誤謬の拡大再生産を許すな
   ――左翼反対派の再編成のときにあたって
 
 六〇年ブントの六〇年安保闘争の総括をめぐっての三分解という状況の現出のなかで、六〇年十一月、それを正しく止揚し、単一の革命党への結集の道を指示した論文である。
 
 
 革命運動もまた、しばしば茶番じみた寸劇をともないながら、運行していくものらしい。われわれのもとにとどいた一片の「政治的」文書は、わが革命的左翼の周辺でも例外なく、こうした喜劇が生まれうることを証明した。すなわち、共産主義者同盟内の「何らの出発点をもたぬことを特徴とする」一分派の機関紙である『プロレタリア通信』第四号(十一月一四日付)がそれである。
 かつてのブント公認の「理論」家=姫岡玲治君によって恐らくは書かれたであろうこの論文は、「武装蜂起の思想を常識化する」というきわめて「特徴ある」現実認識から「出発」している。
 『プロレタリア通信』はいう――「安保闘争の小市民的な性格というのは労働者階級が国家権力との暴力的衝突をただの一度も経験することなく平和的に戦場から退いていったことによるのだ。六・一八において(共産主義者)同盟が強固に思想的に武装されておれば、われわれの力によってでも、労働者の武装とそれを準備し、実行する峻厳な革命党の必要性、不可避性の信念をプロレタリアートのあいだに拡大することは、まったく可能であったのだ。そうすれば同盟は、国民会議や共産党の戦術に、より左翼的なる戦術を対置することによってみずからを登場させてきた段階からすすんで、さらにブルジョア権力の赤裸々な対決にたえうる革命党への道に一歩すすむことができたのだ」と。
 つまり、いまや金助町の全学連書記局にしかその確実な支柱を見いだしえず、ただ分派闘争の未展開のうえに策謀的にその地位を保持しえているわが『プロ通』派の諸君によれば、安保闘争のいっさいの病根は労働者階級が武装して街頭におどりださなかったことにあり、共産主義者同盟内の分派闘争の「核心」は、まさに武装蜂起という「革命の中心問題」を解決しうるかいなかにかかっているというのである。
 われわれは、こうした思想が『プロ通』派成立から三ヵ月もたってからであれ、その分派の「出発点」として確立された事実を、こよなく貴重なものとして迎えよう。なぜならば、六・一八国会再突入の挫折に安保闘争の敗北の焦点を設定することによって「出発」したわが『革命の通達』派の諸君(俗にいう東大派)が、いまやこうした見地に自信を喪失して崩壊しつつある今日、「共産主義者同盟の革命的伝統」の正統護持者として発現したわが『プロ通』派が、いまや『革通』派によって放棄されたこの「見地」を「革命的」に継承することにより、「武装蜂起を日常的に思想化する」点にまで到達したということは、わが革命的左翼内における分派闘争の発展にとってけっして有害でないばかりか、いくらかの貢献でさえありうるからである。
 かつてエンゲルスは、「革命運動について一歩つっこんで学ぼうとするものにとって『すでに』克服された見地を検討してみることが必要である」といった。わが革命的労働者にとって、共産主義者同盟の破産はすでに共同の「出発点」となっている。だが、われわれは、よりよく前進するためにはこうした誤謬についてもっとよく学ぶことが大切であるし、学生戦線におけるわが革命的共産主義者にとって、こうしたブランキズムの亡霊を徹底的に退治する仕事は、きわめて現実的な任務でもある。
 ところで、この『プロレタリア通信』第四号は、国家と反乱にかんするきわめて雑然とした解説と、マルクス主義の方法にかんするきわめて混乱した説教とが、その大半を占めており、そして、「政治的なものと組織的なものをきりはなすことはできない」とのレーニンの言葉をたびたび引用することによって、あたかもかれらのみが権力獲得の党を提起しうるかのような恥知らずぶりを、例によっておこなっている。
 だが、こうした詐欺は、もはや成功しないであろう。共産主義者同盟の「早産児」的な成立とその「歪んだ」発育、その苦痛にみちた挫折は、それなりに、わが若き革命的共産主義運動にとってひとつの「悲劇」であった。しかしながら、いままた『プロ通』派の諸君がこうした「悲劇」を極左的に改作しつつ再演しようとするならば、それは「茶番」以外のなにものでもないであろう。
 考えてもみたまえ!――六月一八日の夜、いったい誰を武装しようというのか?
 諸君は、こともなげにいう――「武装した労働者階級が国家権力と暴力的に衝突していたら……」と。だが、このような危険な遊戯が存在しうるのは、諸君の小さな灰色の頭脳のなかだけである。
 もちろん、われわれは、蜂起が革命の中心的問題であることをよく知っている。だが、プロレタリア大衆が武装蜂起に導かれるのは、それが常識化されているからではない。労働者階級は、かれらがこうした方法にうったえる以外には自己の階級的利益を実現しえないと感じたとき、はじめて武装の問題にとりかかるのである。マルクスによれば、こうした条件のもとにあってさえ、蜂起の呼びかけは、十分の準備なしに発せられるべきではないのである。
 しかるに、わが季節はずれの「極左」主義者は、一八日の夜に国会の周辺にもどってきた労働者たちが、あたかも「武装放棄」の方針を求めていたかのように、そのときから半年近くもたってから確認する。このようなかれらの「見地」をマルクスやレーニンと比較しようとすることは、まったく恥知らずである。ただ比較しうるのは、六・一八に「現実に××××の方針を提起した」ために、いまやみずからが組織した第四インターナショナル日本委員会からも除名されて、社会党のなかに完全に「没入」してしまった「歴史的」人物――太田竜君ただ一人であろう。そして、わが姫岡先生は、この「孤高な」セクト主義者と対照しても、はるかに卑劣な「強がり屋」なのである。
 いまや、このような「言葉だけ」の極左主義者と対話をすすめることは、無益である。全学連書記局にあまりにも長く居すわりすぎたために、号令だけで大衆運動を組織しうるかのように幻覚し、こうした幻想が冷酷な現実と衝突し、濃霧を発生すると、さらに鬼面人を驚かす策略に心酔するこうした「革命の錬金術師」には、屋根裏の小部屋がその居室としてにつかわしいのである。
 われわれは、いまだ『プロ通』派の周辺を去りやらぬ共産主義者同盟員に、心から訴える。――諸君がこれ以後もこうした左翼空論主義者にたいして「あいまい」な態度をとるならば、それは革命運動にたいする許しがたい犯罪となるだろう。
 われわれは、すべての共産主義者同盟員諸君に、同志として訴える。共産主義者同盟の危機の本質が「まさにマルクス主義者として思想的になんらの一致もないことを発見せざるを得なかった『前衛党』としてのみずからの状況」にこそあると断定し、「かかる挫折をもたらした同盟創立以来の理論的、思想的、組織的路線の全面的否定の上にたち」(以上引用は、『戦旗』派結成の基本的立脚点、十月三〇日、戦旗編集局、革命論争資料集、四ページ)『プロ通』派、『革通』派と鋭く対立する極点にみずからを位置づける『戦旗』派の結成とともに共産主義者同盟は解体した! いまや、たとえ戦術的であれ、ふるき衣装に執着することは、まったく無意味である。
 もちろん、このことは、かつて共産主義者同盟の指導的地位にあった人びとによる、過去の問題にかんする真に責任ある主体的反省が必要でないという意味ではない。否、むしろ、こうした「反省」なしに「未来」に安易な救済を求めることは、かえって誤謬を未来に保証するだろう。共産主義者同盟の破産を現実的に確認し、その革命的再生のためにたたかっている『戦旗』派の場合においても、否、かれらにこそこの反省が強く要望されるのである。この意味で、われわれの手元に届いた、かつての共産主義者同盟の指導的な位置にあった一人の同志の「戦旗派参加の私の立場と自己批判」なる文章には、残念ながら肯定的評価を与えがたい。自己批判のいっそうの深化を望むものである。
 『プロ通』派あるいは『革通』派は、自己の没落をセクト主義的に防衛するために、あたかも『戦旗』派指導部がわれわれ全国委員会と「野合」したかのごとき虚構にすがりつこうとしている。組織的相違によって生まれたセクト主義的な感情の母斑にしか自己の存立理由を発見しえぬとは、なんとみじめな!
 われわれは、いまこそ、革命的左翼のあいだで真剣かつ非妥協的な論争が不可避であると考える。それは同時に、革命家としての自己の主体的検証をうちに貫くものでなくてはならないであろう。こうした「分離」は、革命的マルクス主義の「結合」の前提である。
 ところで、わが「極左」空論主義者はいう、――「今日、独占秩序の疎外感は、青年のあいだにテロリズムへの心酔を呼びおこしているが、我々は白色テロルにたいし数歩おくれているのだ。だがそのひらきは十数歩ではない」と。
 かくして、かれらは、「国家独占に根深くおかされているが、現実的秩序に反抗的な、政治的にして行動的な青年」を組織しようと心をつくす(姫岡玲治『日本国家独占資本主義の成立』)のである。だが、こうした「思想」によって組織された党が、革命的マルクス主義によって武装された労働者党とはまったく無線であることは、いまさらいうまでもなかろう。
 すると今日、稚気愛すべき『プロ通』派にきわめて親密な心情を抱いていると思われる吉本隆明氏の一年前のつぎの文章は、それなりに意味をもっていたことになる。「わたしは、石原の『殺人キッド』をよみながら、現状破壊的なエネルギーよりも、原始的な衝動行為をえがくことによってエネルギーを集中せずにはおられない石原の一貫した衰弱を、この作品にもみないわけにはいかなかった。よほどおめでたい批評家でないかぎり、この石原の衰弱が、秩序破壊のエネルギーにつながるなどと評価できないのである。おなじ若い世代でも、かつてレーニンの『国家と革命』を批判しながら、独占体制をぶちやぶる力は、火焔ビンでもなければ、竹ヤリでも、ピストルでもなく、団結であり、先進資本主義における革命で、まっさきにこんな武器をもてあそぶような事態がきたとしたら、プロレタリアートは敗北するほかないのだと説いた黒田寛一のほうが、はるかに現実的である」(『異端と正系』)
           (『前進』一八号、一九六〇年十一月二五日 に掲載)