三 七〇年安保闘争と革命的左翼の任務
 
 本論文は、一九六九年四・二八沖縄奪還闘争の前日、破防法四〇条を適用されて逮捕された著者が、その直前『前進』に連載した論文をもとに、未決勾留の獄中においてさらに約一五〇枚の大幅加筆をおこない、『共産主義者』一九号(六九年十月刊)に発表されたものである。六九年の四・二八闘争と「第一の十一月」を指導した七〇年安保闘争論として、不滅の光を放つ党文献である。
 
 
序 章 七〇年問題の治安問題化の意味するもの
第一章 戦後日本帝国主義の日米安保同盟政策とその歴史的展開
 第一節 アメリカ帝国主義の世界支配と対日占領政策/第二節 戦後日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策/第三節 アジアにおける反動枢軸としての日米安保同盟
第二章 歴史的選択としての七〇年安保闘争
 第一節 日米安保同盟政策を規定する諸条件の世界史的動揺/第二節 侵略と暗黒政治の道/ 第三節 防衛的対応から積極的攻勢へ
第三章 革命の現実性――世界史的転形期としての現代――
 第一節 緊迫する日本革命/第二節 現代革命の根本問題/第三節 国際階級闘争のあらたな革命的胎動
第四章 七〇年安保闘争と日本革命の展望
 第一節 目本革命の基本戦略/第二節 革命党創成のたたかいと革命的統一戦線戦術/第三節 激動期における行動原理
 
 
 序章 七〇年問題の治安問題化の意味するもの
 
 七〇年安保闘争と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展をたたかいぬき、その勝利的な展開をかちとっていくうえで、当面まずもって前提的にふまえられなくてはならないものは、きたるべき七〇年安保闘争の革命的爆発が、世界とアジアと日本の総体の根底的変革にむかっての巨大な歴史的選択の第一歩になるであろう、という基本的な問題意識であろう。
 いうまでもなく、いわゆる七〇年問題は、六〇年に改定された現行の日米安保条約が七〇年六月二二日をもって一〇年間の固定期限が終了し、その付則にもとづくかぎり、法律的には安保条約の「解消」が可能となる、という条約の法的効力の不安定期の到来として議会内的には提起されたものであった。もともと、「長期固定か、自動延長か」という与党的選択、「駐留なき安保か、安保の段階的解消か」という中間政党的選択、「安保廃棄か終了通告か」という革新政党的選択は、すべていわゆる七〇年問題を国際法的=議会内的な手続のうえに解消しょうとするものであり、体制内における政策的選択を意味するものであった。だが、今日では、いわゆる七〇年問題は、日帝国家権力のいうところの「治安問題」としての性格を色こくしはじめているのである。いいかえるならば、七〇年問題の治安問題という表現をとって、日本帝国主義の政治委員会ならびに、その体制内にくみこまれたいっさいの既成政党の七〇年政策が、根底的にゆらぎはじめたのである。
 周知のように、戦後日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策が法制的かつ構造的に確定したのは、一九五二年にサンフランシスコで開催された対日平和会議(いわゆる単独講和)においてであった。第二次世界大戦の戦後処理として六年問にわたって日本占領をつづけてきたアメリカ帝国主義は、日本帝国主義の同意のもとに締結された「サンフランシスコ対日平和条約」ならびに、同条約第六条A項のただし書き規定にもとづく「日米安全保障条約」を国際法的根拠として日本における米軍の地位を「戦後処理としての占領」から「条約にもとづく駐留」に再編成(法制的には五二年四月二八日に発効)したのであった。一方、敗戦国として米軍の全一的な占領下にあった日本帝国主義は、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制に積極的に参加していくことを基軸にして、日本の帝国主義的再建を達成するという日米安保同盟政策の基本構想を確定するとともに、そのための具体的な施策としては米軍の日本駐留=軍事基地供与ならびに沖縄の分離的軍事支配とを「極東の平和と安全の維持に寄与」し「日本国における大規模な内乱および騒擾を鎮定するため」の措置として承認したのであった。さらに、一九六〇年においては、日本帝国主義と、その政治委員会としての岸政府は、民衆のたかまりゆく反対のこえをふみにじって安保再改定を強行し、日米「共同防衛」の基本構想のいっそうの明確化をはかるとともに、日本帝国主義の侵略と暗黒政治への道をはききよめたのであった。かくして、「日米相互防衛援助(MSA)協定」および「米軍の地位に関する協定」などの行政協定を基軸とする安保の諸実体・諸現実や、サンフランシスコ対日平和条約第三条を国際法的根拠とするアメリカ帝国主義による沖縄の分離的軍事支配の諸現実が、日本人民とりわけ沖縄県民のうえに加重されることになったのである。
 したがって、日本帝国主義と、その政治委員会としての佐藤政府が、帝国主義アジア支配体制の崩壊的危機の深まりのなかで、日米安保同盟の再強化を基軸にアジア侵略と暗黒政治への道をいっそうつきすすもうとしている今日、安保・沖縄の諸実体、諸現実にたいし、怒りもあらたにたたかいにたちあがりはじめた日本の民衆が、安保粉砕・日帝打倒という根底的目標を敢然としてかかげ、その決定的な突破口として沖縄奪還の火柱をうちだすために巨大な戦列を形成しはじめたことは、まったく当然のことといわなくてはならないのである。日本帝国主義国家権力は、日本労働者階級=人民大衆のこのような七〇年安保にむかっての進撃にたいし、一方では、国防意識をかりたて、沖縄・本土の一体化政策なるものをうちだすことをとおして戦列の混乱をはかるとともに、他方では、警察機構の強化、自衛隊の治安出動準備、治安弾圧法の改悪・制定を遂行することをとおして安保・沖縄闘争の警察国家的な鎮圧を強行しようとしている。大学問題ひとつをとってみてもあきらかのように、いまや、日本帝国主義は、問題を問題として解決することができず、ただただ、治安問題として鎮圧するという政策的対応しか示すことができないのであるが、このような末期的政策を採用する以外に支配維持の方法がないという事態は、とりもなおきず、日本帝国主義の命運の非選択性そのものにかかっているといわねばならないのである。
 もちろん、いわゆる七〇年問題が、治安問題として重点的に再検討されるにいたった直接の理由が、六七年十月八日の羽田闘争以来の沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒のたたかいの永続的発展にあることはいうまでもないことであろう。羽田、佐世保、三里塚、王子の 「激動の七ヵ月」を突破口に新宿米軍タンク車輸送阻止闘争の大爆発を頂点とする六八年階級闘争の激動をかちとり、さらには、日大・東大を先頭とする大学闘争と、国鉄を中核とする反戦・反合理化・賃上げのたたかいの永続的なたかまりのなかで、沖縄奪還闘争の巨大な火柱をうちあげ、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかって進撃する日本労働者階級=人民大衆のたたかい――まさに、日本帝国主義国家権力の恐怖と憎悪にみちた血の弾圧に抗して展開された不屈のたたかいこそ、七〇年問題の治安問題化、すなわち七〇年問題の体制内的解決の困難化の主体的根拠をなすものなのである。
 事実の問題として、政府はすでに機動隊二千五百名、私服公安刑事一千名をふくむ警官五千名の増員を決定しており、また、自衛隊にたいしても治安出動のさい必要な「指揮官心得」の検討を命じ、武器使用はもちろん、防石タテ一万個、催涙弾三・三トン、木銃一千七百丁、ヘルメット一万五千個の装備を完了させたといわれる。
 六八年十一月四日におこなわれた警察庁警備公安首脳会議の席上で、新井長官は「最近、安保条約に反対する勢力の動きが活発であり、なかでも注目されるのは基地反対闘争の盛り上がりと、反代々木系全学連の暴走である。一連の行動は学園紛争を踏み台とした武装闘争″の様相を深めてきた。このような現状に対処して、警察庁としては全庁的な体制による綜合警備対策を積極的に推進するほか、個人装備など警備装備の充実、管区警備隊の新設など集団警備力の強化を行ないたい」とのべており、他方、六八年八月八日の参院内閣委員会で「治安行動教範」を追及された増田防衛庁長官(当時)は「間接侵略というものは現象的には直接侵略となんら異ならないものでありうる。その場合、やはり、直接侵略に対処するような教範が要るのではないか。でないと治安維持はできないのではないか」と答弁しており、警察も自衛隊もともに七〇年安保闘争の革命的爆発にたいする敵意をむきだしにしているのである。
 こうした政治状況のなかで、日本帝国主義の政治委員会と、その体制内に組みこまれた既成政党は、労働者階級=人民大衆の血みどろのたたかいにたいし、沈黙を守るか、あるいは、ヒステリックな非難をなげかけ、警察権力の弾圧強化を要請することによって、ますます七〇年問題の治安問題化を促進しているのであるが、その背後にあるところのものは、七〇年問題にかんする既成政治勢力の政策的選択の体制内的性格の歴史的破産以外のなにものでもないのである。
 しかしながら、われわれは、いわゆる七〇年問題が、治安問題として重点的に再検討されるにいたった理由を「闘争の発展」という主体的現実の直接的確認にとどめるのではなく、さらに一歩すすめて、いわゆる七〇年問題の内包する歴史的選択の世界史的重みのうちに「闘争の発展」を不可避とする条件について積極的につかみとっていかなくてはならないのである。いいかえるならば、日米安保条約およびサンフランシスコ対日平和条約第三条を国際法的表現とする安保・沖縄の再検討という問題は、日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策と、それを基礎とする沖縄政策の正否、したがって、世界とアジアと日本の総体的進路にかんする世界史的選択を意味することとなるのである以上、いわゆる七〇年問題は、日本帝国主義の体制的存亡をかけた歴史的選択なのであり、それゆえにこそ、労働者階級=人民大衆のたたかいは、体制内的制約をこえて発展せざるをえないのである。まさに、日本帝国主義の日米安保同盟政策ならびに沖縄政策を規定する世界史的条件、したがってまた、七〇年の歴史的選択を規制している世界史的条件こそ、いわゆる七〇年問題の体制内的解決の困難化の客観的根拠をなすものである。十・八羽田以来のたたかいの血みどろの発展は、七〇年の歴史的選択の内包する世界史的重みを積極的に示すものであり、それはいわば客観的根拠の主体的根拠への転化としてたたかいぬかれたということである。日本帝国主義の政治委員会ならびに、その体制内にくみこまれたいっさいの既成政党は、いわゆる七〇年問題の治安問題化、すなわち、いわゆる七〇年問題の体制内的解決(それは究極的には安保堅持と、それへの屈服を意味するものであるが)を積極的にのりこえてすすむ日本労働者階級=人民大衆のたたかいにたいする反動的対応という消極的規定性をもって、七〇年の歴史的選択の内包する世界史的重みに直面しているのである。
 おそらく六九年日本階級闘争は、戦後日本階級闘争史上かつて例をみないような厳しい反動的弾圧のなかで血みどろのたたかいを展開するものとなるであろう。敵権力は十・八羽田以来の激動のなかで、文字どおり権力者の立場から「恐るべき反逆者」と「恐るるにたらない反逆者」とを鋭敏に識別し、「恐るべき反逆者」のうえに憎悪にみちた弾圧を集中してきたのである。十・二一新宿米タン闘争、十一・七沖縄奪還、一月東大闘争に関連して中核派の学生諸君のうちに集中した日本帝国主義国家権力の報復は、まさに敵階級の恐怖にみちた憎悪の正当きわまる表現というほかはないのである。だがわれわれは、支配階級から「恐るべき反逆者」として徹底的に憎悪されようとも、七〇年にむかっての前進を断じて回避することはないであろう。敵階級と同じく労働者階級=人民大衆もまた、民衆の立場から「真の革命派」と「口舌の徒」とを厳しく見分け、「真の革命派」のあゆんだ道を、より大胆に、より強引につきすすむであろうことはまったく明確だからである。
 したがって、いわゆる七〇年問題の治安問題化、いいかえるならば、労働者階級=人民大衆のたたかいにたいする日本帝国主義国家権力の恐怖と憎悪にみちた血の弾圧の本格的開始は、七〇年安保闘争の革命的爆発が意味する歴史的選択の現実性にかんする敵の側からの証明以外のなにものでもないのである。日本帝国主義のまえには、民衆への暴力的強制以外に日米安保同盟政策を維持する政策的選択の余地がますます狭隘化していることの自己暴露こそ、いわゆる七〇年問題の治安問題化の根底的に示すところのものである。
 
 第一章 戦後日本帝国主義の日米安保同盟政策とその歴史的展開
 
 第一節 アメリカ帝国主義の世界支配と対日占領政策
 
 一九四五年八月一五日――太平洋とアジアの覇権をかけてアメリカ帝国主義との死闘を展開した日本帝国主義は、アメリカ帝国主義の強大な軍事的=経済的重圧のまえについに屈服し、無条件降伏の受諾とともに米軍の全一的な軍事占領下におかれることになった。天皇制ボナパルティズム権力の軍事的支柱であった大日本帝国陸軍の雪崩をうった壊滅のなかで平和裡に日本進軍に成功した米極東軍は、同年九月二二日、日本政府にたいし「対日占領の究極の目的」にかんするメッセージを送り、(1)「日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならないことを確保」し、(2)「他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示された米国の目的を支持すべき平和的で責任ある政府を究極において樹立すること」、(3)日本の統治形態にかんてしアメリカは「日本の現存の政治形態を利用しようとするものであり、これを支持しようとするものではない」旨を宣告したものであった。
 すでにファシスト・イタリアを崩壊させ、ナチス・ドイツをせん滅したアメリカ帝国主義は、大日本帝国の無条件降伏をもって第二次世界大戦を終結させるとともに、はやくもアメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の形成に着手したのであった。対日占領が、アメリカ帝国主義の世界支配の一環として日本帝国主義を再編成することにあったことはいうまでもなかろう。まさに、このようなアメリカ帝国主義の世界支配政策を美化し、容易にしたものこそ、国連憲章にもられた無内容な美辞麗句であったのである。
 一般的には、第二次世界大戦は、日・独・伊を枢軸とするファシスト陣営と、米・英・ソ・中の連合した反ファシストの陣営の戦争であったという評価が支配的である。野坂参三日本共産党議長の有名な「解放軍規定」なるものも、このような一般的評価の実践的帰結以外のなにものでもなかったのである。しかしながら、第二次世界大戦にかんする幻想的評価のもろくも崩壊していく過程が、アメリカ帝国主義の戦後の世界支配政策ならびに、その一環としての対日政策の展開の歴史であった。日共スターリン主義者と、その改良主義的追従者たちは、今日にいたるも、第二次世界大戦にかんする幻想的評価にしがみつき、それと現実との冷厳な矛盾を「アメリカ帝国主義の反ファシスト連合路線からの背理」なるものにたいする道徳的=法制的非難にすりかえて解決したつもりでいるのであるが、それは、第二次世界大戦の目的にたいし、民主主義的意義を付与しようとした米、英帝国主義への国際スターリン主義陣営の綱領的屈服と、その歴史的破産をとりつくろおうとするみじめなあがきにすぎないのである。
 周知のように、第二次大戦は、直接的には、ドイツ帝国主義のベネルックスを通過してのフランス侵攻として開始され、これにたいする英・米の対抗的戦争参加を基軸として、米・英・仏などの連合国側と独・伊・日などの枢軸国側の帝国主義ブロック間の世界戦争に発展したものであり、さらには、ドイツのソ連侵攻を契機として世界戦争の過程のうちにソ連をも暴力的に包摂していったものであったが、このような事情は、つぎの二つの要因を条件として第二次大戦にたいする誤った評価を一般化させるものとなった。
 第一の要因は、米・英など戦勝帝国主義諸国によって欺瞞的につくりだされた第二次大戦への参戦目的の民主主義的粉飾と、その一定の成功であった。
 すなわち、一九四一年八月一四日、ヨーロッパ大陸を席捲するナチス・ドイツの脅威のまえに、大西洋上での会談をもった米ルーズベルト大統領と英チャーチル首相は、「大西洋宣言」と呼ばれる共同声明を発表して、「大戦の目的と戦後の平和の構想」なるものを明らかにしたが、その原基となるものは、(1)領土その他の拡大の意図の否定、(2)民族自決権の尊重、(3)枢軸国の武装解除、(4)「一層広範にして永久的なる一般的安全保障制度の確立」の四点であり、いわば米・英ブロックの世界支配の野望を「平和的・民主的」の標語をもって隠蔽しようとしたものであった。さらに米英帝国主義は、一九四五年二月のヤルタ会談(米・英・ソ・中)をもって戦後処理にかんする「大西洋宣言」の構想を補強するとともに、一方では、ブレトンウッズ協定(四四年七月一日)を基調とするドル・ポンド国際通貨制度の確立、他方では、ダンバートン・オークス提案(四四年十月九日)を基礎とする国際連合の成立として戦後世界体制の準備を推進していったのであった。
 もちろん、このような米英の戦後処理のなかには、(1)ソ連スターリン主義の連合国側への確保、(2)ヨーロッパ諸国におけるレジスタンス運動ならびにアジア・アラブ・アフリカ地域における民族解放闘争の連合国側への吸引、(3)枢軸諸国内の後方攪乱、そしてなによりも、(4)連合国内の人民の戦争目的への総動員を遂行する、という具体的課題にそうものとして、いくたの平和的・民主的約束を内包していたことはいうまでもないのである。
 帝国主義段階における世界戦争は、それの史上類例のない残虐さ、破壊の広さに逆比例するかのごとく、総力戦的特質に規定されたものとして社会改良的スローガンの氾濫を不可避とするのである。したがって、日本帝国主義が太平洋戦争の遂行にあたって、東洋から西欧帝国主義を一掃し、諸民族の共存共栄の楽土としての大東亜共栄圏を構築するという仮構を必要とし、事実、インドネシア、ビルマ、インドなどでは民族解放勢力への一定の援助をおこなったのと同じように、米・英帝国主義もまた、自己の帝国主義的戦争目的の遂行のために、いくたの平和的=民主的スローガンをまき散らし、ときには、反帝武装解放勢力への積極的援助すらおこなったのであった。労働者階級や人民大衆の革命的前衛勢力が、このような帝国主義的戦争政策の矛盾や亀裂を階級闘争の前進の条件に「利用」することは、それじたい機械的に否定さるべきでないのはもちろんであるが、だが、そのことから、もし帝国主義者の一定の妥協的政策を本質的な事項としてうけとる者があるとしたら、それは明らかなる誤謬に転化したものといわざるをえないのである。
 事実の問題として、第二次世界大戦の本質的性格は、いずれの側が先に侵攻を開始したのか、という現象的な事態のうちにあるのではなくして、帝国主義の世界編成のもつ具体的な矛盾の展開、とりわけ、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック的解体と、その矛盾のけいれん的爆発の過程を基礎としてはじめて解明しうるのであり、このような科学的観点にたつかぎり、第二次世界大戦は、帝国主義軍事ブロック間の世界再分割のための暴力的死闘として基本的に規定されなくてはならないものなのであった。したがってまた、米・英帝国主義の戦後世界の構想なるものも、(1)帝国主義本国における戦後革命を制圧し、(2)植民地人民の民族解放闘争を帝国主義的な戦後処理のうちに収拾し、(3)ソ連スターリン主義の影響力に対抗する軍事的=政治的体制を構築し、それらをとおして、(4)米・英を基軸とした帝国主義戦後世界体制の再編成をなしとげようとするものでしかなかった。敗戦帝国主義としてのドイツ、日本はもちろん、フランスなど連合国側の戦勝帝国主義にあっても、戦後世界編成において「不当なる地位」を強制されたのも、こうした戦後構想の必然的帰結といわざるをえないのであった。
 第二の要因は、ソ連共産党を盟主とする国際スターリン主義陣営が、ルーズベルト=チャーチルの構想した「ファシズムと民主主義軋戦争」という欺瞞的規定に綱領的に屈服し、労働者階級の自己解放のたたかいをブルジョア的愛国主義と帝国主義的改良主義の軍事的=政治的支柱に変容させる恥ずべき役割を果たしたことであった。
 二九年恐慌の深刻な影響のもとで人類に課された「革命かファシスト反革命か」という世界史的選択を、社会ファシズム論と人民戦線戦術という「左」右の誤りをもって革命を血の敗北のうちに終息させた国際スターリン主義は、一九三九年にはファシスト・ドイツとソ連との「スラヴとゲルマンの血で結ばれた同盟」(モロトフ=リッベントロップの独ソ協定)を締結し、ファシストとたたかうヨーロッパの闘士たちに決定的な打撃を与え、同時に、東方にあっては中国侵略の張本人としての日本帝国主義とのあいだに「日ソ不可侵条約」を締結し、日帝の大陸侵略攻撃とたたかう日本とアジアの戦士たちに重大な混乱を与えたのであったが、ドイツのソ連侵攻を転機として、かれらは連合国との同盟政策に一転し、こんどは米・英の戦争目的の民主主義的美化を開始したのであった。
 したがって、今日、スターリン主義者たちは、第二次世界大戦の性格にかんして、(1)日・独・伊の帝国主義侵略戦争と被侵略側の民族防衛・解放の戦争、(2)日・独・伊にたいする米・英・仏などの帝国主義戦争、相互の側からの植民地再分割の戦争、(3)社会主義ソ連にたいする独・伊の侵略戦争、(4)ファシズムと民主主義の戦争、という四種の戦争のモザイク的総和として規定しようとしているのであるが、それは、(1)帝国主義戦争としての本質、(2)独ソ戦を契機とする変容した過渡期社会としてのソ連スターリン主義の世界戦争への暴力的包摂、という具体的現象形態、そして(3)帝国主義戦争が同時に帝国主義戦争の根底的廃絶をめざす人民的反乱を生みだしていく、という弁証法的転化の過程の三つの要素を統一的に把握していくプロレタリア革命の見地を放棄するものであったといえよう。
 トレーズ、トリアッチ、野坂参三に共通する「米軍解放軍規定」=「祖国のブルジョア的復興」路線と、いわゆる冷戦の深化にもとづく「米帝の侵略からのブルジョア的祖国の防衛」路線へのなしくずし的移行にみられるスターリン主義陣営の対米評価のジグザグは、一国社会主義理論と平和共存政策の実践的な帰結であったが、まさに、第二次世界大戦にかんする米・英帝国主義の欺瞞的な意義付与は、スターリン主義のこのような屈服の路線によって補完されることによって、はじめて支配的イデオロギーとして貫徹されえたのであった。
 戦後世界の総体的な構造を決定したいわゆるヤルタ協定は、アメリカ帝国主義を基軸とする帝国主義戦後世界体制の形成の基本構想を、ドイツの東西分割、東ヨーロッパの緩衝国化を条件として国際スターリン主義の承認をとりつけたものであった。国際スターリン主義陣営は、東ドイツならびに東ヨーロッパのソ連圏への官僚制的包摂を代償として、西ヨーロッパならびに日本という帝国主義基幹部における戦後革命の制圧に綱領的に保障を与えたのである。
 かくして、アメリカ帝国主義は、ソ連スターリン主義との協商をとおして、西ヨーロッパを戦後革命の波から防衛する保障をとりつけるとともに、国際連合とドル・ポンド国際通貨制度を両軸とする帝国主義戦後世界体制の形成にむかうことになったのであるが、にもかかわらず、この世界支配政策の展開は、つぎの二つの世界史的条件に規定されることによって、依然として危機的な構造を内包するものであった。
 すなわち、第一の世界史的条件は、帝国主義戦後世界体制の形成が「国際共産主義運動」を自称しているスターリン主義陣営の屈服=保障を支柱としてはじめて可能となるという、きわめて異常な事態であり、第二のそれは、国際帝国主義の基幹部をなす西ヨーロッパの危機的な現実であり、それらの複合的な相乗作用のもつ世界史的衝撃性であった。
 もちろん、第一の条件にかんしていうならば、一方では「社会主義ソ連」が国連の常任理事国となり、米・英とならんで拒否権をもつにいたり、他方では東欧のソ連圏への包摂をみるにいたったという事態は、戦後革命への帝国主義的制圧にたいするスターリン主義的保障を代償とするものであり、また、東欧の「共産化」ものちにユーゴ問題、バンガリア問題、チェコスロバキア問題として露呈するように、ソ連スターリン主義体制への官僚制的包摂の過程でしかなかったのであって、当時の世界情勢の内包していた革命的展望に関連させてみるならば、きわめて裏切り的なものであったことはいうまでもなかったのであるが、にもかかわらず、こうした国際政治上の構造的変動は、ロシア革命を根拠とする「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」の歪曲的拡大を基礎としていたものであったのであり、帝国主義体制に限界を感じながらも、いまだ明瞭な階級意識をもつにいたらなかった多くの民衆にとっては、国際政治の漸進的な改良の過程として反映したのであった。
 しかも、当時、西ヨーロッパの政治情勢は、帝国主義にとって史上最大の階級的危機を醸成していたのであった。すなわち、(1)西欧経済の壊滅的破局、(2)旧権力機構の全面的崩壊、(3)抵抗運動をとおしての武装した人民的ヘゲモニーの増大、(4)民衆の政治的傾向の流動化であった。
 こうした西欧帝国主義の破局的過程をかろうじて支えていたのは、一つは、アメリカ帝国主義の強大な軍事的=経済的制圧力であり、もう一つは、ヤルタ協定を基調としたスターリン主義陣営の戦後革命へのイデオロギー的=組織的制動であったのである。したがって、西欧帝国主義基幹部の破局的危機という第二の世界史的条件を基礎とするかぎりでは、スターリン主義者の発言力増大という形態をもって進行する「社会主義の影」は、民衆にとって体制的選択の現実的可能性を示すものとして受容されていったのであり、いつそれが西欧革命の爆発として転化するか、なんぴとも保障しうるものではなかったのである。
 戦後帝国主義の危機的構造にいちはやく着目したのは、英首相チャーチルであった。スターリンに追放された革命家トロッキーにたいし、最期の日にいたるまで「ヨーロッパの人喰鬼」と憎悪してやまなかった大英帝国の最後の宰相は、西欧帝国主義の破局を脱出する伝統的方策としてふたたび東方攻撃を開始し、「ソ連の共産主義的膨脹主義に対抗」するという仮構のもとに、欧米帝国主義の軍事的・政治的・経済的結束を唱道したのであるが、それは一方では、ソ連スターリン主義にたいし、戦後革命への反階級的制動の強化を迫り、他方では、西欧の民衆にむかって、体制的選択の現実的動向を、ソ連の侵略を許すのか否かというイデオロギー的わく組みのなかにはめこもうとしたものであった。
 かくして、チャーチルは、一九四六年三月の例の「鉄のカーテン」演説において、「ソ連は世界を支配しようとする侵略者であるから、われわれはソ連にたいする力の優位をうちたてねばならない。そのためには、アメリカ合衆国による西側諸国にたいする強力な軍事上、経済上の援助が必要である。……大英帝国と合衆国の国民が結合し、その協力が陸、海、空、地球上のいたる所におよぶならば、危険な勢力均衡の代わりに、強力な安保体制が保障されるであろう」と雄弁をふるって革命にたいする帝国主義陣営の結集を訴えたのであった。それは、まさに、西欧帝国主義の破局的状況と前革命的情勢への予防と救済の問題を「反スラヴ主義」という伝統的排外主義のイデオロギーのもとに保障するとともに、米英同盟を基軸とした帝国主義戦後世界体制の形成という基本構想の再確認をアメリカに要求するという点において、没落する大英帝国にとって最後の起死回生の方策であったといえよう。
 一九四七年三月のトールマン・ドクトリンの宣言をもって、チャーチルの訴えに積極的回答を提示したアメリカ帝国主義は、はやくも、マーシャル・プラン(四七年六月)をうちだし、西欧帝国主義の復興にむかって強大な努力を開始したのであった。それは、アメリカ帝国主義にとっては、一方では、ソ連スターリン主義ならびに体制的選択の岐路にたつ西欧の民衆にたいし、国際政治における帝国主義陣営の圧倒的優位性を誇示するとともに、他方では、再建される西欧帝国主義を、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制のなかに構造的にわくづけ、アメリカ帝国主義の世界支配政策を貫徹するという意味をもっていたのである。
 かくして、戦後世界の専制君主として登場したアメリガ帝国主義は、四五年末のイラン問題をめぐる紛糾以来、すでにアメリカのための「国際的投票機械」としての性格を色こくしていた国連のいっそうの強化をはかりながらも、同時に、ソ連の赤色侵略にたいする対抗という大義名分のもとに、大西洋同盟ならびに北大西洋防衛条約機構(NATO)を主軸とする帝国主義軍事ブロック=地域的集団安全保障体制の網を全世界的に構築し、復興開発基金や国際通貨基金などのドル・ポンド国際通貨制度の整備とならんで、アメリカ帝国主義の世界支配のための機構を完成させていったのであった。いわば、国連というソ連圏をも包括した一般的集団安保体制と、NATOを主軸とする帝国主義独自の地域的集団安保体制網とを併用することで、アメリカ帝国主義は、世界支配の軍事的=政治的体制を強化しながら、西欧帝国主義諸国の復興・再編成ならびに、植民地・後進諸国の新植民地主義的再結集を進めたのであった。
 このような帝国主義の動向にたいして、ソ連スターリン主義は、東ヨーロッパ諸国の官僚制的「共産党」政権化とコミンフォルム結成・SEV(コメコン)体制の確立をもって対抗したのであったが、それは、西欧諸国における労働者運動の体制内化と東ヨーロッパにおける革命の波のスターリン主義的歪曲を促進するものでしかなく、第二次世界大戦の終了にもとづく西欧の破局的危機は、帝国主義的秩序のうちに収拾されていったのであった。
 だが、第二次世界大戦の帝国主義的戦後処理、すなわち西欧の復興を基軸とする帝国主義の再編成と、ソ連スターリン主義への軍事的威圧にむかって国際帝国主義の努力が集中され、一定の成功をおさめているとき、アジアでは帝国主義にとって重大な情勢の変化が起こっていたのである。
 中国革命を中核とし、朝鮮から、フィリッピン、インドシナ、マレー、インドネシアをへてビルマ、インドにいたる広大なアジア地域における反帝民族解放闘争の爆発がそれであった。
 周知のように、第二次世界大戦以前のアジアは、古典的な植民地支配体制が典型的に形成されていた地帯であったが、日本帝国主義の戦争遂行は、伝統的な宗主国――植民地の関係を暴力的に破壊しながらも、新しい植民地経営も形成しえないうちに軍事的に敗退したため、アジア全域にわたって帝国主義支配の空白地帯を生みだしたのであった。しかも、日本の敗退のあとには、日本占領を前後して激化した民族解放闘争が民衆の基本的部分を結集して、旧宗主国の植民地支配の復活にたいし、対決の態勢を固めはじめていたのであった。
 こうした反帝民族解放のたたかいの主軸をなしたものこそ、中国革命の高揚であり、インドシナ=ベトナムにおける解放闘争の発展であったが、その周囲に各国の武装解放闘争の波が渦巻き、さらには、民族ブルジョアジー(スカルノ、ネルー)を先頭とする独立運動も吸引されるという情勢が生まれていたのであった。もちろんインドやインドネシアにおける民族ブルジョアジーの独立運動なるものは、反帝民族解放をめざすものではなく、旧宗主帝国主義と反帝民族解放闘争の均衡のうえにボナパルト的支配(政治的独立と金融的従属)を確立しようとしたものであったが、にもかかわらず、こうした中間主義的傾向もふくめて、伝統的植民地支配体制を根底からゆるがすたたかいの炎が、僚原の火のごとくもえひろがっていたのであった。しかも、日本帝国主義の三六年間の植民地支配に呻吟した朝鮮においては、ヤルタ協定にもとづいて朝鮮の国連信託統治・南北分割の暴圧が連合国から加えられ、これにたいして朝鮮民族の存亡をかけた反撃が全半島をおおったのであった。アメリカ帝国主義を盟主とする国際帝国主義は、西欧の経済的破局と前革命情勢にたいし、マーシャル・プランを基軸として、かろうじてのりきる見とおしをえたのであったが、他方、第二次世界大戦のもうひとつの決戦場であったアジアにおいて、文字どおり帝国主義植民地支配体制の全面的崩壊に直面したのであった。
 もともと、第二次世界大戦は、二九年恐慌にもとづく世界経済の有機性の破局的解体と、その危機を脱出するための各国帝国主義の国家独占資本主義的政策への移行の矛盾が、帝国主義軍事ブロック間の暴力的衝突として爆発したものであったが、二九年恐慌のもたらした世界経済の破局的解体は、同時に、帝国主義本国と植民地・後進国とのあいだの伝統的な金融関係をも根底的に破壊し、深刻な農業恐慌を全世界的に蔓延させたのであった。
 しかも、戦後における西欧の復興なるものも、基本的にはドル撒布という人為的政策をテコとするものであり、旧植民地・後進国の農業危機を解決するものではなかったばかりか、米国の後進国救済援助政策なるものにいたっては、国内の余剰農産物を一方的に供与するもので、後進国の慢性的な農業恐慌をいっそう深刻にする効果しかもたなかったのであった。こうした事情は、石油など重化学工業の新しい動向に即応した資源の開発が、停滞していたアジアにおいていっそう鋭い矛盾を示すことになったのであり、反帝民族解放闘争をいやがうえにも燃えあがらせることとなったのであった。
 アジアにおける帝国主義植民地支配体制の全面的崩壊と農業恐慌の深刻化のなかで、ようやくアジア情勢の危機の切迫を認識したアメリカ帝国主義は、四八――四九年を転機としてアジア政策の再検討を開始するとともに、英・仏・蘭など旧宗主国の衰退をカバーするものとして全面的なアジア支配政策を展開しだしたのであったが、その焦点としたところのものは、朝鮮戦争を基軸とした超軍事的な帝国主義アジア支配体制の構築のためのきわめて凶暴な攻撃であり、その枢軸としての日本の軍事的・兵站的役割への期待であった。
 マーク・ゲインは『ニッポン日記』において、「過去一世紀にわたって中国はわが(米国の)外交政策の重点だったが、いまや、この重点は日本に移りつつある。共産主義の波は中国を蔽いつつあった。……一方日本には、われわれは軍事基地をもち……安定した能率的な、そのうえわれわれに友好的な政府があった」と、当時のアジア情勢の特徴をのべていたが、まさに、かつてのアメリカ帝国主義の交戦国としての日本は、帝国主義アジア支配体制構築の切札として登場したのであった。
 元米駐日大使ライシャワーが一五年前に指摘(『アジア政策を求む』――日本版『アジアにおける日本の役割』)したとおり、アメリカのアジア政策は「断片的なものであって、明確な結合的目標の一貫性に欠け、おもに危機に対する反応の連続」という性格をもつものであり、それは、すでにのべたようにアジア情勢の世界史的条件に規定されたものであったのであるが、それだけ、アメリカ帝国主義の対日政策もまた、その軍事的意図をむきだしにした余裕のないものとなり、日本の労働者階級=人民大衆の反撃をいっそう強めるものとなったのであった。
 一方、日本帝国主義は、第二次世界大戦においてアジア侵略のために、幾百万幾千万の人命を殺傷し、十数億の民衆の生活を破壊する暴挙をおこない、ついには、それに失敗し、米軍の占領管理のもとにおかれるにいたったにもかかわらず、アジアと日本の人民にたいする許しがたい犯罪を反省するどころか、逆に、アメリカ帝国主義の世界支配政策の一翼として日本の帝国主義的な再建と発展を達成する基本的世界政策を採用し、アジアと日本の人民に敵対する道をふたたびあゆみはじめたのである。まさに、このような日本帝国主義と労働者階級=人民大衆とのあいだの基本的世界政策をめぐる非妥協的対決こそ、戦後日本の政治過程を根底的に規定する対立点となったのである。
 
 第二節 戦後日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策
 
 ところで、戦後日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策が、法制的かつ構造的に確定されるにいたったのは、周知のように、五一年サンフランシスコ講和会議と、そこにおける対日平和条約ならびに日米安保条約の二条約の締結をとおしてであったが、それは基本的には、第二次大戦の戦後処理としての米軍の、日本領土を「条約にもとづく軍事基地供与」として継続させるとともに、NATO型の太平洋集団安保体制にむかって日本をくみこもうとした日米支配層の共同の意図を示すものであった。サンフランシスコ対日平和条約第三条にもとづく米軍による沖縄の分離的軍事支配は、このような日本帝国主義の日米安保同盟政策を基礎とするものであったのである。
 一九六〇年の日米安保条約の改定は、日本全土の侵略基地化をいっそうすすめながら、同時に、朝鮮戦争以来の日本帝国主義の復興発展と、それを基礎とした日本再軍備の一定の進展にもとづいて日米安保同盟政策を「共同防衛」的規定(いわゆる双務性)の方向に推転させたものであり、アジアと日本の人民への敵対性をいっそう非和解的なものにもしたのであった。
 かつてトルーマン大統領は、サンフランシスコ会議の歓迎レセプションの席上で「太平洋における防衛のための地域的取決めが発展すれば、創設されるかもしれない日本防衛軍は、同地域の他の諸国の防衛軍と連携をもつことになるでありましよう」という演説をおこなったが、六〇年改定を転機として日本帝国主義は、多角的な太平洋集団安保体制構築にむかって歩をすすめ、故トルーマンの期待を迂回的に達成させはじめたのである。
 このような戦後日本帝国主義の安保同盟政策の意味するところのものは、サンフランシスコ会議の単独講和という形式が明白にしているように、侵略と強奪の対象であったアジア諸国人民との平和と連帯を創成する道ではなく、かつての帝国主義強盗戦争における交戦国とのあいだにアジアにたいするあらたな「強盗同盟」を誓い合うものだったのであり、それはまた、日本の民衆にとっても、安保や沖縄の諸実体・諸現実が示しているように、厳しい抑圧と暗黒政治への道であったのである。では、こうした日本帝国主義の戦後の基本的世界政策の展開は、いかなる条件のうちに必然となったのであろうか。
 戦後日本帝国主義が基本的世界政策としての日米安保同盟政策を確定するにいたった第二の条件は、日本の敗戦のもっている予防反革命的な性格にあった。第二次世界大戦を遂行した日本帝国主義の政治支配構造を形成したものは、一般的には天皇制権力と呼称されているところのものであったが、この天皇制権力は、独占資本と地主の階級的ブロックを政治的基礎としながらも、地主=過小農制を社会的支柱とする膨大な官僚制=軍事機構をもって独占資本ブルジョアジーの階級的利益を代行する特殊的な統治形態であり、いわば天皇制ボナパルティズムとでも規定すべきものであった。
 戦前の日本帝国主義を特徴づけた陰惨きわまる圧制は、世界史的には、日本資本主義の形成の段階的特殊性に規定されたものなのであったが、政治的には、絶対主義として成立した政治機構を打倒せず、貴族的支配層との陰微な対抗と協調をとおして、それを内側から独占資本ブルジョアジーの階級的利益に即するものに買収し変質させ、同時に、大日本帝国陸軍と内務省=警察機構を実体的基礎とする公的暴力装置をもって社会的変革をめざす労働者・農民運動に対抗し、帝国主義的膨脹に抵抗するアジア人民を鎮圧する決定的武器とする、という日本帝国主義の特殊的な国家形態の危機的構造を反映したものであったのである。
 だが、昭和初年以来、軍需産業の熱病的発展をテコとした重化学工業のあらたな興隆は、三井、三菱、住友、安田など伝統的な財閥型独占資本の閉鎖的機構を根底から揺りうごかし、その再編成を推進するとともに、一方では、独占資本と官僚機構との結合の深まり、他方では、旧支配層の支柱としての地主=貴族制の構造的な地盤沈下をとおして独占資本ブルジョアジーの支配勢力内における政治的指導権を決定的に増大させたのであった。しかも、戦時国家独占資本主義政策として提起された食管制度ならびに徴兵規模の破局的拡大、戦時産業への労働力の熱病的集中などの条件は、一方では小作料の無意味化、他方では、土地飢饉の解消をとおして高利賃的地主=過小農制の基礎を掘りくずしてしまったのである。
 こうした支配勢力内における構造的変動の深まりのなかで、日本帝国主義は太平洋戦争の敗色をこくしていくのであったが、前線におけるあいつぐ敗走と玉砕、原料輸送網の壊滅と空襲の激化にもとづく日本産業の全面的崩壊、そして際限なく広がる戦災と食糧難など――こうした日本帝国主義の大破局は、民衆のあいだにしのびよる厭戦気分と結びついて天皇制イデオロギーの崩壊の条件を日増しに強めていったのであり、一定の前衛的政治指導が与えられるならば、戦争終結を要求する革命的反乱に転化する危険を醸成させていたのであった。帝国主義戦争から内乱へ! のスローガンは、日本帝国主義にとって現実性をともなった危険となりつつあったのである。
 したがって、本土決戦をまえにして、連合国にたいする無条件降伏を日本帝国主義が決意するにいたったもっとも重大な要件は、軍事的敗北は必至だという判断とならんで、四三年のイタリアのような事態、二八年のドイツのような破局、すなわち、人民の革命的反乱によって戦争遂行が不可能になり、そのあとに社会的変革をめぐる動乱がひきつがれるような情勢をなんとしても避けなくてはならない、という階級的決意にあったといえるのであり、そのためには、大事にいたらぬまえに、「天皇」の名において戦争終結の主導権を掌握する必要があったのであった。
 日本帝国主義の支配的グループのなかで次第に勢力を拡大し、専一的な指導権を要求しはじめていた独占資本ブルジョアジーにとっては、問題はもっと明快であった。すなわち、天皇制護持か、資本家的私有財産制度の維持か、であり、国体護持、いいかえるならば、天皇制権力機構(その実体は、警察、官僚、軍隊の相対的独自性をもった巨大な機構であったが)をもって日本金融資本の支配を代行し、隠蔽させるという伝統的統治構造の解体がいっきょに資本家的私有財産制度の崩壊に転化する危険にたいし、注意ぶかく歯止めを加えながら、天皇制ボナパルティズムから「立憲君主制」へのなしくずし的移行をはかり、独占資本の専一的な統治形態をつくりだすという点にあったのであった。したがって、一九四五年八月一五日以後のかれらの行動様式は、ただひとつの例外もなしに、民衆の革命的反乱をどう制御していくかという予防反革命的観点を基軸としたものであり、アメリカ帝国主義の占領政策との矛盾は、こうした観点を貫徹していくうえでは、副次的なものでしかなく、体制内的に解決しうるところのものだったのである。
 他方、アメリカ帝国主義の対日占領政策の基調もまた、日本帝国主義の対抗的な復活の道を除去するために、大日本帝国軍隊とその社会的基盤を徹底的に解体するという点に重きをおいていたのであったが、前節に引用した四五年九月二二日付の「米国の初期の対日占領基本政策」において「最小の兵力および資源により(占領)目的を達成せんとする米国の希望にかんがみ、最高司令官は、米国の目的達成を満足に促進する限りにおいては天皇をふくむ日本政府機構および諸機関を通じて権限を行使すべし」とのべているのは、そのかぎりにおいて、アメリカ帝国主義の対日占領政策の間接統治的な意向を率直に示したものであったといえよう。
 だが、一五年におよぶ戦争の辛酸をなめ、敗戦の焼土だけを残された日本の民衆にとっては、問題はまったく別のようにたてられなくてはならなかった。事実、日本の労働者階級=人民大衆は、史上最初の敗戦という予期しえなかった事態に虚脱感と解放感とをいりまぜながらも、大日本帝国軍隊の完全なる自壊、官僚機構・警察機構の無力化、産業の崩壊、戦時統制の大混乱のなかで失業、飢え、寒さの脅威にたいし、個々の力でもってたちむかっていかなければならなかったのであった。迫りくる大破局にたいし、労働者階級と人民大衆が自衛のためにとりうる唯一の道は、労働者階級による工場占拠・生産管理のたたかい、農民による小作地占拠と強制供出阻止のたたかい、そしてこの両者を基礎とした都市住民による食糧の人民管理のたたかいをとおして、労働者・農民の政府を樹立することであった。
 すでに指摘したとおり、日本帝国主義のむきだしの侵略性と暗黒政治は、日本資本主義の金融資本的形成を根拠とするものであり、したがって、その根底的な解決は、日本帝国主義の軍事的敗北と、それにもとづく天皇制ボナパルティズム国家機構の崩壊を、日本帝国主義そのものの打倒のたたかいにむかって戦略的に転化することにあった。まさに、こうした日本労働者階級=人民大衆の日帝打倒のたたかいにたいし、すでに無力化していた日本支配階級(四六年春には、事実上、百日以上にもわたって政治委員会は空白化していた!)を背後から支え、上からのブルジョア的改革の遂行に労働者・農民のブルジョア的枠組みからの逸脱への暴力的弾圧(という二面的政策)をとおして、日本帝国主義の延命を政治的=軍事的に保障した最後の力こそ、アメリカ帝国主義とその占領軍であった。
 アメリカ帝国主義は、一方では、戦後の労働者階級=人民大衆の自然発生的高揚を背景にして、日本支配階級に政治的恫喝を加え、武装解除、土地改革、財閥解体、官僚警察機構の再編をおこない、日本帝国主義の対抗的復活の道を封ずる方策をうつとともに、他方では、団規令などポツダム政令をひん発し、ときには米軍憲兵すら発動することによって、日本帝国主義の過渡的混乱を救済し、日本における戦後革命を制圧する役割をはたしたのであった。
 戦後日本帝国主義が基本的世界政策として日米安保同盟政策を確定するにいたった第二の条件は、日本階級闘争の具体的発展に規定されて、米占領軍の軍事的強制力(ゲバルト)が日本帝国主義の延命を保障する帝国主義的強権に転化したという事実に依拠していたのである。いわば、日本独占資本は、かつて天皇制権力機構に依託していた国家強権の役割を占領軍に仮託するというみじめな方法を、敗戦――戦後革命という異常な情勢に対処するものとして採用したわけである。
 戦後日本帝国主義の基本的世界政策として日米安保同盟政策を確定するにいたった第三の条件は、前節にみたような帝国主義の戦後的世界編成を規制した世界史的条件(そのなかには当然、日本の情勢をふくむが)のきわめて異常な性格であった。スターリンは、遺言的論文ともいうべき『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』において、敗戦帝国主義としての日本が、戦勝帝国主義にたいして対抗的再建の道をあゆむ可能性を機械的に否定しえないと予測したが、帝国主義の戦後的規定性という具体的な問題設定のうちにあっては、スターリンの予測したような日帝の対抗的再建の道は、まったく選択の余地がなかったというほかはないのである。
 すなわち、前節でみたように、(1)帝国主義の戦後的編成におけるアメリカ帝国主義の圧倒的な経済的=軍事的優位性と、それを前提としたアメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の形成、(2)日本帝国主義の敗退、西欧帝国主義の衰退、そして中国革命の発展を構造的根拠とする古典的なアジア植民地支配体制の全面的崩壊と、それにたいする唯一の反動的対応策としてのアメリカ帝国主義の超軍事的な帝国主義アジア支配体制の構築の攻撃、という異常な条件のもとで、前述のような脆弱な政治的、経済的危機を内包した戦後日本帝国主義が、日米同盟をたんに敗戦と占領に規制された消極的な政策としてのみならず、日帝の戦後的再建のための積極的政策として採用したことはまったく当然であった。
 もちろん、アメリカ帝国主義とその占領軍が、敗戦帝国主義日本のうえに有形無形の強制を加えて、日米同盟の方向を確定する政策をとったであろうことはいうまでもない。純法理的にいうならば、日本は連合国に無条件降伏したのであり、占領主体も連合国ということであって、事実上、米軍のみが全一占領し、占領政策主体となったことは不法というほかはないのであるが、アメリカ帝国主義は、ちょうど国連を世界支配政策の追認的機関としたように、形式的には、対日参戦一三ヵ国の代表よりなる極東委員会(四六年二月発足)、米、英、ソ、中の四方国代表よりなる対日理事会(四六年四月発足)とを対日占領政策の決定機関としながら、そのじつ、両者の議長を米国が独占することによって、事実上の対日占領政策の決定権をGHQ(米占領軍司令部)のもとに掌握し、占領軍命令――ポツダム政令と復興資金など対日経済援助の二つの水路をとおして、日本政府――官僚機関――独占資本を三位一体的に管理する機構をつくりあげたのであった。
 かくして、アメリカ帝国主義と、その軍事的=経済的援助を延命の最後的支柱とした日本帝国主義は、一方では、旧日本支配階級内における抵抗を排除して「天皇制ボナパルティズム」から「立憲君主」制への移行を政治的=社会的に遂行するとともに、他方では、占領軍命令=間接統治という二重的な形態をもって戦後革命の高揚に対抗したのであった。
 一九四六年十一月に制定発令された昭和憲法は、当時の日米支配層の直面していた二正面作戦的な課題を反映したものであったが、その本質とするところは、日本のブルジョア的復興という帝国主義的綱領に国民的合意をとりつける点にあった。したがって、憲法規定に内包している民主的権利なるものは、憲法によって与えられたものではなく、戦後革命の高揚のなかで民衆がすでに確保してしまっていた政治的陣地に法制的追認を与えたものであり、しかも、それは、占領軍命令という超憲法的な強権によって決定的に規制されたものであった。
 事実、憲法施行(四七年五月三日)のころには、はやくも政治的反動は開始されていたのであり、四九年四月の団規令を突破口に、民主的権利にたいする日米支配層の反動的襲撃は、せきを切ったごとく全面化しはじめたのであった。こうした政治的反動を非妥協的な対決にまでたかめたものこそ、中国革命の発展と、それを背景とした朝鮮支配の動揺、それらにたいするアメリカ帝国主義の超軍事的な対抗政策の開始であり、そして、こうしたアジア情勢の緊迫化のなかで強行されたレッド・パージと日共指導部への壊滅的攻撃であった。
 周知のように、日本共産党は、当初、アメリカ占領軍にたいし「解放軍規定」(野坂参三――『毎日新聞』四六年十一月)をとることをとおして、アメリカ帝国主義への綱領的屈服を示したのであった。このような反階級的規定は、民主革命の完遂という二段階戦略と相乗効果をもって、戦後革命の高揚を敗北に転化させる前衛的役割をはたしたのであったが、四九年のレッド・パージにはじまる反動的報復の激化にたいしても、「対日理事会の無視」などという合法主義まるだしの対応に終始したのであった。
 だが、日本共産党がいかに合法主義的武装解除の立場に徹しようとも、反革命の襲撃はけっして手控えるはずのものでもなかった。四九年六月から五〇年暮にかけて全産業を襲ったレッド・パージの攻撃で、日共の職場組織を根底的に壊滅させた日本帝国主義とその後見人としての米占領軍は、五〇年六月の朝鮮戦争を前後して日共中央指導部への襲撃を開始し、日共幹部の公職追放、特審局(公安調査庁の前身)への召喚、機関紙発禁、印刷所封印などの攻撃を一挙的に加えたのであった。
 すでにアメリカ帝国主義は、五〇年一月二日のアチソン国務長官の声明として「日本の敗北と非軍事化は、わが国と全太平洋地域および日本の安全保障のために必要なかぎり、わが国が日本を軍事的に防衛することを要請した。……私は、日本の防衛陣地を放棄したり、弱めたりするいかなる意志もないこと、永久的なものと否とを問わずどんな取り決めがなされようと、その防衛は維持されねばならないし、維持するつもりであると確信できる。この防衛線はアリューシャンから日本を経て琉球へいたる。われわれは、琉球諸島に重要な防衛拠点を有しており、それらを保持しつづけるであろう」との構想を明らかにしたが、こうした「日本防衛」の方向は、朝鮮戦争の勃発を境にして、いっそう凶暴な性格を色こくしていったのであった。五〇年七月八日付のマッカーサー書簡にもとづく警察予備隊(自衛隊の前身)七万五千名の発足(同年八月一〇日)という急速なる日本再軍備の動向は、日本の反動化の決定的進行を示すものであったと同時に、日米安保同盟への道としてのサンフランシスコ単独講和会議にむかって日米支配層の合議と固く結びついたものだったのである。
 一九五一年九月のサンフランシスコ対日平和会議は、このような内外する諸力の具体的な結合のうえに遂行された。
 日米安保同盟政策の基本構想を法制的に確定した「対日平和条約」ならびに「日米安保条約」の骨子を検討すると、対日平和条約は、(1)沖縄などの分離的軍事支配(第三条)、(2)太平洋集団安保体制への日本のくみこみ(第五条C項――「連合国としては、日本が主権国として国連憲章第五一条に掲げる個別的または集団的自衛の権利を有すること、および日本国が、集団的安全保障取決めを自発的に締結することができる」)、(3)米占領軍の駐留軍への転換(第六条A項)を重点としており、また、対日平和条約第六条A項但し書きにもとづく日米安保条約は、(1)米軍の無制限な駐留と基地提供(第一条)、(2)米軍の日本国内での内乱および騒擾への鎮圧出動(第一条――「または二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱および騒擾を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために〔米駐留軍を〕使用することができる」)、(3)日本の再軍備の義務づけ(前文――「自国の防衛のため漸増的にみずから責任を負うことを期待する」)を特徴としているが、総じていうと、アメリカ帝国主義の超軍事的なアジア支配体制構築の攻撃を背後から兵站的、出撃基地的に支えながら、日本の帝国主義的な復活と軍事化を達成しようとするものであったといえよう。
 かくして、日本帝国主義は、日米同盟を基軸とした太平洋集団安保条約機構ともいうべきものの構築にむかって日本の帝国主義的進路の確定を基礎として、一方では、朝鮮戦争の特需ブームをテコに日本経済の重化学工業化の達成、他方では、日本国内支配体制の反動化を追求していくこととなるのであった。だが、それは、沖縄県民にたいしアメリカ帝国主義のもとでの分離的軍事支配の苦しみと犠牲を代償として、日米安保同盟政策が確定されたことからも明らかなように、日本とアジアの人民にたいする侵略と暗黒政治への道を約束するものでしかなかった。
 五一年当時の首相、吉田茂は、その『回想録』において「対米協力の基本を決めたことは、わたしの政治生活上の最大の功績だ」という意味のことを述懐しているが、アメリカ帝国主義の「イエスマン」という屈辱的対応を示す以外に、帝国主義としての延命の道をみいだしえなかった戦後日本帝国主義とその政治的エリートの精一杯の自己弁解であったのであろう。
 もともと、日本帝国主義は、戦前にあっても、「東洋の憲兵」とか「番犬帝国主義」とかいう仇名に象徴されていたように、日英同盟を基軸に国際帝国主義のアジア支配の先兵の役割を担うものとして明治以来の発展を国際的に許容されてきたのであり、壮士風の大アジア主義なるものも、欧米列強にたいしては後進国、アジア諸国にたいしては先進国という日本帝国主義の「番犬的構造」を粉飾するためのイデオロギー的虚構としての意味しかもちうるものではなかった。だが、二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック的解体は、軍事産業を基軸に急速な重化学工業化の道をあゆみはじめていた日本経済の国際金融構造に破局的な打撃を与えたのであったが、こうした日本帝国主義の「番犬的構造」の破局のけいれん的矛盾が暴力的に爆発していく過程こそ、満洲事変をはじめとするアジア侵略→アメリカ帝国主義との軍事的強盗戦争であった。
 したがって、太平洋戦争=第二次世界大戦における日本帝国主義の軍事的敗北は、日本労働者階級=人民大衆にとって、日本帝国主義の「番犬的構造」と、その矛盾のけいれん的爆発という二面性を一挙的に解放すべき戦後革命の課題として継承されねばならなかったのであり、それゆえ、戦後日本革命の発展は、アメリカ帝国主義の戦後処理=対日占領政策との根底的な対決を迫るものであったが、日本帝国主義とその支配層にとっては、日英同盟的世界政策の時代への迂回的な復帰として合理化されるものでしかなかったのであった。
 
 第三節 アジアにおける反動枢軸としての日米安保同盟
 
 サンフランシスコ対日平和条約と、それにもとづく日米安保条約を法制的基礎とする日米帝国主義の日米同盟政策の展開にとって重大な転機を与えたのは、いうまでもなく五四年三月六日に調印されたMSA協定(日本とアメリカ合衆国との相互防衛援助協定)であった。すなわち、MSA協定は、アメリカの日本にたいする武器供与の代償として日本に「自助と相互援助の能力の維持と発展」を明文上の義務として規定したものであり、これ以後、日本の兵器と兵器産業がアメリカと同一規格化されるのであり、いわば日米共同作戦の軍事技術的基礎を与えるとともに、その延長線上に日本再軍備を設定し、六〇年安保改定への飛躍を準備するものであった。だが、それは同時に、日本帝国主義が五〇年から五三年にかけての内外する過渡的危機をまがりなりにものりきり、日米安保同盟政策の積極的発展をある程度みとおしうるようになったということを意味するものでもあった。
 すでにみたように、五一年のサンフランシスコ会議は、中国革命の発展と朝鮮戦争の勃発というきわめて異常なアジア情勢に応急的に対抗するものとして、占領状態の終了→日米安保同盟の確定をかろうじて保障し、日本の侵略と暗黒政治への道を基本的に設定したものなのであったが、だがそれは、同時に、日本階級闘争との関連でいうといくたの困難と矛盾を内包していたのであった。
 第一の矛盾は、占領状態の終了にもとづく占領軍命令=ポツダム政令の解消と、それを補強するための反動的立法措置の遅滞であった。占領下の日本帝国主義は、労働者階級=人民大衆のたたかいへの治安対策にたいして、基本的には米占領軍の超憲法的強権に依拠することで解決してきたのであり、四九年――五〇年のレッド・パージならびに日共指導部の追放措置にたいしても、一片の政令をもって国会議員をつぎつぎと失格させるような粗暴な政策をとってきたのであっが、戦後処理としての占領状態から条約にもとづく駐留への移行は、法制的には、占領命令=ポツダム政令を失効させることとなり、昭和憲法が最高法規という治安対策上の空白化をつくりだすことになったのであった。
 かくして、日本帝国主義と、その政治委員会は、国際条約は憲法に優先するという法制上の珍解釈をうちだすことをとおして、憲法規定をたてまえとする法体系と日米安保同盟政策的現実との矛盾を「解決」しようとし、同時に、破防法法案、労働法改悪法案を中心とする反動的治安立法の制定を急いだのであった。破防法制定の目的にたいして当時の大橋法務総裁が「日本の政治組織を破壊しようというイデオロギーをもっておるものには、いかなる施策をしてもこの源泉を私はとめえないと確信いたします。……現在の情勢下におきましては、さようなイデオロギー的破壊的組織をもつものが日本の治安を乱す。それに対処すべき措置・施策としてこの法案を作成した次第であります」と参議院法務委員会で答弁しているように、破防法は文字どおり反体制的な組織・運動の壊滅を狙った反動治安立法であり、戦前の治安維持法、占領下の団規令を継承するものであったが、それは同時に、治安維持法が国体=天皇制的統治形態を思想的=体制的に防衛することを目的としていたように、破防法は日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策の維持を具体的な争点とするものであった。
 だが、このような悪法のあいつぐ上程は、当然のこととして、日本労働者階級=人民大衆のあいだに強大な反対運動を呼びおこすこととなった。五一年秋、労働法規改悪反対全国共闘会議を組織した総評は、全自動車、電産、炭労を中核としてゼネスト(いわゆる労闘スト)を波状的にうちながら、破防法阻止闘争と合流していったのであった。朝鮮戦争の避けがたい重圧と結びついて、当時、こうした一連の政治反動は、「逆コース」「暗い時代」のはじまりを示すものとして、民衆のこころを根底からゆさぶったのであった。日本帝国主義とその政治委員会としての吉田政府は、たしかに、こうした民衆の危機感を強権的に制圧して破防法の国会通過を強行した。だが、それは、法への国民的信頼を吸収する過程とはならず、むしろ悪法への国民的反発=政府政策の適法性への一般的疑問を醸成するものでしかなかったのである。この点こそ、日本帝国主義が五〇年から五二年にかけての政治反動の激化のなかで、構造的につくりだしてしまった政治支配上の第二の矛盾であった。
 もちろん、このような矛盾があったとしても、いや、あったからこそ、日本帝国主義とその政治委員会としての吉田政府は、最後の力をふりしぼって日米安保同盟政策を国内的に保障する政治支配体制の確立にむかって、いっそう強権的につきすすんだのであった。
 かれらは、対日平和条約および日米安保条約をもって日米安保同盟政策を確定し、破防法制定(五二年七月二一日施行)をもって国内治安体制の保障を法制的に確立し、さらには、保安庁法公布(五二年七月三一日)をもって警察予備隊の保安隊(二一万)への発展、海上警備隊の新設をなしとげ、日本再軍備への堡塁を強化したのであったが、当時の内外するアジア情勢の激動のなかにあって、日本帝国主義にとって革命の現実性はいぜんとして「明白かつひっ迫せる危険」(破防法上程理由)として存在していたのであった。
 事実、日本共産党は、当時、民族解放・民主革命という誤った戦略的方向のうえではあったが、米軍および吉田政府との暴力的対決の姿勢をとっており、五二年メーデー事件をはじめ各地でおこった国家権力と民衆との実力的衝突の激発にたいし、積極的に評価する方向を示していたのであった。
 また、米占領軍命令=ポツダム政令で発行停止処分にあった『赤旗』の任務をひきつぐものとして、いくたの合法・非合法の新聞、雑誌を発行し、権力の度重なる手入れからそれらを守りぬいたのであった。民家の屋根裏で地下新聞を印刷し、困難かつ煩雑なルートをとおしてそれを読者に配布していくたたかいは、まさに、社会主義鎮圧法下のドイツやツアー圧制下のロシア、そして天皇制下の戦前日本の経験を継承せんとするたたかい以外のなにものでもなかった。もちろん、当時の日本共産党の軍事方針なるものは、社会主義革命にむかって労働者階級=人民大衆の武装を組織するものではなく、メーデー事件をのぞいては、どれも民衆の後方から火炎ビンをこっそりと投げるという姑息なものだったのであり、朝鮮戦争とそのための日本の出撃=兵站基地化の攻撃にたいし大衆的爆発をもって阻止する任務を放棄したという点などにおいて、いくたの誤謬と欠陥とにまとわりつかれていたのであったが、にもかかわらず、日共指導部の合法主義から軍事運動方針への転換は、戦後の平和的政治過程のなかで育った民衆にとって、帝国主義国家権力とのたたかいのもつ合法・非合法、公然・非公然の対応変化について新しい経験を付与するものであった。
 したがって、それは、国家権力と資本の職制の厳しい監視のなかで民同ダラ幹をつき上げ、労闘スト、破防法ストを突破口に、日本労働運動の戦闘的転換にむかって進撃しつつあった労働者階級のたたかいの基礎のうえに、その民族主義的二段階戦略の批判として、左翼的に止揚されなければならなかったことはいうまでもない。だが、日本共産党は、メーデー事件、吹田事件などへの騒擾罪適用ならびに破防法制定という国家権力の弾圧と恫喝をまえに動揺し、五二年七月一五日付の徳田論文を転機に右翼的後退を開始したのであった。
 五四年一月のいわゆる一・一論文(敵は優勢、味方は劣勢)なるものは、五〇年〜五二年の軍事方針をただ右翼的に総括し、転換を確定したものであったが、こうした右翼的敗走は、五三年〜五五年に到来した吉田政府の破局、朝鮮戦争ブームの終末にもとづく大不況の到来という日本帝国主義の内外する危機を攻撃的に迎えうつ任務を放棄し、日本帝国主義がMSA協定――保守合同の再編成をおこなう余裕を与える役割をはたすものとなったのであった。まさに、日本帝国主義は、五二年の占領終了から五四年のMSA協定をへて五五年の保守合同にいたる過渡的危機を、日共の「左」右の混乱と合法主義的後退に支えられて、かろうじてのりきることに成功したのであった。しかも、六全協(五五年七月)後、日本共産党指導部を官僚的に掌握した宮本は、五〇年〜五四年という決定的危機のなかで、愚にもつかぬ文芸評論を書いて合法主義的生活にひたりきっていたことを棚にあげて、五〇年〜五二年のたたかいを極左冒険主義となで切り、軍事方針への右翼的批判を組織して党の合法主義路線を構造的に締結し、日本帝国主義への屈服を深めたのであった。
 かくして、五三年十月の池田・ロバートソン会談での自衛力漸増についての合意をもとに、MSA協定(五四年三月八日)を確定した日本帝国主義は、一方では、太平洋における多角的集団安保体制の主軸として日米安保同盟を積極的にうちだすとともに、他方では、防衛庁設置法、自衛隊法の防衛二法(五四年六月九日)、MSA秘密保護法(同年六月九日)、教育二法(同年六月三日)、新警察法(同年六月八日)などの反動立法をつぎつぎと制定し、それらは刑特法、破防法、労働法などと結合して、日米安保同盟政策を法制的に保障する国内反動化のテコとなったのであった。
 五五年を起点とする日本経済のいわゆる高度成長は、こうした政治的状況を背景に、日本帝国主義の重化学工業化への道を達成させていく過程となったが、それは同時に、「地域防衛の第一次的責務は、直接関係ある同盟国にまかされねばならない。ドイツと日本の再軍備は促進されねばならない。同盟国においては米軍をもっともよく補完する軍隊を育成するため軍事援助が効果的に利用されねばならない」(五三年十二月――ウイルソン国務長官に提出された統合参謀本部の長期計画)というアメリカ帝国主義の期待にそって日本再軍備を遂行していくうえでの経済的基礎を保障していくものでもあった。
 いわゆるジュネーブ協定(五四年七月二〇日)にもとづくアジア危機のジュネーブ的解決(ヤルタ協定のアジア版)と、それにたいするスターリン主義陣営の裏切り的賛美(いわゆる雪どけ論、中国の平和五原則など)のなかで、アメリカ帝国主義とその同盟国日本は、四九年以来の帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機をかろうじて脱出したのであるが、こうした情勢のもとで、吉田政府にかわって日本帝国主義の政治委員会を掌握した鳩山政府は、すでにみたように多角的な集団安保体制の攻撃ならびに憲法改悪の策動を着々と進めながら、同時に、五四年十二月のモロトフ外相声明を皮切りに日ソ交渉を開始し、五六年十月には日ソ共同宣言の締結にまでこぎつけたのであった。
 こうした鳩山政府の「二面的な」政策にたいし、既成左翼政党は、前者の側面を反動的なものとして批判しながらも、後者の側面にかんして進歩的なものとして支持するという二重的対応をもってこたえ、日ソ復交の動向を日本中立化への前進として美化したのであった。だが、それは、事実を転倒した評価であって、問題は、六〇年にむかっての日本帝国主義の反動的飛躍のための環境整備ともいうべきものにたいし、ソ連が「社会主義」の名のもとに協商的承認を与えたという点にあったのであった。ソ連政府のこうした政策的対応は、一国社会主義理論とそれにもとづく平和共存政策をテコとした帝国主義戦後世界体制への改良主義的協商の過程であり、客観的には、日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策のあらたな展開を補完するものでしかなかったのである。
 事実、日本帝国主義は、ジュネーブ協定、日ソ復交をめぐる雪どけムードの背後で、アメリカ帝国主義との同盟政策を基調としてMSA協定を締結し、日本再軍備の道を着々とおしすすめると同時に、多角的な個別的集団安保条約機構ともいうべき太平洋アジア軍事ブロックの基軸という日米同盟を登場させ、六〇年安保改定への道ならしをはじめていたのであった。
 すでに、サンフランシスコ対日平和会議に前後する時期に、アメリカ帝国主義は、比米相互防衛条約(五一年八月)、太平洋安保条約=米・豪・ニュージーランド間アンザス条約(五一年九月)を締結していたが、ジュネーブ協定を前後していっそう拡大し、米韓相互防衛条約(五三年十月)、東南アジア条約機構=米、英、仏、豪、ニュージーランド、比、パキスタンのSEATO(五四年九月)、米台相互防衛条約(五五年二月)を締結するにいたり、さらには、米・日・台・韓の東北アジア条約機構への構想を強めていたのであった。沖縄は、米比、米韓、米台、アンザスの共同防衛区域として、こうした多角的な個別的な集団安保や体制の複合点をなすものであり、もし日米安保条約が沖縄を適用区域とするならば、各個別的防衛条約は沖縄において連動するようになり、事実上の太平洋条約機構(PATO)が成立する構造になっているのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策の六〇年への飛躍を決定づけたのは、いうまでもなく、五七年六月の岸首相の渡米であり、「日米新時代」をうちだした岸首相・アイゼンハワー大統領間の日米共同声明であった。日ソ復交を花道に引退した鳩山首相にかわって(短期間の石橋内閣をはさんで)五七年二月に政権を担当した岸政府は、前述の「日米共同声明」(五七年六月)、「日米安保条約と国連憲章との関係に関する藤山外相とマッカーサー大使の交換公文」(同年九月)を基礎に、日米安保条約の改定にかんする日米交渉を本格的に開始し、五八年九月一二日の藤山・ダレス共同声明をもってつぎのような改定の方向を確定していったのであった。
 すなわち、改定の要項は、(1)アメリカの日本防衛援助義務の明確化、(2)日本の義務は憲法の範囲内とすること、(3)在日米軍の配置および装備の重要な変更ならびに、日本の設備および区域の作戦的目的への使用は事前協議事項とすること、の三点であった。
 かくして、日本帝国主義とその政治委員会としての岸政府は、一方では、教育労働者への勤評攻撃(五七年――五八年)、警職法改正(五八年十月――十二月)、第一次防衛力整備計画(五六年――六〇年)、防衛二法改正(五八年五月)、さらには憲法調査会の発足(五七年八月)など、国内支配体制の反動化をおしすすめるとともに、他方では、安保改定にむかっての日米交渉を推進したのであった。それは、朝鮮戦争の特需ブームをテコにして経済的再建の基礎を固めた日本帝国主義が、アメリカ帝国主義のアジア軍事支配と世界ドル支配を前提的与件としながら、五五年以来の熱病的な重化学工業化をもって国内市場の膨脹をはかり、さらには、このような経済的発展を基礎にして、日米同盟関係を日帝にとっていっそう積極的なものに飛躍させようとするものであり、侵略と暗黒政治にむかっての内外態勢を準備するものであったといえるであろう。
 このような日本帝国主義の日米安保同盟政策の「侵略と抑圧の道」にむかっての積極的反動化の攻撃にたいし、日本の労働者階級=人民大衆が、戦後日本階級闘争の過程を画する政治的高揚をもって反撃にたちあがったことはいうまでもなかった。だが、六〇年のたたかいは、民衆の自然発生的なたちあがりにかんするいくたの経験と教訓とを歴史に刻みつけながらも、総体として民衆の高揚を「平和と民主主義の路線」のもとに民族主義的、合法主義的に統制する既成左翼指導部の裏切りと、これを突破して六〇年安保闘争の革命的発展を志向する革命的左翼の未成熟とを主体的根拠として、敗北のうちに終ったのであった。だが、六〇年安保闘争は、敗北という厳しい経験をとおして、日本帝国主義の日米安保同盟政策を根底的に粉砕するためには、いかなる革命的戦略と革命的組織が必要であるかを日本労働者階級=人民大衆に教えたのであった。
 社会党、共産党など既成左翼指導部は安保敗北の現実を厳しく反省することなく、安保闘争の偉大な高揚によって安保条約は死文化した、などという愚劣な総括をもって勝利を謳歌したのであったが、真実はまさに逆であって、この六〇年の安保改定を転機に日本帝国主義は、日米安保同盟を基軸とした帝国主義アジア支配体制の再構築にむかって本格的な取り組みを開始したのであった。もちろん、民衆の怨嗟のこえのなかで退陣した岸にかわって政治委員会の中枢を掌握した池田政府は、「寛容と忍耐」という欺瞞的スローガンをかかげて反体制運動との正面衝突を避けながら、所得の倍増政策の名のもとに矛盾の経済的収拾をはかったのであった。
 だが、こうした迂回的攻撃は、六二年を転機とする日本経済の高度成長過程の終末とともに、そのための存立的条件は消滅し、かわって階級対階級間の厳しい対決の時代へとただちに移行したのであったが、社共など既成左翼指導部が積極的な対応力を喪失しているかぎりでは、さしあたってそれは、支配階級の側からの一面的な攻撃の激化として現象したのであった。
 ところで、六〇年に民衆の激しい批判のこえをふみにじって成立した新安保条約は、基本的にはいかなる性格と役割をもつものであったであろうか。まず、法制的側面から検討すると、つぎのような構造になっている。
 すなわち、旧条約においては、(1)防衛力増強の義務(前文およびMSA協定第八条)、(2)米軍駐留とそれへの無制限な基地供与、ならびに、それらの「極東における国際の平和および安全の維持」のための使用の二点に強い批判が集中したのであったが、それらをそれぞれ、(1)を第三条、(2)を第六条として継承し、あらたに(3)相互防衛義務(第五条)、(4)政治上、経済上の協力関係の明確化(第二条)を加えたものを骨子としているのである。
 また、最近問題化している事前協議事項は、第六条にかんする交換公文として規定されたもので、具体的には、(1)米軍の配置の重要な変更、(2)米軍の装備の重要な変更、(3)日本防衛以外の目的のための戦闘作戦行動の基地に日本の施設、区域を使用することの三事項にかんしては、日米政府間の協議事項とするというものであったが、その内実は、第六条にたいする批判をかわすための民心慰撫的なものであり、事実、今日まで一度として拒否の方向に機能したことがなかったものである。
 つぎに、新安保条約の政治的、経済的特徴についてみると、旧条約の無制限な基地供与条約としての性格を継承しながらも、あらたに米軍と自衛隊との共同作戦を義務規定として加えることによって、帝国主義国家間の侵略的、強盗的同盟としての役割をいっそう明確なものにしたいという点にあるといえよう。安保条約は死文化するどころか、日本帝国主義の基本的世界政策としての日米安保同盟政策を法制的に確定するものとして、日本の内外の進路を決定していったのであった。
 当時、アメリカ帝国主義は、アイク=ダレス時代の即時大量報復戦略の破綻を補強するために、ケネディのいわゆる柔軟反応戦略を具体的に模索しているときであったが、日本帝国主義の日米安保同盟政策の展開も、このような米世界戦略に対応して、アジアの帝国主義支配秩序の反動的再確立の支柱としての役割を積極的にはたそうとするものであった。もともと、アメリカ帝国主義は、五〇年代における世界支配政策の基軸を対ソ軍事制圧戦略と、それをテコとした西欧帝国主義との同盟的支配政策の維持のうえに設定してきたのであったが、それは六〇年を前後して大きな変動をこうむることになったのである。
 すなわち、一方におけるEECの登場にもとづくアメリカの西欧支配力の後退と、他方における南朝鮮、南ベトナムなど反共軍事基地国家の支配政策の破綻を基軸とした帝国主義アジア支配体制のあらたな動揺と、そして、この両者を背景としたスターリン主義陣営の内部対立と分極化という複雑な情勢の到来であった。ケネディのいわゆる柔軟反応戦略も、対米軍事制圧戦略を前提としながらも、局地戦の形態をもって深刻化する非在来型戦争や、階級闘争の激化を基調として進展する世界支配政策の破綻にたいし一つひとつ具体的に対処する必要から生じたものであり、いわばヤルタ協定的な支配体制の動揺を補完するための応急措置の体系化とでもいうべきものであった。したがってまた、日本にたいするアメリカ帝国主義の期待も、再軍備=自主防衛力の増強を望み、かつまた、アメリカ帝国主義のアジア支配の超軍事的性格を経済的に補完する方向を期待しながらも、同時に、日本そのものの同盟国としての確保をはかる、という意味で、それ自身が応急措置的なものであったが、しかし、それは、日本人民にとっては激しい反動攻撃の到来として集約されざるをえないところのものであった。
 安保改定後の日本帝国主義の第一の攻撃をなしたものは、独占資本の高蓄積と、その危機の打開のための財政政策の積極的な展開であった。
 周知のように、六〇年七月に岸にかわって政権の座についた池田首相は、一方では、寛容と忍耐のスローガンのもとに政治支配体制の動揺を平静化する努力をつづけながら、他方では、所得倍増の美名にかくれて独占資本中心の高蓄積と産業構造の底辺切り捨て的な近代化政策を推進したのであった。いわゆる高度成長政策の最後の熱病的な景気のなかで、日本帝国主義とその政治委員会としての池田政府は、中小企業、零細企業、農業、斜陽産業などの冷酷きわまる没落と崩壊をみせかけの繁栄感でカバーしながら、独占資本中心の発展をあたかも全国民的な経済発展のごとくみせかけていったのであった。二重構造解消の呼びごえは、じつは、斜陽産業、底辺切り捨て政策以外のなにものでもなかったのである。
 六二年を画期とする高度成長過程の終末は、一方では、五五年以来の熱病的蓄積がもたらした矛盾を深刻化するとともに、他方では、このような矛盾とその犠牲を弱小企業、零細商工業者、労働者などに転嫁する動きをいっそう強めるものとなったのはいうまでもないのである。かくして独占資本は、資本の集中、合併、整理と、それを基礎とした合理化、首切り、搾取強化をすすめるとともに、尨大な国家資金の独占救済的投入と大衆収奪の攻撃を徹底的に遂行したのであった。それは、日本経済の累積した矛盾、すなわち資本の絶対的過剰生産を直接に恐慌として爆発させずに、矛盾の他者への犠牲転嫁のための独占的機構と、その一環としての国家の人為的市場創出による特定産業の救済の二機構をとおして矛盾を迂回的に解消していく過程であったといえるが、こうした資本の過剰の迂回的整理の過程は、一方では、過剰資本の整理をきわめて不徹底なものにし、独占資本の過当競争を構造化するとともに、他方では、犠牲転嫁の過程をとおして直接に労働者人民の生活を破壊していくばかりか、矛盾の迂回的発現としての物価問題、都市問題を深刻化し、生活の立地条件を困窮化することによって、階級闘争の存立基盤をいちじるしく厳しいものにしたのであった。
 このような日本帝国主義の体制的危機の深まりは、さしあたって、既成左翼の屈服を主体的根拠として労働組合運動の右翼的後退として現象したのであったが、にもかかわらず、それは、既成左翼の指導性のうちに包括されえない地点において、階級闘争のあらたな激動の条件をいっそう成熟させたのである。
 安保改定後の日本帝国主義の第二の攻撃をなしたものは、東南アジアにむかっての新植民地主義的膨脹の積極的展開であった。
 すでに第一節で検討したように、日本帝国主義は、第二次大戦で敗北した結果、従来の植民地を喪失したこともあって、戦後の再建と発展の過程を――アメリカ帝国主義の特殊な金融的援助のもとであったが――国内市場の膨脹に徹底的に依拠しておこなってきたのであったが、日本経済の戦後成長過程の終末は、資本の慢性的過剰状態を生みだすとともに、その過剰資本の整理と、独自の原料市場の形成を求めてふたたび海外膨脹の衝動を本格的に強めたのであった。
 かくして、日本帝国主義は、アメリカ帝国主義のアジア支配を不可欠の前提条件としながらも、同時に、その超軍事的な支配構造を補完するものとして東南アジアへの積極的な膨脹を開始したのであった。それは、本質的には、戦前の番犬的帝国主義としての役割を復活する過程であったといえようが、にもかかわらず、それは、アジア情勢の戦後的条件に根底的に規定されたものとしていっそう弱体化された異常な形態をもったのであった。
 すなわち、日本帝国主義の東南アジアへの膨脹は、第一には、アメリカの超軍事的な支配を絶対的な存立条件とし、その内部において、米帝はじめ諸列強と経済的な市場分割を競うものであること、第二には、東南アジア諸国の各政府の存在(それらは、すべて米帝および英帝の軍事的経済的なバック・アップによって成立しているのであるが)を認め、それとの協力を推進する政策的立場を前提としてはじめて可能となることである。こうした形態変化は、いわゆる後進国経済援助や長期信用供与など国家的次元での政策の展開と結びついていることからも明らかのように、けっして帝国主義の死滅を意味するものではなく、また、その反対に帝国主義の支配の圧倒性を約束するものでもなく、古典的な植民地支配体制の崩壊に具体的に対処する過程としてとらえかえさなければならないものであろう。六五年に締結された日韓条約を突破口とする南朝鮮への日帝の膨張は、このような戦後アジアにたいする日本の反動的対応を積極的に示すものであった。
 周知のように、日本は、敗戦の日まで朝鮮を三六年間にわたって植民地支配をつづけたばかりか、いわゆる皇民化政策をテコとして朝鮮民族の言語、風俗、習慣、歴史までをもいっさいまっ殺しようとし、また、戦後においても在日朝鮮人にたいして差別と抑圧をほしいままにしてきたのであったが、いまや、日本帝国主義が、アメリカ帝国主義との同盟政策を基礎としてふたたびアジア侵略の歴史を開始しようとするとき、最初の犠牲者として選ばれたのが朝鮮であった。六四年に病気で引退した池田にかわって政権を掌握した佐藤政府は、日韓会談を隣国との友好回復の道″として、その新植民地主義的本質を隠蔽しようとしたが、にもかかわらず、日本の南朝鮮への膨脹政策の本質は、有償二億ドル、無償三億ドルの国家経済援助、民間借款五億ドルを水路として朝鮮をふたたび日本の勢力圏内に包摂しようとするものであったし、事実、朴政権の反日的ポーズにもかかわらず、今日の南朝鮮は、アメリカ帝国主義と日本帝国主義の強盗的分割のまえにじゅうりんされようとしているのである。
 安保改定後の日本帝国主義の第三の攻撃をなしたものは、日本帝国主義の独自の軍事力強化の政策の展開であった。
 日本帝国主義の戦前の天皇制ボナパルティズムを最後の一点で支えていたものは、大日本帝国陸軍の強大な暴力機構であったが、第二次大戦における敗戦とその戦後処理の過程をとおして陸軍を中核とする日本軍は完全に壊滅し、日本国家の統治機構は軍隊という決定的な暴力装置を欠如したまま戦後的延命の道をあゆんだのであった。このような日本帝国主義の弱体化された復活は、アメリカ帝国主義の超軍事的な世界支配を存立条件とするかぎりにおいては、むしろ、資本を生産的資本部門に集中的に投入しうるという意味で戦後的膨脹過程をいっそう有利なものにしたのであった。朝鮮戦争の勃発にもとづく在日米軍の朝鮮移動と、日本の軍事的空白化の到来という異常な条件のもとで、応急措置的な日本再軍備の試みが開始され、五四年のMSA協定の締結によって本格的な段階に移行したのであったが、にもかかわらず、それはつぎの諸条件に規定されていくたの脆弱性をかかえていたのであった。
 その第一の原因は、いうまでもなく、日本労働者階級=人民大衆の根強い再軍備反対のたたかいであったが、それは、日本再軍備が憲法第九条に公然と抵触することに示されているように、まったく法制的な整合性を欠如したものだという事情も複合して、いっそう強力な規制的役割をなしたのであった。
 もともと軍隊の強力性は、国家、国民の生命、財産の維持を任務としながらも、それを基礎として国家、国民の威信の発揚という幻想的共同性をかりたてるところにあるのであるが、わが国においては、自衛隊が日米政府の特定の政策推進のための手段であることがあまりにも露骨に暴露されているために、国民の幻想的共同性をかりたてるテコとしては、多くの問題性をもたざるをえなかったのであった。しかし、問題は、このような階級闘争的条件に規定されていただけではなかったのである。
 すなわち、日本帝国主義は、一方では、帝国主義軍隊の独自的な形成の必要を認め、そのための努力をつづけながらも、他方では、自己の軍事的脆弱性を積極的に補完する手段として日米安保同盟を位置づけ、それを存立条件として重化学工業化の道をきわめて経済的に追求するというエコノミック・アニマル的な行き方を選んでいたのであり、このような矛盾した日帝の態度こそ、日本再軍備の弱さの第二の決定的要因であった。
 しかしながら、六二年以来の内外情勢の緊迫化は、日本帝国主義の従来の軍事政策を根底的にゆさぶり、その反動的強化を火急の課題におし上げたのであった。その第一は、六〇年以来の帝国主義アジア支配体制の永続的動揺であり、その第二は、日本経済の高度成長の終末にもとづく軍需生産への衝動の異常な強まりにあった。まさに、日本帝国主義は、一方では、独占資本の政策的救済のためのテコとして自衛隊と軍需生産の強化要請の増大という内因によって、他方では、帝国主義アジア支配体制の永続的動揺に対抗し、日本の海外権益の防衛の必要という外因によって、自衛隊の帝国主義軍隊としての本格的強化にとりくまざるをえなくなったのである。
 もちろん、このような自衛力増強の努力は、日本帝国主義の排他的発展を単純に意味するものではなく、日米共同作戦の一環として米帝のアジア支配の破綻を補強する役割を担うものとして育成されてきたのであり、その目標は、徹頭徹尾、アジアと日本の人民の革命的反乱の鎮圧にむけられているのである。自衛隊は、今日では、戦前の大日本帝国軍隊の平常時の兵員数とほぼ同数の三〇万に達しようとしているのであり、中、ソを別とすれば「陸上兵力では劣るが、海空においては兵力量、装備の近代化という質量両面において抜群の力を保有」(朝日市民教室 日本の自衛力』)しているのであるが、その総体が自国の人民にたいして敵対するものとして日夜訓練を受けているのである。
 自衛隊法によると、いわゆる治安出動は、(1)総理大臣が「間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持することが出来ないと認められる場合」(第七八条=命令による治安出動)、(2)知事が「治安維持上重大な事態につきやむを得ない必要があると認める場合」(第八一条=要請による治安出動)におこなわれることになっているが、それは自衛隊が警察と一体となって人民の革命的行動にたいし暴力的襲撃を加えようとするものであり、帝国主義軍隊の究極目標をもっとも鋭く示すものといえるであろう。
 安保改定後の日本帝国主義の第四の攻撃をなしたものは、国内政治支配体制の反動的強化の攻撃である。六六年に発表された自民党安保調査会の第一次報告は、「わが国は日米安保条約の存在により他国から直接の軍事的挑戦を受けるような恐れは少ない」が、「外部からの脅威が国内の一部の政治勢力と結びつき、国内世論の分裂、友邦との離間、政府と国民、および国民諸階層間の離反をはかるなど、あらゆる手段を謀略的に使用して行なわれる思想的・心理的滲透工作はもっとも警戒さるべきものである」と指摘しているのであるが、このような間接侵略の論理は、国内治安秩序の維持のために軍隊をふくめた全暴力装置を動員するためのイデオロギー的媒介項をなすものであるといえよう。
 じつに、日本帝国主義は、六〇年安保以後、その主要な関心を国内治安体制の整備に設定してきたのである。その第一の動きは、いうまでもなく、社共既成左翼勢力の骨抜きと体制内化の促進であった。その第二は、既成の政治支配機構の強化、すなわち、立法過程(議会)の形式化であり、内閣および行政機構の絶対的権限強化であり、司法制度の反動的再編成であるが、こうした議会、内閣、裁判所の反動化は、個々別々の攻撃ではなくして、日本帝国主義の危機の時代への移行に対処する政治支配体制を構築しょうとする一貫した三位一体的な攻撃であった。もちろん、こうした攻撃は、日韓会談を転機として本格的に進行するのであり、また、事実の問題として、それは意味のあることなのであるが、同時に、われわれは、このような政治反動が基本的には、池田内閣の時代に設定されたプログラムにそって再開されるという構造をなしていることについて注目しなければならないのである。すなわち、憲法調査会答申をはじめ臨時行政調査会意見書(六四年九月)、臨時行政改革閣僚協議会(六四年八月発足)、改正刑法準備草案(六一年十二月)、臨時司法制度調査会意見書(六四年八月)などの重要提案は、すべて六四年頃に確定しており、それにそって政治反動が進行しているのである。その第三の動きは、自衛隊の軍事力を中枢にすえながらも、さしあたって警察力の強化を焦点とする治安弾圧機構の飛躍的な強化であった。まさに、日本帝国主義は、六〇年安保の教訓として七〇年安保にむかっての侵略と反動の道にたいする人民の抵抗を未然のうちに制圧する体制を着々と準備していたのであった。
 日韓条約の締結を突破口とした東南アジアへの本格的な膨脹の開始と、ベトナム侵略戦争の激化を基軸とした帝国主義アジア支配体制の反動的再構築の進行のなかで、日本帝国主義の七〇年安保にむかっての始動は力強く開始され、それにそって攻撃の諸相もいっそうの激しさを増したのであった。まさに、日韓条約は、戦後日本帝国主義の「敗戦帝国主義」から「植民地問題を内包した侵略帝国主義」への転化を内外に示したものであったが、それゆえまた、それは同時に、米韓、米台、米比、アンザスなどの個別的な防衛条約と日米安保条約を横断的に結びつけるものとして、太平洋アジア地域集団安保体制の構築の決定的な足がかりをなすものであった。まさに、日米安保同盟は、日韓条約を連鎖とすることによって、名実ともに帝国主義アジア支配体制の反動的枢軸として登場することになったのである。アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争を基軸としたアジア総参戦国化の攻撃は、同時に、帝国主義アジア支配体制の再構築の過程そのものであったのであるが、日本帝国主義はこのようなアジア情勢の新展開のなかで、アメリカ――日本――参戦国の中継点をなすべく積極的なアジア政策を始動しはじめたのであった。
 佐藤政府は、六六年六月のソウル会議を出発点として、南ベトナム、南朝鮮、台湾、フィリッピン、タイ、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、日本などのベトナム参戦国、反共国家を横断するASPAC会議(アジア太平洋協議会)を形成し、その主導権を掌握するとともに、六七年秋には、南ベトナム訪問を頂点とする佐藤首相のアジア歴訪を設定し、その成果をひっさげて同年十一月には訪米し、七〇年安保の基本構想の足がためをおこなうために着々と準備をすすめていたのであった。
 日本帝国主義は、既成左翼を主軸とする安保反対勢力のたたかわざる敗北をみてとり、日本の参戦国化に核武装、全土基地化の政治的臨戦態勢化にむかっての暗黒のあゆみを強めようとしていたのであった。だが、日本帝国主義のこのような侵略と暗黒政治の道にたいし、決定的地点において打撃を加え、アジア情勢の局面を転換する火柱をなしたものこそ、十月八日羽田弁天橋のたたかいを頂点とした佐藤訪ベト阻止の勝利的闘争であった。このたたかいは、七〇年にむかって佐藤政府の出発点に顔面炸裂のパンチを加え、七〇年安保をめぐる政治局面を一変する社会的衝撃を歴史に刻みつけたのであったが、同時に、それは、日本帝国主義の日米安保同盟政策を存立せしめてきた世界史的条件の動揺と、世界史的激動の時代の到来を告げ知らせる歴史的序曲を意味しているのであった。
 
 第二章 歴史的選択としての七〇年安保闘争
 
 第一節 日米安保同盟政策を規定する諸条件の世界史的動揺
 
 すでにみてきたように、戦後日本帝国主義の日米安保同盟政策は、帝国主義世界編成の戦後的危機性に根底的に規定されながらも、さしあたっては、アメリカ帝国主義の圧倒的な経済的=軍事的優位性を基礎とした世界支配政策の展開を前提的与件として、その一翼を積極的に担うことをとおして戦後の再建と発展を達成しようというものであり、日本帝国主義の基本的世界政策をなすものであった。だが、ドル危機とベトナム危機を焦点とする現代世界の激動化は、日米安保同盟政策を基軸とした日本帝国主義の基本的世界政策をして解決困難な局面のうちにひきこみはじめているのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策を根底的に困難ならしめている第一の要因は、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の根本的動揺のいっそうの深まりである。
 前章でみたように、第二次世界大戦は、二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック化=各国帝国主義の破局的危機という帝国主義の世界史的矛盾が、世界支配権の再分割をめぐって暴力的、けいれん的に爆発したものであり、この軍事過程のうちにソ連をも暴力的に包摂するものとして展開したのであったが、にもかかわらず、第二次世界大戦をとおして進行した世界の暴力的再編は、二九年恐慌をもたらした帝国主義世界編成の構造的矛盾ならびに、二九年恐慌のもたらした世界経済のブロック化=帝国主義世界編成の解体的危機とを解決するものとはならず、むしろ、その構造的矛盾と解体的危機とをいっそう深めるものとなった。
 もちろん、国際帝国主義は、いわゆるヤルタ協定を基礎として東ヨーロッパのソ連圏への包摂を代償に帝国主義基幹部の体制的延命を確保するとともに、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制を形成し、二九年恐慌から第二次大戦にいたる帝国主義的矛盾の大爆発からの積極的脱出をはかろうとした。ブレトンウッズ協定を基調としたドル・ポンド国際通貨制度の確立と、マーシャル・プランをテコとした帝国主義軍事ブロック=いわゆる集団安全保障体制の形成こそ、帝国主義戦後世界体制を維持する両軸であった。とりわけ、IMF(世界通貨基金)の世界銀行を制度的保障とする戦後国際通貨制度は、二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック化という帝国主義の三〇年代的矛盾を基本的に解決するかのように機能したのであった。だが、帝国主義世界経済の「統一性の戦後的回復」なるものは、ドル・ポンド国際通貨制度という呼称からも明白なように、世界経済ブロック化、すなわち帝国主義世界市場編成の有機的統一性の解体、という二九年恐慌以後的規定性を解決するものではなく、アメリカ帝国主義への富と生産力の圧倒的偏在というきわめて異常な事態を前提条件として可能であった人為的ドル撒布政策をもって、「世界経済の統一性」を擬制的に回復させたものにすぎなかったのである。
 したがって、EEC台頭という形態をとって進行したヨーロッパ帝国主義の復活・膨脹と、それにもとづくアメリカ帝国主義の地位の相対的低下は、EECとアメリカとの厳しい市場分割戦をひきおこすとともに、ドル危機という表現をもって戦後国際通貨制度に内在する根底的矛盾を暴露したのであった。いわば、世界の富と生産力のアメリカ帝国主義への圧倒的偏在という異常性に支えられて成立した帝国主義戦後世界体制は、欧米間均衡の「正常化」傾向ともいうべきものによって、かえって根本的動揺に直面することになった。だが、この世界史的事実は、もちろん、世界経済の有機的統一性の回復を意味するものではなく、またアメリカ――ヨーロッパ――アジアの三ブロックに帝国主義世界編成が三分割されるであろう、という「ポスト・ベトナム論」的予測に根拠を与えるものでもなく、まさに、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の深まりのなかでブロック経済への全面的復帰はならず、さりとて、米帝にかわって世界支配政策を展開しうる帝国主義が存在しうるはずもない――という現代帝国主義の世界史的ジレンマのあらわれなのである。
 すでにこの間いくども指摘してきたように、フランス帝国主義の国際通貨制度をめぐる米帝への挑戦なるものは、五月革命の過程ではしなくも暴露されたように、国内支配政策の強化を目的としたイデオロギー的性格の濃厚なものであった。また、西ドイツ帝国主義の台頭なるものにしても、欧米諸国のデフレ政策的な景気後退の傾向と、とりわけ、フランス帝国主義の五月危機という特殊な環境のなかで、大連立と非常事態法という危機的な国内政策の展開をもって達成されたものであり、台頭の条件そのものがきわめて危機的なものである。したがって、その矛盾は、必然的に、戦後ヨーロッパのヤルタ体制的秩序と、西ドイツ金融市場の対米依存性とに規定されることによって東方政策の強化の方向にむかわざるをえないのである。ドル・ポンドという基軸通貨危機として深刻化した帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、フラン・マルク・円などふくむ国際通貨制度全体の危機として、西ドイツ、フランス、イタリア、日本などの二流帝国主義の命運のうえにより深刻な没落の影をなげかけるとともに、他方、アメリカ帝国主義を基軸とする帝国主義的集団安保体制の動揺と、その反動的再編成をめぐる危機的過程を不可避としているのである。日本帝国主義は、ドル・ポンド国際通貨制度および、それにもとづく帝国主義的集団安保体制の根底的動揺という世界史的事態をまえに、その基本的世界政策として日米安保同盟政策の再検討を七〇年問題としてとりあつかわねばならないのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策を根底的に困難ならしめている第二の要因は、アメリカ帝国主義のベトナム敗勢を導火線とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の深まりである。
 ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の軍事的=政治的敗勢は、もはや、なんぴとにとっても疑う余地のないものとなった。世界の専制君主としてアジアに君臨してきたアメリカ帝国主義は、ベトナム人民の英雄的抵抗闘争の発展、これと呼応した国際的反戦闘争の高まりの方向、そして国際通貨危機として進行する帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の深まりのまえに、史上最初の敗北の危機に直面しているのである。
 すでに六八年三月三一日、ジョンソン大統領の特別声明というかたちをとってベトナム侵略戦争の行きづまりを自己暴露したアメリカ帝国主義は、北爆の欺瞞的停止を代償として北ベトナム政府を和平交渉のテーブルにひきだし、ソ連スターリン主義官僚の援助のもとに再度のジュネーブ会談的解決をもって南ベトナムに米帝の支配権を維持し、あわせて、戦争遂行にもとづく軍事的=経済的負担を軽減しようとする野望を示したものである。だが、六八年四月以来の一ヵ年におよぶ情勢の推移は、米帝の強盗的野望をみごとにうちやぶり、ベトナム全域からの米帝の敗退という深刻な事態まで具体的日程表にのぼらせはじめているのである。しかも、アメリカ帝国主義のベトナム支配の破綻は、南朝鮮、タイ、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア、パキスタン、ビルマ、インドなどアジア諸国全体にあらたな国内的動揺の深刻化として波及しようとしており、アジアにおける帝国主義支配体制の全面的崩壊の危機すら醸成させはじめているのである。
 帝国主義ブルジョアジーの「平和主義的」翼と、それに屈服した左翼的空論家たちは、ジョンソン声明のあと「ポスト・ベトナム」にかんする虚妄な討論を開始したが、かれらがどんな夢物語を幻想しようとも「米帝のベトナム敗退」のあとにアジアの帝国主義的平和を想定することはまったく無意味である。「ポスト・ベトナム」は、アジアにおける帝国主義支配体制の全面的崩壊のはじまりを意味しているのである。
 革共同第三回大会報告において規定したように、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争は、まずもってアジアにおける半植民地=後進国支配体制の崩壊的危機にたいする帝国主義戦後世界体制の命運をかけた侵略戦争であるが、それは同時に、@ベトナム侵略戦争をテコとしてアメリカ帝国主義の専制的地位を他の帝国主義列強に強制し、A中ソをはじめとするスターリン主義陣営の対応の無力さをあばきだし、Bかくして、ベトナム参戦国化を基軸にアジア半植民地=後進国支配体制の暴力的再編成を達成し、インド・中近東・中南米における巨大な植民地主義的収奪の権益を維持しようとするものであった。だが、ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の敗退的危機の深刻化は、ベトナム侵略戦争を特徴づけていた諸条件そのものの喪失を意味せざるをえないのである。いまや、ベトナム侵略戦争は、帝国主義戦後世界体制の矛盾の爆発点であるとともに、より破局的な矛盾の爆発にむかっての導火線としての性格をますます色こくしはじめているのである。
 アメリカ帝国主義の元駐日大使ライシャワーは、『日米関係の新局面』(六九年一月一日)という論文において、アジア政策の日米関係の関連性にかんしてつぎのように指摘している。
  「ベトナムから手をひくことはきわめて困難な過程である。もしハノイとベトコンが、合理的な解決をしぶるようであったら、とくに困難になる。しかし、比較的早くその解決を達成しなければ、アメリカも世界もいっそう大きな問題に直面しなければならないことを、ニクソン大統領は承知していると思われる。もし一九六九年の末までに戦争の終結に向って目にみえる進歩が達成されなかったら、アメリカ国内で重大な混乱が起るかもしれない。また一九七二年までに戦争が実質的に中止されていなかったら、ニクソン大統領の再選の見通しは、ジョンソン大統領の場合と同じように暗いものになると思う。また戦争がさらに長期化すれば幾多の国々とアメリカの関係が耐えがたいほど緊張するだろうと考える。その点、日本との関係がもっともあてはまるだろう。もし一九七〇年にまだ戦争が全面的に継続していたならば、日米安保条約を極度に危くするだろう」
 アメリカ帝国主義の「ベトナム撤退」の道は、かくも困難な過程である。まさにベトナムからの米帝の敗退は、帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機を成熟させているだけでなしに、日米同盟そのものと、その実体としてのアメリカ――日本の両帝国主義の体制的危機を招来させずにおかないであろうことを、ライシャワー元大使は、はからずも告白してしまったのである。
 もともと、ロシア革命(一七年)およびドイツ革命(一八年)を典型とした戦後革命は、帝国主義のけいれん的矛盾の世界戦争としての暴力的爆発を世界史的条件としながらも、帝国主義戦争の総力戦的な重荷の具体的破綻を契機として「帝国主義戦争を内乱に転化」したものであるが、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争と、その破綻をめぐる解決困難な過程は、戦後革命的課題を特殊部分的構成をもって成熟せしめているのである。すなわち、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、世界経済の三〇年代的基底の問題、いいかえるならば、二九年恐慌とそれにもとづく帝国主義世界経済のブロック的解体として深刻化した帝国主義世界体制の三〇年代的崩壊過程へのラセン的回帰の問題のうちに、同時に恒常的な部分戦争の問題を包摂するものとして構造化させているのである。観念的左翼主義者や、懐疑的現実主義者たちがどのように主張しようとも、アメリカ帝国主義のベトナム政策の破綻と、その矛盾のより破局的な爆発への日米同盟を基軸とした日本帝国主義の包摂の過程は、アメリカ――日本の両帝国主義の体制的破局の条件を日に日に成熟させているのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策を根底的に困難ならしめている第三の要因は、日本帝国主義の戦後的経済過程のうみだした諸矛盾の深刻化と、それを条件とした日本帝国主義の体制的危機の深まりである。
 すでに述べたように、敗戦にもとづく旧植民地、海外権益の喪失、国内経済の大崩壊に直面した戦後日本帝国主義は、旧交戦国としての米帝を盟主とする帝国主義戦後世界体制に積極的に参加することをとおして、一方では、戦後世界、とりわけアジアにおける帝国主義的秩序の全面的動揺から自己の体制を軍事的=政治的に防衛する帝国主義的安全保障を確保するとともに、他方では、米帝を基軸とする世界経済の相対的に安定した発展過程に固く結合しつつ、戦後日本の特殊な経済的条件を基礎として、いわゆる重化学工業化にむかって高度成長を達成した。だが、新旧の独占体間の拡大的市場関係のもとで、「投資が投資を呼ぶ」という熱病的な設備投資競争を進行させた日本帝国主義は、異常な条件のもとでおこなわれた戦後的発展の諸矛盾を六二年以来の経済的危機として爆発させたのであった。もちろん、このような戦後日本経済の諸矛盾の深刻化は、当面、公債経済を基礎とする独占救済のための財政金融政策の全面的展開ならびに、ベトナム侵略戦争の急速な拡大を条件とした対米輸出の大幅な増大とを二つの要因として「六五年以来の第二の高度成長」の開始として粉飾されている。だが、この「第二の高度成長」なるものは、五五年――六二年の高度成長とは異なって、公債経済と対米輸出の増大という他律的な要因を基礎とするものであり、しかも設備投資競争戦の激烈な展開といわれるものも、かつての拡大的市場のもとでの流動的なシェア争いとは異なって、巨大独占体間の「将来の市場支配権」をめぐっての食うか食われるかの闘争を基礎とするものであり、成長の過熱性そのものが、近い将来における矛盾の爆発力をたかめる役割をはたしているにすぎないのである。
 かくして、表面上の楽観論の背後で、日本経済の諸矛盾の異常な深刻化に悩む日本帝国主義とその政治委員会は、市場の独占的支配をめざす巨大独占体間の合併への追認的指導を強めながら、独占救済=民衆収奪のための財政金融政策のいっそう積極的な展開をおしすすめはじめているが、その背後では六二年――六五年期の不況とは比較にならないような深刻な経済的危機が準備されているのである。実践面でも全自連メンシェビキの道をあゆむ山本派=カクマル派は、「すでに自由世界で第二位の生産力を保持するに至った日本帝国主義はアメリカ・西欧という二つの経済ブロックに対抗しうる第三の経済ブロックを近い将来において西太平洋に形成しうる状況にまで至っている」(六八年六月一五日付『解放』)などという驚くべき日帝賛美の評価をもって、理論的にも帝国主義に奉仕しているが、わがカクマルメンシェビキがどう考えようと、このような低水準な評価は、理論と現実の双方からの厳しい拒絶をもって報われることであろう。
 日本帝国主義の体制的危機を不可避化している基底的要因は、まさに、六二年以来の構造的不況と、それからの脱出過程が累積した諸矛盾の深刻化にあるが、それは、同時に、こうした経済過程の困難化を基礎とした日本階級闘争の平和的発展期の終末として、政治的には現象しているのである。いいかえるならば、五五年以来の伝統的な政治支配政策の破綻と、それを強権的に補修する政治的過程そのものがうみだす政治的=社会的矛盾の累積とが、日本帝国主義の体制的危機をいっそう深刻化せしめているともいえるのである。
 もともと、戦後日本帝国主義の政治支配政策は、安保堅持=「法と秩序」という党派的政策をのぞいては、国民全体を擬制的に統一するイデオロギー的主柱を欠如しており、それを代行するものとして「経済的大国」というきわめて経済主義的な幻想があるだけであった。
 五五年以来の伝統的な政治支配構造なるものも、経済過程の戦後的成長と、社共既成指導部の議会主義=合法主義の路線とを支柱として労働者階級と人民大衆のたたかいを議会制的秩序のもとに集約しようとする決定的に脆弱なものであったが、にもかかわらず、社共既成指導部の労働者支配が安定しているかぎりでは有効な支配体系として機能しえたのである。だが、日本帝国主義の経済的危機の深刻化は、既成左翼の伝統的基盤をなしていた労資関係の民同的秩序を掘りくずし、議会内にあっても自民党――社会党の一対半的な妥協体制を可能ならしめていた政策的選択の余裕を急激に喪失させるとともに、社会党=民同の翼下にあった巨大な民衆をして、資本と権力への全面的屈服の道か、それとも、資本と権力への徹底的反撃の道か、という政治的分岐点のまえに直面させたのである。かくして、日本帝国主義の経済的危機の深刻化と、そこから強権的に脱出しようとする攻撃の激化は、いわゆる五五年体制の崩壊を決定づけ、民間労組の全面的右傾化を不可避としたのであるが、それは同時に、十・八羽田以来の革命的左翼のたたかいの前進を主体的根拠として、議会主義的秩序のうちに集約しえぬ巨大な民衆的潮流をつくりだす過程に転化しはじめたのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策を根底的に困難ならしめている第四の要因は、日米同盟の犠牲と矛盾の集中点・沖縄におけるアメリカ帝国主義の分離的軍事支配の破綻の深まりと、それを補強するための日本帝国主義の「一体化政策」の反人民的性格の全面的露呈である。
 七〇年安保の再検討期をまえにして沖縄を訪問した佐藤首相は、現地県民の厳しい抗議と本土復帰の要求をまえにして「沖縄が返らないうちは戦後は終らない」という欺瞞的発言をおこなった。かつて五一年のサンフランシスコ対日平和会議において、日米安保同盟を誓いあう犠牲として沖縄の分離的軍事支配を積極的に承認した日本帝国主義は、いままた、七〇年安保堅持のための政策的ペテンとして沖縄問題をとりあげはじめたのである。すなわち、佐藤首相の意図するところのものは、沖縄のいわゆる施政権返還をテコとして、日米安保同盟を基軸とした帝国主義アジア支配体制の反動的構築という強盗的野望のもとに日本人民を結びつけ、あわせて沖縄における米帝支配の破綻を補強しようとするものであった。だが、教公二法粉砕闘争以来のたかまりゆく沖縄県民のたたかいは、十・八羽田以来の本土の激動と呼応しながら、米帝の沖縄支配の破綻をいっそう収拾しがたいものに拡大するとともに、佐藤政府の「一体化政策」のもつペテン的本質を赤裸々に暴露しているのである。
 もともと、アメリカ帝国主義による沖縄の分離的軍事支配は、第二次世界大戦の帝国主義的戦後処理の歴史的産物であった。すなわち、太平洋とアジアの支配権の暴力的再編成をめぐる日米間の帝国主義的衝突において日本が敗北した結果、アメリカ帝国主義は、ヤルタ協定とポツダム宣言を根拠とするスターリン主義陣営の積極的な支持のもとに、日本全土を軍事占領し、全一的支配をほしいままにしたのであるが、とくに、沖縄など特定の地域にかんしては、四六年一月の日本政府宛マッカーサー書簡をもって直接の軍政統治を施行したのであった。沖縄県民は、沖縄諸島を戦場とした本土決戦において、一人ひとりの敗戦記念日をもって敗戦を迎えて以来、四分の一世紀にわたって他民族帝国主義の軍事支配のもとに呻吟してきたのであるが、このような苦しみの根源をなすところのものは、いずれの側からも帝国主義的な太平洋戦争と、それのヤルタ協定を基軸とする帝国主義的戦後処理にあったのである。
 同時に、たとえ帝国主義戦争の戦後処理という特殊な事情があったとはいえ、他民族支配が二五年間も継続するという異常な事態を可能にしたものが、日本帝国主義の日米安保同盟政策と、それにもとづく米帝による沖縄への分離的軍事支配にたいする積極的支持であったことを、われわれは明確に直視しなくてはならないのである。戦後日本帝国主義の再建=発展のために、沖縄の土地と県民を米帝に供与したのである。日本政府の沖縄政策の売国的性格は、戦後日本帝国主義の直面した危機の世界史的深刻性に規定されたものなのである。
 かくして、百万沖縄県民は、当初は日本帝国主義の本土決戦政策の犠牲として、つぎには戦後日本帝国主義の日米同盟政策の犠牲として米帝支配のもとに包摂され、きわめてかたよった、しかも不安定な生活と無権利な状況を強制されてきたのである。他方、本土で生活する労働者階級=人民大衆は、本質的には米帝による沖縄の分離的軍事支配を必然ならしめているものに同じく抑圧されながらも、帝国主義者によってまき散らされてきた「日本の安全と平和のためには沖縄の米軍支配は必要」という反動的論理に屈服し、沖縄県民の苦しみを見殺しにしてきたのである。だが、ものには限度というものがある。数百年にわたる植民地支配をはねのけてアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの人民たちがたちあがりはじめているとき、沖縄県民だけが屈従の歴史を甘受するということがどうしてありえようか。ベトナム侵略戦争の深刻化と、それにともなう沖縄の永久核基地化の攻撃の激化のなかで、いまや沖縄県民は、たたかいの火柱を高くもえあがらせ、沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去にむかって攻撃的なたたかいをおしすすめはじめたのである。今日、佐藤政府は、沖縄の核つき返還か、沖縄への安保の本土並みの適用か、などと欺瞞的な言動をとっているが、問題は、沖縄の分離的軍事支配を不可避とした日米安保同盟政策そのものの粉砕が、沖縄奪還という表現をとってつきつけられているのである。
 沖縄奪還の課題は、まさに、全国民的な課題となろうとしている。日本帝国主義の野望がいかなるものであろうと、沖縄の永久核基地化の策動を粉砕し、本土復帰と基地撤去を要求するたたかいは、日本帝国主義の日米安保同盟政策の矛盾をもっとも集中的につきくずす攻撃的火柱としてもえあがりはじめたのである。沖縄をめぐる政局の急激な発展に驚いた南朝鮮の朴政権は、四月はじめ金山駐韓大使をとおして「沖縄の返還はたんに日韓だけの問題ではなく、東北アジアの安全のために、その戦略的価値が保存されるように解決さるべきである」との覚書を送り、日本政府も、「沖縄基地はアジア全体の安全保障と関連しており、その戦略的価値が保存される方向で慎重に処理さるべきである」との意向を非公式に回答したといわれるが、まさに極東の要め石・沖縄は、米韓条約、米台条約、日米条約という多角的集団安保体制の結節点をゆりうごかすものとして、帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の決定的火薬庫に転化しはじめているのである。沖縄奪還、すなわち、沖縄の永久核基地化を粉砕し、本土復帰と基地撤去をめざす沖縄県民と本土労働者人民のたたかいが、民族主義、議会主義、合法主義の枠を突破し、「安保粉砕・日帝打倒」にむかって巨大なる前進を開始するとき、アメリカ帝国主義の沖縄支配と、それを支える日本帝国主義の日米安保同盟政策は、もっとも決定的な地点において崩壊のはじまりを経験することになるであろう。
 
 第二節 侵略と暗黒政治の道
        ――日本帝国主義の全面的攻撃の開始――
 
 アメリカ帝国主義と日本帝国主義を反動的枢軸とする日米安保同盟は、前節で検討したように、@アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義世界体制の根底的動揺の深まり、Aベトナムにおける米帝の軍事的政治的敗勢と、それを導火線とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の深まり、B日本帝国主義の経済的諸矛盾の深刻化と、それにもとづく体制的危機の深まり、Cアメリカ帝国主義による沖縄の分離的軍事支配の破綻と、それを補強するための日本帝国主義の「一体化政策」の行きづまり、の四つの条件を世界史的根拠として根底的な動揺に直面している。戦後二五年間、日米両帝国主義の安保同盟政策を存立せしめてきた条件の一つひとつが困難化しはじめているのである。
 だが、このような諸条件の世界史的な困難化は、アメリカ帝国主義ならびに日本帝国主義の両者にとって、日米安保同盟政策の根本的転換の必要を意味するものとなるであろうか。断じて否である。むしろ、日米安保同盟の維持を困難ならしめている世界史的条件の危機的性格そのものが、アメリカ帝国主義と日本帝国主義のあいだに、アメリカ――アジア――日本の市場の支配権をめぐる厳しい対立を生みだしながらも、同時に、その対立を擬制的に調整しながら「運命共同体」的に両者を日米安保同盟に結びつけていく力となっている。まず、ニクソン新政権を選択したアメリカ帝国主義の対応から検討していこう。
 結論からさきにいえば、ニクソン新政権を政治委員会とするアメリカ帝国主義は、ポスト・ベトナム論的な幻想を無残に粉砕し、日本帝国主義との安保同盟の強化と、それを反動的枢軸とする帝国主義アジア支配体制の絶望的なたて直しの攻撃を強めてくるであろう、ということである。その焦点は、いうまでもなく、ベトナムと朝鮮における米帝の軍事的=政治的支配の再確立の問題であり、したがってまた、いわゆる自主防衛力強化の要請をテコとしたアジア軍事支配体制再確立の過程への日本帝国主義の積極的参加の問題である。それが米帝のいっそうの危機を決定するものであるとしても……。
 まさに、ジョンソン退場、敗け犬ニクソン登場というアメリカ帝国主義の政治委員会の交代をもたらした世界史的条件は、三〇年代のニュー・ディール以来の米帝の世界政策=国内政策の全面的破綻である。ドル危機とベトナム敗戦、黒人・大学・反戦問題の深刻化、物価上昇と国際収支不安、民主党分解という内外する事態は、三〇年以来のアメリカ帝国主義の基本政策の破綻以外のなにものでもない。
 すなわち、@モンロー主義的世界政策から「世界政策としての世界政策の展開」への転換、A中央連邦政府の権限強化にもとづくケインズ型経済政策の採用、B改良的諸矛盾の国家主義的解決の積極化をテコとした国内支配政策を三つの柱とするルーズベルト的内外政策の生みだした諸矛盾の累積と深刻化――という三〇年代のニュー・ディール政策以来のアメリカ帝国主義の内外政策の全面的破綻、という異常な危機的情勢のもとで、ジョンソンからニクソンへの政権移行は必然となったのである。だがそのことは、アメリカ帝国主義がかかえている世界史的ジレンマ、いいかえるならば、ルーズベルトからケネディ、ジョンソンへの四〇年間の歴史的遺産を解決する政策的余地がニクソン新政権に残されている、ということを意味するものではないのである。
 ニュー・ニクソンの直面している解決困難な課題とはいうまでもなく、第一には、ベトナム敗退→帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の反動的たて直しであり、第二には、ドル危機→ベトナム戦費増大として露呈したアメリカ帝国主義の経済的危機を回避するために、米帝の「世界の警察官」としての負担の軽減と、アメリカ経済の国内的均衡の回復である。帝国主義的エコノミストたちは、玉手箱から打出のこづちでもとりだしたかのように、ドル平価の切り下げや、新自由経済政策の効果などについてとめどない討論をつづけているが、にもかかわらず、それは、帝国主義の特殊戦後性にかんする無知を自己暴露する過程となってしまっているのである。
 もともと、現代帝国主義の危機的構造は、帝国主義の経済的=軍事的な世界編成の基軸国としてアメリカ帝国主義が全面的に登場しなければならなかった、という異常な世界史的事実を基礎としているものであり、帝国主義戦後世界体制の崩壊的危機をかけることなしには、ドル平価切り下げや、「世界の警察官」としての役割の放棄や、国内均衡優先政策にふみきることはできないのである。
 もちろん純抽象的に問題を設定するならば、アメリカ帝国主義は、@ドル平価の切り下げ=金価格の引き上げ、A「世界の警察官」としての役割の放棄、の二措置をもってするならば、国際通貨準備国としての矛盾集中を回避し、国内均衡を回復することは、経済的にまったく不可能であるとはいえない。だが、このような政策の選択は、帝国主義戦後世界体制の両軸をなしてきたドル・ポンド国際通貨制度と、いわゆる集団安全保障体制との同時的な崩壊という異常な事態の到来を覚悟することなしには実行不可能なのである。実際問題として、アメリカ帝国主義が「世界の警察官」としての役割を一方的に放棄し、アジアから撤退するような事態が生ずるとしたならば、それは帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊を意味するものであり、おそかれはやかれ、ラテン・アメリカの喪失にまで発展することは不可避といえるであろう。
 したがって、ニクソン新政権のまえには、現実的には、@国内政策面では、ニュー・ディール以来のケインズ的財政金融政策の累積した諸矛盾の深刻化にたいし、デフレ政策を基調とした弥縫的手直しをもって対処すること、A対外政策面では、帝国主義戦後世界体制における米帝の過重な軍事的=経済的負担の軽減をはかりながら、ドルの位置にかんする解決困難な検討をすすめていくことという二つの方向しか残されていないのである。史上未骨有の危機にたつアメリカ帝国主義は、当面、いわゆる自主防衛力強化をスローガンとした日独両国との同盟関係の再強化をもって防衛負担を軽減することに、その諸矛盾から脱出する攻撃を集約することとなるであろう。それはヨーロッパにあっては、西欧帝国主義国間の矛盾(とりわけフランスとドイツとのそれ)を調整しながら、西欧との同盟強化を基軸にして、動揺するNATOを反動的に再編成する過程としてあらわれるであろうし、他方、アジアにあっては、ベトナム参戦諸国の強化と結束をはかりながら、日米安保同盟の再強化を基軸にして、崩壊的危機にたつ帝国主義アジア支配体制の超反動的再編成を強行する攻撃としてあらわれざるをえないであろう。だが、それは、同時に、アメリカ――西ドイツ――日本を結ぶ反動枢軸のいっそう破局的な再来を約束する以外のなにものでもないのである。
 事実、ニクソン米大統領は、『フォーリン・アフェアズ』誌六七年十月号に寄稿した論文「ベトナム以後のアジア」において、 「ベトナムの遺産の一つとしてアメリカには二度と再び同じような基礎で同じような干渉に巻きこまれるのはもうゴメンだという気持が残されるようになることは、ほとんど確実である。
  ベトナム戦争はアメリカに軍事上、経済上の面ばかりでなく、社会上、政治上の面でもきわめて深刻な緊張を生んだ。激しい意見の対立がアメリカの知的生活の基盤を引き裂いてしまい、 戦争の結末がどのようなものになろうとも、その傷痕をいやすには長い時間を要するだろう」と、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争が、アメリカ社会のうえに投げかけた深刻な矛盾をしぶしぶと認めながらも、その矛盾の解決の方向として、アジア諸国が時代おくれのSEATOにかわってASPACを基礎とした集団安全保障体制を設立することを提唱し、そのなかにおける日本の役割をつぎのように強調していることに注意しなければならない。
  「劇的な経済的な発展にともなって、日本はアジアにおけるバランスを維持するために外交的にも軍事的にもより大きな役割をはたすことを望むようになるであろう。……このより大きな役割はなかんずく『陸海空軍その戦力はこれを保持しない』と定めた日本国憲法の現在の修正をふくむであろう」
 かくして、アメリカ帝国主義は、ベトナム敗退を導火線とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の深刻化をまえにして、日本帝国主義にたいし、アジア軍事支配のいっそうの積極的かつ凶暴な同盟国としての役割の強化を要請することにならざるをえないのである。七〇年を画期とする日米安保同盟政策の再検討にのぞむアメリカ帝国主義の態度には、この道しかないのである。極東の要め石・沖縄の重要性は、増大こそすれ減少することは断じてないのである。だが、同時にそれは、アメリカ帝国主義と日本帝国主義とをアジア危機の際限なき泥沼のなかにひきこむことからして、たえず、不徹底な収拾策の破産と、その結果としての超軍事的制圧の絶望的な試み、そして、これらの複合的な所産としての危機のいっそう深刻な拡大、というジグザグをくりかえすものとならざるをえないのである。
 一方、アジアにおける帝国主義支配体制の異常な危機の深まりのなかで、七〇年安保をむかえる日本帝国主義は、内外政策をいかなる方向に集約するものとして日米安保同盟政策の試練に耐えようとしているのであろうか。
 結論からさきにいうならば、日本帝国主義にとってもまた、内外する危機にたいする唯一の反動的対応策は、安保堅持政策以外に断じてありえようもないのである。だが、それは、日本帝国主義が確固とした内外政策を具体的に確立しているということを意味するものでもないのである。すなわち、日本帝国主義と、その政治委員会としての佐藤政府は、日米安保同盟政策の堅持を日帝の延命の唯一無二の基本的世界政策として確定し、安保粉砕をめざす勢力にたいしては冷酷無比な鎮圧の態勢を固めているのであるが、にもかかわらず、かれらには、日米安保同盟政策の維持を困難ならしめている四つの世界史的条件にかんして、それを抜本的に解決する方策をなにひとつもちあわせていないのである。
 たとえば、帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の深まりにたいして、日本帝国主義の軍事力をいかに強化していくのか、という問題ひとつとってみても、アメリカ帝国主義の「自主防衛力強化」の要請にどう対処するのか、というきわめて防衛的な姿勢からしか接近することができないのである。エコノミック・アニマルとして資本主義世界市場第二位の生産力を誇示しているとはいえ、わが日本帝国主義は、日米安保同盟政策の堅持という当然の政策的選択をのぞくならば、世界政策はおろかアジア政策にかんしてすらなんの具体的定見もなく、米帝のアジア支配を前提として、その間隙をぬって市場支配を拡大するという火事場泥棒的なものでしかないのである。
 もともと、アメリカ帝国主義のアジア支配政策そのものが、アジアにおける古典的植民地支配体制の全面的崩壊にたいする超軍事的な対応として確定されたものであるが、アジアにおける帝国主義支配体制の脆弱性は、すでにのべたような日本帝国主義の政治と経済の不均衡発展的性格によっていっそう促進させられてきたのであった。だが、アメリカ帝国主義は、帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機の深まりのなかで、日米安保同盟強化=「自主防衛力強化」という態様をもって日本帝国主義の積極的姿勢、すなわち、アジア政策における政治と経済の不均衡性の修正を強く要請せざるをえなくなっており、他方、日本帝国主義もまた、アメリカ帝国主義のアジア政策の破産と、それにたいするニクソン政権の対応政策の不確定のまえに度しがたい混乱を深めながらも、究極的には、日米安保同盟の強化と、そのもとでの日帝独自の軍事力増強を基軸として、アジア支配の泥沼的深みへの反動的武装を強める方向にすすまざるをえないのである。
 日本帝国主義と、その政治委員会にとって、危機にたつ帝国主義アジア支配体制を技本的に解決する方策はなにひとつ存在しないのであるが、それゆえにこそ、日米安保同盟政策の堅持という消極的姿勢は、アジア危機にたいする不退転の積極的姿勢に転化せざるをえないのであり、日米安保同盟政策の正否をめぐる日本階級闘争は、日本帝国主義の体制的危機をかけた非妥協的対決に発展することが不可避となるのである。そこには、中間的改良の余地がないのである。昨年暮に成立した佐藤三選内閣が、自民党の超反動的グループ素心会を中核として組織されたという事実は、七〇年安保にかける日本帝国主義の異常な決意を示す以外のなにものでもないのである。
 したがって、長期固定化か、自動延長か、という帝国主義政治委員会の内部における政策選択をめぐる意見の相違は、安保堅持という基本的方向を日本労働者階級=人民大衆に強制するための議会制的手続きにかんする問題にすぎないのである。
 すでに、自民党は、六六年六月に安全保障調査会の中間報告書を作成して、(1)日米安保条約を七〇年以降も現行内容のままでさらに一〇年間延長する、(2)現在の国防会議を発展的に解消して国家安全保障会議を設置する、(3)防衛庁の国防省への昇格、(4)治安機構の整備など、基本的な路線をうちだしたが、外交調査会副会長小坂善太郎など党内から、(1)安保条約の一〇年延長、(2)国家安全保障会議の設置、の二点に反対意見が続出し、今日では六八年六月の「船田安保調査会長見解」なるものの発表によって、いわゆる自動延長の方向が自民党の大勢をしめる様相を強くしている。日本帝国主義と、その政治委員会は、日米安保同盟政策の堅持を基本的世界政策として確定しながらも、いわゆる自動延長方法をもって安保条約の継続をはかり、国会審議の混乱と、それを契機とした院外の大衆行動の爆発の危機を回避する、という迂回的な政策の方向に傾斜しはじめているのである。六〇年安保闘争の恐怖にみちた経験が、支配階級の手を強く統制しているのである。
 一方、このような自動延長の大勢にたいして、自民党の内部には強力な批判がうずまいているが、批判的意見の大綱を要約すると、(1)自動延長方式をとると、安保廃絶の要求や運動が常態化する、(2)安保条約の有効期間を長期的に固定化すべきである、の二点につきるといえるであろう。いわゆる自動延長方式が主として七〇年ののりきりに重点を置いているのにたいし、いわゆる長期固定方式は、七〇年代における安保闘争の常態化への対策に力点をもつものである。なお、この二つの方式にたいする折衷案として、(1)安保条約の長期固定化のための期限延長を正道としながらも、(2)場合によっては七〇年は自動延長でのりきり、(3)長期固定化の既成事実をつくりあげたうえで、国会とは無関係に政府の責任で行政措置として日米政府間の合意の確定(議定書、公文交換、共同声明など)をおこなう、という意見が形成されはじめていることに注意する必要がある。
 まさに、日本帝国主義と、政治委員会としての佐藤政府は、日米安保条約の継続にかんする議会制的承認の方式をめぐって、自動延長方式か、長期固定化か、という政策的選択の不確定性を残しながらも、日帝の基本的世界政策として日米安保同盟を堅持し、強化していくことにかんしては、まったく政策的選択の余地がないのである。問題は、安保条約の長期固定か自動延長か、という議会制的承認の方式にあるのではなく、日米安保同盟政策という日本帝国主義の基本的進路そのものの是非にあるのである。しかも七〇年安保同盟の再強化攻撃は、日本労働者階級=人民大衆の生活と権利の総体を根本的におびやかす全面的な反動攻撃と結びつき、その中枢的攻撃として展開されるものであり、したがって、日米安保同盟政策の堅持と強化を基軸とする帝国主義の全面的攻撃の本格化は、好むと好まざる、とにかかわらず、労働者階級=人民大衆の総体をして、安保堅持か安保粉砕か、屈服か抵抗か、日帝擁護か日帝打倒か、という決定的な歴史的選択のうちに直面せしめることとならざるをえないのである。
 日米安保同盟政策の再強化を基軸とする日本帝国主義の全面的攻撃の第一の基本方向は、ベトナムにおける米帝の敗勢を導火線とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機にたいする日本の反動的武装であり、アジアの強盗的侵略にむかっての国内態勢の確立の道である。
 その第一は、ベトナム参戦国化政策を基軸としたアジア侵略の本格的開始、すなわち、米帝のアジア支配の超軍事的性格と、この破綻を経済的に補強するという従来の役割をはたしながら、さらに、アジア軍事支配の同盟国として積極的に参加していくことであり、その第二は、日米同盟を戦略的基軸とした日帝の軍事化・核武装の道を急激におしすすめることである。日帝の軍事化・核武装という場合、もちろん、自衛隊を主軸とする日帝の独自的な軍事力強化を意味するが、同時にそれが、極東における米軍の戦略配置総体への自衛隊の積極的包摂の過程としておこなわれることはいうまでもないのである。日本の自主防衛強化とは、現実的には、極東米軍と自衛隊との戦略的統合化のもとにおける自衛隊の独自的強化以外のなにものでもないのである。
 その第三は、日米共同作戦下における日本全土の総基地化、すなわち、道路、鉄道、港湾、空港など諸施設の自由な軍事使用と、それにたいする民衆の抵抗の制圧であり、安保条約六条およびそれにかんする交換公文とに規定された事前協議の無意味化である。その第四は、日本の政治的臨戦態勢化の道である。ベトナム侵略戦争の拡大にともなう日本全土の総基地化は、当初は「米軍の地位にかんする協定」にもとづく諸施設の米軍使用にともなう矛盾の激化として問題にされたが、今日では、自衛隊もふくむ軍事使用として焦点化している。帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機をまえにして、しかも、日帝のアジア侵略にむかっての本格的参加をまえにして、本国内の諸施設の軍事使用が民衆の抵抗によって制約されているようでは、話にならないわけであり、自衛隊の地位昇格もふくめて政治的臨戦態勢化の攻撃は不可避というほかはないのである。
 その第五は、極東の要め石・沖縄の永久核基地化の攻撃、すなわち、米帝の沖縄支配の破綻を補強するための、いわゆる一体化政策をテコとした沖縄の共同前進基地化の攻撃である。沖縄の早期返還というペテン的スローガンの背後で、沖縄の永久核基地化=日本全土の総基地化の攻撃はすすめられているのである。
 日米安保同盟政策の再強化を基軸とする日本帝国主義の全面的攻撃の第二の基本方向は、日本帝国主義の経済的矛盾の深刻化と、それから脱出するための過程そのものの生みだした諸矛盾の労働者人民への仮借なき犠牲転嫁の攻撃であり、あくなき搾取と収奪の攻撃の強化の道である。
 すでに第一章において指摘したように、日本経済を六二年――六五年の不況期から脱出させ、「再度の高度成長」なるものに突入せしめた決定的な条件は、公債経済政策と対米輸出増大という他律的要因であり、その条件そのものがインフレ傾向の根底的要因となっているばかりか、日本経済のあらたなる破局的矛盾を成熟させているのである。そのうえ、アメリカ資本の本格的上陸と、アメリカ関税政策の変更の不安という外圧は、日に日に強まっている。したがって、日本帝国主義にとっては、日本経済の諸矛盾の深刻化と「外圧」に対処する方策は、搾取の強化と犠牲の徹底的な転嫁の攻撃という危機的手段しかないのである。
 その第一は、資本の集中・整理・合併などを基礎とする矛盾の弱小資本への転嫁、過当投資競争の整理、市場の独占的支配の強化の攻撃であるが、こうした攻撃の激化が、同時に個別資本間の食うか食われるかの死闘として展開されているのである。その第二は、こうした個別資本間の競争によっていっそう促進させられているところの合理化攻撃=搾取の強化と、それにもとづく配転、首切り、企業閉鎖であり、生産性賃金を口実とした賃金抑制の攻撃である。労働強化と低賃金の苦しみは、いわゆる中小企業のみならず、大企業=大独占体の労働者の生活のなかに暗い影をなげかけはじめているのであり、それは当面、企業防衛主義=大企業意識で隠蔽されているにすぎないのである。
 その第三は、独占を救済し、その活動を促進するための財政金融政策の全面的な展開である。すでに六五年度において公債経済政策にふみきった佐藤政府は、その後の経済回復の過程で安定経済政策への復帰をいくどとなく高言しているが、その背後では財政膨脹の傾向は日に日に硬直化しているのである。かくして日本帝国主義は、一方では大量の資金を独占体に供与しながら、他方では物価、税金などをとおして大衆収奪の徹底化をはかっているのである。その第四は、道路、鉄道、港湾、空港など産業基盤の整備のための土地取り上げ攻撃、公害問題、住宅問題、土地問題の激発など諸矛盾の住民への犠牲の攻撃である。
 日米安保同盟政策の再強化を基軸とする日本帝国主義の全面的攻撃の第三の基本方向は、日帝のこのような軍事的=経済的攻撃の激化が必然的によびおこすであろうところの労働者階級=人民大衆の抵抗闘争にたいする徹底的な弾圧の道であり、したがってまた、このような抵抗闘争の政治的条件をなしているところの戦後的諸権利の全面的な制圧の道である。
 その第一は、戦後日本革命の敗北の改良的副産物として戦後的諸権利の強権的な制圧である。従来、戦後日本帝国主義は、労働者階級の公認指導部の議会主義=合法主義の路線を存立条件として支配をつづけてきたのであり、むしろ議会外の政治行動はその矛盾の補完的な収拾過程の役割をはたすものとして機能してきたのであった。だが、日本帝国主義の体制的危機の深まりと、そのもとでの日本階級闘争の激化=既成指導部の労働者支配の動揺というあらたな条件のもとにあっては、議会内における政治行動の激化は、伝統的議会政治の無力化を根底的におびやかすものとならざるをえないのである。従来ならば許容されえた政治的権利も、それが革命にむかっての政治的陣地に転化することをとおして、国家権力の暴力的襲撃の対象となったのである。
 その第二は、戦後日本労働運動の合法的陣地をなしてきた総評型労働組合の徹底的な解体と、IMF・JC、「同盟」型労働組合への全面的な再編成の攻撃である。日本帝国主義の体制的危機の深まりは、日本型社民の存立条件を根底的に動揺せしめるとともに、社会党=民同の衰退と、その政治的基盤の左右への両極分解を促進させてきたのであるが、こうした階級情勢のなかで独占資本は、日本階級関係の基本構造を「社会党――総評型」から「民社党――同盟型」に転換させようとしている。総評における原口――宝樹、社会党における江田の動向は、このような独占資本の根底的攻撃にたいし「社会党――総評」の事実上の「民社党――同盟」化をもって延命しようとするものである。
 その第三は、既成左翼指導部の動揺のなかで左翼的に形成される労組内の戦闘的中核部隊にたいする徹底的な攻撃である。国家権力と独占資本は、企業防衛主義、祖国防衛主義への労組の屈服をテコとして労組的形態をもってする政治闘争のいっさいを制圧するとともに、戦闘的中核部隊にたいする配転、おどし、分散、孤立化などのみならず、個人的資格をもって政治闘争に参加したものについては、組合の名を使って禁圧を加えはじめている。反戦青年委員会の労働組合運動への積極的参加にかんする国家権力と独占資本の針小棒大な騒ぎようは、下部的ヘゲモニーの系列化にたいする恐怖のあらわれ以外のなにものでもないのである。
 その第四は、全学連を中核とする学生運動にたいする徹底的破壊の攻撃である。学生運動の中核的活動家にたいする大量逮捕、長期幻留、保釈金の巨額化、家族工作などの破壊的弾圧。活動家と「一般学生」、学生運動と他階級、他階層との結びつきの徹底的な分断、大学にたいする国家権力=警察権力の直接支配の攻撃の激化と拡大。
 その第五は、帝国主義の矛盾の大衆への犠牲転嫁の攻撃にたいする都市住民、農民、漁民のたたかいの非妥協的、永続的発展にたいする恫喝と弾圧。
 帝国主義的矛盾の深まりを抜本的に解決する方策をもたぬ日本帝国主義は、労働者階級=人民大衆の無限の屈服に依拠して危機をのりきろうとし、これに抵抗し、反撃を試みるものにたいしては徹底的な弾圧を加え、牢獄に送りこむことしかできないのである。だが、このような抑圧的方法の先行化は、一時的効果はともかくとして、長期的には矛盾のいっそうの深刻化をもたらすだけなのである。
 日米安保同盟政策の再強化を基軸とする日本帝国主義の全面的攻撃の第四の基本方向は、以上の攻撃を徹底的に遂行するための強権的保障としての行政権力のボナパルティズム的強大化、治安弾圧態勢の警察国家的強化の攻撃であり、戦後日本の政治過程を画期する暗黒政治の到来の道である。
 その第一は、議会政治尊重、法と秩序などのスローガンの背後に進行するところの議会の無内容化、無力化である。もともと、議会政治なるものは、議会で予算や政策が決定されるものではなく、行政諸機関が作成し、ときには、すでに執行した行動表を追認的に採決するだけのものであるが、にもかかわらず、外交上の重要決定や、立法処置にかんしては議会通過を必要とするところから、野党の有形無形の協力と、それにたいする代償としての譲歩とが具体的問題となるのであり、それがまた野党の存在理由のうちには、改良的産物を期待する傾向を生みだす原因となったのである。かくて、帝国主義国家権力は、買収と懐柔、恫喝と妥協をもって野党の協力をとりつけながら、議会運営を維持し、自己の階級的利害に共同体的幻想を付与する議会制的手続きをたえず遂行してきたのであるが、日本帝国主義の体制的危機の深まりをまえにして、佐藤政府は、議会制的過程における政策的選択の余地を徹底的に縮小しようとしているのである。
 その第二は、議会の無力化の対極としての政府=行政権力の権限のボナパルティズム的な増大である。長期的固定化の閣議決定=行政措置という意見のなかには、あきらかに、行政権力の独立化の傾向が反映されているのである。
 その第三は、警察機構、治安弾圧機構の飛躍的な強大化の攻撃である。警官増員、弾圧装備の強化、司法機関の反動化など、七〇年安保にむかっての反動的弾圧態勢は、日に日に強まっている。
 その第四は、自衛隊の三次防、国防省昇格を基軸とする自衛隊の帝国主義軍隊としての強化と、それにともなう治安出動部隊としての役割の重視である。都内ならびに都市近郊の自衛隊部隊の銃は、すでに都市の反乱にむかって装備されているのである。
 議会の無力化、政府行政権力の権限増大、警察治安機構の強化、自衛隊の治安出動部隊化という四つの目標は、明白に日本帝国主義国家権力のボナパルティズム的統治形態への傾向の増大を示すとともに、きたるべき七〇年安保闘争の基本的な対立軸が、帝国主義国家権力、とりわけ、警察治安部隊と、労働者階級=人民大衆の自衛部隊との「力と力との激突」という性格をもって発展するであろうことを示唆しているのである。
 日米安保同盟政策の再強化を主軸とする日本帝国主義の全面的攻撃の第五の基本方向は、同家権力の治安弾圧機構の強化と併行して進んでいる民間の右翼的暴力の国家主義的動員である。
 帝国主義の体制危機の深まりと階級闘争の激化は、国家権力と民衆との血みどろの衝突を生みだすとともに、民衆の内部に革命と反革命の分岐を広範囲につくりだすのである。したがって、革命は、もとより国家権力を暴力的に粉砕することをもって実現するのであるが、それは同時に、民衆の内部に発生する小ブルジョアの反革命的暴力とのたたかいに勝利していく過程でもある。帝国主義の育成する民間暴力組織の襲撃にたいするたたかいは、国家権力と呼応したスターリン主義集団の反階級的襲撃をはねかえし、革命の戦列を防衛するたたかいとならんで、まさに、帝国主義打倒のたたかいの有機的構成部分なのである。今日、新聞、ラジオ、テレビなどマスコミ機関は、反動的論調を日に日に強めているが、それは帝国主義国家権力の民衆支配をイデオロギー的に補完するもっとも悪質な抑圧機構としての性格をむきだしにしたものであり、右翼暴力とともに警察国家への道のピエロ的楽隊以外のなにものでもないのである。
 日本帝国主義の全面的攻撃の基本的方向は、以上の検討からも明らかのように、総じていうならば、侵略と暗黒政治の道であり、民衆にとって際限なき苦しみと屈辱の道である。日本労働者階級=人民大衆のまえには、この攻撃に屈服して、帝国主義の旗のもとに苦しみと屈辱の日をおくるのか、それとも、すべての力をふりしぼって攻撃のたたかいをおこし、安保粉砕・日帝打倒の旗のもとに希望と誇りにみちた日をきりひらくのか――この二つに一つの歴史的選択がいま問われている のである。
 
 第三節 防衛的対応から積極的攻勢へ
       ――労働者人民の進むべき道――
 
 七〇年安保闘争の革命的爆発の動向をまえにして、帝国主義戦後世界体制、とりわけ、帝国主義アジア支配体制と、それに規定されたところの日本帝国主義の命運は厳しく決せられようとしている。今日、日本帝国主義とアメリカ帝国主義とは、日米安保同盟を枢軸とする強盗的運命共同体の血盟を誓いあっているが、この強盗的血盟を日本の進路として日本の民衆に強制しうるかどうか、という一点に世界――アジア――日本をめぐる帝国主義秩序の危機がかけられているのである。アメリカ帝国主義のベトナム敗勢の深まりは、帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の条件を日に日に成熟させるとともに、ベトナムにつぐ矛盾の爆発点としての徴候を朝鮮半島――日本列島のうえに映じはじめている。
 七〇年を画期として、もし朝鮮半島――日本列島のうえに帝国主義アジア支配体制を根底からゆるがす政治的激動が爆発するならば、アジアと日本の命運はいっきょに帝国主義の終末にむかって傾斜することになるであろう。それゆえにこそ、七〇年安保にかける日本帝国主義の決意は、妥協を許しえぬ強権的攻撃としての性格を避けえないのであり、同時にまた、これを迎えうつ労働者階級=人民大衆の側には当然、七〇年安保粉砕のたたかいをアジアと日本の根底的変革にまで永続的に高めうる決定的準備が必要とされているのである。好むと好まざるとにかかわらず、七〇年における安保・沖縄をめぐる日本の歴史的選択は、全面的で根底的なものたらざるをえず、民衆の生活と権利の存亡をかけた非妥協的・永続的闘争として発展せざるをえないのである。まさに、きたるべき七〇年安保闘争と、それを突破口とする七〇年代安保闘争は、@帝国主義戦後世界体制、とりわけ、日米安保同盟を反動的枢軸とする帝国主義アジア支配体制を粉砕し、Aベトナムを導火線とするアジア危機を帝国主義本国の革命的転覆=日帝打倒の過程に目的意識的に転化し、B国際共産主義運動のスターリン主義的変質を革命的に打開する現実的突破口をきりひらくものとしての位置と意義をもつものなのである。
 だが、このような七〇年安保をめぐる世界史的選択にたいし、議会内反対党はいかなる政策と展望をもってのぞもうとしているのであろうか。
 まず最初に、民社党、公明党からなる中間政党から検討してみよう。
 民社党の七〇年安保政策は「駐留なき安保」――「有事駐留論」に要約できるが、それは、徹頭徹尾「安保体制堅持」の立場である。「駐留なき……」とは、文意的には米軍撤退――基地撤去の重点は「……なき安保」におかれており、まさに、ペテン師的安保堅持論として、自民党の意見よりも破廉恥なものである。なお、有事駐留に付言すれば、アジアと日本がつねに有事であればこそ「安保」があるのだから話にならない。すでに、民社党および「同盟」のダラ幹たちは、「国論二分の危険の回避」をスローガンに活発な策動を開始したが、その結成が、六〇年安保をまえにした社会党分裂を出発点としていることからもあきらかなように、自民党の別動隊であり、安保特別防衛隊そのものであり、ただただ打倒の対象というほかはないのである。
 公明党の七〇年安保政策は「安保の段階的解消」であるが、それは定見なきブルジョアの立場である。従来、公明党と、その母体をなす創価学会は、安保にたいし肯定的な態度をとってきたが、六五年以来の日帝の体制的危機の深まりと、それにもとづく小ブル層の不満と不安の増大とを反映して「安保の……解消」という要素をとりいれるようになった。だが、それは「段階的解消」という規定にみられるように、七〇年にどう解消の一歩をふみだすのか、という具体的提案を欠如しており、現実には「性急な安保解消論には反対」という方向に傾斜する危険をもっている。具体的動向を厳しく点検しながら、その中間主義的立場に批判を加えていくことが必要であろう。
 では、つぎに、社会党、共産党からなる「革新政党」を検討することにしよう。
 社会党の七〇年安保政策は「安保廃絶――非武装中立」に要約できるが、それは戦後日本階級闘争の平和的発展期に歴史的根拠をもつところの小ブル平和主義の立場である。日本型社民とも規定すべき社会党の戦後的特質は、戦後日本帝国主義の日米安保同盟政策と決定的なかかわりをもって形成されてきた。
 すなわち、社会党は、戦後革命期にあっては、右派のヘゲモニーのもとに日帝の延命のための最悪の支柱として登場したが、五一年の左右分裂を転機として、基本的には左派のヘゲモニーのもとに、日帝の日米安保同盟政策に反対する第一野党として発展してきた。その基調とするところは、安保があると日本が戦争にまきこまれるという小ブル的不安を現状維持的に示したものであった。だが、六三年以来の内外情勢の深刻化と、それにもとづく日本階級闘争の平和的発展の終末とは小ブル平和主義の基盤を無残にうちくだき、日本型社民にたいし、帝国主義に屈服するのか、帝国主義打倒の立場にたつのか、という二者択一を現実的選択として迫ったのである。六五年日韓闘争における社会党の恥ずべき屈服の路線は、日帝の新植民地主義的登場という体制的危機をかけた攻撃の厳しさと、社会党の議会内政党としての腐敗を赤裸々にあばきだしたのであった。
 だが、日韓闘争から健保国会にいたる社会党の後退と屈服にもかかわらず、社会党はいっきょに右傾化の方向をとらず、全体として危機を深めながらも、小ブル平和主義の残光を積極的におしだしながら延命する方向をとりはじめている。その原因は、根底的には、労働者階級、学生、農民のたたかいが、革命的左翼の指導のもとに活気を回復しはじめていること、新中間層の小ブル平和主義が、べ平連の動向にみられるように左翼的拡大を開始したこと、という二つの動向が社会党に反映したことに求めうるのであるが、直接的には、帝国主義の体制的危機をかけた攻撃が、社会党――総評の存立そのものの解体にまでむかわざるをえない、という今日の階級関係の異常な情勢に根拠をもっているのである。
 したがって、社会党は、日本階級闘争の血みどろの発展の基礎として、流動化し拡大する新中間層の左翼的動向を小ブル平和主義的に反映し、一定の戦闘的志向を内在しながら、全体としては、「非武装中立」という小ブル平和主義に制約されて、議会内反対党としての矛盾の泥沼的展開のうちに呻吟せざるをえないのである。七〇年安保闘争の巨大な爆発への社会党の事実上の合流、これのみが、改良主義と議会主義という二つの伝統的宿弊をのりこえて、帝国主義の危機によって広範に生みださるべき左翼的動向のうちに社会党を合流させることを可能にする唯一の道である。「安保廃絶――非武装中立」から「安保粉砕・日帝打倒」へ ――まさにこの道にそってのみ、社会党は延命をなしとげうるのであるが、それは、きわめて困難かつ動揺多き過程というほかはないのである。
 共産党の七〇年安保政策は、「民主連合政府による終了通告――安保解消」=「改憲武装中立」と要約しうるが、それは、日本帝国主義への議会主義的屈服の立場である。もちろん、このような屈服路線は、左翼的空論によって粉飾されている。たとえば「民主連合政府による……安保解消」であるが(ここでは民主連合政府そのものの反労働者的本質は問題としないが、それが共産党を中軸とする政府であることは論をまたない)、このスローガンは一見すると、七〇年、あるいは七〇年に近接する時期のうちに、「民主連合政府」の樹立が可能であるかのような「革命的期待感」のうえに構成されている。だが、「問題の民主連合政府」そのものは、国会内における民主連合政府派の勝利を前提としているのであり、現実的には「永遠の彼岸」でしかないのである。つまり、労働者階級=人民大衆が七〇年にどう行動すべきか、と真剣に検討しているときに、わが共産党は、民主連合政府の樹立の日まで「安保解消」は不可能だからはねあがってはいけない、といさめているのである。安保粉砕は、共産党の低水準きわまる金権候補的選挙運動の尻尾としての役割しか意味をもたない、というわけである。
 七〇年安保をまえにして日本の民衆が、そのもてる力をふりしぼってたちあがろうとしているとき、日本共産党は、民主連合政府というセクト主義=反労働者的政府形態をもって安保闘争をワクづけようとしているのである。まさに、かれらにとっては、できもしない「民主連合政府」というニンジンを鼻づらにぶらさげて、大衆を日共のブルジョア的、議会主義的選挙闘争に利用する道具としてのみ、安保は意味をもっているにすぎないのである。そのうえ、あろうことか、武装中立などという排外的民族主義の旗をかかげて、日本帝国主義の武装平和の道をイデオロギー的に掃き清める役割をはたしているのである。まさに、日本共産党は、社会党の右に座標軸を設定して党勢の体制内的な増強をはかろうとしているのであり、その社共統一戦線なるものは、現実的には労働者陣営全体の勢力と活力を低下させ、社会党の地盤の侵食をとおして野党第一党の道を望むというマヌーバー(策略)以外のなにものでもないのである。
 以上の検討においてもあきらかのように、安保派の民社党、中間派の公明党は別としても、安保反対の立場にたつ社会党、共産党にあっても、現実には、日本帝国主義への綱領的屈服を日に日に強めており、七〇年安保闘争の革命的爆発を主導すべき決意も展望もまったくもっていないのである。社会党、共産党に代表される日本的革新勢力にとっては、安保粉砕のたたかいは、議会的な手続き問題にすぎないのである。
 日本帝国主義の平和的発展を存立条件として育成してきた既成左翼指導部には、七〇年安保闘争の基本的動向が安保条約の再検討という議会的形式のうちにあるのではなく、日本帝国主義の日米安保同盟政策の存亡という現実のうちにあること、したがってまた、安保条約をめぐる国会内の論争が、院外における安保粉砕・日帝打倒のたたかいを促進し、それに結合することをとおしてのみ積極的たりうることが、まったく理解できないのである。まさに、世界危機の結節点としての七〇年安保闘争は、安保反対勢力の主体的危機を媒介として、その危機的様相を未然のうちに収拾する危険を残しているのである。
 だが、率直にいって、七〇年安保闘争が、自民党――民社党を基軸とする日本的保守勢力と、社会党――共産党を基軸とする日本的革新勢力の対決として想定される時代は、すでに過去のものになろうとしている。日本帝国主義とその政治委員会としての佐藤政府は、侵略と暗黒政治の道・七〇年安保の攻撃を推進していくうえで、当初、主要な関心を社共など議会内反対党の動向にむけ、たかをくくっていたのであったが、いまや、十・八羽田以来のあらたな日本階級闘争の展開のなかで、日本労働者階級=人民大衆の深部に根ざしたもっとも根底的な敵対者に直面し、その政治的プランの深刻な動揺にみまわれはじめているのである。こうした七〇年安保闘争の真の民衆的戦列の最前線を血みどろになってきりひらき、階級的決起=大衆的高揚のひろがりゆく展望の中核的闘争部隊を形成しているものこそ、いうまでもなく、わが同盟と、それを前衛とする日本革命的共産主義運動である。六八年の春、フランス五月革命を先駆として全世界を春の嵐のように襲った伝統的政治支配の崩壊と、既成左翼指導部の無気力化の全面的暴露、そして新しい革命的左翼の戦闘的台頭、――こうした世界史的激動の最強の主体勢力として、十・八羽田以来の日本階級闘争は登場しているのである。
 今日、わが同盟と、それを前衛とする日本革命的共産主義運動は、一〇年をこえる苦闘をとおして、学生戦線の中核として不屈の戦闘的軍団を確立したばかりか、既成左翼指導部のもとで気孔をおおわれていた労働戦線の中枢に革命的拠点を形成するとともに、既成左翼支配をこえる新しい階級的、大衆的決起をいたるところで生みだすことになった。
 周知のように、日本で新しい革命的左翼が創成されたのは、スエズ動乱、バンガリア革命、砂川闘争等をもって特徴づけられる五六年から六〇年の歴史的な安保闘争にかけての五年間の激動の過程のなかにあってであった。この五ヵ年の時期は、まさに、世界史的にいうならば、アメリカ帝国主義を盟主とした帝国主義戦後世界体制と、それと一国社会主義的に対抗して形成されたスターリン主義支配体制が、総体として歴史的動揺にむかいはじめていることを予見させる、いくたの歴史的事件によって特質づけられた時代であったが、外見的には、米ソ共存体制の進展、西欧の復興=EECの台頭、日本経済の高度成長、ソ連人口衛星の打上げ、モスクワ共産党会議など、安定的発展としての様相が支配的だったのであり、こうした外見的様相に幻惑されていた既成指導部には、不吉な予見を示したいくたの事件も、しょせん、安定にむかっての調整的動揺としてしかとらえられなかったのであった。まさに、このような平和共存的・現状維持的な幻想にたいし、わが同盟とそれを前衛とした日本革命的共産主義運動は、平和的幻想の根底によこたわる「帝国主義の抑圧」と「革命の変質」を粉砕し、帝国主義から社会主義にむかっての世界史的過渡期としての現代の本質を主体的に貫徹するものとして自己を登場させたのであったし、事実、一〇年をこえる苦闘をとおして、「帝国主義の抑圧」と「革命の変質」が終末をむかえはじめていること、いいかえるならば、革命が切迫していることを告げ知らせてきたのであった。
 もとより、日本革命的共産主義運動は、日本共産党を主軸とした戦後日本軍命運動を母胎とし、その敗北と裏切りの苦悩にみちた歴史との熾烈な対決=自己批判をとおして誕生したのであった。六全協問題として現象した日本共産党の激しい内部闘争は、当初は五〇年分裂をめぐる党規律上の問題と五〇年以来の党指導の総括をめぐる伝統的指導部の動揺としておこったものであったが、それは、戦後日本革命運動とその指導党としての日本共産党の誤謬を根底的に切開するものでなければならなかったものであり、それゆえ、戦後日本階級闘争の実践的総括にふまえながらも、国際共産主義運動のスターリン主義的変質にかかわるものとして思想的、革命戦略的、組織論的に深められることなしには解決されえないところのものであった。
 したがって、日本における若き革命的左翼の自己形成のたたかいは、(1)国際共産主義運動のスターリン主義的変質を世界史的に総括し、マルクス・レーニンの世界革命論を今日的に再生し、その見地から、日本革命の綱領的・組織論的展望をあきらかにしていくとともに、(2)戦後日本唯物論論争、経済学論争、日本資本主義論争、日本革命綱領論争などのつきだした問題点を実践的バネとして、マルクス主義の革命的核心の探究と、その現代的展開をもって基礎づけようとする革命的営為そのものであったが、それは、同時に、(1)砂川闘争から国鉄新潟闘争、勤評闘争、警職法闘争、諸反合闘争をへて六〇年安保闘争にいたる日本階級闘争の激動をとおして、自己の綱領的=組織論的立脚点を試練にかけ、実践的に検証するきわめて厳しいたたかいの過程であった。まさに六〇年安保闘争こそは、一方では、スターリン主義と革命的共産主義との本源的分裂を遂行し、若き革命的左翼の綱領的=組織的基礎を創成するたたかいをすすめながら、他方では、安保改定阻止を自己の飛躍をかけた死活の闘争として推進するという二重の任務をおびた最初の歴史的試練であった。
 したがって、六〇年安保闘争が巨大な高揚にもかかわらず敗北に終ったとき、若き革命的左翼は、既成左翼指導部とは質的に異った打撃をこうむることとなった。事実、社共の既成左翼指導部は、六〇年安保闘争を偉大な勝利″と総括する水準以下的対応をもって敗北の現実を隠蔽しながら、それぞれの道をとおって日本帝国主義への屈服を深めたのであった。すなわち、社会党は構造改革路線にもとづく政転闘争の泥沼のなかで、炭鉱合理化をめぐる階級的大決戦をたたかわずして敗北にみちびき、日本労働運動の深刻な危機をもたらしたのであったが、他方、日本共産党は、中国共産党=毛沢東路線を支柱とする左翼スターリン主義の残光をもって自己の裏切りを粉飾しながら、実際には、右翼的な党勢拡大運動と議会主義への堕落をいっそう深め、日本労働運動の停滞と危機をますます促進したのであった。こうした既成左翼の屈従のなかで、日本階級闘争はじりじりと後退を余儀なくされたのであったが、一方、日本帝国主義は、六〇年闘争で失った陣地をつぎつぎと奪いかえしながら、いわゆる高度成長のつくりだした「黄金の六〇年代」の幻想と結びつけて、階級闘争の終末の到来をイデオロギー的に鼓舞したのであった。まさに、こうした日本階級闘争の主体的危機を根底的に突破し、日本革命の勝利にむかって六〇年安保闘争の敗北を階級的に推転させる力は、ただ若き革命的左翼のあらたなる前進のうちにのみ約束されていたのであった。だが、それは、いくたの内外する困難をかかえた苦闘の歴史を意味していた。
 すなわち、六〇年安保闘争において一敗地にまみれた革命的左翼のまえには、一方では、マルクス主義の革命的核心としての世界革命論を現代的に展開する革命的綱領=反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略と、その一環としての日本革命戦略をねりあげ、マルクス経済学の現代的確立をもってそれを基礎づける実践的=理論的営為をなしとげていくたたかい、他方では、日本帝国主義国家権力と、それに屈服した日本労働運動内部の日和見主義的諸潮流の内外する圧迫をはねのけて、日本革命を担いうる革命的労働者党を創成していく努力のなかで、同時に、過渡的に形成された前衛部隊をもって現実の階級闘争の真只中にとびこみ、自己の理論と組織と政治的熟達をかちとっていくたたかい、という一個にして二重の実践的任務がひかえていたのであった。反帝国主義・反スターリン主義のための革命党創成のたたかいとは、こうしたものであったし、また、わが同盟と、それを前衛とした革命的共産主義運動は、安保敗北以後、こうした階級的任務にたいし、一瞬間の空隙もなしに、一貫して組織的実践を追求し展開してきたのであった。六七年の十・八羽田闘争と、それを突破口とする一年有半をこえる血みどろの永続的激闘は、多くの人びとにとっては青天の雷鳴のようなものであったかもしれなかったのであるが、われわれにとっては、六〇年安保敗北後の営々たる準備を跳躍台とした、雌伏一〇年、待ちにまった突撃の開始であったのである。
 今日、日本帝国主義とその政治委員会は、七〇年をまえにして伝統的な戦後政治支配構造の深刻な動揺に直面しているのであるが、それは、さしあたって、自民党の議会内圧倒的多数を基礎とした一・五大政党制的な永久政権支配が、自民党得票数の傾向的な低下を契機として歴史的動揺を開始したことのなかに、具体的指標をみいだすことができるであろう。だが、もっとも根源的な意味は、自民党が半永久的な多数支配をつづけ、その体制のうちに議会内野党をあまりにも強力に包括してしまった結果、自民党支配の動揺にもかかわらず、自民党にとってかわる政党的選択の余地が事実上なくなってしまっていること、しかも、既成左翼指導部の支配力の低下と革命的左翼の台頭という新しい状況のなかで、自民党に反発する左翼的傾向を体制内に吸収する構造的保障が解体してしまったことにあるといえよう。
 すでに述べたように、佐藤政府は、議会制的支配体制の動揺と、革命的左翼を主軸とする安保粉砕・日帝打倒のたたかいのたかまりを強権的にのりきるために、行政権力のボナパルティズム的強化=警察国家への道をますます強めはじめているのであるが、こうした反動的攻撃が強まれば強まるほど、革命的左翼もまた、飛躍的なひろがりをもって永続的に戦列を強めはじめているのである。自衛隊の御用雑誌『国防』で毎日新聞の三好修論説委員は、「先進国のこれからの安全保障、防衛の問題は国内にある潜在的な内乱に対処していくとらえ方が必要だ」とのべているが、まさに、安全保障の究極は、革命的左翼にたいする予防反革命にしぼられはじめているのである。だが、それは、革命の「明白かつ現実的な危険」のたえざる強化への不安を示すものでしかないのである。事実、わが同盟とそれを前衛とする革命的共産主義運動は、羽田以来の血みどろのたたかいのなかで幾百の同志を帝国主義国家権力に奪われ、また死傷者を続出させながらも、かえって戦列を質的にも量的にも飛躍的に増大させ、たたかいの追認的展開こそ主体的未成熟を克服する実践的な道筋であることをあきらかにしてきたのであった。
 われわれは、学生戦線や総評・中立労連翼下の労働戦線の中枢にたたかう中核の不抜の建設をなしとげ、七〇年安保の階級的決起の突破口をつくりだしたばかりでなく、民社――同盟――IMF翼下の民間産業にあっても、労働貴族の伝統的支配の亀裂と空洞化をついて、労働者の戦闘的爆発にむかっての水路を広く掘りすすめはじめているのである。社・共既成左翼の経済主義的批判が資本=民社の厚い壁のまえにはねかえされ、無力感にうちひしがれているとき、大工場の労働者たちは、資本の重圧にたいする反逆のこえを「革命」の叫びのまえにひらこうとしているのである。かくして、七〇年安保闘争は、六〇年において破産を示した日本階級闘争をのりこえた地点において開始されたのである。
 七〇年安保闘争は、日本階級闘争の防衛的反撃の時代から攻勢的闘争の時代への歴史的画期を示すものとなるであろう。もちろん、直接的には、七〇年安保闘争は、日本帝国主義の七〇年安保を基軸とする侵略と暗黒政治の道にたいする、日本労働者階級の生活と権利をかけた防衛的反撃のたたかいであり、それゆえ、帝国主義の攻撃の全面的性格が、労働者人民の反撃の全面的なひろがりを規定しているのであり、労働者階級=人民大衆の七〇年安保粉砕のたたかいが全階級的・全階層的な発展を示している根拠は、まさにこの点にあるのである。だが、帝国主義国家権力の凶暴な弾圧にもかかわらず、七〇年にむかって安保粉砕の戦列がたえず永続的発展の方向を示しているのは、敵の攻撃の厳しさからだけではなく、七〇年安保闘争として展開されようとしている反撃の質のなかに、反撃戦にとどまらない民衆の側にとっての攻撃的性格を、多くの民衆が感じとっているからである。七〇年にはなにか大変なことがおこるのではないか、という民衆の期待感の基礎には、現状の変化を望む不定形な意志がいきづきはじめているのである。
 労働者階級=人民大衆の先進的部分の不断に拡大する行動化は、七〇年安保への階級的・人民的対決=七〇年安保闘争の革命的爆発にたいする不抜の確信を基礎にしているのである。事実、民衆の側が、総力をあげて日本帝国主義の体制的危機をかけた全面的攻撃をはねかえすことに成功するならば、たんに敵の攻撃にたいする防衛的対応にとどまらず、日米安保同盟政策を粉砕し、日本帝国主義を打倒する永続的なたたかいの突破口をきりひらくことが可能なのである。七〇年代日本階級闘争の基本的動向の決定権は、まだ、いかなる政治的勢力の手にも掌握されてはいないのである。
 日本帝国主義と、その政治委員会としての佐藤政府の七〇年安保にたいする攻撃の積極性は、その政治路線の非選択性にもとづく政治姿勢の非妥協性にあるのであり、その本質とするところのものは、日本帝国主義の体制的危機にたいする深刻な階級的使命なのである。したがって、七〇年安保にたいする労働者階級=人民大衆のたたかいは、安保粉砕・沖縄奪還を基軸としながら、日本帝国主義打倒の方向にむかっての非妥協的な指導性をつらぬきとおすことが必然となるのである。
 六九年日本階級闘争は、帝国主義的秩序のうちに自己の勢力の増大と維持をはかろうとしてきた既成左翼指導部と、帝国主義的秩序の「破壊と混乱」のうちに自己の生命力の充足と飛躍をみいだす労働者階級=人民大衆とのあいだに、冷酷なる衝突と分裂とを全社会的に生みだしながら進展するであろう。歴史の深部において進行するこの衝突と分裂を自己の実践行為のうちに貫徹しうるものだけが、日本階級闘争において真実の勝利を準備しうるのである。
 まさに六九年四・二八沖縄奪還闘争こそが、七〇年闘争を左右する決定的意義をもっていることを、われわれはいささかのためらいもなく率直に、すべての労働者階級人民のまえに語らなければならないのである。四・二八闘争の爆発こそが、五、六月沖縄県民のたたかいの再度の巨大な高揚をつくりだし、十一月佐藤訪米を、十一月を待たずして爆砕する政治状況をいっきょに生みだすことを可能にするであろう。四・二八沖縄奪還闘争の爆発こそが、七〇年闘争の巨大な高揚と、それにひきつづく七〇年階級闘争の革命的発展をきりひらく鍵となるであろう。四・二八闘争なくして七〇年はないのだ。六九年の階級闘争こそ七〇年を決定するのだ。
 かつて、カール・マルクスは、有名な学位論文「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」において、きたるべきドイツ革命の切迫性を予知しつつ、「もしその時代が巨人族の戦いで特色づけられるとすれば、結果は、幸福な時代である」と明言したが、われわれもまた、旧き時代の崩壊のもたらす巨人族の闘争の時代を幸福としてうけることに、一片のためらいもあってはならないのである。
 
 第三章 革命の現実性
         ――世界史的転形期としての現代――
 
 第一節 緊迫する日本革命
 
 七〇年にのぞむ日本帝国主義の基本的政治姿勢は、侵略と暗黒政治の道である。日本帝国主義と、その政治委員会としての佐藤政府は、アメリカ帝国主義のベトナム敗勢を導火線とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機にたいして日米安保同盟の再強化をもって対抗する侵略的・強盗的政策を確定するとともに、他方、日本帝国主義の二五年におよぶ戦後的支配が累積した内外する諸矛盾の深刻化と、それにもとづく日本階級闘争の永続的爆発にたいし、強権的支配の強化をもって「解決」しようとする反動的攻撃を本格的に開始した。
 アジアと日本の人民に敵対する日本帝国主義の侵略と暗黒政治の道にたいし、これに屈服して暗黒と痛苦のうちに生きるのか、それとも、これを粉砕して激動と希望のうちに生きるのか――日本労働者階級と人民大衆のまえに、問題は厳然としてこう設定されているのである。
 日本はどこへ行くのか――この疑問にたいする日本帝国主義の回答はきわめて明確である。かれらには、すでに選択の余地はないのである。だが、労働者階級と人民大衆の回答は、まだ不明確さを残している。沈黙と無関心のうちに破滅への転落を開始するのか、それとも、反撃と変革のうちに未来への端緒を把握するのか。日本の命運は、まざれもなく、民衆の決意と行動にかかっている。
 ふたたびいう、日本はどこへ行くのか――この疑問にたいする日本労働者階級と人民大衆の回答は、明確でなくてはならない。戦後二五年におよぶ屈辱と痛苦と腐敗の生活の全体系をこなごなにうち砕くたたかいが、いま日本の命運をかけてはじまろうとしているとき、労働者よ、人民よ、あなたは、偽りの平和のうちにまだ惰眠をむさぼろうというのか。
 だが、日本帝国主義の破局はもうすぐそこまできている。アメリカ帝国主義のアジア支配をゆるがす世界史的な大破綻が、日米安保同盟を基軸にして日本帝国主義のうえに厳しくのしかかろうとしているのである。もちろん帝国主義者たちは、「安保があればこそ日本の平和と安全は保障されてきたのだ」というであろう。たしかに、日本帝国主義にとっての「日本の平和と安全」が、古典的なアジア植民地体制の歴史的崩壊に対抗してアメリカ帝国主義を基軸に形成された超軍事的な帝国主義アジア支配体制と、それへの日本の参加を唯一の世界史的条件としていることは、疑うべからざる事実である。だが、いまや、帝国主義アジア支配体制そのものが、全面的崩壊の危機に瀕したのである。したがってまた、帝国主義者にとって七〇年安保とは、帝国主義アジア支配体制をたて直すいっそうの絶望的な事業に日本の命運をかけようとするものにすぎないものであり、その破綻はあまりにも明白というほかはないのである。
 日本はこれでいいのか――この疑問にたいする日本労働者階級と人民大衆の回答は、もっと明確でなくてはならない。
 日本帝国主義が侵略と警察政治の道をえらぶことなしには、自己の命運を維持しえないとするならば、日本労働者階級と人民大衆は、日本帝国主義打倒の道をえらぶことをとおして侵略と暗黒の政治に終止符をうつことになるであろう。もちろん、日本帝国主義の日米安保同盟政策を粉砕するたたかいは、日本帝国主義打倒の立場を直接的な前提とするものではない。侵略と暗黒政治の道にたいする多様な立場からの反撃の総和が、安保粉砕のたたかいの爆発を基礎づけるのであるが、にもかかわらず、安保粉砕のたたかいを日帝打倒の戦略的方向にむかって意識的=前衛的に指導する全体的立場が組織的に保障されることをとおして、はじめて、安保粉砕も可能になるし、また日帝打倒のたたかいの永続的発展もなしうるのである。事実、日本帝国主義の山積する諸矛盾の深刻化は、革命をもってその矛盾を解決するのか、それとも、革命の制圧をもって矛盾の爆発の暴力的回避をはかるのか、という根底的問題をつきつけているが、その結節点をなすものこそ、七〇年安保をめぐる階級的=大衆的闘争の爆発なのである。
 七〇年安保闘争をどうたたかうのかというかたちをもって、日本革命の緊迫性がいまひとしく問われている。もし革命家を自称するものにしてこの事実を予知しえぬものがあるとすれば、実践的直観力を喪失した無能者というほかはないのである。したがって、こうした根底的な問いかけにたいし、既成左翼指導部が反動的な対応しかなしえないのはやむをえないとしても、反帝国主義・反スターリン主義を唱える自称革命的左翼のカクマル派までもが、この根底的な問いかけにたいし「革命主義反対」のレッテルをもって敵対していることは、わがカクマル派の全自連メンシェビキへの転落をますます鮮明に照らしだすものとして確認されねばならない。
【周知のように、わがカクマル派の無批判的追従の対象としての黒田寛一(山本勝彦)は、一〇年前、スターリン主義の全盛時代に、『ヘーゲルとマルクス』『社会観の探求』の両著作をもってマルクス主義哲学のスターリン主義的歪曲を指弾し、マルクス史的唯物論の黒田的構成をめざすことをとおして、戦後日本唯物論に決定的衝撃を与えるとともに、その後、ソ連共産党二〇回大会を契機とする国際スターリン主義運動の動揺の深まりのなかで、革命的共産主義とスターリン主義との革命的分裂をおしすすめ、革命的左翼の創成においての最重要の指導的役割をはたしたのであった。若き黒田の二労作は、今日においても革命的左翼に理論的基礎を与えるものとして研究されねばならないことはいうまでもなかろう。だが、黒田理論が現代の革命的理論として自己を確立するためには、なお黒田理論に内在する問題性を、マルクス経済学ならびに現代革命論の構築にむかって理論的に止揚していくとともに、黒田自身が自己を革命家として変革していくことが不可避であった。だが、すでにスターリン経済学の批判において、スターリン主義者以下の水準を自己暴露した黒田は、宇野経済学との対決(『宇野経済学方法論批判』)において、みじめな破産を示すとともに、マルクス革命論の現代的展開の方向においても、プレハーノフ以下の右翼的評注家に転落したのであり、かくして黒田いうところの「老エンゲルス的」な解説業=製本屋を営むスネカジリ的陰謀家に自己を固定化してしまったのである。私生活においても地方的資産家の家族的庇護を離れることに恐怖し、いまもなお恥ずべき「左翼失格」的な行為を自己批判すらできないでいるこの人にとって、「プロレタリア的人間の論理」とは、しょせん他者の問題でしかなかったのであろう。個人的会話では黒田をのりこえるなどとこっそり確認しあいながら、黒田の革命家以前的なメンシェビキ的日和見主義に手頃なイデオロギー的粉飾をみいだして腐敗の度合を深めているのが、今日このごろの、わがカクマル派の現実である。】
 しかしながら、全自連メンシェビキの道を歩む現代のプレハーノフと、その無批判的追従者たちが、いかに「革命主義」の非難をなげかけようと、七〇年安保闘争の大爆発と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展のうちに切迫する日本革命の問題を無視しきることは、なんぴとにもできないことであろう。まさに現代の帝国主義は、たとえ平和共存的形態のもとにあるとしても、本質的には、ロシア革命を突破口とする帝国主義から社会主義への世界史的過渡期としての規定性をもつものであり、したがって、帝国主義の世界編成の動揺は、各国帝国主義の体制危機に転化する危機をつねに内包しているのである。なぜならば、現代帝国主義は、二九年恐慌とそれにもとづく世界経済のブロック化という世界史的危機性を、帝国主義の国際的・国内的な体制的な補強政策によって暴力的に回避してきたのであり、その動揺は、ただちに帝国主義の存立条件そのものの動揺に発展せざるをえないからである。したがって、日米安保同盟の問題を体制的選択にかかわるものとしてとらえかえしえないものは、小ブル的平和主義以外のなにものでもないのである。
 七〇年安保闘争の内外する諸条件のうちに日本革命の緊迫性をみいだしうるもののみが、したがってまた、切迫する日本革命に勝利するという実践的立場にふまえてたたかいうるもののみが、七〇年安保闘争の革命的爆発と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展において真の勝利をおさめることができるであろう。わがカクマル派が革命をすてるか、それとも、革命がわがカクマル派をすてるか、歴史は冷酷なる回答を与えることであろう。だが、いずれにせよ、カウッキー、プレハーノフらの背教者が、つねに、革命を「賃労働と資本」の矛盾の純粋的発現形態として経済主義的に夢想しながらも、「賃労働と資本」の基本矛盾を基礎として具体的に現実化する革命の緊迫性のなかで、「これは革命ではない」「プロレタリアートの権力奪取は時期尚早だ」と現実の革命に敵対していったことは、偶然の一致とはいいえない内的関連性をもつものとして確認しておく必要があるであろう。
 
 第二節 現代革命の根本問題
 
 周知のように、革命党の綱領は、労働者階級の革命的実践を基礎とする資本の積極的止揚をとおして人間の人間的解放を実現するという究極目標と、そこにいたる具体的条件の一般的解明、そして、そこにおける党の役割を統一的に示すものであり、したがって、それは当然、いわゆる革命戦略を内包することになるのであるが、その革命戦略とは、究極目標を達成するうえでの打倒対象と革命主体との具体的関連性を、プロレタリア権力論を媒介として示す概念であるといえよう。
 したがって、各国階級闘争の個別具体的な戦略問題は、さしあたって、各国的な労働市場構成と、それを基礎とする階級闘争にふまえながら、直接的には、打倒すべき国家権力の階級構成と、その統治形態、そして樹立さるべき労働者国家の同盟軍問題として規定されるであろうが、にもかかわらず、それは、資本蓄積様式の世界史的規定性にもとづく資本主義世界市場の具体的編成と、その矛盾の性格にかんする世界史的把握を基礎として構築されるプロレタリア世界革命戦略を前提とし、その有機的一部分をなすものとしてはじめて成立しうるものである。かつて、スターリンは、ブハーリンとの合作になる 『コミンテルン世界革命綱領』(二八年のコミンテルン第六回大会に提案)において、各国革命戦略を二段階戦略的に分類し、そのモザイク的総和として世界革命戦略を構成したのであるが、それは、世界市場論を基礎としたマルクス世界革命論を原理的に否定するものであり、スターリン主義的一国社会主義理論の戦略規定的な適用形態としてとらえかえされねばならないのである。
 われわれは、今日、現代世界革命の統一的な綱領的立脚点として「反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略」を提起し、その日本的適用として「安保粉砕・日帝打倒」戦略をあきらかにしているが、当然それは、現代帝国主義の世界市場編成の特殊歴史的性格にかんする把握にもとづいているのである。
 すなわち、ロシア革命を突破口とする帝国主義から社会主義への世界史的過渡期が、この過渡期の革命主体としての国際共産主義運動が「一国社会主義理論と平和共存政策」をテコとしてスターリン主義的に歪曲したことを根拠とすることによって、帝国主義の史上未曾有の矛盾の爆発(二九年大恐慌と、その矛盾のけいれん的大爆発としての第二次世界大戦)にもかかわらず、それを革命をもって根本的に解決することができず、逆に、人民戦線戦術と平和共存政策とをもって帝国主義の延命を支援するところとなったために、「帝国主義とスターリン主義の平和共存的形態」として歪曲的に現象しており、その結果、帝国主義は、特殊戦後的規定性をもってではあれ、世界編成を構成するところとなり、その世界市場編成のうちに「スターリン主義圏」をも包摂しながら、独自的な矛盾の展開をなすものとなったこと――こうした現代帝国主義の世界史的な性格と、その反面としての過渡期社会のスターリン主義的変質とを、統一的に把握するという問題意識を基礎としているのである。
 したがって、われわれの「反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略」は、帝国主義打倒・世界社会主義革命という二〇世紀的課題の今日的な貫徹形態としてうちだされたものであること、すなわち、過渡期の「一国社会主義」的歪曲と、それにもとづく帝国主義の延命を世界史的根拠として、世界革命戦略のうちに反スターリン主義という特殊的課題を包摂せざるをえなくなったということである。帝国主義を永続的に打倒し、世界革命を達成していく事業と、過渡期社会の一国社会主義的変質ならびに、それにもとづく国際共産主義運動のスターリン主義的歪曲を打倒し、世界革命の前進をかちとっていく事業とは、労働者階級の自己解放をとおして人間の人間的解放を実現するという、共産主義的究極目標のうちに統一される一個二重のたたかいなのである。いいかえるならば、世界の帝国主義と社会主義との世界史的な分裂が、社会主義にむかっての過渡期社会の変質を根拠として、帝国主義と「社会主義」=スターリン主義との共存として現象している現状を、世界革命の達成にむかって統一的に示したものなのである。それゆえ、それは現代革命の根本問題そのものにかかわる戦略問題なのである。
 さて、現代革命の根本問題を解明するうえで、まず第一に確認しなければならない点は、帝国主義は死滅しつつある資本主義であるということである。
 周知のようにマルクスの世界革命論は、世界市場としてあらわれる資本の巨大な生産力と、それを基礎づけるプロレタリアートの大量的産出とを世界史的根拠として、プロレタリアートが自己の疎外された活動の結果としての資本を積極的に止揚し、自然と人間、人間と人間との本源的関係を世界史的に創出していくたたかいを意味するものである。当然、このような世界史的過程は、資本の専制支配を維持しようとするブルジョア国家を階級闘争をとおして打倒し、労働者国家の手に資本家的私有財産を没収し、社会全体の幸福と全人間的発展をはかる方向で社会的生産過程の計画的組織化をおこない、かくして社会の階級への分裂を廃絶し、被抑圧階級全体を解放するものとして現われるであろうことはいうまでもないところである。
 このようなマルクスの立場は、近代ブルジョア革命の産物でありながら近代ブルジョア社会においては解放されないところのプロレタリアート、人間社会の富の主体的創造者でありながら、富と人間性の喪失者としてのみ実存を許される労働者階級の自己解放の理論としてうちだされたものであるが、しかし、それは、同時に近代ブルジョア社会の物質的基礎過程としての資本家的商品経済が、人間生活の物質的生産という社会的原則の特殊歴史的な現実形態であることをあきらかにしたこと、いいかえるならば、労働力の商品化を基礎とする価値法則の自己展開をとおして、社会的総労働の比例的配分が、資本主義なりの方法でおこなわれていることを科学的につかみとることをとおして、はじめて、労働者階級の自己解放の根拠をあきらかに確定しうるものとなりえたのである。
 資本主義の帝国主義段階への世界史的推転は、イギリスを「世界の工場」とした資本主義の発展にたいするドイツ、アメリカなどの重化学工業をもってする対抗的登場と、これにたいするイギリスの防衛的対抗を基軸とする世界市場編成の変動を舞台としておこなわれたものであり、それはまた、産業基軸の転換にもとづく産業資本的蓄積様式から金融資本的蓄積様式への段階的変化を基礎とするものであった。
 こうした歴史的変化をまえにして、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてベルンシュタインは、「資本主義は変った、マルクス主義は古くなった」と主張し、それへのカウツキーの反論をめぐって著名な論争がおこったのであった。周知のように、両者に共通する経済学的弱点は、段階論的な方法の欠如にあったのであるが、同時にそれは、資本主義の具体的条件のうちに革命を貫徹する実践的立場、すなわち帝国主義段階への世界史的推転という事態をもって、切迫する革命の現実性への革命家としての直感の喪失にあったことをみおとしてはならない。
 まさに、こうした不毛の論争を止揚し、二〇世紀革命の根本問題を実践的にあきらかにしたものこそ、農民=農業問題、民族=植民地問題、戦争問題という帝国主義段階に特有な諸矛盾のプロレタリア革命的解決にむかって実践的苦闘をつづけていたレーニンが、『帝国主義論』をもって指し示した方向であった。株式会社制度を基礎とする金融資本の形成、市場の独占的支配の強化と、それにもとづく中小資本、農業など小生産者からの収奪、労働者支配の強化と高蓄積、価格の硬直化にともなう社会的再生産の調整機能の鈍化と、それにもとづく不況の長期化、大衆収奪を基礎とする財政の尨大化など、帝国主義の累積する諸矛盾は、一方では、資本の輸出、世界の再分割をめぐってそのけいれん的矛盾を世界戦争として爆発せしめるとともに、他方では、労資の階級的対立を激化させ、農民、都市中間層、植民地人民をプロレタリア革命の方向に吸引せしめるのである。したがって、プロレタリアートとその党は、マルクス世界革命論を資本主義世界市場のこのような具体的=段階的な世界編成にもとづいて世界戦略的に発展させねばならなかったのである。帝国主義は、資本切蓄積過程のうちに非資本主義的関係を前提とするという意味において、没落しつつある資本主義であるが、また同時に、その累積する諸矛盾の爆発をとおして帝国主義打倒の勢力を成長させるという意味でも、没落しつつある資本主義なのである。
 現代革命の根本問題を解明するうえで、第二に確認しなければならない点は、われわれは、ロシア革命を突破口とする帝国主義から社会主義への世界史的過渡期の時代に生きている、ということである。
 すでに指摘したように、こういう世界史的認識に反対して、「現代世界」を「平和共存的時代への過渡期」とみなす右翼スターリン主義者の見解、同じように、「現代世界」を、「管理社会」や「官僚社会」や「集産社会」や「国家資本主義」や「帝国主義とスターリン主義の分割的千年支配」やらへの「過渡期」とみなす、革命的左翼からの右翼的脱落者たちの見解が新左翼の名のもとに氾濫しているが、にもかかわらず、現代世界の基本的性格は、世界革命への過渡期としての特徴のうちにあるのである。まさに、このような世界史的な画期をつくりだしたものが、一七年のロシア革命であった。
 周知のように、ロシア革命は、第一次大戦として爆発した帝国主義戦争を内乱に転化し、労働者階級の革命的権力機関としてのソビエトの樹立をとおして、世界革命の突破口をきりひらいたものであったが、このような勝利を主体的に準備した決定的契機は、いうまでもなく、レーニン主義とその党であった。
 レーニン主義は、(1)帝国主義段階論の確立、(2)農業=農民および民族=植民地問題のプロレタリア革命的解決(二段階戦略の克服)、(3)帝国主義戦争を内乱へ! の貫徹、(4)ソビエト権力の樹立、(5)前衛党組織における目的意識性と規律性の明確化、(6)過渡期の経済政策の追求、という二〇世紀革命の主要な部面において普遍的な経験と教訓を示しているといえよう。二〇年代の西欧革命の敗北をもってレーニン主義の東方的性格なるものを結論づけ、レーニン主義の西方社会的修正を試みようとするものは、実践的には、レーニン的プロレタリア独裁論の放棄を要求するものでしかないのである。
 もちろん、帝国主義の包囲のもとでの孤立、ロシア経済の後進性、ヨーロッパ革命の遅延、という内外する困難のなかで、新経済政策(NEP)の採用にむかわざるをえなかったロシア革命は、ソビエトの事実上の解体、小商品経済の全面化、党機構の官僚化、そしてレーニンの死という条件のもとでうちだされた一国社会主義理論の勝利によって、根本的変質をうけるものとなった。すなわち、それは、一方では、西欧革命を先駆とする世界革命との結合と、それによるロシアの個別的困難の突破という方向の喪失、スターリン主義的集団化=工業化政策をもってする「労働の量と質にもとづく分配」という、社会主義にむかっての過渡期社会建設のスターリン主義的変質をもたらすとともに、他方では、ロシア・スターリン主義官僚の一国社会主義的利害の犠牲として、世界革命の達成をめざす国際プロレタリアートのたたかいが歪められ、敗北していくという悲劇としてあらわれたのである。いわば、帝国主義から社会主義への世界史的過渡期は、革命的主体の側において重大な歪曲を内在することになったのである。かくして国際帝国主義は、国際共産主義のスターリン主義的変質を条件として、世界史的過渡期の「平和共存体制」としての擬制的な変容を、大恐慌からヤルタ協定を基調とした帝国主義戦後体制の成立にいたる史上未曾有の激動・戦火・裏切りの過程をとおして完成するのであるが、にもかかわらず、それは「平和共存体制」という表現からもあきらかのように、帝国主義と「社会主義」(=スターリン主義)の世界史的分裂という歴史的基底を根底的に解決して、帝国主義の単一的世界体制を回復することはできなかったことを意味しているのである。
 現代革命の根本問題を解明するうえで第三に確認しなければならなかった点は、二九年恐慌と、その深刻な影響のもとで展開された革命と反革命の激突のもつ意味をぬきにして現代世界を考えることができない、ということである。
 周知のように、二九年恐慌は、第一次大戦後の帝国主義の世界市場編成の矛盾、すなわち、米欧間の富と生産力の偏在を解決するためのアメリカ資本のヨーロッパ輸出が、同時に競争国ドイツの繁栄をもたらすという、いわゆる相対的安定期の構造的矛盾が、アメリカ経済の熱病的な繁栄の破綻を契機として大爆発したものであったが、それは、ただちに、ドイツをはじめ全世界の帝国主義国の経済危機の深刻化と、それにもとづく階級闘争の史上空前の激化をもたらすとともに、危機の革命的解決か、革命の制圧による帝国主義の延命か、という世界史的選択を全世界の人類に問うものとなったのである。
 革命と反革命との激突がもっとも厳しい意義をもって展開されたのは、ドイツであった。一八年以後の数年にわたる戦後革命の激動と、いわゆる相対的安定期のもとにあってもなお執拗につづけられたドイツ労働者階級のたたかいを、社会民主主義の協力のもとに制圧してきたドイツ帝国主義は、二九年恐慌による経済的大破局という深刻な事態から脱出するために、産業合理化のいっそうの強行と東方にむかっての侵略態勢の確立にいっさいをかけようとしたのであった。だが、そのためには、当然ドイツ労働者階級の組織的=軍事的抵抗と、その政治的陣地をなしていたデモクラシーとを徹底的に粉砕することが必要であった。
 かくして、ドイツ帝国主義にとって革命か反革命かという歴史的選択は、ドイツ労働者階級の抵抗とその政治的条件を破壊しうる可能性をもった唯一の政治勢力としてのナチスの選択を意味したのである。このような政治情勢の到来は、ドイツ共産党ばかりか、ドイツ社民党の壊滅をも約束するものであった。トロッキーが正しく指摘したように、「ファシズムは社会民主主義の廃虚のうえにのみ勝利しうる」のであった。だが、すでにスターリン主義的変質を深めていたテールマンらドイツ共産党指導部は、社民党をファシズムの左の翼と規定して、共産主義者と社会民主主義者との反ファシズム統一戦線に反対し、ファシズムの勝利に道をあけたのであった。かくして、十数万の労働者自衛部隊をもち、数十万の党員をもち、数百万の支持者を擁したドイツ共産党は、ナチスと一戦も交えることなく壊滅したのであったが、骨まで腐りきったモスクワは、ドイツ内政への不干渉を声明するのみであった。
 ドイツにおけるファシスト反革命の勝利につづいて革命と反革命の決戦場となったのはフランスであった。三四年二月六日の王党派ボナパルティスト、ファシストの右翼暴動の爆発の危機にたいし、当初は社会党の統一戦線の申し入れを拒否していたフランス共産党は、一転して人民戦線への参加を承認するや、一方では、中間的小ブル政党としての急進社会党への右翼的追従を深めるとともに、他方では、大恐慌にもとづくフランス経済の破局的危機にたいし、ジュオーの「国有化プラン」にすら右側から反対し、改良主義以下の「当面の諸要求」の羅列に腐心したのであった。社会ファシズム論を唱えてドイツにおける反ファシズム統一戦線を拒否したコミンテルンのスターリン主義指導部は、フランスにおいては、帝国主義の危機にたいする改良主義的大連合としての人民戦線への右翼的没入をおこなったばかりか、人民戦線政府の成立という政治情勢のもとで積年の要求を爆発させ、巨大な工場占拠の高まりをみせたフランス労働者階級にたいしてトレーズは「一切は可能ではない」とブレーキをかけ、さらには「革命的敗北主義」の立場を放棄して、国防を全面的に認めることを公然と宣言し、ついには、ドイツと対抗するなら右翼とも協調する意図をあきらかにするところまで転落したのであったが、それに連続したのは親ファシスト政権の成立であった。
 一方、スペインにおいては、スペイン共産党は、アナルコ・サンジカリストやPOUM(マルクス主義統一労働者党)にたいする右翼的対抗勢力としてスターリンの援助のもとに育成されたのであったが、それは、人民戦線の名のもとに、スペイン革命の左翼的展開を徹頭徹尾弾圧する武装反革命集団として登場し、革命の終末とともに役割をおえたのであった。
 かくして、二九年恐慌にもとづく、革命かファシスト反革命かという三〇年代の歴史的選択は、スターリン主義者の「左」右のジグザグに助けられてファシスト反革命の勝利のうちに収拾されたが、帝国主義のけいれん的矛盾はそれによって終るものではなかった。すなわち、各国経済をして金本位制の崩壊と革命の切迫化という異常な情勢のもとで、国家独占資本主義に推転せしめながらも、国際帝国主義は、世界経済のブロック化の矛盾を世界戦争として爆発させたのであった。
 したがって、ナチス経済政策とニューディール経済政策を両軸としたいわゆる国家独占資本主義は、けっして金融資本的蓄積形態と段階論的規定性を異にする独自の歴史形態とみなすべきものではなくして、あくまでも、金融資本的蓄積形態が内包する資本主義の矛盾の激化と、それにもとづく体制的危機の深まりにたいする具体的な対抗政策の展開過程として把握されなくてはならないのである。したがってまた、それは、帝国主義段階に特有な資本主義の諸矛盾、すなわち、過剰資本の慢性化とその犠牲を他者に転嫁するための独占資本の攻撃をいっそう体制内化するものとして現象するのであり、管理通貨制度にもとづく国内経済の特殊な均衡政策の矛盾を、国際通貨制度の危機、ならびにインフレの増進的拡大として爆発せざるをえないところなのである。
 現代革命の根本問題を解明するうえで、第四に確認しなければならない点は、二九年恐慌と、それにもとづく世界経済のブロック化の矛盾のけいれん的爆発としての第二次世界大戦の終了の過程は、当然、戦後革命の高揚に転化されなければならなかったにもかかわらず、いわゆるヤルタ協定を基底とする特殊戦後的な帝国主義的戦後処理として収拾されたということである。
 周知のように、政権を掌握したヒトラーは、一方では、国家独占資本主義的政策の展開をもって独占の他者への犠牲転嫁をはかるとともに、他方では「生活圏問題解決」というペテン師的スローガンのもとに東方にむかっての伝統的侵略を開始したのであった。スターリンは、ナチス・ドイツのこのような攻撃にたいし、当初は英仏と適合して対抗するかまえをみせたが、ヨーロッパ大陸がイギリスをのぞいて基本的にファシスト制圧下に入りつつあるのを確認すると、ナチスとの交渉をはじめ、独ソ不可侵条約の締結をもって世界戦争の危険からソ連を平和共存的に回避させようとしたのであった。だが、帝国主義的矛盾が世界戦争として爆発し、ドイツの対ソ侵入を契機として、この過程のうちにソ連が暴力的に包摂されると、スターリンはふたたび連合国との同盟政策に復帰し、そのうえ、第二次大戦を「ファシズムと民主主義のたたかい」として規定し、労働者階級をして祖国防衛主義とブルジョア民主主義のまえに綱領的に屈服させたのであった。
 いわゆるヤルタ協定を基底とした戦後処理は、このようなスターリン主義者の綱領的屈服を前提としながらも、米英帝国主義が、東欧のソ連圏への包摂を代償にして、戦後世界の帝国主義的再編成をおこなったものである。この基底のうえに、一方では、ドル・ポンド国際通貨制度といわゆる集団安保体制を両軸とする帝国主義戦後世界体制を成立させるとともに、他方では、東欧の官僚制的共産党政権化を基礎として、ワルシャワ条約機構とセフ(SEV=コメコン)を両軸とするスターリン主義ソ連東欧体制が形成されたのであった。後者にかんして、スターリン主義者は「社会主義世界市場の形成」として美化するが、それはソ連一国社会主義の矛盾の東欧への犠牲転嫁機構を意味するものであり、したがって東欧諸国の不均衡的発展の強制を余儀なくせしめるものだったのである。
 だがアジアにおいては、太平洋戦争における古典的植民地体制の軍事的破壊、西欧帝国主義の後退、日本帝国主義の敗退という条件のもとで反帝闘争が激化し、中国革命の政治的契機としてアジア情勢の情勢的変動がおこった。アメリカ帝国主義は、アジア情勢への緊急的対応策として超軍事的アジア支配体制構築の攻撃を加え、これをめぐって危機はいっそう深刻化したが、五四年のジュネーブ会談を転機として中国共産党が平和外交にむかうにおよんでアジアに擬制的平和が訪れ、戦後世界のいちおうの完成がみられたのである。
 だが、すでに第二章において検討したように、ヤルタ協定的戦後処理を基底とした帝国主義戦後世界体制は、ドル危機として戦後国際通貨制度の根底によこたわる矛盾をあらわすとともに、それを基礎として帝国主義的集団安保体制の人為的構成を動揺させはじめている。もちろんこのような帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、特殊戦後的性格に規定されて安易に解体にむかうわけにはいかないのであるが、にもかかわらず、このような屈折した表現をとって、帝国主義がふたたび三〇年代的矛盾のうちにラセン的に回帰しはじめていることを積極的に注意する必要があるのである。
 現代革命の根本問題を解明していくうえで、第五に確認しなければならない点は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、二九年恐慌と、これにもとづく世界経済のブロック化という現代帝国主義の基底的矛盾を照らしだすとともに、国際労働者階級にたいし、三〇年代階級闘争において直面した課題、しかしながら、そこにおいて勝利的に貫徹しえなかった課題が、いまふたたび世界的に接近しつつあることを告げ知らせていくのである。
 三〇年代から六〇年代にかけての約四〇年間の世界史は、ユーゴ革命および中国革命、バンガリア革命を中間的な衝撃としながらも、基本的には、帝国主義が度重なる矛盾の爆発にもかかわらず、スターリン主義陣営の一国社会主義理論と平和共存政策とに助けられて延命する過程であり、したがってまた、社会主義の名のもとに帝国主義への屈服を強制され、社会主義の名のもとに過渡期社会のスターリン主義的変質を承認させられる過程であったのであり、それらは、労働者階級と人民大衆にとって、屈辱と苦しみと絶望のたえまない連続的経験の日々であったのである。だが、いまや世界史は、現代世界のもつ矛盾的姿態をしだいに照らしはじめた。帝国主義戦後世界体制の根底的動揺は、これにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産をめぐって分解と対立を深めているが、それは同時に、国際階級闘争のあらたな革命的胎動を呼びさますものとなってもいるのである。
 
 第三節 国際階級闘争の新たな革命的胎動
 
 以上のかんたんな歴史的解明からもあきらかなように、現代世界は、本質的には、帝国主義時代から社会主義時代への世界史的過渡期が、変革の主体をなす国際共産主義運動のスターリン主義的変質と、それにもとづく国際帝国主義の基本的延命を条件に「帝国主義とスターリン主義の平和共存的変容形態」として現象しているものである。アメリカ帝国主義を盟主とした帝国主義戦後世界体制の形成にかんして、それを帝国主義的矛盾を解決したあらたな国際協力機構であるかのごとく美化する評価が山積していることは周知のとおりであるが、にもかかわらず、現代帝国主義は、段階、過渡、変容という三つの具体的な世界史的規定を内包したものであるばかりか、一方では世界革命の平和共存形態的変容と、ヤルタ協定に基礎をおくその国際連合的な政治的上部構造化、他方では集団安保体制ならびにドル・ポンド国際通貨制度を両軸とする帝国主義戦後世界体制の形成と、それを前提とした国家独占資本主義政策の展開をもって「戦争と革命の危機」を制圧しているきわめて異常な性格をもった政治経済体制なのである〔マルクーゼは『工業化社会とマルクス主義』において、現代帝国主義が古典的帝国主義から自己を区別する指標として恐慌と帝国主義ブロックの矛盾の終末の二点をあげているが、このような通俗的評価は、スターリン主義者のそれと同様、マルクス経済学にかんするイロハ的無知を示したものといわざるをえないのである〕。
 それゆえ帝国主義は、今日では、つぎにのべる基本的に二つの水路をとって帝国主義的矛盾の深刻な爆発を加重しはじめているのであり、それは、本来的な帝国主義時代の段階論的諸矛盾をいっそう豊富で、いっそう多面的な形態をもって登場せしむるものとなったのである。まさに現代帝国主義の延命と戦後的膨張を可能ならしめていた条件そのものがあらたな矛盾を構成し、それが水路となって帝国主義時代の基本的階級対立が激化するという構造を示しているのである。すなわち、第一には、構造的インフレおよび国際収支の悪化として主に発現しはじめたところの恒常的な半軍事経済=ケインズ的財政金融政策に特有な矛盾の累積と爆発であり、第二には、アメリカ帝国主義のドル危機=国際通貨危機として示されたところの帝国主義の戦後的世界市場編成の矛盾の累積と爆発であり、第三には、ベトナム侵略戦争における米帝の敗勢と、それを導火線とした帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機を焦点として進行しているところの、帝国主義の軍事的な世界支配体制の矛盾の累積と爆発である。こうした一連の危機の深刻化は、特殊戦後的規定性の生みだした矛盾の爆発形態として現代帝国主義を根底的に動揺させ、現代革命の条件を具体的に成熟せしめるとともに、他方、それはこのような危機の深まりと、そこから脱出するための帝国主義的な反動攻撃の激化にたいする対応をめぐって、国際スターリン主義陣営の分解と没落をいっそう深めるものとなってあらわれているのである。
 すでに第一章で指摘したように、国際スターリン主義陣営の盟主を自認してきたソ連スターリン主義は、一方では、西欧戦後革命のヤルタ協定的制圧を代償として東独・東欧をソ連圏に官僚制的に包摂し、ワルシャワ条約ならびにSEVを両軸にソ連・東欧支配体制を形成し、他方では、中国革命を中心とするアジア戦後革命の波をヤルタ協定のアジア版としてのジュネーブ協定をもってワクづけ、中国、北朝鮮、北ベトナムをソ連の農村地帯として官僚制的に再編成しようとしたのであったが、このようなソ連スターリン主義の一国社会主義的対応は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺という主軸的矛盾をまえに、いまや深刻な動揺をうけることになった。
 こうした情勢のもとで、ブレジネフ=コスイギンを指導部とするソ連スターリン主義は、一方では、対米協調路線をもって米ソ分割支配体制の建て直し、他方では、中ソ対決の非妥協的な推進と東欧の動揺の暴力的制圧とをもって、国際スターリン主義陣営の再結束と、そこにおける自己の盟主としての地位を再確立しようとしているのは周知のとおりであるが、だが、それは、帝国主義の危機を国際プロレタリアートの共同の努力をもって革命の勝利に転化せんとするものではもちろんなく、帝国主義との平和共存とソ連圏の一国社会主義的囲いこみを意図したものである以上、当然、国際スターリン主義陣営内部の分解と対立を深める過程としてしか現実化しえないのである。
 他方、国際スターリン主義陣営の分裂の一方の極としての中国スターリン主義は、中国文化大革命と中ソ対立の激化、そして反米対決路線の推進をもってソ連共産党の際限なき腐敗に不信感をもつ世界の急進的共産主義者のあいだに一定の影響力を拡大しているが、しかし、毛沢東の新路線なるものは、プロレタリア世界革命の本質論を欠如した左翼スターリン主義そのものであり、それゆえ、右翼スターリン主義としてのソ連ならびにイタリア構革路線への対立物とはなりえても、その誤謬を根底的に解決する革命的方向を積極的に示しうるものとはなりえないのである。まさに、毛沢東の中間地帯論の行きつくところは、反米民族主義であり、西欧帝国主義の対米自立化への美化であり、ベトナム侵略戦争にたいする国際的人民のたたかいの自力抗戦論的矮小化の道である。十・八羽田以来の全学連、反戦青年委員会の安保粉砕・日帝打倒のたたかいにたいして、愛国青年という規定性においてしか中国共産党が支持を表明しえないところに、毛――林路線の反帝闘争の非プロレタリア的本質が露呈されているといわねばならないのである。
 まさに中ソ対決の激化として現象している国際スターリン主義の分解と対立の深まりは、国際共産主義運動のスターリン主義的変質、したがってまた、過渡期社会の一国社会主義的歪曲が累積した矛盾の歴史的爆発を意味しているのであり、反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略にむかって積極的に止揚することなしには断じて解決されうるものではないのである。アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制が、戦後二五年にしてようやく歴史的動揺を深めはじめているとき、これと体制的に対立しているはずの国際スターリン主義陣営が、反帝闘争の積極的展開にむかってではなしに、陣営内部の分解と対立に終始しているという恥ずべき現実は、一国社会主義理論と平和共存政策という根本にまで検討を深めてはじめて突破する主体的根拠を形成しうるのである。
 かくしてヤルタ協定を基底として成立した現代世界は、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、それにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産とを基軸として世界史的な危機を深めはじめているのであるが、こうした状況のなかで、帝国主義諸国における階級闘争の激発の担い手として新しい革命的左翼が登場しはじめているのはまったく当然であるといえよう。フランス五月革命、羽田以来の日本階級闘争の諸過程が明瞭に示したように、あらたな世界革命の波は、帝国主義国家権力の強権弾圧はもとより、帝国主義体制の内部に構造化したスターリン主義陣営の反階級的制動をもうちやぶるものとしてはじめて歴史に胎動を刻みつけたのであった。
 もともと、国際スターリン主義運動は欧米先進資本主義諸国においては、三〇年代以後一貫して帝国主義体制の民主主義的翼として社民とともに席を分かちあってきたのであり、むしろ、スターリン主義党は、ソ連官僚政府の一国社会主義的利害への追従をテコとして、社民党よりもいっそう徹底してブルジョア愛国主義への綱領的合流が可能であることからして、社民党が本来的に位置していた地点よりも右に位置する路線すらあえてとることによって、自己の体制内的構造化をはかってきたのである。いいかえるならば、社民党翼下の労働者階級=人民大衆の左翼化をとおしてではなく逆に、社民党の衰勢を右翼的に補完するものとして党勢を拡大し、帝国主義体制内での構造的位置を強化する路線をとってきたのであり、いわば、それは、戦後国際政治体制においてソ連・東欧圏が、国連やオリンピックに構造化されていく過程を国内的に表現したものといいうるのである。
 したがって、スターリン主義者たちが、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、それにもとづく各国帝国主義の危機の深まりにたいし、自己の存立条件そのものの危機として防衛的に受容したとしても無理はないのであり、また、帝国主義の危機をその破滅にむかって拡大しようとする革命的左翼のたたかいにたいして、自己の死滅を狙うものとして憎悪の炎をもやしたとしても、まことに正直だというほかはないのである。だが、新しい世界革命の波は、スターリン主義者の体制内的発想と反階級的制動を容赦なく突破して前進している。アメリカでも、フランスでも、ドイツでも、イタリアでも、イギリスでも、スペインでも、北欧諸国でも、たたかいのあるところ、伝統的なスターリン主義者の革命的擬制は音をたてて崩壊しはじめたのである。
 もちろん、こうした革命的左翼の胎動の内外には、毛沢東思想の幻想的表現をふくんでいることはいうまでもない。だが、それも、毛沢東思想のスローガンをきわめてシンボリックに採用することによって自国の共産党(右翼スターリン主義党)への不信を表明しているのにすぎないのであって、むしろ運動の理論的=実践的深化とともに早急に影響力を喪失していくことに注目しなければならないであろう。いわば、この場合、毛思想のスローガンは、ブルジョア的報道機関によって出来合いの「革命派」として用意されたものとして、急進化した大衆がシンボル的に結合していきながらも、その運動の発展とともに自分のことばをみいだしていく過程を反映しているともいえるのである。
 したがって、帝国主義の特殊戦後的な世界編成の根底的動揺と、それにたいするスターリン主義的対応の歴史的破産、そして、この両者を条件とした国際階級闘争の革命的胎動のたかまり、という世界史的事態の進行は、革命的左翼にとって厳しく自己を点検することを要請しているのである。なぜならば、伝統的、歴史的運動の止揚は、まずもって、それにたいする徹底的な否定の場所的立場を跳躍台とするのであるが、同時に、それを存立させていた条件そのものをふくむ歴史的諸関係の総体的転形をなしとげることをもってはじめて現実性をうるものだからであり、それゆえ、革命的左翼のたたかいは、そのうちに、現代世界のもっとも根底的な歴史創造のプログラムと、その主体的根拠を構想していく営為を内包したものとして、ラディカルたりうるのである。永遠的な異議申し立ての過程として永久革命の内実を設定しようとすることは、みかけがいかに魅惑的であろうとも、それは、異議申し立ての対象を社会学的関係概念にイデオロギー的に自足化することで、現実的にはそれを永遠的に存立させるばかりか、究極的には、自己否定そのものすら欺瞞化する危険を許すものといわなくてはならないのである。
 いいかえるならば、現代革命に厳しく問われているところのものは、帝国主義の危機を改良主義的制度化をもって補強し、国家独占資本主義政策のうちに体制的に包摂されていった三〇年代以来の既成左翼・スターリン主義の伝統的軌跡を断固として粉砕していくとともに、同時に、こうした過程にたいし、外在的に批判することをもって自己の役割をまっとうしたと自己満足的に確認していく「左翼反対派」諸潮流の腐敗をも、理論的、実践的に突破していくことにあるといえるであろう。
 問題は、まさに永遠的な否定者として自己を文学的に定立することにあるのではなくして、現代世界の危機を「帝国主義から社会主義への世界史的過渡期」という本質的方向にそって転形することにあるのである。この世界史的試練に耐えうるのか、否か、――革命的左翼のラディカル性はこう設問されているといってよいであろう。全学連や全共闘運動がマスコミ的射程のうちに自己表現している「過激さ」のうちにラディカルの意味を限定しようとする試みじたいが、はなはだしく皮相(非ラディカル)なものだということがもっとはっきりさせられなくてはならないのである。われわれにとって、いま根源的につきつけられている課題は、現代世界の時代認識を明確化する共産主義的営為のうちに現代革命の理論としてのレーニン主義を、そのもっとも根源的な核心において現代的に復活させ、それを貫徹しぬくことを意味しているのである。
 国際階級闘争の革命的推転をかちとっていくうえで、まず第一に確認されねばならない点は、現代社会の危機を「反帝国主義・反スターリン主義」世界革命戦略をもって突破していく世界史的戦略構想を明確化することである。
 いいかえるならば、三〇年代以来の帝国主義の延命形態とその矛盾の爆発形態ならびに、世界革命とその根拠地の一国社会主義的歪曲とその歴史的破産とを孤立的事象として把握するのではなく、まさに世界史的過渡期の変容とその矛盾の発現過程として統一的につかみとり、世界革命の完遂にむかって一挙的に変革していく綱領的立脚点として「反帝国主義・反スターリン主義」世界革命戦略がすえられなくてはならないということである。構造改革派や日共系の経済学者たちは、現代帝国主義を「国家独占資本主義段階」として規定し、「生産力と生産関係」なるものの自足的な発展形態のように合理化することをもって三〇年代以来の現代帝国主義の延命を客観主義的に美化する役割をはたしているのであるが、それは、アメリカ帝国主義のニュー・ディール型国家独占資本主義政策を基軸に、ドル支配圏の世界化という形態をもって「戦争と革命の危機」に対処してきた現代帝国主義のきわめて異常な性格を無視するものであり、したがってまた、現代革命の戦略的水路をみずから閉じるものといわねばならないのである。
 さきにも指摘したように現代帝国主義は、(1)国家独占主義政策、(2)ドル・ポンド国際通貨制度、(3)アメリカ帝国主義を中心とした超軍事的な世界支配網の形成の三つの柱を基軸として、二九年恐慌とその歴史的破局を切りぬけてきたのであるが、いまや、その基軸そのものの累積した矛盾の爆発を導火線として体制的支配の破綻を深めているのであり、こうした事態は、必然的に現代革命の条件をあらたな形態のもとに成熟させるものとなるのである。ベルンシュタイン――人民戦線――トリアッチの脈絡を地下水路としながら「西欧マルクス主義」を名のって登場した構造改革派の諸君は、一方では、平和共存政策の名のもとに米帝の世界支配と、それへのソ連スターリン主義の反階級的な協調路線を支持するとともに、他方、国内にあっては、帝国主義の国家独占資本主義政策の展開を構造改革の名のもとに「左」から補完する役割をはたしてきたのであるが、いわゆる先進国革命の道は、このような構革的改良主義と一八〇度対立した地点から現実的胎動を開始しているのである。また日共の「反帝・反独占をめざす人民の民主主義革命」なるものは、西欧スターリン主義の道を民族主義的二段階戦略のうえに継ぎ木したものであり、しょせん、帝国主義の矛盾の体制内的補強の役割をはたすはかないのである。
 したがって、革命的左翼にとっていま必要なことは、反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略をもって自己の戦列を戦略的に武装しぬくことを基礎に、現代帝国主義の特殊戦後的規定性と、その矛盾の具体的形態を総体的につかみとり、屈折した水路をとって重層的に現出する体制的矛盾を徹底的に拡大しつつ、同時にそれを、帝国主義打倒の権力闘争にむかって永続的にたかめていく前衛的指導性が問題とならざるをえないのである。
 国際階級闘争の革命的推転をかちとっていくうえで、第二に確認されなくてはならない点は、党と統一戦線にかんするスターリン主義的残映を一掃し、権力闘争の熾烈な歴史的試練に勝利しうる革命戦線の構築を達成していくことである。
 もともと、欧米諸国において共産主義運動のスターリン主義的変質が進行し完成したのは、三〇年代のいわゆる人民戦線の時代からレジスタンス運動をへてヤルタ協定的戦後処理がおこなわれた約一〇年間の過程であったが、それは同時に、社民党の際限なき右傾化と没落を補完して、各国のスターリン主義陣営が帝国主義体制のうちに構造的にくみこまれていく過程でもあった。
 周知のように、ロシア革命を突破口とする世界革命の事業をヨーロッパ革命に転化し、かくすることによって、一国的に孤立したロシア革命の内在的困難を解決する重大なカギをにぎっていたのは、ドイツ革命の動向であった。だが、ヒトラーの国家社会主義勢力のまえに、悪名高き社会ファシズム論をもって、国際プロレタリアートの精華としてのドイツ労働者階級を、たたかわずして血の海に沈めたスターリンは、ヨーロッパにとるにたるべき党が存在していない(それも、フランス共産党、オランダ共産党、スペイン共産党にみられるように、スターリンの指導の結果なのであるが……)のを知って、これを補完するものとして、ロマン・ロラン、バルビュス、マルロオ、ジイドなどの著名な知識人を先頭とするアムステルダム・プレイエル運動なるものに特別な意義を付与したのであった。
 他方、二九年恐慌の影響の深刻化と、ドイツにおけるファシズムの台頭という危機のなかで急進化した知識人たちは、このアムステルダム・プレイエル運動を水路として反ファシスト闘争の政治過程のうちに参加していったのであったが、それは、大恐慌の影響のもとで革命か反革命かという人類史的選択を問われていたヨーロッパ階級闘争の課題にたいし、革命の勝利の方向を示しうるものではなく、ただただ、戦争反対、ファシスト反対という希望を確認しあうだけのものとして終ったのであった。
 もちろん、知識人が知識人として政治行動に参加することは意味あることである。だが、その政治参加が究極的に革命にむかってたかめられるためには、革命党を媒介にして知識人にたいする階級の統制を達成していくこと、いいかえるならば、知識人としての知識人という規定性をみずから意識的に廃棄し、革命党の一員としてその使命のうちに従属することが必要なのであったが、むしろ、このアムステルダム・プレイエル運動なるものは、共産主義者が共産主義者らしくなくふるまうことをもって大衆を獲得しようとする、スターリン主義者の欺瞞的大衆運動論の原型をつくりだす役割をはたしたのであった。
 かくしてそれは、モスクワ裁判などソ連における官僚制的変質と、人民戦線の崩壊にもとづく革命の幻滅とともに空中分解し、マルロオに代表されるごとく、知識人の反動化の極点を形成していったのであった。まさに、党の論理と大衆運動の論理とのあいだに機械的なバリケードをつくることで党の論理を大衆の論理なるものに屈服させ、その屈服した論理をもって大衆の革命化を阻止し、党の官僚的利益を防衛しようとするものこそ、スターリン主義の大衆運動の論理なのであった。
 いわゆる人民戦線にかんして、今日にいたるも、スターリン主義者やその信奉者たちは、統一戦線の模範のように考えているようであるが、フランス共産党にとっては、プロレタリアートの反ファシスト統一戦線をプロレタリアートのプチ・ブルへの屈服戦線に歪曲し、最後的には愛国戦線に完成させていく過程でしかなかったのであり、レーニンがコルニロフ反乱にたいしてとった分進合撃の革命的統一戦線とは正反対の方向を示すものであった。したがって、それは党略的には、共産党の右翼化による社会党の基盤の侵食という欺瞞的結果に終らざるをえなかったのであった。事実フランス人民戦線を起点とする三〇年代から四〇年代にいたるスターリン主義の一定の伸長は、基本的には、二九年恐慌以来の史上未曾有の危機と、そのもとでの不安や未来への期待を基礎としながらも、一国社会主義理論と平和共存政策をテコとしてそれを体制内に収拾し、社民の後退を補完的に代行するものとして進行したのであった。第二次世界大戦後における世界労連や平和評議会の運動は、こうした伝統的方法をいっそう世界的な規模で拡大してみせたものにすぎなかったのであり、それゆえにこそ、ストックホルム署名やウィーン・アッピール運動があれほどフランス全土をおおって盛大に展開されたにもかかわらず、フランス帝国主義のインドシナ戦争やアルジェリア戦争にたいして、いかなる抵抗力を準備するものにもならなかったのであった。
 現代世界があらたな世界史的な激動を胎動させはじめている今日、われわれは、このようなスターリン主義的欺瞞政策の残影をきっぱりと断ちきり、徹頭徹尾、革命主義を貫徹しうる運動の質が根底的に問われはじめていることを、三〇年代以来の空白をいっきょにうめるものとして向自化していかなくてはならないのである。
 国際階級闘争の革命的推転をかちとっていくうえで、第三に確認されなくてはならない点は、議会主義、合法主義を徹底的に粉砕し、階級闘争の主軸として革命的暴力の論理を復権させていくことである。
 国家の本質は、いうまでもなく、ブルジョア階級の特殊利益を「国民総体」の一般的国家意志として貫徹させる虚偽の共同性にあり、それは、資本家階級対労働者階級という敵対的社会関係をもち、商品形態をもって再生産していく資本家的商品経済を物質的基礎過程とする、近代市民社会を前提として、はじめて完成した姿態を示しうるものであった。国家の実体的基礎をなす暴力的装置と、法を規範としたその発動は、ブルジョア私有財産としての資本とその運動を防衛することをとおしてブルジョアジーの階級的利益を保障したのであり、それゆえ、資本主義の基本矛盾としての労働力の商品化は、商品交換にかかわる契約の履行を強制するものとして法制的に解決しえたのであった。
 したがって、もともと労働者階級は、資本の支配のもとでの賃労働を廃棄し、自然と人間、人間と人間との本源的な関係を世界史的に創造していくためには、まずもって、自己の疎外された労働の所産である資本家的私有財産にたいして専制的侵害をおこなわなくてはならないので、当然そのためには、ブルジョア国家とその法的規範の暴力的粉砕と、プロレタリア独裁国家の樹立とその意識的活動とが前提とされなくてはならないのである。だが、資本主義の帝国主義段階への世界史的移行と、それにもとづく市民社会構成の構造的変化は、国家の機能的役割に段階的な変化をもたらすこととなり、それゆえまた、国家と革命の関係のうえにあらたな侵略的課題を加重したのであった。
 すなわち、資本主義の産業資本的蓄積形態から金融資本的蓄積形態への世界史的移行は、一方では、国内市場的には、資本の慢性的過剰化とそれにもとづく階級闘争の激化、他方では、世界市場編成的には、資本の輸出とそれにもとづく世界の再分割をめぐる帝国主義列強間の争闘の激化を構造化したのであるが、こうした基礎過程の変化のもとで、ブルジョア国家は、国家資本主義的経済政策の展開として資本の再生産にとって不可欠の条件となるとともに、一方では、世界政策の展開を軍事的に保障するものとして、他方では、階級闘争の激化に対抗し、それを体制的に包括する暴力的強権として、資本主義社会を維持していくうえで積極的な機能をはたしはじめるのである。
 自由主義段階にあっては、国家は、夜警国家という規定にも示されるように、物質的基礎過程としての資本家的商品経済にとって、資本家的私有財産を維持するという補足的な機能をなすものであったが、帝国主義段階にあっては、それは、労働力の商品化の矛盾の構造的激化を恒常的に制圧する機能をはたすものとしての積極的役割を強めはじめるのである。こうした機能的役割の変化は、資本主義の腐朽性と寄生性が深まれば深まるほど、資本主義の再生産構造の矛盾の累積とその破綻が全社会的性格をおびればおびるほど、国家は、ますます、階級闘争に対抗するブルジョア的武器としての役割をこくするのであるが、にもかかわらず、国家のこのような役割は、労働者運動の伝統的指導部としての社会民主主義ならびにスターリン主義を補足的支柱として、資本主義的矛盾をたえず体制的に包括する過程として現象するため、外見的には、国家の幻想的性格をかりたてるものとして、むしろ階級的役割を隠蔽しながら機能していくのである。
 ワイマール体制以後、帝国主義の法体系のなかに社会法の存在が飛躍的に増大するが、こうした変化は、帝国主義段階における階級闘争の激化、とりわけ体制的変革の現実性に対抗するものとして、革命の改良的副産物としての脈絡において把えかえされなくてはならないのである。しかも、ロシア革命を突破口とする帝国主義と社会主義との世界史的分裂の開始と、その「帝国主義とスターリン主義との平和共存的変容形態」としての現象のなかで、帝国主義の国内支配の重点は、社会主義あるいはスターリン主義の侵略に対抗する形態をとって国家の体制的機能をいっそうつよめ、人民の革命的反乱にたいし予防的に制圧する役割を前面化していくとともに、国家独占資本主義政策の展開と、それにもとづく管理体制の重層化のうちに、階級矛盾の激発をたえず包摂していくことにむかうのである。暴力装置の驚くべき肥大化を実体的基礎とする国家の強権的支配力の飛躍的強化は、こうした現実のなかで、体制的支配の破綻を補完する強制力としてきわめて日常的な政治性をおびることとなるのである。
 それゆえ、現代社会にあっては、階級矛盾の客体的・主体的条件はいっそう激化しているにもかかわらず、それを体制的に包摂していく機構の不断の整備のなかでは、階級闘争はたえず帝国主義の設定した合法的水路のうちに秩序化されていく危険を構造的に内包するのである。したがって、現代革命が帝国主義の尨大な生産力と、その支配力を突破し、労働者階級の自己解放と、それをとおしての全人類の人間的解放という世界史的大事業を達成していくためには、まずもって、階級闘争のこのような体制的ルールへの包摂の構造と機能を世界体制的にも国内体制的にも解体する戦略的視点と、それにもとづく革命的実践の破壊力を回復することからはじめなくてはならないのである。階級的矛盾の激化をたえず先制的に体制内に構造化し、それからアウト・ロー的に逸脱していくものにたいしては、無残に階級的制裁を加えていく帝国主義体制の支配体系に抗して、現代革命は、まさに逆に、このような階級支配の体制的な構造と機能を階級的暴力をもって破綻せしめ、その根底的粉砕を永続的に展開していく過程をとおして、本来的な勇姿を世界史的に登場せしめていくであろう。
 階級闘争の不可欠の要素としての暴力を「平和革命」や「構造改革」の名のもとに否定し、それを帝国主義国家権力の一方的専有に帰させるのではなく、まさに、帝国主義体制の破綻と、その暴力的粉砕を達成していく大衆の組織暴力の問題について、避けることなくとりくむことを要請されているのである。アメリカ帝国主義と中国とのあいだにすら、各種のホット・ラインが隠然、公然と設定されているような現代世界の腐敗的な総もたれあい状況にたいし、いまこそ、現代社会の根底的転覆をめざす革命的勢力がプリミティブな荒々しさをもって台頭しようとしているのである。
 国際階級闘争の革命的推進をかちとっていくうえで、第四に確認されなくてはならない点は、アジアを焦点とする後進国革命の永続的激発と、欧米、日本など帝国主義本国において革命的激動を開始した先進国革命とを世界史的に結合し、世界革命として意識的に高める革命戦略を綱領的・政策的・組織的に構築していくことである。
 すでにいくども指摘してきたように、帝国主義の戦後世界体制は、二九年恐慌とそれにもとづく世界経済のブロックの矛盾のけいれん的爆発としての第二次世界大戦のヤルタ協定的戦後処理を基底として成立したものであり、直接的には、アメリカ帝国主義の圧倒的な軍事的・経済的力量を基礎としたドル・ポンド国際通貨制度、ならびに反共軍事ブロック=集団安全保障体制を両軸とするものであるが、それは、二九年恐慌的な世界史的規定性を解決し、世界経済の有機性を回復したものではなく、いわば世界の富と生産力の米帝への偏在という不均等的性格を存立条件とするものであり、二九年恐慌以来のアジアをはじめとする後進国経済の破局的現実をいっそう深刻化し、構造化するだけのものにすぎなかったのである。帝国主義者たちは、こうした旧植民地・後進国経済の恒常的な破局が後進国革命の爆発の条件に転化するのを回避するために、一方では超軍事的な支配体制を暴力的に構築し、他方ではいわゆる後進国経済援助をもってする金融的従属関係の形成をはかったのであったが、それが問題をなにひとつ解決しえなかったことはいまや周知のとおりである。
 戦後帝国主義は、本質的には、後進国経済のいっそうの=特化の固定化と、その他の地域の切り捨て的処置をもってかろうじて延命してきたのであり、その破綻をかろうじて補強するものがアメリカ帝国主義の世界支配政策に規定された勝手気ままな援助政策であったといえよう。したがって、第二次大戦後、民族解放闘争ならびに後進国革命が永続的性格をおびていることの基礎はまさにこの一点にあったのであり、それゆえまた、帝国主義世界市場の革命的転覆と、それにもとづく社会主義的計画経済の世界史的結合の日まで、その解決が断じてありえない苦しみを内包したものなのである。
 もともと、後進国革命は、さしあたっては、帝国主義諸列強の植民地主義的支配にたいする民族解放闘争を現実的出発点としながらも、いわゆる民族独立によって自主的な解決をなすものではなく、国際帝国主義の打倒と、それにもとづく社会主義的世界共同体の創成にむかって不断に自己を貫徹していくことをとおして最後的勝利を獲得しうるものなのであるが、したがって、また、それは、そのたたかいのうちに革命の民族主義的固定化とスターリン主義的変質を生みだす危険と、それを突破して革命を永続的に発展させていく必然性をもっているのである。
 現代革命がその世界史的任務を真に達成していくためには、われわれは、後進国革命を二段階戦略的に固定化し、社会主義にむかっての過渡期社会の建設の過程を自力更生の名のもとに一国社会主義的に枠づけるスターリン主義の誤りを断固として突破していかねばならないのであるが、しかし、それは、原則主義的アテハメによるなで切りや、その裏返しとしての観念的な意義付与の方法によってもけっして貫徹しえないのであり、まさに、後進国革命を世界革命のうちに集約していく方向で理論と政策、戦略と戦術の区別と統一をもって推進していくことが重要なのである。いいかえるならば、帝国主義本国における階級闘争の体制的管理機構への包摂の過程を組織的暴力をもって突破し、先進国革命の爆発のうちに後進国革命の永続的発展を継承し、もって後進国革命の困難を解決する世界史的条件としていくなかで、同時に、後進国革命に内在するスターリン主義的歪みを戦略的に克服していくことでなくてはならないのである。まさに、先進国革命にかんする平和革命可能性論と、その裏返しとしての先進国革命の可能性喪失論は、いかに後進国革命への羨望理論を語ろうとも、ともに、後進国革命にたいする度しがたい裏切りの路線以外のなにものでもないのである。崩壊に瀕する帝国主義のなかで、身を議会やサロンにおいて優雅な談笑をつづけながら、後進国革命への情愛を示すことほど醜悪なものはないといえるであろう。それは、かつての大陸浪人よりも漫画的であるといわざるをえないのである。
 いまや、必要なことは、先進国型の名のもとに帝国主義的管理体制への包摂の方法を競うスターリン主義諸潮流(トリアッチ流の構造改革論や、日共流の平和革命可能論など)の後を追うことでも、後進国革命にたいして勝手気ままな意義付与に腐心することでもなく、アジアにおける帝国主義支配体制の全面的崩壊を反帝国主義・反スターリン主義世界革命に現実的に転化していく戦略的展望を、日本革命にふまえてうちだしていくことである。アジア――日本――アメリカを結ぶ現代革命の導火線を爆発せしめるかいなかの決着は、まさに、安保粉砕・日帝打倒をめざす七〇年安保闘争と、それを突破口とした七〇年代日本階級闘争の動向のうちに決せられようとしているのである。 いま、アジアは、反帝国主義・反スターリン主義世界革命のもえたぎるるつぼとしての位置と役割を厳しく問われようとしているのである。
 かつてレーニンは、一九一七年のロシア革命の文字どおりの緊迫性のなかで『国家と革命』を執筆したが、それは、国家論の原理的整理と国家死滅の条件にかんする研究を主軸としながらも、そのうちに一八四八年の革命、七一年のパリ・コミューンの経験を歴史的に総括するという見事な方法を示したのであった。われわれは、いま、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺と、そのもとにおける日本帝国主義の体制的危機の深まり、というかたちをとって近づきつつある現代革命の緊迫性への実践的直感を跳躍台として、ロシア革命以後の政治的、経済的な過程にかんして全面的な総括を急がなくてはならないのである。まさに、日本階級闘争と、そこにおける「党のためのたたかい」と「党としてのたたかい」の統一という実践的立場にたつものとして、レーニン主義的な党の創成という問題もまた、このような反省と具体的にむすびつくとき、はじめて世界史的な深刻さをもってわれわれに切迫してくるのである。
 
 第四章 七〇年安保闘争と日本革命の展望
 
 第一節 目本革命の基本戦略
 
 七〇年安保闘争の革命的爆発と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展において達成さるべき日本革命の戦略的課題は、以上の分析からもあきらかのように、日本帝国主義打倒=社会主義革命戦略であり、その具体的な環をなすものが日米安保同盟粉砕のたたかいであるが、それは、まさに、反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略の日本的適用を示すものとして、世界革命にむかって無限にひらかれることなしには完成しえない世界史的事業なのである。このような国際主義的方向を現実に貫きとおしうるとき、はじめてわれわれは、日本革命をしてアジア革命とアメリカ革命を具体的に結びつける世界史的環となしうるのであり、それゆえにまた、日本革命の内包する諸困難を現実的に解決することが可能となるのである。では、こうした観点からして、日本革命が具体的に直面する戦略的諸課題はなにか、という問題にかんして、主として日共の民主連合政府戦略との関連において検討してみよう。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策の粉砕を具体的水路とする日本革命の戦略的諸課題の第一は、現代世界の根底的転覆であり、ロシア革命を突破口とした世界革命の事業の今日的な継承の道である。
 周知のように、現代世界とは、ロシア革命を突破口とする帝国主義から社会主義への世界史的過渡期が、国際共産主義運動のスターリン主義的変質とそれにもとづく帝国主義の基本的延命とを根拠として、帝国主義とスターリン主義の平和共存的変容形態として現象しているものであるが、にもかかわらず、現代世界の矛盾の発展=爆発の基軸をなすところのものは、ヤルタ協定を基礎とした、いわゆる平和共存体制を戦後的規定性とする帝国主義戦後世界体制である。日本革命は、まさに、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の全面的崩壊と、それを構成する個別帝国主義の永続的打倒のたたかいをつくりだすとともに、同時に、そのことをとおして、国際共産主義運動のスターリン主義的変質を突破する主体的拠点を構築するものとなるであろう。二九年恐慌から第二次大戦にいたる帝国主義的矛盾の未曾有の爆発にもかかわらず、その危機の革命への転化を阻止した決定的な力こそ、ヤルタ協定として示されたところのスターリン主義陣営の帝国主義への屈服であった。
 それゆえ、国際帝国主義は、このようなスターリン主義陣営の屈服を条件として、一方では、戦後革命の危機をのりきるとともに、他方では、帝国主義的矛盾を擬制的に解決するための諸制度(その両軸をなすものがドル・ポンド国際通貨制度と、帝国主義軍事ブロック=いわゆる集団安全保障体制)をつくりあげて基本的延命をはかったのである。国際連合なるものは、その憲章のペテン師的内容にもあきらかのように、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制を主柱としながらも、ソ連を中心とするスターリン主義陣営を帝国主義的強盗たちの国際会議に、体制内的に参加させることをとおして、帝国主義の世界支配をイデオロギー的に補強するための機関なのである。
 したがって、安保粉砕・日帝打倒のたたかいは、アメリカ帝国主義を盟主とする帝国主義戦後世界体制の全面的崩壊=個別帝国主義の永続的打倒と、それをテコとする国際共産主義運動のスターリン主義的変質の突破をめざすものである。それは当然、ヤルタ協定とそれを基底とする帝国主義の延命の歴史的条件の戦略的否定をそのうちにふくむところのものであり、それゆえ、帝国主義の延命のために人為的に構築された既成のいっさいの国際機関にたいし、徹底的に敵対しているのである。ところが、かつてポツダム宣言を無条件的に支持し、米占領軍を解放軍と規定し、二段階戦略をテコにして戦後日本革命を裏切った日本共産党は、いままた、民主連合政府樹立などという裏切り的戦略をもって安保粉砕・日帝打倒のたたかいに敵対しているばかりか、つぎのような国連にたいする許すべからざる美化の宣伝をもって、帝国主義への屈服をいっそう深めはじめているのである。
 「今日の国際連合は、それが現実にはたしている機能と役割のうえでは、朝鮮戦争やコンゴ問題などのように、アメリカ帝国主義の侵略の道具となるなど、多くの重大な問題をはらんでいますが、すくなくとも国連憲章に規定された創設の精神においては、世界的規模での集団安全保障機構としてもうけられたものです。そしてこの国連をアメリカ帝国主義がその侵略戦争の道具として利用することに反対し、国連憲章に規定された『国際の平和と安全の維持』『人民の主権と自決の原則の尊重に基礎をおく諸国家間の友好関係の発展』の現実に役だつ機構となるように努力することは、独立、民主、中立の日本が実行すべき対外政策の重要な課題の一つです」(不破哲三『日本の中立化と安全保障』五五――五六ページ)
 だが、日共の茶坊主的作文業者がどんなことをいおうとも、朝鮮人民をはじめとする全世界の労働者階級=人民大衆は、戦後階級闘争の生きた経験をとおして、国連が「アメリカ帝国主義の世界支配の道具」であること、いいかえるならば、国連に参加し、その改良のうえに自己の未来を設定するべきでなく、人民の自衛のうえにのみ「平和」がありうることを知っているのである。まさに安保粉砕・日帝打倒のたたかいは、国際連合という欺瞞的茶番劇の背後で展開されてきた戦後世界、すなわち、アメリカ帝国主義の世界支配政策と、それへのスターリン主義的屈服の総体を根底的に転覆する世界史的狼煙となって発展するであろう。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策の粉砕を具体的水路とする日本革命の戦略的諸課題の第二は、日米同盟を基軸とするアジアの多角的集団安全保障体制の革命的粉砕であり、世界革命にむかってのアジアの根拠地化の道である。
 すでにいくども指摘してきたように、七〇年安保の主要な攻撃の側面は、アメリカ帝国主義のベトナム敗勢を基軸とする帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊の危機にたいする絶望的なまきかえしを目的とした日本の反動的武装の攻撃であるが、このような攻撃にたいする労働者階級と人民大衆のたたかいは、日本の中立などという小ブル的平和主義の方向に集約さるべきものではなく、アジアと日本の総力を結集した反帝闘争の一大拠点の構築にむかうべきものなのである。もともと、集団安全保障体制なるものは、歴史的には、第一次世界大戦の帝国主義的戦後処理として成立した国際連盟ならびにロカルノ体制を出発点とするものであり、帝国主義軍事ブロックの平時体制化を意味するものである。
 帝国主義者たちは、「世界の動きをみると、平和は安全保障の道を講ずることによって保障されてきた」などと安保の効用を主張するが、しかし、日本がいったいどの国に侵略されるというのであろうか。現実には、朝鮮戦争やベトナム戦争にみられるように、日米安保同盟を基軸として日本の侵略基地化がおこなわれているにすぎないのであり、本末転倒もはなはだしいのであるが、このような帝国主義者の主張にたいし、「日本の中立化」を要求する日共スターリン主義者の主張もまた、奇妙なものというはかないのである。
 日共は主張する――「集団安全保障と軍事同盟とは安全保障の根本的に対立した方式です。……歴史的にも、集団安全保障の概念は、第一次大戦の教訓から軍事同盟と軍事同盟が対抗しあう状態を解消し、平和を維持する新しい方式としてもともと軍事同盟の対立物としてうみだされたものなのです」(前掲書五五ページ)と。いったい、これが仮りにも「共産党」を名のる人たちの文章であろうか。そもそも帝国主義者とマルクス主義者は、それぞれの方法で第一次大戦の教訓をひきだしたが、マルクス主義者の回答はロシア革命やドイツ革命の道であり、帝国主義者の回答は国際連盟やロカルノ条約機構の道であった。まさに、帝国主義者は、ロシア革命を突破口とする世界革命の脅威に対抗し、帝国主義ヨーロッパ支配体制の崩壊を回避するためにドイツと連合国のあいだの対立を擬制的に解決し、共同の防衛機構を確立するものとしてロカルノ体制を構築したのであるが、わが小ブル的合法主義者の眼には、これが「第一次大戦の教訓」であり、「平和を維持する新しい方式」として映るのであるから、まことに結構なことというほかはないのである。
 だが、日共スターリン主義者がなんといおうとも、安保粉砕をとおしてかちとられるべきものは、帝国主義の教訓では断じてないのである。帝国主義アジア支配体制の全面的崩壊のあとにアジアに確立さるべきものは、「社会主義国であると資本主義国であるとを問わず、その地域のすべての国家がこれに参加し、相互の侵略の阻止、内部の侵略国に共同の制裁を約束しあう」「地域的集団安全保障体制」(前掲書五七ページ)を確立することではなく、逆に、帝国主義を根底的に打倒し、世界革命にむかって前進するための革命的共同戦線の構築こそが追求されなくてはならないのである。まさに、このようなたたかいの最前線をなすものこそ、沖縄の永久核基地化反対、本土復帰・基地撤去を内容とする沖縄奪還のたたかいなのである(なお、日共は自衛の問題を検討するにあたって、つねに「国家の自衛権」を問題とするが、帝国主義にたいする自衛は「民衆の自衛」=労働者・住民の武装の問題としてあつかわなければならないのである)。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策の粉砕を具体的水路とする日本革命の戦略的諸課題の第三は、日本帝国主義国家権力の暴力的打倒であり、プロレタリア独裁国家の樹立とそれをテコとする社会主義にむかっての過渡期社会建設の道である。
 その第一の当面する任務は、帝国主義国家権力の反動的暴力の革命的粉砕をとおしての労働者階級、住民大衆の全体的な武装化であり、それを基礎としたプロレタリア権力の確立である。もちろん、日本において形成されるであろうプロレタリア権力の具体的な国家形態は、階級闘争の具体的な発展過程を媒介として規定されていくであろうが、しかし、いずれにせよ、それは工場労働者評議会を実体的基礎とするコンミューン型国家としての特徴を原則的に貫徹するものとなるであろう。
 すなわち、レーニンは『国家と革命』において、マルクスの『フランスの内乱』を総括する方法で、コンミューン型国家の特徴を、旧き議会制度、官僚機構、司法機関の徹底的な破壊、それにとってかわる「議会ふう」の団体ではなく、同時に執行府であり、立法府である行動的団体の形成、すなわち、(1)すべての公務員の選挙制、ならびに随時のリコール制、(2)労働者賃金をこえない俸給、(3)万人が統制と監督の職務を遂行し、万人が一定の期間「官僚」になり、そのために、なんぴとも「官僚」になりえなくなる状態へすみやかに移行する方策として整理したが、われわれは、ソ連、東欧、中国などすべてのスターリン主義諸国において、コンミューン型国家が解体されているという否定的現実を反省的根拠としながら、パリ・コンミューン、ペトログラード・ソビエトとして追求された労働者権力の創造的形成にむかって努力していくことになろう。
 当面する第二の任務は、労働者国家による資本家的私有財産の没収と、それを基礎とした社会主義にむかっての生産と分配の組織化という過渡期の政策活動の開始である。さしあたっては、そのたたかいは、重要産業の国有化とその労働者管理、ならびに中小企業の労働者統制を基礎とした社会的生産と流通機構の国家管理にむかっての傾斜的政策の展開と、平等主義を原則とする擬制的労賃の施行としてすすむであろうが、それは同時に討社会主義の第一段階において完全に実現されるであろう生産の社会的管理と、それにもとづく「労働の量に応じての分配」原則とを、可能なかぎりにおいて政策的に追求する過程となるのであろう。
 いうまでもなく過渡期から共産主義の第一段階としての社会主義への移行を世界史的に保障するものは、帝国主義の主要な勢力の一掃を政治的画期とする世界革命の完成であり、それまでのあいだは、多かれ少なかれ過渡期の政策の展開という制約をうけるのであるが、それは、あくまで労働者国家が主体となって社会主義的原則を具体的な内外情勢のもとで政策として実施していくのであり、スターリン主義者のように過渡期性に規定された具体的現実をもって原則を修正したり、日本のプレハーノフ黒田寛一が空想するように、「労働の質」の「労働の量」=労働時間への還元なるものが「プロレタリア国家権力によって目的意識的かつ計画的になされ」ていく、といったようなものではないのである。
 当面する第三の任務は、農民など小生産者の生産物の国家的管理と、小生産者にたいするプロレタリア権力(労働者階級)の自己犠牲的な援助とを基礎とした、生産の集団化の政策的追求である。だが、この場合とくに留意されねばならない点は、もちろん機械化や農薬・化学肥料などの大量投下によって農業の生産性はたかまるし、当面それをテコとし、集団化を促進していくのであるが、にもかかわらず、農業生産の究極的な発展は、一方では工業生産の発展にともなう農業生産物のたえず拡大する代位とともに、農業労働そのものの喜びへの転化、すなわち価値、生産性といった特殊的歴史規定からの農業の解放が実現されるときはじめて工業と農業、都市と農村の社会的分業が本質的に止揚されるであろう、ということである。
 日本労働者階級と人民大衆は、きたるべき日本革命において、以上の三つの任務の遂行をとおして、労働力の商品化という資本主義の基本矛盾を廃絶し、労働者階級の自己解放をかちとるとともに、いっさいの被抑圧階級の解放を達成していく世界史的事業を担わねばならないのであるが、このような社会主義にむかっての過渡期社会建設の任務は、同時に、世界革命の完遂、すなわち国際帝国主義の永続的打倒と、それをテコとした国際共産主義運動のスターリン主義的変質の突破、そして社会主義連邦の樹立、という国際主義的任務との生きた結合をうみだすものとして展開されなくてはならないのである。まさに、この点こそ、当面する第四の任務であり、いかなる事情があろうとも回避することの許されない任務なのである。安保粉砕・日帝打倒のたたかいは、帝国主義の世界編成の戦後的規定性に媒介されて必然的に、(1)アジアの世界革命にむかっての根拠地化と、そのためのいっさいの反帝勢力の共同闘争の推進、(2)日本革命に内包するアメリカ帝国主義打倒のたたかいの意識的強化と、それをバネとした日本革命の合流、(3)以上を基礎とした反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略の世界史的展開という方向にすすむことになるであろうが、だが、それこそ、日本革命に内在する諸困難を解決し、その究極の勝利を約束する道なのである。
 ところが、わが日共スターリン主義にとっては、七〇年安保粉砕のたたかいは、日帝打倒――社会主義革命に集約されるものではなく、「新しい型の民主主義国家」をめざすものである、というのである。しかも、最近にいたっては、日本の平和と中立化をめざす「民主連合政府」が対米終了通告をおこなうことによって安保解消が達成され、その後には、社会主義とは相違した「新しい型の民主主義国家」が建設されて、これが体制のちがいをこえて地域的集団安保体制を形成する、というのであるが、小ブル中立主義のユートピアもここまでくると底がみえるというものである。
 端的にいって、この民主連合政府戦略には、独占資本にたいする改良的要求すらもなければ、社会的変革にたいする改良的プランすらもふくまれてはいないのである。しかも、他方では、日本の安全保障、すなわち祖国防衛にかんする小ブル的構想だけが熱心に検討されているのである。安保なき日本帝国主義の安全保障――このようなジレンマへの安保闘争の誘導と、その壊滅を断じて許してはならないのである。まさに、挑発者ガポンの行進にも比すべき死の招待のうちに七〇年安保闘争の敗北を許すのか、安保粉砕・日帝打倒というプロレタリア的水路のうちに七〇年安保闘争の勝利をかちとるのか――問題はこうして切迫化してくるのである。
 日本帝国主義の日米安保同盟政策の粉砕を具体的水路とする日本革命の戦略的課題の第四は、日本プロレタリア権力の形成にたいする日共スターリン主義者の暴力的反革命を粉砕し、日本革命の世界史的推進をとおして国際共産主義運動のスターリン主義的変質を突破する主体的拠点をうちかためていく道である。
 すでにみたように、日共スターリン主義者は、七〇年安保闘争と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の戦略的目標として、民主連合政府という小ブル平和主義的な構想を確定するにいたっているが、スターリン主義者のこのような構想の反動性は、帝国主義へのイデオロギー的屈服という問題につきるものではなく、三〇年代におけるフランス共産党、スペイン共産党の実践がはっきり示しているように、スターリン主義者の戦略をこえてプロレタリア権力の形成にむかう労働者階級と人民大衆のたたかいにたいし、これを反革命として「革命」の名のもとに武装解除することにある。まさに三〇年代から六〇年代にいたる四〇年間の国際階級闘争の血みどろの経験は、革命が帝国主義国家権力の手によって制圧されてきたのみならず、同時に、これと呼応したスターリン主義者の暴力的襲撃によって背後から圧殺されるという悲惨な事実をいくどとなく歴史に刻みつけてきたのであった。このような歴史的悲劇の再現を、われわれは、七〇年代の階級闘争において許すことはできないのである。
 もちろん、戦後日本階級闘争の最初の一五年間のように、スターリン主義と革命的共産主義とが未分化的に統一されている段階にあっては、革命と反革命との分裂は、スターリン主義党内部の対立として現象したが、今日のようにスターリン主義と革命的共産主義とが全社会的に分裂している段階にあっては、革命と反革命の衝突はきわめて厳しい党派的対立として現実化するのである。いいかえるならば、安保粉砕・日帝打倒戦略にたいする日共の「民主連合政府」戦略の対立は、いわゆる右翼日和見主義としてのみ現象するのではなく、革命的左翼勢力への暴力的・反革命的襲撃として現象するということである。したがって、七〇年安保闘争とそれを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展をとおして安保粉砕・日帝打倒の戦略を達成していくためには、日本帝国主義国家権力の凶暴きわまる反革命を実力でもって粉砕するとともに、日共スターリン主義者の背後からの襲撃をも粉砕しぬくことが必要となるのである。この冷厳なる事実を直視しえないもののまえには、敗北と壊滅の道のみが残されているのである。
 だが、日本革命は、安保粉砕・日帝打倒をめざし、その実現の日まで終ることなき永続的なたたかいをとおして、日共スターリン主義の反労働者的策動を徹底的にたたきのめしながら前進するであろう。法政、東大、京大、立命などで開花したスターリン主義的反動暴力の発動は、@七〇年闘争への予防的反革命であるが、それは同時に、A羽田闘争以来の革命的左翼の前進と日共の後退へのまきかえし策、B国際スターリン主義運動の没落と分解の深まりへの恐怖のあらわれ、を意味しているのである。日共スターリン主義は、六〇年以来たしかに数量的には拡大しているが、にもかかわらず、組織労働者や左翼的積極層にたいする影響力は決定的に低下させており、他方、国際的背景に眼を転ずるならば、六〇年当時には、まがりなりにも一致結束して日共を支持していた国際スターリン主義も、今日では四分五裂の状態にあり、それを反映して、わが日本スターリン主義運動も、大別して@宮本主流派、A構改派、B中国派の三潮流に分裂し、日に日に対立の度合を深めているのである。
 日共スターリン主義者にたいする革命的左翼の勝利は不可避である。だが、日本革命における反スターリン主義の問題はここにつきるものではなく、日共スターリン主義とのたたかいの勝利的前進の度合に応じて、革命的左翼の戦列の内外に「平和的形態」をもってする反スターリン主義のたたかいをたえず要請させるところとなるのである。すなわち、わが国においては、六〇年以来不断にスターリン主義の分解が発生しており、しかも、宮本主流派の指導に疑問をもって離党した多くの人びとは、革命的左翼のたたかいに注目し、それに吸引されながらも、イデオロギー的には過去のスターリン主義的残滓を大量に残している傾向が強い、ということである。かくして、このような傾向は、一方では、独自の力ではなにひとつ階級情勢をきりひらくこともできないのに、革命的左翼との関係をあいまい化しながら、宮本主流派が結集しえないスターリン主義のイデオロギー的残映に依拠して、一潮流をなそうとする低俗な努力を生みだすとともに、他方では、革命的左翼の綱領的立場をご都合主義的に修正して、スターリン主義の諸潮流のどれかに幻想を付与するような腐敗をも生みだすことになっているのである。
 したがって、われわれは、日本帝国主義国家権力と日共スターリン主義者の前後からの暴力襲撃にたいし、断固として革命的統一戦線の形成を追求しながらも、同時にスターリン主義の根底的克服のために総力をあげてたたかわなくてはならないのである。なぜならば、一国社会主義理論と平和共存政策を基軸とするスターリン主義を粉砕し、世界革命にむかってプロレタリア権力を樹立していくたたかいは、もとより、このような世界革命戦略の理論的確認を前提とするものであるが、しかし同時に、それは、具体的な階級関係のなかでの戦略の戦術的貫徹として現実化するものであるかぎりでは、けっして容易な問題ではないのである。いわんや、革命後の過渡期社会の重大な困難のなかで、内外政策の展開にかんして大衆の右翼的傾向と結合して、親スターリン主義的動揺が発生する危険を機械的に否定しえないのであるが、日本革命を先駆とする反帝国主義・反スターリン主義世界革命は、このような歪曲をもプロレタリア権力の再武装をとおして永続的に解決していくものとして世界史のあらたな時代をつくりだしていくであろう。
 
 第二節 革命党創成のたたかいと革命的統一戦線戦術
 
 労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業である――とは、第一インターナショナル創立宣言に明記されたマルクスの有名なテーゼである。まさに、労働者階級は、自己の疎外された活動の所産としての資本を積極的に止揚することをとおして自分自身を解放し、かくすることによっていっさいの被抑圧階級を解放し、人間の人間的解放を達成する世界史的使命をもっているのである。
 もちろん、個々の労働者が先験的に、以上のような自分の歴史的位置を自覚しているわけではない。それどころか、市民社会的現実のなかにあって、個々の労働者は、他の市民と同様に、たえざる商品交換のうちに自己の生活の物質的基礎を獲得しているのであり、かれらの即自的意識を決定しているものは、まずこの市民生活そのものである。そのかぎりにおいては、労働者は、労働市場において自己の労働力を資本家に販売する場合でも、したがってまた、資本のもとで賃労働を強制される場合でも、貨幣の対価としての「労働」の供与としてしか事態を理解することができないのである。したがって、資本のもとでの賃労働の苦しみは、さしあたっては、絶望的な反乱か、労賃・労働条件の改良か、という形態をもって解決されてしまうのである。
 だが、市民社会の物質的基礎過程としての資本家的商品経済との全体的な対決は、労働者階級にむかってつぎの問題を提起する。労働こそ人間の富の主体的源泉であり、人間活動そのものだというのに、なぜ労働者は自分の労働の成果を自分のものにできないのか、なぜ労働者は他人のために働かなくてはならないのか、なぜ労働者は労働をとおして自分の人間性を喪失するのだろうか、なぜ労働者は自分に敵対する人間を養うことになるのだろうか、と。
 資本家的商品経済の全体的な把握は、労働者階級にむかってつぎの回答を提起する。
 それは、使用価値の主体的源泉としての労働者が、生産の客体的条件としての土地および生産手段から分離させられた歴史的結果として、自分の労働力を商品として資本家に販売し、その代価として資本家のもとで商品を生産しなければならなくなったからである、と。つまり労働者は、労働力の商品化=資本家のもとでの賃労働をとおして商品を生産し剰余価値を生産するばかりか、資本家と労働者の関係も生産しているのであり、それゆえ働けば働くほど自分の疎外された活動の所産としての資本はどんどん大きくなり、自分の価値はどんどん小さくなっていくのだから、人間の富の主体的源泉であり人間の人間としての活動の担い手としての労働者が、自分こそ人間であると宣言しうる社会をつくりだすためには、労働者の剰余労働の搾取のうえに資本家のための巨大な富をきずきあげた資本主義社会を打倒し、資本を労働者の手に積極的にとりかえして生産と分配を全社会的に組織し、人間の階級的分裂を止揚していくことが必要なのだ、と。
 まさに、個々の労働者は、資本家的商品経済の全体性を直視することをとおして、自己の虚偽的な市民社会的意識の背後で、たえずそれを根底的にゆるがすところの労働市場での感性的直感や、資本の直接的生産過程における人間性喪失感や、資本家への人間的憎悪などの世界史的意義をつかむことができるようになり、かくして賃金ならびに労働条件の改善を要求する改良的たたかいや、資本への反乱は、共産主義者の組織的実践を媒介として資本家階級とその独裁国家を打倒するための具体的な水路へと転化するのである。
 したがって労働者階級が社会変革の主体であるということの意味は、その世界史的性格に規定されたものであって、その現実の意識によってではないのである。戦後日本革命の経験が教えるように、天皇制イデオロギーの圧倒的な支配下にあった日本労働者階級は、日本帝国主義の軍事的敗北という未曾有の事態のなかで旧意識の根底的崩壊と階級意識の大量的な産出とを一挙的に示したのであった。もちろん、このような階級意識の革命的流出は、日共スターリン主義の米占領軍美化の理論と、二段階戦略とによってブルジョア意識への後退を余儀なくされたのであるが、にもかかわらずこの教訓のもつ意味は、きわめて豊富な内容をもってわれわれに迫ってくるのである。それゆえ革命家にとってもっとも恥ずべきことは、労働者階級の「現実の意識」や「現実の活動」に幻惑されて、その深部に流れる赤い血の叫びを聞くことができなくなることなのである。
 「労働者の団結の武器の基本はスクラムだ」――とは、わが右派ブロックによって定式化された「思想」であるが、まさに、社民以下のこのような「思想」を存立させてきた条件が、いま音をたてて崩れおちようとしているのである。時代的転換期の到来を告げる雷鳴を自己の血のたぎりをもってうけとめるもののみが、革命家であり、その党なのである。革命家とその党の使命は、まずもって労働者階級の自己解放の事業の不可避性を告げ知らせることにあるが、それは同時に革命の現実性と、その緊迫化とを自己の思想と行動のうえにもっとも鋭く主体化し、それをとおして労働者階級の自己解放の事業に前衛的方向をつくりだすことにあるのである。マルクスは『ハーグ大会決議』において、階級闘争における革命党の役割にかんしてつぎのような天才的規定をあたえているが、革命党の枢要はプロレタリア権力の確立にかかわるものであることは明白である。
 「所有階級の集合的勢力との闘争において、プロレタリアートは、その勢力を独立の政党に組織し、所有階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて一階級として行動することができるのである。政党というようなプロレタリアートの組織は、社会革命に勝利するためになくてはならぬものである。産業の戦野ですでに達成された労働者階級の諸勢力の団結は、搾取者や政治権力との闘争のさいに、労働者階級の手中にある挺子としてやくだたなくてはならない。土地と資本の貴族は、彼らの経済的独占を永続化し擁護するために、また労働を奴隷化するために、いつも彼らの政治的特権を利用する。それゆえ、政治権力の獲得がプロレタリアートの主要義務となるのである」(マルクス『ハーグ大会決議』)
 また、レーニンは『ロシア共産党綱領』において、革命党の任務にかんしてつぎのような定式をあたえているが、ここで注意すべき点は、レーニンがマルクスの『ハーグ大会決議』にふまえながらも、帝国主義段階の党としての同盟軍問題を積極的に規定する努力をはらっていることである。
 「この社会革命を成就するための必須の条件は、プロレタリアートの独裁である。すなわちプロレタリアートがその手に政治権力を獲得することである。これによってプロレタリアートは、搾取者のいっさいの抵抗を抑圧することが可能となる。プロレタリアートがその巨大な歴史的使命を達成するのに必要とする能力をつちかうことを任務とする国際共産党は、すべてのブルジョア政党に対立した独立の政党にプロレタリアートを組織する。この党は、プロレタリアートの階級闘争のいっさいの現われを指導し、搾取者の利害と被搾取者の利害とが宥和しえない対立のうちにあることをプロレタリアートに明示し、きたるべき社会革命の歴史的意義とその必要条件をプロレタリアートに明らかにする。それと同時に党は、その他の勤労被搾取者大衆の全体にむかって、資本主義社会にあるかぎり彼らの地位が絶望的であること、資本の報から彼ら自身が解放されるためには社会革命が必要であることを説きあかす。共産党は、労働者階級の党であるけれども、勤労被搾取人民のすべての層を彼らがプロレタリアートの立場に同化するかぎり、自己の列伍のうちに呼び入れる」(一九一九年ロシア共産党第八回大会)
 以上、長文にもかかわらず、マルクスおよびレーニンの革命党にかんする規定を紹介したが、両者がともに党をプロレタリアート独裁権力の決定的テコとして論じていることは、きわめて重要である。
 ロシア革命がプロレタリアートの権力獲得の過程として展開されたものであったことはもちろんであるが、同時にそれは、レーニンを先頭とするボルシェビキ党が、敵権力と結託した政治的諸潮流、ならびに日和見主義的翼との長期にわたる党派闘争をとおして党自身の革命的成熟を準備していくとともに、ツアーの崩壊という形態をもって実現した革命の緊迫化のなかで党――大衆――階級の具体的結合をかちとっていく過程でもあったのである。いわゆる評議会(ソビエト、レーテ、フンタ)の問題にしても、いかなる党派がヘゲモニーを掌握するのか、という本質的方向性を抜きにして、ただただ形態論的に接近することは、革命勢力の内部に反映してくる右翼的動向への屈服の路線にほかならないのである。政治的中立の要求が、現実的には帝国主義的秩序への屈服を意味しているように、党派的中立の動向は現実的には革命の敗北を準備するものなのである。
 一国社会主義理論をテコとしたソ連過渡期社会の官僚制的変質と、それにもとづく国際共産党(とその各国支部)のスターリン主義的変質という冷厳な事実をまえにして、いわゆる左翼反対派の脱落者や同伴者のあいだには、不断に発生する敗北主義的総括として、一方では、レーニン主義的機構の社会学的延長線上にスターリン主義を設定しようとする努力を生みだすとともに、他方では、ブルジョア政党ならびにスターリン主義政党と独立した革命的左翼の政党を創成する困難からの日和見主義的逃亡を合理化しようとする努力を生みだすのであるが、われわれは、このような党組織論にかんするブルジョア社会学的定式や日和見主義的逃げ口上とは正反対に、スターリンの一国社会主義理論がソ連共産党で勝利することによって生じた歴史的現実のうちに、たとえ裏返された表現ではあれ、世界史的転形期における党のもつ意義を積極的に確認していかねばならないのである。ソ連共産党のスターリン主義化は、レーニン主義的党組織論そのものの社会学的発展として生じたものではなく、レーニン主義的党組織論の基礎をなす世界革命論の一国社会主義理論的な歪曲を条件として形成されたものなのである。
 したがって、社会民主主義的政党への加入と、その左傾化をもって独立した革命党創成のたたかいに代行しようとしたり、結局その亜種にすぎないが、社会民主主義的政党の活動に私観的な革命性を付与しようとしたりすることは、現実的には、社民としての生き方に自己の生存をかけていることを意味しており、プロレタリアートの革命的資質を信頼することのできないものたちのマヌーバー的階級操縦論としてしか機能しえないのである。また、今日、十・八羽田以来のたえず拡大する大衆の急進化という現実を固定化して、「ノンセクト・ラジカル」なるものに特別の意義を付与しようとするものがあるが、それは、このような大衆の急進化を政治的に組織化しえない革命的左翼への断罪としてうけとめるべき側面を無視しえないとしても、なおかつ、そこに革命党をこえる人間のあり方をみようとすることは不毛な努力というほかはないのである。現に、日大・東大闘争のなかで輩出されてきた多くの活動家が、革命的左翼の党派に結集しつつあることを、われわれは高く評価しなければならない。まさに、革命の達成以外に帰るべきいっさいの道を自己切断するとき、革命家のあゆみは開始されるのであるが、このような「帰るところなき自己否定」とは、革命党の組織的構成員としての生活を自己の唯一の生きがいとすることをとおしてはじめて可能となるのである。レーニンは、ボルシェビキ党の規律が保障された第一の条件として「プロレタリア前衛の意識、革命にたいする献身性、その忍耐、自己犠牲、英雄主義」をあげているが、まったくここにこそ、革命家の前提的資質が規定されているといえるであろう。党こそは、われわれがそこに生き、そこに死するところの革命家の思想体であり、行動体である。
 だが、われわれは、当面する課題を「安保粉砕・日帝打倒」とするものであるとすれば、その結節点をプロレタリア独裁権力の樹立という問題のうちに設定することになるであろう。われわれは、マルクス世界革命論の現代的展開をなすものとして、「反帝国主義・反スターリン主義」世界革命戦略をいっそう豊富化し精密化するたたかいを基礎的に推進しながら、同時に、革命党のための闘争と、革命党としての闘争とを今日的に統一するものとして、わが同盟そのものの活動方法の内容的深化にむかって飛躍的な発展をかちとっていかねばならないのである。七〇年安保闘争と、それを突破口とする七〇年代日本階級闘争の永続的発展という直接性において、われわれに提起されたところの日本革命の緊迫化の問題は、われわれ自身の革命党にむかっての再武装を媒介とすることをとおして現実性をあたえられるのである。けだし、階級闘争の具体的展望は、帝国主義の矛盾と攻撃の展開の洞察をとおしての客観情勢の主体化と、党の組織的実践を媒介とした階級闘争の展開をとおしての主体の客観情勢化という相互に規定的な二契機の統一のうちにあるからである。
 わが同盟の活動方法の内容的深化のために当面なすべき第一の任務は、日本革命の緊迫化に備えるという観点から現在の活動方法を点検しなおすという問題である。いいかえるならば、戦後日本階級闘争の歴史的経験、とりわけ六〇年安保闘争の敗北への主体的反省をテコとした革命的共産主義運動創成のたたかいの生きた経験に立脚しながらも、同時に、日本階級闘争の歴史的経験や、われわれの今日までの活動を固定的に前提化するのではなく、日本帝国主義を打倒し、プロレタリア国家権力を樹立するという当面する課題を達成していくためにはどんな闘争が必要なのか、という観点から日本階級闘争の歴史的現実をとらえかえし、現実を当面する目標にむかって意識的・組織的に連結していく活動方法を確立していかねばならない、ということである。
 一見すると、このような方法は、極左主義を生みだす危険をともなうようにみえるであろう。だが、階級闘争のもっとも危機的な事態は、帝国主義の体制的危機をかけた攻撃と、それにもとづく階級闘争の既存の条件の急激なる変化にたいし、党と階級とが受動的にしか対応しえない場合である。ナチスの権力掌握をまえにしてドイツ共産党は内乱を回避したが、ドイツ労働者運動とその党(共産党ならび社民党)の組織的壊滅を避けることはできなかったではないか。朝鮮戦争の切迫のなかで日本共産党は、レッド・パージ攻撃への労働者的反撃を放棄し、右翼的対応に終始したが、にもかかわらず、その後につづいたものは運動と組織の際限なき解体ではなかったか。だが、階級闘争にあっては、敵の攻撃の質的激化は、かならず敵の危機の質的深まりを基礎としているのである。われわれは、コルニロフの反革命的反乱とのたたかいをソビエト権力樹立のたたかいへと積極的に転位したロシア革命の経験に徹底的に学ばなくてはならないのである。
 わが同盟の活動方法の内容的深化のために当面なすべき第二の任務は、七〇年安保闘争と、それを突破口とする七〇年代階級闘争の実体的な担い手が労働者階級である、という問題である。労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である――というマルクスの金言をサロン的に確認することは容易である。いなむしろ、それは応々にして階級闘争の前衛的展開にたいする日和見主義の口実として使われたりしたのであった。だが、サロン的確認や日和見主義的口実としてではなく、このマルクスのことばを現実の階級闘争に貫徹しぬくことは断じて容易ではないのである。
 周知のように、一九六七年十月八日の羽田闘争以来、日本階級闘争の激動を主体的に担ってきたのは、全学連(金山克己委員長)を中核とする学生の諸君であった。日本帝国主義国家権力と、これに呼応した日共スターリン主義者は、このような学生の革命的闘争にたいし暴力的襲撃を加え、その社会的孤立と組織的解体のためにありとあらゆる策動をおこなってきた。このような襲撃と策動の反動的統一行動にたいし、反戦青年委員会に結集した先進的労働者は、全学連と呼応した行動の果敢な展開をもって断固とした階級的反撃を加えるとともに、社民右派、日共、右翼ブロックの内外する反動的逆流を粉砕して、安保闘争の階級的基礎の構築のために営々たる努力をつづけてきたのである。だが、いまや、全学連と労働者階級とのたたかいのこのような具体的関連の固定的前提化を実践的に突破し、七〇年安保闘争の階級的構図を根底的に変革する組織的な準備を開始するときがきたのである。
 もちろん、全学連を中核とする革命的学生運動が、日本階級闘争において占める前衛的役割と社会的位置は、強まりこそすれ弱まるものではない。日本学生運動は、学生という独自の階層を実体的基礎としながらも、その内部における革命的共産主義者の不断の組織的実践と、それを基礎とする階級的イデオロギー闘争を媒介として国際階級闘争史上類例のない密集した革命軍団として成長した。日本革命の緊迫化は、日本学生運動の巨大な革命軍団化をいっそう抗しがたい力をもって促進するであろう。だが、いまやわれわれは、全学連とならんで日本労働者階級が独自の活動系列をもって、街頭においても、プロレタリアートの階級的性格にふさわしい荒々しさと重々しさとをもって日本階級闘争に登場する日が、そう遠くではないと確信することができるのである。問題は、ただ先進的労働者が過去とつながる歴史的現実のうちになお自己の苦渋の生活をつづけようとするのか、それとも、未来にひらかれた歴史的現実のうちに自己の躍動する生命力の充実をみようとするのか、という組織的選択を、七〇年にむかっての激動のなかで現実的に決着していくことそのものにあるのである。
 わが同盟の活動方法の内容的深化のために当面なすべき第三の任務は、労働者階級の全産業、全階層、全活動のなかに独自の革命的左翼系列を構築する、という問題である。周知のように、日本労働者階級は、一九五七年までは、基本的には左翼社民(民同)を主流とし右翼社民と日共(革同)を左右の翼とする三潮流に系列化されてきたのであるが、一〇年をこえる日本階級闘争の推進のなかで、今日では、(1)独占資本と結託した民社党系列の一定の伸長、(2)民同系列の地盤沈下、その内部における右翼的ヘゲモニーの強化と、それにたいする戦闘的反発の傾向増大、(3)日共スターリン主義系列の分裂、宮本主流派系列の数量的増大と影響力の傾向的低下、(4)創価学会のイデオロギー的浸透と、独自の組合系列化の動向、そして(5)革命的左翼系列の台頭と中間諸勢力をも包括したその内部における激しいヘゲモニー争い、という新しい政治的状況を示すにいたっている。このような変化は、本質的には、日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃の激化とそれにたいする社共既成指導部の屈従と後退、そのもとでの労働者階級の左右への分極化とを根拠とするものであるが、にもかかわらず、敵の攻撃の全面的性格への危機と、その背後に成長する積極的攻勢への志向とは、自民党=民社党の安保ブロックにたいする全左翼の連合を要求する動向を強めると同時に、この基礎のうえに党組織論と統一戦線論にかんするいくたの誤謬と混乱、とくに戦闘的左翼諸党派間の対立と抗争にかんするそれを生みだしているのである。
 統一戦線論の問題については後でふれるとし、ここではまず党組織論にかんする問題を検討することとするが、結論からさきにいうならば、われわれは五者共同声明【編注】に示される戦闘的左翼の共同戦線、社民との統一戦線として展開される社会党=総評翼下の労働者部隊の共同闘争、さらに日共をもふくめた反安保勢力の総結集の三つの次元の統一戦線を具体的に追求する立場にたつものであるが、それゆえにこそわれわれは、そのような統一戦線の一翼として社民および日共から独立した独自の革命的左翼系列が構築され、その主体的活動をふくめて統一戦線の展開が保障されていくという構想が前提的につくりあげられなければならない、と考えていることを率直に指摘しておこう。まさに労働者階級の全活動範囲にわたって、自民党――資本――民社党の系列に対立し、公明党はもちろん、社会党、共産党の系列とも独立した革命的左翼の独自の系列が組織され、それが生きいきと階級闘争の全域で躍動している階級情勢をつくりだすことなしに、われわれは革命を考えることはできないのである。
 大衆の末端にいたるまで、革命か反革命か、という歴史的選択を問う過程が革命なのであるが、だがしかし、それが抽象的、理念的選択にとどまることができないものであるとするならば、階級――大衆は、具体的な政治的諸関係のなかにあっては、特定の政治的党派の思想、政策、行動のうちに自己の選択と参加の規準をみいだすのであって、それ以外にいかなる方法もありうるはずもないのである。したがって、まずもって階級――大衆が選択し、参加し、そのうちに勝利の道程を掌握していく活動の永続的な系列が、党――大衆――階級の革命的結合を保障するものとして構成されている必要があるのである。いわゆる戦闘的左翼の未熟性を克服する道は、諸党派間の綱領的独自性をあいまいにしていくことのうえにではなく、各党派が自己の綱領的立脚点を明確化し、労働者階級と人民大衆の内部に独自の系列を徹底的に構築することをとおして、大衆全体の政治的分化を恐れることなくつくりだすことのうえにのみなしとげられるのである。
 わが同盟の活動方法の内容的深化のために当面なすべき第四の任務は、革命的統一戦線戦術を創意的に展開する、という問題である。すでにのべたように、統一戦線戦術は当然それを具体的に適用していく革命的な強化と、その政治的成熟とを前提とするのであり、したがってまた、独自活動と相互批判の自由を有するものであることはいうまでもないのである。社民批判を口にしながら、社民党に没入し、かくして統一戦線の形成に代行させようとするものは、革命党創成の任務と、社民と革命的左翼との統一戦線の問題とを混同するものであり、結果的には、それは、一方では、党派闘争を策謀的次元に堕落させるとともに、他方では、階級――大衆を社民的指導に屈服させる役割をはたすものとなるのである。だが、革命的左翼が社民や日共と独立した革命党の創成をめざし、その努力のうちに独自の系列を構築するということは、けっして、革命的左翼と既成左翼との統一戦線を拒否するものではないのである。それどころか、われわれは、日本帝国主義の侵略と警察政治の道にたいし、これに反対するいっさいの政治勢力とのあいだに統一戦線を形成することを心から願っているのである。
 もともと、統一戦線とは、労働者階級=人民大衆が複数の政治党派のもとに系列化されているという事態を前提としながらも、帝国主義の攻撃の質的激化をまえに、労働者階級と人民大衆が各党派的に分立しているかぎり、全党派の存立条件が壊滅してしまうという現実を出発点として、帝国主義への防衛的反撃を「別個に進んで一緒に撃つ」たたかいとして展開することを意味するのであるが、それは同時に、このような防衛的反撃のたたかいをとおして敵の攻撃の主軸を粉砕し、かくして、防衛的反撃から積極的攻勢へ階級関係を推転させる具体的な媒介をなすことになるのである。まさにこのような意味において、統一戦線は敵の攻撃を媒介として味方の分裂を軍事的に解決するものであり、それゆえにわれわれは、実現された地平のうえに相互の矛盾のより本質的な解決にむかっての闘争を不可避とされるのであるが、にもかかわらず、究極的には、それはプロレタリア権力にむかっての労働者階級と農民(小ブルジョア)との同盟、ならびに、プロレタリアートの革命的統一戦線にたえず集約されざるをえないものである。したがってそれは、いわゆる人民戦線のようにプロレタリア的統一戦線の形成に敵対し、統一戦線の名のもとに小ブル的改良主義へのプロレタリアートの屈服を要求するものであってはならず、また、わがカクマル派のように、他党派解体のための「革命」的介入戦術なるものではあってはならないのである。
 したがって、日本帝国主義の体制的危機をかけた攻撃が、日米安保同盟政策を基軸とする侵略と警察政治の道として設定されている現実の階級関係のなかにあっては、革命的左翼は、安保粉砕・日帝打倒をめざす独自の密集した革命的軍団の強化をはかりながら、それを基礎として日本帝国主義の日米安保同盟政策に反対し、自民党――民社党を基軸とする右翼ブロックに反対するいつさいの左翼諸勢力の大連合の形成を根気づよく訴えつづけるであろう。このような大左翼連合の基軸をなすものは、いうまでもなく、革命的左翼と社会民主主義との統一戦線である。日共宮本指導部の主唱する「民主連合政府をめざす共社統一戦線」なるものは、一方では、安保粉砕・日帝打倒をめざす革命的潮流を右翼的に排除し、労働者階級と人民大衆が議会主義と合法主義のもとに屈服することを強制しながら、他方では、社会党へのゆさぶりをとおして、その政治的基盤を解体し、野党第一党の席をねらう、というきわめてセクト主義的な路線以外のなにものでもないのである。それゆえ、われわれは、日共のセクト主義的な反統一戦線の策動を粉砕し、革命的左翼と社会民主主義との革命的な統一戦線を基軸に、七〇年安保粉砕をめざす大左翼連合の形成にむかっての努力をいっそう強化していくとともに、このようなたたかいを推進し、その究極の勝利を保障する革命的左翼諸党派の独自的強化をその統一戦線の発展をとおして強めていくことになるであろう。大衆運動というものが、党派的な組織活動との対立と統一の媒介的過程を実体的基礎として発展する生きた意識的活動であることをとらえることのできない「大衆運動の論理」なるものは、三〇年代におけるアムステルダム・プレイエル運動から戦後の世界平和評議会運動にいたるスターリン主義的策略の残映以外のなにものでもないのである。
 
 第三節 激動期における行動原理
 
 以上の検討であきらかのように、七〇年安保闘争の革命的爆発と、それを突破口とした七〇年代階級闘争の永続的発展は、安保同盟政策とその諸実体を粉砕し、日本帝国主義打倒、労働者国家樹立を達成していくことをとおして現代世界の根底的転覆、世界革命の完遂をたたかいとっていく巨大な世界史的事業の始動を意味しているのである。この事業は、必然の王国から自由の王国にむかっての壮大な人類史的飛躍の階梯なのであるが、同時に、それは、革命をめざす人間集団と、それを暴力的に阻止せんとする反革命的な人間集団とのあいだの血で血を洗う衝突の展開過程となるであろう。中世の終末を告げるイタリア階級闘争の冷酷な永続的展開が、ルネッサンスとして開発した人間の無限なる可能性と、眼をおおうばかりの腐敗と殺戮を歴史に刻みつけたように、アンシャンレジームを打倒したフランス革命が、サンキュロット、バブーフの陰謀、三〇年の七月革命、四八年の二月革命、パリ・コンミューンとつづく永続革命の波と度重なる反動の支配を許したように、そしてまた、国際帝国主義の弱い環をうちやぶり現代革命の先駆をなしたロシア革命が、世界革命にむかって燃えるがごとき情熱のほとばしりと、革命を内部から腐敗せしめる醜悪なる魂との非妥協的な闘争として推転していったように、きたるべき世界史的大激動は、このような階級闘争の頂点において、歴史に刻印された誇りと恨みを根底的に突破するものとして、人間史が累積したところの人間の躍動する生命力、錯綜する憎悪、自己犠牲と逃避、腐敗と創造のいっさいを歴史のルツボにたたきこみ、その灼熱の炎のなかから人間の人間的解放の現実的根拠を創造してゆくことになるであろう。
 革命は、胸のすくような進撃と、耐えがたいまでの閉塞との、息づまるようなたえざる転移の過程であり、それに生きぬくことは、人間的能力を極限までしぼりだすことをとおしてもなお困難なものがあるのである。勝利と飛躍、敗残と逃亡の恐るべき累積をとおして、歴史はひとつの試練を人類に課すことであろう。だが、人間の歴史のすべてが示しているように、革命の戦列に生きようと、戦列を避けて生きようと、きたるべき人類史的試練は、万人を呑みつくすヒドラとして成長するであろう。現代人は、歴史のヒドラと格闘し、これを人間の生命力のまえに組み伏せる以外に、それから身を避ける方法はなにもないのである。したがって、われわれは、人間的怒りをこころとし、激動をよろこびとして積極的に生きる行動原理をたえず再確認しながら、自己の足跡と前途を人間的たらしめていかねばならないのである。今日のわれわれの意識状況と歴史との場所的接点において、生きた行動原理を構築していくとすれば、行動原理そのものを要点的に摘記すること自体が、たえず固定化の危険をおかすことになるのであるが、あえてその危険をかえりみず若干の問題を指摘することをもって本論の結語にかえたいと思う。
 第一には、追認的行為としての歴史的選択という問題である。
 いいかえるならば、歴史を創造する人間的行為は、まずもって行動ありきであり、その結果として現実化した行為的事実への追認をとおして、歴史的選択が確定されていく構造をなしているということである。まさに、このような民衆の生きた歴史的選択の過程を抑制するものとして形式民主主義の神話が機能しているのであるが、それは、帝国主義の支配を永遠化する奴隷の論理以外のなにものでもないのである。わが国においては、戦後日本革命の敗北の改良的副産物としていわゆる戦後民主主義体制が形成されたが、それは、政府に反対する権利としてではなしに、多数意志として現象する支配階級の利害にたいする、少数意志として現象する労働者階級人民大衆の利害の屈服の論理として機能したのであった。もちろん、戦後日本的革新勢力としての既成左翼は、政府の悪政や悪法に反対し、労働者人民の改良的たたかいを推進する条件として戦後民主主義を利用してきたし、また、かれら自身、戦後民主主義の不可欠の構成部分をなしてきたのであるが、にもかかわらず、それは、あくまで議会制的秩序あるいは労資交渉的秩序のうちに集約されるものであったのであり、こうした体制的包摂機構そのものに根底的に対抗するものとして綱領的に位置づけられたものではなかったのである。したがって、社共など既成左翼のたたかいは、部分的には実力闘争をふくんで展開されながらも、いったん法制化するか、労資間の妥結事項として確定すると、抵抗力を事実上喪失するという結果に終っていったのであった。
 すでに前章三節で指摘したように、帝国主義段階、とりわけ、それにもとづく国家独占資本主義政策の積極的な展開のもとにあっては、階級闘争を体制内的紛争処理過程に包摂していくことによって、革命的要素を先制的に封殺していく機構が一般化するようになるのであるが、多数意見への少数意見の屈服という形式民主主義の論理も、こうした帝国主義的支配を「民主主義」的仮構をもって貫徹する道具となっているのである。もともと、考えてみるならば、革命は、旧体制とその価値体系の根底的変革をめざすものである以上、既成の支配秩序の体制的機構内での改良的累積をもって達成しうるはずもないのであり、形式的民主主義への屈服は革命の放棄以外のなにものでもないのである。構造改革論や日共の平和革命可能性論なるものは、帝国主義的秩序のうちに「革命」を構造的に包摂し、その内部で体制的地位をたかめようとする成り上り的な「革命屋」の処世術であり、その醜悪さにおいては、労働貴族たちや、宗教的政治家たちの小ブル的な出世主義といささかも変るところはないのである。ブルジョア革命の典型としてのフランス革命にしても、プロレタリア革命の先駆としてのロシア革命にしても、革命と名のつくものはすべて、民衆の追認的行動として現実的に遂行され、それに国民的信認があたえられる歴史的経過をたどっていったのであり、断じてその逆ではないのである。まさに、前衛党を媒介とした民衆のこのような歴史的行為を積極的に国家機関として組織していく不断の過程こそ、多数者の行動者的デモクラシーとしてのプロレタリア独裁なのである。したがって、きたるべき七〇年安保闘争と、それを突破口とする日本階級闘争においてわれわれが実現するであろう運動の性格は、徹底して行動的たらざるをえないのであり、また、そうしてこそ、現代革命の普遍的意義を鋭く突き出していくものとなりうるのである。
 第二には、徹底的破壊の思想の問題である。
 もとよりわれわれの究極目標は、プロレタリアートの革命的実践をとおして資本を積極的に止揚し、人間と自然、人間と人間との本源的な生活態を建設しようとするものであり、したがってまた、帝国主義的秩序の根底的破壊は、人類史的未来を創造していくための意識的バネとなることはいうまでもないところであり、破壊と建設との関係は機械的に区分しうるものではないのである。いいかえるならば、労働者階級は、帝国主義の危機にたいして、これを救済することによって史上類例のない人間性の腐敗と破壊を継続すべきではなくして、帝国主義を打倒し、遺産を相続することによって人間性の創造的開花を達成していくべきだということであり、ここでは、破壊と創造は統一された人間の創造的過程なのである。ところが、階級闘争の擬制的平和期の長きにわたる継続は、帝国主義の打倒のたたかいのうちにではなく、改良的闘争の算術的総和のうえに革命を想定する改良主義的体質を階級闘争の深部に成長させていったのである。だが、われわれは、いまこそ、階級闘争の動力を改良的闘争に自己限定するブルジョア意識を根底的に粉砕し、むしろ帝国主義秩序を解体する階級闘争への参加そのもののうちに、生命力の躍動をみいだしていかなくてはならないのである。
 想えば、生まれてこのかた、われわれは現代文明のなかでどんなに非人間的生き方を強制されてきたことだろうか。人間の生みだした生産力が、既成の歴史的強制力として生きた人間を支配しているかぎり、人間の人間的解放は永遠の彼岸とならざるをえないのである。だが、このような歴史における過去と現在の転倒した関係は、ほかならぬ現在そのものの継続のうちに基礎をもっているのである。したがって、われわれは、過去との断続を、いいかえるならば、生きた現在的行為のうちへの過去の豊かなる再生産を達成していくためには、自己の疎外された活動の所産としての文明が、自己の人間性を支配する外的強制力として現象する、という資本主義的現実とのたたかいのうちにあること、すなわち、現在にたいする、非妥協的たたかいにあることを、生きた人間的行為として示していかなくてはならないのである。
 マルクスもいうとおり、「革命はそれ以外のいかなる方法によっても支配階級を打倒できないから必要であるだけでなく、支配階級を打倒する階級が革命においてのみ過去の汚物全体を厄介払いして社会を新しく建設する能力を与えられるところまで進みうるから必要なのである」(『ドイツ・イデオロギー』)なのであるが、それゆえにこそ、われわれは、破壊のうえに生きることをもっとも人間的な営為として大胆に宣言できなければならないのである。この試練に耐ええないものが、どんな人間社会を創造しうるというのだろうか。われわれは、帝国主義支配体制の動揺と破綻にたいし、これを補強し改良する立場に断じてたつことなく、動揺と破綻を徹底的に拡大し、階級闘争を体制内的に包摂していく帝国主義的安全装置を積極的に破壊していく立場にたちつくさなくてはならないのである。社会のトメ金をはずせ! ここからあらたなる混乱と、それをとおして鍛えぬかれる創造のたたかいがはじまるのである。
 
 第三には、自衛の義務の問題である。
 この問題を考察するうえでまず前提的に確認しなければならないことは、帝国主義的支配秩序のもとにあっては、暴力はまずもって国家の公的暴力として日常的に民衆のうえに襲いかかっているということである。警察の尨大な機構が、民衆の自由な行動の全気孔を重々しくふさごうとし、これに抵抗するものには容赦なく血の抑圧を加えているばかりか、三〇万をこえんとする自衛隊と、その近代的軍事装備は、民衆の行動を暴力的に襲撃する日に備えて治安出動訓練をつづけているのである。学生の手に握られたプラカードの切れはしにたいしては、これを凶器準備集合罪の名のもとに刑事弾圧を加えながら、民衆に襲いかかる警官の棍棒、催涙弾、拳銃、さらには自衛隊の装備する木銃、自動小銃、機関銃、ロケット砲、戦車、ヘリコプター、飛行機は法の名のもとに保護されるというのでは、封建時代の切り捨て御免といったいどこがちがうというのであろうか。
 リンカーンがいうとおり、自由とは武器をとって政府を打倒する権利を包含するものであって、政府の手にのみ武器の自由な使用を認めることは圧制そのものといわねばならないのである。
 わが国においては、いわゆる太閣の刀狩り以来、民衆の手から武器は奪いとられ、徳川幕藩体制、天皇制権力機構、戦後帝国主義体制の全過程にわたって、武器は権力側の自由な一方的使用にゆだねられてきたのであるが、それは、同時に、四〇〇年にわたって、日本の権力がいちどとして民衆の信頼のうちに築かれたことがなかったことを、みずから暴露しているにひとしいのである。多かれ少なかれ、進歩的な権力は、民衆の武器に依拠して自己を保障したのであって、政府の手にのみ武器が保障されていること自体、その権力の反人民的性格を意味しているのである。佐藤政府は、口を開けば、日本の平和と安全を保障するためにはみずから国を守る気概が必要であるというが、人間の自由を守るために武器をもつ心意気もない国民が、どうして「国の自衛」を決意することがあろうか。
 かつて、幕末にあって、欧米列強の重圧が日本にのしかかったとき、わが佐藤の誇る長州藩は、草奔の間のものを奇兵隊に組織したばかりか、町人、百姓の武装を全面的に許可したことがあったが、そこには一時的であれ、民衆の信頼のうえに国家の安全保障を構想した幕末の志士たちの心意気があったといえよう。だが、いまや、わが佐藤政府は国を守るとの名分にかくれて、国家の武装力を民衆にむかって強化しはじめているのである。全学連をはじめとする民衆の自衛の気概のたかまりは、まさに、このような国家権力の一方的な暴力に対抗し、これを排除せんとするものであり、いうならば非暴力のたたかいである。アメリカの黒人たちにとって、暴力が白人権力の黒人への非人間的強制力を意味し、非暴力が白人権力の黒人への暴圧にたいする実力抵抗の道を意味したことはまったく当然なのである。
 人をして、もし暴力一般の排除を非難するものあらば、まず支配階級の一方的な武装をまず解除することからはじめよ、である。民衆の手に強制力のいっさいがにぎられ、これに対抗する力が政府に存在しない状況に恐怖するものは、民衆に敵対し、民衆に恐怖する政府以外のなにものでもないのである。したがって、民衆に敵対し、民衆に恐怖し、民衆を抑圧するために武装し、警察と軍隊の力にしか依拠することのできない政府にたいし、民衆が自分たちの自由をまもりぬくためにいっさいの手段を駆使して自衛するのに、いったい、いかなる罪があろうというのであろうか。けだし、このような自衛の道にたいし、これを暴力と規定しようというならば、われわれは、微笑をうかべて、人間の自由のためには暴力は不可避の社会的助産婦であると答えようではないか。
 われわれは、国家の階級暴力ならびに、これと呼応した闘争破壊者の反動的襲撃から民衆の自由のためのたたかいをまもるために、階級闘争の全局面、全戦線にわたって自衛組織の問題を提起していくとともに、さらに、このような階級的自衛力を日帝打倒・プロレタリア独裁国家樹立の武装的暴力にむかって積極的に発展させていく立場にたたなくてはならないのである。どんな小さなストライキでも組織的ピケを必要とするように、基幹産業、基幹職場のストライキを本気でうちぬくためには、国家暴力の弾圧にたいする自衛組織の問題を捨象することができないように、ゼネストや、政府の革命的転覆が、民衆の義勇軍の創成の問題と無関係に提起しうるとしたら、それは、階級闘争と権力との関係にかんしてあまりにも無知、無防衛なことを自己暴露しているのである。きたるべき七〇年安保闘争と七〇年代日本階級闘争の永続的発展の過程は、避けることのできない歴史的課題として自衛の問題をわれわれに迫っているのである。
 
 第四には、階級闘争と党派闘争の問題である。
 
 すでに前節でも検討したように、われわれは、階級闘争の政治的発展が、革命的党派と日和見主義党派との党派闘争の激化としてあらわれるという冷厳とした事実を、革命党の創成と強化の必要性を示すものとして、積極的にうけとめる立場にたたなくてはならないのである。われわれは、もとより、究極的には国家と政治の死滅を達成しようとするものであり、そのためには、国家=政治の物質的基礎をなすところの個人の精神的市民と物質的市民の分裂の止揚をなしとげていかねばならないのであるが、それは同時に、支配階級の政治的諸潮流ならびに、それに包摂された中間的、左翼的諸潮流が歴史的に累積した重層的な政治系列と、それらのブルジョア政治的技術の総体をうちやぶり、プロレタリア独裁国家を維持していくに十分な政治的訓練を、労働者階級の革命的前衛は身につけていかなくてはならないことを意味しているのである。
 レーニンが『共産主義の左翼小児病』において、「政治は科学であり、技術であり、天から降ってきたものではなく、手をこまねいてもらえるものでもない。もしプロレタリアートが、ブルジョアジーに勝利を収めたいと思うならば、彼らは、自分たちプロレタリアートの階級的政治家、しかもブルジョア政治家におとらないような政治家をつくりあげていかなければならない」と指摘しているとおり、ブルジョア政治家よりも優れた政治家をプロレタリア陣営のうちにつくりださなくてはならない、という弁証法的な命題がここに提起されているのである。
 われわれは、階級闘争の血みどろの展開のなかで、革命のアマチュアを革命家にたえずたかめていかなくてはならないのであり、革命家をアマチュアの水準に引き下げようとする日和見主義にたいし非妥協的な態度をもって対処していかねばならないのである。インテリゲンチア出身でありながら、職業革命家としてプロレタリアートの党的統制に服することなく、なおプロレタリアートへの命令権のみを確保しようとする傾向は、じつは、アマチュア主義の旗にかくれて、もっとも俗悪なブルジョア政治技術主義をプロレタリア運動に密輸入しようとするものでしかないのである。同じく、いわゆるノンセクト・ラジカリズムを固定的に評価しようとする雑多な努力の行きつくところは、階級闘争の主体的担い手を小ブルジョアの気まぐれのうえに設定しながらも、その背後で、運動の指導体系を文学的な人脈一般に解消せんとする役割をはたすものであり、ブルジョア革命の組織論以外のなにものでもないのである。
 もともと、階級闘争は、政治的選択を党派的選択として示すのであって、それ以外にいかなる方法もありようがないのである。特定の、あるいは、特定の数の、政党的党派の誤りや裏切りにたいして党派一般の否定をもって批判にかえようとすることは、その否定者のたっているできあいの政治的志向を神のたかみにひきあげようとするものであり、その俗悪さにおいてブルジョア政治家の率直さに劣るものがあるといわねばならないのである。
 革命は、人間と人間、組織と組織との生死をかけた闘争である。敵権力が、一〇人を殺せば、一〇〇人がその遺志を継いで起ち、敵権力が一〇〇人を投獄せば、千人がその運動を守りて進むものであり、また、それゆえにこそ、身の滅ぶのを恐れず革命の戦場に「微笑み」を残しておもむくことができるのである。それは、個に死して類に生きる人間の本質を革命党という特殊な関係のもとに貫徹していくものともいいうるのである。革命の意志が、人間から人間へ、組織から組織へうけっがれてゆく過程こそ、革命の不敗を歴史的に基礎づけるものなのである。帝国主義国家権力が、革命組織をそれ自体として弾圧の目的とし、同一の事件への参加にたいしても、革命的党派との関係をもって刑罰の処置を決定するのは、ただたんに国家権力の恣意的な感情にもとづくものではなくして、革命の本質そのものにたいする経験的認識にもとづくものなのである。まさに、革命党の有機的構成員としての革命家の生活の喜びも苦しみも、打倒すべき敵権力の構造に真正面から対峙している厳しさから生ずるものであり、それゆえ、この喜びと苦しみに生きる過程そのものがプロレタリア権力への道を意味しているのである。
 
 第五には、激動期に生きる怒りと喜びの問題である。
 
 われわれは、もとより一個の人間として、生活人として、いくたの現実と数多くの未来のうちに生きている。われわれを駆りたてる欲求は未来に大きくひろがりながら、また、過去につながる現実の重みのうちに閉塞を感じながら生きぬこうとしている。だが、われわれは、いまや、巨大な歴史的転形期に生きる人類として、人間の前史を止揚する階級闘争の英雄時代を担う人類として、大激動がもたらすであろういっさいの試練を喜びをもってうけとめていかねばならないであろう。「命もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなしえられぬなり」とは、『南州遺訓』のなかでも有名な一節であるが、たとえ生きた時代は異なり、達成すべき目的は異なろうとも、幕末維新の激動期に躍動した志士たちの心意気を学びとることができるであろう。
 想えば、近代日本の歴史的歩みは、アジアと日本の人民の抑圧のうえに進められてきたといえるし、また同時に日本人民は、いまだ本格的な革命経験をもったことがなかったといえるであろう。それは、世界史的には、日本資本主義が帝国主義段階への世界史的推転のなかでその創成期をむかえたという事態に規定されたものなのであるが、にもかかわらず、このような日本近代史の底辺には、明治維新――自由民権運動――明治社会主義運動――大正労働運動――昭和初期の社会主義運動――戦後日本革命運動の諸段階を貫く赤い糸のごとく、達成されざる革命の怨念が永続的に累積しているのである。
 服部之総をして「明治の革命」と呼ばしめた明治一〇年代の自由民権運動の爆発にかんして、明治社会主義の先覚者、田岡嶺雲は、大逆事件の直前にその著『明治叛臣伝』において「躁急過激。当年の自由党員といえば、殆んど狂犬の暴れた如き感があるが渠等が産を破り、家を失ひて父を捨て、子に離れて、専念憲政の樹立に奔走した熱意に至っては、実に尊敬すべきものがあった。渠等は、其為に、内乱も企てた。暴動も起した。殺人も遣った。甚しいは強盗も遣って、敢て絞首台上の人となるを恐れなかった」と驚嘆の評価をあたえているが、じつに、福島事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、静岡事件と約一ヵ年のあいだにつづく武装反乱の激発は、ロシア革命前史を彩る虚無党の革命闘争と地下茎をともにした人民の革命経験として、日本史のどす黒い歴史の底辺にうらみをのんで渦巻いているのである。
 創成期の日本資本主義は、自由党上層部の裏切りに助けられながら民権左派の革命家をつぎつぎと絞首台に送り、監獄にたたきこむことによって、アジア人民にたいする番犬的帝国主義への道をはききよめたのであったが、日本帝国主義の没落の危機をまえにしたあらたな侵略と警察国家の道にたいし、われわれは、日本人民の革命経験を一挙的に勝利に転化する突破口を永続的に拡大していく任務に直面しているのである。それは、日本帝国主義打倒・日本社会主義革命にむかって日米安保同盟政策とその諸実体を粉砕し、七〇年代日本階級闘争の永続的展開をとおして、アジアを反帝国主義・反スターリン主義世界革命の根拠地に転化していく世界史的なたたかいの道である。かって、佐世保闘争をまえにした異常な情勢のもとで、われわれはつぎのことばを勇気をもって宣言したが、六九年を歴史の分岐点とする日本階級闘争の永続的発展をまえにして、われわれの確信はいっそう堅固である。
  「われわれには孤立と激突に耐える強靭な革命的精神と、高揚にひらけゆく政治的熟達への絶えることなき努力が、脈々と生きつづけている。この力があるかぎり、いかなる脅迫も、いかなる反動もわれわれから、革命を奪うことはできない」(『前進』六八年新年号=三六五号『勝利にむかっての試練』所収)
 
  【編注】五者共同声明とは、六九年四・二八沖縄奪還闘争をまえに、革共同、ブント、ML派、第四インター、社会主義労働者同盟の五団体が共同闘争の声明を発表したもの。
      (『共産主義者』一九号一九六九年十月 に掲載)