解 題
(1) 本書第四巻は、七四年八月革共同政治集会において発せられたカクマル反革命にたいする戦略的総反攻宣言の約一ヵ月のちに本多書記長が、執筆した政治論文「戦略的総反攻――その勝利の展望」をはじめとして、六〇年安保闘争の政治総括として六〇年当時ベストセラーとなった『安保闘争』と、七〇年安保闘争を全面的に論じつくした「七〇年安保闘争と革命的左翼の任務」(獄中にて執筆)等九篇を収録している。
最初に各論文の掲載紙、誌、日付をかかげる。
T 戦略的総反攻――その勝利の展望
1 戦略的総反攻――その勝利の展望(『共産主義者』二六号一九七四年十月)
2 一切の反革命を粉砕し、七〇年代革命の戦略的総路線の勝利めざして、大衆闘争の戦闘的革命的高揚と、党と革命勢力の強化かちとれ(未公刊論文一九七二年五月一〇日)
3 激化する破防法攻撃に抗し、党の非合法態勢・非公然態勢を強化せよ(未公刊論文一九七三年四月二五日)
4 二重対峙・対カクマル戦争の当面する戦略問題(遺稿一九七三年十月)
U 安保闘争論
1 六〇年安保闘争――民主主義の危機とプロレタリア運動(一九六〇年十月刊 武井健人編著『安保闘争――その政治的総括』第V部および第W部)
2 八年の後に――再版にあたって(同上書一九六八年再版あとがき)
3 七〇年安保闘争と革命的左翼の任務(『共産主義者』一九号一九六九年十月)
V 東欧におけるスターリン主義の没落
1 チェコ問題と革命的共産主義への道(一九六八年九月七日講演) .
2 バンガリア革命と反スターリン主義運動の創成(『前進』一〇六号、一〇七号連載一九六二年十月二二日十月二九日)
(2) Tの1は、革共同通信二九号(一九七四年八月五日)に発表された政治局の戦略的総反攻の大号令(本著作選第二巻所収)の約一ヵ月後執筆されたもので、戦略的総反攻の勝利の必然性をあますところなく解き明かし、全戦士の戦意を高揚させた重大な党文献である。
本多書記長は、本論文において、まず、カクマル反革命の初期的優位性が全国、全地方においてうちやぶられ、六・二〇――六・三〇の反革命通信の粉砕、六・二六法政大会戦の二つの歴史的勝利にひきつづく七月総攻勢、さらに第一の十日間戦争の勝利、というわが党、軍の軍事的主導権の形成という事実の先行のうえに、戦略的総反攻の大号令が発せられたことを明らかにし、その大号令がさらに九月決戦――第二の十日間戦争の勝利という怒濤の進撃をもたらしたことを明確にし、勝利の趨勢を明らかにするのである。
この勝利の趨勢、軍事的指導権の形成――確立の過程を指導したものこそ、科学的な戦争指導の方針、戦略的防御、戦略的対峙、戦略的総反攻の段階的前進の戦略にはかならないのである。「反革命カクマルの政治的権威なるものの真の基礎」を「政治的破産を軍事的に打開することについての反革命としての徹底性」と「K=K連合政策のもとでの白色襲撃路線」(一六ページ)にあるものとしてとらえ、これらが「二重対峙・対カクマル戦へのわが戦列の未成熟、政治的・組織的力量の軍事的力量への転化の未発展」(一七ページ)にあったものとしてとらえ、持久戦的陣形のもとにおける段階的前進の戦略が、着実にカクマルの軍事力をうちやぶり、その政治的権威をいっきょに崩壊に叩きこむことを、本論文は科学的に説いているのである。
第U部において、本論文は、戦略的総反攻の革命的意義とその歴史的勝利の展望が、全面的に論じられている。二重対峙・対カクマル戦争の日本革命における決定的な戦略的意義が明快に規定され、戦路的総反攻の戦略論的意義と基本目標が次いで論じられ、さらに勝利の保証が具体的に指摘され、必ず勝つという信念をすべての党員と革命人民に植えつける構成をとっているのである。
本論文を、中枢分裂の全人民の前での自己暴露、七八年八・七山代逃亡=拉致事件、内戦の激烈な発展と内戦下の戦争としての無制限ゲリラ戦争の革命的発展というこんにちの情勢の飛躍的発展のもとで、読みかえしてみるとき、まさに戦略的総反攻完遂の基本的方向性が、本多書記長によって七四年の夏しっかりとすえられたことを感得することができるのである。いまなお必読の党文献である。
Tの2は、七二年五月執筆の未公刊論文である。革共同の幹部にたいして、党の任務の基軸を思想的・政治的にとらえかえすべく、簡潔に説いた論文である。
Tの3は、六九年四・二七弾圧=本多書記長にたいする破防法四〇条発動・逮捕によって、わが革共同が基本的に非合法・非公然態勢に移行したことを明らかにし、非合法・非公然態勢の建設の重要性を訴えた画期的論文である。
Tの4は、七三年九・二一直後執筆された遺稿である。すべての幹部同志が戦争の先頭にたつよう、「五つの戦略的基準」と「八つの戦闘指導原則」を説いている。
(3) Uの1は、読者は便宜上2の「再版にあたって」(六八年)から先に読まれた方がわかりやすいであろう。
2が1の解題となっており、屋上屋を架す必要を認めないのであるが、敢えて数行付加することとしよう。
一九六七年十・八羽田闘争にうちつづく「激動の七ヵ月」、そして十・二一新宿騒乱大闘争の爆発の直前に、再版あとがきは執筆されている。六〇年安保闘争の直後の高度成長期のもとでの政治闘争の沈滞を大きくうちやぶって、六五年日韓闘争をうわまわってすさまじい爆発をとげた十・八羽田闘争と、「激動の七ヵ月」は、その先頭に輝く中核旗によって、なんぴとが六〇年闘争の成果を発展させ、七〇年闘争勝利の指導権を握りしめているのかを鮮明にした。それこそは、本多書記長が1で論じたことの実践的帰結であり、結論にほかならなかったのである。
『安保闘争――その政治的総括』は、社共の六〇年安保闘争の勝利論を当然批判するとともに、共産主義者同盟の「政治的勝利」の総括をも鋭く批判し、プロレタリア党のための闘争をつよく訴えている。「なぜならば、六〇年安保闘争をたたかった革命的左翼の主導的潮流が共産主義者同盟であったという事情のもとでは、革共同全国委員会を含めた革命的左翼の問題は、さしあたり『共産主義者同盟指導部』の問題として提起されざるをえなかったからである」(一七六ページ)「こうした革命的左翼の危機的状況のなかにあって、本書は、きわめて未熟であったが、六〇年安保闘争の敗北を、労働者階級の綱領的=組織論的未成熟の問題として積極的にうけとめ、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的労働者党の創成にむかって、敗北と挫折を止揚するよう訴えたのであった」(一七六〜一七七ページ)
この点が、1の論文の核心にほかならない。なお著者は、1の歴史的欠陥として、日米安保同盟の理論の末確立(これについてはUの3、革共同第三回大会報告等を参照されたい)、全学連(共産主義者同盟指導下)の五九年十一・二七、六〇年一・一七、四・二六、五・一九の革命的闘争の意識性、計画性の評価の不足、さらに革共同全国委員会の自己批判の欠如の三点をあげている。これらが、理論的=実践的に、六六年の第三回大会、十・八羽田闘争から「二つの十一月」、二重対峙・対カクマル戦争の歴史的過程を経て、克服されてきたことは、こんにちではなんぴとにも明らかなところである。
本書Uの1は、たぐいまれな名文であり、六〇年秋発売と同時にベストセラーとなり、六〇年ブントの止揚と革共同全国委員会への革命的結集に、重大な役割を果たした歴史的文献である。
カクマル反革命は、六〇年安保闘争の積極的意義をなにひとつ認識できず、「革共同の理論と歴史」なるサブタイトルを付した黒田寛一の悪名高き偽著『日本の反スターリン主義運動』1、2において、なにひとつ六〇年安保闘争についてふれえていない。黒田が六〇年安保闘争についてふれるときは、ただただ六〇年ブントの左翼スターリン主義、戦術左翼主義、行動左翼主義といった「悪の権化」の物質化としてのみであり、日本帝国主義にたいする日本プロレタリアートのたたかいの歴史において、それがいかなる意義をもったのか、という革命家として当然の視点を、ひとかけらだにみいだすことができない。それゆえ、六〇年ブントの革命的翼の革共同への結集を、積極的な党のためのたたかいの発展として位置づけえず、まったく逆に、同志清水丈夫、北小路敏、陶山健一らが、なにひとつ六〇年ブントの限界を自己批判せず、投機的に革共同に参加し、本多書記長をついに「行動左翼主義」に「洗脳」した結果が、六七年十・八羽田闘争と「二つの十一月」の「極左盲動主義」であるという、寒ざむとするが如き、お粗末で、低水準な、おのれの反革命的本性のみをさらけだした「総括」しか語ることができないのである。
六〇年安保闘争の革命的意義を正しく認識し、六〇年ブントの革命的翼の革共同への結集を指導しぬき、こんにちのわが革共同の指導的幹部団の革命的成長と団結をつくりあげてきたのが、本多書記長であることは、黒田の否定的総括が、逆に裏がきしているといえよう。六〇年一・一七羽田闘争における国家権力の弾圧=六〇年ブント活動家の全員逮捕を手を叩いてただ喜んでいるが如き黒田には、党の指導者になる素質は、本来欠けていたのである。
Uの3は、六九年四・二八沖縄奪還闘争を前に、『前進』四二九、四三〇、四三一号に連載され、四・二八闘争に決起する戦士を指導した論文であり、さらにそれをもとに、四・二七弾圧で未決勾留中に約一五〇枚の大幅加筆をおこない、第一の十一月の直前、六九年十月『共産主義者』一九号に掲載されたものであり、いわば七〇年安保闘争の基本的過程を指導したきわめて重要な党文献であるといえる。
本論文は、まさに七〇年安保闘争の歴史的勝利の必然性を全面的に説いたものであり、きわめて包括的で深い内容をもつものであるが、ごくかいつまんで論点を摘記すると、次の諸点になるであろう。
第一に、日米安保同盟論の全面展開である。敗戦帝国主義としての日本帝国主義の唯一の帝国主義的延命の道としての日米安保同盟が歴史的・政治的に論じ尽くされ、戦後世界体制の危機の深刻化のもとでのその凶暴化、日帝の侵略と暗黒の政治にたいする批判が展開されている。
第二に、徹頭徹尾プロレタリア世界革命の立場から、七〇年安保闘争の歴史的意義を解明し、論じ尽くしており、日本プロレタリアートの壮大な世界史的任務がつよくおしだされていることである。
第三に、同じことの別の表現だが、七〇年安保闘争を革命の現実性の観点から透徹してとらえぬき、沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒の戦略的総路線の重大な意義が鋭く提起されていることである。
第四に、これらの全論点をつうじて、スターリン主義の革命論、党組織論、統一戦線論が、全面的に批判し尽くされているということである。
第五に、第四の論点のうえにたって、革命党創成のたたかいと、革命的統一戦線戦術が、七〇年安保闘争の革命的戦列の具体的構築のうえにたって、具体的に論じられているということである。
第六に、最末論において、激動期に生きる革命家の生き方を、すべての人の魂をゆりうごかさずにはおかない激しさと厳しさとで、鋭く提起し、まさに第一の十一月の死闘に赴く戦士たちの精神を鼓舞するものとなったのである。
以上のようにみてくると、まさに本論文は七〇年安保闘争の精神といえる重要な党文献であり、Uの1と読みくらべてみるとき、六〇年から七〇年への革共同の飛躍と成長を如実に感じさせるものがあるのである。
なお第一の論点にかかわる日米安保同盟の、最近の帝国主義世界体制の危機のすさまじいまでの深刻化、米帝の基軸国としての地位の崩壊と相対的強者としての地位をフルに利用した他帝国主義への争闘戦の展開、なかんずく日帝へのその展開、といったあらたな情勢の展開のもとでの、「共同と対抗」としての動揺とあらたな形式への再編成についての、われわれの論理展開については、最近の『前進』論文等を参照されたい。
(4)Vについては、便宜上2から解説をおこなうこととする。
Vの2は、一九六二年十月、「ロシア革命四五周年・ハンガリア革命六周年記念論文」として、『前進』紙上に二回にわたって連載されたものである。わが革命的共産主義運動が、ハンガリア革命の血叫びを鋭く全身全霊をもってうけとめる地点から出発したことの深刻な歴史的・思想的意義を解明している論文である。
こんにち、中ソ対立、中国――ベトナム対立、ベトナム――カンボジア戦争、東欧の動揺やさらには中ソスターリン主義官僚政府の露骨なまでのアメリカ、日本等諸帝国主義との協商は、スターリン主義の権威失墜をはなはだしく促進し、なんぴとも「社会主義の神話」を信じえないところまで、スターリン主義の歴史的破産は明らかになってきている。
しかし一九五六年当時のイデオロギー的状況は、けっしてそうではなく、こんにちとまったくちがっていたのである。一九五六年二月ソ連共産党二〇回大会において、フルシチョフ、ミコヤンがスターリン批判をおこなうまで、わが国ではごく少数の例外を除いて、スターリン主義陣営はいうまでもなく、社会民主主義者や自由主義者にいたるまで、スターリンの正統マルクス・レーニン主義者としての無謬伝説がひろく信じられ、ソ連、中国は「社会主義の祖国」「労働者農民の天国」として信仰の対象ですらあったのである。日本共産党の戦後革命の敗北以降の左右のジグザグと無責任な日帝への屈服を批判しえた人びとも、スターリンと中ソ両国にたいしては無批判的に追随することをもって、みずからの社会主義者としてのあかしとしていた時代であった。
それゆえ、ほかならぬクレムリンの後継者自体がスターリン批判を開始したことは、晴天の霹靂にも等しい、深刻なショックを与えたのであった。もっともみじめな反応は、日本共産党のそれであった。宮本指導部は、スターリン批判の前年一九五五年の六全協によってスターリン主義党の歴史上かつて前例のない党内民主主義がつよめられ、官僚的統制が弱められているもとにあって、フルシチョフの「スターリン批判」が根底的なスターリン主義批判へと発展する可能性に心底から恐怖し、もっぱら死の沈黙を守ったのである。日共は、いっさいこの問題を論じることを回避し、外国スターリン主義党のこれに関連した文献を翻訳することで、事態をごまかそうとした。左翼的知識人は、スターリニスト系と労農派系=社会民主主義系とを問わず、呆然自失に陥り、なんらの発言もなしえなかった。
ソ連共産党二〇回大会のスターリン批判は、フルシチョフの思惑をはるかにこえて、ポーランド政変(失脚させられていた民族共産主義者ゴムルカの、武力を背景とした復活)、さらにハンガリア革命へと歴史的な転回をみせた。
「労働者国家」ハンガリアにおける全人民的な武装蜂起とソ連軍のジェット戦闘機、戦車を動員した血の虐殺は、二〇回大会のショックを深さと広さにおいてはるかにこえた深刻な衝撃を全世界にもたらした。前述したような日共や知識人の死の沈黙のなかで、唯一例外をなしたのが、埴谷雄高と黒田寛一の発言であった。
『スターリン主義批判の基礎』(人生社版、一九五六年十月二二日執筆完了。ちなみにこの日付はハンガリア革命勃発の前日にあたる)の末尾にわずか三行、ハンガリア革命への共感を書き記した黒田寛一は、『探究』創刊号(一九五七年十月)において痛烈なソ連スターリン主義への糾弾状を叩きつけ、反スターリン主義のたたかいの第一歩を印したのである。それは、日共の内部で苦闘しつつあった左翼スターリン主義者、全学連の学生党員や若き国鉄労働者に衝撃的な影響をもたらし、弁証法研究会への結集→探究派の歴史的成立をつくりだしたのである。
本論文は、このかんの歴史的意義を簡潔に説きあかしたものである。
ハンガリア革命の衝撃を根底的に、哲学的・思想的にうけとめた探究派は、第四インター(当時の西分派=関西派)の親スターリン主義の世界戦略「反帝・労働者国家無条件擁護」を批判し、克服した地点において「反帝・反スターリン主義」基本戦略を提起し、日本トロッキスト連盟を革命的共産主義者同盟と改称し、こんにちのわが革共同の基礎を創成したのである。
黒田寛一の提起した「反帝・反スターリン主義」が、なにゆえに二〇年後のこんにち「容帝反共主義」に反革命的変質をとげるにいたったのか。この問題をここですべて解くことはできないが、六二年秋三全総にたいする反革命的反発と脱落、六七年十・八羽田闘争、「二つの十一月」にたいする武装反革命としての「七一年十二・四」以降のK=K連合による白色テロル分子化の政治的過程については、すでにわれわれの多くの文献が説明しているので、それらにゆだねることとして、ここでは黒田の思想にそもそも出発当初から内在する弱点として次の諸点を指摘しておきたい。
第一には、スターリン主義の反労働者性を鋭く糾弾し、反スターリン主義運動の出発点として「反帝・反スターリン主義」戦略を提起しながら、それは、現代世界をトータルに(根底的に、歴史的・科学的に)とらえることによって深化された革共同第三回大会報告(一九六六年)の理論に敵対するものであった。すなわち、ロシア革命の世界史的勝利にもかかわらず、心臓部が延命したことによって主導的基軸をなお形成した帝国主義を科学的に現代世界のうちに位置づけ、スターリン主義を革命の現実性の時代における、さらに帝国主義が部分的には打倒されたが、なお基本的には残存している二〇世紀特有の反革命として、科学的に批判し、一国社会主義理論と平和共存政策として批判することに失敗してしまったのである。
第二には、その思想的根拠として、スターリン主義の糾弾が、ハンガリア革命の血の虐殺に象徴される非人間性と暴虐性への糾弾に重心がおかれ、帝国主義打倒の完遂=世界革命の成就の荒らあらしいたたかいをなしとげていくうえにおいて、スターリン主義の反革命性を理論的・実践的に粉砕していくという全体的・哲学的位置づけを喪失し、ハンガリア革命の第一衝撃をこの全体性のなかに深めていく理論的作業を怠ってしまった点にあるのである。それは同時に、黒田の「マルクスへ還れ」という思想的叫びが、一定の歴史的意義を果たしながらも、マルクス『経済学=哲学草稿』のプロレタリア的人間主義の復権に限定される傾向をつよくはらみ、『ドイツ・イデオロギー』によるマルクス的唯物史観の創造、さらには『資本論』による資本主義の物質的解明、マルクス主義経済学の確立をもってするマルクス主義唯物論の論証を、ついにみずからのものとなしえなかった黒田の根本的弱点の当然の結果であったのである。
第三には、右に述べた第一、第二のもっとも端的な表現として、黒田のレーニン主義への敵対をあげなければならない。黒田は、レーニン主義を、二〇世紀=帝国主義段階、革命の現実性の時代において、ロシア革命を勝利に導いた偉大な思想と実践、マルクス主義の真の発展として学ぶことを放棄し、否敵対し、レーニン主義をマルクスのマルクス主義からの後退をふくんだ粗雑化、卑俗な後進国型化として捨て去るのである。この点は、本選集第一巻所収「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」において全面的・徹底的に批判されているので、それにゆだねる。
このような根本的弱点を反動的に固定化させ、わが革共同にたいする白色反革命分子、ファシストとしてみずからを純化させるにいたった黒田=カクマルが、七五年十・二一をまえにした山代=猪狩論文を発端とする中枢分裂のすさまじいまでの深刻な危機のもとにおいて、この危機を姑息に隠蔽するために演出された黒田忠誠運動において、ハンガリア革命論を中心課題としてとりあげたのであるが、それは、一九五六年における黒田のソ連スターリン主義の血の虐殺にたいする糾弾のみずみずしいプロレタリア的、人間的感性のひとかけらだにもちえない、さめざめとするようなひからびた、石化したものであった。
ハンガリア革命の血叫びをわが魂とし、反帝・反スターリン主義をたたかいぬいているのは、こんにちわが革共同をおいてほかにありえない。本多論文は、その出発点をなしているのである。
Vの1は、一九五六年ベルリン暴動、ポーランド政変、ハンガリア革命を、数十万労働者人民の血の虐殺をもって鎮圧し、東欧にたいするスターリン主義的制圧をびほう的に再建したフルシチョフ、その後継者たるブレジネフにたいして、改良主義的な綱領をもってではあるが、ハンガリア革命の一二年のち、一九六八年チェコスバキア人民が、まさに全人民的、全民族的にたちあがったチェコ問題を全面的に解明した、本多書記長の一九六八年九月七日、革共同主催の法政大学における講演である。
講演という性格上、きわめて平易であるが、そのなかに深遠な思想が説かれていることに注目すべきである。
「東欧の優等生」と称されたチェコスロバキアにおいて、すさまじい奔流として噴出するにいたった反スターリン主義の人民のたたかいは、スターリン主義の歴史的破産を再び三たび、全世界に衝撃的に告げ知らせたのであった。
本多書記長は、この問題を、現代世界の根底的転覆、帝国主義打倒の課題と密接に関連させてとらえるべき階級的視点を提起し、日本の革命人民にとっての当面する課題=安保粉砕・日帝打倒にひきつけて論じているのである。さらにチェコスロバキア問題の根源を、一九五六年までのスターリン的なソ連一国社会主義の矛盾の転嫁としての、東欧にたいする反労働者的・反民族的な抑圧にみいだし、人民の怒りの爆発のチェコスロバキアにおける歴史的必然性を克明に解明し、チェコスロバキア人民のたたかいの方向性を、反帝・反スターリン主義として、おそろしいまでの説得力をもって具体的に展開するのである。
こんにち、東欧は、世界史的激動の圧力をうけて、六八年チェコ激動以降も、七〇年ポーランド政変(ゴムルカ打倒)、ユーゴスラビアの民族的対立による危機等、スターリン主義の歴史的破産をますます深刻化せしめている。まさに全世界が、帝国主義諸国と、半植民地・後進国と、スターリン主義圏とを問わず、根底的な変革に直面しているのである。反帝・反スターリン主義こそ、全世界人民のたたかいの綱領である。
本多書記長のVの二論文は、東欧問題に即して、このことを説きあかしているのである。
一九七八年十一月 前進社出版部