二 バンガリア革命と反スターリン主義運動の創成
 
 本論文は、一九六二年十月『前進』に発表されたものである。わが革命的共産主義運動がハンガリア革命の問題性を直視し、そこにひとつの歴史的出発点をおくことによって、反帝・反スターリン主義綱領をもつことができたことを中心に論じている。
 
 
 ソ連共産党二〇回大会(五六年二月)におけるフルシチョフ第一書記の「スターリン批判」は、六全協(五五年七月)を契機とする党内闘争の激化のなかで、日本共産党の「革命的再生」という幻想を迫っていたものたちにとって、ひとつの国際的「希望」をもたらすものにみえた。
 レーニンの忠実な弟子であり、国際プロレタリア運動の卓越した指導者であり、マルクス主義の創造的な理論家とされていた全能の人・スターリン、そのスターリンがこともあろうに、その王位継承者であるフルシチョフから告発されたのである。そして、この電撃的な「スターリン批判」の喧騒と動揺のなかで、帝国主義との長期的な共存政策を理論化した「戦争可避」論と支配階級との長期的妥協を理論化した「平和移行」論を、レーニン以後の創造的な理論的成果としておしだしたのである。
 スターリンの硬直した官僚的統制のもとで、苦闘していた各国のプロレタリアは、このフルシチョフの「スターリン批判」を、スターリン的な官僚制の終りとしてうけとり、「戦争可避」論と「平和移行」論を主軸とするフルシチョフの新路線を、国際プロレタリア運動の創造的な発展の道として理解しようとしていたのである。
 だが、このようなフルシチョフの神話は、一九五六年十月から同年十一月のあいだに東欧を席捲した一連の政治的激動のまえに、その醜悪な実体をあばかれたのであった。「ワルシャワ支持」という改良的・平和的デモを端初として開始されたバンガリアの首都ブダペストの労働者・学生・知識人の反政府デモは、スターリン主義官僚の走狗である秘密警察の民衆への発砲を転機に、スターリン主義官僚政府にたいする公然たる非和解的な武装反乱にまで発展した。「労働者国家」のなかで、労働者民衆が反政府の軍事的蜂起をおこなうという深刻な状況が現出したのである。
 しかも、きわめて重要なことは、この軍事的反乱→クレムリンの干渉軍との戦闘の過程のなかで労働者民主主義の実体的機関である労働者評議会が、工場別・職場別に大衆的に形成され、さらにこの労働者評議会は、学生評議会や農民評議会や知識人評議会のような他の階層の評議会の支援に包まれて発展し、全国的な労農評議会の形成にむかって進みつつあったことである。かつて一九一七年の大十月社会主義革命がそうであったように、蜂起のための労働者の機関は、同時に、樹立されるべき労働者権力の実体的な機関をなしたのであった。
 バンガリア労働者階級のこの歴史的な反スターリン主義革命は、たしかに、クレムリンの派遣した反動的干渉軍の弾圧のもとで、流血の記録を刻みながら敗北の道をたどった。しかも、明確な「反帝・反スターリン主義」の綱領的立場をもった前衛的部隊の未形成は、労働者評議会と官僚政府の二重権力を、前者のヘゲモニーのもとに解決するという決定的闘争を遅延させたのみならず、組織的な後退戦を遂行することによって、革命的翼を壊滅から防衛し、民衆をつぎの反乱にむかって準備させるための闘争をも、完全に中途半端なものにしたのである。
 このような革命の敗北のうちに、民衆の内部に錯綜する意識の混迷のうえに、今日のハンガリア官僚政府は成立し、フルシチョフ官僚体制は存続している。だが、今日のフルシチョフの官僚体制は、スターリン時代よりはるかに危険な断層のうえに構築されているのである。レーニンの弟子を僭称し、労農ソビエト(評議会)の解体のうえにこっそりと官僚体制を導入したスターリンにたいして、フルシチョフは、自分の「批判」したスターリン的社会のうえに自分の官僚体制を維持しなければならず、しかも、蜂起した革命的民族の圧迫をつねにその足下にうけなくてはならないのである。
 トロッキーは『ロシア革命史』の序文で、「革命のもっとも明白な特徴は、大衆が歴史的事件に直接に干渉することである」といっているが、まさに、フルシチョフによって開始された「スターリン批判」は、ハンガリア労働者人民大衆が直接に干渉するとともに真実の歴史的事件に転化し、その「スターリン批判」の刃はフルシチョフそのものの喉につきつけられたのである。
 だからこそ、フルシチョフは、官僚的王位争奪戦において、モロトフ一派に勝利するために迫りくる民衆の反スターリン主義的高揚に妥協し、敗残者を犠牲に供しつつ、同時に、ハンガリア労働者階級の自己権力のための闘争にたいし、「帝国主義の挑発」という無内容な悪罵をなげかけることで、かろうじて自己保身をつづけなくてはならないのである。
 一九五六年十月のハンガリア革命は、一九一七年十月のロシア革命とともに、二〇世紀プロレタリア解放運動の根本的な性格を刻印づける金字塔である。
 スターリンのひからびた神話やフルシチョフの急造の神話を信じこんでいた各国のスターリン主義にとって、たしかに、このハンガリア革命は晴天のヘキレキであった。だが、たとえどのようにこの革命が複雑な顔つきをしていようとも、そこに、労働者としての、共産主義者としての直感を集中するならば、旧来の神話の方法では解決しえない根底的な問題性の存在に気づくはずなのである。このハンガリア革命のなかには、ソ連共産党二〇回大会におけるフルシチョフの「スターリン批判」のワクをはみだし、ふみにじってすすむプロレタリアートの荒々しい息吹が、渦まいているのである。
 今日、マルクス主義青年労働者同盟の指導的活動家の一人である革命的労働者は、座談会でハンガリア革命についてこう語っている。
 「オレが反帝・反スタ運動に入って来たきっかけといえばいろんな意味でハンガリア革命が大きかったな。当時オレは日共で民青をやっていたわけだが、なんとなくスゲエという感じがした。テメエの国であるはずの『労働者国家』で労働者がたちあがったんだからな。日本の労働運動のあまりの弱さが目のまえにあるのでとにかくすごいエネルギーだとその根性に一種のあこがれを感じたわけだ。こういったら日共からにらまれた。そこで日共の上の方の奴らは一体なにを考えてやがるんだと疑問を感じたね。これがいわば反スタのきっかけだな。
 こうしているところで『探究』一号をNから手に入れて読んだ。『スターリン主義批判の基礎』を読んだ時には、このジジイヤロウとっぴょうしもないこといってやがる。精神的風土とかなんとかいって……と思ったが『探究』一号を読んだ時には本物だと思った」
 この事実からも明らかなように、日本で労働者階級の生活と権利を守り、労働者階級を自己解放するために苦闘している労働者の心臓には、卒直な感動をもってハンガリア労働者階級の反乱の革命的本質が伝えられたのである。
 だが、ハンガリア労働者と日本労働者とのあいだに成立したこのような交通にもかかわらず、全体的にいうならば、日本「左翼」戦線の退廃と堕落を、じつに鮮やかにハンガリア革命はえがきだしたのであった。タス通信と人民日報の記事を客観的に伝えるという無責任な編集のなかに、日本共産党の四〇年の歴史の集約的な姿を示した日本共産党の『アカハタ』は論外としても、労働組合の幹部や社会党の議員のうちからハンガリア革命との連帯を表明した、ただ一人のものすらあらわれなかったのである。
 このような事情は、知識人の世界に拡大するならば、もっと陰険で醜悪な姿をさらけだしていたのである。わが国の「偉大」な進歩的文化人たちは、サルトルの弾劾に一応のうなずきを示しながら、現実には、ハンガリア革命にたいするフルシチョフの軍事干渉を擁護する側にまわったのである。日本共産党系の学者から近代政治学者グループにいたるいっさいの潮流が、タス通信を裏から支える見事な統一戦線を形成したのである。この戦慄すべき光景のなかに、日本の進歩的文化人のもっとも反動的な素顔があらわとなっている。
 だが、悲劇はもっと先鋭な形態をとって存在していた。日本共産党内の分派闘争において、もっとも左翼的な位置を象徴してきた全学連系の学生党員は、ハンガリア労働者の自己権力のための闘争に同情を示すどころか、逆に、ハンガリア労働者評議会に血の弾圧を加えたクレムリンを無批判的・教条的に支持するためのキャンペーンすらはじめたのである。
 今日、「革新運動の変革プラン」などという珍妙な作文で得意になっている武井昭夫のごときは、当時、日共都委員会の学対部長として、全学連フラクが一片の条件もつけずクレムリンを支持するよう毎日のように官僚的恫喝を加えてまわっていたのである。
 それゆえ、スターリン主義者と帝国主義者の転倒したハンガリア革命の報道と評価の背後に存在するプロレタリア革命の波動をとらえるための苦悩にみちた探究の過程は、同時に、戦後日本革命の敗北の水先案内人たる日本共産党との革命的実存をかけてのたたかいであり、日本共産党本部の腐敗を別の国際的権威(フルシチョフ)の援助で突破しようとする「国際派」との決別の日々であったのである。
 ハンガリア革命の遠雷のもとで、一九五六年暮から胎動をはじめた日本反スターリン主義=革命的共産主義運動は、六全協後の日本共産党の党内闘争と密接な関連をもちつつも、同時に、日本共産党の「改良」という国際派的な限界を基本的に突破した地点から出発したのである。もっと正確にいうならば、日本共産党本部の腐敗と日和見主義を一応は批判するが、その誤謬の根底に横たわるスターリン主義にはまったく無自覚であるのみならず、逆に、ハンガリア革命にたいするクレムリンの血の干渉を無条件で支持する国際派そのものの退廃にたいする非妥協的な批判から、日本反スターリン主義=革命的共産主義運動の現実の端初は開始されたのである。
 さきに指摘したように、日本における公認の左翼指導部や進歩的知識人たちは、ハンガリア労働者階級の反官僚政府蜂起とクレムリンの血の干渉、労働者評議会の革命的形成とスターリン主義的干渉軍によるその暴力的解体、という深刻な世界史的回転に直面して、その問題性を直感する感受性すら完全になくしてしまっていたのである。西欧の共産党を襲ったあのような動揺すら、日本「左翼」戦線はその表面にあらわさなかったのである。
 それゆえ、『スターリン主義批判の基礎』の序文の末尾に三行の書きこみを加えて、「ハンガリア労働者層の蜂起にたいし連帯の意志」をいちはやく表明した黒田寛一のその後の活動は、『世界』の座談会でハンガリア革命の労働者評議会の活動に言及した埴谷雄高の批判とともに、このような日本「左翼」戦線の退廃の谷間から噴出した革命的知性の炎であったのである。
 だが、この事実からも明白なように、このような黒田寛一のハンガリア革命にかんする弾劾は、いっさいのジャーナリズムと知識人から沈黙の反批判をうけるのみであり、いっさいの公認の「左翼」から敵意ある冷笑の反批判をうけるのみであったのである。したがって、ハンガリア革命を契機とする世界革命運動のスターリン主義的歪曲の検討と革命的共産主義運動の理論的立脚点の苦闘にみちた探究は、商業ジャーナリズムや「左翼」の論壇の虚光に輝く舞台とはまったく無縁な地点で、社会党と共産党の破廉恥な指導のもとで裏切られ、ふみにじられながら、労働者階級の解放の道を求めて苦闘している職場労働者の内部で、暗闇にとざされながらすすめられたのである。
 安保闘争後、日本共産党本部の官僚主義的な排除によって「心ならずも」日本共産党の規範からはみだした一群の知識人たちは、今日、日本共産党にたいして批判的な擬態を示すことによって、自己の過去におけるスターリン主義者としての責任について回避しうるかのようにふるまっている。だが武井昭夫をはじめとするこれからかつての青年将校たちは、ハンガリア革命にたいして、自分のとった反労働者的な言動について、なにひとつとして反省しようとはしていないのである。まさにこれら「非共産党的左翼」を自称する知識人たちに共通する基本的な陥穽は、スターリンの弟子フルシチョフの急造した「スターリン批判」の神話の欺瞞性についてまったく無自覚な点にある。だからこそかれらは、社会党や共産党や革共同にたいして並列的な不満を述べることで、自分の独自性? を誇示しつつも、結局のところ、自分自身の道をなにひとつ示すことができず、文学と政治のあいだをつねに無責任に放浪しているのである。
 だが日本における反スターリン主義=革命的共産主義運動の創成のための闘争は、ただたんに、共産主義運動のスターリン主義的な歪曲に無自覚な公認の「左翼」戦線と無縁な地点から出発せざるをえなかったのみならず、戦前から「日本唯一のトロツキスト」であった山西英一や『スターリン主義批判』(五一年)という著書で労農派から「反スターリン主義的マルクス主義者」に転向したはずの対馬忠行とも独自に進まざるをえなかったのである。
 この事実は、日本における反スターリン主義=革命的共産主義運動の形成が、一部の論者が空想しているように、セクト主義的な基盤から出発したことを意味するであろうか。
 われわれは、このような批判にたいして寸分の疑問もなしに答えることができる。――そうではない、と。それどころか、この事実は、日本における反スターリン主義=革命的共産主義運動のすぐれて実践的な性格をはっきり示しているのである。
 山西英一が戦前にイギリスに渡った際にトロッキーの論文にふれて感銘し、以後、トロッキーの論文の翻訳をはじめ、戦後つぎつぎと日本で紹介の仕事をすすめ、われわれがハンガリア革命以後に世界革命運動の歴史的再検討をはじめるときに、「有利」な準備をしていてくれたことは、今日よく知られているところである。また、それほどよく知られていることではないが、山西英一が社会党員として五四年の社会党(左)大会でおこなった反対派活動は、五六年のハンガリア革命以前に、日本でおこなわれた政治的場面における唯一の左翼反対派の活動として特記しておく必要があるだろう。
 だが、不思議なことには、山西英一はソ連共産党二〇回大会におけるフルシチョフの「スターリン主点批判」を契機とする国際スターリン主義運動の動揺と再生の過程を眼前にしても、あいもかわらずトロッキーと第四インターの文献の紹介を平凡につづけ、ハンガリア革命の勃発に直面しても、平然としていたのみならず、胎動を開始した反スターリン主義=革命的共産主義運動にたいして、「独自活動はセクト主義・極左主義」だとして参加を拒否したのである。山西英一のこのような奇怪な行動は、第四インターのトロッキー教条主義者が、ハンガリア革命とそれを契機とした欧米共産党の動揺にたいして示した無能無策と思想的に軌を一にするものであったのである。
 ところで、対馬忠行の場合はもっと特徴的であった。今日、対馬忠行は、反スターリン主義的なマルクス主義者としてふるまおうとしている。だが、戦時中にファシスト的な労作『総力戦経済学』や『国防国家建設の史的考察』を執筆し、戦後は労農派に再転向して、戦後日本革命の敗北の一契機をなす左翼社会民主主義者の裏切りを美化する役割をはたし、かつまた、『自由の旗の下に』などという国際的な反共雑誌の事務長であった自分の過去にたいして、正統レーニン主義者、対馬忠行はいかなる自己批判をもっているのか、われわれはけっして無関心でいることはできないのである。
 しかしながら、当面する問題は、直接にハンガリア革命につらなっているのである。というのは対馬忠行があれほど教多くの「ソ連論」にかんする論文を執筆しているにもかかわらず、ソ連スターリン主義官僚制にたいする労働者階級の「武器の批判」であり、反帝・反スターリン主義世界革命の無限の教訓の宝庫であるハンガリア革命について、ただ一つの論文すら発表されていないということについて、われわれは当面もっとも無関心でいられないのである。この端的な事実のなかに、ソ連論を追究する場合における対馬忠行とわれわれとのあいだのもっとも根底的な出発点の相違があるのである。
 今日、構造改革派や自称無党派左翼の連中は、日本における反スターリン主義=革命的共産主義運動を「批判」しようとして、「スターリンが批判されたからといってトロッキーにのりかえただけではだめだ」とかなんとか口走っている。だが、批判するまえには相手をよくみるものである。トロッキーを金科玉条のように、信仰しながら、パブロ流にトロッキーを左翼社会民主主義的に歪めてしまっているトロッキー教条(修正)主義ならいざしらず、こんなことをいって、われわれを批判したつもりでいるとはお目出度ものである。
 日本における反スターリン主義=革命的共産主義運動の歴史的特殊性は、まさに、ハンガリア革命という共産主義運動の世界史的回転の直感にもとづいて出発したことのなかに鋭く表現されている。
 われわれは、このハンガリア革命の提起した深刻な衝撃を徹底化する作業をとおして、スターリン=フルシチョフ主義者の手によって形骸化され、虚構化されたロシア革命の内的な姿を鮮明にするための現実的な立脚点を獲得していったのである。ロシア革命の内部を貫く労働者コンミューンのための闘争、スターリンとその弟子フルシチョフの手によって解体され、封殺された労働者ソビエト、……こうした革命のロシアの変質をつき破り、労働者コンミューンを形成するための第二革命は、ロシア革命の真実を照らす炎であり、世界を焼きつくす革命の火花として、全世界の労働者の心臓に反逆の炎をもやしつづけているのである。帝国主義者とスターリン主義者は、ハンガリア革命を反労働者的な反革命的な暴動だという虚偽のベールに包むことによって、表側と裏側からハンガリア革命の真実を全世界の労働者からかくし、その革命的鼓動が国境をこえてプロレタリアートのあいだに拡がっていくことを絶対に阻止しょうとしているのである。
 昨年のベルリン危機のときにあきらかになったように、東独における労働者人民の反官僚政府闘争の条件の成熟を、帝国主義者とスターリン主義者はともに神経をいらだたせて恐れていたのである。なぜなら、東ヨーロッパにおける第二の反官僚政府暴動の発生は、帝国主義とスターリン主義の二つの抑圧の形態のもとにひきさかれている労働者階級の国際的連帯を、六年前のハンガリア革命のときよりもはるかに鮮明にうちだすにちがいないからである。
 ハンガリア革命の天をつく意気は、日本労働者階級の米ソ核実験反対のたたかいのなかに、アメリカ帝国主義のカリブ海における強盗的行動に反対するたたかいのなかに、そして、資本家的合理化と搾取の強化に反対するたたかいのなかに、いまも燃えつづけている。ロシア革命(一七年)とハンガリア革命(五六年)の旗は、プロレタリアートとともに不敗である。
  (『前進』一〇六、一〇七号一九六二年一〇月二二、二九日 に掲載)