五 同盟内日和見主義との闘争のために
   驚くべき事実の露呈――参院選挙闘争の総括の前進のために
 
 六二年参院選闘争に立候補しながら、そのたたかいのもつ歴史的積極的意義をなにひとつ理解しえず、革共同への大衆的支持を過小評価し、小児病的な意見に終始した黒田寛一への批判である。
 
 
 「思想闘争の組織化と前進のために」という私的文書のなかで、同志山本は、「参議院選挙闘争の一応の総括は第三回総会の第一議案″でなされているが、なお追及されねばならぬ諸問題をここでは列挙するにとどめる」としていくつかの問題点をあげている。だが、その内容はきわめてお粗末なものであり、その真意を疑いたくなるようなものである。
 「(イ)参院選挙闘争にかんするわが政治路線の再検討」として、(A)コミンテルン・テーゼからの推論的傾向、(B)春闘と選挙闘争、(C)「反議会戦線」を否定する傾向の三点をあげているが、(A)と(B)の問題は、二月初めの全国選対会議および第二回全国委員総会における政治局報告で提起されたものであり、基本的には再確認というべきものである。
 ところで(C)の問題だが、「四月〜五月の段階に部分的に発生した……反議会戦線″を否定する傾向」の再検討をかかげているが、ここで同志山本はなにをいいたいのだろうか。現実は、四月〜五月の段階に部分的に発生した危険な傾向は、当時、同志山本も指摘していたように、「反議会戦線」に参加した一部のインテリ・グループにたいする妥協的傾向ではなかったのか。だからこそ、第三回全国委員総会で、同志山本は「反議会戦線は三号以後改善された」と発言したのであるし、事実そうであったのである。にもかかわらず、このようなわが同盟側の「弱点」は、五・二六集会の前半に露呈した、あのような混乱の要因となったのである。同志山本は「反議会戦線」の否定、あるいは過小評価の危険をいましめているが、われわれは、むしろ「妥協的傾向」の危険をこそ明白にすべきなのである。
 また同志山本は、「反議会主義を自立した闘争としてかかげるような弱点」ということについて、完全に「反議会戦線」と二重写ししているようであるが、むしろ問題は、選挙闘争の宣伝、扇動、組織の方法にかかわっていたのである。「選挙演説のやり方、内容の再検討」などと同志山本はいうが、新宿駅頭で清水幾太郎の悪口を二〇分もしゃべっているような小児病的ひとりよがり=空論主義の克服こそわれわれの痛切な反省ではなかったのか、どうしたら労働者階級の革命的な魂に平易かつ卒直なコトバでかたりかけることができるのか――ここに、選挙闘争からその後に一貫してつきあたっていた問題意識のひとつがある。だが、同志山本には、そのような反省は「腐敗」の一表現でしかないのである。
    ★    ★    ★
 
 ところで、十二月二日のSOB(学生組織委員会)において、選挙闘争を総括するうえで安易に通過することの許されないきわめて重大な事実があきらかになった。すなわち、参院選挙闘争の総括をめぐる討論のなかで、同志山本は、「投票日の直前に立候補を取消して投票拒否を行うという考えを五月の終りまでもっていた」ことをはじめて公然としたのである。その理由として、同志山本は、「(A)票はせいぜい二、三千票ぐらいだろうからみっともない、(B)組織暴露になる恐れがあるから、(C)選挙に参加するのは宣伝するためだけなのだから」と三点をあげたのである。これはきわめて重大なことである。
 なぜか。
 (一)
 全同盟の同志が政治局を先頭に六月にむけ参院選挙闘争の準備にとり組んでいたときに、いな、すでに現実の選挙闘争があらゆる戦線で展開されていたときに、参院選挙闘争の全戦術を決定するような「思想と方針」を、同志山本は政治局会議にもはかることなく抱きつづけていたのである。
 五月一五日付の『前進』は、選挙辞退のデマをうち消すための政治局声明を発表したが、政治局――選対が他分派の悪意ある予想を打破し、全同盟的に参院選挙闘争にとりくむために全力をあげていたときに、同盟の重要な中枢の内部に、「投票日直前の選挙ボイコット」などというスターリン主義的戦術の二番せんじの方針をもつ同志をかかえていたのである。まことに、「選挙闘争の総括は基本的になしとげられていない」と同志山本が主張するはずである。しかも、政治局員のだれもがこのような意見を同志山本から直接に聞かされていなかったにもかかわらず、反議会戦線に関係した同盟以外の人のなかには、同志山本のこのような「考え」はすでに公然の事実であったというのである。この一事は、同志山本が同盟の組織性や中央指導部(政治局)にどうかかわっていたかを明白に示している。
 (二)
 たしかに、わが同盟が今回の参院選挙闘争に参加した主たる目的が、われわれの基本的政策を選挙という演壇を利用して労働者人民大衆に宣伝するためであったことはいうまでもない。だがこのことは、選挙の票などはどうでもいいという裏返し的な思想を許すであろうか。「思想闘争の組織化と前進のために」のなかで、同志山本は、「票の評価のしかたにかかわる思想問題」などといっているが、五月末まで同志山本が抱いていたような「思想」をこそ、われわれが、わが運動に残存するスターリン主義的母斑としてとらえかえすことが必要なのである。
 まさに、このような選挙方針は、火炎ビン時代の日共の選挙戦術の恥知らずな復活ではないだろうか。労働者人民大衆は投票することで、あるいは投票を組織することで、わが同盟にたいする自己の意志(少くとも、ブルジョア政党やエセ労働者党にたいする反感)を行動にうつすのである。また、わが同盟に直接に投票するかどうかをとおして、自己の既成の政治的思想を再検討する一契機を獲得するのである。だからこそ、われわれの参議院選挙闘争は、「三分の一論」などの労働者階級に内在する議会主義的思想との深刻な闘争の武器となりえたのではなかったか。だからこそ、二万三千の票は同時に、総体として反帝・反スターリン主義″の方向に動きはじめた労働者人民の政治的力量として、いっさいの他の政治的分派にはねかえったのではなかったか。選挙=宣伝の手段という単純化は、三〇年代のスターリン主義のそれでしかない。それはあきらかに、党と大衆との関係のダイナミックスを見失ったセクト主義的集団のそれでしかない。
 ところで、立候補辞退のあと、労働者人民大衆にむかって、われわれはどうしろと訴えるべきなのか、いやそれどころか、その訴え――なぜ立候補をとり消したのか――をどう労働者大衆に伝えようと、同志山本は考えていたのか。労働者人民大衆にたいするこの一方的伝達主義!
  (三)
 「票はせいぜいよくても二、三千票だろう」という同志山本の判断は、同志山本のわが同盟の現状にたいする恐るべき見当ちがいを暴露しているとともに、同時に、同志山本の参院選挙闘争にたいする左翼小児病的な構えを赤裸々にしているものといえるであろう。
 いったい同志山本は、わが同盟の政治的力量について、どのような判断をもっていたのであろうか。機関紙の読者数の半数にもみたぬ票しか獲得しえないような選挙闘争しかできないとするならば、まったく選挙に参加するということの意味すらないであろう。参院選挙闘争は、わが同盟の総力をかけてたたかうべき重大な政治闘争だったのである。われわれは選挙に参加することによって、ブルジョア階級からあたえられるありとあらゆる手段を利用して、わが運動が平常では接触しえないような広範な民衆にむかって、ブルジョア社会への反逆を訴えかけるためにたたかったのである。
 もちろん、労働組合内におけるわれわれの活動は、選挙になると異常に拡大される社民・代々木のしめつけのなかで、きわめて多くの制約を前提としなければならなかった。だがわれわれは、労働組合幹部の官僚主義的な選挙活動のおしつけ、春闘をいいかげんにかたづけて、少しも組合員の生活と権利のためにはたたかわぬくせに、選挙になると熱中する民社・社会・日共にたいする組合員の不満と怒りとの広範な接点を確保しつつたたかうことによって、われわれの「反議会主義」のたたかいの突破口をきりひらいていったのである。
 全逓のある拠点細胞の同志は、「選挙闘争のなかで、組合の仲間たちは、オレたちが単なる不満分子=批判勢力でなくて、トコトンまでやる気があることを理解しはじめた」といっていたが、労働者階級の内部におけるこのような意識の変化こそ、われわれが同盟建設をすすめるうえできわめて重要な条件なのである。また、国鉄のある同志は、選挙闘争をとおして、組合機関の選挙にも明確な立場にたって目的意識的にたたかうという突破口をきりひらいていったのである。大阪の新日本工機の闘争の渦中であきらかになったあの「黒田候補」にかんするエピソード(注)は、われわれの選挙闘争がもたらした政治的力学のすぐれた反映のひとつといえるであろう。
 ところが、わが同志のひとりは、このようなダイナミックスを理解しようともしないし、また理解できなかったのである。自分の頭脳がつくりだした小世界のなかで、立候補のいいわけに熱中していたのである。
 さて、同志山本は「投票日直前の立候補辞退」という「思想」を五月末までもっていたといった。とすると、立候補の直前になって「投票日直前の立候補辞退」という「思想」は変更されたことになる。それはなにゆえか。その根拠はなにか。――だが、同志山本は口を閉じて語らない。そうだ! 「選挙闘争の総括はまだ基本的にはなしとげられていない」のだ。
 
  (六二年十二月一二日)
 
 【注】一九六二年夏、大阪における総同盟(現在の同盟の前身)の第二の拠点といわれた新日本工機において、わが同盟の指導のもとに、会社御用幹部の日共に支えられた組合支配を根底からゆるがすたたかいが爆発した。このたたかいのなかでわれわれは、一挙的に、たたかう労働者とのあいだに接点を拡大した。そうした労働者のなかに、この参院選の公報を読んで「一人だけええことをいっている」候補がいたことを指摘した労働者がいたのである。その労働者は、「社共とちがって一人だけええことをいっている候補者」の名前を正確には憶えていなかったが、わが同志に指摘され、即座にその候補が黒田寛一という名であったことを思いだしたのである。このエピソードは、わが同盟の革命的議会主義の正しさを証明するとともに、逆に黒田の日和見主義=反労働者性をあますところなく物語っている。
    (『前進』一二五号、一九六三年三月二日 に掲載)