四 インドネシア反革命の教訓
旧植民地地域の反動的再編と北京――ジャカルタ枢軸の崩壊
国民経済と世界経済の有機的統一性を無視した毛沢東(中国スターリン主義)の自力更生路線は、世界革命に敵対するものであり、九・三〇事件に示されたように、国際帝国主義の新植民地主義体制構築の野望に手をかすものでしかないことを、世界史にかんする筆者の該博な知識をもって説き明かした論評である。発表時の署名は武井健人。
日共の御用評論家として健筆をふるう増田与は、昨年暮つぎのような大ボラをたたいていた。
「アイジットをはじめとする共産党の重要部分は、帝国主義とブルジョアジーに包囲された都市から、すでに都市から農村への革命の波をおくりこむ運動の中できずきあげられてきた農村の陣地のなかに安全に後退し、これからプロレタリア思想の純潔を保持しながら新しい条件のなかで党建設を展開するという機会をつかむことができた」(「スカルノ体制の崩壊とインドネシア革命」『世界』十二月号)「アイジットをはじめとする共産党の重要部分」が、すでに軍部反革命のテロにたおれていることが明白になった今日、増田与は恥知らずにも「インドネシアのマルクス・レーニン主義者はいま勇敢に合法面(=都市・筆者注)に残って、スカルノをはじめとする民族ブルジョアジーを断固として支持し、空軍将兵と陸軍兵士大衆にスカルノ中心に結集するようよびかけている」(「インドネシア共産党はどうでる」『現代の眼』三月号)と言をひるがえし、そのうえ「ユスフ・アジトロフ共産党政治局員をはじめ多くのインドネシアのマルクス・レーニン主義幹部が中国をはじめとする新興諸勢力のなかにまもられている」などと気休めをいっている。
だが、インドネシアにおける軍部反革命の勝利は、もはや明白である。今日にしてなおこの事実を疑うものは、自己の存在を疑うべきであろう。党員三百万、翼下の大衆団体二千万を誇ったPKI(インドネシア共産党)は、スハルトを先頭とする軍部反革命の弾圧のまえに算を乱して敗走した。事実、アイジットを先頭とするPKIは、将軍評議会の軍部反革命の陰謀にたいし、左翼的な将兵を中心とする民衆不在の軍事クーデターをもって応えようとしたが、「十月一日のラジオをきけ」という奇妙な指令のもとに待機していたPKI翼下の民衆は、スハルトの指揮のもとに機敏な反撃を開始した軍部反革命のまえに、事情もわからぬままに解体されてしまった。スバンドリオ第一副首相を代表とする国民党左派(民族ブルジョアジーの「左の影」)の運命は、すでにこのとき決まっていたのである。
昨年秋、九・三〇運動の直後にわたしが痛苦をこめて指摘したように(本巻第X部三参照)、一方では、民衆の現実の苦しみをよそに民族ブルジョアジー(じつは腐敗しきった国家資本管理層、新億万長者、新規民間企業を中心とする新富裕層、華僑的商人資本の複合体)に賛歌をかなで、他方では、民衆の生きた闘争と切断された地点で民衆不在のクーデターを試みることが、インドネシア民衆にどれだけの犠牲を強制したことか。増田与がなんといおうと、『赤旗』がなんといおうと、北京放送がなんといおうと、PKIはインドネシア反革命のまえに無力であったばかりでなく、民族ブルジョアジーにたいする民衆の政治的武装解除を準備したという意味において、軍部反革命の政治的先導者でもあった。この事実を直視することなしには、インドネシア反革命の本質を正しくとらえることはできない。
スカルノ大統領の去就にかかわりなく、今日、インドネシア共和国の実権は陸軍を中心とする軍部反革命に掌握されている。サレーなどの億万長者、国家資本に寄生する新管理者層、「アリ・ババ」企業とよばれる新型企業経営のなかに融合した新富裕層=「オラン・カヤ・バル」(中下級の軍士官、官僚、地主)と華僑などからなる「民族ブルジョアジー」は、スハルトを頂点とする軍部反革命を支持し、その勝利を保証する社会的基礎を形成しているのだ。五八年のマシュミ党の軍事反乱など、従来の反革命がジャワ本島にたいするスマトラ島など外領の地方的反動を背景としたのに反して、今回の軍部反革命がジャワ島そのものの反動としておこったことの秘密は、まさにこの点にあった。
旧プランテーションを主軸とするジャワ島の経済的=政治的優位性は、ジャワ糖業の衰退、外領におけるゴム、石油産業の興隆、輸出作物におけるプランテーションの生産比重の低下によって、戦後、傾向的に後退していった。インドネシアにおけるブルジョア的支配の脆弱性は、もちろん、部族的、諸島的な分裂の強固な残存にもとづく民族形成の未成熟にあったことはいうまでもないが、同時にまた、ジャワ本島の経済的=政治的地位の傾向的後退にもとづく民族ブルジョアジー内部の政治的変動の別の表現でもあった。スカルノ大統領の卓越した政治力に依拠したボナパルティズム形態の支配体制は、インドネシア民族ブルジョアジーのこのような経済的=政治的流動性、それに対応した階級的・階層的矛盾の政治的=経済的直接性を、政治的に「統一」する安定装置であった。
西イリアン解放闘争からマレーシア「粉砕」闘争にいたるいわゆる反帝闘争は、インドネシアにおける民族ブルジョアジーの資本形態の複線性、地方的・諸島的対立、新旧地主層の流動的対立、階級的・階層的矛盾の深刻性、そして国軍内部の複線的な対立と上下の矛盾などを、民族ブルジョアジーの主導権のもとに「統一」し、民族ブルジョアジーの民族支配権=国軍の全国的な軍事支配権を確立する「民族主義的」テコとして展開された。
オランダなど旧支配国から接収した資本金約一六億ドルの国営企業、アメリカなど帝国主義諸国からの約一三億ドルの経済援助、日本からの約三億ドルの賠償金と商品援助、ソ連、中国などスターリン主義諸国からの約一〇億ドルの経済援助を資金として形成された国営・民営資本は、「アリ・ババ」とよばれる新規民間企業と結合することによって、インドネシア資本主義の新しい経済的基礎を形成した。また、帝国主義諸国からの約五億ドルの軍事援助、スターリン主義諸国からの約一〇億ドルの軍事援助は、インドネシア民族ブルジョアジーに東南アジア最大の軍事力を与え、軍事反革命の強大な物質的基礎を準備したのであった。
しかも、このようなインドネシア資本主義の形成と尨大な軍事機構の確立の過程は、一方で、官僚的地位を利用して企業と軍事機構を食いものとする腐敗現象を花さかせながら新富裕層を形成していくとともに、他方では、軍事予算が国庫支出の七四%を占めるという放漫な財政政策の結果として、天文学的数字をたえず更新する悪性インフレをひきおこしながら、生活を根底から破壊するものとして進行していった。したがって、極度の食糧難と悪性のインフレのなかで呻吟するインドネシア民衆にとって、問題の中心はマレーシア「粉砕」などという観念的な「反帝」闘争にあったのでなく、生活苦の根源をなしているインドネシア資本主義、農民の土地解放闘争に血の弾圧を加えるスカルノ支配体制そのものにむかって、米をよこせ、土地をよこせ、政府をかえろ、といってたちあがる方向にあったのだ。
ムルバ党(民族共産主義者)にたいするセクト主義的な排斥運動の一環としてであれ、PKIが経済担当相の追放運動の先頭にたっていたとき、圧倒的にPKIを支持していた都市民衆が、ムルバ党追放後のスバンドリオ経済担当相を支持するPKIにたいして、冷淡となったばかりか、回教徒の反動的な暴動の先兵にすら転化していった政治的ダイナミックスこそ、われわれにとって貴重な階級的教訓ではなかろうか。
事実、民族ブルジョアジーの権力たるスカルノ支配体制の「左の脚」として成長してきたPKIは、食糧危機とたたかう都市の民衆にたいし、そしてまた、血の弾圧のなかで、土地占拠をたたかう農民にたいして、「スカルノ万才」「民族ブルジョアジーとの長期的団結」を命令したばかりか、反帝闘争の美名にかくれて軍事予算の膨脹=軍事機構の巨大化を支持するとともに、展望なき「自力更生」政策の推進に血道をあげてきた。
だが、そのとき、スカルノ支配体制の「本当の脚」としての軍部と民族ブルジョアジーは、西イリアン解放闘争からマレーシア「粉砕」闘争にいたる過程で確立された民族ブルジョアジーの民族主導権を背景として、着々と反革命の準備を進めていたのだ。国家資本、新規民間企業を軸とするインドネシア資本主義の形成、ジャワ本島と外領を全一的に結合する民族ブルジョアジーのあらたな反動的編成こそ、このような反革命を必然化する社会的=経済的基礎であった。
しかも、インドネシア民族ブルジョアジーのこのような反動的編成の国際的背景には、旧植民地諸国の戦後的独立を可能にしてきた国際的与件の崩壊、旧植民地諸国の勢力圏の再編成をめざす帝国主義諸国間の対立が存在している。ゴム、石油などの特産物が輸出の三分の二以上を占めるというインドネシアの産業構成は、インドネシア経済と国際経済との結合をきわめて深いものにしている。帝国主義的植民地支配の結果として必然化したインドネシア経済の特化構造は、帝国主義的世界経済の全般的な変革と結合してのみ解決しうる。
北京――PKI――スカルノの自力更生路線は、国民経済と世界経済の有機的関連を無視した幻想的保護政策にすぎない。帝国主義的危機の深刻化は、インドネシア反革命の運命を帝国主義により深く結びつけるであろう。それは、国際経済における帝国主義諸国の経済的比重の圧倒的な強さを示すとともに、現代世界の危機の深刻さを意味しているといえよう。ベンベラの失脚、エンクルマの神話の崩壊、スカルノ体制の没落という一連の事件の根底に横たわるものは、旧植民地地域における新しい反動の開始、国際帝国主義と反動化した民族ブルジョアジーの新しい同盟の深まり、である。
いまや、後進国地域、旧植民地諸国における革命と反革命は、新しい段階を迎えようとしている。中国のいわゆる中間地帯論は、本質的にいって、反労働者的な理論として誤っているばかりでなく、帝国主義と民族ブルジョアジーの新しい反動的関係の形成を無視した、およそ非現実的なものであり、政策としても誤っている。われわれは、インドネシア反革命がつきつけている「血の教訓」をなにひとつ恐れることなく学びとらなければならない。インドネシア人民の血で汚れた国際帝国主義と民族ブルジョアジーの反動的同盟にたいするわれわれの真実の回答は、先進国革命と後進国革命を結合する道であろう。
(『前進』二七七号、一九六六年三月二八日 に掲載)