チェコ問題と革命的共産主義への道
     ―チェコスロバキア人民のすすむべき道はなにか―
 
 本稿は、一九六八年九月初旬、法政大学でおこなわれた講演の草稿である。六八年八月のソ連スターリン主義のチェコスロバキアにたいする武力介入を、反帝・反スターリン主義の立場から鋭く弾劾し、この問題がソ連スターリン主義の歴史的破産と没落の必然的事態である点を説き、さらにドプチェク的改良主義をのりこえ、チェコスロバキア人民が東欧――全ヨーロッパ――全世界の革命的転覆のたたかいの一翼として、スターリン主義打倒に決起することこそ、解放の唯一の道であることを訴えている。
 
 
 第一章 チェコスロバキア問題をとらえる階級的視点
 第二章 ソ連スターリン主義の東欧支配の歴史的動揺と没落
 第三章 ドプチェク的改良主義のりこえ反スターリン主義革命へ
 
 
 
 第一章 チェコスロバキア問題をとらえる階級的視点
 
 八月二一日チェコにたいするソ連軍の介入がおこなわれ、その報道が世界にひろがると、全世界いたるところでソ連軍のチェコにたいする批判・憤激の声がまきおこったことは皆さん御承知のとおりだと思います。
 こういう情況のなかで、われわれ自身の問題としてチェコ問題をどうとらえたらよいのかをはっきりさせておかなければなりません。
 まず第一にはっきりさせておかなければならない点は、チェコの問題とアメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の問題は、じつは相互にきり離して論ずることのできないことを実践的にふまえておく必要があるということです。ベトナム侵略戦争にたいする人民の抗議のたたかいに背をむけ、あるいは敵対をつづけていたような人が、今日いかにチェコにたいするソ連軍の行動を非難しょうとも、それはまったくなんの説得力をもつものでない。その意味で、チェコの問題は同時にわれわれにとっては、ベトナム侵略戦争に反対するわれわれの実践的バネとして論じられなければならないということです。
 第二の問題としては、チェコにたいするソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリア、ブルガリアの五ヵ国の武力介入が、じつはワルシャワ条約機構の発動というかたちをとってあらわれているように、この問題は、NATO、つまり北大西洋条約、そしてまた日米安保同盟ときり離して論じることができないということです。したがってわれわれにとっては、ワルシャワ条約の反動的発動にたいしておこなわれる弾劾は、同時に、日米安保同盟政策にたいするわれわれの粉砕のたたかいの実践的バネとして提起していかなければならない。
 つまり今日、ソ連軍のチェコにたいしておこなわれている事態について非難することのできる人びとは、同時にアメリカ帝国主義と、それと同盟した日本帝国主義のあいだに同じような「集団安全保障」の機構が現存している事実にたいする弾劾と結びついて、ソ連にたいする弾劾の行動が展開されなければならないということです。なぜならば、ワルシャワ条約機構は、直接的には西欧帝国主義諸国の米帝を中軸とした同盟政策へのスターリン主義的対応として形成されたものであり、したがって、ワルシャワ条約機構粉砕のたたかいは、同時に、NATO=日米安保を両軸とする帝国主義的同盟政策の粉砕のたたかいを基底としたものでなければならないからです。
 第三の問題として、同時にこのチェコの問題は、資本主義を打倒し、社会主義を実現せんとしている全世界のプロレタリアート人民、そしてまた日本のプロレタリアート人民にとって社会主義の試練としてつきつけられていることをはっきりさせなければなりません。つまりチェコの問題は、ソ連軍にたいする弾劾というかたちで、さしあたっては提起されなければならないが、同時に「われわれにとって実現されるべき社会主義とはなにか」という問題に、理論的・実践的に答えるものでなければならないということであります。
 この問題を別の面からいいますと、今日までソ連とか中国とかの権威のうえにのっかって社会主義の現実性を論じていたいっさいの伝統的考え方の破綻と、それにたいする徹底的な弾劾としてチェコ問題がおこっている、とわれわれはとらえかえさなければならない。同時にこの問題は、一応日本共産党や社会党をのりこえてすすもうとしている「戦術的左翼」をも鋭く弾劾しています。
 たとえば、これまで、あるときはソ連や中国を「世界革命の予備軍」と規定してみたり、あるときはソ連は国家資本主義であるが中国は違うのだとかいって、その時その時でご都合主義的に意見を変えて、真剣にソ連や中国や東ヨーロッパの問題を自分自身の問題として考えてみようとしない人たちがいますし、はなはだしきにいたっては、われわれはさしあたって帝国主義を打倒するのだから、社会主義社会論とかスターリン主義の問題は関係ないと断言する人たちもでてきています。
 しかし、われわれは、日本帝国主義打倒を日本革命のさしあたっての実践的=戦略的課題としていますが、同時にこのたたかいは、実現されるべき社会主義とはなにか、あるいは今日、ソ連、中国、東ヨーロッパというかたちをとってつきつけられている 「社会主義」にたいして、われわれがどういう評価をもってのぞむのかという問題と密接に結びついています。したがってチェコ問題は、たんに外国でおこっている客体的事件の問題としてではなしに、今日の世界体制をいかにわれわれが変革していくかという基本問題として論じられなければならないと思います。
 チェコにおける一月から八月までのいわゆる自由化の過程は、長年にわたるノボトニーの圧制にたいする労働者人民の怒りの噴出を背景に、作家や知識人の活発な言論戦がまきおこり、同時に共産党の中央委員会内部でも反ノボトニー派の勢力が強まり、ついに一月にはノボトニーにかわってドプチェクが党第二書記となり、三月にはついに大統領からもノボトニーは追放されてしまったのです。このようにチェコ・スターリン主義体制はかつてない政治的動揺を露呈しました。これにたいしてソ連スターリン主義の武力介入がおこなわれ、モスクワ会談におけるドプチェク、スボボダの屈服を契機に、チェコ労働者人民のたたかいはあらたな転機にたっています。
 こうしたチェコ労働者人民のたたかいは、本質的には五六年のバンガリア動乱にはじまる東ヨーロッパのスターリン主義陣営の動揺の波が、今日チェコを襲い、ソ連の伝統的な東欧支配体制が、チェコにおいても崩れはじめたものととらえることができるのです。
 ところでこのような動揺に直面している東ヨーロッパの体制は、一体どのような歴史的特質をもっているのかを、さらにつっこんで検討する必要があります。
 まず第一に、われわれが特徴としてあげうることは、東ヨーロッパのソ連圏への官僚制的包摂の過程は、基本的にヤルタ体制を基礎にするものであったということです。それは、歴史的にいえば「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」が、官僚制的に歪曲された姿で拡大していったものととらえかえすこともできますが、しかし同時に、その歪曲的拡大の過程そのものが、ヤルタ体制、すなわち、第二次大戦の帝国主義的戦後処理政策と、それへのスターリン主義的承認を代償とする東欧の緩衝地帯化を基礎としていることを、はっきりおさえておかねばなりません。
 一九四四年に、スターリンとチャーチルのあいだで、従来ナチス・ドイツが支配していた東西ヨーロッパの地域を、どのように再分割するのかにかんして基本的検討がおこなわれ(それはのちに四五年二月ソ連のヤルタでおこなわれた、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中国の蒋介石、ソ連のスターリンの四者のヤルタ会談で定式化されたのでありますが)、西ヨーロッパはアングロサクソン民族にわたす、東ヨーロッパはソ連の緩衝国とする、しかしギリシャ、トルコ、イランは一応伝統的関係からイギリスにわたす、という合意が両者のあいだで成立しました。
 すでに、それ以前に、スターリンは「西ヨーロッパにおいては絶対に革命はやらない」という約束をおこなったが、チャーチルがそれにたいして納得がいかないと首をひねって、スターリンが、ではこれをもって証明しましょうといっておこなわれたのが、コミンテルンの解散なわけです。われわれからみれば、四三年当時のコミンテルンは、世界革命の機関でもなんでもなくて、各国の共産党にたいするソ連スターリン主義官僚の支配機構そのものですけれど、帝国主義者はその点用心深いですから、あくまで要求して解散させてしまった。その代償が、東ヨーロッパの緩衝国化という合意です。
 緩衝国化という概念は、耳なれない人もいるかもしれませんが、それは、ナチス・ドイツが復活して、ふたたびソ連を侵略する危険にたいして、ソ連とドイツとのあいだにはさまっている東ヨーロッパ諸国を、反ナチ的な民主的国家にしておくことで対抗する、というスターリン的政策のことです。
 したがって、スターリンは、ナチス・ドイツが軍事的に敗北していく過程で、ドイツ帝国主義者に支配されている東ヨーロッパの人民を、労働者的に解放していく方向で第二次大戦の終結を考えたかというとまったくそうではない、ということです。それどころか逆に、これらの地域の人民の反ナチス運動の革命的発展をいかにおしつぶすか、ソ連の軍事的な圧力でこの地帯をいかに官僚的=軍事的に包摂するか、がスターリンの政策であったのです。
 具体的にいうと、たとえばナチス・ドイツにたいする東欧人民の抵抗闘争において、もっとも典型的な発展をたどったのは、ユーゴスラビア、ポーランド、チェコでありますが、この三つの国にたいしてスターリンはどういう政策をとったかというと、つぎのようなものだった。
 ポーランドにかんしては、四四年に赤軍がワルシャワ近郊に進撃した情勢のなかで、当時ポーランドの臨時政府として事実上の役割をはたしていた民族解放委員会のよびかけでワルシャワのパルチザンが蜂起した。そして八二時間にわたって激戦し、ワルシャワを自力で解放するためにたたかったわけですが、ワルシャワ蜂起と呼応して進軍するはずの赤軍のロコソフスキー元帥は、二〇キロ手前で止ってしまって、ナチスがふたたびワルシャワにもどってパルチザンを全滅させてしまうまで動こうとはしなかった。その結果、ポーランドでは約二四万人が死亡し、六三万人がドイツ帝国主義の捕虜となったと記録されている。これほど巨大な打撃をポーランド人民に与えたのちに、ソ連の戦車にのってポーランド共産党幹部がポーランド領内に侵入するというかたちをとって「解放」がおこなわれた。ちなみにいいますとポーランド共産党は、いわゆるトロッキー派の影響力が強くて三〇年代に二度にわたって解散の処置がとられ、四二年にソ連領内で官僚的に再建されたばかりでした。
 ユーゴスラビアではどうかといいますと、ユーゴ共産党の書記長チトーは、民族共産主義者=右翼スターリン主義者として、われわれが綱領的にたたかわなければならない相手の一人でありますが、いくつかの点で革命的資質をもっていました。
 ウラジミール・デジエールの『チトーは語る』という本によりますと、一九三〇年代にユーゴスラビア共産党は非合法化され、その指導部はモスクワやウィーンに亡命し、コミンテルンによって支給される給料で生活しながら、時々ユーゴ人民の名において反動的政府への弾劾の声明を発表していた。つまり、モスクワや延安における野坂参三のような活動をつづけていたわけです。こういう状態にたいして、チトーは特別処置をとって、(1)全中央委員を非合法下のユーゴに召喚する(この処置にしたがわないものは除名処置をとる)、(2)コミンテルンの資金援助は、外国旅行の便宜供与だけとし、国内活動の資金は国内の運動の発展に依拠する、との決定をおこなった。そして非合法下でパルチザン闘争を開始し、四四年の段階で基本的にユーゴの全領域で、事実上ナチス・ドイツの支配権を無力化してしまうところまで発展していった。
 これにたいしてスターリンは、赤軍をどんどんユーゴ国境に集結させ、ユーゴスラビアの「軍事解放」を目論んだ。チトーはスターリンに「ソ連軍の手を借りるに及ばない。われわれは事実上ユーゴを解放している。あとはナチス・ドイツが本国で壊滅するだけである」と電報をうったのですが、スターリンはそれを無視して赤軍をユーゴスラビアに侵入させ、全土を完全に占領し、それをもって「赤軍の偉大な援助によってユーゴは解放された」と声明した。
 チェコスロバキアの場合には、チェコブルジョア政府とソ連が伝統的に友好関係にあり、親ソ的な国民感情が強く、スボボダによって指導された反ナチ・チェコ軍の育成にソ連は援助を与え、四五年五月、プラハ市民の蜂起とともにソ連軍はプラハに入り、ナチスからチェコを解放したなど、その後の対ソ関係に特殊な性格を付与したのですが、この解放がプロレタリア革命へと発展させられたのではけっしてなかったのです。
 ところで、このようにして獲得した緩衝地帯国にたいしてソ連はどういう態度をとったのかといえば、バンガリア、ルーマニアの敗戦国にたいし賠償のとりたてをおこない、捕虜をシベリアまで抑留させて強制労働をさせた。さらにもっとも決定的なことには、東ヨーロッパ全地域をまったく人為的に、ズタズタに割るような領土の再分割をおこなった。たとえば、まずソ連が、ポーランドの穀倉といわれていた肥沃な農業地帯=豊富な地下資源のある地域をふくむ三分の一を領有する。今度は東ドイツの同面積ぐらいをポーランドに割譲する。また、チェコスロバキアとソ連のあいだは、従来は国境を接していなかったのを、ただちにチェコに侵入できるように、その回廊にあたる地域をソ連が没収する。東ヨーロッパのどこへでも、ソ連軍が自由に出入りできるような政策をとったわけです。
 こういう事実は、枚挙にいとまがありませんが、さらに重要な点は、戦勝国・敗戦国を問わず、東欧諸国の工業設備の多数を占領するとすぐソ連領内にもちかえってしまうことまでやった。またポーランド新領土になった地域における旧ドイツの資産にたいする請求権の放棄の代償と称して、ポーランドからソ連に、四六年度八〇〇万トン、四七年〜五〇年まで毎年三一〇〇万トン、五一年以降は毎年一二〇〇万トンの引渡しを要求した。その引渡し価格は、一トン当り約一ドル二五セントから二ドルで、約一〇年間の過程でポーランドは、事実上毎年一〇万ドルを損失したといわれる(『プラウダ』五六年十二月二日――ゴムルカ演説)。
 東ヨーロッパの歴史的性格を形成している第二の点は、いわゆる東ヨーロッパにおける共産党政権化がきわめて官僚制的な性格をもつものであったということです。スターリンはもともと、東ヨーロッパをいわゆる共産主義の国にする気は全然なかった。
 ドイッチャーは、「スターリンは、人民民主主義国という用語をきわめてまじめに考えていた」と指弾しています。ところが、このような東ヨーロッパの緩衝地帯化政策から、いっきょに共産党政権樹立へと官僚的に政策を転換させたものは、一九四七年のトルーマン・ドクトリン、それにもとづくマーシャル・プランであったわけです。
 つまり西ヨーロッパ諸国を、アメリカ帝国主義を基軸にあらたに再編成していく政策がうちだされ、それと結びついて、東ヨーロッパをふたたび帝国主義の直接的支配下におこうとする政策が、濃厚になってきた。一方、スターリンは、アメリカもソ連も、ともにナチス・ドイツをやっつけた仲のよい関係なんだから、アメリカ帝国主義とソ連との関係は二〇年も三〇年も共存できるのではないかと真面目に考えていた。ところが帝国主義者の方が、事態にたいしてもっとリアリスティックに対処して、そんな幻想に生きるのではなしに、帝国主義の戦後的再編成をおこなう政策をどしどしと推進しはじめた。この事態にたいして、ソ連スターリン主義官僚が防御的におこなった対応が、四八年に東ヨーロッパ諸国でおこなわれた共産党政権化なのです。
 ですから、チェコをはじめとしてポーランド、バンガリア、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアなど一連の国々においての共産党政権化は、労働者階級が革命的に決起して、旧来のブルジョア国家を打倒し、労働者の独裁権力をつくり、その労働者権力の手に資本家的私有財産を没収して、社会主義へむかっての過渡期の経済建設を開始するという、本来あるべき労働者階級の革命とはまったく違った性格と形態をもって現実におこなわれた。
 ブルジョア政党と共産党とのあいだで連立政権をつくっておいて、そしてソ連軍と秘密警察の軍事的圧力を背景としてつぎからつぎへと連合政府のなかにおける非共産党的部分、あるいは共産党に対立する部分を一人ひとりしめだしていって、政権は共産党の威圧下におかれていった――こういう政権移譲のタイプをとったということがチェコ方式といわれる四八年の「革命」の特徴なのです。したがって、旧来の国家機構にたいする革命的な爆砕の闘争は、東ヨーロッパにおいては全然おこなわれていません。
 バンガリアにおいては、ナチス・ドイツ下で育成された秘密警察が、そのまま共産党に移行してあらたにラコシ支配下の警察になってしまった。旧来の国家機構を粉砕することなしに、そのままその頂点をブルジョアジーないしはファシストの手から共産党の手に移行させるというやり方をとって、四八年の共産党政権化がすすんだ。ですから革命の本来的性格とはきわめて違った性格を強くもっていたものであったといえます。
 しかもその過程は、同時に、ソ連にたいする各国の政府、各国の党が完全に屈服していく過程としてすすんだわけです。たとえば、デミトロフは、一九四八年十二月八日におこなわれた党の大会で、「人民民主主義は、ソ連の援助のもとで、特殊な条件のもとに実現したプロレタリア独裁の特殊形態である」と規定したうえで、「人民民主主義はソ連との友好的協力のうちに成立する。この協力を妨害せんとするいっさいのたくらみは人民民主主義の生命線をおびやかすものだ」と断言している。
 つまりチトーに代表される民族共産主義の策動にたいして、こういう恫喝をもってのぞんだわけです。デミトロフは、一九三六年のコミンテルンの大会で「反ファッショ人民戦線」を提起した人として日本では有名で、構改派の人などは神様のように尊敬しているようですけど、人民戦線の反プロレタリア的本質はいまここでは問題としないとしても、戦後のヨーロッパでデミトロフがおこなったことは、ソ連のタイコ持ちそのものであったわけです。
 しかも、従来の共産党の幹部が、ただたんに政府のなかから不正な手段でブルジョアジーの代表を追っぱらってけしからんというだけでなしに、のちに指摘するように、むしろ共産党の幹部がこの過程で思想的動揺を示し、それにたいして、スターリンは、チトー主義者というレッテルをはりつけることによって、暴力的に動揺を制圧するやり方をとった。
 第三の特徴は、マーシャル・プランに対抗して四九年に成立したセフ=コメコンは、一言でいえば、ソ連の一国社会主義の矛盾を東ヨーロッパに転嫁する機構であったということです。
 具体的にいうと、ソ連における一国社会主義の建設は、すでに一九三〇年代に大きな破産に直面していた。そのなかでドイツ帝国主義のソ連にたいする軍事干渉がおこなわれた。ですから当初、ナチスのソ連領内への破竹のような進撃にたいして、ソ連人民はほとんど抵抗をおこなわず、ウクライナでは歓迎さえした。ナチスがソ連人民にたいしてつぎつぎと弾圧を加えることがあってのちに、ようやくソ連人民の反ナチス抵抗闘争が爆発し、のちにそれが、スターリンの大祖国戦争に収れんされていくということが独ソ戦の大きな特徴であったわけです。
 戦後のソ連の産業の発展の過程は、さきほど述べたように、東ヨーロッパからのさまざまな収奪の機構をとおしてはじめて産業を再編しえたわけです。具体的にいえば、第一に、重工業優先の政策、第二に、ソ連にたいする徹底的な従属政策をとった。東ヨーロッパは伝統的には、西ヨーロッパとの経済的交流がきわめて強い地域であったのですが、セフ=コメコンという機構をつくって、この東ヨーロッパ諸国が西ヨーロッパ諸国と貿易するのを徹底的にチェックし、そのうえで、今度は、ソ連にきわめて有利な機構が強制されました。
 たとえば、東ヨーロッパとソ連とのあいだの経済とりひきでは、ソ連から東ヨーロッパへ売り渡される生産財は国際価格より二〇パーセント高く、東ヨーロッパからソ連へ売られるものは国際価格より二〇パーセント低い、こういう政策が東ヨーロッパにたいして政策的にとられた。しかも、そういう深刻な状態にもかかわらず、チェコのようにソ連とのあいだの国際収支が黒字を保っていた場合には、いくら国際収支が黒字になっても、コメコンの中央銀行に黒字が加算されるだけで、それを引き出してコメコン地域以外の国と貿易することができなくなっています。
 一方ソ連は、金を使って他の帝国主義と有利な貿易ができる。東ヨーロッパ諸国の域内貿易の比重は圧倒的であって、赤字になればさらに不利になり、黒字になっても帳面づらだけ増えて現実には役にたたないという機構になっているわけです。旧ブルジョア国家の粉砕の過程そのものが、非常に官僚的なかたちでおこなわれたことはさきほど述べましたが、国内経済政策の問題も同じで、工場における労働者組織の機構を全然かえず、もちろん工場労働者評議会をつくらせない、ただ工場長だけが共産党の幹部と入れかわるというやり方をとったということです。
 したがって、今日チェコの民衆が改革しなければならない東ヨーロッパの機構は、第一には、ソ連軍の圧力のもとに東欧をソ連圏に官僚制的に包摂したものであること、第二には、各国における共産党政権化の過程もまた、国家の粉砕=労働者階級の革命的独裁をつくりだしていく変革の過程ではなしに、官僚制的に上層部をかえていくという方式がとられたこと、第三に、「社会主義的世界市場」としてスターリン主義者によって美化されているセフ=コメコン機構が、じつはソ連の一国社会主義の矛盾を東ヨーロッパの犠牲において解決しつつ、ソ連の熱病的な重工業発展の道を保障するという、東ヨーロッパへの矛盾の転嫁=支配機構としておこなわれたといえます。
 ですから、歴史的にその背後には、一七年のロシア革命によってはじまった世界革命の過程が、一九二四年のスターリンの一国社会主義論の登場によって、平和共存と一国社会主義の方向におしまげられてしまった、という深刻な世界史的事実が横たわっていることはいうまでもありません。そのことの別な表現として、西ヨーロッパ、アメリカにおける二九年恐慌を契機とする帝国主義の危機をプロレタリアートの勝利に転嫁することができずに、主要地域で帝国主義が延命することを助け、この結果として、帝国主義から社会主義にむかっての世界史的な過渡期の時代が「帝国主義とスターリン主義の平和的共存」の過程におしまげられてしまう歴史的事態が、この背後に大きくのしかかっていて、それがさしあたって、ヤルタ体制というかたちをとって東ヨーロッパのうえに枠づけられているんだ、と理解することができます。
 結論的にいうと、第一には、ソ連の戦後の高度成長とよばれるものは、じつは東ヨーロッパの人民にたいするあくなき収奪のうえにたっていたということ、つまり、他民族の収奪のうえにソ連の栄光が存在していた。そしてこのようなソ連の発展の過程は、同時に、ロシアのプロレタリアート人民にとってもまた、自己解放の過程ではなく、官僚の支配の強化というかたちをとってあらわれたということです。第二には、ヤルタ会談の帰結として、西欧革命および日本革命が制圧された結果として、欧米プロレタリアートの二〇年間の永き腐敗の歴史がきずかれてしまったということです。日本プロレタリア階級闘争の社民的=スターリン主義的限界をどう革命的に突破していくか、という実践的な課題としてわれわれに残されているのです。
 しかし西ヨーロッパでは革命がおこなわれなかったが、ともかく東ヨーロッパでは革命がおこったのだから、世界革命は半歩前進したのではないかと考える人がいるかもしれませんが、そういう考えはまったく誤っています。西ヨーロッパの犠牲のうえに成立した東ヨーロッパの共産党政権化は、東ヨーロッパの人民にとってもあらたな抑圧機構の出現を意味したのです。したがってわれわれにとっても、今日、チェコ人民のたたかいを積極的にうけとめていくとすれば、まさに、ソ連、東ヨーロッパ、アジア、この両大陸にまたがる「社会主義」圏、スターリン主義官僚体制を、反帝国主義・反スターリン主義世界革命の一環として根底的に変革していくたたかいの出発点としてとらえかえしていかなければなりません。
 言葉をかえていえば、チェコ人民のたたかいを、反帝国主義・反スターリン主義の方向にうけとめていくことなしには、絶対に前進はありえない。反帝国主義・反スターリン主義という問題は、けっして、ソ連=東ヨーロッパ圏においては反スターリン主義、日本などでは反帝国主義、と機械的に区別するものではなしに、まさに全世界のプロレタリアートの自己解放のたたかいが、スターリン主義によってゆがめられている以上、スターリン主義の地域においても、帝国主義国においても、反帝国主義・反スターリン主義の二つの課題を、まさに統一したものとしてわれわれがたたかいぬいていくということ、このような綱領的立場にわれわれはたたなければならないことを、このかんのチェコ人民のたたかいはわれわれに示していると思います。
 
 第二章 ソ連スターリン主義の東欧支配の歴史的動揺と没落
 
 つぎに、東ヨーロッパにおけるソ連の支配機構がどのような歴史的過程をとって動揺してきたのかについて述べようと思います。
 東ヨーロッパにおけるソ連の支配政策の動揺は、大きくいって三つの時期に分けることができます。第一の時期は、一九四八年から五五年頃までの過程、第二の時期は、五六年から六〇年にかけての時期、第三期は、六一年から今日にかけての過程であります。
 第一の時期の特徴は、東ヨーロッパのソ連圏への包摂の過程が、東ヨーロッパ人民にたいするあらたな抑圧機構の出現としてあったことはさきほど述べましたが、この過程が、同時に各国共産党が四八〜四九年にかけて、おのおのの国で深刻な危機を経験するものであった点にあります。まずもってそれは、チトーがスターリンへの全面的屈服を拒否することとしてあらわれた。
 ところで、チトーがスターリンによってコミンテルンから破門される過程は、今日のブルジョア的論評の多くが理解しているものとは、まったく違った過程をたどったことを注意する必要があります。それは、かならずしもユーゴ共産党のチトーが、スターリンの政策に右翼的に抵抗してコミンテルンから除名されたのではないということです。むしろ、スターリンのたび重なる警告にもかかわらず、ユーゴ共産党が、共産党政権を独自に樹立してしまった、このことにたいするコミンテルンの強制処置が基底となって、チトー除名が進展していったということです。
 その後、スターリンは東欧の緩衝地帯化政策から一転して、東欧の共産党政権化の道を歩もうとするわけですが、それにたいして今度は、そういう官僚主義的なやり方に、一応スターリニスト的な方法ではあるけれども、もう少し国内の階級闘争の独自的性格を発展させていくような方向で東ヨーロッパの「解放」をやった方がいいのではないかという動揺が、各国共産党のなかに生まれてきて、スターリンは、こうした動揺を一切合財チトー主義者的偏向として、つぎつぎと除名と粛清の処置をおこなっていったのです。
 どのくらいの人が除名されたかを調べると、ハンガリアでは、四九年に共産党中央委員、内相、外相を歴任した「古参ボルシェビキ」のライクが、帝国主義者の手先として死刑に処され、その他陸軍参謀総長、統制委員会議長等、政府と党の最高指導者が粛清されました。ポーランドでも、現在党書記長であるゴムルカが、当時書記長でしたが、やはりこれがチトー主義者として、公開裁判もなく投獄される。ブルガリアでは、ソ連の経済収奪を批判したコストフ副首相らが、やはり死刑に処される。チェコスロバキアでは、四八年にマサリク外相がきわめて疑わしい情況下で「自殺」し、五〇年にはスロバキア首相フサク(現在副首相)が投獄され、五一年にはスランスキー共産党書記長兼副首相ら二名が死刑に処せられ、ハンガリアとともにチェコでは粛清がもっとも徹底しておこなわれたのです。
 第二の時期は、一九五六年のソ連共産党大会によってはじまった過程であると規定できます。
 戦後ソ連は、東欧を犠牲にして、大きな発展をとげたが、一国社会主義の矛盾はおおうべくもなく、五三年にスターリンが死亡するとソ連における伝統的支配体制が動揺しはじめ、これになんらかの改良を加えなければならない事態がでてきました。こうした情勢のなかで、フルシチョフがソ連国内の旧官僚支配体制の動揺を、とりあえず二〇回党大会(五六年二月)の非スターリン化の方策でおさえようとしますが、非スターリン化の波は、東ヨーロッパ諸国では民衆的反乱へと大きな高揚を示していったのです。
 一九五六年六月、ポーランドのポズナンで「ソ連軍は帰れ」という激しいデモが開始され、これにたいしてソ連とポーランドのスターリン主義者たちは、血の弾圧を加えたが、しかしこれがポーランド人民の抵抗闘争の全国的爆発としてひきつがれ、五六年十月の段階で、四四年のワルシャワ蜂起と同じような政治的高揚が現出した。そのなかで、四九年以来獄中生活を強いられていたゴムルカが釈放されて、一週間後にあらたに党第一書記の地位につき、ワルシャワ蜂起に比すべきポーランド人民のたたかいにたいして、さまざまな懐柔的方策をもって、じつはソ連と決定的な対決に至らないような緩衝政策を展開した。つまり現実には、ポズナンの暴動から十月「ワルシャワの秋」とよばれるこの六ヵ月間の激動の過程を、真に反スターリン主義的な全人民の総決起のたたかいに発展させることをおしとどめる役割を果すものとして、ゴムルカが登場した。
 隣国のハンガリアでも、自由化を要求する声がつぎつぎとおこり、文学者、芸術家、新聞記者で構成されるペトフィサークルが、四八年〜五一年にチトー主義者、トロッキー主義者として粛清された人たちの一人ひとりについて再検討すべきであるということを深刻に提起し、六、七、八、九月とペトフィサークルの講堂では、毎日のように四八、四九年の問題をめぐって人民的討論が開始され、これにたいし、ラコシ党第一書記がさまざまな弾圧処置をとるが、この動きをおしとどめることができなかった。
 十月二一日、ペトフィサークルの二、三〇〇人、そのうしろに五〇〇人ぐらいの学生がつづき、隣国のポーランド人民のたたかいを支持するというスローガンをかかげて、ブダペストでデモをはじめた。このデモはみるみるふくれあがって中央広場に集ったときには、二〇万をこしている事態になった。そしてさらに中央放送局にむかってデモをはじめ、中央放送局で「いままでの中央放送局はデタラメである。われわれが管理するから代われ!」と要求をつきつけた。これにたいして放送局の屋上などから秘密警察の連中が小銃でうちはじめ、数人が倒れ、一ぺんは全体は逃げるが、そのなかに大兵器工場の労働者がいて、「オレの工場へ来れば、兵器は沢山ある」と宣言して皆大兵器工場へ殺到する。大兵器工場では、すでに工場労働者の大会が開かれており、武器を人民に渡すという緊急処置がとられ、二〇万人近い人たちが武装するという状態がおこる。
 各工場では、労働者評議会がつぎつぎと結成されて、いままでの工場の管理者を追放して、自分たちのなかから選挙で選んだ人間が、代表者になり、しかもいつでもリコールできる、そういう労働者評議会が結成されるにいたる。まさに、五六年ハンガリアの労働者がつくりあげた労働者評議会こそ、一九一七年のロシア革命に登場したあのソビエトそのものであったといえます。
 ソ連軍がハンガリアに侵入したときに、ハンガリアの民衆は、ソ連兵にむかって、「われわれは諸君たちの先輩たちが一七年にやろうとしたことをいまやっているにすぎないのだ。このわれわれにたいして、諸君たちはどうして銃をむけるのか」と秘密放送をつうじてかれらによびかけた。この事実からも明らかなように、この労働者評議会こそ、一七年のソビエトであり、一九年のドイツプロレタリアートのレーテであり、三〇年代のスペインプロレタリアートのフンタであった。これらはプロレタリアートの自己権力の機関であり、プロレタリア独裁のための基礎機構であったことをはっきりとみなければならない。
 このようなハンガリア労働者のたたかいにたいして、ソ連は第一次介入をやった。しかしハンガリア人民は屈服しなかった。ソ連軍はいったんハンガリアからひきあげ、そのあいだにハンガリア共産党の内部にあらたにソ連のかいらいとなる政府を準備させ、カダールという男をその代表者にした。カダールは、四八年のチトー主義者粛清の嵐のなかで、投獄されていた一人であった。
 カダールは、いったんナジやルカーチとともに労働者評議会に好意的な態度を表明するラジオ放送をおこないながらも(十一月一日)、その直後ソ連の側に変節し、数日間行方をくらましたのちに突如として正体不明の新政府の首班として、ソ連軍第二次干渉を要請する声明をもって国民のまえに姿を現わしたのです。
 反乱の過程でハンガリア国軍は完全に解体し、マルテル大佐という革命的反乱の指導者によって再組織され、革命の側についた。また、ハンガリア共産党の九九%までが反乱の側に組みした。こうした英雄的な幾千幾万の闘士たちをカダールは売りわたし、流血の殺りくをおこなったのです。これがソ連の第二次介入です。この介入にたいしてハンガリア人民は、ありとあらゆる方法で抵抗し、十一月中旬の段階では、労働者評議会を大ブダペスト中央評議会まで高め、月末には、全ハンガリア労働者評議会を中央に結集した大中央ハンガリア労働者工場評議会を結成するところまですすんでいった。しかしカダールとその背後の力となったソ連軍の武力弾圧のまえに徹底的に鎮圧されて、おのおのの労働者がゼネストをおこないながら、五六年の暮から五七年にいたるまで、各地で抵抗をつづけるのですが、飢えの苦しみのなかで敗北していくという過程をたどったのです。
 ハンガリアプロレタリアートはきわめて英雄的にたたかったにもかかわらず、やはり、自分の権力を確立する思想的準備を、党的にもイデオロギー的にももつことができずに、カダールの鎮圧のまえに次第に後退を余儀なくされ、五六年の暮の段階でハンガリア人民の血の抵抗闘争は完全に鎮圧された。しかし五七年の五月一日のメーデーには、ハンガリアプロレタリアートがけっしてこのような鎮圧に屈服していないことを、事実をもって示した。それは誰が決定したのかわかりませんけれども、このメーデーに参加したいっさいの人びとが一本の旗もプラカードももたず、歌を歌わず、スローガンも叫ばず、というかたちをとって抵抗の姿勢を示した。
 ついでにいえば、今度のチェコにたいして軍事介入をおこなったハンガリア軍隊は、一兵残らず撤退したといわれています。ハンガリアの兵士たちは今日チェコ人民がおちいっている状態は、一三年前の自分たちとまったく同じであることを、自分たちの眼ではっきりと見た結果、軍隊が道徳的に無力化してしまったあらわれであるといえるでありましよう。
 結局ハンガリア労働者の血の叫びは、暴力的に鎮圧されますが、この鎮圧の過程のなかでさらに犯罪的な手がひとつ加わった。それは中国共産党の役割であった。つまり中国共産党は、首相である周恩来を急拠ヨーロッパに派遣して、東ヨーロッパのスターリン主義体制の動揺を反動的に再編するために、人民の革命的決起にたいして、中国革命の権威をつかって、ハンガリア人民のとった行動は誤ちであるという非難をして歩き、フルシチョフの東欧政策の破産を救う最後の手段として登場した。今日、周恩来は、伝えられるところによると、ソ連のチェコ介入はまったくファッショ的であり、社会帝国主義的であるといったといわれておりますが、五六年のハンガリア革命にたいして、この同じく周恩来のとった行動は、今日まさに周恩来が社会帝国主義的、ファシスト的暴虐とよんだものを自分の手をもって擁護する過程であったことを、われわれは、はっきりみなければならないと思います。
 第三の時期は、一九六一年以後ですが、そのまえに、東欧支配体制の動揺が、いかに各国スターリン主義を襲ったかということを点検してみますと、まず一九四八年にチトーのユーゴスラビアがスターリンから破門され、一九五三年に東ドイツで暴動がおこり、五六年にポーランド、ハンガリアで血の抵抗闘争がおこって鎮圧され、六二〜六三年にかけて、アルバニアが中国派として離脱する。六五〜六七年にかけてルーマニアが自主独立派として登場、さらに今日チェコが動揺にみまわれているわけであり、いままでスターリン主義体制の動揺の波を経験していないのはブルガリアだけという状態になってます。
 過去二〇年間にわたって、四八年に強行的に成立させた、ソ連の東ヨーロッパ支配体制というものは、その歴史的な過程のなかでつぎつぎと崩壊の過程をたどっている。とくに五六年以来きわめてドラスチックなかたちをとって今日の事態が進行していることは、容易に気がつくことができると思います。そういう状態をもたらしているものは一体なんなのか、ということを時代的に大きく規定しておく必要があります。
 もちろんアルバニアがソ連支配から脱したといっても、アルバニアがスターリン主義から脱して「自由の国」になったということではありません。実際アルバニア共産党は、ホッジャ共産党書記長の親戚だけで党の幹部が全部かためられている大変な党ですし、ルーマニアも同じく典型的なスターリン主義的支配が依然としてつづけられています。ハンガリアにおいても、ポーランドにおいても、カダール、ゴムルカの支配が、今日なおおこなわれているし、東ドイツにいたっては、あのウルブリヒトが依然として支配をつづけているわけですから、まだまだ容易ではないのですが、しかし大きくいって、ソ連、東欧のスターリン主義体制が動揺の過程のなかにある、とわれわれははっきりととらえておく必要があると思います。スターリン主義というものは確固不滅のものであって、非常に強力であることを主張することをもって、自己の党派的見解にしている人もいますけれども、実際には、五六年以後の過程をみればはっきりしているように、スターリン主義は破産と分解と没落の過程をたどっているといえます。かつて五八年に黒田寛一は、『革命的マルクス主義とは何か』という論文の冒頭に、現在の時代を歴史的に規定するものとして「スターリン主義没落の前夜」と規定しました。その中味は一行も書かれていませんが、しかしその表題の意味するところは明白です。しかし今日かれらは、スターリン主義が没落前夜にたっていることを否定することをもって、みずからの党派的利害にしようとしていますけれども、かれらの主張はまったく事実とは違うことを、われわれははっきり確認しなければならないと思います。
 それでは、六一年以来の第三期を規定しているものはなにかというと、第一は、アメリカを中心とする帝国主義世界体制があきらかに根底的動揺の過程にはいったこと、このことがスターリン主義の危機をもたらしている要因なんだということを、おさえておく必要があります。
 帝国主義の戦後世界体制の動揺が、同時にスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産をもたらし、スターリン主義陣営の側に大きな分裂の危機が進行しはじめた、ということが六一年来の世界史の特徴であるといえると思います。かりにもスターリン主義が帝国主義打倒をめざすものであるとすれば、本来なら帝国主義がガタガタになったら、いよいよわが世きたれり、と絶好のチャンスになるはずであるわけですが、ところが帝国主義がガタガタくると、自分もガタガタする。ここにスターリン主義のもっている特徴点があります。
 つまり、スターリン主義は、帝国主義にどう対応するのかをめぐって逆に中ソに分裂し、各国のスターリン主義運動がつぎからつぎへと分解と没落の過程をたどっている。帝国主義の危機にたいして、ソ連スターリン主義は、ソ連を中心とするスターリン主義陣営と、アメリカを中心とする帝国主義世界体制との両体制間の平和共存をつくり出していって、そのなかでなんとかこの危機に対応しようとする。それにたいして中国スターリン主義は、中国を先頭とするアジア、アフリカのグループと、アメリカに同調しない他の帝国主義国を結びつけて、なんとか中間的な地帯をつくりだし、それをもって帝国主義戦後世界体制の動揺に対応しようとしています。だから実際上、あれだけベトナムで苛烈な帝国主義者の侵略戦争が開始されていても、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争に道徳的非難をなげかけることはできても、これを世界革命の勝利の方向にむかって転化する具体的なプランを提起することができないのです。
 さらに東ヨーロッパ情勢をもう少し具体的にみていきますと、西ドイツの存在が大きくうかびあがってきます。東ヨーロッパは、さきほど述べたように西ヨーロッパの伝統的な勢力圏であり、第一次大戦は、直接的にはルーマニアの石油採掘権の独占をめぐるドイツ帝国主義とイギリス帝国主義の葛藤を政治的背景としており、第二次世界大戦もまた、ナチス・ドイツがチェコに侵略行動を開始したことからはじまっています。第一次大戦も、第二次大戦も、ヨーロッパ帝国主義のあいだにおける東ヨーロッパの再分割の争いを契機としておこっています。ところがこの中軸をなした西ドイツが、EECの発展を背景としながら、東ヨーロッパにたいする伝統的な政策をふたたび強めだしてきている。そしてこれに対応して、フランス帝国主義とかイギリス帝国主義とか他の帝国主義もまた、東ヨーロッパ政策を強化しようとしている。
 この帝国主義者の東欧政策にたいして、ソ連、ポーランド、東ドイツが、その西ドイツに対抗することを唯一の世界政策として東欧政策の展開をおこなっている。とくに東ドイツの場合は、分割国家であるという特殊条件に規定されて、東ヨーロッパの別の国ぐにが西ドイツにたいする従来の政策を変更する、つまり西ドイツにたいするポーランドとチェコと東ドイツの鉄の三角地帯といわれる反西独政策というものが、動揺するということは、みずからの立国の基本政策がゆらいでくるのです。
 たとえばルーマニアの場合ですと、石油の採掘権をめぐってプラントを西欧諸国からつぎつぎと輸入するとか、ハンガリアには、自動車工場に今度日本の日産がプラント輸出しようとしていますが、そういうふうにつぎつぎと帝国主義の進出がおこなわれている。そのなかでチェコは、大きくソ連に従属させられている状態で、貿易をやっても不利、黒字をつくっても役にたたないため、なんとか独自の道を歩もうとする右翼的な対応が今日のチェコ問題を生みだしてくるひとつの条件となっている。このことをみてもはっきりしているように、西ドイツにたいするソ連、東欧諸国の伝統的な政策がゆらぎだしたことが、今日の東ヨーロッパ情勢を規定している、もうひとつの規定要因であるといえます。
 さらに第三の特徴として指摘しておかなければならない点は、東欧スターリン主義の分解と動揺というものが進展するなかで、それを客観的条件として、つまりこの動揺そのものではなくて、この動揺を客観的条件として、チェコをはじめとする東欧諸国の人民が、ふたたび反スターリン主義の方向へ決起する条件を成熟させているということです。
 ですから東ドイツ共産党のウルブリヒトは、東欧の動揺のなかでおこってきている右よりの動揺と、左よりの動揺に万力のようにしめつけられている。これが今日の東ドイツ・スターリン主義支配体制の危機をつくりだしている。したがって今日のチェコ問題にたいして、ウルブリヒトがチェコ弾圧の先兵となっている秘密もここにあるということができます。言葉をかえていえば、このチェコ人民が、のちに指摘しますが、ドプチエク指導部の誤った方策のもとにまだ革命的決起にたちあがっていない。しかしいったんかれらがこのようなスターリン主義者との闘争にたちあがったならば、この反スターリン主義の波は、ただちに東ドイツに革命的波及をおよぼさないという保証は、なにひとつ残っていない。
 わたしはここではっきりと断言しますが、チェコにおいて革命的動揺が今後ふたたびおこってきたならば、かつてポーランドの動揺がハンガリアを生みだしたように、ただちにあの英雄的なドイツプロレタリアートの手に反スターリン主義のたたかいの火がうげつがれていくであろう。そしてマルクスとエンゲルスを生みだしたドイツプロレタリアートが東ドイツにおいて決起するならば、ただちにベルリンの壁が問題となる。ベルリンの壁の向う側には、革命的なドイツ学生社会主義同盟が存在している。そして西ドイツにおいては、ドイツ非常事態法にたいして抵抗を示している西ドイツプロレタリアートのあらたな動向が存在している。このようにみてくるときに、今日プラハでおこっている事態は、いったん革命的過程に転化するならば、ただちに東ドイツの革命的危機、そしてベルリンの危機、そして西ドイツまでもこの過程のなかにまきこんでいくものとして、さらに一九四四年にスターリンとチャーチルのあいだに反動的にとり結ばれたヤルタ体制、その体制のうえに成立している戦後の四分の一世紀つづいてきた世界の全体制が問題となるような、そういう革命的な激動をそのうちにはらむものとして、このチェコの危機がすすんでいるということをわれわれは、はっきりとみておかなければならないと思います。
 
 第三章 ドプチエク的改良主義のりこえ反スターリン主義革命へ
 
 最後に、チェコスロバキアにおける革命的動乱に応えるにたるだけのものがドプチエクによってになわれているか、保障されているかを検討しつつ、チェコ情勢の事態についておぎなっていきたいと思います。
 五六年にポーランド人民ならびにハンガリア人民がたちあがったときに、チェコ人民は、どうであったのか。その当時、われわれはソ連の優等生という規定をもってチェコ人民を侮辱していたわけですが、このようなわれわれの評価が不当でないような政治的情況をチェコ人民は示していた。つまりチェコ人民は、ポーランド、バンガリア人民の決起に冷静な態度でのぞんだ。こういう状態についてはつぎのような説明をすることができる。
 第一は、五〇年代のチェコの経済情勢がきわめて好調であったこと。第二に、ノボトニーの政治掌握力が非常に強力であったこと。そして第三に、四九年のチトー主義者の粛清があまりに徹底しておこなわれたために、反対派がなかなかしゅん動しにくくなっていたこと。この三つの条件があげられる。
 では、チェコにおいて今日の動揺過程がなぜおこったのかというと、六一年以来、チェコにおいて五〇年代チェコを支えていた経済的好況から、深刻な経済的困難に直面しだしたことが第一の特徴としてあげられる。第二の特徴点としては、やはり五六年にはじまった反スターリン主義のたたかいの影響がチェコ人民の魂をとらえていた。六一年以来、チェコ人民は最初知識人や学生を先頭として反スターリン主義的、非スターリン主義化の要求をとってつぎつぎと極秘に討論がおこりはじめた。たとえば六二年五月一日、プラハ大学においてチェコの学生たちが「われわれはスプートニクをもっているが、肉をもっていない。われわれはスプートニクより肉が欲しい」というスローガンをかかげてメーデーに参加し、ノボトニーの徹底的な弾圧をうけるという事態がおこった。
 さらにまた、六四〜六五年にかけてチトー主義者の粛清にたいする名誉回復の要求がつぎつぎおこってくる。そのなかでノボトニーは、四九年以来の伝統的な弾圧政策をもってのぞんだ。しかしその弾圧にもかかわらず、これを抑えることができないような状態が次第におこってくる。五七〜五八年には、チェコにおいてスチューデントパワーが問題にされるようになってきた。
 一方では、御承知のように、チェコスロバキアは、チェコという地域とスロバキアという地域からなりたっているわけですが、スロバキア人民の民族的な要求にたいして、四八年以来共産党は一貫して弾圧の方策をとってきた。そしてスロバキア地域の共産党員すら納得することのできないさまざまな弾圧をおこなった。その結果として、フサクという今日副首相をやっている人が、当時スロバキア共産党の首相をしていたのですが、かれをはじめとする沢山の人々が弾圧された。これらの人たちの名誉回復の要求もつぎつぎにおこってくる。このなかでチェコスロバキア共産党は従来の弾圧方策をとることができずに、次第しだいに粛清者たちのなかで死んだものには名誉回復、生きている者には仮釈放をとらざるをえなくなる。そしてこの釈放者たちがチェコ内部で共産党の批判を開始した。六五年の党大会で、正式に過去にチトー主義者、トロツキストとして粛清された人びとをすべて、事実であるかどうか検討するという党大会の決定が出るにおよんで、事態が深刻になってくる。その一方では経済改革の要求が次第に高まってきて、この二つの問題をめぐって昨年の碁からノボトニー派とドプチェク派の激突をとって、今日のチェコ情勢の序曲がきりひらかれだしたのである。
 ところで、ドプチェクが果してチェコ人民の今日直面している課題を、革命的に解決する方向を現実にもつものかどうかを、つぎに検討しなければならない。現在国民議会の議長をしていてかつて粛清されていたスムルコフスキーが、共産党の新行動綱領を規定して「西欧の工業国にたいしても、なんらかの発言権をもつような社会主義の新しいモデルを示すものである」といっている。これは推察もふくめてですが、チェコの指導者たちが、グラムシに代表されるイタリア社会主義の方向に親近感をもって今日の政策をうちだしてきていることは、このスムルコフスキーの発言によっても推察しうると思います。しかしわれわれは、このスムルコフスキーが自画自賛しているように、今日の行動綱領によって「チェコ人民の問題を解決し、かつまた西欧の工業国にたいしてもなんらかの発言権をもちうるような社会主義の新しいモデルがうちだされた」と評価することはできません。
 大きくいって行動綱領は三つの部分から成りたっています。第一には、チェコの対外政策、第二に、チェコの政治的自由にかんする政策、第三に、チェコの経済改革を問題にしている部分。
 まず第一の対外政策について新行動綱領は、ひとつは、ソ連および、社会主義諸国との同盟政策の堅持とその内部におけるチェコの相対的独自性の要求、もうひとつは、チェコスロバキアが独自の地位を占めるよう努力すること、すなわち西欧の現実主義的勢力を支持すること。この二つの部分から成りたっている。
 第二の政治的自由にかんする問題については、ひとつは、個人の基本的権利を法によって保障すること、もうひとつは、個人独裁、警察支配の復活を阻止するために三権の分立を強化すること、それから国家保安と治安維持との警察機構を分化すること。そしてさらに、党が行政に介入することを排除する、つまり政治決定を民主化する。
 具体的にいうと、@党の行政介入を排除する、A最高権力機関としての国民議会の復活、B政府の権限の拡大、C統一戦線組織としての国民戦線の機能(複数政党)の復活、D複数候補者制を導入した選挙法の改正、である。つまりはっきりいってしまえば、西欧的デモクラシーのようなものをつけ加えることが第二の項目になっている。
 さらにつけ加えれば、チェコとスロバキアのあいだの民族問題について今後検討を加えていくことがふれられている。
 つぎに第三の経済政策についてでは、@市場の機能を復活させること、A企業の権限を高めること、B企業の新しい管理機構をつくること、の三つが大きな目標とされている。
 以上のことで、はっきりしているように新行動要領は、スターリン主義の従来の誤謬にたいして、これを国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲からレーニン時代の革命的伝統に復活し、革命的な方向へむかってこれを解決しようとするものではなしに、今日チトーがとっているスターリン主義にたいする右翼的修正の方向に事態を解決しようとしている。したがって今日チェコ人民のたたかいは、おそかれはやかれ、ソ連とのあいだ、チェコ指導部とのあいだの亀裂が深まれば深まるほど、この行動綱領の右翼的欠陥は次第にその姿、限界を明らかにしていかざるをえない歴史的運命をもっているものだといえます。
 まず第一に、対外政策についていえば、ここでは、今日のチェコの情勢を規定しているソ連の東ヨーロッパ支配政策にたいする根本的な変革の方向が、なにひとつ追求されていない。実際背後には、チェコ人民の歴史的な二〇年間にわたるうらみが蓄積されているにもかかわらず、政策的、イデオロギー的には、そのような方向は全然ふくまれていない。それだけではなしに、東ヨーロッパとの貿易の強化、西ドイツにたいする伝統的な政策の変更というかたちをとってしか提起されていない。このことが行動綱領のもっている右翼的性格を示すものであることをわれわれは弾劾しなければならない。
 かつて四七〜四八年にかけて、スターリンの支配から脱出しようとしたチトーは、その閣僚であるジラス、カルデリ、ランコピッチなどの当時の若い指導者にたいして、トロッキーの文献の徹底的検討を要求した。
 しかしユーゴにおける資本の不足をなにによって解決するかは、二つしかない。一つは世界革命をとおして解決する、もう一つはスターリンがやったように農民にたいする集団化政策をとり、農民の収奪をとおして資本の原始的蓄積をおこなう。前者は世界革命の道であり、後者は一国社会主義の道である。しかしチトーはそのどちらもとることができなかった。チトーは、外国から資本輸入するという第三の道を考えだした。そしてチトーは、ソ連にたいする自分の抵抗とその抵抗にたいする帝国主義者の包囲をうまく使うことによって、アメリカを筆頭に帝国主義からつぎつぎと資本の輸入をおこなった。そういうかたちをとって資本の不足をおぎないながら、独自の「社会主義」なる道をチトーは選んだ。しかしながら今日のユーゴは、外国資本の導入によって経済的危機が深刻化している。それはインド経済の危機ときわめて相似した性格をもっている。
 そしてこのユーゴと同じ道をチェコの指導者はとろうとしていること、つまりスターリン主義的圧政をもって資本の不足をおぎなっていく伝統的やり方の破産を、世界革命の発展、さしあたっては東欧におけるソ連の支配政策の打破という方向で解決するのではなしに、西ドイツへ接近する方向で解決しようとしているところに、今日ドプチェクのおちいっている誤ちがある。
 言葉をかえていえば、ドプチエクは、ソ連の一国社会主義にたいしてチェコスロバキア官僚の一国社会主義の利益を対置するという方法をとろうとしている。ここに早晩チェコ人民がドプチエクをのりこえてすすまなければならない第一の理由があります。
 第二の政治的自由の問題についていえば、ドプチエクは、今日のいわゆる「社会主義」圏でおこなわれている体制をあらかじめプロレタリア独裁と規定して、このプロレタリア独裁に西欧的デモクラシーをつけ加えようとしている。これがドプチェクの民主化の内容である。われわれは、こういう思考方法のもっている限界をはっきりとのりこえなければならない。
 つまり今日のソ連、東欧、中国における自由は、本来のプロレタリア独裁が本質的にもっている自由ではない。そうではなしに、今日のソ連、東欧、中国におけるプロレタリア独裁、プロレタリアデモクラシーの実現はスターリン主義的に歪められてしまっている。このように把握しなければならない。
 一九一七年のロシア革命を端緒としてはじまったプロレタリア独裁のたたかいは、まさに一国社会主義と平和共存政策によって歪められ、そのもう一つの表現が国内におけるプロレタリアデモクラシーの徹底的弾圧であった。したがって今日チェコ人民のまえに提起されている問題は、今日の東欧諸国を機械的にプロレタリア独裁国家と規定して、これに西欧的デモクラシーをつけ加える方法ではなしに、逆に五六年のバンガリアプロレタリアートがめざしたように、工場労働者評議会をプロレタリアートみずからの手で組織し、現在の政府との非妥協的な対立を強めるなかでプロレタリア独裁を実現していくなかにこそ、問題の根底的解決がはかられなければならないのであって、いわんや三権分立によっては、たしかになんの罪もない人間が牢獄に送られるのを阻止できるかもしれないが、プロレタリアートが自分自身を解放していく機関としての国家、つまりプロレタリア独裁国家を再現していく方向で論じられないデモクラシーは、実際のプロレタリアートにとっては無力なものでしかないことをはっきりさせなければならない。
 第三に、経済政策についていえば、現在のチェコの経済改革の理論的指導者であるといわれているオタシクはつぎのようにいっている。
  「一国の国民経済が、一定の水準に到達するまでは、量的発展をする。すなわち、労働力の包容度を増やしていくことで発展できる。だがそれ以上には、質的発展にむかう。すなわち労働の生産性を高めていくということで発展するのである。このことは社会主義でも資本主義でも共通する経済法則である。チェコ経済はすでに労働力の余剰がなく、雇用が極度に達した。今度は第二の段階にはいり、生産性の向上か機械化につとめなければ発展することはできない」 
 これがオタシクならびに、ドプチエク派の経済理論である。そのうえで今日なにが障害になっているのかといえば、それは従来の行政指令方式の旧経済制度である。つまりスターリンによって表現されているような中央統制経済の行政指令方式的なものが、今日のチェコ経済の混乱を生みだしていると考え、そのうえに、さきほど述べた市場の問題、利潤の問題、労働生産性の問題へと論議が展開されていく。
 そのいくつかをかんたんに紹介すると、オタシクは、市場という問題について従来スターリニストがもっていた伝統的な考えを放棄しなければならないとつぎのように積極的に主張する。
  「社会主義的計画性と社会主義的市場との相互連関性と相互非制約性、この相互関連性は、最近まで誤った仕方でとり扱われ、市場という概念そのものを社会主義経済にたいして適用することさえまったく恥かしげであった。いわゆる計画的な社会的協業、生産の計画的指導と市場に規準をもとめる生産、市場機構の利用とを絶対的に対立させて考えたことは誤りであった。
   計画的指導は、社会主義にのみ個有のもので、市場に規準をもとめる生産は、資本主義にのみ個有のものであるかのように問題がたてられていた。永いあいだおこなわれてきたこのような命題は、社会主義的実践に重大な損失をもたらしてきた。したがって社会主義的な計画的生産は、企業の需要供給を満たすという目的を終始一貫追求しなければならず、商品が市場で実現されることは生産過程に支出された労働の社会的有用性の決定的な基準でなければならない」
 資本主義というものは社会的に必要とされる使用価値、あるいは社会的需要というものの生産を価値法則というものを媒介にして、つまり市場の機能、メカニズムをとおして社会的な総労働の比例的な配分を媒介的、結果的におこなう。ここに資本主義の基本的特徴があるのですが、これと同じことを東ヨーロッパにおいてもおこなわなければならない、ということをここでオタシクは主張しているわけです。
 そしてさらに、そのうえに利潤の問題にかんして、オタシクは、「企業がその生産プログラムを決定する際には、その企業の従業員集団の物質的利益が決定的な役割を演ずるということをはっきりさせなければいけない。なぜなら、生産力の今日的発展段階のもとでは、また労働過程の現在的性格のもとでは、物質的関心が生産者集団の決定を規制する基本的な刺激である」と述べている。つまり利潤のなかでも『資本論』の第一巻で述べられている特別剰余価値の生産をたえず追求して生産の計画というものがおこなわれなくてはならない。そして特別剰余価値が実現した場合は、その一部分を労働者に還元してよろしい、ということがいわれているわけです。
 さらにそのうえにたって、いま述べた労働の生産性をあげることに努力しなければならない。いわゆる賃金フォンド(賃金にかんする部分の資金)にかんするいっさいの制限を廃止しなければならない。具体的にいうと、「各企業の生きた労働の生産性を高める可能性をこの制限の撤廃はつくりだす。実際よりよく働く労働者によりよく刺激を与えることができれば、企業は余分な労働者をかかえていく必要はなくなるだろう」といっている。
 つまりこれは労働者に少し刺激を与えて、ガンバリだすと生産性が高まってくる、そうすればいままで労働者百人でやっているとすれば、百人でやる必要はないということがはっきりするから、あまった部分の労働者は首を切ってもよい、首切る必要がでてくるんだということを主張している。かんたんにいえば、賃金フォンドにたいする制限の撤廃は、より少ない人数による、より生産的労働にたいして多くの賃金を支払うことを意味している。ここまでくると電機労連にいって組合幹部の話を聞いているのではないかと錯覚におちいるほどである。
 ソ連や中国の計画経済の混乱たるや、じつにすごいものがあります。
 三年ほどまえに、チェコスロバキアにある国際学連の書記局に出ていた石井君の話しによると、チェコの計画経済のずさんさは眼に余るものがある、たとえば電機のソケットなどはありあまるほど生産されているが、一方では電球は生産されていないというようなことが平気でおこなわれている。これは計画経済がもっている弱点ではなしに、計画経済を実現していくその指導体制の弱点であるのですが、それを違ったふうに今日のチェコの指導者たちはみている。
 結論的にいうと、こういう誤った理論が出てくるのは、つぎのような理論的誤謬に派生している。
 第一は、今日のスターリニスト全体が社会主義段階と社会主義にむかっての過渡期の段階とをまったく混同してしまっていること。第二に、したがって今日のソ連がたんに社会主義の歪んだものではなしに、社会主義にむかっての過渡期の歪曲形態としてとらえられず、それどころか、今日の過渡期のスターリスト的歪曲を社会主義にとって本来あるべき姿のごとく理論化されてしまっているところに問題があります。さらに第三は、社会主義とはなにかといえば、これは資本主義の基本矛盾としての労働力の商品化を政策的に解決していく過程であると、社会主義にむかっての過程を科学的には規定できるのですが、しかしこの労働力の商品化という資本主義の基本矛盾を解決していくものとして、かれらは、今日の社会主義を理解することができない。それどころか『前衛』の一月号によれば、労働力の商品化をトロツキストは資本主義の基本矛盾としているが、これは社会主義の人間主義的歪曲であるなどといっている。
 したがって社会主義にむかっての政策的過程は、労働力の商品化の廃棄の過程でなければならないにもかかわらず、かれらは、生産手段の国有化、農民の集団化、工業化の三つをもって社会主義であるかのごとく錯覚している。しかしながら、生産手段の国有化とか農民の集団化、工業化などは、じつは、社会主義経済にむかっての過渡期の経済の物質的前提条件を示すものでしかないわけで、このことのうえにどういうふうに事態を進展させていてかが社会主義の試金石である。しかしかれらは手段をもって目的にかえるやり方をしている。したがってかれらは、いつまでたっても、国有化がくずされていない以上は、社会主義であるという伝統的な反応をとってかえってくる。
 われわれにとって実践的な問題は、国有化があるために社会主義が存在するということではなしに、この国有化された生産手段をテコにして、労働力の商品化を廃絶し、別な言葉でいえば、人間労働力の資本制的転倒をうちたおして、人間の種族生活の本質をふたたびとりかえしていくことのなかに、われわれの社会主義にむかっての具体的過程があるのである。
 第四に、そのうえにたって、かれらは、資本主義の経済法則、あるいは経済法則にかんする経済学的認識が直接的に社会主義に利用できるものであるかのように考えている。
 スターリンの『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』によれば、経済法則というものは資本主義においても社会主義においても超歴史的なものとされ、これを人間に役立つように使うか、役立たないように使うかが、社会主義と資本主義の違いであるかのように論じられている。日本のスターリニスト経済学者も全部このうえにのっかって論じている。
 しかしながら、人間の労働過程が、あるいは社会的総労働の比例的配分が、まさに経済法則という法則的過程、逆にいえば、人間の意識的過程ではなしに、人間の意識の外にあたかも存在するかのような法則的過程として実現するところに、資本主義の問題があるし、このような資本主義の矛盾を決定的に暴露したものがマルクスの『資本論』そのものであった。だからこそ同時に『資本論』は、社会主義にむかっての過程に科学的基礎を与えたものだととらえることができるのですが、これにたいしスターリニストは、この経済法則の利用論という転倒した問題意識のうえにたって、今日の社会主義の過渡期経済の歪みというものに対応しているところに今日の問題があるわけです。
 さらにこのうえにたって、さきほどのオタシクの誤謬のいくつかをかんたんに指摘しておきますと、ひとつは、利潤の問題ですが、オタシクが主張しているやり方は、おのおのの企業に自由な決定をおこなわせて、生産性をあげるような合理化をやらせる。どこかの企業で新しい生産方法を獲得すると、他の企業にたいしていくらか生産性があがる、そのあがったものを一応利潤として確保させる、そしてその一部分を賃金フォンドとして労働者に還元する、ということをオタシクは考えている。
 しかし、そういうやり方は、なにもオタシクが一生けんめい考えなくても、すでに資本主義社会において資本家が暴力的な過程のうちに実現しています。つまり資本主義社会における、資本家的方法の発展は、相対的剰余価値の一形態としての特別剰余価値の生産を目的にしておこなわれている。すなわち、同じ使用価値のものをつくる生産部門のなかで他の資本家がまだ手をつけていないような新しい生産方法をみつけると、価値の低い生産物を沢山つくることができ、それが市場で売られるとその部門全体がもっている全体の価格で売られるため、その差額だけ特別剰余価値として資本家の手におちるわけです。この特別剰余価値がほしくて、資本家は、生産性をあげ合理化をおこなう。しかしこの過程は労働者にとっては、自分自身の価値を下げることになる。つまり一人の労働者が生活していくための必要な社会的労働時間を短縮することになり、全体としては労働者の資本にたいする関係はますます下がる、労働時間内部における必要労働時間と剰余労働時間、XとCとの間でvの部分が下がることになる。これがオタシクのいう賃金フォンドの低下と同じことである。つまりオタシクがいっていることは、かりにその利潤の一部が労働者に還元されたとしても還元された労働者もふくめて労働者階級全体がもっている価格は、全体として下がるため、実際上歴史的過程としてとらえるならば、労働者は、ますます自分自身の地位を低めるために、自分の合理化をやらなければならないという転倒した関係、つまり資本主義において資本家が日夜追求している過程を、労働者がむしろそれに協力してやるような仕組みを東ヨーロッパの中に導入しようとしているのです。
 したがって、このオタシクのやり方は、じつは資本主義社会における特別剰余価値のスターリニスト版であるといえます。ですから、今日ソ連がチェコにたいして、「チェコの自由化は行き過ぎである」といっていますが、むしろこの自由化こそ、リーベルマンによってひらかれた利潤概念の導入という政策利用論の帰結であるととらえることができます。
 われわれは、もともと合理的な賃金制度などはないのだということを、この際はっきりしておかなければならない。賃金の本質は、労働者が生活していくための最低の使用価値を与えるだけの貨幣を支払うだけのことである。つまり、最低の生活費を与えるということが賃金の本質である。資本主義社会は、労働者に最低の生活費を与えるということを基礎にして全世界的過程が成立している。労働力の商品化を基礎にして価値法則が貫徹していることは、逆にいうと、労働者が最低生活費を労賃としてもらって、自分たちが階級として生産した商品の一部を自分の手で買いもどしていく、ということを基礎にして資本主義は成立している。
 われわれは社会主義にむかっての過渡期社会において、擬制的労賃に若干の格差が存在することを機械的に否定しない。実際、今日の資本主義からいっきょに社会主義へ突入できないのだから、過渡期においては、ある差額をもった賃金が払われるということはやむをえざる過程である。本質的には、労働の量は労働時間ですから、労働時間にむかって接近するわけですが、ある程度の格差をわれわれは承認しなければならない。しかしここででてくる格差は、けっして資本主義社会において合理的に実現できるものと同じものが、過渡期において賃金格差として存在するのではなしに、全体労働者の計画経済を遂行していくうえでの政策的テコとして、社会主義にむかっての過渡期経済のなかにもちこまれた資本主義の母斑にたいする一定の妥協策として、政策的に賃金の格差を許容しなければならない。
 したがってわれわれの過渡期における擬制的労賃制の政策は、本質的には平等主義にむかっての政策でなければならいなのですが、一九三一年に、スターリンがレーニン以来の労賃の平等政策をぶっこわしたときから、今日のソ連圏の労賃制度がおこってきた。つまり、賃金の格差が政策的テコとしてではなくて、経済法則の意識的適用として実現しうるものであるかのように論じられるまでに堕落が進行してしまっている。
 さらに、もうひとつ指摘しておけば、資本の移動という概念についてもまちがった考え方をしている。一つは、資本主義社会においてある産業にどれだけの資本が投下されるかを決めているものはなにかについてよくわかっていない。それだけではなしに、重工業の発展にもとづいて固定資本が巨大化してくる、このことを基礎に帝国主義が歴史的に必然化する。逆にいえば、帝国主義段階は資本主義的方法をとって生産手段と労働力を分配するというやり方、つまり、資本を生産部門に比例的に配分するというやり方の限界が帝国主義の段階の出現というかたちをとって、その歴史的矛盾を一方で明らかにするという意味をもっていますが、その段階のなかであたかも、今日の産業構造が一九世紀の産業資本段階において、自由に資本の移動がおこなえたようにソ連圏において移動できると幻想している。ここにもう一つの問題があるといえます。
 以上の結論としてはっきりすることは、今日までのノボトニーによって代表される政策があまりにもでたらめなために、労働者はなんとかしてここから脱けだすために、政策の変更をもとめている。この政策の先頭にドプチエクとかオタシクがたっていた。しかしながらかれらの考え方は、実際にはチェコ人民を解放していくたたかいを政策としてみずからのうちにもったものではなく、逆にチェコのスターリン主義的歪みを、理論的にさらにおしすすめていくようなかたちをとっておこなわれている。
 つまり今日の官僚的計画経済のもっている反労働者的性格を、プロレタリア的独裁とそのもとにおける中央計画機関の回復という方向ではなしに、逆に暴力的、無政府的な過程を導入することによって解決しうるかのごとく幻想している。そしてこのようなドプチェク、オタシクなどの傾向にたいして、まだチェコスロバキアの革命的部分が、これをつき破ってすすむだけの政治的熟成と、それを党的に表現したイデオロギー的な闘争をまだ不十分にしかもらえていない。それは『前進』にのったチェコの同志の論文(『前進』三九九号)をみても明らかである。
 この状態のなかで、オタシクに代表される方向の行きつくところはなにかといえば、実際、かれらによって生産者集団とか労働者集団ということが何度くりかえされようと、現実には、経営者集団以外のなにものでもない。今日現実におこなわれているスターリン主義世界における生産的労働者と官僚との社会的分裂を、経済政策的に固定するものとしておこなわれざるをえない。あえて一言つけ加えれば、あまりの官僚の無能さにたいして、もう少し資本主義的方法で役にたたせることはできないものだろうか、というまったく転倒した問題意識から今日の経済政策の方向がうちだされているところに、問題があるわけです。
 ですから、われわれは、行動綱領のもっている対外政策、政治的民主化政策、経済政策の三つの問題点を、むしろスターリン主義の枠から脱出しようと努力しながらも、それを本当に解決する理論的な方向がきわめてあいまいなものとして残されている。そういう苦しみのなかで生まれてきたものとしてとらえかえし、逆にいうと、われわれはこの行動綱領をのりこえてチェコ人民のたたかいを革命的な前進にむかって一歩すすめなければならない。つまり今日のドプチユクに代表されるチェコ共産党を改良していく道、改革していく道ではなしに、まさに新しい革命的労働者の党を形成してこのチェコ共産党を革命的に解体していく道でなければならない。
 結論的にいえば、ドプチェクはすでにソ連の官僚にたいして屈服の道を歩みはじめている。
このようなドプチェクの屈服は行動綱領のもっている弱さのあらわれ以外のなにものでもない。しかしチェコ人民のたたかいは、このような屈服によって一時混乱させられても、最終的な屈服にむかって事態を制圧することはできないであろう。ドプチェクの道をみずからのたたかいで破って、チェコ労働者階級の道をはっきりとみずからの手できりひらいていくであろう。このたたかいがふたたび爆発すれば、東ドイツの革命的爆発、そしてベルリンの壁をこえて、東西ベルリンの革命的動乱、さらに西ドイツをも包摂する戦後世界体制の根底的な動揺の事態へむかってすすむことは火をみるより明らかである。
 今日、日本帝国主義のもとにおいて七〇年安保粉砕、日本帝国主義打倒の旗を高くかかげ、軍事基地を撤去し、軍事輸送を阻止、沖縄の奪還をかちとっていくわれわれのたたかいは、秋にむかって開始されている。このたたかいのなかで同時に、チェコ問題として示された国際共産主義運動のスターリン主義的歪みとこの歪みをうち破ってすすまんとしているチェコ人民のこの死の苦闘を、われわれ自身のものとしてうけとめ、断固として前進しなければならない。したがってわれわれの安保体制にたいするたたかいも、また西ヨーロッパ人民のNATOにたいするたたかいも、チェコ人民のワルシャワ機構にむけられたたたかいも、ともに全世界を革命的に変革していく反帝国主義・反スターリン主義のたたかいの前進の、その第一歩にならなければならないことを訴え、わたしの話を終わりたいと思います。
       (一九六八年九月七日、法政大学にて講演)