二 勝利の七二年を武装進撃せよ
  七〇年代階級闘争の内乱的発展へ全同盟の鉄の武装=本格的建軍を
 
 第一、第二の十一月決戦は、日本の階級闘争に澱(おり)のようにしみついて離れない階級調和的思考=妥協的性格を荒あらしく踏みこえ、人民的暴力の復権を大胆に宣言したことによって、恐怖にかられた反革命の激甚な反応をよびおこした。警察=カクマル連合の相呼応した攻撃が、本格的なかたちをとってわが同盟を襲ったのである。それは革命と戦争の時代の到来を告げ知らせるものであった。本稿は、日本階級闘争の歴史を画するこの決戦を、全責任をもって指導しぬいた筆者が、七〇年代こそ革命と戦争の時代であり、内乱・内戦――蜂起=権力奪取のみが勝利の道であること、また、全同盟の鉄の武装と人民革命軍、武装遊撃隊の建設を、はじめて提起した綱領的文献である。
 
 
 一 戦後体制の歴史的破局のはじまりと日帝の危機
 二 階級闘争の内乱的発展と密集した反革命の登場
 三 七〇年代闘争の武装中核「人民革命軍・ 武装遊撃隊」の建軍をかちとれ
 四 七〇年代反革命「警察=カクマル連合」をせん滅せよ
 
 
 コザ暴動の衝撃的な感動のもとで革命的内乱の時代の決意もあらたに迎えた七一年は、〈三里塚、沖縄・入管〉を基軸とした秋のたたかいの大爆発をもって、七〇年代日本階級闘争の内乱的、革命的高揚の永続的な展望を鮮明に照らしだし、日本労働者階級と人民大衆にたいし、勝利の不動の勇気を与えたのであった。
 五・一九闘争を突破口に、六月一七日の明治公園爆弾闘争、九月一六日の三里塚・北総暴動、十月二四日の一連の爆弾ゲリラ闘争、十一月一〇日沖縄全島ゼネスト・暴動決起、十一月一四日の渋谷、一九日の日比谷――銀座の東京大暴動を頂点として、文字どおり激闘につぐ激闘としてたたかいぬかれた七一年日本階級闘争は、六九年十一月決戦がかちとった勝利をひきつぎ、それをはるかにこえるものであり、日本階級闘争の質の決定的飛躍、革命的内乱の時代への現実的突入をはっきりと画期するものであった。革共同――中核派を先頭とする革命的左翼は、沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒、日帝のアジア侵略を内乱へ!の旗を高々とかかげ、機動隊せん滅の任務を堂々と提起し、日本帝国主義の機動隊政治に真正面から挑戦し、これに勝利する階級的経験を獲得したのであった。まさに、七一年の階級的経験を肯定し、その強化をとおしてプロレタリア階級闘争の革命的前進をかちとる立場にたつのか、それとも、この階級的経験を否定し、その壊滅をとおしてプロレタリア階級闘争の体制内封殺をはかる立場にたつのか――革命と反革命、前進と後退、左翼と右翼との日本階級闘争の歴史的分岐は、この一点にかかっている。この分岐は、なんぴとといえども避けてとおることはできない。
 もちろん、われわれは、みずからの非力の結果として沖縄「返還協定」と関連諸法案を阻止し、爆砕することができなかったことを沖縄県民および、それを先頭とする労働者階級=人民大衆に心から自己批判する。また、通常国会への入管法の再々上程、自衛隊の沖縄派兵、天皇の沖縄訪問、火炎ビン法案など、日本帝国主義の重大な反動攻撃がつぎつぎとかけられようとしていることを、われわれは新年にあたって厳しくうけとめるべきである。しかし、同時にわれわれは、七一年秋のたたかいの内乱的、武装的、革命的爆発をとおして沖縄奪還闘争の永続的高揚、七〇年代の革命的内乱の足がかりを獲得したことも確信をもっていうことができる。残る問題は、七一年のたたかいのひらいた道を七〇年代の勝利にむかって進むことである。
 
  戦後体制の歴史的破局のはじまりと日帝の危機
 
 七二年――七〇年代の日本階級闘争の内乱的、革命的な発展は、いかなる意味においても不可避の過程である。日本帝国主義国家権力はもとより、いっさいの体制内左翼(社共、カクマル)は、帝国主義支配体制の「左」側の支柱としての役割をまっとうするため、プロレタリア階級闘争の内乱的爆発を阻止すべく思想的、政治的、組織的な全制動を全回転するであろう。なぜならば、日本階級闘争の革命的内乱の時代の到来は、体制内左翼の理論的、綱領的な破産を明白にするばかりか、かれらの政治的、組織的な存在条件そのものを根底から奪ってしまうからである。破産と没落の危機――この一点において、帝国主義と体制内左翼は同一の運命に結びつけられている。
 ただ社共とカクマルの対応の今日的な相違は、後者が革共同――中核派の革命闘争に敵対し、それに右翼的・反革命的襲撃を加えることを最大の組織的任務としてきた、という歴史的な条件に規定されて、他の体制内左翼よりもいっそう先鋭に自分たちの破産と没落を感知することができたところにある。七一年秋に悪夢のようにカクマルを襲った組織的動揺と大衆の離反は、七二年――七〇年代闘争の激動をとおしていっそう冷酷に進展するであろう。すでにのべたように、警察権力と連合し、その庇護のもとに反革命武装襲撃集団として延命しようとするカクマルのみじめな姿を直接かりたてているのは、このような時代史的な推移への恐怖と憎悪なのである。しかし、帝国主義の支配そのものの崩壊が現実の射程に接近しはじめている今日、帝国主義の支配を支える万能の部隊であると自他ともに認めてきた機動隊が無残な敗北を経験しはじめている今日、帝国主義にとっても、その傭兵になりさがったカクマル反革命主義者にとっても、お気の毒にも未来がいささかも希望をもちえないものであることは明白である。
 それでは、七二年――七〇年代の日本階級闘争の内乱的、革命的発展を不可避としている条件はなんであろうか。
 まず最初に七二年――七〇年代日本階級闘争の内乱的、革命的発展を客体的に規定している第一の条件は、帝国主義戦後世界体制の果てしない破局がはじまったという点である。
 すでにいくどとなく論じてきたように、戦後の世界体制は、帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の時代を、国際共産主義運動のスターリン主義的変質=帝国主義への屈服と協力と、二九年恐慌――第二次大戦をとおして実現したアメリカ帝国主義の圧倒的な政治的、軍事的、経済的な優位性とを二つの歴史的条件として、ヤルタ=ジュネーブ体制的な平和共存形態に変容させ、それを世界史的な前提として、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の構築、発展をすすめることを基軸として存立してきたのであった。帝国主義軍事ブロック=集団安全保障体制とドル・ポンド国際通貨体制という二つの柱は、アメリカ帝国主義を盟主として特殊戦後的に成立した帝国主義の世界体制を支える決定的保障であった。帝国主義の戦後的発展は、いくたの困難にもかかわらず、基本的にはアメリカ帝国主義の擬制的な世界支配と、それを可能ならしめたアメリカ帝国主義の巨大な物質力、その「ゆるやかな」成長を存在条件としていた。
 しかし、帝国主義の戦後世界体制は、磐石のうえに構築されたものではなく、つぎの諸点において決定的な弱点を有するものであった。
 すなわち、第一には、戦後革命のヤルタ=ジュネーブ的な制圧と、それを軍事的に保障するための帝国主義軍事ブロック=集団安全保障体制、全世界的な軍事基地網、とりわけ南朝鮮、台湾、南ベトナム、イスラエルなどの軍事分割基地国家群の存在が、帝国主義戦後世界体制の矛盾の爆発点に転化していること、第二には、アメリカ帝国主義の圧倒的な経済力を背景として世界経済の 「統一性」を回復したものの、それは二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック的解体を解決したものではなく、それゆえ、西欧、日本の復活とアメリカの位置低下という資本主義の不均等発展の結果として帝国主義諸国間の争闘が激化せざるをえないこと、第三には、帝国主義の戦後の世界市場編成が、帝国主義本国の農民保護政策や、いわゆる科学技術革命と重化学工業化政策の結果として、後進国・半植民地経済を(石油などの一部原材料を除いて)基本的に排除するかたちでおこなわれ、しかもアメリカの軍事、経済援助が現地経済の慢性的破局をいっそう促進したため、後進国・半植民地国の階級闘争が恒常的に激化し革命的反乱を永続化させていること、第四には、ケインズ型の国家独占資本主義政策にもとづいて戦後的成長と、その行きづまりを強行的に突破してきた本国経済が、累積した過剰資本の矛盾と、その外的転嫁としてのインフレ、通貨危機の激化を基軸として破局的情勢を深めていること、第五には、第二次大戦とその戦後処理にもかかわらず、戦争をもたらした原因も、戦争そのものも基本的には解決せず、戦後四半世紀にわたって数十の戦争が続発しており、しかもそれらの戦争が帝国主義の戦争から国際的内乱=革命戦争への転化の傾向を全体として強めていること、第六には、アメリカ帝国主義は、アメリカ体制ともいうべき世界経済体制をとおして巨大な富を獲得する機構を維持してきたが、反面、それは矛盾と負担を集中する機構となっていること、である。
 ベトナム敗勢とドル危機を両軸としたアメリカ帝国主義の体制的危機、すなわち、従来の伝統的世界政策の破綻、国内体制の政治的、軍事的、経済的、社会的な動揺、特殊的な戦後革命の危機の深まりは、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺、その矛盾の破局的爆発のもっとも先鋭な表現である。いいかえるならば、戦後帝国主義の世界的盟主であったアメリカ帝国主義は、いままでどおりの方法では世界支配=国内体制を維持していくことができなくなったという新しい情勢のなかで、従来どおり世界支配をつづけなくてはならないこと、いままでの国際経済関係の犠牲、他国帝国主義の犠牲のもとに国内経済の高揚をはかる、という方法で戦後世界経済の「統一性」をみずから破壊しながらも、他の帝国主義諸国の協調をその前提とせざるをえない、という解決不能の矛盾に直面しているのである。ニクソン訪中と新経済政策という二つの政策は、アメリカ帝国主義の世界支配=国内体制の崩壊過程における時間かせぎと、息つぎの政策であり、このようなやり方は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺をいっそう深めるだけのものである。
 第二の条件は、戦後帝国主義の世界史的な破局のはじまりと、それを突破するための体制的危機をかけた攻撃の激化のなかで、スターリン主義の歴史的破産がますます深刻となっている、という点である。
 もともとスターリン主義とは、ロシア革命を突破口とした帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の時代のなかで、共産主義的人間解放の条件を世界革命の完遂にもとめる、というマルクス主義の基本原理を放棄し、一国社会主義理論と平和共存政策をもって世界史的過渡期の革命的推転を反動的に阻止し、変質させていくところにある。いいかえるならば、第二インターの社会民主主義的変質が労働者運動の帝国主義国内支配体制の支柱への転化に主軸があったとするならば、第三インターのスターリン主義的変質は、国際共産主義運動の帝国主義世界支配体制への屈服と包摂に主軸があったといえるであろう。
 ソ連を盟主として戦後成立した国際スターリン主義体制は、ヤルタ=ジュネーブ協定的な帝国主義との共存的対立関係を前提として、地方的な「共産主義世界」の形成を目ざしたが、その内実がソ連の一国社会主義的利益とその犠牲を他の国に強制するための機構にほかならず、過渡期社会の官僚制的変質を一般化するものでしかなかったことは、ハンガリア革命(五六年)とチェコ動乱(六八年)の二つの歴史的経験をとおして、いまやあまりにも明白な事実となっている。
 他方、毛沢東を指導者とする中国スターリン主義は、フルシチョフに代表されるソ連スターリン主義の度すぎた対米協調と、対中軍事経済援助の命令的・収奪的な構造に反発して「反帝反修」の旗をかかげ、人民公社――大躍進政策とその調整期の大矛盾を「文革」をもって突破しようとしたのであった。このような毛沢東=中国共産党の政策は、ソ連を先頭とする各国共産党の帝国主義への屈服と協力、議会主義、組合主義への体制的没入に不満をもちながらも、このような腐敗の根拠をつかみえない多くの戦闘的労働者人民にとって、国際共産主義運動の革命的再生の希望に炎をともすものとなった。しかし、われわれが十数年前の人民公社の時代、数年前の文革の時代から一貫して主張してきたように、中国スターリン主義の左翼性なるものは、帝国主義にたいする政治的・政策的な対立性を示すものでしかなく、帝国主義の永続的打倒という世界革命戦略の面でも、中国過渡期社会の諸困難と歪曲の突破という社会主義社会論・過渡期政策論の面でも、スターリン・フルシチョフの理論の枠を本質的にこえるものではなかったのである。
 帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の深まりと、アメリカ帝国主義の国内体制の史上未曾有の危機を背景にしてうちだされたニクソンの訪中政策は、すでに「文革」の官僚制的収拾にむかっていた中国スターリン主義にとって決定的な試練を与えた。世界帝国主義の元凶であるアメリカ帝国主義が、その破局的危機をのりきるために、時間かせぎと息つぎの政策を世界労働者人民にたいする攻撃として中国に加えてきたときに、中国スターリン主義は、これに歓迎の意を表したのである。かくして、かれらは、アメリカ帝国主義の侵略とたたかうアジア人民の決死の闘志をはずかしめ、アメリカ大革命にむかっての壮大な展望から労働者階級=人民大衆の目をそらす反動的役割をはたしているのである。
 まさに、このような裏切り的行為は、三九年の独ソ不可侵条約を想起させるのに十分である。しかし、同時に確認しておかなくてはならない点は、ニクソンの訪中政策と、それにたいする中国の歓迎政策が、どんなに反動的で、どんなに裏切り的であろうとも、アメリカ帝国主義と、それを中心とする帝国主義戦後世界体制の危機、アジア後進国・半植民地支配体制の崩壊的危機を救う決定的手段にはなりえないであろう、ということである。
 第三の条件は、帝国主義戦後世界体制の破局のはじまりと、そこから脱出しようとするアメリカ帝国主義の体制的危機をかけた攻撃の激化、中国スターリン主義のそれにたいする屈服と協力――こうした一連の国際的事態の矛盾が、日本帝国主義のうえに鋭く集中してきている、という点である。
 日本帝国主義の戦後の復興と発展が、日米安保同盟政策を基軸として帝国主義戦後世界体制に結びつき、それを政治的、軍事的、経済的与件としてはじめて可能であり、日本帝国主義にとって日米同盟政策を堅持することは、いわば生命線的な意味をもっていることについては、われわれが第三回大会以来いくどとなく指摘してきたところであるが、今日の情勢の特徴は、アメリカ帝国主義がその体制的矛盾から生ずる経済的、政治的犠牲を日本に圧倒的に転嫁する攻撃を強化してきている新しい局面のもとで、いくたの政治的、経済的な犠牲を甘受しても日米間の経済的関係、日米間の政治=軍事的関係を維持していかなくてはならないこと、にあるといえよう。
 いいかえるならば、日本帝国主義は、日米安保同盟の破局のはじまりのなかで日米安保同盟政策を堅持しなければならないこと、日本経済の高成長の行きづまりを重化学工業製品中心の対米貿易の拡大で突破する必要にかられながらも、それが日米経済関係、ひいては世界経済体制の破壊をもたらす、という完全に見通しのつかない矛盾に直面しているのである。
 日中問題をめぐる日本帝国主義の外交政策上の困難もまた、戦後世界体制の破局的な事態を条件としつつ、同時にそれを促進する役割をはたしているのである。すなわち、アメリカ帝国主義は、その内外する危機の深まりのもとで、日米関係を頭越しにして米中間係再調整の攻撃に出たのであるが、日米同盟を維持しつつ、それを基軸にしてアジア侵略への道をあゆもうとしている日本帝国主義にとって、それはまったく解決困難な政治情勢をもたらすものであった。
 もともと第二次大戦においてアジア人民に筆舌に尽しがたい苦しみを与えた日本帝国主義が、わずか四半世紀もたたないうちにふたたび侵略者としてアジアに登場するという歴史的現実は、アジア人民にとってまったく許しがたい事態なのであるが、まさに日中問題の焦点化は、第二次大戦の問題について日本が基本的にはなにひとつ解決していないことをあらためて明らかにしたのである。いいかえるならば、アメリカ帝国主義は中国との協商で時間かせぎをしながら、日本帝国主義をしてアジア後進国・半植民地体制の建て直しという火中の粟を拾う犠牲を負わせ、その新しい条件のうえにアジア支配権の再確認をおこなおうとしているのである。
 したがって、日本帝国主義とその政治委員会のまえには、さしあたってつぎの政策的方向しか残されていないのである。
 すなわち、第一には、日米関係の破局のはじまりのなかで、なおかつ、日米同盟関係を堅持し、重化学工業の対米市場依存を維持しつづけなくてはならないこと、第二には、日中関係の打開のための調整的政策を模索しつつも、基本的にはアジア侵略の道をすすまなくてはならないこと、第三には、日本経済の高成長の行きづまりと、それを打開するためのダンピング輸出との双方の矛盾と犠牲を労働者人民や中小企業にしわよせすること、第四には、独占救済のための財政金融政策の展開、国防関係産業の拡大にむかうこと、第五には、アジア人民と日本労働者人民の抵抗にたいして自衛隊の帝国主義軍隊としての強化、ボナパルティズム的強権支配体制の確立、革命勢力への内乱型鎮圧の強行をもってこたえること、第六には、階級闘争の体制内的(社共、カクマル的)封じこめ、国益意識・企業防衛意識、排外主義・非合理主義の動員、天皇制と天皇制イデオロギー攻撃の激化など侵略総動員体制の構築をはかること、である。
 しかし、日本帝国主義のこのような政策的方向は、いかなる意味においても平坦なものではありえないであろう。なぜならば、その道は、第一には、帝国主義戦後世界体制の破局のはじまり、帝国主義諸国間の恐怖の協調の破綻の深まりと帝国主義的争闘戦の激化、第二には、アジア後進国・半植民地体制の崩壊的危機、アジア人民の反日帝闘争の高まり、第三には、日本階級闘争の内乱的、革命的な発展と、そのもとへの圧倒的な労働者人民の支持と共鳴の高まり、という内外する困難な条件のなかでのみ現実にひらかれているからである。七一年秋のたたかいの大爆発にたいする国家権力の内乱鎮圧型の報復、官民一体となった反革命武装襲撃の激化は、日本帝国主義の未来にたいする帝国主義国家権力、反革命集団の絶望的恐怖を今日的に示すものである。
 
 二 階級闘争の内乱的発展と密集した反革命の登場
 
 つぎに、七二年――七〇年代日本階級闘争の内乱的・革命的発展を主体的に規定している条件について検討してみよう。
 第一の条件は、沖縄「返還」政策のペテン的展開をもって七〇年と七〇年代の全人民的爆発の危機をのりきり、沖縄と本土の労働者階級=人民大衆をアジア侵略の道に動員しようとした日本帝国主義と佐藤政府の基本政策が完全に破産した、という点である。
 日本帝国主義のいわゆる沖縄七二年「返還」政策は、本質的には沖縄県民の本土復帰の要求をくみあげるかのような形式をとって、アジア侵略基地、米軍と自衛隊の基地として沖縄を再編維持するところにあるが、同時にそれは、政治過程的には、七〇年安保闘争と七〇年代闘争の全人民的大爆発を回避し、日米同盟堅持・アジア再侵略という日本帝国主義の進路にむかって沖縄――本土の労働者人民の階級闘争のペテン的なのりきり政策であった。もともと日本帝国主義とその政治委員会は、六〇年安保闘争が国論を二分する内乱的傾向をはらんでいたことに反動的な恐怖をおぼえ、六〇年代の初頭より安保再改定にむかっての予防反革命的な対策を布石しようとし、野党勢力、革新勢力の体制内化と無力化のために努力し、ほぼ完全な見通しをうるにいたっていたのであった。
 しかし、日本帝国主義のこのような議会主義的、組合主義的な七〇年対策は、基本的には二つの水路において破綻し、決定的な修正を余儀なくされたのであった。すなわち、ひとつには、六七年十月の羽田闘争を突破口とした革命的労働者、学生の戦闘的決起と、圧倒的な労働者人民の支持と合流であり、もうひとつは、以上の事実を根底的に規定しているものであるが、日米帝国主義の沖縄の軍事分離支配が沖縄県民の本土復帰のたたかいのまえに完全に破綻してしまったこと、沖縄基地をはじめ安保諸実態、諸現実にたいし労働者人民の攻撃的闘争が激化しはじめたことである。
 これら二つの水路は、階級闘争の体制内的コースをこえ、全面的な人民反乱をひきだす階級的経験をもたらした。かくして佐藤政府は、一方では、革命的左翼のたたかいにたいし破防法、騒乱罪の適用を頂点とした全面的な弾圧を加え、十一月決戦の封殺を狙うとともに、他方では、従来からの「沖縄一体化」政策をペテン的な七二年「返還」政策に飛躍させ、それをもって日米共同声明による安保の実質的反動的再編を隠蔽する策謀に出たのであった。
 日本帝国主義とその政治委員会・佐藤政府の七二年沖縄「返還」政策は、いわば沖縄県民の本土復帰の要求を実現するかのようなペテン的やり方でもって、アジア侵略基地としての沖縄の日米共同管理的な再編維持をおこなうという面と、沖縄――本土の労働者階級=人民大衆をアジア侵略に動員するという面とをあわせ達成するところのもっとも鋭い反人民的政治攻撃であった。それゆえ、労働者人民の革命的鮮血をおびただしく犠牲にして唯一白ヘル軍団によってたたかいとられた六九年十一月決戦は、日米共同声明――七二年沖縄「返還」政策に課した日本帝国主義の予防反革命的=反人民的意図にたいする決死の糾弾であるとともに、七二年沖縄「返還」政策そのものを爆砕し、日帝のアジア侵略の道を阻止し、それを革命的内乱に転化していく英雄的闘争の第一歩をきりひらくものとなった。既成左翼はもちろん、カクマルや日和見主義諸派は、十一月決戦から逃亡したばかりか、日米共同声明をもって沖縄闘争は敗北的に終了したと宣言し、政府のペテン政策にやすやすと追従した〔カクマルの場合は 「サン条約第三条の破棄」というかれらの主要スローガンを破棄し、沖縄闘争を「反戦・反合理化闘争」なるものにすりかえようとし、沖縄の労働者人民に笑いものにされた!〕のであったが、このような十一月決戦と七二年沖縄「返還」政策粉砕闘争をめぐる革命主義と日和見主義との分岐は、七一年における沖縄「返還」協定粉砕闘争の歴史的内容をくっきり照らしだしているのである。
 いいかえるならば、沖縄「返還」協定とその関連法案に示される七二年沖縄「返還」政策の実質的な進展は、日帝の沖縄政策の反人民的で侵略的な内容を全人民に暴露することによって、佐藤政府のペテン的のりきり策動の破産を明確にし、同時に、沖縄「返還」協定粉砕のたたかいが、六九年十一月決戦勝利の経験と思想をひきつぎ、その質を飛躍的に高めるような闘争でなくてはならないことをはっきりと教えたのである。コザ暴動は全人民的決起の合図であった。
 第二の条件は、階級闘争の議会主義的、体制内的な包摂と解決がますます困難となり、日本労働者階級=人民大衆の暴動的、内乱的革命闘争への支持、参加決意がますます拡大している、という点である。
 政府自民党の圧倒的な国会議席数を背景とした審議の強行と、野党の議会主義的にも無力な対応は、七一年秋の「沖縄・入管国会」を特徴づける、ひとつの重要な事実である。国会議員面会所のまえを機動隊に許されて行進し、議員たちに無意味な激励を投げかけて空しく去っていく社共・民青――カクマルのデモ隊、六〇年安保闘争で国民会議がくりかえした焼香デモのいっそう無力な再現にまやかしの感動を語るブルジョア・ジャーナリズム――ここには、帝国主義国家権力によって巧妙に演出された階級闘争の体制的順応化の醜悪な姿が存在するのである。民同の従順な手足として第二の協会派の道をあゆむカクマルが、いかに「すわりこみ闘争の革命的意義」を語ろうとも、国会圧力闘争、社会党激励闘争という六〇年安保闘争以下の思想をもって貫徹されたそれに、社共、民青・カクマルを除いていったいだれが感動するであろうか。もとよりわれわれは社共共闘の国会デモに参加した沖縄県民や労働者人民の「闘う意志」をはずかしめようとは思わない。問題は、国会デモの官許的な屈辱感と、議員激励という転倒した無力感、体制内的デモの高揚に有頂天となっている社共指導者(そのカクマル的下士官)のおめでたさかげんへの怒りをほり下げ、それを革命的闘争への飛躍の現実的バネにしていくところにあるのである。
 沖縄「返還」協定反対の旗をかかげながら、はやばやと自民党に買収された公明、民社両党や、自民党反対派の憶病ぶりと、その反動的性格について、いまここで論ずることはやめよう。社会、共産両党や民青――カクマルにしても事態はいささかも変化するものではない。愚劣なことには、かれらはすべて沖縄「返還」協定とその関連諸法案、それをめぐる七一年秋のたたかいが、国会と国会議員によって決定されるのだ、と信じこまされているのである。しかし、現実はそうではない。七二年沖縄「返還」政策をめぐる真実の対決は、国家権力――警察機動隊による内乱鎮圧の予防反革命的首都支配と、それにたいする労働者階級=人民大衆の暴動的、内乱的決起を基軸として展開されたのである。
 六月一七日の明治公園闘争の大衆的、爆弾的爆発、九月一六日の三里塚――北総暴動、十月二四日のゲリラ的爆弾闘争、十一月一〇日の沖縄全県ゼネスト・暴動決起、十一月一四日の渋谷、一九日の日比谷――銀座の東京大暴動を頂点とする八三里塚、沖縄・入管)闘争の大爆発こそ、七一年秋の階級闘争の全内容を決定しているのである。
 【付論するならば、自民党永久政権の危機は、日中問題をめぐる党内の合意の不成立にも、野党の追及のするどさにも、社共型国会デモの膨脹にも、それの「すわりこみ」化にもあるのではなく、日本階級闘争の対決的基軸がこのような体制内的、議会主義的、組合主義的水路に包摂されず、独自に内乱的、革命的発展の方向にあふれだしているところにあるのである。この真理に佐藤も警察権力も気づいているからこそ、帝国主義支配の最後の支柱として機動隊政治と自衛隊治安出動の道をえらび、なおかつその弱点を補うものとして、極右勢力やカクマルを反革命武装襲撃集団に仕立て、革命勢力を実体的にせん滅させようと努力しているのである。】
 第三の条件は、七一年秋の〈三里塚、沖縄・入管)闘争へのゆるぎない発展のなかで、革共同――中核派が革命党としていっそう固くうち鍛えられ、戦闘的労働者人民の内部で他の追随を許さぬ圧倒的な支持と共鳴をうるにいたった、という点である。率直にいって、七一年秋のたたかいの高揚は、革共同――中核派の革命党としての死活の命運をかけた組織的な決意と、それを貫徹するための血と汗の自己犠牲によって、文字どおり力をもってもぎとったものである。
 この明確な事実にちょっとでも疑問をもつものは、七一年五〜六月ごろ各派がどんなことを主張していたか調べてみるがよかろう。革共同――中核派を除くすべての諸君は、佐藤首相と一緒になって沖縄闘争の終了を語り、「返還」協定粉砕闘争の決定的意義についてカキのように沈黙を守っていたのである。
 もとより、七一年秋の全人民的爆発が、沖縄「返還」協定・関連諸法案に示される日帝の七二年沖縄「返還」政策のペテン的・反人民的本質の露見に決定的に条件づけられていることはいうまでもないところである。いや、もっと本質的には、コザ暴動――五・一九沖縄ゼネスト――十一・一〇沖縄全県ゼネスト・暴動決起として貫徹された沖縄県民の怒りの炎が、七一年秋の全人民的高揚を不可避としたもっとも深部の力であることについては、われわれがこれまでいくどとなく確認してきたところである。しかし、同時に鮮血をもって経験を共有しなければならないのは、数世紀の怨念をこめた沖縄県民の協定粉砕・諸法案粉砕の決起にこたえ、首都東京を恐怖にたたきこむような全人民的闘争の爆発をもって日帝の反人民的攻撃に対峙し、沖縄奪還闘争の永続的貫徹・七〇年代闘争の内乱的、革命的発展の第一歩をふみだすには、革命的左翼の自己脱皮=党の革命的再武装をもってする闘争形態の決定的飛躍が必要であった、ということである。
 日本帝国主義の体制的危機がいたるところで矛盾の人民的・階級的爆発にとってかわろうとする今日の階級情勢のなかで、機動隊政治こそは、帝国主義国家権力にとって、その危機を脱出するための当面最大の切り札としての役割をはたしているのであるが、これにたいしわれわれは、沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒、日帝のアジア侵略を内乱へ! という革命的総路線にむかって圧倒的な労働者人民を動員しつつ、同時に、機動隊政治の突出を逆にとらえ、労働者人民の革命的・武装的闘争をもって機動隊を分断し、包囲し、せん滅するたたかいの勝利的経験をもって、七〇年代の革命的内乱の時代、内乱と武装の論理の勝利的展望とその貫徹のための不動の勇気を全人民、全階級のまえに実践的に提起する道を選んだのである。十一月闘争の暴動的貫徹と、それにたいする労働者人民の圧倒的な支持と共鳴、戦闘部隊の誇りと確信の高まりこそ、われわれの路線の絶対的正当性をはっきり証明しているのである。
 第四の条件は、六九年十一月決戦の勝利が三島反革命をひきだしたように、七一年秋の〈三里塚、沖縄・入管)闘争の暴動的大爆発、内乱的、武装的、革命的闘争の英雄的開始が、警察=カクマル連合という新しい型の密集した反革命を生みだしたこと、七一年秋の大爆発の武装前衛の任務をみごとにはたした革共同――中核派と、その戦闘的支持者が、この新しい反革命の粉砕をとおして革命党を鍛え上げ、その武装を飛躍的に強化する革命闘争に総決起した、という点である。
 日本帝国主義とその政治委員会・佐藤政府が、七一年秋の大爆発に恐怖し、憎悪にみちた内乱鎮圧型の道を選んだことは、まったく当然のことであった。虐殺、暴行、監禁、逮捕、略奪、探索、解雇、処分など、ありとあらゆる血の弾圧をくりひろげた国家権力は、それにもかかわらず階級闘争の暴動的、武装的、革命的発展を押しとどめておくことができないと知るや、松尾全学連委員長に破防法三九、四〇条を適用し、革共同――中核派の集会、デモをいっさい禁止し、さらには、『前進』の発行停止、団体解散にむかって反動的な牙をむきだしにしてきた。
 もともと法規範上では特定団体の集会、デモ禁止という措置は、破防法第五条第一項第一号の適用をもって可能となるのであるが、佐藤政府・警察当局は法形式をみずからじゆうりんし、「戦争と反革命の論理」をもってする報復と予防反革命を革命的左翼に加えているのである。革共同――中核派の壊滅と孤立というデマ宣伝にもかかわらず、十一月闘争の大爆発と、それにふまえて提起された十二月総決起の方針が、たたかう労働者人民の圧倒的な支持と共鳴をうけていることをよく知っている帝国主義国家権力は、もし集会・デモを許可したならば、たとえそれが合法的形態をとった場合でも、全人民的、全階級的な政治的結集軸となり、労働者人民の予測もつかぬ巨大な政治的流動を生みだすであろうことに恐怖しているのである。
 他方、革命的左翼を自称しながらも、反革命主義を公然と表明し、六七年十月の羽田以来、階級闘争の社民的、改良主義的コースの暴力的守護者の役割をはたしてきたカクマルが、十一月闘争の爆発のまえに完全に破産し、解体と没落の危機から脱出するために警察権力との反革命神聖同盟を強めなくてはならなくなったことは、まことに理にかなったものである。
 もともとカクマルの意図は、日本帝国主義国家権力の打倒(かれらは中核派がそれを戦略課題とすることを反帝・反スタ綱領からの逸脱だと非難している!)と、それを突破口とした世界革命の完遂にあるのではなく、帝国主義の体制平和のもとでの階級闘争に「革命的意義」を付与し、大衆を「反革命主義」のもとに思想的、組織的に固定するところにあるのである。しかし、十一月闘争を項点とする秋のたたかいの大爆発は、カクマルの闘争なるもののアリバイ的性格と体制内左翼としての本質を白日のもとに暴露し、動員数の急激な減少、組織同盟員の大量の戦線逃亡にみられるように組織的解体と政治的没落の運命に悪夢のごとくみまわれたのである。
 すでに解体し粉砕したはずの革共同――中核派のたたかいによって、帝国主義国家権力ばかりか、ほかならぬカクマルまでが根底からその存在理由が問われたとき、かれらはそのような自分のあり方そのものを自己批判するのでなく、権力の庇護にすがり「中核派せん滅」の反革命的先兵として生きのびる道を選んだところに、カクマル反革命主義の決定的な完成があったのである。
 まさに、このような権力の敗北感と、カクマルの敗北感との共同感覚のうえに結ばれた反革命連合、「機動隊せん滅」に心から恐怖し、「中核派せん滅」にはかない希望をかける敗残者たちのみじめな寄り合い――それがわが警察=カクマル連合の歴史的現実である。もとよりこの反革命同盟は同等のそれではなく、帝国主義的支配者とそれに屈服し、その先兵として生存を官許された召使いとのあいだの支配=被支配のそれである以上、カクマルの反革命武装襲撃集団、新しい型の反革命としての純化は急速なテンポで完成されていくであろう。日本帝国主義国家権力の史上未曾有の破防法体制を補強するための反革命的民間突撃隊の道こそ、カクマルに残された唯一の末路であろう。しかし、われわれは、カクマルのこのような反革命武装襲撃集団、テロリスト集団としての純化を、革命的階級闘争の前進の生みだした階級関係のいっそう明確な整序の過程として全面的に歓迎しなければならない。
 革命の本格的な前進は、反革命の勢力を密集した部隊に結合させる。日本帝国主義国家権力の全面的な破防法体制への傾斜、戦後民主主義の虚構にたいする強権的ボナパルティズム的支配の一撃は、日本階級闘争にたいする権力の基本的態度が「戦争と反革命の論理」をもって貫徹されはじめたことを意味している。十一月暴動の大爆発に示されるプロレタリア階級闘争の前進こそ、このような権力の内乱鎮圧型の支配様式を生みだしたものであること、また、このような権力の支配様式こそ革命をいっそう鍛えるものであることを確信し、われわれもまたプロレタリアートの「内乱と武装の論理」をもって党と大衆とのあらたな有機的結合を実現していくであろう。
 同じように、カクマルの反革命武装襲撃集団としての純化、革命的左翼としての虚構にたいする警察=カクマル連合の一撃は、日本階級闘争にたいするカクマルの基本的態度が「反革命と武装襲撃の論理」をもって貫徹されはじめたことを意味しているのである。カクマルの「十二月反革命」が関大武装バリケード闘争を破壊し、学費闘争の革命的爆発を阻止するための官憲、大学当局と一体となった殺人武装襲撃をもって開始されたことは、けっして偶然ではないのである。十一月暴動の巨大な爆発こそ、カクマルを反動勢力の側にまで吹きとばした歴史的力であること、また、警察=カクマル連合のような密集した反革命の登場こそ、革命党をいっそう鍛えるものであることを確信し、われわれもまた「K=K連合粉砕」を七〇年代の革命的階級闘争の恒常的な任務として戦略的・組織的に設定し、党の政治的、軍事的再武装をかちとっていくであろう。
 まさに警察=カクマル連合として登場した密集した反革命は、われわれの革命の飛躍が生みだしたものであり、われわれの革命党としての強化と武装を鍛えあげ、全社会的な内乱の時代を準備する恰好の訓練台である。
 
 三 七〇年代闘争の武装中核「人民革命軍・武装遊撃隊」の建軍をかちとれ
 
 七二年の新年、――それは、満々たる勝利の確信をもって迎えた新年であり、烈々たる報復の憎悪をもって迎えた新年である。われわれは、七二年――七〇年代の日本階級闘争の内乱的、革命的発展をとおして、勝利の確信をいっそう前進させ、報復の憎悪をいっそう強めるであろう。味方と敵にたいするこの明確な決意と展望を実現すること、これ以外にどんな方針がわれわれに存在するであろうか。革命の勝利にむかっての大長征はすでにはじまっているのだ。たたかってたたかいぬいて生きつづけること、生きて生きぬいてたたかいつづけること、これ以外にどんな決意がわれわれに必要であろうか。闘争が日常であり、任務が生き方(死に方)である時代、それが革命的内乱の人間史的意味でなくてはならないのである。この真理を実践しえぬものは、どんなことをいおうとも、人間的感性を喪失した卑怯者であり、支配と抑圧、分断と差別、苦悩と悲惨を強制する帝国主義の共犯者である。
 それでは、七二年――七〇年代の日本階級闘争の内乱的、革命的発展をつらぬくわれわれの任務、われわれの生き方とはなんであろうか。
 第一の任務は、密集した反革命、内乱鎮圧型の反革命武装襲撃を粉砕し、われわれの七〇年代革命の総路線を確固として堅持し、七一年秋のたたかいの大爆発をもってきりひらかれた道を勇気と確信をもってつきすすむことである。
 革命党と、その革命戦略、組織戦術の真価を問われるのは、ほかならぬ革命の時代においてである。どんなに精巧な理論構成を誇ろうとも、どんなに巨大な組織構成を誇ろうとも、それが打倒すべき国家権力と真向から対峙する位置と内容をもって構築されていないとしたら、無意味であるばかりか、多くの場合に有害である。戦後世界体制の破局のはじまりのなかで支配階級も労働者階級も、ともに革命の現実性に直面している今日、すべての理論、すべての組織は、好むと好まざるとにかかわらず、鉄の法則性をもって革命と反革命の陣営に区分されるのである。プレハーノフ、カウツキーの道を選ぶのか、レーニン、リープクネヒトの道を選ぶのか、問題はこう設定されているのである。マルクス主義の知識をしたり顔で講義する教授連中が、大学闘争の嵐のなかではやばやと反動的本質を暴露し、機動隊の壁のむこうに逃げこんでいく例を、われわれは嫌というほど知っているのである。宮本や向坂や黒田の道が、プレハーノフやカウツキーのそれよりも、もっとみじめで、もっと醜いものであることは、いまさらいうまでもないところである。
 革命党と、その革命戦略、組織戦術が、さしあたって真価を問われるのは、革命の現実性を革命に転化する道程を正しく洞察し、権力獲得にむかって党と階級を実践的に配置し、動員するところにある。この階級的・革命的要請にこたえない理論は、良くいったところで知識人のディレッタンティズム、革命知識の商品化過程でしかなく、多くの場合、プロレタリアートの革命意識を混乱させ妨害する役割しか、はたさないのである。同じように、この階級的、革命的要請にこたえない組織は良くいったところで、官僚の自己満足、組織の情報産業化でしかなく、多くの場合、労働者階級の革命的結集を混乱させ、妨害する役割しかはたさないのである。われわれ革命党は、革命の勝利を達成するという実践的契機を出発点とし、それを貫徹するものとして革命戦略を構築し、組織戦術を展開していくのである。なぜならば、世界史的過渡期の時代、共産主義世界革命の時代におけるマルクス主義は、すぐれて勝利的実現の理論であり、実践でなくてはならないからである。
 沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒、闘うアジア人民と連帯し日帝のアジア侵略を内乱へ! というわれわれの明快な七〇年代革命の総路線は、マルクスの共産主義革命論、反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略の日本階級闘争への実践的適用であり、七〇年代の内乱的、革命的闘争の勝利を保障する理論的、実践的な指針である。まさにこの総路線は、第三回大会以来の理論的、実践的苦闘をとおして練りあげられたものであって、「戦後世界体制の破局のはじまり=三〇年代的選択へのラセン的回帰」という現代世界の理論的認識の面でも、日帝の体制的危機の革命への転化の道程の戦略化という面でも、かつまた七〇年代階級闘争の生きた組織戦術という面でも、日に日に正しさが証明されているのである。カクマルや日和見主義諸派がすべて確固とした戦略的展望を提起することができず、情況のまにまに方針を出しては三ヵ月ももたずに破綻している無残な状態と対比するならば、われわれの総路線がいかに圧倒的な優位性をもっているか、おのずとあきらかなところである。
 【なお、連合赤軍について付言するならば、かれらは、闘争形態、武装形態の戦略化ともいうべき誤りにおちいっており、革命の内容と方向、すなわち、大衆をそこにむかって動員し組織していく政治目標が欠如しているのである。大衆的、政治的闘争の内乱的、武装的、革命的発展のコースと、ゲリラ的、パルチザン的武装闘争のコースの双方の独自の発展とそれらの有機的結合という新しい闘争の質的展望を生みだすためには、それにふさわしい革命の戦略が必要なのである。】
 したがって、われわれにとって今日なによりも肝要なことは、十一月闘争の大爆発を可能にしたものが、われわれの七〇年代総路線であり、革共同――中核派の革命党としての思想的、政治的、組織的、軍事的密集力であることを独自に宣伝し教育し、十一月闘争にたいする労働者人民の圧倒的な支持と共鳴を党強化と総路線の方向に固く結びつけていくことである。国家権力が憎悪し、カクマルが恐怖しているのは、まさにこの一点にあるのである。だからこそ、かれらは壊滅してしまったはずの革共同――中核派が野外であろうと屋内であろうと集会する権利をすべて禁止し、背後からカクマルを使って武装襲撃をくりかえす、という内乱鎮圧=破防法体制的方法をもって対応せざるをえないのである。しかしこのような権力の方法は、われわれにとってはなはだ教訓的でもある。なぜならば、それは、一方では、党と戦闘的大衆の武装自衛を強め、K=K連合粉砕のたたかいを断固としてすすめるとともに、他方では、ありとあらゆる可能な方法を使って党と戦闘的大衆との有機的、実体的な結びつきをつくりだしていくことに成功するならば、敵権力と反革命主義集団に、決定的な打撃と敗北を与えることが可能となるからである。
 第二の任務は、諸戦線、諸課題の個別的たたかいの持続と独自的な強化を確実におしすすめることによって、帝国主義の全面的攻撃の激化のもたらす抑圧と支配、分断と差別、苦悩と悲惨にたいする全人民的解放のとりでを構築していくとともに、それと有機的に結びつけて、一般的・結節環的な全国政治闘争を正しく提起し、それへの全体の集中と高揚をたえずはかり、七〇年代階級闘争の政治的、軍事的主導権をとりつづけることである。
 もともと個別的な諸戦線、諸課題のためのたたかいは、入管、部落、沖縄、反軍、被爆者、「障害者」、女性、農民、裁判、救援、教育、公害、医療、労働、労災など、すでにわれわれが一定のとりくみを開始している問題だけでも多方面にわたっているが、それは基本的には、第一には、帝国主義の支配と、その体制的危機を脱出するための全面的攻撃の激化が、労働者人民の全生活面にわたって支配と抑圧、分断と差別、苦悩と悲惨を強制していること、第二には、帝国主義支配の全面的攻撃の激化にたいする労働者人民の抵抗とたたかい、人間的生活をじゆうりんするいっさいの支配と抑圧、分断と差別、苦悩と悲惨から人間性を奪還しようとするたたかいがいたるところで開始されていること、第三には、以上のたたかいに学ぶことによって、日本の革命的左翼が、労働者階級の自己解放をとおして人間の人間的解放を達成するという共産主義の基本理念を実践的に奪還し、帝国主義の支配と抑圧、分断と差別、苦悩と悲惨の全社会の諸機構、諸構造を総体として転覆し、全人民的解放としてそれを実現していくたたかいに、ようやく組織的にとりくみはじめたことに基礎づけられているのである。
 われわれは、諸戦線、諸課題のたたかいの持続と独自的な強化を重層的に追求しながら、同時に、諸戦線、諸課題のたたかいの勝利が、普遍的、一般的なたたかいの勝利と結びついていること、諸戦線、諸課題のたたかいの相互のあいだも個別と普遍の関係のたえざる連鎖をなしていること、それゆえ、「人間的なことで自分に関係ないものはない」というマルクスの思想をもって自己の個別課題、個別戦線への排他的埋没の傾向と厳しくたたかうことが要求されているのである。いいかえるならば、われわれは、特定の戦線でたたかっていようといまいと、全戦線、全課題のたたかいの経験と教訓に不断に学びながら、普遍的課題と個別的課題、一般的・結節環的な全国的政治闘争と個別的闘争について両者の独自的な発展と、相互の有機的な結合を具体的に指導しうる能力を獲得していかなくてはならないのである。
 第三の任務は、大衆的、政治的闘争の高揚と、その内乱的、武装的、革命的発展のコース、ゲリラ的・パルチザン的武装闘争の発展のコースの双方の独自的な発展と、党を媒介とした両者の有機的な結合とをとおして、日本階級闘争の新しい質的経験の獲得、七〇年代の革命的内乱=プロレタリアート人民の一斉武装蜂起にむかって決定的な前進を開始することである。
 もともと革命とは、暴力論、軍事論の領域から規定するならば、政治と、政治の延長としての軍事とを、前者の主導性のもとに結合し、階級社会の暴力的な転覆と、暴力の共同体的、人間的自己規制への転化をかちとっていく過程である。政治闘争一般から武装闘争的側面が捨象される、というブルジョア民主主義的な虚構――戦後民主主義の幻想に埋没している諸君は政治闘争と武装闘争は別個の過程だと思いたがっているが――は、第一には、階級闘争が体制内的収拾を前提とするものに封じこめられていること、第二には、武装闘争の側面があらかじめ国家権力によって制圧されていること、という二つの条件に規定された例外的な姿にすぎないのである。それゆえ、一方で帝国主義の支配と攻撃が激化し、強権的な破壊性をもつようになり、他方でそれへの労働者人民の反撃が高揚し、体制の根底的変革が問題になるならば、プロレタリア階級闘争が多かれ少なかれ武装闘争の側面を回復する傾向を示すのは当然のことである。問題はただ、プロレタリア革命党が、大衆闘争の貫徹にむすびついた武装の問題を、全労働者階級=人民大衆の革命的武装にむかっての意識的準備、経験蓄積の今日的形態として積極的に位置づけうるかどうか、にかかっているのである。
 われわれは、革命的内乱を論じて武装の問題を捨象する、日和見主義の立場にたつことはできない。好むと好まざるとにかかわらず、現代の革命は、すべて世界史的過渡期という時代に規定されて、初期の段階から軍事的・武装的問題をともなわざるをえないのである。
 毛沢東と中国共産党は、プロレタリア世界革命論の視点の欠落のゆえに、政治と軍事の高度の統一を全世界的に実現する立場にたつことができず、武装の問題を「人民戦争」の名のもとに三大陸の闘争に封じこめてしまったのである。しかし、戦後の国際階級闘争計総体として検討するならば、現代は帝国主義戦争の革命戦争(国際的内乱)への転化の過程にあると規定することができるのである。この明確な事実を直視できずに、帝国主義軍隊の解体と革命的獲得の問題、プロレタリア革命の武装の問題を放棄したところに、帝国主義国の革命の決定的な敗北と歪曲が不可避となっていることが明白となるのである。
 われわれは、七〇年代革命の総路線にむかってプロレタリアート人民大衆を動員し、組織するたたかいを断固として推進し、大衆的政治闘争の貫徹にかかわる武装の問題を革命的内乱の方向にむかって意識的に強めていくとともに、全プロレタリア人民の武装の準備を今日的、意識的に表現するものとして、プロレタリア革命の思想に徹頭徹尾うちかためられたところの「人民革命軍・武装遊撃隊」の建軍とその活動を全面的に支持し、その飛躍的な強化のためにたたかうであろう。プロレタリア革命の軍隊=「人民革命軍・武装遊撃隊」は、全プロレタリアート人民の武装の中核であり、ゲリラ的・パルチザン的武装闘争の担い手であり、大衆的政治闘争の内乱的、武装的、革命的発展の援助・促進者であり、反革命集団にたいする武装礼察隊である。
 第四の任務は、七〇年代日本階級闘争の内乱的・革命的発展の指導的中核体として革命党を強化し、その完全なる武装自衛の態勢をつくりあげることである。
 革命が革命党なしに達成されるという考えは、好意のものであれ悪意のものであれ、プロレタリア階級闘争の政治的性格を無視する非科学的な思想であり、共産主義実現の決定的なテコとしてプロレタリア独裁に反対する小ブル的自由主義である。数千年にわたる支配の連鎖の歴史を根底的に転覆し、階級支配の死滅を準備するためには、プロレタリアートは自己を支配階級として組織しなくてはならない。それは、労働者階級の組織の力の結集といった社民的内容を意味するものではなく、社会の富と労働の過程を掌握した支配階級の全権力機構、その支配の技術と真向から対決し、それに政治的=軍事的に勝利し、労働者階級の全社会への独裁を達成していく血みどろの過程である。いいかえるならば、プロレタリアート人民男女が、資本家やブルジョア政治家や官僚や警察・軍隊に対抗し、これにうちかつだけの支配の能力、労働者人民大衆を革命にむかって動員し、勝利させるだけの指導の能力をみずから実践的に会得していく過程は、もとより均等的な発展の姿をとりうるはずはなく、プロレタリアート人民の革命的、政治的、軍事的資質を、革命党のそれとして実体的にも経験的にも集約し、党の指導をとおして階級――大衆全体のものにしていく、という弁証法的な方法をとって進行するのである。
 政治や軍事の問題を論じて指導の問題を論じないのは、時刻表なしの列車運行を考えるようなものである。政治主義、官僚主義批判という表現をとってあらわれる革命党の指導性の否定の傾向、党の自由主義的サークル化の傾向にたいし、これをプロレタリア政治主義のブルジョア政治主義への敗北、プロレタリア的規律の小ブル的自由主義への敗北の要求として正しくうけとめ、その止揚のために非妥協的にたたかうことが必要である。国家権力の内乱鎮圧型=破防法体制的な弾圧の激化にたいし、革命的内乱を勝利にみちびくことができる党指導部の重層的な構築と、指導内容の一元的な強化という二つの困難な事業を断固として実現し、党の強化と、圧倒的な労働者人民大衆の党周囲への結集をいっそう促進していくとともに、それを基礎として、党とその政治的、指導的役割を否定するいっさいの傾向を徹底的に粉砕しなくてはならないのである。
 したがってまた、われわれは、党の武装なしに革命的内乱を指導しようという考えにたいし、非妥協的な闘争を展開していくことが大切である。まさにこのような考えは、プロレタリア階級闘争の軍事的性格を無視する非科学的な思想であり、敵階級の反動を暴力的に粉砕する革命的武器としてのプロレタリア独裁に反対する小ブル平和主義である。
 大衆的政治闘争の内乱的、武装的、革命的発展と、ゲリラ的、パルチザン的武装闘争の発展という二つのコースの各自の強化と有機的統一を、党が目的意識的に指導する時代、国家権力がみずから法規範をも強権的にじゅうりんし、内乱鎮圧型の弾圧を、党にたいし日常的に加えてきている時代、民間極右団体やカクマル反革命集団が、党にたいし武装襲撃をくりかえしている時代のなかで、党が自己を防衛し、その活動を発展させるために武装自衛の問題に真剣にとりくまなかったとするならば、それは軽蔑すべき日和見主義いがいのなにものでもないであろう。武装的内乱の指導が、党そのものの軍事的防衛の指導を不可欠の条件としていることについて、いまほど強く確認しなければならない時代はないのである。
 革共同――中核派と、そのもとに結集した労働者人民は、頭のてっぺんから足のつまさきまで、ただひとりの例外もなしに武装し、党の軍事組織に所属しなくてはならない。いかなる部署、いかなる戦線にあろうとも、この崇高な任務をおろそかにすることは許されないであろう。われわれが、法律を手段とした闘争をもねばり強くたたかい、針の穴をとおしてでも合法的陣地を拡大していくための努力をつづけることは当然であるが、しかし、同時に確認されなくてはならないことは、非合法闘争の貫徹はもちろん、合法的活動を維持し強化していくためにも、武装自衛と軍事の観点が徹底的に貫徹されなくてはならないであろう。革命党が武装した予言者としてたたかいつづけるとき、労働者階級=人民大衆の圧倒的部分は革命の側に獲得されるのである。
 
 四 七〇年代反革命「警察=カクマル連合」を粉砕せよ
 
 第五の任務は、七〇年代闘争の内乱的、武装的、革命的発展のなかで登場した、新しい型の反革命・カクマル反革命武装襲撃集団をかんぷなきまでに粉砕し、せん滅するたたかいを、労働者階級=人民大衆の崇高な歴史的任務としてはっきり確認し、その勝利のために生死をかけてたたかいぬくことである。
 すでに検討してきたように、七一年階級闘争のもたらした歴史的局面は、一方では〈三里塚、沖縄・入管〉闘争の暴動的、内乱的、武装的、革命的な大爆発、圧倒的な労働者人民の七〇年代革命への確信の高まり、他方では国家権力の敗北感と威信失墜、カクマルの解体的危機と没落、両者を根拠とした警察=カクマル連合の成立を特徴としている。
 もともと、六三年に革共同の革命的戦列からメンシェビキとして逃亡して以来のカクマルの歴史は、日和見主義と裏切り、屈服と戦線破壊の一色に染めあげられている。それは、まさに逃亡の根拠となったメンシェビキ路線――経済主義・改良主義・組合主義の実践と、それへの「革命的意義」の付与の路線の必然的帰結であった。六七年十・八羽田以来の革共同=中核派の革命的飛躍とまったく対照的な軌跡を描いて進展したカクマルの反革命主義への純化は、本質的には、かれらのメンシェビキ的体質の開花したものではあるが、つぎの点においてその特徴をいっそう明白にするものであった。
 すなわち、(1)階級的.対権力的対決からの一貫した逃亡、(2)アリバイ的、線香花火的闘争による逃亡の証拠いん滅、(3)民同的指導への卑劣な屈服と組合主義への逃げこみ、(4)民青との平和共存、(5)警察権力との情報交換と相互扶助、(6)唯一の武装闘争としての革命的党派への武装襲撃などである。いいかえるならば、カクマルの任務は、マルクス主義の用語を使って革命の理論、革命への実践的努力に反対し、官許的平和デモ・民同的組合主義をもって内乱的革命闘争に対置し、アリバイ的、線香花火的闘争と反革命的武装襲撃をもって日和見主義の破産を隠蔽するところにあるのである。
 しかし、七一年秋のたたかいの大爆発は、このようなカクマルの陰性の反革命を完全に破産させ、陽性の反革命への転落を不可避ならしめたのである。すなわち、第一には、六九年十一月の日米共同声明をもって、沖縄闘争は敗北的に終り、あとは返還の実質過程にたいし反戦反合理化をたたかうというかれらの沖縄闘争論が、協定粉砕闘争のなかで完全に破産してしまったこと、第二には、「危機なんていうのは中核派のパラノイア」という平和主義が完全に破産し、白井健一(山代冬樹)などの小官僚が、われわれの時代把握を不細工にひょうせつして「危機」などとわめいてみたものの、なにが「危機」なのか自分でもわからず消耗してしまったこと、第三には、指導部内の混乱、黒田・森の対立を後者の失脚、朝倉(黒田の無味乾燥なテープレコーダーとしての池上)の登場でクーデター的に解決したが、むしろその無能ぶりに根本、小野田、梅津などの不満が爆発寸前にあること、第四には、全逓フラクの責任者の戦線逃亡や地方組織の解体状況など、下部組織が完全にガタガタになってしまったこと、第五には、官許の平和デモで動員が増えるはずだったのに、動員がしだいに減りはじめ、破産してなくなっていたはずの中核派集会の圧倒的結集との差があまりにも極端についてしまったこと、第六には、こうした危機をのりきるために、一方では、アリバイ的線香花火闘争の「命がけの冒険」をこころみ、他方では、民同的地位を利用して動労デモの「すわりこみ」などをはかってみたのであるが、前者では、「大衆酒場」のただのみ闘争(?)におわり、アリバイ闘争どころか、恥のうわぬり闘争になってしまい、後者では、カクマルの動労指導の民間以下的な水準がかえって自己暴露され、国会圧力・議員激励の議会主義的平和デモ、六〇年安保の全日連さえ苦笑するような「すわりこみ」にたいするカクマルの「革命的賛辞」に不満が続出し、目玉商品の中身があやしくなってきたため、よけい混乱の収拾がつかなくなってしまったことである。
 かくしてかれらは、七一年の大爆発→カクマルの破産という当然の経過をさかうらみして、国家権力との敗者の同盟をいっそう強化し、革共同――中核派への武装襲撃に敗北感と挫折感のはけ口をみいだしたのである。
 関大武装バリケード闘争にたいする殺人的襲撃、三重大学における個人的殺人、戦闘的拠点職場への挑発的ビラまき、動労カクマルの腐敗を批判した「筆者」にたいする松崎明の刺客派遣など、警察の協力と見のがし、中核派の反撃からの防衛というK=K連合下の一連の反革命武装襲撃の背後によこたわるものは、じつに解体と没落にたいする恐怖なのである。そこには、敵対党派の組織情報を警視庁公安部に売って生活費をかせいでいた黒田寛一(山本勝彦)の、どす黒い反階級的思想の全面的に開花した姿がある。
 われわれは、警察権力と結託したカクマルのこのような反革命武装襲撃を、革命派内部のいわゆる内ゲバとみることができるであろうか。断じて否である。われわれは、七〇年代日本階級闘争の内乱的、革命的発展に本当につき進むためには、新しい型の反革命・カクマルせん滅の任務を勝利的に遂行しなくてはならないのである。
 同志諸君! ロシア革命において帝国主義白色干渉軍と同盟し、ボルシェビキに軍事襲撃を加えたのが、かのロシア・マルクス主義の父・プレハーノフとその仲間であったことを忘れてはならない。リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグを虐殺したのが、社会主義者の大臣ノスケであったことを忘れてはならない。亡命地メキシコまで刺客を派遣して革命家トロッキーを暗殺したのが、ロシア共産党書記長スターリンであったことを忘れてはならない。これらはすべて階級闘争の軍事的発展の反革命的表現であって、いわゆる内ゲバなどでは断じてないのである。
 もしこれらをも内ゲバなどと呼ぶとするならば、プロレタリア階級闘争はすべて内ゲバの歴史である。マルクス主義の階級闘争論は、一見して内ゲバにみえるような事件をも、革命と反革命の関係のなかで整序し、敵と味方を区別するのである。プロレタリア暴力論は、暴力の実体をなす階級的、政治的勢力が、革命と反革命の具体的関係のどの位置にたっているかによって意味が決定されるのである。死の意味は、生きてなんのためにたたかっていたかによって決定されるのである。七二年の大爆発と、七〇年代闘争の内乱的、革命的発展を死活をかけてたたかうものの側にたつのか、それとも、それを妨害し、「機動隊せん滅」に反対して「中核派せん滅」をかかげるカクマル反革命の側にたつのか――問題は二つに一つなのだ。愚劣なアンケート策動にほんろうされた「知識」人の諸君よ! ここのところをよく考えたらいいのだ。革命家の死には怒りをもやし、権力者と反革命主義者の死には喜びをもってこたえればいいのだ。内乱の時代にいったいほかにどんな方法があるというのだ。
 ふたたびいう――新しい反革命カクマル武装襲撃集団との闘争は、七〇年代闘争の内乱的、革命的発展を保障する重要な柱である。この結論をはっきりさせないものは、革命が血の海に沈んだのちに地獄で反省することになるだろう。反革命はなにも遠くからやってくるとはかぎらないのだ。ロシア、ドイツ、フランス、スペインの街頭や荒野を血で染めた三〇年代の革命と反革命の衝突を考えてみるならば、反革命は警察や軍隊、民間右翼勢力ばかりではなかったことは明白ではないか。社会主義の旗をかかげて社会主義に反対するもの、これこそもっとも恐るべき反革命のあり方の一つなのである。いやむしろ、ムッソリーニのファシズムが社会主義運動から登場し、ヒトラーが社会主義にまぎらわしい旗をかかげて行進したことをみればあきらかなように、二〇世紀の反革命は、主要には現状変革をかかげて登場するのである。それは帝国主義体制の危機の深さ、大衆の不満増大と左への傾斜、革命勢力の未成熟という二〇世紀におこりがちな条件に基礎をもっているのである。
 同志諸君! 労働者人民諸君!
 ただちにひとりの例外もなしに警察=カクマル連合粉砕のたたかいに決起せよ! 権力とカクマルの密集した反革命襲撃にたいする武装自衛を強め、カクマルせん滅のたたかいに決起せよ! 七一年秋の大爆発をかちとった決意と準備をもってカクマルに死の鉄槌を加えよ! 没落と報復の恐怖におののくカクマルに何ヵ月でも、何ヵ年でも地獄の苦しみを与えてやろう! 革命に勝利の前進を! 権力と反革命に死の報復を! 内乱と革命の七〇年代をたたかいぬこう。
 反帝国主義・反スターリン主義のプロレタリア世界革命万才!
 沖縄奪還、安保粉砕・日本帝国主義打倒!
      (『前進』五六四号、一九七二年一月一日 に掲載)