四 革命的共産主義運動の現段階と革命的プロレタリア党創造の課題
 
 田宮健二の筆名で、六一年九月、『共産主義者』四号、六二年一月、同五号に連載された歴史的な論文(未完)である。わが革命的共産主義運動の強靭な歴史的生命力と、その勝利の必然性とを明らかにしつつ、当面する党建設の課題が明快に説かれている。スターリン批判とバンガリア革命の巨大な衝撃が、スターリン主義の国際的な権威の崩壊を全世界でもたらしつつも、なぜわが国においてのみ、革命的共産主義運動が階級闘争の大地に定着しえたのか。その点を、反帝・反スターリン主義綱領とその日本のプロレタリア運動の本源的戦闘性との結合に求めている。革命的共産主義の源泉を明らかにするために、戦後革命の敗北と日本共産党の総括に立脚してそれが解明され、さらに革共同の創成期の歴史的総括にまで論及されている。
 
 
 第一章 スターリン主義か、革命的共産主義か
 第二章 革命的共産主義の源泉
 第三章 日本における革命的共産主義運動
 
 
 第一章 スターリン主義か、革命的共産主義か
 
 (a) 官僚の祭典と革命的プロレタリア
 
 熱病的な党勢拡張運動で党員倍加を達成した日本共産党は、去る七月、第八回党大会を開催し、新しい人民民主主義革命″をうちだした新綱領を満場一致で採択した。
 五八年七月の第七回党大会では、党章草案(新綱領の原案)について大会代議員の三分の一の支持しかうることができず、策謀で政治報告を可決させることによって、かろうじて官僚の体面をとりつくろった宮本=袴田一派は、大会のつぎの日から早くも、大会決定の無条件実践を踏絵として党内反対派に官僚主義的な統制を加え、全学連系の学生党員を中心とする左翼的反対派の追放に成功すると、一転して右翼的反対派(その中心は構造的改良派)への執拗な圧迫を加え、かくして、いっさいの批判的精神を党内から一掃し、党官僚体制を着々と確立していった。しかも、いわゆる党員倍加運動によって不断に流入する新党員は、未経験でマルクス主義的な素養の欠けた権威主義者の比重を増大させ、同時に、党中央官僚に忠実な旧党員に新しい官僚的地位を保証し、党中央官僚の利益を貫徹するための有利な条件をつくりだしていった。かくして第八回党大会をまえにして、いっさいの綱領反対派は大会代議員から排除され、新綱領の無条件支持を賛歌する官僚の祭典″の準備は完了したのである。
 党大会の席上でおこなわれたかつての反対派の闘将たち=i中西功、神山茂夫、中野重治、波多然、鈴木市蔵)のあの醜悪な自己批判は、まさに、階級闘争から超越した官僚の祭典″にふさわしい懺悔の苦行であった。勝利した官僚は、有頂天になって満場一致の画期的意義″についてわめきちらすであろうし、迷える党員大衆は、官僚的上部″の団結に法悦するであろう。
 だが、いったい、この大会のどこに、総退却する日本労働運動の前線で苦闘する戦闘的労働者の問題意識と決意が存在していたのだろうか。安保闘争の過程のなかで、三池闘争の進行のなかで、赤裸々に露呈した日本共産党の民族主義路線の破産について、一片の反省でも存在していただろうか。そしてまた、公労協の三・三一ゼネストを絞殺した民同にたいする職場労働者の憤激に、統一と団結という無内容な方針しか提起しえなかった党中央官僚にたいする職場労働者の失望と嘲笑は……。ただ、そこにあったものは、空虚な勝利″の自己陶酔であり、物神化された党″にたいする敬虔な祈りであった。
 現実の階級闘争のなかで苦闘する革命的プロレタリアは、このような日本共産党の官僚の祭典″にかぎりない憤りを身に感じながらも、にもかかわらず、日本共産党の躍進″について、けっして無関心でいることは許されないのである。なぜか? 周知のように、安保闘争における労働者階級の政治的敗北以後、とりわけ、三池闘争の「休戦という名の敗北」以後、日本帝国主義の労働治安体制の強化は、きわめて急激なテンポで労働者階級のうえに加えられてきており、同時にこうした外側からのブルジョア的攻撃に応えるかのように、日本労働運動の右傾化が抗しがたい力をもって進行しているのである。そして、こうした日本帝国主義の政治的強化と日本労働運動の右傾化=後退と交差をなして日本共産党の躍進と強化″が熱病的に語られている。
 だが、このような日本共産党の躍進と強化″ははたして、日本労働運動の後退をおしとどめ、階級的反撃を準備する真の力となりうるであろうか。いなむしろ、じつは、この対照的な事態の総体のなかに、戦後日本革命運動のもっとも深刻な問題性が、きわめて集約的に内在しているのである。
 階級闘争の力学は、スターリニスト党(共産党)の上昇とプロレタリア運動の後退とが、しばしば交差をなして進行すること、そしてある日(といっても、スターリニストがそう感じるだけのことなのだが)青天の霹靂のように支配階級の鉄槌がスターリニスト党に加えられ、一瞬のうちに隆盛が壊滅にとってかわる実例をいくらでも示してくれる。このような空虚な躍進と、冷酷な壊滅のドラスティックな逆転をもっとも悲劇的に描いてみせたのが、三二年のドイツ共産党のヒットラー反革命による一夜の壊滅であり、四九年〜五〇年の日本共産党のレッド・パージ弾圧による敗走であったのである。
 だが、右の事例からも明らかのように、革命的プロレタリアにとってもっと重要なことは、こうしたスターリニスト党の壊滅が、プロレタリアートにたいする支配階級の全戦腺的な政治攻撃の導火線となるということなのである。しかも、スターリニズムの汚物がプロレタリア運動の気孔を覆えばおおうほどプロレタリア運動の革命的生気を衰退させ、ブルジョアの攻撃にたいする労働者の反撃力を封殺してしまうのである。
 スターリニスト党は、階級闘争の後退的局面を正確に労働者階級に指摘し、敗北の教訓でかれらを武装し、きたるべき攻撃にそなえるという革命党に不可避的な仕事のかわりに、敗北を勝利といいくるめ、プロレタリア運動の右傾化に抗して左翼的に分裂してくる戦闘的労働者を無意味な大言壮語でその部分的戦闘性におもねりながら、部分的勝利の自己陶酔のなかに埋没させ、かくして、恐らくは、つぎに敵の側からしかけられるであろう攻撃にたいして労働者階級を武装解除してしまうのである。
 そのうえ、ロシア革命がきりひらいた国有計画経済の巨大な生産力を官僚主義的に専有し、その官僚的な特殊利害を貫徹するために、帝国主義との「平和的共存」という外交的策謀に腐心するソ連圏のスターリニスト官僚の「外交的手段」としてのスターリニスト党は、それゆえに、スターリニスト官僚の特殊的利害の擁護のために、階級情勢を完全に無視して労働者階級を極左的行動にかりたてたりするのであり、かくして、プロレタリア運動の後退を深刻化し、労働者階級の政治的敗北を決定づける役割すらはたすのである。
 したがって、革命的共産主義者を前衛部隊とする労働者階級は、国際的帝国主義を打倒し、自己解放を実現するための階級戦の途上において、ロシア革命による世界の体系的分裂の反動的所産であり、プロレタリア解放の桎梏であるスターリニスト官僚制とその走狗を暴力的にたたきつぶしてすすまなくてはならないのである。
 
 (b) 春日新党とスターリン主義の危機
 
 日本共産党第八回大会を直前にして脱党の決意を表明した春日庄次郎ら日共反主流派は、脱党を決意した理由として、@反主流派にたいする官僚主義的排除、A民族主義的戦略を規定した綱領の強行採決への不満をあげ、B日本共産党はかつてない危機的状況にあることを指摘している。そして新しい戦闘的な共産主義の党″のためにたたかうという決意を述べている。
 ちょうど一〇年前、いわゆる『秋月自己批判書』を発表することによって、コミンホルムの日共批判からはじまった五〇年分裂において国際派の所感派への無条件降伏の端初をなした春日庄次郎は、いまや、公然と日本共産党からの決別を語り、分裂主義者との汚名をも甘受することを決意したのである。かくして六全協後の日本共産党の前代未聞の混乱と党中央官僚の権威失墜のなかで、ただひとり信用を失わなかった高潔の士″春日庄次郎の日本共産党からの決別は、明らかに、今後の日本スターリン主義運動に深刻な影を投げかけずにはおかないであろう。それは、まさに、日本におけるスターリン主義運動の分解過程の第二段階の開始を意味するものとしてきわめて重大な意義をもっているのである。
 だが、このことは、はたして、日本共産党から決別したこれら反主流派が日本共産党のいっさいの裏切りと誤謬と腐敗と破廉恥の根源であったスターリニズムを根底的に克服し、新しい革命的な共産主義運動を展開する原動力をその内部にもっていることを意味するだろうか。
 反主流派の諸君は、宮本=袴田を先頭とする党中央官僚の官僚主義を非難し、多元的指導性の「現代的な前衛の形態」を強調している。だが、このようなかれらの主張は、現実の階級闘争においては、無責任かつ無能力な冗語でしかないのである。なぜなら、日本労働者階級は、日々の階級闘争のなかで、日本共産党の民族主義的路線とたたかい、その官僚的統制を打破することによってのみ、日本帝国主義との階級的対決にすすみえたのであり、こうした現実の階級闘争から隔絶した地点で二つの敵″とか反独占構造改良″とかの党内闘争を展開するという反レーニン主義的分派闘争ではなんの意味もないからである。しかも、かれらは、中ソ論争という形態で露呈した国際スターリン主義運動の「分裂」に淡い幻想を抱き、モスクワの信認状で党内闘争に勝利しようというまったく堕落した方法に一縷の望みを託してベンベンとして党内にとどまっていたのである。
 春日庄次郎は、二言目には、第七回党大会で自分が最高得票で当選した事実を指摘しようとする。だが、人格では革命に勝利することはできない。三年前に春日に一票を投じた党員の大半は、いままた、反党分子糾弾の前線にたっているのである。問題は「正に逆」なのである。すなわち、第七回党大会で春日庄次郎が最高得票をえた点に問題があるのではなくして、それほどの期待があったにもかかわらず、第八回党大会までなんらなすところなく堕性的な党生活を送ってきたという点にこそ、問題の中心があるのである。「十分に討論の機会を与えたにもかかわらず、ほとんどあいまいな態度をとっていた」という袴田の非難にたいして、春日は「六全協の直後、宮本書記長から君は発言が多すぎるといわれたので……」とこたえている。まさに、この小さなエピソードのなかに、春日的反対派の日和見主義が見事にうつしだされてはいないだろうか。国際派に一般的な、こうした「右翼」的小児病をうち破ったところにこそ、真に革命的な反対派の道がひらかれるのである。
 だが、春日庄次郎を先頭とする反主流派の諸君は、第七回党大会以後、なにもしていなかったわけではない。この日本共産党内の右翼的反対派は、先輩ブハーリンの故知にならって、左翼的反対派にたいする、党中央の官僚主義的弾圧の献身的な走狗であったのである。事実、わが同盟の同志をはじめとして日本共産党内でたたかっていた左翼的学生党員は、「日本共産党中央監査委員会議長春日庄次郎」の署名で除名通知をうけとったのである。また、分裂組織「全自連」に巣くう学生党員(構造的改良派)の諸君は、ジグザグ・デモに反対するという超日和見主義的な理由で全学連内の分裂策動を開始し、一貫して日本学生運動の右翼的妨害者として終始したのである。
 それどころではない。今日、春日新党の中心幹部の一人でもある「反党分子」安東仁兵衛のごときは、トロツキスト退治の先頭にたったばかりか、芝寛・武井昭夫・野田弥三郎・増田格之助らの東京都委員会の弾圧においては、宮本=袴田のもっとも卑劣な手先であったのである。しかも伊藤律の一の子分であった長谷川浩が七幹部の一人であるとは……。そして党内の左翼的反対派が「基本的に」一掃されたと党中央官僚が判断したとき、その刃は右翼的反対派にむかって情容赦なく振りおろされたのである。狡兎つきて煮らるる走狗の運命をや! である。
 もちろん、現在、この春日的反対派の内外に、日本共産党にたいする「左翼的」反対派がふくまれていることは否定できないし、同時に、日本共産党に徹底的な不信をもちつつも、革命的共産主義運動にはふみきれない戦闘的な労働者の少なからぬ部分が、「春日新党」にたいしてかなりの期待をよせていることも事実である。だが、このような期待は、あくまで淡い幻想にすぎないのである。
 なぜなら、すでにみてきたように、春日的反対派=反主流派の日本共産党からの分裂は、かれらの分派闘争の成果としてかちとられたものではなくして、逆に、問題を理論的? 批判に限定するという無気力かつ無責任なかれらの活動、すなわち、反レーニン主義的分派闘争の必然的結果としての敗北から、やむをえずとった窮余の一策だ、ということだからである。しかも、こうした事情からも明らかのように、この日本共産党の分裂は、安保闘争の過程で否定しがたいたしかさをもって進行したプロレタリア運動のスターリン主義と革命的共産主義の現実的分裂を社会的基礎としての、日本共産党の物神的崇拝の崩壊を条件とし、日本革命的共産主義運動の政治的、組織的未成熟を根拠として可能となったのである。それゆえ、こうした日本共産党の分裂は、階級闘争の進展にともなって今後の一定期間、いくどとなく訪れては、左右の中間主義的潮流を生みだすであろう。だが、同時に、日本革命的共産主義運動の政治的、組織的前進は、プロレタリア運動の全戦線にわたってスターリン主義と革命的共産主義の分裂を深化させ、かくして、こうした中間主義的潮流をより本質的な極にむかって分解していくであろう。
 最近にいたって、春日的反対派=反主流派は、「社会主義革新運動」などというド・ゴールなみの名称を組織につけることにしたらしいが、明らかにこの事実は、日本構造的改良派の当然の理論的実践的帰結であり、かれらの日本共産党批判がいかに不徹底なものであるかを明白にしている。
 つまり、これらの諸君は、代々木的官僚主義にたいする反発から直接的に右翼的日和見主義、解党主義に転落していくのである。かつて、レーニンは、メンシェビキの理論的代表者マルトフとのあいだに党の形態をめぐって非妥協的な闘争をつづけ、そのために党の分裂すら恐れなかったが、いままた、新しい革命的共産主義運動の黎明期をまえにして、この問題がすべての鍵をなしてきているのである。共産主義者同盟の破産と、その左右への分解過程において、いまや、その右翼的潮流は、いくつかの分派に分裂しつつも、そして、さまざまな理由に依拠しつつも、前衛党の方向に反対するという点では奇妙な一致を形成しようとしている。こうした革命的左翼戦線内部における右翼的中間主義の分極化は、日本共産党の反主流派の解党主義的本質と微妙な協和をかもしだしつつ、総体として、革命的プロレタリア党の創成のためにたたかう革命的労働者にたいするきわめて反動的な敵対物に転化しつつあるのである。
 二〇世紀の血で刻まれた階級闘争の歴史は、共産党のスターリン主義的歪曲に無自覚ないっさいの共産党内反対派が、当初は党中央の官僚主義や日和見主義への反発から出発しつつも、小ブル的非組織性の肥大化とともに、社会民主主義的な解党主義に転落し、ついに、プロレタリア戦線から別離してブルジョア的世界へ回帰していく姿をいくどとなく教えてくれる。そして、スターリン主義は、こうした例のいくつかをあげて、スターリニスト党から決別しようとしている反対派を恫喝し、自己の羈絆(きはん)のもとにつなぎとめておこうとしてきたのである。
 だが、反帝・反スターリン主義の旗のもとに、革命的共産主義の勝利のためにたたかう革命的プロレタリアは、反労働者的な「党」への物神的崇拝から断固として決別し、同時に、その直接的反発としての解党主義をも大地にふみつぶして、自己の道をきりひらいていくであろう。なぜなら、現実に資本の専制と搾取とたたかう労働者階級にとって、その革命的翼を独立した党に組織せずしては、一日の戦闘も不可能だからであり、いわんや、社会革命に勝利するためには、「労働者階級の手中の挺子」としての革命的プロレタリア党は「なくてはならぬ」ものなのである。
 
 (c) 米ソの軍拡競争と革命的共産主義
 
 第八回党大会の勝利を謳歌する日本共産党にとっても、また、ことごとに「新しさ」を強調する春日的反対派=社会主義革新運動にとっても、歴史的破局の条件は、意外にも早急に訪れた。
 五四年の米英仏ソの政治的支配者の「協定」=ジュネーブ会議によってもたらされ、五六年のスエズ戦争とハンガリア革命を一時的な幕間としてつづいた国際的情勢の平和的進展は、ベルリン危機の激化とソ連官僚政府の核実験の再開によって、戦争挑発の危険すらはらんだ急激な局面転換をなしつつある。こうした米ソの核実験の再開と軍拡競争は、完全軍縮などという幻想のうえで一致していた「平和勢力」なるものの非現実性と欺瞞性を明白に暴露してしまった。
 八月の原水禁大会で「いかなる国であろうと、最初に核実験を再開した国は平和と人類の敵である」と道徳家的な言辞をろうしていたスターリン主義者(日本共産党、中国代表)は、いまや、口をそろえて「帝国主義者の戦争挑発にたいするソ連政府の断固たる処置」に独善的な支持を送っており、また「人道主義的知識人や社会党は、ソ連政府の一方的処置」に道徳的批判をなげかけ、「話し合いによる平和」にもどるよう大国首脳に淡い秋波を送っている。そして、この中間にたって、わが原水協は日に日に意味のつうじない声明を発表したり、言訳をいったりしている。こうした事実は、明らかに、スターリン主義者の平和共存路線のもとにすすめられてきた旧来の平和擁護運動の破産を宣告しているのである。
 だが、いったい、核兵器の強化や大国間の協定によって、われわれは、現代戦争を阻止することができるであろうか。
 フルシチョフソ連首相は、再開の理由として「帝国主義者の戦争挑発」を糾弾する。だが西欧において緊張をつくりだしたのは、いったいだれだったのか。ベルリン危機は、じつに、ソ連圏における官僚的計画経済の矛盾の集中的な政治的表現であったのであり、ドイツ労働者階級にたいするスターリン主義官僚の反動的抑圧から出発しているのである。
 国際プロレタリア解放運動の精華としてのドイツ労働者階級は、ヒトラー政権の崩壊によるドイツ資本主義の政治的、経済的危機のなかで、革命的生気をよみがえらす契機をつかみつつも、アメリカ帝国主義とソ連官僚政府の外交的策謀によって「二つの国」にひき裂かれ、両者の共同の支配によってその革命的成長をおしとどめられたのである。すなわち、東独の政治的支配権を獲得したスターリン主義者は、プロレタリアートのうえに、「虚偽の社会主義」を強制し、官僚主義的農業集団化を強行し、かくして、社会主義を圧制と貧困の同義語に書きかえてしまったのである。そして、社会主義の名のもとに強制される東独の圧制と貧困こそ、西独ブルジョアジーの専制と搾取を擁護する最大の支柱なのである。
 見よ!――東独労働者の深部で胎動しはじめた反スターリン主義官僚の蜂起の準備にたいして、フルシチョフもケネディも、ただただその勃発を恐れて右往左往しているではないか。なぜなら、東独スターリン主義官僚政府にたいするドイツ労働者階級の革命的闘争の開始は、一瞬にして、両独政府の粉砕による革命的ドイツ労働者共和国の旗を再興させずにはおかないからである。かくしてドイツ労働者階級は、スターリン主義者によって歪曲され、形骸化され、敵対物に転化した「共産主義運動」を、プロレタリアの鮮血で洗い染めることによって、大地にたつ巨人としての国際労働者階級の旗印として、革命的共産主義を西欧の中枢にうちたてるであろう。まことに、ドイツ労働者階級の解放は、アデナウアーによっても、ウルブリヒトによってもなしとげることはできない。それは、ただ、両独政府の打倒と両独労働者権力の合併によってのみ、前提をかちとりうるのである。
 ソ連政府の核実験の再開は、まさに、こうしたドイツ労働者の「自然成長的」な動向にたいする官僚主義的恫喝であり、官僚的計画経済の破綻による内的危機を「克服する」ための排外主義的政策なのである。そしてソ連圏における核実験は、同時に、帝国主義諸国において、最小限の抵抗で核実験と軍拡を再開する絶好の条件をもたらしているのである。まさに、軍縮の提唱は軍拡とメタルの表裏をなしており、前者は後者のための動因である。したがって、再開された軍拡競争、死のポーカー・ゲームにたいして、ただ「平和共存」の良き思い出に心をはせながら、話し合いの政治とかいう道徳的願望に身をあずけることは、まったく無意味である。いまこそ、全世界の労働者階級は、自国の政府にむかって、核実験と軍備拡張を中止するよう実力行動をもって要求しなければならない。
 現代的軍事科学の発達は、ワシントンとモスクワの権力者たちが、どのように愛国的排外主義をあおりたてようとも、また、どのように独善的な核兵器への信頼を語ろうとも、核兵器によっては、現代戦争を阻止することができないことを明白にしている。しかも、現代戦争の最大の被害者は、労働者階級である。いかなる原因で戦争がはじまろうとも、ワシントンの押しボタンはソ連労働者を殺戮し、モスクワの押しボタンはアメリカ労働者を殺戮するのである。それゆえ、こうした現代的危機は、国際的労働者階級による革命的反戦闘争の意義を深く反省すべき条件をもたらしているのである。なぜなら、現代核戦争による「両階級の共倒れ」=原始への回帰という現代的危機を打破し、人間の自由の王国をきりひらく唯一の道が、ただ、国際的に団結した労働者階級の革命的反戦闘争と反帝・反スターリン主義の闘争であるからである。
 核兵器にうち勝つ唯一の武器は、自国の労働者の革命的内乱だけである。それゆえにブルジョアジーによっても、また、スターリン主義官僚によっても、軍拡競争と、その必然的結果としての現代核戦争を根底的に克服するものは、国際的な労働者階級による反帝・反スターリン主義の共産主義革命だけである。
 ベルリン危機とソ連政府の核実験再開、帝国主義者とスターリン主義官僚による反労働者的軍拡競争……。こうした一連の事実は、共産主義を僭称するスターリン主義運動の反労働者的本質をつぎつぎと暴露しつつ、その崩壊の根拠を急ピッチに拡大していくであろう。
 日本労働者階級は、こうした国際的闘争の先頭にたってたたかうことによって、世界革命の未来にみちた展望をきりひらくであろう。だが、そのためにも、いま一度、われわれは日本における革命的共産主義運動の歴史的な源泉と展開を検討することによって、その現段階を正確に把握し、当面する革命的プロレタリアの任務を明らかにしなければならない。わが戦列の内外に存在するいっさいの日和見主義を打倒し、日本革命的共産主義運動の巨人のごとき前進をかちとるためにも、いま、このことは緊急の任務なのである。
 
 第二章 革命的共産主義の源泉
 
 (1) 戦後日本革命とスターリン主義運動
 
 第二次帝国主義戦争における日本帝国主義の軍事的敗北は、「所有階級の防衛を任務とする例外的国家」(エンゲルス)としてのボナパルティズム的天皇制を、全面的崩壊の危機にさらした。敗戦による帝国軍隊の壊滅、警察・官僚制度の解体的危機、地主=土地貴族の実質的没落、戦争中から深刻化していた生産力の低下、こうした一連の日本資本主義の危機のもとで、戦後ただちにはじまった都市におけるプロレタリアートの革命的高揚と、農村における農民的動揺は、日本社会の「全気孔」をおもおもしくふさいでいた日本天皇制統治機構をいっきょに天空に爆砕してしまった。かくして、いまや、完全に政治的自信を喪失した日本ブルジョアジーは、古き統治形態の崩壊を目前にしながら、だが、新しい統治形態を組織しえないというかつてない政治的危機のなかに自己を放置した。日本社会のブルジョア的秩序を維持し、ブルジョアジーを激励したものは、ただ、アメリカ帝国主義の巨大な生産力と、進駐してきた帝国主義軍隊の外的な「強力」(ゲワルト)のみであった。
 帝国主義戦争によって塗炭の苦しみに落されていた日本プロレタリアートは、ボナパルティズム的天皇制の崩壊的危機という新しい条件を決定的契機として、米を求め、仕事を求めて、自然発生的に行動を開始した。すでに生産の意欲を喪失し、むしろ、インフレによる原材騰貴でかろうじて利潤を確保していた資本家にたいして、労働者階級は自己の完全な創意にもとづき、しかも、さまざまな形態をとって、生産資材の労働者管理、生産の労働者統制、工場占拠という革命への過渡的方向にすすみはじめていた。日本資本主義の「迫りくる破局」をまえにして、日本プロレタリアートは、政府にむかって、また、自己の資本家にむかって、過渡的要求をかかげて闘争にたちあがりはじめることによって、その革命的資質をとぎすましたのであった。かつて、トロッキーは、工場委員会は二重権力の端初的形態である、といったが、明らかに戦後の事態は、こうした方向にむかっていたのである。
 一方、農村においては、戦時国家独占資本主義的な統制経済の発展の過程のなかで、過度の徴兵と一連の農業統制は、日本的地主制度の社会的条件であった土地飢饉と高利賃的地代を現実的に解消し、土地貴族=地主階級の物質的基礎をきりくずしていたのであった。かくして、このような既成事実のうえにたって、過小農は、地主にむかって小作地の売渡しを要求し、政府にむかって地主階級と手を切って完全に小農維持政策に移行するよう要求をつきつけたのであった。こうした農民の要求が、明らかに、小ブルジョア的限界をもっていることは、いうまでもないであろう。だが、にもかかわらず、ブルジョアジーの内部で農業政策の方向をめぐって政治的対立が深刻化しつつある状況のもとで、プロレタリアートが、先制的に、土地「解放」がプロレタリア革命と不可分であることを明らかにし、農村コンミューンと都市コンミューンの統一の展望をうちだしていくことによって、「農民戦争の第二版ともいうべきものでプロレタリア革命を助くべき可能性」(マルクス)をきりひらいていくことは、けっして空想的ではなかったのである。しかも、なお、ブルジョアジーは、農民の要求のまえに動揺しつつも、昨日までの日本の政治的同盟者=地主階級との完全な絶縁をきめかねていたのであった。
 日本帝国主義の軍事的敗北によって直接にもたらされたこうした日本資本主義の政治的危機は、まさに、レーニンが『日和見主義と第二インターナショナルの崩壊』のなかで古典的に規定しているところの革命情勢の前夜を、疑うべくもなく意味していたのである。すなわち、@古い支配の方法はすでに崩壊し、新しい方法は確立していず、A誰もが現状の変化を望んでおり、Bプロレタリアートと人民は自発的に行動を開始していたのであった。
 したがって、革命的プロレタリアにとって、まさに、全事態は、すでに先進部分では、資本家的生産の工場委員会による労働者的統制というところまですすみはじめていた労働者階級の革命的闘争をさらに拡大し、端初的に形成された工場別代表者会議をプロレタリア革命権力の萌芽としての「労働者評議会」にむかって革命的に転化する方向を追求し、ブルジョアジーとのあいだに不可避的に訪れるであろう階級的決戦に備える革命的指導部をもちうるかどうか、にかかっていたのである。こうした階級的決戦は、かならずや、帝国主義軍隊の干渉戦争を誘発することによって、民族的要素をも戦列に加えつつ、戦後の国際的階級闘争を革命的激動に直接結びつけたであろう。
 だが、戦前の日本軍命運動の壊滅によって、いっさいのプロレタリア運動の経験から切断されてきた日本のプロレタリアートは、一方では、社民的、スターリン主義的指導部の未確立の状況のなかで、いな、それゆえに、自然発生的に資本家的生産の工場委員会による労働者的統制という革命的方向にすすむことによって、類まれな革命的資質を示しながらも、他方では、その政治的経験の未熟と理論的素養の低水準のゆえに、「十・一〇解放」以後、天皇制打倒=民主主義革命の綱領をかかげて精力的な活動を開始した日本共産党=スターリン主義者党の「獄中一八年」の神話的権威のまえに屈服し、自己のきりひらいた壮大な革命的未来を「民主主義革命」という虚偽の戦略に矮小化し、封じこめてしまったのである。戦前の日本革命運動の壊滅を決定した三二年テーゼの、あの裏切り的な二段階革命論の亡霊は、破廉恥にも、ちりをはらって歴史的過去帳からよみがえり、戦後日本革命の敗北を決定づけたのであった。まさに、それは、ヒトラー政権=ファシズム的統治形健の崩壊とともに開始されたドイツ労働者階級の闘争が、スターリンとチャーチルとトルーマンとド・ゴールの民族的排外主義の分割的統治、スターリン主義者による東独圏のみの「半国的社会主義」の官僚的強制のもとで、その階級的統一が国家分裂にすりかえられていく悲劇的過程とともに、戦後世界革命の「挫折」のもっとも中心的な回転軸だったのである。
 かくして、日本ブルジョアジーがすでに古き統治形態であるボナパルティズム的天皇制の崩壊を確認し、あらたな統治形態を模索しているとき、日本プロレタリアートは、スターリン主義者(日本共産党)の裏切り的指導のもとに、ブルジョアジーのかわりに「ブルジョア的支配の首尾一貫した形式」(エンゲルス)である議会民主主義の実現を要求し、地主的土地所有の一掃による小農制の普遍的成立を、自己完結した綱領的課題としてたたかっていたのである。しかも、スターリン主義者のこうした裏切りにたいして、戦前の日本革命論争において「社会主義革命」を主張した労農派マルクス主義者も、また、その同伴者としての役割をはたしたのであった。
 かれらは、今日になって、日本共産党の二段階革命論を日和見主義だと非難している。だが、現に、日本プロレタリアートが権力獲得の問題に直面していたとき、かれらは、先輩マルトフの教えを守って、「民主革命の段階だからプロレタリアートは組合的闘争にとどまるべきである」と主張したのである。かくして、日本労働者階級の革命的闘争は、スターリン主義者と左翼社会民主主義者の「共同」の作業のもとに、「民主主義革命」というブルジョア的枠のなかにはめこまれ、労働者評議会への転化の可能性を内包していたいっさいの過渡的な労働者組織は、ブルジョア的機関のひとつである労働組合という低次の状況にまでおしさげられてしまったのである。
 敗戦による一連の社会的激動のなかで、完全に政治的自信を喪失した日本ブルジョアジーは、スターリン主義者と社会民主主義者の裏切りに「最後の政治的支柱」をみいだすことによって、かろうじて危機を脱出したのである。かくしてアメリカ帝国主義の援助のもとに、日本ブルジョアジーは、ブルジョア的農業改革を遂行し、戦時国家独占資本主義のもとで飛躍的に発展しつつあった重化学工業の桎梏となっていた財閥の家族的封鎖性を財閥解体で突破し、国家資本の重点的投下による傾斜生産方式のもとで、日本資本主義の再建を着々とすすめていったのである。そして、こうした経済的再建を基礎にして、支配階級は新しい統治形態となった議会民主制に対応した警察・官僚機構を確立・強化し、こうした国家的形態の一応の完成をまって、プロレタリアートにたいする全面的な政治攻勢に移ろうとしていた。なぜなら、いまや、日本資本主義の全面的な体質改善をかちとり、帝国主義的膨脹の基礎を固めるために熱病的な希望をもちはじめた日本ブルジョアジーは、労働者階級にあまりにも過大な政治的権利を与えすぎたことを後悔したからである。
 だが、占領軍の一喝で二・一ストを中止した日本共産党は、この歴史的闘争の流産によって生まれた労働者階級の政治的気分の後退と、階級情勢の「平和的」発展を、逆に、議会主義的な楽観主義にすりかえていったのである。党員の拡張と得票の増大……。こうした日本共産党の一連の議会主義的成長は、明らかに、労働者階級の内部に議会主義的気分をまん延させ、革命の光栄にみちた未来が、議会への「労働者」の進出を増加させていく平坦な道のかなたにありうるような幻想を拡大させたのである。徳田の例の無責任な十月革命説(四八年)や九月危機説(四九年)は、議会主義的幻想の極左的表現だったのである。
 四九年の六月、突如として、ブルジョアジーの政治的弾圧がプロレタリアートのうえに加えられた。国鉄・全逓の戦闘的組合活動家をはじめとする、官公労百万のレッド・パージであった。すでに官公労の内部で増大していた民同は、日本共産党の官僚的な組合指導に反発していた労働者の気分を右翼的に組織しつつ、ブルジョアジーと呼応しながら、組合のヘゲモニーをスターリン主義者から社会民主主義の手にとりかえようと策動していた。かくして、ブルジョアジーと民同の内外呼応した攻撃のまえに、スターリン主義者は、ただ一つのストライキも組織することなしに敗れ、四九年夏から五〇年秋にかけてレッド・パージの嵐は鉄鋼・電気・造船・自動車・私鉄・炭鉱・鉱山・化学・船員・新聞・銀行・映画……とつぎつぎと民間単産にふきすさんだのである。
 まさに、このような大弾圧は、戦後日本労働者の階級闘争にたいする系統的な階級的復讐であり、日本資本主義のあらたな発展のための不可避的な布石であったのである。にもかかわらず、日本共産党は、こうしたブルジョア的大攻勢にたいし階級的反撃をいっさいせずに、あいもかわらず、地域人民闘争のなかに戦闘的労働者をかりだし、誇大妄想な言辞をもってかれらを職場からひきだして、選挙闘争の道具としてしまったのである。かくして、戦後の闘争のなかでかちとり、確保してきた日本プロレタリアートの政治的自由は、根底から奪いもどされ、プロレタリア運動の深刻な壊滅がこれにつづいたのであった。
 
 (b) 日本共産党の破産と労働者階級
 
 五〇年一月のいわゆる「コミンホルム批判」から端を発した日本共産党の分裂は、直接の契機が「国際的権威」による官僚主義的批判であったとしても、戦後日本革命の敗北における日本共産党の責任の追及というきわめて深刻な問題性を背後にして開始されたところに、その意義があったのである。
 四九年のレッド・パージによる大敗北の過程のなかで赤裸々にうつしだされた日本共産党の破産と、党中央官僚の醜悪な実態を直感した若い労働者党員や学生党員は、コミンホルム批判による党中央官僚の内紛と権威失墜という状況のなかで、批判的精神を回復し、さまざまな形態をとって反中央的な分派闘争を開始したのであった。だが、日本革命の敗北の原因を明らかにすべき出発点ともなりえた五〇年分裂は、にもかかわらず、その国際的権威(クレムリン=北京官僚)への没主体的追従主義、党への物神的崇拝、とりもなおさず、「国際共産主義運動」のスターリン主義的歪曲への無自覚のゆえに、戦後日本革命の敗北のいっさいの原因を、解放軍規定とそこからくる平和革命の問題に無理矢理におしこめることとなり、その可能性はたちきられてしまったのである。
 たしかに、アメリカ帝国主義の軍隊を解放軍として規定することは、明らかに誤りである。だがもしそうであるならば、それは同時に、第二次世界大戦を民主陣営とファッショ陣営の戦争として規定した国際的スターリン主義運動の民族主義的裏切りそのものが、まずもって、問題とされねばならないのである。だが、そのような危険な反省は、かれらには思いもよらなかったのである。かくして、いっさいの局面打開の方向は、民族独立=民主革命という民族主義的袋小路のなかに封じこめられ、五一年綱領の発表とともに所感派と国際派の戦略的対立は基本的に解決してしまったのである。たしかに、その後も分派的対立はつづいていた。だが、六全協問題で明らかのように、このような対立は、日本プロレタリアートの現実的な闘争とは切断されたところの党内派閥の相克でしかなかったのであり、それゆえに、スターリン主義的な「一枚岩の理論」を基礎にその醜悪な統合が実現するのである。
 したがって、日本革命的共産主義運動は、その実体的=潮流的な系譜としては、主として日本共産党内の国際派的反対派の闘争から出発しているとはいえ、まさに、その国際派的限界(左翼スターリン主義)を自覚し、突破した地点から開始されたのである。そして、われわれをこうした左翼スターリン主義から解放して革命的共産主義運動にまで高めたもっとも決定的な力は、(1)五一年以後、大敗北の廃虚のなかから不死鳥のようによみがえり、五七年にはあの歴史的な国鉄新潟闘争を展開するところまで進んだ日本プロレタリアートの現実の階級闘争であり、(2)マルクス主義哲学のスターリン主義的歪曲=客観主義との実践的唯物論のための闘争、プロレタリア解放の世界観としてのマルクス主義哲学の現代的再生のための闘争であり、(3)ハンガリア労働者階級の革命的蜂起を最前衛とする国際的な反帝・反スターリン主義、スターリン主義とたたかうトロッキー的左翼反対派の闘争だったのである。
 すでに、まえにみたように、コミンホルム批判をめぐって日本共産党が、醜悪な分派闘争に終始し、プロレタリア的本隊と無縁なところで、民族主義的な火炎ビン的街頭行動と農村工作にあけくれていたとき、四九年〜五〇年の大弾圧で壊滅的打撃をうけ、五一年には東京で統一メーデーすらひらくことのできないという状況まで追いこまれた日本プロレタリアートは、はやくも五一年末には、電産、炭労の戦闘的な年末闘争をたたかい、翌五二年春には、破防法反対の労闘ストに約二〇〇万の労働者が参加するところまで戦闘力を回復し、GHQをしてニワトリの総評がアヒルになったと嘆かせたのである。
 かくして、その後の数年にわたる階級闘争において、日本労働者階級は、全自動車の闘争、淀川製鋼所の闘争、日鋼室蘭の闘争、等々の階級闘争の過程のなかで部分的敗北をかさねながらも、近江絹糸、三井三池、等々と新しい戦闘的部隊をつぎつぎと戦列に加えることによって、その力量を強化し、プロレタリアートの不敗性を力強くうつしだしていったのである。まさに、こうした日本プロレタリア運動の不死鳥のような再興をもたらした日本プロレタリアートの革命的資質こそ、六全協に象徴される日本共産党=スターリン主義運動の破産を白目のもとにあばきだした決定的な要因だったのである。
 日本共産党とその同調者のいう愛国勢力対売国勢力、あるいは戦争勢力対平和勢力という小ブル的戦略にたいして、総資本対総労働という労働者的戦略を対置した民同左翼社会民主主義者は、それゆえに、プロレタリア運動の上昇とともにそのスターリン主義者への優位性を獲得し、労働組合運動の完全なヘゲモニーを確立していったのである。だが、このことは、西欧型労働組合と一般にいわれるような、労働者階級への社会民主主義の完全な政治的、思想的勝利をかならずしも意味しなかったのである。
 というのは、日本労働組合運動の特殊的性格、とりわけ、その指導部が西欧的労働組合のように固定化していず、その若さと流動性のゆえに、下部の組合幹部が組合員の気分をきわめてうけやすい状況にあったからである。そのために、労働組合の職場活動家の多くは、政治的系列としては、民同なり革同なりに所属しながらも、その大半は、相対的独立性をもっており、しかも、そのほとんどは政治性も浅いという状況にあったのである。そのうえ、六全協を契機とした日本共産党の党内闘争の激化とその結果としての党内民主主義の拡大は、党員大衆にかつてなかった自主性を、一時的であれ、与えることによって、党中央官僚のいうところの「自由分散主義」的状況をもたらしたのであった。
 かくして、社民指導部の組合掌握の不徹底性とスターリン主義指導部の混乱の間隙をぬつて、日本労働者階級は、再度の戦闘的高揚を示したのであった。五七年三月の国労東京が敢行した品川の国電ストは、日本プロレタリアートの戦闘力が、いまや、日本資本主義の大動脈である国鉄にまで力強く鼓動を伝えはじめていることを、疑うべくもないたしかさで明らかにしたのである。
 国労広島(四月〜五月)、国労新潟(七月〜八月)と高まりゆく日本プロレタリアートの闘争は、同時に、職場労働者に依拠した戦闘的な組合活動家と組合上層部(社共中央)との根深い分裂が、この数年にわたる労働運動の再興の過程のなかで深刻化しつつあることを赤裸々にしたのである。日本プロレタリア運動のこうした再度の高揚は、経済主義的な母斑を強く残しながらも、個々の闘争の戦闘的局面のなかで、不可避的に民同=社会党と日本共産党の裏切りを労働者大衆のまえに暴きだしつつ、日本プロレタリア運動の「日和見主義と革命的共産主義運動への端初的分裂」をきりひらいたのであった。じつに、こうした日本プロレタリア運動の深部ではじまった左翼的台頭こそ、若き日本革命的共産主義運動を担う原動力であり、その未来の勝利を保障するものであったのである。
 
 (c) 客観主義との苦闘
 
 すでにみてきたように、こうした日本プロレタリアートの革命的闘争が、スターリン主義運動と革命的共産主義運動の分裂を不可避とした第一の主体的根拠であったとするならば、日本マルクス主義理論戦線の内外で戦後たたかわれたマルクス主義の客観主義的偏向=スターリン主義的歪曲との長期にわたる理論的苦闘、「主体性論」の限界を突破し、黒田寛一の理論的業績において結実しつつあるところの実践的唯物論=革命的マルクス主義のための闘争こそ、じつに、その第二の主体的根拠であったのである。いな、こうした理論的実践なくしては、けっして、部分的な局面に分散してたたかわれていたスターリン主義との個別的な理論的、実践的闘争を結びつけ、発展させ、統一された反スターリン主義運動という物質力に転化するところの革命的核心をもつことはできなかったであろう。
 「虚偽のマルクス主義」の物質的表現としてのスターリン主義運動の限界を革命的に突破し、プロレタリア的人間の主体的実存に立脚した革命的共産主義運動の実践的展開のためには、プロレタリアートの激動する心臓は、真に革命的な哲学との結合を不可避としたのである。
 〔新人「評論家」香山健一君は、日本における新左翼運動は「黒田理論」という絶対的理念の展開として生まれたのではない、という(『現代思想』七月号)。だが、いったい、君は誰のためにそんなことをいうのか。われわれにむかってか。あるいは、君の主観的意図ではそうかもしれない。だが、ドイツにおける社会主義運動の発展はマルクス的理念の自己運動ではない、と、ラツサールの弟子よろしく、大真面目に見栄をきったところで傷つくのは当人だけなのである。ミネルヴァの梟は夜とびたつ、というが、わが香山先生は、五八年の自分の喜劇的大根役者ぶりに、三年たってもまだ気がつかないのだ!〕
 周知のように、戦前の日本プロレタリア運動は、日本資本主義の歴史的特殊性(後進的出発と帝国主義段階への飛躍的突入)のゆえに、ブルジョアジー打倒とともに、広範なブルジョア民主主義的課題を同時的に完遂するという任務をおっていた。しかも、若き日本プロレタリア運動が「大正デモクラシー運動」を揺籃として成長し、長期にわたって、ブルジョア的民主主義の完遂を要求する小ブル急進的翼と「ともに進む」という状況のゆえに、その階級的独自性はしばしば小ブル的母斑におおわれるという事態をまねいたのである。
 かくしてブルジョアジー打倒という独自的な階級的任務は、スターリン=ブハーリン的な二段階革命論の裏切り的適用によって極左的戦略とされるにいたるのである。それゆえ、革命的プロレタリアートは、自己の資本との闘争と国家との闘争との統一性を見失い、二元論的に民主革命を追求することによって、客観的には民主的改革の完遂を意図する小ブル急進主義者の補完物としての役割をはたしたのであった。しかも、スターリン=ブハーリン的な革命規定の図式主義は、日本資本主義の規定および日本革命の性格をめぐっておこなわれた論争をきわめて歪曲されたものにしたのである。そのうえ、『資本主義発達史講座』をめぐっておこなわれた講座派と労農派の論争は、表面上の華やかさにもかかわらず、現実には、プロレタリア運動の壊滅のうえに咲いた仇花でしかなかったのである。
 かくして、日本資本主義のこうした歴史的特殊性は、日本における社会科学成立の過程のうえで、マルクス主義にきわめて大きな市民権を許容し、プロレタリア運動の小ブル的母斑と結びつくことによって、プロレタリア自己解放の哲学から「分析科学」へと変質し、その醜悪な部分は「マルクス主義」的分析をもって帝国主義戦争に協力するところまですすんだのである。宇野弘蔵もいうように、このようなマルクス主義の「有効性」は、明らかに、マルクス主義の科学としての「勝利」であった。だがこうした「勝利」は、プロレタリア運動の壊滅の死の紋章であったのである。それゆえ、日本マルクス主義の分析科学的歪曲は、ソビエト哲学のミーチン的客観主義への堕落と対応しつつ、戦後日本プロレタリア運動の骨髄をむしばみ、その小ブル的母斑を拡大し、合理化するきわめて重要な契機であったのである。そして、こうした客観主義をおおいかくすイチジクの葉が、階級性とか党派性とかいう呪文であったのである。
 したがって、日本プロレタリア運動のスターリン主義的歪曲を打破し、真に共産主義的な立脚点を確立するためには、まずもって、日本マルクス主義のこうした客観主義的歪曲との非妥協的な闘争が不可避であったのであり、そして、まさにこのような闘争をつうじて、プロレタリア運動の「全気孔」をふさいでいたスターリン主義を打倒する哲学的核心に一歩ちかづいたのである。
 戦後日本唯物論における客観主義との闘争のもっとも左翼にあった黒田寛一は、プロレタリア的人間の本質的把握をもってマルクス(主義)哲学の現代的再構成をなしとげつつ、スターリン(主義)哲学との死活をかけた闘争を選んだのであり、そして、この死活の闘争こそが、また、マルクス主義への本質的切りこみを可能にしたのである。科学的マルクス主義を標榜する労農派マルクス主義の宇野経済学体系と対馬ソ連論としての結実は、こうした実践的唯物論の立場から主体的にうけつがれることによって、革命的マルクス主義の一つの源泉として意義をもつのである。
 だが、黒田哲学は、同時に、スターリン(主義)哲学の反マルクス主義的本質に鋭い批判を展開し、日本マルクス主義の客観主義とその一形態としての党権威主義と非妥協的に敵対しつつも、スターリン(主義)への批判が、政治闘争の領域においてではなく、哲学の領域において、しかも、国際的な左翼反対派の闘争ともまったく切断されていたところに存在していたという歴史的制約性をもっていたのである。それゆえ、黒田哲学として結晶した実践的唯物論が、プロレタリアートの現代的な革命的世界観としての革命的マルクス主義に発展するためには、なお、国際的な左翼反対派の闘争との連帯が必要であったのであり、なによりも、たたかうプロレタリアートとの生きた革命的交通が不可欠であったのである。
 
         *    *    *
 
 【付】なお、労農派マルクス主義について、日本革命運動史における政治的役割についてかんたんにのべておこうと思う。というのは、日本共産党のあいもかわらぬ「社会主義革命」への恐怖、戦後日本革命の敗北という深刻な事実をもってくだされた三二年テーゼ=二段階革命論の破産は、革命的プロレタリアートをして、日本共産党の二段階戦略に戦前戦後をつうじて反対した、と自他ともに認める労農派マルクス主義にたいして、一時的であれ、革命的であるかの幻想をもたらすからである。だが、事実はどうなのか。
 たしかに、日本資本主義の経済的社会構成の分析把握において、労農派マルクス主義の方が、三二年テーゼ的規定(亜流としての講座派説、誤謬の純粋化としての神山説)よりも、学問的正当性をもっている。だが、戦前の日本社会=国家が基本的にブルジョア的であることを確認し、労働者階級の戦略的課題が社会主義革命であることを主張するだけでは、まだまだ、問題は半分もかたづきはしないのである。たとえば、カウッキーはドイツ社会主義革命を終生主張していたが、背教者であることを妨げなかった。なぜならば、革命という力学は、一編のテーゼだけに書きこむにはあまりにも豊富であり、意地の悪いものだからである。すなわち、労農派マルクス主義者が、日本革命の基本的性格は社会主義革命である、という正当な主張をのべているかぎりではなんでもないが、(1)打倒すべき日本国家の特質、(2)革命権力の性格、(3)革命を指導すべき党の形態はいかん、という問題につきあたったとき、その破産は赤裸々となるのである。
 (1)天皇制について。
 戦前の天皇制が絶対主義である、という規定(この点では、日本共産党も春日的反主流派も一致)についての批判は省略するが、だが、労農派のように、これをたんに「封建的遺制」であるということは、ある意味では、もっと犯罪的なのである。なぜなら、天皇制は全社会から超越したような擬制を装いながら、ブルジョアジーと地主の階級的利害をもっとも凶暴に貫徹する例外的国家=ボナパルティズム的君主制であったからである。すなわち、明治維新で確立した絶対主義的日本天皇制は「もはや、ブルジョアジーの進出にたいして貴族をまもることではなく、労働者階級の進出にたいしてすべての所有階級をまもることが問題になった瞬間からこの目的のためにつくりだされた国家形態たるボナパルト君主制に完全に移行しなければならなかった」のであり、「大正デモクラシー」の名で呼ばれる外見的立憲君主制は「ふるい絶対王制のこんにちの解消形態であるとともにボナパルト的王制の存在形態」であったのである。したがってこのような天皇制をただ「遣制」化してしまうことは、絶対主義説とちょうど裏返しになるのだが、ブルジョアジーとの闘争と天皇制との闘争を二元論化してしまうことになるのである。しかも、転向の回転軸が天皇制にあった、という事実をなんとも説明できぬではないか。ついでながらいうと、共産主義者同盟(六〇年ブント)の綱領草案における日本の記述は、完全に大内力の業績の無批判的な模写で、しかも、天皇制問題について徹底的に無自覚である。
 (2)プロレタリア独裁についで。
 一言でいって不明確である。
 (3)党について。
 労農派の社会民主主義的本質が、ここで赤裸々となるのである。山川均のいうところによれば、労働者前衛党をいまつくればセクト的になるから、民主主義の拡大を可能にしうるところの、ブルジョア左派から共産主義者まで結集した統一戦線党から出発すべきである、というのである。なんと、マルトフ以下。だが、ここで注意してほしいのは、民主主義の拡大、というスローガンである。ここにいっさいのカラクリがある。つまり、革命規定は社会主義だが、当面は民主主義、という日和見主義の大言壮語であったのである。しかも、かれらは、注意ぶかく、自己の活動を理論的分野にしばりつけていたのである。戦後でもそうであって、向坂などは、さかんに、日本共産党の二段階戦略の批判をするが、かれ自身どうだったのか、以下のとおり。
 「私は、日本の敗戦をもって終った第二次大戦後の世界の政治経済の動向と日本の新たな社会情勢とは、おそらく日本におけるプロレタリアートの戦略と戦術とを根本的に変化させるのではないかと考えていた。……あらたに生じた日本の国際的地位は、日本プロレタリアートの主要なる当面の階級的任務を、民主主義革命の完成におくほかなからしめている。そしてこのことに日本国民が成功するか否かは、社会主義社会への進展がいわゆる平和的なみちを通って最少の摩擦をもって遂行されるかどうかを決定する。……すなわち、日本における社会情勢の変化は社会革命を一段的というより、むしろ二段的というのをより適切としているかのようである」(『日本資本主義の諸問題』再刊のことば、四七年四月黄土社版)
 
 第三章 日本における革命的共産主義運動
 
 (a) 革命的マルクス主義のための闘争
 
 五六年十月のハンガリア労働者階級の革命的蜂起と、これにたいするクレムリンの残虐な血の報復は、ソ連圏「社会主義」に内在する直接的生産者と官僚の社会的分裂、スターリン主義官僚制の反労働者的本質を、永遠に消しさることのできない血文字でもって、階級闘争の歴史に刻みつけたのであった。じつに帝国主義とスターリン主義の深刻な谷間で絞殺されたこのハンガリア革命は、きたるべき激動期を暗示する悲劇的断章であった。それゆえに、こうした苛酷な歴史的現実は、全世界の革命的プロレタリアにたいして、クレムリン官僚の立場か、ハンガリア労働者の立場か、という二者択一を要求することによって不可避的な重みをかけながら、スターリン主義運動と革命的共産主義運動の分裂のための一般的条件をきりひらいたのである。
 西欧ではこのハンガリア革命の勃発は、明らかに、スペイン革命、独ソ協定以上の打撃を西欧諸国のスターリン主義者党に与えたのであった。スターリン主義の「宣伝」と事実との、この深刻な非和解的な対照に直感した数多くの党員が、ハンガリア労働者への同情やクレムリンへの弾劾をうちならしながら、なんらかの道をとおってスターリン主義党から離れていった。
 だが、レーニンとトロッキーの「革命的伝統の後継者」を自称する西欧トロツキスト(第四インター書記局)は、スターリン死後の一連のフルシチョフ的改革をスターリン主義の衰退としてしかとらええないその社民的な堕落のゆえに、東欧の社会的動揺=反スターリン主義の第二革命の高揚とともに訪れた西欧共産党の崩壊的危機を拡大し、革命的共産主義の勝利に転化するための闘争をなんらなしえず、トロツキズムの「教条」(しかも、社民化したそれ)を布教することに自己満足していたのである。かくして、反スターリン主義運動のための決定的契機であったこのような動揺は、イギリス共産党の深刻な分裂をもたらしたピーター・フライヤーの反対派活動を除いては、みるべき成果もなしにおわり、西欧スターリン主義者党は、悪夢のような一時的動揺ののちに、ふたたび、その官僚的結束をかためたのであった。脱党者たちの大半は、クレムリンの暴挙にたいしてカン高い道徳的批判をひとしきりわめいたあとで、しだいにプロレタリア運動から脱落していき、やがて、小ブル的な世界の安楽椅子にうつっていってしまったのである。
 だが、わが国の場合、事態はかなりちがった条件のなかで進展した。なぜなら、わが国では西欧とちがって、右翼社会民主主義のブルジョア的批判を除いては、ハンガリア革命にたいする同情はきわめて遠慮がちに語られ、近代政治学者たちの客観主義的なこざかしい解説のみが、あたかも唯一の「立場」であるかのようにふるまっていたのである。それどころか、日本共産党の思想的奴隷でしかない自称進歩的文化人はいうまでもなく、いっさいの「労働者」党の指導者、いっさいの労働者組合の幹部が、さまざまな理由をもうけては、クレムリンの犯罪に加担し、共犯したのである。そして、きわめて不幸なことには、日本共産党内の「最左翼」を自称し、また、事実、党内闘争において、もっとも反中央的な全学連系の学生党員は、こうした国際的スターリン主義運動の危機のもつ深刻な意義についてすこしも理解できず、むしろ、日本においてクレムリンの立場をもっとも無批判的に支持するという状況だったのである。
 こうしたわが国における左翼戦線の底しれぬ堕落と退廃は、ハンガリア労働者とともに進もうとしたスターリン主義批判の立場をきわめて苛酷なものにしていた。だが、このような条件は、同時に、批判者が自己の立場をより革命的に純化するための試練でもありえたのである。かくして、革命的先駆者たちは、国際共産主義運動の現状と歴史について、全実存をかけた検討に進んだのであった。スターリン主義者の官僚的特殊利害によって歪曲され、いまや、労働者階級の敵対物にまで転化した「共産主義」(=スターリン主義)にたいし、非和解的な闘争の宣言が発せられたのである。まさに、このような立場の確立のためには、絶対的に、スターリン主義者によって、執拗に排撃され、歴史の過去帳のなかに「帝国主義挑発者の思想」として埋没されてきたところのトロッキーの革命的実践とその理論的遺産を再検討し、その革命的核心を主体的に継承することなしには不可能であった。
 トロツキスト連盟という形態をとって実現したこの革命的共産主義者の端初的組織は、その名称からも明らかな限界性をもちつつ、その後のきわめて精力的な宣伝活動によって、トロツキズムのタブーを打破し、スターリン主義の枠内でコップのなかの嵐をくりかえしていた日共の党内闘争にたいし革命的視点を注入しつつ、革命的マルクス主義を精練するための揺籃となった。
 そして、こうした革命的マルクス主義の苦闘は、一方では日共内の左翼スターリン主義、他方では連盟内のトロッキー・ドグマティズムとの二つの戦線での闘争をつうじてなしとげられていった。この一個二重の闘争は、トロツキスト連盟の限界を突破し、真に革命的共産主義者の政治同盟の結成にむかうためには不可欠の仕事であった。
 太田竜に人格的に表現されるトロッキー・ドグマティズムとの闘争は、基本的には、(1)レーニンとトロッキーの独裁論、(2)労働者国家無条件擁護のスローガン、(3)反スタ統一戦線と第四インターの問題をめぐってまず開始された。そしてこの論争の深化は、トロツキズムと革命的マルクス主義という重大な課題を浮かびあがらせずにはおかなかったのである。なぜなら、太田にあっては、スターリン主義からの決別は、直接にトロツキズムへの無媒介的移行を意味するだけであったからであり、トロッキーおよび第四インターに疑問をもつことは、中間主義的動揺でしかなかったからである。したがって、トロッキー・ドグマティスト太田竜には、独裁論をめぐるレーニンとトロッキーの対立と一致について、トロッキーの『十月の教訓』以上の説明を与えることは思いもおよばぬことであったし、またソ連無条件擁護に疑問を提出するなんてことは許しがたいことであった。
 だが、世界革命の一環としての日本革命の勝利のための主体的立場はなにか、という実践的課題を明らかにするために苦闘している革命的マルクス主義者にとって、このようなドグマティズムはまったく我慢ならないものであった。かくして、端初的に形成された革命的マルクス主義グループ(RMG)は、トロッキーを反スターリン主義の最先端としてとらえることによって、革命的マルクス主義のための主体的バネとしつつ、同時に、トロッキー死後の第四インターの低迷と誤謬、そのプロ・スターリン主義的堕落(=パブロ修正主義)との闘争をつうじて突破することによって、マルクス主義の現代的展開としての革命的マルクス主義の基本的立脚点を確立していったのである。
 そして同時に、トロツキズムにたいする革命的マルクス主義者のこうした主体的かまえ方は、日本における革命党の創成の方向性、第四インターの位置づけをめぐる深刻な分裂を拡大しつつ、当面する組織戦術をめぐって決定的対立として現実化せざるをえなかった。それは、一方では、第四インター的セクト主義の枠を打破し、革命的共産主義者を中核とする左翼反対派を基軸とした反対派の広範な統一戦線の結成、相互批判を排除しない統一行動の展開をかちとる方向を求めつつ、他方では、「永久加入戦術」や「社共政府」のスローガンに象徴的な没主体的な、それゆえに現実には社会民主主義やスターリン主義への屈服を準備する、こうした官僚主義を粉砕し、革命的前衛党の中核となるべき戦列の不断の強化という闘争であった。
 前章(b)で述べた五七年三月の国労東京が敢行した品川の国電ストを画期とする日本プロレタリア運動の再度の高揚は、不可避的に民同と日共の裏切りを大衆のまえにひきだしつつ、日本プロレタリア運動の「日和見主義と革命的共産主義の分裂」の最初の契機となった。こうした日本プロレタリア運動の左翼的分裂の本質的展開こそ、じつに若き日本革命的共産主義運動の原動力であったのであり、小ブル的平和急進主義の袋小路にあった日本学生運動の左右への分裂、その「左翼」多数派の世界革命戦線への転換を不可避とした背景であった。
 たしかに、日本学生運動は日本プロレタリア運動のもっとも戦闘的な部隊の一つであり、またその指導部を形成していた学生共産主義者は、日共の党内闘争においてもっとも非妥協的な批判的翼をなしていた。だが、社学同の公認史観のように、日本の学生運動は、「戦後の階級闘争の歴史において、つねに社会主義革命を志向して、固着しかけた左翼戦線に新しい風を注入してきた」(『希望』創刊号)という評価をとることができるであろうか。否! 現実の「階級闘争の歴史」は、こうした公認史観がまったく虚構であるばかりか、今日の革命的学生運動の意義を抹殺してしまうところの反動的自己合理化であることを明白にしている。
 五六年から五七年にかけての日本学生運動の特質は、ジュダーノフによって基本的に設定されたところの平和擁護闘争路線の左翼的スターリン主義的極であった。したがってこうした立場からの「革命化」は、たかだか街頭的激突主義の開花としての意味しかもちえなかった。
 五七年春の原水爆禁止運動から同年十一月の国連請願統一行動にいたる日本学生運動は、動員の一応の成功にもかかわらず、激動する日本プロレタリア運動に逆行する小ブル的平和急進主義の破産の過程であった。こうした破産のなしくずし的修正が、十一・一闘争のあと、さまざまな現象的形態をとってあらわれるところの平和共存路線にたつ平和擁護闘争と世界革命路線の「和解」の試みであったのである。九回大会路線とその破産を厳密に検討することなしに、綱領的テーゼだけは平和共存から世界革命になしくずし的に移行し、しかも過去のいっさいの行動を合理化するという、こうした堕落こそ、まさに五八年の「転換」の核心的恥部であったのである。
 五八年三月の日共東大細胞の「世界革命」決議が明らかにしているように、こうした「転換」を日共内の構造改良によってなしとげようとしていたことは、かれらの「世界革命」がけっしてスターリン主義への深刻な反省から出発したものではなかったことはいうまでもない。かれらは五六年にハンガリア革命にたいしてとった反労働者的犯罪を自己批判することもなしに、一夜にして世界革命に移行した。ここに五八年問題の主要な問題性が秘められている。
 全学連十一回大会直後におこなわれた学生グループ会議における党中央との衝突は、学生党員と党中央との対立の深刻さを全党のまえに暴露するという積極的側面をもちつつ、分派組織の準備もなしに攻撃に入るという弱点のゆえに、六・一事件の直後にただちに開始された党中央の官僚主義的弾圧のあとになって、分派の問題が検討されるというたちおくれをもたらした。かくして、十分な思想的・政治的準備もなしに、除名という外的条件の強制のもとで、ようやく分派が問題とされ、さらに三ヵ月おくれて別党コースが現実的意識にのぼるのである。
 
 (b) 反ド・ゴール闘争と第四インターナショナル
 
 一九五七年の暮にアメリカ資本主義を襲った中間恐慌は、西欧資本主義に深刻な影響をもたらした。現代帝国主義の構造的危機は、西欧資本主義、とりわけフランス資本主義の経済的・政治的危機として、その集約的様相を露呈させたのであった。第二次世界大戦によって、ブルジョア的統治機構の解体と資本の生産力の全面的破壊をうけ、死の苦悶にあえぎながらも、連合軍の「解放」後、フランス共産党の反労働者的裏切り(産業復興闘争とド・ゴール政府への閣内協力)とアメリカ帝国主義の即事的・経済的援助のもとで延命したフランス資本主義は、あらたなブルジョア的統治形態=第四共和制を生みだしつつ、熱病的な努力をかたむけて生産力の回復をはかり、昔日の政治的・経済的地位を国際帝国主義陣営の内部に確立しようとして懸命となっていた。だが、その資本蓄積の構造的分散性とブルジョア的階級意志の政治的「分立」のゆえに、フランス資本主義は、ベルギー資本主義とともに、明らかに西欧帝国主義のもっとも弱い環の一つをなしていたのである。その心臓と脇腹には、フランス社会主義の「伝統」をうけついだ労働者階級と反帝反植民地闘争にたちあがったアルジェリア人民の劔がつきつけられていたのである。
 すでにインドシナ戦争で伝統的植民地の一つを事実上失ったフランス帝国主義は、五四年の反乱以来、しだいにたかまりくるアルジェリア人民の闘争のまえに、フランス帝国主義の「生命線」ともいうべきアルジェリアの確保すら不安定となっていた。しかも、五八年春に深刻化したインフレは、前年度からやや上向きになりつつあった労働争議を激化させ、同時に、農業危機をひきおこすことによって農民の政治的動揺をもたらしたのであった。一方におけるフランス労働者階級の経済闘争の激化とアルジェリア人民の反植民地闘争の高揚、他方における「没落する小ブルジョア」=アルジェリア・コロン(白人入植者)の右傾化とフランス農民の政治的動揺、――こうした政治的勢力の分極化は、フランス・ブルジョアジーの政治的再編成を不可避としたのであった。すなわち、フランス的分散からフランス的「統一」へ! かくして、ナチ・ドイツからフランスを「解放」した国民的英雄ド・ゴールは、右からのコロンの反乱と、左からのプロレタリアートの自衛的闘争の均衡をとりつつ、ブルジョアジーの衆望をになって登場したのであった。
 だが、フランス第四共和制からド・ゴール大統領制(ボナパルティズム)への統治形態の転換は、まさに、フランス資本主義の危機の政治的表現であったのである。それゆえ、フランス労働者階級はブルジョアジーにむかって、昨日までの統治形態の持続を要求するという人民戦線戦術の誤謬から決別し、一九一七年七月のコルニロフ反乱にたいしてとった、レーニンとトロッキーのあの天才的な統一戦線戦術を現実的に展開することが必要であったのである。すでに、コロンの反乱がパリに伝えられるや、パリの工場労働者は、ただちに「反ファッショ委員会」等々の自衛的組織を結成し、自発的に工場占拠という革命的手段を採用し、パリの労働者的防衛の拠点を設営しはじめていた。このようなパリ労働者の自衛的闘争の全市的確立は、明らかに、コロン=軍隊の右翼的クーデターからパリを防衛する最高最強の保証であったばかりか、同時に、フランス資本家階級にたいする武装した労働者階級として「二重権力」的状況を出現させたであろう。武装したパリは、反乱したコロン=軍隊の武装解除をなしとげながら、ブルジョアジーの弔鐘をうちならす準備をその日程表に刻みつけたであろう。
 パリの労働者的「防衛」の道は、だが、そのほんの初期のみちのりで、ほかならぬトレーズの党(フランス共産党)とその指導のもとにある労働総同盟本部の一片の通達によって閉ざされ、共和制擁護というブルジョア的袋小路のなかに埋没してしまったのである。ガイヤルド政府の街頭デモ・集会禁止の条例に賛成票を投じたフランス共産党は、パリ労働者の工場占拠を極左的偏向として中止させ、政府(軍隊と警察)の指示に服するよう勧告したのである。
 かくして、ド・ゴールの登場にたいして口先の反対でお茶をにごした「人民の子」トレーズは、すでに小ブルジョアが居間の安楽椅子に安静をみいだした同年秋になって、国民投票でド・ゴールにノン(反対)を記すように訴えたのである。だが、結果は明白であった。マンデス・フランスとトレーズのブロックが獲得した票は、なんと、通常の共産党の得票数よりはるかに下まわったのであった。
 しかも、アルジェリア革命にたいして「名誉ある連合」という反レーニン主義的政策をかかげていたフランス共産党は、ド・ゴール大統領の対アルジェリア政策に無条件支持を与えることによって、その裏切りを完成させたのである。フランス帝国主義とアルジェリア革命の「話し合いの平和」とか「名誉ある連合」とかを主張することは、いったい、なにを意味するであろうか。もちろん、アルジェリア革命をプロレタリア革命として完遂するためには、先進工業国であるフランス労働者階級との「連合」が重要であることはいうまでもないであろう。だが、分離を前提としない結合、帝国主義の旗のもとでの連合は、ただ、レーニン主義への背教でしかないのである。それゆえ、アルジェリア人民の反植民地革命とフランス本国のプロレタリア革命を結合すべき決定的契機は、スターリン主義者の裏切りによって絞殺され、その反動として、フランス在住のアルジェリア人労働者を、フランス労働者階級の本隊と孤立した街頭的戦闘に追いやったのであった。
 フランス階級闘争の灼熱のルツボのなかで、またしてもくりかえされたスターリン主義者党(フランス共産党)の裏切り、あまりにも醜悪な「共和制防衛党」への転落は、同時に、フランス労働者階級の革命的翼をスターリン主義の桎梏から解き放し、革命的共産主義運動にむかわせる一般的条件をもたらしたのであった。事実、反ド・ゴール闘争における戦術をめぐって、五八年夏から五九年春にかけフランス共産党の内部で深刻化した政治的動揺、とりわけ、鉱山、教員等の経営細胞、パリ大学細胞などで激化した左翼的分派闘争は、まさに、こうしたスターリン主義と革命的共産主義の分裂のスターリン主義者党への反映にほかならなかった、といえるであろう。したがって、こうした契機を革命的共産主義運動の前進の主体的条件に転化しうるか否かは、じつに、フランス左翼反対派(トロツキスト)の革命戦略と組織戦術の有効性にかかわっていたのである。なぜなら、ほかならぬわが第四インターナショナルこそは、世界革命の擁護のために、スターリン主義分派と死活の闘争を展開したロシア左翼反対派の革命的伝統を継承しつつ、第三インターナショナルの官僚の党への完全な変質の明白な確認のうえにたって、「新しい共産党を全世界に樹立せよ!」というトロッキーの呼びかけのもとに創設されたものだからであり、それゆえ、フランス階級闘争のスターリン主義的袋小路を打破し、フランス労働者階級の解放の道をきりひらくべきいっさいの任務は、ただ、わがフランス左翼反対派(トロツキスト)の肩にかかっていたからであった。
 だが、パリに本部をおくわが第四インターナショナル(パブロ派=国際書記局)とそのフランス支部(フランク派=国際共産党)は、フランス共産党の反プロレタリア的裏切りが赤裸々に暴露されつつあったまさにそのときに、「反ファシスト委員会に支持された社共政府樹立」という親スターリン主義的戦術スローガンを採用することによって、労働者階級の革命的翼がスターリン主義から決別する契機を、逆に抑制する役割をはたしたのであった。まさに、反ド・ゴール闘争という階級闘争の決定的瞬間にとられた第四インターナショナル・フランス支部のこのような堕落、非主体的組織戦術は、じつに、今日の第四インターナショナルの危機の集約的表現でもあったのである。それゆえ.日本スターリン主義運動(日本共産党)と決別し、革命的共産主義運動の創成のために苦闘していた若き日本の革命的共産主義者にとって、このような第四インターナショナル(パブロ派)・フランス支部の親スターリン主義的戦術について、寸時も看過することはできなかったのである。いなむしろ、反ド・ゴール闘争におけるフランス共産党および第四インターナショナル・フランス支部の戦術の評価をめぐる対立は、それ以前から日本革命的共産主義者同盟の内部で深刻化していた思想的・組織的分派闘争を決定的段階にまでおしあげてしまったのである。
 すでに前節でみたように、六全協を契機として激化した日本共産党の分派闘争の過程のなかで、全学連系の学生党員は、革命的共産主義者による「外部」からのトロツキズムの注入に衝撃をうけつつ、なしくずし的に「平和共存」から「世界革命」への移行を開始していたのである。
 五六年十月のハンガリア革命にさいして、もっとも「原則的かつ非妥協的」なクレムリン官僚の支持者であり、五七年暮になってもなお「スターリン主義という体系」が存在することを頑強に否定していた(反戦学生同盟の中村光男委員長の『探究』への返事)かれらは、五八年春には、いぜんとして「トロツキズム」への肉体的反発を色こくしながら、日共東大細胞の三月総会の決議に明らかなように、「トロツキスト」の主張を純「戦略戦術問題」にかぎってこっそりと採用するにいたっていたのである。そして、こうした学生党員の「左傾化」 は日本共産党中央指導部の毛沢東的民族主義者の学生党員への警戒心を拡大させ、官僚主義的統制を強化させずにはおかなかった。だが、この「左傾化」の今日的問題性は、まさにこのような点にあったのではなくして、じつに、「世界革命」路線の採用が一片の組織論的反省もなしにおこなわれたということ、つまり、自分が現にその一翼をなしているところのスターリン主義(運動)とのなんの断絶もなしにこのような「転換」がおこなわれたという点にこそあったのである。
 五八年五月未の社学同第一回大会におけるフランス共産党への檄電の決議は、明らかに、一方では人民戦線戦術の否定を暗示しながらも、他方ではこのような否定の実現を、フランス共産党に期待するという学生党員の左翼スターリン主義的立場を見事に反映していたのである。それゆえ、日本革命的共産主義運動の創成をめざしたスターリン主義運動の現実的解体のために、学生戦線の内部でも積極的に組織活動を展開しはじめていた日本左翼反対派にとって、学生党員のこのような左翼スターリン主義的限界をいかに打破すべきかという問題は、焦眉の実践的任務として提起されたのであった。
 だが、われわれは、このような闘争に真に勝利するためにも、まず、反ド・ゴール闘争において赤裸々にうつしだされた第四インターナショナル(パブロ派)の没主体的な「圧力主義」、その綱領的支柱としての「反帝・労働者国家擁護」論との非妥協的闘争を展開せざるをえなかったのである。なぜなら、日々の現実的階級闘争は、こうしたパブロ修正主義者流の「スターリニスト党への左翼的圧力」主義(永久的加入戦術)や「世界革命のトリデ=ソ連の無条件擁護」主義の破産を確認した地点から、その勝利の道がきりひらかれるであろうことを、きびしく教えていたからである。それゆえ、反ド・ゴール闘争における第四インターナショナルの戦術をめぐる日本革命的共産主義者同盟の内部闘争の激化は、同時に、日本共産党内で六・一事件を契機に急展開しつつあった党内闘争にたいし、われわれはいかにかかわるべきか、という組織戦術上の対立をもはらみつつ進んだのであった。
 かくして、同志黒田寛一が『早稲田大学新聞』に連載していた「現代革命の展望」第七回(五八年六月一七日付)で公然と第四インターナショナルを批判し、つぎのようにのべたとき、分派闘争は爆発点にまで達したのである。
 「反帝・労働者国家群の擁護」という第四インターナショナルの根本的戦略は、歴史的には一九三〇――四〇年代の世界情勢からの帰結であると同時に、論理的にはスターリニストと全く同じ現実認識の平板性(二大陣営の対立と、国際ブルジョアジーと国際プロレタリアートの本質的矛盾の二重うつし)にもとづくものといえる。
 われわれは、これに対して「反帝・スターリニスト官僚(政府)打倒」を戦略目標とし、スターリニストならびにスターリニズム(その今日形態としてのフルシチョフ路線)との断乎たる闘争をとおして、同時に帝国主義国家権力を永続的に粉砕してゆく革命的マルクス主義に立脚して革命闘争を展開するのでなければならない。
 ただちに、第四インターナショナル(日本支部?)の第一官僚を自称する太田竜のヒステリックな憤激の声がおこった。すなわち、わが「一〇〇パーセント・トロツキスト」によると、このような同志黒田の問題提起は「第四インターの基本路線からの逸脱」であり、「ソ連=赤色帝国主義論への橋渡しとしての役割」をはたすものとして「国際トロツキスト運動内部の小ブル反対派の主張と基本的には同一である」というのである。
 だが、このような歴史主義的例証による官僚的恫喝でもって、いったい、階級闘争を一寸でも前進させることができるであろうか。いな、むしろ、わが自称トロツキストには、そもそも、今日の第四インターナショナルの低迷の主体的根拠はなにか、という一片の問題意識すら存在しないのであり、それどころか、この矮小な脳細胞には、今日の国際的階級闘争は隆々たる上昇期にあり、第四インターナショナルの方針の正しさはアメリカのCIOの政策にまで浸透しているかのように反映するのである。かくして、太田は、書記局会議で「黒田の即時除名」を要求し、それが否決されるや、「全同盟討議にかける」という書記局多数派の決定を、少数派がボイコットするという分派闘争史上に類例のない組織戦術をとって、わが同盟から逃亡し、「関東トロツキスト連盟再建準備会」なる新組織を数名の同志とともに結成したのである。
 このような太田一派の官僚主義的=セクト主義的分派闘争にたいし「反帝、・反スターリン主義」の立場を支持する革命的マルクス主義者グループ(RMG)は、この論争を第四インターの路線の逸脱か否かという、官僚主義的局面に封殺しようとする策謀をはねのけ、批判の基準が実践にあることを執拗に主張したのであった。かくして、五八年七月におこなわれた革共同全国代表者会議において、革共同の第一次分裂は決定的となった。太田は、トロツキスト同志会→国際共産党→第四インターナショナル日本委員会というセクト主義的組織をつぎつぎと結成・解体し、最後には、自分のつくった日本委員会から除名され、いまは社会民主主義の末尾に埋没していったのである。
 だが、ここで明白にしておかねばならないことは、西、岡谷の関西派トロツキストが、この第一次分裂の前後にとった非原則的態度であり、全学連官僚大原の奇怪な太田竜との密通である。〔やがて、西分派の三頭政治を形成するこれらの三名の自称トロツキストは、五九年夏になってから、突如として「パブロ修正主義反対」なるスローガンを採用し、しかも、以前からパブロ主義に反対していたかのごとき歴史の偽造をはじめた。革共同第二次分裂の過程、および、その後の日本階級闘争の進展のなかで赤裸々に暴露されたように、かれら西分派トロツキストの「パブロ修正主義反対」は、ほかならぬ第四インターナショナル(パブロ派)から西分派が疎外されたことからくる直接反発→キヤノン派トロツキストへののりうつりのセクト主義的表現でしかないのであり、その戦術は、いぜんとして、社民的なパブロ主義そのものなのである。〕
 すなわち、関西派トロツキストたる西、岡谷は、太田竜とのあいだに、加入戦術および独立活動について、若干の見解の不一致を保留しながらも、反探究派=革命的マルクス主義反対、第四インターナショナル絶対擁護という基本点では明らかな原則的一致を保持しており、しかも、革共同第二次分裂のさいに西自身が自白したように、五八年春から「黒田排除」のためのフラクションが形成されていたのである。そのうえ、反ド・ゴール闘争にかんする同盟内の論争においても、基本的には「反ファシスト委員会に支持された社共政府樹立」を支持し、のちになって「議会的支持にとって代えられるおそれがある」(西京司書翰、八月下旬)という補足を加える立場にあったのである。
 にもかかわらず、五八年七月の全国代表者会議に出席して、関東の同盟員の圧倒的多数が反帝・反スターリン主義世界革命戦略を支持しており、太田竜がごく些細な自己批判すら認めないために太田派の見解を公然と支持することは不利であると知った西、岡谷は、態度を豹変して太田批判者の側にたちつつも、きわめて曖昧な意見をのべていたのである。
 西と太田の分裂を決定づけたものは、それゆえ、第四インターナショナル(パブロ派)にたいする革命戦略的=組織論的批判をめぐってではなく、たんなるセクト主義的「不信」感でしかなかったのである。だからこそ、西、岡谷は、第一次分裂の直後に、はやくも太田との政治的協商を開始し、五八年夏から革命的共産主義者同盟員であったと自称する大原は、西京司の内命をうけてか、上京のさいには在京書記局には連絡せず、太田竜(トロツキスト同志会)のもとに直行し、そこでメモした実践的方針とやらを全学連の中執会議で読みあげていたのである。
 以上のかんたんな経緯からもすでに明らかのように、反帝・反スターリン主義世界革命戦略は、けっして思弁的闘争の結果として生みだされたものではなくして、一方における左翼スターリン主義、他方におけるトロッキー教条主義(じつはパブロ修正主義)との熾烈な分派闘争をつうじて、それゆえに、現代プロレタリアートの自己解放を実現すべき真の現実的立脚点をもとめるプロレタリアートの苦闘をつうじてうちだされたのである。もちろん、革命的マルクス主義者(RMG)とパブロ修正主義者(太田=西、岡谷)の論争は、後者の反レーニン主義的分派闘争(セクト主義)のゆえに、きわめて不十分な展開しかおこなわれず、その最後的な決着は「批判の基準は実践に!」という政治局決議の冷酷な歴史的検証にゆだねられたのである。
 
 (c) 学生運動の「左傾化」と共産主義者同盟の成立
 
 一九五八年六月一日に日本共産党本部の二階で勃発した全学連系学生党員の党中央指導部への反乱、これに対抗しておこなわれた党中央指導部の学生党員への官僚主義的な大量処分は、六全協(五五年七月)後、激化した党内闘争のなかで深刻化しつつあった幹部不信と綱領的対立をいっきょに爆発点にまでたかめるかにみえる緊張をもたらしたのであった。事実、「不祥事件」にかんする党常任幹部会の声明が『アカハタ』に発表されるや、逆に、それにかんする党下部機関からの意見書の多くは、直接に学生党員の行動を支持しないまでも、党中央の「指導」にたいする不信や疑問を明らかに表明していたのである。
 だが、分派闘争にたいする組織的準備もなしに攻撃に入るという無謀さを逆手にとった日共中央は、一方では、「不祥事件」の首謀者にたいして間断なき処分攻勢を加えることによって、日共第七回大会への学生党員の発言権を封殺しつつ、他方では、労働者党員に内在する学生党員への反発をたくみに動員することによって相互の交流を官僚主義的に妨害しつつ、東京都委員会、大阪府委員会を先頭とする自称反対派がこの問題に接触しないように牽制したのであった。かくして、日共第七回大会をまえにして膨大な綱領的反対派の処置に苦慮していた党中央指導部は、日共内左翼反対派が学生戦線の収拾に奔走している間隙をぬって、しかも、右翼反対派(のちの春日派)をトロッキストの共犯者″というきまり文句で恫喝して、第七回大会を欺瞞的にのりきり、スターリニスト官僚体制の強化へとむかう契機をつかんだのである。つまり、宮本・春日(正)一派は、党の学生組織を犠牲に供することによって、学生党員のあいだにペストのように感染しはじめていたトロツキズム″の影響から他の階層の党員を隔離しつつ、同時に、官僚的保身をまっとうすることに成功したのであった。
 かくして、全学連系の学生党員は、党中央によってつぎつぎと加えられる官僚主義的処分=除名という外的条件の強制のもとで、しかも、労働者党員の党内闘争から切断された地点において、分派結成の問題にきわめて控えめにとりくみはじめ、八月になってはじめて全学連フラクという学生合同反対派の結成にその上層部は進んだのである。しかも、このフラクは、日共第八回大会における党指導権の転覆を意図するものであり、その綱領は(1)戦略・戦術極左、(2)社会主義革命、(3)所感派打倒、(4)学生運動防衛であり、後になって(5)国際権威主義反対、がつけ加えられたのである。
 この事実からも明らかのように、島成郎(のちの共産主義者同盟書記長)をはじめとする学生党員の圧倒的部分は、「世界革命」とか「平和共存反対」といった代々木官僚の禁句を口にしてこそいたが、社学同第一回大会におけるフランス共産党への檄電と同様の立場、すなわち、スターリン主義の枠内での「左傾化」でしかなかったのである。にもかかわらず、日共中央の学生党員への無差別処分と学生戦線の内外における革命的共産主義者の影響の拡大という条件のなかで、全学連フラクの指導部は、トロッキーや『探究』の理論への肉体的反発を示しつつも、こっそりそれを仕入れることなしには、全学連フラクの立脚点をどこにも発見しえぬことに気付づきはじめ、しだいに左翼的合同反対派の傾向をつよめていったのである。
 九月になっても日共第八回大会(第二の六全協!)への幻想をたちきれず、日共の枠から脱出することを恐怖していた全学連フラクは、十月中旬になってはじめて別党コースを決意するにいたったのである。だが、このことは、全学連フラクが明白に革命的共産主義の立場に移行したことをすこしも意味しはしなかったのである。共産主義者同盟の事実上の理論的支柱であった山口一理によって執筆された全学連フラクの綱領的文書を読むならば明白になると思うが、かれらを別党コースにふみきらしたた決定的な主体的発条(バネ)は、じつに、五〇年分裂において国際派が別党コースを日和ったことへの直接的反省であったのであり、国際派の未完の事業の継承であったのである。
 しかも、小ブルジョア特有のセクト主義のトリコとなっていたかれら全学連官僚たちは、『探究』派理論=革命的マルクス主義の理論的成果をこっそりと、しかも表面的に盗みとることによって国際派的全学連主義に継ぎ木しつつも、同時に、第四インターナショナルと革命的共産主義者同盟にたいして、ご都合主義的に死の烙印をおしつけることによって、まえからのトロツキズム″への反発を自己合理化し、左翼反対派の歴史の偽造を開始したのである。そのうえ、わが「唯一の革命的前衛」ブントの創成者たちは、一方では、第四インターナショナルに即時加入すべきかどうかという官僚主義的踏絵を設定することによって、スターリン主義から脱出しようと苦闘しつつも、いまだ革命的マルクス主義には到達しえていない中間的学生左翼を自己の統制のもとにしばりつけ、他方では、全学連フラクであることを理由にして、学生運動関係以外のいっさいの左翼反対派の参加を拒否することによって、自己の官僚的地位をかためるという権謀術策をおこなって共産主義者同盟の発足にいたるのである。
 そこに徹頭徹尾つらぬかれているところのものは、名状しがたい全学連主義であり、自己反省を欠如した尊大な全学連先駆主義である。したがって、労働者階級を組織化するという問題は、しょせん、自己の小ブルジョア的革命技術の外的な道具だてにすぎなかったのであり、自己の小官僚的地位の正当性を立証するための手段でしかなかったのである。だからこそ、安保闘争の敗北後、共産主義者同盟の無残な壊滅の廃虚のうえにたって、平然として、学生の自立した(誰からの自立か!)運動の革命性であるとか、革命的労働者なんて存在しないとか、そもそも労働者党をつくろうとしたが間違っていたのだとか、かれらは語ることができたのである。
 ところが、芳村いうところの「山口一理メモの文章化(「家」にあらず)」である佐久間の季節はずれの「ブントの組織論的総括」によると、共産主義者同盟成立の過程はつぎのように合理化?されるのである。
 「周知のごとく、日本学生運動は砂川闘争、勤評反対闘争(原水禁運動はどうした?――以下カッコ 内は筆者)を独自の勢力として(日共の先兵ではなかったのか)最も果敢に戦いぬいたのである。これには一九五五年七月の日共六全協後の日共学生細胞(君も「三年生で早大細胞指導部に選ばれた」そうだが……)の独自の方針(なにが独自なのか)によるところが多分にあった。この革命的左翼(頑固派スターリニストではなかったのか)は代々木中央の右翼日和見主義的戦略方針に反旗をひるがえして(どんな戦略方針をかかげてか)党中央と対立抗争しつつ、きびしい自己変革(なしくずL的自己 欺瞞!)を経験させられて(しかり、「させられ」たのだ)いた。一九五八年五月の全学連第一一回大会(中執報告は「五七年十一月のモスクワ宣言の基本的正しさ」を強調していた)における左右両翼の衝突(!)と「六・一事件」は、その(なんの?)端的な現われに外ならず(一揆主義)、ことに 代々木党本部における全学連フラクションと党中央との激突、いわゆる「六・一事件」は当然起るべくして(非組織的党内闘争の必然的結果!)起ったものであった。だが同時に、この事件は党内分派闘争(どんな分派があったというのか)における明確な方針の欠除の故に、結果的にみるならば、党中央の仕掛けた罠(しかけたのは学生党員の方だ)におとしこまれたといえないこともなかった。代々木官僚どもは、これを契機にしていっそうの締めつけを開始し、学生細胞は党中央に屈服して党にとどまるか、ほんのわずかな党中央からの逸脱(まさにそのとおり!)にも加えられる弾圧に抗して党から排除されるか、の岐路(春日派的設定)に否応なくたたされたのである。
 【中略。――ここで佐久間は、このような岐路が「学生運動を支えていた全学生細胞員の焦眉の課題」であったことを指摘し、「全国的には数ヵ月にわたって(すると六・一事件のときも)われわれの左翼反対派(そんなものがあったとは初耳だ)フラクション機関紙誌(ひとつ見せてもらいたいものだ)が統一的指導(?)を開始していた」ことを強調する。】一九五八年の後半を通じて、内部にこのような自己変革の努力(君もすこしは「変」ったわけだ)を積み重ねながらきたわれわれが、現実の加速度的な進展(党中央の圧迫と読め)に対処するべく代々木の外部における何んらかの全国組織(すでにあったのではないか)を必要とするに至った際に(語るに落ちるとはこのことだ)それが全学連フラクションの問題として浮びあがったのも、(みすぼらしい灰色の頭脳には)しごく当然のことであったといわねばならない。(まったく、まったく!)」
 この短い引用だけでもすでに明白になったように、きわめて特徴的なことは、第一には、「自己変革」というコトバが二度もでてくるにもかかわらず、その内容がまったく不明であること、つまり、全学連という「独自の勢力」を基礎にして「独自の方針」をかかげて代々木中央に「反旗をひるがえ」していた自分自身が、代々木官僚以上の頑固派スターリン主義者であった、という問題性にかんする完全な無自覚なのである。
 だからこそ、六全協後の学生党員にたいし「革命的左翼」などという決定的評価を与えることが可能となるのである。だが、この「革命的左翼」たるや、コミンホルム官僚としてのジュダーノフ直系の「平和擁護闘争第一義」主義者であり、ハンガリア革命の銃殺者であるクレムリン官僚への没批判的支持者であったのであり、それゆえ、代々木中央と学生「共産主義者」との思想的落差は、アルバニア共産党とフルシチョフとの対立程度のものだったのである。だが、まさに、こうした擬似的「左傾化」の粉砕こそが、反スターリン主義の現実的出発点でなければならなかったのである。〔なお、佐久間は「反スターリン主義の思想的確立の努力は、早稲田においても一九五七年早々にある程度大衆的規模でおこなわれていた」と恐らくは自己美化のつもりで書いているが、五八年二月に芳村と共同執筆した『意見書』のなかで、当時の早大細胞の指導部(のちの春日派)がソ連核実験に「右翼的」に動揺したことを批判し、「断乎たる支持」の立場にたつよう訴え、これが原因で芳村三郎が当時の指導部と対立するにいたったという事実について思い出すのも悪くないと思う。〕
 第二の特徴は、分派闘争にかんする問題意識が、徹頭徹尾いかに日共学生細胞を代々木中央から「自立化」させるかという点にのみあること、つまり、労働者細胞の分派闘争との連関性にかんする組織戦術、労働者党創造の立場が完全に欠如しているということである。その基底に存在するものは、武井昭夫流の学生運動先駆性論であり、先駆的学生運動による労働者階級の「左傾化」論であり、その党組織論的「応用」としての学連党主義だったのである。だからこそ、実体的にただ一人の労働者同盟員の参加もなしに結成大会を強行し、「唯一の革命的前衛」なぞと僭称しうるのである。
 最近になってアナキスト化した一群の元ブント官僚(先駆派)が、「そもそも前衛党をつくろうなどと考えたのが誤りであった」などと自己の破綻と「前衛的思考の破綻」とを同一視しているが、もともと、共産主義者同盟は労働者階級から自立し、外在化した「前衛」だったのであり、その裏返しが、姫岡のいう「労働者階級の即自的革命性」論であり、芳村の 「労働者階級の自己権力」論であるのである。そこに共通しているかれらの立場は、労働者階級への外在化であり、小ブル的自己への無自覚的固執であり、プロレタリア的規律への無限の恐怖である。そこに幾分かの現実的差別を求めるならば、それは、「革命の発展過程にさきまわりし、それを人為的にかりたて、革命の条件がないのでこれをつくりだす」ため「プロレタリアート一般の組織化」にひとりよがりの「奔走」をした、かつての「若気のいたり」のかわりに、いま、プロレタリアートの「革命性」や「自己権力」にたいして他力本願的な信仰をなげかける「憔悴した仮眠」者の姿をみいだすのみである。
 第三の特徴は、別党コースがうちだされる原因が、すべて党中央の官僚主義的統制の強化という外的条件にもとめられており、その理論的立脚点の探究と創造という問題は、きわめて政治主義的に処理されており、自己の政治的行動を美化するためのアクセサリーでしかなかったということである。
 それゆえ、かれらの『探究』派理論やトロツキズムとの対決は、ご都合主義的な表面的盗作にすりかえられ、その内面的探究はすこしもおこなわれずにつぎつぎと新しい理論的支柱をもとめて浮遊したのである。たとえば、佐久間は「日本の反スターリン主義運動は当然のことながら、突如として生じたものではなかった。それは、ブントの成立以前にいわば前史ともいうべき長い歴史をもっている。すなわち、主として、マルクス主義哲学の領域でつづけられてきたイデオロギー闘争の執拗なくりかえしが存在」しており、「このような哲学上の理論的成果が、日本の反スターリン主義運動に引きつがれ、また引きつがれていこうとしていることは、この運動の本質的な特徴として確認されることが必要である」といっている。
 だが、問題は、このような思想闘争からほかならぬブントがいかなる核心をつかみとったのかということであり、佐久間のように、この思想闘争と「反スターリン主義運動」との関係にブントの問題を一本化しえないのである。ところが、「ブント最高の哲学者」佐久間は、前記の引用文の直後に、平然と「われわれは同時に、ブントの全発展史のなかで、この根幹的なことの批判的摂取の希薄さを確認しておきたいと思う」と自分にはなんの関係もないかのごとく「確認」し、「だが、スターリン主義にたいする哲学的批判が、すでにそこにとどまりえず、革命戦略における批判として現実政治の領域にまで突き進むためには、対馬忠行、宇野弘蔵などの理論的成果をわがものにするとともに一九五六年の『スターリン批判』とハンガリー革命が必要であった」などと、歴史的欺瞞にすりかえてしまうのである。いったい、ブントがどう対馬・宇野の理論的成果を「わがものにした」のか聞きたいものだが、ここでは別にするとして、「希薄さ」と「とどまりえず」との悪矛盾についてどう説明するのだろうか。また、ハンガリア革命にかんする歴史的偽造についても……。つまり、この理論的ペテン師には、そもそも、そんなことはどうでもよかったのである。
 以上、旧共産主義者同盟の政治局員の執筆した「唯一」の総括文書をもとにかんたんにブント成立の問題性について検討してきたが、それはまさに、共産主義者同盟がスターリニズムとトロツキズムの私生児であるという出生の秘密に深くかかわりあっているのである。
 たしかに、共産主義者同盟は、六全協後の学生党員と党中央の党内闘争を契機としつつ、「六・一事件」とその後の党中央の弾圧の激化をその直接の要因として形成されたといえるであろう。だが、こうした全学連系学生党員の党中央との決裂の根底には、自覚していたかどうかにかかわらず、一九五六年十月のハンガリア革命を契機として胎動しはじめた日本革命的共産主義運動と日本スターリン主義運動の現実的闘争がよこたわっていたのである。まさに、このような革命的運動の開始こそが、学生党員と党中央との対立のスターリン主義的同一性をゆりうごかし、日本スターリン主義運動の分解過程の第一段階をきりひらいた決定的力であったのである。
 すでに第二章において明らかのように、一九五七年の日本階級闘争の全過程のなかで赤裸々に暴露された日本学生運動の平和急進主義的本質の破産、そして、革命的共産主義者によって「外部」からもちこまれた革命的批判、こうした条件のもとではじめて、日本学生運動はなしくずし的であれ平和急進主義から世界革命の立場に移行しはじめたのであり、その過程のなかでさまざまな過渡的傾向を生みだしたのである。したがって、全事態は、まさに、このような自己批判なきなしくずし的左傾化のスターリン主義的立脚点そのものを爆砕しうるか否かにかかっていたのである。
 だが、一九五八年秋に深刻化した日本革命的共産主義運動の混乱〔太田的パブロ修正主義の一時的隆盛、関西派トロツキストと関西学連系学生党員との野合、革命的マルクス主義者グループ (RMG)=探究派中央の解体的危機〕は、こうした闘争を不徹底なものとしておわらすことによって、逆に、全学連系学生党員のセクト主義を増大させ、エセ左翼反対派の早産児の誕生を許す結果となったのである。かくして、共産主義者同盟の創設者たちは、あたかも自己の誕生がスターリン主義運動という母胎のなかで独立に闘争した結果であるかのように歴史を偽造することによって、処女懐妊の伝説をまきちらしながら、その母斑を拡大していったのである。
 「全学連の革命的伝統」とか「指導性の恒常的獲得」とかいうブント愛用のスローガンは、じつに、このような出生の秘密を蔽いかくすための神符でしかなかったのである。日本革命的共産主義運動の正史を五八年十二月一〇日、つまり、共産主義者同盟成立の日付からはじめ、その前史を神話史にしたてあげる歴史的欺瞞が断末魔の悲鳴をあげるまでには、まだ、安保闘争の一年半の歴史が必要だったのである。
 
 (d) 探究派(RMG)の解体的危機と全国委員会のための闘争
 
 日本学生運動の小ブル的平和急進主義から「世界革命」路線への転換、学生党員の圧倒的部分の日共からの離脱と共産主義者同盟の結成、こうした一連の政治的過程は、明らかに、ハンガリア革命の遠雷のもとに前進を開始した若き日本革命的共産主義運動のもたらした日本スターリン主義運動の分解過程の第一段階を画するものであった。だが、共産主義者同盟の結成と固定化という形態をとって終結したこの分解過程の基本的限界性は、同時に、若き日本革命的共産主義運動の思想的不徹底性と政治的未成熟性、その直接的表現としての探究派政治指導部の解体的危機に規定されていたのである。そして、まさに、こうした探究派政治指導部の解体的危機こそ、学生共産主義者の「左傾化」の起因を、日共の五〇年分裂と六全協後の党中央と全学連グループの戦術的対立にもとめようとする共産主義者同盟創成者たちの神話を許容させた決定的条件をなしていたのである。
 周知のように、一九五五年七月の日共六全協を契機に、五〇年分裂における所感派の責任追及をめぐってはじまった日共の党内闘争は、五六年頃から急激に鼓動をたかめはじめた階級闘争と日本左翼反対派の胎動につきうごかされつつ、一九五七年九月以降、日本革命綱領をめぐる対立的様相を強めることによって、従来の国際派・所感派という派閥的系譜を全面的にかきかえはじめていたのである。
 しかも、国鉄新潟闘争を頂点とする日本階級闘争の激動と、その決定的段階における民同=社会党と日共の反労働者的裏切りの赤裸々な自己暴露は、代々木官僚と鋭角的に対立していた学生党員と労働者党員の一定の集団を不可避的に「世界革命」路線におしやり、日共の内外にさまざまな反代々木的潮流を生みだしはじめたのであった。それゆえ、こうした日本階級闘争の激動化と日本スターリニスト戦線の流動化は、まさに、誕生の日まだ浅き日本革命的共産主義者同盟にとって、はやくも訪れた最初の政治的試練であったのである。日本スターリニスト戦線の内部的対立に積極的に介入することによって、日本スターリン主義運動の分解過程を徹底的に推進すること、そして、こうした分解過程を、同時に、日本革命的共産主義運動の主体の創造過程にいかに転化するか、実践的問題は、こう設定されねばならなかったのである。
 だが、第四インターナショナル官僚太田にとっては、実践的問題はまったく別のところにあった。つまり、太田には、第四インターナショナル(パブロ派書記局)に完全に忠実な純粋「トロツキスト」の組織的結集が急務であって、日共への加入戦術や反スターリン主義統一戦線の提起は、運動の性格を小ブルジョア化するものとしてうつったのであった。したがって、「創造的マルクス主義の立場にたつ革命的共産主義者(RMG)を中核とする左翼反対派(JRCL)を基軸とした反対派の広範な統一戦線の結成と、相互批判を決して排除しない統一行動と共同闘争の遂行」(黒田寛一『革命的マルクス主義とは何か』)という実践的課題をもって日本スターリン主義運動の根底的解体をなしとげるための闘争の前進にとって、まずもって、太田=パブロ派のセクト主義と、その根拠である親スターリン主義的立場(「スターリン主義の革命性と反動性の二重的役割」)との非妥協的闘争が必要であったのである。
 かくして、わが探究派は、全学連的な左翼スターリン主義と太田的なトロッキー絶対主義との二っの戦線での闘争をつうじ、一九五八年春には、日共の内外に左翼反対派の拠点を設定することに一応の成果をおさめたのであった。革命的マルクス主義の立場にたつ中核的グループの確立とその活動は、ただたんに学生戦線にとどまらず、労働者階級のもっとも革命的な翼のなかにその本来の分野をきりひらきつつあった。革命的共産主義者同盟の組織的実体構成は、明らかに、その初期の段階にぬぐいえなかった小ブル学者集団的な傾向を実践的に突破すべき主体的条件を成熟せしめつっあった。こうした運動の主体的前進こそ、じつに、同盟内における太田=西的傾向との闘争において探究派が圧倒的に勝利した主体的条件であったのである。革共同第一次分裂(五八年七月)は、まさに、トロッキー絶対主義(パブロ修正主義)にたいする理論闘争の勝利の結果であったことはいうまでもないが、同時に、一年にわたる探究派の組織的実践の前進を基礎にしてのみなしとげられたのである。
 いまや、日本革命的共産主義運動は、労働者階級の深部で胎動を開始した労働者グループの闘争に立脚しつつ、六・一事件を契機として急展開をみせはじめたスターリニスト学生戦線の分解過程に積極的に介入し、こうした闘争の一定の前進を基礎に、探究派を独立した政治的部隊に再組織し、日本階級闘争の渦中にその革命的旗幟を高々とかかげるべき任務を日程にのぼらせていたのであった。
 だが、まさに、このような決定的任務をまえにして日本革命的共産主義運動は、その内部にかかえていた思想的不徹底性と政治的未成熟性を全面的に露呈させたのであった。すなわち、探究派政治指導部は、太田派(トロッキー絶対主義者)との分派闘争において圧倒的勝利を収めたにもかかわらず、その政治的路線と組織戦術をめぐって深刻な内部的動揺を生みだし、その結果として組織的解体状況におちいってしまったのである。かくして、探究派は、事実上、政治指導部の解体した状況のもとに、共産主義者同盟の成立にいたる約三ヵ月の決定的期間をすごし、諸分野における闘争は、個々の同志の孤立した指導のもとにゆだねられていたのである。
 探究派政治指導部の危機は、直接的には、いわゆる大衆運動にかんする組織戦術をめぐってあらわれた。政治的指導部の事実上の責任者であり、唯一の専従者でありながら、革共同第一次分裂のあと、奇怪にも、指導部の活動を放棄し、太田派(トロツキスト同志会)との野合を謀っていた遠山は、隠然と、労働者国家(ソ連)無条件擁護のスローガンの正当性について語りはじめ、十月はじめになって、破廉恥にも「大衆闘争の方針を明らかにせよ」という要求をもちだしたのであった。本来、自分が責任をもつべき政治方針を他の同志に要求するという非主体性、革命的マルクス主義からパブロ修正主義(親スターリン主義)への逆転にたいし、ただちに反撃の分派闘争は組織され、激烈な討論をつうじて遠山は完全に孤立化し、わが戦列から追放された。遠山の政治的裏切り、その理論的誤謬について、いまさら説明するまでのこともないであろう。だが、むしろ、問題は、つぎの点にかかわっていたのである。
 すなわち、政治指導部の再武装である。なぜならば、遠山問題というかたちで露呈した探究派政治指導部の内部的動揺は、とりもなおさず、自分自身がつくりだした日本スターリン主義運動の分解の深刻化、その一表現としての学生運動の「左傾化」にたいし、自分自身がたちおくれる、という、日本革命的共産主義運動の危機――政治的未熟性の疎外された表現であったからである。日共七回大会後、勤評闘争,警職法闘争の激化とともにますます深刻化しつつある学生党員と日共中央との対立、合同反対派としての全学連フラクの全国的結成、という、反スターリン主義運動の新しい局面に直面して、遠山は、綱領的立脚点を明確化しつつ、自己の主体的力量にふまえてその政治的路線を創造的に実現していくという苦闘のかわりに、太田派のできあいの「実践的方針」? にとびつくことによって、われわれの組織的闘争を、大衆闘争を「左傾化」するための圧力団体化するところの太田式ビラまき闘争に矮小化しようとしたのである。それゆえ、遠山問題の真の実践的解決は、遠山のパブロ修正主義への逆転を理論的に爆砕するのみならず、遠山的偏向の発生する政治的条件であった政治指導部の非組織性と観念性を打破し、わが戦列にまざれこんだ小ブル的同伴者グループ(西田一派)を打倒しつつ、階級闘争の熾烈な試練に耐えぬきうる政治指導部をみずからの力でつくりだすことでなければならなかったのである。
 すでにみたように、遠山的傾向は、その端初的な段階において爆砕された。だが、こうした闘争の過程において、逆に、「大衆闘争の方針なぞ必要ではない。そんなものは、全学連にまかせておけばいいのだ」という裏返しの誤謬が生みだされたのである。それはまさに、克服すべきものまで擁護するという意味では、克服するために立脚点を放棄した遠山の非主体性と同一の思想的根拠をもっていたのである。
 もちろん、このような見解を直接に支持するものは少なかった。にも.かかわらず、同志青山(到)によって強力に主張されたこのような思想は、根底的批判にさらされぬままに生きのこり、探究派政治指導部のたちおくれを慰める子守り歌の役割をはたしたのである。自己の組織的主体性をぬきに、大衆闘争の方針と称するものを「外部」からビラ入れする太田式の組織戦術にたいする直接的反発の結果とはいえ、党のための闘争と大衆闘争とのこのような二元論化は、現実的には、解党主義への転落の政治的条件をかたちどるのである。なぜなら、このような二元論にたつならば、政治指導部は現実の階級闘争から昇天してしまうばかりでなく、大衆とともにある一般同盟員を大衆運動に支配的な政治グループの末尾にむすびつけることになってしまうからである。事実、探究派を代表して全学連フラクとの政治的折衝にあたっていた同志青山(到)は、皮肉にも、全学連的政治家との野合を深めつつ「個人的トラブル」を口実にわが戦列から無原則的逃亡を謀り、かくして、探究派政治指導部の解体的危機を決定的なものにしたのである。
 たしかに、われわれが、太田派や西派の第四インターナショナル絶対主義に反対し、スターリン主義運動の内外で合同反対派を組織し、スターリン主義運動の現実的解体のために闘争したことは、まったく正しかったといえるであろう。だが、このような闘争の一定の進展は、スターリン主義運動の分解過程と革命的共産主義運動の創成過程の力学的関係にかんする、われわれ自身の把握の思想的不徹底性をも、きびしくうつしだしたのである。まさに、この力学的関係を隠蔽し、スターリン主義運動と革命的共産主義運動との基本的な断絶を量的(戦術的)差異の問題にすりかえたところに共産主義者同盟創成者たちの自己欺瞞があった。そして、また、このような自己欺瞞を許した決定的要因こそ、探究派政治指導部の解体的危機にあったのである。
 しかしながら、このことの裏返しとして、われわれがきちんと活動していたら学生左翼(共産主義者同盟)のヘゲモニーは探究派のもとにあったであろう、とわれわれは主張しようとも思わないし、また、今日になってそう″批判″する人の立場を認めるわけにもいかないのである。なぜならば、このような立場は、政治的力学をあまりにも一面化するものにすぎないからであり、五八年暮に日本学生戦線がかかえていた複雑化した思想的、政治的状況を単純化するものにほかならないからである。
 問題はまさにつぎの点にあったのすある。すなわち、第四インターナショナルの問題をめぐって、また、反帝・反スターリン主義戦略をめぐって、ブントと西分派とのあいだできわめて歪曲された形態でおこなわれた論争にたいし、われわれが、組織的統一をもって明確に自己の立場をうちだしていたならば、その力量がどんなに弱かったとしても、事態は革命的な政治地図をえがきながら再編の方向をきりひらいたであろう、ということである。しかも、Oと西とのあいだでおこなわれた無原則な西分派と探究派との協商、西分派のヘゲモニーによる革共同の「再建」は、明らかに、こうした過程をさらに深刻化させたのである。
 かくして、事実上、当時の政治指導部を構成していた中心的メンバーのあいつぐ逃亡と非組織的とりひきによって、われわれは、激流のなかに指導部もなしにほうりだされ、探究派の再結集という緊急の任務を達成するために、われわれは、半年ものあいだ、最悪の条件のもとに手さぐりで進まねばならなかったのである。
 現実の階級闘争のなかで苦闘する同志との真に革命的交通をもった政治指導部の決定的意義、党内闘争の自由を否定しない確固とした行動の統一の必要性を、このときほど深く痛感したことはかってなかったのである。そして、このことは、同時に、統一戦線とその主体たるべき党(同盟)の問題を鋭く照らしださずにはおかなかったのである。
 
    (未完)
    (『共産主義者』四号、五号、一九六一年九月、六二年一月 に掲載)