五 「春日新党」と新中間主義
   反帝・反スターリン主義=革命的共産主義のみが労働者の進む道だ
 
 六二年日本共産党第八回大会をまえに、組織的分派闘争をなんらたたかわず、敗北主義的に脱党した春日庄次郎一派(のちの共労党およびフロント)への批判である。トリアツチ主義者=構造改革派への批判と、第二次ブント的中間主義の動揺への批判がおこなわれている。
 
 
 春日庄次郎をはじめとする日共反主流派の脱党、「別党コース」の追求、これにたいする日共主流派のすさまじい異端攻撃、こうした日共内外の一連の分裂の進行は、日本スターリン主義運動の分解過程の第二段階の開始を示すものとしてきわめて重大な意義をもっている。
 その第一の意義は、この日共の分裂が、中ソ論争という形態で露呈した国際スターリン主義運動の「分裂」を背景として開始されたということである。
 春日庄次郎の「意見書」でも明らかのように、かれら日共反主流派は、その個々人のあいだではかなりの相違をみせながらも、昨年十二月にモスクワで発表された「八一ヵ国共産党共同声明」の真髄をなすフルシチョフ=トリアッチ路線の立場を日本に正しく適用しようと考えており、主流派よりもかれらの方が「共同声明」の精神に忠実なのだとみずから固く信じている。「実はフルシチョフは俺たちの方を支持しているのだ」というかれらのあいだの伝説は、まさにかれらの俗物根性にはうってつけの強心剤であったにちがいない。だが、イギリスの諺ではないが、事実は頑固である。タス通信で伝えられたソ連共産党の「メッセージ」は、明確に「二つの敵」との闘争を呼びかけることによって、いっさいの僭王伝説の根拠をものの見事に粛清してしまったのである。
 かくして、反主流派、とりわけ構造改革派は、思想的には新スターリン主義としてのフルシチョフ=トリアッチ路線への深い真情を抱きつつも、現実的には自己の正統性を護持するために、ソ連共産党にたいしても、ある程度の批判的態度を示すことが不可避となりつつある。そして、こうしたかれらの内部の自己二重化は、遅かれ早かれ、その内部にスターリン主義にたいするチトー的右翼修正主義者(多数派)と左翼批判者=革命的共産主義者(少数派)との分裂を結果するであろう。そうした意味において、ソ連共産党は、日本においてもっとも説得力をもった友人=同志を失うことになるであろう。
 その第二の意義は、この日共の分裂が、三年前の日共第七回大会当時とはちがって、スターリン主義運動と革命的共産主義運動の分裂が、すでに現実の階級闘争のなかに明確に定着されつつあるという状況のなかで進行しているということである。
  日共第七回大会において大会代議員の半数以上も草案反対者が占めていたにもかかわらず、かれらはなんら組織的分派闘争をおこなうこともなく後退しつづけ、安保闘争から今年の春闘にいたる全階級闘争にたいして、たんなる党内不平分子にとどまり、学生党員のごときは、革命的学生運動にたいする右翼分裂主義者として終始したのである。
 しかも、「反党分子」安東仁兵衛などは、トロツキスト退治の先頭にたったばかりか、芝寛・武井昭夫らの都委員会派攻撃において、宮顕のもっとも卑劣な走狗だったのである。したがって、かれら「自称」反主流派は、すべて安保闘争において日共の裏切りの共犯者であった。にもかかわらず、かれらは、日共の言動にたいする労働者・学生・知識人の不信――批判が拡大するにつれて、中間主義的ポーズを示すことによって自己欺瞞をはかり、こうした立場を「除名」という受難によってさらに美化しているだけなのである。
 それゆえに、かれら反主流派は、なんら一貫した自己の立場を日本階級闘争のなかでもつことはなかったし、また、今後ももちえないであろう。この二〇世紀のフェビアンたちは、日共第七回大会においても、また安保闘争のいかなる局面においても、ただの一度もルビコン河を渡りはしなかった! そして、五六年以来の日本革命的左翼の苦闘の成果としての「日共物神化論の崩壊」のうえにアグラをかいて、「前衛党はいくつあってもいい」などという愚劣な組織論の「発明」に、身も心もうつつになっているのである。俗物をもって鳴る日本型進歩的知識人が、こぞって声援するだけのことはある。
 もちろん、われわれは、いわゆる反主流派のなかに、主観的には「誠実な」共産主義者がすくなからずいることを知っているし、また、日共にたいしては徹底的な不信をもちつつも、革命的共産主義運動には入ってこれない戦闘的労働者のかなりの部分が、「春日新党」に強い期待を抱いていることをよく知っている。だからこそ、われわれは、明瞭にいわなくてはならない、――「春日新党」は本質的には日共にたいする右翼的中間主義でしかない! 反帝・反スターリン主義を綱領的旗幟とする革命的プロレタリア党のための闘争にたて! どんな困難が山積しようとも断固としてこの道を進め! と。
 しかも、スターリン主義運動の本隊である日共は、第八回大会において綱領草案を「全員一致」で可決し、まえよりさらに強固な「一枚岩」の団結でもってプロレタリア運動の反動的桎梏としての役割をますます明らかにしていくであろう。いわゆる党員倍加運動によって不断に増大する新入党員は、未経験で党中央にたいしては無批判的な権威主義者の比重を拡大し、同時に旧党員の活動家を新しいポストにおしあげることによって、さしあたって官僚体制を強化する、きわめて重要なポイントとしての役割をはたしていくであろう。
 だが、階級闘争の力学は、たびたび、スターリニスト党の上昇とプロレタリア運動の後退とが交叉をなして進むこと、そしてある日、青天の霹靂のように(スターリン主義者にはそう感じられるのだが)支配階級の鉄槌が加えられることによって、壊滅にとってかわる実例をいくらでも示してくれるのである。革命党はこれとちがって進まなくてはならない。たとえそのあゆみがいかに遅々たるものであろうとも、革命のその日のために、もっとも困難な道をさけずに進まなくてはならないであろう。
 われわれは、裏切られ、後退し、敗北しつつも、なおプロレタリア運動の総退却に抗して最前線でたたかう戦闘的労働者とともに進み、かつ退きつつ、革命的マルクス主義でともに武装し、反帝・反スターリン主義の旗のもとに、革命的プロレタリア党の創成のためにたたかわなくてはならない。「民主主義的多数派」(トリアッチ)などという合法マルクス主義者の熱病的なうわ言にたいして、われわれは、断固として共産主義的反対派の旗を鮮明にかかげ、その勝利のために不断の闘争を展開しなければならない。
 ところで、かつて「唯一の革命的前衛」などと自称していた旧ブントの残党の一部に、最近になってきわめて危険な傾向が顕在化しつつあることについて、かんたんに警告しておこうと思う。
 その第一の危険な傾向(よくいってのことだが)は、関西の同志社大ブントなどにみられる「春日新党」との野合の動向である。普段から「マル同と一緒になるぐらいなら、代々木の方がましだ」と放言していたかれらは、いまや、全学連第一七回大会における「分裂」を口実にして公然と革命的左翼戦線からの逃亡を開始し、構造的改革派との野合を準備しているのである。また、革命的左翼戦線への小ブル的同伴者であるA氏は、「現在の社・共をも統合した統一労働党といったもの」(『読書人』七月一七日)を提唱することによって、その堕落ぶりを赤裸々にしている。
 スターリン主義との闘争における、このような中間主義の再度の発生は、だが、日本革命的共産主義運動の危機の表現というよりは、むしろ、その前進のもたらした内部分解の必然的産物なのである。カエサルのものはカエサルへ、スターリンのものはスターリンへ、である。安保闘争の一時的な興奮のなかで、たまたま革命的左翼に「接近」した旅人が、いまや、自己に似つかわしい故郷をみいだして回帰しつつあるだけなのだ。
 同志諸君、かん高い道義的批判をつつしもう。われわれの戦列の再武装のみが、かれら右翼中間主義への最後の回答となりうるのである。
 第二の危険な傾向は、いわゆる「反パルタイ連合」主義という形態をまとって発生するところの解党主義である。
 もちろん、かれらの多くは、直接に前衛党の必要性に反対しようとはしない。にもかかわらず、『論争』九号の姫岡論文や社学同東大駒場の「アッピール」でも明らかのように、現実には、わが革共同全国委員会を先頭にして前進しつつあるプロレタリア党のための闘争を中傷し、自己の小ブル的非組織性を合理化するために、革命的プロレタリアの「統一のための苦闘」への反動的障害物としての役割を演じているのである。姫岡論文の反動性にかんしては、別のかたちで批判したいと思うが、とくに「レーニン組織論の再検討」などは、姫同君の山師的空文句の好見本みたいなもので、無責任さにおいて「日本革命の挫折」の無自覚者佐久間元君と好一対である。
 おそらくは、今後一定の期間、スターリン主義運動の分解の過程的表現としてさまざまの中間主義が生みだされつつ、雑炊的総合と思想的分解をとげていくであろう。それゆえにわれわれは、こうしたいっさいの動向にたいし、揺るぎない批判的立場を堅持しつつ、左翼的分解を不断に促進し、われわれの戦列を注意深く強化していくことが決定的に必要である。共産主義運動の不死鳥のような発展は、プロレタリア運動の内外に存在するいっさいの反プロレタリア的思想との非妥協的な分派闘争を勝利的にたえぬくことによって、その戦列を進めてきたのである。
 われわれは、スターリン主義との闘争を中和しようとするあらゆる策動を粉砕し、解党主義に道をひらくあらゆる日和見主義を打倒し、反帝・反スターリン主義の革命的共産主義の旗を誇りたかくかかげなくてはならない。このことの意義はますます大きくなりつつあるのである。
     (『前進』三六号、一九六一年八月五日 に掲載)