一  日本共産党の根底的批判と解体のために
 
 中ソ対立の激化、中越戦争という事態のもとで、国際スターリン主義の権威は地に墜ち、スターリン主義の分解と没落は、急速にすすんでいる。なかんずく、帝国主義国のスターリン主義党は、革命的敗北主義を投げすて、帝国主義の侵略と抑圧の先兵と化し、革命派にたいする武装反革命としての本質をいっそうむきだしにしている。本論文は、日本共産党の宮本路線にたいする根底的批判を意図して執筆された未完の論稿である。
 
  序 課題と方法
  第一章 日帝のアジア侵略と侵略体制の「左」の支柱としての日本共産党
  第二章 プロレタリア革命に敵対する「反帝反独占の民主主義革命」路線
 
 
 序 課題と方法
 
 七二年十二月総選挙における日本共産党の一定の議会主義的な「躍進」は、ブルジョア・ジャーナリズムの「日共ブーム」をまきおこし、日本共産党の動向があたかも日本の政治変革の争点となりうるかのような喧騒をうみだしている。
 だが、事実はどうか。ジャーナリズムの喧騒をとりのぞいて事実の本質をとらえるならば、われわれは、つぎの五つの問題点につきあたるであろう。
 (1)内外の情勢の深刻な発展のなかで、日本プロレタリアート人民がこれまでどおり生活できないことを自覚しはじめ、政治の根底的な変革をもとめはじめていること。
 (2)しかし、革命党建設のたたかいの一定の困難さに規定されて、このような傾向が、日共の「躍進」という議会主義的な表現に集約されたこと。
 (3)しかも、このような集約が、日本共産党のかぎりない腐敗と後退、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の攻撃への全面的な屈服、プロレタリア革命の原則の最後的な解体とむすびついたものとしておこなわれたこと。
 (4)そのため、それは、一方では宮本路線の破綻のひきのばし、他方ではプロレタリアート人民内部の限界性、排外主義と差別主義、合法主義と経済主義の傾向の固定化、という反動的役割をもつよめるものとしてあらわれること。
 (5)それゆえ、われわれは、内外の情勢が根底的な変革を必要としており、プロレタリアート人民のたたかいが根底的な変革をもとめていること――これが時代の基本的な流れであるという確信にしっかりとふまえながら、日共の「躍進」と事態のもつ問題を革命的に突破するたたかいを断固としておしすすめなくてはならないこと。
 われわれは、以上の問題点の確認のうえにたって、日共スターリン主義党にたいする原則的な批判でもって自己を武装し、プロレタリアート人民を獲得し、もってスターリン主義党解体・革命党建設のたたかいをいっそう強固なものとしていかなくてはならない。それゆえ、われわれの日本共産党批判の方法は、歴史的な回顧や文献学的なおしゃべりではなく、あくまでも、われわれの革命戦略、戦略的総路線をもって日本共産党の理論と運動を徹底的に粉砕し、二重対峙・戦略的前進・党建設の三大任務、中期大高揚――三大政策の勝利をかちとっていくものでなくてはならない。
 以下は、そのための武器のひとつを提供しようとする試みである。構成としては、(1)日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の「左」の支柱としての日本共産党、(2)プロレタリア革命に敵対する人民議会主義路線、(3)日本共産党の運動論の反革命的な本質、(4)カクマル式日共論の反動性とその破産、の四章である。同志諸君の厳格な検討を切に期待する。
 
 第一章 日帝のアジア侵略と侵略体制の「左」の支柱としての日本共産党
 
 日本共産党の今日の理論と運動を基本的に特徴づけている第一の点は、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道、国益主義と民族排外主義、権威主義と差別主義の攻撃に完全に屈服し、アジア被抑圧民族の人民の民族解放闘争と、日本プロレタリアート人民の「侵略を内乱へ!」のたたかいの国際主義的な団結にたいし、完全に敵対しているところにある。
 戦後世界体制の解体的危機のかぎりない深まりのなかで、それがうみだす諸矛盾のもっとも集中的な結節環のひとつをなす日本帝国主義は、いっさいの体制的危機をかけて、その脱出の道をアジア侵略と侵略体制にもとめざるをえない。もとより日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道は、平坦なものではなく、体制的破局とむすびついた泥沼の道である。一方におけるアジア、安保、沖縄などの外交政治政策の破綻、他方における不況、インフレ、投機など経済的危機の深刻化とその政治的危機への転化、としてあらわれた日帝のこのような基本路線上の矛盾の深まりは、アジア侵略と侵略体制にかけた日本帝国主義の命運が、いかに脆弱で、いかに破局的なものであるか、を今日的にするどくつきだしている。
 しかし、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道が、体制的破局とむすびついた泥沼の道であるという事実は、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制にたいする日本プロレタリアート人民のたたかいが、いささかでも容易になることを意味するであろうか。けっしてそうではない。アジア侵略と侵略体制の道が、日本帝国主義の歴史的命運とますますわかちがたくなればなるほど、またそれが日本帝国主義にとって危機の唯一の脱出口であることがますますはっきりすればするほど、侵略にかける日本帝国主義の攻撃は、ますます凶暴となり、ますます非和解的なものとならざるをえない。他方、日本プロレタリアート人民のたたかいをおしすすめる側面からこの事実をとらえるならば、ベトナム――インドシナ共同侵略、朝鮮・中国侵略、安保同盟、沖縄五・一五体制、基地・派兵など、日帝のアジア侵略・侵略体制とむすびついたいっさいの諸攻撃にたいするプロレタリアート人民の反撃のたたかいは、不可避的に「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ!」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の戦略的総路線とむすびつき、その観点からおしすすめられなくてはならないことを意味しているのである。
 したがって、結論はこうである。今日の日本帝国主義とそのもとでの階級情勢においては、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道、国益主義と民族排外主義、権威主義と差別主義の攻撃にたいし、日本プロレタリアート人民の階級的命運をかけて対峙し、これを内乱に転化するためにたたかうもの、アジア被抑圧民族の人民の民族解放闘争に学び、支持し、自己の民族排外主義的、差別主義的な腐敗との不断のたたかいをとおして連帯をおしすすめ、民族解放闘争と「侵略を内乱へ」の革命闘争の国際主義的団結のためにたたかうものだけが、日本帝国主義とプロレタリアート人民のたたかいをあくまでもおしすすめることができるのであり、プロレタリアート人民の革命的前衛としての共産主義者の任務を、真にはたすことができるのである。また、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道、国益主義と民族排外主義、権威主義と差別主義の攻撃に屈服し、侵略を内乱に転化するたたかいに敵対するもの、アジア被抑圧民族の人民の民族解放闘争と日本プロレタリアート人民の「侵略を内乱へ」のたたかいとの国際主義的団結に敵対するものは、いかにマルクス主義的な修飾語で自分をかざりたてようとも、プロレタリアート人民の階級的利益に敵対するものであり、共産主義者としての革命的原則に反革命的に背教するものである。
 ところで、このような観点にたって今日の日本共産党の理論と運動を検討するならば、いかなる問題がでてくるであろうか。つぎに要点的に検討するとしよう。
 
 第一の問題は、戦後世界体制の解体的危機を否定し、その革命的解決の方向に敵対し、帝国主義との和解に安定の道をもとめている点である。
 もともと戦後の世界体制は、第二次世界大戦として爆発した帝国主義の世界編成の矛盾、世界戦争をとおして成熟した戦後革命の波を、ヤルタ――ジュネーブ体制的に集約することによって成立した。すなわち、大戦の過程をとおして圧倒的な経済的、政治・軍事的な力量をもつにいたったアメリカ帝国主義は、一方では、東欧、北朝鮮のスターリン主義圏への官僚制的包摂などスターリン主義圏の一定の拡大を代償として、西欧など帝国主義本国の戦後革命、中国革命を突破口とする民族解放闘争の爆発的拡がりにたいする反革命的制圧に、国際スターリン主義陣営の支持と協力をとりつけるとともに、他方では、対ソ軍事包囲網、多角的な集団安保体制をつくりあげることによって、帝国主義世界体制とその一環としての後進国・半植民地体制を維持・構築し、革命に対抗する軍事的態勢をきずきあげつつ、両者を前提として、いわゆるドル・ポンド国際通貨体制のもとに世界経済の擬制的な統一をつくりだし、そのもとでの世界経済の一定の戦後的な発展を保障したのであった。しかし、国際スターリン主義にたいする対抗と相互依存を前提とし、アメリカ帝国主義の圧倒的な力量を歴史的基礎としてなりたった帝国主義の戦後世界体制は、基本的には、つぎの三つの点において重大な矛盾をはらんだのであった。
 すなわち、(1)いわゆるドル・ポンド国際通貨体制が、大恐慌にもとづく世界経済のブロック化を解決したものではなく、ドルの巨大な力量を基礎として擬制的に統一したにすぎないこと、そのためドルの地位が低下するとただちに解体的危機に直面せざるをえないこと、(2)戦後帝国主義の後進国・半植民地体制が、後進国経済の再生産性を世界経済から事実上排除するかたちで、しかも、極度に軍事的な性格をもつものとして編成されたため、いわゆる反共軍事国家をめぐる矛盾がただちに民族解放闘争の巨大な爆発にむすびついていくこと、(3)帝国主義の革命鎮圧の基軸が、スターリン主義にたいする圧迫と協力のとりつけにあったため、スターリン主義の分解、スターリン主義をこえる戦闘的な潮流の形成がただちに階級闘争のあらたな流動と激動をうみださずにはおかないこと、である。そしてまた、このような帝国主義戦後世界体制の重大な矛盾の爆発は、スターリン主義の無力性をあばきだすとともに、その分解を促進し、その反革命的な本質をひきだしながら、革命にたいする共同の反動、共同の反革命をうみださずにはおかないのである。
 戦後世界体制の今日の解体的危機を根底的に規定しているところのものは、まさに以上の条件である。それゆえ、それは反帝国主義・反スターリン主義の世界革命なくしては、けっして真の解決をうることはできないのである。ところが、日本共産党は、戦後世界体制の歴史的特質、戦後世界体制の解体的危機にかんする無理解、無感覚をつぎのようなかたちで自己暴露し、その反革命的本質をあからさまにするのである。
 (1)帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の平和共存的な変容、そのヤルタ――ジュネーブ体制的な確定にたいする裏切り的な美化。(『前衛』七三年二月、平山論文)
 (2)帝国主義戦後世界体制の解体的危機の否定。(『前衛』七三年一月、宮森論文)
 (3)反帝闘争の「民族自決の課題」への封じこめ。抑圧民族の「民族自決」と被抑圧民族の「民族自決」との意図的混同。(日共二回大会での宮本報告)
 (4)スターリン主義の歴史的破産、その分解の不可避性にかんする無理解。反帝勢力の「前進」、国際共産主義運動の「不団結」。(宮本報告)
 (5)国連の「本来の役割の回復」要請。(不破『日本の中立化と安全保障』)
 (6)集団安保体制の美化。(宮本報告「対抗する軍事ブロックの解消と集団安全保時を求める声」)
 つまり、日本共産党は、戦後世界体制を支持し、その解体的危機を否定し、米帝の犯罪性を「自決権の侵害」の問題にきりちぢめ、スターリン主義の破産と分解をごまかし、世界危機の解決の道を帝国主義との和解、帝国主義との共同防衛の道にみいだそうとしているのである。
 第二の問題は、日本帝国主義と被抑圧民族を意図的に混同し、日本が帝国主義国であることを否定し、日本帝国主義の安保同盟政策にたいするプロレタリアート人民のたたかいを、民族排外主義の方向にすりかえようとしていることである。
 周知のように、戦前、日本帝国主義は、大恐慌にもとづく破局的危機をのりきるために、アジアへの侵略戦争を拡大激化させ、世界支配権の帝国主義的再分割をもとめてアメリカ帝国主義と衝突し、みじめな敗北をこうむった。その結果、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の軍事占領下におかれることとなり、朝鮮、台湾などの旧植民地をうしなうところとなった。いわば日本帝国主義の国家意志は、米軍の意志によっていちじるしく制限された。しかし、このような政治的事情は、日本の権力が「帝国主義」としての本質をうしない、被抑圧民族の状態になったことを意味するものではなく、あくまでも帝国主義が敗戦の結果とらざるをえない姿態変化、すなわち敵帝国主義の軍事力によって制限された例外的な帝国主義権力の状態として理解されなくてはならない。
 それゆえ、五一年のサンフランシスコ講和会議を転機とする日米安保同盟の成立は、アメリカ帝国主義の強大な経済的、政治=軍事的な力量を背景とした「同盟関係」の強制、その結果としての占領軍の「駐留軍」としての継続という側面とならんで、同時に、日本帝国主義権力による「同盟政策」の積極的な受け入れという側面をもあわせもつものとして実現したのである。いいかえるならば、日本帝国主義は、サ条約および安保条約の締結をとおして、アメリカ帝国主義と同盟をむすぶことによって、帝国主義の戦後世界体制に参加し、アジア人民の民族解放のたたかいに敵対し、ふたたびアジアの帝国主義的な要塞の地位に復活することを国家意志として宣言したのである。
 だからこそ、日本帝国主義は、アジア被抑圧民族の人民の民族解放闘争に敵対し、在日アジア人民に苛酷な入管体制の攻撃をくわえ、日米安保同盟政策の一環として沖縄百万県民に米軍の軍事的分離支配を強制しつつ、日米同盟をとおして帝国主義としての実力をたくわえ、いままた、アジア侵略とそのための侵略体制の道をつきすすむことができたのである。日本帝国主義の「帝国主義」としての本質、この一点をしっかりとにぎりしめることによって、われわれは、世界戦争で敗北した日本帝国主義が、種々の例外的な条件のもとで姿態転化をとげながら、帝国主義としての本質を維持し、それを具体的に貫徹していく過程をはっきりとつかみとることができるのである。
 ところが、帝国主義段階論、とりわけ敗戦帝国主義の権力問題という特殊具体的な課題の分析視角を欠如した日本共産党は、アメリカ帝国主義と日本帝国主義の関係と、帝国主義と植民地・従属国の関係とを混同し、日本帝国主義の「帝国主義としての本質とその現実」から眼をそらせる重大な役割をはたしているのである。
 (1)帝国主義としての本質とその現実の否定。(日共綱領「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国となっている」)
 (2)日米安保同盟の帝国主義的な性質の否定。民族主義的な歪曲。「……社会民主党の綱領のなかで中心点となるのは、まさに諸民族を抑圧民族と被抑圧民族とに分けることでなくてはならない」というレーニンのテーゼの日米関係へのペテン的なあてはめ。(宮本・綱領にかんする報告「帝国主義と民族問題にかんする諸命題の真髄を日本革命に創造的に適用」)。
 (3)日本革命の二段階戦略的な固定化。プロレタリア社会主義革命の綱領にたいする敵対。(日共綱領「アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――二つの敵に反対する新しい民主主義革命、人民の民主主義革命」)
 (4)沖縄の分断支配、日帝の利益による沖縄県民への犠牲転嫁の政策への民族主権的な弁護。日帝の免罪。(宮本・綱領にかんする報告「アメリカ帝国主義の植民地にされている沖縄、小笠原」)
 つまり、日本共産党は、日本が帝国主義国であることを否定し、日米同盟を民族的な抑圧――被抑圧の関係にすりかえ、かくすることによって、日本プロレタリアート人民のたたかいを帝国主義的主権の強化の道にひきこもうとしているのである。
 
 第三の問題は、日本帝国主義のアジア侵略の現実を否定し、日本プロレタリアート人民の「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ」のたたかいに敵対していることである。
 今日、日本帝国主義は、戦後世界体制の解体的危機の深まりのなかで、その体制的危機の唯一の脱出口としてアジア侵略の道をつきすすみはじめている。日韓会談――日韓条約を突破口に朝鮮再侵略の足がかりをかためた日本帝国主義は、いまやアジア情勢の流動化と激動化のなかで、朝鮮侵略――南北分断固定化、日帝――朴政権の日韓体制の策動、中国侵略――「二つの中国」固定化、台湾植民地化の策動をどしどしすすめており、米帝のベトナム――インドシナ侵略と侵略戦争、敗勢のなかでの息つぎと居直り、継続と激化の政策としてのベトナム「和平」策動にむすびついて共同侵略の攻撃を日に日につよめている。アメリカ帝国主義との安保同盟を基礎として、日本帝国主義は、アジアにおける侵略と反動のとりでとしての役割をはっきりさせており、アジア人民の民族解放闘争と日本帝国主義との関係をますます非和解的なものに発展させている。
 いまや、日本プロレタリアート人民が自己の階級的利害をしっかりにぎりしめ、その真の解放の道をつきすすむためには、なによりもまず、日本帝国主義のアジア侵略にたいする正しい階級的態度、アジア人民の民族解放闘争と連帯し、侵略を内乱に転化するたたかいの立場に確固としてたちつくすことが必要なのである。この立場だけが、アジア人民にたいする日帝の侵略と侵略体制を粉砕し、アジア人民と日本プロレタリアート人民の真の国際主義的連帯、日本プロレタリアート人民の真の解放の道を保障することができるのである。
 ところが、日本共産党は、日本が帝国主義国であることを否定したばかりか、さらにそのうえ、アジア侵略の現実をまで否定し、日本プロレタリアート人民の侵略と侵略体制への動員の道をはききよめている。
 (1)日帝のアジア侵略の現実の否定。朝鮮、台湾の植民地化の攻撃の否定。(宮森論文「『日帝の侵略』なるものは一片の科学性も真理もない」)
 (2)釣魚台の日本領有権の反動的な強調。国益主義、民族排外主義の露骨な鼓吹。(宮森論文)
 (3)ベトナム――インドシナ共同侵略の否定。(宮本報告「現にベトナム、インドシナ戦争にたいし日本の軍隊がおくられておらず……」)
 (4)日本帝国主義の軍事的強化、基地の侵略出撃基地化の否定。自衛隊の帝国主義的軍隊化の否定(同)。
 (5)自衛隊の沖縄派兵の侵略的本質の否定。派兵阻止闘争への敵対。(宮森論文「主敵を自衛隊に集中させ、アメリカ帝国主義との闘争を回避させる策略」)
 つまり、日本共産党は、日本帝国主義の侵略性を免罪し、アジア人民の反日(帝)闘争を「米帝の侵略との闘争を回避させるもの」と非難し、日帝のアジア侵略の現実を擁護しているのである。
 第四の問題は、日本帝国主義の侵略体制の攻撃を擁護し、侵略体制にたいする日本プロレタリアート人民のたたかいの革命的、内乱的発展に敵対していることである。
 日本帝国主義のアジア侵略の攻撃は、不可避的に侵略体制づくりの攻撃、日本プロレタリアート人民の侵略への総動員の攻撃とむすびつかざるをえない。しかも、重要な点は、このような帝国主義の攻撃が、露骨な侵略勢力、反動勢力を動員するだけでなく、市民主義左翼、労働運動左翼の経済主義的腐敗.差別主義的腐敗をも徹底的に動員し、これを真の国際主義的勢力に敵対させることによって、侵略体制の重大な支柱につくりあげるかたちでおこなわれていることである。日本共産党は、社民左派=協会派や、民同の反革命的補完物=カクマルとのあいだで体制内左翼の主座をめぐって醜悪な内輪あらそいをくりかえしながら、協会派、カクマルともども一体となって、日帝の侵略体制を「左」からささえる勢力をつくりだしている。
 だからこそ.日本共産党は、マルクス主義、レーニン主義の革命的原則、とりわけ、帝国主義国、抑圧民族内のプロレタリアート人民の重大な任務をなす民族排外主義・差別主義とのたたかいにことごとく敵対し、日本帝国主義の政策を労働運動の内部で擁護する役割をますますつよめざるをえない。
 (1)自主独立の名のもとにプロレタリア階級闘争の国際主義的原則を最後的にほうむりさり、プロレタリア階級闘争をブルジョア的民族主義の後尾にむすびつけたこと。(宮本報告「民族自決の旗を、帝国主義者の他民族抑圧や干渉に反対し、被抑圧民族の独立と解放をかちとる旗じるしとしてかかげる」だけでなく「各国の革命はその国の人民の事業であり、『革命の輸出』は許されないという意味で、国際的な革命運動がみずからを律する基準」でなくてはならない)(日共第一一回大会決議「アメリカ帝国主義の新戦略とたたかううえで、諸民族の自決の擁護は、平和擁護とともに、ますます重要な共同の国際的任務となった。帝国主義の介入と干渉をおおいかくす欺まんをくつがえすカギは、その民族自決権への敵対と侵害の暴露である」)
 (2)日本プロレタリアート人民の「血債の思想」にたいする敵対。日本帝国主義の在日アジア人民にたいする民族的抑圧の現実の完全な黙視。在日アジア人民のたたかいの外在化。(宮森論文「日本人民全体を被抑圧民族となし、反動勢力、侵略勢力の共犯者としてえがきだす」「没階級的見地」)
 (3)部落差別など日帝の差別分断攻撃にたいする協調。戦闘的部落青年を先頭とする被差別、被抑圧諸階層人民の自己解放のたたかいの高まり、差別糾弾・完全解放のたたかいの全人民的な発展にたいする敵対。(『前衛』一月、中西論文「トロツキスト暴力集団の盲動は、部落住民を民主勢力からきりはなし、部落解放運動にたいする部落住民と国民の不信をあおりたてて、日米支配層の分裂支配を利している」「トロツキズムの克服は、部落解放運動の正常化をかちとっていくうえで、朝田一派にたいする理論的、実践的なたたかいとともに、運動全体の重要な課題となっている」)
 (4)沖縄五・一五体制への屈服。五・一五体制粉砕・沖縄奪還のたたかいへの敵対。(宮本報告「沖縄問題についての日米共同声明の見地」は「日本人民の主権の全面回復の革命的要求をそらし、緩和することをねらった一種のブルジョア民族主義的、妥協的『改良』の路線」)(『前衛』七一年七月、上田論文「沖縄協定はそれほど単純な性格ではない。なによりもまず、そのなかには、沖縄県の施政権返還という現状の改良がある」)(宮森論文「中核派」は「日本人民の主権回復と民族問題解決のたたかいに敵対」)
 (5)侵略体制の核心をなす統治形態のボナパルティズムへの過渡的移行の現実の無視。執行権力の強大化とのたたかいの放棄。議会主義的、合法主義的な空論議への逃げこみ。(宮本報告「公然と対外侵略をしうる政治・軍事体制」はまだ「実現」していない。だから「憲法改悪につながる軍国主義の全面的復活の路線にたいして断固としてたたかうことは、日本の新しい進路をきりひらくうえでの決定的な課題」)
 つまり、日本共産党は、日本帝国主義の侵略体制が現実にうみだされつつあり、そのもとで在日アジア人民や部落民、沖縄県民など日本プロレタリアート人民にたいする抑圧の体制が苛酷にすすめられている事実を否定し、日本プロレタリアート人民を民族排外主義と差別主義、城内平和主義と議会主義の泥沼にみちびこうとしているのである。
 第五の問題は、アジア人民の民族解放闘争(民族解放・革命戦争)に敵対し、日本帝国主義の国益主義と民族排外主義、主権擁護と祖国防衛主義の立場の「左」の鼓吹者となりさがっていることである。
 すでに検討してきたことからも明白のように、日本帝国主義のアジア侵略のかぎりないつよまりは、不可避の過程として、アジア人民と日本帝国主義とのあいだに非和解的な敵対関係をつくりだしている。アジア人民は、帝国主義の民族的抑圧をなくし、真の解放の道をつきすすむためには、まずもって、アメリカ帝国主義と日本帝国主義の共同の侵略を粉砕する必要をしっかりとつかみはじめている。
 いいかえるならば、日本プロレタリアート人民は、日本帝国主義によってつくりだされたところの日本帝国主義とアジア人民の非和解的な敵対関係を総体として根底的に転覆することなしには、アジア人民との真の国際主義的団結をかちとることはできないのである。この決定的な事実を正しく直視しえないものは、いくらことばで連帯や団結をかたろうとも、その内実は、帝国主義の「平和」いがいのなにものもつくりだすことはできない。
 それゆえ、当面するアジアの情勢のもとにあって、日本プロレタリアート人民がアジア人民との連帯をもとめるためには、アジア人民の民族解放闘争(民族解放・革命戦争)を確固として支持し、日本帝国主義とアジア人民の闘争においてアジア人民の正義の要求を断固として支持し、反日(帝)闘争の発展を心の底から支持し、国益主義と祖国擁護主義のいっさいのあらわれにことごとく反対し、侵略を内乱に転化する革命闘争をもってこたえていくことが、まずもって前提とならなくてはならない。
 ところが、日本共産党は、日本プロレタリアート人民のこのような歴史的任務をなにひとつうけとめようとせず、祖国擁護と国益尊重の立場にますますはまりこみ、アジア人民にたいする反動的敵対を日に日につよめているのである。
 (1)日本帝国主義とアジア人民との非和解的な敵対関係の否定。アメリカ帝国主義の策謀なるものへの問題のすりかえ。(宮本報告「ニクソンの新戦略の本質」=「アジア人とアジア人(日本――引用者)をたたかわせる方向で侵略政策のあらたな拡大をめざす各個撃破政策」)
 (2)自決権、自衛権、国益論へののめりこみ。革命的な祖国敗北主義への敵対。(『学習』七三年三月「他のすべての主権国家と同じように、かちとった政治的独立をまもるために、必要適切な自衛の措置をとる完全な権利」)
 (3)アジア人民の反日(帝)闘争への敵対。民族解放・革命戦争への敵対。(「論理必然的な帰結」)
 (4)内乱の戦略的総路線、アジア人民の民族解放闘争と日本プロレタリアート人民の「侵略を内乱へ」のたたかいの団結にたいする敵対。(宮森論文「中核派」の「『侵略を内乱へ』と称する」「独特の挑発『理論』」)(宮本報告「適法的な変革」)
 (5)アジア人民と日本プロレタリアート人民の真の団結の破壊。
  つまり、日本共産党は、日本帝国主義とアジア人民の融和の道を求め、アジア人民の民族解放闘争と日本プロレタリアート人民の内乱のたたかいとの団結の道に敵対しているのである。
 
 第二章 プロレタリア革命に敵対する「反帝反独占の民主主義革命」路線
 
 日本共産党の今日の理論と運動を特徴づけている第二の点は、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道とむすびついた政治反動攻撃、体制的危機をかけた「上からの」内乱の攻撃にたいし完全に屈服し、「反帝反独占の民主主義革命」とそのための「人民的議会主義」という反革命的、反階級的な路線をもって、日本プロレタリアート人民の「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」のたたかい、内乱・内戦――蜂起のたたかい、日帝権力の暴力的打倒とプロレタリア独裁の樹立のためのたたかいにたいし完全に敵対しているところにある。
 戦後世界体制の解体的危機のかぎりない深まりのなかで、それがうみだす諸矛盾のもっとも集中的な結節環のひとつをなす日本帝国主義は、いっさいの体制的危機をかけて、その脱出の道をアジア侵略と侵略体制にもとめるとともに、その重大な一環として政治反動攻撃を決定的につよめざるをえない。
 小選挙区制、反動諸法案、狭山差別裁判など一連の政治反動攻撃の激化は、日本帝国主義の体制的危機の深まりを基礎とし、アジア侵略と侵略体制の道とむすびついた反人民的、反階級的な攻撃である。それは同時に、「下層」=プロレタリアート人民が従来どおりのやり方では生活していけないと自覚し、積極的に政治行動にたちあがりはじめたばかりか、「上層」=支配階級もまた、従来どおりのやり方では支配をつづけていくことができないと感じ、統治形態の反動的、ボナパルテイズム的な転換を凶暴に模索しはじめた、新しい情勢のもとでの政治反動の攻撃である。
 それゆえ、真の革命党と革命勢力は、日本帝国主義の政治反動攻撃の具体的なあらわれのひとつひとつにたいし、そこにこめられた敵の反人民的な野望をくまなくあばきだし、プロレタリアート人民の共同のたたかいをとおしてそれらをことごとく粉砕し、政治反動攻撃のそれぞれの分野にそって固有の戦線を確固としてきずきあげ、その着実な前進をきりひらきつつ、日本帝国主義の政治反動攻撃の総体にたいし、ブルジョア独裁とそのための政治制度の暴力的な打倒、プロレタリアート人民の革命的暴力に立脚し、被抑圧人民と同盟したプロレタリア独裁の樹立の革命的原則を断固として対置し、政治反動攻撃とそれにたいする全プロレタリア的、全人民的な反撃を内乱に転化するために、プロレタリアート人民のたたかいを正しく指導しうる革命的な見通しと政治的な能力が決定的に要求されている。いいかえるならば、今日の政治反動攻撃のもとにあっては、政治反動の具体的なあらわれをプロレタリアート人民の共同のたたかいをもってことごとく粉砕し、政治反動の総体を内乱に転化する革命の戦略、革命の組織路線をもちうるものだけが、革命党と革命勢力としての階級的責任をはたすことができるのである。
 今日、革共同を先頭とする革命勢力は、三大政策を基軸とする七〇年代中期の大高揚の展望のなかで、(1)日帝権力と反革命勢力にたいする二重の内乱的対時を革命的に貫徹すること、(2)戦略的前進、すなわち、@基本戦略、戦略的総路線、三大政策をいっそう原則的で、いっそう具体的な内容にみがきあげること、A基本戦略、戦略的総路線、三大政策にふまえて、内乱・内戦――蜂起の準備を計画的、系統的におしすすめ、その重大な一環として大衆的な宣伝、扇動、行動をねばりづよくつみかさね、階級闘争の質的、量的な強化をはかること、(3)闘争と学習をとおしてプロレタリアート人民の先進分子の共産主義的自覚、政治的能力、組織的規律をたかめ、非合法、非公然の指導系統、組織態勢を基本とした強大な革命党の建設をかちとること、を三つの任務としてうちだしている。われわれは、この政治路線のなかに、日本帝国主義のアジア侵略と侵略体制の道、体制的危機をかけた政治反動の攻撃にたいする革命党と革命勢力の正確で、着実な唯一の回答をみいだすことができる。
 ところで、このような観点にたって今日の日本共産党の理論と運動を検討するならば、いかなる問題がでてくるであろうか。つぎに要点的に検討するとしよう。
 第一の問題は、共産主義の原理的、現実的な立脚点をなす世界革命論の立場に敵対し、共産主義をブルジョア民族主義の末尾にむすびつけようとしている点である。
 よく知られているように、マルクスとエンゲルスは、共産主義の核心をなす史的唯物論を基礎的に確立した『ドイツ・イデオロギー』において、共産主義の世界史的な条件について、つぎのようなすぐれた規定をあたえた。
  「共産主義は、経験的にはただ『一挙に』または『同時に』なされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが、このことは、生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提としている」
 すなわち、共産主義は、人間の私観的な友愛や善意にもとづいてあたえられるものではなく、あくまでも資本主義の世界市場として世界史的にうみだされた資本の生産力とプロレタリアートの革命的結合、プロレタリアートによる資本の積極的な止場をとおしてかちとられるのである。もとより、資本家的私有財産制度は、個々の民族国家の形式のもとで、ブルジョア独裁とその国家機構をとおして暴力的に維持されているのであり、プロレタリアートが資本を自分の手にとりかえすためには、個々の民族国家の内部において、あるいは、個々の民族国家をかちとる過程において、階級闘争をとおしてブルジョア独裁を打倒し、プロレタリア独裁をかちとらなくてはならない。そのかぎりにおいて、共産主義は、民族的な形式(個々の労働者国家の成立)でもって、その政治的勝利を永続的に宣言することになる。
 しかし、このことは、共産主義が個々の民族国家において一国的に建設しうることを意味するものではなく、あくまでも共産主義建設のための政治的前提条件(労働者国家の樹立と、そのもとでの生産手段の国有化、小商品生産者の集団化、擬制的労賃制にもとづく中央集権的な計画経済など)の成立を意味するものでしかない。人類が「プロとブルの内乱的な激突の時代」である過渡期(プロ独)を終えて共産主義(その低次の段階としての社会主義)に突入するためには、基本的には、世界革命の完遂(帝国主義権力の全世界的な打倒)、プロレタリアートによる世界史的な資本の生産力の完全な支配が達成されていなくてはならない。
 要言するならば、プロレタリアートを指導的階級とする全人民が、人類の共産主義的な解放を達成するためには、世界革命の観点のもとに、階級闘争をとおしてブルジョア国家を粉砕し、プロレタリア独裁をかちとるたたかいにおいて個々の国々でつぎつぎと永続的に勝利していくばかりでなく、その世界史的にかちとられた条件をテコとして、共産主義社会の建設を全世界の人民の共同の事業としてなしとげていくことが必要なのである。
 このようなマルクス、エンゲルスの世界革命の思想と展望は、一九世紀のプロレタリア革命において共産主義的な解放事業の導きの糸であったばかりでなく、現代のプロレタリア革命においても、いっそうゆるがせにできない実践的原則としてかがやいている。
 ロシア革命を突破口とする資本主義から共産主義への世界史的な過渡の時代は、世界革命がはじまったが、資本主義の主要な国々では帝国主義の支配がいまだうちたおされていない、という困難な情勢のもとで、国際共産主義運動のスターリン主義的変質と帝国主義の再編的延命を基礎として、帝国主義とスターリン主義の平和共存という変容的な形態をうみだした。帝国主義の支配と、その主要な補足的条件をなすスターリン主義の支配は、プロレタリアート人民の共同の解放事業の基本的な妨害物をなしている。しかし、帝国主義とスターリン主義の平和共存的な戦後世界体制は、世界革命への過渡期としての現代の根底的規定性を解決しうるものではなく、あくまでもその変容的な現象形態である。
 現代世界を根底的に規定している要因は、戦争と革命の時代、民族解放・革命戦争を主要な形態とする後進国・半植民地の人民の民族解放闘争と帝国主義国のプロレタリアート人民の内乱とが世界革命として統一的に発展し、帝国主義とスターリン主義をうちやぶろうとしている時代的特徴である。ソ連、中国をはじめとする過渡期社会の困難を突破する条件、過渡期社会のスターリン主義的な歪曲を粉砕する現実の力は、ただ現代世界のこのような根底的な時代的爆発力を徹底的にときはなし、それと決定的にむすびつくことよりほかにないのである。
 それゆえ、現代のプロレタリア革命は、マルクス、エンゲルス、レーニンによってうちだされ、堅持され、発展させられてきた世界革命の思想と展望を確固として継承し、戦後世界体制の解体的危機を反帝国主義・反スターリン主義の世界革命に転化していく現代の階級闘争のなかに生き生きと発展させていくことを第一義の課題としなくてはならないのである。
 ところが、日本共産党は、マルクス、エンゲルスによって確立され、レーニンと二〇世紀の階級闘争によって発展させられた世界革命論を、初期マルクス主義の「未発達」で「大ざっぱ」な理論であり、「一国における社会主義建設の勝利の現実的展望」なるものをうちだしたレーニンによってしりぞけられた理論であるとして、それをプロレタリア革命の原則的な命題から追放し、かわりに、マルクス主義をブルジョア民族主義に和解させる反階級的なスローガン、自主独立、民族自決権の一般原則化をそれにとってかえようとしているのである。
 (1)世界革命論の世界「同時」革命論なるものへのペテン的すりかえ。世界革命論の核心の解体。(上田『先進国革命の理論』「マルクス、エンゲルスの世界『同時』革命の観念」は「科学的社会主義の理論の初期の段階のもの」であり、そこに「国際社会主義運動がまだ未発達であったことを反映した、大ざっぱな叙述や不正確さ、革命情勢の過大評価などをみつけることは容易であろう」)
 (2)スターリンの一国社会主義理論の破産への絶望的な補完策動。一国社会主義建設可能論の「始祖」としてのレーニンなるもののペテン的偽造。(上田『理論』「スターリンの理論的展開のなかには、トロツキーらの誤った議論を粉砕するために、ソヴェト共和国一国における社会主義建設の勝利の可能性と展望という正しい方針を擁護しようという積極的努力にともなう副次的な弱点として、ロシア革命とヨーロッパ革命との結びつきについてのレーニンの洞察にたいする過小評価がつきまとい、レーニンの革命理論の生きた発展を、あとになって整理した教条主義的図式におしこめるきらいがある」「一国における社会主義建設の勝利の可能性と展望の問題」は「レーニンによって追求された、ソヴェト共和国の存立をめぐる一九二〇――二一年を転機とした問題構造の転換」にもとづいて「理論的分析」がおこなわれるべきであり、そうしなかった点にスターリンの不十分さがある。しかし、スターリンの理論は「基本的には正しく適切な展望をもっており、ソ連における社会主義建設の前進にとって大きな指導的役割をはたした」)
 (3)一国社会主義理論と平和共存政策にもとづく体制間矛盾論。(宮本・綱領についての報告「二つの社会体制の対立と闘争が世界政治の基本的矛盾である」)
 (4)プロレタリア国際主義の解体。自主独立論、民族自決権の一般原則化。(宮本・一一回大会報告「マルクス・レーニン主義は、民族自決の旗を、帝国主義の他民族抑圧や干渉に反対し、被抑圧民族の独立と解放をかちとる旗じるしとしてかかげてきただけでなく、各国の革命はその国の人民の事業であり、『革命の輸出』は許されないという意味で・国際的な階級闘争がみずからを律する基準としても、これをかかげてきました」)(『学習』七三年三月「日本の国にどんな社会をつくりあげるかという問題はまったく日本国民自身の問題です。これは、まさに日本国民の権利に属する問題であって、よその国が絶対にくちばしをさしはさむべき問題ではありません」)
 (5)反帝国主義・反スターリン主義の基本戦略にたいする恐怖と憎悪。(『前衛』七三年一月「反帝・反スタ戦略」は「共産党はもちろん、すべての民主勢力、統一戦線勢力にそのほこ先をむけた反革命の綱領」「マルクス・レーニン主義にたいする全面的な敵対の徹底化」「帝国主義を延命し、その侵略性を擁護する重要な旗印」)
 第二の問題は、日本におけるプロレタリア革命の戦略に敵対し、二段階戦略をもってプロレタリアート人民の革命闘争をブルジョア民族主義、ブルジョア民主主義の旗のまえに屈服させようとしている点にある。
 アメリカ帝国主義の圧倒的な力量を基礎とした帝国主義の戦後世界体制は、いまや、帝国主義諸列強間の矛盾の激化、後進国・半植民地人民の民族解放闘争(民族解放・革命戦争)と帝国主義国のプロレタリアート人民の革命闘争の発展、という条件を基礎として、重大な解体的破局をむかえようとしている。後進国・半植民地の支配体制の解体的危機の深まりとならんで、帝国主義本国そのものの支配の行きづまり、腐敗と腐朽があらゆるところでその醜い姿をさらけだしはじめている。
 日米安保同盟の破局のはじまり、日米両国の政府危機の深刻な発展は、帝国主義戦後世界体制の解体的危機の爆発的なすじ道をもっとも鋭く照らしだしている。日本のプロレタリアート人民は、日本帝国主義の体制的危機の深まり、日米安保同盟を基礎としたアジア侵略と侵略体制の道と、それにむすびついた政治反動の攻撃の強まりにたいし、「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ!」「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒!」の戦略的総路線をいっそう高々とかかげ、革命闘争の本格的な前進をおしすすめなくてはならない。日米同盟の動揺と破局のはじまりにたいし、安保の再強化や民族主義的報復をもってこたえようとする右翼反動勢力の攻撃はもとより、日米安保同盟政策の粉砕の課題を「民主連合政府」という議会主義、民族主義、改良主義の路線にすりかえようとするスターリン主義の攻撃と断固として対峙し、安保粉砕のたたかいを日帝打倒のたたかいに転化し、闘うアジア人民、全世界のプロレタリアート人民と連帯し、帝国主義の世界支配そのものを打倒するたたかいに発展させることこそ、日本プロレタリアート人民に要求されている真の当面の任務である。
 もともと、コミンテルン綱領として定式化されたスターリン=ブハーリンの二段階戦略の誤まりは、プロレタリアートとその革命的前衛党が、後進国・半植民地の人民の民族解放の課題、帝国主義国や後進国・半植民地人民の民主主義の課題をとりあげてたたかうこと、それじたいにあるわけではない。
 問題は、民族的、民主的な課題を超階級的な内容に固定化し、世界革命とそれにむかってのプロレタリア独裁の樹立をとおしてそれらを達成していくプロレタリア的観点に敵対する戦略として登場し、機能するところにある。しかも、二段階戦略が日本のような帝国主義国の革命の問題に適用された場合には、日米間に帝国主義戦争のような深刻な対立がうまれないかぎり、日本の対米従属は存続することとなり、事実上、ほとんど永久にプロレタリア革命の戦略、プロレタリア独裁の任務を「日本革命の道すじ」に敵対するものとして排除し、粉砕していかざるをえないのである。それゆえ、日本プロレタリアート人民が、日米帝国主義の侵略的攻守同盟を粉砕するために巨大な力を発揮し、それを日本の根底的な変革にまでたかめていくためには、日本革命の発展の道すじを反動的にゆがめているスターリン=ブハーリンの二段階戦略とその日本的適用の策動を完全に粉砕し、マルクス主義、レーニン主義のプロレタリア革命戦略をもって、労働者階級の革命的前衛をしっかりと武装しぬくことが重要である。
 ところが、日本共産党は、現代革命の原則的命題から世界革命論を追放したばかりか、日本革命の課題を二段階戦略的に歪曲し、反帝反独占の民主主義革命なるものをもってプロレタリア革命の戦略に敵対し、そのうえ、今日では、二段階戦略の破産をとりつくろうために人民戦線戦術を密輸入し、反帝反独占の民主主義革命に先行する「よりましな政府」=民主連合政府の展望なるものに空虚な意味付与を必死にくわえることによって、プロレタリア革命にたいする敵対をいっそうつよめているのである。
 (1)日本を基本的に支配している日本帝国主義とその侵略的本質の否定。(宮本・綱領についての報告「わが国は高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国である」「日本の帝国主義的復活が完了したか否かの議論」は「独占資本の段階にあるか否かの議論」ではなく「主たる側面が、他民族を抑圧する侵略的な帝国主義国として復活したか否かの議論」である。「この見地から草案は日本を帝国主義的に自立しているとはみなしておらず」)(宮本・一一回大会報告「われわれが軍国主義の全面的復活が完了しているかどうか議論する場合、公然と対外侵略をしうる政治・軍事体制が実現しているかどうかという問題を除外することはできません」「自衛隊は、今日なお、徴兵制の施行や海外派兵を公然となしうる体制にない」「現にベトナム、インドシナ戦争にたいし日本の軍隊がおくられておらず……」)
 (2)日帝打倒のプロレタリア革命の戦略の否定。二段階戦略の固定化。(宮本・綱領についての報告「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――二つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」)(宮本・二回大会報告「日本の真の人民的な独立、平和を保障する独立、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打倒した人民民主主義国家の樹立」)
 (3)スターリン=ブハーリンの二段階戦略、連合独裁論の踏襲。(宮本・綱領についての報告「民主主義革命から社会主義革命への二段階の連続革命」「労働者、農民の同盟を中心とした人民の民主連合独裁」)
 (4)民族民主革命路線の破産をとりつくろうための人民戦線戦術の密輸入。民主連合政府への空虚な期待あつめ。(宮本・綱領問題についての報告「民族民主統一戦線政府が樹立されるまでの過程」での「よりましな政府の可能性」)(宮本・一一回大会報告「民主連合政府」を「一九七〇年代のできるだけおそくない時期に」「適法的につくる展望」。「人民の民主連合政府の合法的な樹立」は「フランス、スペインの人民戦線政府の樹立という事実によって確認されており」「発達した資本主義国の革命闘争の経験として、この半世紀に生まれた貴重なもの」)
 (5)天皇制、自衛隊など反動の核心との対決を回避する民主連合政府。(上田・民主連合政府とその政策「君主制の廃止を提起する段階」ではないので「憲法の完全実施の線にそった主張」)(同「共産党としては、自民党政府のときには、自衛隊は憲法違反だが、自分の参加した政府ができれば、これは違憲ではない、という態度をとることは、憲法の解釈としても、政府がとるべき態度としてもスジのとおらないことだと考えています」「ただ、民主連合政府ができたときにすぐ自衛隊を解散できるかどうかということは、民主連合政府を構成している政党とか団体とかの協議によってきまることです」)
 
 第三の問題は、マルクス主義、レーニン主義の国家論、革命論を修正し、ブルジョア国家の粉砕、暴力革命の革命的命題に敵対し、「適法的な革命」なるものを主張しはじめた点である。
 革命の根本問題は、よくいわれるように、国家権力の問題である。国家極力の問題は、基本的には、打倒すべき国家権力の性格とその打倒の方法の問題、樹立さるべき国家権力の性格とその任務の問題からなりたっている。後者の問題にかんしてはつぎの節で検討するとして、前者の問題をここで検討するならば、まずもって日本国家の階級的本質はなにか、という問題について正確な答えをもたなくてはならない。
 この問題にかんしては、すくなくとも階級闘争に参加した経験をもち、一定の階級意識をもった労働者なら、だれでも正しい答えをだすことができるであろう。すなわち、政治的、法律的な定まり文句をなくし、制度上のいろいろなたてまえをとりはらって、国家の現実の役割、国家の権力機構の現実のはたらきをはっきりとみつめるならば、今日の日本国家が労働者や人民の利益にかなうものでなく、社会の富を基本的に支配しているブルジョアジー、とりわけ、市場の独占的支配力を基礎にして法外な富をひとりじめにし、その矛盾を労働者や人民になすりつけている独占ブルジョアジーの利益に奉仕するものであることは、あまりにもあきらかである。
 もともと資本主義社会における国家は、その個別の具体的な統治形態ではいろいろなかたちをとるが、それらの本質とするところはブルジョア独裁であり、今日の日本国家もまた、このようなブルジョア国家の一般的な性格とことなるものをなにひとつもってはいない。
 しかし、現代においては、日本国家のブルジョア的本質を確認するだけでは、まったく事態のプロレタリア的解答にはならない。なぜならば、今日のわが国家の革命論、国家論上のもっとも重要な課題をなすものは、プロレタリアート人民が出来あいの国家制度、議会制度を利用して社会主義革命の歴史的事業を達成することができるかどうか、という点にあるからである。
 この課題にたいし、現代の革命的共産主義者とその党は、マルクス主義の理論とプロレタリア階級闘争の実践にふまえて、ブルジョア国家の暴力的粉砕、ブルジョアジーと反革命の暴力的抑圧なしには、プロレタリア独裁をかちとり、維持し、それをテコとして社会の社会主義的変革を達成していくことはできない、と回答する。プロレタリアートの強大な暴力的権威なしには、資本家的私有財産のプロレタリア的共有と、それにもとづく労働と生殖の社会主義的組織化のたたかいは、まったく一歩も前進することはできない。
 日本帝国主義の体制的危機をかけたアジア侵略と侵略体制の攻撃、それとむすびついた政治反動の強まり、日帝の戦後体制の反動的転換の攻撃の激化にたいし、日本プロレタリアート人民は、ブルジョア独裁の暴力的打倒の決意と態勢をますますうちかため、内乱・内戦――蜂起の計画的・系統的な準備をおしすすめなくてはならない。二重の内乱的対峙のたたかいの発展は、基本戦略と戦略的総路線、七〇年代中期の三大政策を導きの糸とした戦略的大前進運動、非合法、非公然の党指導部・党指導系統を基幹とした強大な党の独自の建設、とりわけ労働戦線、学生戦線、諸戦線における強大な党と勢力の建設、独自の恒常的武装勢力の建設などと有機的にむすびつくことによって、プロレタリアート人民の革命的暴力をうみだし、そだて、強大な発展をうながす重大な水路をなしている。
 革命的共産主義者とその党は、プロレタリアート人民の暴力革命、内乱・内戦――蜂起の計画的・系統的な宣伝者、扇動者、組織者であり、プロレタリアート人民の暴力革命、内乱・内戦――蜂起の参謀本部、戦闘司令部、指揮者団であり、二重対峙における武装闘争、武装自衛闘争の発展を計画的・系統的に暴力革命、内乱・内戦――蜂起にむすびつけ、プロレタリアート人民の革命的暴力をそだて、発展させるための政治的、軍事的な先鋒隊でなくてはならない。
 ところが、日本共産党は、マルクス主義、レーニン主義の国家論、革命論に敵対し、ブルジョア国家、議会制度の超階級化と利用論を公然とうちだし、プロレタリア暴力革命を阻止するために、その強大な反革命的組織力を動員しはじめたのである。
 (1)ブルジョア的議会制度の超階級化。ブルジョア国家の粉砕にかんするプロレタリア的態度の破棄。(宮本・一一回大会報告「人類が封建社会から資本主義社会にすすむ過程のなかでうちたてた代議制度、この代議制度を新しい社会のなかで、より質的に高いものに改造することは、人類の、価値ある遺産の合法則的な発展を望む科学的社会主義としての基本的な理念であります」)
 (2)暴力革命、革命的暴力にたいする小ブル的な反発と恐怖。(宮本・綱領にかんする報告「平和的移行の可能性を実現することが、労働者階級と全人民の利益に、民族全体の利益に合致するという見地」)(不破『人民的議会主義』「武装闘争だけを権力獲得の方法として絶対視する『暴力革命唯一論』がマルクスレーニン主義と無縁なものであること」)
 (3)敵の出方論。(宮本・綱領(草案)について 「わが国においてどの道をたどるかは、二つの敵の出方によって最終的には決定されるという立場)(同「どういう手段で革命が達成できるかは、最後的には敵の出方によってきまることであるから、一方的にみずからの手をしばるべきではないという基本的な見地」)
 (4)適法的革命論、議会主義・合法主義の道への「敵の出方論」の修正。(宮本・一一回大会報告「民族民主統一戦線勢力が国会で多数をしめて平和的、合法的に人民の政府をつくることをめざすこと」)(不破『人民的議会主義』「選挙をつうじて統一戦線政府を適法的につくり、さらにこの政府を革命権力に前進させてゆける可能性があること」)
 (5)ブルジョアジーの反革命的抵抗と、それにたいするプロレタリアート人民のたたかいのクーデター鎮圧論へのすりかえ。内乱罪、破防法の論理の導入。(宮本・一一回大会報告「われわれは、日本における革命においても、民主連合政府が政権をとった場合に、これを不法な暴力で転覆しようとするものにたいする政府としての反撃の権利を、敵の出方論の典型的なものと説明しています」)(一一回大会決議 「内外の反動勢力がクーデターその他の不法な手段にあえて訴えた場合には、この政府が国民とともに秩序維持のための必要な措置をとることは、国民主権と議会制民主主義をまもる当然の義務」)
 第四の問題は、プロレタリア革命の核心をなすプロレタリア独裁論に敵対し、連合独裁論、独裁論そのものの修正をはかり、プロレタリア革命をブルジョアジーの国家制圧、議会制度と調和させようとしている点である。
 前節にみたように、今日の日本国家の階級的本質がブルジョア的であり、その出来あいの国家制度、議会制度を利用してプロレタリア革命の歴史的任務を達成することは不可能であり、ブルジョアジーの国家制度、議会制度、その実体をなす官僚的、軍事的国家機構を暴力的に粉砕することなしにはブルジョアジーによるプロレタリアート人民の支配と搾取、抑圧と収奪をなくすことができないとするならば、われわれは、ブルジョア国家の粉砕のあと、国家の問題にかんしていかなる態度をとるべきであろうか。
 マルクス主義、レーニン主義の革命論、国家論と、プロレタリア階級闘争の実践的経験とは、この課題にたいし、つぎのように回答する。
 すなわち、ブルジョア国家の粉砕は、同時に、プロレタリアートの革命的暴力に絶対的に立脚したプロレタリア独裁の権力の樹立の過程でなくてはならない、と。ただプロレタリア独裁だけが、プロレタリア独裁へのプロレタリアート人民の組織化の前進だけが、ブルジョア国家を粉砕し、その復活を阻止し、そのいっさいの残存的要素を完全になくしていくことができるのである。
 プロレタリア独裁の歴史的任務は、大局的にまとめるならば、(1)帝国主義の世界支配を完全に打倒しつくし、国際共産主義運動のスターリン主義的な歪曲を粉砕する世界革命の完遂、(2)ブルジョアジーといっさいの反革命の抵抗を鎮圧し、プロレタリア独裁のもとにプロレタリアート人民をかたく団結させること、(3)共産主義社会の建設、労働と生殖の完全な解放、民族的抑圧や社会的差別の完全な一掃をめざし、社会主義的原則にもとづいて生産の社会主義的組織化、労働と生殖にかんする高度の規律をうみだすためにたたかうこと、の三点に集約することができる。それゆえ、プロレタリア独裁をかちとり、それを維持強化していくたたかいは、ブルジョアジーとその反革命を粉砕していくたたかいであるとともに、プロレタリアート人民の内部でブルジョアジーの利益と政策を表現し、プロレタリア独裁の道にたいし議会主義、改良主義を対置するもの、一国社会主義理論と平和共存政策、二段階戦略と人民戦線戦術にもとづいてプロレタリア独裁のスターリン主義的な歪曲・解体をはかるもの、レーニンの再構成の名のもとにプロレタリア独裁論の核心を破壊し、組合主義・経済主義のもとにプロレタリアート人民をしばりつけ、ブルジョアジーの治安政策とむすびついてプロレタリアート人民の革命的暴力へのむきだしの攻撃をくわえるもの、おしなべて暴力革命とプロレタリア独裁の原則に敵対するものにたいする仮借ない粉砕のたたかいとならざるをえないのである。
 まさに、プロレタリア独裁は、プロレタリア階級闘争の継続として、しかも暴力革命をもってする特殊な継続としてかちとられる権力であり、「何者とも分有を許さない、大衆の武装力に直接立脚した権力」(レーニン『国家と革命』)なのである。そしてまた、このようなプロレタリアートの革命的独裁、中央集権的な革命的暴力の組織と権威があって、はじめて、膨大な住民大衆、すなわち農民、小ブルジョア、半プロレタリアを指導し、強固な階級同盟をつくりだすことができるのである。レーニンは、『国家と革命』において、プロレタリア独裁の歴史的性格についてつぎのような明確な規定をあたえているが、それは、連合独裁論なるものをマルクス主義、レーニン主義の独裁論にまざれこませようとするひとびとにたいする重大な回答としての意味をもっているのである。
  「一階級の独裁は、あらゆる階級社会一般にだけ必要なのではなく、またブルジョアジーをうちたおしたプロレタリアートにだけ必要なのではなく、さらに資本主義と『無階級社会』、共産主義とをへだてる歴史的時期全体にも、必要だということを理解した人だけが、マルクス主義の国家学説の本質を会得したものである。ブルジョア国家の形態はさまざまであるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、きわめて多様な政治形態をもたざるをえないが、しかしそのさい、本質はただ一つ、プロレタリア独裁であろう」
 ところが、日本共産党は、連合独裁なるものを「資本主義と『無階級社会』、共産主義とをへだてる歴史的時期」のなかにもちこもうとし、スターリン=ブハーリンの道にそって、プロレタリア独裁を理論的、実践的に解体しようとしているのである。
 (1)スターリン=ブハーリンの連合独裁論の固定的な継承。マルクス主義、レーニン主義の独裁論の「複」裁論への修正。(宮本・訳語問題についての一定の成案「科学的社会主義すなわちマルクス・レーニン主義は、国家は、階級対立の所産であって超階級的なものではなく、その本質において、特定の社会階級あるいは共同した複数の階級・階層が支配を執行する機関であるとみなしている」)(同「『ディクタツーラ』は、特定の個人や組織などへの権限の集中ではなく、特定の階級あるいは共同した複数の階級・階層による国家権力、その政治支配そのものをしめすものである」)
 (2)プロレタリア独裁にたいするブルジョア的非難への屈服。科学的概念から「通俗的」概念への改作。(宮本・同「『プロレタリアートの独裁』という従来の訳語はかならずしも妥当ではない。『独裁』ということばは、わが国では普通『独断による決裁』あるいは『単独の決裁』を意味するからである」)(同「ラテン語の原語『ディクタツーラ』をそのまま使う」か、「とくに日本語に訳すならば『執権』『執政』といった訳語が適切」)(『前衛』七二年十一月「民主主義の否定を意味する『独裁』」) 【注】一八四八年の革命のあと、マルクスは、革命権力が反革命の反抗にたいし、これを粉砕し、革命の前進をきりひらくためには自由主義ブルジョアジーが断固とした階級独裁をおこなう必要があったと批判し、はじめて独裁という概念をつかった。マルクスは、自由主義ブルジョアジーの批判をとおして、革命権力の原則を教訓的にひきだしたのである。しかし、独裁を「執権」にかえると、そのときの以下の文章は、なんのことやら意味がわからなくなる。
   「すべての革命のあとにつづく臨時的な国家秩序は、独裁(執権)を、しかも精力的な独裁(執権)を必要とする。われわれがはじめからカウプハウゼンを非難してきたのは、かれが独裁(執権者)的に行動せず、古い制度の遺物をすぐに粉砕し、とりのぞくことをしなかったからである」
  (3)ブルジョアジーの虚偽のスローガンである「主権在民」への完全な屈服。プロレタリア独裁のコンミューン的原則の解体。議会を「国権の最高の機関」とする社会主義日本なるものの展望。(宮本・成案「わが党がいまめざしているのは国民とともに独立、民主の日本をつくることであり、わが党は、この独立、民主の日本では『名実ともに国会を国の最高機関とする』ことを明記している」)(榊・訳語問題の本質と無力な反共宣伝「科学的社会主義は本来」「ブルジョアジーの支配、その『民主主義』の歴史的制約と限界をのりこえて、真に国民主権の民主主義の実現をはかるものです」)(『前衛』七二年十一月「国民の合意によって樹立されるプロレタリアートの執権は、人民の民主連合執権によって実現した徹底した民主主義をひきつぎ、さらにプロレタリア民主主義に発展させる。プロレタリアートの執権のもとで『名実ともに国会を国の最高の機関とする人民の民主主義国家体制』をとり……」)
  (4)ブルジョアジーの活動の自由。住民の革命的武装、革命党の活動の禁止。(宮本・成案「わが党は、当面の独立・民主の日本でも、将来の社会主義日本でも、政策上の一致にもとづいて協力できる政党と協力することはもちろん、政府に批判や反対の態度をとる政党であっても、不法な暴力的手段で新しい制度を転覆しようとする行動をとらないかぎり、すべての政党に活動の自由が保障されることを明確にしている」)
 (5)ソ連、中国におけるプロレタリア独裁の解体にたいする賛美。(『赤旗』七一年七月三日、蔵原「松本清張氏は言葉にたいする作家らしい感覚で『改訳』に賛成してこう語っている。『……革命後の中国やソ連を見ても決してプロレタリアートの独裁ではない。……』私は松本氏のこの意見に何もつけ加えて言うことはしない」)
 第五の問題は、プロレタリアートの革命的議会主義の原則に敵対し、人民的議会主義なるものの名のもとに、日本帝国主義の戦後民主主義を美化し、体制的危機をかけた統治形態の反動的転換の攻撃をまえにして、ますます議会主義の泥沼に埋没し、破産と没落、反革命と腐敗の道をあゆみつづけていることである。
 プロレタリアートとその革命的前衛党は、よくしられているように、プロレタリア独裁をめざす革命闘争の有機的な戦術として、一定の階級情勢のもとでブルジョア議会選挙、ブルジョア議会活動に参加する。選挙ならびに議会の活動、候補者ならびに議員としての 「特権」を利用して、プロレタリアート人民にたいする大量の政治暴露をおこない、党と大衆の結合をふかめ、党の合法的、公然的陣地を強化するのである。それゆえ、革命的共産主義とその党は、一定の条件のもとで、選挙や議会を積極的に利用する政治的能力をもたねばならず、アナキストやサンジカリストのように機械的に議会の問題を回避することがあってはならない。
 しかし、そのように選挙や議会に革命党がとりくむのは、あくまでも、プロレタリアート人民をブルジョア国家粉砕・プロレタリア独裁樹立の革命的内乱にみちびくためであって、けっしてブルジョア議会を利用して権力問題の解決、社会的変革の達成をなしとげようとするためではないのである。換言するならば、プロレタリアートとその革命的前衛党は、議会での多数の獲得を革命の不可欠の前提とみなし、プロレタリア革命の壮大な展望を議会という極度に制限されたブルジョア的党略の末尾にむすびつける社会民主主義、スターリン主義の議会主義的な翼とは逆に、ブルジョア議会制度がブルジョア独裁の手段である事実をねばりづよくあばきだし、プロレタリア独裁、すなわち、ブルジョアジーと反革命の暴力的抑圧と、国家の政治と経済への全国民大衆の真の全面的な参加をむすびつける政治の勝利をかちとるために、ブルジョアジーの選挙制度、議会制度をも活用してたたかうのである。いわば、革命党の選挙闘争は、プロレタリア独裁とそのための蜂起の計画的、系統的準備の有機的な一環として、労働者人民の政治的成熟、党の信頼と権威の度合をはかる特殊な測定器として、「プロレタリアートを啓蒙し、教育して自主的な階級政党に組織する一手段、労働者の解放をめざす政治闘争の一手段」として、たたかわれなくてはならない。
 それゆえ、また、プロレタリアートとその革命党は、活動の主要な舞台を選挙と議会の問題においてはならず、プロレタリアート人民の革命的分遣隊をなす候補者、議員の活動をも利用して蜂起の計画的、系統的な準備をおしすすめるとともに、その重大な一環として、ブルジョア議会制度、ブルジョア選挙制度の矛盾とその危機の爆発をブルジョア独裁の矛盾とその危機の爆発としてとらえかえし、議会制度、選挙制度の動揺によって不可避的にうまれるプロレタリアート人民の政治的流動化、階級的激動化をブルジョア独裁を打倒し、プロレタリア独裁を樹立する革命的方向に転位するために、機会をのがさず徹底的にたたかいぬかなくてはならないのである。議会の危機を「議会の危機」として議会主義的な枠組のなかでのみとらえようとする、あらゆる傾向の誤りにたいし、断固としてそれらを粉砕するたたかいをすすめ、プロレタリア独裁と蜂起の準備のためにたたかうことこそ、ブルジョア議会制度、選挙制度の危機にたいする革命党の正しい態度でなくてはならない。
 今日、日本帝国主義とその政治委員会は、体制的危機をかけた「上からの」内乱、アジア侵略・侵略体制とむすびついた政治反動として小選挙区制の攻撃をおしすすめ、また、その政治的諸実体を先どりするものとして朝鮮人民への武装襲撃、狭山差別裁判、天皇の防衛発言など排外主義、差別主義、権威主義の攻撃、入管法・筑波法・優生法・防衛=沖縄派兵法など反動諸法案の攻撃が全面的にすすみはじめている。日本のプロレタリアート人民は、このような日帝の政治反動攻撃にたいし、議会主義の原則、戦後民主主義の美化と擁護の立場からたたかうのではなく、議会主義の危機、戦後民主主義のボナパルティズムへの強権的な転化の危機と、それにともなう政治的流動、階級的激動を「侵略を内乱へ」の戦略的総路線の勝利、中期高揚――三大政策の勝利の重大なたたかいに発展させ、プロレタリア階級闘争の壮大な前進をかちとらなくてはならないのである。
 ところが、世界革命論に敵対し、スターリン=ブハーリンの二段階戦略をもって、暴力革命とプロレタリア独裁の原則をなげすてた日本共産党は、その当然の理論的、実践的な帰結として、革命的議会主義の原則への敵対、議会主義への完全な埋没におちいり、かくすることによって、日帝の「内乱的手段」をも駆使した本格的な政治反動攻撃にたいして「議会主義を守れ!」という悲鳴をしかあげることができず、より全面的で、より深刻な破産の道を本格的に「準備」しはじめているのである。
 (1)革命的議会主義の原則への敵対。人民的議会主義の名によるブルジョア議会主義への完全な屈服と埋没。(一一回大会決議「国会はたんに政治の実態をあきらかにするだけではなく、国民の改良のための改良の実現をはじめ、国民の要求を国政に反映させる闘争の舞台として重要な役割をはたす。さらに、今日の日本の政治制度のもとでは、国会の多数の獲得を基礎にして、民主的政府を合法的に樹立できる可能性がある。平和・中立・民主・生活向上の統一戦線の結成を軸に、党と民主勢力が国会の多数をにぎり、民主連合勢力をつくりあげることは、わが党が七〇年代にはたすべき歴史的任務である」)
  (2)戦後民主主義の体系的美化。(不破『人民的議会主義』「今日の日本の国会は」「第一」 「二〇才以上のすべての男女にたいする普通選挙権」「第二」「憲法のうえで『国権の最高の機関』という位置」があたえられている。「さらに重要なことは、政府の選出も首班の選出を通じて国会で行なわれる」だから「もし統一戦線の側が、この国会で多数を占めるならば」「首班の指名を通じて、国会を基礎にして政府を、民主的な政府を選出することもできる」)(一一回大会決議「議会制度と民主主義が重要な制約をもちつつも今日のように発達した形態をとっているわが国」)
 (3)政策活動をテコとした改良主義、行政主義、議会主義への際限ない深まり。(岡「綱領はおもに革命の課題や打倒すべき敵権力などをあきらかにして革命の方向と性格をしめし、政策は闘争の出発点となる大衆の要求とその解決する具体策をしめします」)(不破「要求を政策化することに議員団の独自の仕事がある」「日本共産党の政策の特徴、他党派にくらべてその優位性」は「実現可能なもっとも現実的な政策をしめしている点」「『政策で票をよむ』活動」)
 (4)小選挙区制、政治反動攻撃にたいする議会主義的対応。(上田「憲法のもっとも大事な原則である議会制民主主義と国民主権をふみにじる小選挙区制の挑戦」)
 (5)内乱の戦略なき小選挙区制粉砕論のあわれな末路。議会主義路線の破産への不安と恐怖。
 (『前衛』七三年六月「小選挙区制導入」「のたくらみを許すかどうかは、まさに、わが国における議会制民主主義の死活にかかわる問題である」「もしも政府、自民党のたくらみが成功して国民主権の原則が否定されるならば、それはそのまま日本の政治を暗黒の時代に突き落すことになる」「国会は大多数の国民が支持しなくとも圧倒的多数の議席を占有し、自民党一党独裁を『永久化』 し、国民主権はまったく名ばかりのものとなり、実質的には『財界主権』にとってかわられることにならざるをえない」)(つづく)
 (一九七三年六月に発表、未公刊論文)