革命的共産主義運動の歴史について
 
 本講演は、一九七二年十一月四日、全学連講演集会でおこなわれたものである。狭山闘争、相模原基地闘争のまっただなかで開かれたこの集会で、本多書記長は、黒田寛一の創成期からの度しがたい小ブル自由主義をあばきだし、二重対峙・対カクマル戦争の戦略的意義を徹底的に明らかにするために、それをわが同盟の最高の到達点として総括するという講演をおこない、すべての学生に深い感銘を与えたのである。
 
 
 はじめに
 第一章 革命的共産主義運動の創成
 第二章 創成期における内部闘争
 一トロッキー教条主義との闘争/二 六〇年ブントの問題性/三 黒田寛一=小ブル自由主義とのたたかい
 第三章 六二年三全総の革命的意義
 第四章 黒田=カクマルの分裂と脱落
 第五章 同盟第三回大会は十・八羽田→十一月決戦の跳躍台
 第六章 「第一の十一月」の巨大な意義
 第七章 七〇年七・七自己批判の深化のために
 第八章 「第二の十一月」の偉大な勝利
 第九章 二重対峙・対カクマル戦争について
 第一〇章 内乱・内戦、蜂起の思想
 
 
 はじめに
 
 狭山闘争の勝利のために、そしてまた革命的な基地闘争の勝利のために、十一月政治決戦に結集されようとしている全学連の学生諸君にたいして、心から連帯のあいさつをおこないます。
 わたしは、本日は、革命的共産主義運動が今日までどのような歩みをつづけてきたのかという問題について、これを概略的に確認し、このなかでわれわれが教訓としてなにをつかみとり、つぎにいかなる方向にむかって前進しなければならないかという問題について、若干話をさせていただきたいと思います。
 皆さんもご承知のとおり、今日、革命的共産主義運動という名前を名のっている二つの運動の流れがあります。ひとつはわれわれのように反帝国主義・反スターリン主義の旗をかかげて、文字どおりこれを実現するためにたたかっている流れであります。もうひとつは、反帝国主義・反スターリン主義の旗をかかげながら、反帝国主義・反スターリン主義のたたかいに敵対し、これを権力と一体となってぶちこわすために、この旗印をかかげている流れであります。われわれは、このような二つの運動の流れがいかなる歴史的な流れのなかにおいて形成され、そしてこの二つのたたかいがいかに非妥協的なものであり、いかに絶対的なたたかいであるかということについて、きょうは確認したいと思います。
 いいかえますと、このような二つの流れの形成とその闘争について、ブル新や一部の小ブル的評論家たちは、両者のあいだに個人的ないさかいが生じたからだとか、近親憎悪のあらわれだとかいうくだらない理解をまきちらしておりますが、しかしながら、われわれは、歴史の過去を、歴史の現在を、歴史の未来を、しっかりつかみとるならば、そのようなブルジョアジーによってなげかけられている誤解が、まったく根も葉もないものだ、とはっきりつかむことができるだろう、と思うのです。わたしは、このことをこれから話してみたいと思う。
 
 第一章 革命的共産主義運動の創成
 
 第一の問題は、われわれの運動は、スターリン主義運動にたいする革命的共産主義者の自覚と反乱の歴史として、まずはじまったということであります。そして、このようなわれわれのたたかいは、帝国主義、スターリン主義との革命的な労働者人民の絶えることのないたたかいのなかで前進してきた。このところの意味を、まずはっきり最初に確認しておきたいと思います。
 まず最初に、ひとつの歴史的事件の意義を明らかにしておきたい。いまから一七年ぐらいまえになりますけれども、日本共産党がいわゆる六全協(日本共産党第六回全国協議会)というのを、一九五五年の七月に開きました。そうしてそのときに、日本共産党は重大な二つの決定を発表しました。
 すなわち、第一点としては、五一年十月の五全協で決定された日本共産党の綱領、「国民の当面する要求」という綱領について、基本的な見地は正しかったけれども、しかしながらこれを実践していく過程においては戦術的な誤りがあったということ、第二点としては、一九五〇年において日本共産党が、国際派と所感派に分裂したけれども、この分裂は適当ではなかった、党はただちに統一しなければならない、だいたいこういう趣旨のものです。
 その問題は六全協決議のまとめからはっきりしておりますように、日本共産党の戦後一〇年間の歴史、戦後革命を裏切りつづけた日本共産党の歴史を根本的に自己批判するものではなくして、過去における日本共産党の二段階戦略と、それにもとづく平和革命とナンセンスな軍事路線のジグザグをごまかし、二段階革命論と人民戦線戦術との独自の結合の道を準備し、そしてまた、日本共産党指導部の動揺を利用して官僚的な統一をつくりだすための、宮本顕治によってつくりだされた運動にほかならなかった。
 しかしながらわれわれは、第六回全国協議会とそれをめぐる党内闘争の過程をとおして、このような日本共産党のまやかしの総括ではなしに、逆に戦後一〇年間(一九四五年〜五五年までの一〇年間)における日本共産党の活動を、徹底的に自己批判的に総括することをとおして、日本共産党の戦後一〇年間の裏切りの歴史を、根本的にとらえかえし、それを根底的にうちやぶっていくようなたたかいの理論、たたかいの方向、たたかいの組織、そういうものをつくりあげていかなければならない。このことを深刻に自覚する歴史的契機を、五五年の六全協は、われわれに与えてくれたのであります。
 そうしてさらにそれは、一九五六年の二月において、ソ連共産党二〇回党大会があり、ここにおいて、フルシチョフおよびミコヤンによってスターリン批判がおこなわれました。もちろん、これは非常にまやかし的批判であります。つまり、スターリンによる誤ちの根本的問題である一国社会主義論と平和共存政策との問題を、根本的に批判し、そこから脱却していく世界革命の構想を模索するのではなしに、いっさいの誤謬を、スターリン個人におしつけることによって生きのびようとする官僚の政策であったことは明らかであります。
 しかしながら、ともかくソ連の数人の指導者によって、これまでまったく誤りを犯したことがないと信じられてきたところのスターリンの誤謬なるものが、あばきだされてきたのですから大変です。われわれは、ソ連共産党二〇回大会におけるスターリン批判をきっかけに、共産主義運動の歴史を検討することになりますが、そうすると日本共産党六全協によってつきつけられた問題が、ただ日本的な問題ではないということがしだいに明らかになってきた。これはつまり、中国共産党やソ連共産党を先頭とする全世界の共産主義の運動、公認の共産主義運動といわれるものの共通の問題があばきだされつつあることをはっきりつかみとったわけです。
 さらに一九五六年の十月から十一月にかけて、東ヨーロッパのハンガリアのプロレタリアートが、都市を中心として全国的に武装決起し、スターリン主義者と軍事的な戦闘をまじえて、自己解放のたたかいを開始するという偉大な事件がおきました。
 われわれは、このたたかいを当時複雑な気持でうけとめたわけです。われわれは、日本において日本共産党やソ連共産党の誤りについて、批判的な検討を深めつつありましたけれども、しかし同時に、まだソ連が社会主義であり、東ヨーロッパが社会主義であり、中国が社会主義であるというこの究極的な了解からまだ解放されていなかった。
 ところが、ハンガリアにおいて共産党政権にたいして、プロレタリアートが暴力革命と武装蜂起をもって反乱を開始した。このハンガリアのプロレタリアートのたたかいにたいして、ハンガリアの反革命スターリン主義勢力はもとより、ソ連や中国の公認の共産党が、こぞってこの官僚の反革命に加担し、これと一体となって、プロレタリアートの革命的な反乱を鎮圧するために動員された。この事実をしっかりつかみとったならば、われわれは、このような公認の共産党、公認の国際共産主義運動からはっきり分離して、あらたな革命的な運動を開始しなければならないことを、はっきり自覚するにいたったのであります。
 われわれは、このような自覚にもとづいて、一方では国際共産主義運動の歴史の理論的、運動的な総括、そうしてまた、日本における革命運動の総括、こういうものにはっきりとふまえながら、同時に、われわれは、日々の日本の階級闘争の内部にあって、総じていえば核実験に反対する闘争、あるいは勤評に反対する闘争、あるいは国鉄労働者を中心として展開された反動化にたいするたたかい、こうした日々のたたかいと結びつき、われわれが端初的につかみつつあったものを、ひとつひとつ帝国主義者にたたきつけながら、同時にそのようなわれわれのたたかいにふまえて、このようなわれわれのたたかいをゆがめているもの、このようなわれわれのたたかいをおしとどめているもの、こういうものをうちやぶるためのたたかいにたちあがらなければならない、ということを自覚していったわけです。
 こうしたなかで、われわれは、今日の共産主義運動といわれているものが、じつは共産主義の運動、レーニンによってはじめられた世界革命の運動ではなしに、そのスターリン主義的に歪曲されたかたち、スターリン主義的に歪曲された形態にはかならないということを、はっきりと自覚したのであります。こうして反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略をかかげた全世界的なプロレタリア運動、その中核としてのあらたな前衛党の建設に着手し、帝国主義者、スターリン主義者との継続的なたたかいをとおして、みずからの戦列をうちかため、みずからの党をうちかためていく、そのようなたたかいに勝利することなしには、今日における世界革命の危機は、けっして解決されることはないのだ、という結論にわれわれは到達したのであります。
 このように申しますと、はなはだかんたんなように思うかもしれません。しかしながら、有名な言葉にコロンブスの卵というものがあります。われわれの出発点は、まさにコロンブスの卵であったわけです。
 われわれは、このようなひとつの確認、あるいは自覚に到達したのでありますが、そのとき、この課題がじつに前途悠久のものであるということを正直いって考えざるをえなかったのであります。
 ここでひとつ個人的な経験を述べることをゆるしていただきたい。
 その当時わたしは、すでに共産党に入って八年め、民青に入って一二年めでした。わたしの父親は、全逓労働者ですが、わたしが共産党に入るまでは自民党を支持していて、かなり苦心してオルグして、ようやく共産党に投票するようになったわけです。ところが、自分が革命的共産主義運動の創成に参加し、共産党を根底的に否定する立場にたったわけですが、いつ、どのようにしておやじに話そうかともじもじして考えていた。たまたま帰りの電車のなかで会いましたから、駅から家までの二〇分くらいの帰りみちで、一生懸命話をしたのです。
 「野坂参三もやはりダメだなあ」と話しはじめると、おやじはキッとなって、「なんでいけないんだ」というふうに反発してくるのです。それから二〇分くらい、いかに野坂参三がダメかということ、つまりほんとうに革命をやる立場から話しているんだ、考えているんだ、といろいろ話しましたが、そのときおやじがいったせりふが、「お前が話していることはちょっと荒唐無稽だ。お前の考えに賛成するような人は、一人もいないんじゃないか」と。
 当時、五七年ごろは、そのくらいスターリン主義党の精神的権威が絶大であったわけです。党員の人数という点からいうと、今日よりもはるかに少なかったわけですが、その精神的権威たるや、いまの若い諸君がまったく想像もつかないほどのものでありました。もし大学のキャンパスにおいて、党という言葉を聞いたら、それはかならず共産党をさすわけです。細胞という言葉を聞いたら、それはかならず日本共産党○○大学細胞というのが当時の常識だったわけです。ですから反動教授といえども、もうみんなふくめ、共産党に賛成する人も反対する人も、党に問題があるといういい方をする、ないしは党を支持するといういい方をする。この場合は自民党でもない、社会党でもない、もとより公明党や民社党ではなかったんです。こういう状況のなかでは、明白に党とは、共産党以外のなにものもささなかった。そしてその共産党の戦列に参加することが、革命の戦列に参加することであり、共産党の戦列をはなれることが、革命を裏切っていくことである。これが当時のわれわれを深くとらえていた考え方であったのであります。
 われわれは、こういう状況のなかで、なおかつこのような強大な権威と勢力をもった日本共産党を内側からもたたかい、外側からもたたかってうちやぶっていく、そうして新しい反帝国主義・反スターリン主義の路線と革命戦略とそれにもとづく独自の党建設をすすめていくということ、それはじつに大変な仕事だということを当時考えざるをえなかった。
 しかしながら、もとよりわれわれは、一人ひとりをとってみればまだ非常に弱い、まだほんとうに未熟な力でしたけれども、しかしこのようなたたかいをやりとげることなしに、われわれの前進はありえないという唯一の確信、自分の心のなかにあるその魂の叫びしかわれわれが対置することはできない、この状態からわれわれのたたかいがはじまったわけです。
 ですからわれわれが、まだわたしが当時は学生でしたから、労働組合なんかにオルグしにいく、「自分は、革共同の一員だ」ということをいう。
 むこうは、革共同なんて聞いたことがない。「反帝・反スターリン主義、これいったいなんだ」「だいたいお前はどういう組織からオルグにきたのか」「革共同だなんて地上に存在する真実のあかしがない」などという。かつて埼玉県のある悪い自民党の親玉が汚職問題をおこしたのちに、「悪名は無名に勝る」という名言をはきましたけれども、われわれの当時の状態はまったく無名だったわけです。
 われわれは、このような状態のなかで、たたかいをやらなければならないことを決意したわけです。この叫び、どんな状態のなかでも、われわれはこの道をすすまなければならないというふうに確信したら、その道を断固としてつきすすんでいく、これが革命的共産主義運動のなかでわれわれが最初につかみとった真実である、ということをまず諸君たちに申しあげたいと思います。
 
 第二章 創成期における内部闘争
 
 二番目の問題は、われわれがこのような決意にもとづいて、党建設の最初の非常に苦しいたたかいを、一九五七年の段階から六二年の段階にいたっておしすすめた。このようなわれわれのたたかいのなかで、今日カクマルと称している反革命勢力の諸君との決定的な分裂が開始され、そして、そのような諸君との非和解的なたたかいがはじまったのだ、ということをつぎに申しあげたいと思います。
 ご承知のとおり、われわれ革命的共産主義者同盟は、一九五七年の暮に組織されたのであります。それ以前のいわゆるトロッキー主義を信奉する諸君の牛耳っていた、いわゆるトロツキスト連盟というものがありましたけれども、これをわれわれは、このようなトロツキスト連盟というようなドグマチックなものではなしに、真に今日において、革命的共産主義運動を全世界的につくりあげるそのようなたたかいと、そのようなたたかいをすすめていく人びとの結集体でなければならない、という重大な決意をこめて、革命的共産主義者同盟を結成しました。ところがこのようなわれわれのたたかいは、ただちにつぎの三つの点について、大きく問題にぶちあたったわけです。
 
 一トロッキー教条主義との闘争
 
 第一の問題は、今日、第四インターナショナルと称している諸君たちの、トロッキー教条主義との闘争にまずぶつからざるをえなかった、ということです。
 まず、当時運動をやっていた関西の西氏であるとか岡谷氏とかは、今日すでに運動から脱落しています。またかつて第四インターナショナルのドグマチズムの基本とでもいわれる位置にいた太田竜=栗原登一は、今日では映画評論でその才能をたっぷり示している。現在の四トロなんていうのは、十数年も前に破産したにもかかわらず、それに無自覚に運動をやっている集団なのです。
 われわれは、まずこういう諸君とぶつからざるをえなかった。これらの諸君がいうのは、スターリンがまちがっているというなら、トロッキーが正しいということになるのだ、したがって、スターリン主義を否定するということは、当然トロッキー主義の立場にたたなければならない、そうして、トロッキーの立場にたつということは、とりもなおさずトロッキーによって創立された第四インターナショナルの路線を、絶対的に支持することになるのだ、これがかれらの主張だったわけです。
 このようなかれらの主張にたいして、われわれは、トロッキー、トロッキー主義にたいしてこれを反革命と規定した過去におけるスターリン主義者の誤ち、われわれ自身もその一端をかついでいたわけでありますけれども、このようなわれわれ自身のトロッキー主義にたいする誤った評価を根本的にぶちやぶって、トロッキーのたたかいを、レーニンによってはじめられた世界革命のたたかいの基本的な継承としてつかみとっていくことは、もとより大切でありますけれども、しかしこのようなわれわれのトロッキー主義にたいする態度は、けっしてトロッキーのドグマチズムを、教条主義的にわれわれのなかにもちこんだり、あるいは第四インターナショナルがかかげている「反帝・労働者国家無条件擁護」というスローガンを、われわれに直接もちこむということをけっして意味するものではない。
 そのことをわれわれは、レーニン主義の立場に基本的に立脚しながら、このトロッキーの理論の内部に存在している、トロッキーがスターリンとのたたかいのなかで秘めていた、あくまで世界革命の方向を実現しようとしたそのたたかいの意義を評価しながら、同時に、スターリン主義との闘争において示されたところのかれの限界、さらにレーニンの理論、とくに党組織論、帝国主義論、民族理論、農業理論を正しく把握し、継承できなかったトロッキーや第四インターナショナルの弱さ、そして第四インターナショナルの三〇年の歴史のもっている問題点、そういったものをわれわれがしっかりつかみとって、そうしてほんとうに全世界的な革命に推進していくようなわれわれの理論をつくりださなければならない、それがひとつのたたかいであったわけです。
 そうしてこのようなたたかいは、一九五八年の夏における革共同第一次分裂、つまり太田竜との分裂であります。それからつぎの年の一九五九年の夏における革共同第二次分裂、つまり西、岡谷のいわゆる当時、関西派ないしは西派といわれていた諸君(たち)との分裂、この二つの過程をとおして、われわれは勝ちぬいてきたわけです。
 正直に思いますと、当時、西派の勢力というのは、日本の学生運動のなかではかなりの勢力をもっていたわけです。一九五八年の暮におこなわれた全学連大会では、塩川喜信委員長をはじめとして中央執行委員会の多数を占めるほど勢力をもっていた。かたや、のちにわれわれ、革共同全国委員会に結集してくる勢力というのは、早稲田大学と法政大学と九州の熊本大学にせいぜい数十名がいるというふうな状態だったわけです。
 こういう競争のなかで数かずのたたかいをやって、一九六〇年、いわゆる六〇年安保闘争の過程をとおして、その力関係を、文字どおり逆転させて、かれらを歴史の遺物といわせるほどまでわれわれは情勢をきりひらくことに成功したわけです。これが第一の問題であります。
 
 二 六〇年ブントの問題性
 
 それから第二の問題は、六〇年安保闘争において熾烈にたたかわれたところの、当時の安保ブントといわれる諸君たちとの闘争、また日本共産党の内部にあって、あるいは外部にあって、つまり日本共産党の内外にあって、その影響下にありながら、しだいしだいにわれわれのたたかいに触発されて、日本共産党の路線からはなれ、新しい革命的な方向をたどろうとしていた諸君たちとの問題、こういうかたちをとおして、われわれの二番目のたたかいが開始されたわけです。
 ここにおけるもっとも大きな思想上の問題は、どういう点にあったのかというと、過去における日本共産党の運動、過去におけるスターリン主義の運動、こういったものがもっている根本的な問題をはっきりつかみとっていく、そのことの根本的な断絶のうえにたって、スターリン主義からはっきり自己を分離したうえで、自分自身の運動の基軸をはっきりつくりだしていくことであったのであります。
 ところがややもすると、この五八年から六〇年の過程のなかで、日本共産党から分離してきた多くの流れは、このようなスターリン主義との根底的な対決ではなしに、スターリン主義が、当時もっていたさまざまな右翼的な傾向、戦術右翼的な傾向にたいして、戦術左翼的な傾向を対置して、このたたかいの衝撃のもっている直接の延線長上に、新しい運動をつくりだそうとするような、そういう傾向として現われようとしていた。これがもっとも党的なかたちにおいてはっきりした姿をとったのは、いわゆる六〇年安保ブントといわれたものです。
 安保ブントは、一方においては、われわれの反帝・反スターリン主義の運動に強力な影響をうけて、はっきりと日本共産党から分離した反スターリン主義の運動をつくりださなければいけないということを、その出発の根拠において確認して出発したわけです。そうして、そういう状況のなかで、日本共産党の平和革命の理論や平和共存の理論というものを批判して、新しい革命的な理論、プロレタリア世界革命と暴力革命の基本路線に立脚した運動をつくりださなければならない、そういう革命的な決意にもえて出発しましたし、またそのような決意を示す大きなたたかいを、この六〇年安保闘争をヤマとしていくたびか展開したわけです。
 われわれは、このような六〇年安保ブントによってたたかわれた巨大な大衆運動の経験、長大な実践のもっている意味を、いささかなりとも過小評価してはならないということを、わたしは正直にいって申しあげたいと思います。
 しかしながら同時に、われわれはこのような状況のなかで同時に確認しておかなければならないことは、このような革命的な結論をひとまずもって、ブントは出発したにもかかわらず、その後一年間のたたかいのなかで、しだいしだいに日本共産党の戦術右翼的な傾向にたいして、戦術左翼的な傾向を対置して、その直接的な衝撃性のもとに新しい革命運動をつくりだせるかのような、そういった誤った傾向にブントの内部がしだいに支配的になってきて、そして最後の段階においては、それ自身、自分自身のたたかいとしてきりひらいていく、そういう理論を、喪失していってしまった。こういう問題を当時示していたわけです。ですから、あの六〇年安保闘争が偉大なたかまりを見せたにもかかわらず、それが帝国主義者の方向転換と、日本の既成の運動の裏切りのなかで敗北していった、そういう状況のなかにあって、その敗北の意味をはっきり総括して、この敗北から学びとって、われわれの前進的な方向をきりひらいていく、こういうたたかいをこの六〇年安保ブントは、みずからの力においてなしとげることができずに、六〇年秋における党内闘争をとおして、三つの分派に分解していってしまったわけです。
 われわれは、このような六〇年安保ブントのたたかいのもっている意味をはっきり総括し、そして、われわれはいかにたたかわなければならないのか、われわれはたたかいのなかからいかに学ばなければいけないか、われわれは敗北から学び、勝利から学び、いかに前進しなければならないのかということを、この六〇年の苦闘をとおしてつかみとる最初の経験をもった。そうしてこのたたかいのなかで、この六〇年安保ブントに結集していた多くの革命的な同志諸君が、わが党の戦列に勇気をもって結集して、新しい革命的共産主義者の運動の地平をきりひらく実際的な根拠をつくりだしていくようになった、とわたしは申しあげたい。
 
 三 黒田寛一=小ブル自由主義とのたたかい
 
 第三の問題としては、このような第四インターナショナル、いわゆるトロッキー教条主義との闘争の問題、それから六〇年安保ブントならびにそれに色こく刻印されていたところの左翼スターリン主義との闘争とならんで、われわれは、第三の闘争をこの党内においてはっきりと遂行しなければならなかった。
 それはなにかというふうにいうならば、黒田によって代表されているところの、われわれの運動を、小ブル自由主義の方向に変えさせようとするサークル主義的傾向との闘争であった、ということを、わたしは、はっきり申しあげたいと思います。
 たとえば、今日、黒田は、自分の過去を美化し、あたかも自分が一つも誤ちをおかさない歴史をとおしてきたかのような神話をつくりだそうとしている。
 われわれは、過去における問題について、もはやこのような過去の問題を検討している時期ではなくて、ほんとうに自分自身の思想をかけて新しい路線をきりひらくために、六七年十・八羽田闘争以来全力をあげてやりとおしてきた。したがって、こういった問題についてわれわれはほとんど語る余裕をもたないときに、それをいいことにして、ありとあらゆるデマゴギーを黒田はふりまいている。わたしはここで、この黒田のデマゴギーを全面的に粉砕しつくすために、まず一九五八年の段階において、かれはいったいなにをしていたのかということをここで申しあげたい。
 さきほどわたしは、五八年の夏に、革共同第一次分裂において太田が逃亡し、われわれが勝利したといった。ところがわれわれは、勝利したにもかかわらず、このきりひらかれた勝利をわれわれの手に握りしめることができず、そしてさらに学生戦線の大きな潮流が左に左にむかって流れつつあるときに、このような傾向をわが同盟のもとに結集することができずに、五八年の暮、十二月一〇日に、六〇年安保ブントの結成というかたちをとって、中間的に固定することを許してしまった。そしてさらに、その後の西派の闘争においても、大きな決定的な現実を、われわれはつきつけられていった。
 ようやく一九五九年の夏の革共同第二次分裂において、われわれはふたたび党的な結集に成功する、という苦しいたたかいを、五八年から五九年にかけて約一年以上にもわたってつづけなければならなかった。そのような問題はいったいどこからでてきたのかを、わたしは、はっきり正直に申しあげたいと思います。
 たとえば、こういう問題があります。五八年の夏の二回大会において、これまでつづいていたわれわれの党の機関紙(『世界革命』)を、われわれは、太田竜を編集局からリコールして、黒田の責任のもとに新聞を発行するという体制をとりました。そして黒田を中心として新しい書記局をつくるということをやりました。
 ところが諸君、このあとでどういう事態が生じたか。一九五八年の六月からそれ以後一年のあいだに、われわれの手によって発行された新聞はひとつもないのです。それが当時の非常に苦しいわれわれの状態であったわけです。つまり太田を追放し、そのあと編集権を握った、そこまではいいのだけれども、そのあと新聞が全然出ない、そしてわれわれが機関紙というものをもつようにいたったのは、五九年夏の第二次分裂、つまり革共同全国委員会が創設されて、そこで『前進』という新聞がはじめて発行され、政治機関紙というものを、われわれははじめて手にしたわけです。こういう事実を、かれは、まったく口を閉ざして語ろうとしない。
 こうしてあたかも五八年の秋における敗北、五九年春における敗北、このすべての問題が、あたかも他の誰かの個人的な闘志の問題であるかのような、ありとあらゆるデマゴギーを、なげかけているわけです。これがひとつの重大な問題であります。
 それからさらについでだから申しあげます。五八年の暮に、黒田は、関西の西京司にこういう手紙を送っています。
 「自分は政治的無能力であるということが、この半年間の実践において証明された。したがって自分はこんごは一切政治活動を引退して、今後は研究活動に励む」これです。
 この手紙はまだわれわれによって管理されております。わたしはこの事実を公開の席上で明らかにすることは、きょうがはじめてであります。
 わたしは、諸君たちに事実を提起して、教訓をつかみとってほしいと思う。そうした状態のなかで、一九五九年をわれわれは迎えた。この年はどういう年かといいますと、すでに日本の帝国主義支配階級が、六〇年安保改定にむかって、つぎつぎと攻撃をしかけてき、そして三池を中心として、ものすごい合理化攻撃が加えられてきて、日本の階級闘争の帰趨をにぎるきびしい対決が、きりひらかれようとしていた時点であります。
 日本の帝国主義者は、当時こういっていた。「過去の一五年間は、つまり一九四五年から六〇年までの一五年間は、労働者の時代であった。これからの一五年間は、われわれ自民党、保守勢力の時代にならなければいけない」と公然と豪語して、それにむかってのさまざまな攻撃をかけてきた。こういうきびしい情勢のなかにあったわけです。このときにわれわれは、一方では機関紙が出ない、一方ではその首領と仰いでいた黒田が、政治的引退声明を誰一人として相談することなしに一人で勝手にやってのけ、そうしていっさいの政治生活から引退してしまった。
 こうした状況のなかで、なおかつちりぢりになりつつある力を結集して、新しい党をつくるというわれわれの決意を、なんとしても物質化しなければならないというたたかいを開始したわけです。そのときにかれは、いわば著述家としての道を歩もうと決意し、そうしてわれわれの組織を、すべてサークル組織に、研究組織にきりかえるというさまざまな攻撃を加えてきたわけです。
 こういう黒田の度しがたい小ブル著述家としての卑劣な態度と、われわれはたたかいぬくなかで、はじめて一九五九年の第二次分裂、いわゆる全国委員会の結成というたたかいを、きわめて困難ななかで学生の同志、労働者の同志、知識人の同志と力をあわせてようやくきりひらいていったんだということをお考え願いたいと思います。
 ちょうどこの逃亡の期間に、黒田はつぎのようなパンフレットを発刊しています。「レーニン『国家と革命』への疑問」です。この文章の要約はすでにのべる必要もないと思いますが、たとえば、国家というものがもっている暴力的な行為をことごとく否定して、そうしてマルクスの国家論は、幻想的共同性であるという規定を、小ブル自由主義的な方向におしまげて理解し、あるいは、国家の粉砕といったまではいいけれども、それがけっして、プロレタリアートの革命的暴力によってブルジョアジーを打倒し、プロレタリアート独裁権力を樹立するといった内容ではなしに、協会派=向坂派以下の社民型革命論であり、武装闘争が長期化するならば、かならず敗北するという内乱・内戦、蜂起にたいする右翼的な否定的見解を、恥ずかしげもなく述べたてているのであります。われわれはこのような内容の文章だから、この雑文を党の文章としては認めない、われわれの運動の文章としては認めようとはしなかった。これが真実であるわけです。
 さらにもうひとつの文章があります。まだ公表されておりませんけれども、五七年夏に開かれた革共同大会において、黒田の個人の名において出された「革共同――M綱領草案」であります。
 Mというのは、当時、黒田は「緑川」というペンネームを使っていたからMという字をつかったわけです。それを後日われわれは、資料として全国の革命的な同志諸君におみせしたいと思いますけれど、この文章の根本は、「日本はアメリカ帝国主義に従属している。そしてこのようなアメ帝の従属にたいしてアメリカ占領軍の撤退をはじめとするたたかいをきりひらいていくなかで日本革命の前進はあるのだ」ということを主張しているわけです。
 われわれは当時、すでに、日本共産党の内部にあって、このような日本共産党の従属規定にたいして、のちにわれわれが日米安保同盟規定としてまとめあげるような方向にそって、さまざまな理論的闘争をくりひろげていったわけでありますけれども、このようなわれわれのたたかいにたいして、まったく低水準な次元に低迷していた黒田寛一は、探究派(RMG)のフラクションの内部討議にかけることを回避し、西分派(トロッキー教条主義者)と同席した大会の席上、突然M草案を提出したのであります。そしてこれは、じつは当時のわれわれのトロッキー教条主義との闘争、あるいは左翼スターリン主義との闘争において、きわめて大きな困難と障害をもたらした以外のなんの役割も演じていないのです。
 結局われわれは、同盟内部にあっては、そのような「M綱領草案」は討議資料としての意義も存在しないということを、この年の十月に黒田もふくめて確認して、これ以後われわれの党内のいっさいの文章、資料からこれを排除する措置をとったのです。
 このような事実についても、かれは、依然として沈黙を守っている。しかしやがてかれは今日において、日本帝国主義が、アメリカ帝国主義の極東軍事戦略に従属してベトナム戦争にひきこまれていく、などといっているわけですから、そのうち「やはり、アメ帝に日本が従属していた、という一三年前のわたしの綱領は正しかったんだ」なんていうことをいって、また資料としてかれの手によって発行されるかもしれない。そしてわれわれによって、それにたいする非難と弾劾が開始されると、「あれは一三年前に書いたんだ」なんていって逃げこむかもしれない。
 しかしこのような、「レーニンの『国家と革命』にたいする黒田の疑問」、あるいは 「M綱領草案」といわれる二つのものによって代表されるものは、かれがまさに一九五八年から五九年にかけての日本階級情勢のもっともきびしいたたかいのなかにあって、なにひとつこのなかで実践的なたたかいをおしすすめるのではなしに、むしろそこからはなれて、小ブル著述家としての、小ブル自由主義的著述家としての道を歩みすすめていたということ、そして五九年におけるわれわれの決起、革共同西分派にたいするわれわれの徹底的な弾劾と、これをうちやぶるための全国委員会の総結集が、しだいしだいに大きな力に結集していくなかで、かれは、ふたたびこのうえにのっかって、そうして、あたかも日本における反スターリン主義運動のいっさいの歴史が、自分自身によってきりひらかれたかのような神話的幻想をつくりだすために、その後のいっさいの黒田の著述活動がおこなわれているということを、わたしは指摘しなければならない。
 さらに大きな問題としては、一九六〇年におけるあの巨大な安保闘争のたたかいのなかでかれはなにをやっていたか。
 たとえば、一九六〇年の一月一六日に、全学連や総評に結集した学生、労働者が、岸の訪米を阻止するために羽田空港にたいする革命的突入のたたかいをおこなっていた。これにたいして黒田は、このようなたたかいをまさにブントの自滅行為、破壊行為として弁証法研究会の席上で手を叩いてよろこび、今日では完全に黒田の子分になり下っている梅津(つつみ)君もふくめて、われわれによって徹底的に批判され、弾劾されて、この意見は撤回せざるをえなかった。
 そうしてさらに、四・二六のたたかい、あるいは六・一五のたたかいにたいしても、一貫してかれは、このような人民の革命的なたたかいを評価することはできずに、このようなたたかいに敵対していたのであります。
 当時、われわれ全国委員会の指導部は、このようなブントのたたかいにたいして、帝国主義者とのたたかいでは共にたたかいつつ、同時にブントのもっている思想的な弱さにたいして、はっきりと同志的在批判を展開していたのです。こういうわれわれのたたかいにたいして、終始一貫批判を述べていたのが、当時の黒田の状況だったわけです。こういうかれの、われわれの運動の創成期における問題性というものを、われわれは今日はっきりあばきだしていくことによって、かれとカクマルの組織の本質を、はっきりつかみとっていかなければならないと思います。
 われわれは、こういう状況のなかで、黒田の、そしてそれに連なる一部の諸君たちとのきびしい内部のたたかいをおしすすめながら、われわれは、六〇年の闘争、あるいは五七年の闘争、五九年の闘争を、おしすすめていったわけです。
 そうして、こういったなかから、われわれはようやく全学連のなかの多くの革命的な諸君をわれわれのなかに結集して、また国鉄や全逓や全電通や日教組や民間の革命的な多くの労働者のなかに、われわれは革命的なケルンを創設するたたかいにおいて大きな前進をきりひらくことができた。そういう状況のなかにあって、さらにわれわれの多くの労働者や人民のなかに、社会党や共産党ではない新しい革命的な運動の方向が、まさにここにきりひらかれつつある情勢をつくりだすことに成功してきたのであります。
 
 第三章 六二年三全総の革命的意義
 
 われわれは、こういうあらたな闘争の前進、組織の前進の基礎のうえにたって、革共同第三回全国委員総会、いわゆる三全総というものを六二年秋に招集して、そしてあらたな革命的な前進にむかっての戦列をうちかためようとしたわけであります。
 すなわち、このようなわれわれのたたかいは、直接的に申しますと、ひとつは、当時のプロレタリア運動のきびしい状況、とりわけ、当時構改派が社会党の江田派を中心として、日本の労働運動を、完全に民社党的に引きこもうとしている状況にあって、われわれは、この労働運動のなかにある戦闘的労働運動の潮流をひとつひとつさがしだして、ひとつひとつわれわれの手にひきこみ、これを守り、こういったたたかいとの利害と協同とをとおして、われわれのプロレタリア運動の前進のためにたたかわなければならない。こういうわれわれの決意と展望をこめて、戦闘的労働運動を防衛するという問題を、はっきり同盟の第一の課題としてかかげることに成功したわけです。
 そうしてわれわれは、二番目に、われわれはそれまで学生戦線を中心として大きな勢力をつくりあげようとしてきた。また労働者階級のなかにあっても革命的な範囲、われわれの考えを共にしてきた多くの仲間が結集してきた。しかしわれわれは、労働組合の内部における左翼的な革命的なフラクションと、学生戦線における左翼的なフラクション、この二つのフラクションをたしてすすんでいけば、かならず前衛党に到達するという、このような考え方を、当時も、今日もとることができなかった。そのようなわれわれの基本的な考え方、つまり、われわれは単独フラクションの結集体ではなしに、まさにプロレタリア独裁を準備していくプロレタリア前衛党の建設という見地にたって、われわれの党建設をすすめていかなければいけない。そういう基本的な見地にたって、われわれは、地区党建設という問題を第二番目の問題として提起したわけです。
 つまり、それぞれ、たとえば、東京の南部であるとか、中部であるとか、西部であるとか、東部であるとか、北部であるとか、神奈川だとか、川崎であるとか、横浜であるとか、こういう労働者階級が密集している地帯のなかにあって、それぞれの産業のなかにあって、それぞれの職業のなかにあって形成されてきた革命的な部隊を、いっそう強固にうちかためながら、さらにそのような産別フラクションのたんなる連合体ではなしに、それぞれの地区の次元において、はっきりと党の指導者を、労働者自身の党の指導者をつくりあげ、このような指導のもとに、各産別や各単産の代表が結集してきて、そうしてせまい産別的な要求ではなしに、文字どおり党の観点から、プロレタリア独裁を準備する党の観点から、国家権力にたいして政治闘争を革命的にたたかい、政治同盟として、前衛党として組織を強化していくという、そういうたたかいのあり方というものを、われわれはきりひらこうとしたわけです。
 今日、カクマルの諸君をもふくめて日本における自称新左翼の諸君が、すべて「地区党」という表現を使っています。しかしこのような地区党という表現は、まさにこのような三全総のたたかいのなかできりひらかれてきたわけです。そして、このエピソードを申しますと、この三全総の会議の席上において黒田が発言したのは二つしかない。「自分は賛成だ!」ということを最後に三分ぐらい話した。それから途中に「地区党という言葉がでてくるけど、これはどういう意味か」ということを質問したわけです。ところがかれは、二ヵ月たって、かの有名な『前進』一〇六号論文(六二年十月二二日)を執筆し、地区党の革命的意義についてまったく無理解であることをさらけだしたわけです。こういうことがあったわけですけれども、ともかくこの地区党建設という問題は、この三全総においてはじめて日本の革命的左翼のなかに実践的につくられてきた。
 さらに第三の問題は、統一戦線の問題であったわけです。つまり、当時われわれは、マル学同の影響のもとに組織されている全学連の強大な運動をつくったわけです。
 それから一方、日共には民青によって組織されている、やはりこれもかなり大きな運動があったわけです。
 これらの二大潮流のほかに、つぎのような中間主義者の潮流があった。
 第一は、第二次ブントであります。かれらは六〇年ブントの栄光の復活を夢みて結集したのだが、指導部の連続性という点では大きな断絶性が両者のあいだにあります。
 第二は、社青同解放派の諸君です。かれらはローザ・ルクセンブルグと労農派の「革命的伝統」をひきつぐと称して、社会党の傘下にあって党を建設すると称している。
 第三は、トリアッチ主義者=右翼スターリン主義者のグループ、今日、フロントや共労党につながる諸君です(ついでにいえばML派なんていうものは、当時およそ問題にもなっていなかった)。
 そういう状況のなかでこれらの諸君が、一応ひとつの運動の流れというものをつくりだそうとしていた。とくに、六二年の段階にあって大管法の闘争などがありまして、そのなかで、いろいろと共同闘争の問題がでてきて、このときに、われわれの問題として、あくまでも一方においては、さきほど申しましたように、われわれの基本路線に立脚し、革命的な部分を強力に結集しながら、同時に帝国主義とのたたかいのなかで、こういった人達ともわれわれはある場合には共同の戦線を組んで、その共同の戦線のなかでかれらとのたたかいのなかで訓練し、そしてわれわれの正しい思想をかれらに返していくことによって、それらの部分を大きくわれわれのもとに結集できる、そういう革命的な統一戦線戦術の問題に、当時われわれは直面していたわけです。それが、第三の問題だったわけです。
 したがって、この三全総の問題といわれるものは、第一には、戦闘的労働運動の防衛と創造の問題、第二番目の問題としては、地区党建設の問題、第三には、統一戦線戦術の問題、この三つの問題をめぐってわれわれの運動の新しい地平が、きりひらかれようとしていたわけです。
 
 第四章 黒田=カクマルの分裂と脱落
 
 ところがこのようなわれわれのたたかいの前進がまさにはじまろうとしていたとき、黒田とその一派は、われわれ革共同から逃亡して、そうしていっさいの党内の論争から、かれらは避けて避けて逃げまわって、そして党外へ逃げてそこでようやく、六三年の春の段階にいたってカクマルを名のり、『解放』という新聞を発行するというやり方をとったわけです。
 ところで、黒田一派のような非組織的な行動は、当時どのような意味をもっていたのかということを明らかにしておきたいと思います。
 それはどういうことかといいますと、ひとつは、われわれの運動がこのような路線を提起することによって、帝国主義国家権力とのあいだのきびしい対決にはいるということがはっきりしてきたから逃亡した。これが、一番目の問題。
 かれらは、われわれがまさに帝国主義権力とのたたかいのなかでわれわれがきりひらいてきたものをさらにおしだしていく、つまりトロツキスト教条主義との闘争、そしてまた、左翼スターリン主義との闘争、そしてわれわれの運動を、サークル主義におしまげようとする者との闘争、われわれはこういったものとの勝利のうえにたって、さらに文字どおり日本革命の前衛的な部隊に育てあげていこうとするこのようなたたかいが、当然日帝国家権力とのきびしい対決にはいるということをかれらは知って、これから逃げだすということをもってかれらカクマルの第一歩が刻印されたということ、このことを諸君ははっきりと確認してもらいたいと思います。
 そして二番目の問題としては、戦闘的労働運動の防衛というわれわれの提起が、ほかならぬ当時の労働組合運動の指導的潮流をなしていた民同、それにたいしてわれわれが、明白にわれわれ自身の独自的な路線をもつこと、そうしてまたわれわれの独自の路線にもとづいて、民同との大衆的な対決をもふくめながらわれわれの運動をきりひらいていくという新時代にはいろうとしていたし、またこの三全総を契機としてわれわれのたたかいがはじまったわけです。
 このような民同路線にたいする独自的な対決、大衆的な対決、このようなたたかいのもっている困難性のまえに、それを恐れて、それから逃げだして、また民同のワクのなかにはいって、そこでヌクヌクと成長していくという、このような、今日のカクマルの腐敗によって、いまではだれの眼にも明らかになっているあの路線を守ろうとしたのが、かれらの逃亡のもっている二番目の問題であった。
 さらに第三の問題としては、かれらはわれわれの路線を、文字どおり大衆運動の真只中でわれわれはたたかい、帝国主義とたたかい、スターリン主義とたたかい、日本の国家権力を暴力的に打倒していくそのたたかいのなかで経験し、おしすすめていく、こういう見地にたつのではなしに、このようなやり方をかれらは恐れて、みんながたたかっているところから離れたところで、なにか黒田の本の学習会をやっていれば党建設が可能であるかのような、そういう幻想をかれらはつくりだそうとしている。
 そういうものをわれわれが不断にうちやぶって、革共同の革命的な前進、革共同に指導されたところの日本の革命的共産主義運動の前進をきりひらこうとしたときに、かれらの逃亡ははじまったということなのです。
 さらに四番目の問題として、さきほど申しましたように、かれらの路線は、まったく理論もなければ動機もなければ……、なんというか、およそ理屈がないということをかれら自身はっきりいっていた。ただ自分はこわいんだ、ここにいたらあぶないのだ! ただこれだけが、かれらの唯一の結集点であったわけです。したがって、かれらのやり方は、われわれとの党内論争をいっさい回避して、われわれが会議を招集してもでてこない、でてきても発言することもできない、こういう状態をかれらはつぎつぎとやりながら、われわれから逃げていったわけであります。
 そうしてこのようなかれらの誤ったやり方を、われわれは文字どおりうちやぶって、三全総以降のわれわれのたたかいというものが開始されていったわけです。
 さらに五番目の問題としては、かれらはこういう情況のなかで、党というものをプロレタリア独裁をつくりだすためのテコとしての党ではなしに、組合主義的な党、産別主義的な党、つまり労働組合内部のフラクションの結集体としての党、ないしは労働組合運動のうえにあぐらをかいてその機関を握っていく、そういうグループとして党をつくりあげるという、こういう路線を、かれらはここから歩みはじめようとして、かれらの逃亡が開始されたというのが五番目の問題であります。
 こういうなかに、ひとつひとつの項目からわれわれが教訓としてつかみだしうるところのものは、まさにかれらが革共同第三次分裂において、われわれの戦列から逃亡し、カクマルという反革命の道を歩んできたわけでありますけれども、このような最初の第一歩から日和見主義と反革命にむかっての方向がはっきり刻印づけられていたということを、われわれははっきり確認しなければならないと思います。
 これが二番目の問題であります。
 
 第五章 同盟第三回大会は十・八羽田→十一月決戦の跳躍台
 
 第三の問題としては、われわれは一九六六年の夏の段階においてたたかいとられた同盟第三回大会のもっている意義、ならびにこれによってきりひらかれた党の武装のもっている意義、さらにこれによってきりひらかれた六七年十・八羽田闘争以後のたたかい、こういった問題についてかんたんに申しあげたいと思います。
 すなわち、さきほど申しましたように、われわれは、このようなカクマルの逃亡路線をはっきり粉砕して、そうして六三年〜六五年に原潜、日韓のたたかいを軸におしすすめました。
 正直に申しまして、三全総の段階においては、われわれは東京都における革命的な労働者の圧倒的な部分、東京都における革命的な労働者を中心として結成された各地区委員会のすべてを、われわれの戦列のもとに結集することに成功したわけです。そうしてこれらの諸君こそ、「第一、第二の十一月」のたたかい、そしてその後の二重対峙下でのたたかいのなかで、文字どおりわれわれのたたかいの中心をささえている革命的な力であることは、はっきり申しあげておかなければならない。しかし同時に、この三全総において、非常にきびしい敗北を喫したわけです。それはどういうことかと申しますと、われわれはカクマルとの分裂において、学生戦線のなかにおいてその獲得戦に圧倒的に敗北したということであります。
 六三年の春の段階において、われわれは、最初のわれわれのグループの結集をやったときに、われわれの旗のもとに結集した学生戦線の同志たちは、わずか一八名であります。東京においてわれわれは、この六三年の段階においてこの一八名から出発しなければならなかった。しかしこのような革命的な労働者の組織、ならびにこの一八名のすぐれた学生の同志たち、この二つの力、さらにわれわれの思想、この三つの力を結集して、原潜闘争、日韓闘争、選挙闘争をたたかいぬくなかで、ようやくわれわれの党の力は、六二年の水準をこえる力をはっきりつかみとりはじめてきた。こういう状況のなかで、われわれは、同盟第三回全国大会を招集し、ここにおいて、今日のわれわれの基本的な戦略方向を確定する、大きな基本問題の確認をおこなうことに成功したわけであります。
 かんたんに申しますけれども、この同盟第三回大会において、われわれは第一の問題として、戦後の世界体制、とりわけ危機がうずまいているところの帝国主義の戦後世界体制が、明白に根底的な動揺の過程にはいりはじめたということ、そしてそれはベトナム戦争とドル危機というかたちをとおして、なんぴとも否定することができない、はっきりとした姿をとってわれわれのまえに危機を深刻化しつつある、ということをわれわれは確認したわけです。
 わたしは、さきほど、かつてわれわれが十数年前に反帝・反スターリン主義の旗をかかげたときに、今日においてまったく当然であるかのように見えるものが、じつは大変だったということを申しあげたわけでありますが、このようなわれわれの戦後世界体制の根底的動揺の開始という規定にたいしては、カクマルがこれにたいして、帝国主義は隆々と発展しているのであって、危機などというのはとんでもない、といったことはひとまず当然だといたしましても、われわれを除く他のいっさいの党派が、このような根底的動揺という規定にたいして、時期尚早をもって答えたことを、諸君にひとまず記憶しておいてほしいと思います。
 それから第三回大会の二番目の問題としては、われわれは、日本の階級闘争が七〇年安保をめぐって明確な階級的激突にはいる、そしてここから日本の階級闘争は、妥協の余地のない新しい局面に突入するだろうという予想を、ここで見通しをもったわけです。つまりこの七〇年安保というものをとおして、日本の帝国主義は新しい時代につっこんでいこうとしている、新しい暗黒の政治の時代にはいろうとしている、こういうものにたいしてわれわれが、真正面からこれを粉砕するという立場をとるならば、中間的な妥協点というのはありえない、そうだとすればわれわれのたたかいが、このような「安保粉砕・日帝打倒」という方向にすすめば、当然日本の階級闘争は、非妥協的たたかいの姿をとらざるをえない。
 しかも六〇年安保闘争と決定的に違う点は、まさに帝国主義者とその権力、これにたいする革命的共産主義者の闘争、その革命と反革命との闘争が文字どおりたたかいの基軸をなすのであって、社会党や共産党の既成左翼の運動は、このような革命と反革命の時代にあっては、もはや従属的、副次的な意味しかもたないだろう、ということをここにおいて確認したわけであります。このようなわれわれの見通しにたいしても、同じように他の党派の諸君が、まったく理解できないという態度をもって迎えたことはいうまでもないわけです。
 当時、われわれと共にたたかっていたなかでは、もっとも戦闘的な思想をもっていると思われていた、たとえば、第二次ブントの諸君でさえも、七〇年は闘争にならない、と六七年の夏の段階においてもかれらは主張していた、これが当時の状況であったわけです。
 第三番目の問題としては、戦後世界体制が根底的に動揺し、そしてそれが、ベトナム危機、ドル危機というかたちをとおして大きく激化している。さらにまた、七〇年安保をめぐる日本のブルジョアジーとプロレタリアートの闘争が激突の姿をとらざるをえない、非和解的な発展の姿をとらざるをえないということ、しかもそうしてそのたたかいの基軸は、まさにわれわれと帝国主義者とのあいだで決着がつけられるというような性格のものであるだろう、というわれわれの見通しからして、当然、第三の結論としては、党の革命的な再武装の問題について決意しなければならなかった。それが第四の問題であるわけです。そうしてわれわれは、この三全総の路線のもとに、党のも
っているさまざまな弱点、党のもっているさまざまな弱さ、足らないこと、そういうものをひとつひとつ無慈悲にあばきだして、こういうものをのりこえて、ほんとうに羽田によって開始されたそれ以後のたたかいの勝利を保障するような党の再武装をつくりあげていく、というこのことを、まさに実質的な過程として開始したわけであります。
 そしてそのなかでわれわれは、まさに今日の世界の情勢のもっている危機性を、まさにわれわれ自身の主体的な立場としてつかみとって、そしてもう一方では、この情勢をつかみとるだけではなしに、この主体的につかみとられたわれわれの手段をもって、階級闘争を帝国主義者とのあいだでぶちぬいて、そしてわれわれは、ぶちぬかれた情勢によって新しい転回をきりひらいていく、いわば情勢を一方では主体化し、一方では文字どおり客観的情勢につくりあげていくという、この二重のたたかいにわれわれは勝利するということによって、まさに七〇年闘争はわれわれの手にたぐりよせられるのだ、ということを確認したわけです。
 これが、いわば同盟第三回大会のもっている意義であったわけです。
 ですから一九六七年の十月八日の闘争、これは一部の諸君が考えているように、なにかたまたま当日佐藤が南ベトナムに行く――これはじつにけしからんことであるわけですけれども――それにたいする学生のたたかいの決起がおこった、そうすると、それにたいして弾圧がちょっときびしくて学生が一人死んだ、これをきっかけにして両方が興奮した、というように理解している人たちがあるわけですけれども、このような考え方はまったく無意味だ。
 そうではなしに、われわれのたたかいのなかにあっては、この十・八羽田というたたかいの日付は、文字どおり計画的に、系統的に、この第三回党大会以来一貫して追求されて、そうして砂川闘争やその他のさまざまのたたかいのなかで、ひとつひとつ準備を重ねて、計画的にもぎとられたものだということを、しっかり考えてもらいたいと思います。
 エピソード的なことを申しますと、まだ十・八羽田闘争の裁判が進行してますから、あまりくわしく申しのべることはできませんけれども、たとえば、当日の羽田弁天橋において、機動隊の武器であるあの装甲車を奪って、そして、それを先頭にしてむこうにつっこんで行くというたたかいがおこなわれた。
 そしてこのときに、人民の怒りの爆発が、ハシゴを持ちだし、あるいは木の大きな枝を持ちだし、あるいは丸太を持ちだし、ありとあらゆる人民の武器を持ちだし、たたかったというようにしてあらわれたのであります。これは大きな真理であります。
 しかしながら、真理というのは、客観的にもとからそこにあったというものを意味するのではない。そうではなく、人民のなんらかの抗議的活動によって、このような状況が用意されていたということも、同時に意味するわけです。われわれはそういう意味において、これ以上申しませんけれども、十・八羽田闘争というのは、ただたんに客観的にこのようなたたかいがおこなわれたというのではなしに、まさに予想され、決意され、計画的に準備され、系統的に準備され、そしてほかならない全学連の学生諸君と反戦労働者の諸君の血と汗と決意によって、文字どおりたぐりよせられたたたかいだった、ということを確認しなければならない。
 このことの意味を、多くの諸君たちは認めたくない。なぜかというと当日、たまたま前の日に、次の日中核派がすごいことをやるらしい、俺たちもちゃんとやらないとピンチじゃないか、なんていうことを、前の日に集って話していた諸君たちがいっぱいいるわけです。
 それからさらに、われわれのこういうたたかいをおしつぶすために、法政大学の入口までちょっと攻めてきた諸君もいます。
 あるいは、この日なにがおきるのかわからなくて、羽田にノコノコと行った諸君もいます。これはほかならぬカクマルであります。
 こういう諸君は、当日なにがおこったのか全然わからない、あくる日新聞を見たら、これは相当大変なことらしい――ということがかれらにわかった。そうすると、自分たちは十・八というものに、まったく客観的に、傍観者的に、まきこまれ的にやったのでしかたなかった、ということを認めるのはいやなものですから、そこでこの十・八羽田闘争のもっている意味というものを、なんの理由をつけてでもいいから、ちょっとでもいいから、うしろにさげたい、そういうカクマルのきたない願望が、たとえば「十・八羽田以来」と書けばいいところを、「六七年十・二一以来」と書くというようなことがでてくる(著作選第一巻一〇ページ)。
 ですから、そういうかれらの、フロイト的にいえば「意識されざる無意識の意識」、そういったものが、じつに、意識してでたものだと理解せざるをえない。
 十・八羽田はそういう意味では、それは前の年におこなわれたこの第三回大会の思想、戦略、それにもとづく計画的、系統的準備にもとづいて、革共同総体の血のにじむような努力とたたかいによってきりひらかれた、そういうものであったということを、われわれは考えなければいけない。
 したがってわれわれは、これ以後、あの王子闘争をたたかい、三里塚闘争をたたかい、さらにそのまえに佐世保闘争をたたかったわけですけれども、つまり羽田をたたかい、佐世保をたたかい、三里塚をたたかい、王子をたたかい、文字どおりこの道路のこのあたりにも全部血を流してたたかいぬいたわけです。
 この「激動の七ヵ月」をたたかいぬく、そしてこのたたかいにたいして反動的につくりだされた勢力の強化、そしてわれわれ自身がこういうたたかいのなかで何十人という人が傷つき、多くの同志を獄中に奪われ、こういうなかで、またいわゆる死闘的調整期の半年をすごして、さらに六八年十・二一新宿闘争をぶちぬき、さらに東大闘争をぶちぬいて、六九年四・二八沖縄奪還闘争をぶちぬく、というたたかいにたちあがったわけです。しかしながらこういうたたかいのなかで、われわれははっきりおさえなければならない点は、この十・八羽田闘争を、自力で、自分の手でもぎり取ったものと、この羽田闘争によってきりひらかれた情勢のうえにのっかって、そしてそれによってつくりだされた情勢の一定の高揚のなかで、あたかも革命的であるかのごとくふるまってみせようとした諸君のあいだの問題、この本質的な違いが、じつはこの激動の七ヵ月から、さらに四・二八沖縄奪還闘争の大爆発、さらに「二つの十一月」闘争の十一月決戦のたたかいのなかで、はっきりあばきだされてきた。この違いがはっきりしてきた。
 これは、今日の問題だというふうに、わたしは申しあげたいと思います。すなわち、こうした状況のなかで、われわれは羽田闘争をたたかって、そのなかで一九六八年の夏の段階において、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の方向性をはっきり確認し、この旗のもとに七〇年闘争を断固たたかうということを決意するにいたったわけです。
 そうして、このようなわれわれの総路線があったからこそ、第一の十一月決戦、第二の十一月決戦を文字どおりたぐりよせることができたのであり、そうしてまたわれわれは、第三の十一月、第四の十一月をきりひらいていくことができるのだということを申しあげたいと思います。
 
 第六章 「第一の十一月」の巨大な意義
 
 そういう意味で第四の問題としましては、この十一月決戦のもっている意味をごくかんたんに申しあげたいと思います。
 すなわち、六八年の夏の段階においてわれわれは、「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」この革命的な総路線をうちたて、そうしてその旗のもとに、本格的なたたかいを準備した。そうしてさきほど申しましたように、十・二一の新宿の休日のあの大闘争、そしてまた、十一・七の沖縄奪還闘争、あるいは東大闘争をたたかいぬき、そうしてそのなかで、六九年の四・二八沖縄奪還闘争を、文字どおり七〇年闘争、七〇年安保=沖縄闘争を、われわれが先制的にうちぬいてきたのであります。
 そうして、そういうたたかいのなかで、戦術的な環として首都制圧・首相官邸占拠という革命的な旗印をはっきりとかかげてたたかいにたちあがった。
 わたし自身は、この年の四月一七日に、文京公会堂でおこなわれた中核派の学生諸君の集会において、「四月二八日日には、沖純奪還、安保粉砕・日帝打倒のたたかいを、どんなことがあってもやりぬいて勝利しなければならない」ということを訴えたというカドによりまして、四月二七日、沖縄奪還闘争の前日に、警視庁に泊まらざるをえないという状態にたたきこまれた。かれらは、まさにこのようなわれわれのたたかいにたいして、破壊活動防止法という帝国主義者のもっとも最後に残された武器をもって、われわれに襲いかかってきた。
 しかしながらわれわれは、かれらのこのような恫喝に屈しただろうか! そうではなかった。全学連や反戦青年委員会の諸君は、文字どおり武器をもってたち、東京駅を制圧、新橋駅に進撃、さらに機動隊との激突にかちぬくたたかいをきりひらくなかで、七〇年闘争はほかならない沖縄をめぐるたたかいであり、安保をめぐるたたかいであるということを、全人民のまえに疑う余地のない、まったくはっきりした姿をもってうちだすことに成功した。
 これが、われわれの四・二八沖縄奪還闘争の回答であった。わたしは、まさにこのような破防法の敵の攻撃が.まったく無力であることを証明したところに、この四・二八沖縄奪還闘争の偉大な意味があり、そうしてまた、沖縄・安保をめぐって日本の全人民の対決が展開されていくだろうことを、全人民のまえにはっきり浮かびださせたこと、これがこのたたかいの大きな意味だったことを、わたしはいつもしみじみ思います。そういうなかでわれわれは、日本の帝国主義支配階級が日米共同声明、七二年「沖縄返還」政策というかたちをとって、その後しだいにはっきりと姿をあらわしてくるという政策をとりはじめていた。
 すなわち、ここにおいてかれらは、どのような政策をとろうとしたのかというと、基本的なコースとしては、日帝のアジア侵略、安保同盟の強化、それをはっきりおしすすめながら、あたかも沖縄県民の本土復帰にかけた要求を、とりこむような姿をとって、逆に日本の沖縄県民をふくめた全人民を、アジア侵略の方向にむかって動員していく、そういう方向を、日本の帝国主義支配階級は、はっきり基本路線としてもっていた。そうしてそういう情勢のなかで、あたかもどこに政治闘争の焦点があるのかわからないかのごとく、政治的に演出する、つまり、ある人は、非常に無邪気に、七〇年闘争というから七〇年闘争のヤマは、七〇年の六月にくるのではないかと考えている人もいる。
 そういう人にたいして、そうではなしに、帝国主義者は共同声明というかたちをとって早々と六九年の段階において攻撃をかけてきた。こうして、ここにおいて、日本の人民の運動を先制攻撃的にたたきつぶして、七〇年安保闘争はつぶれた、日本の人民の運動はもうない、日本は、アジア侵略にむかって挙国一致で城内平和体制をつくりあげることに成功したんだ、という、そういう擬制をマスコミをとおして流布するなかで、七〇年を支配階級のペースでとったかのようにいう、そうしておいて、じつは、七二年ごろまでに返還政策をいろいろなかたちをとってすすめていく、こういうやり方をかれらはとろうとしたんだ!
 こういう帝国主義支配階級の攻撃にたいして、われわれはなにひとつだまされることなしに、この佐藤の十一月訪米に示される日米共同声明の攻撃が、ほかならぬアジア侵略の道であり、そうしてこれが七〇年闘争の決定的な軸であり、焦点であることをはっきりみつめて、こうして帝国主義支配階級の破防法攻撃のなかにあって、すべての党派が混乱し、たたかう力がなくなっているようなきびしい情勢のなかで、逆にこの十一月決戦をわれわれの手できりひらき、そうしてたたかいぬくことに成功したわけです。
 われわれは、そういうなかで、日本の帝国主義支配階級の基本路線のもっている意味を全人民のまえに暴露し、城内平和なき侵略体制ともいうべき状態を、帝国主義者におしつけることに成功した。そしてまた、大学闘争の大爆発と、それにたいする帝国主義支配階級のすさまじい攻撃のなかで、つぎつぎときびしい弾圧のなかにおさえこまれていた全国の学生を、この日米共同声明粉砕′佐藤訪米阻止! この明白な旗印のもとに結集してたたかいぬくという路線を大胆にうちだし、そうして、全学連の学生諸君と反戦青年委の労働者諸君を中心にして、十・二一のあの高田馬場、新宿のたたかいをやりぬき、そしてまた十一月十六日のあの蒲田闘争を、徹夜でやりぬくことによって、あの偉大な十一月政治決戦を勝利させることに成功したわけです。
 当時わたしは、不幸なことに、東拘におりました。ここから一キロか二キロぐらいのところですが、十月二一日の朝に、ちょうどわたしは、『破防法研究』という雑誌に書いた「暴力の復権のために」という原稿を書きあげて、封筒にいれて、そしてきょうはいったいどうなるだろうか! きょうは、どんな小さな物音でも聞きもらすまいと思っていると、もう朝からラジオがつぎつぎと消えていきます。パッと歌揺曲が流れているかと思うと、歌がパッとやめて空白になる。あっ! 同志諸君がたたかっているな! と思ってラジオが消えるたびに、いつも心が高まる思いをしたわけですけれども、しかしこのようなわたしの監獄のなかにおける思いは、まったくあてはずれのものではなかったわけです。そうではなしに、わたしのこのような当時の訴え、思い、文字どおりこのような思いをさらに大きくふくれあがらせるような、そういう人民のたたかいが、十・二一において貫徹されていたし、そうしてまたあの十一月のたたかいにおいて貫徹されていたということをわたしは感ずるわけです。
 こういう状況のなかで、われわれは、全学連のこの十一月決戦の意義は、こうしたものとしてたたかいぬかれたわけでありますけれども、同時に確認しなければならない点は、このたたかいにおいて学生諸君が帝国主義支配階級とたたかうだけではなしに、一九六〇年以来営々としてたたかいつづけてきた革命党建設のためのたたかい、この旗印のもとに結集してきた多くの革命的な労働者が、国鉄の労働者や、全逓の労働者や、電通の労働者や教組や民間の鉄や電機やこういった多くの産別の労働者達が、数千人武装して決起するという偉大なことをなしえたのであります。
 きょうわたしは、この会場にはいってくるまえに、入口である同志に会いました。この同志は、十・二一闘争において、郵便配達に使う郵便車に火炎ビンをつんで高田馬場まで行った。こういう容疑で逮捕された。帝国主義支配階級は、こういう労働者階級の本隊が、体制に反逆して陸続とたちあがることを本気で恐れなければならない状況が、いたるところで巻きおこったわけです。!
 こういうプロレタリアートのたたかいこそ、じつはここまで六〇年代のたたかいのなかでつくりだしてきたものであります。
 そうして、しかもわれわれは、このたたかいのなかで多くの帝国主義者や反革命分子が期待したように、ここで挫折したり、たたかいがここで終ってしまうのではなしに、このような偉大なたたかいをわれわれはたたかいぬくことによって、逆に、革共同建設の事業が、より大きく前進していくという事態をつくりだすことに成功したわけです。
 このことが、十一月決戦のもっている大きな意義だということを、はっきりと申しあげたいと思います。
 
 第七章 七〇年七・七自己批判の深化のために
 
 こうしたたたかいをわれわれはきりひらくなかで、しかしこのようなたたかいをいっそう本格的に前進させていくためには、第五の問題としてわれわれは、三回大会においてわれわれ自身に課したものよりも、さらに大きな課題を課さなければならなかったのである。それが、ほかならぬいわゆる七・七自己批判の問題であり、それを契機にしたところのわれわれの運動の真に綱領的な深化のための大きな苦闘の歴史であったことを申しあげたいと思います。
 ご承知のとおりわれわれは、帝国主義支配階級の支配のもとに、資本家の支配のもとに、国家権力の支配のもとに、蹂りんされ、そのなかで生きざるをえない。そうしてまた、このようなかれらの権力や、政治や、そうしたものとたたかうことなしに、われわれのたたかいはありえない。こういった意味では、われわれは、帝国主義本国のなかにあって、あるいは抑圧民族のなかにあって、こういうようなものをうちやぶるたたかいとしておしすすめなければならなかったし、またそのような方向をすすむことなしに前進はありえなかった。にもかかわらずわれわれは、このようなたたかいのもっている、帝国主義本国のプロレタリア運動のもっている意味について、まだまだ十分な自覚が足らなかったということを、いやというほどつきつけられたのが、この七・七自己批判の問題だったと思います。
 日本は、明治維新以来の、朝鮮――中国――アジア侵略と侵略戦争をおこなうなかでのみ発展をとげてきた。戦後日本は、植民地を失ったといわれているけれども、しかしながら、帝国主義の世界的な後進国・植民地にたいする支配のうえに、日米安保同盟によってはじめて、日本帝国主義の戦後もあったということもはっきりしている。
 さらにまたわれわれは、この日本の内部にあって、在日アジア人民の多くが帝国主義者の圧迫のもとにあり、そうして、このような苦しみのなかで、非常に攻撃的な、革命的なたたかいをくりひろげてきた。ところが、こういう問題について、われわれはまだまだ全然つかめなかった。
 具体的には、一九六五年の日韓闘争のさいに、われわれは、こういう日本の帝国主義がもっている侵略性、あるいは、国内におけるアジア人民にたいする抑圧の体制、こういったものとたたかわなければならないということを、ひとまず考えようとした。
 しかしながら、これをほんとうにわれわれの運動の路線のなかにまではっきり根を植えつけ、そうして、われわれの戦略の、われわれのたたかいの綱領的、戦略的全体のなかに、はっきりとこれを位置づけて前進していく、という点においては、われわれは決定的に足りなかった。このことをはっきりこの段階においてつきつけられたと思うのです。ですから、この排外主義の問題、あるいは、われわれプロレタリアート人民の内部における、諸階層のなかにおける差別の問題、分断支配の問題、こういう問題とたたかいぬいていくうえで、われわれは非常に弱かったということをここでつきつけられたと思います。
 もともとマルクスの、あるいは共産主義の理論は、つぎのような構造をもって展開されなければならないということをわれわれはそれ以前から確認してきた。
 すなわち、共産主義とは、プロレタリアートによるブルジョア的私有財産の積極的な止揚の過程である。そしてそのことのなかで、自然と人間、人間と人間とのあいだの本源的関係をつくりあげていくこと、これが共産主義にほかならない。そうして、このような共産主義の実現のたたかいは、ほかならぬプロレタリアートが、自分自身の手でたちあがって、資本家階級を階級闘争をとおして打倒し、この階級闘争の継続のなかでプロレタリア独裁を実現することによって、その最初の一歩が生みだされるのだということをわれわれは確認してきた。
 プロレタリア自己解放のたたかいは、同時に、人間が人間としてすべて解放されるという全世界的な、全地球的な状態をつくりだすことなしに、また同時にプロレタリアート自己解放がありえないのだ、こういう関係のなかにプロレタリア自己解放の理論というものが用意されている。すなわち、プロレタリアート人民が、自分のために、自分の解放のためにたたかうこと、そうしてまた、同時に被抑圧民族の人民が民族蜂起をもってたちあがること、かくして、全人類は全人類として解放されること、この二つのことがらは、一つのことがらとして展開されなければならない。これがプロレタリアートの自己解放の理論である、ということをわれわれは理論的に考えてきた。
 しかしながら、こうした問題を、まさに日本の帝国主義本国のプロレタリアートとして、日本における在日アジア人民との関係、あるいは、帝国主義の差別と分断の支配のなかで、これをはね返し、たたかいぬいてきた多くの人民の戦列、このようなものとわれわれプロレタリア運動との関係はいかに、という具体的な関係のなかに、まさにマルクス主義の根本的な問題がこのようなかたちをとってつきつけられ、そうして、そのような問題の解決なしに、われわれは、一歩も前進できないということをはっきりとつきつけた問題が、この七・七の問題であり、その後のわれわれの諸課題、諸戦線のたたかいだったということを確認しなければならないと思う。
 反革命カクマルの諸君が、われわれのこのような七・七以降の苦闘と、その深化と持続のためのたたかいにたいして、これをプロレタリア自己解放の論理を放棄するものだと、そういうまちがった批判を社民的におこなっている。かれらは、このような批判をわれわれにたいしておこなうことによって、マルクス主義のイロハ的な原理すら理解していなかったこと、そうして現に、アジア人民や多くの差別された状況のなかでたたかいぬき、それをうちやぶって前進している人びとの、われわれにたいする呼びかけの声を開くことができないところまで堕落し、反革命化してしまったということを、かれらはこのようなかたちをとおして、はっきり証明してしまっているのだ、ということを、われわれは確認しておく必要があると思います。
 ですからわれわれは、諸戦線、諸課題を持続し、深化するたたかいをとおして、われわれの、そういうもっている問題性をあばきだしながら、同時にわれわれにとって綱領的な問題、戦略的な総路線のじつに大きな前進の過程として、われわれの内部に蓄積されなければならない、また蓄積されようとしているということについて申しあげたいと思います。
 
 第八章 「第二の十一月」の偉大な勝利
 
 そしてさらに第六の問題として、第二の十一月決戦の問題についてもごくかんたんに申しておきたいと思います。
 すなわち、日本の帝国主義が、七〇年「沖縄返還」政策というかたちをとって、どういうものをわれわれにつきつけてきたのかということを、わたしはさきほどかんたんに申しました。
 ところが、一九七一年の春の状態とはいったいどうだったのか。
 去年の春ごろ活動していた諸君は、そのころのことを思い浮かべていただきたい。あるいは、まだ活動していなかった諸君も思い浮かべていただきたい。もうすでに七〇年闘争は終った! ということを多くの中間主義的な諸君はいっていた。そして、もうこれから以後は、七〇年代のたたかいが重要なのだというかたちをとって、じつは七〇年、七二年「沖縄返還」政策との対決の問題とを対比し、それから逃げだそうとするありとあらゆる潮流がうずまいていたわけです。
 たとえば、去年(七一年)の四月二八日のたたかいにおいて、われわれは、七二年「沖縄返還」政策粉砕こそ、まさに七〇年安保闘争を最後的に決着するたたかいである、と訴えたにもかかわらず、反革命カクマルはいうに及ばないことでありますけれども、その他の諸君もまったくこのようなわれわれの訴えを、真実心の底からこの声をうけとめようとはしなかった。
 そういう諸党派の武装解除の状態のなかで、われわれは、昨年の五月一九日に文字どおり第二の十一月決戦を感じつつ、革命的な戦闘的な闘争に決起した。
 さらに六月一七日の明治公園において、あの巨大な闘争の爆発に成功した。
 われわれは、このような闘争のなかで、まさに、七一年秋のたたかいこそ、七〇年安保闘争を決着づけるたたかいであり、そしてまた、日本帝国主義の侵略政策にたいして、日本人民の反撃の砦がきずきあげられた、このようなものを文字どおり問う闘争の過程になるのだということを、この五・一九、六・一七の二つのたたかいをもって、われわれはたたかいを開始した。
 このとき、いったいどういう状況がおこったのか! 帝国主義者は、われわれが爆弾闘争にはいったということについて、恐怖にかられて、あるいは七一年闘争にむかって革命的な進撃を開始したということにたいして、恐怖の眼差しでわれわれのたたかいにたいするありとあらゆる弾圧を強化しだしてきた。
 それから、当時、八派連合というかたちでわれわれの戦列の周辺にいて、六九年の段階では、自分はたたかったことはないけれども、われわれ中核派がたたかったことによって、あたかも、かれらもたたかったかのような社会的な評価をうけたということを唯一のメリットにして、残りつづけていた一部の諸君、こういった人達が、この五・一九から六・一七にむかっての革命的前進のまえに、心底から度ぎもをぬかれ、腰をぬかして、トットコ逃げだした。これが統一したかたちをとって、反動的な逆流として五月、六月の段階においておしよせてきた。
 さらに、反革命カクマルは、このわれわれの十一月決戦、第二の十一月決戦にたいして、このようなわれわれのたたかいはかならず失敗するし、そうして失敗したときこそ、かれらはこれを決定的に、中核派は革命勢力だから絶滅さるべきだといって、かれらは、反革命の襲撃のためのありとあらゆる準備を開始した。
 われわれは、こういう情勢のなかで、昨年の九月一六日に三里塚闘争をたたかい、貫いた。
 農民を中心とし、労働者や学生がこれと一体となって、機動隊せん滅の英雄的な闘争を、九・一六闘争というかたちをとってきりひらいてきた。
 さらに、沖縄闘争の爆発というかたちをとって、このたたかいは、沖縄において、首都においてうけ継がれた。
 すなわち、十一月一〇日には、沖縄において機動隊せん滅のたたかいがおこなわれ、さらに十一・四渋谷、十一・一九銀座、日比谷というかたちをとって、大暴動闘争が文字どおりうちぬかれた。
 ありとあらゆる諸君は、帝国主義支配階級を恐れ、カクマルは失敗することを期待し、そうして、それが勝利しそうになると狼狽し、ある種の諸君は、中核派がやるから、俺もなにかやらなければいけないと思っても、なにをしていいのかわからない。
 このような状況のなかで、まさに昨年の十一月のたたかいというものはきりひらかれていったわけです。
 ここにおいては、まさに、われわれは、自分自身を、完全に自分自身の力と自分たちの力に依拠してたたかいぬいて、そうしてこのたたかいは誰がやったのか、まったくなんびとも疑うことのできない、はっきりとした姿をとってこのたたかいをやりぬいた。
 このときから、日本における党派的な関係、日本における勢力的な配置は、根本的な変化が生じたわけです。つまり、誰が革命の路線を堅持し、この革命の路線を一ぺん宣言したからには、どんなことがあってもやりとげていくのかということを、権力の側も認識した。
 また、ある諸君は、革命的な言辞を時には弄するけれども、しかしいざとなったらまったく力もない、やる気もなければやる力もないということを、権力と全人民が確信するような状態になった。さらに、革命的共産主義とか、反帝・反スタなどといっているけれども、いざとなったら社会党や民同といっしょになってデモをやって、すわり込みを国会外でやる。そして、これを英雄的だなどという。
 あるいは、十一月一九日には、「トンちゃん」という飲み屋に突入するなどという「英雄的」なことをやる。これはいうまでもなくカクマルでありますが。そうしておいて、これこそ英雄的闘争だなどという。
 諸君たち一ぺん新橋大門のまえをとおったときには、「トンちゃん」という飲み屋をみたらいい。あれは、人民の家です。
 そういうところへ突入することをもって、革命的な闘争というふうにいう。こういう、われわれの、まさに革命的暴力の思想、暴力革命の思想、十一月決戦の思想、十一月大暴動(闘争)の思想、こういうものをはずかしめ、こういうものに敵対し、こういうものから人民をひきはなすためにだけ、かれらは武装闘争のようなふりをした。
 しかしながら、かれらの狙いは、このようなことをもって、われわれから人民をひき離しておいて、ひき離されたわれわれにたいして、権力と一体となって武装攻撃をかけてくる。
 これが、かれらが去年十一月の闘争でなしとげようとしたことの内容であるということを、われわれははっきりみておかなければいけないと思う。
 これが、われわれの二つの十一月闘争のもっている問題であったということがいえるだろうと思います。
 
 第九章 二重対峙・対カクマル戦争について
 
 第七の問題として、わたしは、昨年の十二月以後の二重対峙の情勢のなかで、われわれは、どういう問題につきあたってきたのか、ということについて申しあげたいと思います。
 もうこれは、諸君たちが、たくさん討論をしてきていることですから、できるだけ結論的なことだけ申しあげたいと思います。
 最初の問題は、七〇年代K=K連合といわれるものが、七〇年代反革命としての性格をもったものであるということ、つまり、国際的な階級闘争のなかで、新しく生みだされてきたところの、帝国主義者による革命勢力鎮圧のための勢力と性格、こういったものであるということを、諸君たちは、はっきり理解していただきたいと思います。
 つまり、このK=K連合というかたちは、過去における階級闘争のなかで、直接こういうかたちをとってあらわれてきたものではないのです。
 ところが、階級闘争というのは、歴史的な前進のなかで、たえず新しい反革命を生みだしていく。プロレタリア革命が、たえず新しい内容を獲得していくのと同時に、また反革命も新しい形態を生みだし、プロレタリアートを攪乱する新しい姿をとって、つぎつぎと反革命が襲いかかってくるわけです。
 歴史的な過去について考えてみますと、たとえば、われわれは、ファツシズムということばを今日使っています。ファツシズムということばは、今日においては、帝国主義者によって、人民に加えられている反革命の攻撃であり、プロレタリアートの組織を壊滅する反革命の攻撃であり、革命と反革命の時代において、帝国主義支配階級が、革命をおしつぶして自分自身を延命させていくための最後の手段であることを、われわれはすでに知っています。
 ところが、一九一七年、一八年の段階では、ファツシズムということばは、社会主義運動の内部の一潮流を占めるものとして理解されていた。当時、この潮流の首領をなしていたムッソリーニという人は、それ以前、まだかなり左翼的な主張をもっていたイタリア社会党、のちにこのイタリア社会党が共産党と社民党に分裂していくわけですけど、この社会党の機関紙の編集長をやっていた。
 この人間が、社会党内部の党派闘争をとおして、フアツシズムというひとつの政治的な潮流をつくりあげていく。そうして、これをプロレタリア運動のさまざまな革命的な潮流との武装的な邂逅のなかで、しだいしだいに反革命として育てあげ、最後の段階においては、一九二二年の段階においては、帝国主義権力ならびにそのもとにある民間勢力と共謀するかたちをとって、ローマ進撃、つまりローマの反革命勢力を構築し、イタリアのフアツシスト的支配を確立する反革命へとうってでたわけです。
 これが、ファツシズムというもののもっている姿です。
 つまり、当初、社会主義運動、今日の社会党などは全然問題にならないもっと革命的な政党であったイタリア社会党の内部にあって、しかもこのなかできわめて強力な一フラクションとして登場した勢力が、しだいしだいに革命勢力、社会党内部からロシア革命の影響をうけてボルシェビキに移行しようとする同志たちと対決し、あるいは、イタリアが侵略戦争に参加しようとするのに反対する人民が、排外主義との闘争をすすめようとするのにたいして、そんなのはナンセンスだといって襲いかかっていく、そういうたたかいのなかで、自分自身を反革命的に鍛えあげ、育てあげ、そうして帝国主義支配階級と結びついてきたのが、ファツシズムである。
 また、われわれは、今日、ナチズムあるいはヒットラーといわれるものが人民にたいする許すべからざる敵だということを知っている。
 ところが、このヒットラーによってひきいられていたナチズムも、当初の段階においては、ドイツ国家社会主義労働者党というふうに名のっていたわけです。それは、終生そう名のっていたわけです。
 そして、あの旗を見ればわかると思いますが、赤旗のなかにまるく白く塗って、そのなかで黒くハーケンクロイツが、鉤十字が描かれている旗になっているわけです。
 ついこのあいだも、車で日比谷をとおっていましたら、六人ほどけったいな連中がデモをやっている。よくみたらナチスの旗をもっていた。そっくり赤旗と同じ、ちょっとみただけでは、ちょっとも変わらない。つまり、赤旗の一形態でしかないそういう旗をもってナチスは登場してきた。しかもかれらは、当時社会民主党によって伝統的につくりだされたところのさまざまな闘争手段、たとえば集会、党員募集、あるいはデモンストレーション、こういうものをつぎつぎとっくりだしながら、ときにはゼネスト、ストライキをやる。たとえば、二八年には共産党といっしょにストライキをやった。
 そうしたさまざまな労働者の闘争手段をしだいしだいに使いながら、しかしもっとも決定的なときには、革命に敵対して自分自身の戦列をかためていったわけです。
 たとえば、ドイツのプロレタリアートが革命的な決起をやるような段階になると、これをたたく、あるいは、ドイツのプロレタリアートが、国際主義を呼びかけると、それにたいして国家社会主義を対置する、こういうやり方をとってナチズムというものが形成されていっている。
 そして、一九三三年の一月の段階において、ドイツの帝国主義と結び、ドイツの帝国主義の軍隊である国防軍と結び、そしてドイツの民間の反動的資本家と手を結んで権力を合法的に奪取するというかたちをとっているわけです。
 こういう歴史の姿というものを、はっきりわれわれがみれば、革命と反革命との問題というのは、けっして図式的に解き明かせるようなものではなしに、現実の革命の前進とそれにたいする反動という具体的な姿をとってあばきだされてくるのだということが、はっきり浮かびあがってくるのではないかと思う。
 もうひとつの例をあげてみると、中国国民党、今日では、台湾においてもっとも反動的な支配をつづけておりますけれども、この中国国民党も、当初においては、共産主義者も同席したような一応革命的な政党として出発したわけです。しかし、のちには中国の革命的な労働者や人民にたいするもっとも悪質な反革命へと、革命と反革命との対峙のなかで変質していったわけです。
 こういう過程をとおしてみますと、二〇世紀における革命の問題というのは、明白に革命と反革命の内乱的対峙のなかで、プロレタリア運動の内部に、あるいは民族運動の内部に発生したある潮流が、その潮流の内部における革命的な勢力とたたかいながら権力としだいしだいに結びつき、権力にしだいしだいに威かくされていくことによって、反革命にしたてあげられていくという姿を、多くのところにおいてわれわれはみいだすことができるわけです。
 ですから、われわれが確認しておかなければならない点は、今日のわれわれにたいする権力の弾圧は、内乱鎮圧型の性格をとってきたということです。
 あるいは、カクマルが二つの十一月決戦によって、かれらの路線が大破産する、そうしてその矛盾を反革命的に転嫁するためにわれわれにたいして襲いかかってくる。あるいは、そのなかでK=K連合が形成される。そうして、それをただたんに、客観的にそういう関係ができたというだけでなしに、権力も、カクマルも、意識的にこれを利用するという関係が生じてくる。これがもっとも明白な姿をとってあらわれ、まさに歴史的な画期となってあらわれたのが、かの十二・四反革命です。
 かれらが、われわれにたいする殺人テロという攻撃をしかけてきた。こういう事態が今日われわれのまえにあるわけですけれども、しかし、このような事態の背後に歴然としている問題は、こういう二〇世紀における、あるいは、内乱期における反革命の登場のひとつの新しいかたちが、K=K連合、カクマル反革命というかたちをとって登場したことにたいして、われわれは、はっきりおさえておかなければいけないということだと思います。
 そういう意味で、日本の帝国主義支配階級は、今日、デマゴギー的様相をとりながら、そのじつ、アジア侵略の方向をはっきりとすすみ、四次防に示される帝国主義的軍隊の道を歩み、そして、さらに本格的な治安弾圧の方向へ歩みはじめている。そうして、ボナパルチズム支配への過渡としての性格を、今日はっきりとたどっているという状態のなかで、このようなかれらの恐怖するところの、もっとも鋭い革命党と革命勢力が、いっきょに成長しようとしたことにたいして、K=K連合というかたちをとって、われわれに襲いかかってきている。このことの意味を、われわれはひとときも忘れてはならないということを申しあげたいと思います。
 
 第一〇章 内乱・内戦、蜂起の思想
 
 さらに、第八の問題としては、このようなかれらの方向にたいして、われわれは基本的に、ひとつは暴力革命、プロレタリア独裁の樹立というマルクス主義・レーニン主義の基本的な命題を、はっきりふみかためて前進しなければならない。そうしてそのなかでわれわれは、「内乱・内戦――蜂起」という路線を、はっきりとおしすすめることをつよく訴えたいと思います。これが、われわれの課題として大きく問われてきているということについて考えていかなければならないのではないかと思うわけです。もう時間がありませんからかんたんに申しますけれども、われわれの世紀は、二〇世紀という時代、基本的にブルジョアジーを打倒し、プロレタリア独裁を樹立し、共産主義の窓口を、階段を、階梯をわれわれがよじ登る、このような共産主義の実現の時期だということを諸君ははっきり確認してもらいたい。
 われわれは、ただたんに、ブルジョアジーとわれわれが敵対しているという確認だけでは足りない。われわれは、帝国主義の敵だということ、帝国主義はわれわれの敵だと確認するだけでは足りない。われわれは、スターリン主義が革命をゆがめているということを確認するだけでは足りない。そうではなしに、ブルジョアジーという敵、帝国主義という敵、スターリン主義という敵、スターリン主義者による世界革命の歪曲を文字どおりうちやぶって、われわれは勝利しなければならない、その勝利の世紀に生きているということをはっきり確認してもらいたいと思います。
 すなわち、われわれは、反帝国主義・反スターリン主義の基本戦略にたって、たたかいぬいていくわけですけれども、同時に、そのわれわれの反帝国主義・反スターリン主義の戦略を、文字どおり実現する時代、七〇年代、八〇年代のこの偉大な時代のなかに文字どおりかちとっていくことが肝要であります。三〇年代のあの危機のなかで、全世界のプロレタリアート人民がたたかい、そして血の敗北のなかで学びとったその教訓を、われわれはこれからの勝利のたたかいのなかで生かしていかなければならない。そういう時代にわれわれは、たっているということであります。
 そういう意味でわれわれは、基本的に、第一の問題として、現代世界の基本的な認識にふまえて、どんなことがあっても、これを全世界的に根底的に打倒する革命の立場にたたなければ、今日の世界は、二進も三進も行かないのだということをはっきり確認しておきたい。
 たとえば、ベトナム問題について、これがいったいブルジョア的に解決できるのか、第二のジュネーブ的解決などといっている人たちがいますけれども、絶対に不可能だということは明白であるわけです。実際したくてもできないことが多いのです。そういう状態のなかで、たしかに帝国主義者が、したいのかしたくないのか、それはわれわれにはわからない。しかしかれらがどう考えようと、ベトナム問題は、プロレタリアートが全世界的に勝利するそのたたかいの前進以外に、なにひとつ解決がないということをはっきりしめしております。
 カクマルの諸君は、帝国主義は変質したというふうなことをいっている。しかしながらわれわれは、帝国主義はいささかも変質していないのだということを、はっきりみなければいけない。
 われわれは、レーニンによってきりひらかれ、うちだされた帝国主義段階論の立場にふまえて、その立場を実践に適用していく立場から、今日の帝国主義というものを分析しなければならない。
 いわゆる国家独占資本主義といわれるものも、あくまでこれを段階論としてではなしに、政策論として今日の段階で展開していくという見地にたたなければならない。
 つまり帝国主義段階のうえにふまえた、しかも革命と反革命の全世界的な内乱的対峙のなかで、帝国主義が不可避的にとらざるをえない政策の改正として、今日の国家独占資本主義の姿というものをとらえなければならないのです。
 そういう意味では、われわれは、帝国主義の革命と反革命とに規定された具体的な有様、戦争と革命の時代における帝国主義の有様として、この姿をはっきりとらえておく。そうして、このような帝国主義の根底的な打倒にむかってすすんでいくということが、われわれの回答でなければならないのです。
 さらにまた、カクマルの諸君は、たとえば植民地支配、後進国植民地体制というものがすでになくなったといっている。しかしながら、こういう考え方も、じつは、戦後二七年間の日本帝国主義によって、まきちらかされてきたところの、いわゆる戦後民主主義の思想、あるいは戦後の平和と民主主義の思想にほかならないのであります。
 かれらは戦後二七年間、日本の帝国主義が、アメリカを中心とする帝国主義の世界体制があって、そしてそのアメリカを中心とする戦後世界体制が、戦後的な形態において、植民地後進国を支配し、それにたいする武力的、金融的な抑圧をつづけることによって、日本帝国主義もまた存続することができた。それだけではなしに、今日の段階にあっては、このような帝国主義の植民地支配体制が大きくぐらついて、アメリカ帝国主義のアジアの支配体制がぐらぐら揺れてきている状態のなかで、日本の帝国主義がアメリカと共同してベトナムにたいする侵略をおこない、アジア人民にたいする全面的な侵略の政治をすすめようとしているその真最中に、植民地などというものは存在しないなどという、人民を武装解除する理論をとなえている。
 しかしながらわれわれは、帝国主義というものが基本的に世界体制として存在しているということ、世界支配として存在していること、そうして、その不可分の分肢として植民地体制というものが、具体的に存在せざるをえない、どんなに追いつめられても、帝国主義は帝国主義であるかぎり、なんらかのかたちで植民地後進国人民にたいする支配のかたちをつくりださなければ、かれらは生きのびることができない。そうした姿をわれわれは、まずはっきりと理論的につかみとることができる。なぜなら、われわれはレーニンの帝国主義論をほんとうに学び、その見地から今日の帝国主義を認識すればはっきりわかるわけです。
 今日、アメリカ帝国主義が、アジアにおいてやっていること、アメリカ帝国主義が、ベトナムにおいてやっていることをみれば、はっきりするのではないか。かれらは、なんのためにあそこにきているのか! つまり帝国主義者は、後進国植民地人民を支配するという関係を、どんなことがあっても維持しなければならないから、何千キロも海を渡ってベトナムに攻めこんできているのではないか! こういう現実を直視すれば、われわれは、帝国主義者にとって、植民地支配の体制、後進国半植民地体制が、不可分の体制であることをはっきり読みとることができるのです。
 そうではなしに、ベトナムにおいてなにか、スターリン主義者かなにかが、革命をやろうとしているから、それにたいして自由世界を守るためにアメリカがいくのだ、などと帝国主覇者の規定にカクマルが屈服しているから、こういう植民地支配の現実がわからないのだ。
 こういうことは、今日では、朝日新聞、毎日新聞だってあまりはっきりいえなくなっている。それを『解放』などという新聞のなかで、堂々といってのける。こういうところに、まさに、反革命の前衛としてのかれらの姿があるのだ。
 こういうところを諸君たちは、はっきりつかみとってほしい。だがさきほどいったように、今後ともマルクスの経済学を学び、レーニンの帝国主義論を学ぶならば、帝国主義者の今日における植民地支配というものがなんであるのかを、われわれはつかみとることができる。
 しかし同時に、これを武器にして、さらに現実の歴史をみてみれば、現実の世界の状態をみれば、もっと問題がはっきりしてくる。こういう現実からわれわれが、目をそらしたところでベトナム反戦なんて三千回となえたって、これは帝国主義者を擁護し、人民を愚弄する以外のなにものでもないということを、はっきりいいたい。そういう意味で、植民地体制の問題なり、さらにアジアの情勢というものは、非常に重要なところにきている。
 われわれのこのような事態にたいする回答は、まさに戦後世界体制の危機を、反帝国主義・反スターリン主義世界革命によって、根底的に瓦解せしめよ! というわれわれのスローガンを、真に実践する以外に勝利はありえないのだということが、はっきりしめしているのではないか。
 さらにわれわれは、今日の段階において、暴力革命と内乱の戦略の問題をはっきりにぎりしめて前進しなければならない。すなわち、われわれにとって、革命をおこなうということは、とりもなおさず、プロレタリアートの革命的な暴力をもって、ブルジョアジーの政治的暴力を打倒することであるわけです。
 さきほどわたしは、共産主義とは、プロレタリアートによって、資本家的私有財産を積極的に止揚することだといった。しかしながら、積極的に止揚するとはどういうことなのか。自然にできるのか。説得してできるのか。話し合ってできるのか。そうじゃない。
 われわれは、帝国主義の政治的な暴力のなかに日々あるわけですけど、このようなかれらの弾圧にたいして、われわれプロレタリアートの革命的な暴力として、日々の階級闘争のなかで一歩一歩団結させていかなければならない。
 革命的な暴力として、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの革命的な暴力として、階級を一歩一歩団結させ、その力によってブルジョアジーを打倒し、そうしてプロレタリア独裁を樹立するというかたちをとって、資本家的私有財産の積極的止揚のための第一歩は、しるされるわけです。
 こういう時代のなかで、われわれは実際にブルジョアジーのこういう政治的暴力を、ぶちやぶって、はじめて前進していくことができる。そうしてそれは、そういう手段をとる以外にわれわれは解放されないから、そうやるのであるけれども、しかしわれわれは、こういう手段性においてのみ、暴力革命を理解しているのではない。そうではなしに、われわれはこういう道を選ばなければできないからやってのけるのだけれども、しかし同時に、そういうたたかいをやることによって、プロレタリアートは、自分自身の革命的な共同性、ブルジョアジーを打倒し、自分自身が社会の主人公になっていくたたかいの力を、がっちりとつかみとっていくことができるのです。
 たとえばわれわれは、今日、ブルジョアジーにたいして、ベトナム戦争反対、あるいは憎むべきあの狭山差別裁判にたいして、われわれのたたかいをおしすすめていく。われわれは、このようなたたかいなしに自分自身を表現することができないから、なんとしてでも、思いをこめてそのたたかいをやりとげていく。機動隊がくれば、これをぶちやぶってでも、われわれの目的を達しようとしてやりとげていく。しかし同時にわれわれは、こういうたたかいの一つひとつをとおして、われわれの、階級としての、プロレタリアートとしての、革命的な質をたかめ、ブルジョアジーを打倒する力を組織化し、そして将来ブルジョアジーを打倒したのちに、新しい社会を建設していけるそういう指導と支配の能力をわれわれ自身がつくりだすために、プロレタリアートの共同の質をつくりだすために、こういうたたかいをたたかっているのではないだろうか。
 そうだとすれば、われわれの暴力革命は、ただたんにそれなしにできないからではなしに、われわれがこのようなたたかいをやりぬくことによって、真に新しい時代をつくりだす能力をつかみとることができるわけです。これがマルクス・レーニンによってきりひらかれてきたところのプロレタリア革命の思想であり、暴力革命の原理であり、このようなわれわれのたたかいにたいして、まさに敵対するものをうちやぶって前進しなければならないのです。
 現在、世界史的過渡期ということばは、だいたい二つの意味に使われている。
 つまり、世界が、帝国主義が支配する時代から社会主義の時代に、世界的にすすみつつある、こういう世界史的な過渡期の時代という場合がありますけれども、それからもうひとつは、帝国主義権力を打倒して、まだ全世界的にプロレタリアートは解放されていないけれども、特定の国、あるいは特定のいくつかの国において、プロレタリア独裁を実現している国というのを一応過渡期という場合があります。この二つで使っているわけですけれども、ないしはとくに後者を前者と区別するために、前者を世界史的な過渡期、後者を過渡期社会というふうにいう場合があるわけです。
 こういう世界史的な過渡期の時代が、一九一七年以後はじまっているわけです。ところで世界史的過渡期の特徴とはなにかというふうにいえば、革命と反革命が、共産主義か資本主義かをめぐって文字どおり全世界的に、政治的に、暴力的に衝突している時代、一方が勝てば一方は敗ける、一方が敗ければ一方が勝つという革命と反革命のジリジリと対峙したこういう情勢、これが過渡期といわれる意味であります。こういう過渡期の情勢というものに規定されていることによって、今日の世界の階級闘争の特徴というのは、絶えず革命的な情勢があらわれる。
 つまりある時期に平和的にすすんでいて、こうして一定の時期がきたときだけ革命的な情勢がくる、こうしてそのときだけは革命と反革命の非常にきびしい対峙がある、それ以外のときは、比較的にのん気でやっていける、こういうふうな階級闘争のかたちというのは事実上不可能なわけです。
 つまり、一定の革命的高揚期ではなしに、それ以前の段階において、帝国主義は、すでに反革命的な意図をもって、徹底的に革命的な勢力を鎮圧する、そうして、革命から逃げだしたグループについては、一つでも帝国主義者の側にどんどん獲得していく、そして、それにたいして、反抗するもの、無言の弾圧を阻止する性格のものには、内乱鎮圧型の攻撃を加える、こういうかたちの攻撃が文字どおり全世界的におこなわれているわけです。
 つまり、整理してみますと、階級闘争を一方では体制内的に包摂してしまう。そういう装置が、組合主義的にも、議会主義的にも、いろんなかたちをとって帝国主義者に整理され、先制的、攻撃的におこなわれているわけです。
 そうしてもう一方では、こういう帝国主義者の攻撃にたいして、あえていえば、これをはみだして、この帝国主義者の攻撃にたいして、文字どおり革命的な内乱の質をもって、階級闘争を遂行しようとする力にたいしては、どんどん先におさえつけていく、こういうやり方をとってくるわけです。
 たとえば、わたしたちの裁判、四・二八破防法裁判などでは、最近、帝国主義権力の攻撃の仕方が、とくに治安という概念を広く使っているというようなことが問題になっている。
 そして破防法第二条をめぐる問題として、こういう使い方は、やはり帝国主義者の今日の危機に関係があるのではないかと申しあげているのでありますけれども、実際、こういう権力によって治安政策が非常に拡大的に、しかも日常的におこなわれている。これは、じつはこういう内乱の時代のもっているひとつの法律的、治安政策的な反映だとわれわれはとらえなければいけない。
 わたしはさきほど、ファツシズムの登場において、ナチズムの登場において、あるいは中国国民党の登場において、プロレタリア運動や民族運動の内部に登場してきた勢力が、革命勢力と衝突しながら、しだいしだいに権力に接近して、これと癒着を深めて、これが、じつは革命勢力を鎮圧するもっとも悪質な勢力に転化するという姿を指摘しました。
 そしてこれは、階級闘争の内乱的な時代にまさに相応する特徴だというふうに、それが今日の時代のもっている特徴なのだということについて指摘しました。ですから、暴力革命の思想であるとか、あるいは革命的暴力の思想だとか、ということをわれわれが確認するとすれば、当然日々の階級闘争の内部にあって、革命と反革命との日々の対峙のなかで、このような路線を貫徹するということなしにありえないのだ、ということをはっきり意味しているのだと思うのです。
 同じように民族解放のたたかい、これも帝国主義者にたいする永続的な革命戦争なしに貫徹できないということが今日の特徴であるわけです。まさに、民族解放のたたかいが革命戦争というかたち、民族解放・革命戦争というかたちを主要にとることなしには発展できないということ、これが暴力革命の思想を今日的に貫徹していくために、われわれが避けてとおることのできないもうひとつの特徴であるわけです。
 もう一度整理して申しますと、われわれは、暴力革命の原則をこのなかで貫徹していかなければいけない。そうして、このような暴力革命を貫徹していくためには、当然、内乱の戦略に立脚しなければいけないし、日々の階級闘争のなかにおいて、この思想を一つひとつ確かめて前進していかなければいけないのだということが、二番目の問題です。
 さらに、民族解放のたたかいは、このような帝国主義にたいする革命戦争としての形態をとることなしには、前進できないという時代的風潮のなかに今日われわれがたっているというのが、三番目の問題であるわけです。
 そうしてさらに四番目の問題としては、こういう原則のうえに立脚して、帝国主義本国=抑圧民族内部にあっては、帝国主義の植民地支配、帝国主義の植民地にたいする侵略、こういったものを内乱に転化していく革命戦略なしに、絶対に勝利はありえないということ、そうしてこのようなたたかいのなかにあっては、われわれは帝国主義の排外主義、それにたいするスターリン主義者の屈服、あるいは帝国主義者の差別と分断の政策、これにたいするスターリン主義者の屈服、こういうものにたいする日々きびしいたたかいをとおして、われわれの内乱の戦略を前進させていく、こういう見地にわれわれがたつことなしに、絶対前進できないということをはっきり示しています。
 そういう意味で、最後に申しあげたい点は、こういうわれわれの課題、もう一度整理して申しますと、現代世界の基本的な変革の立場、さらに大きく分けると暴力革命と内乱の戦略の立場、こういうものを解決していくためには、われわれは革命党の建設を、今日の二重対峙という情勢のなかで、文字どおり勝利的に貫徹していかなければならないということを意味しているわけです。
 つまり、われわれは革命党の問題、つまりプロレタリア独裁のための党として、革命党をつくりだしていくわけですけれども、こういうわれわれのたたかいは、ただたんに真空のなかできりひらかれるものではなしに、革命党創成のたたかいを、組合主義の闘争に、合法主義の闘争におし曲げようとする諸君、革命党建設のたたかいを反革命によってぶちやぶろうとしている諸君、こういう諸君との日々きびしい対決をとおしてのみわれわれの前進はありうるのだということを、はっきり確認願いたいと思います。
 すなわち、今日的段階でいえば、われわれは帝国主義者とのきびしい内乱的な対峙をつくることなしに前進することはできない、また、七〇年代反革命のその先兵として登場してきたところのカクマル反革命との対峙なしに、われわれの前進はありえない。
 こういう情勢のもとにあっては、まさにカクマル反革命とのわれわれの闘争は、全人民の共通の課題であるということをはっきり確認しなければならないと思うのです。ただたんに、これは革命と反革命のあいだのたたかいとしての意味をもつだけではなしに、全人民がこの課題に真に勝利したとき、われわれは同時に革命の前進のための力を、もぎりとることができるのだということを考えなければならない。
 そうだとすれば、われわれはまさに本格的な党建設、本格的な革命勢力建設の問題を、まさに今日における二重対峙の状況のなかにおいて貫きとおしていく、そういう見地において、はっきりそういう考え方をわれわれのなかにうちかためて、そのたたかいに勝利しなければならない。具体的にいうならば、この二重対峙の状態はイヤなことだ、と消極的にとらえ、がまんしていて、その後なにかすばらしいことができるというのではなしに、この二重対峙の状況をむしろ有利な条件として、われわれが徹底的に使いきることによって、われわれは積極的に使いきることによって、党を維持し、党を拡大し、党を組織的に強化していく、そういうたたかいを文字どおりすすめなければいけない。
 われわれは、われわれの戦略的総路線、とりわけ「内乱・内戦――蜂起」、さらに「第三・第四の十一月」をきりひらいていく、そういう方向にむかって、われわれが運動を、独自的に、戦略的にたたかいとっていくという過程としておこなわれなければならない。さらにわれわれは、今日の二重対峙の状況のなかで、われわれがうちだしている戦略的防御という観点、この戦略的防御のたたかいのもっているきわめて攻撃的な性格、こういったものをわれわれがはっきりとつかみとって、そうしてそのたたかいのなかで、一つひとつ前進していく、われわれはこういうなかでむしろ大きく前進し、発展していける、そういう指導の建設を、活動のあり方を、われわれはこのたたかいのなかで一つひとつ学びとり、確認し、全体のものとしていく、そういうたたかいにおいて勝利していかなければならない。
 またわれわれは、カクマルの反革命的なたたかいは、じつはかれらのもっている反革命的な理論によって基礎づけ、位置づけられている以上、われわれは、かれらがもっている活動のさまざまな誤りや反革命的な行動の誤りの一つひとつをはっきりと爆砕し、うちやぶり、批判していくと同時に、こういうものの基礎になっているかれらの反革命的な理論体系遠慮なしに爆砕し、うちやぶるたたかいの前進を大きくきりひらいていかなければならない。
 これがきょうの確認だろうと思います。われわれが、こういうたたかいを今日やりとげていくこと、これがじつは、ほかならぬわれわれの革命的共産主義運動の現在的段階であるということを、はっきり確認しておきたいと思います。
 われわれは、十数年前にほんの数人の、一握りのグループから出発した。そして、スターリン主義者とたたかって前進してきた。帝国主義者とたたかって前進してきた。
 われわれの運動の内外から発生したさまざまな誤った傾向、たとえばトロッキー・ドグマチズム、たとえば左翼スターリン主義、たとえば運動を小ブルサークル主義の方向におしまげようとする傾向、あるいはさまざまな転向、そうしてまた今日、われわれの革命運動を、反革命的にやぶろうとしているカクマルの策動、こういったものをわれわれが一つひとつふみくだいて、うちやぶって、今日まで革命的な前進をとげてきた。
 こういう状況のなかで、われわれは今日、帝国主義者との関係のなかにおいて、あるいは反革命との関係のなかにあって、もう一歩もうしろにさがることができない内乱的な対峙の状態を、われわれの力でつくりだすところまできたのだ。われわれは、これをいったいどう考えたらいいのか、これこそ、われわれがつくりだそうとしてきたものなのではないのか! 十数年前に、われわれはなんとしてもまず第一歩としてここまでこなくてはならないと考えていたものがようやくきたのだ。
 しかし、まだまだわれわれは、力が弱い、われわれのこのような一握りの力では、まだ圧倒的な帝国主義と権力を打倒するには力が足りない、反革命をうちやぶるにもまだ力が足りない。
 そうだとすればわれわれは、こういう二重対峙の情勢のなかで一歩一歩前進しながら、そのなかでわれわれのこの勢力を本格的に強化していって「内乱・内戦――蜂起」を真にたたかいとりうる、そうして第三の十一月、第四の十一月を戦取しうる、そのようなわれわれの勢力を、一歩一歩今日のたたかいのなかできりひらいていくこと、これがわれわれの結論でなければならない。
 最後に、わたしは、つぎの一点だけ申しあげたいと思います。このようなわれわれの巨大な前進にとって、一九七二年の十一月のたたかいは、非常に重要だということであります。すなわち、狭山――基地――十一月政治決戦というかたちで、われわれは今日たたかいを前進させようとしている。
 われわれは、相模原闘争を中心とする全国の基地闘争を、これを一歩もゆるめることなく帝国主義のベトナム共同侵略にたいして、われわれの革命的な反戦闘争、侵略を内乱へのわれわれのたたかいを決定的に前進させなければならない。われわれのこのようなたたかいを、小ブル急進主義や小ブル平和主義の方向におしまげようとするカクマルの反革命的な策動をうちやぶって、われわれは、前進させなければならない。
 同時に、われわれは狭山闘争において、狭山差別裁判糾弾のたたかい、狭山裁判闘争の最終的な勝利のための偉大な窓口に、偉大な入口に、今日たっていることを確認しなければならないと思う。われわれは、帝国主義者の井波十一月結審体制に、この十一月闘争をとおしてはっきりとどめをささなければならない。このたたかいなしに狭山闘争の勝利はありえない。十一月一九日のたたかい、十一月二八日のたたかいをとおして、この井波体制にはっきりとどめをさして、敵を追いつめなければならない。これがわれわれの今日の任務である。
 さらに、このたたかいのなかで、われわれはこの狭山闘争の決定的な勝利にむかって驀進を開始しなければならない。われわれは、戦後の日本の裁判闘争のなかにあって、松川裁判というかたちをとってひとつの巨大な歴史的な山が、われわれにたいして与えられている。しかしわれわれは、日本共産党を中心としてたたかわれたところの松川裁判を大きくのりこえて、狭山闘争の大勝利をわれわれの手に握りしめなければならない。帝国主義者がどんなことをいっても、石川青年を無実の罪に追いやることはまったく許されない。全人民の、全プロレタリアートの戦闘体制を大きくつくりださなければならない。これがわれわれの今日の任務であります。
 そうしてこのようなわれわれの闘争の前進は、十一月闘争の爆発なしにはありえない。われわれは、こうしてこのような闘争をとおして、まさに松川事件、松川裁判闘争を大きくのりこえる革命的プロレタリアート人民のたたかいの方向と、あるべき姿をはっきりとつくりだして、この勝利をわれわれの手に握りしめることによって、さらにこのような無実の石川青年を、部落青年であるがゆえに、監獄に永きにわたって追いこんでいるその帝国主義者に責任をとってもらう。
 このような帝国主義者にたいして徹底的に弾劾のたたかいをおこない、石川青年を生きて奪還し、そうしてこのような事実無根の攻撃をおこなった帝国主義者にたいして、はっきり最後の決着をつけるところまで、われわれの偉大な闘争をここできりひらかなければならない。
 これは、まさに革命的共産主義運動が十数年の歴史において、どうしても勝たなければならない課題として、文字どおりわれわれに歴史的に要請されている偉大な任務であるということ、このことを皆さん方に確認していただきたい。
 わたしの結論は以上であります。