二 岸本健一著『日本型社会民主主義』刊行に寄せて
      実践的に社民を分析
 
 同志岸本の『日本型社会民主主義』刊行によせて発表した書評である。日本におけるプロレタリア革命という明確な実践的立場から日本型社民(=労農派マルクス主義)の理論と実践を全面的かつ系統的に批判し、解剖したはじめての著作として紹介している。
 
 いつのころからか、日本の社民(=社会民主主義)運動の「戦闘性」ということが問題になりだした。
 われわれの世代に共産主義運動に関係したものにとって、社会党=社民にたいする倫理的反発はかなり強い。その前提には、社民=社会改良主義というカウツキー、レーニン論争以来の理論的定式が存在していることはもちろんだが、それ以上に社会党のかもしだす醜悪な体臭にたいする直感的な嫌悪感の方が重要な原因をなしていたと思う。実際、社会党系の組織のなかですこしでも活動してみればすぐわかることだが、その腐敗ぶりは目に余るものがある。
 反動的評論家や、自民党の政治家や、民社党系の御用学者たちが、社会党をおどかすために「日本社会党はマルクス主義的体質が濃厚だ」なぞという知ったかぶりの批判をしていることは周知のとおりだが、それはたいした問題ではない。だが、社会党系の理論家や元日本共産党員の理論家たちが、ことあらためて「社民の戦闘性」なるものにいろいろな意義を発見しだしたとなると、ことはそうかんたんでない。そして、いつのころからか、こうした議論がブルジョア宣伝家たちの社会党攻撃と表裏をなして登場してきたわけである。
 ところで、社会党=日本的社民運動の「戦闘性」にかんするこうした議論の歴史的前提条件に、日本共産党の「理論と実践」にたいする運動内部の深刻な動揺が存在していたことはいうまでもない。
 戦後、日本共産党=日本スターリン主義運動が決定的な政治的破局を経験したのは、四九年――五〇年の大敗北と五九年――六〇年の安保闘争であったといえよう。五二年の軍事路線と五七年の国鉄新潟闘争の問題は、この二つの政治的破局との関連においてとらえるとき、その政治的位置がより明確な輪郭を示すことはいうまでもない。六四年の四・一七スト問題は、おそらくきたるべきより巨大な政治的破局の序曲としての意義をもつこととなるだろう。
 日本共産党から社会党への「移行者」のほとんどが、五〇年分裂と六一年分裂の関係者のなかから出ているという事実は、右の議論と日共の内部動揺とのあいだにいかに深い関連が存在しているか、を説明して余りある。つまり、日本共産党が「前衛党」としての存在理由を疑われたとき、できあいの「大衆政党」としての存在理由を、社会党のなかにみいだそうとする努力がはじまるわけである。社会党に体質的な分散主義的な組織性も、組合主義的な思想性も、経済主義的な戦闘性も、ときには議会主義的な政治性さえもが、日共の動脈硬化した官僚主義にとってかわりうる可能性のカオスをなしているようにみえる。もちろんこのような「移行者」といえども、現実の社会党=日本社民運動を全面的に肯定するわけではない。それどころか、その欠点を克服するための全体的・部分的プログラムの作成に熱中するか、社民を革命的に解体摂取するためのあらゆる「革命的」視点の確立に努力する場合の方が多いのである。
 五〇年分裂当時の「移行者」は、社会主義協会の現事務局長(水原輝雄)のようにいくぶんか党員的経歴をかくしたがるが、六一年分裂の「移行者」は、むしろ社会党への移行を共産主義者としての当然の行為であるかのようにふるまっている人が少なくない。この変化の背景には、安保闘争を転機とする日共の左翼社会における地位変動が横たわっている。
 もともと、日本における労働者運動の歴史的発展の特殊性は、社民運動の実際的形成と共産主義運動の「輸入」との時間的関係が、西欧諸国と完全に逆になっているところにある。日本資本主義の後進的出発とその急速なる帝国主義段階への発展は、経済史的には、資本主義の確立と帝国主義段階の到来とをほぼ一挙的な事態とするとともに、運動史的には、プロレタリア運動の大衆的形成をして、ロシア革命後の「ボルシェビズム」の世界史的な全盛時代のうちにむかえさせることになった。しかも、社民とボルの抗争の逆転的発展は、ロシア共産党――コミンテルンにおけるスターリン主義の勝利を国際的与件として、きわめて短時日のうちに、マルクス主義におけるレーニン的発展と「スターリン的」歪曲とが同一視されるに到る。
 したがって、日本では社民的潮流の形成は、日本共産党の脱党者、離党者を基本的軸とし、その周辺に入党恐怖者(日共への日和見主義的「区別」者)を結集する、という独特な歴史的方法をとる。このような日本的社民の出生の秘密は、日本帝国主義が社民的上層を育成するだけの経済的基盤が脆弱だという客観的事情と結合することによって、日本的社民の日共にたいする右翼的補完物としての役割を強めるものとなった。このことは、いわゆる労農派マルクス主義が、かろうじて理論的研究(しかも日本資本主義分析)において一定の成果を残したのみで、ほかにみるべきなんの実践的成果ももたらさなかったという事情と深く関連している。
 労農派を先頭とする日本的社民は、日共的運動の全面的崩壊(四九年――五〇年)をもって、はじめて日本労働運動の公認の指導勢力として登場しえたといえる。だからこそ、社民内部の左翼的動揺は、革命的共産主義の歴史的登場の日までたえず日共路線への接近と反発というジグザグをくりかえすこととなる。社民の革命的克服という課題が、共産主義運動のスターリン主義的歪曲との対決をぬきにしては不可能であることの真の日本的存在理由は、まさにこの一点にあるとさえいえるであろう。
 安保闘争の前後からはじまった第四インター系左翼と一部構改系脱党者の社会党への加入は、六二年以後に急激に展開しだす社民指導層の内部対立と、青年活動家層の総体的な左翼化と相互浸透しながら、社会党=民同の分解と再編の過程を促進する触媒項を形成する条件となった。議員、民同、労農派理論家という社会党の三大構成要素は、上層的には江田派議員、構改派系民同、構改派系脱党理論家の新系列と、佐々木派議員、民同、労農派=協会系理論家の旧系列という二大潮流に基本的に分解するとともに、このような上層的分解には包摂しえない青年活動家層の左翼化を生みだしたことは周知のとおりである。それは、中ソ対立というかたちで現出した国際スターリン主義運動の分解を国際的背景とするものであり、したがってまた、その基礎には、五八――六一年にいたる日共の二度の分裂と左翼潮流の全面的な変動が存在しているのである。
 安保闘争後の五年間の日本社民運動と、そこにおける「社会党改良」の努力の総和は、従来にもまして、日本社民運動をスターリン主義運動と結びつけるとともに、革命的共産主義かスターリン主義かという現代革命の中心問題を広範な活動家層のなかにもちこむ条件を拡大している。当初、労農派マルクス主義を「日本ばかりでなく、世界のマルクス主義戦線からいっても最高水準を行く」ものと評価して出発した解放派が、五年後の今日、労農派=協会派マルクス主義を「最悪の日和見主義」と断罪するまでに成長したのは、けっして社青同内での分派闘争の熾烈化という実践的要求からのみではあるまい。
 社民的「外皮」のもとに進行している日本労働運動上層部と下部青年活動家の総体的な左右分解は、構改派という新型の日本的社民との非妥協的な対決の必要を普遍化するとともに、「構改派的改良主義とたたかう」協会=労農派マルクス主義との政治的・理論的対決を、あらためてすべての左翼の共同の任務として提起しているといえよう。それは同時に、従来の社民運動のもとに苦闘してきた青年活動家にたいしどのような政治的・思想的・組織的展望を与えるべきか、という問題でもある。
 
 同志岸本の新著『日本型社会民主主義』は、右のような運動的・理論的要請にこたえて、労農派マルクス主義の理論と実践を全面的かつ系統的に批判し、解剖した書である。筆者は、謙虚に社民研究の先駆的著述として清水慎三『日本の社会民主主義』、小山弘健『日本社会党論』などをあげているが、これらの類書の多くが、日本的社民の「戦闘性」の合理化のためか、労農派マルクス主義の「有効性」の立証のためかに主とした関心がおかれているのに反し、同志岸本の本書は「日本的社民の存立条件をどう止揚するか」という明確な実践的立場にたっており、また、斎藤一郎の一連の著書にみられるような、従来の「社民=ダラ幹」論的な批判とはまったくちがった内面的な社民批判となっている。
 ただ、労農派マルクス主義の理論面、とくに戦前の資本主義論争に関連した三章は、もう一歩の理論的つっこみが足りないのは、せっかくの好著だけに残念な気がする。資本主義的生産関係の変革と天皇制権力の打倒の問題をめぐる日共主流と労農派の相互補完的なくいちがいは、相当に力説しており、しかもその統一原理が帝国主義段階論の確立にあることまで指摘している以上、もう一歩つっこんで国家形態、地代形態にかんする理論的解答を与えておく必要があったのではなかろうか。いわゆる日本資本主義論争の副産物として、宇野経済学と神山国家論という一定の学問的成果が生まれ、それらにかんする批判的摂取がすでにわが左翼の水準的前提となっているだけに、すこしおしい気がする。〔なお二五九ページの「価値法則と剰余価値法則を分離……」というところは「価値法則を剰余価値法則にすりかえ……」とすべきではなかったか。〕
 もう一つ。文中「前進」派なることばがひんぱんに出てくるが、これは労農派が戦後発行した『前進』という雑誌名からきたもので、いちおう労農派の同義語(正しくはその一傾向)としていいわけで、わが同盟の『前進』とはなんの関係もない。一般の読者には誤解する人もあるだろうから、いちおう注をつけておいた方がよかっただろう。
     (『前進』二七四号一九六六年三月七日 に掲載)