安保闘争――その政治的総括
 
 本論文は、六〇年八月に刊行された武井健人編著『安保闘争――その政治的総括』のV、W部および、あとがきである。六〇年六・一五闘争を頂点とした六〇年安保闘争の偉大な高揚が、なにゆえに敗北したかを、日共スターリン主義と六〇年ブントとを鋭く批判しつつ解明、革命的プロレタリア党の創成こそその回答であることをつきだしている。六〇年安保闘争の総括をめぐる六〇年ブントの混乱と三分解の政治状況のなかで、重大なイデオロギー的、指導的役割を果たし、六一年のブントの革命的主翼のわが革共同への合流を生みだす土壌をつくりだした文献である。
   六八年版あとがきをあわせて収録する。
 
 
序にかえて
民主主義の危機とプロレタリア運動
  一、秩序党的≪転覆≫と革命党/二、のりこえられた≪前衛≫/三、市民革命か、民族革命か
なにをなすべきか
あとがき
 
 
 序にかえて
 
 「日本の人民は、この一年半にわたって新安保条約に反対して、力のかぎりたたかってきました。このたたかいは、アイゼンハワーの来日を中止させ、岸内閣に退陣を声明させ、岸一派だけでなく、戦争と侵略をたくらんでいるアメリカの極東政策に大きな打撃をあたえました。」――これは、日本共産党中央委員会総会の決議『愛国と正義の旗の下に団結し前進しよう』からの引用です。
  「アメリカ政府と岸内閣は、暴力と卑劣な策略によって、新安保条約を批准しましたが、人民はこれを絶対に承認しないという決意をかため、遠くない将来に新安保条約を破棄する条件をつくりだしました。このたたかいのなかで、共産党、社会党、労働組合が中心になって、わが国の民主勢力を団結させ、ひろく農民・知識人・文化人・青年・学生・婦人・中小企業者を結集して統一行動をねばり強く発展させ、人民の広大な統一戦線をつくりあげました。その結果、自民党のなかにも反岸勢力がつくられ、岸一派とその協力者、売国的な反動派が人民から孤立するような状態をつくりだしました。こうして、日本の人民は、自分の力で国の政治を動かし、政治の方向をきめることができるという確信をもつようになり、これによって平和・独立・民主・中立をめざすたたかいを勝利にみちびいていく新しい段階を切りひらきました」(『アカハタ』一九六〇年七月六日号)
 
 安保闘争にかんするこうした結構ずくめの総括は、多かれ少なかれ、既成の指導部からその公的地位と組織的権威にかけてまきちらされています。たしかに、一年有半の安保闘争、とりわけ五・一九の岸政府の秩序党的《転覆》以後の大衆的な街頭デモの高揚と、三度にわたる労働者階級の政治ストの敢行による労働者階級と小ブルジョアの政治的激動は、広範な大衆に政治的経験をもたらし、中間的諸階層を政府から離反させ、このような状況のなかで、昨年の秋から労働運動の底流として進行しつつあった《全労化》【編注】は阻止され、ふたたび、左翼社会民主主義の権威は確立されたといえましよう。そして、スターリン主義者(日共)は、このような政治的激動のなかで、ただ《民主主義の擁護者》として登場し、社会民主主義にたいしては、反米闘争の強化を主張することによって、わずかに、その独自性を誇示したのです。それは、まさに革命的プロレタリアと革命的マルクス主義を愚弄する《虚偽の前衛党》であることを、自己暴露してはいないでしようか。
 日共は、安保闘争の《空前の高揚》を、《偉大な勝利》として称賛しています。ところが第二共産党を志向する「新しい革命的前衛」共産主義者同盟もまた、「ブルジョアジーの予測をこえた革命的闘争の爆発は、かれらのかちえようとした政治的獲得物を反対物に転化させたという点で、支配階級に対する労働者階級の《政治的勝利》をもたらした」と美化し、「次にくるもの、それは全日本をまきこみ、全社会の根底をゆすぶる一大階級決戦である」と呼号しています。もちろん、日共と共産主義者同盟を同列に批判することは、正しくありません。しかし、安保闘争にたいするこのような総括、このような頌歌の合唱によって、革命的プロレタリアは、六月の偉大な政治的激動の成果をみずからのものにすることができるでしようか。否! 敗北からよく学びうるもののみが、最後に勝利することができるのです。われわれは、《勝利》にかんする空虚な言葉をなげあうかわりに、なぜ、六月のあの《巨大な政治的高揚》が《中途半端な勝利》に終り、敗北せざるをえなかったかを解明し、その根底的克服の道を照らしだし、真の革命的思想で労働者階級の統一を前進させていかなければならないと考えます。
 革命的共産主義者は、「国家形態にかんする闘争が無内容で幻想的で無価値であると論断」(マルクス)しようとはしない。だが、民主主義によって、すなわち「今日の国家のもとで普通選挙権によって(国会解散と読め――筆者)多数の勤労者の実際の意志を表明し、その実現を確保できるかのような、まちがった思想をみずからいだき、また人民にふきこむ」(レーニン) ようなこともしようとはしません。プロレタリアートが《民主主義擁護》という小ブルジョアジーの綱領を自己完結的にかかげてたちあがったとき、すでに敗北は予定されていたのです。まことに《敗北の道はバラの花が敷かれている》のです。にもかかわらず、わがスターリンの末裔は、たからかに叫ぶでしよう。「自民党のなかにも反岸勢力が……」と。だが、自民党内の《愛国と正義》の有識者である一人の政治家のつぎのような言葉と唱和し、こだまするとき、それは一体、なにを意味するでしょうか。
 「現在進行中の事態は、ぼくは日本における民主主義革命だと思う。従来、与えられたもので血肉の通っていなかった新憲法に生命を与える動きが、かくも大きくもり上がったということだ。この限りぼくは支持する。
 ただこの動きが左翼独裁の革命に転化しないように注意しなくてはいけないが、それを生んでいるのは岸政府の旧憲法的思考だ。岸政府ははじめから憲法の骨抜きをもくろみ、日本の政治に逆転的作用をしてきた。ロマノフ王朝的腐敗を、この程度でおさえなくてはならぬと考えるのが自由主義的民主主義だ。
 今度の事態を国際共産主義だ″などと言っている岸の感覚は、すでに通常の政治家の感覚ではない。封建的宰相といえども、自らの責任を痛感する事態なのだ。相手を暴力呼ばわりするが、本来国家権力の暴力こそが最も危険なものだ。もちろん民衆による暴力も、個人的テロあるいは集団による脅迫、いずれも肯定されてはならないが、集団行動は民衆の権利として認められなくてはならない点が非常にある……」(『週刊新潮』七月四日号「日本を動かす危険な良心」での宇都宮徳馬氏の発言)。
 
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 なお、本書は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会の同志諸君と討議したうえで、第一章(山村克)、第二章(北川登)、第三章(武井健人)が分担して執筆にあたったものであります。安保闘争のなかで勇敢にたたかった、また、深い関心をよせられた読者諸氏に、いくらかでも役に立ちうるとしたら、栄光は、主としてわが同盟の同志諸君と、革命的労働者の不屈の闘争にあることを明らかにしておきたいとおもいます。もちろん、本書の弱点や誤謬の最後の責任が、右記三名にあることはいうまでもありません。
 
 民主主義の危機とプロレタリア運動
 
 一、秩序党的《転覆》と革命党
 
 「世界史の皮肉は、すべてのものを逆転――転倒させる」と、エンゲルスは『フランスの階級闘争』の序文のなかでいった。
 「……法律をちゃんと守りながら、こんにちすこぶる元気な社会民主主義革命にかれら(秩序党の紳士諸君――筆者)が危害を加えうる方法は、ただ一つ秩序党的《転覆》だけである。すなわち、法律を破らずには生存しえない、あの秩序党的《転覆》だけである。プロシアの官僚レスラー氏とプロシアの将軍フォン・ボクスラフスキー氏は、もはやどうしても市街戦などにはおびきだされない労働者に、あるいは危害を加えうるかもしれない唯一の道をかれらに示した。すなわち、憲法の破棄、独裁、絶対主義への復帰、《国王の意志が最高の法律である(regio voluntas, suprema lex!)》のである。では紳士諸君、しっかりやりたまえ! この場合には、口をとがらせるだけではだめだ、口笛を吹くのですよ!
 だが、諸君おわすれになってはいけない。ドイツ帝国も、すべての小国や、そもそもすべての近代国家のように、契約の所産であるということを。――第一には、王侯相互間の、第二に は、王侯と人民とのあいだの契約の所産であるということを。一方の側で契約を破ればその契約は全部解消して、他方の側でももうそれに拘束されない。それは一八六六年にビスマルクがみごとな前例をしめしてくれたとおりなのだ。だから、諸君がドイツ憲法を破れば、社会民主党も自由になって、諸君にたいしてすきな行動をとることができる。しかしそのときわが党がなにをするかをこんにち諸君におうちあけするにはまいらないのである!」
 
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 岸政府は、五月一九日の夜、日本帝国主義の至上命令をうけ、いっさいの議会的擬制をかなぐりすてて新安保条約の衆院通過を強行した。わが支配階級は、自己の生命線である安保条約を確保するためには、みずからの法的規制すら警官隊の泥靴で踏みにじるという秩序党的《転覆》をやってのけたのである。だが、わが岸政府の紳士諸君は、かかる秩序党的《転覆》がわが国にかつて例をみない巨大な大衆運動の高揚を誘発するであろうことを、そのとき予知していたであろうか。かれらはそれ以後、津波のように国会に押しよせるデモの渦を議事堂の窓ごしに眺めながら、恐らくはプロシアの大臣諸侯とともに《合法性こそわれわれの死である!(le legalite nous tue !D》と叫びたい衝動にかられたにちがいない。
 事実、一九六〇年六月の大衆的激動は、日本がここ一五年のあいだに経験したいっさいの大衆運動の虚飾と苦悩を凝結させつつ、二〇世紀最大のデモクラシー運動として展開されたのであった。この一ヵ月間というもの、東京の街路は、どこにでも反政府的プラカードを掲げたデモ隊の姿をみいだすことができた。学生運動と小ブルジョア的同伴者(進歩的インテリゲンチャ)の急進的デモを先兵に展開された、かかる街頭的大衆行動の高揚のなかで、日本労働者階級は、四日、一五日、二二日と反政府ストを敢行する条件をかちとったのであった。この空前の政治的経験をつうじて、昨年の秋から急速に進みつつあった労働運動の《全労化》は阻止され、左翼社会民主主義者の失地回復が大幅に実現したのであった。
 六月一五日、国会南門でおこなわれた全学連の果敢な抗議闘争と、これにたいする武装警官隊の暴虐きわまる弾圧――これによってすぐれた若い女性の生命が奪われたのだ!――は、国会周辺に局地的な《市街戦》をすら現出させたのであった。
 「トウキョウニ カクメイ オコル スグ イケ」という電文がイタリアの通信社から南米に派遣されていた有能な記者に打電されたのは、その日の夜であった。西欧の通信社は、よりぬきの記者をつぎつぎと日本に派遣した。世界の眼は、六月のあいだ、極東の一点に集中した。南朝鮮の反政府暴動、トルコのデモ、南アフリカの動揺等々と世界資本主義の「末端」で「その心臓部より速く暴力的激発」(マルクス『フランスの階級闘争』)をともなっておこった激動の嵐が、いまや、《ブルジョア的肉体の心臓部》の一つである日本に上陸したかのごとき恐怖を、ブルジョアジーの頭脳に電撃のようにうちすえたのであった。
 だが、《カクメイ》は、イタリアの有能な通信記者が一日中、東京を探しもとめて歩きまわったにもかかわらず、どこにも発見できなかった。《ゴロゴロと死体の横たわる街路をまたいで歩き》ながらバンガリア革命やキューバ革命を取材し、《デモといえば警官隊との衝突》を常識とする西欧を故国とするこの偏狭なブルジョア記者には、六月一八日の東京の反乱はあまりにも《デモ以前》のものであった。なんとこのクリスチャンは、一八日のデモンストレーションに「戦闘的な西欧のデモと仏教的な安静の結合」を発見したのだ!
 高揚と安静のこの皮肉な連続は、まさにこの六月のデモクラシー運動の、それゆえにこそもつ敗北の原因の露呈であった。「安保闘争は、たしかに、民主主義運動としては、大きな高揚と成果をあげたに違いない。だが、それはプロレタリア運動の危機の表現にはかならないのである」(革共同全国委員会『前進』別冊第五号)。
 高揚と挫折の連続、敗北の必然性は、まさに、五・一九の秩序党的《転覆》にたいして、プロレタリアートがその抗議を、デモクラシーの回復という小ブルジョア的同伴者の幻想的スローガンでただ《幻想的》にたたかいぬいたという悲劇のなかに根深く宿していたのである。
 なぜなのか? だが、いまはふたたび五月一九日の夜にもどらねばならない。《世界史の皮肉》は、ここではあまりにもプロレタリアートにとって苛酷なものであった。
 
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 五月一九日の深夜、議事堂の周囲は、自民党の強行採決を《阻止》するために、二万名をこえる労働者・学生が急拠かけつけていた。院内では、本会議場への入口にすわりこんだ社会党議員を警官隊がゴボウ抜きしていた。自民党は、立法院の法治的《擬制》を泥まみれにして、ブルジョア的秩序の赤裸々な姿をさらけだした。
 「そのときわが党がなにをするかをこんにち諸君におうちあけするにはまいらない!」と一八九五年にエンゲルスは無気味な言葉をはいた。だが、わが《カインの末裔》がそのとき《なにを》したか、諸君はとくとご照覧あったはずである。
 第一議員会館の一室でおこなわれた国民共闘会議の戦術委員会は、いつ果てるともない小田原評定をつづけていた。共産党の鈴木市蔵中央委員は、執拗に《デモ隊の一二時解散》を主張し、全学連は《徹夜抗議》、社青同(社会党青年部)は《国会突入》を強硬にいいはった。社会党は、例の《無手勝流》無方針であった。この夜、国民共闘会議の指導部は、デモ隊にたいして《なにも》行動方針を提示することはできなかった。一二時半になって終電がなくなってしまってから、朝の三時半(つまり始発の時間)まですわりこみ抗議という方針を決定した以外には……。
 小田原評定にゴウをにやした画家の朝倉摂氏は「わたし一人でも国会に入ってみせます」と席を立った。《批准決戦》の時は、すでにきているのだ! だが、そのころ、国会の参院通用口のまえでは、日共党員と全学連反主流派からなる約二〇〇〇名が、全学連の六〇〇〇名の戦闘的デモが《直接》に警官隊と衝突しないようにそのあいだに全学連の側にむかってすわりこんでいた。日共のこの夜の指導は、一二時前に(冗談ではない、国会内でもっとも緊張したそのときに!)国会からデモ隊をたち去らせること、トロツキスト退治をわめきちらすこと、デモ隊を警官隊と衝突させないこと、ただそれだけであった。かれらは、階級闘争の緩衝部隊でしかなかったのである。
 自民党の《暴挙》の直後、国民会議の宣伝カーにたった社会党の鈴木茂三郎氏は、まさしく《政府党が議会の約束(しかり、契約だ)を破った》事実を伝え、「民主主義は死滅した」と宣言した。いまや、わが社会党は、《行動の自由》を回復したのだ!
 だが、かれらの《自由》は、ブルジョアジーの投げすてた《民主主義の旗》をふたたびブルジョアジーの掌中に押しもどすことであった。社会民主主義者は、五・一九の秩序党的《転覆》に憤激した巨大な民衆の波を、老女のようなつつしみでブルジョア的秩序の恥部にかけてやることで、その亀裂をおしかくし、かわりに、ブルジョア的社会秩序内における自己の市民権を拡大・強化しようとしたのである。帝国主義の尨大な超過利潤に寄生する「労働官僚と小ブルジョア的同伴者のグループ」(レーニン『日和見主義と第二インターナショナルの崩壊』)である社会民主主義者の一団は、たとえ《革命党》的言辞でいかに自己を粉飾しようとも、本質的には、ブルジョア社会における労働貴族と小ブルジョア的同伴者の利益を守るために、ただそのためにのみ、ブルジョアジーとたたかったのである。ブルジョア民主主義の死滅は、社会民主主義の死滅を意味するのである。
 さて、ここでわれわれは、優柔不断の老紳士にご登場ねがわなくてはならない。コミンテルンの元執行委員であり、毛沢東の友人でもある日共の野坂参三氏は、五月二〇日の正午、国会正門前につめかけた一万数千の学生をまえにして、自民党の《暴挙》後の第一声を発した。かれは、岸政府の《暴挙》を、《アメリカ帝国主義のさしがねをうけた売国的独占資本の陰謀》であると弾劾し、創価学会の議員が採決に参加しなかった例をあげて《売国と不正義の岸一派》が国民から完全に孤立していることを指摘し、現在、千数百万票集結している国民署名を、あとひとつ奮闘して二千数百万に増すよう心から訴えたのである。なぜなら、この元コミンテルン執行委員によると、二千数百万票を獲得すれば、つぎの総選挙で《愛国と正義》の戦線は勝利することができるからというのである。
 このような愚劣で無能な発言が《マルクス・レーニン主義の党》を自称する政党の議長の口からとび出たことを知ったら、レーニンは恐らくは驚きでしばらく胸のチョッキに手を入れて立ちどまったあとで、こういうにちがいない――今日の自称前衛は「今日の国家で、普通選挙権によって、多数の勤労者の実際の意志を表明し、その実現を確保できるかのような、まちがった思想をみずからいだき、また人民にふきこんでいる」(レーニン「国家について」)偽者だ、と。
 わが老紳士には、社会民主主義者が全身で感知したブルジョア民主主義の危機が、爪のアカほども感じられないのである。だからかれらは、得々としてつぎの総選挙での勝利を語りうるのである。だが、この議会主義者は、総選挙の時期の設定権が政府党にあるという周知の命題すら忘却してしまうのである。かくして、《社会主義の世界革命党》コミンテルンの嫡子を誇るわが日本共産党は、社会民主主義者の議会主義的スローガンに唱和しつつ、民族主義的不協和音をときどききしませることによって、自己の崇高な使命を遂行していると信じている、あわれな《秩序党》に転落したのである。
 《世界史の皮肉》は、《革命家の祖国》ロシアを、ロシア資本主義の後進性、西欧革命の敗北による一国的孤立という諸条件のもとで、レーニンの死後、スターリン主義官僚のトロッキー・ジノビエフ・カーメネフらの合同反対派にたいする勝利を転機に《革命家の牢獄》に変えてしまった。かかるソ連の変質は、生産と消費の分裂を官僚と労働者人民との対立に結果させつつ、日本共産党の転落の物質的基礎を形成していったのである。日共に幾度か訪れた分派闘争において、つねにクレムリンの信任状を護持した官僚一派が勝利しているという事実は、いったいなにを意味しているであろうか。かくして日共のうえにも《世界史の皮肉》は訪れるのである。だが、この転落によって、日共は日本ブルジョアジーの従順な反対派、現代のベルンシュタイン主義に生まれかわってしまったのであろうか。否! クレムリンの外交的利益が転換するやいなや、かれらは猛りたつ《反逆者》としてブルジョアジーにたいするであろう。だが、それは、誠実な下級の労働者党員の考えているように、プロレタリアートの一般的利害を担ってであろうか。安保闘争の苦悩にみちた諸過程について分析する際に、われわれはふたたびこの問題の検討にたちかえらなくてはならない。
 
 二、のりこえられた《前衛》
 
 社共両党に表現される公認の左翼指導部が愚鈍にも、五・一九クーデターについて無感覚であったり、行動のスローガンが旧態依然たるきまり文句であったとき、秩序党的《転覆》のデモクラシーにたいする関係をいちはやく指摘し、議会主義回復のスローガンを大胆に提起したのは、いわゆる進歩的知識人のグループであった。《議会の危機を救え》という社説を一面のトップに掲げた『朝日新聞』を先頭とするブルジョア・ジャーナリズムをもメディアにしつつ、さまざまな色合の小ブルジョア的同伴者のグループが、警鐘をうちならして活動を開始した。
 日本国憲法がふみにじられた事実に抗議して《公務員》を辞任した竹内好氏のつぎの『当面の状況判断』(『図書新聞』六月四日号)という一文は、かかる潮流の綱領的文章ともいうべき正確性をもって自己表現しているのである。
 「民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない。この唯一の争点に向っての態度決定が必要である。そこに安保問題をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものとが論争することは 無益である。論争は、独裁を倒してからやればよい。今は、独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである。……五月十九日の意味転換をとらえることに、既成の政治勢力はおおむね失敗した。たとえば社会党(民社も含めて)は、この当然予想される事態をあらかじめ予想し、対策を立てていくことを怠った。そのため決定的に立ちおくれを招いた。共産党は安保闘争そのものに消極的であり国民の願望を体して献身するのではなく、自己の革命幻想のために国民的願望を利用する態度に終始したので、国民からの不信と内部分裂を結果した。総評および主要単産は、これも組織の弱体化をおそれて決戦を先にのばす利己的な態度があらわであった。
 そのため、労働組合は自分の利益のためにしか行動せぬ、という印象を国民に極めつけた。これが集ってファシズムの進行を容易にした」そして竹内好氏はいう、「この運動を進めるとき、既成の政党を頼ってはならない」と。
 毛沢東の思想と行動を、独自の方法で学んだこの魯迅研究家の独裁やファシズムの概念のデタラメさについては、いまここでは問題にしないことにする。だが、この一文をわれわれが読むとき、一つのトーンが胸をうつのである。それはなにか。五・一九の意味転換を全身でとらえ、かかる状況を可能にしたいっさいの勢力をその地点から鋭く切りかえそうとする態度である。もちろん、民主主義のための闘争から安保問題を捨象しようとする竹内好氏の提案は、現実に不可能であるばかりか、「デモクラシーとナショナリズムの結合を無視するものだ」という反対が、かなりあったことも事実である。にもかかわらず、民主主義は死にひんしているという危機的心情と、既成の政党は頼りにならないという実感的決意は、小ブルジョアの急進主義的な怒りの根底につながる訴えとなっていたのである。
 かかる小ブルジョア的同伴者の危機感あふれた訴えは、一年有半にわたる全学連の安保闘争の重みとかさなりあいつつ、民同(社会党左派)と日共の日和見主義的統制のもとに低迷していた労働者階級に急速な政治的動揺をもたらし、かれらの指導部にむかって《闘う方針》を要求させはじめたのである。
 
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 一九五九年十一月二七日の国会デモで長い低迷をうち破ってみずから巨大な革命的力量の一端を解放してみせた日本労働者階級は、その日のたたかいを起点に一大進撃を開始するかにみえた。十一・二七国会デモの当日に発表された『闘争宣言』はいう――
 「……日本の平和と、民族の運命をかけた安保闘争は、いまや決戦段階に突入した。われわれの闘争に弾圧をもってこたえた政府、自民党に対し、われわれはここに心からの憤りをもって、さらに力を強め闘いに立ち上ることを誓う。
  十万人国会請願に立ち上ったわれわれは、さらにこの力を幾倍にも強め、十二月十日の第九次統一行動には、交渉即時打切り、調印阻止をかちとるために、全国のあらゆる町から村から、国民総抵抗の闘争をすすめることを宣言する」だが、現実の歴史の過程は、かかる宣言の誇大な決意とはまったく別のものであった。国会デモのその夜からただちに開始された官憲の弾圧と喧騒をきわめたブルジョア的宣伝は、社会民主主義者とスターリン主義者の弱小な心臓をおびやかしたのである。一夜明けると、わが指導者の態度は一変した。国会の査問委員会にかけ懲罰するぞ、と脅迫された総指揮者浅沼稲次郎氏は、ただただ国会乱入に自分は責任はないと陳弁するばかりであった。そしてまた、わが獄中一八年の闘士志賀義雄氏は、「われわれは事態収拾に努めたのだ」と主張し、正当にも「志賀がデモ隊を国会に先導した」という自民党の非難をデマだと反駁した。
 前日の『闘争宣言』で「国会にたいして正当な権利を行使したこのわれわれのたたかいにたいして政府は、警察力を総動員して弾圧を加え多数の負傷者をだした」といって抗議したかれら、国民会議の指導部は、二八日朝には、はやくも「全学連の統制を乱した行動に遺憾の意」を表明し、日共は『アカハタ』の号外で「全学連トロツキストの挑発」であると国会デモを誹謗し、十二・一〇の国会包囲デモの方針に反対したのであった。
 だが、現実の闘争に参加した下部の労働者は、このような《上部》の変節に文句なしに反発した。日共の政治的影響がもっとも強いといわれた全国金属と全印総連が最後まで総評の十二・一〇の国会デモ中止に反対したのは、まったく教訓的であった。三日、四日におこなわれた単産別の日共党員のグループ会議は、まさに同一の階級闘争にたいしていかに官僚的《上部》と労働者的《下部》党員とが異った構えをとるかということを、はっきりと示していた。にもかかわらず、戦術左翼としてのかれらの限界は、結局は社民とスターリン主義の規範のなかにふたたび自己をつなぎとめてしまうのである。
 かくして、ひとたびはその巨大な力量の一端を示した日本労働者階級は、生産点の闘争を強化するという《虚偽の方針》によって、戦闘的デモンストレーションから引きもどされ、今年の四月までの約四ヵ月のあいだ、決戦はおろか、闘争の空白をつくりだしてしまったのである。社会民主主義者とスターリン主義者は、共謀して十二月一〇日の《再度の国会デモ》を抑圧し、さらに、ひとたびはみずからが決定し、呼びかけすらした《羽田闘争》を全学連の孤立した闘争に押しこめ、逆に、孤立のゆえにその極左主義を中傷し、空白の《調印時決戦》をむかえたのである。
 だが、四月に入り、いわゆる《批准時決戦》になるや、なんらかの大衆行動を組織することなしには、下部労働者の左翼的批判を抑えることができないと感知した公認の指導部は、タブーであった国会請願を再開することを決意した。かくして、かの喜劇的焼香請願が誕生するのである。われわれは、焼香請願という言葉を耳にするとき、国民会議の統一行動の一環として五月一三日に、東京中・南部の労働者とともに国会裏の議員会館前に集ったときの、あの屈辱をいつもおもいだすにちがいない。
 この日、国会正門前の全学連のデモとの戦闘的交流をかちとろう! というわれわれの訴えを暴力的に封殺した指導部は、《宣伝カーを先頭に整然とデモを出発》させた。目的地は、なんと五〇メートル先の議員面会所である。列をつくって一片の請願書をわたして出口に戻ってきたとき、もう第何次かの高原闘争は終了していたのだ! これが五月一九日の一週間前の闘争の状況だったのだ!
 
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 公認の左翼指導部の密封された統制のなかで抑制されてきた労働者の不満と不信は、五・一九秩序党の《転覆》に直面して、沸騰点に達しようとしていた。下部の労働者は、《たたかわない》上部にたいして公然の批判を開始しはじめていた。情勢の変化や闘争の設定にはあまりにも愚鈍であり無知であったダラ幹も、ただひとつの才能は失っていなかった。すなわち、大衆の気分の変化を狡猾にみぬいて対応していく機敏さ、を。
 五・一九が直接に呼びおこした小ブルジョアジーの動揺、なにかの闘争を求めていた労働者、労働貴族の自己の地位への執着、これらが一体となって、社会民主主義とスターリン主義者の憶病な心臓の鼓動を高鳴らせたのであった。いまや、大衆の自然成長的な運動の波は、かれらをのりこえてすすみはじめた。このような大衆運動の高揚は、あらたな左翼の道を模索する全学連と、基幹産業の内部に確固としてうちこまれた革命的労働者のケルン的部分の左翼的批判と結びつく契機をつくりだし、かくして、既成の指導部をゆりうごかし、うきあがらせてしまった。
 六月四日の国鉄重点スト、全逓中郵支部の時間内職場集会闘争を中心とする、いわゆる政治的ストは、かかる状況のなかで準備され、かちとられたのであった。民同指導部の一片の闘争指令によってその内容が決定されたわけではけっしてない。国労品川の青年部集会や全逓中郵支部にみるように、現場の青年労働者の幹部へのつきあげのなかから、闘争の条件はかちとられていったのである。もちろん、闘争の最後の決定権は、民同幹部にあった。だが、かれらはまた、下部労働者の厳しい監視のなかにあったのである。
 六月四日、ついに、駅頭を埋めつくした地区共闘の支援ピケと構内にすわりこんだ全学連のピケ隊の面前で歴史的な政治的ストは敢行された。この国鉄労働者の闘争は、ある意味では、労働運動史専攻の一教授をして「戦後一五年間、わたしは、この日を待ちつづけてきた」(品川駅頭の乗客大会における塩田庄兵衛の発言)といわせるたけのものをもっていたのであった。事実、この国鉄労働者の決起は、一年有半にわたる安保闘争の低迷を一瞬のうちに追いはらってしまうだけの力強さを、明白に示したのであった。だが、われわれもまた、この一労働運動史家にならって「われわれは、この日を一年半も待ちつづけてきた」というべきであろうか。
 われわれは、然り、と答えるべきか、それとも、否、と答えるべきであろうか。
 もちろん、われわれは、昨年の春以来、新安保条約を阻止するためには、労働者階級の生産点での決定的闘争、すなわち、ストライキをもってする強烈な一撃が必要であると訴え、そしてまた、その機会をかちとる最短の道をつねに追求してたたかってきた。たとえ、いかに多大な欠陥にみちていようとも、また、いかに短時間であろうとも、政治的ストライキを実現したというこの政治的経験は、国鉄労働者にとって、なにものにもかえがたい貴重な勝利であったにちがいない。だが、それにもかかわらず、この闘争が、階級闘争という巨大なルツボのなかにたたきこまれるとき、それはいぜんとして、敗北のために投下された貴重な宝石ではなかったか、という疑問を、われわれは完全にうち消すことはできない。レーニンは《敗北の道はバラの花が敷かれている》という警句を好んで用いた。われわれには、それは無縁の警句なのであろうか。
 安保闘争の低迷は、進歩的知識人をオピニオン・リーダーとする小ブルジョア的動揺と、それに誘発された大衆運動の自然成長性が、まさに既成の指導部の規範をのりこえることによって、まさにそのことによって、うち破られたのである。六月の激動のみずみずしい感動は、かかる自然成長性のなかに秘められていた。だが、革命的労働者党がいまだ形成されていないという世界革命の危機の日本的状況のなかでは、かかる《のりこえ》は、小ブルジョアジーの勝利につながらざるをえなかった。
 秩序党的《転複》に憤激して《民主主義の旗のもとに》たちあがった、これらの小ブルジョア的同伴者たちは「自分たちは、小市民層を、つまり両階級の利益が同時にたがいに鈍磨しあう過渡的な階級を代表しているから、自分たちは階級対立というものの上に超然としているのだと思っていた」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリユーメール十八日』)し、いまなお、そう思っているのである。
 かくして、現代の《民主派》は、現実の階級闘争という社会的規定を捨象して、闘争の議会的形態におけるあれこれのルール違反を監視する審判官に自己を高めてしまうのである。そして、いまや、かかる護民官は、一部の例外を除いては、すべて秩序党に不利な審判を発表したのだ。そしてかれらはいう、国会を解散して(つまりタイムをかけて)もとからやりなおせばいいのさ!と。
 政府は、規則違反をひとつして待望の一点(安保批准)を獲得した。それなのに、われわれは、選手交代しか要求していないのである。こんな不都合なスポーツがあろうか。然り、プロレタリアートに必要なことは、こんなスポーツをやめさせてしまうことなのだ。すくなくとも、そのことを胸にしっかりとたたみこんだうえでおつきあいしていればよいのである。金持ちのぼんぼんと勝負すれば勝って敗けるのが、世の常なのだ!
 国会解散を主要スローガンに六月の激動はたたかわれた。だが、それは、ひとつのはかない幻想のもとでの闘争ではなかったのか。なぜなら、われわれは、われわれの要求がかちとられたまさにそのときに、ブルジョア的政治秩序の確立という手痛い敗北をうけとらねばならないからである。かかるブルジョア的軌道から物理的に自己の軌道を分離しない以上、すくなくとも、かかる展望を喪失している以上、敗北は、たたかいの最初から運命づけられていたのであった。かくて、この闘争は、日本プロレタリアートにとって二重の意味で敗北であった。それは、まさにプロレタリアートの小ブルジョアへの綱領的敗北でもあった。
 もちろん、ここでおこるであろう二、三の疑問にあらかじめ答えておこう。
 一つは、プロレタリアートは、民主主義の旗をかかげないのか、という疑問。それは、マルクスではないが《時と場合》によるのである。だが、そのまえに、つぎの一文の深みをまず十分に解明してみることが必要であろう。
 すなわち「国家の内部におけるすべての闘争、民主制、貴族制、君主制のあいだの闘争、選挙権などの闘争は、種々の階級のあいだのたがいの現実的な闘争が行われる際の幻想的諸形態にほかならない」。
 二つは、では、ブルジョア権力を打倒する条件があったのか、という疑問。これはむずかしい問題である。
 なぜなら、「問題はまさに次の点にある。つまり、われわれにとって寿命のつきたものでも、それを階級にとって寿命のつきたもの、大衆にとって寿命のつきたものととりちがえるべきではない」(レーニン『共産主義の左翼小児病』)からである。それは、まさに数百万のプロレタリアートを動かす可能性をもったプロレタリア前衛党建設の成否にかかわるであろう。《あと一歩で政治危機》という全学連の総括は、それは、レーニンやトロッキーより、ドイツ革命におけるブハーリンに似つかわしいのである。
 かくして六月の激動は、一人の誠実な脚本家につぎのような一文をものさせるのである。
 それは、みずからの足であるきだしたインテリゲンチャの、それゆえに純粋にデモクラティクな心情の一つの証言である。
 「三宅坂の国立劇場建設予定地を埋めつくした公労協、民間労組は、デモ指揮班の《流れ解散》に反対して、一時は険悪な様相を呈した。くらやみのなかに、うつぼつたる怒りとエネルギーがみなぎっていた。それはもはやエネルギーという物理的な力ではなく、恐ろしいほど緊迫した精神を感じさせる。
 『流れ解散絶対反対!』『すわり込め!』とヤミの中で叫ぶ一つ一つの声は、アジや、野次などというものではない。それは心の叫びを伝えている。指揮班の命を待たずに、すでに先頭は出発した。私は不安になった。何事も起こらなければいいが……。しかし、その不安を消してくれたものは、同会正門前にいっぱいにすわりこんだ高校生グループと、自発的にすわりこんだ一般都民の姿であった……。
 『ご苦労さまです』『ご苦労さまです』とマイクを通じて呼びかける社会党員のよびかけは、もはや空虚なものになっていた。国民は自分たちのためにたたかっているのだ。一社会党や共産党のためにたたかっているのでは、決してない。自分の生活を守るために、自分の足をふみ出したのだ。
 そうした国民の不安をよそに、時は一分一分と過ぎてゆく。
 ……携帯ラジオから流れる《新安保自然承認》のニュースは、黒雲のように、人々の頭上をおおった。《もう一押しだったのに》とだれかがつぶやいた。はたしてそうだろうか。私たちは人間でないものと戦ったのではないだろうか。これまでの反対にあいながら、岸首相の手にのこったものは一体なんであろう。どのような約束手形が彼の手に落ちてくるというのだろう。
 私は暗い空にむかって、ふるえるような思いで立っていた」(『週刊朝日』七月三日号。松山善三「六月一九日午前〇時歴史の瞬間に立って」)
 
 三、市民革命か、民族革命か
 
 大衆は、既成の指導部の規範をこえて進んだ。五・一九《顛覆》以後、運動の底辺においておこった意外な拡大と流動性は、運動の質的内容を一転させた。敗戦を境にして日本におこった統治形態の変化と、日本資本主義の発展のなかで、広範な市民的自由と生活の安定を確保した小ブルジョアは、五・一九のなかに、自己の生活を危険にさらすなんらかの表象をみたのであった。かれらにとっては、秩序党のこの反《秩序》的暴挙は、八・一五以前に日本を逆コースさせることを意味した。それは、まさに、小ブルジョアの市民的平和を危機の淵に追いこむものであった。「岸政府は保守政権ではない。なぜなら、もっともよい保守政治家は民衆に政治的動揺を与えないものだからだ」という丸山真男氏の《近代政治学》的感想は、こうした小市民的危機感の動機を《学的》に表現している。
 広範囲な小ブルジョアのこうした茶の間から街頭への進出は、組織労働者のある意味ではマンネリ化した《整然たる》デモをおしつつみ、精気をよびもどしつつ、安保闘争に積極的ではなかった労働者を、逆に鼓舞するという役割をはたした。かかる政治的動揺の深化は、労組の民同指導部の日和見主義的な方針と恰好の唱和をみせながら、六月の激動の一モメントを形成した。「両階級の利益が同時にたがいに鈍磨しあう過渡的な階級を代表しているから、自分は階級対立というものの上に超然としているのだ」と考えている《民主派》の物質的基礎は、まさに、ここにあったのである。
 かくして、小ブルジョア的同伴者たちが、口をそろえて称揚するかの《市民としての抵抗》、あるいは《根もとからの民主主義》の過程は、その条件をみたすのである。しかも、このデモクラシー運動は、日共の二段階革命綱領《三二年テーゼ》で訓練された小ブルジョア的急進主義と結合することによって、みせかけの《左傾化》を示したりするのである。プロレタリア革命の過程を《純粋に》民主主義的課題の完遂と社会主義的課題の実現の二過程に分離し、現実には、ブルジョアジーの階級的危機とプロレタリア運動の高揚を《わずかな政治的権利》の確保・拡大に限定してしまうところの、かの二段階戦略の裏切り的役割は、ふたたびかかる小ブルジョア的急進主義に《革命的である》かのような擬似のプログラムを与えてしまうのである。
 「大衆は前衛を乗りこえた」と谷川雁氏はいう。たしかに、全学連の旗のもとにたたかった革命的学生運動と、基幹産業のすくなからぬ革命的労働者は、明らかに、その安保闘争の熾烈な激突のなかで《前衛》を僭称する日共をのりこえ、これに《日和見主義》の烙印をおしつつ、前進した。
 ある意味では、今日、日共(中央)の政治的無能、道徳的堕落を論難することは、批判的精神の一片でももちあわせている、すべての左翼的理論家にとって、身の証しをたてるもっとも流行した方法となっている。だが、共産主義者同盟の『戦旗』のように、こうした動向をまったく無批判に報道し、共産党に批判的なら《破産した平和屋》とも手を結ぶようなことは、まったく危険である。なぜなら、六月の激動の実際の過程は、もっと深刻な問題を、われわれになげかけているからである。大衆は、たしかに、日共の組織的規範をのりこえた。だが、小ブルジョアの圧倒的参加によって生まれた《民主主義のための民主主義》の高揚、それ自身として目的化された民主主義の高揚は、たとえ、その党派的終局は異なっていようとも、日共が、《三二年テーゼ》で志向し、戦後の《民主化》の過程でそれを求めてあえいだところの、あの巨大な《革命的》民主主義の亡霊の実体だったのである。しかも、かかる《虚偽の革命綱領》で武装されてきた戦闘的労働者は、《民主主義革命》という幻覚に迷いつつ、小ブルジョア的同伴者の綱領をみずからのものであるかのように錯誤してしまうのである。ブルジョア的秩序党の秩序党的《転覆》にたいして、みずからをひとつの秩序として、ブルジョアジーのまえに革命的に登場すべきプロレタリアートは、ただ、小ブルジョアジーの市民綱領をかかげて、三度にわたる政治ストを敢行するのである。
 六・四ストから六・一五スト、六・二二ストにいたる三波の組織労働者の闘争が、《民主主義擁護》という完全に《政治的な》要求をかかげてたたかわれたことを、『アカハタ』も進歩的知識人も、歩調をそろえて称賛している。『アカハタ』は連日のように、この闘争が、労働者の利己的な要求(かれらは、経済的要求をこう呼ぶのだ!)の闘争のときよりも、国民の支持をうけた、と強調する。だが、労働者の要求が《民主主義擁護》というきわめてブルジョア《政治的》な要求に限定されていた事実は、はたして、かれらが合唱するように、労働者の政治的高揚の表現であろうか。否! かかる事実は、この闘争が、いぜんとして、直接的生産者のエネルギーが不完全にしか燃焼されえなかった、ひとつの論証でしかないのである。なぜか? いったい、労働者が、ストライキというもっとも直接な自己商品との対決に直面して、どうして、賃労働者としての自己を、その解放の、その改良の意志を忘却することができようか。労働者は、この闘争のなかで、もっとも大きな犠牲をはらうことによって、ブルジョア民主主義の一片をとりもどし、そしてそのために、いま、もっとも大きな復讐にさらされているのだ!
 にもかかわらず、「日本の階級闘争にとっておそらく最大の、ブルジョア秩序を震撼せしめた全人民的革命的闘争」が安保闘争の姿であったかのような幻覚に有頂点になっている、わが《革命的前衛・共産主義者同盟》は、「もし(そうだ、もしだ――筆者)、全学連の革命的街頭行動にひきつづいて、広はんなプチ・ブルの政治的高揚のなかで、労働者階級が、六月四日の《ゼネスト》を、資本家階級の秩序を、その根幹部で、わずか一ヵ所でも破壊せしめる革命的ストライキとして敢行しえていたら、それ以後のたたかいは、根本的に変っていたろう。六・一五以後の一〇日間、学生・教授の政治的決起のなかで《こんどはおいらの番だ》と応えて、組織的な革命的街頭行動を展開する組織された労働者階級が存在したならば、岸は、《ブルジョアジー》の手によってではなく、全人民の怒りの渦のなかで《人民の手》によって裁かれたであろう」などと自己矛盾した総括をのべたうえで、「だが(なんだ、だがか)現実は、革命的学生の《暴動》とこれにつづく国民的政治行動という小ブル的闘争によって終り、結果は、革命の挫折と記録されねばならなかった」などと、いい気なことをいっている。
 だが、われわれにいま必要なのは、いくつかの願望を《現実》に幻覚でつぎたしして、その雄大なイメージに自己陶酔し、現実との断層を《革命の挫折》などと美化することであろうか。かかる操作は、小ブルジョア的同伴者の急進的ポーズのもたらした《革命幻想》に錯倒した誇大妄想にすぎない。かれら自身「現実は、革命的学生の《暴動》とこれにつづく国民的政治行動という小ブル的闘争」と自白している。これが、《ブルジョア的秩序を震撼せしめた人民的革命的闘争》の正体なのである。イタリアの特派記者が、ブルジョア合理主義をとがめていいはなったように。「東京には革命はなかった」のである。
 それでも、ある人はいうだろう、「もしあのとき……であったら」と。だが、《もし》を埋めるものこそ、いま、われわれの求めて努力しているものである。プロレタリアートが、小ブルジョア的綱領のためにたたかう、この逆説を転倒するものこそ、われわれの求めて努力してきたものなのである。すなわち、革命的プロレタリア党のための闘争。
 「所有階級の集合的勢力との闘争において、プロレタリアートは、その勢力を独立の政党に組織し、『所有階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて一階級として』(傍点は筆者)行動することができるのである。政党というようなプロレタリアートの組織は、社会革命に勝利するために、なくてはならぬものである。産業の戦野ですでに達成された労働者階級の諸勢力の団結は、搾取者や政治権力との闘争のさいに、労働者階級の手中にある挺子としてやくだたなくてはならない。土地と資本の貴族は、彼らの経済的独占を永続化し擁護するために、また労働を奴隷化するために、いつも彼らの政治的特権を利用する。それゆえ、政治権力の獲得が、プロレタリアートの主要義務となるのである」(マルクス「ハーグ大会決議」)
 だが、いまはふたたび、かかるプロレタリア党を僭称する《虚偽の前衛》党の検討のために迂回しなければならない。まことに「プロレタリア革命への道は直線ではない」(エンゲルス)のである。
     *    *    *
 五月一九日夜の自民党の秩序党的《転覆》について、先にみたとおり、まったく愚鈍かつ拙劣な反応しか示しえなかった日共は、にもかかわらず、《民主主義擁護・岸内閣打倒・安保改定反対》を要求する小ブルジョア的デモクラシーの高揚と、それから逆に揺りうごかされた労働者階級の政治的変化を、遅ればせながら感知するや、かれらは、それらの潮流をいっきに反米闘争(ブルジョア民族主義)の方向に押しこめようとして、いっさいの指導を集中しはじめた。五月のパリ会談の決裂以後、突如として、アメリカ帝国主義への《接近》政策から《反米》政策に転じたクレムリンの対外政策の変化を背景に、かかる方向は、ハガチー訪日の報せとともに、強められていた。
 かくして、スターリン主義者のプロレタリア運動にたいする許しがたい裏切りは、開始された。なぜなら、いっさいのプロレタリア党の任務は、この時期においては、小ブルジョアの広範な政府離反の動向を徹底的に拡大しつつ、かかる有利な条件のもとで、労働者階級の戦闘態勢を強化し、ブルジョア政府打倒の展望を明白にうちだしながら、いっさいの諸潮流を《岸政府打倒・安保反対》の方向におしすすめ、かかる現実的闘争の発展のなかで、議会主義的桎梏を突破し、小ブルジョア的限界を克服していくことでなくてはならなかったからである。プロレタリアートは、ただ自国の政府を打倒することによってのみ(革命的敗北主義)、ブルジョアジーの国際的陰謀とたたかい、これに打撃を加えることができるのである。
 だが、わが《共産党》は、かかる方向とは《正に逆》に、小ブルジョア的な自然成長的運動に妥協し、これに《民族解放革命》の展望をつぎ木しようとしたのである。第二次帝国主義戦争における日本帝国主義の軍事的敗北の結果としておこった、アメリカ帝国主義の占領と対日《民主化》政策、それに対応した日本資本主義の再編過程と統治形態の変化を、当初は(敗戦――四九年)《民主革命》と美化し、コミンホルム批判(五〇年一月)以後は《米占領軍の全一的支配下の日本植民地化の政策》として評価した日共は、日本ブルジョアジーの帝国主義的膨脹政策としての《安保改定》を「対米従属の強化を企てるアメリカ帝国主義と売国的独占資本の共謀した策略」(『アカハタ』)としてとらえ、これに《安保体制打破・民族独立》を対置するのである。
 日共中央の後見者である毛沢東は、六月に中国を訪ねた文学代表団にむかって、つぎのような《文学的》感想をのべたといわれる。
 「いま日本人民の闘争の規模は、去年よりはるかに広範で持続的である。ストライキは政治的・スローガンのもとにたたかわれている。このようなことは世界にも珍しい現象で、去年には想像もできなかったことである。こんどの闘争は、日米安全保障新条約に反対することからはじまっているが、基本的な性質は、すなわち帝国主義反対で、民族独立を要求するものである。
 また、民主主義も要求している。安保新条約は岸信介がアメリカと共謀して、議会を強制的に通過させたので人民が立ちあがった。革命の性質はしたがって民族的・民主主義的革命である」(『朝日ジャーナル』七月二四日号。竹内実「毛主席に聞く《安保闘争》の評価」)。
 かかる安保闘争の民族主義的歪曲と二段階革命への強制は、スターリン主義者が、プロレタリア運動の一定の高揚(その端初)に際して、往々にしてとるところの行動であったことは、歴史の教えるところである。すなわち、《虚偽の前衛党》としての日共は、戦前においては、二九年――三一年にかけて、世界恐慌と戦争前夜の危機のなかで嵐のような進撃を開始しつつあったプロレタリア運動を、《三二年テーゼ》=天皇制打倒のワクのなかにはめこむことによって、天皇制(それは本質的にはブルジョア的、形態的にはボナパルテイズム的)とその階級的実体(資本と土地の貴族)をきりはなし、プロレタリア革命の不可分の過程を《純粋に》ブルジョア民主主義的課題と《純粋に》プロレタリア社会主義的課題の二過程に分離し、かくすることによって、二九年――三一年の高揚をいっきょに、無残な敗北にとってかえてしまったのである。
 また、戦後、占領軍を《解放軍》と規定した日共は、《帝国主義戦争を内乱へ》というレーニン主義的路線を放棄し、日本ブルジョアジー打倒の旗を《極左主義》と烙印し、天皇制と《土地の貴族》にたいする《民主革命》に終始したのであった。かくすることによって日共は、すでに戦時経済下で潜在的に進みつつあった日本資本主義のブルジョア的発展(地主的土地所有の解体による《土地の貴族》の没落と小農制の普遍的成立)とそれに対応した統治形態の変化(資本と土地の貴族の「所有階級の防衛を任務とする例外的な国家」=天皇制ボナパルティズムからの、資本の貴族の国家の専有=議会的民主制への変化)を、あたかもそれが、それ自身として《自己完結》した革命的過程であるかのように美化し、現実的には、ブルジョアジーの延命と再興の道を掃ききよめたのであった。
 そしてまた、かかる《民主革命》から、《コミンホルム批判》を機に《民族革命》に一転した日共は、逆に、日本資本主義の再建・再編成の過程を、アメリカ帝国主義の《日本植民地化》=日本経済の破壊の過程であるかのような没経済学的な把握をおこない、アメリカ占領軍の《強力》によって日本社会が変形されうるような反唯物史観を提示したのであった。
 占領という例外的な状況による外的な《強力》の作用は、日本資本主義の現実的な階級闘争を基礎に、その合法則的発展をドラスティックに促進する役割をはたした。財閥解体でその封鎖的性格をうちやぶり、戦時経済下で飛躍的に発展した重化学工業を主軸に、国家資金との融合を強化しつつ、あらたな資本蓄積の様式を生みだした日本資本主義は、五七年には、戦前をはるかにうわまわる動力をもって戦前水準を突破したのであった。
 かかる日本資本主義の発展は、占領軍の直接的な干渉を桎梏に転化せしめたばかりではなく、サンフランシスコ条約による《独立》をも不合理なものにしたのである。これこそ、新安保条約を生みだした現実的な基礎なのである。
 にもかかわらず、五二年春に、労働者階級の《労闘スト》→破防法ストの高揚にたいして極左的な火炎ビン闘争と皇居前広場突入をもってこたえた日共は、いままた、新安保条約が《対米従属》を深めるものであるという虚偽の評価をわめきつつ、大衆運動の方向をいっきに反米闘争に転じさせようとしたのである。六月一〇日の羽田空港の反ハガチー闘争は、まさにかかるものとして、日共によって細心に計画されたのであった。
 斉藤一郎氏は、この《闘争》に全学連が参加しなかったことを《裏切り》だと非難する。だが、事実は《正に逆》なのである。なぜなら、この反ハガチー闘争は、ほうはいとして生まれつつある反岸政府的動向を、交渉国の《新聞係秘書》にたいする来日阻止という小児病的戦術に結びつけ、闘争の焦点を、安保の自然成立以後に来日するアイゼンハワー大統領にたいする抗議闘争に解消するという敗北主義に道を開くものとして、現実には、たたかわれざるをえなかったからである。事実、この反ハガチー闘争によって、安保闘争は新局面をひらくどころか、逆に一二日――一四日の闘争の混乱と空白をつくりだし、国民会議の討論は、アイク訪日の際の戦術をめぐって小田原評定をくりかえすばかりであった。戦略的誤謬がプロレタリア階級闘争の展開をいかに弱めるかを、事実をもって示したのである。
 ちろん、われわれは、この闘争に参加した戦闘的労働者を侮蔑しようとは思っていない。当日、空港でハガチーの訪日を阻止するためにたたかった人びとのなかには、国民会議の日和見主義的方針にイライラしていた数多くの戦闘的労働者がふくまれていたのである。だが、かかる真剣な戦闘性も、誤った方向にむかって導かれるとき、それは逆に、みずからの道を曇らすことになるのである。
 ところで、『アカハタ』はいう、「全学連=トロツキストは、ソ連帝国主義打倒と不公平だから、アイク訪日に反対しない」と。冗談ではない。共産主義者同盟はいざしらず、われわれ革命的マルクス主義者は、《公平》などに心を痛めるものではない。われわれは《赤色帝国主義》論と無縁である。だが、たとえ、ソ連が《帝国主義》であったところで、アメリカ帝国主義との闘争を回避する必要は、いささかもないのである。世界革命の一環としてのアメリカ帝国主義の打倒は、なによりもまず、アメリカ・プロレタリアートの現実的任務であり、日本のプロレタリアートは、自国の帝国主義を打倒することによって、アメリカ帝国主義を打倒する現実的根拠をもちうるのである。なぜなら、われわれは、「現実的に可能なことのみ、解決しうる」(マルクス)のだからである。
 かくして、いまや、五・一九の秩序党的《顛覆》によって生まれた大衆運動の高揚は、民族主義の桎梏のなかにはめこまれてしまった。かつて《三二年テーゼ》に反対し、日共の新綱領を民族主義と批判したわが労農派マルクス主義者もまた、かかる重要な局面において、みじめな民主的《民族主義》者でしかなかったことを自己暴露したのである。安保条約を「日本の外交政策がアメリカの外交政策に従属し、国内の政治がアメリカの軍事上の必要に従属し、国の経済がアメリカの経済に依存する方向」とするかれらは、「安保体制のもとにあって、プロレタリアートがみずから生活と権利を守り、民主主義を確立しようとするならば、その闘争は常にこの安保体制そのものと衝突する。安保体制を打破することなくしては、プロレタリアートがみずから生活と権利を守り、民主主義を確立することはできない」(『社会主義』七月号、岡崎三郎「安保体制打破の闘争」)などということによって、援護射撃をしたのである。
    *    *    *
 かかる安保闘争の混迷、目標の喪失、虚偽の戦略設定に、現実的な闘争をもって、強烈な弾劾をたたきつけたのが、六月一五日の国会南門における全学連の闘争であった。
 十数万の労働者の怒涛のごときデモの波が、国民会議の指導部によって、形式的な国会行列に形骸化され、流れ解散に発散されていく危機のなかで、革命的学生によるこの闘争はたたかわれた。
 《国会構内集会》を要求して、凶暴な警察機動隊の棍棒と《素手》でたたかいつつ、かれらは、午後八時、構内をうめつくした一万数千の学友とともに、一人の勇敢な女子学生の死を聞いたのである。学生たちは、かれらの周辺をとり囲み、すきあらば、ふたたびかれらに襲いかかろうとしている警官にむかって、鉄カブトを取って哀悼の意を表明するよう要求した。
 「鉄カブトをとれ! トレ! トレ! トレ!……」という学生の悲しみにみちた叫びは、《神なき神殿》にはねかえって、コダマした。この怒りを誰にむかってたたきつけたらいいのか! 彼女を絞め殺した警官か。警官を凶暴な弾圧にかりたてた警視総監か。人民の反対の《こえ》を踏みにじって批准を強行し、日本帝国主義の威信をうちたてようとする支配階級とその政府か。そうだ! これらのすべてであるにちがいない。だが、それだけだろうか! 学友の死を知ってこみあげてくる悲しみと憎しみを、学生たちは、なおもっと多くの事実にむかって叫びたかったにちがいない……。
 社会党は、午後五時、臨時中央執行委員会を招集して、全学連の闘争が《正当な》ものであることを確認した。また、国民会議は、日共を除く満場一致で《支持》を決定した。こうした公認の指導部の《支持》の背景には、鶴見俊輔氏が、《主題のヒビワレ》と呼んだような民衆の底部における変化があったのである。自分たちの足ですでに歩みはじめた大衆は、民主主義を守ろうとするかぎり、そのかぎりにおいて、《前衛をのりこえ》て進みはじめさえしたのである。日共が宗派心を露骨に表示し、この闘争を《トロッキストの挑発》と誹謗することによって、かかる大衆の底流と衝突したのにたいし、社会党は、いぜんとしてみずからの方針を堅持しながらも、六・一五闘争を《支持》することによって、《主題のヒビワレ》にこたえるがごとき擬態を示したのであった。
  「『声なき声』の行進が八重洲口で流れ解散したあと、私たちは何人かで、国会前に帰り、学生たちのなかに入った。その途中、何人かの母親たちが学生のまわりにいて、ハンケチや繃帯を供出しているのを見た。それから、いつも、『声なき声』の行列の最後尾について、道ゆく人に『お入りになりませんか。お入りになりませんか』と泣くようにくりかえしたのんでいる中年の婦人にばったりゆきあった。
  『今日は、声なき声には来られなかったのですか?』
  『はじめにはいたのですけど。私の息子が早稲田に行っていて、ここのどこかにいるものですから、気になって。』
  そうして、気持のおちつかぬふうで、むこうに歩いていってしまった。七千人の混乱のなかで息子をさがしあてることはできないと思う。しかし、このとき、声なき声に入ってくる人の思想の根のようなものにふれたと思った。あのお母さんは、息子たちの仲間が孤立し危険な状態におちいることを恐れていたのである。だから、道行く人の一人一人に、何んとかして列にくわわって、国会を遠巻にでもして息子たちを守ってほしいと思っていたのだった。一般市民の気持ちは、そういうものだったと思う。この気持ちの流れと、共産党、社会党、総評などの団体の上部役員の連絡機関である国民会議の指導方針とは、かなりずれたものだった。それらの各団体は五・一九を機会に、自分の団体を強化しようと努力していた。一般市民の気持ちとしては、マルクス主義にも、トロツキズムにも関心がない。ただ腐敗した政治のなかにむかってつっこんでいってる学生たちを助けたいという感情があるのだ。実はこのために、穏健な一般市民の運動が、急進的な学生運動とかよいあう構造をもつことになる。整然とデモを組み、挑発者の入ってくる危険を排除し、危険におちた学生たちをよそに進んで流れ解散していく方針は、たとえ、それがもっとも純正なマルクス主義の体系の把握の上にたつ行動だとしても、この市民の立場から見るといいかげんだと考えざるを得ない」(『世界』八月号。鶴見俊輔「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」)
 
 六・一五闘争にたいするこうした《市民》的共感のふくらみ、凶暴な官憲の弾圧にたいする憎しみは、反ハガチー闘争によって、無理矢理に反米闘争におしまげられ、そうであることによって、混迷と空白のなかにおちこんでいた安保闘争に精気をふきこみ、情勢を一転させたのであった。たたかいのホコは、アイクから、ふたたび、日本ブルジョアジーの政治的代理人である岸政府にむけられた。しかも、六・一五闘争は、ただたんに、小ブルジョア的同伴者の心情をゆすぶっただけでなかった。革命的学生の必死の覚悟は、堕落した労働貴族やスターリニスト党官僚の規範をのりこえて、じかに、戦闘的労働者のこころに訴えかけた。九州の大正炭鉱や高島炭鉱の左翼労働者は、既成の政党の名をもって「全学連との共闘」を決議し、六・四ストを下から戦闘的に支えた新橋・上野・八王子支部の国鉄青年労働者百数十名は、一七日には、テープコーダーをもって国労中執にデモをかけ、「ただちにストに入るよう」要求した。また、北大阪の共闘会議は、《秩序との衝突を恐れずに》一八日にたたかうことを決定した。これらの例は、国会南門の全学連の闘争がよびさました戦闘的労働者にたいする数多くの影響の氷山の一角であるにすぎない。
 かくして、六月一五日の国会構内集会闘争は、安保条約の自然承認をまぢかにひかえ、《アイク休戦》のなかで喪失しつつあった安保闘争をよみがえらせ、日和見主義指導部にたいする激しい弾劾として、市民や労働者から深い同情をよせられたのであった。だが、このことは、労働者が階級として、すくなくとも一単産的規模で、《左翼》化したことを意味するだろうか。けっしてそうではない。たしかに、六・一五闘争は、小ブルジョア的同伴者と労働者の広範な《同情》をうけた。だが、その場合、かれらの多くは、あくまで《民主主義防衛》という小ブルジョア的限定性をもって支持したものであることを、われわれは、はっきりと見ておかなくてはならないであろう。
 もちろん、われわれは、大衆や小ブルジョアが闘争に参加する場合、かれらがあらかじめ革命的思想で武装されていなければ、意味がないなどといおうとしているわけではない。だが、小ブルジョア的運動の広範な存在と、プロレタリアートが小ブルジョアの綱領をかかげてたたかっているという条件のもとで、しかも、プロレタリア党が存在せず、《虚偽の前衛党》が、こうした運動の小ブルジョア的状況をあたかも《革命的》であるかのように美化している条件のもとでは、一局面でつき破った戦術的左翼化は、逆に、小ブルジョア的急進主義の補完物に転化するという危険をおびているのである。そして、この六・一五闘争は、まさにそうした《補完物》としてうけいれられることによって、ふたたび、小ブルジョア的高揚をもたらし、学生運動においても、かつてない多数の学生を新しく戦列に加えることによって、自然成長的なものが目的意識的なものをのりこえるというようなことがおこったのであった。
 一八日の闘争は、こうした、なにものも大衆を統一的にとらえてはいないという、混沌のなかでむかえた。『戦旗』は、「六月一五日、全学連の学生たちの英雄的闘争と同志樺の死によってきり開かれた新局面のなかでは、支配階級の政治委員会を崩壊せしめ、ブルジョア秩序を破壊させつつ、政府危機から政治危機を生ぜしめ、かれらの階級そのものを危険に陥しいれる革命的危機への転化もまた、不可能なことではなかった」(七月七日号。「迫りくる階級決戦を革命の勝利へ!」共産主義者同盟政治局)などという。
 「比較的少数のよく組織された決意をかためたものがいたら、有効な瞬間が与えられたときには、それらのものだけで政権を握ることができるだけでなく、容赦をしない勇気によって、それを維持し、ついには人民大衆を革命運動のなかにまきこみ、その少数の指導者のまわりにあつめることができる」(エンゲルス『フランスの内乱』序文)と考えていたブランキーの徒と同様に、かれらは、かかる小ブルジョア的《激動》のなかで、「数百でも訓練された労働者が、一八日に全学連とともにあったら、情勢は一変していたろう」と語り、「一八日に国会突入しなかったのは日和見主義であった」と自己批判する。
 しかも、一五日の《成功》をうけて、それ以前とそれ以後のいっさいの闘争について、「十二・一〇、五・一三の不発、五・一九夜の不準備、五・二〇の官邸突入失敗、五・二六の座り込み不徹底、六・三官邸突入不成功等々」と街頭的局面での成功・失敗に矮小化し、かくして、「現実は、革命的学生の《暴動》とこれにつづく国民的政治行動」に終った、というのである。にもかかわらず、かれらは、革命的共産主義者同盟・全国委員会の「敗北の確認のうえにたって勝利の展望を開け」という批判にたいし、「敗北を口にするものは、敗北主義者である」といい、「ブルジョアジーの予測をこえた革命的闘争の爆発は、かれらの獲ちえようとした政治的獲得物を反対物に転化させたという点で、支配階級にたいする労働者階級の《政治的勝利》をもたらした」と評価する。だが、諸君は、なにひとつの論証も、なにひとつの根拠も、そこに見出すことができないであろう。
 現実の階級闘争は、かれらが《革命への道の中途の挫折》と呼び、小ブルジョア的同伴者が《市民革命=根もとからの民主主義》と信じ、日共とその追従者が《民族的・民主主義的革命》とわめきたてたところで、けっして、われわれにとって、革命と評価しうるものではなかった。かつてない民衆の政治的高揚、だがそのなかでも、静寂にみちた政府党の沈黙、この均衡をつくりだしたものはなにか。
 それは埴谷雄高氏によって「自由と幸福を擁護する知的インテリゲンチャのある部分が、民主主義擁護のスローガンによって上昇しつつあるわが国の《整然たる》資本主義の新しき知的な代弁者になりつつあることに見出されるばかりでなく、デモの隊列のなかにある、不自由と不幸のなかに置かれている現秩序を破壊しなければならぬところの巨大な層まで、そのスローガンの枠内にとじこめられ、その枠内をぶち破りうるひとつの必然の力である自己権力について、深く自覚するに至らなかったことに関わっている」(『読書人』七月二五日号。埴谷雄高「自己権力への幻想」)といわれたことと無縁であろうか。
 そして、わが階級闘争の危機は、革命的共産主義者同盟全国委員会とほんの少数の革命的インテリゲンチャをのぞいては、かかる民衆の政治的高揚が、全体的には、虚偽のプログラムによって導かれているという危機の根幹そのものに、革命的左翼の自覚が集中していなかったことにある。社民化したトロツキスト(革共同西分派)は、《労働者政府樹立》のスローガンをかかげることによって、《左翼的》であるかにのぼせあがり、共産主義者同盟は、かかる幻想のもとにおける政治的高揚を、経済的危機も存在しない状況のもとで、《もう一歩で政治危機》までもっていけるかのように夢想する。だが、ここにおいて、かれらに共通していることは、労働者階級が、左翼社会民主主義を標榜する労働貴族の統制下にあるばかりでなく、現に《虚偽のイデオロギー》としてのスターリン主義の組織的・思想的桎梏のもとに結びつけられているという現実について、まったく無自覚であるということである。
 なぜなら、現実の危機は、前衛党の不在ということだけではなく、《虚偽の前衛党》が存在し、しかも、この党の《虚偽のイデオロギー》が、自覚しているといないとにかかわらず、変革者の精神を堕落させ、変革の論理をあらたな秩序の論理に鈍磨させてしまうからである。かくして、われわれの任務は、スターリン主義打倒・革命的プロレタリア党のための闘争ということでなくてはならない。
 
 なにをなすべきか
 
 五月一九日夜の岸政府の秩序党的《転覆》によって生まれた六月の政治的高揚は、プロレタリアートと小ブルジョアにたいして、戦後一五年間の大衆運動の総体にも匹敵すべき豊富な政治的経験をもたらしつつ、だが、「それ自身の不徹底と内部的貧弱さのために破滅した」(エンゲルス「帝国憲法戦役」)のであった。
 あらゆる意味において、この六月の《叛乱》は、戦後日本革命運動の《不徹底と内部的貧弱さ》のみじめな再演であったのである。大名役者の虚飾につつまれた荘重な身振りのなかで、岸政府にたいする労働者階級と小ブルジョアの怒りは、ブルジョアジーの政治ピエロの首のすげかえと、五・一九以前の《支配と隷属の政治形式》(マルクス)への復帰を要求する喜劇にすりかえられ、津波のように国会の周辺に押しよせたデモは、かかる状況のなかで、敗北の小道具に転化していったのであった。岸首相退陣、池田内閣成立、議会的秩序の回復……という、ブルジョアジーによってすでに設定されていた軌道のうえで、《岸退陣・国会解散》の虚ろな叫びは、あわくも消えさっていった。社会党と日共は、「いまや、総選挙近し」と選挙対策に腐心しつつある。あたかも、それによって《勤労者の実際の意志を表明し、その実現を確保できるかのよう》に……。
 だが、かかる階級闘争のプロレタリア的危機が、《前衛党》を僭称する《虚偽のプロレタリア党》によってもたらされたものであることを、われわれは、諸君とともに、すでにみてきた。しかも、六月の政治的高揚のなかで、《前衛をのりこえた》かのごとき仮象をみせた状況が、革命的学生に指導された学生運動と、革命的共産主義者とともにある戦闘的労働者運動を除いては、そうした状況が、同時にスターリン主義的誤謬の根強さの一証左でしかなかったことについて、われわれは、諸君とともに、すでにみてきた。
 ここにおいて、われわれは、なにをなすべきか。それは、反帝・反スターリン主義の綱領的立脚点を真に現実化しうる、新しい革命的プロレタリア党のための闘争でなければならない。このことは、一般的にそれが必要であるということばかりではなしに、特殊につぎの諸状況を突破するために、かかる思想が決定的に必要なのである。
 その一つは、一年有半の安保闘争のなかで、日共のとった諸行動について、激しい批判と深い不信を抱きながら、スターリン主義的な国際権威にたいする幻想をたちきることができぬために、多数の左翼的「共産主義者」が、日共の内外で停迷し、戦闘性を喪失していっているという事実であり、その二つは、日共の周辺にいて、その言動に批判と不信をもち、また、革命的左翼の行動と思想にかなりの同情と関心をよせながらも、そのいずれにも所属することなしに、戦闘的組合活動家にとどまるという例がかなりあるという事実である。左翼的労働者のあいだにみられるかかる状況を突破し、こうした戦闘的労働者に革命的マルクス主義の理論と方針をもちこみつつ、革命的プロレタリア党の旗のもとに結集することなくしては、わが階級闘争の危機は、けっして克服しえぬであろう。こうした状況のなかで、たとえば、藤田省三氏は、つぎのようにいっている。
 「……非常に単純にいえば、この際全部解党していただきたい。あるいは指導部だけでもよいから解組していただきたい。皆が独立した民主主義者(インディペンダント・デモクラット)にみずからを一度返して、そこから出発して、その結果たとえば共産党なら共産党、社会党なら社会党、これをあらためて作り直していただきたい。われわれは今の目標は、スタート・ラインを作ることが運動の目的で、それに参加する者は、スタート・ラインに帰って、あらためて自分の政治的立場を立て直してもらいたい。独立市民の連帯意識のないところに、民主的政治組織なぞありうるわけはないのですから、まず独立民主主義者になることから始めていただきたい」(『世界』八月号。「共同討議・現在の政治状況――何をなすべきか」)
 われわれは、こうした発言から、既成の指導部に失望した市民的民主主義者の素直な心情を読みとることが不可能ではないであろう。だが、われわれは、《独立した民主主義者》にスタート・ラインを設定すべきであろうか。そうではないことは、もはや明らかである。
 なぜなら、六月の高揚の危機的本質は、プロレタリアートがかかる《民主主義者》としてしか登場しえなかった、まさにそのことにあるからである。「所有階級の集合的勢力との闘争において、プロレタリアートは、その勢力を独立の政党に組織し、所有階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて一階級として行動することができる」(マルクス「ハーグ大会決議」)。したがって、かかるプロレタリアートの六月闘争への参加のしかた、小ブルジョア的幻想を自己の綱領としてかかげるという限定性は、現実の階級闘争の無残な結末を《敗北》としてとらえるのではなしに、《偉大な勝利》(『アカハタ』)あるいは《奇妙な勝利》(『戦旗』)として幻覚することを許してしまうのである。
 一八四八年のパリ・プロレタリアートの《六月戦争》について、マルクスは、「六月におけるフランス労働者の敗北によって、勝利者自身が敗北したのだ」(「一八四九年の新年」)といった。フランス・ブルジョアジーは《三色旗を敗残者の血で染める》ことによって無残な勝利をかちとった。だが、日本プロレタリアートは、民主主義という「社会的諸対立が抹殺されず……強制的にでなく、したがって技術的に、つまりみかけのうえだけ束縛をうけているにすぎないような」「最上の国家形態」をうけとるという無残な勝利のかわりに、ブルジョアジーは、手を汚すことなしに自己を防衛したのである。
 いまや、プロレタリアートは《意気さかん》であり、ブルジョアジーは健在である。かかる状況は、かならずや、一方の側が均衡を破って攻撃に転ずることを余儀なくするであろう。そして、かかる政治的攻撃が、民衆の《国民》的幻想にのって、しかも、《自由化》下に生まれる小ブルジョア的動揺を、今度はかれらの側に決定的にひきよせつつ、ブルジョアジーの方から、しかけられるであろうことは予想しうることである。
 一定の政治的休戦ののちに、鉄の必然性をもって、かかる攻撃は開始されるであろう。その合図は、小ブルジョアの休息である。だが、そのとき、小ブルジョア的同伴者のいう《独立した民主主義者》は、いかにはかないものであるか、それは、予言の必要すらないであろう。プロレタリアートは、つぎの闘争に備えなくてはならない! プロレタリアートの戦列は、急速に組みかえられなくてはならない!
 かくして、《革命的前衛》共産主義者同盟はいう、「迫りくる階級決戦を革命の勝利へ!」と。「好況の終りが刻々とせまっており、資本主義の非人間的な姿をムキ出しにしなければならない経済危機」が近づきつつあるとするかれらは、「われわれの好むと好まざるとにかかわらず、本格的な《階級対階級》の決戦に迫られている」という。「ブルジョア独裁の決定的戦闘として来たるべき日が闘われるか、プロレタリア革命の勝利の日となるか、それは正に、前衛党としてわが(共産主義者)同盟が確立されうるか否かにかかっている」(『戦旗』七月五日号)。
 共産主義者同盟書記長(当時)であった島君は、ことしの四月下旬、無残な不発に終った《五・一三国会構内大集会》方針を決定するにあたって、「安保がつぶれるか、ブンド(同盟)がつぶれるか、この一戦に賭けねばならない」と扇動した。こうした短期決戦主義が、いかにみじめな敗北を喫しなければならなかったかは、ほかならぬ『戦旗』が雄弁に語っている。
  「それ(同盟)は、六・一五によって決定的状況をきりひらいたときに、まさに、全労働者大衆、全小ブルジョアジーが運動に加ってくるとともに、同盟の前衛としての機能はマヒし、全運動を社会民主主義者の方針とイデオロギーの掌握下にわたし、さらに決定的な闘争への進路を自ら断ったことによって、同盟の弱点を全面的に開花させたのであった」(傍点は筆者・『戦旗』)
 こうした総括と前記の島書記長の発言を対比するとき、われわれは、《ブントもつぶれた》のではないか、という決定的疑問に遭遇せざるをえないのである。
 しかも、《総括》が、「第一に、四――六月の決定的闘争を前にした同盟第四回大会において、さらに前後の中央の指導において、革命的立場の貫徹に努力しながらも、安保闘争のもつ決定的意義をとらえ、その認識のもと、全同盟を政治的・思想的・組織的に準備することができなかった」ことを指摘し、「第二に、同盟こそが唯一の階級的前衛たりうるという認識と、そのための党派性と革命的思想において、われわれはとくに中央において不十分であり、したがって、前衛として恥ずべき動揺をしばしば経験」し、「第三に、組織における解党主義的状況は、中央から細胞にいたるまでこの期間同盟創立以来、最も危機的な状況にあった」(傍点は筆者)ことを知るとき、いったい、このことから「同盟こそが唯一の階級的前衛たりうるという認識」がどうして生まれてくるのだろうか。
 《四――六月の決定的戦闘》において「組織における解党主義的状況」が「中央から細胞にいたるまで」支配し、「とくに中央において」「恥ずべき動揺をしばしば経験」したとするならば、どうして、ここから「同盟こそが唯一の階級的前衛たりうるという認識」が帰納しうるのであろうか。
 だが、共産主義者同盟が、《四月――六月の決定的戦闘》において「恥ずべき動揺」をくりかえし、「中央から細胞にいたるまで」「解党主義」がまんえんしたということは、けっして不思議なことでも不合理なことでもないのである。なぜなら、共産主義者同盟は、その成立において、綱領的統一をかちとることなしに、黒田哲学、宇野経済学、対馬ソ連論の混合的集成を理論的出発点としており、しかも、五八年以前の学生運動の左翼スターリン主義的諸偏向を根底的に自己批判することなしに、戦術極左的方針を革命的左翼の形成的運動に直接にもちこむことによって、かかる不統一を糊塗してきたにすぎなかったからである。かくして、かれらは、宇野方法論的な分析に、戦術極左的実践をつぎ木するという二元論的方法をとらざるをえなかったからである。かれらの最高指導者の一人が、つねに「革命家の心情はアナキズムとニヒリズムだ」などと放言する物的基礎は、まさにこの点にあるのである。
 かくして、共産主義者同盟は、階級闘争の危機の瞬間において、解体の危機にさらされるという《恥ずべき》事実をくりかえすのである。たとえば、かれらは、昨年の四月から一年間、つかれたように《労学ゼネスト》を叫びつづけてきた。だが、かれらがことし三月の全学連第一五回大会で決定した《四・二六労学ゼネスト》の方針を、いったいどう実践したというのか。もちろん、われわれは、かれらが《労働者ゼネスト》を組織できなかったことを誹謗しているわけではない。なぜなら、われわれの方針は、現実の階級諸関係、たたかう労働者階級の階級情勢の把握に立脚しつつ、みずからの方針を実践すべき革命的前衛の力に対応しつつ決定されるべきであり、《労働者ゼネスト》は、もし有効性をもつとすれば、それは《宣伝》のスローガンでしかないからである。だが、かれらの方針が、学生戦線においても、かれらによっては、首都のゼネストが組織されえなかったという事実は、いったいなにを意味するであろうか。四月二八日の全学連中央委員会の《五・一三国会構内大集会》は、かかる《不徹底と内部的貧弱さ》を主体的に反省することなしに、《より極左的》方針を提示することによってそれをのりこえようとする、かれらの伝統的方法のみじめな戯画でしかなかったのである。
 共産主義者同盟の「理論」家である加藤明男君は、われわれにむかって《新しい日和見主義》などと、いたけだかになって「批判」しようとしている(『戦旗』七月一二日号「革共同全国委員会とわれわれの態度」)。だが、なにが《日和見主義》なのか、かれには論証することはできない。
 かくして、かれらは、六・四ストにおけるかれらの戦術の失敗を、わが同盟全国委員会の《日和見主義》に転嫁し、首都の戦闘的な国鉄労働者と全逓労働者の行動を、われわれにたいする「批判」にことよせて誹謗するのである。しかも、わが《革命的前衛》は、労働者階級が《政治スト》にたちあがるというまさにその決定的時期において、わが同盟全国委員会の方針と行動に注目し、その周辺を右往左往するという醜態をさらけだしたのである。そして、現実の階級諸関係の分析を捨象して、「比較的少数のよく組織された決意をかためたもの」が「容赦ない勇気を発揮すること」で、「資本家階級の秩序を、その根幹部で、わずか一ヵ所でも破壊せしめる革命的ストライキとして決行しえていたら」と願望するのである。そして、それが不可能だとわかったとき、かれらは、一転して、それがあたかもわが同盟全国委員会の《日和見主義》の結果であるかのごとく、われわれにむかって吠えたてるのである。
 だが、「前衛だけでは勝てないのである。全階級が、つまり広範な大衆が、あるいは前衛を直接的に支持する立場をとるか、あるいはすくなくとも前衛に対し好意ある中立をまもって、敵を支持することが完全にできないようにしないうちに、ただ前衛だけを決定的なたたかいに投じることは、たんにばかげているばかりでなく、それは罪悪である」(レーニン『共産主義の左翼小児病』)。それとも、かれらは、プロレタリアートの広範な部分が、革命的左翼の側にあったとでもいうのであろうか。
 かくしていう、「学生の革命的行動によって安保を粉砕しうるという、清水書記長の偉大な革命的思想を想起せよ!」(姫岡玲治)と。マルクス主義からブランキー主義への転落は、ふたたびはじめられるのである。そして、かかる発想は、スターリン主義を「現代のベルンシュタイン主義」(『共産主義』五号。鏑木潔「民主的統一戦線のゆくえ」)としてしかとらええない理論的不徹底さと結合することによって、戦術極左的行動によって、スターリニスト(日共)の桎梏を突破しうるかのような幻想につき動かされてしまうのである。そして、あすにも《資本主義の崩壊が訪れる》かのごとく妄想し、《九月決戦》(全学連一六回大会行動方針)を呼号し、《批判の武器》をみがけとわめきたてるのである。
 かかる共産主義者同盟の状況は、まさに、わが革命的左翼の危機の集中的表現なのである。この危機を突破し、克服することなしには、いまようやく革命的共産主義運動に参加しつつある革命的労働者の若々しい組織を危険にさらすことになるであろう。
 革命的共産主義者同盟全国委員会は、かかる日本革命運動の危機を根底的に克服しうる展望をもった現実的力として、いまや、階級闘争の舞台に慎重かつ印象ぶかく登場しようとしている。右翼中間主義者・津田道夫氏は、『現代のトロツキズム』(三月執筆)のなかで、わが同盟全国委員会を無知にも「極小グループ」と評価した。だが、この本が出版されたとき(五月刊行)、「革共同・全国委員会」と「日本マルクス主義学生同盟」の真紅の旗が、雄々しく戦列の先頭に林立している姿をみて、どう考えたであろうか。
 戦後日本唯物論のもっとも革命的な伝統に立脚し、五六年十月のバンガリア・プロレタリアートの革命的蜂起と、五七年の国鉄労働者の英雄的たたかいを先頭とする偉大な階級闘争のなかで、スターリン主義を打倒すべき真に革命的な立脚点を確立したわれわれは、一定の雌伏ののちに、いまや「反帝・反スターリン主義」の旗をたかくかかげて、もっとも革命的なプロレタリア潮流として革命的左翼の四分五裂を止揚しつつ、活動を顕在化せんとしているのである。
 もちろん、このことは、われわれが自己を直接的に《前衛党》であるかのごとくのぼせあがっていることを意味するものではない。否! われわれは、組織的・思想的な独立を断固として守りつつ、他のいっさいの左翼的プロレタリア組織との統一戦線を強化しつつ、小ブルジョア組織との提携をも、それが運動のプロレタリア的性格をこえぬ以上、強化していくであろう。われわれは、共産主義者同盟内のマルクス主義的潮流との共闘を強化しつつ、社民化したトロツキスト革共同西分派とともに《解体》摂取しつつ、社会党・共産党内におけるあらたな革命的分解と対応しつつ、革命的前衛党の結成へと進むであろう。その過程にあって、われわれは、わが同盟全国委員会を大胆に止揚すべきときがくるであろう。だが、かかる状況を早急につくりだすためにも、わが同盟全国委員会を、真に、プロレタリア階級闘争の試練にたえうる革命部隊として、嵐のなかで強化しなければならない。
 「革命はけっして、完全にできあがったものとして天からふってくるものではない。革命的動揺のはじめには、なんぴとも、はたしてそれが《真の》《本当の》革命になるかどうか、そしていつ真の革命になるだろうかということを、けっしてしらないのである」(レーニン『日和見主義と第二インターナショナルの崩壊』)
     *     *     *
 だが、つぎのような《革命的ボヘミアン》と革命党の建設とが無縁であることは、この際、いくら強調しても、強調しすぎることはないのである。なぜなら、かかる「ブルジョア的社会一般と正面的に衝突したり、多少のていさいをかまえて懲治警察裁判所へでむいたりする」職業的陰謀家の「指導的影響力をうしな」わせ、「直接的叛乱ではなくて、プロレタリアートの組織化と発展とを目的」とすることこそ、プロレタリア党のほかならぬ「プロレタリア的・共産主義的性格」なのであるからである。
 「職業的陰謀家たちが革命的プロレタリアート一般の組織化だけにとどまらないことは自明である。彼らの本領は、革命の発展過程にさきまわりし、それを人為的にかりたて、危局から、革命の条件がないのにこれをつくりだすことにある。彼らからみれば、革命の唯一の条件は、彼らの陰謀組織の成熟である。彼らは、革命の錬金術師であり、むかしの錬金術師の固定観念のなかにあった思想的混乱と偏狭性をわかちもっている。彼らは、革命的奇蹟をおこなうはずの考案に没頭する。すなわち、合理的根拠をもたないからこそ、それだけにますます奇蹟的に、意表外に作用すべき焼夷爆弾、魔術的効果のある破壊器具、一揆を。こういうたくらみに専心して、現存政府の倒壊という手ぢかな目的以外には、他のなんらの目的ももたない。そして労働者を彼らの階級的利害にめざめさせるという、どちらかというと理論的な啓蒙をひどく軽蔑する。だから、運動のこの方面を代表する、多かれすくなかれ教養ある人々たる黒衣の僧侶(Labits noirs)に対するプロレタリア的でなくて平民的忿懣」(マルクス「フランスの陰謀家とスパイ」)
 
 あとがき
 
 七月から八月にかけての情勢の発展は、安保闘争の《終局》のなかでわたしたちが危惧していたことが、残念ながら杞憂でなかったことを明白にしています。
 小ブルジョアならまだしも、労働者階級までもが、安保闘争の《高揚》に酔いしれて、《統一戦線の勝利》(『アカハタ』)とか、《怒涛のような安保闘争の前進、鋼鉄のような三池闘争の強靭さ》(『総評大会議案』)とか有頂天になっているあいだに、支配階級の陰謀は、着々と進められていたのです。
 ブルジョアジーは、安保強行批准にまつわる混乱のすべての責任を岸内閣に集中しておいて詰腹を切らせ、支配階級の政治的エリートの本命である池田氏を巨額の金をばらまいて登場させ、事態の収拾とブルジョア的政治秩序の回復にあたらせたのです。
 小ブルジョアがすでに茶の間の安静に帰っていた七月一九日に成立した池田内閣は、議会主義の回復のために努力することを約束し、その試金石として三池における資本と労働の死闘の解決にのりだしました。なぜなら、一万の武装警官隊と三万の《武装》した労働者部隊の正面衝突は、池田内閣の成立によって生まれた幻想を、一瞬のうちにふきとばし、階級闘争の様相を一変させてしまうからです。七月二一日を期限とする仮処分執行に一万の武装警官隊を出動させておきながら、労働者のヘルメットと棍棒に屈して仮処分執行を停止することは、もちろん、支配階級の耐えうることではありません。
 だが、事態を救済する手が政府と中労委からさしのべられたとき、これに真先にとびついて「職権あっせん案」をまるのみしたのは、三井資本ではなくして炭労の幹部だったのです。原炭労委員長は、「あっせん案」の内容をみて「ペテンにかけられた」といったとのことです。しかし、いったい《ペテン》にかけられたのは、奸智にたけたダラ幹でしようか。「労働者の力の前に政府は乗りださざるを得なくなった」と、あたかも池田政府が労働者の力のまえに屈服したかのように偽り、勝った、勝ったの宣伝で労働者の眼をごまかしていたのは、いったい誰だったのでしようか。
 プロレタリア階級闘争は、最後の煮つまった段階で、その公認の指導部の日和見主義のために完全に逆転してしまったのです。しかし、正確にいうならば、安保闘争の収束の過程、池田内閣の成立の状況そのもののなかに、すでにこのような劇的な逆転がはらまれていたといえましよう。
 六月一五日の政治ストは、民間中心の掛け声にもかかわらず、実際に二四時間ストをたたかったのは、炭労だけでした。そして、その炭労も、六・一五ストの前日の炭労大会では、迫りくる石炭資本の合理化攻勢にたいするなんら有効な反撃を準備しえなかったのです。大会に参加した一人の山元労働者のつぎのような怒りの声は、そこでは《雑音》でしかなかったのです。
 「またもキレイ事で終わってしまったという不満で一杯だ。なぜ、山元でのうつうつとしている悩み、激突している矛盾、三池のたたかいへのセキを切ったような共感、闘魂、それらが大会へ反映しないのだろうか!」(『産業労働月報』七月号)
 六・四ストを、国鉄労組とともに先頭にたってたたかった動力車労組は、六月末の定期大会で四年越しの宿案《総評加盟》を決定し、「安保闘争にたいする不当処分が出された場合には、六・二二ストをうわまわる実力を行使してたたかう」という緊急動議を満場一致で可決しました。プロレタリアートは、六・四政治ストの経験をつうじて、その旗がいかに小ブルジョア的思想におかされていようとも、生産的階級としての、もっとも革命的な姿をおしだしてくるのです。
 だが、安保闘争のなかで強化された《社共の統一戦線》と《中央の指導性》は、ふたたび、このような闘争の桎梏であることを示しています。たとえば、岩井総評事務局長の「首切りを撤回させることは不可能である。首を切られても、いかに戦力を保持するかが大切である」との発言は、あまりにも教訓的ではないでしようか。そして、すべては《選挙管理内閣》の問題にすりかえられてしまうのです。
 国鉄・全逓・全電通の労働者にたいする岸政府の処分攻撃にたいして、有効な反撃を組織することなく、事態はすぎさっています。このような状況を打破し、本当にたたかうことのできる労働者の態勢をつくりだすためには、若々しい青年労働者の戦闘力が革命的マルクス主義で武装される必要があります。こうした問題については、本書では十分に展開することはできませんでしたので、わが革命的共産主義運動の輪郭を知るためにも、本書と同じ頃に出版される『逆流に抗して』を参照していただきたい、と思います。
 
 【編注】 現在の同盟の前身。同盟は総評に対抗して帝国主義的労働団体として六二年四月に組織されたもので、全労、総同盟、全官公の三団体が母体であるが、その中心が全労であったため、このような動きを称して全労化といった。
 
  (一九六〇年八月刊 武井健人『安保闘争』 現代思潮社)