七 春日なき春日派の命運
   なにを根本的に「革新」すべきか
 
 六一年に日共から脱党した春日庄次郎らの構造改革派は、早くも六二年初頭に分裂に直面した。レーニン主義をスターリン主義と同一視し、複数前衛党論をもってスターリン主義を克服しうるかのように錯覚し、社民への接近を試みる春日派(統一社会主義者同盟=フロント)と、中間主義派=内藤派(共産主義労働者党)との分裂を、革命的共産主義の立場から批判している。
 
 
 選挙をめぐって分解
 
 春日派(社会主義革新運動準備会)の分解的状況は、二月上旬におこなわれた同派第三回全国委員総会を契機として、深刻な様相を呈している。
 同派の機関紙『新しい路線』によると、三全委の席上で、地方の委員から同派の『停滞と分解』にたいする指導部の無策・無能について徹底的な責任追及がおこなわれ、これにたいして、逆に、春日庄次郎議長、山田六左工門副議長、亀山幸三選対部長らは、東京都委員会等の路線を「趣意書からの逸脱だ」とひらきなおり、多数派がきたる参院選挙に、同派から独自候補を立てるという決定を強行したことを不満として辞意を表明した、とのことである。また、同派の拠点である大阪では、同府委員会の多数派が「三全委の決定に拘束されない」との決議を発表しており、山田副議長は「社会主義革新運動から脱退して大阪だけで独自の組織をつくる」ことを提唱しているといわれる。そのため、関西では脱退者が続出して、組織は完全に解体してしまった様子である。
 かくして、昨年十月に発足した同準備会は、わずか半年もたたぬうちに再起不能な分裂状況にみまわれたのである。もはや、いかなる意味においても、春日派は単一の政治的組織とはいえない状況であり、地方的に分散したもと日共右翼反対派の残党の無原則的・停滞的な集合体でしかなくなっている。「社会主義運動の革新」を旗印にして日共脱退者を野合的に結集した春日派は、半年間の「実践」をとおして、いまや、明確に「社会民主主義的潮流と小共産党的潮流」とに分解しようとしているのである。
 
 社民に没入した構改派
 
 すでに、昨年の八月に指摘したように(『前進』三六号「春日新党と新中間主義」本書、第V部三四一ページ参照)、春日的反対派は、スターリン主義と革命的共産主義の現実的闘争によって生みだされた右翼的副産物であり、その未来は、社会民主主義への移行か、スターリン主義への回帰かの二つの道しかひらかれていないのである。それゆえ、このような迷路から脱出するためには、「新しい路線」として錯覚している自分自身の立場そのもののスターリン主義的本質を根本的に革新することが必要なのである。
 だが、春日庄次郎を先頭とする「構造改革派」は、「無党派活動家と共産主義者との結合」を口実として、独自の政治的結集に反対し、現実には、民同=社会民主主義との融合の道をあゆみはじめたのである。現代社会主義研究会というサロン的結合につながる構造改革系の組合活動家は、ことごとに民同=社会民主主義との共同戦線を形成することによって、日本労働運動内部の日和見主義のもっとも厚顔な要素に転化しつつある。かれらが自分自身についてどのように考えていようとも、実際には日本的構造改革派は、低迷し、衰退しつつある日本社会民主主義運動を、フルシチョフ=トリアツチ路線の新スターリン主義で補強し、美化する先兵としての役割をはたしているにすぎないのである。
 それゆえ、春日派のなかに「社会主義運動を革新する新しい路線」を幻想していた少なからぬ部分が、このような極端な社民化に逡巡したとしても、けっして無理とはいえないのである。内藤事務局長、西川副議長らによる同派中央事務局のクーデター的掌握と多数派工作は、基本的には、春日庄次郎議長らの露骨な社会民主主義への没入にたいするスターリン主義的反動のうえに、一時的に成立した政治的連合以外のなにものでもないのである。
 西川副議長は、三全委において「そもそも春日君は、自己のよってもっている階級的立場を理論的、実践的に把握する指導的役割の自覚と責任に欠けている」と批判したそうであるが、だが、もともと春日派の「停滞と分解」の原因を春日の無策・無能という政治機能主義的側面に還元する方法では、問題は少しも解決されえないのである。
 
 内藤・西川派の本質
 
 たしかに、春日の「党建設の課題を提唱しない共産主義者″と無党派活動家が合体した政治集団」という組織方針が、レーニン主義からのあまりにも明白な逸脱であることは、いうまでもないであろう。だが、春日的逸脱にたいして、ただたんに、レーニン主義的組織原則を対置するだけでは、なんの意味もないのである。なぜならば、今日、春日なき「春日派」がなにをおいてもまず着手しなければならない仕事は、国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲をどの方向に革新すべきなのか、根本的に再検討することであり、社会民主主義への傾斜によってそれをなしうるかのように幻想している春日的立場との根底的対決でなければならないからである。
 だが、内藤=西川には、そのような反省の一片すら存在しないのである。春日庄次郎のような日和見主義者からすら「妥協の産物」といわれたあの「趣意書」にそって、「政治活動と組織建設を敢然として進めれ」ば、それでいいというのである。「われわれの中では社革運として全国的に代表した独自候補をたてて選挙民大衆の投票を訴えるに足る政策の定着がまだない」(春日庄次郎)にもかかわらず……。
 かくして、春日なき春日派のこのような縮小再編成は、東京・広島にわずかに余命を保っている脱党者の小共産党的集合体を生みだしたにすぎないのである。それゆえ、この小共産党は、必然的に、社会党=社会民主主義と日共=スターリン主義のあいだを動揺しつつ、さらに分解をくりかえしていくであろう。しかも、春日派の精神的支柱であったトリアツチ主義は、いまや、頑固派スターリン主義者と左翼反対派の挟撃にあって、弁解じみた言説をくりかえしているのである。
 
 日共よ、喜ぶのは早い
 
 代々木の日共官僚は、春日派の分解にこおどりして、「トロツキスト粉砕の教訓に学び春日一派を絶滅せよ!」と騒ぎまわっている。だが、日共のスターリン主義官僚は、うす汚れた春日的中間主義の霧をはらって安堵の胸をなでおろしたとき、かれらの安心が早合点であることに気づくにちがいないのである。そこには、すでに粉砕したはずの反スターリン主義=革命的共産主義運動が不敗の旗をたてて前進しているのをみるであろう。
       (『前進』八四号、一九六二年三月一五日に 掲載)