二 八年の後に――再版にあたって
 
 
 一、羽田から七〇年安保へ――激動の過中にあって――
 二、歴史としての「安保闘争」
 三、安保敗北後の八年――革命的労働者党のための闘争――
 四、「激動の七ヵ月」と七〇年への道
 五、結びにかえて
 
 
 一、羽田から七〇年安保へ
     ――激動の渦中にあって――
 
 一九六七年十月八日――わたしは、羽田弁天橋の上にいた。日本の参戦国化と核武装の道・佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止し、武装警官隊の暴虐な弾圧でたおれた同志山崎博昭君の死に抗議して、全学連・反戦青年委員会の数千の学生・青年労働者は、弁天橋から萩中公園方向にむけて、ぎっしりと路上を埋めつくしていた。武装警官隊の催涙弾発射の恫喝のなかで堂々とおこなわれた、全学連委員長秋山勝行君や、元全学連委員長北小路敏君の演説に耳を傾けながら、わたしの心は、一瞬、六〇年六月一五日の国会構内にもどっていた。
 あのとき、わたしは血に染まったワイシャツを着て、いまと同じように、樺美智子さんの虐殺に抗議してシュプレヒコールをつづけていたのだ、と。国会の窓から鈴なりになってわたしたちを見つめていた社会党議員たち、国会の外で全学連と労働者の合流を阻止するためにピケット・ラインを張っていた日本共産党の小官僚や全自連(全学連反主流派)の学生たち――羽田弁天橋の周辺には、こういったひとたちは、だれひとりとしていなかった。そして、そのかわりに、中核旗を先頭に数千の学生・青年労働者の固い団結があったのだ。
 安保敗北以後の数年間、わたしたちは、挫折感や敗北主義に耐え抜いて、労働者階級の革命的組織化に総力をあげてきたし、また、こうした観点から学生運動の戦闘的再建を追求してきた。この努力が、いま、日本帝国主義の存亡をかけた攻撃の激化をまえにして、機動隊の暴虐きわまる弾圧をも文字どおり粉砕し、佐藤首相の南ベトナム訪問に一大痛打を与えた学生・青年労働者のたたかいいとして爆発したのである。催涙弾と警棒の乱打のまえに、この復讐戦は敗れ去ったが、わたしには、興奮も敗北感もなかった。ただ、そこには、静かな確信と、冷々とした決意のみがあった。若き同志の死や、多数の逮捕者や、学生・青年労働者の負傷をおもうと、たしかに、心は重苦しかった。だが、七〇年にむかって、たたかいははじまったのだ。羽田弁天橋のたたかいとともに、七〇年闘争は、ルビコン河を渡ったのだ。国家権力の度重なる弾圧も、報道機関の卑劣なデマや非難も、わたしたちの勝利への確信をゆるがすことはできなかった。
 それから九ヵ月。佐世保・三里塚・王子・沖縄と「激動の七ヵ月」がつづいた。帝国主義国家権力と、その政治委員会・佐藤政府は、全学連や、反戦青年委員会や、革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会にむかって徹底的な弾圧を加え、破防法・騒乱罪の攻撃をむきだしにしてきた。だが、革命的共産主義運動を中核とする青年労働者・学生の先進的たたかいは、労働者階級と人民大衆の巨大な層を「激動の七ヵ月」の過程にひきこみつつ、昨年秋の佐藤首相の訪ベト、訪米を転機として七〇年安保再強化にむかっていっきょに戦争と反動の道につき進もうとした日本帝国主義の策動に決定的反撃を加え、同時に破防法・騒乱罪適用という反動攻撃をひとまず押しかえしたのであった。
 「激動の七ヵ月」につづいて、北九州(山田弾薬庫)で、福岡(板付空港)で、呉(黄幡弾薬庫)で、大阪(伊丹空港)で、朝霞(野戦病院)で、東京(新宿米タン輸送)で、日本全土の基地化に反撃するたたかいがまきおこりはじめた。いまや、羽田以来の激闘に耐えぬいた青年労働者・学生の密集した戦闘部隊は、参戦国化と核武装、全土基地化と政治的臨戦態勢化に抗するたたかいをさらに強めつつ、安保粉砕・日帝打倒の革命的旗印を高々とかかげて、あらたな革命的激動にむかって、巨大な階級的前進を開始しようとしている。それは、参院選勝利を背景とした佐藤政府のあらたな攻撃と真正面から衝突するものとして、おそらくは、羽田以後の「激動の七ヵ月」をも一片のエピソードにかえてしまうほど激しく厳しいものとなるであろうし、したがってまた、それは、帝国主義か帝国主義打倒か、革命か反革命か、を真正面から問うものとして、おそらくは、社会党・共産党のみならず、革命的左翼を自称している諸潮流の日和見主義と待機主義をも非妥協的にあばきだすものとなるであろう。
 ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の侵略戦争の軍事的・政治的・経済的ゆきづまりと、そこから脱出するためのタイ、南朝鮮の「帝国主義の側からの第二、第三のベトナム化」の陰謀、そして、日米安保同盟の再強化を基軸とした帝国主義アジア支配体制の軍事的=経済的再編成の攻撃は、疑いもなく、世界危機の焦点を日本のうえに集約するであろう。七〇年安保闘争の革命的爆発をもって、この危機を迎えうつために、わたしたちは、六〇年安保闘争の敗北の教訓をしっかりとふみしめ、七〇年にむかっての情勢の客観的=主観的な推転のうちに、具体的に生かしていくことが、今日、とくに必要とされているのである。
 
 二、歴史としての「安保闘争」
 
 本書、『安保闘争――その政治的総括』初版をわたしたちが執筆したのは、一九六〇年七月、すなわち、六〇年安保闘争の激情と、その敗北の痛みが、まだ去りやらぬ政治的状況のなかであった。
 当時、六〇年安保闘争の主役″であった全学連は、委員長、書記長の唐牛健太郎、清水丈夫両君を牢獄に奪われ、残った委員長代行の北小路敏君が活動家を率いて三池闘争に参加し、あらたな激動の道を求めて苦闘していた。一方、労働者階級の政治的戦列にあっては、社会党・共産党などの既成左翼は、安保闘争における自分たちの歴史的破産にほおかむりし、安保闘争の勝利=安保条約の死文化を錯乱的にわめきたてていたのであった。こうした既成左翼の腐敗の深まりのなかで、全学連と呼応してたたかった青年労働者たちは、既成左翼、とりわけ日本共産党のスターリン主義的規範から離脱し、あらたな革命的前進を求めて革命的左翼に接近しながらも、全学連の主導的な政治的指導部であった共産主義者同盟の綱領的=組織論的な脆弱性のために、混迷を不可避とされていたのであった。
 事実、共産主義者同盟の内部にあっても、安保闘争を「政治的勝利」とみなす指導的総括にたいし、一方では、安保闘争の戦術面の批判をめぐって、他方では、その綱領的=組織論的反省をめぐって、厳しい討論がおころうとしていた。それは、ひとり共産主義者同盟の問題ではなく、既成左翼をのりこえて六〇年安保闘争をともにたたかった青年労働者、学生、知識人の共同の課題でもあった。
 なぜならば、六〇年安保闘争をたたかった革命的左翼の主導的潮流が共産主義者同盟であったという事情のもとでは、革共同全国委員会をふくめた革命的左翼の問題は、さしあたり、「共産主義者同盟指導部の問題」として提起されざるをえなかったからである。革共同全国委員会の一員として、共産主義者同盟とともに、六〇年安保闘争をたたかったわたしたちが、安保闘争の総括を社会党、共産党など既成左翼の批判にとどまらせず、革命的左翼の綱領的=組織論的未成熟としてとらえかえしたとき、「未成熟」にかんする問題は、共産主義者同盟にとって、その無自覚への批判として鋭く集約されることとなったのである。
 こうした革命的左翼の危機的状況のなかにあって、本書は、きわめて未熟であったが、六〇年安保闘争の敗北を、労働者階級の綱領的=組織論的未成熟の問題として積極的にうけとめ、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的労働者党の創成にむかって、敗北と挫折を止揚するよう訴えたのであった。
 その第一の意義は、既成左翼の勝利=安保死文化説にたいし決定的痛打を与えたのみならず、共産主義者同盟の「政治的勝利」説にたいし「安保敗北」を明確化し、総括の基軸を与えたことである。
 その第二は、日本帝国主義の「侵略と抑圧の道」への飛躍をかけた攻撃のまえには、議会主義や、平和と民主主義の自己完結的な路線ではけっして勝利しえぬこと、すなわち、既成左翼の伝統的な指導理念の歴史的破産を明確化するとともに、反帝国主義・反スターリン主義――日本帝国主義打倒という革命的立場が、運動の具体的過程のうちに意識的に貫徹されねばならないことを明らかにしたことである。
 その第三は、全学連の戦闘的行動をもって安保闘争の全体的高揚をひきだしながら、なぜ勝利しえなかったのか――という苦渋にみちた問題を、たんなる戦術問題としてではなく、革命的労働者党のための闘争の未成熟という組織問題としてとらえかえすべきことを訴えた点にある。こうしたわたしたちの主張にたいし、すくなからぬ批評家たちから「前衛党不在を万能薬のように論じている」という批判をうけたが、わたしたちにとって「党」を論ずることは、敗北の教訓を労働者階級の革命的勝利の道に歴史的に転化するための、苦難にみちた行程の自己選択以外のなにものでもなかったのである。
 だが、同時に、本書は、もとより安保闘争の包括的な総括の書としては過渡的な意義をもつものにすぎないのであるが、なお、こうした条件を考慮にいれるとしても、幾多の歴史的欠陥にまとわりつかれていたことについて、再版にあたり指摘しておかねばならないであろう。
 その欠陥の第一は、日米安保同盟の評価の問題である。すなわち、当時のわたしたちは、安保再改定にかんして、日本共産党の「対米従属の道」という規定を批判し、日本帝国主義の「侵略と抑圧の道」への飛躍をかけた積極的攻撃として正しくとらえたが、同時に、このような強盗的攻撃が、現実には日米安保同盟政策として現象せざるをえない点を、帝国主義戦後世界体制の戦後的特質に媒介的に規定されたものとしてとらえきれず、構造改革派的な自立論への傾斜を切断しえていなかったことである(なお、日米安保同盟政策にかんする積極的な規定にかんしては、前進社発行『共産主義者』一六号――『勝利にむかっての試練』所収革共同第三回大会報告決定集――および一八号を参照してほしい)。
 その第二は、総括の重点が主として敗北の綱領的=組織論的反省におかれたため、高揚の主体的条件、すなわち、岸の五・一九クーデターを不可避ならしめた十一・二七、一・一七、四・二六、五・一九の全学連の革命的闘争の意識的=計画的側面の確認が不十分なことである。
 その第三は、革共同全国委員会の自己批判が欠けていたこと、すなわち、革命的左翼の綱領的=組織論的脆弱性の問題は、五八年――五九年における革共同全国委員会の組織的危機の問題性と機械的に切断して論ずることができない、ということである。
 以上の指摘からも明らかのように、本書は、六〇年安保闘争の歴史的総括にとって過渡的な意義をもつものにすぎない、といえよう。率直にいって、本書の再刊は、わたしには苦痛そのものである。だが、同時に、本書は、どんなに未熟で、どんなに欠陥あるものであろうと、六〇年安保闘争にかんする数多くの書物のなかで、六〇年安保闘争の敗北を革命的労働者党創成にむかって組織的に推転させたものとして、ひとつの歴史をもっているのである。
 そこには、まさに、六〇年安保闘争の敗北という共通体験のなかで、六〇年安保闘争を革命的左翼としてともにたたかったものが、共産主義者同盟か革共同全国委員会か、という党派論争を非妥協的に展開しながらも、組織的な枠をこえて、スターリン主義運動から革命的共産主義運動への歴史的転換を、同時代史的に推進するものとして相互に浸透しあう姿が予見されなくもないのである。ともあれ、本書は、六〇年安保闘争から、羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄の 「激動の七ヵ月」を経過して、七〇年安保闘争にむかう日本革命的共産主義運動の発展の歴史的断面を示すものとして、わたしには、その歴史的な責任に耐えねばならない義務があるのかもしれないのである。
 
 三、安保敗北後の八年
     ――革命的労働者党のための闘争――
 
 六〇年安保闘争の敗北を主体的にうけとめた革命的左翼は、いわゆる挫折と転向の道ではなく、反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的労働者党の創成のための闘争にむかって歴史的前進を開始した。だが、それは、苦難にみちた試練の道であり、いくつものまわり道をもった苦闘の連続であった。
 試練の第一は、共産主義者同盟の安保総括をめぐる分解と、その革命的主翼の革共同全国委員会への結集であった。
 すでにのべたように、共産主義者同盟の指導的総括は、「政治的勝利」を主張するものであったが、ただちにそれは、六〇年安保闘争の戦術局面における戦術的不徹底性の批判に直面して崩壊し、それを契機として、共産主義者同盟の対立と分解はいっきょに深まったのであった。共産主義者同盟のこのような総括の方法と、それにもとづく組織的な対立と分解の過程は、本書でも当時から批判したとおり、かれらの戦術左翼的限界、すなわち、スターリン主義運動の直接的な左傾化をもって運動総体の革命化を達成しようとした共産主義者同盟の綱領的=組織論的弱点の戦術論的な表現であった。
 共産主義者同盟の革命的主翼をなす同志たちは、まさに、このような綱領的=組織論的脆弱性を大胆率直に自己批判することをとおして革共同全国委員会に結集したが、それは、安保闘争をひたむきにたたかったもののみが、その敗北を血のにじむ痛みをもって総括し、スターリン主義運動から革命的共産主義運動への歴史的転換を主体的=運動論的にきりひらく歴史の試練であったのであり、革共同全国委員会もふくめた革命的左翼総体の生みの苦しみともいえるものだったのである。
 今日、革共同全国委員会から右翼的に逃亡したカクマル派の諸君は、全学連の六〇年安保闘争を左翼スターリン主義として清算し、かつての革共同西分派と同様に、安保全自連の道を歩もうとしており、他方、共産主義者同盟を自称する諸潮流は、六〇年安保闘争の総括をめぐる全学連の革命的転換にたいして、ただただ、自己の党派的忠誠心の視点からのみ反発し、過去の残光のうえに野合を試みては、たび重なる失敗をくりかえしているが、わたしたちは、六〇年安保闘争の歴史的総括を、いまもこうしたかたちでつづけなくてはならないのである。
 試練の第二は、革共同全国委員会の第三次分裂、すなわち、革命的労働者党のための闘争のボルシェビキ的強化に恐怖したカクマル派の革共同全国委員会からの右翼的逃亡と、その克服のための闘争であった。
 安保敗北以後、敗北の教訓を「党のための闘争」として総括した革共同全国委員会は、米ソ核実験反対の革命的反戦闘争、国鉄、全逓、全電通を主軸とする反合理化闘争、六二年参議院選挙闘争をたたかうなかで、一定の政治的、組織的前進をかちとったが、さらに、それを基礎に、飛躍的発展の方向を三全総(六二年九月)としてうちだしたのであった。
 当時、日本共産党は、毛沢東路線への接近をテコに右翼民族主義への傾斜を深めており、他方、社会党=総評は、構造改革派の横行のなかで政転闘争路線への後退を強めていた。こうした階級情勢のなかで、革命的左翼の内部にも挫折論やニヒリズムの影響があらわれてきたが、わたしたちは、逆に、(1)戦闘的労働運動の防衛と創成のたたかい、(2)地区党組織の建設を基軸とした同盟組織の一大飛躍を提起し、あわせて(3)学生戦線における統一行動の強化にかんする大胆な努力を開始したのであった。だが、五八年秋の革共同の解体的危機や、安保闘争をとおしてのその再建と発展の歴史からなにひとつ学びとることができず、また、革共同全国委員会の直面している組織的=実践的課題に無自覚な一部の同志たちは、一度はみずからも全面的に賛成した三全総決議にたいして、これを大衆運動主義として反対し、あまつさえ、大管法闘争をとおして発展していた学生運動の戦闘的統一行動を破壊し、革共同全国委員会の戦列から逃亡していったのである。
 たしかに、三全総を契機とした革共同の第三次分裂、すなわち革共同全国委員会からのカクマル派の脱落は、日本革命的共産主義運動にとって、きわめて不幸な事態であった。それは、革共同全国委員会の学生組織を決定的に壊滅せしめるとともに、革命的左翼の分裂のいっそうの深化と、中間諸潮流の延命をもたらしたのであった。だが、革命的共産主義運動がすでに一定の歴史的発展をとげた今日からみるならば、それは、(1)安保ブントの限界を現実の運動としてつき破ること、(2)革共同全国委員会を「哲学的批判グループ」から階級闘争の革命的前衛組織へと再武装を飛躍的に推進すること、(3)「反帝国主義・反スターリン主義」の綱領的立場を踏み絵的な批判の基準とするのではなく、世界革命にむかってのひらかれた体系として発展させることを意味していたといえよう。
 試練の第三は、三全総を出発点とし、革共同第三回大会を経過して「激動の七ヵ月」にいたる日本革命的共産主義運動のボルシェビキ的再武装のための苦闘であった。
 第三次分裂のあと、革共同全国委員会は、四・一七スト、原潜、ベトナム、六五年参院選挙、日韓、杉並、東交、砂川の諸闘争をとおして、従来の地平を完全に突破する戦闘的労働運動の新段階をきりひらくとともに、また、学生組織(中核派)の巨大な建設と、それを基礎とした全学連の再建とをかちとってきたのであった。それは、まさに、たえざるたたかいの道であった。
 日本帝国主義の新植民地主義的侵略の道である日韓条約を阻止するための六五年日韓闘争の敗北にかんする深刻な総括と、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の深刻化のなかで迎えた第三回大会(六六年九月)において、革共同全国委員会は、三全総以来の同盟組織の飛躍的な発展を確認するとともに、(1)帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の開始と、日本帝国主義の体制的危機の深まり、(2)これにたいするスターリン主義陣営の一国社会主義論的対応の歴史的破産を鋭く照らしだし、(3)七〇年にむかって日本帝国主義の日米安保同盟政策を粉砕していくことを、同盟の当面する基本路線として確定したのであった。
 それは、まさに、日本帝国主義の存亡をかけた攻撃と、これにたいする労働者階級=人民大衆の安保粉砕――日帝打倒をめざすたたかいとの階級的激突としての七〇年安保闘争の姿を根底的に準備するものであった。羽田以来の「激動の七ヵ月」を戦いぬいたことは、三回大会を媒介とした革共同全国委員会のボルシェビキ的再武装を基礎としてはじめて、血みどろの試練にも耐えうるものとなったことの証左である。
 
 四、「激動の七ヵ月」と七〇年への道
 
 内外の危機の発展するなかで、きたるべき七〇年は、日米安保同盟政策の存否が文字どおり全国民的に問われる政治決戦としての様相を次第に強めはじめている。日米安保同盟の再強化を基軸とするアジア半植民地・後進国支配体制の反動的再編成の攻撃は、逆に、ベトナムを爆発点=導火線とする帝国主義戦後世界体制の矛盾を、七〇年安保闘争をめぐる日本帝国主義の動揺のうえに、集約的に転移させはじめているのである。羽田、佐世保、三里塚、王子、沖縄、そして基地闘争の激発にいたる日本階級闘争の展開は、七〇年の階級的激突が示すであろう激しさと広がりとを今日的にあばきだしているのである。
 七〇年安保闘争の第一の特徴は、六〇年当時とは比較にならぬ厳しい世界情勢のもとで、日本帝国主義の基本的世界政策そのものの正否を問うものとなるだろう、という点である。
 アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争は、もともと、帝国主義の戦後世界体制の矛盾の爆発点としての意義をもつものであるが、ジョンソン声明として自己暴露されたベトナム政策のゆきづまりは、さらに、アメリカ帝国主義の基本的世界政策の破綻を示すものとして、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺をいっそう破局的なものにしているのである。もちろん、アメリカ帝国主義は、アジア支配の野望をすてうるものではなく、ベトナムにおける敗勢の深刻化は、かえって、アジア全体にたいするかれらの反動的まきかえし政策の激化としてはねかえらざるをえないのである。
 ポンド危機・ドル不安、金恐慌として深刻化した国際通貨体制の根底的動揺は、ベトナム危機と相呼応して、帝国主義の戦後世界体制のもつきわめて異常な世界史的特質をあばきだしているのである。世界史的にいうならば、戦後の帝国主義世界体制は、二九年恐慌にもとづく世界経済のブロック化を解決したものではなく、両大戦をとおしての富のアメリカ帝国主義への異常な集中を基礎とした人為的なドル撒布政策をもってブロック化の矛盾を擬制的に回避したものにすぎなかったのである。したがって、EECの登場、日本の復活、そしてアメリカの相対的地位の後退、という帝国主義の不均等発展は、ただちに、帝国主義戦後世界体制の根底的矛盾をあばきだし、イギリス帝国主義の没落の命運を明白化するとともに、逆に西ドイツ、フランス、イタリア、日本など二流帝国主義の命運のうえに、より深刻な没落の影をなげかけているのである。
 その第二は、アメリカ帝国主義の世界支配政策がどんな危機に追いこまれようとも、日本帝国主義にとって、日米安保同盟政策を堅持することが、帝国主義としての唯一の基本的世界政策である、ということである。
 すでにのべたように、ベトナム敗勢の深刻化のなかで従来の世界支配政策の破綻に直面したアメリカ帝国主義は、「ポスト・ベトナム論」的幻想とはまさに逆に、タイ、朝鮮をはじめアジア全域に新たな戦争挑発を準備しながらも、日本をアジア支配の軍事的・政治的・経済的協力者として全面的に包摂し、日米安保同盟の再強化を基軸としてアジア半植民地・後進国支配体制の反動的再編成を達成しようとしている。一方、六三年以来の構造的不況を人為的な財政金融政策をもって危機を回避しながらも、その財政金融政策を基底とした過剰投資、過剰設備の深刻化に悩む日本帝国主義は、国内的には、企業大合併、中小・零細企業の整理、政策的インフレと合理化・労働強化をもって犠牲の労働者人民への転嫁をはかりながら、対外的には、アメリカをはじめとする先進国市場への進出と、アジアへの新植民地主義的膨脹の内的衝動を強めざるをえないのである。だが、アメリカ帝国主義の世界支配政策の破綻、とりわけアジア支配の危機は、日本帝国主義の戦後的な存立条件をゆるがすとともに、アジアへの帝国主義的侵略政策の展開をも困難としているのである。
 かくして、日本帝国主義は、日米先進国市場および、アジア太平洋地域の支配権の再分割をめぐってアメリカ帝国主義とのあいだに多くの矛盾をうみ、また、独自の帝国主義軍隊の育成にも努力を傾けながらも、日米安保同盟政策を基本的世界政策とせざるをえないのである。だが、それは、沖縄問題や基地問題の続発にみられるように、日米安保同盟政策の諸矛盾をして、日本帝国主義と 労働者階級=人民大衆との非和解的な対立として激化させずにはおかないのである。
 その第三は、きたるべき七〇年安保闘争にあっては、日本帝国主義の存亡をかけた基本的世界政策=日米安保同盟政策の存廃が文字どおりあらそわれるのであり、したがって、それは、日本帝国主義の延命か打倒か、という革命と反革命の階級的対決を綱領的基底とした血みどろのたたかいとなるであろう、という点である。
 わたしたち革命的共産主義者は、もとより、反帝国主義・反スターリン主義――日本帝国主義打倒を自己の綱領的任務としており、革命的共産主義者の組織的実践を媒介として日本階級闘争を日本社会主義革命の勝利の方向にたえずたかめようとしてたたかってきた。現代世界の根底的転覆なしには、なにごとも解決しえないことを、わたしたちは、これまでつつみかくさず語りあかしてきた。だが、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の深まりと、日本帝国主義の存亡をかけた日米安保同盟再強化の攻撃は、労働者階級=人民大衆の一人ひとりにまで、日本帝国主義の擁護か、その打倒か、という問題を厳しく問いかけはじめているのである。七〇年安保闘争の試練に耐えぬき、それを日本社会主義革命の突破口とするためには、七〇年安保闘争の旗印に公然と「安保粉砕・日帝打倒」のスローガンが大書されてなければならないのである。
 六〇年安保闘争において日本帝国主義の最後の援軍としての役割をはたした日本共産党は、七〇年安保闘争をまえにしていままた、「安保通告解消論」を唱えて、労働者階級=人民大衆の政治的武装解除に全力をあげはじめている。かれらのいうところによると、反安保勢力が国会で多数を占め、安保解消の一方的通告をおこなえば、「民主的で独立した日本」になんの混乱もなく移行できる、というのである。なんとマンガ的な話であろうか。たたかうまえからこんなおよび腰の姿勢では、反安保勢力が国会で多数になることなど、百年河清を待つ、に等しいが、かりに多数になったところで、労働者階級=人民大衆の革命的爆発をもって日本帝国主義の存亡をかけた反革命的策動を粉砕することなしには、日米安保同盟を「解消」することはできないのである。安保粉砕の道は、四分の一世紀ちかくつづいた戦後日本帝国主義の基本政策を粉砕する道である。歴史の根底的転換をまえにして、わたしたちは、混乱を恐れてはならない。権威に助けを求めてはならない。帝国主義か帝国主義打倒か、革命か反革命か――この二者択一的なたたかいは、同時に、スターリン主義か革命的な共産主義か、の分岐をもたらすであろう。わたしたちは、歴史の根底的転換をめざす革命的労働者・学生・農民・知識人と力をあわせて、この歴史の試練に耐えうる革命的労働者党の創成にむかって、さらに努力をつづけていかなければならないのである。
 
 五、結びにかえて
 
 わたしは、安保敗北から八年間、『安保闘争――その政治的総括』初版での結論を実践するために、ただひたすら「反帝国主義・反スターリン主義を綱領的立脚点とする革命的労働者党創成のたたかい」を第一義として生きてきた。七〇年安保闘争にむかって、いま「党」はひとつの飛躍を迫られている。だが、その飛躍とは、日本帝国主義を現実に打倒しうる力をもつことを意味するものである以上、言葉をもって、容易にこれにかえるわけにはいかないのである。
 わたしは、マキャヴェリのいう獅子の剛勇も、狐の狡知も、ともにもつべくもない人間であるが、にもかかわらず、日本社会主義革命の勝利にむかってのたたかいのなかで『君主論』におけるつぎの言葉の意味をいささかの曖昧さもなく考えつくしていきたいといま決意している。
 「自己の力を依頼しかつ実力を有する者は容易に失敗することはない。すべて武装せる予言者は勝ち、武装せざる者が敗れるのは此理に基くのである。……人を説得することは容易であるが、その説得したところを実行せしめるのは中々困難である。故に彼等がどうしても信じないときは、武力によって彼等を信ずるようにする手段をとることが必要である」
      (一九六八年七月 同書再版 に掲載)