三 インドネシア九・三〇事件の本質
   PKIの解体と中国路線の全面的破産
 
 東南アジア情勢を一変させたインドネシアの六五年九・三〇事件の反動的本質を解明し、中国路線を支持する世界最大の規模(党員三百万)の党を誇っていたインドネシア共産党(PKl)が一夜にして解体的危機においこまれた原因が、レーニン主義的労農同盟論の否定のうえになりたっている毛沢東の統一戦線論(民族ブルジョアジーとの協調論)にあることを論じた好論文である。
 
 
 東風は西風を圧倒する――という毛沢東のことばは、帝国主義は張子の虎である、という規定とともに、現代世界にたいする中国指導部の考え方を示すものとして有名である。これらの表現は、それ自身としてみるならばきわめて非科学的な独断にすぎないが、にもかかわらず帝国主義的抑圧に呻吟する植民地人民の多くにとって、解放の希望″を伝える福音であったことも無視できない。だが、戦後二〇年間の歴史は、このような私観主義的な把握が、理論的に誤っているばかりでなく、現実的にも破産に直面していることを教えている。
 全世界の労働者階級と被抑圧人民は、すでに破産を満天下にさらしたフルシチョフ主義とともに、急進主義的言辞に隠れて労働者革命の基本路線を絞殺する毛沢東主義をのりこえて前進すべき歴史的局面に立っている。AA会議の延期とインドネシア反革命をめぐる中国路線の危機は、今日の中国指導部の世界戦略の反動的性格の歴史的実現である。
 
   二
 
 AA会議の無期限延期にたいして、中国指導部はただちに声明を発表し、「米帝国主義と現代修正主義の分裂策動にたいする世界人民の偉大な勝利だ」と豪語した。だが、それははたして中国路線の勝利を意味するのだろうか。事実は「正に逆」である。
 そもそも、中国がAA会議への不参加を表明したという事実そのものが、アジア・アフリカ諸国における中国路線の深まりゆく孤立を意味しているのであり、五〇年以来の民族ブルジョアジーとの同盟路線の現実的破産を意味している。今日、中国指導部は、ネルー、ナセル、ケニヤッタなどAA諸国の往年の政府指導者にたいして、「帝国主義と妥協した民族ブルジョアジー」という評価をもちだそうとしている。
 だが、バンドン精神の美名に隠れてこれらの民族ブルジョアジーを称賛してきたのは、フルシチョフとともに毛沢東その人であった。ネルーが民衆の極度の貧困のうえに巨大鉄鋼資本を築きあげ、ナセルが数千名の共産党員を牢獄につないでいたとき、毛沢東とその僚友たちは、アジア・アフリカの反植民地主義的団結を謳歌していた。一転してインドやエジプトの「国家資本主義」を非難しだしたのは、ネルーやナセルが中国の外交的同盟者ではなくなってからである。中国指導部はスターリンと同様に「一国社会主義」=特権官僚の利益から出発しており、けっしてネルーやナセルの支配下で苦闘する労働者人民の利益から出発しようとしない。いったい、スカルノやプーマやカーンの国家資本主義のもとで呻吟する労働者や農民は、シャストリやナセルのもとで貧窮する労働者や農民よりもいくらかましなのだろうか。
 中間地帯論や民族ブルジョアジーの「二重性」の理論(一面反帝、一面買弁)は、このような反労働者的、反人民的世界政策の本質を隠蔽し、合理化するためのカクレみのであり、スターリン時代の国共合作や独ソ協定と同様の官僚主義を美化する新型のイデオロギー的外被である。
 したがって中国指導部は、今年のはじめころから「進歩的民族国家における革命の平和移行の条件の喪失」を問題にし、「人民戦争の普遍的意義」を強調しだしたが、それはAA会議の無期延期に象徴される中国路線の危機、とりわけ民族ブルジョアジーとの反帝同盟という右翼的構想の行き詰まりを打開するための急進主義的なジグザグである。四九年、北京のアジア労働組合会議における劉少奇演説(アジアにおける民族解放闘争はすべて武装闘争である――ゴジは筆者)が、日本労働運動やアジア解放闘争にもたらした深刻な打撃について、いまふたたび怒りをもって想起せざるをえない。
 
   三
 
 ウントン少佐の九月三〇日運動と、これにたいする陸軍右派を主力とする反革命の勝利は、北京――ジャカルタ枢軸を一瞬にして崩壊させるとともに、中国路線を支持する世界最大の党(党員三百万)であるPKI(インドネシア共産党)を解体的危機にまで追いこんだ。
 「今日の革命情勢を革命的頂点にまで発展させてゆく」(九月一四日の中央労連=SOBSIにおけるアイジットPKI議長の発言)ことの一環として開始されたウントン少佐の軍事クーデターは、逆にインドネシアにおける反革命を頂点にまで発展させる起点となってしまった。民族主義と回教主義と「共産主義」の均衡のうえにたつスカルノ・ボナパルティズム政権を、危機にたつ中国の世界戦略の強力な同盟者に転形しようとした北京の構想は、わずか三ヵ月間の有頂天を歴史に刻みつけて、もろくも崩壊した。
 日本共産党機関紙『アカハタ』は、反革命が荒れすさんでいる十月一〇日になって現地特派員の通信を報道し、「PKI、スカルノを支持」「インドネシア革命の力は不抜」と例の自己満足を開始した。だがその後、ふたたび沈黙を守らねばならなかったように、インドネシアの情勢はもっと深刻な事態をむかえていた。弾圧、テロ、焼打ち……九月三〇日運動の関係者にたいする軍部の報復は、PKI指導者のみならず、一般党員や華僑、さらに食糧危機に苦しむ都市労働者や都市貧民のうえに無制限に拡大されはじめている。
 PKI指導者たちは、中国に亡命するか、スカルノの袖にすがりつくか、中部ジャワの農村根拠地に逃げこんだが、都市の労働者や貧民たちは組織的防衛をまったく欠いた状態で放置されている。党員三百万、傘下大衆団体二千万を豪語していたPKIは、ストライキひとつうつでもなく、算を乱して後退し、反動テロのなすままにされている。
 だが、このようなPKIの敗北は、五〇年以来アイジットの指導のもとに発展してきたPKIの、基本路線、その指導理念としての中国路線の不幸な帰結でもある。
 もともと、スカルノ政権は、オランダ帝国主義との闘争をつうじて国有化した企業および払下げ企業の官僚的資本と農園主、地主のブロックに基礎をもつものであり、その利益を基礎として帝国主義権益下の外国企業、官僚資本、民間資本、華僑的商業資本、農園主、地主、小作農、貧民、農業労働者、都市労働者などの諸階級の錯綜する特殊利益、そしてまた、地方的、諸島的に対立する諸利益を「民族的利益」のもとに統一するという方法において優れた均衡能力をもった権力であった。六〇万におよぶ巨大な軍隊組織は、このような諸利害を民族的に「統一」する実体的基礎であった。カメレオンの異名をもつほど、たえず言動を状況にあわせてゆくというスカルノの政治能力は、インドネシアの現状で民族ブルジョアジーが生存する唯一の形式であった。スカルノの反帝・反マレーシア路線は、民族ブルジョアジーの側からすれば、深刻化する経済的危機、諸階級、諸地方・諸島民の対立を対外的闘争に転嫁するものであった。
 PKIは、四八年の極左的なマディウン反乱による壊滅のあと、アイジット議長のもとに再建されたが、その再建の道は、一方では、植民地的な状態と国家資本主義の放漫な経済政策のもとで呻吟する労働者、貧民、小作農の不満を基礎として成長しながら、他方では、官僚資本、農園主、地主のブロックを基礎とするスカルノ政権を、反帝闘争の旗のもとに支持し、その左側の御用政党として発展することであった。外国企業没収と労働者占拠、小作地の管理権をめぐる地主と小作人の流血の闘争、投機的な米商人やそれと結託した官僚資本にたいする食糧闘争など、激発し、拡大する大衆運動の波におしあげられながら、PKIは、「苦しみの根源」としてのスカルノ体制を支持するという内部矛盾を党(スターリン主義)のうちに蓄積していた。人口の七割を占める小作農の土地占拠のたたかいにたいして、アイジットら三人のPKI指導者を閣僚とするスカルノ権力は、PKI党員を主力とする農民指導者に大量虐殺を加えていた。
 したがって、スカルノ体制の危機は、その左の足としてのPKIのうちなる危機であった。だが、大衆の力を基礎とし、大衆の要求にそって危機を革命的に突破すること(それは同時にPKIの革命的解体→再武装を意味するだろう!)のできなかったPKI指導部は、軍部を基礎とする反革命にたいして、軍隊内クーデターを対置することによって自己を擁護し、北京――ジャカルタ枢軸を強めようとした。ウントン少佐の九月三〇日運動は、大衆闘争と切断された「軍部内クーデター」であり、スカルノの傘のうちの指導権争奪戦であった。だからこそ、その敗北は、反革命をして無準備の大衆にたいする勝手気ままな攻撃に直接に転化したのである。
 もちろん、インドネシア反革命は、一時しのぎの米輸入を除けば、その内部にインドネシアの危機を解決する方法をもっていない以上、短期日の反革命的熱気は、おそかれはやかれ増大する民衆の抵抗にふたたび直面するであろう。スカルノが右傾化して反革命の象徴としてとどまるか、失脚するか、あるいは一時的にボナパルティズム権力を維持しうるかにかかわらず、インドネシアの革命と反革命は、スカルノ・ボナパルティズム政権の傘のうちではけっして決着できないであろう。
 農村根拠地論を基礎とする武装闘争路線は、民衆の抵抗を正しく勝利に導く道ではない。問題の核心は、民族民主国家における平和移行の是非にあるのではなく、スカルノ体制にたいする労働者と農民の綱領的立場の明確化とそれを基礎とした軍部反革命にたいするレーニン主義的な統一戦線戦術にかかっている。
 
    四
 
 印パ戦争の停戦、インドネシアにおける反革命の勝利、AA会議の無期限の延期など、これら一連の事態は、中間地帯論を基礎とする民族ブルジョアジーとの同盟という従来の中国路線の破産を暴露した。バンドン精神とAA主義を分離しようという中国指導部の愚かな試みは、AA諸国政府からの中国の孤立を裏から証明するのに等しい。
 中国指導部はいう――民族ブルジョアジーと人民を区別しなければならない、と。言やよし、である。だが、これまでバンドン精神やAA主義の旗のもとに民族ブルジョアジーの政府を美化して、労働者や農民の思想的武装解除に手をかしてきたのはいったい誰なのか。PKIが敗北した現在、AA地域のいわゆる民族民主国家で共産党が独立した政治勢力を保持しているのは、わずかにインド、セイロンぐらいのものであろう。
 農村根拠地論を基礎とする武装闘争路組は、労働者階級の主体的な闘争を欠如した農民主義であり、けっしてAA地域の労働者農民の解放を約束するものではない。インドネシアにおける経験は、問題の核心が民族民主国家における平和移行の是非にあるのではなく、いわゆる民族民主国家にたいする労働者階級の革命的独自性の創成にあることを教えている。労働者国際主義の革命的原則が、いまこそAA地域の深部にうちこまれねばならない。
     (『前進』二五八号、一九六五年十一月八目 に掲載)