二 紀元節復活と日本帝国主義の危機
 
 紀元節復活の年六七年は、同時に、革命的左翼が真に偉大な歴史的台頭をとげた記念すべき年である。本稿は、十・八羽田にさきだつ半年前の時点で、紀元節という蒙昧主義的象徴の復活を強行せざるをえない日帝の体制的危機の深刻さと侵略攻撃の不可避性、日帝の帝国主義的凶暴性に恐れをなして総屈服の姿をつのらせる既成左実の腐敗の進行を鋭くつきだし、真の革命的前衛党への飛躍のための思想的拠点の一つを準備したものである。
 
 
 一九六七年二月一一日――この日を期して、日本帝国主義の反動的国家行事としての紀元節の復活が強行される。
 六五年十二月、労働者人民の抗議のこえをふみにじって日韓条約批准を強行し、朝鮮再侵略の道をあゆみはじめた日本帝国主義は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争への恥ずべき加担を強め、労働者人民への大衆収奪と労働強化の攻撃を押し進めるとともに、いままた「紀元節」復活を強行することによって政治反動の公然たる開始を宣言した。
 紀元節復活にあたってまず第一に確認しなければならない点は、この復活がまずもって「期待される人間像」に示される教育の国家主義化と相互補完関係をもって反動的イデオロギー攻撃の国家制度的支柱の確立を意味している、ということである。
 日韓条約は、日本が敗戦帝国主義から侵略帝国主義に転化した政治的画期を示すものであるが、同時にそれは、戦後民主主義の動揺=本格的な政治反動攻撃の開始を根底的に衝撃づけるものである。六三年の経済危機の深刻化は、(1)資本の集中・合併・整理と、それにもとづく合理化、労働条件の改悪、(2)独占救済のための公債経済への移行と、それにもとづく物価上昇と大衆収奪、(3)対米輸出と東南アジア進出を両側面とする海外膨脹の本格的開始を必然化したが、当然、このような諸攻撃の展開は、国内における労働者支配体制の反動的改編と結びつかざるをえない。
 戦後日本帝国主義の構造的脆弱性は、いうまでもなく、独自の勢力圏の完全な喪失と、それに対応した軍事的・政治的体制の未徹底性にあるといえよう。朝鮮戦争以来の政治反動攻撃、とりわけ安保敗北以来の階級関係のブルジョア的傾斜のなかで、支配階級の攻撃は一段と強められているにもかかわらず、軍事・政治体制の制度的改悪という側面では、いぜんとして構造的脆弱性を克服しえていない。
 このような事情は、歴史的には第二次大戦における日本帝国主義の軍事的敗北と、国際帝国主義の戦後的延命・発展とを前提としたものであるが、それは同時に、戦後日本階級闘争の具体的展開によっても政治的に規制されているものである。したがって、観念的に設定された戦後世界民主主義体制なるものの直接的展開として戦後日本の政治体制を規定することは、無用な混乱をもたらすだけで、なんの実践的意義をも示しうるものではない。
 ところで、戦後世界体制の動揺と、日本経済の構造的不況の深まりは、戦後日本帝国主義の歴史的な脆弱性を一挙に非和解的なものに転化した。日本帝国主義の体制的危機は、まさに、戦後日本階級闘争によって歴史的に規制されていることを決定的な条件としているものであり、また、この点にこそ、日本帝国主義が戦後世界体制の動揺の集中的環としての性格を不可避にせざるをえない最深の要因があるのである。
 したがって、われわれは、紀元節復活を突破口とする政治反動攻撃の激化を、日本帝国主義の体制的危機をかけたきわめて凶暴な性格をもったものとして評価しなければならない。紀元節復活の攻撃は、侵略帝国主義としての発展を内的に支えようとする反動的ナショナリズムの制度的支柱の確立を、「期待される人間像」や学制改革に象徴される公教育の国家統制を一方の踏み台として強権的に実現し、それを国家主義的テコとして、戦後日本に伝統的な政治的・社会的意識を強権的に再編成しようとする、このうえなく凶暴な性格をもっているのである。
 紀元節復活にあたって第二に確認しなければならない点は、日本帝国主義が国民の反動的統合の国家主義的支柱として紀元節のような蒙昧主義的象徴しかもちあわせていないということである。
 明治の初年、紀元節制定に関連して、オーストリアの反動的憲法学者シュタインは、「神代以来帝室に密着せし神道は、御国にては、国体を維持するに必要なるを以て之を宗教に代用して、おのずから宗教の外に立ちて、国家精神の帰するところを示すべし。之を尊奉するには、帝室において誕、婚、喪、祭、祝賀、軍旅等すべて固有の礼を以て行い、人民をして知らず知らずこれに帰依せしむること特に肝要なり」と日本高官に進言したといわれるが、戦後日本帝国主義は、その体制的危機を反動的に突破するために、シュタイン以来の政治的蒙昧主義に最後のイデオロギー的支柱を求めはじめたのである。
 周知のように、紀元節は、日本書紀に神武天皇即位の日として「辛酉正月庚辰朔」と記されてあるのを一応の歴史的根拠としているが、それはつぎの二つの理由においてまったく無意味なものである。
 第一の理由は、神武天皇神話そのものが完全なる政治的作文であることである。もちろん、日本書紀が、古代日本の専制的支配者たちの政治的伝承たる帝紀および本辞を典拠として作成された以上、古代日本にかんする一定の伝承を反映していることは否定しえない。だが、崇神以後は科学的批判という面から検討の必要あるとはいえ、それ以前の皇紀が一片の科学的根拠すらもっていないこともまた、今日では学問的常識である。もともと、神武即位の日なるものは、中国の辛酉革命説をもとに推古帝九年(西暦六〇一年)を二一元(一二六〇年)上積みしたもの(西暦前六六〇年)であるが、暦法が定ったのが中国では春秋後二六四年(西暦前二一四年)、日本では推古帝一一年(西暦六〇四年)であることからしても、西暦前六六〇年に即位したという記述そのものが、この神話の人為的性格を暴露している。
 記紀の神武天皇伝承なるものは、天武天皇一〇年(西暦六八二年)に記定した帝紀および本辞を基礎に養老四年(西暦七二〇年)に撰上された日本書紀にもとづくものであり、したがってまた、それは、古代王朝の高揚と危機のなかで、天皇制強化の要請にもとづいて編述されたものなのである。
 第二の理由は、天皇制強化のためのこのような努力にもかかわらず、奈良朝末期以後、古代天皇制伝承なるものは、民衆の意識はもちろんのこと、貴族階級の内部でも形骸化してしまっており、明治政府が暴力的に強制するまで民衆的意識表象には無縁なものになっていたことである。それゆえ、ギリシャ神話や宗教的起源と比較すること自身がどだい無理な話である。
 もちろん、皇国史観なるものは完全に消滅してしまったというわけではなく、中世以後、新興武士階級や新興仏教(とくに浄士宗)にたいする貴族や旧王城仏教(天台、真言宗、南都諸宗)僧侶の反動的イデオロギーとしてそれは継承されてきたが、それにしても、例の神皇正統記の北畠親房すら「神武即位は神代のこと」として現世の歴史と区別していたほどであった。いわゆる神国思想が一定の民衆的影響をもちだすのは、幕藩封建制の崩壊期になってからであるが、本質的には、徳川封建制とその官学=朱子学にたいする直接的対立物として、古代日本の「自然主義」が憧憬されたものにすぎない。本居宣長を頂点とする国学の興隆と、その急激なる反動化は、徳川封建制の崩壊過程との関連においてのみ正しく位置づけることができる。
 したがって、明治政府における皇国神話の暴力的強制は、百姓一揆を背景として徳川幕藩体制を打倒しながら、欧米諸列強との対抗上、国家財政資金をもって基幹産業を強行的に振興しなければならない、という日本資本義の成立の特殊性を基礎とするものであった。日本ブルジョアジーは、紀元節に象徴される政治的蒙昧主義をもって、明治以来の高蓄積とそれにもとづく政治的動揺を暴力的に解決しながら、帝国主義列強間の世界的闘争に参加していったのである。そしてその過程は同時に天皇制絶対主義を政治的テコとして資本の本源的蓄積を遂行し、かくして形成された金融資本を基礎にして、天皇制絶対主義を内から天皇制ボナパルティズムに変容させる過程でもあった。
 戦後、日本帝国主義は、戦後革命の激動をいわゆる寄生地主層の犠牲のもとに制圧し、天皇制ボナパルティズムから議会制民主主義への統治形態の転換をはかりながら、国際帝国主義の戦後的な延命と発展を前提として、重化学工業化の道をあゆんできた。だが、内外の諸情勢の変化のなかで戦後的成長が壁にぶちあたったとき、ふたたび、紀元節といった政治的蒙昧主義と結合せねばならないところに日本帝国主義の戦略的脆弱性と、そこから不可避化する政治反動攻撃の凶暴的性格があるといえよう。
 紀元節復活にあたって第三に確認しなければならない点は、紀元節が、たんなる反動イデオロギー攻撃のみならず、小選挙区制――七○年安保再改定に集約される政治反動攻撃の文字通りの突破口をなしているということである。
 社会党および共産党は、六六年春の国会において自民党が祝賀法案を強行採決したとき、これにたいする反対闘争を院内外でともに放棄し、祝日問題審議会の答申にもとづく政府決定という最悪の方法をもって対応したのであった。五七年に建国記念日問題が生起したとき、院内外をとおして反対闘争を展開した社会党・共産党は、一〇年たった今日、かくも無残な後退を示したのである。
 このような社共の政治闘争の無力化は、けっして既成指導部の戦術的誤謬に帰結しうるものではない。それは、一方では、既成左翼指導部の六〇年安保以来の底しれぬ後退と堕落を意味するものであるが、他方では、それは、日本帝国主義の体制的危機をかけた政治反動攻撃の激しさをも意味しているのである。したがって、日本帝国主義の政治反動攻撃との闘争は、必然的に、日帝への思想的屈服を深める既成左翼指導部をのりこえるものとして意識的に追求されねばならない。
 総選挙における社会党、共産党の惨敗と、民社党・公明党の第二与党的登場は、佐藤自民党政府の居座りと新たな反動攻撃の展開を不可避にしている。佐藤自民党政府は、自民党を基軸とした伝統的政治体制の根底的動揺をより露骨な政治攻撃をもって暴力的に解決しようとしているが、それは同時に、あらたな政治的激突を準備せざるをえないであろう。小選挙区制――安保再改定を基本的対決軸とする日本階級闘争の激動は、うたがう余地のない確かさで近づいている。紀元節の復活はその国家制度的突破口以外のなにものでもない。
 したがって、われわれは、紀元節問題のもつ反動的意図を、日本帝国主義の体制的危機との関連において徹底的に暴露するとともに、紀元節復活に反対する闘争を自己完結的に提起することなく、小選挙区制――安保再改定を基軸として、砂川基地拡張・原子力空母寄港・消費者米価値上げ・国立大学費値上げなど、佐藤自民党政府の具体的な諸攻撃と結びつけてうちだしていくことが必要である。
 紀元節復活をめぐる階級関係は、むしろ、日本帝国主義の構造的脆弱性を露骨に示している。戦前はいざ知らず、戦後民主主義を政治的揺籃として育った日本労働者階級の主力は、自己の紀元を蒙昧のうちにしか表現しえぬ日本帝国主義にたいして、けっして屈服することはないであろう。日本建国の日は、ただ、国家の死滅の展望をそのうちに内包した労働者国家の樹立という形態をとって実現されるにちがいない。それは、紀元節という国家主義的行事とのたえざる対決をも政治的・思想的契機とした日本帝国主義打倒のたたかいのうちに現実の起源をもっている。
      (『前進』三二〇号一九六七年二月六日 に掲載)