二 日本共産党と日本帝国主義の敗北
    解放軍規定の底にあるもの=他力本願の国際主義″
 
 結党以来一貫して日本共産党を支配しつづけている救いがたいほどの権威主義。それが他力本願の「国際主義」に起因する敗北主義であり、日共の裏切りと腐敗・堕落の根源をなしていることを解放軍規定との関係で論じた論評。
 
 
 一九四五年十月一〇日――アメリカ占領軍の手で天皇制の牢獄から救出された日本共産党の幹部は、その日の午後には早くも、占領軍司令部のあった第一生命ビルのまえにあらわれ、故徳田球一の発声で「解放軍バンザイ」を三唱した。五〇年の日共分裂のさいに、この事実の真ぴょう性を暗示するような発言をした神山茂夫は、五四年か五五年か、つまり、例の神山除名当時、『文芸春秋』別冊に発表した文章のなかで、いわゆる「バンザイ」問題をムキに否定し、徳田の名誉回復(いやいや、とんだ個人崇拝)のために一助の功をとげている。だが、神山がどんなに強弁しても、徳田球一ら日本共産党の幹部が雁首をそろえてGHQにお礼にいった事実は、けっして消しさることはできない。
 当日、徳田球一と志賀義雄の連署で発表された「人民に訴う」という声明のなかで、
 「ファシズムおよび軍国主義から世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって日本における民主主義革命の端緒が開かれたことにたいして我々は深甚の感謝の意を表する」と述べていることからも明らかのように、日本共産党は、アメリカ帝国主義の軍隊にたいし「解放軍」という規定をとっていた。後年、コミンフォルムは、日本共産党のこの「解放軍規定」に仮借ない批判を加え、日本共産党の指導者・野坂参三の平和革命にたいし「アメリカ帝国主義の手先」であると決めつけ、野坂参三が「わたしはつねに優柔不断であった」と自己批判したこと(一九五〇年)は周知のことである。もっとも、最近の日共党員や民青同盟員は、「清潔で誠実な人」とか 「一貫した人民の闘士」とかという『アカハタ』の誇大宣伝を本気にしているのか、前記の事実を指摘すると、アメリカ帝国主義のデマ宣伝だといってカミついてくるから相当なものである。
 だが、いま、わたしが問題にしたい点は、日本共産党の悪名たかき「解放軍規定」についてではない。そうではなくて、八月一五日の日本帝国主義の軍事的敗北の歴史的確認が、日本共産党にとっては、アメリカ帝国主義の占領軍にたいする「感謝」という表現をとっておこなわれたことについて、もっと大きな関心をよせる必要があるということを確認したいのである。
 たしかにマルクス主義理論の常識に照らしてみても、アメリカ帝国主義の軍隊に賛辞をのべることが妥当であるかどうか、すぐ判断できるはずだし、また、アメリカ帝国主義の軍隊が、軍事的に敗北し、解体にひんしている日本資本家階級を援助し、日本労働者階級の解放闘争をおさえるために派遣されてきたのであろうことは、容易に判断できるはずである。ごく単純な現状把握の誤謬だ、といえばいえぬことでもない。だが、のちに国際派の連中がやったように、ただたんに「解放軍規定」の問題に戦後革命運動の挫折の要因をおしこむということでは、なんの解決にもならないのである。
 なぜならば、アメリカ帝国主義の軍隊にたいする「解放軍規定」は、べつに日本共産党の独創によるものではなく、大戦直後には、スターリンをはじめ各国共産党の共通の評価であったからであり、「民主陣営対ファッショ陣営」の闘争という第二次世界大戦のスターリン式構図から必然的に帰結されるものだからである。だから、日本共産党の「解放軍規定」を根本的に検討するには、スターリン式の第二次大戦論の批判から開始されなくてはならないのであり、トロッキー教条主義者や赤色帝国主義論者のように、スターリン的図式の裏返しに、第二次大戦を「帝国主義戦争」に単純化することでもないのである。
 いずれにせよ、第二次大戦を「民主勢力とファッショ勢力」の闘争という図式でとらえ、このような「闘争」の奈落で呻吟している労働者の実存的闘争を見失うならば、解放の契機は、ことごとく「民主陣営」の軍事的勝利という外在的条件にゆだねられてしまうことになる。個々の国々における労働者階級の闘争は、その内的必然性が発展の主体的契機となるのではなく、いわゆる民主陣営に属する諸国家の軍事的戦闘の第二次的・補足的役割を担うものとして以上の意義をもちえない。それゆえ、フランスやイタリアやノルウェーにおける抵抗運動は、その最後にブルジョア的祖国の復活をみておわるのであり、エジプトやインドやインドネシアにおける民族運動は、両勢力の谷間のなかで圧殺されていったのである。
 だが、もっと重要なことは、第二次大戦をめぐる諸闘争、労働者階級の苦痛にゆがんだ日常から、日本共産党がまったく無縁のところで生き残り、しかも日本共産党がいささかも反省するどころか、いまだに「四十年の不屈の歴史」という破廉恥な看板をかかげている点である。
 神山茂夫は、日共の『文化評論』(九月号)の論文のなかで、木下順二の「オットーと呼ばれる日本人」によせて、この頃戦時中の共産主義運動を全面的に否定するような意見が多くでているが、このような見解をけっして許せない、戦争中といえども労働者のさまざまな抵抗がつづけられていた、というようなことを書いている。
 たしかに、太平洋戦争のさなかにおいても、神戸造船所の幻の大罷業″のような労働者の闘争はつづけられていたし、愛国心=排外主義の熱病におかされていた圧倒的な労働者のなかに戦争のさまざまな苦しみがしだいに色こく影をなげかけることによって、部分的抵抗を生みだしながら、「敗戦主義」の思想が多数の労働者の心のうちに芽ばえはじめていたのである。このような底流こそが、八月一五日を境にして爆発的に開始される日本労働者運動の土壌を用意していたといえるのである。だが、このような労働者の苦闘にことよせて、日本共産党が戦争中もあたかも組織的闘争をつづけていたように強弁することは、はなはだしい歴史の偽造だといわねばならない。
 日本共産党は、数十名の幹部が天皇制の牢獄につながれていたことによって、また、野坂の延安における活動をあげることによって、その反戦闘争の歴史を飾りあげようとする。だが、一九三三年(昭和八年)から一九四五年(昭和二〇年)にかけての日本共産党の完全な潰滅について、かれらは驚くべきほど無自覚であり、恥知らずなのである。ぬかるみの大戦のなかで苦悩を深めていく日本労働者階級の主力から決定的に切りはなされたところで、日本共産党の「輝かしい伝統」はつちかわれていた。本来、反戦闘争の主力である労働者の闘争の発展ではなしに、政府上層部内における謀略的活動によってコミンテルンと協力して戦争を阻止しようとしていたようにみえる尾崎秀実の活動の悲劇性は、まさにこの点にあったのである。
 あえていうならば、尾崎秀実の位置は、潰滅し、四散した日本共産党が完全に労働者のまえから姿を消していったとき、赤裸々な露出を余儀なくされた日本スターリン主義運動の恥部そのものに連関しているといえるのである。
 木下は「オットーと呼ばれる日本人」という劇のなかで、この悲劇を国際主義と愛国心の相克のうちに形象化しようとしているかにみえる。だが、尾崎の本質である愛国心に激突し、矛盾を深めていったかにみえる対立物は、別の愛国心の変容されたもの、つまり、スターリンの一国社会主義=官僚的排外主義であって、断じて国際主義ではなかった。尾崎が「国際主義」と信じ、野坂や神山や木下がいまなお「国際主義」だとみせかけているその実体の虚偽のなかに、その悲劇の錯綜した表象の秘密がある。
 現実に成立しうる国際主義は、各国における労働者階級の闘争のその内部に根拠をもっている。自明なこの事実を無限に忘却し、踏みつけていくことのなかに、労働者のインターナショナリズムがあるかのように空想しているところに、日本共産党の救いえぬ病根があるのではなかろうか。昨今のソ連核実験問題にたいする日本共産党の態度をみても、あまり正直で苦笑するほどに、そうなのである。
 『チトーは語る』のなかで、チトーは、ユーゴスラビアにたいするコミンテルンの資金援助がつねに運動の腐敗の原因をなしており、ユーゴスラビアの運動を再建するために、資金援助を自発的に打ち切り、非合法下の祖国に中央委員会をもどしたことを格調高く語っている。チトーの道はここから「民族共産主義」へとくだっていくが、にもかかわらず、このエピソードの背後に現代共産主義運動の深刻な問題性がひそんでいることを学ぶことが必要だと思う。
 日本帝国主義の敗北を「解放軍への感謝」というかたちでしかうけとめることができなかった日本共産党の退廃は、かれらの誇る「不屈の伝統」の闇のかなたではぐくまれてきたのである。前記の「人民に訴う」は、「今ここに釈放された真に民主主義的なわれわれ政治犯人こそこの重大任務を人民大衆と共に負う特異の存在である」といっているが、カチューシャ戦車にのってバンガリアに登場したラコシのもっと矮小な姿がここにみられるのである。
 日本帝国主義の軍事的敗北によって端緒をつかんだ戦後日本革命運動の高揚は、日本共産党の権威主義者たちの手でつぎつぎと墓にみちびかれ、その後に官僚的に形骸化したピラミッドが巨大にそびえたっている。墓の扉は叩かれた。生きながらえた日本ブルジョアジーの最期の日に、この巨大なピラミッドは音をたてて崩れるであろう。解放戦の途上にたおれた幾万の戦士たちの埋められる大地のうえには、ピラミッドはその一片の姿すら残ることを許されないのである。
     (『前進』九九号、一九六二年八月一五日 に掲載)