戦略的総反攻――その勝利の展望
     反革命カクマルを打倒し、七〇年代革命の道を前進せよ
 
 本稿は、一九七四年八月に革共同政治局の全一的指導のもとに、全人民にむけて発せられた戦略的総反攻宣言と、その勝利の展望をときあかした戦争指導論文である。敵カクマルの初期的優位性とその崩壊過程と、わが党、わが軍の強さと弱さを科学的に解明し、勝利の必然性をさし示した論文である。
 
 
T 戦略的総反攻の大方針――二重対峙・対カクマル戦の怒涛の大進撃
 1戦略的総反攻の大号令/2戦略的総反攻への勝利の軌跡 /3戦略的総反攻への戦局的特徴点/4戦略的総反攻の怒涛の大進撃
U 戦略的総反攻の革命的意義とその歴史的勝利の展望
 1二重対峙・対カクマル戦の革命的意義/2戦略的総反攻の戦略的意義とその基本目標((a)戦略的総反攻の戦略論的意義 (b)戦略的総反攻の基本目標――(1)戦略的総反攻の基本目標(2)戦略的総反攻の基本的構成要素(3)戦略的総反攻の具体的達成目標。戦争のいわゆる重心について)/3勝利の保証/4当面する主要な任務
V 結語にかえて
 
 
 T 戦略的総反攻の大方針――二重対峙・対カクマル戦の怒涛の大進撃
 
 1 戦略的総反攻の大号令
 
 日帝・国家権力とその「左」の足、K=K連合の片われ、反革命カクマルにたいする革命的労働者人民の二重対峙・対カクマル戦は、辻・正田同志を虐殺した十二・四反革命をみすえ、そそぎ、のりこえるための二年有半の苦闘にふまえ、ついに戦略的総反攻を開始した。わが革命的戦士たちは、怒涛の大進撃を展開し、いたるところで反革命勢力をうちやぶりはじめた。日帝・国家権力の破防法型=内乱鎮圧型弾圧の政治、K=K連合政策とそのもとでの反革命カクマルの積年の反階級的悪業にたいする労働者人民の共同の正義の怒りが、ここに勝利の戦略的総反攻となって大爆発したのである。
 戦略的総反攻への突入についての政治局の重大決定は、八・三大政治集会の席上、五千の革命的労働者人民をまえにして、北小路敏同志から劇的に提起された。七・二五の沖縄の集団戦勝利を突破口に、日本列島を縦断して画期的な戦果をつぎつぎとかちとりつつあった第一の十日間戦争の完全勝利を背景にしてうちだされたこの大号令は、当然のこととはいえ、満場の革命的労働者人民の大歓声によって熱烈にむかえられたのである。つづいて、八・五広島反戦集会において、西日本を中心に結集した千二百名の革命的労働者人民にたいし、稲城誠一郎同志よりこの大号令が報告されるや、すでに西日本武装制圧の壮挙をなしとげつつある西日本の同志たちは、感激もあらたに反革命カクマル完全打倒の決意と態勢をうちかため、勝利の展望をいっそうかたく確信したのであった。
 かくして、反革命カクマル完全打倒のための戦略的総反攻の重大決定は、電撃のように全国の革命的同志たちをとらえ、きわめて短期日のうちにその大衆的な支持と共鳴をかちとったのである。戦略的総反攻のための政治的、軍事的な態勢がここにがっちりとうちかためられたのである。八・三日比谷、八・四大阪、八・五九州とつづく連続的大勝利の快挙は、まさに、わが政治局の大号令にたいする革命的戦士たちの大歓声であり、戦闘的祝砲であったのである。
 それにひきかえ、あわれをとどめたのは反革命カクマルの無能な指導部であり、みじめな下部大衆である。われわれの戦略的総反攻の大号令がつたわるや、かれらは完全に動転してしまい、集会の予定時間をはやばやときりあげ、集団逃亡することにやっきとなったのであった。それにもかかわらず、高揚するわが革命的戦士たちは、反革命分子どもを見逃しはしなかった。警視庁まえから算を乱してわれ先に逃亡する本隊を「守る」ために有楽町寄りに配置された「防衛隊」を一挙に撃破し、早大カクマル五名を徹底せん滅し、翌四日の「マル研」全国集会なるものを「お通夜」の場にかえてしまったのである。テープの黒田報告は勝手に半分でうちきられてしまい、かわりに前川の弁解と泣きごとがつづくはめにおちいったのである。
 革命勢力の旭日のような興隆と反革命勢力の落日のような没落とが、きわめて劇的な対比をもってここにえがきだされたのである。
 
 2 戦略的総反攻への勝利の軌跡
 
 周知のように、われわれの二重対峙・対カクマル戦は、辻・正田両同志を虐殺した一九七一年の十二・四反革命にたいする革命的報復のたたかいとしてはじめられた。
 一九七一年秋、わが革共同を先頭として日本労働者階級と人民大衆は、日帝の沖縄政策、七二年沖縄返還政策を粉砕するために戦闘的に総決起した。とりわけ、わが革命的労働者人民は、七〇年安保粉砕=日米共同声明粉砕のために決起した六九年の「第一の十一月」の革命的大闘争を英雄的にひきつぎ、九・十六三里塚、十一・一〇沖縄――十一・一四渋谷――十一・一九日比谷の大暴動闘争を頂点とする歴史的たたかいを「第二の十一月」としてうちぬき、七一年沖縄奪還闘争の革命的最前線を勝利的ににないきったのであった。
 日本帝国主義とその国家権力は、このような戦闘的たたかいが労働者人民のこころをとらえ、七〇年代階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展の中核となって成長しつつあることに恐怖し、六九年につづいて、ふたたび破防法をわが革共同に適用し、松尾全学連委員長を不当に逮捕したばかりか、われわれの集会を一ヵ月にわたって屋内屋外をとわず、ことごとく禁止する異常措置にうってでたのであった。もとより、日帝・国家権力のこのような内乱鎮圧型の弾圧をうちやぶって、われわれは不屈に前進し、十二月総決起の壮大な展望をひらきつつあった。権力の大弾圧の政治は、革命的労働者人民の戦闘的前進をうちくだくことができなかったばかりか、われわれの「第二の十一月」によってゆりうごかされた労働者人民の巨大な部分を、わが革共同の戦列にいっそう緊密にむすびつけるものとなったのである(一九六七年の十・八羽田を突破口とする七〇年安保・沖縄闘争については、さしあたり本多延嘉『勝利にむかっての試練』、北小路敏『歴史選択としての七〇年安保闘争』、津久井良策『内乱と武装の論理』参照)。
 まさにこのような日帝・国家権力の弾圧の政治の危機を、軍事的に打開する勢力として登場したものこそ、反革命カクマルの白色襲撃の路線であった。七〇年をめぐる安保=沖縄闘争について、つぎつぎと路線的破産をくりかえし、六三年に革共同から逃亡して以来つづいてきた黒田=森茂体制が崩壊するという破局的事態においこまれていた反革命カクマルは、一方では、その政治路線をますます経済主義の方向におしまげ、内乱・内戦――蜂起の総路線への敵対をおしすすめるとともに、他方では、その破産を軍事的にのりきるために、革命勢力にたいする白色襲撃の道にますますのめりこんでいったのであった。
 日帝・国家権力は、カクマルの反革命的変質をじっくりとみきわめ、破防法弾圧のゆきづまりを「民間反革命」カクマルの内乱的動員をもって突破するK=K連合政策を目的意識的に採用した。他方、反革命カクマルは、辻・正田両同志を虐殺した十二・四反革命を血盟のあかしとして、日帝・国家権力への従属をちかうとともに、かの木曾(黒田)論文をもって、「権力が中核派の首根っ子をおさえ、カクマルが急所を狙う」というかたちで白色襲撃の路線をうちかためたのであった。
 われわれは、十二・四反革命を画期とする日帝・国家権力と反革命カクマルのK=K連合の攻撃にたいし、一方では、「二つの十一月」の偉業をひきつぎ、七〇年代階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展の道を断固としてつきすすむことを確認するとともに、他方では、「二つの十一月」の特殊な継続として、二重対峙・対カクマル戦の陣形をつくりだし、K=K連合粉砕・反革命カクマル完全打倒のたたかいを、非妥協的に最後までおしすすめることを決定し、その方法として持久戦型の戦略、段階的前進の戦略を創造的にうちたてたのであった。
 かくして、わが革共同を先頭とする革命的労働者人民は、日帝・国家権力の凶暴きわまる弾圧に抗しつつ、それとむすびついて激化する反革命カクマルの白色襲撃にたいする不屈のたたかいを、英雄的に展開しぬいたのであった。
 もとより、われわれの二重対峙・対カクマル戦は、その当初の段階にあっては、きわめて困難で深刻なものであった。われわれは、第二の十一月決戦によって数千名の逮捕者をだし、数百名の長期投獄者をだすことによって、重大な組織的打撃をこうむっていたばかりか、日帝・国家権力のK=K連合政策、反革命カクマルの白色襲撃にたいする政治的、軍事的態勢の構築という点で決定的にたちおくれていた。すなわち、わが革命的労働者人民は、その政治的影響力においても政治的・組織的な力量においても、反革命カクマルにたいし圧倒的な優勢を保持しながらも、それを対カクマル軍事力に転化する点において、自然成長的な限界を突破しえないでいたのであった。他方、反革命カクマルは、そのたびかさなる政治的破産を軍事的に打開することにおいて、一種の徹底した路線と経験をもっており、しかも、それを「党派闘争」の仮面にかくして労働者人民を欺瞞しつづけたのであった。まさにこのような関係こそ、反革命カクマルの初期的優位性の歴史的条件であった。
 一九七一年の十二・四反革命より一九七三年の九・二一にいたる一年十ヵ月の戦略的防御段階のたたかいは、それゆえ、権力の弾圧と反革命の白色襲撃からわが革共同と革命勢力を決定的に保持しつつ、反革命カクマルにたいする労働者人民の政治的武装、反革命カクマルせん滅への武装態勢を歯をくいしばってきずきあげる過程であった。こうしたなかで、初期的優位性に慢心した反革命分子どもは、尊大なポーズでわれわれをあなどり、戦闘的労働者人民への抑圧をくりかえした。
 反革命カクマルによる一九七二年十一月八日の川口同志虐殺と、それにたいする早大四万学生の虐殺弾劾・早大解放、K=K連合粉砕・反革命カクマルせん滅の歴史的なたたかいは、反革命カクマルせん滅が、労働者人民の共同の正義のたたかいであることを大衆的に疑問の余地なきものとした。わが革共同を先頭とする革命的労働者人民は、あらゆる方面で革命闘争と革命党建設の前進をきりひらき、敵の拠点の逆拠点化をおしすすめるとともに、二重対峙・対カクマル戦の画期的前進のために不屈のたたかいをおしすすめたのである(「レーニン主義の継承か解体か」本選集第一巻所収)。
 一九七三年九月二一日、革命的報復戦の熾烈な一撃が反革命カクマルの頭上に炸裂した。二重対峙・対カクマル戦の革命的対峙戦の段階が猛然と火ぶたをきったのだ。尊大な身ぶりで優勢の神話に酔いしれていた反革命カクマルは、その戦闘主力をなす学生戦線において、つぎつぎと赤色テロルの猛攻をうけ、白色過疎支配の崩壊をあばきだされたのであった。また、革命的報復の鉄槌は、カクマル指導中枢をなす土門(根本)、朝倉(池上)、吉川(鶴田)、杉山(指吸)をつぎつぎと撃沈し、反革命カクマルの中央指導部、黒田=朝倉体制の崩壊を決定的な段階におしあげたのであった。さらにまた、われわれは、戦略的敗勢をとりもどすための絶望的とりかえし策動をつぎつぎと撃破し、十二・一五、十二・二三の集団戦において連続的大勝利をかちとり、敵の敗勢をいっそう決定的なものにしたのである(『前進』六五五号論文、同六六五号=新年号論文参照)。
 一九七四年一・二四闘争とそれにひきつづく一連のたたかいの歴史的勝利は、九・二一以来の革命的報復戦の戦略的展開、反革命カクマルの総くずれ的な敗勢を、極限にまでおしすすめるものであった。反革命カクマルの卑劣漢どもは、色をうしなってうろたえまわり、ただただ「警戒せよ」とわめきまわっていたのであった。まさに、このような反革命カクマルの崩壊的な危機に、K=K連合政策の露骨な破局を直視した日帝・国家権力は、わが革共同にたいする全面的な弾圧にうってでたのであった。
 われわれは、日帝・国家権力の熾烈な大弾圧のなかで、それに対応した一定の反弾圧的措置をとるとともに、本格的な軍制改革をなしとげ、K=K連合を突破し、反革命カクマルの完全打倒を完遂するための持久的な戦闘態勢を本格的につくりあげるためにたたかいつづけたのである。ところが、例によって例のごとく、唯物論的現実を直視する勇気がなく、願望を現実にとりちがえることが得意な反革命カクマルの中央指導部は、われわれの本格的な攻勢準備を「後退」と錯覚し、戦争のさなかに「勝利宣言」を発するという戦略的大失態をやってのけたのであった。それゆえ、わが革命的戦士が満を持して春期大攻勢に突入し、反革命カクマルの「四月計画」をずたずたにひきさくや、かれらは、完全な錯乱状態におちいり、一打逆転の絶望的願望をかけて、五月前半のとりもどし策動にうってでざるをえなくなったのである。
 しかし、五月前半のこのような反動的とりもどし策動は、つぎの三点において、反革命カクマルをいっそうふかく死の沼地にさそいこむものとなった。
 第一には、持久戦的な攻防戦の激化という現実そのものが反革命の「勝利宣言」「四月計画」の破産を意味していること、第二には、五・一三法政大白色襲撃、前迫勝士同志虐殺の暴挙をおこなうことによって、わが革共同と革命的労働者人民の報復の決意をもっとも根底的な地点でときはなち、戦局の勝利的前進のトキのこえとなったこと、第三には、その結果として赤色テロルが大爆発し、ついに勝利幻想をかんぷなきまでに粉砕してしまったことである。反革命カクマルは、はやくも息ぎれしてしまったのである。
 六月二〇日、狙い定めた致命的一撃が反革命通信にたたきつけられた。小野田圭介、寺田ら五名の反革命編集局員は血まみれとなって撃沈され、かれらの「商工」復帰のはかない夢はもののみごとにすっとんだ。つづいて六月三〇日、未練たらしくまいもどった「ホヲトク」に第二撃が炸裂し、若林のぶざまな肉体もろともブルジョア漂流路線がうちくだかれてしまったのである。狼狽し錯乱した反革命中央指導部は、急拠、あまりにも赤裸々な敗局をとりもどそうとして、六・二六法政白色襲撃に虎の子JAC(ジャック)部隊を全力投入したのであったが、わが革命的部隊の勇猛果敢な攻撃によって全滅のうきめにおちいってしまったのである。
 われわれの革命的予告どおり、戦局の勝利的前進、報復戦のあらたな高揚は、鉄の必然性をもって到来したのだ。怒涛の大進撃がついにはじまったのである。六・二〇――六・三○の反革命通信粉砕、六・二六の法政大会戦の歴史的二大勝利にひきつづく七月総攻勢、第一の十日間戦争の完全勝利がそれである。
 〔一〕 @九州、沖縄のカクマル上京団を的確に捕捉し、いっきょに壊滅させ、ついに九州カクマルの解体状況をうみだした七・一三神戸のたたかい、A沖縄学生カクマルの全部隊をまちうげ、徹底的にせん滅した七・二六沖縄のたたかい、B関西カクマルの「存在証明」のためにビラまきにかりだされた残存学生カクマルの総数二〇名を全滅させた七・二九南大阪のたたかい、C憎むべき反革命の本拠、解放社と創造社を一挙的に爆砕し、学生指導部四名を徹底せん滅した七・二九東京のたたかい、D反革命「反戦集会」の防衛隊百名を撃破し、早大カクマル五名をせん滅、ついに八・四「マル研」集会の大破産をもたらした八・三日比谷のたたかい、E解放社関西支社に突入し、事務局長吉井、大経大副委員長山口を撃沈し、ついに西日本からカクマルの公然事務所を一掃した八・四大阪のたたかい、F九州ジャックの新アジトを攻撃し、東京からの増援部隊をふくむ八名の白色襲撃隊員をせん滅し、九州カクマルの「反戦集会」をついに中止においこんだ八・五九州のたたかいなど、一連の積極的集団戦の画期的大勝利。
 〔二〕 @死地をさまよう国学院カクマルにとどめの一撃ともいうべき壊滅的打撃をあたえ、ついに組織的崩壊を決定づけた七・二国学院アジト粉砕のたたかい、A秋田の残存カクマル成田を撃沈し、敗走する東北カクマルの掃討を決定づけた七・五秋田のたたかい、B革命的教育労働者・古川同志への白色襲撃にたいする「革命的等価」の報復として猛然と火をふいた七・二〇小沢せん滅のたたかい、C前迫同志虐殺を賛美し、古川、川谷同志ら革命的労働者への白色襲撃を手引きした都職カクマル白井をせん滅した七・二五のたたかいなど、一連の赤色テロルの爆発的な勝利。
 〔三〕 @六・二〇――六・三〇をひきつぎ、カクマル反革命通信の最後のよりどころ「ホヲトク」を粉砕するために全面的に展開されたかずかずの創意的なたたかい、A反革命通信の輸送車を反革命通信もろとも粉砕した七・四東中野のたたかいなど、一連の反革命通信粉砕闘争の決定的大勝利。
 総括していうならば、われわれは、七月総攻勢、第一の十日間戦争をとおして、(1)反革命通信のブルジョア漂流路線の決定的粉砕、(2)積極的な集団戦の戦略的展開、(3)赤色テロルの的確果敢な貫徹という三つの面において、九・二一以来の地平をこえる巨大な戦略的大勝利をかちとったのである。
 八・三革共同大政治集会における戦略的総反攻の大号令は、まさに、七月大攻勢、第一の十日間戦争として実現した戦局の前進にたいし、それにふさわしい戦略的方向性をあたえるものであった。いいかえるならば、われわれは十日間戦争の勝利的展開を先行させ、それを物質的基礎として、戦略的総反攻のスローガンを公然とうちだし、革命的労働者人民のかたい団結を電撃的にかちとる指導上の壮挙をみごとになしとげたのである。
 
 3 戦略的総反攻への戦局的特徴点
 
 二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻は、ついに怒濤の大進撃を開始した。わが革共同を先頭とする革命的労働者人民は、九・二一以来の熾烈な革命的対峙戦の展開を基礎として、その戦略的地平をこえる段階へと勝利の確信もかたく大進撃をはじめたのである。
 それでは、革命的対峙段階から戦略的総反攻の段階への推転をもたらした戦局の戦略的特徴点は、どのようなところにあるのであろうか。政治局重大決定(『革共同通信』二九号 本選集第二巻所収)を基礎としつつ、若干の問題を補足するかたちでかんたんに検討するとしよう。
 第一には、革命勢力と反革命勢力との軍事的均衡が革命的に突破されはじめたこと、軍事的な主導権が革命勢力の側に奪取されたことである。
 周知のように、革命勢力と反革命勢力の軍事的均衡は、それ自身として自然的過程であるわけのものではない。われわれは、昨年九・二一以来の革命的対峙戦の猛然たる展開をとおして、反革命カクマルの初期的優位性をつきくずし、敵を一方的攻撃者の地位からひきずりおろし、革命勢力と反革命勢力との血みどろの均衡関係をつくりだしてきた。いわばそれは、生きた実践的な力関係なのであった。しかし、われわれは、六・一〇を突破口とする七月総攻勢の圧倒的な勝利を基礎として、革命勢力と反革命勢力のあいだの軍事的均衡というこの実践的到達点をさらに革命的に突破し、革命勢力の主導権のもとでの戦局の勝利的前進という重大な情勢をきりひらくにいたったのである。革命勢力の軍事的優位の時代がはじまったのである。
 もともと、反革命カクマルの側の軍事的優勢なるものは、第二の十一月の勝利にたいする日帝権力の大弾圧、K=K連合というあらたな反動の政治にたいする革命の側の戦略的、態勢的な対応の未確立を歴史的基礎とするものであり、しょせん一時的で過渡的な性格をもったものでしかなかったのである。しかし、すべての反動、すべての反革命がそうであるように、それらが、ブルジョアジーの体制的危機感とむすびつき、権力の政策的な援助のもとにあるかぎりにおいては、たとえ本質的には一時的で過渡的な性格をもつものであろうとも、一定の反階級的な役割をはたしうることはいうまでもないところである。しかも、反革命カクマルの場合、このような反階級的な役割はつぎの点においていっそうの有効性をもったのであった。すなわち、一方では、反革命が「革命的左翼]という仮面のもとにあらわれたこと。そのために、戦後体制の崩壊的危機のふかまりのなかで、社共の破産に直面し、革命的左翼のたたかいに吸引された巨大な戦闘的な層(主としてその未熟な部分)が、反革命カクマルの本質を十分にみぬけなかったこと、他方で、カクマルが反革命として史上類例のない徹底性をもつていたこと。それに比較して革命の側が、反革命カクマルの歴史的役割、その経済主義と白色襲撃の路線にたいし、当初、十分の武装をもやて対処することに成功しなかったこと。
 しかし、われわれは、十二・四反革命以来の二年有半のたたかいをとおして、二重対峙・対カクマル戦の戦略とその態勢を確固としてきずきあげ、それを七〇年代革命の戦略的総路線の当面する戦略的基軸としてしっかりとくみこんだのである。かくして、われわれは、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と党建設の堅実で、全面的な発展のたたかいの当面するもっとも主要な任務として、二重対峙・対カクマル戦を猛然とたたかいぬくことによって、反革命カクマルの「軍事的優勢」なるものの戦略的脆弱性を徹底的につきやぶり、破防法弾圧とK=K連合政策、そのもとでのカクマルの白色襲撃をうちやぶる勝利の展望を理論的、実践的にきりひらいたのである。
 いまや、われわれの二重対峙・対カクマル戦は、昨年九・二一以来の十ヵ月間の革命的対峙戦の熾烈な展開をとおして、破防法弾圧とK=K連合のもとでの反革命カクマルの当初の「優位性」をつきくずし、革命と反革命の軍事的対峙の力関係をうみだしたばかりか、さらにそれを突破して、戦局の革命的主導権を奪取し、反革命カクマル完全打倒の道を破竹のごとく進撃しはじめたのである。
 第二には、反革命の「優位性」についての政治的神話の崩壊、反革命カクマルの政治的「権威」の失墜であり、わが革共同の政治的高揚、革共同への戦闘的労働者人民の期待と信頼の圧倒的な強まりである。
 いうまでもなく、反革命カクマルの政治的権威なるものは、その革命戦略や革命的実践にあるわけのものではない。七〇年をめぐる安保・沖縄闘争でのカクマルの無残な破産的事態(たとえば、かれらは六九年の「過渡的スローガン」をめぐる大混乱についていまだにひとことの総括もできない)や、七〇年代階級闘争の戦略的展望についてのカクマルの社共以下的な対応(たとえば、七四春闘におけるかれらの大破産)は、今日では、すべての戦闘的労働者人民のひとしく確認するところである。
 それでは、反革命カクマルの政治的権威なるものの真の基礎はなにか。それは、以上の検討でもあきらかのように、政治的破産を軍事的に打開することについての反革命としての徹底性であり、日帝のK=K連合政策のもとでの白色襲撃路線の反階級的、反人民的な凶暴さである。いいかえるならば、反革命カクマルの政治的権威なるものは、日帝への屈服と追従、そのみかえりとしての庇護と援助、それを背景とした反階級的、反人民的な武装襲撃力である。
 他方、この点にかんするわが革共同の側の弱さはなにか。それは、われわれが羽田以来の五年間の激闘、二つの十二月決戦を項点として階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展のために重大な階級的到達点をうみだしながら、その政治的、組織的力量を十分に反革命白色襲撃を粉砕する武装力に組織化しえなかったところにあるのである。いいかえるならば、反革命カクマルの政治的権威なるものは、二重対峙・対カクマル戦へのわが戦列の未成熟、政治的、組織的力量の軍事的力量への転化の未発展にあったのである。
 それゆえ、われわれの二重対峙・対カクマル戦の戦闘的前進によって、反革命カクマルの軍事的優位性が崩壊し、かわって、革命の側の軍事的優勢が到来するならば、かれらの政治的権威なるものは一挙にくずれさるであろうことは、まったく疑う余地がないのである。それどころか、反革命の軍事的優位の崩壊とそれにもとづく政治的権威なるものの失墜は、七〇年代革命の勝利、階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展の重大な歴史的跳躍台をかたちづくるものとなるであろう。
 われわれは、二重対峙・対カクマル戦に勝利し、反革命カクマルの完全打倒をなしとげることによって、七〇年代中期の大高揚、七〇年代革命勝利の大道をもっとも堅実な方法できりひらいているのである。
 第三には、反革命勢力の側における指導体制の破産と崩壊、組織的力量の衰退と没落であり、革命勢力の側における党建設のあらたな高揚、わが革共同の指導と活動の活性化である。
 周知のように、二つの勢力、二つの集団のあいだの軍事的衝突の勝敗を究極的に決定するものは、相互の軍事的・政治的な力量の優劣である。われわれは、戦局の戦略的特徴点を分析するにあたって、軍事的、政治的な力関係の厳密な検討とならんで、組織的な力関係、その質的・量的な優劣を的確に把握しなければならない。
 ところで、このような観点にふまえて、今日の戦略的特徴点をとらえた場合、われわれはどのような結論を確認しうるであろうか。
 (1) 反革命の側の戦闘主力が圧倒的に衰退しており、それにひきかえ革命の側の戦闘主力は圧倒的に強化されており、その結果、この領域においで「われわれの質的・量的な優位性が日に日に明確となっていることである。
 もともと革命と反革命のあいだの軍事的な力関係における後者の一時的な優位は、基本的にはつぎの諸点にその根拠をもつものであった。
 すなわち、@首都の学生戦線における反革命の側の一定の優位的な力関係、A革命の側における対カクマル武装力の建設の決定的なたちおくれ、Bその結果としての自然発生的な力関係における後者の優位、がそれである。それゆえ、一方における首都学生カクマルの全面的な衰退、とりわけ戦闘主力をなす部分のあいつぐ壊滅的事態、他方におけるわが戦闘力の圧倒的な強化、中央――地方――地区の三種の戦闘部隊の建設の前進を基礎として、いまや、従来の自然発生的な力関係、そこにおける反革命の優位はいっきょにくずれおち、かわって、われわれの軍事的主導権がかたちづくられはじめたのである。
 (2)革命と反革命のあいだの党指導体制の優劣、革命の側における指導系列の圧倒的強さとその戦略的優位性、反革命の側における動揺と錯乱、黒田=朝倉指導体制の崩壊的危機の進展、朝倉の失脚の明確化である。
 二つの十一月における反革命カクマルの破産的事態の責任を、黒田=森茂体制の解体・森茂の追放にすりかえ、黒田=朝倉新体制の発足をもって経済主義と白色襲撃の路線への転落を決定化し、いっそう露骨な反革命の道をあゆんできたカクマル中央指導部は、われわれの二重対峙・対カクマル戦の激烈な勝利的前進のまえに徹底的に追いつめられ、ついにその脆弱性を全面的に露呈したのであった。われわれは、昨年九・二一以来一貫して反革命カクマルの最大の戦略的弱点がその中央指導部、黒田=朝倉体制にあることを指摘してきたが、いまや、それが現実的事態として全面的に露呈しはじめたのだ。
 (3)革命と反革命のあいだの党の組織的力量の優劣のいっそうの明確化である。すなわち、ごくわずかの地方をのぞいてカクマルの地方組織がつぎつぎと崩壊的事態におちいっており、首都においても中央指導部の崩壊的危機に対応するかのように、学生組織の全般的な衰弱、産別組織の混乱と分解が急速にすすみはじめたのである。他方、われわれの側においては、西日本武装制圧を先頭として地方組織はことごとく圧倒的躍進を開始しており、ごくわずかの地方をのぞいて圧倒的郵政がかちとられている。また、首都においては、中央戦闘力の圧倒的強化を突破口に、中央諸機関、地区、産別、学生、諸戦線など、すべての面において新たな躍動と高揚がはじまっているのである。
 まさにわれわれは、組織的力量の分野においても、従来からの質的・量的な優勢にふまえつつ、さらに圧倒的な力関係の形成へと歩武をすすめはじめているのである。
 第四には、反革命カクマルによる革命的教育労働者・古川同志への許すべからざる越境白色襲撃を出発点として、「革命的等価」の報復が敢然とうちぬかれ、二重対峙・対カクマル戦がいちだんと全面的な発展の様相をたどりはじめたことである。
 周知のように、反革命カクマルは、その反革命的変質をおしかくすために「本来の戦線」論、組織現実論などという裏切りの理論をとなえてきた。すなわち、かれらが主張するところによれば、革命運動の「本来の戦線」は労働組合運動であり、そこでは社民が主流を占めているから「革命の問題」を公然とうちだしてはならず、あくまでも社民的労働運動を「左翼」的に展開することでなければならない。それゆえ、このような方法に敵対し、革命的戦闘的に「はみだす」ものは小ブル急進主義として解体しなくてはならない、というのである。いいかえるならば、反革命カクマルの労働運動なるものは、今日の日本労働運動の社民的限界を「革命的言辞」にかくれて反革命的に補完するものであり、その限界をこえて革命的戦闘的に前進しようとするものを組合主義的しめつけと白色襲撃の両側面からおしつぶすことによって、労働運動内部で帝国主義の利益を代表するものとである。
 それゆえ、わが革共同とその指導下の革命的戦闘的労働者たちが、七〇年代革命の勝利、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で、全面的な発展のために不屈にたたかいぬき、その一環として、労働運動の戦闘的革命的前進、カクマル式労働運動=経済主義路線の粉砕のために奮闘するのは、けだし当然のことである。ところが、反革命カクマルの憶病者どもは、このような革命的努力が着実に前進し、強大な潮流となりつつあることに恐怖して、一方では、右翼社民と結託して戦闘的革命的活動家への卑劣な敵対をこそこそ策動するとともに、他方では、反革命ジャック部隊と一体となって革命的戦闘的労働者への越境襲撃を卑劣にも開始したのである。古川同志、川谷同志への許すべからざる白色襲撃がそれである。
 当然の義務として、われわれは、このような反革命的越境襲撃にたいし「革命的等価」の報復にうってでたし、現にまた、そのたたかいは熾烈につづけられている。われわれは、一定の戦略的配慮にもとづいて、これまで越境白色襲撃にたいし慎重な態度をもって対処してきた。しかし、これ以上、われわれは我慢ができない。しかも、いまや戦略的総反攻の準備が全面的にととのった今日の情勢のもとにあっては、この分野における「やりあい」は圧倒的に有利な形式となった。われわれは、反革命の越境襲撃にたいしてはそれに無慈悲な逆襲をもってこたえるとともに、それに「革命的に見あう」血の報復を容赦なくお見舞いもうすであろう。一個の越境にたいし数個の効果的な報復が、「革命的等価」として反革命分子の頭上に炸裂するであろう。
 戦争の全面的激化は、いまやわれわれの戦略的総反攻にとって望むところである。反革命カクマルは、戦略的大敗勢からの脱却をはかって越境襲撃にはしり、かえってそうすることによって、戦略的総反攻の重要な水門をおしひらいてしまったのである。かれらの最弱の部分を露呈させたのだ。われわれは、この分野においても、怒濤のように敵におそいかかり、敵をたたきのめさなくてはならない。それはまた、労働運動の戦闘的、革命的前進、中期の大高揚の重大な突撃路をなすであろう。以上の戦略的特徴点を総括するならば、二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻の条件は、客体面でも主体面でも完全に成熟している。われわれの決定は正しかったし、また、時宜にまったくかなったものであった。
 【補注】 ところで、われわれの二重対峙・対カクマル戦のこのような画期的な前進をまえにして、すっかり錯乱してしまった反革命カクマルの中央指導部は、いわゆる謀略論にその敗勢の根拠をみいだそうとしてなみだぐましい努力をくりかえしている。すなわちかれらによると、わが革共同は、権力の手先どもによってすでに占拠されており、権力の全面的な援助をうけており、そのためカクマルはつぎつぎと敗北を喫せざるをえないのだ、というのである。
 まったく滑稽な弁解といわざるをえない。もともとわが革共同には、本多派とか清水派とかいう派閥があるわけのものでもない。文字どおりうって一丸となって政治局の全一的な指導にあた っているのである。いわんや、権力のスパイなどが指導部にはいりこむ余地はまったくありえないのであり、北小路同志や高木同志にたいするスパイよばわりは、まさに反革命的挑発者ならではの無責任な言動である(くりかえし諸君に警告するが、こんな事実無根のデマに熱中するぐらいなら、諸君が「アミダ様」と信仰する黒田そのひとの「反革命素性」「権力のスパイとしての特性」について、すこしはまじめに調べてみたらどうだろうか。朝倉や西条のような若輩ものならいざしらず、松崎、梅津なら、「スパイ大川」の「かつての」友人として若き黒田の反階級的犯罪についてはよく知っているはずではないか。大阪の松井よ、カクマルにはいったあとでも君は、くりかえし黒田への疑惑を語っていたではないか。それをまずはっきりさせるのだ。それとも事実無根というなら、はっきりと機関紙にそう明記したらどうか)。
 ともあれ、われわれと権力との密通説などは問題にもならない愚劣なデマであるが、しかし、当面する問題点はまさに以下のところにある。
 第一には、かれらは謀略説を夢中になってわめきたてることによって、ほかならぬ二重対峙・対カクマル戦における「やられっぱなし」の現実を素直に承認してしまっていることである。
 第二には、「こんなことが中核派にできるはずがない」とか、「こんなことが中核派にわかるはずがない」などと口ばしることによって、われわれの調査活動「われわれの戦闘力の飛躍的な前進に驚嘆し、恐怖していることをはしなくも自己暴露していることである。わが革命的戦士たちが、反革命分子どものいささか過大評価ぎみの泣きごとを読んでにんまりとほほえんでいるのを知ったら、かれらはなんと思うであろうか。
 第三には、「右翼の通報で……」とか「権力の手引きで……」とかと、くりかえし強調することによって、かれらの組織や活動が、右翼や権力にはまったくガラス張りであることをわざわざ自白してみせているのである。どうやらかれらは、わが革共同に組織を捕捉されるのは恥だが、右翼や権力にガラス張りになるのはいささかも恥ではないらしい。ただ、それが中核派に「抜けた」のではないか、と見当はずれの心配をしているのである。
 第四には、かくすることによって、かれは権力や右翼の全能の神話にひざまづき、権力や右翼にむかって「もっと中核派をやっけてくれ」と泣きついているのである。まさに「世界に冠たる」反革命ぶりである。
 このような反革命的手合いには、誰にでもよくわかる「最後のことば」=暴力がもっとも適当である。戦略的総反攻の勝利的大進撃は、ゆるぎない明確さでそのことをひとつひとつ立証してみせるであろう。
 
 4 戦略的総反攻の怒濤の大進撃
 
 第一の十日間戦争を突破口として、われわれの戦略的総反攻は、怒濤の大進撃を開始した。反革命カクマルの指導部とその不幸な追従者どもは、わが二重対峙・対カクマル戦の圧倒的な前進、戦略的総反攻の大号令におびえ、にげまくりながらも、われわれの戦略的総反攻――九月決戦――第二の十日間戦争の戦略的構図のなかにすっぽりとはまりこんでしまった。われわれは、反革命カクマルをわが戦略的構図のなかにいちだんとふかくひきこみ、徹底的にゆさぶり、かんぷなきまでにうちくだくであろう。
 周知のように、反革命カクマルの完全打倒をめざすわれわれの戦略的総反攻は、第一の十日間戦争をひきつぎ、九月をまたずして決定的情勢に突入した。われわれの積極果敢な第二の十日間戦争は、敵を完全な戦略的守勢においこみ、九月上旬にかけた敵の絶望的計画を完全に粉砕し、わが九月決戦の壮大な歴史的勝利、軍事面と政治面との両面にわたる大勝利をしっかりと確定したのであった。
 八・三革共同大政治集会から今日(九月一〇日)にいたる一ヵ月間の戦局の経過とその特徴点を検討するならば、それはおおよそつぎのとおりとなるであろう。
 第一には、戦略的総反攻の大方針とその衝撃が、敵と味方の双方を完全にとらえ.一個の戦略的現実となってぐんぐん前進しているということである。
 もともと、われわれの戦略的総反攻の決定は、私観的な決意をもって打ち出されたものではないく、戦局全体の科学的な分析と戦略的な洞察を基礎とするものである。反革命カクマルの「勝利宣言」のような私観主義まるだしの独断論とはそれはまったく無縁なものである。しかも、この大号令は、戦略的総反攻を明確に見通した第一の十日間戦争への突入とその完全勝利を物質的な基礎としてうちだされたのである。いわば、われわれの政治局重大決定は、現実的事態を先行させ、それにふさわしい正確な戦略規定をあとからあたえる方法をとってうちだされたのである。
 それゆえ、この重大決定が、味方にわきあがる闘志と勝利の確信をもたらし、敵にはかりしれない大打撃をあたえることとなったのはまったく当然のことである。
 わが革共同と革命的労働者人民は、すでにのべたように、一瞬のうちにわが戦略的総反攻の大号令をうけいれ、大歓声と戦闘的実践をもってこれを支持し、おしすすめたのである。いまや、われわれの重大決定は、大地に水がしみこむように戦闘的労働者人民のあいだに強大な共感と期待をうみだしているのである。
 ところが、あまりにもあわれな対応に終始したのが、反革命カクマルの憶病者どもであった。八月四日の反革命理論? 集会にやっとのおもいで集まったひとにぎりの反革命分子ども(前日と比較してその動員は半分以下におちていたのであるが)がそこで目撃したものは、反革命カクマル指導部のあまりにも腑甲斐ない姿であった。すなわち、かれらは、政治的ご都合主義まるだしにして「アミダ様」(黒田)の念仏テープを半分でうちきり、そのかわりに前川「委員長」の泣きごとをきかせられる破目におちいったのである。「苦しいし異常に困難だが、ともかく警戒しよう」――これが、前川が四〇分も時間をついやして語ったただひとつのことである。いやそれどころか、肝心かなめの黒田テープそのものが「おちぶれた」自己の唯物論的現実を反映して、まったく元気がなく、うらみつらみのくりかえしでしかなかったのである。
 このような反革命カクマル指導部の意気消沈ぶりは、一ヵ月以上もたった今日でもいっこうになくなろうとしないどころか、ますます深刻となっているのである。いまではかれらは、正面からの集団戦をかまえる気力も態勢も完全になくなっており、できることといったら、狭山九月決戦の大高揚にケチをつけるための「小枝かきあつめ」作戦ぐらいのものとなってしまった。いなそれも、いまでは不可能となっているのである。
 いまや、前進するものと、これを阻止し、昔日の「栄華」をとりもどそうとするものとの対比は、あまりにも明白である。われわれは、たえず前進的に形成される優位的均衡を不断にうちやぶり、反革命カクマルの完全打倒にむかって怒濤の大進撃をつづけるときがやってきたのである。好むと好まざるとにかかわらず、この戦略的大配置からなんぴともはみだすことはできないのである。
 第二には、「九月」への先手あらそいで、われわれが圧倒的に勝利したことである。
 第一の十日間戦争に完全に敗北した反革命カクマルは、あまりにも一方的な敗勢をとりつくろうために、関西地方の同志などに腰のはいらぬ白色襲撃をしかけ、情勢転換のためのアリバイづくりに腐心したが、それもわが同志たちの的確な反撃によって水の泡となってしまったのである。わが戦略的総反攻の炎に油をそそぐにひとしい、このような愚挙は、ただちに、われわれの強烈な報復攻撃をよびおこした。わが革命戦士たちは、早大カクマルの指導部員であり、早大社会科学部「委員長」、カクマル「全学連」中執である神達雄を新大久保の喫茶店で的確に捕捉し、反革命的策動を共同謀議していた他の学生カクマル幹部もろとも徹底せん滅した。また、西日本武装制圧の重要な柱をなしている中国地方では、カクマル広島県委員長の清水弘士を撃沈し、敗残カクマル掃討の一大前進をきりひらいたのである。
 他方、われわれは、このような赤色ターゲット戦とならんで、反革命カクマルの拡大POB会議を粉砕するための大作戦を展開した。会場に予定されていた松本の旅館を中心に、革命戦士の包囲の陣形ががっちりとつくりだされたのである。このような革命的大作戦の展開にすっかり腰をぬかした反革命カクマル指導部は、日頃の大言壮語もどこへやら、おおあわてで中止指令をだし、かの肉体派LCの西条のごときは、公然電話を使用する大失態をやってのけたのである。また、某地方の代表のごときは、中止命令が間にあわず列車にのってしまい、途中で話を聞いて大動転し、読みかけの雑誌も置き忘れるあわてぶりで、急拠まいもどる悲喜劇を演じてみせたのである。
 ともあれ、拡大POB会議をめぐる狼狽ぶりは、かれらの戦略的敗勢をいちだんと深刻化するものであったことは、いうまでもないところである。かれらは、(1)戦略的総反攻におびえ、逃げまわるカクマル組織の「たてなおし」の機会をいっしたばかりか、(2)カクマル中央指導部の権威失墜、(3)統一性の解体、(4)地方組織の崩壊をいちだんと促進し、(5)「九月」への反動的あがきの足がかりをつくることに失敗してしまったのである。この消耗感がどんなに深刻なものであるかは、かれらのその後のくどくどした弁解の一部始終がはっきりと証明しているところである。
 かくしてわれわれは、九月決戦にむかっての軍事的・政治的な主導権(ヘゲモニー)を確固としてにぎりしめたのである。
 第三には、第二の十日間戦争に勇猛果敢に突入し、その圧倒的勝利をかちとったことである。
 その勝利の指標をなすところのものは、つぎのとおりである。
 第一の指標は、先制的なターゲット戦、アジト粉砕闘争の爆発をかちとったことである。
 すなわち、(1)学生カクマルの主要な動員力をなす日大カクマルのアジトを粉砕し、称原と書記局オルグの二名を徹底せん滅した八・二四のたたかい、(2)日大JAC茂木を撃沈した八・二六のたたかい、(3)横市大カクマルのアジトに突入、札つきの反革命分子矢野を徹底せん滅し、神奈川残存JAC一掃の烽火をあげた八・二五のたたかい、(4)愛知大アジト村を直撃し、愛大カクマルの古参分子永井を撃沈した八・二七のたたかいなどがそれである。
 第二の指標は、前進社第二ビルの革命的建設に完全勝利したことである。
 戦闘的労働者人民のたたかいの砦、革共同の革命的指導拠点、武装し自立した前進社の建設のための壮大な計画は、決定後いまだ一ヵ年もたたぬうちに、第二ビル建設という大勝利をかちとるにいたった。われわれは、事務所もない時代から出発し、大塚の時代、水道橋の時代、東池袋の時代をとおして、いまようやく土地・建物とも完全に不動の基礎のうえにたった第二ビル(鉄筋三階建て、屋上プレハブ小屋)を総費用一億二千万円をかけて建設するところまで前進するにいたったのである。われわれは、さらにやすみなく前進し、第一ビル、第三ビルの建設をなしとげ、「前進』復刊・印刷所建設の事業をも早期に達成していくであろう。
 ところで、わが革共同のこのような歴史的壮挙は、労働者人民にかぎりない激励をあたえ、権力と反革命カクマルに重大な打撃をあたえるものとなった。われわれが武装し自立した党本部の建設という事業を独自の努力でなしとげ、しかも、権力にも反革命カクマルにもその計画を移転後まで秘とくに成功したことは、労働者人民のわが革共同への期待と信頼をいちだんとつよめるものとなったことは、いうまでもないところである。われわれは、破防法弾圧にも白色襲撃にも屈せず、たたかいのなかでますます強大となっていくことを物質的事実をもってみごとに立証したのである。あわてふためき、消耗しながらも、K=K連合をいっそう強化する権力と反革命の敵対をこっぱみじんに粉砕し、いちだんと闘志をかためて前進するであろう。
 【注記】 前進社第二ビルの革命的建設の歴史的壮挙と時期を同じくして、反革命「解放社」の関西支社、北海道支社が枕をならべて落城した。反革命通信の題字下の連絡先のうち、実在するのはなんと東京、名古屋の二つだけとなってしまったのである。われわれの前進とコントラストをえがいて進行する一連の事態は、興隆するものと没落するものとのちがいをまざまざとさししめ しているものといえよう。
 第三の指標は、カクマルのエセ「全学連」中央委員会への関西上京団を防衛するために、のこのこ近鉄名古屋駅にやってきた東海カクマル三〇名を一挙に粉砕し、エセ中央委員会に決定的大打撃をあたえたことである。
 われわれの圧倒的な武装制圧によって、もはや一個の武装単位をつくりだすことが不可能となった関西カクマルは、東海カクマルとの連合軍を形成してなんとか数名の学生敗残分子を上京させようと、ない知恵をしぼったのであったが、それはむしろわが部隊の東海カクマルせん滅戦に絶好の機会を提供するものとなった。わが革命戦士たちは、ただちに屈強の攻撃部隊を編成して近鉄名古屋駅に配置し、東海カクマルをむかえうったのである。ところが、なんとも滑稽なことには、関西カクマルの防衛にきたはずなのに、わが部隊が猛然とダッシュするや、つぎつぎと四段つなぎのパイプをホームになげすて、われがちにと算を乱して逃走し、わが部隊の革命的制裁になんなく屈したのである。われわれの戦略的総反攻の大号令にすっかりおびえきり、集団戦ビビリズムにおちいっている東海カクマルの腑甲斐なさが、あまりにも無残な姿で全面露呈したのである。
 あま。にも不名誉な敗走にすっかり消耗した東海カクマルは、なんとか名誉挽回せんものと中核司令アジトなるものに突入をはかったのであったが、例によって「情報のカクマル」「誤爆のカクマル」よろしく、わが同盟とはまったく無縁な市民宅に突入し、高校生を誤爆襲撃する大失態をまたしてもおこない、すっかり意気消沈してしまったのである。政治的ご都合主義まるだしのカクマル中央指導部は、度重なる東海カクマルの失策に立腹し、今年春につづいて二度目の処分問題をうちだしたのであった。だが、問題は、東海だけなのか。集団戦ビビリズムは、東海カクマルだけなのか。まさにそうではなく、東海カクマルが底しれない集団戦ビビリズムの氷山の一角にすぎないところに、今日のカクマルの戦略的大敗勢の深刻さがあるのである。
 第四の指標は、反革命カクマルの「起死回生」をねらった神奈川前進社襲撃の絶望的あがきにたいし、圧倒的な大逆襲戦をあびせ、やっとのことでかきあつめた敗残JAC二〇名をことごとく撃滅し、一名重体・三名重傷の大戦果をあげたことである。
 すでにみてきたように、われわれの戦略的総反攻――九月決戦第二の十日間戦争の重圧にうちのめされ、九月情勢へのいっさいの展望をうしなったカクマル中央指導部は、なんとか「やりあっている」仮象をつくりだそうと神奈川前進社への白色襲撃をくわだてたのであったが、わが防衛隊によってしたたかに粉砕され、いっそう墓穴をふかめる結果におわったのである。
 まさに、この攻防戦の大勝利こそ、第二の十日間戦争の完全勝利の帰すうを決定するものであった。もともと、八・三〇神奈川前進社襲撃のくわだてそのものが、追いつめられ、しかも、正面からの勝負にうったえる自信も態勢もないものの絶望的あがき以外のなにものでもなかったのであるが、いまや、その絶望的あがきも無残にうちくだかれ、九月への足がかりをことごとくうしなう破目におちいったのである。それは、はやめられた九・一決戦であり、まさにこの一戦において九月決戦の歴史的勝利の基礎がうちかためられたのである。
 第五の指標は、九・一広島のカクマル中国地方委議長山浦ほか三名の徹底せん滅と、九・九仙台の学生カクマル二名の撃沈によって、カクマル地方組織の完全打倒のたたかいが圧倒的に前進したことである。
 西日本武装制圧の重圧のもとでうちひしがれながらも、こそこそと未練たらしくうごめいていた広島カクマルは、広島県委員長清水弘士せん滅につづいて山浦撃沈の大打撃をうけ、完全な四散状態におちいってしまったのである。われわれは、怒濤の勢いで進撃する九州カクマル「関西カクマルの掃討戦とむすびつけ、広島での残党掃討のたたかいを圧倒的におしすすめ、西日本の地から反革命分子をひとりのこらずたたきだす巨歩をここにふみだしたのである。
 他方、東北においては、すでに事実上の武装制圧を実現していたのであるが、九・九の敗残学生カクマルせん滅戦の勝利は、この事態をいちだんと決定的なものにしたのである。われわれは、逃げまわる仙台の残存カクマルをひとりのこらず掃討し、さらに北に攻めのぼって、青森の片隅でうごめいているカクマル分子をうちくだき、東日本武装制圧の事業をみごとになしとげてみせるであろう。
 第六の指標は、狭山九月決戦にたいする反革命カクマルの軍事介入を完全に粉砕し、狭山闘争をめぐるカクマルとの軍事的、政治的攻防戦において圧倒的な優勢を確立したことである。
 まず最初に指摘しなければならない点は、反革命カクマルが、われわれの積極的な集団戦態勢のまえに完全にうちのめされ、底なしの集団戦ビビリズムを露呈してみせたことである。従来においては反革命カクマル指導部は、その政治的破産を軍事的に打開するかたちで危機をのりきってきたのであったが、いまや、われわれの戦略的総反攻下の力関係のもとでは、それもままならず、せいぜいのところ解散後の小部分にたいし「いやがらせ」的なふきぬけをこころみ、もののみごとに返り討ちにあうことぐらいしかできなくなってしまったのである。われわれは、まさに九月上旬の連続的な集団行動の展開をとおして、真の優者がだれであるのかをはっきりと内外にしめしたのである。
 つぎに指摘しなくてはならない点は、狭山九月決戦からカクマルが完全にけおとされたことである。九・三、九・五、九・一〇の連続的な狭山闘争の発展にたいし、カクマルの反革命的な介入策動がかんぷなきまでに破産してしまったのである。かれらは、日比谷によりつくこともできず、総評集会にも参加させてもらえず、独自に集会を組織する気力もなく、ただただ、うらみがましい眼つきで狭山闘争の大高揚をながめ、なにか仇なすことができないかと悶々としているだけであった。
 さらに指摘せねばならない点は、狭山闘争の全人民的な大高揚がはじまり、狭山闘争の歴史的勝利にむかっての壮大な展望がきりひらかれたことである。戦闘的部落青年を先頭として部落民の狭山闘争へのとりくみはふかく、ひろく発展しており、部落解放運動のあらたな高揚と戦闘化が力強くはじまったのである。また、学生戦線においては、さまざまな創意的形態をとって狭山闘争への参加がひろがっており、学生運動の革命的戦闘的な再興の基礎ががっちりとうちかためられはじめたのである。さらにまた、労働戦線においても、狭山闘争の革命的衝撃は、日共・カクマルの敵対をはねのけ、民同の制動をつきくずすかたちでじりじりと浸透しており、狭山闘争を決定的水路として労働運動の革命的戦闘的前進の展望がおおきくきりひらかれようとしているのである。
 われわれは、日本革命の重大な戦略課題として、また七〇年代闘争の大高揚の決定的水路として、狭山闘争――部落解放闘争をがっちりと位置づけ、その歴史的勝利にむかって戦略配置を積極的にうちだすとともに、そのすべてをかけて狭山九月決戦の爆発的大高揚をかちとり、狭山闘争の歴史的勝利、狭山差別裁判徹底糾弾・石川一雄氏即時奪還のたたかいの最終的勝利のために決死のたたかいを展開しなくてはならないのである。九月上旬の連続的たたかいは、その重大な橋頭堡をかたちづくるものであった。
 第四には、反革命カクマルが、そのあまりにも絶望的な戦略的大敗勢にすっかり錯乱し、そこからなんとかあがきでようとするために、革命的教育労働者・古川同志、革命的全逓労働者・川谷同志に許すべからざる越境白色襲撃をくわえたばかりか、それにも反省せず、革命的全逓労働者であり、全逓東京中郵の分会役員である高橋同志にたいし、あきらかに殺人を意図した白色個人テロルをくわえたことである。
 今日、高橋同志は、その不屈の闘志によって生へのたたかいをつづけているとはいえ、いまだ危篤状態を脱しえないでいる。われわれは、反革命カクマルが古川、川谷両同志につづいて三たび労働戦線への越境襲撃をおこない、しかも、頭部のみに攻撃をくわえるという意図的な殺人行為にうつったことにたいし、これを決定的に重視し、あらゆる手段にうつたえて「革命的等価」の報復をくわえることを宣言せざるをない。反革命カクマルの議長、副議長、書記長、中央指導部員や直接の下手人たるJACメンバーはもとより、高橋同志への越境襲撃を手引きした全逓カクマル、高橋同志への越境襲撃を支持する産別カクマルのすべての諸君には、それ相応の責任をとってもらうであろうことを明確に警告する。
 われわれは、戦略的総反攻下の圧倒的な力関係の前進のもとで、敗走する反革命分子がその絶望的錯乱のあまりにかくも反階級的な凶行におよんだことを決定的に重視しなくてはならない。かれらはわれわれの戦略的総反攻――九月決戦――第二の十日間戦争の圧倒的勝利の重圧のまえに完全におびえきり、九月闘争――七四年秋期闘争への政治的展望の完全な喪失に錯乱したあまり、ついに、このような暴挙にはしらざるをえなかったのである。カクマルによる高橋同志襲撃は、追いつめられ、前途に希望をうしなった敗残カクマル指導部の自殺行為であり、われわれの戦略的総反攻の炎に憎悪と報復の油をそそぐ軍事的、政治的失敗である。われわれは、高橋同志の不屈の闘志、燃える憎しみをわがものとし、高橋同志の無念のおもいをはらすために、なすべきいっさいのことを敢然としてなしとげるであろう。
 第五には、反革命カクマルの完全打倒めざす戦略的総反攻の重大な突撃路として、第二の十日間戦争の完全勝利をひきつぎ、九月決戦――第二波攻撃にうってでようとしていることである。
 九月決戦――第二波攻撃こそ、九月決戦の真の決着をつけるたたかいであり、七四年秋にかけたわれわれの戦略的課題の帰すうを決定する重大なたたかいである。われわれは、ここにおいてかならずや勝利の全面的進撃をかちとり、七四年秋を勝利のときとするべくたたかいぬくであろう。七〇年代革命の勝利の大道、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の堅実で全面的な発展のたたかいは、いまこそ、その真価を全人民のまえに発揮するときがやってきたのである。
     *    *    *
 すでにのべてきたように、われわれは、一九七一年の十二・四反革命以来の三ヵ年の二重対峙・対カクマル戦をとおして、ついに戦略的総反攻の段階をかちとるところまで前進してきた。われわれの戦略的総反攻――九月決戦――第二の十日間戦争、攻撃的集団戦の駆使をふくむ全面攻撃の展開は、反革命カクマルを的確においつめ、その崩壊的危機をいちだんとうながすものとなっている。また、われわれは、このような二重対峙・対カクマル戦の圧倒的前進、戦略的総反攻の怒濤のような大進撃を基礎として、狭山九月決戦の大高揚や前進社第二ビルの革命的建設など、政治闘争の面においても、党建設の面においても重大な前進をかちとってきた。
 しかし、われわれは、この過程において在日朝鮮人、徐弘子さんを攻撃し、傷つけるあやまちをおかした。われわれは、この事態の全責任がわが同盟にあることをはっきりとみとめ、徐弘子さんとその家族のみなさん、友人、仲間のみなさん、六〇万在日朝鮮人のみなさんにおわびしなくてはならない。また、そのつぐないのためにあらゆる努力をはらうことをちかわなくてはならない。
 今日の情勢は、そうでなくても日帝や日帝下の日本人による民族的な差別や抑圧がつよめられているときであり、それにたいしてたたかうべき立場にあるはずのわれわれが、意図せざることとはいえ、かかるあやまちをおかしたことは、まったく弁解の余地ないことである。共産主義者として徹底的に自己批判するものである。
 われわれは、革命をまもり、インターナショナリズムをつらぬきとおすためには避けられない正義の戦争として、二重対峙・対カクマル戦をたたかっている。しかし、この戦争が正義の戦争であり、不可避の戦争であればあるほど、われわれは、今回の事態について党の立脚点にかかわる問題として真剣に反省し、自己批判し、おわびしなくてはならないのである。また、そのような立場にたつことによってこそ、われわれは、反革命カクマルを完全打倒する戦略的総反攻に真に勝利することができるのである。
 われわれは、このことを厳粛に自覚し、七・七自己批判の精神をいっそうふかめるために不断のたたかいをおしすすめつつ、二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻に総決起し、それを突撃路として内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展のたたかいをおしすすめていかなくてはならないのである。戦略的総反攻の勝利の展望の根幹にかかわる最大のことがらとして、今回の事態についての自己批判を提起しておくことにする。
    *    *    *
 以上の総括的な確認にふまえて、つぎに二重対峙・対カクマル戦の革命的意義、戦略的総反攻の歴史的勝利の展望について、ややたちいって検討することにしよう。
 
 U 戦略的総反攻の革命的意義とその歴史的勝利の展望
 
 1 二重対峙・対カクマル戦の革命的意義
 
 二重対峙・対カクマル戦の歴史的勝利の大勢を決する重大な局面が到来した。戦略的敗勢に動転し、権力に泣きこむ反革命分子カクマルを容赦なく追撃し、猛然たる戦略的総反攻を展開すべきときがやってきたのである。いまこそ、七〇年代日本革命の勝利にむかって反革命カクマルの完全打倒のために総決起するときである。
 周知のように、日帝・国家権力の七〇年代反革命の政治、K=K連合をうちやぶり、反革命カクマルの徹底せん滅、完全打倒をかちとるたたかいは、七〇年代革命の成否をかけた革命と反革命の絶対的な死闘であり、七〇年代階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展をかちとるのか、それとも、その経済主義的、体制内的な歪曲をゆるすのか、をめぐる歴史的大闘争である。三〇年代における革命的共産主義とスターリン主義の階級的な激突、革命的労働者運動とファシズムの内乱的な死闘がそうであったように、帝国主義の大破局を世界革命の勝利に転化しうるかどうかは、まずもって、帝国主義にたいする革命的対峙を断固としておしすすめつつ、労働者人民の運動の内外に生みだされた反革命の潮流を徹底的に粉砕し、それをとおして労働者人民の戦闘的翼を革命的に精鍛しうるかどうかにかかっているのである。われわれは、スターリン主義にたいするトロッキー主義の敗北の歴史、ファシズムにたいするドイツ労働者階級の敗北の経験をふたたびくりかえしてはならないのだ。
 帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制の解体的危機のとめどない進展のなかで、革命情勢への過渡期としての特徴は、ますます成熟しつつある。アジアにおける民族解放闘争(民族解放・革命戦争)の革命的発展と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化すべき革命闘争の必要性と現実性は、ますます緊急のものとなりつつある。内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展のためのたたかいは、こうした情勢の発展のなかで、いまや、日本労働者人民の勝利の大道としてますます不滅の輝きをましはじめているのだ。
 二重対峙・対カクマル戦は、こうした日本労働者人民の革命的任務の戦略的基軸をなすものであり、その歴史的跳躍台をかたちづくるものである。われわれは、二重対峙・対カクマル戦の勝利なしにはいっさいが無であり、二重対峙・対カクマル戦の勝利によっていっさいを手にすることができるのである。
 こうした観点にたって、二重対峙・対カクマル戦の革命論的な意義を七〇年代階級闘争との関連で規定するならば、おおよそそれはつぎのようなものとなるであろう。
 第一には、反革命カクマルは正真正銘の反革命であり、それを完全打倒すること、たたかう労働者人民の共同の正義の要求であり、革命的前衛部隊の神聖な義務である。
 カクマルは、戦後体制の破局的危機のふかまり、階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展の時代における反革命であり、スターリン主義の歴史的破産、その反動化と無力化がますます鮮明となりつつある時代における反革命である。いいかえるならば、反革命カクマルは、スターリン主義の歴史的破産を革命的につきやぶり、マルクス・レーニン主義の真に現代的な発展をかちとる道に敵対し、「革命的左翼」の仮面にかくれてスターリン主義への反発を「マルクス・レーニン主義の小ブル自由主義への改作」にすりかえようとするペテン分子であり、また、帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制の崩壊的危機を反帝国主義・反スターリン主義の世界革命に転化し、たたかうアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化する革命的総路線に敵対し、「革命的左翼」の仮面にかくれて日本階級闘争を「経済主義と組合主義」「民族主義と差別主義」にねじまげようとする反動分子であり、かつまた、二つの十一月を突破口とする内乱・内戦――蜂起のたたかいに敵対し、権力と適合して革命的左翼にたいする白色襲撃の道をころげおちる最悪のテロ分子である。
 したがって、われわれと反革命カクマルとの矛盾は、反革命カクマルを完全に打倒することなしにはけっして止揚しえないのである。スターリン主義の打倒なくして現代革命の真の前進がありえないように、反革命カクマルの打倒なくして現代革命の真の前進はありえないのである。戦略的敗勢のふかまりのなかで、K=K連合の強化の道にますますころげおちる反革命カクマルの現実をいっそう生きいきとあばきだし、反革命カクマルの完全打倒の階級的確信をがっちりとうちかためていかなくてはならない。
 六〇年安保闘争が日共スターリン主義の反革命的本質をあばきだし、日共スターリン主義をのりこえる革命戦略と革命党建設の問題を、たたかう労働者人民の共同の課題として提起したように、七〇年をめぐる安保・沖縄闘争は、一方では、二つの十一月を頂点とした激動の五ヵ年をとおしてわれわれの革命戦略(基本戦略、戦略的総路線)をきたえあげ、革命党建設のたたかいを全人民的な運動にかたくむすびつけるとともに、他方では、反革命カクマルのいっそうの腐敗を全人民的につきだし、たたかう労働者人民の共同の敵対者としての姿をくっきりとうかびあがらせてしまったのであった。六九年と七一年の二つの十一月において、われわれがまさに躍動感にみちた革命的たたかいを展開していたとき、反革命カクマルは二度にわたって大混乱におちいり、六三年の革共同からの逃亡以来十年にわたってつづいた黒田=森茂指導体制は、完全にふっとんでしまったのである。
 かくして、完全な破産と混乱におちいってしまった反革命カクマルは、ペテン師・朝倉を登用することによって、危機のりきり型の黒田=朝倉指導体制をデッチあげ、七〇年をめぐる危機からの脱出の道を、革共同にたいする日帝の内乱鎮圧型弾圧の政治と、そのもとでのK=K連合政策への屈服と加担にみいだし、経済主義と白色襲撃の路線にころげおちていったのである。黒田=朝倉指導体制の階級的役割は、七〇年代闘争の革命的、内乱的、武装的発展に敵対し、経済主義と白色襲撃の路線を満開させ、権力の援助のもとに延命することにあったのである。
 したがって、七〇年をめぐる安保・沖縄闘争に真剣にとりくみ、また、七〇年代階級闘争の前進のために全力をつくしてたたかっている労働者人民が、ひとりの例外もなく反革命カクマルを弾劾し、その完全打倒をまちのぞみ、あらゆる創意性を発揮してわれわれの二重対峙・対カクマル戦への支援をつよめてきたのは、まったく当然のことである。いまや、日本階級闘争の気孔をふさいでいる反革命カクマルをせん滅し、その完全打倒をかちとることは、たたかう労働者人民のさしせまった共同の要求である。
 第二には、反革命カクマルを完全打倒するたたかいは、一個の戦争、一個の内乱・内戦であり、相互に敵の完全打倒を求めて闘争する革命と反革命の絶対戦争である。
 周知のように、戦争の本質は政治の継続であり、政治とはことなる他の手段をもってする政治の特殊な継続である。また、戦争の特質は、物理的手段をもって敵戦闘力をせん滅し、敵の抵抗を無力ならしめることによって、味方の意志を掟として敵に強制することである。それゆえ、戦争の究極の形態は相互に敵の完全打倒を求める絶対戦争である。
 ところで、ブルジョア戦争にあっては、おおくの場合、戦争の政治目的は、ブルジョア国家間の講和である。ジェノサイド(皆殺し)の危険をおびる植民地戦争においてさえ、植民者の側の政治目的は、民族抑圧=植民地的収奪である。それゆえ、そこでは、敵の完全打倒は究極目的ではなく、具体的な目標のための手段となる。また、戦争の絶対的形態は、戦争の激烈な発展にともなう戦争の特質の純化として傾向的にあらわれるだけであり、現実的形態としては講和(あるいは国家間の力関係の転換)のための制限された戦争とならざるをえない。
 しかし、階級闘争の特殊な継続としての革命戦争や革命的内乱にあっては、本来、敵の完全打倒が目的であり、戦争の特質と矛盾するところがない。いわゆる講和でさえも、究極の目的を達するための息つぎ、準備の過程なのである。それゆえ、階級闘争が激烈であればあるほど、戦争の現実形態は戦争の絶対的形態にちかづくのである。
 もとより、敵の完全打倒とは、敵の全体的な物理的なせん滅を意味するものではない。敵のその固有の規定性をなくすることである。しかし、そのためには、まずもって敵の抵抗の物質的根拠をなす戦闘力を基本的にせん滅してしまうことが必要であり、敵の抵抗の意志の実体をなす指導中枢を粉砕することが重要である。このような戦争の唯物論的基礎をあいまいにして、戦争を小ブル的倫理主義で美化することはきわめて危険な遊戯である(戦争の一般理論については、さしあたり本選集第二巻所収「戦争と革命の基本問題」参照)。
 同様に、二重対峙・対カクマル戦の本質は、それが一個の戦争、一個の内乱・内戦である以上、革命闘争の継続であり、武装闘争を主要な形態とする革命闘争の特殊な継続である。また、二重対峙・対カクマル戦の特質は、反革命カクマルの戦闘力のせん滅、指導中枢の粉砕をとおして敵の攻撃力、抵抗力を完全に解体し、反革命カクマルを完全打倒することにある。
 それゆえ、二重対峙・対カクマル戦は、その政治的対立の絶対的性格を基礎として、不可避的に戦争的事態、内乱・内戦的事態へと持久的に発展せざるをえないし、また、それなしにはどんな解決の方法もありえようがないのである。
 事実、反革命カクマルの戦略上の弱点は、かれらが内乱論を欠如しているところにある。すなわち、反革命分子どもは、実際には国家権力の内乱鎖圧型の弾圧の政治の一環として白色襲撃をくりかえし、内乱・内戦の情勢を促進しながらも、内乱・内戦的な情勢の発展に戦略的敗北をみいださざるをえない矛盾をかかえこんでいるのである。かれらは、労働者人民の革命的暴力のつよまりに敵対し、内乱・内戦的情勢を「社会の荒廃」として恐怖することしかできないのである。
 われわれの側の戦略上の優位性は、内乱・内戦――蜂起の総路線をもち、その重要な一環として 二重対峙・対カクマル戦を積極的に位置づけてたたかっていることである。すなわち、われわれは、権力とその手先としての反革命カクマルの白色襲撃にたいし、わが革共同と革命的労働者人民の存亡をかけてたたかいぬくばかりでなく、内乱・内戦――蜂起の総路線の前進をたたかいとる観点からそれを積極的に位置づけ、労働者人民の革命的暴力の発展、労働者人民の革命的武装の発展の重大な一環としてたたかいぬくのである。
 かくして、革命勢力と反革命勢力、内乱勢力と内乱鎮圧勢力との対峙がますます内乱・内戦として発展し、持久的な性格をもっていくことによって、反革命カクマルの側の戦略上の弱さはますます深刻となり、われわれの側の戦略上の優位はますます強力となっていくのである。
 第三には、反革命カクマルと対峙し、それを完全打倒していくたたかいは、日帝・国家権力の七〇年代反革命の政治、K=K連合政策をその最弱の環でうちやぶり、七〇年代革命の勝利、七〇年代中期の大高揚をきりひらく歴史的跳躍台であり、帝国主義国における武装闘争の展望をきりひらく重大な突撃路である。
 すでに多くの機会に確認してきたように、戦後世界体制の崩壊的危機とそのもとでの日帝の体制的危機のふかまりのなかで、革命情勢への過渡期の成熟は、急速なテンポで運行している。七四春闘におけるゼネストとゼネスト情勢の高まりにみられるように、労働者人民は、たたかわなくては生きてはいけない、と感じはじめている。日本階級闘争の当面する実践的課題は、一内閣の交替ではなく、日帝・田中体制打倒の問題につきあたりはじめているのである。いいかえるならば、日本労働者階級と人民大衆は、当面する経済的要求をもって戦闘的にたちあがるとともに、その真の貫徹をかけて日帝・田中体制の革命的打倒のために断固として政治的に決起しなくてはならないのである。われわれは、いまこそ、たたかうアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化する七〇年代革命の戦略的総路線に立脚し、狭山九月決戦を先頭とする武装政治戦に総決起し、侵略と反動、搾取と抑圧の攻撃をつよめる日帝・田中体制を打倒するためにたたかい、かくして日本階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展を断固としておしすすめていかなくてはならないのだ。
 しかし、同時に確認しなければならないことは、一九六七年の十・八羽田以来のいっさいのたたかいの経験が教えているように、こうした政治闘争、経済闘争の真の革命的、戦闘的前進は、日共スターリン主義との対決はもとより、権力と呼応した反革命カクマルの反階級的な策動、その経済主義と白色襲撃の路線との熾烈な政治的・軍事的対峙なしにはけっしてありえない、ということである。革命党と革命勢力、すべてのたたかう労働者人民は、「革命的左翼」の仮面にかくれて労働者人民の運動にブルジョアジーの政策をもちこもうとする反革命カクマルの策動を粉砕し、その経済主義と白色襲撃の路線をうちやぶることによって、はじめて、個別課題のたたかいをふくめ、階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展をかちとってきたのである。
 したがって、われわれが政治闘争、経済闘争の革命的、戦闘的前進をかちとることにともなって、反革命カクマルの反動的策動をひとつひとつうちやぶるためにたたかうばかりでなく、その総括として、「組織としてのカクマル」を完全打倒するために独自の政治的・軍事的なたたかいに決起し、その勝利をかちとることは、七〇年代革命の勝利的な大道をきりひらくうえで不可避の階級的な義務であり、それが七〇年代闘争の巨大な高揚をうみだす条件となり、七〇年代革命の勝利のための重大な歴史的跳躍台をなすであろうことはまったくあきらかである。また、反革命カクマルとの持久的なたたかいは、それじしんとして帝国主義国における武装闘争の展望、その経験蓄積の過程となり、革命的暴力論、プロレタリア軍事思想の発展の重大な突撃路をもなしているのである。二重対峙・対カクマル戦の歴史的勝利をかちとり、反革命カクマルの完全打倒を達成することは、七〇年代階級闘争の革命的ヘゲモニーの基礎がかたちづくられることを意味している。
 第四には、反革命カクマルと対峙し、それを完全打倒していくたたかいは、一九六二年の革共同第三次分裂以来の問題「革命党への道と反革命党への道の分岐に革命的決着をつけるものである。
 一九七一年の十二・四反革命以来のわれわれの二重対峙・対カクマル戦、とりわけ昨年九・二一以来の激烈な革命的対峙戦の展開は、反革命カクマルをなんとしても打倒しなくてはならないし、またそれが、たたかう労働者人民の共同の正義の要求であることを実践的に確認せしめた。たたかいが現実にはじまることによって、たたかいの必然性が実践的にいっそうくっきりと照らしだされたのである。だが、九・二一以来の激闘をとおしてわれわれがつかみとったものは、ただそれだけではない。われわれは、二重対時・対カクマル戦を正しくおしすすめるならば、破防法弾圧とそれにもとづくK=K連合の重包囲をうちやぶり、反革命カクマルを打倒することができる、という勝利の展望をつかみとったのである。
 事実、われわれは、九・二一以来の十ヵ月のたたかいをとおして、反革命カクマルを一方的攻撃者の地位からひきずりおろし、尊大な「優位者」の仮面をひきはがし、いまや戦略的敗勢の泥沼にひきずりこんでしまったのである。朝倉のペテン的「勝利宣言」とそれにもとづく「四月計画」は、もはや笑い話でしかない。山代の「経済闘争」はどこにいったのか。最期の日をまえにして反革命通信は、いっさいの政治闘争、経済闘争を紙面からしめだし、泣きごとと権力への愁訴をただただわめきちらすだけとなった。
 このような二重対峙・対カクマル戦の重大な戦局的前進のなかで、われわれは、同時に、一九六二年の革共同第三次分裂(黒田一派の革共同からの右翼的=自由主義的な逃亡)以来の二つの道(革命党の道か、反革命党の道か)の闘争の真の勝利者がだれであるのかを、革命的に決着づけようとしていることである。いいかえるならば、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命戦略に立脚し、危機にたつ現代世界の真の革命的変革をとおして、それを実践的におしすすめようとするものと、反帝国主義・反スターリン主義を「小ブル自由主義」の綱領にかきかえようとするものとの闘争は、真空のなかでの抽象的な論争としてではなく、まさに権力と革命党との熾烈な闘争とのかかわりのなかでの内乱的対峙関係として生きた具体的な姿をとって、その解決があたえられようとしているのである。
 ところで、周知のように、わが革共同の右翼的逃亡者どもは、第三次分裂から七二年秋までの約十年間、黒田=森茂指導体制のもとで反革命的罪状のかぎりをつくしてきた。とりわけ、一九六七年の十・八羽田以来の激闘の五ヵ年においては、階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展に敵対する最悪の日和見主義として、たたかう労働者人民の共通の憎悪の対象となった。こうしたなかで、かれらは、一九六九年と一九七一年の二度の決戦において完全な破産的事態をくりかえした黒田=森茂体制の解体的危機をのりきるために、そのいっさいの責任を森茂に転嫁し、かれを「トカゲの尻尾」として切り捨てたのであった。
 かくして、反革命カクマルのもっとも卑劣な頭目クロカンは、錯乱した森茂を徹底的にいたぶることによって追放し、ペテン的遊泳術以外になんの才能もない朝倉(池上)を書記長に登用し、反革命カクマルの破産的事態を白色襲撃と経済主義の徹底化によるのりきりの方策にうってでたのであった。そのもっとも特徴的な指標こそ、K=K連合のための血盟としておこなわれた十二・四反革命(辻・正田両同志の虐殺)であり、その直後の黒田によるK=K連合の定式化(権力は首ねっこを、カクマルは急所を!)である。いわば、黒田=朝倉体制は、二つの十一月をめぐる黒田=森茂体制の大破産を白色襲撃と経済主義をもって打開することを特有の任務とした、最後の危機のりきり型体制であったのである。
 だが、いまや戦略的総反攻の重厚な迫力のまえに、はやばやと黒田=朝倉体制の戦略的弱点はあばきだされてしまったのである。尊大にして小心なアミダ様ならぬクロカンは、ただひたすら逃避行をきめこみ、毎日毎日、小官僚から「敗けっぱなし」の唯物論的現実の報告をうけては、例によって例のごとく、くだくだと泣きごとをくりかえしているだけである。まだ五〇歳にもならないというのに坊主頭の髪も真白となり、すっかりフケこんでしまったのだ。他方、残された官僚どもといえば、「不必要可欠の任務」についていたがゆえに「必要不可欠の鉄槌」をうけた朝倉ペテン師は、かの「勝利軍言」=「四月計画」の大失態を問われていまや失脚直前である。しかも、反革命カクマル指導部の内部で朝倉失脚を陰微にプロモートしてきた山代(白井)もまた、かの「政経闘争」の大破産の責任を問われてその弁解にきゅうきゅうとなっているのである。かくして今日、反革命カクマルの中央指導部のなかで多少とも「活動」しているといえるのは、政治的のりきり局員・土門(ネモジン)、無理論的実践屋・西条(木下)、それに冗談以外才のない黒田の茶坊主・梅津(つつみ)のお粗末三人組だけである。
 もはや、反革命カクマルの没落は必至である。黒田=朝倉指導体制の崩壊は、その決定的な導火線である。われわれは、いまこそ、この絶好機をとらえてはなさず猛追撃にうってで、反革命カクマルの完全打倒をなしとげ、第三次分裂の真の革命的決着をつけなくてはならないのである。
 第五には、以上の確認を総括することによっていっそうあきらかとなるが、日帝・国家権力とその走狗・反革命カクマルにたいする二重対峙・対カクマル戦は、七〇年代革命の勝利の展望、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で、全面的な発展をかちとっていくうえでの最重要の環、当面する主要な戦略基軸をなしていることである。
 今日、われわれは、内外する情勢の重大な進展のなかで、反帝国主義・反スターリン主義の基本戦略、七〇年代革命の戦略的総路線の勝利にむかって、また、革命情勢への過渡期の成熟に照応した三つの義務の達成にむかって、「二重対峙・戦略的前進・党建設」の三大任務の一体的推進のたたかいをおしすすめている。このような指導原則の確立は、革命的共産主義運動の重大な歴史的成果であり、七〇年代革命の勝利の展望、内乱・内戦――蜂起の総路線にたって革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展をかちとっていくうえで、画期的な意義をもっているのである。二重対峙・対カクマル戦、とりわけ、その戦略的総反攻をかちとるたたかいは、このような一体的推進のもっとも基軸的な環をなすものである。
 総じていうならば、二重対峙・対カクマル戦の前進、戦略的総反攻の歴史的大勝利にむかっての怒濤の進撃は、反革命カクマルの完全打倒のための熾烈な過程であるとともに、日帝・国家権力の七〇年代反革命の政治と、その態勢にたいする戦略的挑戦としての政治的意義をもっているのである。また、そうであるからこそ、日帝・国家権力は、ますますK=K連合をつよめ、われわれにたいする大弾圧をいちだんとつよめているのである。
 それゆえ、われわれは、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展のために、あらゆる分野でのたたかいを断固としておしすすめるとともに、当面する戦略的総反攻のたたかいを、他のいっさいの任務にたいする優位の指導的観点をなすものとして、しっかり位置づけてたたかいぬかなくてはならないのである。
 
 2 戦略的総反攻の戦略的意義とその基本目標
 
 二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻とは、反革命カクマルの完全打倒そのものが現実的な達成目標となった段階でのたたかいであり、反革命カクマルの完全打倒そのものをめざした二重対峙・対カクマル戦のもっとも向自的な戦闘形態である。
 われわれは、いまや、一九七一年の十二・四反革命以来の二年有半のたたかい、すなわち戦略的防御、戦略的対峙の二段階でのたたかいにふまえ、第一の十日間戦争を突破口に猛然と戦略的総反攻に突入した。反革命カクマルの完全打倒は、もはや時間の問題である。いまこそ、全党全人民は、革共同政治局を先頭にうって一丸となって総決起し、反革命カクマルの完全打倒という当面の任務をあいまいさなく達成し、七〇年代革命の突撃路をしっかりとはききよめなくてはならないのである。
 こうした歴史的な重大任務を完遂していくために、つぎに、(a)戦略的総反攻の戦略論上の意義、(b)戦略的総反攻の具体的な基本目標の二点について検討しておこう。
 
 (a) 戦略的総反攻の戦略論的意義
 
 周知のように、二重対峙・対カクマル戦にとりくむにあたって、われわれは、持久戦型の戦略、段階的な前進の戦略をとることを決定した。すなわち、戦略的防御、戦略的対峙、戦略的総反攻の三段階をとおして二重対峙・対カクマル戦を持久的、段階的に前進させ、反革命カクマルの完全打倒をたたかいとろうとするものである。
 すでにのべたように、二重対峙・対カクマル戦は、革命勢力と反革命勢力、内乱勢力と内乱鎮圧勢力との絶対戦争であり、相互に敵の完全な打倒を求めて闘争する一個の戦争、一個の内乱・内戦
である。われわれは、それがどんなに困難なものであろうと、また、どんなに長期的なものであろうと、われわれは、この歴史的な試練にうちかって、最後の勝利を手にしなくてはならないのである。かつて、われわれは、羽田を突破口とする激闘の五ヵ年、二つの十一月決戦を歴史の試練としてうけとめ、革命的共産主義運動のいっさいをかけてたたかいぬき、その勝利をもぎりとった。いままた、われわれは、その歴史的勝利への当然の大反動として、日帝・国家権力のK=K連合政策とそのもとでの反革命カクマルの白色襲撃の重包囲に直面した。どうしてわれわれは後退し屈服することができようか。わが革共同と革命的労働者人民は、まさに羽田以来の激闘の五ヵ年、二つの十一月をたたかいぬいた不屈の戦闘精神をもって、この歴史的試練にたちむかうことを決定したのであった。
 しかし、われわれは、反革命カクマルの白色襲撃の路線にたいし、不屈の闘志をうちかためるだけでは不十分であった。権力にたいして一度として行使したことのない暴力をもって、われわれが権力に革命的暴力をもってたたかっているがゆえにおそいかかった反革命カクマル――この反階級的な卑劣漢ども、辻・正田・武藤・川口・前迫の五同志を虐殺した白色テロ分子どもにたいするわれわれの憎悪と怒りは、深く激しい。この燃えたぎるわれわれの憎悪と敵意こそ、二重対峙・対カクマル戦の真の発展、真の勝利をもたらす一条の赤い糸であり、革命的動力である。われわれは、この固い報復の決意に徹底してふまえつつ、それを勝利の現実的な展望にむすびつけなくてはならないのである。すなわち、反革命カクマルへの燃えるような憎悪と敵意、どんなことをしても敵を完全に打倒するぞ、という壮大な目的と、二つの十一月への大弾圧によって疲弊し、そのうえ二重対峙・対カクマル戦の思想的準備も軍事的態勢も未成熟なわれわれの劣勢的現実とをむすびつけ、そのギャップを実践的に打開していく戦争のプログラム問題こそ、それであった。
 わが革共同の政治局は、持久戦型の戦略、段階的前進の戦略を決定し、その実践的貫徹のために一致団結してたたかう決意をかためた。もとより、戦争の一般的なプログラムが、すべて持久戦型の戦略、段階的前進の戦略をとるものでないことはいうまでもないところである。戦略的総攻勢をもって敵の完全打倒を直接に追求する戦争計画や、制限された攻撃をもって一定の戦争目的を達成する戦争計画など、戦争の戦略問題は多種多様である。また、そうでなくてはならない。だがしかし、当時のわれわれには、敵の白色襲撃にたいしてただちに戦略的総攻勢をもってこたえる準備も態勢もなかった。もちろん限定戦争などは問題にならない。こうして、われわれの戦争の戦略問題は、もっとも科学的な解決をみるにいたったのである。
 かくして、われわれは、七一年の十二・四反革命以来、十二・四をみすえ、そそぎ、のりこえることをこころにかたく誓って、二重対峙・対カクマル戦をおしすすめてきたのである。すなわち、わが革共同と革命的労働者人民は、どんなにくやしくとも直情的なやりかえしの論理におちいることなく、相対的に劣勢な現実と敵の完全打倒という壮大な目的とを弁証法的にむすびつけ、その矛盾を段階的に解決していくものとして、絶対戦争の現実形態を創造的にうちだしたのである。過程的に規定するならば、相対的に劣勢で、しかも準備不足の革命勢力が、相対的に優勢で、しかも準備十分の反革命勢力に対峙し、戦争の発展をとおして味方の戦争態勢を強化し、敵の戦争態勢の矛盾をひきだし、もって戦争の究極目的たる敵の完全打倒を達成する革命的方策として、われわれの戦略は、実践化していったのである。
 二重対峙・対カクマルの第一段階は、戦略的防御のたたかいであった。われわれは、攻撃と防御の不均衡を徹底的に利用しつくす立場から、いくつかの戦略的拠点を不抜化するための態勢を断固としてうちかためるとともに、敵味方の力関係で不利な地点からは、大胆に味方の勢力を撤退させるなど、味方勢力を保持し、真の戦争態勢をつくりあげるために必要な一定の措置をとった。戦略的防御の段階をとおして、敵の攻撃を待ちうけと逆襲の熊勢をもってむかえうつとともに、味方の拠点の不抜化・敵の拠点の逆拠点化のたたかいをおしすすめつつ、反革命カクマルを完全打倒するための真の戦争態勢、真の政治的基礎をつくりあげるためにたたかいぬいたのである。
 このようなわれわれのたたかいにたいし、一時的で過渡的な「優勢」を本来的な力関係のように錯覚した反革命分子どもは、尊大なポーズでわれわれの段階的前進の戦略、とりわけ戦略的防御のたたかいをあざけり、われわれの劣勢をののしった。かれらには、現実の力関係に眼をそむけず、革命的に直視しつつ、なおも不屈に前進しつづける革命的精神のもつ壮大な爆発力を理解することすらできなかったのだ。
 われわれは、歯をくいしばってたたかいぬいた。そして昨年の九・二一、ついに革命的報復の鉄槌が反革命カクマルの頭上に炸裂した。戦略的対峙段階を戦取し、戦略的総反攻を準備する猛然たる攻撃戦がはじまったのである。まずもって、革命的報復戦は、反革命カクマルの戦闘主力をなす学生カクマルにたいする赤色テロルの嵐となって爆発した。白色過疎支配は一挙にふきとび、反革命の学生戦線はみるみるうちに縮小し、ゆるぎだしたのだ。つづいて、わが革命的報復の刃は、反革命の指導中枢、中央指導部にむかって容赦なくつきつけられ、土門、朝倉らがつぎつぎと撃沈された。敵の戦略的弱点が鮮明に照らしだされた。反革命通信は完全に無内容化し、敵労対部は無残に破産した。さらに、集団戦での圧倒的な勝利が反革命分子どもにたたきつけられた。十一・一六大阪、十二・一五東神奈川、十二・二三東京の連続的大勝利がそれである。わが革命的対峙戦は、その当初の時期においてはやくも優位の戦局をもぎりとったのであり、反革命カクマルは崩壊寸前の局面までおいつめられたのであった。革命的報復戦の戦略的展開という重大な勝利がここにかちとられたのである。「一方的攻撃者」の地位から敵をひきずりおろし、それにかわって革命と反革命との猛然たる対峙の情勢がうみだされただけでなく、革命の側の軍事的優勢の情勢がくっきりときりひらかれはじめたのである。
 反革命の側の劣勢をとりもどすための絶望的な軍事的冒険、一・一四弁護団会議襲撃と一・一七毎夕印刷所襲撃の暴挙にたいする革命の側の猛然たる報復のたたかいは、一・二四闘争の歴史的勝利とそれにひきつづく一連のたたかいの勝利として爆発し、反革命勢力を完全なパニック状態にたたきこんだ。反革命カクマルは崩壊寸前の危機となり、ただただ「警戒せよ」の無内容な悲鳴をあげるだけとなった。反革命カクマルのこのような危機的事態をすくい、七〇年代反革命の基本路線、K=K連合政策の破綻をとりつくろうために、日帝・国家権力の大弾圧の政治、あらたなK=K連合のつよまりがはじまった。われわれは、一方では、激化する大弾圧にたいする組織防衛のたたかいを断固としておしすすめるとともに、そのたたかいを基礎として、他方では、日帝・国家権力の大弾圧、あらたなK=K連合策動をつきやぶって革命的報復戦のあらたな進撃をかちとるために、本格的な態勢強化の道をあゆんだのであった。われわれは、従来の部隊編成の自然成長的限界を断固として突破して、「中央――地方――地区」の三種の武装勢力の建設を飛躍的に前進させるとともに、戦略思想の面でも、軍事技術の面でも本格的な躍進のための準備にはいったのであった。
 ところが、わが革共同と革命的労働者人民のこのような前進的過程にたいし、反革命カクマルの中央指導部は、おろかにも「党派闘争の勝利を宣言する」などという戦略的大失敗をやってのけたのである。すでに九・二一以来の革命的対峙戦によって完全な恐慌状態におちいってしまった黒田=朝倉体制は、権力の大弾圧、あらたなK=K連合策動のもとでの 「一時的な調整過程」ですっかりうれしくなってしまったのである。
 それゆえ、反革命カクマルのこのようなアサ知恵な戦略は、ただちに破産してしまった。満を持した四月攻勢は、反革命分子どもの淡い夢物語、勝利宣言とそのもとでの四月計画を決定的につきくずしてしまった。動転し、消耗したカクマル指導部は、「勝利宣言」の虚構を維持するためにふたたび軍事的冒険にうってでた。だが、五・一三の法政大会戦は、われわれの英雄的たたかいをひきだし、前迫勝士同志虐殺への猛烈な報復心をよびさますことによって、戦局の勝利的前進のための重大な分岐点をつくりだしたのである。四月から六月にいたる革命勢力と反革命勢力との息づまる攻防戦は、まさに革命の側の大進撃をうみだすための陣痛のくるしみであったのである。
 六月二〇日、狙い定めた壊滅的一撃が、反革命通信のうえにうちおろされた。六月二六日、あわてて法政にやってきた反革命の虎の子部隊は、わが革命的部隊の先制攻撃によって全滅してしまった。ついに戦局の勝利的前進、勝利の大進撃がはじまったのである。
 二重対峙・対カクマル戦の最終的勝利の段階、戦略的総反攻のたたかいは、かくして着実なテンポで準備されていった。七・一三神戸の大勝利をステップに、第一の十日間戦争、戦略的総反攻の怒濤の大進撃がついにはじまったのである。
 以上の簡単な経過を総括して、われわれが今日の局面で戦略的に確認しなくてはならない点は、おおよそ、つぎのとおりであろう。
 第一には、われわれの持久戦型の戦略、段階的前進の正しさが実践的、理論的にあきらかとなったことである。
 周知のように、われわれは、十二・四反革命をもって完全に反革命に転落したカクマルの白色襲撃にたいする階級的たたかいをおしすすめるにあたって、これを従来の党派闘争の単純な継続とみなすことなく、革命と反革命との新しい型の戦争、新しい型の内乱・内戦とみなすことを出発点とした。それゆえ、この闘争は、反革命にたいする政治闘争であるばかりか、その当然の継続として反革命にたいする武装闘争でもあることを、ひとかけらのまざれもなしにうちだした。
 このようなわれわれの規定にたいし、反革命のおろかな指導者? どもは、「党派闘争を戦争論的に基礎づける史上類例のない見解」という無力な対応にとどまってきた。かれらは、自分自身が「権力とたたかう党派への暴力行使の権利」と称して、現実に白色襲撃の路線にふみこみ、階級闘争(その高度な闘争形態としての党派闘争)の内乱的発展の道を反革命の側から促進しておきながら、それを一個の理論問題としてとりあつかうことができず、そのため、われわれにたいする戦略論上の決定的な弱点をかたちづくったのである。
 * 最近にいたって、反革命カクマル指導部は、かの「謀略論」の発展として「中核との闘争を権力との闘争の一環としてとらえる」というような珍無類な主張をうちだしてきた。もともと権力にたいして、いちどとして「たたかった」ことのないカクマルが、どう権力とたたかうのかは、はなはだ興味あるところだが、それは、ひとまず、当該の問題との関連でいえば、内乱的対峙の激化、反革命の側のどしがたい戦略的敗勢にたいする悲鳴以外のなにものでもないのである。それゆえ、かれらの側の唯一の実践的結論は、権力に泣きつき、もっともっと中核を弾圧してくれ、もっともっとK=K連合をつよめてくれ、と頼みこむ以外にないのである。
 しかし、反革命中央指導部の小官僚どもが、どのように「唯物論的現実」から眼をそむけようとも、事実は事実である。革命勢力と反革命勢力の内乱的対峙として「われわれとカクマルの闘争」を正しくとらえたとき、この問題の真の止揚の道は可能となるのである。
 われわれは、この正しい理論的基礎のうえにたって、反革命カクマルの白色襲撃に報復し、その真の解決を達成していくためには、反革命カクマルの完全な軍事的、政治的、組織的打倒以外にありえないとの結論に到達した。また、その戦略的プログラムは、持久型の戦略、段階的前進の戦略であると決定した。かくして、われわれは反革命カクマルの完全打倒という壮大な目的と劣勢な味方の現実をむすびつけ、その矛盾を実践的に解決していく道を確立したのである。
 われわれのこのような戦略にたいし、反革命カクマルは、その初期的優位性を現実の力関係と錯覚し、「アト一撃」論=戦略的速戦即決論の泥沼におちいり、失敗した。われわれは、いっさいの幻想的論議におちいることなく、持久戦、段階的前進の道を堅実にあゆみつづけ、今日ついに、戦略的総反攻の怒濤の大進撃をかちとるにいたった。プロレタリア革命論とそれにふまえた革命的暴力論、革命的軍事思想の創造的展開として、われわれの戦略的勝利は、いまや不滅のかがやきをもちはじめたのである。
 第二には、われわれの二重対峙・対カクマル戦の政治目的の正しさが、戦争の発展をとおしてますます明らかになっていることである。
 戦争は、いうまでもなく政治の継続である。それゆえ、戦争の正義、不正義を決定するものは、その形式の正否でもなく、その原因の先後でもなくして、戦争の目的が正しいかいなかにかかっている。このマルクス主義的原則にふまえるものだけが、戦争の階級的、政治的性格を正しくとらえることができる。
 しかし、われわれは、戦争の目的の正しさを確認することにとどまることはできない。正義が「正義」にとどまり、武装した勢力として発現しないかぎりは、正義は、けっして人民のこころをとらえることはできない。正義は、まさに正義の力として、すなわち、武装した正義としてはじめて、真に人民のこころをとらえることができるのである。政治と軍事の高度な統一――まさにこの一点に、マルクス主義の独裁論、暴力論、軍事論の核心があるのである。
 それゆえ、われわれは、二重対峙・対カクマル戦の政治目的、その革命性と正当性をたえず積極的にうちだし、戦争の政治基礎を強化拡大するためにたたかいぬくとともに、そのためにも、二重対峙・対カクマル戦の戦争態勢の独自の発展のためのたたかいをもっとも重視してたたかいぬいてきたのである。われわれは「戦争の必要性と正当性をかたるだけでなく、それを現実にやってみることで戦争の必要性と正当性をかたらなくてはならず、戦争をやりぬくだけでなく、戦争に勝利することによって戦争の必要性と正当性をたしかなものとしなくてはならない、からである。
 事実、われわれは、どんな困難にもうちかって二重対峙・対カクマル戦の革命的旗印を堅持し、その前進のためにたたかいつづけた。戦略的防御の段階のたたかい、戦略的対峙の段階のたたかいをとおして、われわれは、いまようやく戦略的総反攻のたたかいに激烈に突入した。反革命カクマルの完全打倒を、直接の実践的達成目的とする段階に到達したのである。まさに、われわれがこのように真剣にたたかいつづけることによって、労働者人民はしだいに二重対峠・対カクマル戦の革命的意義をつかみとりはじめたのである。
 狭山闘争をめぐる反革命カクマルの反人民的な策動は、反革命カクマルの完全打倒が戦闘的な労働者人民の共同の正義の要求であることをますます明白とした。また、われわれの戦略的総攻勢と狭山九月決戦の大高揚の相呼応した発展は、反革命カクマルの完全打倒が階級闘争の大爆発、中期の大高揚の歴史的跳躍台であることをますます明白にした。われわれは、戦略的総反攻の完全勝利をたたかいとることによって、この命題の正しさを、いちだんと不動のものにたかめていくであろう。
 第三には、われわれの戦略的総反攻の提起が、客体的にも主体的にもまったく適切であり、時宜にかなっていたことである。
 われわれは、持久戦型の戦略、段階的前進の戦略を決定したことからもあきらかなように、戦争の具体的な達成目標をがっちりと科学的な基礎のうえに設定してきた。衝動的な気分や一時的な感情で戦争の戦略的課題をうごかすことを厳しもおさえ、当初の戦争計画を断固として堅持しつづけてきた。まさにそれゆえにこそ、わが革共同と革命的労働者人民の戦略的総反攻への総決起は、かってない迫力となって爆発せざるをえないのである。われわれは、かならずや反革命カクマルを徹底せん滅しつくし、その完全打倒をなしとげてみせるであろう。まさに、勝利の日の到来は、時間の問題である。
 われわれは、六・二〇以来の三ヵ月間のたたかいをとおして、すでに「勝利の大勢」を決定的にもぎりとった。反革命カクマルの種々の絶望的とりもどし策動にもかかわらず、わが勝利の大勢をくつがえすことはできない。いな、ますます革命勢力の優位はうちかためられる一方である。なぜならば、六・二〇以来の破竹の大進撃を根底的にささえているものは、けっして偶然的なものではなく、まさに九・二一以来の革命的対峙戦のなかで実践的にうちかためられてきた経験と態勢を基礎として、その飛躍的な前進を問うものとしてあるからである。まやかしの「勝利宣言」にうつつをぬかすような虚弱な連中には、この秘密は永遠にとけるはずのものではないのである。
 まさに、われわれは、大反動、大弾圧のさなかにあって戦争の勝利的前進のための措置を本格的におしすすめた。「中央――地方――地区」の三種の武装勢力の建設など、軍制上の飛躍的な前進のために血のにじむような努力をはらったばかりか、そのうえ、戦争遂行上の軍事的・戦略的な思想の本格的な深化、種々の技術的能力、物理的手段の開発などにおいても、長足の進歩をかちとるために真剣な努力をはらったのである。こうした壮絶な努力をとおして、わが武装勢力の前進が飛躍的にかちとられたのである。この厳然たる事実こそ、わが反革命分子どもがことあるたびに「こんなことが中核にわかるはずがないのに……」「こんなことが中核にできるはずがないのに……」と悲鳴をあげる決定的根拠なのである。
 初期的優勢に慢心し、尊大なポーズでものをいうことにうつつをぬかしてきた反革命分子どもと、戦争のなかで戦争を学び、戦争のなかで戦争の態勢をつくるために歯をくいしばってたたかってきた革命勢力との決定的な差異が、いまここにドラスティックなかたちであらわれはじめたのである。
 第四には、反革命の側の戦略的破産がみるも無残にあばきだされたことである。
 すでにいくどものべてきたように、反革命の側の戦略を基本的に規定しているところのものは、初期的優勢へのよりかかりであり、それにふまえたところの「アト一撃」論=戦略的速戦即決論である。いいかえるならば、かれらは、日帝・国家権力の大弾圧の政治、K=K連合政策を背景としつつ、初期の一時的な力関係を真の力関係として観念化し、その基礎のうえにたって、まったく実現不可能な目標(中核派の解体)を速戦即決的においもとめていたのであった。しかも、その戦争論的解明の決定的脆弱性のゆえに、黒田=朝倉指導部は、七二年春と七四年春の二度にわたって「勝利の幻想」におちいり、反革命の没落をいちだんと決定的なものにしたのであった。戦争のイロハもよくわからない反革命の観念論者ども(反動のなかですらずばぬけて幼稚な連中)は、戦争の勝利のメルクマールがどこにあるのか、それすらわかっていなかったのである> それゆえ、二重対峙・対カクマル戦が持久戦的な性格をくっきりと確定しはじめるや、かれらの戦略的弱点はもはやおおいがたくなった。反革命の観念論者どもは、その当初の戦略的失敗をとりもどすために「アト一撃」論にはしらざるをえなかったのである。そして、いっそう戦略的弱点をあばきだしてみせたのである。反革命カクマルの戦略的速戦即決論は、すでに破産してしまっているにもかかわらず、その虚構をただす勇気も冷静さも、かれらはもう、もちあわせていないのである。
 九・二一にはじまる革命的対峙戦は、反革命の側の戦略的弱点をいっそう無慈悲にあばきだした。われわれの二重対峙・対カクマル戦の本格的な激化、持久戦的な発展は、それじたいとしてかれらの戦略的前提をうちくだいてしまったのである。一・二四闘争の歴史的勝利とそれにひきつづく一連のたたかいの爆発にたいする日帝・国家権力の大弾圧、あらたなK=K連合政策のつよまりという情勢のもとで、反革命の黒田=朝倉体制は、戦争のさなかに「勝利」を宣言する戦略的大失敗をやってのけたのであるが、しかし、いまここでさしあたって大切なことは、かれらがこのような気休めをいわなくてはならないほど、九・二一以来のたたかいで消耗しきっていたということである。
 われわれは、四・一五国学院を突破口として春期大攻勢に突入し、四月――五月――六月としのぎをけずる大激闘をやりぬいたのであったが、反革命の側は、その表面上の大言壮語とはうらはらに、もはや完全に戦略的展望をうしなってしまっていたのである。六・二〇――六・三〇と六・二六の二大勝利は、その決定的なダメおしの連打であった。
 第五には、戦略的総反攻の歴史的勝利、反革命カクマルの完全打倒が、あきらかに具体的日程にのぼりはじめたことである。以下、その点について、節をあらためてややくわしく検討することとしよう。
 
 (b) 戦略的総反攻の基本目標
 
 戦略的総反攻とは、持久戦型の戦略、段階的前進の戦略の最終段階のたたかいであるが、その基本的特徴は、つぎの三点にある。
 ′第一には、それは、反革命カクマルの完全打倒そのものが現実の具体的目標となった段階でのたたかいである。
 われわれは、戦略的総反攻の段階にさきだって戦略的防御、戦略的対時のたたかいを不屈に展開してきたが、その段階での特徴は、反革命カクマルの完全打倒をめざしながらも、それを直接的な達成課題とせず、戦争勝利のための政治的、軍事的な態勢の構築、戦略的防御戦の展開、政治的、軍事的な対峙の情勢をつくりだしつつ、最終勝利の条件を具体的に模索することにあった。いまや、われわれは、こうした過程的準備にふまえて戦略的総反攻に突入した。敵の完全打倒が具体的な日程にのぼりはじめた情勢のもとで、いちだんと激烈なたたかいが展開されていくのである。
 第二には、それは、反革命カクマルの完全打倒そのものをめざした二重対峙・対カクマル戦のもっとも高自的な闘争形態である。
 われわれは、いまや、反革命カクマルの完全打倒という最終目標をみすえ、それをできるだけはやく達成する観点から具体的戦闘を戦略的に配置していかなくてはならないのである。従来の段階にあっては、むきだしの敵意をしめすこと、まずもってたたかいをはじめること、すさまじい勢いでやりあうこと、それ自体が戦略的達成目標であったとするならば、今日の段階にあっては、敵の完全打倒にむかって、目的意識的に配置された戦闘の戦略的系統性が問題とならざるをえないのである。
 第三には、それは、もっとも激烈な戦闘過程であり、それゆえにまた、もっとも強烈な戦意が要求される過程である。
 戦争の攻撃的側面は、防御的側面よりもいちだんと積極的な政治意志、いちだんと積極的な進攻精神が必要である。われわれは、総反攻の段階のもっているこの特徴をけっしてみおとしてはならない。なぜならば、防御は現状を保守することに、攻撃は現状をかえることに主要な獲得点があるからである。たえず前進的にうみだされる力の均衡を積極的にうちやぶり、どんなに苦しくとも不断に前進すること――まさに、このような革命的進攻精神なしには、戦略的総反攻の真の勝利はありえないのである。攻めて、攻めて、攻めまくること――これが、戦略的総反攻の基本原則なのである。以上の確認にふまえるならば、当面ここで検討しておかねばならないことは、(1)戦略的総反攻の基本目標、(2)その基本的構成要素、(3)その具体的な達成目標、(4)勝利の展望、の四点となるであろう。
 
 (1) 戦略的総反攻の基本目標
 
 戦略的総反攻の基本目標は、反革命カクマルの完全打倒そのものを現実にかちとり、日帝・国家権力の七〇年代反革命の基軸をなすK=K連合政策をその主要な根拠において粉砕し、七〇年代革命の勝利の大道、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で、全面的な発展をおしすすめることである。 本来、二重対時・対カクマル戦の最終目標は、反革命カクマルに正義の制裁をくわえることにとどまらず、反革命カクマルを完全に打倒し、七〇年代革命の大道をはききよめることである。もとよりわれわれは、辻・正田両同志を虐殺することをもって日帝・国家権力と血盟をむすび、K=K連合にふまえて白色襲撃をくわえてきた反革命カクマルにたいし、燃えるような怒りと憎しみをもっている。まずもって二重対峙・対カクマル戦が革命的報復の決意からはじまったことは、まったく当然である。しかし、われわれは、二重対峙・対カクマル戦を不可避ならしめた階級的・政治的根拠からして、このたたかいが敵の完全打倒まですすむことなしには最終の解決がないことをはっきりと直視し、そのことを明言してたたかってきた。
 われわれは、いまこそ、戦略的総反攻に決起し、二重対峙・対カクマル戦の最終目標の達成のためにいっさいの努力をかたむけるときがやってきたのである。日帝・国家権力の破防法弾圧の政治とその特殊な継続としてのK=K連合政策を、その主要な根拠において粉砕し、七〇年代革命の勝利の大道をはらいきよめるときがやってきたのである。
 
 (2) 戦略的総反攻の基本的構成要素
 
 戦略的総反攻の勝利を構成する基本的要素は、つぎの四点である。
 第一には、反革命カクマルの戦闘力、抵抗力を徹底せん滅し、完全に解体しつくすことである。戦争勝利の真の根拠は、敵の戦闘力をせん滅し、その抵抗力を無力ならしめることにある。反革命カクマルの黒田=朝倉指導部のように、戦闘力のせん滅なしにペテン的に「勝利」を宣言するようなことは、戦争の唯物論的構造への無知以外のなにものでもない。われわれは、このような観念論的な戦争観とはまったく無縁である。反革命カクマルの完全打倒のためには、徹底して戦闘力をせん滅しつくさなくてはならないのである。
 第二には、戦闘力の政治的組織的基礎を攻撃し、完全に破壊しつくすことである。
 戦闘力とは、政治的、組織的力量の特殊な発展である。政治的、組織的力量は、それ自身としてそのまま戦闘力となるものではない。しかし、二つの意味においては、政治的、組織的力量は、戦闘力の絶対的な基礎である。ひとつは、戦闘力そのものが政治的、組織的力量であり、特定の物理的手段とむすびついた特殊な政治的「組織的力量であるという意味で、戦闘力は一個の政治的組織体である。もうひとつは、戦闘力が安定した力量と敵の粉砕をかちとるためには、一定の政治的、組織的力量が基礎的に必要であるという意味で、戦闘力は、それ自身として一個の政治的組織体であるが「同時により広義の政治的、組織的力量、階級的、社会的な力量を基礎とした特殊な力である。それゆえ、われわれは、二重対峙・対カクマル戦の最終勝利をかちとるためには、反革命の白色襲撃を根拠づけている政治的、組織的基礎を無慈悲に破壊しつくさなくてはならないのである。
 第三には、反革命カクマルの政治的、組織的結合を破壊しつくすことの基礎のうえにたって、その構成員から集団的、個人的な戦闘意志を完全にうばいとることである。
 戦争の究極の出発点は、政治的、社会的な敵対関係であり、それにもとづく敵意である。敵戦闘力を徹底せん滅し、その政治的、組織的基礎を完全に破壊するばかりでなく、われわれは、その基礎のうえにたって、反革命カクマルの構成員のひとりひとりから抵抗の意志を完全にうばいとらなくてはならない。そのために、われわれは、その構成員の罪状、抵抗の程度におうじて多様なたたかいをつづけるであろう。悪質なものには、「それ相応」の極刑を覚悟してもらわなくてはならない。罪状もかるく自己批判の態度が誠実なものには、それなりの「未来」があたえられることとなるであろう。抵抗するものには徹底せん滅が、降伏するものには自己批判の機会があたえられるときがやってくるのだ。
 第四には、われわれの意志を掟として反革命の徒に強制しつづけることである。
 反革命を生み出す政治的、社会的な条件、基本的には帝国主義の支配がつづくかぎり、反革命分子の復活もまた不可避である。それゆえ、われわれは、反革命カクマルにかわって登場する反革命の主要な動向に警戒しつつ、反革命カクマルの構成員のひとりひとりに、われわれの意志を掟として強制しつづけなくてはならない。われわれの意志にそむいたものには「それ相応」の措置がとられるであろう。
 二重対峙・対カクマル戦の最終勝利、反革命カクマルの完全打倒のためには、基本的な構成要素として以上の四点、すなわち、@敵戦闘力のせん滅、A政治的、組織的基礎の完全破壊B抵抗のl意志の解体、C錠の堅持を徹底的につらぬきとおすことが必要である。
 
 (3) 戦略的総反攻の具体的達成目標。戦争のいわゆる重心について
 
 戦争は、すべてそれに固有な重心をもっている。そこを攻撃され、そこを攻撃され、そこを破壊されると、戦争の維持が不可能になるのである。それゆえ、戦争では、かならず敵の重心への攻撃が戦略敵に追求されつづけるのである。戦争の重心をあきらかにするかたちで、戦略的総反攻の具体的達成目標を規定すると、それはつぎのとおりである。
 第一には、反革命カクマルの中央指導体制の完全な破壊をかちとることである。
 反革命カクマルにとって、その中央指導体制は、戦争指導上の決定的重心であるとともに、その壊滅の最大の弱点である。これまでしばしば指摘してきたように、反革命カクマルは、いわゆる一枚岩の党ではなく、種々の傾向の複合体であるにすぎず、その複雑な力の均衡を黒田の「虚構の権威」で維持しているだけのものである。
 たとえば、その中央構成をざっとみただけでも、@議長黒田そのものとそのファミリー、A「書記長」朝倉をはじめとする中央LC、B副議長松崎を中心とする組合小ダラ幹グループの三系列からなりたっており、党としての有機的統一性はまったく存在しない。こぶし書房は、事実上はカクマル出版部であるにもかかわらず、黒田のイデオロギー的、財政的私有財産機関となっており、その収益はことごとく黒田の個人的に取得するところとなっている。中央LCは、党の「政治局」としての機能を遂行していながらも、あくまで黒田を補佐する小官僚の事務遂行機関でしかない。独立の指導責任をはたす権威も能力もなく、黒田の無責任なやり方にたえずキリキリ舞いさせられている。松崎ら小ダラ幹どもは、黒田とつながっているだけで、中央LCを指導部としてみとめていない。気の毒なのは、中央WOBで、そのギャップにはまっていつもオロオロという具合である。
 それゆえ、ほんのわずかな均衡の変化でもカクマル中央指導体制は、決定的な動揺と危機におちいらざるをえない。つまや黒田の無責任な権威と陰謀政治があるだけで、責任ある指導機関が存在しないため、順風満帆で尊大なポーズをとれたあいだはよかったが、党外から本格的な圧力がくわわると、ただちにぐらぐらとなってしまうのである。
 われわれは、三年になんなんとする二重対峙・対カクマル戦の経験、とりわけ、九・二一以来の革命的報復戦をとおしてつかみとった教訓にふまえて、まずもって中央指導体制を実体的にも機能的にも粉砕し、その完全破壊をかちとっていくであろう。黒田と中央LCのせん滅、反革命通信の粉砕は、その当面する主要な環である。
 第二には、反革命カクマルの白色襲撃の戦闘主力をなすJAC(ジャック)を徹底せん滅し、その政治的、組織的基礎である反革命学生カクマルを完全に解体しつくすことである。
 反革命カクマルの七〇年代的特質は、七〇年安保沖縄闘争をはじめとする七〇年代闘争の総路線的破産を、白色襲撃と経済主義の路線で打開しようとした点にある。その際、このような反階級的居直りの決定的テコをなしたのは、学生カクマルを実体的基礎とした白色襲撃力であった。かれらは、戦闘的、革命的学生が七〇年をめぐる大激動をたたかいぬき、権力の大弾圧にさらされていたとき、闘争からの逃亡によって温存した力量によって白色襲撃を開始し、学生戦線の過疎的支配をはかったのである。
 だが、反革命カクマルの白色襲撃の戦闘主力であったJACは、いまや、急速度で崩壊的過程をすすみはじめた。首都の学生カクマルは、四月からの半年間で政治動員力は四分の一におちこんでしまい、いまでは学生独自の闘争をかまえる力もなくなってしまった。六・二六の大敗北でJACの中心部隊はすでに壊滅してしまった。敗残JACは、的確果敢な攻撃(集団戦プラス個人テロル)によってつぎつぎに徹底せん滅され、衰滅の一路をたどっている。いまや、かれらは闘争日に早稲田に登場することすらできないのである。
 われわれは、戦略的総反攻の勝利の重大な柱として、いちだんと激烈な戦闘態勢をうちかため、JACの完全な解体、学生カクマルの完全な一掃のために大進撃を開始しなくてはならない。首都学生カクマルのたそがれは、すでにはじまっている。わが革共同と革命的労働者人民は、かならずや、この歴史的大使命をおしすすめ、その最後の勝利を完遂しぬくであろう。
 第三には、すでに全体的な崩壊過程にあるカクマル地方組織を完全打倒し、その構成員の完全一掃をかちとることである。
 カクマルの地方組織は、もともと中央指導部とならぶ最弱点である。大別してそれは、黒田直系の部分(大阪、広島、九州)、旧ブント的傾向が克服しえない部分(東海、北陸、北海道)、マルドゥ的体質のまま横すべりした部分(沖縄)、それに超弱体な部分(仙台、秋田、新潟、長野)などからなりたっていたのであるが、今日ではごくわずかの例外的地方をのぞいて、カクマル地方組織は決定的な崩壊状態にある。とりわけ、黒田直系の西日本は、革命勢力の武装制圧下で崩壊寸前状態にあり、ただのひと.つの事務所もいまでは維持することができないしまつである。北陸は独自集会をやる力もなくなっており、いまだに旧戦旗派的体質まるだしの北海道のごときは、われわれが「北へ攻めのぼる」と宣言しただけで事務所を閉鎖する状態である。その他は、おしてしるべしである。われわれは、容赦なくカクマル地方組織に攻撃をくわえ、その完全打倒、その完全一掃をみごとになしとげてみせるであろう。その日は、刻々とせまっているのだ。
第四には、経済主義とダラ幹候補生のたまり場、産別カクマルをずたずたにひきさき、その完全な解体をかちとることである。
 反革命カクマルの解党主義路線をもっともよく表現しているのが、副議長松崎をはじめとする産別カクマルである。革命家の党という前衛党についてのレーニン的原則を破壊し、組合活動家の党という経済主義、解党主義の路線に転落した反革命カクマルは、その当然のむくいとして組合活動の右翼的変質が不可避となった。国鉄合理化新十ヵ年計画粉砕のスローガンをおろし、その代償として公社関係者からゴルフの会員券をもらい、いまでは鉄鋼の宮田とならんですっかりゴルフ焼けが身についた「わが革命的労働者」松崎をはじめ、わが産別カクマルの脳裡にあるものは、民同ダラ幹へのあこがれであり、労働運動の戦闘的、革命的前進への抜きがたい恐怖である。だからこそかれらには、わが革命的労働者が、組合の決定がなくとも、動員費の支給がなくとも、犠救がなくとも、必要とあらばどんな闘争にも勇躍していくのが、どうしても理解できないのである。
 しかし、民同の袖のかげからしか労働者の「たたかい」をみることができない松崎のような小ブル出世主義者のあわい願いとはちがって、わが革共同と革命的労働者の「たたかい」は、まさにプロレタリアートの階級的本質にふさわしい荒々しさと活力にみちている。われわれは、党としての階級的責務をなにひとつ放棄することなく、断固としてたたかいぬくとともに、そのたたかいの一環として、労働運動の戦闘的、革命的前進のために創意的活動を展開し、重大な成果をひとつひとつうちかためているのである。
 革命的労働者のこのような英雄的たたかいにおいつめられ、かれらの労働運動論、「本来の戦線」論の反革命的本質があばきだされるのを恐怖した反革命カクマルは、一方では、資本=当局や悪質民同と一体となって労働運動の戦闘的、革命的前進への敵対をつよめるとともに、他方では、JACを使ってわが革命的労働者への越境白色襲撃をはかり、危機からの絶望的脱出のために呻吟しているのである。
 われわれは、反革命分子による革命的労働者への越境襲撃にたいしては、「革命的等価」の原則にたって断固たる報復を貫徹する。古川、川谷両同志への越境白色襲撃には、ただちに革命的報復の巨弾が炸裂したが、いまだ「革命的等価」に達してはいない。しかもかれらは、古川、川谷両同志につづいて、革命的全逓労働者・高橋同志に殺人を意図した越境白色襲撃をくわえたのだ。われわれは、かならずやこのうらみを数倍、数十倍にしてはらすだろう。真の報復はこれからだ。
 反革命の産別カクマルよ、越境白色襲撃をやるなら腰をすえてしっかりやりたまえ。卑劣な策動をやるなら胆をすえてしっかりやりたまえ。われわれは、まさに「仁義ある戦い」を産別カクマルの頭上にたたきつけるであろう。われわれの「革命的等価」がどんなに激烈で、どんなに徹底的であるか、実践をもって証明してみせるであろうから。
 ともあれ、産別カクマルの没落と崩壊は、すでにはじまっている。われわれの戦略的総反攻の怒濤の大進撃は、こそこそと越境白色襲撃をはかりながら、経済主義とダラ幹候補の道をあゆむ産別カクマルの足もとを掘りくずしはじめた。かれらは、昨日までの尊大な態度を忘れたかのように、土気色となった顔色で、おろおろとうちふるえているだけである。しかし、こんなことはまだ序の口である。かれらの悪業にむくいるには、それ相応の重さが必要なのだ。
 第五には、反革命カクマルにたいするイデオロギー的批判の総攻勢を展開し、その反階級的本質をかんぷなきまでに粉砕しぬくことである。
 もともとカクマルは、わが革共同からの日和見主義的逃亡以来、その実践において階級闘争へのもっとも悪質な妨害者であったばかりか、理論上においても、実践上の反階級的行為を基礎として、たえざる腐敗と変質をかさね、今日ではプロレタリア独裁の絶対的基礎をなす暴力革命論まで否定するにいたっているのである。それだけではない。かれらは、構改派と大内説をでたらめにこねあわせた、あやしげな「国家独占資本主義段階」説をうちだすことによって、レーニン主義革命論の核心をことごとく破壊し、マルクス・レーニン主義をブルジョアジーの政策と「和解」できるものにつくりかえてしまったのである。
 すなわち、かれらは、みずからの経済主義と白色襲撃の路線を合理化するために、(1)レーニン主義を後進国革命論と裁断し、その基礎のうえにたって、(2)レーニンの帝国主義段階論、プロレタリア独裁論、前衛党組織論をことごとく否定し、(3)現代における反帝国主義・反スターリン主義世界革命の道、後進国・半植民地人民の民族解放闘争(民族解放・革命戦争)と、帝国主義国プロレタリアート人民の内乱・内戦――蜂起のたたかいの革命的結合の道に敵対するために、その「創造的理論活動」なるもののいっさいを投入してきているのである(本選集第一巻「レーニン主義の継承か解体か」参照)。
 われわれは、黒田をはじめとする反革命カクマル指導部のこのような理論的な腐敗と変質が、反革命カクマルの今日の理論と実践、白色襲撃と経済主義の総路線とかたくむすびついていることを理論的にも実践的にもあばきだし、戦闘的労働者人民のあいだからその影響を完全にたたきださなくてはならない。わが革共同と革命的労働者人民は、戦略的総反攻に総決起し、組織としての反革命カクマルを完全打倒するとともに、その一環として、反革命カクマルの完全なるイデオロギー的死滅を徹底的になしとげていくであろう。
 
 3 勝利の保証
 
 われわれは、十二・四反革命以来の二年有半の苦闘をつきぬけ、ついに二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻の段階を猛然と戦取するにいたった。われわれは、一九七四年秋の大進撃をとおして歴史的勝利の大勢を断固としてうちかためるであろう。二重対峙・対カクマル戦のこのような勝利の展望のつよまりは、当然のことながら、革命の勝利をめざす戦闘的労働者人民の熱烈な歓迎と支持をもってうけとめられた。わが革共同にたいする信頼と期待は、いまや燈原の火のようにひろがり、大地をなめつくそうとしているのである。なぜならば、われわれの二重対峙・対カクマル戦は、真に革命的な総路線に立脚した正義のたたかいであり、真に革命的な総路線の一翼として正しく位置づけられた勝算のあるたたかいだからであり、それゆえまたそれは、七〇年代革命の真の突撃路をつくりだすものだからである。
 二重対峙・対カクマル職の戦略的総反攻の歴史的勝利を保障するものは、おおよそ、つぎのとおりである。
 第一には、われわれが正しい革命の戦略と総路線に立脚し、労働者人民のかけがえのない正義の要求とむすびついてたたかっていることである。
 われわれは、周知のように、反帝国主義・反スターリン主義の基本戦略を現代世界における革命戦略としている。すなわちそれは、(1)マルクス主義にふまえたプロレタリア=人間解放の道であり、(2)帝国主義とスターリン主義の現代世界を根底的に打倒し、ロシア革命を突破口とする世界革命を現代的に完遂していくたたかいの道であり、(3)帝国主義とスターリン主義の永続的な打倒をとおしてプロレタリア独裁権力を全世界にうちたてていく道である。まさに、このたたかいこそ、現代における革命のもっとも一般的な任務をなしているのである。
 われわれはまた、七〇年代革命の戦略的総路線として、後進国・半植民地における民族解放闘争の革命的前進と帝国主義国における革命的内乱との戦闘的連帯、日本階級闘争の内乱・内戦――蜂起の道へ前進をめざしてたたかっている。すなわちそれは、(1)戦後世界体制の解体的危機を反帝国主義・反スターリン主義の世界革命に転化するたたかいであり、(2)アジアを反帝国主義・反スターリン主義世界革命の根拠地に転化することをめざすたたかいであり、(3)沖縄の永続的奪還、安保粉砕・日帝打倒をめざすたたかいであり、(4)闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱に転化することをめざすたたかいである。まさに、このたたかいこそ、七〇年代を主導する戦略的総路線である。
 われわれは、さらにまた、以上の基本戦略と戦略的総路線にふまえた具体的な指針として三大政策をかかげて、その勝利のためにたたかっている。
 すなわちそれは、(1)アジア、安保、沖縄など日帝の政治外交路線、アジア侵略と侵略体制の攻撃にたいするたたかいであり、(2)入管、狭山、小選挙区など、日帝のアジア侵略と侵略体制の攻撃とむすびついた民族抑圧や差別分断の攻撃、政治反動のあらゆる面での激化にたいするたたかいであり、(3)労働者、農民、学生などの諸階級、諸階層におけるたたかいである。まさに、このたたかいこそ、労働者人民の正義の要求とむすびついた活動上の指針である。
 ところが、黒田を頭目とする反革命分子どもは、われわれのこのような基本戦略、戦略的総路線、三大政策に敵対し、その破壊のために「権力にたいして一度として行使したことのない暴力」を行使して白色襲撃をくりかえしてきたのである。かれらは、われわれが革命の道から「はみだした」といって白色襲撃をくわえてきたのではなく、革命の道を「はみださない」といって白色襲撃をくわえてきたのである。このような理不尽な攻撃にたいして、どうして屈服できようか。また、労働者人民の支持がどうしてありえようか。まさに、われわれの二重対峙・対カクマル戦は、このような階級的正義に立脚し、労働者人民のたたかいと正しくむすびついているからこそ、不屈にたたかいつづけるのであり、苦闘をとおして勝利の展望をつかみとることができるのである。
 第二には、われわれが正しい時代的認識にふまえて正しい使命感にうらうちされでたたかっていることである。
 われわれは、周知のように、今日の内外情勢の基本的特徴を「革命情勢への過渡期の成熟」ととらえている。
 すなわち、今日の内外情勢の主要な特徴は、(1)帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制がますます崩壊的危機におちいり、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命の現実性がますますつよまっている情勢であり、(2)日本帝国主義の体制的危機のかつてないふかまりのなかで、日帝のアジア侵略と侵略体制の攻撃、民族抑圧、差別、分断と政治反動の攻撃、インフレ・投機・公害など国民生活の貧困化、搾取と収奪の攻撃が全面的に激化し、それにたいする労働者階級や人民大衆の階級的な反撃の高まり、政治的な目覚めと活性化のひろがり、主導的政治勢力における革命勢力と反革命勢力との分岐と対峙のつよまりが全面的に発展している情勢であり、(3)革命情勢への過渡期が急激に成熟しつつある情勢である。戦後世界体制の崩壊的危機のふかまりとそのもとでの革命情勢への過渡期の成熟は、まさに、わが革共同第三回大会決議(一九六六年目『勝利にむかっての試練』参照)以来の一貫した時代的視点の勝利をしめすものである。
 われわれは、また、内外情勢が「革命情勢への過渡期の成熟」としての特徴をあきらかにしているなかで、レーニンのいわゆる「革命情勢に照応した革命党の三大義務」の問題(@革命情勢が存在することを大衆のまえにあきらかにし、それの広さと深さを説明すること。Aプロレタリアートの革命的自覚と革命的決意をよびさまし、プロレタリアートをたすけて革命的行動にうつらせること。Bこの方向で活動するために革命的情勢に応じた組織をつくりだすこと)の真に創造的な準備を、今日的になしとげていかなくてはならないことを明確に承認し、そのためにたたかっている。
 すなわち、われわれは、(1)党そのものが建設途上にあること、(2)情勢そのものが端初的、過渡的な段階にあること、(3)敵権力の弾圧の構造が複雑であることの三点についてはっきりとふまえながら、レーニンの革命的原則を、(1)革命の問題、革命的手段の問題の真向からの提起。革命にむかっての宣伝・扇動の全面的展開。(3)革命的行動への移行の促進。革命的行動の可能的着手、その計画的、系統的強化。(3)非合法的基盤、非合法的組織、非合法的活動の創造。合非の問題の正しい解決の三つの問題として創造的に追求しているのである。まさに、このたたかいこそ、戦後世界体制の崩壊的危機とそのもとでの日帝の体制的危機のふかまりにたいする革命党の正しい対応である。
 ところが、黒田を頭目とする反革命分子どもは、戦後世界体制と日帝が直面している体制的危機を否定し、今日の危機を経済政策の失敗の結果としてえがきあげ、改良主義まるだしの政治経済闘争なるものに投入するだけでなく、レーニン的革命原則にふまえてたたかうものにたいして白色襲撃をくりかえしてきたのである。いや、もっと正確にいうならば、戦後世界の解体的危機の進展とそれにもとづくカクマル総路線の破産を軍事的に打開するために、革命党にたいする武装襲撃をくわだててきたのである。それゆえ、われわれがこのような反革命分子の白色襲撃を日帝のK=K連合政策との関連で正しく階級的に位置づけ、その粉砕のためにたたかうのは当然である。まさに、このような反革命勢力との内乱的対峙のふかまりのなかに、革命情勢への過渡期の成熟のたしかなあらわれがあるのであり、それゆえまた、反革命カクマルの完全打倒をとおして七〇年代闘争の進路をきりひらいていくことの現実的根拠もあたえられているのである。
 第三には、われわれが内乱・内戦――蜂起ををめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展の主要な環として、二重対峙・対カクマル戦をしっかりと位置づけ、総力をあげてたたかいぬいていることである。
 われわれは、周知のように、七〇年代革命の勝利の大道として内乱・内戦――蜂起の戦略的総路線をうちだし、その物質化にむかって革命闘争と革命党建設の堅実で全面的な発展のためのたたかいをおしすすめている。
 すなわちそれは、(1)K=K連合の粉砕と反革命カクマルの完全打倒にむかって大進撃する二重対時・対カクマル戦、(2)内乱・内戦――蜂起の戦略的総路線にふまえた政治闘争、経済闘争、イデオロギー闘争の展開、(3)革命に勝利する党の建設のためのたたかいの三つの任務の一体的な推進をしめすものである。われわれは、革命情勢への過渡期が成熟しつつある時代のなかでの建設途上の党として、しかも権力の大弾圧と民間反革命の白色襲撃にたいし、二重の内乱的対峙を現在的にたたかいぬいている党として、党のためのたたかいと党としてのたたかいの一体的な推進、革命闘争と党建設の堅実で全面的な発展の道をじっくりとすすんでいるのである。まさに、このたたかいこそ、七〇年代革命の勝利の大道であり、七〇年代中期の大高揚の条件である。
 われわれは、また、二重対峙・対カクマル戦を「内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で全面的な発展のためのたたかい」の当面する主要な環、戦略的な基軸として位置づけ、その歴史的勝利のためは全力をあげてたたかいぬいているのである。
 すなわち、二重対峙・対カクマル戦は、(1)革命の事業の存亡をかけた不可避のたたかい、権力と反革命から革命党をまもりぬく不退転の計闘争であり、(2)それ自身一個の闘争、一個の内乱・内戦として、七〇年代階級闘争の革命的、内乱的、武装的な発展を促進する水路をなすたたかいであり、(3)七〇年代革命の勝利の大道、七〇年代中期の大高揚をきりひらく歴史的跳躍台である。われわれは、二重対峙・対カクマル戦の真の歴史的勝利、 K=K連合政策の粉砕・反革命カクマルの完全打倒をなしとげることによって、七〇年代革命の勝利の大道をきれいにしあげることができるのである。まさに、このたたかいこそ、わが革命闘争と革命党建設のもっとも堅実な道なのである。
 ところが、黒田を頭目とする反革命分子どもは、われわれのこのような堂々たる不敗の戦略的布陣がおそろしくて、おそろしくて、どうにもたまらないのである。そこでかれらは、一方では、口汚ないやり方でわれわれの路線に悪態をつき、精一杯の虚勢をはるとともに、他方では、追いつめられたものの絶望的なあがきとして、白色襲撃に最後の望みをたくしたのである。だが、かれらがどのようにみじめなあがきをくりかえそうとも、われわれの革命的布陣はじわじわと反革命分子どもへの包囲の輪をしめつけており、戦略的総反攻の怒濤の大進撃は、かれらの末期をますます不可避ならしめているのである。
 かくして、われわれの戦略的総反攻の勝利の展望は、まったくゆるぎない磐石の基礎のうえにそびえたっている。反革命の手合が、権力のK=K連合政策とむすびついてどんなに卑劣なあがきをくりかえそうとも、その破綻と没落はだんじてさけられない。われわれの二重対峙・対カクマル戦の歴史的勝利、反革命カクマルの完全打倒の日は、もはや時間の問題である。今日、われわれがなすべきただひとつの任務は、最後の勝利の日を一日もはやく現実にひきよせることである。
 
 4 当面する主要な任務
 
 最後に、戦略的総反攻をむかえるいたった二重対峙・対カクマル戦の当面する主要な任務について簡単に確認しておくこととしよう。
 第一には、全党全人民が、わが革共同政治局の全一的な指導のもとに、うって一丸となって団結し、戦意と闘志をもやして反革命カクマル完全打倒のために総決起することである。
 わが革共同と革命的労働者人民の不滅の勝利の基礎は、政治局の全一的な指導とそのもとでの全党全人民の強大な団結である。この鍛えぬかれた党的基盤こそ、一九六七年の十・八羽田以来の激闘の五ヵ年、二つの十一月決戦を頂点とする七〇年安保沖縄闘争の勝利をもたらした決定的力であり、一九七一年の十二・四反革命以来の激闘の三ヵ年、日帝・国家権力の大弾圧と反革命カクマルの白色襲撃にたいする二重対峙・対カクマル戦の勝利の前進をささえた根底的力である。
 それゆえにこそ、わが戦略的総反攻の怒濤の大進撃のまえに、もはや独力で対峙する自信も態勢もなくなってしまった反革命カクマル指導部は、その戦略的大敗走のいいわけを愚にもつかない謀略論にみいだそうとして失敗し、あわい宗教的願望を「革共同政治局の分裂」なるものにかけはじめているのである。かれらには、今日となっては、自力で局面を打開する気力すらなくなってしまっているのである。
 だが、黒田をはじめとする反革命分子どもが、どんなにわが革共同の「分裂」をねがおうとも、十数年の闘争の鉄火で鍛えぬかれたわが政治局は、実践的事実をもって反革命分子の宗教的願望をこっぱみじんにうちくだいて前進している。政治局の全一的な指導のもとで、全党全人民の団結はかつてないたかまりをしめしているのである。われわれは、いまこそいっさいの保守主義をうちくだき、革命的進攻精神を発揮して、あらゆる面で積極的攻勢にうってでなくてはならない。創意工夫をこらして戦略的総反攻のもとでの活動を全面的に強化しなくてはならない。
 第二には、七四年秋のたたかいをとおして二重対峙・対カクマル戦の勝利の態勢を決定してしまうことである。
 すでに幾度も確認してきたように、われわれは、必要とあらば何年でも、不屈の闘魂をもって反革命カクマルとたたかいつづけるだろう。黒田や朝倉のような卑劣漢はいざしらず、われわれは、いったんはじめた闘争はその決着がつくまでどんなことがあってもやめることはないのだ。われわれは、その勝利の日まであらゆる方法、あらゆる手段を駆使してたたかいぬくであろう。
 しかし、同時にまたわれわれは、持久戦の精神と態勢を断固として堅持しつつ、一日もはやく反革命カクマルを完全打倒するために必勝の努力をかたむけるであろう。われわれは、いまや、そのときをむかえたのだ。反革命カクマルをいまこそ攻めて、攻めて、攻めまくり、敵の戦略的大敗走をいちだんと壊滅的なものとし、七四年中に勝利の大勢を確定しなくてはならないのである。
 第三には、戦略的総反攻のたたかいをとおして、武装せる政治戦と党建設の壮大な高揚をかちとることである。
 日帝・国家権力の許すべからざる政治犯罪、部落民にたいする差別・分断・抹殺の攻撃の最先端をなす狭山差別裁判を徹底糾弾し、無実の石川一雄氏の即時奪還をかちとるたたかい、とりわけ、狭山九月決戦の歴史的大高揚をかちとるたたかいは、そのなかでも当面する最重要の階級的責務である。われわれは、激動するアジア――朝鮮情勢の進展のなかで、ますます緊迫の度をくわえる入管法と入管体制の攻撃など、日帝・国家権力のあらゆる面での反動攻撃と断固として対峙しつつ、当面する狭山九月決戦の勝利のために決死のたたかいをおしすすめなくてはならないのである。
 また、われわれは、革命党建設の独自的な推進のために創意をこらしてたたかいぬかなくてはならない。まさに戦略的総反攻の真只中でこそ、われわれの党建設の壮大な任務は達成されていくのである。わが革共同の同志たちは、かつてない高揚をうみだしつつある。また、戦闘的労働者人民のあいだでは、戦略的総反攻と狭山九月決戦の両面での爆発的高揚のなかで、わが革共同の路線とたたかいにたいする関心と共感がとうとうとみなぎりはじめたのである。われわれは、いっさいの保守主義をうちやぶり、創意工夫をこらして党の指導と活動の原則的で全面的な発展をかちとり、この重大な情勢を党建設の面はおいでも徹底的にくみつくさなくてはならない。党建設のあらたな高揚の時代がいまやってきたのである。
 第四には、戦略的総反攻の怒濤の大進撃のなかで、その決定的な基礎過程として、反革命カクマルの組織構成とその政治的動態にたいする革命的捕捉をいちだんと強化して、いくことである。
 われわれは、戦略的防御、戦略的対峙の二つの段階をとおして、反革命カクマルを打倒するためにたたかいぬいてきた。しかし、われわれは、革命的対峙戦の当初の局面までは、反革命カクマルの理論的、政治的特徴づけにおいてはかなりの認識をもっていたとはいえ、敵の組織構成、その動態の認識という点ではきわめて不十分であった。しかし、われわれは、革命的対峙戦の激烈な過程をとおして、反革命カクマルを「組織として」捕捉するたたかいにおいて重大な前進をもぎりとった。この前進こそ、六・二〇を突破口とする大進撃の決定的基礎であった。われわれは、いまや戦略的総反攻の熾烈な激闘のなかで、この前進をいっそう飛躍的なものにしていかなくてはならないのである。
 第五には、五大戦闘任務を断固としておしすすめ、その圧倒的な勝利をかちとることである。
 (1) 反革命カクマルの戦闘主力、敗残JACとその政治的、組織的基礎をなす学生カクマル組織にたいし、あらゆる形式の攻撃を間断なくうちこみ、その決定的壊滅をおしすすめていくこと。
 (2) 反革命カクマルの最弱の環、中央指導部――指導中枢の徹底的粉砕。中央指導部の権威失墜、機能低下的事態をいちだんと深刻化させること。
 (3)雑誌活字にまで追いこんだ反革命通信に革命的トドメをさすこと。権力の庇護とブルジョア資本の思想に依拠した漂流路線をかんぷなきまで粉砕すること。
 (4)すでに総崩れの過程におちいったカクマル地方組織を追いつめ、その完全打倒にむかって進撃すること。
 (5)わが革命的労働者への越境白色襲撃にたいしては、「革命的等価」の原則にたって猛然たる報復をおこなうこと。
 
 V 結語にかえて
 
 革命的全逓労働者、高橋範行同志にたいする反革命カクマルの意図的虐殺を満腔の怒りをこめて糾弾し、戦略的総反攻の歴史的勝利、反革命カクマル完全打倒の完遂を誓う。
 一九七四年九月一六日午前一時五五分、反革命カクマルのあせりにみちた暴虐な殺人行為によって危篤状態にあった革命的全逓労働者高橋範行同志は、六日間にわたる「生」への英雄的なたたかい、医師・家族・同志の懸命な看病にもかかわらず、ついに息をひきとり、二五才の短い生涯を閉じた。
 高橋範行同志は、わが革共同が誇るもっとも革命的な労働者である。一九六七年春、大宮高校卒業後、ただちに東京中郵の全逓労働者となった高橋同志は、十・八羽田を突破口とした激動の五ヵ年をつうじて急速に革命的、戦闘的労働者としての道をあゆみ、六九年の第一の十一月決戦、七一年の第二の十一月決戦を頂点とするたたかいの先頭にたってたたかいぬいた。また、日帝・国家権力の大弾圧の政治、K=K連合政策とそのもとでの白色襲撃が激化した一九七一年の十二・四反革命以後も、ますます確信をもって革命の大業を守りぬき、二重対峙・対カクマル戦の先頭にたって不屈のたたかいをつづけた。さらにまた、全逓中郵の戦闘的な分会役員として全逓の戦闘的強化、労働運動の革命的戦闘的前進のために精力的活動をおしすすめてきた。
 ところが、日帝・国家権力の走狗として民間反革命の道をころげおちるカクマル中央指導部とその敗残JACは、おのれのあまりにもみじめな大敗勢をさかうらみし、高橋範行同志たいする明白に殺人を意図した越境白色襲撃をくわえ、ついに前途有為の生命をうばいとったのである。われわれは、この厳粛な事態を徹底的に重視し、それにみあう革命的報復を容赦なく展開するであろうことを宣言する。
 高橋範行同志にたいする反革命カクマルの虐殺行動は、つぎの点においてきわめて重要な意味をもっている。
 第一には、われわれの戦略的総反攻によって反革命カクマルが追いつめられ、総崩れの状態におちいったなかで、このような破局的な事態からなんとしても脱出したいという絶望的あがきが、今回の暴挙をうみだした、という点である。
 反革命カクマルの中央指導部とその敗残JACは、すでに六・二〇以来の全面的な猛攻、第一の十日間戦争の完全勝利と戦略的総反攻の大号令によって完全にうちのめされてしまっていたのであるが、さらに、戦略的総反攻――九月決戦――第二の十日間戦争の大重圧によってますますおしひしがれ、軍事的にも、政治的にも、完全な展望喪失状態におちいってしまったのである。こうしたどん底的な事態のなかで、そこからなんとしても脱出せんとして、かれらは「やりあっている」仮象をつくりだすために、今回の事態を無理矢理うみだしたのである。
 第二には、反革命カクマルの完全な軍事的、政治的手づまり状態のなかで、それを「打開」するための卑劣な越境として労働者の同志への意図的な襲撃がおこなわれた、という点である。
 われわれの戦略的総反攻――九月決戦――第一の十日間戦争の大進撃によって、反革命分子どもは、完全な展望喪失におちいってしまった。狭山闘争からは無残に脱落し、その軍事的打開の道は皆無である。「九月中に中核にトドメをさす」という反革命の中央決定も、あいつぐ敗勢のふかまりのなかでは、ただただうつろなつぶやきにすぎない。かれらは、ともかくも、たとえ戦略的総反攻へのかぼそい抵抗でしかなかったとしても、自分たちもなにかしているという体裁がほしかったのである。そのため、かれらは、それが反革命みずからの首をいっそうかたくしめつける結果になることをしりながらも、古川、川谷両同志への越境襲撃につづいて、みたび高橋同志を越境襲撃する暴挙にうったえざるをえなくなったのである。
 第三には、高橋同志への今回の襲撃が、徹底して頭部を狙った、あきらかに殺人を意図したものである、という点である。
 反革命カクマルの中央指導部とその敗残JACは、あきらかに高橋同志が全逓労働者であることを知りつつも、その個人の下宿に突入し、無抵抗の状態にしておいて、頭部を鉄パイプで乱打したのである。かれらは、全逓労働者への白色襲撃があまりにも巨大な衝撃をうみだし、革命的、戦闘的労働者のあいだで強烈な怒りをまきおこしているのに動転し、今日では「手足を狙った」などと不出来ないいわけに終始している。だがそれは、語るにおちるというものだ。かれらがなんといおうとも、攻撃は頭部に集中しており、その結果として高橋同志は若き生命をうしなったのである。ところが、反革命の虐殺者どもは、今回の事態にかぎって攻撃が「手足だけだった」とわざわざ弁解しているのである。なんと悪虐で、しかも、なんと卑劣なことか。
 第四には、今回の暴挙によって反革命カクマルの敗残JACの崩壊がいっそう決定的なものとなったばかりか、これをききっかけとして、カクマル労働戦線の総崩れ状態、産別カクマルの動揺と分解が一挙に進行しはじめた、ということである。
 今日、反革命カクマルの内部は、高橋同志虐殺とそれにたいするわれわれの革命的報復宣言とによって、川口同志虐殺以来の大混乱におちいってしまっている。かれらは、革命的労働者への意図的殺害というみずからおかした罪にすっかりおびえきり、われわれの正義の「革命的等価」=報復宣言に完全に腰がぬけてしまった。卑劣な責任転嫁で有名なカクマル中央指導部も、敗残JACのつきあげで、高橋同志襲撃が中央統轄機関の指導のもとにおこなわれたことを認めてしまった今日では、いまさら下部の「未熟分子の責任」に問題をすりかえることは困難である。かれらにできることは、おろおろとうろたえながら、逃げまわるだけである。とりわけ、産別カクマルの狼狽ぶりは度はずれに深刻である。はやくも離脱宣言を発するもの、もうすこし待ってくれと電話で泣きだすもの、一夜で蒸発するものなど、まさに反革命の末路にふさわしい総崩れぶりである。
 第五には、高橋範行同志虐殺の責任は、反革命カクマルの指導部、議長黒田、副議長? 松崎、書記長朝倉、中央LC山代、土門、西条、梅津、西川やJACはもちろんのこと、高橋同志虐殺を手引きした全逓カクマルや、それを自己批判しない産別カクマルの連中に厳しく負ってもらわなくてはならない、という点である。
 反革命カクマルに属するものは、基本的にはことごとく高橋同志虐殺の責を負っている。われわれは、ひとりの例外もなしに、その責任を追及する。しかし、われわれは、とりわけ、つぎのものどもをいかなる手段をとっても厳しく責任追及する。
 (1)反革命カクマルの中央指導部に席をおくもの。黒田、松崎(倉川)、土門(根本)、朝倉(池上)、山代(白井)、西条(木下)、梅津(つつみ)、西川(小野田)など。
 (2)JACの指導部とメンバー。馬場、前川、藤原、藤縄など。
 (3)高橋同志虐殺を手引きした全逓カクマル。
 (4)高橋同志虐殺を支持し、または、自己批判を拒否した産別カクマル。
 (5)反革命カクマルの地方指導部に席をおくもの。高橋同志虐殺を支持し、または、自己批判を拒否したもの。
 全国の同志諸君! すべての戦闘的労働者人民諸君!
 二重対峙・対カクマル戦の歴史的勝利、戦略的総反攻の勝利的大進撃は、もはや、なんぴともくつがえしえない歴史の大勢である。われわれの興隆と、反革命勢力の没落とは、もはや、なんぴとも否定しえない現実の事態である。二重対峙・対カクマル戦の戦略的総反攻の大進撃を戦略基軸に、内乱・内戦――蜂起をめざす革命闘争と革命党建設の事業の堅実で、全面的な発展のたたかいは、いまやぐんぐんと前進している。七〇年代革命の勝利の大道、七〇年代中期の大高揚の展望は、ますます不滅の輝きをましている。
 このような歴史の大勢からみるならば、高橋同志にたいする反革命カクマルによる虐殺行為は、没落するもののあせりにみちた絶望的あがきであり、戦略的総反攻の勝利の大進撃にたいする敗残者のかぼそい抵抗にすぎないであろう。しかし、そうであればあるほど、われわれは反革命カクマルの大敗勢のさかうらみによって、高橋範行同志のような優れた人材をうしなった無念はふかく、かつ重い。おもえばわれわれは、七〇年安保沖縄闘争の途上において、和井田史朗、山崎博昭、滝沢紀昭、津本忠雄、中村克己、永田典子の諸同志をうしない、また、狭山闘争、部落解放闘争の途上において中岡(前田)同志をうしなったばかりか、反革命カクマルの凶行によって辻、正田、武藤、川口、前迫の諸同志につづいて、いままた高橋同志をうしなうにいたったのだ。たとえ階級闘争の勝利の道が死屍累々たる犠牲者のうえにきずかれなくてはならないとしても、現実に同志をうしなうわれわれのこころの悲しみは、暗く、かつ苦しい。
 しかし、われわれはどんなに無念であったとしても、どんなに悲しかったとしても、そこにとどまることはできない。高橋同志の遺志を断固としてうけついで、その完遂のために、やすまずたたかいつづけなくてはならないのである。戦略的総反攻に総決起し、反革命カクマルの完全打倒のために前進すること、狭山九月決戦の爆発的大高揚をかちとり、狭山闘争の歴史的勝利のために前進すること、それらを突撃路として七〇年代革命の大道、七〇年代中期の大高揚の展望をきりひらくこと――これこそ、高橋同志の死にむくいる唯一の道である。
 われわれは、革共同政治局の全一的な指導責任をもって、このたたかいの先頭に立つ。われわれの勝利と敵の敗北は、いまや歴史の大勢である。
 武装し、戦う革共同万才!
      (『共産主義者』二六号一九七四年十月に掲載)