできた歴史的な大会である。そして同三回大会報告全文は、なによりもカクマルとの党派闘争、イデオロギー闘争における圧倒的な勝利の金字塔であり、『共産主義者』一六号(六六年十二月発行)および『勝利にむかっての試練』(六九年六月初版発行)に掲載されることをつうじて、文字どおり党綱領文献中の基軸として党内外に絶大な力を発揮してきた文書である。この第三報告は、本多書記長の卓越した理論的分析力と展開力、強靭にして柔軟な指導性と人間的豊かさを読む者の胸におのずから伝えずにはおかないものといえるだろう。
 
 
A 階級情勢の危機の客観的条件は何か
  ――戦後世界体制の動揺と日本帝国主義の体制的危機
 a 戦後世界体制の基本的特徴/b 戦後世界体制の動揺の諸要因/c 日本帝国主義の国際的位置
B 日本階級闘争の危機の主体的条件は何か
  ――既成指導部のあらたな屈服路線と革命的左翼の試練
 a 社民指導部の思想的屈服と労働運動の右翼化の危機/ b 日共の中国路線からの逃亡と帝国主義への新しい屈服の路線/c 革命的左翼戦線の現状と方向
C 日本階級闘争の基本的動向とわれわれの闘争=組織戦術
 a 戦後世界体制の動揺と階級闘争の主体的危機/b 日帝の攻撃の基本的動向とその矛盾/c 当面するわれわれの闘争=組織戦術
D 同盟の当面する組織活動について
 a 綱領的深化とイデオロギー的再武装のために(以下略)
 
 
 A 階級情勢の危機の客観的条件は何か
    ――戦後世界体制の動揺と日本帝国主義の体制的危機
 
 帝国主義とスターリン主義の複合的な分割支配を構造的基底とした戦後世界体制は、ベトナム危機を導火線とする帝国主義世界の体制的危機と、スターリン主義陣営の一国社会主義的対応政策の自己破産を基軸として、世界史的な動揺期に突入した。戦後世界体制の動揺の開始こそ、こんにちにおける階級闘争の主体的危機を根底的に規定する客観的条件である。
 この主題にかんしては、第二報告において全面的かつ体系的に検討がおこなわれているが、階級闘争の主体的危機という本報告の主題とも根底的に連関するので、ごく要点的に整理しておく。
 a 戦後世界体制の基本的特徴
 
 いわゆる現代世界は、ロシア革命を突破口とした帝国主義と社会主義の世界史的分裂が、世界革命のスターリン主義的変質と、それにもとづく帝国主義の基本的延命とを前提として「平和共存」形態に変容したものである。アメリカ帝国主義を専制君主とし、ソ連スターリン主義を補助的支柱とした戦後世界体制の形成は、一方における東欧諸国と北朝鮮の「ソ連圏」への官僚制的包摂(世界革命の前進という幻想)、他方における帝国主義諸国の戦後革命の敗北(世界革命の封殺という現実)を政治的基軸としたものであり、世界革命への過渡期の「平和共存」形態への変容に一応の完成を与えたものといってよいであろう。
 戦後世界を政治的に規定したいわゆる米ソ体制なるものの世界史的根拠は、まさにこの変容にあるのであり、米ソ冷戦構造・米ソ共存体制という戦後世界の常識的規定は、帝国主義と社会主義との世界史的分裂の「平和共存」形態への変容にたいする現象論的反映以外のなにものでもない。
 周知のように、スターリン主義者たちは、戦後世界の基本的特徴として、(1)社会主義的世界市場の成立・発展にもとづく資本主義的単一世界市場の崩壊、(2)資本主義国における労働者階級の前進、(3)植民地民族解放闘争の高揚と発展の三点をあげ、「平和勢力の優位性」を結論する。この基本的特徴ではフルシチョフ、トリアッチ、毛沢東の三者は完全に一致している。「戦後世界の構造的変化論」(トリアッチ)も「東風は西風を圧倒する」論(毛沢東)も、同一の世界把握にもとづくものである。ただそこからの戦術的帰結として、前二者は「平和革命の現実的可能性」を、後者は「世界の農村による世界の都市の包囲」を提起しているにすぎない。
 だが、このようなスターリン主義的世界認識の観念性は、戦後世界革命の敗北=帝国主義の延命という世界史的事態にかんする決定的無自覚にもとづいている。一部の観念的反帝主義者は、「戦後革命の半敗北」などという折衷主義的規定をもって戦後世界を政治的に基底づけようとしているが、戦後革命の敗北という世界史的事態にかんするこのような折衷主義的総括こそ、かれらの「反帝」の観念的本質を如実に示すものであり、同時にまた、かれらがスターリン主義に綱領的に屈服している「科学的」証明であるといえよう。
 事実、戦後世界体制の形成は、革命主体勢力の側面において反省するならば、(1)世界革命の突破口であり、社会主義社会への革命的過渡期の現実的根拠をなしていたソ連社会の「一国社会主義」論にもとづく官僚制的変質、(2)国際労働者運動の社民的堕落を打破し「世界革命の前衛部隊」を創成するものとして出発した第三インター(国際共産党と、その各国支部としての各国共産党)のスターリン主義的変質、(3)第三インターとソ連過渡期社会の堕落に抗して決起した国際左翼反対派の敗北と、その第四インター(トロッキー教条主義)的固定化、そして以上三点の実践的結果としての、(4)二九年恐慌にもとづく帝国主義的世界体制の崩壊と、それにもとづく前革命情勢の「人民戦線」的敗北とを二契機とした「危機の帝国主義戦争への転化」、(5)第二次帝国主義戦争の終結=軍事的資本主義体制の崩壊にともなう前革命情勢の到来と、西欧・日本における戦後革命の敗北、(6)中国革命を突破口とした植民地解放闘争の「ジュネーブ協定」的封殺などを主体的根拠としたものである。
 以上の事実は、一方では、戦後世界体制の一応の確立が四四年から五四年におよぶ約一〇年間の政治的強圧の結果として実現したことからも明らかなように、戦後世界体制がきわめて危機的な構造のうえに成立したことを示すものであるとともに、他方では、世界帝国主義打倒、植民地解放闘争のプロレタリア的解決、社会主義社会の世界史的建設という二〇世紀的課題の達成か、現代的には、世界革命のスターリン主義的変質を「内から」超える反スターリン主義のたたかいと不可分であることを示している。
 こんにちにおける戦後世界体制の動揺の深まりは、戦後世界にかんする既成の世界認識を根底から揺がしはじめている。労働者運動をも決定的な一要因とした戦後世界体制の動揺は、逆に、労働者運動の戦後的性格を根底的に動揺せしめている。われわれは、戦後世界体制の基本的特徴を明確に把握するとともに、その構成的諸要因の特質を「戦後世界体制の動揺」との関連において統一的に把握しておく必要がある。
 
 b 戦後世界体制の動揺の諸要因
 
 (イ) 戦後世界体制の動揺の第一の要因は、アメリカ帝国主義を中心とした帝国主義世界体制の体制的危機の深まりである。この要因こそ、戦後世界体制の動揺の規定的要因であるといえよう。
 二九年恐慌にもとづく帝国主義的国際金融体制の崩壊と世界経済のブロック化は、世界の暴力的再編成をめざす帝国主義戦争としてその危機を爆発させたが、この世界戦争をとおして資本主義の不均等発展は極度に進展し、一方にはアメリカ帝国主義への富の圧倒的集中と、他方には西欧および日本帝国主義の決定的疲弊と崩壊的危機とを生みだした。また、帝国主義戦争とその終結過程で深化した資本主義経済の崩壊的危機のなかで、ヨーロッパおよびアジアの労働者階級と植民地人民の闘争は高揚しはじめていた。帝国主義か社会主義かという世界史的分岐が全世界の労働者人民のまえにふたたび現実的課題として提起された。
 アメリカ、イギリス両帝国主義を基軸とした帝国主義的戦後処理計画と、第三インターの解散を犠牲としたソ連スターリン主義の反動的参画は、帝国主義戦争とその戦後処理過程における世界史的激動にたいする反革命的予防を準備するものであった。東欧と北朝鮮のソ連圏への包摂を代償として西欧および日本の帝国主義的確保を協定したアメリカ、イギリス両帝国主義は、アメリカの圧倒的な軍事的経済的力量を背景にして、帝国主義諸国における戦後革命への予防的制圧をすすめるとともに、資本主義経済の復興と発展のために全力を傾注した。このような努力は、基本的には、(1)「共産主義の脅威」からの防衛を口実にした対ソ軍事包囲体制の形成、(2)ドル撒布を基礎としたドル・ポンド国際通貨体制の確立との二つを基軸にしておこなわれたが、その本質とするところは、戦後革命の制圧をとおして「アメリカを中心とする帝国主義世界体制」に世界資本主義を軍事的、政治的、経済的に再編成することにあった。
 対ソ軍事包囲体制を政治的テコとした資本主義経済の復興およびドル・ポンド国際通貨体制の成立は、アメリカ経済の圧倒的優位性を基礎として二九年恐慌以来の世界経済の分断を解消し、世界資本主義の「統一性」を保証するかにみえたが、ドル・ポンド体制という処置からも明らかのように、スターリング地域というブロック経済すら解決しうるものではなかった。したがって、世界経済におけるアメリカ帝国主義の圧倒的優位性が維持されているあいだは良かったが、EECの台頭を頂点とした西欧帝国主義の復興と発展、アメリカ帝国主義の地位の低下に示された世界経済のあらたな不均等発展は、いわゆるドル危機をひき起こし、国際金融体制の動揺を必然化したのである。それは、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化をドル・ポンドを国際通貨として「統一」しようとした戦後国際金融体制の基底的矛盾の表面化であるといえよう。
 ケネディ・ラウンドに代表されるアメリカ帝国主義の対西欧関税体制改編の努力とEECの抵抗、フランス帝国主義との「国際流動性」をめぐる葛藤は、国際金融体制の危機的動揺を基底としたアメリカ帝国主義のまきかえしと、それにたいするEECの防衛的対抗を発展基軸としたものである。先進国間の市場再分割をめぐる帝国主義列強間の争闘は、帝国主義とスターリン主義との対立的共存、そして帝国主義の構造化した体制的危機を二要因とした戦後的特殊性に規制されることによって、いわゆる「国際協調体制」を維持しながらも対立と競争を深めはじめている。
 ベトナムにたいするアメリカ帝国主義の侵略戦争は、ベトナム民族解放闘争を頂点とした植民地支配体制の崩壊的危機にたいする帝国主義的再編成の暴力的発現であることはいうまでもないが、それは同時に、帝国主義世界体制の中心国としてのアメリカの政治的軍事的威信をかけた世界史的な侵略戦争であるといえよう。六〇年以来のアメリカ経済の長期的繁栄は明らかに終末を迎えはじめているが、西欧および日本の戦後的循環の終末・不況と重なりあう危険をも含めて、それは帝国主義世界体制のうえに深刻な不安をなげかけている。ベトナム戦争の激化にともなう軍事経済の拡大は、いまだ国民総生産の約八%を占めるにすぎないとはいえ、アメリカ経済の不況化を抑制する決定的要因に転化しはじめた。だが、このような軍事経済要素の膨張は、同時に、生産的生産要素の相対的縮小と労働市場のひっ迫をもたらすことによってインフレ傾向と輸入増加を強め、かくしてアメリカ経済のあたらしい危機を準備している。
 ベトナム侵略戦争は、植民地支配体制の崩壊的危機にたいする暴力的再編成の基軸をなしているばかりか、いまやアメリカ帝国主義を中心とした帝国主義世界体制の全体的矛盾の集中的爆発点としての位置を占めはじめている。世界帝国主義の専制君主としてのアメリカ帝国主義の危機の深まりは、ベトナム侵略戦争を導火線としてあらたな展開を示しはじめており、それはアメリカにおける反戦闘争の高まりとともに戦後世界体制の存立条件の変動を主客において準備しているといわねばならない。
 (ロ) 戦後世界体制の動揺の第二の要因は、帝国主義世界体制の危機と対応したスターリン主義陣営の分解と内部矛盾の深まりである。
 スターリン主義者のいわゆる「社会主義世界体制」の形成は、第二次帝国主義戦争の戦後処理過程における東欧および北朝鮮の「ソ連圏」への官僚制的包摂を根拠としている。この包摂過程は西欧および日本における戦後革命の敗北(帝国主義とスターリン主義による外と内からの制圧)の対極として進行したが、しかし同時にそれは、帝国主義と社会主義の世界史的分裂を歪曲した形態において拡大したものとして、世界革命への過渡期の「平和共存」的変容を準備するものであった。
 周知のように、一九一七年のロシア革命は、帝国主義の時代から「帝国主義と社会主義の世界史的分裂の時代」(世界革命への過渡期)への移行を画期するものであった。勝利したロシア労働者階級は、全世界のプロレタリアートと共同して「世界革命の完遂」という世界史的事業の達成のためにたたかうとともに、その特殊的任務としてソ連過渡期社会の社会主義へ向かっての組織的建設のために努力していかなければならなかった。
 だが、ドイツ革命の敗北を決定的契機とした世界革命の遅延と、小農的経済に包囲された革命的ソ連の孤立という極度に困難な情勢のなかで「一国社会主義論」をうちだしたスターリンは、世界革命への過波期はすでに開始されたが世界経済の基幹部分はまだ帝国主義の支配下にある、という「世界革命への過渡期」に特有な矛盾を原理的前提として固定化することによって、世界革命を「一国社会主義」の建設と防衛の問題にすりかえた。かくして「一国社会主義と平和共存」のイデオロギーをテコとした国際労働者運動のスターリン主義的変質は、一方では国有化・工業化・集団化政策の官僚制的歪曲、他方ではプロレタリア国際主義の「ソ連無条件擁護」論的歪曲をとおして進行していった。
 二九年恐慌にもとづく帝国主義世界体制の崩壊と、それを基礎とした世界的危機の深化のなかで、これと切断して「一国社会主義建設」を追求しようとしたソ連スターリン主義官僚の政策は、いわゆる第一次、第二次五ヵ年計画の遂行と、そのための帝国主義との協商という内外政策を基軸としたものだが、それは、一方では「一国社会主義建設」のイデオロギーをテコとした官僚的強制の増大にもかかわらず、スターリン主義特有の矛盾を構造化することによって労働者・農民の動揺を社会的に形成したこと、他方では独ソ協定に象徴される帝国主義との協商政策にもかかわらず、帝国主義戦争の過程にソ連が暴力的に包摂されざるをえなかったことをとおしてその破産を示したのであった。
 危機にたったスターリン主義官僚は、独ソ戦にもとづく「ロシア大祖国主義」を基礎に政治的動揺をかろうじてのりきるとともに、ソ連社会の諸矛盾を東欧諸国などに徹底的に転嫁することによって戦後の経済復興達成をしていった。ソ連経済のいわゆる飛躍的発展なるものは、対外的には戦後処理過程における東欧諸国などからの戦利品・捕虜労働・賠償金の収奪、対内的には過密労働と低生活水準、農業と軽工業の犠牲をテコとした資金の重工業への熱病的集中を基礎としたものであり、いわゆる「社会主義体制の優位性」を直接に意味するものではない。
 四九年の中国革命は、戦後世界体制に根底的衝撃をもたらすとともに、植民地解放闘争の世界史的突破口をきりひらいた。だが、その政治的指導部としての毛沢東=中国共産党のスターリン主義的本質、すなわち、(1)帝国主義本国(革命)と植民地(革命)社会との有機的関連の切断、(2)ソ連のスターリン主義的変質への無自覚的追従、(3)過渡期の政治形態と経済政策にかんする「新民主主義」的混乱、(4)プロレタリア独裁権力の官僚制的歪曲などを主軸とした誤謬は、中国革命を突破口とした植民地解放闘争を「ジュネーブ協定」(ヤルタ協定のアジア版)的に封鎖したが、同時に、帝国主義と社会主義との世界史的分裂の歪曲された実現形態として、一方ではアジア植民地支配体制の崩壊的危機を構造化するとともに、他方ではいわゆる「社会主義世界体制」の虚構性を自己暴露する極点を形成した。
 スターリンの死(五三年)はスターリン主義の没落の始まりを意味した。すでに四九年ごろからふたたび矛盾を深めていたソ連スターリン主義体制は、スターリンの死を契機に深刻な政治危機に直面した。スターリンの死とともに農業生産の停滞的危機の解決に着手したフルシチョフは、従来の硬直した官僚支配体制の一応の手直しを進めながら、ソ連経済政策の全面的改革を開始した。だが、このフルシチョフ改革は本質的には生産の計画達成過程の内的規制力として「物質的関心の法則」なるものを導入しようとしたものであり、スターリンの「一国社会主義」理論をより右翼的に修正するものであった。フルシチョフ対外政策の基本的方向はこうした国内経済政策の展開を基礎に、一方では、帝国主義体制との平和共存の徹底的構造化、他方ではソ連圏の官僚制的再編成、東欧および中国への矛盾の「経済」的転嫁をよりいっそう強めることにあったが、それは同時に、中国および東欧諸国の反発をよぶところとなった。
 スターリン主義の体制危機は、二つの形態をとって爆発した。その第一は、ポズナニ暴動、バンガリア革命を頂点とした東欧人民の反スターリン主義闘争の高揚であった。
 ポーランドおよびバンガリア人民の革命的決起は、東欧の「ソ連圏」への官僚制的包摂、そしてフルシチョフによる東欧政策の官僚制的手直しにたいする東欧人民の不満を直接の契機としたものであるが、それは断じて帝国主義的西欧圏への復帰を意味するものではなく、東欧革命のスターリン主義的変質をプロレタリア的に打破せんとするものであった。フルシチョフは、戦車とロケット砲をもってバンガリアの反乱を鎮圧したが、だが、そこにおいて虐殺したものは、「帝国主義の手先」ではなく、ロシア革命の事業を再興せんとしたバンガリア労働者評議会のたたかいであった。まさに、ポズナニとバンガリアの労働者は、血の犠牲をもってスターリン主義の反革命的本質を暴露した。
 スターリン主義の体制的危機の第二は、中ソ分裂として実現した。スターリン批判・バンガリア事件を契機とした中国人民の政治的動揺を官僚制的に弾圧(いわゆる反右派闘争)した中国スターリン主義は、中国社会の小農的性格からの脱却をスターリン式の「農民集団化」政策をもって実現しようとしたが、それは、一方では中国をソ連経済の「農村」として包摂してきたソ連スターリン主義との政策的対立を激化せしめるとともに、他方では大躍進――人民公社運動の破産として中国社会の社会的・政治的危機を必然化したのであった。
 中ソ対立として現実化したスターリン主義の自己矛盾は、一国社会主義論の必然的産物であるといえよう。ソ連のいわゆる「対中国経済援助」が現実にはソ連工業製品と中国農産物の「不等価交換」という疎外形態をとるという中ソ間のスターリン主義的矛盾は、ソ連共産党二〇回大会、ハンガリア事件の評価をめぐる政治的対立を媒介にして、中国の大躍進――人民公社運動、ソ連の援助打ち切り、自力更生論の登場という新局面に発展したが、いまや帝国主義の危機の深まりを背景としたベトナム戦争の激化・拡大への対応政策をめぐって完全な分裂状態に転化した。ソ連の一国的孤立からいわゆる「社会主義世界体制」への発展が現実には「コメコン」対立の深化、中ソ分裂の激化として結果してくるこの矛盾は、「一国社会主義」論を考慮することなしにはけっして解決しうるものではない。
 帝国主義の戦後世界体制が一応の平和的発展をとげているかぎりでは、「社会主義世界体制」は独自の歴史的発展をもつようにみえた。そこでは、スターリン批判をめぐる中ソのイデオロギー的矛盾すら、各スターリン主義国における官僚的強制の相対的強弱の問題として解決された。だが、帝国主義世界体制における矛盾の深化は「帝国主義体制対社会主義体制の対立」という虚構性の基礎を破壊するとともに、帝国主義的矛盾への対応政策をめぐって分裂を決定化した。「帝国主義と社会主義の平和共存的経済競争」や「平和勢力の軍事的政治的優位性」というフルシチョフ的神話は、帝国主義本国における革命主体勢力の衰退にとってかわりうる世界革命戦略のごとく提起され、平和共存政策の名のもとに帝国主義への無原則的妥協や植民地解放闘争の抑制をおこなうカクレミノとなってきたが、帝国主義世界の体制的危機の深まりとベトナム危機を導火線とする戦後世界体制の動揺の激化は、六〇年代に入って明確化したスターリン主義圏の経済的停滞と、その分解と対立とを必然化するとともに「平和勢力の優位性」の実体を無残にもあばきだしたのであった。
 フルシチョフ失脚は、一方における対米平和共存政策の破綻、他方における経済管理体制改革の行きづまり、とりわけフルシチョフ農政の失敗とを根拠にしているが、同時にそれは、スターリン主義特有の矛盾を集中的に表現しているものといえよう。フルシチョフ対外政策の破綻はもちろんだが、フルシチョフ経済改革の過程は、ソ連過渡期社会のスターリン主義的変質のもつ特有の矛盾構造を具体的に自己暴露する過程であった。ソ連経済の矛盾を根底的政策体系のスターリン主義的歪曲との関連において把握せず、ソ連経済を内的に規制する経済法則(経済概念)なるものを物神的に追求することは、計画経済の独自性そのものにかんする完全な経済学的無知にもとづいている。ブレジネフ=コスイギン体制なるものは、スターリン、フルシチョフの道をより無定見にくりかえすものにすぎない。ベトナム問題として露呈した対米追随政策は、ブレジネフ=コスイギン体制の反動的本質とその無定見的混乱を如実に示している。
 (ハ) 戦後世界体制の動揺の第三の要因は、帝国主義世界の体制的危機とスターリン主義陣営の分解と対立、この両者を基底とする戦後植民地支配体制の危機である。
 戦後における植民地支配体制の崩壊的危機は、基本的には、帝国主義戦後体制の再建の努力が主として西欧および日本の帝国主義の戦後的激動の制圧にむけられたという戦後的特殊性を客観的条件としている。中国革命を突破口とする植民地解放闘争は、五四年のジュネーブ協定によって世界史的発展は封殺されたとはいえ、極東における植民地支配体制に決定的な危機を構造化したのであった。ネルー、スカルノ、ナセル、エンクルマ、ベンベラなどを特徴とする戦後的「独立」体制の台頭は、帝国主義の戦後処理の特殊性とその後の平和的発展を与件とするものであったが、政治的独立後の累積的矛盾と帝国主義的反動の開始を契機としていまや没落過程に転化した。この転換をもっともドラスティックに画期したのがインドネシア反革命だといえよう。
 南朝鮮・台湾・南ベトナム・タイに代表されるいわゆる反共軍事国家は、中国革命を突破口とした植民地解放闘争にたいするアメリカ帝国主義の軍事包囲体制を基礎としている。アジアにおける反共軍事国家の特徴は、その地域経済が軍事経済に大きく依拠していることにあるが、そのことは同時に、アメリカ帝国主義のアジア植民地支配体制の極度の軍事的性格を示している。だが、こんにちでは、こうした地域における政治的動揺が、インド・インドネシア・シンガポール・フィリピン・マラヤなどの動揺と基礎を同じくしていることこそ重視されねばならない。反共軍事国家での矛盾の爆発は、アジア植民地支配体制の崩壊的危機とその暴力的解決との矛盾の先鋭な表現であるにすぎない。
 ベトナム侵略戦争が表象しているように、いまや植民地解放闘争と帝国主義反動の対立は、中間的解決が困難となっている。今後いっそうの冷酷さをもって帝国主義的反動が旧植民地諸国を席巻し、帝国主義的再分割を進行せしめるであろうが、帝国主義列強にとって植民地支配体制の再確立は、きわめて困難な仕事であり、新しい矛盾=新しい反乱の条件をつねに生みださざるをえないであろう。しかも、いったん分解したアジア植民地体制を金融的従属と軍事援助でもって再確立しようとしたのがアメリカ帝国主義の方策であるが、従来の勢力圏たるLA地域とことなり、アジアでは植民地経営的紐帯はきわめて脆弱であり、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事力を背景にかろうじて維持されているにすぎない。インドネシアの事態は、帝国主義勢力圏への新しい復帰という植民地主義的方策を除いては、帝国主義的反動がなんの解決策ももっていないことを露骨に暴露している。
 ベトナム特需産業を基軸としたアメリカ――アジア反共諸国――日本の三角貿易圏の形成はベトナム侵略戦争が、ベトナム人民の植民地解放闘争にたいする凶暴な暴力的解決の過程であるばかりか、アジアにおける反動的再編成の過程でもあることを意味している。だが、それは、アジア反共諸国と日本の運命を、アメリカ帝国主義の戦争政策に、より絶望的に結びつけていくものであり、新しい危機の蓄積をいっそう促進する以外のなにものでもない。
 アジアにおける植民地支配体制は、ベトナム侵略戦争を生命線とするアメリカ帝国主義の軍事的制圧体制をもってかろうじて維持されているのであり、ここにベトナム侵略戦争のもつ特殊な意義があるといえよう。そして、まさにベトナム侵略戦争のこのような特殊な性格こそベトナム侵略戦争がスターリン主義陣営を深刻に包摂していく決定的力なのである。
 
 C 日本帝国主義の国際的位置
 
 日韓条約を転機とする日本帝国主義のアジアへの対外膨張政策は、敗戦帝国主義から植民地問題を包摂した本格的帝国主義への転化を画期するものであった。だが同時にそれは、アジアにおけるアメリカ帝国主義の植民地支配体制の危機との直接関係の成立をも意味するものであった。日本帝国主義は、アジアの再分割をめぐってアメリカ帝国主義との矛盾を形成しながらも、アジア植民地支配体制の危機的特殊性に媒介されて、アメリカ帝国主義の軍事的な植民地支配体制を絶対的な存立条件としなければならない。まさに日本帝国主義は、これまで日米同盟を基軸として帝国主義世界体制のうちに強固に結びついてきたが、いまやアジアへの帝国主義的膨張を契機としてアメリカ帝国主義のアジア支配政策とのより全面的な協力関係が不可避となったのである。
 従来、戦後日本帝国主義はアメリカ帝国主義の世界支配政策を国際的存立条件として再建・発展の過程をたどってきた。戦後革命の危機をアメリカ占領軍の援助のもとに乗りきった日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の圧倒的軍事力に依拠することによって独自の軍事支出を極度に軽減しながら、重化学工業中心に飛躍的な経済成長を達成してきた。敗戦による軍事力の決定的な脆弱化と、欧米技術水準と日本のそれとの全面的落差は、帝国主義の戦後世界体制を国際存立条件として、日本帝国主義の再建・発展の有利な内的条件を形成した。
 六〇年の安保改定は、五〇年以来の経済成長を主体的基礎とし、日米同盟を「戦後処理的傾向」の濃厚な五一年条約の段階から「双務的性格」をもった本格的な帝国主義同盟の段階へと転化せしめるものであった。同時にそれは、アメリカ帝国主義を主軸とする戦後帝国主義世界体制のもとに自己の運命を一体的に結合することなしには帝国主義的存立を確保することかできないという日本帝国主義の独自の世界史的性格に起因するものであった。
 六三年以来の日本帝国主義の経済危機は、対外膨張と国内体制の整備・強化を焦眉の課題としている。合理化と大衆収奪、そして政治反動の全般的開始が日韓条約を突破口とする植民地主義政策と一体となった帝国主義的攻撃であるのはいうまでもない。だが、このような日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃がベトナム戦争を導火線とするアメリカ帝国主義の矛盾の危機的深化と対応して進行しているところに、こんにちの帝国主義世界体制の深刻な危機的性格、したがって日本帝国主義の攻撃の深刻な性格がある。こんにち、日本の経済危機は、赤字公債経済への移行と対米輸出の増大によってかろうじて爆発的破綻を回避しているが、それは日本帝国主義の危機をますます国際帝国主義の体制的危機と一体化するものである。ベトナム戦争と米帝国主義の矛盾的結合関係の深化は、アジアに関連するすべての帝国主義勢力の矛盾を爆発的に集中する決定的要因である。
 アメリカ帝国主義を中心とする帝国主義的世界体制を根底から揺さぶりはじめた体制的危機の深化と急激な反動的潮流の進展は、日本帝国主義の独自の政治反動のプランよりもはるかに急速なテンポですすんでいる。まさにこの矛盾こそ日本における政治闘争の一つの発展基軸をなしている。世界革命への過渡期の平和共存的変容という戦後的歴史規定との関連を考慮することなしに安易に帝国主義諸国間の対立の爆発について語ることはきわめて危険である。帝国主義の世界体制の内部矛盾は、帝国主義に特有の矛盾にもとづいて帝国主義諸国間の不均等発展と相互対立を強めながらも、なお、戦後的特殊性に規制せられて、内部対立を全面的に発現させることができないでいる。アメリカ帝国主義のうえに集中的に蓄積せられた体制的危機と、ベトナム戦争として発現しているその矛盾の爆発的過程にしゃにむに包括されていくことのなかに世界的危機と国内危機との今日的な関連の一つのありかたがあるといえよう。
 日米安保条約を基軸とした日米帝国主義同盟は、帝国主義の戦後世界体制の必然的産物であるとともに、日本帝国主義の帝国主義としての存立をかけた不可避の世界戦略である。安保同盟粉粋の任務は直接的には社会主義的課題を意味するものではないが、しかし帝国主義としての本質的基底の変革を捨象しておいて日米同盟の「解消」を要求するという日共=スターリン主義者の伝統的政策は、永遠に実現せざるところの改良主義的路線であり、日帝美化の路線である。日米安保条約を国際法的表現とした日米同盟の「解消」という問題は、けっして「国際法」的改良の問題として過小評価することができない。それは、まさに、日本帝国主義の革命的変革にかかわる問題であるのみならず、帝国主義の戦後世界体制の全般的な変革につながる重大な世界史的課題である。
 
 B 日本階級闘争の危機の主体的条件は何か
       ――既成指導部のあらたな屈服路線と革命的左翼の試練
 
 a 社民指導部の思想的屈服と労働運動の右翼化の危機
 
 現在の日本階級闘争の主体的危機を規定している最大の要因は、日韓闘争以後、急速度に進展した社民指導部の思想的屈服と、社民的政治闘争の際限なき後退である。
 
 () 日韓闘争における社民の思想と運動
 
 六五年秋に強行採決された日韓条約は、日本帝国主義の「敗戦帝国主義」から「植民地問題を包摂した本格的帝国主義」への発展を画期するものであった。
 日韓条約をテコとする朝鮮再侵略の開始は、国内的には、(1)戦後帝国主義世界体制を国際的与件とした戦後日本帝国主義の再建と発展、物戦後的設備投資循環の終末と経済危機の深刻化、(2)六〇年安保を基軸とした日米帝国主義同盟の強化、(3)政治反動と生活破壊の攻撃の激化を基礎に、(3)帝国主義的勢力圏の決定的脆弱性の矛盾を解決しようとするものだが、同時にそれは、国際的には、(1)ベトナム危機を頂点とするアジア植民地支配体制の構造的危機、(2)アメリカを中心とした戦後帝国主義の体制的危機の深まり、(3)スターリン主義陣営の対立と分解の発展、(4)以上三点を複合的要因とする戦後世界体制の動揺という世界史的転機を背景とするものであった。
 したがって、日本帝国主義の新植民地主義的発展は、植民地主義と国内政治反動との関連というすぐれて現実的な問題意識を浮かびあがらせるとともに、戦後世界体制における日帝の特殊な構造的位置をも鋭く照らしだしているのであり、この意味において日本における階級闘争の国際的な存立条件を根底的に変化せしむるものであった。
 もともと日本的社民の特殊性なるものは、戦後世界帝国主義体制を国際的与件とした「戦後日本階級闘争の特殊性」に規制されたものだが、日韓条約を転機とする日帝の政治攻撃の質的転換は、社民的政治闘争の基底そのものとのあいだに鋭い矛盾を形成したのである。社民の社民としての思想的根拠が、日帝の政治攻撃の質的転換の進行のまえに根底的に動揺せしめられているばかりでなく、基本的には社民的政治闘争として実現されてきたところの戦後的政治闘争のあり方そのものが大きく転換を迫られているのである。つまり戦後的政治闘争の基盤をなしていた戦後民主主義と戦後帝国主義のあいだの矛盾は、日韓闘争を転機として、体制的危機をかけた政治的矛盾に大きく転換しはじめたのである。
 昨年六月――七月の参院選挙――都議選挙の結果は、日商の攻撃の質的転換と労働者人民のあいだに存在する根深い対立を暴露するとともに、自民党支配体制の根底的転換の必要性を鋭く提起した。したがって、この二つの選挙で示された労働者人民の反政府動向を「現実の政治闘争」として発展させるために、この動向の基盤の一側面をなす帝国主義的攻撃の質的転換そのものとの決定的対決が不可避であり、帝国主義そのものの存立基盤にかかわる闘争として発展させていく根底的変革の立場が必要であった。六五年秋の日韓闘争は、まさに日本階級闘争の基本的動向を左右する重大な政治決戦であった。
 
 () 反戦青年委員会の役割
 
 「革新都議会」で第一党の地位を占めたにもかかわらず自民党支配体制になにひとつ痛打を与ええなかった社会党は、日帝の新値民地主義的進出の道としての日韓条約にたいして「税金のムダ使い」とか「屈辱外交反対」とかいったブルジョア民族主義的抵抗しか提起することができず、まずもって帝国主義的対外膨張への思想的屈服を確認したのであった。もちろん、社会党=総評の社民指導部は、日韓条約に反対する一連の反対運動をいちおう組織化したが、それは、従来の戦後的な社民的政治闘争の慣例的継続としてのみおこなわれたにすぎない。それゆえ、日韓闘争を社民的政治闘争の停滞的構造をふみ越えて発展させうるかどうかは、革命的左翼の一定の政治的組織的前進を基礎とした反戦青年委員会の闘争の独自的発展の規模と強さにとかかっていた。
 反戦青年委は、基本的には社民的労働運動の一構成部分として形成されたものだが、その独自的性格は、一方では、総評系労組の青年部運動の全体的動員を可能とする社民的合法性を確保しながら、他方では、労組青年部における革命的左翼の一定の組織的前進と、都学連を先頭とした戦闘的学生運動の発展をテコとして社民的政治闘争のワクを独自的にのりこえる契機を内包していたことにあった。まさにこの過渡的な二重性を徹底的に拡大し発展させうることのなかに、反戦青年委にたいする革命的左翼の政治的組織的任務がかかっていた。解放派のように、反戦青年委のもつ過渡的な二重性を無視してこれを「個人加盟方式」を基本とする「活動家団体」に転化させようとすることは有害無益であった。
 だが、以上の確認は、われわれの政治闘争の境界領域が反戦青年委的次元にとどまらねばならないということを意味するものではない。安保闘争の経験がはっきり示しているように、革命的左翼が学生運動を基軸にしてであれ独自の戦闘的部隊として社会的に登場したことは、社民的・スターリン主義的指導部のもとにつながれてきた従来の戦後的政治闘争のワクを打破する画期的な衝撃となった。学生運動の大衆運動としての独自的展開力をもって直接に労働運動の内部に組織的変革を期待することは、労働戦線内部における一定の組織的活動を媒介するという組織論的反省を抜きにして打ちだされるかぎり誤謬に転化するといえようが、このような誤謬を恐れて、学生運動を基盤としてであれ革命的左翼が独自の戦闘的部隊として社会的に登場することの意義を否定するものがあるとすれば、それは最悪の誤謬以外のなにものでもない。
 われわれは、反戦青年委のもつ「二重性」を小児病的に打破しようとするいっさいのセクト主義的傾向を粉砕し青年部運動を基礎に反戦青年委の強化拡大をさらに追求しながら、同時に戦闘的学生運動と反戦青年委との結合を深めつつ、戦闘的学生運動の独自的展開のもつ今日的な意義について徹底的に明確化せねばならない。日韓闘争は、十・一五、十一・五デモを頂点として戦闘的青年部運動と学生運動との「反戦青年委」的団結を形成することによって、安保以来の革命的労働者党のための闘争の一定の前進と、戦闘的学生運動再建のための苦闘の力強い発展を画期しながらも、同時に、日韓闘争の敗北過程を歩む社民的=日共的政治闘争を決定的に阻止もえぬ非力さをあまりにも露骨にあばいたのであった。
 
 () 社民的政治闘争の後退の意味するもの
 
 六六年度国会における社会党の国会闘争の後退は、まさに戦後の国会闘争を画期したものといえよう。祝日法を頂点とした反動と生活破壊の攻撃は次々と国会を通過していった。このような院内における社民的後退は、原潜横須賀寄港・ハノイ爆撃にたいする反戦政治闘争の低迷と深刻な関連をもっている。ラスク訪日にたいして関西地方を中心に局地的に激しい抵抗闘争が展開されたとはいえ、六六年前半の政治闘争はあきらかに社民的政治闘争の後退と低迷を暴露した。日韓闘争を転機とした帝国主義的攻撃の質的転換の明確化は、日本的社民の存立基盤を決定的に動揺せしめるとともに、社民の思想的屈服を抗しがたい力をもって強要したのであった。
 佐々木派=平和同志会を中心とする社民左派は、中国路線を水でうすめた「反米政治闘争」を空論的にわめきちらすことで構改派にたいする党内の左翼的反発を結集したとはいえ、それ自身として独自の政治路線をもっているわけではない。とくに佐々木派なるものは山幸に表象される議会内的カケヒキの名人を基軸とする無原則・無節操の議員派閥にすぎない。江田・和田・河野三派(いわゆる構改派)は、佐々木派のこの無原則と無能力にたいする反感を利用しつつ「社会党政権の樹立」というスローガンをテコに社会党をよりいっそう帝国主義への屈服の道にひきずりこもうとしている。これにたいして、佐々木=平同派は「野党三派の統一戦線」という代々木寄りのスローガンをふくみとしてうちだすことで、かろうじて「左派性」をとりつくろっている。まさに、このような社民指導部上層における腐敗きわまる派閥抗争の進行は、総評指導権をめぐる太田・宝樹の対立と相互浸透しながら、六六年度前半の眼をおおうばかりの社民的政治闘争の崩壊状況を現出せしめたのであった。
 原水禁大会をめぐる社民と日共の動員合戦において社会党は、日共の中国路線からの逃亡にともなう原水協の混乱に助けられることによって、一応の「勝利」を占めた。だが、それは、いかなる意味でも民衆の反戦の意志と切断された地点でのセクト主義的勝利にすぎなかった。そこには、ベトナム戦争にたいする行動的抗議の衝動すら完全に欠如した無内容な「対話」があっただけである。現実の対決点を放棄した原水禁運動の結末が、社会党系と日共系のこの二つの大会として、われわれにつきつけられている。この腐敗状況こそ、社民的政治闘争の最終の「発展段階」の一つを可能的に示すものといえるであろう。
 社会党=総評の上層部において進行しつつある政治的腐敗と思想的屈服は、日帝の危機に対応した企業連幹部の際限なき屈服と腐敗と結合しながら、階級闘争の鋭い主体的危機を形成している。もちろん、社民的政治闘争が今後とも六六年前半と同方向をとるものと速断しえないが、にもかかわらず、このことのもっている今日的な危機性を寸分たりとも過小評価することは許されない。われわれは、六六年前半の社民的政治闘争の崩壊的危機のもつ質的意味を徹底的に確認したうえで、社民=民同左派の内部に進行しつつある再編過程を日本階級闘争の基本的動向との流動的関連において再構成し、大衆的政治闘争の戦闘的組織化にとりくんでいく必要がある。敗北主義と楽観主義のあいだを安易に左右する危険を避けて進まねばならない局面にこんにち、われわれは立っているのである。
 
 () 日本労働運動と社民の再編過程
 
 六六年春闘における総評構改派(宝樹=笠原)の卑劣な裏切り策動は、四・二六ストをうち抜いた国鉄――私鉄の仲間たちの闘争のまえに決定的反撃をこうむった。六五年来、民同を襲ったIMF・JCの資本攻撃を背景に社民右翼三派と結託した総評構改派は「労働戦線の統一」(同盟、新産別、総評の「統一」)を旗印に総評の公然たる右翼化の道をうちだした。都知事への太田出馬にともなう総評指導部の改編を機会に、総評構改派は、太田――岩井を基軸とした従来の総評指導部を右翼的に改編するとともに、総評的労働運動の思想的骨抜き化と全面的な右翼化を決定的におしすすめようとした。それは、帝国主義的攻撃の質的転換に呼応した文字どおりの屈服の道であった。だが、国鉄――私鉄の仲間たちは、四・一七スト以来の当局側の激しい職場支配と合理化攻撃に抗して生活と権利を守るためのストライキを敢然とうち抜き、同時に、総評を右翼化せんとする資本と宝樹一派の策動に一大痛打を加えたのであった。
 もちろん、四・二六ストとして爆発した国鉄労働者の闘争は、政治闘争および反合闘争との結合の欠如という春闘全体がもっている共通の弱点をもっていた。だが、この大闘争の根底にはあきらかに日韓闘争における十一・一二政治ストの経験と、乗務検修部門を中心とする反合闘争の職場からのつみあげが存在していたのである。だからこそ、警察権力の直接的弾圧というかつてない凶暴な当局の攻撃に抗して、かえって強力な戦闘的団結を示すことができたのだといえよう。
 民間でも、長船、プリンスの分裂攻撃という激しい資本攻撃の進行のなかで、いわゆるIMF・JC路線の勝利が確定しつつあるかのようにみえている。総評内部における宝樹・笠原の策動は、民間における全国民連=IMF・JC路線と呼応した反動的資本攻撃の一環をなしていることはいうまでもない。
 だが、このような日本労働運動の右翼化の資本攻撃は、こんにち、ブルジョア報道機関が予想したような単純な勝利を確保できないでいる。まさに日本の労働戦線は手痛い敗北をこうむりながらも、いぜんとして「起伏に富んだ攻防戦」を形成しているばかりか、IMF・JCの一応の定着、同盟の一定の伸長という新しい労働戦線地図のなかで、日帝の労働者支配政策のもつ構造的弱点をしだいに暴露しはじめている。
 
 () 労働運動指導部の右翼化の危機と基底的活動家層
 
 労働者買収の独自の物質的地盤が脆弱な日本ブルジョアーは、企業防衛の思想攻撃と、合理化、首切りのおどしをテコに組合分裂と右翼化を強行しているが、こんにちますます、その反対給付として一定の「経済的改良」を与えるということが困難となってきている。したがって、同盟系労組、とりわけ旧総同盟系労組における賃金闘争の新しい波は、日本的右翼化の基底に存在する矛盾の特殊的構造をはっきり示したといえよう。しかも、このような矛盾の発現は、日本労働運動の全体的右翼化の結果として想定せられるというよりも、逆に、右翼化の段階的過程を反対方向から逆規定する戦闘的反逆の基底的矛盾として発現しており、労働戦線のきわめて錯綜した状況をつくりだすにちがいない。
 堀井――岩井体制は、資本=構改派の側からいうならば総評右翼化の過渡的形態であるといえ、それは直接にはこのような資本=構改派の思惑どおりに進むものとは断じえない。太田・宝樹の対立として発展するかにみえた民同左派の分解は、現在では合化――国労、全逓――鉄連という二傾向を均衡させながら、堀井――岩井体制という中間的指導部をつくりだした。本来、民同支配の特殊構造は、他単産の民同指導に公然たる批判や干渉を加えない「自主独立」連合にあったが、太田・宝樹対立の発展は、こうした民同支配構造に決定的な分解基軸を与えた。太田――協会――社青同主流派を中心とする宝樹路線批判の開始は、全逓・全電通の民同内部に深刻な対立と再編を生みだしている。太田――堀井の交替というかたちで始まった総評上層の民同分析は、全体として日本労働運動指導部の右翼化を推進しつつも、資本攻撃のもとに苦闘している基底的活動家層との分解と対立をよりいっそう発展させざるをえないであろう。
 帝国主義世界体制の動揺と日本帝国主義の危機、スターリン主義の分解と対立という新しい世界史的転換期の開始は、日本社民運動の根底的基盤を決定的に動揺せしめるとともに、その分解と再編をきわめてドラスチックに展開させている。われわれは、社民的指導部の危機の根底にある「帝国主義への思想的屈服」を徹底的にあばきだしながら、民同左派の分解・再編がもたらすであろう基底的活動家層の新しい動向を注意ぶかく把え、戦闘的真のよりいっそうの強化のためにたたかわねばならない。今秋のベトナム反戦闘争こそ、この行くえを大きく決定するものといえよう。
 
 b 日共の中国路線からの逃亡と帝国主義への新しい屈服の路線
 
 現在の日本階級闘争の主体的危機を規定している補完的な要因は日共指導部の無原則的な社民追従政策の進行であり、ソ連スターリン主義官僚と呼応した帝国主義への新しい屈服路線の開始である。
 aで指摘したように、戦後世界体制の動揺と日帝の体制的危機をかけた攻撃の激化のなかで、日本労働運動の公認指導部としての社民指導部は、いわゆる構改派の策動をテコとして右翼化の危機にさらされている。そして、このような日本労働運動の右傾化の危機は、民同左派の内部に新しい分解と再編の動きを生みだしており、日本階級闘争の基本的動向に対応した基底的活動家層の左翼への流動化を深めている。構改派は「労働戦線の統一」の名のもとに共産党と手を切れと要求し、社民左派は野党連合の結成を訴える。日共への接近の程度をもって左右の指標とするという日本的社民の伝統的手法は、日共の新しい屈服路線の開始のまえに、より深刻な混乱に直面している。
 
 () 国際反帝統一戦線の美名にかくれた中国路線からの逃亡
 
 六六年二月四日の『赤旗』論文は、日共宮本指導部の国際路線の転換を画期するものであった。本来、宮本のいわゆる「自主独立」なるものは、中ソ論争にたいする日共の判断停止、中ソ分裂後における日共の中国路線への没主体的な追従をごまかすための煙幕であった。こんにち、宮本とその茶坊主どもがどんないいのがれを試みようとも、中ソ分裂後、日共が中国路線に追従し、日本労働者階級のたたかいをおしまげてきたことは明白な事実である。だが、日共=宮本指導部の中国路線からの「自主独立」とは、日共の革命的転換を意味するものだろうか。断じてそうではない。かれらは、中国路線からの「自主独立」の名のもとに帝国主義への屈服をより一歩すすめ、議会主義と改良主義の泥沼のなかへひたりこもうとしている。帝国主義の攻撃の激化に抗して革命的陣地を構築するのではなく、逆に、帝国主義への投降主義によって延命しようとしているのだ。このことの意味は、ほかならぬ日共の中国路線からの逃亡の動機のなかに立証されうる。
 日共の中国路線からの逃亡の動機の第一は、九・三〇クーデターの失敗とPKIの壊滅であった。日共=宮本指導部は、六五年九月の党本部平和運動活動者会議ではインドネシアにおける革命情勢の高揚と呼応した「日本での革命闘争(軍事方針)の考慮」(袴田政治局員)を力説していたが、九・三〇クーデターの失敗をみるやはやくも「一揆主義」の危機を唱え、合法主義を再強化しはじめたのだ。宮本一派のインドネシア総括なるものは、PKI壊滅という結果的事実からのプラグマティックな対応にすぎず、スカルノ政権下のPKIの合法主義的党勢拡大のもっていた決定的弱点をなにひとつえぐり出すどころか、その誤謬を踏襲するものといわねばならない。逃亡の第二の動機は、北京・ジャカルタ枢軸の崩壊、中国における経済建設の停滞、ベトナム戦争にたいする中国的対応の無力化などを契機とする中国の国際的位置低下にある。もともと宮本一派の中国追従は確固たる理論的基礎があってのことではなく、キューバ危機に露呈したソ連の国際的威信の低落と、アジアにおける中国路線の完全支配という力関係からくる官僚的保身にすぎない。逃亡の第三の動機は、中国が日共にベトナム支援の直接行動を要請したことである。中国や日共のスターリン主義者が「革命闘争」を軍事行動と同一視していることは周知のとおりで、中国の要請がどんなに身勝手かは予想がつこうというものだが、この動機の本質は、日共が口先ではベトナム支援などといいながら、現実には「日米権力」との実力闘争をただの一度もおこなおうとしていないことにある。
 
 () ソ連「現代修正主義」と呼応した反帝闘争放棄の新路線
 
 日共=宮本指導部は、こんにち、中国との決裂の決定的動機があたかも「ベトナム闘争をめぐる国際反帝統一戦線」の組み方にあるかのようにみせかけている。だが、その真実の意図は、孤立した中国との心中を回避し、ソ連スターリン主義官僚との交通を再開し、反帝闘争の放棄を新しい装いのもとに遂行しようとすることにある。「ソ連新指導部の二面性」などという新理論は、ソ連スターリン主義官僚(ブレジネフ=コスイギン)とのゆ着のための政治的カクレミノであって、まさにスターリンの悪名たかき「民族ブルジョアジーの二面性」理論の再現というほかはない。
 宮本一派の「国際反帝統一戦線」のまやかしの第一は、原水禁国際会議における一六ヵ国の外国代表の退場問題として暴露された。世界民青連代表(ソ連)一名を参加させるために、なんと一六ヵ国の代表との分裂を強行したのだ。しかも、六六年の原水禁大会では六五年まで隆盛をきわめた「ソ連修正主義」への糾弾は完全に影をひそめてしまった。だが、これはある意味ではコップのなかの嵐にすぎない。宮本一派の「国際的反帝統一戦線」の第二のまやかし(これが本質だ!」は、(1)北爆の激化のなかで完全に暴露されたソ連の帝国主義への屈服を「二面性」の名のもとに擁護しつつ、(2)ベトナム支援の問題を「北ベトナムへの武器援助」に矮小化し、(3)帝国主義的本拠地におけるベトナム反戦闘争の展開について完全に沈黙していることのなかにあるといえよう。八月八日の『赤旗』大論文は、数万語をついやして「国際的反帝統一戦線」を力説しているにもかかわらず、日本で日共がどんな闘争を展開するのにかんしてただの一語も触れていない。ここに宮本的空論主義と宮本的現実主義の「生きた統一」が存在する。
 
 () 「反独占」は帝国主義打倒の戦略に敵対している
 
 日共=宮本指導部の「国際反帝統一戦線」の唱和が国際路線の転換を示すメタルの表とすれば、「反独占」の強調は国内政策の「転換」を示すメタルの裏である。すでに『青木講座』や『経済』で独占資本との闘争を強調しはじめた日共宮本一派は、構改系学者の復党工作にあたって、陰では「社会主義革命を主張してもいい」などという無責任な言動をはきちらかしはじめた。四・一七問題で苦境にたたされた職場党員の多くや六四年組脱党者の一部には、党もやっと正常にもどったと喜ぶ人も出ているが、この「反独占」の強調は、日共の従来の反動的行動を正しく修正するものであろうか。
 もともと六一年綱領(反帝反独占の民主主義革命戦略)の本質は、日米帝国主義同盟を日本の米帝への従属関係として把握し、安保破棄=民主連合政府樹立の旗のもとに「日米同盟粉砕=日帝打倒=労働者国家樹立」というプロレタリア的課題を二段階戦略的に分断してしまうことにある。現在、日共は「反独占」を強調しはじめたが、それはあくまで六一年綱領の「民主主義革命戦略」に従属するものであることに留意せねばならない。『青木講座』の上田論文は「あまりにも構改派的だ」と構改派を驚かせたが、日共宮本一派の反独占強調とは経済主義、改良主義への傾斜を意味するにすぎない。
 もちろん宮本一派と構改派は戦略規定において「民主主義革命」と「社会主義革命」の対立をこんにちも保持している。だが、構改派の社会主義革命が帝国主義打倒を意味していないように、日共宮本一派の「反独占」もたてまえ的最終目標はちがってもプロレタリア革命に敵対するという一点では本質的同一性をもっている。従来は反米政治闘争をセクト主義的に強調することで社民的経済主義から自己を区別するという路線を日共はとってきたのだが、今度は反米政治闘争をある程度保持しつつ社民的経済闘争への無原則的な接近をおこなおうというのである。それは、社民の思想的屈服と右翼化の危機を補完する新しい裏切りの道である。
 
 () 宮本「自主独立」路線の民族共産主義的本質
 
 日共=官本指導部の新路線は、すでに指摘したように、(1)「国際反帝統一戦線」の名にかくれた中国路線からの逃亡=ソ連新指導部とのゆ着の道であり、(2)ベトナム反戦闘争を武器援助問題にすりかえる闘争放棄の新しい道であり、(3)社民への右翼的追従と日帝への新しい屈服の道であるが、それは同時に、日共の民族共産主義的堕落の極限を示すものであるといえよう。
 岡正芳幹部会員は「自主独立は四三年のコミンテルン解散から始まった」といっているが、ここに宮本式「自主独立」路線の正体が暴露されている。周知のようにコミンテルン(第三インター)は第二次大戦が終結せんとする前夜に解散されたが、それは直接的には、第二次大戦の戦後処理においてスターリンが世界革命を放棄するという帝国主義への屈服を証明する具体的処置としておこなわれたものであり、ヤルタ協定的分割支配の伏線をなすものであった。コミンテルンのスターリン主義的変質は、まさにここにおいて完成されたのであって、けっして各国共産党がスターリン的拘束から自由に各国で戦後革命を準備するなどというものではなかった。
 事実、コミンテルン解散は戦後世界革命を各国的に分断し各回的に制圧するための反動的戦後処理の具体的準備を意味した。だからこそ、スターリンはコミンテルン解散後も各種の方法で各国共産党への指揮権を掌握していたし、スターリンとチャーチルの協定を破ってユーゴが「社会主義への道」を歩みはじめたとき、スターリンはその指揮権をユーゴ革命の抑制のために行使したのである。その後、マーシャル・プランを基軸とした欧米の軍事的政治的再編成の進行のなかで、スターリンはふたたび「世界革命」の旗のもとに各国共産党を結集してアメリカ帝国主義に対抗した。だがそれは、ソ連「一国社会主義」の利益のために帝国主義諸国間の矛盾を利用しつつ、各国共産党をその国際戦略の補足的部隊として行動させるというスターリン主義的「世界戦略」の展開にはかならなかった。
 スターリンの死(五三年)とフルシチョフのスターリン批判(五六年)は、各国の「共産主義運動」を擬制的に結びつけてきた「世界革命」を解体せしめるとともに、各国「共産主義運動」の民族共産主義的堕落を決定化し、スターリン主義運動のこんにちの分解・対立・没落過程の開始を準備したのであった。もともとスターリン主義なるものは、「一国社会主義」論にもとづくソ連過渡期社会の官僚制的変質と国際共産主義運動の歪曲を根拠とするものであり、したがって共産主義と完全に分離した独自の世界体系をもちうるものではなく、共産主義の「代償物」として成立しうるにすぎない。そして、その世界史的反動性は、共産主義をスターリン主義的「代償物」に変質させ、これを「共産主義」として権力と官僚機構をテコに体制化していくことにある。国有化=集団化の物神化とコンミューン型国家の破壊は、同一の事態の別の表現である。したがって、共産主義とスターリン主義の分岐は、スターリン主義の没落の開始を意味するものであり、各国スターリン主義運動の民族共産主義的独立化は、スターリン主義の没落にたいする自己防衛にほかならない。
 日共=宮本指導部の「自主独立」路線なるものも、本質的にはスターリン主義没落の危機にたいする官僚的対応政策の一形態である。それは、(1)中ソ対立を頂点とするスターリン主義の分解と対立にもとづく日本スターリン主義運動の分解と対立を「民族主義」的に防衛しようとするものであり、(1)一国の党には一国党の決定という名のもとに「共産主義的真理」を各国的真理のモザイク的総和にかえようとするブルジョア合理主義以下的な試みである。
 宮本の御用理論家不破哲三は、新島批判論文(『赤旗』六六年六月一〇日)のなかで、わが国では明治以来の移植的文化の伝統から外国崇拝が強いから……と愚にもつかないことをいっているが、実践上の具体的決定は別としても理論の原理的展開はつねに世界的普遍性を問われるのであって、日共の「党決定」的真理や中国共産党の「党決定」的真理があるわけではない。それゆえ、宮本的「自主独立」論は、マルクス主義に無縁な小ブル的民族主義であり、帝国主義的ナショナリズムに屈服した反動的路線である。
 
 () 日共の転換と日本階級闘争の危機
 
 日本帝国主義はあきらかに日共=宮本新路線を歓迎している。なぜなら、それは日本労働運動右翼化の援軍であり、日帝的ナショナリズムの重大な勝利であるからである。従来、中国共産党的歪曲形態であれ、日本帝国主義に敵対してきた「左翼」知識人の当惑と混乱は日に日に深まっている。六一年以来の日共分裂が文化人の思想的堕落を示したように、この転換は党員文化人のいっそうの退廃を生みだすだろう。
 こうしたなかで、民同左派の一部、とりわけ協会派は、「これなら一緒にやれる」とその「左翼性」を露呈しており、「こえ」や社革中央はソ連接近の不道徳性と不徹底性をなじりながら、代々木復帰を下工作しはじめている。他方、構改派は、佐々木=太田の社民左派にたいし「日共でさえここまで寄ったのだから……」と右翼化のテコに使いはじめている。われわれは、日帝の一定の好意のなかで日共が、一応の党勢拡大を今後とも展開していくであろう現実的可能性を確認しながらも、このような拡大が新しい党危機を準備するものであることを正視し、この転換が日本階級闘争にもたらす危機について徹底的に暴露していかねばならない。社革東京を中心とする「部分」結集反対派は、都委員会を再建して活動を開始しているが、「こえ」と社革中央の「総結集」への批判は、ソ連スターリン主義そのものの批判にまで深められることなしには、けっして根底的に貫徹しうるものにはならない。日共=宮本指導部の新しい屈服路線は、帝国主義的攻撃とたたかい、社会主義をめざして奮闘しているすべての人びとが、帝国主義とは何か、スターリン主義とは何かという問題にいまひとしく直面せねばならぬ現実の契機を与えている。
 
 c 革命的左翼戦線の現状と方向
 
 戦後世界体制の動揺期の開始と日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃の激化、社民運動の基底的動揺にもとづく思想的屈服と労働運動の右翼化の危機、日共の社民への右翼的追従と新しい屈服路線のはじまり――こうした日本階級闘争の一連の客体的主体的危機の展開は、社共的既成指導部をのりこえ真の革命的指導部の創成をめざしてたたかう革命的左翼にとって、自己の存否をかけた決定的試練をもたらしている。
 ブントマル戦派に代表される改良主義と解党主義への転落の危機は、たとえ同派が階級闘争には微々たる影響力しかもっていないからといって、断じて過小評価してはならない。それはセクト主義的肉体派路線と無原則的微笑外交のあいだを動揺的に下向している革マル派(山本派)とともに革命的左翼の今日的堕落を示す二つの傾向である。われわれは、このような今日的堕落を徹底的に粉砕し、わが同盟を中核とした革命的左翼戦線の強化と前進のために奮闘すべきである。
 
 () ブント統一と革命的左翼の腐敗の道
 
 ブント先駆とブントマル戦派の統一問題は、綱領的立脚点の原則的一致はもちろん、戦術段階の行動的確認すらないままに、九月はじめ合同協議会を開催し十月にも合同しようとしている。いぜんとして両者の論争は「統一戦線は上からか下からか」という低次元の対立をつづけおり、なんのために統一するのかという肝心の問にすら不明である。両派を統一にかりたてている動機は弱者としての連合という負の確認にすぎない。われわれは、これで群小諸派が一つ少なくなるといった客観主義的態度で臨むことなく、革命的左翼の今日的堕落を示すものとして主体的に受けとめる必要がある。
 両派は現在、統一にもとづく票数の増加をもくろんで再建全学連のヘゲモニーを掌握しようとかなり必死になっている。全学連再建の力で京都におけるブント派の衰退をとりもどそうという動機もあるが、われわれは全学連再建の努力を積極的に受けとめ、これに主体的に応えるべきである。学生戦線的にはマル戦派はほぼ無力な「勢力配置」になっており、事態は先駆派のヘゲモニーのもとに進んでいる。党組織=労働戦線では、実体的には先駆派の方が多数(比較するほどの関係ではない!)であるにもかかわらず、先駆派在京指導部の無気力の結果としてマル戦派が同盟中央機関を牛耳る格好となっており、理論的にも後者の影響が強いといえよう。
 ところでマル戦派の戦略戦術の特徴は、(1)独自の戦略概念にもとづく終局目標=最大限綱領の放棄、(2)社会主義社会建設の展望なき「革命」戦略、(3)中ソを世界革命の予備軍とみなす親スターリン主義的立場、(4)過渡的スローガンの名のもとに改良のなかに革命を封じこめる改良主義、(5)党主体なき統一戦線戦術、(6)戦力なき机上の作戦計画としての戦略配置論、(7)共産主義的主体の創造の欠如にもとづく党の戦略戦術手段化、であるといえよう。
 もともと、革命党とは、共産主義者の自覚的結集を基礎とするものであり、いわゆる戦略・戦術とは、「党の戦略戦術」として革命主体と打倒対象との具体的な相互規定を革命主体の側から明らかにするものであるが、マル戦のいわゆる「戦略戦術の党」なる概念は、「共産主義者の党」という革命党組織論の基本原則にかんする無知を自己暴露するものである。しかもその戦略・戦術にしたところで、革命主体の前提的総括もその可変的発展も捨象した適用主体なき技術論であり、「革命の技術論」たりうるものではない。なお、スターリン主義への幻想という意味では先駆派以下であり、いわゆる五八年転換の原則的規範からさえ完全に逸脱している。
 
 () セクト主義的肉体派と無原則的外交をジグザグする革マル派
 
 こんにちの革マル派は、××を中心とする労働者部分とワセダを拠点とする学生部分から構成されている。前者は××を中心に一応の戦闘性を確保しているが、組合運動上ではいぜんとして××左派への思想的、運動論的屈服を脱していない。後者はワセダでは勢力を保持したものの全国的には、鹿児島大、愛大豊橋、金沢大教養、北海道全域などで連続的に民青に敗北しており、地方で残っているのは秋田大、金沢大文ぐらいのものとなった。もちろん少差で敗けた場合もあるので永久的状態に転化するかどうか確定しえないが、しかし、マル学同中核派・社学同などの戦闘的学生運動が全国的に民青との力関係を有利に進めているなかで、こうした敗北が連続したということは「組織論的反省」が必要というほかない。
 七月におこなわれた自称「全学連大会」でも、この革マル派の危機をいかに評価するかということで深刻な対立を表面化している。六六年七月の第三回都学連大会の成功と全学連再建にむかっての強力な前進は代々木「全学連」、革マル「全学連」の後退と没落にたいしてあざやかな対照をなしている。とくに革マル派の内部では孤立の恐怖から深刻な動揺が生じており、従来のセクト主義的な都学連への殴りこみ方式にたいする反省の声も起こっている。最近になって孤立をおそれた革マル「全学連」指導部は、全学連再建への「参加」の裏交渉を求めてきたり、森茂が「革マル全学連は行きがかりだ」などとコビを呈しはじめているが、にもかかわらず他方では、内部にむかっては「中間派解体の組織戦術」なぞという欺瞞的説明をおこなっており、ふたたび「他党派解体の統一行動」路線に復帰することも十分に予想しうるので、安易な態度で臨むことは危険だというほかはない。われわれは、革マル派の内部に従来の統一行動の参加方法についての批判の動きが起こっていることを歓迎するとともに、このような動きが、革マル派の分裂行動にたいする都学通の断固たる組織的反撃の結果であることを明細にしつつ、なによりも行動をとおしての自己批判を要求していくべきであろう。
 革マル「全学連」の全国的敗退と戦闘的学生運動内部での孤立というかたちで革マル派の危機は現実化しているが、その組織論的根拠は三全総以後の同盟論争の主題であった、(1)独自活動と統一行動の関連、(2)前衛党と大衆運動との関連という点に鋭角的にかかわっているといえるだろう。革マル派との分裂問題にかんする総括および黒田理論にかんする基本的評価は本報告〔D〕で提起するが、ここで一言すれば、ベトナム問題、合理化問題などの点をとっても革マル派の理論的停滞と不毛性はかなり深刻である。反帝・反スタ綱領を開かれた体系としてではなく、閉鎖社会的に経文化する革マル派的方法ではこのような理論的停滞はまったく当然である。その結果として革マル派特有のセクト主義を必然とするのであるが、その他方には「吉本主義」「埴谷主義」「東京行動戦線主義」などという諸偏向を生みだしていくこととなるのである。
 「赤崎問題」として露呈した革マル的思想闘争の現実の意味するものはなんであったのか。まさに無原則的野合とブローカー以下の商取引ではなかったか。五月上旬号の『解放』で森茂が「革マル主義への苦闘」と評価したその「赤崎」が、いまマル戦と一緒になってブント統一の醜悪な推進者となっている事実をわが革マル派はどう組織論化するのだろうか。
 
 () 社民内左翼としての解放派
 
 社民的政治闘争の危機は、一方に、社民的指導部にたいする左翼的反発を大衆的に形成しているが、他方では、従来このような左翼的反発にふまえて社民的政治闘争の街頭的戦闘化を追求しようとしてきた解放派的政治闘争の危機をひき起こした。
 もともと解放派なる社民分派は、安保全学連として社会的に登場した革命的左翼の思想と運動の影響のもとに分解と動揺を開始した社青同左派を足場に滝口らブント周辺分子が結集したものであり、安保全学連の社民的副産物といえよう。解放派それ自体としては、さしたる組織的力量をもつものではないが、社民左派の分解と動揺の社民内的指標として特殊な位置を占めている。社民指導部のもとにある青年活動家層は、安保以降、革命的左翼の影響のもとに一貫して動揺と分解を続けているが、解放派は、本質的には、社民左派から革命的左翼への社民的過渡性を意味するものであり、早晩、左右分解の危機に直面することとなろう。しかしながら、もし解放派がこのような社民的過渡性を固定化し理論的に合理化する方向をとるとすれば、それは革命的左翼にたいする社民的安全弁に転化するであろう。そして、このような危険性を体系化するものこそ、昨今の解放派「理論」家たちの活動である。
 解放派内で流行している新理論の特徴は、(1)資本の永遠的存在を前提とした「反逆の感性活動」への共産主義の社民的歪曲、(2)二重権力的団結の名にかくれたプロ独の否定、(3)スターリン主義の客観主義的承認=代々木の社民的否定の問題性、(4)革命党創成の永遠的彼岸化と事実上の社民没入論、にあるといえよう。もちろん、解放派はある理論を中心に結集した分派ではない。だが、だからといって理論がないかというとそうではない。一つの党派が党派として成立するためには一定の思想的体系化が不可避である。解放派の新理論なるものは、社民左翼としての解放派の活動を固定的に理論体系化したものであり、その理論構成の相対的独自性(社民的過渡性のイデオロギー的美化)を軽視することはできない。
 われわれは、社青同東京地本を中心とした社青同左派との共同行動を強めながら、同時に、その社民内分派的傾向にたいし断固とした思想闘争を強めていかねばならない。
 
 () 第四インター派の三分解
 
 日本革命的左翼の国際的特殊性の一つは、日本革命的共産主義運動におけるトロッキー教条主義克服のための闘争の基本的勝利の結果として、第四インター(トロッキー教条主義)系の運動が圧倒的に弱小であることである。
 わが同盟第一次・第二次分裂の思想的分岐点はまさに第四インター路線に追従するかどうかにあったが、その直接的対立点は、反帝労働者国家無条件擁護、社会党への長期的加入戦術という第四インターの綱領的組織論的基本問題をめぐってであった。第四インターの分裂(パブロ派とキャノン派)を反映して日本の第四インター派も加入戦術派(太田)と独自活動重視派(西、岡谷)に分かれていたが、後者は六一年に加入戦術派(西)、独立活動派(青年インター)、労闘同(LL)に三分解し、その後に太田派と西派が合体した。青年インター派は関東派と関西派に分裂、LLは六三年に思想闘争をとおしてわが同盟に参加した。
 太田=西の加入派は×××を中心に加入活動を強化し、一定の影響をつくりだしたが、太田の社会党除名を転機に昨六五年ごろから没入派と独立活動派との傾向的分裂が進んでいた。六五年の日韓闘争の後半から太田が独自の武装闘争を提起するにおよんで傾向的分裂は最終段階に発展し、まず第四インター解消派(国際的合同反対派)と第四インター護持派(太田・西)に分裂したが、前者からさらに絶対的没入派が脱落しふたたび三分解した。
 
 () わが同盟の位置と役割
 
 六三年における山本派との分裂は、同盟にとって存立をかけた危機をもたらした。とくに学生戦線では壊滅に近い打撃を受けた。六四年の大阪八・二集会の勝利を突破口にわが同盟の再建と発展は一定のテンポで進んでいる。労働戦線では長船社研との戦闘的交通の発展のなかで革命的左翼内部では圧倒的地歩を築いた。学生運動でも苦闘の連続のなかでこんにちでは戦闘的学生運動内部で二分の一勢力ちかくまで回復した。本年八月の八・二集会は、内容的にも、組織動員的にもわが同盟の運動を画期するものであった。ここ四年間にわたるわが同盟の統一行動の努力は、革命的左翼の共同戦線を強化発展させる根底的保障であったし、またその努力のなかでわが同盟はその力量をきたえあげてきた。革マル派が主張した「統一行動の理論化」などの試みがいかに空しいものだったかは、過去四年間の経験を見れば明らかである。まことに「批判の基準は実践である」(黒田寛一)といえよう。われわれは、統一行動の前進と強化のためにさらに努力を続けねばならない。
 だが、階級闘争の新しい客体的主体的危機のなかで、わが同盟をさらに綱領的組織的に強化していくことが、革命的左翼戦線の前進の当面の環をなしていることを確認すべきであろう。全学連の戦闘的再建は、そのための細心の党派間の協力強化を含めて、わが同盟組織の総力あげた取組みなしには不可能である。われわれのはたすべき任務の重大性にくらべて、われわれはあまりにも非力である。労働戦線におけるブント派、革マル派、解放派との力量差などは、われわれの達成目標にとつてエピソードにすぎない。だが、このような非力さは、こんにちのたたかいに耐え抜くことによってのみ突破できる。統一行動と党派闘争の有機的結合を強めながら、さらに前進すべき秋である。
 
 C 日本階級闘争の基本的動向とわれわれの闘争=組織戦術
 
 a 戦後世界体制の動揺と階級闘争の主体的危機
 
 すでにのべてきたように、こんにちの一般情勢は、戦後世界体制の動揺と日帝の体制的危機をかけた攻撃に表象される客体的危機の深まりに比して主体的条件の整備が決定的に立ち遅れているということにある。三〇年以後の世界階級闘争を一般的に規定している客体的危機と主体的危機との不均衡的発展は、戦後世界体制の動揺期の開始という新局面のなかであらたな展開を示そうとしている。
 このような情勢にあっては、われわれがまず第一に確認せねばならないことは、事態を卒直に把握し卒直に語るという姿勢が必要であるということである。客体的危機の深まりとわれわれ自身の極端なばかりの非力さの不均衡を直視することは、けっして愉快なことではない。だが迫りくる階級闘争の激動にかち抜く力をつくりだすためには、この非情さに耐え抜かなくてはならない。
 第二に確認せねばならないことは、客体的情勢はプロレタリアートの意識活動とは相対的独自性をもって展開するということである。もちろん戦後世界体制の成立・発展・動揺という情勢は、Aで確認した多くの政治的軍事的諸要因によって規制されている。だが、それにもかかわらず、このような諸要因をも規定的前提としつつ世界帝国主義はそれ自身の独自の歴史と矛盾をもっている。アメリカ帝国主義を中心とする帝国主義の戦後世界体制は、アメリカ帝国主義の巨大な軍事的経済的力量を基礎とした世界政策の展開のなかで、帝国主義者とスターリン主義者のあいだに、戦後帝国主義にかんする各種の幻想を生みだした。後者にかんしていえば、資本主義単一市場の崩壊にもとづく「市場」の絶対的縮小から戦後帝国主義の発展なき歴史を想定したスターリンの帝国主義観を一方の極として、その対極は戦後帝国主義の超帝国主義的発展を夢想する右翼的見解を生みだした。
 わが革命的左翼の内部にも、帝国主義の強大さと、スターリン主義の反動性の深さへの絶望的怒りから、帝国主義とスターリン主義の「共存」形態的な体制化を絶対視する傾向が存在したことは否定しえない。「スターリン主義千年支配」説や革マル派の「スターリニスト革命」論なるものは、こうした絶対視の無理論的表現であるといえよう。だが、事態は明らかに、「独ソ協定は独ソ戦争を防止しえない」という第二次帝国主義戦争の血の教訓をあらたな事態のもとに展開する方向をとりはじめたのである。
 第三に確認せねばならないことは、事態を終局的に解決する道が、依然として党創成のたたかいを前衛とする革命主体勢力の強化以外にないということである。マル戦派のように、客体的危機の深まりと主体的勢力の未成熟との矛盾を解決するために、中ソスターリン主義まで「世界革命のプロレタリア予備軍」に組みいれて勝手気ままな勢力配置=プロレタリア統一戦線を提起することではなんの解決にもならないどころか、スターリン主義の反動的役割を隠蔽するものといわざるをえない。それは、「ソ連現代修正主義の二面性」なるものを問題とする日共=宮本指導部以下の現代感覚ではなかろうか。われわれは、危機が深まれば深まるほどスターリン主義のもつ反動的性格にかんする徹底的暴露を強化しなければならない。
 第四に確認しなければならないことは、けっして事態は絶望的ではないということである。たしかに現代世界の危機は深刻である。日共スターリン主義者や第四インター派のトロッキー教条主義者たちのように、いわゆる「社会主義陣営」や「労働者国家群」をモザイク的に拡大していくという平板な世界革命戦略では、現代世界の危機を根底的に突破することはできない。反帝反スタの戦略をプロレタリア革命の今日的な貫徹形態として普遍的かつ具体的に展開していくことなしには、こんにちの世界変革はありえない。時代は根底的な革命像(世界像と人間像)を要求している。もちろん、これは容易な仕事ではない。だが、一世紀前の同志たちの方がわが時代より有利だっただろうか。われわれは、帝国主義から社会主義への過渡期の時代に生きている。帝国主義とスターリン主義の「平和共存」的形態に変容している世界史的前提は、ロシア革命を突破口とする帝国主義と社会主義の世界史的分裂である。われわれは世界革命への過渡期のスターリン主義的歪曲の粉砕を目的意識的に追求することによってのみ、現代世界の危機的構造を打開する道をきりひらくことができる。
 帝国主義の戦後世界体制の動揺は、超帝国主義論的幻想とスターリン主義絶対化の傾向をふきとばしはじめた。世界帝国主義の心臓部たるアメリカとヨーロッパでは新しい階級闘争の波が起こっている。アメリカの運動的現状が表象するごとく、この新しい波を真に現状変革的な理論と運動に発展せしめうるかどうかに事態はかかっている。わが国でも危機は内外ともに進行している。しかも、日本帝国主義の特有の国際的国内的構造は、日帝をして、「世界帝国主義の弱い環」たらしめている。たしかに攻撃は強まっている。だが、われわれはこの攻撃の激化そのもののなかで勝利の条件をみいだしていくであろう。
 
 b 日帝の攻撃の基本的動向とその矛盾
 
 戦後世界体制の動揺の深まりと日本帝国主義の体制的危機をかけた階級攻撃は、戦後日本階級闘争を規定してきた諸条件を根底的に動揺せしめ、社民的運動の転機を形成した。六六年前半の階級闘争が露呈した社民の思想的屈服と労働運動右翼化の危機、日共の社民への右翼的追従と新しい屈服路線の開始は「指導部の危機」の今日的表現である。だが、この事実から単純に日本階級闘争の全面的敗退を結論づけることができるであろうか。日本階級闘争の従来の発展を規定した諸要因の終末、とりわけ日本経済の危機は、社民的妥協の余地を全面的に掘りくずしている。われわれは、この点をも一要因とする客体的条件の変化、それを基礎とした攻撃の質的転換の進行のもつ段階的変化をはっきりと確認しながら、なおかつ、日帝の攻撃が内包している特有の諸矛盾をはっきり把握しつつ日本階級闘争の基本的動向を展望していかねばならない。
 もともと、戦後的階級闘争の発展の条件を簡単に「日帝の発展期に照応した妥協体制の産物」などと客体化することはできないが、同様に、帝国主義的基底の変化から直接に日本的労働運動の崩壊を結論すべきではない。むしろ、われわれは、この転換が形成する諸矛盾の先鋭化を具体的に闘争の条件に転化せねばならない。
 日帝の攻撃がもたらすであろう基本的諸矛盾はおよそ次のようなものである。
 矛盾の第一は、ベトナム戦争に表現される帝国主義世界体制の危機の深度と、日帝の国内政治経済体制の反動化の進度とのあいだの落差である。戦後帝国主義の特殊性は、具体的には日米関係、すなわちアメリカ帝国主義の対日戦後処理とその発展としての安保的日米同盟としてあらわれた。それゆえ、世界帝国主義の蓄積した矛盾は日米関係として具体的に展開されてきた。日共はこの関係を日本の対米従属として評価し、ここから「反帝反独占の民主主義革命」を提起するが、われわれは、このような誤った帝国主義論と戦略論を否定し、日米関係を戦後帝国主義が不可避的に結ばねばならなかったところの帝国主義的同盟関係として把え、安保粉砕を日帝打倒の決定的な契機としてたたかう立場にたつ。
 第二の矛盾は、日帝の海外膨張の展開と、アジア植民地支配体制の危機的構造とのあいだの矛盾である。アジアにおける植民地支配体制の特殊性は、その支配維持がアメリカ帝国主義の軍事的支配力に依拠していることである。
 日帝の朝鮮侵略の再開は、日帝の発展段階を画期するものだが、それはあくまで、アメリカ帝国主義のアジア支配を絶対的存立条件とし、その欠陥(あまりに軍事的な!)を補完する形態で植民地経営を展開しようとしている。だが、日韓関係が明瞭に示しているように、アジア植民地体制が基底としている「植民地体制の崩壊的危機」を無視することはできない。朴政権の対日強硬態度を可能にしている力は、アメリカ帝国主義のアジアへの軍事的支配力と、朝鮮人民の根深い反日闘争という敵対的に矛盾する二つの力であるといえよう。
 第三の矛盾は、反動的強権支配体制の未確立である。安保、日韓を中心にして政治反動を強めながら、日本帝国主義は階級関係のブルジョア的傾斜をかちとってきた。だが、政治反動の制度的確立という面では、人民的抵抗に直面して決定的立ち遅れを示していることは否定できない。教育制度の反動的改悪という意味では、小・中・高までのプランは基本的に達成しており、この既成事実のうえに、大学制度も含む教育体系への全面的攻撃がはじまろうとしているが、憲法改悪――小選挙区、防衛庁昇格――核武装という政治的軍事的局面では、政治反動プランの遅延は日帝の内外的発展とのあいだに、いちじるしい矛盾を形成している。しかも、こうした一連の制度的改悪は、戦後二〇年に定着した民主主義的傾向と衝突せざるをえない。
 第四の矛盾は、植民地主義(排外主義)とミリタリズムを基軸とした反動的思想攻撃の未徹底である。「左翼」思想家の右傾的風化現象はいたるところで進行しており、既成左翼の思想的屈服はいちじるしい。日韓条約はナショナリズムの存立条件を決定的に変化させた。だが、左翼への防衛策としての市民的政治無関心と、ブルジョア的愛国主義とのあいだの矛盾は意外に大きい。
 第五の矛盾は、日本帝国主義の経済的危機である。公債経済への移行と対米貿易の拡大をテコに日本経済の危機は短期的には解決されたかにみえるが、設備投資の鈍化はいぜん続いており、資本過剰は解決されていない。しかも、対米貿易の異常な伸びによる国際収支の好転は、逆にアメリカ経済の変動への不安を拡大している。日本帝国主義の体制的危機をかけた生活破壊の攻撃は、大衆の生活と意識を基底的に動かしはじめている。
 第六の矛盾は、労組右翼化の一定の労務政策的成功と物質的反対給付の脆弱性とのあいだの矛盾である。企業防衛、首切り、合理化の脅威をテコとした資本攻撃の激化は、民間企業労組の右翼化と分裂をいたるところにつくり出している。だが、三菱重工の分裂問題の結果が示しているように、第二組合への移行は、さし当たっての首切り、配転への危険を回避する保障となっても、けっして物質的条件の改善を意味するものとはならない。右翼化と分裂の根底的テコとなった「企業意識」は、あらたな労資関係のなかで強まりはじめている労働強化と合理化、実質賃金の低下と生活苦の進行に直面して動揺せざるをえない。
 もちろんこのことから、IMF・JCの伸長を表象とする労組右傾化のもつ危険性を過小評価することは許されない。だが、逆に、この右翼化のなかでもなお蓄積されている<反逆の契機>を無視することは同様に誤っている。右翼幹部労組における反対派活動の強化はいまや焦眉の課題である。
 第七の矛盾は、労組・自治会など組織的陣地の存在と労働者階級の戦闘性の潜在である。
 こうした諸矛盾の存在は、不可避的に帝国主義的攻撃をきわめて強行的性格の濃いものにするであろう。しかも問題は、戦後日本の政治的・経済的・社会的基底の全体におよんでおり、多かれ少なかれ社会的動揺をうみだす基本的性格をもっている。
 
 c 当面するわれわれの闘争=組織戦術
 
 われわれは、以上の確認のうえにたって次の諸点に留意して闘争を強化することが必要である。
 (イ) こんにちの国際的国内的危機の根底的解決が反帝・反スタの世界革命戦略に立脚することなしには決定的に不可能であること、日帝の体制的危機をかけた攻撃の強化に抗して戦争と植民地主義に反対し生活と権利を守るたたかいを遂行していくうえで日帝打倒の旗印がますます重要になってきていることを、具体的・原則的に暴露・宣伝していくこと。マル戦派の諸君は「過渡的スローガン」を絶対化して、ロシア革命は「パン・土地・平和」の要求で実現したかのような愚劣な主張を展開しているが、二月革命はともかく十月革命は、「パン・土地・平和」の実現はケレンスキー資本家政府打倒なしには不可能だというボルシェビキの戦略の勝利であって、その逆では断じてない。
 (ロ) ベトナム――日韓を中心とする反戦反植民地闘争の強化。秋のベトナム反戦闘争の成否にすべてがかかっている。社民的政治闘争の後退を突破するために徹底的に追求せよ!
 (ハ) 安保粉砕――小選挙区制阻止を基軸とした政治闘争の準備を急ぐこと。この両者にかんして革命的左翼の政治的武装は決定的に遅れている。政治的研究学習を組織内的に強化しつつ、後者にかんしては「答申」など具体的準備にたいし警鐘的闘争を拡大していくことが必要である。当面、祝日法との結合が焦点となる。秋の闘争のなかで政治討議を深め、安保――ベトナム・日韓――小選挙区を基本的三大政治課題として体系的に構築する組織的準備を進めること。
 (ニ)合理化、首切り、賃金抑制、大衆収奪に反対する生活と権利を守る闘争のねばり強い継続と強化。
 (ホ)地方自治破壊の攻撃など、あらゆる反撃の機会を具体的に把え、主体的力量を強める方向でたたかうこと。
 (ヘ)労組、地区労、自治会など組織的陣地の防衛と左翼的強化。労組など大衆機関への清算主義を粉砕すること。右翼的幹部の組合でも反対派活動の合法的形態を注意深く探し出し、徹底的に利用すること。全学連再建、反戦青年委の強化拡大は当面する全国的環である。
 (ト)八・二集会スローガンの意義。たんなる集会スローガンとして理解せず、当面する同盟の政治スローガンとしてねり上げる方向で把えるべきこと。
 (チ)社共既成指導部への批判の強化、とくに日共の転換にもとづく党内の動揺への全面的介入を準備すること。この際とくに留意すべきことは、(1)六一年綱領と日共の基本論文によく目をとおすこと、(2)日共党員・シンパの問題意識にふみこんで討論できる能力をつけること、(3)あらかじめ見くだしたような態度はとらぬこと、(4)細胞、党員ごとに意見が変化するから相手の意見と傾向をよく注意すること、である。
 (リ)革命的左翼の共同行動と党派闘争の有機的結合を強化すること。統一戦線戦術はあくまで具体的闘争課題を基軸として展開すること。「解体のための統一行動」(革マル)と「無原則的合同」(マル戦)という統一行動と党派闘争の二重化を粉砕すること。
 
D 同盟の当面する組織活動について
 
 a 綱領的深化とイデオロギー的再武装のために
 
 () 革命的共産主義運動の一〇年と「反帝・反スタ」世界革命戦略
 
 日本における革命的共産主義運動創成のたたかいは、一〇年の苦闘の歴史を基礎にして、いまようやく新しい地平をきりひらこうとしている。
 一〇年前、日本革命的共産主義運動は、五〇年分裂――六全協問題、スターリン批判――バンガリア問題として露呈した「内外の試練」との思想的対決をとおしてその端初を形成した。それは、国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲への「革命家としての自己批判」の過程であるとともに、労働者運動の革命的再生のための「革命家としての命がけの飛躍」を意味するものであった。だが、その旗のもとに結集したのは、革命的インテリゲンチャーを主軸としたひと握りの集団であった。日共六全協とソ連共産党二〇回大会をとおしてスターリン主義の政治的権威は動揺していたとはいえ、日本労働者階級の戦闘的翼は、いぜんとして共産主義とスターリン主義とを等置していた。
 一〇年たったこんにち、安保――四・一七――日韓を画期とした日本階級闘争の歴史的展開をとおして、日共=前衛党の神話は崩壊した。日本労働者階級の戦闘的翼における「スターリン主義と革命的共産主義の分裂」は、日共、民間にかわる新しい労働者運動の可能性をきりひらきはじめた。日本革命的共産主義運動は、三度にわたる分裂と再武装の試練に耐えることをとおして前進し、工業.プロレタリアートを主軸とした前衛的政治組織をもつところまで発展した。
 革命的共産主義運動の一〇年のたたかいは、「革命の名で革命を裏切る」スターリン主義からの自己解放のたたかいであったが、同時にそれは、革命的共産主義をスターリン主義のたんなる「対立者」に終らせようとする二重の誤謬との断えざる闘争の過程でもあった。運動創成期における第四インター=トロッキー教条主義との内部闘争、安保闘争における「ブント」との党派闘争の基礎には、スターリン主義からの分離をトロッキー主義の復権や、戦闘的大衆運動の対立的展開をもって解決するだけではなしに、国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲をいかに「内から」超えるのか、という切実な現代史的課題が横たわっていたといえよう。なぜならば、革命的共産主義の本来的任務が世界革命の達成にあることはいうまでもないが、この命題は同時に、この任務の達成にはなぜスターリン主義と分離した前衛組織か必要なのか、という疑問を解決するものでなければならないからである。
 日本革命的共産主義運動の現段階における二つの疎外形態としてのブント派と革マル派の腐敗の根拠は、スターリン主義からの分離をスターリン主義の「内から」の克服として論理化する思想的努力を放棄してしまった点にある。なぜ自分は日共の「外」にいるのか、という出生の疑問すらもつ余裕もなく、ただただ反「反スタ」を唯一の同一性として弱者の連合を急ぐブント両派は論外として、わが革マル派までスターリン主義を「国際共産主義運動の一国社会主義論にもとづく疎外形態」として内側から把える方法論を破棄し「スターリン主義革命」などという実体主義的誤謬にまで転落していくダラクをのり超えることなしには、革命的共産主義運動の真の前進はありえない。
 戦後世界体制の動揺、日本帝国主義の体制的危機の深まりと攻撃の質的転換は、本質的には、帝国主義と社会主義の世界史的分裂の平和共存形態への変容という現代世界の基底的構造そのものの世界史的動揺を意味するものだが、それは同時に、現代革命の綱領的立脚点としての 「反帝・反スタ」戦略の深化をも要請しているといわねばならない。
 革マル派の諸君は、黒田寛一によって基礎づけられた革命的マルクス主義を「マルクス主義の現代的適用」の立場として把えかえすことができず、黒田理論をもって革命的マルクス主義の基本体系をなすものとし、毛沢東思想と対極的な自己絶対化をはかっている。学生戦線における革マル派の全国的没落、同書記局の動揺の原因を直接的にその理論方法の誤謬に還元しえないことはもちろんだが、それが三全総以来の革マル派の思想的政治的人間的誤謬の全体系、とりわけ統一行動にかんするセクト主義的組織戦術と無関係でないこともまた明白である。三全総以後、革マル派的誤謬の基軸をなした黒田寛一がかつての「旺盛な理論活動」と対照的に「理論的労作」をなにひとつ示しえないことに象徴される革マル派の理論的衰弱は、日韓――ベトナム問題に危機的に露呈した政治的混乱と表裏一体をなしているものといえよう。
 ブント両派や社民左翼たる解放派は、革マル派の没落から直接的に黒田理論の破産を結論し「反帝・反スタ」戦略の破産を宣言しようとしている。だが、それは「安保極左派の没落」をもって「宇野経済学の破産」の証明にかえようとした日共の御用学者のやり方と完全に同一な「理論外的」方法といえよう。革マル派の没落の必然性は、三全総以後のわが同盟と革マル派との思想的・政治的・組織的な闘争の具体的過程の理論的・組織的総括をとおしてのみ解明することができる。革マル派との四年間の闘争は、(1)革命党をいかにつくりあげていくのか、(2)階級闘争をいかに推進していくのか、という実践的見地を基礎にうちだされてきたことはいうまでもないが、その背景には、(1)マルクス主義の現代的適用としての革命的マルクス主義の創造にむかって黒田理論をいかに止揚していくか、(2)「反帝・反スタ」戦略を「開かれた綱領的体系」としていかに実現(理論的・組織的実現!)していくか、という理論的問題意識の差異が存在していた。それゆえ、黒田理論の検討は、革マル派の没落として露呈した黒田理論の弱点を掘り下げながらも、理論的課題として独自に検討していくことが必要である。
 革マル派の没落はいわゆる「反帝・反スタ」の破産を意味するものではない。それどころか、わが同盟と革マル派との闘争をとおして「反帝・反スタ」戦略は現代革命の綱領的立脚点としてますます鍛えあげられた。革マル派の没落は、「反帝・反スタ」世界革命戦略の生きた発展に対立するものの無残な歴史的結論である。この意味においてのみ、同盟第一次分裂に際して黒田がトロッキー教条主義者に投げつけた「批判の基準は実践である」(『逆流に抗して』)という警句はこんにちも有効であるといえよう。
 
 () 革マル派との分裂と革命的共産主義の理論的深化のための闘争
 
 日本革命的共産主義運動の深刻な試練は、三全総路線をめぐる同盟第三次分裂(六二年秋――六三年春)とその後のわが同盟と革マル派との四年間にわたる思想的・政治的・組織的闘争であった。
 安保闘争の敗北と、その総括をめぐる「ブント」の内部闘争を反帝・反スタを立脚点とした「プロレタリア党のための闘争」の観点から止揚したわが同盟は、米ソ核実験反対の反戦闘争、国鉄・全逓の反合闘争、六二年参院選挙闘争をたたかい抜き、革命的共産主義運動の飛躍的前進の基礎を築きあげたのであった。
 同盟三全総は、第一に安保以来の日本労働組合運動の全面的な後退と、そのなかで生起する戦闘的労働運動、この過程において深刻化した活動家層の新しい分解傾向に注意することを提起するとともに、革命的共産主義運動内部のセクト主義を徹底的に克服し、<戦闘的労働運動の防衛>と創造のために全同盟が努力を傾注するように訴えた。同盟三全総は、第二に、安保以来の二年間の同盟組織建設にふまえ、産業別・職場別組織を地区的に横断した地区党組織の形成を同盟組織建設の新段階としてうちだし、産業別組織との有機的発展を具体的に提起したのであった。同盟三全総は、第三に、革命的共産主義連動の政治宣伝、扇動活動に残存している最大限綱領主義を一掃し、労働者階級との生きた交通をもった政治宣伝、扇動活動を大胆にうちだすことを決意するとともに、週刊化をバネに『前進』を大衆的な革命的政治新聞として強化することを決定した。それらは、同盟の組織活動と組織建設という一個二重のたたかいを階級関係との生きた相互規定をもつものとして発展させようとしたまったく当然の処置であった。
 だが、革命的共産主義運動の階級的強化の方向にたいして無自覚的混乱におちいった黒田(山本)と、それに追従した学生委員会の指導的グループは「党組織の本質形態では地区組織が一般的で産別組織は特殊的闘争機関である」などという愚にもつかぬスコラ的論議をくりかえしながら、他方では地区組織の建設を妨害し、戦闘的労働運動の防衛のスローガンにたいし、「大衆運動主義」のレッテルを貼りつけ、しかも、学生戦線においては、大管法闘争として実現した社学同派との統一行動を「ベッタリ主義」として破壊し、「他党派解体のための統一行動」路線に純化していった。
 黒田とその追従主義者たちのこうした分裂策動は、関東、関西を中心とした革命的労働者組織の断固とした組織的反撃のまえに粉砕され、その過程をとおして同盟の再武装と発展はかちとられたが、黒田が日本革命的共産主義運動の創始者のひとりであり、『ヘーゲルとマルクス』以来の理論的活動をとおして、反スターリン主義の革命的マルクス主義を基礎づけた理論的指導者であったという個人的事情は、同盟全体にとって深刻な打撃となったことも否定しえない。そして、このような特殊的事情は、その後の過程において、一方では黒田理論を絶対化し、それをもってマルクス主義の現代的適用が達成されたかのごとく考え、あとは組織づくりと他党派批判のみが残っていると幻想する蜜蜂的集団(革マル派)を生みだすとともに、他方では現実の革マル派への反発から直接的に黒田理論を否定する傾向(マル戦派)を生みだした。だが、われわれは、このような二つの偏向との闘争をとおして、黒田理論をみずから発展させ革命的マルクス主義に止揚していくという実践的立場をとってきたし、今後もとっていかねばならないことはいうまでもない。
 事実、わが同盟は、革マル派との苦しい闘争をとおして三全総で提起された諸課題を達成していくとともに、あらたに、(1)学生運動の分裂状況を戦闘的に止揚するための統一戦線戦術の展開と、全学連再建の追求、(2)原潜、日韓、ベトナムを軸とした大衆的政治闘争の全同盟的とり組みと、反戦・反植民地闘争の論理的深化、(3)ベトナム問題として危機的に露呈した現代世界構造の世界史的性格と、そのなかにおける日米同盟の位置と構造の明確化、(4)中ソ対立、経済政策論争を実践的契機とした社会主義社会論、過渡期政策論の解明と、スターリン主義諸国の現状分析などの実践的・理論的課題の解決のためにたたかってきたが、それはまさに「反帝・反スタ」世界革命戦略を「開かれた綱領体系」に実現していく死活の闘争であった。それは同時に、黒田理論を革命的マルクス主義として発展・止揚させていく理論的苦闘の過程でもあったといえよう。
 周知のように、黒田理論の核心をなす黒田哲学体系は、戦後日本唯物論における梯経済哲学、梅本主体性論、武谷技術論の批判的摂取にもとづいて構成されたものであるが、それはマルクス主義哲学の核心をなす「疎外された労働」論を基礎として、(1)自然の社会史的媒介過程の論理としての生産・技術論、(2)社会的生産とその疎外過程の論理としての史的唯物論、(3)資本主義社会におけるプロレタリアートの主体的自覚過程の論理としての経済哲学を体系的に構築しようとするものであり、マルクス主義哲学のスターリン=ミーチン的偏向に根底的に対立したものであった。とくに、黒田哲学の現代史的特殊性は、なによりもまず、いわゆる三部作的探求(『ヘーゲルとマルクス』・『社会観の探求』・『プロレタリア的人間の論理』)を基礎として黒田がマルクス主義哲学のスターリン=ミーチン的偏向との体系的対決を開始し、(1)社会法則の客観主義的理解への批判、すなわち、社会法則の実体としての人間が、同時に、社会法則の認識主体であり、法則を意識的に「適用」していく実践主体である、という立体的論理構造にかんするスターリン主義者の無理解を暴露するとともに、(2)スターリン哲学の背後によこたわるソ連社会と国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲との理論的対決を追究した点にあったことを指摘せねばならない(黒田『経済学と弁証法』参照。なお「法則論」はその中心論文を六二年に改作したもの)。
 かくして、黒田理論の革命的マルクス主義への発展は、まずもって、世界革命のスターリン主義的歪曲との実践的対決をとおしてマルクス世界革命論を現代的に展開するという方向にむかったが、それは同時に、マルクス経済学の現代的確立をもってマルクス世界革命論の現代的展開を科学的に基礎づけるという方向を不可避的課題としたのであった。その一応の理論的「探究」を示すものが黒田の『現代における平和と革命』および『宇野経済学方法論批判』であったといえるが、それは同時に、黒田理論に内在する問題性をも全面的に示すものとなったのである。
 前者の革命理論としての発展の方向は、基本的には、スターリン主義への左翼反対派としてのトロッキー主義とその敗北にたいする理論的・組織論的対決をとおして端初を形成したが、その主要な意義を総括するならば、(1)スターリン哲学の客観主義的誤謬と、その日本的亜流の批判、(2)永続革命論にもとづく日共二段階戦略の批判と、レーニン労農独裁論およびトロッキー永続革命論の検討、(3)ソ連論の方法にかんするトロッキー(堕落した労働者国家)、対馬(国家資本主義論)の批判、(4)党組織論における共産主義的自覚の基礎的意義と、戦術と組織の関連性の明確化、(5)第四インター「反帝・ソ連無条件擁護」綱領批判をバネとした「反帝・反スタ」世界革命戦略の提起の五点に整理することができるであろう。これらの諸問題は創成期に不可避な過渡的弱点にまといつかれているとはいえ、革命的共産主義運動の基本的方向を革命論=組織論において基礎づけたものであったといえよう。
 もちろんそれは、(1)帝国主義段階論にかんする無理解、(2)現代世界の基本構造、とりわけ戦後世界体制にかんする現状分析の欠如、(3)レーニン・トロッキーの革命論批判の論理主義的一面性(とくに現代革命における農業・植民地問題の無自覚)、(4)階級闘争の現実過程における党組織活動の論理化の欠如など多くの欠陥をかかえており、けっして絶対化しうるものでなく、革命的マルクス主義の核心的な構成部分として理論的・実践的に高められていくべきものであろう。それゆえ、すでにのべたように、三全総以後のわが同盟の苦闘は、同時にこうした理論的空隙を克服するたたかいでもあったのである。
 後者の黒田理論のマルクス経済学としての発展の方向であるが、それは一言でいって宇野経済学体系をいかに批判的に摂取するかという問題であった。
 宇野経済学は、基本的には、(1)イデオロギーと科学の「分離」にもとづくマルクス経済学の科学としての確立、(2)帝国主義段階論を端初とした経済学三段階論(原理論、段階論、現状分析)の提起と経済学原理論の確立、の二点を主内容となすものであるが、その核心は、(1)労働力の商品化にもとづく資本家的商品経済の原理的展開、(2)株式資本形態論にもとづく帝国主義段階論の基礎的確立、(3)経済学の科学的確立を基礎とした史的唯物論の完成という方法論的問題意識の明確化、(4)恐慌の必然性と革命の必然性の分離にもとづく政治的実践の独自性の強調にあるといえよう。したがって、宇野経済学の問題は、スターリン主義者のように「理論と実践の統一性の欠如」などという批判で解決しえぬ学問的問題性をもっていることはいうまでもない。宇野経済学は、レーニン帝国主義論の発展を問題的端初としたものであり、経済学のスターリン主義的歪曲の克服への高地を形成しているものであり、われわれが全力をあげてとりくむべき経済学理論体系である。
 われわれは、当然のことながら、社会変革をめざす革命的労働者階級の立場から宇野経済学を批判的に摂取していくわけであるが、その場合には、(1)経済学原理論と段階論との論理的関連をいかに把握するか、(2)帝国主義段階に特有な矛盾の爆発形態としての「植民地と戦争」の問題を理論的にいかに位置づけるか、(3)現代世界の世界史的な歴史規定および、その具体的な現状分析をどう展開するか、(4)過渡期社会のスターリン主義的変質との対決という現代的問題意識にふまえて社会主義社会論、過渡期政策論の理論的確立をいかに進めるか、(5)宇野方法論における理論と実践の「分離」を組織論的にいかに止揚するか、といった実践的課題がまずもって検討されねばならない。
 だが、黒田は宇野経済学との対決において、経済学としての問題意識を理論的に追究するのではなく、黒田独自の「経済学観」を宇野経済学方法論に対置するという非実践的方向をとることによって無残にも難破したのであった。すでにスターリンの法則論批判(黒田『法則論』六二年)において黒田は、社会法則の実体と認識主体・「適用主体」との立体的構造にかんして優れた問題提起をおこないながらも、スターリン論文の法則主義的誤謬にひきずられて、(1)ブルジョア社会の成立と階級闘争の関連についての理論以下的誤謬、(2)経済法則の特殊性の無理解、すなわち社会法則との機械的切断、(3)「社会主義社会で利用する法則は社会法則である」式の転倒した社会主義社会論、つまり法則の死滅にかんする無自覚、(4)「剰余価値法則」「最大限利潤の法則」といったスターリン主義経済学概念への屈服、(5)戦争の不可避性にかんする改良主義的結論などの致命的誤りを暴露したが、そこにおける「最大限利潤の法則」を「資本主義的経済法則の帝国主義的特殊法則」として把えかえせという「方法論的アテハメ主義」に露呈した黒田の誤謬はここに拡大再生産されたのであった。
 このような黒田の難破の根拠は、黒田理論を宇野経済学との対決をとおして止揚するという実践的立場を放棄し、自己絶対化のための形式的批判に終止した点にある。経済学を経済学として対決することなしには、宇野経済学を批判的に摂取することができないことを黒田は「負の実践」においてわれわれに教訓化している。したがって、われわれは、当面、宇野経済学との理論的対決をとおして黒田理論を止揚するという実践的問題意識をバネに、黒田哲学体系の再検討(全面的摂取!)を追求するとともに、マルクス経済学の現代的展開をもって「反帝・反スタ」世界革命戦略を基礎づけていくことが必要であろう。
 
 () 当面する政治課題と理論的諸問題
 
 すでに指摘したように、三全総以後のわが同盟の四年間の闘争は、三全総的課題を達成し、その基礎のうえに新しい実践的課題を大胆に受けとめ、理論的・実践的に解決していく政治的過程であったが、それは同時に、これらの実践的課題を契機として革命的マルクス主義を理論的に深化、発展させていく意識過程であった。
 三全総以後の実践的過程においてわれわれが直面した第一の課題は、「反帝・反スタ」戦略を現代革命の展開された綱領体系としていかに実現していくか、という点である。
 もともと綱領とは、党の究極目標および、そこにいたる具体的条件の一般的解明、そこにおける自己の役割を統一的に示すものであるが、いわゆる戦略とは、綱領的目標を達成するうえでの打倒対象と革命主体との具体的関連を示す概念といえよう。したがって、われわれが現代革命の綱領的立脚点として「反帝・反スタ」戦略を提起する場合には、帝国主義打倒・世界革命の達成という二〇世紀的課題をその基礎としていることは当然であるが、問題はまさにこうした二〇世紀の一般的課題が、過渡期の「一国社会主義」的歪曲を世界史的根拠として、反スターリン主義という特殊的課題を論理的反省契機として包摂せねばならなくなったことにある。「反帝・反スタ」世界革命戦略とは、世界革命を今日的に実現していく特殊的環を普遍的に示すものといえよう。
 もともと、スターリン主義とは、「一国社会主義と平和共存」のイデオロギーであり、この虚偽のイデオロギーをテコとした過渡期社会および労働者運動の疎外形態であると規定しうるものであるが、したがって、反スターリン主義というわれわれの立場は、いわゆる「社会主義圏」の官僚的指導者や、資本主義諸国の共産党の反革命的指導部を「圧制者」あるいは「妨害者」として打倒するといった単純な過程をのみ意味するものではない。それは、帝国主義の世界史的打倒という一般的方向に向かって「世界革命への過渡期の平和共存的変容形態」を根底的に突破するというきわめて今日的な課題を、国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲の世界史的克服という主体的契機において統一的に達成しようとするものである。
 「反帝・反スタ」戦略は、一方における国際帝国主義の打倒、他方における過渡的社会の官僚制的変質の打破という相互規定的任務を、世界革命というプロレタリア的統一原理において現代的に戦略化したものであり、「両体制の否定」といった客観主義的立場を根底的に粉砕していくものである。
 ところが、わが革マル派にあっては「反帝・反スタ」なるものは、自己のセクト主義的党派性を防衛し、他党派を「批判」する基準としてのみ意義をもっているにすぎない。そこから、一方では、米ソ核実験反対・中仏核実験反対を「両体制の否定」に実体化していく誤謬をたえず生みだすとともに、他方では、運動上のスローガンを固定的理念に還元させていくことによって階級的運動との生きた交通を自己切断していく誤謬を体質化することとなる。
 現代革命の綱領的立脚点が「反帝・反スタ」であるということは、別の面からいうならば、現実の反逆の契機のうちに「反帝・反スタ」の自然発生的要素を内包していることを意味している。もちろん、このような自然発生的要素は、直接的に革命的意識性に転化するものではないが、それゆえにこそ、共産主義者の意識的な党的結集と、いわゆる独自の大量的系統的政治宣伝を基礎とした「党」の統一戦線戦術の展開とが問題となるのである。したがって、われわれに今日的に必要なことは、いかなる党派的表現をとってあらわれようと現実に生起した実践的課題にたいし大胆に対決するとともに、それを基本的には「国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲をいかに突破していくか」という実践的問題意識をもって理論的、組織的に解決していくことをとおして、ふたたび綱領的立脚点を深化していくことである。
 三全総以後の実践的過程においてわれわれが直面した第二の課題は、日韓・ベトナム問題として提起された「植民地・後進国革命と戦争の問題」を現代革命の全体的構造のうちにいかに位置づけるか、という点である。
 資本主義の帝国主義段階への世界史的推転は、株式資本形態にもとづく資本蓄積様式=労働市場構成の段階的変化を基礎とするものだが、それは一方では世界の全地域と社会的生産の全過程を独占=金融資本特有の方法で支配する機構をつくりだすとともに、他方では農業・植民地問題という独占=金融資本段階に特有な矛盾を生みだし、農民闘争・植民地解放闘争をプロレタリア世界革命の有機的一部分に転化させた。
 レーニンは『帝国主義論ノート』のなかで帝国主義段階における世界の諸国を、(1)金融的・政治的に自立した国、(2)金融的には独立していないが政治的には自立した国、(3)半植民地、(4)植民地・従属国に分け、(1)(2)を帝国主義民族、(3)(4)を被圧迫民族と規定した。二〇世紀初頭に帝国主義列強として世界史に登場しえた英独米仏伊ロシア日本といったかぎられた国々以外の国々は、一九世紀の自由主義段階におけるような資本主義的発展の道を自由にたどることができず、国民経済を形成し、独立国となることができず、帝国主義列強による苛酷な圧迫・支配のもとにおかれた、という事実をレーニンは他のなんぴとよりも鋭く指摘したのであった。まさにこの点にこそ帝国主義段階の特徴がもっとも端的にあらわれているのであって、帝国主義にとって世界支配は不可欠の要素なのであり、世界政策の展開において脆弱な帝国主義国は、他の帝国主義列強との争闘に敗退していくのである。
 こうした点からいって、帝国主義の圧迫・支配のもとにある民族の植民地解放闘争は、帝国主義段階における世界政治のきわめて深刻な要素をなすのであり、われわれはそれをプロレタリア世界革命の重要な構成部分をなすものとしてとらえなければならない。
 岩田弘の「世界資本主義論」の致命的な一弱点は、まさにこの帝国主義における民族・植民地問題の意義を抹殺する論理構成をもっている点にあるといわなければならない。なぜなら彼の「世界資本主義論」の方法論的基礎をなすものとして彼が強調してやまぬ「資本主義の世界性」と「それと表裏の関係をなす資本主義生産の部分性」(資本主義的生産が社会の全生産部門ではなくたんにその一部の産業部門をとらえるにすぎぬ部分的な社会的生産にすぎぬという意味)という資本主義にたいするとらえ方にもとづいて、岩田は「資本主義的生産の純粋性と自立性は、商品経済による非商品経済の外的な分解作用をその一般的な基礎および生存基盤としている」(『世界資本主義』一四ページ)と規定する。こうした規定を自由主義段階にたいしても帝国主義段階にたいしてもその特徴を無視して資本主義一般に共通のものとして措定することは、一方では、一九世紀中葉のかぎられた時期ではあれ、イギリスにおいて現出した資本主義の純粋化の傾向を事実上否定し、原理論を抽象する作業の可能根拠を否定し(したがってまた、彼のいう世界市場の産業基軸がなにゆえにそれとして設定しうるのかをもけっして明らかにしえず)、他方では帝国主義段階においても「資本主義的経済過程の純粋性ないし自立性」を結局説くことにより、帝国主義段階における帝国主義民族と被圧迫民族への世界の分裂、帝国主義段階における民族・植民地問題の意義を抹殺してしまうのである。
 マル戦派が日韓問題それ自体の分析をまったく放棄してかえりみず、またベトナム問題において「ベトナム階級闘争への米帝の反動的介入」などというデタラメな把握をなして、反戦・反植民地闘争を否定するのはけっして偶然ではないのである。
 われわれはレーニン『帝国主義論』の問題意識およびその民族理論をしっかりとみずからのものにすることを出発点として、こんにち植民地問題を契機に危機を深めつつある現代帝国主義の総体的把握と「植民地・後進国革命と戦争の問題」の把握の深化に向かわなければならない。
 ロシア革命は、プロレタリア世界革命の突破口をきりひらくとともに、帝国主義の抑圧のもとに苦しむ植民地人民に「プロレタリア社会主義革命こそ植民地解放の条件」であることを事実をもって示した。だが、世界革命を「一国社会主義建設」の問題にすりかえたスターリン主義は、中国第二次革命(二七年)の敗北をもって植民地解放との結合の努力をみずから放棄し、帝国主義との協商の方向をとった。
 世界革命への過渡期の一国社会主義論にもとづく平和共存形態への変容、とりわけヤルタ協定にもとづく戦後世界体制の一応の完成のもとでは、帝国主義からの植民地の解放は、基本的にはネルー・ナセル型の政治的独立形態をとったが、それは帝国主義への金融的従属を基礎としたものであった。それは、一方における中国革命の発展、他方における反共軍事国家の形成という戦後植民地支配体制の崩壊的危機と軍事的再編成の進行の均衡を背景とした中間的解決であった。中国革命は、客観的には植民地解放闘争の突破口として戦後世界体制に根底的衝撃を与えたが、ジュネーブ的解決=平和共存政策をもってその可能性をみずから切断した。
 こうした一連の事態は、植民地・後進国の解放を「帝国主義からの政治的独立と、国民経済の自立的発展」と同一視する幻想を生み出したが、それは「一国社会主義論にもとづく世界革命への過渡期の平和共存的変容」の植民地・後進国的解決形態であったといえよう。
 ベトナム問題は、直接的には、日本占領軍からの解放闘争の過程で達成された土地改革を、戦後復帰したフランス帝国主義と、その後継者としてのアメリカ帝国主義が地主階級と結合して反動的転覆をおこなったことを基礎としているが、ジュネーブ的解決にもとづく民族分割の必然的な結果として、その矛盾が南ベトナムにおいて集中的に爆発したところにその独自的性格がある。他のところですでに指摘したように帝国主義の体制的危機の深まりは、インド、インドネシアなどの「民族国家」における矛盾の爆発と反動的再編を必然化しているが、南ベトナムを頂点とした「反共軍事国家」の激動は、帝国主義の体制的危機の深まりにもとづく植民地支配体制の反動的再編成を現実的な媒介項として、植民地・後進国の矛盾を一つのものに結びつけはじめている。南ベトナム解放民族戦線がベトナム問題をどう理解していようと、ベトナム危機は「世界帝国主義の体制的危機の爆発点」に転化している。
 したがって、ベトナム侵略戦争の性格にかんして、「ベトナム階級闘争への米帝の反動的介入」(マル戦派)とか、「ベトナム人民の敵は南ベトナム政府であり、それを反米にそらすのがベトコンの誤り」。(革マル派)とかいう見解は、植民地問題についての完全な無知を示すものである。まさにベトナム問題は、帝国主義段階における植民地問題という課題をあらたな形態において実践的・理論的に提起しているものと言えよう。もともとベトナム危機のプロレタリア的解決は、(1)帝国主義の打倒と結合したベトナム解放、あるいは、(2)アメリカ帝国主義がベトナムから後退せざるをえない国内的国際的政治情勢の到来と呼応したベトナム労働者階級の指導権の確立、の二条件のいずれかを意味するものであるが、いずれにしても、帝国主義世界体制の巨大な世界史的後退との結合なしには不可能である。この明確な事実を意識的に隠蔽し、ベトナム解放闘争をベトナム人民の独自的な闘争課題であるかのようにしているのがスターリン主義者であるが、それゆえにここにおいても、反スターリン主義は帝国主義論の今日的な発展を鋭く要請しているといえるのである。
 三全総以後の実践的過程をとおしてわれわれが直面した第三の課題は、ロシア革命以来の現代世界、とりわけヤルタ協定を政治的基調とした戦後世界体制にかんする綱領的認識をいかに深化するか、そして、このような世界史的な歴史規定にもとづいて日本帝国主義の戦後的復活および日米同盟の特殊性をいかに戦略的に位置づけるかという点である。
 この問題は、理論的に整序していうならば、第二次世界大戦以後の世界資本主義の歴史的規定性は何か、という帝国主義論の現代的展開そのものにかかわるものといえよう。もともと帝国主義段階にまで発展した資本主義は、世界の再分割をめぐる国家対立を世界史的発展基軸としており、具体的な国家政策を考慮することなしにはその歴史的規定性を明確化しえないものであるが、第一次大戦後の世界資本主義なるものは、ロシア革命を突破口とした「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」を不可分の条件とするものであり、世界革命の具体的展開との関連なしにはけっして正しい認識をもつことができないことはいうまでもない。二〇世紀の一般的歴史規定は、まさに戦争と革命の時代といってよいのである。
 だが、こんにちの世界を理解するためには、以上の二〇世紀的歴史規定に踏まえながらも、なお若干の具体的な歴史規定をも論理的に内包することが必要となる。その第一の問題は「一国社会主義論」にもとづく世界革命への過渡期社会の官僚制的変質および労働者運動のスターリン主義的歪曲であり、第二の問題は、当然第一の問題との関連のもとに考察されねばならぬことであるが、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化と、その暴力的再編成(第二次大戦)をとおして成立した帝国主義の戦後世界体制の特殊的性格である。
 いわゆる戦後世界体制は、国際共産主義運動のスターリン主義的変質を歴史的根拠として、第一の問題と第二の問題との複合的相互規定として成立した。そして、そこにおける帝国主義世界体制なるものは、本質的には戦後革命の敗北にもとづく帝国主義のきわめて異常な具体的延命形態であったといえよう。その他方の軸に東欧および中国のソ連圏への官僚制的包摂にもとづく「帝国主義と社会主義との世界史的分裂」の歪曲的拡大(いわゆる社会主義世界市場の成立)がもたらされたのであるが、にもかかわらず、戦後世界経済の主導的発展基軸は、アメリカ帝国主義の圧倒的生産力を基礎とした帝国主義世界体制の側にあり、いわゆる「社会主義世界市場」なるものは対抗的、防衛的性格を脱しうるものではなかった。
 スターリンは例の遺言的論文『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(五二年)において「社会主義世界市場の成立」にもとづく「資本主義的単一世界市場の崩壊と縮小」をもって帝国主義体制の崩壊を予想しようとした。だが、このような戦後世界の把握は、経済学的にいっても誤っているが、それは同時に、戦後世界分析における階級闘争の特殊的意義(戦後革命の敗北)を非主体的に隠蔽するものにほかならなかった。帝国主義の命運は、経済的危機の直接的結果として終焉するものではなく、その経済的危機をも一契機としたプロレタリアートの主体的行動を媒介することによって解決されることはいうまでもない。スターリンの遺言の破産からより右翼的結論をうちだしたフルシチョフは、いわゆる経済競争をもって帝国主義体制に対抗する政策を提起したが、それは逆に「負の経験」において世界市場と分断した「一国社会主義」の生産力的限界をも暴露したのであった。
 戦後帝国主義世界体制の危機は、資本主義の不均等発展にもとづく西欧の台頭とドル危機、アメリカ帝国主義のまきかえし政策とEECの防衛的対抗という帝国主義列強間の矛盾の激化をもって生起したが、同時にそれは、一方では戦後帝国主義の「世界的統一性」を保障していた国際金融体制のもつ構造的矛盾を暴露するとともに、他方では米ソ共存を基調とした戦後世界体制の根底的動揺を必然化した。中ソ対立として現象したスターリン主義陣営の分裂の世界史的根拠は、まさに戦後世界体制の根底的動揺にたいするスターリン主義的対応の自己矛盾にある。そして、この対応政策を基底的に条件づけているものこそ「一国社会主義論」であるといえよう。
 戦後日本帝国主義の復活過程および日米同盟の特殊性はこうした世界資本主義の戦後的歴史規定との関連においてのみ正しく把えることができる。日共綱領の誤謬の克服は、まずもって、スターリン・ブハーリン的二段階戦略の批判的検討にもとづくマルクス的永続革命論の原理的再構成を基礎的作業とするが、それは同時に、戦後世界資本主義の歴史規定を媒介とした日米同盟の解明という具体性のうちに展開されるものでなければならない。日韓、ベトナム、安保を政治基軸とした日本帝国主義の対外的新展開とその国内的反動の強化は、その戦後的復活過程の存立条件そのものの動揺と結合したものであり、したがってまた、根底的には「世界革命への過渡期の平和共存的変容」とその世界史的動揺にたいする具体的展開として把えられねばならない。
 三全総以後の実践過程をとおしてわれわれが直面した第四の課題は、スターリン主義批判の過程において社会主義社会論とその経済政策論をいかに理論的に深化させていくか、という点である。
 『ゴータ綱領批判』において原理的に展開された社会主義社会論は、本質的には、資本主義社会の原理的解明を前提としたものであり、社会主義社会への論理的追究の理論的出発点をなすものであることはいうまでもないが、われわれは、そこにおける社会主義社会論(共産主義の第一段階)および過渡期社会の経済政策論を、ロシア革命以後の具体的経験によって実践的に提起された問題意識をもって理論的に深めていかねばならない。
 そのときまず第一に問題になる点は、ロシア革命以後の「具体的経験」をもって、マルクス、レーニン(『国家と革命』における「国家死滅の経済的基礎」)の社会主義社会論を直接に修正しようとするものである。それは具体的には、過渡期と社会主義(共産主義第一段階)のすりかえ(国有化、集団化、工業化の自己目的化)、プロレタリア的な国家原則、賃金原則などの破壊などとしてあらわれるが、それは、社会主義建設の目的意識的性格を「具体的経験」のまえに屈服させるものといえよう。
 第二の問題は、第一の傾向の反対のものであるが、社会主義社会の典型的規範をもってロシア革命以後の具体的経験、とりわけスターリン主義的建設過程を批判しようとするものである。スターリン主義者が現実の「ソ連圏社会」をもって社会主義社会であるかのような虚偽のイデオロギーをふりまわしているかぎりにおいて、このような批判は「永遠なる批判の基準」を与えるものといってよい。対馬ソ連論から学びうる最大の核心は「労働証書制の価値論的解明」にかんする部分である。資本家的商品経済におけるいわゆる経済原則と価値法則にかんする宇野経済学の提起との対決をとおして、この「解明」を徹底的に改作することがわれわれに残された課題である。
 だが、ロシア革命以後の具体的経験、とりわけスターリン主義的建設にたいし社会主義社会の典型的規範を対置するだけでは、われわれの課題は解決されたとはいえない。なぜならば、現実の「ソ連圏社会」はいかなる世界史的過程をとおして形成されたのか、その特有の矛盾形態は何か、それはいかにしてプロレタリア的に解決されるのか、という問題にかんして、マルクス、レーニンによって基礎づけられた社会主義社会論の体系的論理化を深めながら、過渡期の政策論を媒介として、具体的に解明していくことのなかにこそ、社会主義社会論にかんする今日的な実践課題が存在しているからである。このことが第三の問題である。
 第四の問題は、社会主義社会の典型的規範をもってソ連圏社会が社会主義社会でないことを指弾し、もってそれを国家資本主義と規定するものである。それは過渡期社会の歪曲という具体的問題を「一国社会主義」論的政策体系との関連においてどう実践的に突破していくかという点で方法論的問題をもっているが、同時にそれは、資本主義社会の歴史規定についても次の諸点において基本的難点をもっている。
 (1) 資本主義社会の原理的規定との関係における「労働力の商品化」について。資本主義社会は、いわゆる賃労働と資本の搾取関係を特質とするが、他の歴史的社会における搾取関係にたいする資本主義的搾取関係の独自的な歴史規定は、この搾取関係が貨幣関係という商品形態をもって展開されることであるが、現状のソ連圏社会における「労働」をこのようなものと考えられるかどうか。
 (2) 第一の問題の反面をなす「生産手段の資本家的所有」について。こんにちのソ連圏では生産手段は基本的に国家的所有に画一化されている。国有は社会主義的社会有を直接意味するものではないが、同様に国有財産にたいする官僚の現状的関係をもって資本家的所有と規定しうるものであろうか。
 (3) 資本家的商品経済の「社会化」について。もともと国家資本主義論者は資本主義的生産関係の究極の発展段階として「単一の資本家社会」を想定するが、まさに資本主義の帝国主義段階への推転はこうした「発展」が不可能なことを世界史的に示したのではなかろうか。
 (4) 経済原則と価値法則の関連について。資本家的商品経済は、労働力の商品化にもとづく価値法則を内的規則とし社会的再生産過程(生産手段と社会成員の社会的再分配)を実現していくが、現実のソ連圏社会は、たとえいかに変質していようとも社会的再生産の規制的要因は「計画」であり、ここにスターリン主義社会の特有の矛盾が生起する根拠があるのであるが、国家資本主義論はこうした特有の矛盾を資本主義一般の矛盾のうちに解消してしまうことになるのではないか。
 第五の問題は、では現実のソ連圏社会をどう評価すべきかという点であるが、われわれはそれを「社会主義への過渡期の一国社会主義論にもとづく歪曲形態」として把握するという実践的立場にたたねばならない。
 もともと社会主義とは、資本主義社会を母胎として意識的に組織されるものであり、経済学的にいうならば価値法則の意識的な廃棄過程といいうるが、具体的にはこの「価値法則の廃棄過程」をプロレタリアートの国家意志を先導とした経済政策の展開として実現していくものであることに注意せねばならない。しかも資本主義の帝国主義段階への世界史的推転は、農業問題を資本主義的には解決しえない課題として残すことになったが、こうした帝国主義特有の歴史規定は、社会主義への過渡期の最大の任務として小商品経済の組織化という政策的課題を必然化するとともに、資本主義社会の原理的解明の逆規定として想定される社会主義社会論における「過渡期」問題よりはるかに困難な具体的過程として過渡期の問題が提起されることになった。
 スターリン主義の成立の世界史的前提は、世界革命への過渡期が開始されたが帝国主義の主力はいぜんとして存続しているという世界史の過渡的性格にあるが、スターリン主義成立の根拠は「一国社会主義」論を思想的テコとしてこうした過渡的性格を固定化していくことにある。かくしてそれは、小商品経済の組織化をもって社会主義段階への移行のメルクマールとするスターリン主義的社会主義論を生みだすこととなり、スターリン主義社会に特有な農業危機を構造的に生みだすことになった。
 したがって、われわれに今日的に要請されている実践的・理論的課題は、スターリン主義社会の危機を「一国社会主義論」との関連においてたえず場所的・歴史的に批判していくとともに、その批判を実践的バネとして、ロシア革命以後の具体的経験、そのスターリン主義的変質過程そのもののなかから社会主義社会論にもとづく過渡期の経済政策論を究明していくことである。反スターリン主義の労働者権力のための闘争は、世界革命への過渡期の平和共存的転形をプロレタリア的に打破することをとおして帝国主義打倒という二〇世紀的課題を実現するものとしておこなわれるが、それは同時に、スターリン主義的計画経済の混乱をも原理的・政策的に突破しうるものであることを要求されるのである。
        ――(以下略)
       (『共産主義者』一六号 一九六六年十二月に掲載)