解 題
 
 (1) 本書第五巻は、七二年十二月革共同政治集会における本多書記長の講演と、七二年『前進』新年号論文を第一部とし、第二、三部には、冒頭に七二年十一月四日全学連講演集会における「革命的共産主義運動の歴史について」と題する講演をおき、六一年〜六三年の創成期〜革共同第三次分裂の時期の、主要に党建設、党内闘争の課題を論じた論文を収録した。第四部は、日本共産党批判であり、第五部は国際論評である。全部で二六篇を収録している。
 最初に各論文の掲載紙、誌、日付をかかげる。
 
I 勝利の武装進撃を
 1 偉大な勝利の道(『前進』六一五号一九七三年一月一目 『共産主義者』二五号に再録一九七三年十月)
 2 勝利の七二年を武装進撃せよ(『前進』五六四号一九七二年一月一日 『共産主義者』二三号に再録 一九七二年六月)
 
U 革命的共産主義運動の理論と歴史(第一篇)
 1 革命的共産主義運動の歴史について(一九七二年十一月四日全学連講演集会 未発表)
 2 革命的共産主義運動の当面する問題点((1)『前進』一〇〇号一九六二年八月二五日 (2)同一〇一号 九月五日 (3)同一〇二号 九月一五日 (4)同一〇三号 九月二五日 (5)同一〇四号十月八日)
 3 革命的共産主義運動の基本路線とは何か((1)『前進』一三〇号一九六三年四月一五日 (2)同一三一号四月二二日 (3)同一三二号 四月二九日 の同一三四号 五月一三日 (5)同一三五号 五月二〇日 (6)同 一三六号 五月二七日 (7)同一三八号 六月一〇日 武井健人の筆名にて)
 4 革命的共産主義運動の現段階と革命的プロレタリア党創造の課題((1)『共産主義者』四号一九六一年九月 (2)『共産主義者』五号一九六二年一月 田宮健二の筆名にて)
 5 同盟内日和見主義との闘争のために(『前進』一二五号一九六三年三月一一日)
 6 黒田寛一の卑劣な「分派活動」を糾弾する(同盟内部通達一九六三年一月五日)
 
 V 革命的共産主義運動の理論と歴史(第二篇)
 1 誤謬の拡大再生産を許すな(『前進』一八号一九六〇年十一月二五日)
 2 永久革命の幻想者・吉本隆明との決別(『前進』一七号一九六〇年十一月一〇日 武井健人の筆名にて)
 3 変説の自己弁護(『前進』二三号一九六一年二月二五日 武井健人の筆名にて)
 4 公然と大胆に闘争の先頭へ(『前進』三三号一九六一年六月二五日)
 5 「春日新党」と新中間主義(『前進』三六号一九六一年八月五日 武井健人の筆名にて)
 6 再び西分派の同志諸君へ(『前進』七二号一九六一年十一月五日 武井健人の筆名にて)
 7 春日なき春日派の命運(『前進』八四号一九六二年三月一五日 武井健人の筆名にて)
 8 支持者の渦から推進者の奔流を(『前進』九五号一九六二年七月五日)
 9 日帝の南朝鮮再侵略を許すな(『前進』二三号一九六三年二月二五日)
 10 第四インターの分解と中ソ対立について(『前進』一四七号一九六三年八月一九日)
 
 W 日本共産党批判
 1 日本共産党の根底的批判と解体のために(未公刊論文 一九七三年六月)
 2 日本共産党と日本帝国主義の敗北(『前進』九九号一九六二年八月一五日 武井健人の筆名にて)
 3 国際スターリン主義の分解と日共中枢の分裂について――志賀・鈴木一派の分裂に際して(『前進』一八五号一九六四年五月二五日)
 4 革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂(遺稿一九七三年春頃)
 
X 国際論評
 1 ベルリン危機と労働者階級(『前進』六九号一九六一年十月五日 武井健人の筆名にて)
 2 北方問題と反ソ主義(『前進』七〇号一九六一年十月一五日 武井健人の筆名にて)
 3 インドネシア九・三〇事件の本質(『前進』二五八号一九六五年十一月八日 武井健人の筆名にて)
 4 インドネシア反革命の教訓(『前進』二七七号一九六六年三月二八日 武井健人の筆名にて)
 
 (2) Tの1は、七二年十二月革共同政治集会の講演である。この集会のちょうど一ヵ月前、早大カクマルは、早大の同志川口大三郎を「狭山闘争に参加した」という赦すべからざる口実をもって、教室でリンチを加え、虐殺した。この虐殺が反革命指導中枢のきわめて計画的かつ系統的な指導にもとづくものであったにもかかわらず、かれらは「七〇年闘争によってひきおこされた社会的荒廃状態」に影響されたカクマル内の「一部未熟分子」の「意図せざる結果」であるという破廉恥きわまりない、白色テロル分子特有の言いまわしによって開きなおり、日帝国家権力と結託し、K=K連合にもとづいて新たに開始した反動的な転向強要攻撃を、今後もなおつづけていくことを公然と社会的に宣言したのである。
 当然にも早大の先進的学生を先頭に、全早大生四万の憤激は爆発し、白色虐殺者早大カクマル追放、早稲田解放のたたかいが、大きなうねりをもって持続的に発展し、早大カクマルは、約一〇年にわたるその虚点支配の歴史を閉じ、これ以後没落の一途をたどることとなったのである。
 本講演は、二重対峙・対カクマル戦争の戦略的防御段階にあって、早大カクマルの孤立と没落の開始という歴史的な瞬間にあたって、カクマルの敗北と没落が必至であり、革共同と革命勢力の勝利が歴史的必然であることを力づよく訴え、早稲田大学でかつて学んだ者の立場から、熱情をもって早大生の中核派への結集を呼びかけた感銘深い歴史的講演である。
 さらに、革命的共産主義運動の総括を提起した点でも、重要な歴史的文献である。本多書記長は、五七〜六二年の第一期(綱領的、組織論的な立脚点と独自の党建設の基礎をかためた時期)、六二年〜六七年の第二期(本格的な革命闘争の準備期)、六七年〜七二年の第三期(永続的な革命闘争の開始期)、七二年以後(本格的な革命闘争の発展期)と、四期にわけて、革命的共産主義運動の歴史的総括を提起し、「偉大な勝利の道」を説きあかし、七〇年代中期高揚を力づよく提起しているのである。
 Tの2は、七二年『前進』新年号論文であり、人民革命軍・武装遊撃隊の本格的建軍を訴えた、わが革共同の二〇年余の歴史において特筆すべき記念碑的論文である。
 七一年十一月の「第二の十一月」の硝煙さめやらぬなか、十二・四のカクマル反革命のK=K連合にもとづくわが革共同の二戦士の白色テロルによる虐殺がおこなわれた。わが革共同は、戦略的防御段階への突入という段階的戦略をもって二重対峙・対カクマル戦争の積極的推進を図り、内乱・内戦――蜂起の陣形を、この内戦の革命的発展をかちとるただなかで構築していくことを、戦略的・思想的に明らかにしていったのである。
 「大衆的、政治的闘争の高揚と、その内乱的、武装的、革命的発展のコース、ゲリラ的・パルチザン的武装闘争の発展のコースの双方の独自的な発展と党を媒介とした両者の有機的な結合とをとおして、日本階級闘争の新しい質的経験の獲得、七〇年代の革命的内乱=プロレタリアート人民の一斉武装蜂起にむかって決定的な前進を開始すること」(本書七四〜七五ページ)を訴えている点が、きわめて重要である。
 人民革命軍・武装遊撃隊については、「全プロレタリアート人民の武装の中核であり、ゲリラ的・パルチザン的武装闘争の担い手であり、大衆的政治闘争の内乱的、武装的、革命的発展の援助・促進者であり、反革命集団にたいする武装礼察隊である」(本書七六ページ)と規定されている。
 七八年・革共同の年頭アピールは、武装と武装闘争について、人民革命軍・武装遊撃隊について、七年間の二重対峙・対カクマル戦争の勝利的前進の経験に踏まえて、いっそう豊かですすんだ規定を展開している(『共産主義者』三六号 六五〜六九ページ参照)。
 (3) UとVとは、革命的共産主義運動の創成期(黒田=カクマルの卑劣な分裂活動、すなわち革共同の第三次分裂の時期をふくむ)に発表された主要に党建設を主題とする論文ないしブントおよび第四インター批判の論文を収録しており、これらを総括する位置にあるものとして、第U部冒頭に「革命的共産主義運動の歴史について」と題する一九七二年十一月四日の講演をおさめている。
 Uの1は、きわめて平易なかたちで、わが革命的共産主義運動の歴史の全内容について、概括的に、つよい説得力をもって語られている。
 本講演の章分けそのものが示しているとおり、ここには革命的共産主義運動の歴史的結節点のそれぞれのもっ歴史的意義が、すべて簡潔に述べられており、二重対峙・対カクマル戦争が、まさに創成期における黒田寛一の小ブル自由主義との非妥協的なたたかい以来のカクマル反革命との歴史的なたたかいの全面的開花として、同時に内乱・内戦――蜂起の思想と総路線との場所的実現形態として、まさに一九五七年以来のわが革命的共産主義運動の最高の到達点として歴史的に正しく位置づけられており、この視点から党と運動の歴史がすべて首尾一貫性をもって透徹したかたちで語られているのであり、したがって読む者をして深い感動に誘いこまずにはおかないとともに、党と運動についての正しい歴史的意識を与えることができるようになっているのである。
 したがって同時にこの講演は(またU全体が)、悪名高い黒田寛一の歴史偽造の書たる『日本の反スターリン主義運動』の物にたいして、鉄槌をもって粉砕する内容のものなのである。ここではそれゆえ、五七年〜六三年の創成期にかんする黒田のデマゴギーがいかに破廉恥な、盗人たけだけしいものであるかを暴露することを中心に、若干の解説を加えることとしよう。〔論議をすすめる便宜上、Uの1とUの4とを主要にとりあげていくこととする。〕
 第一に、本多書記長の創成期を論じる際の一貫した姿勢であるが、革命的共産主義とスターリン主義の歴史的未分化のもとにあって、戦後日本プロレタリア運動の比類なき革命的資質が、綱領的指導を求めて、きわめて屈折した形態をもってではあるが日本共産党の綱領的指導方針に反映し、激しい総括論争と綱領論争とが一九五〇年一月のコミンホルム批判からほぼ一〇年間にわたってたたかわされるなかにあって、この綱領論争の屈折した、不毛な形態の内部から、スターリン主義の反プロレタリア的本質をつかみとり、それに革命的に対決し、左翼からそれをのりこえるものとして、革命的共産主義運動が創成されていったことを、しっかりと認識している点である。この点が第一点である。
 第二点は、一九五五年日本共産党六全協〔第六回全国協議会の略称。一九五〇年一月コミンホルム批判のうけとめ方に端を発し、日本共産党が故徳田球一書記長をはじめとする潜行九幹部たちの所感派=主流派と、宮本顕治らの国際派=反主流派に大分裂し、組織が疲弊し、党勢力が低迷していたのを、六全協決議は、追放されていた国際派系党員の復帰と究極的には宮本指導部の確立に途を開き、議会主義的な党勢力の回復と拡大とをまず意図するものであった。しかし、六全協決議は、五一年綱領をまったく正しいものとしながらも、戦術的には多くの誤りが冒されたことを、正しい総括を欠如したまま唐突に断定的に宣言し、スターリン主義党の不可謬性の神話を信じて活動してきた多くの党員に精神的に深刻なショックを与え、四六年以来の戦後革命の敗北の総括、ひいてはスターリン主義そのものへの疑問へとまじめな党員をつき動かしていったのである〕によって、戦後一〇年間の日本共産党の指導方針にたいして根底的な疑問を抱き、深刻な理論的総括と革命的綱領を求めて真剣に模索していた多くの労働者、学生、知識人の党員にたいして、一九五六年二月ソ連共産党二〇同大会におけるフルシチョフ、ミコヤンによるスターリン批判と、五六年十月ハンガリア革命の衝撃が与えたスターリン主義への根底的な批判の第一衝撃である。
 クレムリンの神話は、労働者の国ハンガリアにおいて、圧倒的多数の労働者人民が共産党員を先頭に武装蜂起したという歴史的な革命的決起に一挙に瓦解し、さらに、これにたいしてソ連軍のジェット機と戦車が数百台、数千台と襲いかかり、何十万人ものハンガリア労働者人民を血の海に溺れさせ、歴史上前例をみないほどの大量虐殺を凶行したことは、ソ連スターリン主義の反プロレタリア的本質を、六全協後のスターリン主義党史上かつてない党内民主主義の復活のもとで、革命への途を綱領的に模索しつつあった党員に、自覚させる歴史的契機となっていったのである。
 第三点は、ハンガリア革命の血叫びを真摯にうけとめ、ソ連スターリン主義にたいする革命的弾劾の声をあげ、反帝・反スターリン主義世界革命の思想と戦略の創成にむかっていった黒田寛一のイデオロギー的役割である。ハンガリア革命の衝撃に、日本共産党宮本指導部は死の沈黙を守り、圧倒的多数の左翼的知識人もまた判断停止に陥り、呆然自失のありさまのなかで、黒田寛一はハンガリア革命の反スターリン主義武装蜂起の意義をおしだし(『探究』創刊号五七年十月)、さらに論理的にこの歴史的問題性を徹底的に問いつめ、ソ連スターリン主義の反革命性を、まさに労働者階級の武装蜂起をもって打倒さるべき本質的な問題として規定し、きわめて端緒的に、思弁的内容に限定されてはいたが、反帝・反スターリン主義の思想、世界革命戦略をうちだしたのであった。
 スターリン主義にたいする左翼反対派の伝統の欠如していたわが国にあって、この歴史的伝統の欠如はここにおいてかえって好条件に転化し、第四インターの親スターリン主義の思想と戦略(反帝・労働者国家無条件擁護)を革命的にのりこえ、反帝・反スターリン主義の思想と戦略とを創成しえたことこそ、わが革命的共産主義運動がわが国の階級闘争の大地に定着しえた真実の理由をなすものであった。
   「だが、黒田哲学は、同時に、スターリン(主義)哲学の反マルクス主義的本質に鋭い批判を展開し、日本マルクス主義の客観主義とその一形態としての党権威主義と非妥協的に敵対しつつも、スターリン(主義)への批判が、政治闘争の領域においてではなく、哲学の領域において、しかも、国際的な左翼反対派の闘争ともまったく切断されていたところに存在していたという歴史的制約性をもっていたのである。それゆえ、黒田哲学として結晶した実践的唯物論が、プロレタリアートの現代的な革命的世界観としての革命的マルクス主義に発展するためには、なお、国際的な左翼反対派の闘争との連帯が必要であったのであり、なによりも、たたかうプロレタリアートとの生きた革命的交通が不可欠であったのである」(本書二五八〜二五九ページ)
 本多書記長がここですでに六一年秋の時点で鋭く喝破したように、今日では第三次分裂と黒田=カクマルの反革命への転落が、みずから鮮明に本質を顕現しているのであるが、黒田は「たたかうプロレタリアートとの生きた革命的交通」をなしとげえず、否みずからその交通を切断し、みずからのきわめて思弁的な、限定された「反スターリン主義」を自己絶対化してしまい、現代世界と真に根底から対決し、これを革命的に転覆すべき革命的思想、革命的綱領へとうちきたえるたたかいそのものを拒絶し、敵対するにいたったのである。
 五七年〜五九年のトロツキスト連盟への加盟、革命的共産主義者同盟の結成、第一次分裂、第二次分裂=革共同全国委員会結成へとすすんでいった過程において、黒田は、明らかに一定の積極的役割を果たしたといってよいであろう。
 だが同時に、この過程は、きわめて複雑な性格をもち、けっして一面的で単純な進歩的過程ではないことを、われわれはいま究明しなければならないのである。
 なぜならば、ここではじつは、黒田寛一自身の自己批判と自己変革とが、鋭く問われていたのである。そして、それは、かの「三部作」的内容の破産の真の根源をえぐり、それを克服することとしても、つきつけられていたことを意味するのである。
 黒田は、ハンガリア革命にたいする自己の態度表明をふりかざし、『ヘーゲルとマルクス』における哲学的な批判や、『経済学と弁証法』や『スターリン主義批判の基礎』等での低水準な「批判」までふくめて、一貫してみずからがスターリン主義批判の立場にたっていたかのようにおしだすのである。しかし、ここには決定的な欺瞞がひそんでいるのである。
 黒田は、ここで革命家として自己を変革する課題が厳然として自己につきつけられていたことを無視し、それを回避し、この課題のまえに完全に敗北してしまうのである。四九年に旧制東京高校を中退するまでほんのわずかの期間、スターリニスト・シンパとして過ごした黒田は、右の著作をあらわす過程で、一個の小ブル的「著作家」志願者でしかなく、現実の政治や革命運動への主体的かかわりをなにひとつもちえていない人間でしかなかったのである。したがって、スターリン主義を「哲学的」に「批判」していたとしても、現実の諸運動には、まったく外在的であり、無責任きわまりない評論家でしかなかったのである。あえていえばかれは、スターリニスト以下の低劣な水準で低迷していたことを恥じなければならないのである。
 このスターリニスト以下の卑劣さ、低劣さを象徴的にあらわしていることがらこそ、五八年七月二七日革共同第一次分裂(トロッキー教条主義者太田竜の反組織行為を処断、太田竜はこの直後革共同より逃亡)によって、革共同中央の指導権、機関紙編集権を掌握した黒田寛一が、一号も機関紙を発行せず、完全に指導をサボタージュし、あげくの果ては、本多書記長や探究派のメンバーには秘密裡に西京司宛に政治局員の辞表(「政治的無能と、資金源としてのオヤジとの平和共存戦略の破綻による政治生活のゆきずまり」を理由とする)を提出し、戦線逃亡を図ったという破廉恥な事件である。
 本書Uの1第二章 創成期における内部闘争 三、黒田寛一=小ブル自由主義とのたたかい、Uの4 第三章 日本における革命的共産主義運動 (d)探究派(RMG)の解体的危機と全国委員会のための闘争、の二ヵ所で主要にふれられている問題点であるが、重要なことは、黒田寛一自身がこの事実を認めているということである。
 黒田の自作の「年譜」(芳賀書店『黒田寛一をどうとらえるか』の末尾けいさい)において、「一九五八年一〇月末 山本、政治局員辞任届を西政治局議長に提出」(同右三一五ページ)となんの自己総括もなく、ひとかけらの自己反省もなく書き記しているのである。
 黒田はこの年譜や、『日本の反スターリン主義運動1』2わが同盟・全国委員会を結成するための闘い(三八一〜三八八ページ)において、みずからが戦線逃亡を図った理由を、みずからの小ブル著作家としての非革命家的本質に求めるのではなく、主要に大川治郎、福島(青山到)、山村克の三名の責任による書記局の機能停止に求めるというデマゴギーを恥ずかしげもなくふりまくという、反革命分子ならではの盗人たけだけしい醜悪な自己弁護に走っているのである。
 黒田はこの過程を、『日本の反スターリン主義運動1』において、「(共産同)の結成ならびに革共同・中央書記局の解体にかんするいっさいの責任が政治局員山本勝彦(黒田――引用者)に転嫁され、そして拡大政治局会議(一九五八年十二月一七日――引用者)への出席を拒否されたまま彼は政治局員を解任されるとともに、いっさいの政治論文の執筆停止という処分をうけたのであった」(三八五ページ)などと、西京司に責任を転嫁しているのであるが、事実はかれがみずからの意志によって非組織的に逃亡していたのである。
 まさにかかる黒田の卑劣な戦線逃亡を不可避としたものこそ、黒田がみずから正直に告白しているように、激動し、発展しつつある「左への転換」〔注〕にたいする「政治的無能力」であり、その心理的基礎をなしたものこそ、スパイ大川との組織的決別の苦痛への屈服(組織的決別の不可能=大川の政治家・陰謀家能力への屈服的信頼)、そして五八年春革共同に加盟した本多書記長や野島、山村らとの革命家としての組織関係をけっしてきずきえない指導者、組織者としてのまったき無能力、小ブル的サークル主義者としての度しがたい腐敗した体質にほかならないのである。じつに黒田=大川のスパイ問題こそは、五八年後半〜五九年前半の黒田寛一の政治活動のドス黒い裏面を、その本質を形づくるものとして、西派、ブントとの党派闘争の革命的発展にたいする小さからぬ制約としてわれわれのまえにたちはだかったのであった。
 〔注〕 Uの4第三章(c)でもふれられているが、「左への転換」とはつぎの歴史的状況をさす。
 一九五八年五月末、反戦学生同盟全国大会において、平和共存戦略の否定と世界革命を志向する革命的反戦闘争の立場が圧倒的に多数を占め、社会主義学生同盟への転換がかちとられ、つづいて開催された全学連第一三回大会では、のちに構改派として自己を純化した少数派の右派=平和共存派を徹底的に批判し、「左への転換」の巨歩を印したのであった。大会直後六月一日、日共本部で開かれた全学連大会党員グループ会議は、右派を支持する日共中央への大衆的弾劾の場と化し、いわゆる「六・一事件」となって、膨大な左翼的学生が日共から組織的に追放されるにいたったのである)これによってスターリン主義からの決別に無自覚さを残したまま、「学連新党」(のちのブント)結成の動きが表面化し、この種々の工作の過程のなかで、わが同盟の歴史的役割は重大化し、それにともなって同盟内のわれわれと西派との分派闘争は深刻化したのである。
 今日、黒田寛一は、この五八年の歴史的過程を、みずからの戦線逃亡としてしか総括しえないがゆえに、きわめて不愉快な年としてのみ位置づけ、「東京じゅうの学生活動家という活動家は異常な熱気の中で彼らじしんには正体不明の躁状態に湧き立っていた」(インチキ『共産主義者』四一号一一四ページ)とただただ貶しめることのみに躍起となっており、学生活動家にたいする探究派イデオロギーの浸透というみずからの歴史的役割すら否認するにいたっているのである。
 本多書記長の本書所収の論文では、なおふれられていない(そしてUの4を未完に終らせてしまった真実の理由と推定される)黒田=大川のスパイ問題こそ、黒田の五八年十月の戦線逃亡の最深の心理的原因なのであり、この事実を隠蔽するためにこそ、大川、青山、山村への個人攻撃をこととする、という反革命分子の歴史偽造を、われわれは怒りをこめて粉砕しなければならないのである。
 以下『共産主義者』二九号白井論文に依拠して、黒田=大川のスパイ事件の核心的事実をあきらかにしよう。
 @一九五七年後半、大川治郎(小泉恒彦)は、民青団の中央委員、常任活動家として、警視庁公安部の執拗な追及をうけ、情報提供をせまられ、また生活に窮していたことも原因して、非常な精神的動揺をきたしていた(大川は一九五七年一月黒田を訪れ、革命的共産主義運動に参加)。
 A 大川は悩んだあげく、黒田に相談したところ、「それなら民青の情報でも売ったらどうだ」と黒田はいったのである。これは大川が自分の個人的窮乏というよりは、革共同の財政的困窮の救済という名目をもちだして黒田を誘導した形跡が強いが、黒田が明確に承認を与えてしまったことは事実である。そして二人とも「スターリニストの情報を売ってもトロツキストにはなんら有害な影響を及ぼすことはありえない」という点で完全な合意をみたのである。
 B 大川が警視庁当局者といったん約束をとりつけ、新宿駅付近の公衆電話を使って電話をかけたとき、黒田と黒田夫人が同行した。ところが、所定の係に電話すると、「ちょっと待ってくれ」といったまま、なかなか出てこなかった。そこで三人は、公衆電話の所在地点を逆探知されて急襲され、警視庁へ連行されるのではないか、と不安にかられ、電話を切ってあわてて逃げだした。
 C しかし、あとで大川だけが電話をかけなおし、所定の係と恒常的関係にはいっていった。大川は、もっぱら民青団中央の政策や会議の決定事項などの情報を売り、さらに他の労働運動、平和運動、日共関係等々の各種の資料を警視庁側が大川に示して判断させると、非常によく的中するので、優秀な情報提供者という評価を与えられ、大川は五八年前半のある時点まで、かかる腐敗した関係をつづけていたことは確実である。黒田は大川からこれらの事実の報告をうげ、容認していたが、五七年十二月頃から少しは「マズイ」として精神的に消耗しはじめるが、結局戦線逃亡と事実隠蔽に走るにいたるのである。
 以上が黒田=大川のスパイ事件の核心的事実である。
 この問題の重要な政治的特徴点は、第一に、黒田が大川と完全に「共謀共同正犯」であること、実行行為にまで参加しようとしたこと、第二に、大川が黒田の承認をとりつけてはじめてスパイを働いたのであり、もともとスパイであった大川が黒田をまきこんだのではけっしてないということ、第三に、未遂事件ではなく完全に既遂事件であり、数ヵ月に及ぶ放しがたい反階級的犯罪であること、黒田がそれに容認を与えていたこと、第四に、スターリニストの情報なら帝国主義者に売ってもよい(打倒対象の情報を売るのは正しい)、とする容帝反共主義が鮮かに示されていること、以上の四点である。
 じつに、黒田の今日的な容帝反共主義の思想的源流は、すでにここに発しているといっていいのである。黒田のイデオロギー的問題性の根底には、容帝反共主義の思想がよこたわっているのである。この事件は、黒田の本質をなによりもよく示すものとして、けっして過去的事件として葬り去ることを赦さぬ重大な問題を、われわれすべてにつきつけているのである。
 かかる事実を基底とする探究派の「解体的危機」、黒田の小ブル的逃亡をみてとった西派は、五九年七月の革共同全国大会をまえにして、@労働者国家無条件擁護、A植民地革命無条件擁護、B炭鉱国有化、C社共支持、それらの左傾化の推進、などのスローガンを踏み絵として反帝・反スターリン主義派の閉めだしを開始するにいたるのである。われわれは五九年春以来の「下から」の組織的再結集のたたかい(国鉄委員会、早大、法政大等)、黒田式の個人的、サークル主義的な組織路線をのりこえる組織的な分派闘争の一定の前進を基礎として、西派の踏み絵的な攻撃を迎えうち、われわれの党的自立のためのたたかいの本質的・積極的契機にそれを転化していったのである。かくしてわれわれは、西派の理論および実践のすべての面における現実的破綻をことごとく暴露し、粉砕することをとおして、第二次分裂をおしすすめ、一九五九年八月三一日革共同全国委員会が、反帝・反スターリン主義の旗をたかだかとかかげて創成されるにいたるのである。
 黒田寛一は、西派との全面的対決の場として本多書記長やわれわれが全力でかまえた八月末の全国大会の出席権すら奪われ、ひねもす府中の親の家に庇護を求めて蟄居している(オヤジとの平和共存戦略)、という世にも哀れなありさまであった。本多書記長を先頭に八月末、トロッキー教条主義者との対決を徹底的にたたかいぬき、反帝・反スターリン主義派の独自の組織的創成のために、トロッキー教条主義者との決別をかちとったのは、本多書記長以下七名の代議員であり、この七名のなかには、黒田はもちろん、今日カクマル反革命に籍をおくものなど、ただの一名もみあたらないのである。
 しかも赦すべからざることに、黒田はなおもスパイ問題を隠蔽し、自己批判を拒否しつづけたのである。全国委員会創設の会議における本多書記長や山村克らの、スパイ事件における責任の明確化、全国委員会創設に加わった同志のあいだにおける率直な自己批判こそ、革命党への全国委員会の飛躍に不可欠の純血性と革命家としての相互信頼の第一の保証である、という黒田にたいする要求にたいして、かれはなおも言を左右にして「大川にのせられただけだ」「未遂だから責任はない」などと言い逃がれに終始し、度しがたい小ブル的傲慢を示すにとどまったのである。こんな卑怯で矮小な人物が、革命運動の首領の地位を占めることなど、本多書記長あるかぎり、だれにとっても論外であったのであり、じつさいにもありえなかったのである。
 まさに本多書記長の英断と決断に満ちたすぐれた政治的=組織的指導によってこそ、革共同全国委員会は鮮かな飛躍をかちとるのであり、創成以来一年を経ずして、西分派との力関係を完全に全国的に逆転し、さらに六〇年ブントの革命的潮流との革命的統一をもなしとげることができたのである。
 黒田は、かの歴史偽造の書『日本の反スターリン主義運動1』において、みずからの醜悪な反プロレタリア的態度を隠蔽するという邪悪な意図をもって、なんらの内容上の説明もぬきにして「大川の『規律違反』問題』(同右三八六ページ)などと一言書きそえ、「『疑わしきものは直ちに組織的に排除する』という原則を適用することをおくらせたという日和見主義を粉砕すべきだということである」(同右三八七ページ)などとのたまっているのである。だが、この主語不在の一文は、冷徹な理性あるすべての人のまえに、その邪悪な意図を透明にしてしまっている他愛のない作文にすぎない。一体だれが「原則を適用することをおくらせた」のか? なぜ黒田はここで、この歴史偽造の書で、再三再四おこなっているかの卑劣な責任転嫁の手口、西京司や本多書記長にたいする例の卑劣な犯罪的手口をもちいることを敢えてはばかったのであろうか? 主語不在という文章こそ、主語がほかならぬ黒田である、ということを正直に告白しているのである。黒田は歴史偽造を得意とするデマゴーグであるかのごとくみえながら、じつは肝心の致命的なポイントにおいては、かくも臆病に事実を告白せざるをえないのである。卑劣な反革命分子の矮小きわまりない人格を露呈してあまりある文章といえるではないか。
 黒田寛一のイデオロギー的問題性の根底には容帝反共主義があること、一九五七年後半のスパイ事件は、このことを鮮明につきだしたのであった。そして黒田は、革共同全国委員会創設ののちも、その日和見主義と腐敗からの自己脱脚=革命的自己変革をいっかんして拒否しつづけたのであり、かかる黒田とわれわれとのあいだに、革共同第三次分裂の歴史的条件は、不可避的に成熟していくのである。
 ここで一言、青山到の果した歴史的役割についてふれておこう。
 五〇年当時から日共国際派の党員として、反戦学生同盟の活動家として、九大、九州学連で活動していた青山到は、五六年ハンガリア革命の衝撃を真摯にうけとめ、黒田寛一と交通を開始、探究派に加盟し、日共九大細胞を全体として左翼化することに尽力すると同時に、たびたび上京し、全学連フラクとの政治的折衝にあたっていた。黒田は、青山が全面的にかれを信頼し、個人的にも上京のあいだは九州との組織的・個人的な交通のポストを委託されていたという事情を、こともあろうに逆用し、なんらの正当な理由もなく、青山宛の親書を開封し、かれの夫人宛に秘密に青山の誹謗中傷を書き送るなど、赦しがたい非人間的裏切り行為に走り、青山はここで決定的に黒田不信を抱くにいたったのである(本書二九三ページの「個人的トラブル」とはこの事実をさす)。
 だがここから、青山は、探究派の反帝・反スターリン主義の思想と戦略、本多書記長らの政治指導部の構成のもつ意味を冷静に検討することを放棄し、黒田への人間的不信から、五〇年レッドパージ闘争の僚友島成郎(六〇年ブント書記長)にたいする全面的信頼へと一転して走り、全学連フラクション(五八年十二月一〇日合同反対派としての共産主義者同盟結成にいたる)に没入するにいたるのである。
 青山の革命的前衛党創成にかんする発想法は、きわめて無責任なものであって、本書二九三ページで批判されているとおり、大衆闘争とイデオロギー闘争とを二元論的に分離し、「大衆闘争は全学連にまかせておけばよい、そこで出てきた活動家を黒田理論(『プロレタリア的人間の論理』)で獲得すれば、党に結集することができるのだ」という論理に尽きるといってよい。ここには、大衆闘争を革命闘争にたかめていく指導部としての革命的前衛党の意義と歴史的役割は、完全に抹殺され、矮小な学習会集団としての党の位置づけしかなしえず、大衆闘争は学習会参加メンバーのプールとしての役割しか与えられず、帝国主義打倒の現実的たたかいは彼岸におしやられてしまうのである。
 事実、「大衆闘争の方針は全学連にまかせておけばよい」という青山の発想法は、活動家が血と汗とをもってたたかっているその方針と思想とを全学連(六〇年ブント指導下の)にあずける、ということを意味するがゆえに、全面的にかれの方針と思想とをもって活動家を掌握しえず、決定的瞬間にかれの組織的構想はつねに破綻せざるをえなかったのである。青山は九大を拠点に、ある段階までは六〇年ブント内の批判的反対派(ブントの大衆運動主義批判と黒田理論の学習を基軸とする)を形成しえたとしても、戦旗派中央を掌握した六〇年秋以降は、みずからが、「大衆闘争の方針」を含む党指導の全面的責任をとるべき立場にたたざるをえなかったがために、完全に破産に陥り、六一年三月の戦旗派全国細胞代表者会議において、その破産は満天下にさらけだされたのであった。
 この段階において、本多書記長の決断によって、革共同政治局は六〇年ブント戦旗派との合同を否決し、戦旗派全員の個人審査による革共同への個人加盟へと方針を転換するにいたるのである。かくして革共同政治局の全一的掌握のもとに、戦旗派の大多数とさらに約一ヵ月のちにプロレタリア通信派の一部とが革共同に加盟し、六一年春の時点で、革命的左翼の分裂は、基本的に止揚されるにいたるのである(六〇年安保闘争と六〇年ブントについては、本選集第四巻U部の安保闘争論を参照)。
 青山は、しょせん全国的政治指導部を形成する指導的人格たりえない人物であった。六一年の革共同再加盟後、六二〜六三年の第三次分裂当時は若干の積極的活動を展開したが、黒田理論をみずからのりこえる思想的拠点をどうしても構築しえず、六三年日韓闘争にかんする討論が開始されるとともに、「被抑圧民族の立場なるものは存在しない。そういう規定を用いることは、民族主義に陥る」と反発、会議に出席しなくなり、脱落するにいたるのである。ここには結局、黒田=カクマルと同じくレーニン主義、レーニン帝国主義段階論・民族理論の拒否があるのであり、初期マルクス『経済学哲学草稿』の絶対化が、結局青山の思想の核心なのである。そして革命党創成の現実的論理を、みずからのものとしてはなにひとつもちえず、孤立的個人に、最終的には回帰せざるをえないのであった。黒田は、『日本の反スターリン主義運動1』(三八四ページ)において、青山と大川の「陰謀」についてふれているが、青山がなぜたびたび組織的動揺をくりかえしたのか、その根拠には一言もふれえていない。なぜなら、青山は黒田の矮小化版であるからである。
 以上創成期(第三次分裂期)を中心に若干の解説を試みたが、これでUの1と4を終ることにする〔なお4でアルジェリア革命とフランスの反ド・ゴール闘争にふれられているが、黒田=カクマルが七八年末の酒田論文で創成期のこの視点を完全に抹殺し、革命的敗北主義を抹殺している点については、『共産主義者』四〇号の津久井論文、大橋論文を参照のこと〕。
 Uの2は、六二年秋の三全線を前後する時期に執筆されたもので、同盟の極左空論主義、最大限綱領主義的なセクト主義の作風を大胆に改善し、指導部の政治的成熟をかちとることを訴え、また地区党建設の革命的意義を最初に提起した重要な論文である。
 Uの3は、六三年三月、マル青労同主催春闘討論集会にたいするカクマル学生の暴力的破壊行為により「分派闘争」が公然たる反革命的敵対的矛盾へと転化して以降、最初に執筆された黒田=カクマルにたいする批判である。後年『日本の反スターリン主義運動』で、組織現実論としてまとめられた反革命の組織論を徹底的に批判しているものである。
 Uの5は、黒田寛一が、みずから候補者として六二年の参院選闘争をたたかいながら、いかに小児病的な日和見主義に陥っていたかを批判したものである。
 Uの6は、六三年一月五目の政治局通達である。黒田=カクマルの卑劣な分裂活動が、いかに組織の仕方それ自体日和見主義であり、反党的であるかを痛烈に暴露したものである。黒田、松崎明、森茂の三名は、六三年一月初めの時点では、本多書記長以下の正しい批判のまえに完全に屈服し、自己批判したのであるが、この約束を裏切り、六三年三月春闘集会の暴力的破壊、四月一日反革命分派通信『解放』の発刊と、公然たる反革命への転落を開始するのである。
 (4) Vの1は、六〇年十一月発表の『前進』巻頭論文である。六〇年ブントの戦旗派、プロ通派、革通派の三分解にたいして、プロ通派に焦点をあてて、六〇年安保闘争総括の方法を論じ、革命党建設の意義を説いている。
 Vの2は、同じく六〇年十一月発表の吉本隆明批判である。吉本隆明の一知半解のマルクス主義を厳しく批判し、革命党建設のたたかいにたいする敵対を厳しく糾弾している。
 Vの3は、六一年二月発表のプロ通派=姫岡批判である。反帝・反スターリン主義にたいする一知半解を鋭く批判している。
 Vの4は、六一年六月発表の『前進』巻頭論文である。政治暴力禁止法案反対闘争における社共の日和見主義と中間的諸党派の対応無能力と闘争放棄を鋭くあばきだし、全国的に革共同の細胞を建設し、革命党へと飛躍すべきことを説いている。
 Vの5は、トリアッチ主義的構造改革派として六一年日本共産党から脱党した春日庄次郎一派の日和見主義を批判した論文である。口では社会主義革命を説えながら、平和革命=構造的改良によって帝国主義の危機を救済する日和見主義の本質をあばいている(Uの4の春日庄次郎批判とあわせて読まれたい)。
 Vの6は、六一年十一月執筆の西分派の同志たちにたいする呼びかけである。六〇年安保闘争において、革共同と六〇年ブントに敵対してスターリン主義者と共同闘争を組むという犯罪的役割を果した西分派は、当然にも急速に没落し、六一年に指導部の分解をきたした。この分解を、労働者国家無条件擁護というパブロ主義的立場の根本的検討にまで深め、革命的共産主義者同盟の革命的統一を呼びかけた文章である(本選集第二巻所収「第四インターの歴史的破産」とあわせて読まれたい)。
 Vの7は、六二年三月発表の春日派批判の再論である。のちの統社同(統一社会主義者同盟=フロント)と共労党=プロ学同との分裂にいたる敵対的対立が、三月におきたことにたいして論評を加えたものである。双方の右翼スターリン主義的本質を鋭く批判している。
 Vの8は、六二年七月発表の参議院選挙闘争の総括である。参議院選挙闘争に結集された二万三千の支持者の渦を、まさに革命運動の推進者の奔流に転化すべきことを訴えている。
 Vの9は、六三年二月発表の日韓会談にたいするわが同盟の最初の態度表明である。日帝の南朝鮮再侵略を実体的にあばきだし、日朝労働者人民の国際主義的団結によって再侵略を阻止することを訴えている。
 Vの10は、六三年八月発表の第四インター批判の再論である。国際スターリン主義の中ソ両極への分解に幻想を抱き、中ソいずれかを美化し、その補完物になりはてている第四インター各派を革命的に批判し、その国際的分解と対立に、ただ右往左往して追随するわが国の第四インターを批判している。
 (5) Wは、日本共産党批判である。
 Wの1は、七三年六月執筆の未公刊論文である。周到な準備のもとに、かなり長文で全面的な日共スターリン主義への批判を意図していたことがうかがわれるが、未完に終ったのが残念である。わが革共同の「侵略を内乱へ」の戦略的路線にたいする敵対、革命的敗北主義の放棄から切りこみ、根底的な批判を展開している。
 Wの2は、六二年八月一五日『前進』発表の論文である。ソ連一国社会主義の利益に無条件的に追随することを、国際主義であると誤って考える日本共産党=スターリン主義にたいする批判である。
 Wの3は、六四年五月発表の論文であって、日本共産党創立以来の幹部たる志賀義雄が、鈴木市蔵、神山茂夫、中野重治らとともに、親ソ連派として、部分核停条約への賛成を口実に、日本共産党から分裂した時点の論評である。
 Wの4は、七三年執筆の遺稿である。革命的共産主義運動の歴史を執筆しようとして、その最初の部分を「革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂」としてまとめた部分である。六全協にたいする革命的批判を終え、ソ連共産党二〇回大会の問題性に筆がすすんだところで絶筆となっている。本多書記長は読者の理解を助けるために、文中数多くの〔注〕を設け、みずから説明をする予定であったと思われるが、その作業も未完に終っている。以下は、筆者の企図を体して、編集者の責任でこれを補ったものである。
 〔注1〕第六回全国協議会。解題(3)の四八八〜四八九ページ参照。
〔注2〕解放軍規定。アメリカ帝国主義占領軍を、日本軍国主義=天皇制絶対主義を打倒し、民主主義革命を遂行する解放軍と規定した日本共産党の四五年〜五〇年の戦略的規定。野坂参三がその代表的イデオローグ。
〔注3〕平和革命論。アメリカ帝国主義占領軍が解放軍であり、この武力を背景に日本軍国主義=天皇制絶対主義の残存反動勢力を打倒していくことができるから、暴力革命は不要であり、平和革命が可能だとする日本共産党の四五〜五〇年の右翼日和見主義的戦略。
〔注4〕団規令への合法主義的屈服。四九年GHQ(連合国総司令部)によって発布された団体等規正令が、主要に日本共産党の組織実態の調査、掌握を意図したものであったのにたいして、日本共産党中央が主要単産等の労働者党員の名簿を売りわたすという恥ずべき屈服をおこなったもの。
〔注5〕レッドパージ反対闘争のたたかわざる敗北。戦後革命の敗北ののち、四九年から五〇年にかけて、日本共産党とその支持者を官公庁、民間主要企業から追放するレッドパージが、GHQの指令によっておこなわれたが、日本共産党は、解放軍規定と平和革命論の日和見主義から、まったく闘争指導を放棄し、たたかわざる敗北を喫した。
〔注6〕六・六追放。一九五〇年六月六日GHQマッカーサー指令によって、日本共産党中央委員会に所属する徳田球一、野坂参三らにたいして、国会議員等すべての公職から追放する大弾圧がおこなわれ、六月二五日勃発した朝鮮戦争の準備のために、日本国内のスターリン主義党の勢力の一掃が開始された。
〔注7〕サンフランシスコ講和会議。一九五一年九月、サンフランシスコにおいて、日本の占領の解除と「国際社会への復帰」を図るための講和会議が、米英帝国主義の主導下にスターリン主義陣営諸国を排除して開かれ、翌五二年四月二八日発効した(沖縄の分離的軍事支配がこれによって決定されたために、以後四・二八が沖縄闘争の日となる)。わが国においては、「社会主義陣営」(スターリン主義陣営)をふくめた「全面講和」か、帝国主義陣営だけとの「片面講和」か、がまさに国論を二分して激しくたたかわれ、社会党は、講和条約、安保条約共に反対の左派社会党と、講和条約賛成、安保条約反対の右派社会党とに分裂した(五五年に左右社会党合同)。だが、スターリン主義の誤り、朝鮮戦争にたいする革命的反戦闘争の提起の欠如という状況下にあって、これらのたたかいの正しい発展がかちとられず、講和条約の発効にいたった。
 〔注8〕労働三法改悪と破防法制定にたいするたたかい。一九五二年三月から四月まで、社共、知識人、労組が一体となってたちあがり、歴史的な労闘ストが三波にわたってたたかわれ、全国的な政治闘争の爆発をかちとり、反動攻勢に大打撃を与えた。
 〔注9〕 コミンホルム批判。コミンホルムとは、Cominform〔Communist Information Bureau〕の略称。欧州共産党・労働者党情報局をさす。戦前のコミンテルンが世界共産党を名のっていたのにたいして、戦後は欧州のみの共産党の情報交換のビューローというたてまえをとっていたが、五〇年一月の日本共産党(野坂参三)にたいする批判にみられるとおり、けっして欧州のみの活動に局限されていたわけではなく、またソ連共産党政治局の全一的指導下におかれていたこともコミンテルンと同様であった。
 五〇年一月の日本共産党批判とは、野坂の解放軍規定と平和革命論とを突然、コミンホルム機関紙『恒久平和と社会主義のために』紙上で批判し、ブルジョアジャーナリズムの報道が先んじてわが国ではおこなわれたため、日共政治局は「デマ報道」と一蹴する声明を発表、その後機関紙が郵送されてきて、批判の内容を知るというありさまで、日共党中央、全党が大混乱に陥った。この批判は、解放軍規定と平和革命論とが、ソ連スターリン主義の第二次大戦=反ファッショ解放戦争規定から必然的に出てくるものであり(欧州共産党のなかでもフランス、イタリア共産党等も同様の戦略を採用していた)、ソ連スターリン主義の戦後の世界戦略の一環をなしていたのであるが、米英帝国主義の冷戦戦略への転換に対応して、ソ連スターリン主義の戦略転換がおこなわれ、旧来の戦略規定を一掃する必要に迫られ、それを野坂参三(日本共産党)のみに責任転嫁したものにすぎない。
 〔注10〕所感派。コミンホルム批判にたいも「日本共産党政治局の所感」を発表し、これを拒否する態度をとった徳田球一、野坂参三、伊藤律、長谷川治、志田重男、春日正一、松本三益ら九人の政治局多数派。九幹部は、コミンホルム批判を全面的にうけいれ、自己批判すべきだと主張した志賀義雄、宮本顕治、春日庄次郎ら政治局少数派(=国際派)を排除し、非合法生活に入り、党を分裂に導いた。
 〔注11〕国際派。コミンホルム批判を全面的にうけいれ、自己批判すべきだと主張した志賀義雄、宮本療治、春日庄次郎、袴田里見、神山茂夫ら政治局・中央委員会内の少数派。武井昭夫委員長指導下の五〇年当時の全学連、全国の学生細胞の大部分、および中国地方委員会等は国際派に所属したが、その一枚岩のスターリン主義党組織論=国際権威主義の立場から、ソ連共産党および中国共産党がなんら理論的、路線的内容をもたぬ国際派批判をおこない(五一年八月)、日本共産党の統一をよびかけたことに打撃をうけ、一挙に瓦解した。
 学生活動家組織=反戦学生同盟のみが、みずからは大衆団体であって、国際派分派ではないという防衛的論理をもって、少数ではあるが、五五年六全協まで活動をつづけ、五六年全学連八中委、九大会路線によって全面的に復活。五八年には社会主義学生同盟への転換をかちとり、「左への転換」の母体を一方で担うにいたるのである。
 〔注12〕伊藤問題、志田問題としてあばきだされた日共指導部の腐敗。伊藤律、志田重男は、ともに日共政治局員で、それぞれ潜行九幹部の一員。前者は徳田書記長のスポークスマン的位置にあり、後者は徳田死亡後、事実上最高実力者として全組織を掌握し、四全協、五全協を指導した。伊藤律は、潜行中戦前からのスパイ行為を指弾され失脚(発表は五三年)。志田重男は、六全協後しばらく宮本顕治と指導権を争ったが、潜行中の道徳的腐敗と官僚主義的指導を指弾され、失脚、戦線逃亡。以後非政治的生活にはいり、七七年死亡。
 〔注13〕宮本問題としてつきだされた国際派指導部の召還主義。注11でふれたように、五一年のソ連・中国共産党の日本共産党批判以降、国際権威主義の立場から、いっさいの党活動と階級闘争とのかかわりあいを放棄し、書斉にとじこもった宮本顕治を典型とする国際派の右翼日和見主義をさす。
 (6) Xは、国際問題にかんする論評である。
 Xの1は、六一年十月発表のベルリン危機にかんする論評である。国際革命運動の精華たるドイツ・プロレタリアートの東西への反労働者的な分割は、ヨーロッパにおけるプロレタリア世界革命運動の前進にたいする最大の障害である。本論文は、両ドイツプロレタリアートの革命的決起と革命的合流こそ、帝国主義とスターリン主義にたいするプロレタリアートの唯一の回答でなければならないことを説いている。
 Xの2は、六一年十月発表の『前進』巻頭論文である。北方領土問題にかんする日帝の排外主義的扇動を鋭く批判し、プロレタリア国際主義の復権を強調している。カクマルの北方領土問題にかんする反ソ排外主義を批判する基準となりうるすぐれた先駆的論文である。
 Xの3は、六五年九・三〇事件として勃発したインドネシアにおける反革命クーデターの分析である。スカルノ大統領のボナパルチズム支配のもと、三百万党員を擁するインドネシア共産党を一瞬のうちに壊滅においこんだこのクーデターは、約一〇年にわたって威力を誇った北京――ジャカルタ枢軸を崩壊させ、アジアの民族解放闘争に反動的打撃を与え、アメリカ帝国主義を中心とする新植民地主義的支配体制の再編の反動的拠点として、インドネシアを帝国主義陣営に吸収するものであった。本論文は、このクーデターにたいするインドネシア共産党の敗北が、中国路線の全面的破綻にもとづく歴史的必然であったことを明らかにしている。
 Xの4は、六六年三月発表のインドネシア問題にかんする再論である。日共の御用評論家増田与の誤った楽天主義的論評(九・三〇事件におけるインドネシア共産党の敗北を認めない)を徹底的に批判し、旧植民地地域が民族独立をかちとりながらも、戦後世界経済の矛盾の決定的しわよせをうけ、帝国主義の金融的従属から自立しえない状況のもとにおけるスカルノ・ボナパルチズムの脆弱な構造と反革命の必然性を歴史的に明らかにしている。かかる後進国人民の解放のたたかいの困難を打開する道は、先進国革命と後進国革命の結合=世界革命にあることを強調している。
 一九七九年五月         前進社出版部