天皇制的圧制の象徴としての紀元節
 
 六五年日韓条約締結をまえに急速に強まってきた日帝・佐藤内閣による紀元節復活攻撃との対決基軸を明示した重要論文である。天皇制ボナパルティズム論にかんする著者の不朽の理論的考察(本選集第二巻参照)を基礎に、後進(後発)帝国主義日帝と天皇制との独特の結合関係を歴史的にあとづけつつ、ふたたび朝鮮――アジア侵略にのめりこむ日本帝国主義の危機と攻撃の本質をえぐりだした論考である。
 
 
 二月一一日(一九六五年)、内山神奈川県知事は、県職労をはじめとする労働者人民の反対をふみにじって、紀元節復活を公式の行事として強行した。佐藤内閣は、このような「下から」の動きと呼応して紀元節(建国記念日)復活の意向を公然と宣言し、今国会における強行採決を虎視耽々と狙つている。
 佐藤内閣のこの紀元節復活の動向は、原潜寄港・日韓会談など一連の帝国主義的政治反動の一環であり、労働者人民の反戦・反権力の背骨をたたき折り、日本帝国主義の侵略と抑圧、搾取と収奪の政策への全面的降服を要求する超反動的な政治・思想攻撃である。われわれは、紀元節復活の動向の急激な緊張について、日本帝国主義の攻撃の質的転換を明確に示すものとして、その重大な政治的・思想的位置を評価せねばならない。まさに紀元節復活は、日帝の南朝鮮再侵略の政策としての日韓会談と表裏一体をなす国内政治反動である。
 事態は重大であり、情勢は緊急である。だが、社会党、共産党などの既成指導部は、紀元節復活問題のもつ決定的な位置についてまったく無感覚である。社会党は、議会における反対活動すら完全に放棄している。共産党は、『アカハタ』(二月七日)の日曜論壇という小さいコラムで的はずれな論評を加えただけで動こうとすらしない。現在のところ、紀元節復活にたいする反対の動きは、神奈川県職労など一部の関係労組と国民文化会議など若干の知識人のみに限られている。
 戦後革命の敗北の副産物としての戦後民主主義にかんして、それを天与の条件か、せいぜい戦後民主革命の獲得物としてしか理解してこなかった社会党、共産党の指導者たちは、日本帝国主義の発展の質的転換のなかで(戦後民主主義と日本帝国主義の矛盾)がいまや深刻な危機的段階を迎えはじめていることにすこしも気づいていないのだ。われわれは、春闘・原潜・日韓などの闘争に結合しながら、独自に紀元節復活阻止のたたかいを強めるために奮闘するとともに、戦後民主主義と日本帝国主義の矛盾の激化のもつ意味を日本プロレタリア革命との関連において全面的に分析し、帝国主義的政治反動とのたたかいの綱領的基礎を明確にしていかねばならない。
 紀元節は、戦前における天皇制的圧制の歴史的象徴であり、したがって日本帝国主義の凶暴性と超反動性を示す政治的象徴であった。
 従来、イギリス、フランス、アメリカなどの先進帝国主義は、栄光革命、一七八九年のフランス大革命、独立戦争・南北戦争など旧勢力とのブルジョア民主主義革命を「国民統合」の国家的象徴としており、ブルジョアジーの若き日の「人間解放」の情熱をもって帝国主義の侵略と抑圧・搾取と収奪を美化し、隠蔽してきた。だがドイツ、ロシア、日本などの後進帝国主義は、世界資本主義が自由主義段階から帝国主義段階へと転化しはじめた時代に資本主義的発展の階梯をのぼりはじめたのであり、したがって、その資本主義的発展の初期から帝国主義的資本主義としての傾向を強くもっており、政治的にはブルジョア革命の課題をきわめて不徹底に追求しながら、帝国主義段階と複合的に照応した統治形態を持った。ドイツのビスマルク主義、二〇世紀ロシアのストルイピン主義、日本の天皇制ボナパルティズムは、このような複合的統治形態の典型である。
 明治維新を起点に飛躍的に発展した日本資本主義と日本ブルジョア階級は、明治維新によって成立した天皇制絶対主義との革命的闘争を不徹底かつ未完成の段階で放棄し、逆に天皇制絶対主義のもとで発展した尨大な官僚制・警察・軍隊とゆ着し、内部から変質させ、その凶暴な政治支配と強度の資本蓄積を保障した。したがって、日本帝国主義は、イギリス、フランス、アメリカなどの帝国主義のようにブルジョア的出生証明書をもたず、徳川幕藩体制・天皇制絶対主義との質的変化を可能なかぎりあいまいにしながら成立した。天皇制絶対主義の周辺にまとわりついていた前近代的な不合理主義と神秘主義は、その誕生とともに凶暴な政治支配を必要とし、大陸諸国への侵略戦争を成長の起点とし、極点としてきた日本資本主義にとって、恰好のイデオロギー的藩併であった。
 もともと、日本古代にたいする幕末の志士たちの憧憬は、その直接的な物的基礎を、徳川幕藩体制(封建主義)にたいする下級武士、草奔(前期ブルジョア階級)、農民の不満と反抗、迫りくる欧米列強の圧迫にたいする国民的統一のイデオロギー的支柱の必要においていたのであり、断じてその逆ではない。本居宣長をはじめとする国学の発展は、徳川封建主義の公認のイデオロギーが朱子学的な儒教にあったことと無縁でない。日本古代にたいする探究のなかには、あきらかに記紀的な天皇制神話のゆがみの背後に近代思想の前提が準備されていたのであり、そこには萌芽的であれ、原始共産主義への憧憬すら示されていた。だが、明治維新と天皇絶対主義の成立は、儒教的、仏教的な封建制イデオロギーにたいする国学的批判を記紀的な天皇制神話にすりかえ、神道的非合理主義の開花をもって徳川封建制との闘争の不徹底さを糊塗したのであった。そして、他方、日本ブルジョア階級はいっさいのブルジョア革命的幻想をはじめよりもたず、前期商業資本的な貪欲さと非情さで資本蓄積の一本道をつっぱしったのである。
 明治四年の神武天皇祭の設定、明治五年の「建国の日」(紀元節)としての神武天皇即位の日の制定は、明治専制政府を「万世一系」という天皇制的神話でもって絶対化しようとする反動的試みであったが、東京市民をはじめ国民の多くは、天照大神を主柱とする伊勢信仰は認めても天皇の「万世一系」の神話は認めず、天皇を京都の小大名の成り上りぐらいにしか考えていなかった。だが、紀元節を軸とする皇国史観の国家的強制と学校教育は、明治一〇年代の自由民権運動の敗北をとおして天皇制イデオ。ギーの定着をもたらした。日本資本主義とブルジョア階級は、このような「前近代的」な天皇制イデオロギーとの正面からの衝突を避け、逆に帝国主義への強行転化のためのイデオロギー的テコとしてもっとも「現代的」に対応したものである。
 したがって、天皇制的圧制とその反動イデオロギーとの闘争は、日本資本主義=帝国主義との闘争の不可分の一環として、その核心的課題をなしていたのであり、日本古代などにかんする学問的探究は、それ自体として天皇制権力のイデオロギー的根幹を動揺せしめる危険をつねに秘めていたのである。それゆえ、津田左右吉を一項点とする日本古代にかんする学問的探究は、天皇制ボナパルティズムの有形無形の政治的圧迫をはねのけて、記紀を典拠とする天皇制神話の虚偽的ベールをひきはがすという学問的に真に勇気を要するたたかいであった。近代日本におけるデモクラシーと学問的合理主義の発展は、日本帝国主義との先鋭な矛盾を生みだすことなしにはありえなかった。
 共産党の二段階戦略の誤謬は、日本帝国主義と天皇制権力との有機的・複合的な照合関係を認識しえず、後者との闘争を前者との闘争と段階的に分離する反弁証法的な戦略にあったのであり、一方、労農派の日本資本主義論の決定的弱点は、日本ブルジョア階級の政治支配が天皇制権力を複合的に媒介しているという明白な事実にたいする一貫した無視(日和見主義の原則性?)にあった。紀元節復活という形態で日本帝国主義の政治反動がきわめて鮮明に再登場しようとしている今日、われわれは、戦前の日本帝国主義における紀元節問題の意義の政治的・理論的な解明のうえにたって、さらに戦後日本帝国主義における紀元節復活の動向のもつ意味を具体的に検討していくことが必要である。
 日本帝国主義の中国侵略を導火線にして勃発した第二次世界大戦は、尨大な人命の損傷、そして巨大な富と文化の破壊ののちに、日本帝国主義の敗北をもって終結した。大陸侵略を発展の跳躍台とし、天皇制的統治形態を支配の安全装置としてきた日本帝国主義は、この敗戦の結果として植民地と海外権益のいっさいを喪失し、国内政治反動の牙城としての天皇制ボナパルティズム権力の崩壊という政治的危機をまねいた。
 敗戦直後の日本階級闘争は、あきらかに前革命的情勢にあった。ポツダム降伏は、人民的=労働者的反乱による戦争の終結という革命的路線にたいする反動的な予防的反革命であった。天皇制の存続にかんする執拗な連合国側との折衝は、日本帝国主義の歴史的な政治支配体系の崩壊にたいする日本ブルジョア階級の根深い恐怖を示していた。だが、戦時総動員態勢の解体にともなう日本資本主義経済の混乱と疲弊、生産停止と食糧危機、失業と復員、インフレと闇市場――こうした未曾有の社会的危機のなかで、自然発生的に激発した生産管理闘争(都市)と土地解放闘争(農村)の高揚は、一瞬にして天皇制ボナパルティズムの支配機構をマヒさせ、ブルジョア階級の政治的同盟者としての地主階級を完全に無力化してしまった。
 問題は、このような都市と農村における自然発生的闘争にたいして、どのような革命戦略と組織戦術が与えられるべきか、という一点にあった。だが、「戦争と天皇制に一貫して反対してきた」という一枚看板で登場した日本共産党は、アメリカ占領軍を「解放軍」と美化し、当面する革命の課題を「民主革命」と規定し、社会主義革命とのあいだに万里の長城を築いた。ブルジョア階級の生産停止と資材インフレにたいする労働者階級の自然発生的な生産管理闘争は、あくまで「資本家が責任をもって生産を再開するまでの民主的強制手段」としての枠をこえてはならないとされた。
 新憲法は、このような戦後の前革命的情勢をのりきるために、労働者階級の綱領的敗北による階級情勢の中間的停滞をついて、アメリカ占領軍の軍事力と生産力を唯一の支柱として提出された。
 アメリカ帝国主義と日本ブルジョア階級は、伝統的地主階級の犠牲のうえに土地改革を遂行することによって、農民と労働者階級との結合を切断し、ブルジョア政治史上まったく類例をみない広範な政治的自由を約束することによって、労働者階級と都市住民の革命的高揚を「ブルジョア民主革命」の規範のうちに封じこめようとした。新憲法に反映している極大な政治的自由は、アメリカ占領軍によって「与えられた」ものではなくして、逆に、戦後の革命的情勢において現実に力でもぎとった権利と自由を、ただ承認したものにすぎないのである。だからこそ、ポツダム政令というかたちで提示されたアメリカ占領軍の政治的強制は、一貫して日本プロレタリア運動の前進を阻止し、その政治的権利を奪う方向に作用したのである。
 戦後におけるこのような革命と反革命の力学は、天皇制イデオロギーをめぐる全国民的闘争として、より深い陰影をもって反映している。
 四五年八月一五日の「玉音」放送から四六年一月の「人間天皇」宣言、そして同年十一月三日の憲法発布による「国民統合の象徴としての天皇」という決着にいたる過程のなかで、天皇制にかんするイデオロギー的状況は激しく揺れ動いた。この間、四五年十二月二五日の大正天皇祭をはじめ、翌年二月二日の紀元節は、天皇一家の行事となり、このような神道的祭祀と国家との分離が進行した。すでに軍隊はなく、そのうえ弱体化した警察、官僚機構のうえに裸で政権につかねばならなかった日本ブルジョア階級は、天皇制ボナパルティズムの現実の崩壊のうえにたって、天皇の政治的権限をほぼ儀礼的なものにまで制限し、人間天皇としての側面を強調することによって、天皇制的圧制にたいする批判を弱め、逆に、国民のあいだに存在する皇室への宗教的畏敬を徹底的に動員して、資本制権力と私有財産の防衛の最後の政治的支柱とした。
 当時労働者階級の内部には、生産管理闘争から二・一ストにいたる階級闘争の現実的発展のもたらしたイデオロギー的変動と、数十年にわたる天皇制教育の累積したイデオロギー的複合とのあいだに深刻な政治的・思想的亀裂が生じていた。日本共産党は、日本帝国主義と天皇制的圧制、日本ブルジョア階級と天皇制ボナパルティズム権力との有機的・複合的な関係を総体として暴露し、そのうえにたって労働者権力の展望をうちだしていくという革命的立場にたちえず、天皇制打倒をただただ宣伝するという愚劣な戦術を強行することによって、天皇制イデオロギーの重層的な壁に直角に衝突し、敗北した。社会党と労農派は、このような政治的・思想的亀裂のうえで、ブルジョア権力と「民主革命」の間を右往左往しただけである。
 かくしてアメリカ占領軍を強権的支柱とし、徹底した議会民主主義と比類なき広範な政治的自由の「約束」のうえに、素裸で権力の座を確保した日本ブルジョア階級は、ブルジョア経済の復興と発展のためにありとあらゆる方策をうちだすとともに、ポツダム政令をタテに「与えすぎた自由」をとりかえし、支配機構をたてなおすために全力を傾注した。反動が始まった。四九年――五〇年のレッド・パージと六・六追放は、三五議席に有頂天の日本共産党を叩きのめし、労働者階級の組織的権利をずたずたにした。だが、このような「逆コース」は、五二年の講和発効後、カベに直面した。日本帝国主義は、労働者階級への弾圧の法的根拠を主として占領軍政策に依拠していたため、講和発効すなわち、軍事占領状態から条約的関係への転換によって、かえって帝国主義的政治支配のため法制的基礎に空隙を生みだしてしまった。そして、このような政治的、法制的空隙は、総評を「ニワトリからアヒル」に変化させつつあった日本労働者階級にきわめて有利な政治的条件をもたらした。
 五二年の破防法制定から六一年の攻暴法流産にいたる約一〇年間の政治過程は、このような空隙を埋めようとする帝国主義的政治攻撃と、それを阻止し「新憲法」的政治権利を防衛しようとする労働者的=大衆的政治闘争の攻防の歴史であった。五〇年の朝鮮戦争ブーム以来の日本資本主義経済の上昇発展と、五三年以来の東西「世界」の平和共存的発展を客観的条件とするこの攻防戦は、日本帝国主義の復興、発展にともなう資本の社会的強大化を傾向的にうみだしながらも、多くの場合、ブルジョア権力の迂回によって、最後的局面まで進展しなかった。五九年――六〇年の安保闘争は、国際条約の改定という一方的変更の困難な政治課題のために、対決を極限までおしあげることによって、戦後日本帝国主義と戦後日本民主主義の総体のもつ危機的本質を赤裸々にした。
 日韓会談を跳躍台とする日本帝国主義の東南アジア再侵略の開始、日本資本主義経済の構造的危機の深化、そして現代世界の構造的変動の激化――こうした国際的・国内的条件の発展は、日本帝国主義の政治攻撃の質的転換を不可避としている。日本帝国主義の発展の質的転換は、日本労働者階級と人民大衆の内部に根深く存在している反戦・反権力の契機との矛盾を深化させ、戦後民主主義の存立条件をますます先鋭なものにしている。「平和と民主主義を守れ!」と叫ぶことは容易である。だが、帝国主義の発展と無関係に「平和」や「民主主義」が存在しうると考えている社会党・共産党指導部のカウツキー以下的理論では、肝心の平和と民主主義を守りえないところまで事態はすすんでいるのだ。
 紀元節復活の動向は、朝鮮再侵略の政策としての日韓会談と表裏一体の国内政治反動の一環である。だが、国民をイデオロギー的に統合する象徴としてこのような低劣な神道的祭祀しかかつぎだしえないということは、日本帝国主義の政治構造の脆弱性を明示している。戦後民主主義をめぐる激しい階級闘争をゆりかごにして成長した日本労働者階級の若い世代は、このような政治反動を許さないばかりか、政治反動を必然化する日本帝国主義にたいする階級的姿勢を強めるであろう。
 安保闘争を分水嶺とする戦後階級闘争の苦しみにみちた壁をつき破り、日本革命運動の階級的転換をきりひらこうとする(第三の革命的潮流)は、四・一七ストから原潜・日韓のたたかいのなかで、いたるところで登場しはじめている。
 われわれは、帝国主義的政治反動の急激な発展を明確に直視するとともに、紀元節復活というかたちで露呈した日本帝国主義の構造的脆弱性を世界史的意義でとらえ、日本革命の基本的動向を全階級のまえにあきらかにしていかねばならない。日本的非合理主義の死は、日本帝国主義の死を準備するたたかいとともにはじまるのだ。
       (『前進』二二一、二二二号、一九六五年二月一五、二二日 に掲載)