四 革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂
 
 本稿は、わが国の革命的共産主義運動を身をもって指導し、その一身に体現していた筆者が、みずからの豊富な経験と卓抜な理論にふまえて、執筆を準備していた通史の一部である。草稿は、第一章第二節を設定したところで絶筆となっている。反革命カクマルに筆者が暗殺されたことによって、この重大な作業は永遠に中断されたままになっている。この作業をひき継ぐのは、いうまでもなく残されたものの責務である。なお筆者は、論文の内容を考慮して、文中に多くの〔注〕を設定し、あとで補う予定であったと思われる。しかし、その作業もまた未完に終っているので、編集者の責任において解題のなかでこれを補った。
 
 
  第一章 革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂
  第一節 日共六全協――戦後日本革命運動の破産の問題/第二節 ソ連共産党二〇回大会――スターリン主義の問題
 
 
 第一章 革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂
 
 日本における革命的共産主義運動は、国際共産主義運動のスターリン主義的な変質にたいするプロレタリア的な自覚と、それをバネとした革命的共産主義の現代的な復権のたたかいとしてはじまった。
 日本における革命的共産主義運動の創成は、十数年前、日共六全協(五五年七月)、ソ連共産党二〇回大会(五六年二月)、ハンガリア革命(五六年十月〜十一月)の三つの歴史的衝撃をとおしてあばきだされたスターリン主義の問題性にたいする共産主義者としての主体的対決をとおしてたたかいとられた。日本プロレタリアートの戦後一〇年のたたかいと、それを基礎としたマルクス主義理論戦線上のたたかいは、国際共産主義運動のスターリン主義的な変質にたいするプロレタリア的な対決を主体的におしすすめることによって、はじめてその苦悩にみちた敗北と破産の歴史をうちやぶり、その戦闘性と革命性をひきだす共産主義的拠点を端初的に生みだしたのである。
 
 第一節 日共六全協――戦後日本軍命運動の破産の問題
 
 日本における革命的共産主義運動の創成を不可避とした第一の歴史的衝撃は、日共六全協としてつきだされたところの、戦後日本革命運動の敗北と破産、腐敗と退廃の現実であった。
 日本共産党第六回全国協議会〔注1〕は、五五年七月に開催され、その決議として、(1)五一年の五全協で採択された日共の新綱領(国民の当面の要求)は、戦略的には正しかったが、その実践においていくつかの戦術上の誤りをおかしたこと、(2)とくに軍事方針において重大な誤りをおかしたこと、(3)五〇年における党中央の分裂は規律上の誤りであり、党の統一のために関係者は努力しなければならないこと、などをうちだしたのであった。
 周知のように、当時の日共は、五〇年分裂とそれにつづく極左的な軍事方針の敗北、破防法制定を頂点とする権力の全面的な弾圧攻撃のまえに完全に意気消沈し、停滞と分解のかぎりない泥沼のなかにはまりこんでいた。こうした情勢のなかで、党態勢を再建するために、日本共産党は、宮本顕治――志田重男の指導体制を国際スターリン主義陣営の権威を背景につくりあげ、党路線の右翼スターリン主義的な手直しをはかっていたのであったが、六全協なるものは、このような日共の新路線に党規約上の適法性をあたえるものにすぎなかったのである。にもかかわらず、のちにみるように、六全協決議における「日共の自己批判」という事態は、一方では、党の無謬の神話のもとに苦闘をつづけてきた下部の党員大衆に自分の主体的認識をもって党の戦前・戦後のたたかいを総括する必要をつきつけるとともに、他方では、沈滞と分解にあえぐ党の現状を打開する重大な救済策として党の内外にうけとられていったのである。
 それゆえ、われわれは、日共六全協の問題を正しく検討するためには、まずもって日共六全協のもっている本質を危機にたつ日本スターリン主義運動の右翼スターリン主義的な手直しとして把握し、つぎに手直しの過程が生みだしたところの種々の問題を、革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂をおしすすめる観点からとらえかえしていかなくてはならないのである。事実の問題としても、六全協後の党内闘争は、六全協決議を契機として左翼反対派を生みだしながら、六全協的手直しのスターリン主義的本質をあばきだすところまで発展することによって、革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂をおしすすめ、革命的共産主義運動の創成をもたらす「母胎」の役割をはたしたのである。
 では、危機にたつ日本スターリン主義運動の右翼スターリン主義的手直しとしての日共六全協の本質的な特徴は、どのような問題としてあらわれているであろうか。
 第一には、戦前はもとより、戦後日本革命運動の度重なる敗北そのものの総括すら完全に回避した地点において党の総括なるものがおこなわれていることである。
 具体的にいうならば、(1)戦後日本革命の敗北、そこにおける二段階戦略、解放軍規定〔注2〕、平和革命論〔注3〕などの問題、(2)米軍の団規令への合法主義的屈服〔注4〕、レッド・パージ反対闘争のたたかわざる敗北〔注5〕、六・六追放〔注6〕にはじまる党の崩壊の問題、(3)朝鮮戦争にたいし全人民的な反戦闘争の高まりをもってこたええなかったこと、サンフランシスコ講和会議(そこにおける平和条約と安保条約の締結)〔注7〕にたいする反対闘争を放棄したこと、労働三法改悪と破防法制定にたいするたたかい〔注8〕から召還したことなどの問題について、六全協決議はただのひとことも総括しようとしていないのであった。いわば日本共産党は、戦後日本革命運動の重大な実践的問題と無縁なところで党の再建をおこなうことを裏側から確認したのである。
 第二には、戦略と戦術を機械的に分離することによって新綱領の戦略規定の検討を回避し、二段階戦略の右翼日和見主義的な手直しに道をひらいたことである。
 日共の五一年――五二年当時の軍事方針とその破産の問題は、軍事方針を採用したかどうかという戦術上の判断の正否にあるのではなく、(1)朝鮮反戦闘争、講和会議反対闘争、労働法=破防法反対闘争と政治的に切断された地点で日共の武装闘争なるものがたたかわれたこと、(2)その事実からも明白のように、軍事方針の破産があくまでも「民族解放民主革命」という毛沢東流の二段階戦略の誤りとむすびついているところにある。
 ところが、六全協においては、「数々の戦術上の誤りはあったが、綱領の戦略上の正しさは証明された」という転倒したかたちで二段階戦略の擁護が確固としておこなわれているのである。もとより二段階戦略の堅持という六全協の立場が、二段階戦略のいっそうの右翼日和見主義的手直し、すなわち、反帝反独占という形態での二段階戦略の議会主義的・経済主義的な手直しと背反するものでないことは、まったく明白であった。
 もともと二段階戦略の本質とするところは、民族解放の問題、民主主義の問題をプロレタリア社会主義革命に先行する独自の「革命段階」において解決されるものと想定することによって、民族解放の問題、民主主義の問題とプロレタリア社会主義革命とのむすびつきをたちきろうとするところにあるが、六全協ではじまった二段階戦略の宮本的な手直しの特徴は、一方では、帝国主義と植民地・従属国の関係を、日米帝国主義間の関係にペテン的にあてはめる方法で新綱領を踏襲しながら、他方では、二段階戦略に社民的な経済主義と議会主義を継ぎ木するところにある。六全協は、いわば戦略と戦術上の総括のむすびつきを機械的にたちきることによって二段階戦略をいっそう固定する役割をはたしたのである。
 第三には、軍事方針の自己批判という大衆追従主義的な表現をとって、党の右翼的転換をはっきりと宣言したことである。
 現実には、すでに日本共産党は、五二年七月の破防法発効を転機として軍事方針を清算し、万年待機主義的な右翼戦術に低迷していたのであった。六全協は、このような現実のうえにたって、五二年夏以来の事実上の後退を追認し、議会主義、合法主義、経済主義の方向に積極的に道をひらくものであった。要約していうならば、五〇年六・六追放以来の帝国主義権力の弾圧、朝鮮戦争とサンフランシスコ講和(沖縄の分離的軍事支配、日米安保同盟)の歴史的試練に耐ええなかった党の戦略と体質を自己批判し、その実践的克服の道をもとめるプロレタリア的態度とは逆に、軍事方針という権力と対決する路線をとったことが誤りであったと、「たたかった」ことそのものを自己批判する裏切り者の方法をここに確定したのである。
 第四には、五〇年分裂の総括を規約至上主義的な方法にとじこめ、党の組織問題と政治的内容とのむすびつきを機械的にたちきってしまったことである。
 もともと日共の五〇年分裂は、戦後革命の敗北、レ・パ闘争のたたかわざる敗北をとおして動揺と分解をふかめていた日本スターリン主義運動が、コミンホルム批判〔注9〕、六・六追放、朝鮮戦争という内外する厳しい歴史的現実のなかで破産し、その対応をめぐって所感派〔注10〕と国際派〔注11〕とに分解したものである。それゆえ、党の五〇年分裂問題の真の解決は、あくまでも政治的問題とむすびついたものとしておこなわれなくてはならないのである。ところが、六全協は、五〇年分裂を規約問題に単純化し、中央委員会の統一の回復、志田――宮本の密約による宮本の指導権の承認という宮廷革命的な方法に集約しようとしたのである。したがって、そこにおいては、伊藤問題、志田問題としてあばきだされた日共指導部の腐敗〔注〕、宮本問題としてつきだされた国際派指導部の召還主義〔注13〕の問題は、まったく問題ともなろうとしなかったのである。
 第五には、国際スターリン主義の権威主義的残光とその分解の傾向をたくみに利用しながら、日共指導部(その内部での宮本の指導権)の自主独立的な自立をはかる方向が、すでにこの段階で用意されはじめていることである。
 もとより六全協当時において「自主独立」路線なるものが、自覚的に確立していたわけのものでないことは、いうまでもないところである。にもかかわらず、六全協の背景には、一方では、スターリン、毛沢東、フルシチョフなど国際スターリン主義運動の権威を利用して日共内の主導権をかちとり、つよめながら、他方では、党の路線と指導体制を国際スターリン主義運動の動向から相対化し、日本帝国主義の民族排外主義との和解をおしすすめる、という宮本の構想がはっきりよこたわっていたのである。
 まさに、六全協ではじまった宮本式自主独立の道は、国際共産主義運動のスターリン主義的な変質とその危機を革命的共産主義の復権として止揚する反スターリン主義の道に敵対し、共産主義の国際主義的本質を解体し、国際スターリン主義運動の危機と分解を「民族共産主義」に集約し、帝国主義の民族排外主義の攻撃のまえにプロレタリアート人民を屈服させるものでしかないのである。
 集約していうならば、日共の六全協は、危機にたつ日本スターリン主義の右翼スターリン主義的な手直し、二段階戦略と人民戦線戦術の独自なむすびつきの道以外のなにものでもないのである。それゆえ、日共六全協としてあばきだされたところの日本革命運動の破産と腐敗の現実は、あくまでも六全協的路線そのものの右翼スターリン主義的木質をうちたおすところまでたたかいをすすめることなしには、けっして解決されえないのである。
 しかしながら、同時に重要なことは、日共六全協としてうちだされた日本スターリン主義運動の手直しの動きが、さしあたっては日共の党内闘争の激発としてうけつがれていった、という点である。
 すなわち、六全協の直後、日共内の反応は、三つの傾向をとってあらわれた。第一は、旧所感派系幹部と旧ビューロー機関要員を主要な基礎とする保守的な反発の傾向であった。しかし、この部分は、五全協の路線を独自に展開していく能力も決意ももっていないため党組織から逃亡するか、新主流体制に追従していくか、という選択しか残されていなかったのである。
 第二は、下部党機関要員ならびに居住細胞の大半を基礎とする緩和と安静をもとめる傾向であった。この部分は、独自の路線をもっていないが、しかし、レッド・パージと五一年――五二年の軍事方針という二つの敗北に意気消沈しており、全体として緩和と安静の方針を歓迎し、そこに結集する特徴をつよくもっていた。
 第三は、職場党員、学生党員ならびに旧国際派系幹部を基礎とした党革新をもとめる傾向であった。この部分は、特定の路線のもとに結集したものではないが、(1)労働運動、学生運動の戦闘的上昇の気運にむすびついていること、(2)五〇年以来の党指導の失敗の責任から基本的に「自由」なため党革新の意気にもえていたこと、の二点において六全協後の党の動向を主導的に決定する要素をなしていたのであった。
 それゆえ、第三の傾向は、党内闘争の発展とともに、新しい三つの主導的要素に結晶していったのである。
 すなわち、第一には、宮本頭治、袴田里見を先頭とする新主流であった。野坂参三、春日正一、米原昶など旧所感派系の幹部がこれに追従した。
 第二には、春日庄次郎や東京都委員会などの新反対派であった。この要素は、構造改革的な傾向の社会主義革命論を旗印に結集し、宮本新主流の二段階革命論(反帝反独占の新しい人民の民主主義革命)に対抗していた。志賀義雄、神山茂夫、中野重治などは、第一の要素と第二の要素の中間主義として存在し、革命論的には新主流派に同調した。
 第三には、全学連、若手労働者党員などの左翼反対派であった。この要素は、当初、新主流にたいする反対派として第二の要素と共生していたが、しだいに左翼反対派としての独自性をつよめ、世界革命論とそれにもとづく日本社会主義革命論の傾向に結晶していったのであった。しかし、この第三の要素が真の革命的潮流に飛躍するためには、戦後日本革命運動の戦略的、組織的総括、日本革命の綱領問題において新主流との非妥協的な対決をおこなうのみならず、ソ連共産党二〇回大会、ハンガリア革命として厳しくつきだされたところの国際共産主義運動のスターリン主義的変質の問題との共産主義的主体性をかけた対決が決定的に必要であった。それは、ほかならぬ自分じしんのスターリン主義者としての本質にたいする根底的な対決であった。
 
 第二節 ソ連共産党二〇回大会――スターリン主義批判の問題
 
 日本における革命的共産主義運動の創成を不可避とした第二の歴史的衝撃は、ソ連共産党二〇回大会におけるフルシチョフのスターリン批判と、それをめぐってあばきだされたところの国際共産主義運動のスターリン主義的な変質とその歴史的破産の現実であった。六全協をめぐって日本共産党の党内闘争がようやく本格的な段階にさしかかろうとしていた一九五六年二月、ソ連共産党は第二〇回大会を開催し、フルシチョフ報告を提起した。
 すなわち、その骨子とするところは、(1)世界情勢が構造的に変化したこと、(2)こうした情勢のもとでは帝国主義戦争が不可避でなくなったこと、(3)したがって、帝国主義と社会主義の対立は主要には体制間の経済競争をとおして発展すること、(4)革命の平和移行の可能性が生まれていること、(5)ソ連において早期に共産主義(全人民の国家)に発展することが約束されたこと、の五点であった。また、大会の秘密会議においてフルシチョフが「スターリン批判」なるものをおこない、スターリンの「晩年の誤りの数々」を暴露したのであった。当然のことながら、フルシチョフによるスターリン批判と新路線の提起は、国際スターリン主義運動に重大な衝撃をあたえたのであった。
 のちにみるように、フルシチョフのスターリン批判と新路線の提起なるものは、国際スターリン主義運動の歴史的破産、とりわけソ連における一国社会主義建設路線の総破綻を右翼的にのりきろうとする反動的策動であり、帝国主義にたいする際限なき屈服の路線であった。にもかかわらず、「無謬の大指導者」スターリンの権威失墜は、国際スターリン主義運動の歴史的な大分解を生みだし、国際共産主義運動のスターリン主義的変質にたいするプロレタリア的な自覚と、それにもとづく革命的共産主義の復権の重大な契機となったのである。六全協としてつきだされた日本革命運動の敗北と腐敗の歴史は、ここに世界革命のスターリン主義的歪曲の個別的な現実的形態としてとらえかえされることが可能となったのである。
 では、フルシチョフによるスターリン批判と新路線の提起の本質的な特徴、すなわちスターリン主義の歴史的破産の右翼スターリン主義的なのりきり路線としての本質的な特徴は、どのような問題としてあらわれているであろうか。
 第一には、戦後世界体制のヤルタ=ジュネーブ的な再編成を公然と承認し、帝国主義と社会主義の世界史的な闘争を、平和共存体制とそのもとでの経済競争なるものにはめこもうとしたことにある。
 もともとスターリン主義のスターリン主義たるゆえんは、帝国主義から社会主義への世界史的な過渡期の時代において、世界革命の完遂を放棄し、一国社会主義建設とそのための平和共存政策を自己目的化するところにあった。まさにこのようなスターリン主義の本質は、帝国主義とスターリンそのひとの協力によって戦後世界体制のヤルタ的な編成としてひとまず実現したのであった。
 だが、もとより戦後世界体制は、帝国主義の世界支配とその不可分の肢体としての植民地体制を解消するものではなく、あくまでも戦後的な条件のもとで帝国主義の世界体制をつらぬくものであった。また、戦後世界体制は、過渡期の諸国にスターリン主義体制を強制し、帝国主義本国ならびに後進国・半植民地のプロレタリアート人民に戦後帝国主義体制(その構成要素としての現代植民地体制)を強制するものであった。
 それゆえ、当然のこととして、戦後世界体制は、ユーゴ革命、中国革命、ベルリン問題、朝鮮戦争、インドシナ戦争などをとおして、その矛盾を各所において爆発させたのであった。
 五三年から五五年にかけてジュネーブでおこなわれた帝国主義とスターリン主義の協商は、戦後世界体制の動揺をヤルタ協定の原則を再確定する方法で収拾しようとしたものであった。フルシチョフのいう国際情勢の構造的変化なるものは、このような戦後世界体制のヤルタ=ジュネーブ的な再編成を美化し、帝国主義の世界支配の利益に「国際共産主義」の利益を屈服させようとするものである。
 第二には、国際階級闘争の全面的な鎮静化をはかろうとしたことである。
 具体的にいうならば、第一点は、戦争の不可避性の解消の名のもとに反戦闘争と帝国主義打倒とのむすびつきを切断し、侵略を内乱に転化する反戦闘争の革命的発展を妨害し、反戦闘争を帝国主義の政策を制限・変更させるための圧力手段にいっそう変質させたことである。スターリンの平和擁護運動をますます帝国主義に和解できるものにおしすすめたのである。
 第二点は、平和移行の可能性の名のもとに暴力革命の原則を破壊し、帝国主義本国におけるプロレタリア階級闘争をいっそうかたく帝国主義体制の枠内におしこめたことである。スターリンの人民戦線戦術を戦略的な次元にまでおしあげたことによって、帝国主義本国におけるプロレタリアート人民の革命的蜂起の道を完全にたちきったのである。
 第三点は、平和共存の名のもとに帝国主義の後進国・半植民地体制を承認し、後進国・半植民地の人民の民族解放・革命戦争の発展をおさえこもうとしたことである。スターリンの平和共存政策を帝国主義と後進国・半植民地人民の関係にまで拡大し、かくすることによって民族解放・革命戦争の世界史的発展の道をとざしたのである。
      (原稿絶)