反帝・反スターリン主義とは何か
 
 本稿は、一九七二年七月の全学連第三一回定期全回大会の三日目に本多書記長がおこなった約三時間におよぶ記念講演の記録である。一千余名の全学連の若い同志たちにむかって現代世界の基本構造と革命の基本問題、とくに反帝・反スタ世界革命綱領と戦略的総路線の意義、革命党建設の今日的任務について判りやすく、かつ非常な熱意をこめて説きあかしたものである。編集部の責任で文章化したが、発表は本巻がはじめてである。
 
 
 
はじめに――五つの実践的課題
第一章 反帝・反スターリン主義基本戦略について
第二章 カクマルの反革命的本質
第三章 現代革命の基本構造
第四章 帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制の危機
第五章 反帝・反スターリン主義基本戦略と戦略的総路線――帝国主義国の革命闘争と民族解放・革命戦争
第六章 プロレタリア独裁権力を樹立し維持する革命党の建設
 
 
 はじめに――五つの実践的課題
 
 アメリカ帝国主義を中軸とする戦後の世界体制がベトナム戦争といわゆるドル危機を軸にして大きく動揺しつつあるこんにちの情勢のなかで、われわれのたたかいがおしすすめられているということが本日われわれが大会を開いていることの意味である。
 こうして具体的に考えてみますと、詳しく述べる余裕はありませんけれども、日本の国家権力が一九六九年四・二八ならびに七一年の大暴動闘争にたいして一度ならず二度までも破壊活動防止法の直接的弾圧を加えたのみならず、さらにわれわれ革命党にたいする全面的な弾圧の攻撃が加えられようとしている。そしてこのような権力の攻撃と呼応するごとく、K=K連合を組んだカクマル反革命が革命勢力にたいする敵意をむきだしにして攻撃をつよめてきている。そういう情勢のなかでわれわれが本日の大会をもっているということを、皆さんとともに確認しながらすすんでいきたいと思います。
 それが第一の問題であります。
 それから第二の問題としては、反帝国主義・反スターリン主義の基本戦略に立脚した革命、この革命を本格的に準備するという問題をはっきりと問題意識としてすえながら、われわれのこんにちのたたかいをすすめていかなければならないという問題が第二の問題であります。
 具体的にいうならば、こんにちの戦後世界体制の崩壊的な危機を反帝・反スターリン主義の革命に転化していく問題、さらに戦略的総路線を大きく前進させ物質化させていく問題、さらにまた、内乱・内戦――蜂起の準備のたたかいを一歩一歩力強くこんにちの階級闘争のなかでおしすすめていく問題。このような三つの問題をわれわれがひとつひとつ、なにひとつゆるがせにすることなくたたかいぬいていく、そういう時代のなかで、こんにちのわれわれのたたかいがあるということであります。
 そうして、第三の問題としては、こんにち、日本の政治委員会、日本の帝国主義の政府が新しく田中内閣というものを登場させました。こんにちのブルジョアジャーナリズムはさかんに、この内閣があたかも、佐藤内閣の従来の路線を根本的に転換して新しい路線を敷くかのごとき幻想をふりまこうとしている。
 しかしながらわれわれがこんにちはっきりとらえなければいけない点は、田中総理がテレビで言いたい放題のデタラメを言っている点のぎまんである。たとえば、土地問題についてどうですかと聞くと、いやあんなのは二、三年で解決して見せます。だいたいいま建物が一階、二階のちっちゃいのが多いから高層建築にする、だいたい五階以下の建物は許さない、というふうなことが言われておる。国際収支の危機はどうするのかときくと、鉄道をパンパン敷きましよう。東京の人はよく知らないかもしれないが、田舎の人は鉄道をどんどん敷くと鉄の需要がのびる、鉄の需要がのびれば輸入がふえるから、したがって国際収支の問題は解決できるってことを知っている、とまあこんなデタラメなことを言っている。
 さすがにテレビの司会者もそこまでやられるとついていけないらしくて、NHKの解説者もちょっと鼻白んでおりましたけれども、しかしわれわれはこれを、ただたんにデタラメを言っているといって笑うことはできない。むしろ日本の帝国主義が、ここ十数年来の危機の深まりのなかでその危機を根本的に解決することはできなくなったから、民衆にたいしてありとあらゆるデタラメなイデオロギーをふりまきながら、じつはその背後で日本帝国主義が従来から用意している基本的な路線をひとつひとつ強力におしすすめていく、そういう攻撃を現実に開始しているんだという姿としてわれわれはとらえなければいけない。
 そうであるとするならば、こんにちの田中内閣の問題は明らかにボナパルティズムへの過渡としての性格をもっている。具体的にいうならば、ひとつは徹底的な放漫財政であり、もう一つはアジア侵略の道を徹底的にすすめることであり、そうして教育・文教、治安政策の徹底的強化という日本の支配階級の従来の政策を、欺瞞的な条件を多々まざれこませながら究極的には奈落の底にむかって導いていく、そういうかれらの攻撃としてわれわれはとらえなければならない。
 そうだとすれば、このような田中内閣の攻撃にたいしては、われわれの従来の革命的路線、従来の戦略的総路線をいっそう露骨に、いっそう明確にうちだしてたたかうこと、これがわれわれの回答でなければならない。
 そうして、このような路線を正しくすすむことができないところに野党勢力のこんにちにおけるいっさいの退廃と停滞、あるいは宮下派(社青同解放派、フロント)にみられる中間的諸勢力の退廃、あるいは第二の既成政党の道をあゆんでいるこんにちの反革命カクマルの腐敗があるんだということを、われわれははっきりととらえなければならない。
 われわれはまさに、革命にむかってのたたかいを前進させていく、そのような見地からこのような政治委員会の編成の過程をみつめなければならないと思います。これが第三の問題であります。
 第四の問題は、沖縄奪還闘争の永続化、ベトナムにたいするアメリカ帝国主義と日本帝国主義の共同侵略、そして、そのような一環としておこなわれるところの沖縄――本土を貫く基地、あるいはまた石川一雄氏にたいする狭山差別裁判、入管攻撃の激化、こうしたものにたいしてわれわれが、ベトナム・沖縄・基地、狭山・入管、このような闘争の課題を明確にかかげて、今年の秋において日本の階級闘争の偉大な高まり、偉大な爆発を断固としてかちとらねばならないという時代のなかで、われわれはこんにちの大会をむかえているのだということを確認したいと思います。
 とりわけ沖縄――本土における基地闘争の大爆発が、日本のプロレタリアート人民にとって早急の課題となっているということについて確認したい。さらにまた狭山差別裁判にたいするわれわれのたたかい、一言にしていえば狭山闘争を戦略的総路線のなかにはっきりと位置づける、さらに全国的政治闘争として、結節環的闘争として、今年の秋にわれわれはたたかいぬいていかなければならない、ということを確認したいと思います。
 まさに蜂起にむかっての階梯としての総力戦、「第三、第四の十一月」を貫徹する、そのようなたたかいの観点をもって七二年秋のたたかいの偉大な爆発をきりひらかなければならない、これがわれわれの共同の決意でなければならない。
 第五の問題は、このようなたたかいをおしすすめていくためには、われわれはなんとしても反帝国主義・反スターリン主義の革命的な旗印とこの旗印に立脚したところの革命党の建設、そうしてこの革命党に指導されたところの政治勢力・革命的武装勢力の巨大な建設にわれわれは前進しなければならない、これが五番目の確認事項であります。
 
 第一章 反帝・反スターリン主義基本戦略について
 
 このような五つの実践的な課題にふまえて、私はきょう、反帝国主義・反スターリン主義の見地にたって現代の革命をおしすすめていくためには、どういう問題が重要なのかという点について、私の考えているところを諸君に二、三述べて参考に供したいと思います。
 最初の問題は、いわゆる反帝国主義・反スターリン主義の革命戦略、世界革命戦略といわれるものの基本的な性格がなんであるのか、という問題について最初に申しあげたいと思います。
 それから大きな項目をあらかじめ整理する意味で申しあげておきたいと思いますけれども、二番目に、プロレタリア革命の基本的構造、原理的構造がどういう姿をとるのかについて述べたいと思います。
 三番目に、現代における革命の基本的な構造についてどう考えるべきなのかについて述べたいと思います。
 反帝・反スターリン主義といわれるものをごくかんたんに申しあげれば、これは現代世界の根底的変革にかかわる綱領的な立脚点である。あるいは現代におけるプロレタリア革命の基本的戦略であると規定することができる。
 これは理論的な構成として考えてみた場合には、現代の世界構造、そしてそれを規定しているところの階級関係、この総体にたいする正しい総体的認識をもつこと、これが第一点。それから第二点は、マルクスの世界革命論とそれにもとづく国際共産主義運動の現代的な貫徹という問題、この二つの要素を正しく結合するところからこんにちにおける革命の基本的姿がはっきりしてくる、というところから綱領は設定されると思うのですが、そういう二つの要素の結合として反帝・反スターリン主義という基本戦略が与えられているということを確認しておきたいと思います。
 具体的に申しあげますと、反帝国主義・反スターリン主義というのは、つぎの三つの時代的な性格に規定されたものとして確認されなければならない。
 第一の問題は、世界革命の過渡期が開始され、それにもとづいて帝国主義と社会主義に世界が分裂している。このような世界の分裂が、帝国主義の基本的な延命と社会主義のスターリン主義的な変質、こういう二つの条件を世界史的な根拠として、帝国主義とスターリン主義の平和共存的な関係を変容的に実現している、そういう時代のなかにおいて与えられるべき革命的な綱領である、ということができると思います。
 二番目の問題としては、このような帝国主義とスターリン主義の平和共存的な関係に過渡期の世界が変容させられているにもかかわらず、その結果として単純に帝国主義の矛盾や現代世界の矛盾がおしかくされ、消えてしまったのでなくして、帝国主義の巨大な矛盾がつぎつぎと爆発して、そしてそれがスターリン主義を不可避的にまきこみ、スターリン主義の歴史的な破産と無力性をつぎつぎとあばきだして、そうしてこんにちの世界体制の崩壊を統一的に進行させている時代。このような時代の姿が、私たちが眼前に見出している時代でありますけれども、こういう時代に対応した革命戦略として、われわれは反帝・反スターリン主義の世界革命戦略を確定しなければならない。
 第三番目の問題としては、このような第一、第二の規定にふまえてプロレタリアート人民の巨大な闘争のたかまりが、帝国主義の世界支配、社会主義のスターリン主義的な歪曲、このような二つの現代の基本的な問題と激しく激突し、つまり、プロレタリアート人民の巨大な闘争が、帝国主義の世界支配、社会主義のスターリン主義的な歪曲と激しく衝突し、現代世界の矛盾のプロレタリア的な根本解決を求めて世界史的な前進を開始した時代、これが三つめの規定だと思いますけれども、このような時代に照応する戦略が反帝・反スターリン主義世界革命戦略である、というふうにいうことができると思います。
 整理して申しあげますと、いわば過渡期の平和共存的な変容の時代、そうしてそのような時代にもかかわらず帝国主義の矛盾がつぎつぎと爆発し、それにひき込まれるかたちでスターリン主義の破産と無力性がつぎつぎとあばきだされ、そうしてこのような時代的な条件のなかでプロレタリアート人民が反帝・反スターリン主義の方向にむかって、矛盾のプロレタリア的根本解決にむかってつぎつぎと前進を開始しつつある時代、そのような時代における革命戦略は、反帝国主義・反スターリン主義の革命戦略であるというふうに言うことができるかと思います。
 したがって結論的に申しあげれば、このようなわれわれの革命戦略は、マルクス主義の人間解放、プロレタリアート自己解放にかんする基本的な原理と現実の世界史的な事実、この二つの要素の統一としてわれわれに与えられており、同時にまた、世界の認識と階級的実践の統一を文字どおり保障する実践の綱領として与えられているということを、われわれははっきりととらえなければならないと思うのです。この点が先ほど申しました三つの課題のうちの一つであります。
 つぎに、いまの問題についてはこれから述べる二つの問題をとおして再確認していくというふうになりますので、先ほど述べた大きな課題としての二番目の問題に入りたいと思います。
 すなわち、プロレタリア革命論の原理的な構造はなにかという問題について考えていきたいと思います。
 そのうえでまず最初に確認しなければならない点は、共産主義の原理というふうにいわれるものはどういう構造のうえになりたっているのかということであります。われわれが共産主義というものを考える場合、まず最初にはっきりおさえなければならない点は、資本主義といっているこんにちの社会、マルクスの『資本論』の前提となっているいわゆる資本主義社会といわれるものの認識をはっきりとふまえることです。それが、共産主義というものをわれわれがとらえていく場合に、まず基礎的になされなければならない作業だということを確認しておかなければならない。
 資本主義というものをはっきりみつめないで共産主義とか社会主義というものをとやかくいうことは、明らかに共産主義という問題を空想的な社会主義におしかえそうとする、あるいは歪曲しようとするものであって、われわれの革命というものはあくまでも、資本主義というわれわれの打倒すべき対象となっている社会そのものの姿をはっきりと科学的にとらえていくということが、前提的な出発点としておさえられなければならない。
 こういうふうに考えてみますと、資本主義社会の基本的な特徴はなにか、資本主義の特殊歴史的な性格はなにかというふうにわれわれが考えた場合に、やはり労働力という人間の社会を成立させているもっとも基本的な力、基本的な能力が、つまり人間生活のもっとも根底をなす力が、いわば資本を生かしている、資本の利潤を生みだしている、自己増殖をつくりだしていく、そのような資本家階級の利潤増殖の目的の手段としてあらわれてきている、そういう関係、つまり一言で申しあげますと、労働力の商品化という事態を基本的な基礎にして、この基礎のうえに全社会的な経済的物質的諸過程が進行し、編成されている社会が資本主義社会の基本的な姿である、というふうにわれわれは考えることができると思います。
 そうして、こういう社会のもっとも特徴的な点は、労働という――労働というのは、人間生活の社会的な生産を実現していくうえでの、二つのもっとも根本的な契機のひとつをなしているわけですけれども、つまり労働における自己の生活の生産と生殖における他人の生活の生産、この二つの契機が人間生活の社会的生産を規定している二つの契機でありますけれども、この二つの契機のなかの労働という要素が完全に、資本家階級の利潤を生みだすための手段としやあらわれている。つまり、人間社会をもっとも根本的にささえているこの要素が、資本家階級の利潤を生みだすためにのみ生きることができるという姿をとって与えられている、ということが、資本主義社会のもっとも基本的な矛盾である。しかし同時にわれわれがおさえなければならない点は、資本主義社会の基本的な特殊性というのは、そのような労働力の商品化ということの基礎のうえにたって、ただたんにそれだけではなしに、このような矛盾の価値法則的な展開をとおしてそれが資本主義としての独自な一社会をなすというところの問題を、われわれとしてははっきりととらえなければならない。
 ですから『資本論』の問題を考えてみた場合に、労働力の商品化という矛盾の問題をおさえるだけではなしに、このような労働力の商品化ということの基礎のうえにたって、資本主義が資本主義なりのやり方をもって社会をなりたたせている、このなりたたせている根拠を科学的に解き明かすことによって、逆にこの社会を打ち倒して、そうして新しい共産主義社会をつくりだすことができる、そういう問題に発展することができるという弁証法的な関係にたっているのだということを、最初におさえておく必要がある。
 二番目の問題としては、このような資本主義社会の基本的な矛盾の基礎のうえにたって展開されているこんにちの階級闘争、現代の階級闘争こそ共産主義社会を実現していくわれわれのたたかいの政治的、階級的な前提条件をなしている問題であるということをはっきりとらえる必要がある。しかしながら同時にわれわれがおさえておかなければならない点は、このようなブルジョア社会における階級闘争の即自的な発展をとおして共産主義が与えられるものでは断じてないということである。そうではなしに、このようなプロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争を基礎にして、この関係を根本的に変革して文字どおりプロレタリアートがブルジョアジーのもっている手段、資本をとりあげて自分たちの社会をつくりあげていく、そのような革命的な飛躍をとおして共産主義が実現されるということをはっきりととらえなければならない。
 第三の問題は、そのように考えてみますと、共産主義というのはプロレタリアートによる資本の積極的な止揚の過程として与えられるということ、それから二番目の問題としては、さらにプロレタリアート自己解放のたたかいが同時に人間の全人間的な解放という構造をとり、同時にまた人間の全人間的な解放が実現されるとき、はじめてプロレタリアートの自己解放も実現されるという構造をもってあらわれてくるということ。そうしてさらにプロレタリアートのこのような革命の自己解放の事業は、世界的な普遍性においてのみ実現される、ということ。この三つの点をわれわれは共産主義の内実を問うものとして考えねばならない。
 つまり資本主義の正しい認識、マルクス主義的唯物論的な認識、そして階級闘争のマルクス主義的な認識、この二点のうえにたってさらに共産主義というものは以上のような三つの性格をもったものとしてわれわれはとらえなければならない。すなわちプロレタリアートによる資本の積極的な止揚、プロレタリアートの自己解放と人間の全人間的解放が相互に規制しあう関係にたっていること。さらにプロレタリアート解放の事業は全世界的な普遍性においてのみ保障されるということ。つまりこの地球上において一人の人間でも抑圧されているかぎりはわれわれは誰一人解放されることはないというのが、プロレタリア自己解放の立場である。
 第四の問題としては、革命のこのような事業はけっして平々坦々たる過程としておこなわれるものではないということである。言いかえると、このようなわれわれの革命の事業を妨害するいっさいの妨害物を革命的手段をもって除去すること、そうしてこのようなたたかいをとおしてわれわれは自分を解放する能力をかちとっていくこと、プロレタリアートの共同の利害をかちとっていくこと、共同の精神をかちとっていくこと、これが革命のもっている、共産主義のもっている四番目の性格である、というふうにわれわれは見ることができると思います。
 つまり共産主義というわれわれの共同の目的は、このような革命的手段によってしか実現することができない。またこのような手段をわれわれがとることによってはじめて、われわれは自分自身を解放する能力をかちとることができるのだということ、そういう関係に立っているということであろうかと思います。ついでに申しあげますと、昔、京都帝国大学の経済学部長をやっていた河上肇という人は『貧乏物語』という本を書いている。かれがまだマルクス主義者になる前に書いた本ですけれど、このなかでもった結論は、かれも現在の社会がいろいろ不平等であるということは明治の終りごろ気づいた。どうしたらいいんだろうかということについていろいろ考えてみたけれども、ある日ハタと気がついた。つまり財産を沢山もっている人がそれを減らして、財産をあまりもっていない人がこれをもらうというかたちで平均化していったらいいんではないか、と考えたわけです。
 財産を沢山もっている人はどういうふうにして自分の財産を減らすことができるだろうか、やはりこれは相当、そういう人たちに思想的な教育、社会的宗教的な教育を加えて財産を沢山もっているのは悪いことだというふうに反省させる、というふうにしたらどうだろうかと、いうことがまあ一言でいえば『貧乏物語』で最終的に到達した結論である。
 それからかれは、ある宗教団体に関係したりしてあっちこっちいろいろと説得活動を続けたわけでありますけれども、なかなかそういう説得に応ずる人がいない。かれ自身ははなはだ自己犠牲的な精神の達者な人で、道を歩いていて非常に寒い格好をしている人をみると自分の着ていたオーバーを脱いで着せてあげたりするという、ある意味で大変立派な人格をもっている人なんですけれども、しかし財産をもっている人達はなかなかそうしてくれない。かれはいろいろ悩みまして、その後『資本論』などを読んで、そうしてまあ、われわれからみるといろいろ批判はありますけれども、当時としては実践的なマルクス主義に到達したわけです。
 そこでかれとしては、そういう宗教的な方法、説得的な方法では社会的な不平等は解決できない。やはりプロレタリアート、資本のもとで資本を増殖するためにだけ生きることができる、そういうプロレタリアートが、まさに自分の疎外された労働の対象物である資本をとりかえし、実力でとりかえして、そのことの基礎のうえに新しい社会をつくりあげていくという過程を経ることなしには、やはり社会の構造はくずれないんじゃないかということを及ばずながら書いたのが『第二貧乏物語』である。
 われわれとしては、あくまでマルクスの「ドイツ・イデオロギー』、あるいは『共産党宣言』を基礎として、このような革命の過程がただたんにこんにちの社会の不平等を除去していくために必要であるというだけではなしに、同時にまたこのようなたたかいが、プロレタリアート人民の自分自身を解放していく能力をつくりだしていく過程としてとらえかえしていくということが必要だと思います。
 五番目の問題としては、こういうなかで共産主義者というものが、いったいどういう役割を果たさなければならないのかということです。
 先ほども申しあげましたように、プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争が資本主義社会の基本矛盾のあらわれであり、基本矛盾にもとづく根本的な資本主義社会の発展動力をなしているわけでありますけれども、しかし、われわれがこの階級闘争を即自的にそのまま発展させていくと共産主義に到達する、という考え方にたつことはできない。
 そうではなしに、ブルジョアジーとプロレタリアートのこの階級闘争を基礎にして、文字どおりプロレタリアートが自分の疎外された労働の対象物である資本を実力でとりかえすたたかいに決起しなければならない。そうしてそのたたかいは、ブルジョア権力を打倒し、資本を実力でもってとりかえす、そういう過程をとることなしに実現しないんだということを申しあげましたけれども、このような革命のもっている内実的な論理構成を、プロレタリアートの内部にあって終始一貫して思想的、組織的、実践的に貫きとおすものこそ共産主義者である、ということができると思います。
 そういう意味では共産主義者というのは、現在の社会の矛盾にたいする根本的な認識者であると同時に、その根本的な認識にもとづいてたえずそれを実践に結びつけていく、その解決に結びつけていく、そういう統一体として共産主義者がわれわれのまえに与えられている。
 われわれは、そのようなものとして共産主義者というものをつくりあげていかなければならない。ですから、世のなかには共産党に入っていれば共産主義者だと思っている人もありますし、大学の先生のなかなんかでも、このごろはあまりはっきり言いませんけれども、共産主義者だと思っている人もいなくはない。
 しかしわれわれにとって必要な点は、ただたんに自分は共産主義者であると考えているだけでは共産主義者になることはできない。そうではなしに、マルクス主義の基本的な立場にふまえて現在の社会の根本的な矛盾をはっきりとみすえて、その解決のためにたたかうこと、そのようなたたかいの組織の一員として、そのような組織の内部においてプロレタリアートの前衛的な共同のたたかいをつくりあげていく、そのような一員としてたたかうものだけが、共産主義者としての栄誉と苦しみをともに味わうことができるんだということをはっきりと確認したいと思う。
 それが、われわれが共産主義というものを基本的に考えていくうえでまず最初にはっきりとふまえなければならないことであります。
 つぎに、プロレタリア革命といわれるものは、本質的にどういう構造をもってあらわれるのかということについて申しあげたいと思います。
 第一に、プロレタリア革命といわれているものは、あくまでこんにちの社会の全体的な解放をめざしているたたかいであるということをはっきりおさえなければならない。
 つまりことばをかえていえば、こんにちの資本主義社会というものは、市民社会・ブルジョア社会とそのうえの上部構造として成立している政治的な国家、この二つの矛盾として資本主義社会はあらわれている。
 他の社会と違っている点は、他の社会の場合は政治的な関係と経済的な関係が二つのアマルガムな関係として存在しているわけです。たとえば、封建制社会を想定してみますと、ここでは将軍であるという身分は同時に階級であるという関係、つまり生まれながらの関係としてあらわれる。たとえば百姓であるという関係、そういう関係の場合に、それは身分であり階級であるというような一つの全体的な関係をとってあらわれるわけですけれども、資本主義社会においては資本家階級のプロレタリアートにたいする支配は、さしあたって直接的には資本・生産手段の資本家的所有を基礎にして労働力の商品化という過程をとおしておこなわれるわけです。
 そして、ここではみせかけとしては、一応平等の関係が成立しているという仮の姿をとるわけです。そうしてこういうものの物質的基礎過程のうえに、このような社会的な全体の関係を維持するものとして政治的国家というものは存在する、そういう二重的な関係をとって資本主義社会における支配はおこなわれている。ですからマルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』のなかで言っておりますけれども、資本主義社会においては、精神的・政治的な関係においては、あたかも諸個人が平等であるかのようにあらわれる。そうして物質的・現実的な関係においては資本家とプロレタリアートの不平等の関係としてあらわれるというかたちをとってあらわれてくるわけです。
 こういう社会においてわれわれがこの社会を根底的に変革していくという場合に、ただたんに政治的な上部構造の内部において、いくつかの変革の事業をすすめていけば、改革の事業をおしすすめていけば、自分を解放できるというふうに考えるとすれば、これはまったく間違った考えであるというふうにいうことができると思います。
 つまり議会の内部で一定の勢力を占めればプロレタリアートは解放することができるとか、あるいは、こんにちの資本家と労働者の関係を、根本的な関係を変革しないで、労働組合の内部などである程度の力を占めていけばプロレタリアートは有利になるとか、あるいはいろんな人民がさまざまな組合的な形態をとって団結すれば自己解放性が実現してくるとかというふうに考えることはまったく間違いであって、そうではなしに、このような資本主義社会の全体の過程を総体として変革するという立場にたたなければならない。
 そのようなたたかいとしてプロレタリア革命というものはおこなわれるのだということである。これが第一の問題でありますけれども、さらに具体的に申しあげますと二点目の問題としては、資本家のもっている生産手段、これを文字どおりプロレタリアートの手に暴力的、実力的に奪い取るということが、革命の具体的行動としてあらわれなければならない。まあこういうふうに言いますと、僕は十数年前に学習会にゆきまして聞かれたのですが、たとえば自分のもっている自動車とかテレビとかまでとられちゃうんじゃないかと心配している人がいるわけです。まあこういうことを言うとなんですが、沢山財産をもっている人より少ない人の方が自分のもっているものが大事ですから心配をするのももっともですが、しかしわれわれのめざす共産主義というのは、資本家の手に振られている生産手段、つまり資本家的私有財産をプロレタリアートの手にとりかえすということであって、テレビのような生活手段をとりかえすことではない。これはいうまでもないことであります。むしろこのような人民の生活手段をより豊かに発展させていくためには、われわれはまず第一に、このような資本家的私有財産を専制的に侵害するということがおこなわれなければならないということであります。
 第三の問題としては、ブルジョア権力を暴力的に打倒するということ、これなしにこのような事業を達成することはできないということ。たとえばある工場で労働者が非常に強くなってきて、どうもいろいろマルクスの本など読んでみたら、いままで資本家の財産だと言われてきたこの生産物も、自分がもらっている賃金も、よく考えてみたらもともとプロレタリアートが資本家のもとで疎外された労働でつくりだしたんだから、これは取りあげたほうがいいんだという結論に到達した。事実やってもかまいません。一応戦術問題を捨象していえば。しかしこのような問題をやればかならず機動隊があらわれてくるにきまっているわけです。近ごろですと、大学なんかにちょっと封鎖、というよりは入っていったくらいで機動隊がでてくるという学校があるわけです。
 こういうふうにプロレタリアートは一つひとつ自分の目の前にある資本と対峙しながら、この資本を没収するための、資本を専制的にとりあげるためのたたかいを開始すれば必然的にブルジョア権力との暴力的な衝突に到達せざるをえない。否、われわれはもっと問題を根本的な姿においてとらえるならば、そもそもわれわれが資本家階級の私有財産を没収するという任務を達成するためには、あらかじめブルジョア権力を暴力的に打倒しておかなければならない。そうしてその基礎のうえにたって、新しいプロレタリア独裁権力を樹立しなければならないというわれわれの認識、われわれの思想を、プロレタリアート共同の思想にまで高めていくことが必要である、ということになるわけです。
 第二の問題としては、このようなたたかいは、多かれ少なかれプロレタリアートが資本家階級を実力をもって打倒していく革命の過程にならざるをえない。ことばをかえていえば、どのような姿をとろうとも、本質的な姿においては暴力革命としての意義をはっきりもたなければならないということであるわけです。
 こんにち、スターリン主義的な諸君、あるいはこれとあらたな反革命として登場してきたところのカクマル反革命の諸君が、暴力革命というのは革命の本質的な姿ではないんだということを言いだした。たとえば、これはわれわれがすでに十数年前に革命的共産主義運動を開始したときに、イータリアのトリアッチ主義者やフランスのトレーズやフルシチョフや、その他世界のスターリン主義者たちによってまき散らされているところの革命の平和革命への歪曲というこの姿にたいして、われわれは激しい怒りを感じて、革命の根本的な姿は暴力革命であるということをはっきり確認して出発したゆえんがそこにあったわけです。それにもかかわらず、こんにちふたたびスターリン主義者とカクマルの手によって、あるいは社会民主主義者の諸勢力によって、革命が暴力革命に発展するかどうかは資本家階級の出方によるんだとか、一定のプロレタリアートの闘争が発展してきて、「身のほども知らない権力」――僕は権力のことを「身のほども知らない」などと言うことのできる勇気ある諸君にはなはだ畏敬の念を感じますけれども――そのような「身のほども知らない権力」が一定の情勢になると、いっきに凶暴化し、むきだしの暴力をふるってくるので、ハッとしたときには突如として暴力革命の姿をとるんだというふうなことを言っている。
 あるいは、そうかと思うと、こんにち帝国主義の軍事力はものすごく強大化しているから、これと軍事的にたたかったんでは勝ちめがない。だからプロレタリアートを組織化することがこんにちの任務だというふうなことを言っている。これはさっき言ったこととだいぶ矛盾しているわけですけれども、そういうふうなことを言って暴力革命としての基本的な姿を否定する、そういう諸君がでてきている。
 しかしながら、いままで述べてきたことからはっきり確認されるように、革命というのは多かれ少なかれ暴力革命としての本質をもたざるをえないということ、このことをわれわれはマルクス革命論の原理としてはっきりつかみとらなければならない。このことはかならずしもどの程度血が流れるとか、どの程度民衆が武器をもっていたかということと直接には関係ない。そうではなしに、プロレタリアートが文字どおり武装し、暴力をつかって帝国主義を打倒していく、権力を打倒していく、スターリン主義を打倒していく、そのような巨大な決意とその決意を保証するだけの力が現実にあったときにだけ、そしてそのときの権力との具体的力関係の差のなかで、革命がどの程度流血の姿をとるかとらないかということが決せられるわけです。
 ですからいずれにしろ、われわれにとっては人民を文字どおり武装し、そのような武装の基礎のうえにたって、ブルジョアジーの暴力的な軍事的な抵抗を文字どおり粉砕するようなプロレタリアートの組織化をかちとったときにはじめて、われわれは勝利することができるのだという論理関係になっている。
 ですから、そのような具体的な帝国主義と人民との力関係、権力と人民との関係というものを捨象して、ただたんに抽象的にプロレタリアートの組織化ということを述べるとすれば、それは、現実には労働者階級の組合主義や経済主義にプロレタリアート人民の運動を屈服させ、そのシッポにむすびつけさせていく、そういう反革命の役割を果たさざるをえないであろう。これが四番目の問題であります。
 五番目の問題としては、このようなプロレタリア革命の過程はきわめて目的意識的な過程として発展せざるをえないということであります。従来のブルジョア革命といわれるものは、けっして当初からこのような目的意識的な過程としてたたかいぬかれるという性格をもっていないということに、われわれは留意する必要がある。そうではなしにブルジョア革命といわれるものは、中世あるいは半封建的な社会の内部において、経済的な関係をとおして徐々に進行しつつあるブルジョア的生産関係の発展、ブルジョア的市民関係の発展を基礎としてこのブルジョア的市民関係の発展に資するものとして、ブルジョア革命というものは展開された。しかもそのようにして確立されたブルジョア革命の権力の形に似せるものとして、ブルジョア政党というものを建設している姿をとるわけです。
 これにたいしてプロレタリア革命というのは、文字どおり打倒しなければならない対象としての資本主義社会をはっきりとみすえて、この打倒を一貫した目的意識的な過程として貫徹するものとしておこなわれる、このようなブルジョア革命とプロレタリア革命の本質的な相異をわれわれははっきりと見すえなければならない。
 そうして、このようなプロレタリア革命のもっている目的意識的な性格というものは、革命的な前衛党の建設、革命的前衛党の指導のもとにおけるプロレタリア階級闘争の発展というかたちをもってその基礎は与えられている、という構造をなしているということであります。ですからプロレタリア革命党の指導なしには、われわれはどのようなことがあってもプロレタリア革命に勝利し、その過程を最後まで勝利的に完遂してゆくことは不可能なのだ、ということをはっきりおさえておく必要があるのではないかと思います。
 以上がだいたい、かいつまんで申しあげましたところのプロレタリア革命といわれるものの五つの構造であるわけです。
 
 第二章 カクマルの反革命的本質
 
 最後に、このようにわれわれが。プロレタリア革命というものをとらえた場合に、こんにち反革命としての道を歩んでいるカクマルの諸君が、どのような間違った考え方をこのような思想に対置しているのかということを指摘しておきたいと思います。
 第一に申しあげたい点は、こんにちのカクマルの諸君のいう資本主義社会論はきわめて小ブル的性格をもったものでしかないということをはっきりおさえておく必要があるのではないか。つまりかれらは、こんにちの資本主義社会のもっている全体的な性格、すなわち労働力の商品化を基礎にして展開されているこんにちの社会が、一社会をなすことの全体的な理解のうえにたってこの社会の全体的な転覆をめざすのではなくて、ただたんに資本家が生産手段を取得しているということの関係だけを直接的に批判するというかたちをとって共産主義社会論を構築しようとする理論的傾向をこんにちはっきりともちはじめてきている。
 そしてさらにかれらの理論的展開のなかでは、いま詳しく述べるわけにはいきませんが、たとえば、黒田寛一の『社会観の探求』という本がありますが、この本のどこをみても、社会における必要労働と剰余労働の関係というものがどこにも展開されていないわけです。
 つまりこのことは経済学的な次元で問題にすると、資本主義社会における剰余価値といわれるものがいったいどこを基礎にして現実に生産されてくるのか、ということについて理論的に明らかにするという努力が払われていない。そういうことの結果として黒田は、価値法則といわれるものの理解がまったくできないというかたちをとってあらわれる。たとえば『現代における平和と革命』においては、スターリン主義者とまったく同じように剰余価値法則などという概念が平気でつかわれている。
 あるいは最大限利潤の法則などということも言われている。このように考えてきますと、かれらの資本主義社会にたいする経済学的認識といわれるものは、きわめて小ブル的な性格をもったものとして、つまり資本主義社会の全体的な、科学的な認識に立脚したものとして与えられていない、という性格をもったものである、とわれわれは見ることができると思うのです。
 それから二番目の問題としては、かれらは共産主義者の指導を基礎にして展開されるプロレタリア階級闘争と、プロレタリア独裁をめざすプロレタリアートの階級闘争とを文字どおり二分化するという主張としてこんにちあらわれてきている。それだけではなしに、現在ではなにか、理解にはなはだ苦しむわけですけれども、階級闘争と反政府闘争と反権力闘争と、それから革命闘争というふうに、なんか階級闘争が四つの段階にあらわれてきて、そしてこのような段階を一つひとつ順番にふんであがっていくと、つまり革命に到達することができるんだというふうな主張をさかんに述べだしている。そして中核派=革共同の連中は、このような革命が四段階の過程をとおして徐々に発展していくんだということを知らないで、いつも革命、革命というふうなことを言っているからいけないんだ、というふうなことをさかんに主張しているわけです。
 しかんそのようなかれらの主張というものはまったく笑うべきものであって、共産主義者というものはその闘争の最初の段階からその闘争の最後の段階の日まで、つまり階級社会が完全に消滅す るその日までプロレタリアート自己解放の究極目標の旗を高々とかかげ、その過程にむかって、その過程をその究極目標を実現するためにはどのような道すじが必要なのかということを終始一貫主張しつづけ、宣伝しつづけ、そのためにたたかいぬくのが共産主義者であり、共産主義者の党であるわけであります。ところが、このようなわれわれのたたかいの全体の姿をみないでこのような分け方をしている。それだけではなしに、こんにちの階級闘争のなかで、人民の一つひとつのたたかいが、帝国主義のこんにちの体制の根底的な否定を問題にしなければ一歩も前進できないような、そういう時代の姿が一つひとつ明らかになりつつある、そういう時代のなかで、依然としてプロレタリアートの権力奪取をめざすたたかいと、それからいわゆる階級闘争とを分離するということを一所懸命主張している。
 ところで皆さんに、レーニンが二〇世紀の初頭において「なにをなすべきか』という組織論の基本的な観点を体系的にうちだした、つまり経済主義者にたいする批判というかたちをとおして体系的にうちだしたあの当時の問題を、そこに主張されている問題を思いおこしていただきたいと思いますけれども、あそこでレーニンはどのような主張とたたかったのか。たとえばこういう意見があります。「たしかに共産主義社会をめざし最大限の革命の目標にむかって宣伝していくのは正しいけれども、しかしながらそのようなたたかいをプロレタリアートの現実的な闘争とできるだけ結びつけて、このようなたたかいの基礎のうえに一つひとつ進んでいくというかたちをとるのが正しいんじゃないか」ということを二〇世紀の初頭に述べております。こういう文章をそのまま引用しますと、カクマルの諸君は「そうなんだ、中核派の諸君はそこがよくわかっていないんだ」というふうにいうかも知れない。ところがレーニンが批判の対象としたマルチーノフの経済主義といわれるものは、じつはこのような思想であったわけです。
 だからわれわれにとって必要なことは、このようなプロレタリア独裁をめざす闘争をそのようなプロレタリアートの経済闘争のしっぽに結びつけて、このような経済闘争の発展のなかでそれを政治化していくというようなやりかた、このような経済主義のやりかたをきっぱりとわれわれはたちきって文字どおりプロレタリア独裁にむかっての革命的な闘争を準備していく、そういうものとしてわれわれのたたかいを設定しなければならないということは、『なにをなすべきか』のなかでもっとも核心的に提起されている問題だということを考えなければならない。
 この点においてカクマルのこんにちの主張は、プロレタリア革命論の基本的な原理からいっても明らかな反革命の道をあゆんでいるということができるのであります。
 さらに・先ほども申しあげましたように、暴力革命論を否定するということ、一定の情勢においてのみ自動的に革命の武装化が進行するというような思想がこんにちカクマルによって主張されている。これが三番目の問題である。
 四番目の問題として、このような結論として、カクマルのこんにちの革命論といわれるものが明白に経済主義、組合主義、民同の反革命的補完物としての姿をはっきりあらわしてきている。じつさい、昨年から今年にかけてカクマルとわれわれとの内乱的死闘の過程のなかで、われわれがつぎつぎと放つ批判にたいして反批判することができなくなって、まあぜんぜん文句を言う方法がわからなくなった状態です。たとえば僕にたいする批判では、「革命とか戦争とか、革命戦争とか内乱とかいうのを一生懸命言っている。四〇歳になんなんとする男がこういうことを言う」と。僕はずいぶん長いこと共産主義運動を実践してきましたけれども、年で主張が変らなければいけないという批判に遭遇したことははじめてです。
 共産主義運動をはじめたばかりのころ、よく共産主義者でない人から、君達は若いのになまいきなことを言うなといわれたことはある。しかし、年で、四〇近くなるともうそろそろ暴力革命とかなんとかは言ってはいけないというふうなことを言う。そうすると僕の推定ですと、黒田寛一は今四四くらいですから、すでに四〇をすぎているわけですから、もっともっと右寄りにいかなければいけないとかれは思っているんじゃないかと思うんです。
 かつてイタリアのファシズムを代表していたムッソリーニという人がいて、これは戦前の有名な言葉ですけれども「二〇代で共産主義者にならない者は愚か者である。三〇代になっても共産主義者でいる奴はまた愚か者である」という有名な言葉がありますけれども、このムッソリーニの言葉を文字どおり実践して、二〇代の初めでは共産主義者ではありませんが一応社会主義者として頑張って二〇代の終りからだんだんおかしくなって、三〇年代、四〇年代にファシストになって文字どおり革命を鎮圧するために、暴力的に打倒するために、そうして侵略戦争と人民を抑圧するために奮闘した男ですけれども、どうやらカクマルもムッソリーニの道をあゆみ始めていることの証明が、こんにちのこの批判の方法のなかにつらぬかれていることをひそかに確認することができるんではないか。
 カクマルのこんにちいたっている考え方というのは、資本主義社会というものをはっきりみつめて、それを根本的に変革するにはどういうことが必要なのか、あるいはプロレタリア独裁のためにたたかうにはどういうことがこんにち必要なのか、あるいは暴力革命というマルクス主義の基本的な理念をこんにちの階級闘争のなかにつらぬいていくためにはどういう苦しいたたかいが必要なのかという問題、あるいはこんにちの労働組合運動の経済主義、組合主義、これを否定していくためにはどういう苦しいたたかいが必要なのかというこの問題を、真正面から対置し直視するという努力をわすれて、ただたんに、むしろわれわれとの対決のなかで反革命の道を一つひとつあゆみながら、かれらが従来においては一応口先で、革命的というふうに言っていたことを、あるいは口先でマルクス主義の革命的任務を実践するんだというふうに言っていたにもかかわらず、しだいしだいにこのようなマルクス主義の原理から離れていくという関係になっているということを、われわれはみつめなければならない。
 まさにカクマルのやっていることは、その反革命的実践を一つひとつ反革命理論として体系化するという事業をこんにちおしすすめているものとして、われわれはみつめておけばいいんではないか。
 そしてかれらのこのようなやり方をわれわれは、許すことはできない。われわれがこんにちの革命の事業をおしすすめていくためには、そういう間違った考えをなくしていかなければならないわけでありますから、まさにかれらをも根本的に解放させてやるために、このような思想、このような運動を根本的に打倒しなければならない、ということになるのではないか。
 つぎに現代革命の基本的な構造といわれるものはどういう姿をとるのかということについて申しあげたいと思います。
 
 第三章 現代革命の基本構造
 
 現代革命の基本的な姿、基本的な構造といわれるものをわれわれがとらえるとすれば、その最初にやらなければならない仕事は、現代の世界、そうしてその現代の世界における諸階級の関係、いわゆる階級関係といわれるものの世界史的な性格がどういうものなのかということについて、はっきりわれわれはみておかなければならない。
 やはりわれわれが十数年前に革命的共産主義運動をスターリン主義の限界を突破してそのようなたたかいを開始しようとしたときに、さまざまな日和見主義的な見解、さまざまな誤まった考え方が当時の社会のなかではやっていたわけです。たとえば一九五六年のソ連共産党二〇回大会においてはフルシチョフが、革命の平和的移行の道というものを主張しましたし、さらにイタリア共産党のトリアッチが構造的改良であるとか、平和革命であるとか、社会主義革命の改良的な道であるとか、いろいろなことを言いだし、さらにイギリスの社会民主主義者であるストレイチという人が、こんにちにおいては帝国主義というものは完全に変質してしまっていて、そうしてむしろだんだん帝国主義的な姿をなくしていっている、だからこういう状態をどんどんすすめていけば、しだいにもっといい社会になるのではないかと訴えたりしている。
 あるいは日本では、構造改革派の人達、この人達はわりとものごとを正直に言う点でよかったのですけれど、たとえばいまでは横浜国立大学の長洲一二、この人なんかによると議会でだんだん勢力を占めていって、世界でも国連においてだんだん帝国主義でない議席が席を占め、ほぼそれぞれの国における議会の力の配置と似たような関係が国際政治のなかでもあらわれるから、世界政治における平和革命の道もまた可能になってくるのではないか、と書いていた。
 そういうようなことがいろいろでていたわけです。またブルジョアジーの側では、すでにもう資本主義というものは変っていてマルクスの時代に主張されていたようなこととはかなり違う性格のものになってしまった。だから、いまさらマルクス主義とかなんとか言ってもはじまらないのではないか。それから先にも言ったように、たしかにレーニンの時代には革命的な方法をもって帝国主義を打倒していくこと、世界革命の過程が正しかったんだけれども、その後五〇年の過程のなかで資本主義も変ったし、世界も変ったんだから、これからは革命の違ったやり方がでてくるのではないかというふうなことを主張する諸君、そういう人たちがいろいろいたわけです。
 こういう諸君にたいし、われわれは当時、資本主義社会はたしかにさまざまな具体的な姿において変貌した姿をとっているけれども、しかしそれはあくまでも資本主義社会の段階的な変化としてとらえなければならない、そうしてまたレーニンによって開始された革命の事業は、すでに五〇年経って古くなってしまったのではなしに、この革命の事業が中途で止められ、最後まで貫徹されないというところにこんにちの時代のもっている特徴がある、むしろわれわれは、レーニンによって開始された事業をはっきりとうけとめて、その真実の勝利の日までたたかいぬいていくという観点にたたなければいけない、そしてこのような考えにたつとすれば、このような世界革命の事業を一国社会主義理論と平和共存政策の方向におしまげているこんにちの世界的なスターリン主義者の動向を、文字どおりうち破り前進していくことがわれわれのたたかいでなければならない。
 かような意味において、現代における革命は、文字どおりレーニンによって開始された事業を反帝国主義・反スターリン主義の方向にむかって前進させていくということが基本的なかまえでなければならないんだ、ということを確認して革命的共産主義運動というものを開始した。
 そういう状態のなかで、われわれはその観点から十数年間たたかってまいりましたけれども、そのなかで、こんにちの世界というものがどういう姿をとっているのかということを、たたかいのひとつひとつの前進、そのたたかいの前進にふまえた理論的深化というものをとおしながら確認してきた。こういうなかでわれわれがはっきりととらえなければならない点は、こんにちの現代世界が基本的に、第一の問題としてはつぎのような諸要素の基礎のうえに成りたっているということについてはっきりふまえておくことが必要ではないか。
 第一に、帝国主義の基本的な世界支配というものがまだうち破られていない、世界の生産力の主要な部分が依然として帝国主義者の手によって握られている、したがってこれを突破していくというたたかいが必要であるということ。ことばを変えていえば、こんにちの世界においても依然として帝国主義的な矛盾がもっとも主要な矛盾の爆発形態をなしているということ、このことをはっきりとらえておくことだろう。
 第二に、しかしながら帝国主義者の世界支配が永久不変のものとして与えられているのではなしに、このような帝国主義者の支配を打倒していくプロレタリアートの世界革命のたたかいがすでに一九一七年のロシア革命により開始されており、このようなたたかいの事業、つまり帝国主義から社会主義にむかっての世界史的な移行の時代を文字どおりすすめていかなければならない、そういう時代としてわれわれに与えられているということ。
 第三に、このような帝国主義から社会主義への移行の時代が始まったにもかかわらず、このような革命の過程が国際共産主義運動の内部におけるスターリン主義者の勝利を基礎にして、一国社会主義理論と平和共存政策の方向に変容され、その結果として世界革命をおしすすめていく事業がいちじるしく困難になり、そうしてまた世界革命にむかっての過渡期の第一歩をふみだしたソ連や東ヨーロッパや中国の社会主義にむかっての過渡期の建設の事業がいちじるしくスターリン主義的にゆがめられたものになっていること。
 そして、このような世界革命のスターリン主義的変容をまさに、うち破るようなたたかいが開始されていること。
 第四の特徴は、さらに帝国主義者が基本的な世界において大きな危機をかかえながらもなおかつ延命することに成功し、そうしてそのことの基礎のうえにたってアメリカ帝国主義を中心とする戦後の帝国主義世界体制というものをつくりあげ、それを基軸にして曲りなりにも帝国主義の世界支配というものを維持してきたということ。そうしてこのような帝国主義者の再編を文字どおり反帝・反スターリン主義の方向にむかって打倒していくということがわれわれのたたかいである。
 第五に、このような帝国主義の段階的な規定性、あるいは過渡期の時代の開始、あるいはそのスターリン主義的な変容、そうして帝国主義の延命とその再編という四つの規定において帝国主義者の支配、あるいはそれに屈服してきたスターリン主義者の支配がおこなわれてきたにもかかわらず、このような両者による世界支配がこんにち崩壊的危機にむかって巨大な変動を開始しつつあるということ。
 こういうふうに考えてきますと、こんにちの世界というものをわれわれは段階・過渡・変容・再編・危機という五つの指標においてとらえていくということが必要なのではないか、こういう基本的な特徴においてこんにちの世界をとらえたときにはじめて、こんにちの現代世界というもののもっている世界史的な性格というものをわれわれは正しくよみとることができ、そうしてこれの崩壊の方向を正しくつかみとることができ、そうしてこれを世界的な革命の勝利の方向にむかって、このような危機をプロレタリア革命の爆発にむかって発展させていくことができる。
 こういう段階のなかでさらにいくつか、いま述べたことを敷衍するようなかたちで二、三述べてみたいと思います。
 一番目の問題は、いわゆる帝国主義の矛盾という問題、あるいは現代帝国主義の性格という問題であります。
 カクマルが先ほど言ったストレイチ(イギリスの改良主義的右翼社会民主主義者)の思想に近づきつつあるわけですけれども、こんにちスターリン主義の登場によって帝国主義の本質が基本的に変質したということを主張しはじめているわけです。そうしてかつてのように帝国主義はそれ自身の矛盾を自己爆発させていくのではなしに、スターリン主義の存在に規定されて、その矛盾の爆発がさまざまに変容するというかたちをとっているのだと主張している。こういうふうに言うとなにか新しいことを言っているんではないかと感ずるかも知れない。しかしながら、多少経済学について勉強なさっている諸君はお気づきだと思うけれども、このスターリン主義という言葉をたとえば全般的危機という言葉、あるいは社会主義陣営の前進という言葉とおきかえてみると、どういうことを言っているのかということが非常にはっきりとしてくる。
 たとえば東京大学の教授をやっている大内力という人がいますけれども、かれによると、こんにちの帝国主義がさまざまな変容を強いられているのは、ロシア革命によって開始された革命の段階がすすむことによって帝国主義の矛盾の爆発がさまざまなかたちをとって変容されているためだ、それがこんにちの帝国主義の問題だと主張している。
 これは一言でいえば、かれの国家独占資本主義論の内実であるわけです。ついでに言っておきますと、それをただ国際通貨体制の確立とそれにもとづく全般的危機の帝国主義への内実化というかたちで、かれはもう少し理論的な装いをつけているわけです。
 この宇野経済学の右派あるいは構造改革派の思想とまったく同じ立場に陥っているのが、こんにちのカクマル帝国主義論だということです。
 しかしながらわれわれがはっきりみなければならない点は、先ほど述べたように、さまざまの歴史的性格をもったものとして帝国主義のこんにちの世界支配というものが存在しているわけですけれども、しかしながらこのような過程にもかかわらず依然として帝国主義の基本的な矛盾が爆発するという方向をたどらざるをえないというのが、こんにちわれわれの眼前に進行しつつある事態だということをはっきりわれわれはみつめなければならない。
 たとえば、こんにちの帝国主義の問題というものは基本的にいうと、二九年恐慌とその二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化、そうしてそのブロック化にもとづく各国資本主義の史上類例のない危機の時代、そしてこの危機を基礎として展開された三〇年代の革命と反革命を反革命的にのりきることによって、しかも反革命的にのりきったにもかかわらずそれが戦争として爆発せざるをえないわけですけれども、しかしこの戦争と戦後処理の過程をとおしていわゆるドル・ポンド通貨体制といわれるものを戦後帝国主義者というものはつくりあげた。しかしながらこのようにしてつくりあげた帝国主義の体制が、一見、二九年恐慌に象徴される資本主義の時代的な危機を根本的にのりきったようにみえるにもかかわらず実際にはのりきったものではなかったのだということ、そのことをはっきりわれわれにつきつけたものが、こんにちのドル危機といわれるものの本質的な姿である。
 比喩的に申しますと、二九年恐慌によって世界経済がバラバラにくずれてしまった。いわば壷がヒビ割れしたような状態になって、あるいは割れた状態になって、これがあの二九年恐慌によって生じた世界経済のブロック化とその矛盾のあり方だと想定したとすると、戦後の帝国主義の生きのび方というのは、アメリカ帝国主義の圧倒的な経済力、圧倒的な政治力、圧倒的な軍事力というものを基礎にして、このような世界経済のブロック化を、たとえば針金かなんかで締めあげ、固めたというような状態が戦後の体制だ、というふうに考えたらいいのではないかと思う。
 だから非常にそそっかしい人はこれでともかく壷は再建したというふうに考えるかも知れない。こういう考え方にたいしてわれわれは、戦後の体制といわれるものが、二九年恐慌によってもたらされた矛盾を基本的に解決したんではなしに、逆にアメリカ帝国主義の圧倒的な経済力を基礎にして、そのうえに一時的に成立したところのきわめて例外的な経済関係の成立にすぎない。だから、一九世紀や二〇世紀の初頭にみられたような、ひとつの資本主義の強力な世界的な体制の確立といわれるものとははなはだ遠い帝国主義の危機のありかたなのだ、ということをわれわれは主張してきたわけです。これをもっとも積極的なかたちで主張したのが、一九六六年の革共同第三回大会における決定(第二報告――本多延嘉編『勝利にむかっての試練』所収)であった。このようなわれわれの主張にたいして、たとえばカクマルは「全然見当はずれだ、こんにちの帝国主義はそんなあやふやなものではなしに、危機であるかのごとくみえるけれども断じてそのようなものではないんだ」ということを主張していたわけです。
 それからこれは良心的な人ですけれども、ある大学で経済学の先生をやっている人がわざわざ手紙をよこして、諸君達の見解はおおよそ正しいと思うけれども、しかしもうあと十年位早すぎるんではないのかというふうなことを書いてきたわけですけれども、われわれは株を買ったり予想をやったりするわけではないので、危機の破綻が何年何月にくるかということに主要な関心があるわけではないわけです。そうではなしに戦後の体制が基本的に矛盾的な構造に満ちみちているということ、だから早晩崩壊せざるをえないという認識をもって、そしてこのような認識にもとづいて革命を本格的に準備するたたかいに前進していくということ、これがわれわれにとって必要だということです。
 こういう見地をわれわれが第三回大会の方向として確認した。こんにちの過程のなかでだんだん、われわれの見通しが世界のいろいろな進行過程のなかで正しさを証明されつつあるというのがじっさいの状態ではないかと思う。カクマルの諸君は、このごろかれらの新聞を読むと、一応世界体制の危機ぐらいは書いている。まあ、その、かれらの言う危機というのは、そのくらいに言わないと誤魔化しがきかないので言うけれども、しかしその内実というものは全然わからないというところに特徴があるわけですけれども、あの頑迷固陋で反革命的で、そして帝国主義者とスターリン主義者が千年も仲よく支配していくというふうに思っていた黒田=カクマルですら認めざるをえないような危機の状態に、こんにちの世界の帝国主義が進みつつあるというふうに考えていけばいいんではないか。まあ反面教師ということがありますけれど、そういうもんでしょう。ですから、そういう点で帝国主義の危機というものをはっきりととらえて、そうしてこのような矛盾の爆発の必然性というものをわれわれがしっかりとみすえること。
 しかも重要な点は、このような帝国主義の矛盾の爆発がこんにちにおける戦後世界体制の矛盾の爆発のもっとも基本的な導火線をなしているということをわれわれはみつめておく必要がある。
 
 第四章 帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制の危機
 
 つぎの問題は、いわゆるスターリン主義の問題ですけれども、われわれはやはりスターリン主義というものをあくまで歴史的な関係のなかにとらえなければならないと主張してきた。ある種の人達によるとスターリン主義というのは、確固たる世界史的な地位をしめてしまっていて、帝国主義者の体制がこっち側にあって、スターリン主義者の体制があっち側にあって、これが一応矛盾しながらいろいろ話し合ってきめて、そうすると各地でいろいろ闘争がおこってくるけれども、あるいは矛盾が爆発してくるけれども、この両方がいろいろ手をくんでやっていくと、なんだかんだといっても、ちょっとぐらい爆発しても全部おさえられる。
 そうしてこういう帝国主義とスターリン主義の両体制の支配のもとに世界の矛盾がつぎつぎと収斂されていって、そうして結局帝国主義とスターリン主義は歴史的に長期間支配をつづける。ただわれわれに必要なことは、このような帝国主義とスターリン主義の支配を認めずに、それにたいして永久的に批判のたたかいをすすめていくんだというふうに考えている人もいる。
 しかしながらわれわれは、スターリン主義というものを超歴史的で超時代的なものとしてとらえるというやり方にはっきり反対しなければならない。そうではなしに、スターリン主義というものをつぎのような姿においてとらえることが必要である。
 まず最初の問題は、一九一七年のロシア革命によって開始された世界革命の過渡期、その過渡期が開始されたにもかかわらず、帝国主義の基本的な部分において革命が進行しない。その結果としてその過渡期の時代が一国的に孤立させられるという世界史的な条件、一時的に孤立させられるというこの歴史的条件のうえに、いわばこの歴史的条件を一国社会主義の理論と平和共存の政策の方向に固定化するという努力としてスターリン主義というものが登場してきたという歴史的な関係、つまりスターリン主義の発生の歴史的な根拠とその理論的な根拠、それのもっている国家的な特色というものをはっきりととらえる必要がある。
 そしてこのような世界革命のスターリン主義的変質が、三〇年代における帝国主義の未曽有の危機、あるいは第二次大戦後の帝国主義の未曽有の危機を革命に転化するたたかいをいちじるしく困難にしてきたということもひとつの歴史的事実であります。
 われわれはこのようなスターリン主義の反革命的な役割にたいして、徹底的にこれを弾劾し、かれらを打倒し、いっさいの階級闘争の主導権をかれらからうばいとるために断固としてたたかいぬかなければならない、ということはわれわれの出発点であるし、最後の段階まで確認しつつ進まなければならない問題であるわけです。
 しかし同時に、こんにちの段階においてわれわれが確認しなければならない点は、このような帝国主義の矛盾の革命的な転化の道をスターリン主義が妨害し、いちじるしく困難にしてきたという歴史と同時に、こんにちの過程のなかでは、このような過程にもかかわらず帝国主義の矛盾がそれ自体として大きく発展し、このなかでスターリン主義がまきこまれ、そうしてこのようななかでスターリン主義は、国内における過渡期の経済建設という問題においてもいちじるしく危機を強めながら、同時にこのような帝国主義の矛盾の爆発にたいして、これに対応していく過程のなかでその歴史的破産と無力化をはっきりさせていくというかたちをとっているということを、われわれは見すえる必要があるのではないか。
 つまり、別の言い方をすれば、スターリン主義者にとっては帝国主義の矛盾が爆発し、これにまきこまれてしまうということが、かれらにとってはもっとも大きな危機であるわけです。だから、かれらにとってはこんにちの戦後世界体制といわれるものがくずれて、そのくずれのなかでプロレタリア階級闘争がその矛盾の根底的な解決をめざして大きく高揚していくというような情勢が生まれることが、同時にスターリン主義者にとっては自己の死滅を意味するというような、そういう関係としてあらわれてきているということ、そのことの意味をわれわれははっきりと見なければいけないと思う。
 だから、そういう意味ではわれわれは、スターリン主義というものをただたんに歴史的に固定された関係として見るのではなしに、こういう二〇世紀における革命と反革命の世界史的な展開、世界史的な対峙の姿においてはっきりととらえ、この打倒のためにたたかいぬいていくということが必要である。つまり、世界革命の歪曲形態としてスターリン主義をとらえ、その歪曲形態をつづけていくことがいちじるしく困難になっているこんにちの時代という相のなかでスターリン主義をとらえていく、ということが必要なんだということが二番目の問題です。
 第三番目の問題としては、詳しく述べる必要もないと思いますけれども、そういうなかで戦後世界体制の崩壊的危機といわれるものがもはや後戻りのきかないかたちで開始されているということについて、われわれははっきり確認しておく必要があるんじゃないか。
 なにか、たとえば去年の秋ですけれども、スミソニアン体制なんていうのがちょっとできると、『朝日ジャーナル』なんて雑誌まで含めてなにかこんにちの世界体制の危機をとりかえのきくような、なにか別の道があるんじゃないかというように考えている諸君がいっぱいいるわけです。新しい世界通貨の時代、新通貨体制の時代だとかなんとかいろんなことをいうわけです。だけど新しいものをいくらつけ加えたって新しいものは出てこない。現実の基礎のうえにそれを文字どおり止揚する方向を作りだすものだけが新しい方向をもつことができるわけです。
 そういうふうに考えますと、こんにちの帝国主義戦後世界体制といわれるものは、いわばドル危機の問題にしてもベトナム戦争の問題にしても、それ自身としての帝国主義的な解決の道というものをもっていないんだということをわれわれはもっとはっきりととらえる必要がある。そして、このような帝国主義戦後世界体制がそれ自身としての解決の道をもっていないという状態のなかでは、この帝国主義を発展基軸とするところの戦後世界体制の崩壊的な危機ももはやおしとどめることのできない歴史の必然的な過程として進行している、こういう認識をわれわれははっきりもつ必要がある。
 そうしてそのことは別の面から申しあげますと、このような危機の発展は、文字どおりこのような危機を帝国主義を打倒しスターリン主義を打倒する世界革命に転化するのか、あるいはこのような革命の新しい道にたいして反革命がこの道を踏みにじって、プロレタリアート人民の膨大な人びとの血の海のうえに帝国主義の支配を延命するというかたちをとるのか、という二つに一つの選択をわれわれに迫るものとしてこのような問題がつきつけられているわけでありますから、したがって、われわれはただたんにこんにちの戦後世界体制の危機、崩壊的危機を見て客観主義的にほくそ笑んでいる、ほれ言ったとおりになったじゃないかというふうに言って、われわれは喜んでいるわけにはいかないんです。
 むしろこのような危機をわれわれが見つめれば見つめるほど、そのような方向を根本的に止揚するための、このような危機をプロレタリア的に解決するためのたたかいの道はなんなのか、そしてこのようなたたかいの道をおしすすめるためにはどういう準備が必要なのかということを真剣に考えなければならない。こういう時代に来て、そしてわれわれがこのような準備をおこたるならば、われわれは明白にこのようなかれらの攻撃にたいして一敗地にまみれて、そして人民の巨大な殺りくと血の海のうえに帝国主義の延命と現代世界の延命がおこなわれるというこの苦しみを経験しなければならない、という問題としてわれわれはとらえなければならないということです。
 そして、最後に確認したい点は、ともかく、戦後世界体制のこういう崩壊的な危機がおしとどめようもなく進行していくというこんにちの時代的な推転のなかで、好むと好まざるとにかかわらず、階級闘争の偉大な高まりの時代が全社会的に訪れようとしているという事実についてわれわれは直視しなければならない。問題はこういう大きな相をわれわれがとらえておかないと、いろんな問題がおこってくるわけですね。たとえば、僕が何人かのインテリゲンチャと最近会って意外に思った点は、かれらがかなり大きなニヒリズムに陥っていることです。
 今年の二、三月におこったある事件(赤軍派の浅間山荘事件)などをみてみると大変憂うつになるんだそうです。七一年までは頑張ったけれども、どうも七二年からは反動の時代になるんではないかと心配している。僕なんかが、時代の展望について楽天的な確信をもってニコニコしているので、どうもそこんところがよくわからないということを言っている。あるいはカクマルなどは、そこから病気が深まっているというふうに見るのでしょう。
 しかし僕はやはり、この問題の勝負をつけるのは歴史の現実の進行だと思うんです。われわれは実践のなかでこたえていきたいと思います。
 ともかくそういう巨大なたたかいの高まりの時代にすすんでいる。もちろんこの高まりの時代のすすみ方は、そのなかでますます反革命が強化されるというかたちをとってあらわれる。
 つまり革命の前進は密集した反革命をつくりだし、これをうち破る過程として進展するわけですから、われわれはけっしてその、愉快でのんきな日々を過しているうちにだんだん高揚してくるというふうに考えるわけにはいかないわけです。そうではなしに、階級闘争の偉大な高まりの時代にむかって時代が大きく前進していくからこそ、国家権力も反革命勢力もこれをおしとどめんとしてさまざまな反動的攻撃を加えてくるわけですから、非常に困難なたたかいの道が開始されるということでもあります。
 しかしこのようなたたかいの前途は明らかに、そのような高揚の時代としてきりひらかれようとしている。このような時代相をわれわれがはっきりとみすえながらすすむことだと思うんです。しかしながら、そのような偉大な闘争の高まりの時代がくればくるほど、われわれはそのような高まりをほんとうに革命に転化するための、革命党の建設の問題について真剣に取りくまないとしょうがないということであります。
 つまり全世界的にいえば、このようなたたかいの強大な高まりが、反帝国主義・反スターリン主義の方向にむかってさまざまな模索の道を歩みながらも、まだ明白にこの革命的な立脚点を全世界の革命的人民がとらえきれず、またこの革命的な立脚点にふまえた革命党の建設の道に十分にふまえることができないところにこんにちの国際階級闘争の危機がある、したがってそのような危機をうち破っていくということのなかに、こんにちの前進のもっとも基本的な問題があるということをおさえておく必要がある。
 
 第五章 反帝・反スターリン主義基本戦略と戦略的総路線
         ――帝国主義国の革命闘争と民族解放・革命戦争
 
 つぎにこのような現代世界の基本的な性格の認識にふまえて、現代革命の基本的な問題といわれるものがなんなのかということについてかんたんに申しあげたいと思います。
 第一番目の問題は、やはりこのような時代のなかで反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略、これを基本革命戦略という側面においてもはっきりと深め堅持していかなければならないということ。そして同時にその革命戦略を、こんにちの世界危機の崩壊のなかで文字どおり革命の勝利の路線として具体的に勝利の方向を明らかにするものとして、その戦略的総路線を明らかにするという事業にすすまなければならない。つまり具体的にいえば、反帝国主義・反スターリン主義という革命の戦略を、革命のもっとも基本的な考え方を述べた、確認した基本戦略の要素と、そしてその基本戦略に立脚して文字どおり革命の勝利の道を明らかにする戦略的総路線の問題と、この二つの方向にむかって、これを結びつけながら発展させていくという見地を今後のたたかいのなかで貫きとおしていかなければならない。そうしてこんにち、われわれは、戦後世界体制の崩壊的危機を「反帝国主義・反スターリン主義世界革命に転化せよ」というスローガン、そうして「アジアを反帝国主義・反スターリン主義世界革命の根拠地にせよ」というスローガン、そうして「日本帝国主義のアジア侵略を内乱へ」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」というスローガン、この三つのスローガンをこのような基本戦略の革命的総路線にむかっての具体的な発展としてとらえかえすことが必要である。
 第二番目の問題としては、さらに当面する基本課題としてわれわれにどのような問題が与えられているのかということとして、第一に戦争と革命の問題、第二に民族解放闘争、すなわち民族解放・革命戦争の問題、第三にいわゆる先進国、つまり帝国主義国における革命の問題、第四に過渡的社会の問題、こうした四つの問題についてできるだけかんたんに問題の所在を明らかにしておきたいと思います。
 第一の戦争と革命の問題でありますが、やはりわれわれがはっきりとこんにちの段階のなかでとらえておかなければならないことは、帝国主義の時代が戦争と革命の時代であるというレーニンの命題が、こんにちの世界情勢のなかですでに古くさくなって過去のものとなってしまったという日和見主義者、あるいはスターリン主義者の見解がありますけれども、このような見解がまったく間違っているということをはっきりととらえておかなければならない。
 具体的に言うならば、帝国主義の世界的な矛盾が、一九一四年の第一次世界大戦以来たえず戦争として永続的に矛盾が爆発しているという時代的な姿が、こんにちにおいてもすすんでいるということをはっきりとみなければならない。
 すなわち帝国主義の経済的矛盾が第一次世界大戦、第二次世界大戦として、世界戦争として爆発し、そうして第二次世界大戦の戦後処理として先ほど来述べてきた戦後世界体制、あるいは帝国主義の戦後世界体制が構築されたわけでありますし、そうして一見そうした過程のなかで、四分の一世紀にわたって戦争の問題があたかも帝国主義の問題から後景にしりぞいたかのごとき帝国主義者のイデオロギーがわれわれの周辺にふりまかれている。
 まあその「戦争を知らない子供たち」という歌がありますけれども、そういうふうに帝国主義者の側から、あたかも戦争の問題がわれわれにとって過去の問題となったんだというようにずうっと教えられてきた。しかしわれわれがいわゆる戦後民主主義体制のもとにおける日本、あるいは安保体制のもとにおける日本というものを一国的孤立的状態のなかで見るということをすてて、そういう考え方にたてば別ですけれども、われわれが全世界的な関係においてとらえるならば、第二次世界大戦後の過程はそれによって、その戦後処理の過程によって生じたさまざまな処置にもかかわらず、その矛盾が永続の戦争としてこんにちまでずっと続いている。このもっとも頂点にたっているものがベトナム戦争であるということをはっきりととらえなければならない。つまり帝国主義の矛盾がこのような戦争の矛盾として各地に爆発し、そしてこのような戦争がただたんに帝国主義の戦争として展開されているだけではなしに、このような帝国主義の戦争にたいして、これを人民の革命、プロレタリアート自己解放の革命にむかっての革命戦争として転化していく、このような時代の展開のなかに戦後の戦争と革命の基本問題が進展しているということをしっかりととらえかえしておくことが必要である。
 事実の問題として戦後日本帝国主義、日米安保同盟のもとにおける、そのようなもとで発展してきた日本帝国主義も、またこのような帝国主義の世界支配、戦後の帝国主義の世界的なあり方というものを前提にしてはじめて存続しえたのだということをわれわれははっきりととらえなければいけないわけでありますし、さらにまた、日本の帝国主義があらたなアジア侵略の道にむかってすすみ、そのなかにおいてふたたび侵略の政治とこの侵略の政治の必然的な発展としての侵略の戦争の問題に直画しようとしているこんにちの状態にあって、われわれはこの戦争と革命の問題がこんにちにおける革命のもっとも基本的な問題のひとつである、ということをはっきりととらえるということ、このことをいささかもおろそかにすることはできないのではないか。むしろ、この戦争と革命の問題を決定的に直視することのなかにわれわれの勝利の問題があるんだということをみなければならない。
 それから二番目の問題として民族解放闘争の問題、あるいは民族解放・革命戦争の問題でありますけれども、やはりわれわれはこの問題についていくつかの問題を考えておく必要があるんじゃないか。とくに、たとえばベトナム戦争を頂点としてこんにちすすんでいる民族解放闘争の問題、これにたいしてカクマルによれば、二つの面からそれにたいする敵対する思想、敵対する意見というものが提起されております。ひとつは、ベトナムの人民が、日本帝国主義、フランス帝国主義、アメリカ帝国主義というこの三つの帝国主義にたいして、歴史的につぎつぎと戦い、このような帝国主義と戦って民族解放の事業をおしすすめてきたというこのことにたいしてかれらは、このような民族解放のたたかいはプロレタリア革命の基本的な見地をおしまげる誤った考え方であると言おうとしている。つまりこのようなベトナム人民の民族解放闘争、民族解放のたたかいをかれらは否定し、敵対しようとする、そういう立場に立っているということがひとつの、かれらの否定の方法だろうと思う。
 それからもうひとつの問題は、このようなたたかいのなかでベトナムの人民は、革命戦争という二〇世紀における後進国・半植民地人民、後進国・半植民地における農民の新しい革命闘争の形態を生みだしてきたわけですが、このことにたいする歴史的な否定と敵視の意見というものをかれらが述べようとしている。しかしながらこのような二つの主張といわれるものは、明白にマルクス主義、レーニン主義の世界革命の理論、世界革命の思想にたいする敵対であり、背教であり、裏切りである、ということをわれわれははっきりとおさえなければならない。すなわち、われわれはこんにちのベトナム戦争というものをとらえるときに、まず帝国主義の世界支配、その世界支配を維持するための後進国・半植民地人民の帝国主義的支配体制の維持、このような帝国主義の世界的な利益というものがまず最初にあって、そうしてこのような帝国主義者の世界支配、帝国主義者の後進国・半植民地支配体制にたいするベトナム人民の民族解放のたたかいにたいして、これをおしっぶそうとするものとして、アメリカの侵略戦争というものがおこなわれている、そういうこの世界史的な関係においてわれわれはとらえなければいけないだろう。
 それをカクマルの諸君は、なにかベトナムという国が、世界から切りはなされて、あの国だけで存在しているかのように観念的に設定して、そしてこのなかで、とにかく抽象的にブルジョアジーとプロレタリアートの革命というものがまずあったというふうに考えて、そしてそのことにたいして人民の闘争が前進したんで、ブルジョアジーがガタガタになった、そこで帝国主義が応援にいった、というふうな構図としてベトナム戦争、あるいはベトナムにおけるたたかいというものをかれらはとらえている。しかし、このような理解の仕方は、じつはマクナマラによって設定されたところの、いわゆる局地戦争の理論、限定戦争の理論、エスカレーションの理論によって構想されるところの帝国主義の理論であり、帝国主義のものの考え方である。
 帝国主義者というのは、あらかじめ自分が全世界を支配していて、当然このような、世界にたいする帝国主義の支配が人民のたたかいをいたるところでよびおこし、そうしてこのようなたたかいは当然、武装闘争としても発展してくるという姿をとるわけですけれども、これにたいしてかれらは、問題をひっくりかえして、なんでもない平和な状態というのをまず最初に想定するわけです。そこで共産主義者がなにかこう、どこからともなくやってきて、いろいろ要求をつきつける、そうするとだんだん紛争が激発してくる、そうしてこれが武装闘争に発展してくる、そうするといままで平和だったところに戦争がおこる、「これはよくない、早くやめなければいけない」――このような全世界の平和主義者の声をバックにしてかれらがパッとのりこんできて、この戦争をおさえようとする。こういうふうにかれらは、自分達の侵略戦争を説明しようとしているわけです。で、カクマルの諸君は、このような帝国主義者のベトナム侵略戦争の考え方をそっくり真にうけて、このことの基礎のうえに革命論を構築しようと夢想しているわけで、これほど愚かしいことはない。
 そうではなしにわれわれは、帝国主義者の世界支配を設定し、これがベトナムの人民にたいして強制している民族的な抑圧、それをはっきりとわれわれはとらえて、これをプロレタリア世界革命の観点から、このような帝国主義者の民族的な抑圧にたいして、これをうち破るための人民のたたかいを世界革命の方向にむかって集約し、結合していく、そういうたたかいとしてわれわれはこれを見なければいけないわけです。ところが、このようなたたかいにたいしてかれらは、これをプロレタリア革命の内実を歪めるものだなどというかたちをとって、観念的なベトナム革命というものを設定しょうとしているわけです。こういうベトナム革命の考え方は、じつはベトナム人民がなしとげようとしている歴史的な事業に敵対し、これをうち破ろうとする帝国主義者の攻撃の一翼をなしているんだということを、われわれははっきりと確認しなければならないだろうと思います。
 それからつぎの問題は・革命戦争の問題でありますけれども、この、いわゆる民族解放・革命戦争といわれるひとつの後進国・半植民地革命のあり方は、いわば三〇年代の危機のなかで三〇年以後の国際階級闘争のなかで生じてきた新しい階級闘争のタイプです。そのかわり非常に特徴的なことは、これが毛沢東、ホーチミンというひとつの脈絡のなかでこういうたたかいの形態が生まれてきた、別のことばでいいますと、世界革命論のスターリン主義的な歪曲、あるいは世界革命のスターリン主義的な歪曲をバックにしてこういうたたかいが浸透してくるわけですから、したがってこ の民族解放・革命戦争のなかには、さまざまなスターリン主義的歪曲形態がまといついたものとして、われわれのまえに与えられているわけです。そのことから世界的には二つの誤った反応が生じてくるわけです。ひとつは、このような傾向にたいしてスターリン主義を否定するところから、直接的にこのような民族解放・革命戦争というあり方を否定する傾向、これがひとつ。それから、もうひとつは、このような民族解放・革命戦争の問題と、これのもっている歴史的な諸条件、具体的な姿、その普遍本質的な形態と、その現実的な歪曲形態との関係をキチンと、のちにいうように分離してとらえないで、それをただそのままゴチャゴチャッと見て、つまり毛沢東思想なるものと直接的に結びつけてしまう考え方がもうひとつでてくるわけです。
 しかもこれが、植民地、あるいは後進国・半植民地における人民の戦争のあり方だというこの歴史的な条件というものを無視して、ただたんに、それを人民戦争という名のもとに、直接的にいっさいの革命のなかにもちこむという偏向として、そこからあらわれてくるということがあるわけです。こういうのにたいしてわれわれは、やはり、この民族解放・革命戦争といわれるものにたいする正しい認識の方向というのをもたなければいけないと思うんです。
 そこでひとつだけ、関連したことを申しあげますけれども、従来、われわれが革命論を主として大きく展開していく場合、たとえば、ロシア革命とその歪曲というふうな問題を考えてみた場合に、一応、さまざまな歴史的諸条件にまといつかれているとはいえ、レーニンの世界革命論、マルクスの革命論とそれに立脚したレーニンのその発展にふまえて、ロシア革命がおこなわれた、しかもさまざまな後進的要素をもっているとはいえ、明白に世界帝国主義の一翼をなしている帝国主義国において、プロレタリア革命としてロシア革命がうちぬかれた、という事実があって、そうしてこれをスターリン主義的に歪曲していくというかたちでこんにちのスターリン主義の問題が生じてくる、こういうなかでは、われわれは比較的こういう問題を捉えるのはやさしいわけです。
 もちろんやさしいって言ったって実際上十数年もやっているわけだから大変なんだけれど、しかし、一応普遍本質的な形態にちかいものがまず最初に与えられていて、これの歪曲形態というかたちでこんにちのスターリン主義の形態というものが与えられているわけですから、一応この普遍本質形態とその歪曲形態というかたちで、歴史的な過程論としてこの過程をとらえることが比較的容易である。
 ところが、われわれは、世界革命が開始されて、そしてその過渡期の時代が始まり、しかもなおそれが、スターリン主義的に変容しているという世界史的な時代性を前提にして、民族解放・革命戦争というものが登場してきたという特殊な世界史的関係のなかで、民族解放・革命戦争の問題に直面している。しかも、一方の問題として、先ほど来申しあげているように、そういう世界革命の過渡期とその歪曲にもかかわらず、むしろ全世界的に言えば、人民の運動がますます高まるのは、そして後進国・半植民地人民のたたかいが本格的にもりあがるのは、三〇年代以後である。
 これは、世界史的にいえば、もう明白なわけで、とくに重要な点は、一〇年代、二〇年代には主として、民族ブルジョアジーの指導性のもとに民族解放闘争が展開されていたわけです。ところが三〇年代にはいるとロシア革命の衝撃というものが巨大でありますから、この影響のもとに民族ブルジョアジーの指導とならんで、あるいはこれをのりこえるかたちで、さまざまなプロレタリア的ヘゲモニーの努力の方向、世界革命と合流せんとする農民の登場といわれるものが大きくまきおこってくる.そういう状態のなかで、民族解放闘争というものが各地において高揚してくる、という状態になるわけです。つまり、三〇年代、四〇年代において先ほど言った時代的な規定性のなかで民族解放闘争が発展してくる。
 ところが、先ほど言ったように、国際共産主義運動の指導的な部分は、ほとんど完全にスターリン主義者によって占められている。そして、これにたいして、このような国際共産主義連動のスターリン主義的な歪曲にたいして対抗し、これをのりこえるはずであったところの第四インターナショナルもまた、スターリン主義者と同じような考え方を根本的にのりこえることができなくて、むしろプロスターリン主義的に歪曲しながら、それ自身としてなにももたらすことなしに敗北し、崩壊していくという過程のなかにある、こういう国際共産主義運動の主導的ヘゲモニーの時代のなかで、このような民族解放闘争の巨大な波が高まってくるわけです。ですから、われわれは、このようなたたかいのなかで生じてきた民族解放・革命戦争といわれるものの発展、これをわれわれは、スターリン主義の影響下のなかに生じ、またこの問題に大きくまといつかれているけれども、しかし、そのことを現実的な基礎にして、そのことのうえに、民族解放・革命戦争の普遍的な本質形態にあたるものを、このなかからはっきりと理論的に分析し、抽出し、そうして、この観点にたってわれわれは、民族解放・革命戦争の真に革命的な発展の方向をはっきりとつかみとっていく、という理論的な過程をきりひらいていかなければいけない。
 そうして、同時に、このような観点にたって、民族解放・革命戦争のスターリン主義的な歪曲のさまざまなあり方といわれるものを、同時にのりこえてゆく、われわれの方向というものをつかみとっていく、そういう、理論的にも、実践的にもきわめて困難ではありますけれども、そのようなわれわれの認識のうえにたって、この民族解放・革命戦争の問題をとらえていくということが必要なんじゃないか。こういうふうにわれわれが考えてみた場合に、あくまでこれは世界革命の開始の時代のなかにあって、しかも、このような民族の解放、あるいは農民の解放が、共産主義の原理、プロレタリア世界革命の原理のなかでしか解決されないのだという認識をわれわれははっきりともって、このような民族解放・革命戦争の発展をはっきりととらえ、これとの正しい結合のあり方というものを追求していかなければいけない。
 そうしてまた、われわれは、このような後進国・半植民地人民のこの民族解放の要求、土地革命の要求というものをはっきりととらえて、これをいわば、さらにこのたたかいのなかで農民が、革命戦争あるいは農民戦争というかたちをとって直接的に動員され、組織され、そうして革命の事業にとりこまれてくるというこの新しいたたかいの形式のもっている意味を、われわれは世界革命の新しい事業の発展のなかで十分に評価し、このようなたたかいの発展をむしろ、われわれは世界革命事業の推進のなかで強力におしすすめていく、という観点からこれをとらえ返していくということが必要なんじゃないかというふうに考えるわけです。
 で、そういう観点から見たはあいに、先ほど述べたカクマルの民族解放闘争にたいする否定、民族解放の事業と、革命戦争という闘争の形態、民衆の動員と闘争の形態にたいする否定を、こんにちにおける殖民地解放闘争にたいする反革命の理論の本質的なあり方のひとつとして、カウツキーやプレバーノブの今日的な継承者の道として、われわれはこれを徹底的に弾劾し、このような理論の粉砕のためにたたかわなければならない、これが二番目の問題であります。
 さらに三番目の問題として、帝国主義本国における革命、かれらの言うところのいわゆる先進国革命の問題について、ちょっと述べたいと思います。で、先ほど述べましたように、スターリン主義者は、いわば、いわゆる帝国主義国、資本主義国においては平和革命、それから、後進国・半植民地の地域においては人民戦争論というふうにふりわけるようなやり方、あるいは、その平和革命論にたって、後進国人民のたたかいすら平和革命論的なものにおしまげるようなやり方、そういうかたちをとってこんにちのスターリン主義者の意見というものは、さまざまなかたちで分裂をとげている。しかしながらわれわれは、平和革命論というかたちをとったり、あるいは人民戦争論というかたちをとってさまざまなバリエーションを生みだしているけれども、にもかかわらず、基本的にこれらの両者が、プロレタリアートの世界革命論の立場を正しくふまえていないところから生じてくるところの理論的な誤りとしてはっきりと捉えなければいけない。
 で、このようなかれらの理論にたいして、われわれはまさに、反帝国主義・反スターリン主義の立場にたったプロレタリア世界革命論の全世界的な構築をめざすものとしてとらえ、そのようなたたかいの一翼として帝国主義本国における革命闘争というものをわれわれはとらえなければいけない。さらにまたわれわれは、このようなたたかいのなかで、帝国主義本国における武装闘争の発展と、その勝利の道という、前人未踏の領域にむかって、文字どおりその勝利と解決のためにたたかわなければならないという問題に直面しているんだということについて考えなければならない。
 で、そうした場合われわれが、このようなわれわれのたたかいをおしすすめていくために、まず基本的にふまえなければならない点は、第一には、暴力革命論、マルクス・レーニンの暴力革命論を、まさにこの帝国主義本国のプロレタリア革命の名において、文字どおり革命の理論として復権し、これを現実の革命闘争のなかでつらぬきとおすという観点をもたなければならないということ、このことが、われわれの立場でなければならない。
 それから二番目の問題としては、われわれは帝国主義本国における革命の勝利のために、そしてまた、ロシア革命の勝利の伝統を新しくわれわれがこんにちの条件のもとで受けつぎ発展させていくためには、革命の本格的な準備ということはなんなのか、という問題についてはっきりと直視しなければならない。
 その場合、先ほど来述べたように、まず第一の問題として、帝国主義本国における革命が、基本的に内乱・内戦――蜂起の準備という基本問題をとおして具体的に与えられるということについて、われわれははっきりと捉えておかねばならないということであります。つまり、帝国主義本国の革命が、このような帝国主義の世界政策の破綻、あるいは帝国主義の国内政策の破綻を、文字どおり内乱に転化し、内戦に転化し、そしてこのようなたたかいの勝利のための全人民の武装蜂起の準備の過程として現実に展開されていくという過程をとるんだということについて、二番目におさえておかなければならない点じゃないか。
 この点についてもう一言述べますと、たとえば、カクマルの諸君は、いままで、今年の六月まで一言もそういうことを言ったことはないわけですけれど、突如として、革命の本格的な準備が必要なんだということを言いだした。ところがかれらがなんのために言いだしたのかというと、内乱や内戦や蜂起の準備の過程が必要なのではなくして、革命の準備が必要なのだということを言いだした。つまりかれらは、内乱・内戦――蜂起の準備という先進国革命の、帝国主義本国における革命の基本的な問題を阻止するために、革命の準備を語りだした。ことばをかえて言えば、革命の本格的な準備が、いまや開始されつつあるからこそ、かれらは革命の本格的な準備を否定するために、その具体的な内実に反対するためにこのような主張を掲げたわけです。
 レーニンはかつて、問題の具体的な発展を阻止し、問題の具体的な発展を妨害するために、一般的な命題をもちだすことが、日和見主義者の共通の誤りであるといっております。つまり、このような日和見主義者の共通の誤りをまさに今日的におこなおうとして、かれらの革命的空文句がはじまったんだということをわれわれは見なければならない。さらに三番目の問題としては、われわれは、帝国主義本国における革命が、政治的な動員と軍事的武装の統一、政治と軍事の高度な統一として与えられるという特徴をはっきりとらえなければならない。
 われわれは、先ほど、後進国における、半植民地における、民族解放・革命戦争における、農民の統一、農民の組織化、農民の革命の事業への参加が、直接的に革命戦争への組織化というかたちをとって与えられるということを指摘しました。そうして、そのことを機械的にわれわれの運動のなかにもちこんできて、そして直接的に蜂起であるとか、革命戦争であるとか、まあいろいろと適当なことばを羅列してわあわあやっている諸君がいる。いわばこれは、こんにちの日本のプロレタリア運動の主軸が、スターリン主義的にあるいは社会民主主義的に歪曲してしまったことにたいする、一種の誤りの反措定としてこういう偏向が現われてきているわけですけれども、こういう諸君が現実にやっていることはなにかといえば、僕は、はっきり申しあげて一種の人民戦争のマンガだと思うんです。だから、こういう諸君が結局最後には、外国に行ってしまったり、スターリン主義に屈服してしまったり、革命というものの場を作る、革命という事業の場をつくりだすということを忘れて、なにか革命のありそうな所にむかって出かけていくという思想になってしまう。
 われわれは、革命をつくりだし、革命をなしとげるためにたたかっているのであって、革命をさがし、革命を求めて歩いているわけじゃないんだということを見なければいけない。ただたんに、鉄砲を撃てそうな所をみつけて、でかけていって撃てば、武装闘争をやりぬいたなんて言えるんなら、これはかんたんだと思うんです。ちょっと勇気があればできる。だけどこういう勇気は、じつは日和見主義の代名詞なんです。われわれに必要なことは革命をつくりだすことであり、革命をやりとげることである。こういう事業を本当にやりとげていくためには、われわれは文字どおり人民を、革命の偉大な目的にむかって動員し、組織する、このたたかいを徹底的におしすすめなければならないということだろうと思うんです。
 この事業を、このたたかいを、ないがしろにしたところで、なにか革命の事業がありうるというふうに考える諸君は、まったく革命というものを安直に考えていると言わざるをえない。そういう意味では、人民が本当に血を流して、どんなことをやってでもこの自分達の目的を達成するんだという、そういう革命の雄大な事業、雄大な目的をもって起ちあがる、そういう状態をひとつひとつつくりあげていく、そういうこととしてわれわれの政治的な動員、具体的に言えば、日本の革命で言えば、「侵略を内乱へ」というこの革命の戦略的総路線にむかって、文字どおり圧倒的に人民を動員しぬいていく、そういうたたかいとして、まずわれわれはたたかいぬかねばならない。したがってそういう意味では、後進国人民のたたかいが、当初から革命戦争というかたちをとってあらわれるのではなくして、まず、あくまでこの政治的な動員を基礎として、武装闘争が発展していくという姿を基本的にたどっていくのだということを、われわれはかた時も忘れてはならない。
 しかし、同時にわれわれは、そのようなわれわれのたたかいが、明白に全人民の武装、革命的武装闘争の展開という目標を人民のまえに公然とかかげ、これにむかってわれわれはたたかいぬいていくのだという、この見通しのなかに、このような政治的動員が同時にかちとられなければならない、つらぬかれなければならないということ、したがって、そういう意味においては、われわれの政治的な動員、政治的な組織化、革命にむかっての人民の決起は、同時にこのようなたたかいを、ひとつひとつ革命的内乱へ軍事的に発展させるものとしてたたかいぬかれねばならないということを意味しております。そういう点ではやはり、この政治的な動員と軍事的な武装、全人民の武装というこの基本的な命題を文字どおり実現するものとして、われわれはたたかいぬかなければならない。そのような意味において、先進国における武装解放闘争の具体的なあり方は、おそらく三つの コースをたどって蜂起の準備へと集約されていくという姿をとるであろう。
 すなわち、第一の問題としては、大衆の政治闘争、それのいわば革命的・内乱的・武装的発展、いわゆる武装自衛の発展としてたたかいぬかれていくという姿をとるだろう。これが第一のコース。第二に、恒常的な武装勢力の独自の建設、これがあらかじめ情勢に先だって着々と準備されていく、革命党を中心とする政治勢力を基礎として、その基礎のうえに独自の恒常的武装勢力が、着々とその内部において組織され、そうしてそれを大衆闘争の武装的発展、革命的・内乱的・武装的・大衆的発展をおしすすめる力として結びつけてゆくという、そういうものとして同時にあらわれてくるという姿と、さらに第三番目のコースとしては、こんにち帝国主義者の手によって直接組織されている軍事力、具体的にいうならば、自衛隊の政治的な包囲・解体、兵士の獲得の事業、この三つのコースを具体的にたどりながら、われわれの武装闘争の現実化のコースがしだいに準備され、これが全体として新しい革命的な人民軍の形成へと革命的情勢の高揚と発展のなかでしだいに結びつけられていくという姿をとっていく、ということではないかと思うんです。これが、われわれが武装闘争というものを考えていく場合にどうしてもふまえておかなければならない問題、先進国革命を展開していくうえでふまえていかなければならない問題である、というふうに思います。
 さらに三番目の問題としては、特殊に重視しなければならない点は、帝国主義者の人民にたいする支配のあり方、帝国主義者の人民にたいする攻撃のあり方が、排外主義・差別主義、あるいは天皇制に象徴されるような権威主義、さまざまに人民を分断し、そして人民を無力化し、そしてその無力な人民を、あたかも帝国主義者によって作りだされた権威のもとに、排外主義的に、差別主義的に集約していく、こういう帝国主義者のさまざまな攻撃にたいして、われわれが、非常に苦しいけれども長期間にわたる徹底的なたたかいをとおして、イデオロギー闘争としても、現実の政治闘争のヘゲモニーをめぐるたたかいとしても、完全に勝利し、そしてプロレタリアート・人民を、文字どおりこのような排外主義と差別主義、権威主義との闘争において、革命陣営の側に獲得しなければならないという事業がわれわれのまえに与えられているということであります。そのことをはっきりと自覚しなければならない。
 つまりこんにちの帝国主義者は、みずからのそのような危機を、労働者にたいする支配と農民にたいする支配の分断、そして労働者階級の内部においても、本工と臨時工の分断、あるいは、労働者と失業者のあいだの分断、あるいは労働者や人民と、さまざまな被抑圧的民族、あるいは被抑圧的な状態におかれている人民とのさまざまな分裂をつくりだし、拡大し、そういうことのなかで、かれらの人民にたいする支配はつくりだされていくわけです。
 たとえば、あの狭山差別裁判の発端となりました問題をとってみてもこういう問題がでてくるわけです。たとえば、あるところで殺人事件が発生した。そして、その当の犯人は、ある一般民の部落にいるらしいということが、新聞とかなにかで問題になっていた。そうしてみると、その部落は非常に人数が少なくて、一人ひとりだれでも知っているような部落のなかで、そういうことが長期間つづくと、非常にピリピリした緊張が生じてくるわけです。と、これがそれ以上続いていくと、一種の耐えきれない状態が生まれてくる。そこで突如として、こういう問題が、つまり、近くにある差別されている部落の人達のなかにじつは犯人がいるんじゃないか、というふうな期待、あるいはそういう見込み、そういう権力の攻撃と結びついて、なにかそこに矛盾を転嫁すると、この状態が解除されるような気がする、そういう人民の内部にある弱さ、民衆のなかにあるひとつの腐敗と結びついた事態が生じてくる。すなわち、自分の矛盾の苦しみを徹底的に直視して、そのことの根本的な解決の道にすすむのではなしに、なにかそれを他の人びとに抑圧的に転嫁し排除していくかたちにおいて自分の日常生活を保持していこうとする、われわれのもっている腐敗、弱さ、そういうものにむしろ徹底的に依拠するようなかたちで、こんにちの帝国主義の支配というものはおこなわれようとしているわけです。
 同じような論理がやはり、日本という民族、国民と、アジアの人民とのあいだの関係においてもはっきり強制されるような関係が排外主義の問題として、われわれに与えられている。こういう状態のなかで、われわれは文字どおり、革命を本格的に準備するためのたたかいの一翼として、その総路線に決定的に欠くことのできない、有機的な、重要なたたかいの分野として、このような帝国主義の城内融和の攻撃、排外主義、差別主義、権威主義の攻撃にたいしてこれとたたかい、プロレタリアート人民の基本的な部分をこのような影響からきりはなし、このような誤った影響とたたかう側に獲得しぬいていくという、そうしたわれわれの問題を克服することなしには前進はありえない。
 このような闘争が文字どおり党派闘争の発展というかたちをたどって激烈にたたかわれざるをえないということだと思うんです。一九一七年以後の革命、二〇年代、三〇年代の革命のすべては、帝国主義者と人民とのたたかいとして発展すると同時に、このようなたたかいのなかで人民の内部のさまざまな分裂が生じる。帝国主義者によって動員される部隊、反革命によって動員される部隊と革命勢力によって動員される部隊のあいだの、文字どおり武装闘争をふくむところの激烈な党派闘争の展開としておこなわれざるをえない、ということについて、ひとまずここでは確認をしておきたいと思います。つまり、イデオロギー的にも党派闘争としても武装闘争としても、こういう党派闘争の発展は二〇世紀における革命のもっとも基本的な姿として発展していくんだ、反革命と革命との永久的な対峙とその内乱的な衝突への展開ということは、革命の必然的な発展過程として進行せざるをえない、したがって、われわれはこのような革命の進行過程にあっては、いわばこのよぅな党派闘争のさまざまな発展を回避するのではなく、これを、イデオロギー闘争の分野においても、政治闘争の分野においても、武装闘争の分野においても、なにひとつ回避するのではなしに、このような闘争の徹底的な激化にむかってすすむこと、これが、革命の決定的な勝利にむかっての地歩を固めるのだということを確認しておきたい。
 最後に、過渡期の社会の問題でありますけれども、われわれは、スターリン主義者によって社会主義にむかっての過渡期の問題が文字どおりスターリン主義的に歪曲されているという問題、したがってまた、この世界革命の発展の事業とこの過渡期の建設の事業が機械的に分断されることの結果として、過渡期の建設が、その当該の人民のその内部の経済的分布にだけ直接に強制される、そういうこんにちのスターリン主義者の問題が逆に、いっそうそのスターリン主義的な歪曲をおしすすめている事情をはっきりと直視しなければならない。こういう状態のなかでわれわれは、まさに後進国・半植民地人民の民族解放・革命戦争の発展、そうして帝国主義本国における革命闘争の発展、この二つのたたかいの発展を文字どおり結びつけて社会主義にむかっての一歩をふみだした過渡期社会、そしてそのスターリン主義的な歪曲のもとに苦しんでいる人民と固く結びついて、このような過渡期社会の問題を文字どおり世界革命の勝利を条件とする社会主義的な人民解放の事業の前進の方向へと集約していく、ここまでの段階では、このような問題として過渡期社会の問題を確認して、つぎに入りたいと思います。
 
 第六章 プロレタリア独裁権力を樹立し維持する革命党の建設
 時間がありませんけれども、最後に、いま述べた問題の最後の問題として、党のための闘争といわれるものはわれわれにとってどういう問題をもっているのか、ということを一応、時間を少しもらって述べさせてもらいたいと思います。
 すなわち現代革命の基本問題の三番目の問題として、党のための闘争について確認をしておきたいと思います。
 先ほども申しましたように、プロレタリアート独裁権力の樹立の問題と革命党建設の問題がいかなるかたちになるのか、ということを最初にひとつ確認しておきたいと思います。それから二番目に、党の基本的任務、あるいは党の日常性というものを保障するのはなんなのか、という問題について申しあげたい。三番目に、党がいかにたたかっていくのかということについてかんたんに確認しておきたい。
 最初にプロレタリア独裁権力の樹立と革命党建設の問題でありますけれども、先ほども申しましたように、いわゆるブルジョア政党といわれるものは、いわば、ブルジョア社会の発展というものを基礎にして登場し、そしてブルジョア国家の政治的統治形態、その権力の分有、権力の分割というものを物質的な基礎にして生じてくる。したがってそういう意味ではブルジョア政党、あるいはブルジョア革命政党を含めたブルジョア政党といわれるものは、いわば現実に与えられている主体的な関係、すでに自然発生的に生じている社会的分裂の状態を基礎にして、それの直接的な反映として与えられるのです。
 それにたいしてプロレタリア政党の独自性はどこにあるかというと、資本主義社会におけるブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争を基礎にしながら、さらにこの関係を直接的に反映するのではなしに、このブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争を基礎として、このブルジョア権力を打倒し、プロレタリア独裁権力を樹立し、これをテコとして共産主義社会を建設するというこのプロレタリアートの自己解放の観点を目的意識的につらぬくものとして、プロレタリア政党というものは登場してくる。ないしは、プロレタリア革命政党というものは発展していくという姿をとる、というところにプロレタリア政党の独自性があるわけです。したがってそれは直接的にいえば、プロレタリア独裁権力を樹立し、プロレタリア独裁権力を維持し、このプロレタリア独裁権力を基礎として世界革命の勝利を実現するための党として、党は与えられなければならない。このような基本的な命題をたえずくりかえし確認するなかで、われわれの革命党建設というものは与えられる。このような命題を否定するところにいかなる革命党もありえない。それは革命党を名乗るところの反革命政党でしかないということを、われわれはこんにちの日本共産党やカクマルの腐敗した現実との対応のなかで、はっきりとみつめなければならない。
 さらに三番目の問題としては、このようなプロレタリア革命党は、権力あるいは反革命との政治的・軍事的対峙を前提とし、そのような対峙の発展から建設されるという姿以外に、それ以外にいかなる発展も、いかなる建設の事業の姿もありえないということを、われわれははっきりと見つめておく必要があると思います。
 したがって四番目の問題としては、このようなプロレタリア党のあり方は、人民の内部において独自の思想、独自の活動の系列を、われわれが革命をなしとげるという、われわれ自身の目的意識性、プロレタリア権力を準備していくというわれわれ自身の直接的な目的に沿うものとして、ありとあらゆる形態がわれわれ自身の手によってつくりだされなければならない。
 その意味では、コミンテルン二回大会におけるテーゼではっきり述べられているように、革命党のあり方というものは、なにかアプリオリにこういう姿があるんだというかたちによって与えられるのではなしに、このようなプロレタリア独裁権力を準備していくための人民の前衛組織という姿をとって、その独自性が与えられていくわけです。
 さらに第二番目の問題としては、われわれは、このような党のたたかいをとおして、党の活動をとおして、いままで支配され、しいたげられ、抑圧されてきたところのプロレタリアートや人民が、文字どおり歴史を動かす能力、民衆を指導する能力、プロレタリアートが抑圧階級を独裁する能力、こういう人民の指導の能力、独裁の能力、自己解放の能力を文字どおり訓練する過程として、このような革命党が与えられている、またこのような過程としてつくりだしていかなくてはならない、そういうものとして党というものをわれわれはつくりだしていかなければならないという問題があります。
 そういうふうに考えてみますと、われわれはこんにち非常な困難のなかで、この党建設のためのたたかいをすすめている。ないしは、これを中心として日本の革命運動の前進のためのありとあらゆる困難な事業が推進されている。このなかで指導と被指導の関係、それは党の内部にもありますし、党と人民との関係のなかにもありますし、大衆運動のなかにもある、そういうなかでわれわれはたえず指導と被指導の関係をつくりだしながら、人民がひとつひとつたたかいぬいていくということは、同時に人民が、先ほど言ったように指導の能力をつくりだすこと、独裁する能力をつくりだすこと、自己解放する能力をつくりだすこと、そういう能力をつくりだすためにどうしても必要不可欠な過程だということです。
 いままでわれわれは、抑圧され、しいたげられ、支配されたことしか知らないわけです。おれは生まれたときから支配の仕方を知ってたなんていう人は、おそらくブルジョアジーの子弟にきまっているわけです。われわれは支配の仕方を知らないわけです。だいたい人にものを命令的にたのむことさえよく知らないわけです。だからその裏がえしとして、命令的にたのむ人がでてくるわけですがね。ブルジョアジーのやり方は、そういうかたちですぐ目の前にあって、子供のときから多少うらやましいなと思って育った、自分ではどういうかたちで言うことをきく奴がでてくるか、ちょっといばってみたいという人もでてくるわけです。
 しかし、われわれは、そういうことではなしに、人民が本当に自分を解放する能力、独裁する能力、指導する能力を、この指導と被指導の関係をとおしてたえずプロレタリアートの有機的なたたかいのなかでつくっていく、そういうたたかいとして、われわれの党とわれわれの大衆闘争のたたかいを創造していかなければいけないわけです。この指導と被指導の関係というのは一言でいえば政治の関係なんですけれども、こういうわれわれのたたかいの根本にある統治能力をつかみとっていかないと、革命をやったのはいいけれども実際のところなにもできないということになるわけです。だからわれわれは、そういう力を本当につくっていかなければいけない。
 レーニンは『左翼小児病』のなかで、われわれが本当に革命の事業をなしとげるためには海千山千のブルジョア政治家よりももっと政治的でもっと科学的な認識力をもった、そういうプロレタリアートの政治家を大量につくりださなければいけない、といった。われわれはその点ではこの、まったく醜悪な連中にだまされるようなことではいけないわけです。
 中核派はずるいとかなんとかいう人がおりますけれども、ぼくなんかの見るところではものすごいお人好しの集団という側面を否めないわけです。われわれは、人の好いことはけっして悪いことではありませんけれども、しかし革命の事業をなしとげるためのそういう能力をなんとしても、たたかいのくやしさ、たたかいのなかの苦しみ、負けたときのくやしさをひとつひとつかみしめてすすむなかで獲得していくことが必要なんじゃないか。これだけは最初に申しあげたい。
 それから党の基本的な任務はなんなのかということでありますが、あるいは党を維持していく力はなんなのか、ということでありますが、この際われわれが最初に確認しておかなければならない点、第一に確認しなくてはならない点は、革命党の正しい建設、革命党の正しい発展のためには、正しい革命の理論が必要だ、つまり、レーニンの言葉をかりれば、「革命的な理論なくして革命的な実践はありえない」、この命題を文字どおりわれわれは、もちきらなければならない。そうだとすれば、こんにち、反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略としてわれわれの基本戦略が与えられ、その戦略的総路線にむかってのわれわれの道がふみかためられているわけでありますから、われわれはこの当初の確信をはっきりと堅持してたたかいぬいていくことこそ、われわれにとって、党建設の最初にふまえられなければならない問題であるということになるのではないか。
 それから二点目の問題として、われわれのこのような運動は、本当に革命運動の成員一人ひとりのメンバーの、そのような人びとの参加をもってなしとげられていくわけでありますけれども、このような革命党の団結を現実に保持していく力はなんなのか、ということについてつぎに申しあげますと、第一にわれわれが確認しなければならないことは、その成員の一人ひとり、メンバーの一人ひとりが、文字どおり共産主義的な自覚に立脚し、共産主義的な自己犠牲の精神にたってたたかいぬいていくという、まず最初に一人ひとりの自覚が出発点にならなければならないということであります。われわれはけっして、強制してわれわれの運動に人を連れて来ることはできないわけです。どちらかといえば、まったくここにくるのは不利だ、大変だということを知っている人達が、自発的に結集してきてわれわれの運動をやるわけですから、この自覚的に結集してくるこの自覚、これにわれわれは徹底してふまえなければいけないということが一番目だと思うんです。
 それから二番目の問題としては、われわれがわれわれの運動をすすめていく能力、プロレタリア階級を指導するだけでなく、必要とあらば、プロレタリア階級だけでなしに、プロレタリア階級を指導していくと同時に、非プロレタリア階級、ありとあらゆる人民の内部にわけいって、この人たちを革命の事業にむかっで動員し、組織する、そして勝利に導いていくそのような能力を、われわれの党とその党の成員一人ひとりがつかみとっていくこと、これがやっぱり、党の発展を保証していく二番目の問題になるわけです。党は、党として与えられれば、自動的に勝利するのではなしに、われわれがこんにちの苦しいたたかいのなかで、最初申しあげましたように、一人ひとりの自覚に頼りながら、同時にそのような闘争の勝利をきりひらいてゆける、そういう能力、これを一人ひとりが養い、党としてこれを結集していくということがなければいけない。だからわれわれは、そういう点で、党を与えられたものとして考えるのではなしに、党の指導の能力を高めるものとして、たえず鍛えていかなければいけないと思うんです。
 そうして三番目の問題としては、そういう力、能力、これを保証するものとして日々の階級闘争を指導していく、導いていく、そういう正しい方針と、そして正しい戦略、戦術、これをわれわれがたえずうちかためながらすすんでいくこと、この三点がわれわれの党の団結を保証し、党の発展を保証していく道だというふうに考えなくてはいけない。
 そしてこのような一人ひとりのメンバーの自覚のうえに、メンバーの努力のうえに、メンバーのたたかいのうえに、三点目の問題として、党は、徹底した民主主義的中央集権主義によって、断固としてささえられなければならない。われわれは、このたたかいを、いささかもないがしろにすることはできない。われわれは、この党のたたかいを、いわば自由主義連合であるとか、自発的能力の自発的結集だとかいう口あたりのいいものと妥協させてはいけない。そうではなく、われわれはむしろ、この民主主義的中央集権主義をつらぬきとおし、その内部において指導と被指導の関係をたえず有機的につくりだし、たえず優秀な、その関係のなかにあって、われわれの指導の能力、指導部の能力を徹底的に強め、党のもっとも基礎になる、支部だとか細胞だとか、班とかいわれる、そういう党のもっとも基礎的な組織を強化する、指導部と基礎組織、この二つの強化をたえず基礎にしながら、党の民主主義的中央集権主義を貫徹していく、という過程として完成されなければならない。
 そして四点目に、最後の問題ですけれども、つぎのような問題を、たえずわれわれは、闘争のなかで独自の領域として追求し、位置づけなければいけない。すなわち、ごくかんたんな問題でありますけれども、一番目の問題としては組織を維持するということ、このことを、どんなことがあっても、ゆるがせにしてはならないと思う。われわれの組織の秘密を守ること、あるいは、われわれの組織にたいして加えられてくる攻撃を、どんなことがあってもわれわれははね返していき、この組織を維持しなければいけない。この組織の維持という問題について目的意識的に、いささかの過小評価もせずに、この問題に徹底的にしがみつき、この問題を徹底的にたたかいぬいていかなければいけない。
 その意味では、こんにち、この会場に結集されている多くの諸君が、党に、あるいは革命勢力のさまざまな組織に結集されていることとおもいますけれども、そのなかで、そのたたかう組織を維持していく、そのたたかいと党の組織を維持していくこと、このことをけっして過小評価してはならない。これをやらないことには、いっさいの活動の前提条件が崩壊するんだということ。いわば、どんなことがあってもやりぬかなければならない事業としてやらなければいけない。いわば人間が、人間として生きていくために、たとえば飯を食わなければいけないということがあります。もうちょっと高尚な言い方をすると、人間生活の社会的生産のためには、労働における自己の生活の生産と生殖における他人の生活の生産、この二つの事業を、どんなに苦しいときでも、どんなにニヒルな状態になっていたとしてもやりとげなければいけない。われわれは、もうガッカリしながらでも、飯を食ってなければいけない。同じように、どんなに辛いときでも組織を維持し続けなければいけない。この問題を、どうか考えていただきたい。それから二番目の問題としては、厳格な規準のもとに新しい政治を学習し身につけるということ、そしてこのことをつうじて組織を拡大強化していくということであります。このこともまた同時に、いつもやらなければいけない。
 もともと革命勢力というのは小さいものなんですから――ブルジョア革命勢力というものは、あらかじめ権力を握ってしまったものが、この権力を維持するために革命党を組織さえすることがある、ないしはブルジョア政党を組織するようなときがある、こういうのは、はじめっから多数党である。ところが、革命政党というものは、つくられたときから多数派であれば、これはもう一番いいわけです。しかし、われわれは、論理的にいっても、事実の問題からいっても、そういうことから出発するわけにはいかないわけです。そうではなしに、帝国主義者の側から見ても、そんなものは許してはならないものとして登場するわけですから、これにたいしては、さまざまな弾圧や攻撃が加えられることは当然である。
 それから、その社会における支配的な思想、その社会における支配的なものの考え方というものは、支配階級の思想であり、支配階級の考え方であるわけですから、人民の圧倒的多数が、あらかじめ革命政党の側に獲得されるということもまたこれはありえない。もしそうだとすれば、これは、イデオロギー的にいって自己矛盾である。そうではなしに、むしろ、人民の圧倒的な多数は、その時代の支配階級の考え方に主として組織されているわけです。主として影響されている。そういうなかでわれわれが、プロレタリア階級闘争を基礎として、プロレタリア独裁権力の樹立にむかって堂々と前進するという、共産主義的自覚に燃え、自己犠牲の精神に富んだ人びとが結集してきて革命党づくりをやるわけですから、これは少数から出発して当り前だ。
 しかも、さっき言ったように、権力のはなはだしい弾圧、反革命勢力の敵意のなかで育っていかなければいけない。そうして、ですからわれわれは、当初出発した力でそのままいればいいというわけにはいかない。そうかといってわれわれは、いま、宮本顕治なんかが考えているように、権力の思想にたえず屈服し、人民のなかにあるおくれた部分にたえず妥協して党を肥大化させていくというかたちで、革命をつくりだすことができるかといえば、われわれはできない。
 そうではなく、われわれは、はっきりと革命的な思想を持ち、この革命的立場から帝国主義と権力、スターリン主義を徹底的に批判し、人民内部にあるおくれた思想、誤った思想と徹底的にたたかって、同志的にその人達を獲得しぬきながら、前進していくという立場にたっています。そうだとすればわれわれは、たえず厳格な規律にもとづいて、革命党の成員をわれわれのもとに獲得し、組織し、訓練していく、そしてわれわれの組織を全体として拡大強化していくというこのたたかいを、独自のたたかいとして終始一貫してたたかいぬかなければいけない。やはり、われわれは、あたかも社会が子供を生みながら発展してきたように、われわれは新しい同志をむかえながら発展していく、古い同志もたたかい、新しい人が来たからもうそろそろやめようかなんて(笑い)、そんな人はいないだろうと思いますが、やはり、革命が終るところまで拡大してやまぬという精神をもって、たえず新しい同志を獲得しながら前進していく、これがわれわれのいつも心がけなければならない二番目の問題だと思うんです。
 そして三番目の問題は、そのなかで、本当に革命運動でテストされた幹部、すぐれた指導能力をもった幹部、必要とあらば、もっとも海千山千のブルジョア政治家と対置されても、これに負けないような、すぐれた政治能力をもった幹部、そして人民の苦しみ、あるいは人民のたたかいと本当にとけあってすすむような、そういう幹部、そういう者を膨大にわれわれはつくりださなければいけない。そもそも革命党づくりの問題は、言葉をかえて言えば、こういうすぐれた革命家、革命党のすぐれた幹部をつくりあげていくたたかいなんだということをわれわれは自覚的に考えなけりやいけない。したがって革命党建設のためのわれわれの共同の事業は、このようなわれわれの組織を維持し、組織を拡大強化するだけではなしに、同時にこの内部にある一人ひとりが、皆すぐれた幹部になっていく、革命の指導者が、革命党の幹部になっていく、この事業をみずからと、同志的な共同のたたかいのなかで成しとげていかなければならないということであります。これが三番目の問題であります。このことは、本当に大変なことなんですが、われわれは、今後の事業のなかでやっていきたいと思っております。
 さて、最後の問題について述べたいと思います。党は、このような、プロレタリア権力にむかっての組織として自分を組織し、その内部において革命党としての内的な性格をつくりだすということについて、いままで大きくいって二点について述べてきたわけですが、つまりプロレタリア独裁権力の樹立と、その維持のための革命党建設、それからさらに革命党の内部の性格をつくりあげていくということ、この二点について述べてきたわけですけれども、三番目の問題としてかんたんに確認しておきたい点は、こういうことは同時に、帝国主義者の攻撃、反革命勢力のさまざまな攻撃とたたかいながら、人民のありとあらゆるたたかい、人民のありとあらゆる問題と真剣にとりくみ、これと手をむすんで、革命の壮大な目的と人民の正義の要求とをたえず具体的に結びつけながら、党の建設のための闘争と党としての闘争をたたかいぬきながら、党の建設をおしすすめていくという問題、このことを終始一貫すすめていくことが、われわれの最後の結論でなければならない。
 こういうものとしてわれわれのこんにちのたたかいはあるんじゃないか、そうして、このような革命党建設の方向、現代における革命の基本的な原理、現代における革命の基本的な方向、現代における革命党建設の任務、こういう三つの革命党に与えられた課題に、文字どおり敵対するものとして、こんにちのカクマルの反革命がある、ということをわれわれはおさえておかなければいけない。
 もう詳しく述べる時間もありませんけれど、ただこのことだけ述べるのを許していただけるなら、第一番目に、反帝国主義・反スターリン主義という世界革命戦略なしには、こんにちの人民はだれ一人解放されないという、われわれ革命的共産主義者の根本的な立場をふみにじって、反帝国主義・反スターリン主義世界革命なしに、あたかも人民が解放されるかのように考えたり、ベトナム革命の最終勝利が与えられると考えたりするような、こういうカクマルの考え方を徹底的に粉砕することです。
 それから二番目に、「侵略を内乱へ」に象徴される、われわれの戦略的総路線にたいするかれらの小ブル平和主義的な敵対、このひとつひとつのあらわれ、たとえば、ベトナム侵略の問題、日本帝国主義の侵略性の問題、それにたいする否定と憎悪、あるいは沖縄のブルジョア的解決論、永続化の闘争にたいする敵対、あるいは排外主義や差別主義や権威主義にたいするわれわれのたたかいにたいするかれらの終始一貫した否定と敵対、こういうもの総体にたいして、われわれはこれをうち破り、ふみにじり、はねとばしてたたかいぬいていかねばならない。これが二番目の問題です。
 そして三番目の問題としては、現在の革命的な実力闘争にたいして、かれらが終始一貫反対する論陣をはり、反対する行動をしていることにたいして、つまり革命勢力をたたきつぶすためにのみ実力闘争をやるというかれらのこんにちのあり方を、われわれは文字どおり叩きつぶさなければならない。具体的な問題としていえば、民族解放・革命戦争にたいするかれらの敵対を、敵意を、われわれは粉砕して、民族解放・革命戦争を、われわれの世界革命戦争の有機的一構成部分としてとらえ、その発展のために全力をあげてたたかわなければいけない。そしてまた、先進国武装闘争にたいするかれらの敵対の言辞にたいし、これをふみにじり前進しなければいけない。そして構造改革派以下の平和革命論、民同の反革命的補完物として経済主義になりさがっているかれらのこんにちのありようを徹底的にたたきつぶしてすすまなければいけない。これが三番目の問題であります。
 第四番目の問題としては、七〇年代反革命の一翼としてすすみつつあるカクマルのこのような純化を粉砕し、これと内乱的に対峙して、これを徹底的にうち破るたたかいこそが七〇年代革命を準備していく過程でもある、ということをはっきりと確認しなければならないと思う。このような意味で、革命党の基本的な任務を放棄し、否定し、労働者を経済主義に固定化し、革命党にたいする武装襲撃を職業的な任務とし、革命にたいする反動的な制圧の勢力として登場してきているあのようなカクマルを徹底して粉砕することが、われわれのこんにちにおける大きな任務でなければならないと確認しておきたいと考えます。
 以上の確認のうえにたって、われわれはこんにちの世界の大きな激動の過程のなかに突入しようとしている、偉大な闘争の高揚の時代がこようとしている、このような偉大な闘争のたかまりのなかで、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命運動の巨大なたたかいをわれわれの手でもぎりとっていく、そうして全世界人民の巨大な前進のもっとも大きな部分をわれわれの手できりひらいてゆく、この任務を、なんとしても日本のプロレタリアート・人民がなしとげなければならない。このことを最後の結論として私の話にかえさせていただきたいと思います。
         (一九七二年七月一五日 全学連大会における講演)