中ソ論争と現代革命の展望
 
 本論文は、一九六三年十月四日の革共同集会の基調講演として準備され、『前進』一五四号(十月七日)から四回にわたって連載されたものに加筆し、『共産主義者』第九号に発表されたものである。一国社会主義論にもとづく平和共存政策のもと、破産が必至だった中・ソ両国のあいだに、本格的亀裂が生じた状況下にあって、反帝・反スターリン主義世界革命戦略の立場から、この対立を全面的に解明し、現代革命の展望を力強くうちだしたものとして、広く世の注目を集めた記念碑的論文である。中ソ対立のショックのもとに、判断停止状況にあったわが国のイデオロギー状況にたいし、革共同の輝かしい理論的高みを示した論文として歴史的なものである。
 
 
A はじめに――中ソ論争と労働者階級
B 論争点の批判的解明
    (a)現代における平和と戦争の問題/(b)現代革命における先進国革命と後進国革命の役割と関連について/(c)プロレタリア独裁と「社会主義」建設の問題
C スターリン主義と世界革命
    (a)世界革命の挫折と一国社会主義論の登場/(b)スターリン主義と革命ロシアの変質
D 毛沢東主義と現代革命
    (a)後進国革命と二段階戦略/(b)中国革命と労働者権力/(c)連続革命論と「社会主義的」工業化/土地改革と農民の集団化/(e)工業化と労働者階級/(f)中国社会の危機と毛沢東主義
 
 
 A はじめに――中ソ論争と労働者階級
 
 ごくさいきんまで日本共産党は、『アカハタ』などで中ソ論争は実際には存在しない、ブルジョア新聞の、ためにする陰謀的な報道だと主張してきました。六三年春の日共五中総ではわざわざ特別決議までして<中ソ論争>を否定しようとしました。だが、原水禁広島大会以来、そうともいっていられないようになってきています。今日では中ソ論争が存在することは明白な事実です。われわれにとって当面する関心事は、中ソの「指導者」が相互の政策をイデオロギー的に非難しあうという論争から出発して、現在では中ソ間のあの長大な国境線をめぐる紛争にまで発展していることです。つまり、社会主義国家と自称しているこれらの国々が、実際に、ここまでが俺の領土なのだ、などと盛んに主張しあっていることです。
 約一ヵ月ほどまえに『朝日新聞』にのったある外人記者の記事のなかに、中国共産党の発行した教科書にのっている歴史地図が紹介されていましたが、それによると、清朝の隆盛期の版図をほぼ固有の領土としており、今日の国境線はつぎつぎと行われた帝国主義の侵略の結果だというのです。ところがその版図たるや朝貢する「属国」をすべて内包しており、今日のソ連領のシベリア・コーカサス地方の大半、ビルマ・タイ・インドシナ・マラヤ・琉球を含む大変なものです。なお、毛沢東は、一九三九牛十二月に執筆した「中国革命と中国共産党」という論文のなかで<帝国主義列強は、中国周辺のもと中国によって保護された国家を占領しただけでなく、中国の一部の領土をかすめとったり、「租借」 したりした>(三一書房版「選集」第四巻一七二ページ・ゴジは筆者)と主張していますが、前のゴジックの部分は、後のゴジックの部分と区別されており、あきらかに中国歴代王朝時代の属領を意味しています。すでに日中戦争のさいちゆうにおいてすら、毛沢東の「マルクス・レーニン主義」はかくも民族主義的に退廃していたのですから、今日の北京官僚が北朝鮮、インドシナ、チベット、モンゴールなどを属領あつかいするのも当然です。
 約一世紀前に、エンゲルスは、ドイツとフランスのあいだで今日でも紛争案件となっているルール工業地帯の帰属問題についてこういう紛争は基本的にはブルジョアジーが自己の階級支配を強化するためのテコであり、社会主義のドイツと社会主義のフランスの間にはルール問題はおこらないだろうといっています。ところが、現実の「社会主義」中国と「社会主義」ソ連のあいだには領土紛争すら存在している。これはいったいどうしたことなのか? どこかがおかしいのではないか?いまわれわれは本当に考えなおさなくてはならないときにきています。
 日共や社会党の諸君は、今日の中国やソ連は社会主義だと思っている。しかし、中ソ論争の現実は、こうした考え方を根本的に再検討すべきことをはっきり示しています。このことは、一部の先進的プロレタリアのなかだけでなくて、きわめて広範な労働者のなかに生まれかけている疑問であることをはっきりとみておく必要があります。
 さいきん、あちこちの組合で民同のダラ幹がソ連大使館発行の文書を配布するという状況がでています。いままで『社会新報』もロクにくばっていなかった連中がです……。ところで、この事実がなにもダラ幹や社会党の諸君の左傾化を意味するものでないことはいうまでもありません。問題はまさに逆なので、これらの文書がダラ幹や社会党の反労働者的な行動を隠蔽する煙幕として格好なものだということです。つまり、わが社会民主主義者どもは、自己の労資協調路線を美化するためには、平然と「社会主義ソ連」の権威すら利用するほど狡猾になっているのです。
 他方の日本共産党はどうかというと、さきほどもいったように、五中総の決議でわざわざ中ソ論争などはブル新のデッチあげだなどと確認している始末で、論争の内容についてなにひとつ自己の見解を明らかにしていません。それでも、広島大会の過程をとおして社会党――ソ連代表への対抗上から中共色をかなりはっきりさせてきています。だが、それも上からのなしくずし的な官僚指導をとおして政策化したものをおろすだけで、けっして明白なイデオロギー的・政治的討議を組織しようとしない。それどころか、判断停止的なこういう状況を「公然たる論争を停止せよというわが党の終始一貫した主張」の正しさなどと謳歌しているのですから、その奴隷根性と無思考ぶりはその極に達したというべきでしょう。
 ただわれわれが注意しておかねばならないことは、中共式の反米民族闘争があたかも世界革命路線であるかのごとくブルジョア宣伝家や構造改革派の評論家たちがわめきたてることから、逆に民同の右傾化コースに反発する労働者のかなりの層、いやそれどころか、いままで日共の政策と指導に不満と感じていた左翼的労働者の一部までもが、中共路線に接近するという状況が部分的に生まれていろことです。しかし、いかに主観的に革命的たらんと決意していたとしても、中共路線にたいするこのような追従は日本革命運動の危機を深めこそすれ、けっして未来を約束するものではありません。ソ連の政府指導者たちのあまりにも露骨な帝国主義との抱擁は、中国共産党の「批判」の正当性を証明しているかにみえます。だが、それはあとで追究しますが、うわべだけのことです。
 かつて向坂逸郎は、日共を批判する際に<自分の肩の上に自分の首をのせておかねばならない>などとしやれたことをいいましたが、その向坂も含めて日本のほとんどすべての社会主義運動の既成の指導者たちは、中ソ論争のいずれかの立場を選択することで社会主義の基本的原理を獲得しうるかのように考えています。こういう頑迷で情けない奴隷根性を徹底的にたたきつぶさなくてはならないのです。
 すでに国家的分裂にまでに進展しつつある中ソ論争の現実にふまえて、労働者階級はいかなる教訓をここからひきだすべきか、という問題にたいして、われわれはいまこそ全面的に答えねばならないのです。革命的マルクス主義の光で中ソ論争をくまなく照明するということは、同時に、現に今日も再生産されている賃労働と資本の階級闘争の総体的過程を現実的基礎として、中ソ論争的な現実を現実的に揚棄していくことだと思います。中ソ論争を根本的にうち破り労働者的立場を確立していく現実的根拠は、じつに、資本家的搾取を労働者的に揚棄せんとする労働者階級の現実的な階級闘争です。
 
B 論争点の批判的解明
 
 中ソ論争は、ほぼ、(1)現代における戦争と平和の問題、(2)現代革命における先進国革命と後進国革命の役割と関連の問題、(3)プロレタリア独裁と社会主義建設の問題の三点をめぐつて集約しうるといっていいと思いますので、ここでは主として中国共産党の「国際共産主義運動の総路線」という論文を検討することをとおして、右の三点の問題性を解明するという方法をとることにします。
 
 (a) 現代における平和と戦争の問題
 
 この問題にかんする中国共産党の見解を要約すると、@戦争には正義の戦争と不正義の戦争があること、A帝国主義の存続する条件のもとでは完全軍縮は現実に合わない幻想だ、B平和を愛する人民と国家の闘争に頼らねば平和を力強く守り抜けない、C核兵器は現代世界の基本矛盾を解決しえないこと、D平和共存の政策はレーニンの偉大な発見であり、フルシチョフの私物ではない、ということになります。
 これにたいして、ソ連共産党は「核戦争の廃墟のうえに社会主義を築こうとするものであり核戦争を阻止するための努力こそすべてに優先する共産主義の任務だ」と答えているわけで、つまり、フルシチョフは、核兵器の巨大な技術的発達と現代的な核戦争の脅威を強調することによって、一方では、帝国主義をうわまわるソ連の核兵器の製造を「平和の武器」として合理化するばかりか、他方では、全世界のプロレタリアートにむかって、革命的手段によるいっさいの現状変革の中止を要求し、核戦争がいやなら現状維持で我慢せよ、と脅迫しているのです。
 ところで、このように対比して説明しますと、いかにも中国共産党はソ連共産党の政策に根本的に対立しているようにみえますが、じつはそうではないのです。というのは、中国の主張を具体的に検討していくとすぐわかることですが、平和を守る終局的力についてフルシチョフと完全に同じ判断と考えをもっているということです。
 つまり、フルシチョフとソ連の政治官僚は、ソ連の一国社会主義を防衛するためには帝国主義との全面的な協商が必要であり、そのために帝国主義よりも決定的に強力な核兵器を保持することが必要だ、という考えにたっている。だから、日本で原水禁大会が開かれているさいちゆうに平気で核実験を行なうようなことがおきるのです。フルシチョフは、もう人間を信頼することができず、資本の生産力の破壊力としての発達の今日的な頂点である核兵器にすべてを託す、という状況にまで転落してしまっています。
 中国共産党の主張は、このようなモスクワの指導者たちにむかって、帝国主義への哀願ではだめで人民の平和の闘争のみが平和を守りうるといっており、あたかも左翼的批判のようにみえます。もちろん、核兵器が本来的にはブルジョアジーが自己の搾取と抑圧を維持するための階級的兵器であることはいうまでもありません。だが、今日の問題は、帝国主義の核兵器にたいしてソ連の政治官僚が核兵器の強化で対抗するという権力政治の論理にまきこまれていをことにあるばかりか、ほかならぬこのソ連の核兵器が、ソ連官僚の手中の武器として官僚的圧制に反逆する労働者人民にむけられているということです。しかもソ連の政治官僚による核兵器の熱病的な製造と蓄積は、ソ連の官僚制的国有経済における生産手段の生産と生活手段の生産の前者に不当に大きな比重のかかる不均衡的発展をさらに決定化し、ソ連の労働者・農民の生活に巨大な重圧となってのしかかっています。
 だが、中国共産党はこのようなソ連核兵器の内的本質について指一本ふれようとしない。なぜなら、このような問題性の解明は、ほかならぬ中国共産党指導部の官僚的本質と実体を暴露してしまうからであるといえるでしょう。だからこそ、中国の政治官僚は、口先では人民の力とかなんとかいいながら、実際には部分的核停条約の評価で自己暴露したように、核兵器を米英ソの三国が独占したことを不満として「中国は百年待って核兵器を製造する」という驚くべき声明を発することになるのです。
 ところで、中国共産党の「第三次世界大戦が起ったならば、六億の中国人民は生き抜くばかりか、それは帝国主義の最後の日となるであろう」という冒険主義的な戦争論は、核戦争に反対し社会主義革命のためにたたかう全世界の労働者階級にとってきわめて有害なものです。なぜならば、われわれにとって唯一の実践的問題は、核戦争の結末がプロレタリア革命の「勝利」に転化するかどうかという客観主義的な予想にあるのではなくて、じつに、反革命的な核戦争を阻止するためにいかにたたかうかという一点にあるからです。核戦争の危機は、現状維持を要求する官僚フルシチョフの恫喝とはまさに逆に、核戦争を必然化する現代世界の危機的構造のプロレタリア的な変革をますます不可避としています。プロレタリアートを主体とする反戦のたたかいのみが核戦争を阻止しうる唯一の道です。そして、核実験に反対し核戦争を阻止するための、プロレタリア的反戦闘争の前進と拡大のみが、核戦争の危機をプロレタリア革命の勝利の条件に転化しうる力です。したがって、帝国主義とスターリン主義の二重の支配を転覆し、世界史的な社会主義を実現するための革命的途上において、全世界の革命的プロレタリアは、核実験と核戦争の危機を契機として不断に形成される反戦のたたかいを、プロレタリア解放の不可分の要素としてとりあげ、その先頭にたってたたかわねばならないのです。
 中国核武装の問題は、中国共産党が終局的に核兵器を「平和を守る力」としていること、つまりケネディやフルシチョフと同様の権力政治の従僕であることを示すとともに、中国工業化の反労働者的強行の政治的=イデオロギー的支柱として核兵器の生産を目的化することで、中国プロレタリアートと農民階級の不満を緩和しようとする中国「社会主義」の現実的矛盾を示しているのです。
 
 (b) 現代革命における先進国革命と後進国革命の役割と関連について
 
 さて、この問題こそ中国共産党の見解のなかでもっとも得意であり、一般的に説得力をもちやすい点だと思いますが、同時に、毛沢東路線の現象論的本質とその破産を集約的に表現している点だと思います。
 今日、中国共産党が主張していることをかんたんに要約すると、@アメリカ帝国主義が世界反動の支柱であり全世界の人民の敵である、Aアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ地域は世界の矛盾の集中地域であり、世界革命の嵐が吹きすさんでいる地域であり、したがって国際プロレタリアートの革命的事業の成否は、この地域の革命闘争いかんにかかっている、B民族ブルジョアジーは二面性をもっており、団結しなければならない、C先進国プロレタリアートの主要打撃対象はアメリカ帝国主義であり、その基本的課題はプロレタリア独裁の達成である、というこの四点がまず問題になるといえます。
 これらにたいしてソ連共産党は、「現代革命の主要な担い手は社会主義諸国と西欧諸国の労働者階級であり、中国共産党の見解は工業プロレタリアートへの侮辱である」などとカツコいい答えをしています。だが、このようなソ連政治官僚のひらき直りの誤りは、さしあたってつぎの二つの点を考察すれば明白です。
 すなわち、一つは後にみるように、いわゆる社会主義国家内のプロレタリアートがいまだ解放されていないこと、フルシチョフをボスとするスターリン主義的政治官僚を打倒する闘争をとおしてのみ、これらの諸国プロレタリアートは世界革命の光栄ある前衛として登場しうるということ、もう一つは、欧米および日本の先進資本主義諸国における革命運動の発展を阻止し、封殺してきたものこそ、フルシチョフとそれに追従する各国共産党であるということです。ソ連も含めて先進的工業国のプロレタリアートが、現代革命の究極的かつ決定的担い手であるということと、今日のソ連圏、西欧および日本のプロレタリア運動の現状を美化することとはまったく別の事項なのです。
 たとえば、アルジェリア戦争にたいしてとったフランス共産党の裏切り的態度は、想像に絶するものがあります。アルジェリア人民が「民族自決」を要求して一〇年間にもわたって流血の抵抗闘争をつづけていたとき、国会に三分の一ちかくの議席をもつフランス共産党は、フランス帝国主義のアルジェリア出兵にたいしてただの一度の抗議闘争も組織しなかったのみか、FLNの蜂起にたいして「絶望的な一揆主義」と非難し、ドゴールの「フランスの栄光のもとの名誉ある連帯」の政策を支持したのです。
 また、構造改革路線の本家を自他ともに許すイタリア共産党にしたところで事情はいささかも変りません。あるジャーナリストが、「イタリア資本主義はブルジョアジーとバチカンと共産党の三本の柱のうえに立っている」といいましたが、そのとおりです。じつに、イタリア共産党は、上院から地方議会にいたる莫大な議席から生ずる巨大な歳費と、砂糖をはじめとする多角的な対ソ貿易から生じる巨万の利潤に物的基礎をもつ「富める党」であるばかりか、イタリア労働総同盟の公認の指導部として、イタリア労働者階級の資本との闘争を抑圧し、改良主義の枠にしばりつけている「労働貴族の党」であるのです。
 したがって、西欧の労働者階級が国際プロレタリアートの自己解放の革命的前衛として再登場するためには、西欧帝国主義の赤裸々な走狗に転落した社会民主主義運動とともに、西欧帝国主義の共同の抑圧者としての道を歩むスターリン主義運動を労働者解放の決定的桎梏として非和解的に打倒するためにたち上ることがまずもって必要なのです。西欧におけるプロレタリア運動の危機の根底的原因は、まさに、社会民主主義とスターリン主義の規範を突破し、<反帝国主義・反スターリン主義>世界革命の一環として、西欧帝国主義の打倒を自己の当面の任務とする革命的プロレタリア党のための闘争が、きわめて未成熟なことにあるといえるでしょう。
 一方では、欧米帝国主義の擬制的繁栄と革命的プロレタリア党の未形成を前提として、欧米の階級闘争の「平和的」発展が継続しているという状況があり、他方では、資本主義の不均等発展と現代世界の構造的危機を前提として、後進的地域の階級闘争の集約的な爆発がたえず連続するという状況があるなかで、後進国の人民のなかに、いな、先進諸国のプロレタリアートのなかにすら先進国革命に絶望し、不信を抱くものがあらわれたとしても無理のないことです。
 だが、革命的マルクス主義者にとって必要なことは、現状の平板な説明ではありません。中国共産党のように、後進国で社会的動揺が世界工業の心臓部よりもより急激に爆発するという一面を固定化して、帝国主義打倒のカギを後進国革命にあずけることは無考察というべきです。別のことばでいうならば、このような中国共産党の見解は、なぜ後進国革命が欧米および日本などの帝国主義国の革命と結合する方向をつかみえないのか、という根本問題について根底的に検討することを放棄せよと要求しているのに等しいのです。
 実際のところ、中国共産党のようにプロ独についていくら原則的確認をしたところで、西欧および日本における戦後革命の一連の敗北を根本的に克服する立場や運動を形成しうるものではないのです。まして、自国ブルジョアジーの打倒と切断された地点で反米闘争を怒号することではなんの役にもたちません。のちほど毛沢東路線と中国革命の問題を検討する際に、このような中共流の急進主義が現実におちいっている矛盾、いまだプロレタリアートを解放しえないでいる状況について解明したいと思いますが、ともかく、このように先進国革命と分離して後進国革命を自力更生的に推進するだけでは、旧植民地国の民衆のまえには中国=アルジェリア型の貧困の「共産主義」的分配か、インド型の「本源的蓄積」しか残されていないことになるわけです。
 事実、戦後一八年間にこれらの地域におこった一連の革命は、「民族自決権」の獲得と土地改革というブルジョア民主主義革命的課題の遂行を除いてなにひとつ基本的な問題の解決をみていないといえます。それどころか、民族的課題をもった後進国革命がおこるたびに、中国共産党やソ連共産党は、いくどとなく、どこそこの国で革命的な民族闘争がおこった、革命的な指導者が生まれた、と賛美してきました。だが、だんだん時間がたつと、かれは革命を裏切ったとか、帝国主義に屈服したといいだします。だが、問題は、ある日突然にかれらが裏切ったという単純な事実のなかにあるのではないのです。
 中国革命の歴史をみれば明らかなように、共産党の常套手段というのは、たとえば蒋介石が一九二七年のある朝、突然プロレタリアートに敵対的な態度をとったから革命が挫折した、という具合に総括します。汪精衛についても同じようなことをいっています。こういうふうな問題のくり返しでは、事態はなんら発展の方向をたどることはできません。実際には中共がつぎつぎと民族運動の指導者をさがし求めながら、かれらがいつの日か帝国主義者の手先になりさがっていく、こういう現実はなぜおこるのか、ということをわれわれは根本的に考えなければならないのです。思うに、インドネシアのスカルノについて、中共は今日口をきわめて賛美していますが、いつの日かかれらは、スカルノは帝国主義の手先になり下った、というでありましょう。そうして今日スカルノ・ボナパルチズムの支柱になり下っているインドネシア共産党が壊滅的な打撃を受けたあとになって、あれはスカルノが裏切ったからだ、というきまり文句をいうのにちがいないのです。
 このような一連の誤謬の前提には、「民族ブルジョアジーの二面性」というスターリン的民族政策がよこたわっています。こういう信ずべからざるものを信じ、それによって裏切られたときに泣き言をいう、というのはけっしてわれわれ革命的共産主義者のとるべき道、プロレタリアートの歩むべき道では断じてありません。
 構改派の連中は、中国共産党を批判しようとして、「中国共産党は中国革命の経験を国際的方針として普遍化しようとしている」などと愚にもつかぬことをいっていますが、構改派の理論的低水準と実践的鈍感さを如実に示すものです。なぜならこのような構改派的な批判の方法は、一方では西欧において共産党の(議員と組合官僚の党)への転落に集中的に表現される先進国革命の危機的状況を美化するものであるとともに、他方では、後進国革命の危機的状況を隠蔽し、中国革命の現状を合理化するものであるからです。
 だが戦後一八年間の国際的階級闘争の現実的経験は、中国共産党の主張とも、フルシチョフ=構改派の主張とも合致するものでは断じてありません。たしかに、戦後一八年のあいだに数多くの政治的激動が旧植民地・後進国に連続的におこり、「民族解放」が実現されてきました。だがすでにのべたように、後進国(被抑圧国)における民族的=民主的な革命闘争が、帝国主義からの 「政治的独立」にとどまらず、人間的解放に連続的に発展するためには、なによりもまず革命闘争の過程において、その国のプロレタリアートが、民族ブルジョアジーから独立した革命的前衛として政治的、組織的に形成されることが必要であり、同時にまた、帝国主義国におけるプロレタリアートの反帝闘争との結合をかちとることが不可欠なわけです。
 したがって、先進国におけるプロレタリア革命と切断された条件のもとでは、このような後進国における民族的、民主的な革命闘争は、エジプト、イラク、シリア、レバノン、イラン、インド、ビルマ、インドネシア、ガーナ、コンゴ、ケニアなどの一連の民族革命の現実が示しているように、民族ブルジョアジーを新しい支配階級として形成するものでしかなかったのです。しかも、ソ連共産党や中国共産党は、<非資本主義的発展の道>とか<平和の友>とかいった宣伝をくりかえすことによって、この過程を美化し、労働者階級の武装解除を援助してきたのです。
 また中国やキューバにおいては、たしかに農民戦争の過程をとおして帝国主義者を放逐し、民族ブルジョアジーの主導的支配階級への道を封鎖し、そして土地改革というブルジョア民主革命的課題を達成しました。だが、先進国革命との切断と革命的プロレタリアートの未形成という二条件のもとで、これらの革命は急激な過程をとおって堕落して官僚制的変質を深化しつつあります。ソ連社会のスターリン主義的な変質とその基礎をなしている<帝国主義の延命と一国社会主義>を根底的に自己否定する過程を内的契機としてもつことなしには、現代革命の危機を異に突破しえないことを、以上の経験は明瞭に示していると思います。
 
 (c) プロレタリア独裁と「社会主義」建設の問題
 
 この問題は、前の二点と比較すると一番末展開な部分であり、お互いに遠慮しいしいやっている感じです。
 中国共産党の見解をかんたんに要約すると、@労働者階級にとって権力の獲得は革命の始まりにすぎず、革命の完成ではない、A資本主義から共産主義への過渡期の国家はプロレタリア独裁である、Bソ連共産党のいうように社会主義国を全人民の国家と規定するのはマルクス・レーニン主義の国家学説からの逸脱である、C「個人崇拝反対」をもちだすのは実際には指導者と大衆を対立させ党の民主集中制の統一的指導を破壊し、党の戦闘力を弛緩させる、D社会主義国間の関係は内政の相互不干渉という原則にもとづくべきものであり、いかなる社会主義国の建設事業も主として自力更生に頼らねばならない、Eソ連のアルバニアにたいする態度は大国的排外主義である、ということです。
 これにたいしてソ連共産党は、「ソ連は社会主義から共産主義への移行期にあるのであり、中国共産党は低次の発展段階を固定化している」と答えています。
 ところで、さしあたって確認しておかねばならぬことは、中国共産党の批判の方法が観念的だということです。
 たとえば、中国共産党は口をきわめて「全人民の国家などはない」と主張しています。これはそのかぎりで正当なのですが、それはあくまで規定上の問題でしかないのです。つまり、マルクス・レーニン主義の国家論には「全人民の国家」という概念はないということをいっているだけで、ほかならぬフルシチョフによって「全人民の国家」と規定されている今日のソ連国家とその物質的基礎にかんしてすこしも分析しようとしないのです。ですから、なぜ「全人民の国家」などという誤った規定がとびだしてくるのか、という問題について完全に答えられないわけです。
 結局、中国共産党のいっていることは、現実のソ連国家の批判ではなくてその規定の問題にすぎないのです。つまり、北京商会はモスクワ商会にむかって、スターリン主義国家を先代どおり「プロ独」の商品名で売りだすべきで、内容も変らないのに「全人民の国家」などというマギラワしい商品名をつけるべきではないと注意しているわけです。だから、中国共産党はプロ独、プロ独と大騒ぎはするが、その内的構成と実体(核心的には労働者評議会の問題)についてはなにひとつふれようとしないのです。じつに、われわれプロレタリアートにとって当面の問題は、ソ連の「全人民の国家」や中国の「プロレタリア独裁」がはたしてプロレタリア自己解放の権力であるかという点であり、国家論におけるこのような混乱が「自力更生=一国社会主義」が生みだした過渡期社会の変質といかに結びついているのか、という点にこそあるのです。
 さて、この問題にかんする論争をみていてすぐ気づく点は、中ソ双方がマルクス主義理論の理解と適用において、完全なイロハ的誤謬におちいっているということです。
 まず国家論の問題からみてみますと、中国共産党もソ連共産党も<資本主義から共産主義への過渡期の国家>としてのプロレタリアートの革命的独裁と<共産主義の第一段階としての社会主義における「国家」>を完全に混同しています。マルクスの「ゴータ綱領批判」やレーニンの「国家と革命」を読んでもらえばすぐわかりますが、<多数者である被搾取者による少数者である搾取者の抑圧のための特殊な機関>としてのプロレタリア独裁の国家は、前者の<過渡期>に対応するのであり、すでに階級が消滅し、抑圧するものも抑圧されるものも存在しない後者の<社会主義段階>の「国家」は、<社会の成員のあいだの生産物の分配と労働の分配との規制者>としての死滅しつつある国家であり、正しくは<半国家>というべきものです。ところが、スターリンとその後継者たちは、マルクスとレーニンの学説を修正して<社会主義段階の国家>があたかもプロレタリア独裁の国家であるかのようにすりかえているのです。
 つぎに経済原則の問題についてみてみますと、<生産手段の国有化>という社会主義のための客体的前提条件と<社会主義的な生産手段の共有>とを完全に混同しています。「ゴータ綱領」や「国家と革命」のなかに明白に規定されていますように、共産主義の低次の段階としての社会主義における経済原則は、<労働時間を尺度とする等量労働交換=労働証書制>であります。
 ところが、マルクスとレーニンの思想を修正して<平和共存と一国社会主義>を導入したスターリン主義者たちは、国有と社会主義を混同し、社会主義段階における<人間の自然的条件における不平等>と熟練労働と未熟練労働という<社会的条件における不平等>とを混同することによって、過渡期社会の賃金原則である<プロレタリア平等主義>を小ブル的要求として放棄して、出来高払い賃金制と官僚的特別給の導入をはかり、かくして国有化という前提条件のうえに開花した<過渡期社会>の官僚制的変質を<社会主義>として美化するという袋小路を、プロレタリアートに強制しているのです。
 したがって、プロレタリアートがこのような袋小路に無自覚でいるかぎりは、一方では、スターリン主義を社会主義だと早合点して社会主義革命に絶望する傾向をたえずつくりだすとともに、他方では、ブルジョアジーの搾取と抑圧に抗してプロレタリア革命の方向にむかいながらも、スターリン主義官僚の特殊的利益の防衛手段に転化する危険に直面することが不可避だといえます。また、プロレタリアートがこのようなスターリン主義的袋小路を突破する主体的力量を内在化しえないならば、たとえ国際的、国内的な階級闘争の一定の複合的発展のもとでブルジョア権力を打倒しえたとしても、このような革命は急速に官僚制的な堕落の危機に直面せざるをえないでありましょう。
 つまり、総括していいますと、社会主義社会における経済原則や国家にかんする規定を完全にすりかえることによって、中国とソ連のスターリン主義官僚は、今日の中国やソ連の社会があたかも<社会主義>であるかのようにごまかし、自分たちの官僚的専制にたいする労働者と農民の不満と反抗を<反革命>の名のもとに抑圧しようとしているわけです。したがって、このようなペテンをつづけ官僚制的支配を維持するためには、一方では、<資本主義から共産主義への過渡期社会>の官僚制的変質を<社会主義的発展>であるかのごとく美化しつつも、他方では、労働者と農民の現実の不満と反抗を抑圧するために、たえず「共産主義」にかんする観念的約束をくりかえさざるをえないことになります。
 フルシチョフの<二〇年先の共産主義>の約束にしても、すでに反古となったところの毛沢東の<人民公社をとおしての共産主義的分配>の実現論も、官僚制的支配を維持するための欺瞞的な空手形にすぎません。今日、各国のブルジョア的宣伝屋どもが<福祉国家>や<人民資本主義>についてあきもせずにおしゃべりしていますが、その狙いが労働者階級の資本家的搾取を美化し、その不満と反抗を抑圧するためのものであることはいうまでもないことです。スターリン主義官僚による社会主義にかんするマルクス主義理論の修正と、共産主義の実現にかんする観念論的空手形の乱発は、資本主義諸国におけるブルジョア的宣伝の方法とまったく同一のものです。
 かつてマルクスは、ラッサール主義に屈服したドイツ社民党の領袖たちにたいし、<人民という言葉と国家という言葉を千度もむすびあわせたところで、蛋の一跳ねほども問題にちかづきはしない>と批判しましたが、今日、<全人民の国家>や<全人民所有>について千度となく論じるが、<国家制度は共産主義社会ではどう変るのか>についても科学的に答えようとしないフルシチョフや毛沢東らのスターリンの後継者たちにたいし、このマルクスの金言はいまなお生きているといえます。
 以上のことから明らかのように、中ソ両国の政治官僚は、おたがいに相手方を<マルクス・レーニン主義の背教者>として非難していますが、実際には<平和共存と一国社会主義>というスターリン主義的原則を同一の物質的=イデオロギー的基盤として論争してい一るのであり、けっしてこの基盤そのものを問題にしようとはしません。だが、まさに<平和共存と、一国社会主義>というスターリン主義的原則が、あたかもマルクス・レーニン主義であり、プロレタリア的原則であるかのように通用しているところに、今日のプロレタリア解放運動の危機のもっとも集約的な根拠があるといえます。
 したがって、全世界の革命的プロレタリアートは、資本制的な搾取と専制を打倒し、プロレタリア革命の官僚制的な堕落と変質を打破し、労働者階級自身の行為としての共産主義を実現するためには、資本主義的帝国主義の現段階的特徴を正しく分析し把握するとともに、ソ連=中国圏社会の官僚制的変質を歴史的=理論的に解明し、このような変質を前提とした現代世界の複合的構造を現実的に突破し、世界革命の大道をきりひらいていくための理論的=実践的なプログラムをきびしく鍛えあげていかねばならないと思います。
 
 C スターリン主義と世界革命
    ――中ソ論争の解明のために(1)――
 
 (a) 世界革命の挫折と一国社会主義論の登場
 
 プロレタリア解放運動の先覚者であるマルクスとエンゲルスは、来たるべき社会主義革命は世界資本主義の工業的中心地であり、社会主義的変革の真の担い手である労働者階級が人口の多数を占めるような一連の諸国で勃発し、やがて世界の他の部分に波及するものと考えていました。マルクスは「資本の首都としての、今日まで世界市場を支配してきた強国としてのイギリスは、さしあたり労働者革命にとってもっとも重要な国であり、そのうえ、その革命の物質的条件がある程度まで成熟している唯一の国である」(大月版『マルクス・エンゲルス選集』第八巻)といい、また、「革命的創意は確かにフランスから生れるであろう。だが、重大な経済革命のためのテコとして役立ちうるのはイギリスだけである」(同上第一一巻)といっております。
 ところで、このようなマルクスの<予想>を裏切るかのように、二〇世紀における最初の革命は、ヨーロッパの後進国であるロシアでおこりました。右翼社会民主主義者やブルジョア的三百代言どもは、この事実から「革命は生産力の低い国で起るのだ」として、先進国プロレタリアートの革命的反乱を抑圧する論拠としています。<破産した平和屋>清水幾太郎は、さいきんになって突如として「共産主義とは経済近代化の跳躍期の歪みから起る」などと見事な逆転向ぶりですが、このような見解は<一足先に転向した>都留重人から「ロストウ理論の二番せんじでは新味がない」とヤユされたことからも自明のように、ブルジョア的宣伝家のありきたりのザレうたです。だが、世界革命の生きた現実は、このような皮相な詭弁とは関係なく、より深刻な問題をわれわれに投げかけています。
 たしかに、革命前のロシアは、人口の八〇%が農民、一〇%が労働者という人口構成であり、国民所得においても産業革命以前的な状況であった。にもかかわらず、資本主義の不均等発展と帝国主義段階への移行を前提とした階級闘争の複合的発展は、ヨーロッパの後進国ロシアの労働者階級を権力にたかめ、世界革命の前衛として登場せしめました。
 すなわち、@労働者階級の都市への集中と巨大企業への高度な集積、A農民階級の伝統的な反ブルジョア的傾向、そして、B卓越したマルクス主義的指導部をもった労働者党の成長というロシア階級闘争の特殊的条件のもとで、ロシア労働者階級は、帝国主義戦争の矛盾を突破して権力を獲得しました。
 だが、このことは、今日スターリン主義者たちが主張しているように<ロシア一国で社会主義を建設しうる>という考えにいささかも導くものではなかったのです。毛沢東は「ソ連に学ぶ最大のものはソ連が自力で社会主義を建設したことだ」などといっていますが、まさにこのような考えこそ、レーニンとトロツキーを先頭とするロシア・ボルシェビキが極力いましめねばならなかったところのもの――左翼エス・エルを実体とする農民主義的・小ブル的社会主義――だったのです。つまり、ロシア革命のマルクス主義的指導者たちは一人の例外もなしに、ロシア革命は世界革命の序曲であり、ヨーロッパ――とくにドイツ――の労働者階級の直接の支援なしには社会主義革命の完全の勝利――すなわち、社会主義の建設――は不可能であり、革命権力の維持すら困難であると考えていました。
 レーニンはコミンテルン第三回大会(一九二一年五月)において、つぎのようにいっています。
  「国際的な世界革命に支持されることなしにはプロレタリア革命の勝利が不可能であること は、われわれには明瞭であった。われわれは既に革命の以前においても、またその以後においてもこう考えた――或いは現在か、もしくは少くとも早急に、その他の諸国、資本主義的に一層発達した諸国において革命が開始されるか、或はその反対の場合には、われわれが滅亡しなければならないか、そのいずれかである、と。かかる自覚にもかかわらず、われわれは、いかなる事情のもとにおいても、またどんな犠牲をはらつても、ソビエト制度を維持すべくすべてをつくした。なぜなら、われわれは単に自分自身のためばかりでなく国際革命のためにも働いていることを意識していたからである」このレーニンの演説からも明らかのように、レーニンとその僚友たちにとって、一国における個別革命の勝利と社会主義建設の勝利とは明瞭に区別されていました。なぜならば、社会主義は本来的には全世界的な高度の生産力と労働者階級の革命的団結を客観的――主体的前提とするものであり、ロシアのような極度の経済的後進性と帝国主義の軍事的包囲という客体的条件のもとにおいては、明らかにロシア一国における社会主義の建設などは目的とすべくもなかったからです。
 マルクスは、すでに『ドイツ・イデオロギー』において共産主義の客体的・主体的前提条件についてつぎのように明確な規定を与えています。
 「歴史にはどの段階にも一つの物質的な成果が、生産諸力の総和が、自然へのそして個人相互のあいだの歴史的につくりだされた関係が存在しており、そしてこの総和はどの世代にたいしてもこれに先行する世代からつたえられる。すなわち一団の生産力、資本および環境があって、これらは一方ではあたらしい世代によって変改されはするけれど、他方ではまたこの世代にそれ自身の生活条件を指定し、一定の発展と一つの特殊な性格をこの世代にあたえる――したがって人間が環境をつくるのとおなじように、環境が人間をつくることになるのである。
 (中略)もし全体的な変革のこれらの物質的な諸要素、すなわち一方では現存の生産力、他方では革命的な大衆――たんにいままでの社会の個々の条件にたいしてだけでなく、いままでの 『生活の生産』そのもの、この社会の土台だった『全活動』にたいして革命をおこなうところの大衆の形成が現存していないならば、この変革の理念がすでに百たび宣言されていてもいなくても、実践的な発展にとってまったくかかわりがない――これは共産主義の歴史が証明するとおりである」(ゴジは筆者)したがって、ロシア労働者階級にとっていっさいの突破口は、ドイツ革命を先駆とする西欧革命の勝利にかかっていたのであり、まさにこのような革命的前提のうえに立ってのみ、革命権力をどんな犠牲をはらつても維持しつつ、社会主義への過渡的な生産の組織化を可能のかぎり追求するというギリギリの闘争の意義もはっきりしてくるのだと思います。労働組合や協同組合の位置づけと政策にかんするボルシェビキ内部の深刻な論争は、じつにこのような過渡的危機のまっただなかで展開された具体的・政策的な闘争であったのです。
 たとえば、レーニンが、権力の獲得は革命の始まりであり、完成でないといったのは、権力を獲得したロシア・プロレタリアートが、ドイツ革命を先駆とする西欧革命の勝利をとおして、一国的ロシア的限界を突破するという世界革命論の立場の明白な確認であったのであり、このような立場においてのみ、世界市場の革命的転ぷくの過渡期において、国民経済的な条件という基本的限界をふまえつつ、共産主義の第一段階としての社会主義の客体的・主体的前提条件を組織化するための困難な過渡期の闘争を遂行することの意義も、はっきりしてくるのだと思います。
 だからこそ、レーニンの忠実な弟子を装っていた官僚スターリンは、一九二四年四月にスヴェルドロフ大学における講演においてつぎのようにいっていたのです。
 「一国においてブルジョアジーの権力を転覆し、プロレタリアートの権力を樹立することは、まだ社会主義の完全な勝利を保証するものとはいえない。社会主義の主要な任務――社会主義的生産の組織は未だ達成されていない。われわれは、若干の先進諸国のプロレタリアートの共同的な努力なくして、一国における社会主義の終局的勝利を獲得し成就することができるであろうか? 否、不可能である。ブルジョアジーの転覆のためには、一国の努力で十分でありわが革命の歴史はわれわれにそれを物語っている。社会主義の終局的勝利のためには、社会主義的生産の組織のためには、一国、特にロシアのような農民国の努力だけでは不十分であり、このためには若干の先進諸国のプロレタリアートの努力が必要である。従って、他国における革命の発展とそれの支持とは、すでに勝利を獲得した革命の重要な任務である。従ってまた、勝利を得た一国の革命は、自己満足的なものとみるべきではなくして、他の諸国におけるプロレタリア革命の勝利を促進すべき支柱、補助機関としてみるべきである」(スターリン『レーニン主義の基礎』初版)
 ところが、スターリンはその年の十二月に、はやくも「十月革命とロシア共産主義者の任務」という論文を発表して、レーニンの世界革命戦略を修正し、ロシア一国における社会主義建設の路線をうちだしたのです。このようなスターリンの新路線の前提には、明らかに、@ドイツ革命の敗北を指標とする世界革命の遅延と、A七年間にわたる内戦と帝国主義列強の軍事的包囲のもとでの工業生産の混乱と衰退によるロシア労働者階級の解体的状況があったわけですが、スターリンは、このような革命的ロシアの一国的孤立の条件を、<否定すべき現実>としてとらえるのではなくて、逆に絶対的条件として固定化し、社会主義の前提的条件の一つである工業力を一面的に自己目的化し、あたかも工業化の発展が社会主義の発展であるかのようなすりかえを行なったのです。かくして、世界革命という批判の原則的基盤の放棄は、否定さるべき「現実」的条件の原則化という逆転を生んだわけです。
 したがって、ロシア共産党におけるスターリン主義路線の勝利は、一方では、ロシアの前革命的資質である経済的後進性と内戦と帝国主義列強の軍事的包囲によるロシア労働者階級の事実上の解体的状況のもとで、深刻化しつつあった労働者評議会(ソビエト)の解体化と政府の官僚化、すなわち、ロシア革命の変質を決定化したのであり、他方では、世界革命の司令部=コミンテルンの官僚的堕落と各国共産党の<ソ連防衛の手段化>が決定化したのです。
 ドイツ労働者階級のヒトラーへの敗北、スペイン革命とフランスにおける反ファシズム闘争の敗北、ポーランド分割と独ソ不可侵条約、日ソ不可侵条約、第二次大戦における愛国主義の洪水という一連の事態、西欧・日本などにおける戦後革命の敗北とドイツ・朝鮮の分割統治、東欧の緩衝地帯化とソ連圏への官僚制的包摂という戦後の一連の事態は、じつにマルクス・レーニンの世界革命論の修正、スターリンの<平和共存と一国社会主義>論の導入と深刻にかかわりあっているのですが、ここでは詳しく検討する余裕がありませんので、スターリンの<一国社会主義>論がいかに革命的ロシアを官僚制的に変質させてしまったかという点についてのみ、ごくかんたんに検討することにとどめます。
 
 (b) スターリン主義と革命的ロシアの変質
 
 革命的ロシアの官僚制的変質は、まずもってすべての階級闘争がそうであるように、政治と国家の局面において集中的表現をとりました。内戦の過程のなかですでに弱体化していた労働者評議会(ソビエト)、つまり労働者権力の組織的=実体的基礎をなす労働者評議会(ソビエト)を解体し、プロレタリア権力の先兵としての赤衛軍(志願制の民兵)を解体したスターリン主義官僚は、政府と党の官僚的再編を強化しつつ、スターリン憲法に明白に法制的表現をみたように、政府と常備軍(赤軍)・職業的警察・職業的司法制度と国会という「ブルジョア的」国家制度を復活させ、行政と立法の統一というコンミューン的原則を公然とふみにじつたのです。
 他方、革命的ロシアの官僚制的変質は、すでにのべた国家の官僚制的再編を「テコ」として、過渡期の経済政策の全般にわたって浸透しました。経済的後進性をブレオブラジェンスキー流の<社会主義的原蓄論>で克服しようとしたスターリン主義官僚は、農民の集団化をとおして農民の全余剰生産物を官僚的に収奪して、工業化の基金に蓄積するとともに、時間を尺度とする等量労働交換制にむかっての過渡期における賃金政策であるプロレタリア的平等主義を原則として否定し、出来高払い賃金制と独立採算制を導入したのであった〔スターリン「新しい情勢――経済建設における新しい情勢」一九三一年六月 参照〕。かくして、労賃の多層的分化と累進的出来高払い制の高率化は、工業プロレタリアートの内部にきわめて深刻な階層分化と賃金格差の肥大化をひきおこすとともに、直接的生産者と管理者(スターリン主義官僚)とのあいだに明白な社会的分極化の過程を進行させたのです。
 フルシチョフは、一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会において、スターリンのいわゆる<晩年の誤り>について暴露した「秘密報告」のなかで、一九三四年の一七回党大会で選出された中央委員、同候補一三九名のうち九八名(七〇%)が逮捕・銃殺され、代議員一九六六名のうち一一〇八名が反革命の罪で逮捕されたとのべています。つまり、中央委員会のこのような人的構成の変化は、一八年以前の党員二六〇万人のうち一八回大会まで党にとどまったものはわずかに二〇万人という党員構成の変化の反映であったのです。だが、問題はまさにこのような大粛清がなぜおこったのか、それはなにをもたらしたのか、という点にあるのであり、フルシチョフはこのような当然な疑問にたいし、なにひとつ答えられないわけです。
 というのは、ほかならぬフルシチョフが、スターリンの大粛清を支持し、遂行する過程のなかで、政治官僚に出世した、という事実から説明されうるのみならず、じつにこの大粛清の過程がスターリンの一国社会主義論とその具体的あらわれへの古参党員、工場労働者の抵抗と反逆にたいする官僚的弾圧の過程であり、ロシア共産党が革命的プロレタリアの党から官僚の党に堕落し、変質した過程であった事実において正しく説明しうるのであるということです。スターリンの度はずれのプロレタリア独裁の強調は、現実的にはプロレタリアートにたいする官僚の独裁を意味するだけです。すでに三〇年前にトロツキーが指弾したように、この事実を直視しうるもののみが大粛清の本質を明らかにしうるものであり、まさにこの一点においてもフルシチョフの官僚的本質は明瞭です。
 わが国ではソ連の賃金制度について妙な幻想があるので、その点についてすこし言及しておきたいと思いますが、ソ連の労働者の賃金は資本主義国のそれと比較してすこしも高くはありません。たとえばソロモン・シュワルツの研究(『ロシア労働階級と労働政策』)によると、一九二九年から一九五四年のあいだに名目賃金は六九〇ルーブルから五八〇〇ルーブルに約九倍化しましたが、その間に物価は、ライ麦が一五倍、牛肉が一四倍、バターが一一倍、砂糖が一七倍に値上りしたといいます。一九二八年というと、ほぼ革命前の賃金水準が回復した年ですから、ソ連ではパンなどの直接的消費物資が安いという特殊的条件を考慮しても、それほどでないということがわかると思います。
 対馬忠行さんの『ソ連社会主義″批判』に、岩波書店『モスクワ行旅券』の著者であるフランスの記者ミッシェル・ゴルデーの記事が紹介されていますが、じつに興味あるものです。
  「……つい最近のこと、モスクワの大きな自動車工場(元スターリン工場)の共産党員の集会で、国家の最高指導層にいるただ一人の女性、党中央委員会幹部会員候補エカテリーナ.フールツェヴァ女史(現在は党幹部会会員)が演説したが、これに対し文書や口頭の質問が殺到した。出席していた労働者達は彼女にこんな質問を浴びせた。『同志、君はどれ位かせぐか、一ヵ月の収入はどれ位か』周囲の状況が、敵意のこもったものであったため、次第に困惑した彼女は、ついにこう答えた『一ヵ月一万八千ルーブル(公定では約一六二万円)です』聴衆は叫んだ。『それなら君は同志ではない。ここにいたってムダだ。出て行きたまえ』。集会は中止せざるを得なくなり、フールツェグア女史は騒然たる空気の中を立去った。モスクワの自動車工場での一ヵ月の給料は、一、〇〇〇――八〇〇ルーブルである」
 この記事は、ロシアの労働者階級のスターリン主義官僚にたいする反逆のもっとも先駆的なものの一つだと思いますが、ここで見落すことができないのは党官僚と労働者のあいだのあまりにも歴然たる賃金の格差です。当時ですと一ルーブルの実質価値はほぼ日本円の三〇円ですから、自動車工の約三万円にたいして党官僚は約八四万ももらっているということになります。日本でも労働者と重役の収入の差がこれほど開いている例は少ないだろうと思います。しかも官僚たちはそのうえに社会的施設を思うままに利用する特権をもっているわけです。レーニンが革命後も、アパート一室で石油カンで暖をとっていたのとは大きな違いというべきでしょう。
 以上の事実からもあきらかのように、マルクス主義的な<世界革命>論の放棄とスターリン主義的な<平和共存と一国社会主義>論の導入は、労働者のロシアから官僚のロシアへの変質のイデオロギー的なテコをなしています。スターリンの構築したソ連「社会主義」は、労働者自身の行為としての社会主義とはまったく似て非なるものです。トロツキーはソ連における「反革命」のメルクマールを生産手段の私有化と資本家の復活にもとめようとしましたが、過去的な規範で現実を批判しようとするこのような歴史主義的な方法では、今日におけるソ連社会の官僚的変質を正しく把えることはできないでしょう。第四インターナショナルの衰退と解体的現状は、<反帝・労働者国家無条件擁護>という親スターリン主義的立場からの必然的な帰結です。過渡期におけるもっとも決定的な契機は、プロレタリア権力=労働者評議会の問題であることを、われわれはしっかりと確認する必要があります。トロツキー教条主義者たちのように、生産手段の国有と労働者権力との連関をばらばらにして、前者をプロレタリア革命の獲得物として物神化してしまうようでは、生産手段の国有という客体的前提条件のうえに開花したところのソ連官僚制の実体は、いつまでも神秘的なべールにおおわれていることになります。
 スターリン主義的社会においては、官僚階級の利益は、一方では、全生産手段と全労働力の全般的な稼働を前提とする国有「計画」経済の無政府的な成長(ここから逆にソ連官僚経済学における近代経済学の計画決定理論=リニア・プログラミングの再評価の必要が生れるのです!)〔編者注〕のための経済政策、他方では、労働生産物の官僚⇔労働者・農民間の分配をめぐる生産「計画」=生産物の分配政策をめぐって実現します。剰余労働の分配をめぐる官僚間の闘争は、官僚制的国有「計画」経済の生産力理論的発展と生産物の官僚的収奪を前提としつつ、自己の官僚的地位のための闘争という形態をとってあらわれます。
 【編集者注】世界革命に敵対し、一国社会主義理論と平和共存政策にもとづくソ連スターリン主義の経済建設は、いかに「計画」を立案しようとも、本質論的に非計画的たらざるをえないことを意味している。なぜなら官僚的「計画」経済は、帝国主義世界市場の動向、外国貿易の状況等によってたえず攪乱的影響をうけ、結局計画遂行が不可能となるからである。
 したがって、過渡期社会のこのような官僚的変質を爆砕し、社会主義社会を実現するためには、まずもって、官僚権力を打倒し、工場労働者評議会を基礎とした労働者権力を樹立しなければならないのです。この樹立された労働者権力は、官僚の軍隊と警察を解体し、武装した労働者民兵にかえ、管理者・政府の役員と労働者との賃金の格差を撤廃して、プロレタリア平等主義の賃金原則を確立して、労働者権力による国有経済の計画と管理、工場・農場評議会による生産の計画と遂行と管理を実現することを自己の任務とするでありましょう。このような一連の政策は、スターリン主義官僚とその政策を実力をもって打倒し、スターリン主義官僚と帝国主義の軍事的干渉をはねかえしうるほどに強力な労働者権力と、一連の先進諸国におけるプロレタリア的行動と援助のもとでのみ実現しうることです。
 一九五六年のハンガリア革命と大ブダペスト中央労働者評議会の樹立のためのたたかいは、まさに、スターリン主義官僚権力を打倒し、労働者権力を形成するための先駆的なたたかいだったのです。<反帝国主義・反スターリン主義>の革命的綱領をもった前衛党の未形成と、ナジ中間政府と労働評議会との権力の「分有」という困難な条件のもとで、革命的に決起したハンガリア労働者階級は、フルシチョフの派遣した重戦車と戦闘機の十字砲火に抗して約二ヵ月にわたって自己解放のためにたたかいつづけたのです。スターリン主義者と帝国主義者がともにプロレタリアートの<革命性>について不信のセレナーデをかなでていたとき、ハンガリアの工業プロレタリアートは、民衆が都市の真実の主人公であることをかつてない鮮明さで照らしだしたのです。
 ところで、フルシチョフの反革命的軍事干渉をいちはやく無条件に支持し、弱体化したスターリン主義官僚制の再建に周恩来を派遣した北京のスターリン主義官僚は、中国革命の官僚制的変質に反逆する芽が中国の都市と農村のいたるところで形成されつつあるのを知っていたのです。一九五七年の春に発表した「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という論文のなかで毛沢東がつぎのようにいったとき、そこにはもはや民衆の自発的な大衆行動にたいする一片の信頼も残されていなかったのです。
  「わが国のある人々は、ハンガリー事件が起ったとき喜んだ。かれらは、中国でも同様なことが起ればよい、幾千という人々が人民政府にたいして街頭デモをやればよい、と考えた」
 
 D 毛沢東主義と現代革命
       ――中ソ論争の解明のために(2)――
 
(a) 後進国革命と二段階戦略
 
 さて、現代革命における毛沢東路線の問題ですが、今日の戦闘的労働者や左翼的な知識人・学生のあいだに<たしかにフルシチョフは世界革命を放棄しているが、毛沢東は世界革命を唱えており、スターリンを讃美する点で問題はあるとしても、実際はスターリンの欠陥を克服しているのではないか>という考え方がかなりあるようです。ところで、このような考え方は正しいのでしようか?
 われわれは、毛沢東路線にたいするこのような見解を非現実的な幻想論としていささかのちゅうちよもなしに否定します。なぜならば、中国共産党と毛沢東の<反帝闘争路線>はそのみせかけの戦闘性にもかかわらず、実際的には<世界プロレタリア革命>の前進を阻止しているもっとも有害な傾向の一つであるからです。じつに、フルシチョフ=トリアッチ路線と毛沢東路線とは、<平和共存と一国社会主義>というスターリン主義的現実のうえに成長した二つの傾向を表現しているにすぎません。一部には日本共産党の今日の政策と中国共産党の路線とが矛盾しているかに主張するお目出度い人々がありますが、これでは棒の先にじやれている小猫みたいなものです。
 ところで、中国革命にかんする毛沢東の基本的な考え方は、一九四〇年に延安の洞窟で毛沢東が執筆した「新民主主義論」にもっともよく表現されているといえますが、よく知られているように毛沢東はこの論文のなかで、中国社会の性格を<植民地的・半植民地的・半封建的>と規定し、中国革命の性格についてつぎのようにのべています。
  「中国革命の歴史的進展過程は二つの段階に分けられねばならない。その第一歩は民主主義革命であり、その第二歩は社会主義革命である。それは性質のちがった二つの革命の過程である。そして、民主主義といっても、現在のものは、もはや旧い範疇の民主主義ではなくて、新しい範疇の民主主義であり、新民主主義である」
 つまり、中国革命は、<植民地的・半植民地的・半封建的社会形態を、一つの独立した民主主義の社会にかえること>と<一つの社会主義の社会をうちたてること>の二段階に分かれるということです。
 だが、中国革命のこのような二段階への形式主義的分離は、あきらかに、革命の課題と革命の階級的性格の混同から生ずるのだと思います。たしかに、当時中国革命が直面していた課題の中心問題は、民族自決権の獲得であり、土地改革を焦点とする「ブルジョア民主主義革命的」な諸課題の遂行であったといえます。約一世紀にわたる一連の革命は、たえざる農民戦争を動力としてこのような諸課題の解決がいかに切実なものであるかを示しています。だが、問題はまさにつぎの点にあったといえます。すなわち、孫文革命と北伐革命の歴史的経験をとおして、中国ブルジョアジーがこのような「ブルジョア民主主義革命的」な課題を遂行する能力を完全に欠如していることを明瞭に自己暴露したこと、これに反して、中国プロレタリアートは五・四運動から五・三〇事件にいたる歴史的大闘争をとおして、もっとも勇敢で、もっとも首尾一貫した革命の主体として登場したこと、この対照的な教訓からいかなる結論を導きだすべきか、という点です。
 一九一七年のロシア十月革命の経験が明白に教えているように、二〇世紀帝国主義段階におけるいっさいの民族問題の解決と「ブルジョア民主主義革命的」課題の遂行は、必然的に世界プロレタリア革命の一構成部分に成長せざるをえないし、また、そうすることなしに基本的に解決をみることはありません。だからこそ、レーニンは一九一六年に執筆した「社会主義革命と民族自決権」というテーゼのなかで<抑圧民族国における労働者の国際主義的教育の重点は、被抑圧諸国の分離権を擁護し宣伝すること>であると定式化しつつ、同時に<被抑圧国におけるマルクス主義者の任務は、諸民族の自由な結合という宣伝に重点をおかねばならぬ>と強調せねばならなかったのです。なぜならば、被抑圧国=後進国における民族的=民主主義的課題の根本的=プロレタリア的解決のためには、<プロレタリアートの革命的階級としての形成と先進工業国の革命的プロレタリアートとの結合>が不可欠の前提とならねばならないからです。
 したがって、毛沢東のように中国革命を二つの戦略段階に区分してしまうならば、第一には、中国革命の過程をとおして中国労働者階級を革命的階級として形成するどころか、その階級的独立性すら武装解除してしまうこととなり、第二には、先進工業国のプロレタリアートとの結合は、せいぜい軍事的予備軍としての意義と役割しかもちえないこととなるでありましょう。だから、のちにみるように、毛沢束は権力獲得のあとになってから<民主主義革命から社会主義革命への「連続的」発展>について力説しますが、その内的関連について一言も経済学的・国家論的にはのべることができないのです。
 
 (b) 中国革命と労働者権力
 
 事実、中国共産党における毛沢東路線の勝利は、中国労働者運動の衰退のうえに築かれたものであり、そして同時に、その壊滅を決定化したものだったのです。
 さきほども指摘しましたように、一九一八年の五・四運動から一九二五年の五・三〇事件への歴史的な革命的激動のなかで、中国労働者階級は独立したマルクス主義的指導部をもった革命的部隊へと成長しつつあったのです。一九二〇年に日本とともに最初のメーデーをかちとった中国労働者階級は、二一年七月には上海の共産主義的グループを中心にして、革命的コミンテルンの指導のもとに中国共産党を結成するまでにいたっていました。そして、ロシア共産党(ボルシェビキ)を手本に創立されたこの若い中国共産党は、党の緊急な課題として工業プロレタリアートのあいだの活動に全力をそそぐことを決定し、労働運動の指導機関として「中国労働運動書記部」をつくることを決定したのです。
 かくして、一九二一年の上海英米タバコ会社の二万のスト、えっかん鉄道のストを先駆として、翌二二年には香港の海員二万のスト、運輸労働者二万の同情ストのなかで「中華海員工業連合総会」の成立が宣言され、さらに二五年には、中国労働組合書記部の提唱のもとに広州で第二回労働者大会が開かれ、「中華全国総工会」の結成を正式に決定し、五四万の組織労働者を、天津・青島・上海・武漢・香港などの工業都市を中心に結集しました。あの歴史的な五・三〇事件のあとには、約三〇〇万にちかい中国労働者を中国共産党はその指導下にもっていました。一九二六年の北伐戦争のとき、上海総工会の指令のもとに上海の労働者のほとんどすべてともいうべき八〇万人がゼネストに参加したことからも、当時の中国共産党がいかに労働者階級と固い結合をもっていたか、わかることと思います。
 だが、スターリンの中国政策である「四民ブロック」(労働者、農民、都市プチブル、民族ブルジョアの民族統一戦線を守る)ために、中国国民党に無条件に加入した中国共産党は「青年学生、青年労働者、青年農民は、もしそれが国民党(蒋介石)のイデオロギー的影響のもとに服するならば、七里靴をもって革命を前進させる力である」などというスターリンのデタラメな命令(「中国革命の展望」)にしたがって国民党の規律に服してしまったのです。
 レーニンが第二回コミンテルン大会のテーゼにおいて、<共産主義インターナショナルは植民地ならびに後進諸国の民主的ブルジョアジーとの一時的な同盟に入るべきである。だがそれと融合してはならないし、プロレタリア運動の独立的性格を絶対的に保持しなければならない。たとえそれが幼児の形態にあるとしても……>と厳しく警告しているにもかかわらず、レーニンの忠実な弟子を自称するスターリンは、中国労働者階級を民族ブルジョア(蒋介石)のまえに武装解除し、その敗北を準備したわけです。だからこそ、中国労働者階級は、蒋介石(国民党右派)や江精衛(国民党左派)の裏切りと反革命クーデターに直面して、壊滅的な打撃をこうむらざるをえなかったのです。
 したがって、中国労働者階級とその革命的前衛は、第二次中国革命の敗北の主体的契機としての「四民ブロック」政策とその根拠を徹底的にあきらかにしつつ、同時に国民党の反革命的弾圧に抗して、前衛党の再建と都市プロレタリアートの再組織化のために活動を集中すべきであったといえるでしょう。だが、蒋介石と汪精衛の反革命を革命的高揚のまえのエピソードぐらいに考えていたスターリンは、南昌暴動、湖南の秋収暴動、広東蜂起とつぎつぎに絶望的暴動を指令し、都市プロレタリアートの組織を壊滅させてしまったのです。このあと事実上は<解体してしまった>中国共産党は、都市における流民暴動を絶望的にくりかえす中央委員会(上海)派と農民暴動から井崗山根拠地の農民戦争に没入する農民運動派に分解していったのであり、その結果として、工業プロレタリアートにたいする組織的影響力を完全に失なっていったのです。
 中国総工会の劉寧一は、世界労連発行のパンフのなかで、「一九二八年から一九四九年までの間に党の指導のもとのただ一つの労働組合会議を開くことができなかった」といっていますが、それは中国共産党における労働者党員の組織構成にかんするつぎの資料とあわせて考えてみると意義ぶかいことと思います。すなわち、一九二六年には党員の六六%が労働者党員であり、五%が農民、二二%が知識人・学生であったのに比較して、労働者党員は一九二八年(一〇%)、一九二九年(三%)、一九三〇年三月(二・五%)、同年九月(一・六%)、同年末(ほとんどゼロ)という具合にきわめて急速に減少しています。中国共産党の著名な指導者であった李立三が、<工業労働者の中にただ一つの健全な党の中核すら存在していない>といったとき、そこにはいささかの誇張もなかったといえます。
 井崗山の闘争を起点とする毛沢東、朱徳らの「ソビエト革命」運動は、その労働者的な名称にもかかわらず工場労働者のなかにただ一つの拠点ももたず、中国南部の農村に根拠地をもった平民主義的な農村「ソビエト革命」だったのです。毛沢東のこのような農村コンミューンが、蒋介石軍三〇万の重圧にもかかわらず生存しえた背後には、あきらかに、国民党政府の農民にたいする苛酷な支配と収奪、これにたいする中国農民階級の根深い反発があったと思いますが、その根底には、中国における資本蓄積=農民分解の特殊性と世界恐慌=中国農業恐慌の深刻化による農村経済の崩壊的状況および沿海地帯における農民の極度の貧窮化と没落があったわけです。しかし、実際には中国共産党が農民の深部に存在する革命的要素と全面的な交通をかちとるのは、大長征をとおして革命の根拠地を延安に移し、抗日戦争の正面に徹底的に自己の戦列を対置してからです。日本帝国主義の侵略軍との闘争の全局面を自己の責任として明確化することによって、中国共産党は農民の信望を圧倒的にかちとることに成功したのです。大長征の途中で開催された中国共産党遵(じゅん)義会議(一九三五年一月)において瞿秀白、李立三、王明と継承してきた「左翼日和見主義」を清算し、党の指導権を掌握した毛沢東は、かくして「抗日救国」の大路線をしいたわけです。
 だが、中国共産党における毛沢東路線の勝利は、一方において、中国共産党が農民戦争のすぐれた指導者であることを可能にするとともに、他方では、根拠地を、中国の農村部のなかでももっとも生産力が低いといいうるほどの、工場一つすらない陜西省に移すことによって、労働者階級にたいする組織的影響力を最後の一片まで放棄してしまうことを意味したのです。
 毛沢東は「新民主主義論」のなかでたえず「労働者階級の指導する革命的諸階級の連合独裁」について言及していますが、だが現実には「労働者階級の指導性」はたんなる観念上の確認にすぎなくなっていたのです。しかも中国国民党との抗日統一戦線を結成するために、中国共産党は「蒋介石の支配する地域」、すなわち、ほとんどすべての都市を含む先進的未占領地域において党組織を維持し再建しようとしなかったのであり、一九三七年十二月に、国民党政府がストを扇動する労働者にたいする死刑の布告を行なっていたとき、中国共産党は、国民党政府の戦争の遂行指揮に「完全に満足している」とのべていたのです。
 それどころか、抗日戦争の終了後、ふたたび蒋介石との内戦が勃発してからさえも、中国共産党は、中国における工業中心地の全地域を含む国民党支配地区内においてみるべき党組織をもっていなかったのです。この事実について中国共産党がどのように説明するのか、不明にしてわかりませんが、中国労働者階級が一九四九年の中国共産党の「勝利」の日まで、すくなくとも完全に武装解除されていたことは確かです。ですから、一九四九年の「人民解放」が労働者階級にとって外在的な事件であったということも、すこしも不思議ではないのです。
 かつて、十何年かまえに、わたしは民主評論社から出版された『新民主主義大革命』という本を読んで、そのなかで、たしか天津だかで人民解放軍を迎えるために工場労働者がストライキを敢行し、抵抗する工場長を監禁していると、人民解放軍がやってきて、工場労働者の非をさとして工場長を手厚く釈放して、元の位置につける話を読んで大いに感心したものですが、共産主義者となった今日から考えると妙な気がします。ところが、トニー・クリフの論文「永続革命」によると、妙な気どころか、それが中国共産党の基本政策だったのです。
 たとえば、天津、北京への攻撃のまえに、林彪将軍は人民にたいし、「現在の仕事を続け秩序を維持するよう」に呼びかける布告を発したといいます。
 「秩序を維持し、現在の仕事を続けるべし。蒋介石政府、地方都市、他の政治施設の役人、あるいは警察官、地方、都市、農村、隣組の職員……は、その職務にとどまるよう命令される」
 また、揚子江渡河に際して中央および南部中国の大都市(上海・漢口・広東)にたいして毛沢東と朱徳は、つぎのような特別布告を出したとのことです。
 「全職業の労働者および従業員は労働を続け、商売は平常通り行なわれるよう希望する。蒋介石中央政府、地方、都市、郡などの政府役人、国会議員、法制および通貨統制官、人民政府委員会委員、警察官、隣組組織責任者は、その地位にとどまるべし、そして人民解放軍および人民政府の命令に従うべし」
 約一世紀ほどまえに、太平天国軍がこれらの都市に入ってきたときのように、「人民解放軍」の制服を着た毛沢東の軍隊がこれらの都市に入ってきたわけです。だが、一世紀まえと今日の中国とのあいだには決定的な変化が存在しています。すなわち、工業プロレタリアートの存在です。そしてこの工業プロレタリアートのみが、全事態を変える決定的なカギを握っていたのです。じつに、約四分の一世紀ほどまえに、中国中央部の諸都市(上海、漢口、武漢)の工業プロレタリアートがそうしたように、武装蜂起をもって「人民解放軍」と呼応し、約四分の一世紀前の上海ゼネストがそうしえなかった労働者評議会の樹立をもって「人民解放軍」の入城を迎ええたとしたら、たとえその労働者評議会と人民解放軍のあいだに同盟が成立しようと、あるいはまた、衝突がおころうと、第三次中国革命は、すぐれて革命的な構図をとって進展したでありましょう。だが、抗日戦争と内乱で完全に衰弱した中南部のプロレタリアートは、ただ受動的に新しい秩序を迎えたのです。
 毛沢東を首領とする中国共産党と人民解放軍は、日中戦争から国共戦争の過程のなかで、過熱化したインフレによる中国都市経済の混乱と農村における中農層の没落=貧農層の極度の貧困化を契機として爆発的に生起した農民階級の反「高利貸的」地主・反商業資本の武装反乱を、徹底的に集権化することによって、農村における国民党の政治的支配体系を完全に破壊し、かくして尨大な農民戦争の重圧のもとに都市の軍事的屈服を実現したわけです。したがって、流民化した農村プロレタリアートを指導的同盟者として、農民を実体とする農民戦争の勝利的遂行は、一方では、地主と商業資本(いわゆる売弁資本)の財産の収奪と平民主義的分配を非妥協的に実現せしめるとともに、他方では、都市プロレタリアートの革命的反乱と工場の労働者管理を抑制し、私営工業資本(いわゆる民族資本)を保護するという矛盾した結果を必然化したのです。
 かつてマルクスは、第一インターナショナルの規約において、<労働者階級の解放は労働者自身の事業でなければならぬ>と明確に規定していますが、いまや、中国の労働者階級は、農民と職業軍人を実体とする人民解放軍の手によって国民党政府から「解放」されたのです。だが、国民党政府からの労働者の「解放」は、労働者階級の<資本のくびき>からの解放でもなければ、労働者階級の<支配階級としての自己形成>でもなかったのです。一九四九年五月に「ニューヨーク・タイムス」の現地特派員が感動をもって打電したように、上海では「赤軍は人々に平等であるように指示し、何も恐れることはないと安心させる中国語のポスターを貼りはじめた」のであり、広東では、「市内に入った後、共産党は警察署と連絡をとり役人や警察官に秩序を保つためその部署にとどまるよう指示した」のです。
 かくして、新しい権力機関としての政治協商会議が開催され、共産党幹部、共産党と野合した旧国民党幹部、抗日派の旧軍閥、中国総工会の「幹部」(じつは共産党幹部)、職業軍人、知識人などがそこに参加し、新しい「指導的ブロック」が形成されたわけです。だが、労働者階級と農民のまえにはなんの代表権も与えられず、単一の労働組合として上から官僚的に急造された中国総工会は、共産党の幹部が横すべり的に指導部を形成し、ソ連の労働組合とまったく同様に、官僚による労働者の統制のための機関にすぎなかったのです。このような過程こそ毛沢東のいう<労働者階級の指導する革命的諸階級の連合独裁>の真実だったのです。
 
 (c) 連続革命論と「社会主義的」工業化
 
 一九五五年の秋に、毛沢東は突如として「中国における社会主義の高揚」について語りはじめ、「社会主義への連続革命」について強調しだしました。だが、それは中国労働者階級にとって、私営工場の国営化と農民の集団化以外のなにものでもなかったのです。労働者権力と労働者管理の実体的基礎をなす労働者評議会のための闘争は、形成の萌芽のうちに無残にも「プロレタリア独裁」の名のもとに弾圧され、東北工業地区の自治権の拡大という歪曲された表現をとってあらわれた「工業自治主義的要求」すら、新しい政治官僚から一片の妥協もかちとりえないでいるのです。
 かくして、先進国革命から切り離され、ソ連から名ばかりの「経済援助」を受けるという条件のもとで、<自力更生>をスローガンにして、<先進国革命との結合>の展望をみずから放棄した中国共産党は、土地改革という「民主主義革命」的課題を、一応は遂行しえたものの、社会主義への科学的展望をもちえず、社会主義の客体的、主体的前提条件としての<高度の工業力と革命的労働者階級の形成>を分離して、前者のみを自己目的化することで危機を突破しようとしています。だが、このような工業生産力の自己目的化は、現実には生産力の熱病的な発展と労働者・農民の生活水準のアンバランスな発展をつくりだすしかないのです。
 ところで、プロレタリア的反乱の欠如にもかかわらず、中国革命が基幹産業の国有化を実現しえた問題を検討するにあたって、まず前提的に確認しておく必要があることは、革命前の中国経済における国家資本の圧倒的な優位についてです。
 すなわち、日中戦争の過程で中国の東北部に投資された約百億ドルにのぼる工業資本が、日本帝国主義の軍事的敗北の結果として国民党政府に移譲され、そのために中国における国家工業資本は、戦前の三億一八〇〇万元から四六年には三一億六一〇〇万元に激増し、工業資本総額における国家資本と私営資本の割合が、六七・三%対三二・七%となっていたことです。したがって、中国共産党は、都市における労働者階級の革命的反乱と労働者管理のための闘争を経過することなしに、農民軍の直接の軍事的圧力によって国家資本を「人民政府」のもとに没収することが可能だったのであり、かくして、電力の六三%、石炭の三三%、鉄鋼の九〇%、タングステンの一〇〇%、錫の七〇%、セメントの四五%、砂糖の九〇%という高度の国家資本を<革命前的遺産>として継承することによって、革命の当初から国民経済の<高地管制>を可能とする条件をもっていたことに注意する必要があります。それだけに、このような国有化の過程は、中国革命の官僚制的変質を容易にしたといえます。
 かくして、工業資本の基幹を掌握した人民政府は、私営企業にたいしては、一方では国家権力と経済的な<高地管制>権の強制によって、他方では労働者管理を抑制することによって、私営資本の所有権と管理権を保障し、生産の再開を促進しつつ、また、国営企業にたいしては、一方で政府の派遣した指導員と国民党時代からの旧管理者との合議のもとに生産を再開し、他方ではいかなる意味でも労働者統制→労働者管理の傾向を承認しようとはしなかったのです。五三年ごろから徐々に私営企業のいわゆる<社会主義改造>をめざして、<公私合営><国営促進>の過程がはじまりますが、だが、ここでいう<社会主義改造>とは、生産手段の労働者共有を基礎とする総生産物の社会主義的分配原則(等量労働交換=労働証書制)の実現を意味するどころか、このような方向にむかっての労働者管理と賃金のプロレタリア平等主義的原則の実現を意味するものですらなく、ただただ個別資本から<特権官僚の権力機関化しつつある人民政府>への所有権の移行であるにすぎなかったのです。周恩来は、一九五四年九月の「第一回人民代表大会における政府報告」で、賃金政策にかんする「平等主義的偏向」を批判していますが、この批判は、じつに平民主義から官僚制への明白な転換を確認したものとして重要な意義があります。
 中国の工業化のテンポとその生産力の成長にかんして、帝国主義者とスターリン主義者のあいだにかなり対照的な評価が存在していたようです。後者の評価は、日共の出版物や中国研究所の資料をごらんになればすぐわかりますが、生産力の成長率は世界一だなどとベタベタの賛美ぶりで、中国研究所のある人などは、中国における大衆消費物資の欠乏にかんして「中国における物資不足、アンバランスは、国民経済の高度成長下のそれであり、計画化、均衡化の進展過程におけるそれである」(山下竜三「中国の工業化と速度・均衡」)などと池田首相ばりのことをいうばかりか、「資本主義の<供給過剰>がつねに有効需要の減退を起因としているのにたいし、社会主義社会においてはつねに増大する社会的購買力の増大が<供給不足>の起因となっている」などと大衆消費物資の欠乏を自慢している始末ですから、開いた口がふさがりません。ところで、前者の帝国主義者の評価ですが、かれらの主要な努力は、当初は主として中国における生産力の成長率をかなり低くみようとする傾向が強かったようですが、さいきんでは工業化の速度について、ある程度は再評価しようとしているようです。
 事実、日共の連中が有頂天となっているほどではないとしても、中国における工業化と成長のテンポはかなりのものです。一九五三年から五七年における国民所得の増加速度は、ほぼ年平均で六・九%から八・六%ぐらいであり、ほとんどの後進国のそれを大幅にうわまわっており(インドの約二倍)、五〇年から五六年にかけての日本の実質国民所得の成長率の八・六%にほぼ匹敵するものです。もちろん、計算の基準となる経済水準が日本と中国とではあまりにも落差があるので、率の比較だけでは不十分ですが、しかし、中国の工業力の発展がきわめて急激なことは、今日ではブルジョア学者も認めているところです。だが、われわれにとっての最大の問題は、中国における経済成長率のこのような増大が、中国の労働者や農民の現実的生活といかなる関連があるのか、という点です。
 さて、工業化のための資金源泉ですが、スターリン主義者は、「工業化のための主要な資金源泉は国営企業、国家の対外貿易・銀行機関の蓄積である」が、「中国が主として自力で建設資金の問題を解決しうるのは解放後つぎのような蓄積源泉が開けたことによっている」として、@帝国主義の中国における尨大な財富が工業化の資金源泉に転化したこと、A土地改革で農民が高額の地代や多額の債務から解放され、自己の労働の所得で自己の生活を改善するとともにその一部を工業建設にさくことが可能になったこと、B官僚資本主義企業(国家資本)の没収で、労働者が資本家の利潤のためでなく国家と人民の要求にしたがって生産するようになり、その生産の財富の一部は工業化資金の重要な源泉となったこと、C私営企業ではその利潤から所得税として国家に、建設資金および積立金として企業に蓄積されて資本家には一部の利潤しか与えられなかったこと、さらに公私合営では資本家の利潤は投下資本の五%と定められ、残りは労働者の集団福利にあてられる分を除いて国家に上納されること、の四点をあげています。(天野元之助編『現代中国経済論』)
 第一点の問題はすでに考察してありますので、第二点および第三、第四点の問題にかんして、@土地改革と農民集団化およびA中国工業化と労働者の生活、という二つの問題として内在的な検討をかんたんに試みようと思います。
 
 (b) 土地改革と農民の集団化
 
 まず、中国における土地改革と農民の集団化にかんして、工業化資金源泉の関連において検討してみることにします。すでに指摘しましたように、第三次中国革命の決定的な原動力は、中国農村における中農の没落と貧農・小作農の極度の貧困化と、それを契機とする農民の商業資本および「高利貸的」地主にたいする武装反乱にあったわけですが、それをさらに徹底化した要素には、流民化した農村プロレタリアートおよび万年失業的な農村インテリゲンチャとそれに依拠した共産党の農村オルグがあったことはいうまでもありません。劉少奇は「中国におけるマルクス・レーニン主義の勝利」という論文のなかで、つぎのように明言していますが、きわめて示唆的であるといいうるでしょう。
  「民主主義革命の時期には、中国共産党は深く農村に入り、農村が都市を包囲する武装革命闘争を指導すること二二年の長きにおよんだ。党が、あくまで農民の政治的自覚と組織力にたより、農民をたち上らせて、農民が自分の力で地主を打倒し土地を手に入れ土地をまもる、という大衆路線の方法をとり、これと反対の、土地を農民に<恵み与える>というブルジョア的な方針をとらなかったことによって、党は農村に強大な、頼りになる革命の堡塁をきずき、革命軍根拠地をうちたて、広汎な貧窮した農民の革命的積極性と革命的規律性をしだいに革命的プロレタリアートの水準に近いところまで高めた」
 つまり、抗日戦争をとおして流民化した農村プロレタリアート(無一物だが工場制的組織性を欠如した!)貧農を、「赤軍」に軍事的に編成し、農村に政治的支配権を拡大しつつあった中国共産党は、戦後の過熱インフレによる都市経済の混乱と中農の没落=貧農の極度の貧困化を契機に生起した武装反乱を、地主=商業資本=国民党政府の方向に発展させ、農民戦争の重圧のもとに都市(工業=商業ブルジョアジーと都市プロレタリアート)を軍事的に制圧しました。農村における農民革命の展開は、じつに熾烈をきわめています。
 だが、一連の先進国における革命との結合を切断された地点において、そしてまた、過渡期社会にかんする政策的追究の完全に欠如している中国共産党の指導のもとにおける、中国の農民革命の徹底的展開は、必然的に、国民党系反動分子、地主、いわゆる富農の動産の没収と平民主義的分配であり、そしてそれらの土地の没収と貧農・小作農および党オルグ・軍人とその家族、いわゆる革命的知識人への平民主義的分配という<農村共産主義>の方向をとらざるをえないわけです。かくして、約七億華畝の土地が三億の農民に分配されたわけです(廖魯言「過去三年間の土地改革の偉大な勝利」)が、この数字を基礎とすると、農民一人当りの分はわずかに二・三華畝(約一・五反)をえたことになります。このような土地の均等分配は、人民政府にたいする農民の支持を強め、農民の貧困を部分的に「解決」しはしましたが、同時にまた、政府要員・軍人・党オルグなどの家族を含めた土地の均等分配の結果として、平均耕地面積の狭隘化=農業資金蓄積の能力の低下をまねき、農村の全般的な貧農化をもたらしたのです。しかも、地主と富農の動産の再分配による若干の蓄積も、わずかな消費欲の拡大で消尽しつくしてしまい、農地はふたたび極度の貧窮状態にひきもどされました。
 毛沢東は「農業協同組合の問題について」という論文のなかで、中国の農民一人当りの耕地は東北部で三華畝(二反)、南部の水稲地帯で一華畝(〇・六反)であることを指摘し、土地改革から三年たっても、農村人口の約七〇%が「依然貧しく、あるいは裕福にくらせない」状態にあることについて言及していますが、<依然>どころか、地主の動産の再分配による蓄積を消尽するや、農民の貧困化は<ますます>拡大していったのです。
 事実、土地改革後の農村の階級構成は、莫日達編「わが国の農村協同化の発展」によると、貧農・雇農が二九%、中農が六二・九%、富農二・一%、もと地主二・五%、残りの四・二%が協同化しているという状態でしたが、そのうち中農の大半は貧農すれすれの下層農民であり、劉少奇が卒直に認めているように(一九五〇年六月「土地問題にかんする報告」)、農村人口の約七〇%は、貧農および下層中農だったのです。したがって、これら貧農および中農は、その貧しい収入では、農業の生産力を高めるための農具役畜の購入改善はおろか、ときには飢えと寒さをしのぐにもこと欠く状態であり、その多くは自分の土地を売ったり賃貸しして、雇農に転落する傾向を示しはじめたのです(佐牧「わが国農民の土地改革後の第一段階における階級分化の問題について」)。
 一九五三年十二月の中国共産党中央委員会の「農業協同組合の発展にかんする決議」を転機として、熱狂的に拡大した農民の集団化のための闘争は、農村の階級構成の土地改革以前的状態への逆転を抑制するとともに、平民主義的に分散している土地と資金を可能なかぎり集団的に統一管理することによって、農業生産力上昇のための資金を集積し、あわせて、中国工業化のための資金源泉を拡大しようとするものでありました。
 互助組(五二年)から初級協同組合(五三年――五四年)、協同組合の急速な成長にたいする慎重論の台頭と協同組合解散の動き(五五年)、協同化の「保守主義」の克服と高級協同組合への急激な転化(五五年――五六年)、消費物資の欠乏と官僚的な集団化への農民の抵抗の増大、党の動揺(五七年)「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」(毛沢東)をテコとする官僚制的抑圧の強化、人民公社にむかって熱病的突進(五七年――五八年)、大躍進!大豊作?(五九年)、農業生産の低下、所有形態の初級協同組合的段階への後退(六〇年)、引続きの凶作と沈黙(六一年――六三年)、農業生産の若干の回復の動き(六四年?)――こうした農民集団化の一連の試行錯誤は、具体的かつ全面的に検討されねばならない興味あるテーマですが、ここでは、このような農民の集団化、とくに人民公社化の過程が、中国工業化の資金源泉として、農民の剰余生産物と富の中国史上かつてない収奪と中央政府への集中の過程であり、同時に、農民の不満と抵抗の蓄積の過程であったという一点の指摘にとどめたいと思います。
 周知のように、人民公社運動は、毛沢東が一般に「スプートニク」公社と呼ばれているモデル公社を五八年四月に訪問し、「人民公社、好」と声明したことから中国大陸全体に拡大していったわけですが、人民公社運動の必然性として、中国共産党中央委員会の「農村人民公社をつくる問題についての決議」は、高級協同組合における@集団経済と個人的利益(副業)のあいだの矛盾、A管理委員会と生産隊のあいだの矛盾、B貧しい協同組合と裕福な協同組合のあいだの矛盾、C指導部と下部とのあいだの矛盾などを解決しうるからだ、としています。
 だが、人民公社を必然化したもっとも決定的な契機は、高級協同組合運動の末期に深刻化した労働力と資金の決定的な不足をのりきること、つまり、@高級協同組合の農業生産物の分配をめぐる組合経済の矛盾を後者のヘゲモニーのもとに解決すること、A農村における水利事業と土法工業の超人的発展による労働力の不足を克服するために、農村の労働組織と伝統的な生活様式を変え、女性を農業生産に動員することによって、農村における潜在的な「相対的過剰人口」を集約的に動員し、あわせて消費規制の強化と退蔵資本の根こそぎの集中をはかること、の二点にあったのです〔福島裕「中国の社会主義建設と地方、農村中小工業」中研月報一七九号参照〕。
 人民公社における超人的な労働の密度および消費規制の徹底性については、日本では常識となっていることですが、高級協同組合から人民公社の過程における農業収益全体から、農村に分配される比率の驚くべき減少=資金蓄積率の異常な増大についてはわりとみおとされているようです。五六には農業収益全体の七〇%が、五七年にはその五三・二%が農民に分配されていました(五六年には人民政府は農民の協同化を助長するために農業収益全体の七〇%を農民の間で分配すると規定しました)が、公社化後は平均して三〇%以下に低下しています。
 たとえば、北京の「経済研究」五八年十二月号の七兵論文によると、逐平県衛星公社で個人当り年間収益三三三・〇六元(四万九九五〇円)のうち、八〇元(一万二〇〇〇円)、夏邑紅旗公社では二四三・五二元(三万六六〇〇円)のうち、六五・一八元(九七七七円)、つまり、衛星公社の農民は農業収益の二四%、紅旗公社の農民はその二七%しか労働分配をうけておらず、他方、農業税、商工諸税などの形態で衛星公社では個人当り九八・四二元、紅旗公社では個人当り五六・三四元を直接に政府に集中しており、そのうえ、農産物の買付・契約や工業生産物との交換をつうじて取引き税としてさらに過重な租税が課されているわけです。推定してみますと、人民公社内の農業および工場(土法高炉などへの資金投下を除外しても、農業収益のほぼ二分の一が中央政府の工業化、軍備、行政の基金として集中されていることになります。
 五六年には収益の七〇%が優先的に高級協同組合の農民に分配されていましたが、人民公社化された農民のまえに収益の三〇%弱しか分配されなくなったのです。まさに驚くべき蓄積率の増大です。夜を日についで働いて、年間の収入がわずかの一万円、家族労働力を四人としても、一年間をわずか四万円程度で暮らさねばなりません。だからこそ、五九年度に入ると、はやくも農民の労働意欲の急激な低下がはじまり、五八年の豊作による土地の疲弊(農薬・化学肥料なしの農地への労働の集約的投下の必然的結果です)と結合することによって、気候の若干の変化すら各地で凶作をひきおこす原因に転化したのです。
 三面紅旗をかかげて無計画的に突進した人民公社の失敗と後退は、明白に、中国農民の集団化が農業への機械力の導入と化学肥料の大量的投下なしには不可能なことを示しています。機械と化学肥料なしの集団化は、一時的には土地に労働力を集約的に投入することで豊作をもたらしえたとしても(五八年)、かえって耕地の疲弊と労働力の消耗をもたらし(五九年)、凶作(六〇年、六一年、六二年)の原因をつくりだし、貧困の「共産主義」的分配をつくりだすだけに終ったのです。しかも、二千年も昔からの製鉄法である土法高炉への労働力と燃料の非効率的な集約的投下は、農村労働力の疲弊と燃料力の不足を増加させたのです。そこで、人民政府は都市の人口を<下放運動>と称して農村にもどすことで、食糧不足に対処するという愚劣な方法を今日とっていますが、これではイタチゴツコです。
 
 (e) 工業化と労働者階級
 
 つぎに、中国の工業化の蓄積過程における工業労働の問題について検討してみることにします。
 その際、まず再確認しておくべきことは、すでに指摘しましたように、中国における国有企業の特殊な歴史的性格です。したがって、その結果として、中国共産党と人民解放軍は、都市プロレタリアートの革命的反乱と労働者管理のための闘争をへることなしに中国における資本の基幹部を国有財産としてうけつぐことができたのです。毛沢東のいう<買弁的官僚資本>の実体は、じつに、日本帝国主義が百億ドルもの資本を投下し、中国人の植民地的奴隷労働のうえに膨張した巨大な工業資本だったのです。したがって、都市工業プロレタリアートは、受動的に人民政府の指名する新しい管理者をむかえるか(国営企業)、そのまま旧来の資本家・工場長の命令にしたがうか(私営企業)することを要求されたわけです。
 左翼反対派の壊滅のもとで、革命的訓練を完全に欠如していた中国工業プロレタリアートは、無残に自滅した国民党政府にかわって登場した人民政府にたいし、思想的・政治的にまったく武装解除されていました。毛沢東をはじめとする中国共産党の幹部は、党と政府の官僚主義化を阻止するために、たえず党員の道徳を問題にしますが、だが、中国革命の官僚制的変質の主要な基礎は、非プロレタリア的に入手した巨大な国有財産と、中国工業プロレタリアートの支配階級としての組織化のための闘争にたいする、ほかならぬ人民政府の抑圧にあります。そして、それは経済的には、政府支出をまかなうための工場労働者にたいする人民政府のあくなき剰余労働の収奪にあります。
 なお、第三次中国革命における「解放区」の役割を過大評価するあまり、抗日・解放戦争時代のスターリン主義者と権力獲得後のスターリン主義官僚の物質的基礎の巨大な変化を、無視ないし過小評価するものがありますが、地域経済と国民経済の決定的差異を混同するもので、およそこれほど非経済学的なものはありません。
 中国労働者階級の労働にたいする工業化のための蓄積の強化と増大は、直接的には社会主義的工業建設のための幻想的スローガンをテコとする労働強化と人的合理化、農産物との交換、あるいは貿易をとおして購入した技術的進歩による労働の密度の強化としてあらわれます。だが、中国における経済成長=蓄積率の高度性のもっとも決定的な要因としては、(1)労賃の驚くべき低さと、(2)消費手段の傾斜的価格政策、および(3)工業製品と工業用農業原料のハサミ状的な価格政策、をあげねばならないと思います。
 (1)ところで中国における労賃は、中国統計局の発表した統計資料(合同出版社『現代中国経済史』付録)によると、大躍進の五八年度で年平均個人当り六五六元(九万八四〇〇円)です。戦前の工場労働者の賃金水準がほぼ回復したのが、第一次五ヵ年計画のはじまった五三年だといわれていますが、その五三年度の平均賃金四九六元(七万四四〇〇円)と比較して、年間でわずか一六〇元(二万四〇〇〇円)、月給にして二〇〇〇円しかあがっていないわけです。
 ところが、工業生産の方はどうかといいますと、五三年度の四四七億元から二七〇億元と約二倍半の実額上の上昇をたどっています。とくにこのような生産成長と労賃分配の格差が増大したのは、<大躍進>が謳歌された五七年――五九年の過程です。実数的にいいますと、工業生産の指数は五七年度を基礎にとると、五八年度一六六二・二、五九年二三一・五(五九年度の政府統計は未発表なのでソ連「外国商業情報」六〇年一〇月号から援用)となりますが、賃金指数は五八年度一〇三・一、五九年度一〇八・一の割合でしか上昇しません。都市工業労働者の賃金は、農民の収入と比較して相対的に高いので、かならずしも不満が表面化してはいませんが、しかし、エンゲル系数が五〇%近くという消費水準は、労働の過重の強度化とあいまって工業労働者の生活にひしひしとのしかかっています。
 何だが、このような低賃金を許容させている経済的客体条件は、中央政府の徹底的な消費手段の傾斜的価格政策にあります。というのは、比較的低れんな住宅(もっとも一軒に二、三世帯が普通)のうえに、都市住民の生存に不可欠の雑穀・米、小麦粉などの大衆穀物およびネギ・白菜などの大衆青果に徹底的な統制をひき、農民から犠牲的に供出させることによって、労働力の価値の最低限を維持するとともに、工業生産物の高価格政策と完全な切符制によって、逆に大衆消費欲を抑制するという方法を北京政府はとっているからです。したがって、食生活の残余の賃金でタマゴ・肉・魚などの高級食品を消費するか、比較的に高価格な衣類を購入するかするだけで、しかも、そのうえに少額の残金は中央政府の銀行に預金するという状況にあります。
 まさにこのような高級食品と、大衆消費用工業製品の市場への徹底した制限は、ドル獲得のための東南アジア市場への農産物および消費雑貨の飢餓輸出と対応するものであり、逆にいうならば、中国経済の「健全さ」を誇示するための若干の主要都市(上海、漢口、北京、撫順など)の市場への工業製品と高級食品のたえず拡大する部分的放出は、一方では中国の飢餓輸出的な貿易構造の危機を先鋭化するとともに、他方では都市住民の消費性向を刺戟し、深刻な賃金上昇の要求のまえに中央政府をたたしめるにちがいありません。
 なお、中国における物価指数の極度の「安定」にかんして若干言及しておきたいと思いますが、それはけっして市場における価格作用を正しく反映したものではなくして、むしろ、管理価格にたいする中央政府の厳重な統制を反映しているものだということです。日常消費物資の極度の欠乏にたいする都市住民の不満と、人民公社による個人的消費の縮小にたいする農民の増大する反抗を鎮めるために、中央政府は、五九年九月に農産物および副業品にかんするヤミ市場を合法化して<制限自由市場>を設定しましたが、そこでは、ヤミ市場の価格は公定価格の約三倍ないし五倍、すなわち、豚肉では五・七倍(五〇〇グラム六〇〇円)、タマゴは五・〇倍(一個六〇円)、魚では四・〇倍(五〇〇グラム三〇〇円)ということです(「中国情報分析」六一年三月一七日)。それにしても、割当切符つきの公定価格でもタマゴ一個が一二円(〇・〇八元)ですから、平均八二五〇円(五五元)程度の月給では月々の暮しも楽でないことは容易にわかろうというものです。
 (3)工業製品と農産物の価格にかんするハサミ状的な価格政策、とくに工業用農業原料の超計量的な低価格と工業製品の高価格から生じる不等価交換の問題にかんしては、資本制社会における農業経済と国民経済との関連、および国際貿易・植民地貿易における過剰利潤の源泉にかんする問題との関連において、理論的に掘り下げるべきことでありますが、ここでは、中国経済における一社会構成としての農業組織が、工業組織との流通過程においても巨大な利潤を保証し、官僚制的工業化の資金源泉を構成していることを指摘するにとどめます。
 
 
 (f) 中国社会の危機と毛沢東主義
 
 今日、中国大陸では<昔を想い出し未来を語り合う>運動が全国的に展開されているそうですが、まさにここに欠如しているところのものは、現実を変革するという立場です。昔と較べることで現在の不幸に満足したり、未来を夢みることで現在の苦しみを慰めたりするのは、奴隷や宗教の方法です。
 劉少奇は「寝食を忘れ、報酬を念頭におかず、ほとばしるような情熱と天をつくような意気ごみをもって、大胆に新しい生活を創造する共産主義の精神」(「中国におけるマルクス・レーニン主義の勝利」)などといい気なことをいっていますが、まさに今日における中国社会の危機は、北京のスターリン主義官僚が飢餓的な食生活に苦しみ、低賃金にあえぐ労働者・農民にたいして、こうした道徳主義を強制しているところにこそあります。 日共系のおめでたい評論家たちは、<中国は生産手段を国有しているから社会主義だ>、<大躍進! 大躍進!>、<中国は間もなく全人民所有制を実現する>などと鐘や太鼓ではやしたててきましたが、かれらが空想しているほど中国の現状がバラ色に輝いているわけではありません。中国政府が、なぜ五九年度以後の政府統計を発表しえないのか、すこしでも考えてみるべきです。
 資本主義経済における恐慌現象に酷似したところの四九年以来の中国経済の周期的な危機にかんして、中国のスターリン主義経済学者は、<五二年、五六年、五八年を頂点とし、五五年、五七年、六〇年を底辺とする波型発展は、資本主義的な鞍型発展と異なった社会主義経済の発展法則である>などという新説をたてはじめ(方仲「高速度と波型発展」五九年、劉谷崗「社会主義経済発展の波型に関する試論」六一年)、なんとか合理化しようとしていますが、五九年以来の深刻な経済危機を、飢餓的な対外貿易と工業化の修正をもって克服しようとする以外のなにものでもありません。
 人民公社運動も、今日では完全に暗礁にのりあげてしまっています。政治的な面子から、その事実上の破産にかんして中国政府は完全な沈黙をまもっていますが、現実に存在するのはその形骸にすぎません。
 たとえば、五八年八月の党中央委員会の「農村に人民公社をつくる問題についての決議」は、公社は本質的には社会主義的性質のものであるが、「全人民所有制の若干の要素を含んでいる」と指摘し、このような「要素はたえず成長し、ある地区では三、四年、他の地区では五、六年かそれ以上かかるだろう」と自信をもって予言しましたが、農民の増大する抵抗と五九年以来の継続する経済危機のなかで、つぎつぎと予定は延期され、六〇年十月以後は、人民公社内の公社管理委員会・生産大隊・生産小隊・作業班の四級所有制が強調されはじめ、実際の機能は、五三年度の初級協同組合段階に対応する生産小隊にまで後退してしまっています。
 また、五八年の大躍進の過程で急速な発展をみせた経済成長と工業化は、五九年を境に明白な鈍化傾向をたどりはじめています。世界史的に発達した工業生産力を前提として実現さるべき農民の集団化と、都市と農村の社会的分業の止揚のための闘争を、まさに関係を逆転させて、世界市場において経済的にもっとも後進的な中国農業を基礎にして、直接共産主義に移行しようと試みることは、まったく空想的なことであり、このような空想(唯物史観から強力学説への転落)こそ、過渡期社会の官僚制的変質をさらに深刻化させているところのものなのです。まことにマルクスがいうとおり<権利は社会の経済状態およびそれに制約された文化的発展より決して高くはありえない>(「ゴータ綱領に関する評註」)のです。
 資本主義の帝国主義段階への発展、および延命とロシア革命の官僚制的変質を前提とする複合的な現代世界構造における階級闘争の複合的発展を条件としつつ、流民化したプロレタリアートを指導的同盟者とする農民革命は、日本帝国主義の降伏と戦後日本の革命的危機を契機とする極東の帝国主義的秩序の動揺と真空化をついて、中国における未発達の伝統的ブルジョアジーの政治的支配を一掃し、国際帝国主義の植民地的搾取に打撃を与え、世界市場における中国資本の蓄積の特殊性によって規定されたところの農民分解の未発展性と、それに寄生した高利貸的な地主の土地の財産を没収し、平等主義的な分配を実現させました。
 かくして、この第三次中国革命は、帝国主義的反動から革命の成果を防衛し、植民地的貧困から脱出せんとする客観的必然性におされて、社会主義的変革との結合を追求しつつも、一方では、中国工業プロレタリアートの革命的階級としての形成の未成熟、他方では、日本とヨーロッパにおける戦後革命の敗北と革命ロシアのスターリン主義的変質という国内的・国際的な階級情勢のもとで、中国におけるプロレタリア的社会主義の展望は、工業化と集団化の自己目的化に転化し、急激に官僚的変質を深めはじめたのです。第二次中国革命から抗日戦争の過程のなかでプロレタリア的実体を喪失し、農民とインテリゲンチアの基礎のうえに存続し、再生した中国共産党は、スターリン主義的に歪曲した<プロレタリアートの革命的思想>で、たえず自己の思想的・組織的再武装をなしとげつつ、歴史上類例のない規律をもった農民軍を率いて国民党政府を打倒しましたが、国有財産を前提とする支配階級の指導的中枢に移行するとともに、スターリン主義的歪曲の無自覚とプロレタリア的自己批判の実体的基礎(労働者評議会)の欠如のゆえに、プロレタリア革命党としての解体的再生の道をみずから閉し、国有財産のうえに依拠する特権官僚の党に完成していったのです。五六年のハンガリア労働者階級の反スターリン主義の革命的反乱にたいする中国共産党の異常な敵意と五七年における国内的抑圧の徹底的遂行は、まさに、このような官僚的変質の公然とした宣言であり、政治的支配の再編の過程であったといえるのでありましょう。
 ところで、一部の人々は、今日の中ソ対立にかんして中ソの経済的発展の差異から説明しようとしていますが、だが、なぜ経済的発展の差異が<対立>に転化するのか、という根本的な反省を欠如しているかぎりなんの意味もありません。たしかに、中国とソ連は、革命前の経済的遺産において、また、今日的にはより決定的に、大きな経済的条件の差異があります。だが、このような<経済的発展の差異という客観的条件が<国家的対立>に転化するということは、とりもなおさず、今日の中ソ社会の主導的契機が<目的意識的>なものではなく、<自然成長的>なものだということを意味しています。
 たとえば、中国へのソ連の経済援助(じつは国際価格を規準とする貿易ですが)の実体は、じつに深刻な問題を提起しています。というのは、労働者的な統合計画経済の欠如している一国社会主義的条件のもとでは、中国へのソ連の生産財の輸出と、ソ連への中国の農産物と工業原料の輸出という形態で行なわれる<経済援助>は、実際には、農村経済に財政的基礎をもち、農業に見返るほどの工業力水準すら欠く中国経済をして、総体的にソ連経済の農村という役割りを固定化し、しかも援助が拡大されればされるほど消費手段が欠乏するという矛盾を生みださざるをえないわけです。〔なお、後進国における工業化とそのための資本形成および「国際的経済援助」の問題にかんしては、すでにブルジョア経済学の領域においてかなりの研究がすすんでいるので、別のかたちで系統的批判を試みようと思っています。〕
 人民公社運動における<農工結合政策>や国際関係における<自力更生>政策は、このような矛盾にたいする反動的な解決形態だといえます。つまり、中ソ間の経済的発展の差異を<国家的対立>に転化するもっとも基本的契機は、中ソ官僚の<一国社会主義>の自己目的化にあります。中ソ両共産党がともに<平和共存と一国社会主義>という共通のスターリン主義的原則にふまえればふまえるほど、逆に、両者の対立は深刻化する必然性をもっています。究極的にいうならば、中ソ論争は、このような<平和共存と一国社会主義>的現実世界から必然化する社会的矛盾のイデオロギー的表現であるといえるでありましょう。
 したがって、国際帝国主義の打倒と、ソ連圏社会のスターリン主義的官僚制への変質の打破という革命的世界観を喪失している中国スターリン主義官僚は、ソ連国有経済の絶対的重圧化にあるソ連圏官僚制的「統合」経済から独立するために<自力更生>路線をうちだしつつも、現実には、世界的な先進的工業力と結合するために、不可避的に特定の帝国主義との交通を許容せざるをえないのであり、このような現実的基礎のうえに、帝国主義との政治的協商のたえざる拡大が生起するといえます。
 今日、フォール元首相の中国訪問を契機として、中国政府とドゴール政府の接近が、かなり具体的な日程にのぼってきました。六三年七月の部分的核停条約に際して、ソ連官僚政府の<帝国主義との抱擁>を裏切りとして弾劾していた北京のスターリン主義官僚は、その舌の根のかわかぬうちに、フランス労働者階級の専制的搾取者であり、旧仏領アフリカ一三ヵ国の植民地的抑圧者であるフランス帝国主義と秘密外交をかさね、中国官僚政府の国際政局における外交的利益の拡大とひきかえに、西欧労働者とアジア・アフリカ諸国人民の反帝反植民地のたたかいを、フランス帝国主義に売り渡そうとしているのです。
 インドシナやアルジェリアの人民が血を流してたたかい、黒色アフリカの若き指導者がいまようやくたたかおうとしているフランス帝国主義、そして熾烈な階級的弾圧に抗して、フランス労働者階級がその革命的深部においてその根底的打倒のためのたたかいを現に準備しつつあるフランス帝国主義――この労働者階級と植民地人民の共同の抑圧者であり、共同の搾取者であるフランス帝国主義にたいし、全世界の労働者人民がそのたたかいを停止し、<反米の大義のため>に力をあわせることを、北京政府は要求しているのです。
 じつに、中国共産党の怒号する<反米統一戦線>のスローガンは、労働者階級の自国政府打倒のための闘争と、植民地人民の反帝国主義のための闘争を抑制し、フランス、イギリス、西独、日本などの帝国主義列強との野合を隠蔽するためのカクレミノにすぎません。
 かつて、毛沢東は「国際的には、われわれはソ連を首班とする反帝国主義陣営に属するものである。それゆえにこの陣営からの真実にして友好的な援助を求めうるだけであって、帝国主義陣営から求めることはできない」(「人民専制を論ず」)と断言したが、いまや、後進国革命の利益とひきかえに帝国主義の援助を求めています。中国共産党のみせかけの<反帝国主義>に幻想しているすくなからぬ戦闘的労働者は、このような事態に直面して、今日、中国政府とフランス帝国主義の<道行き>に割切れぬ気持ちをもちはじめていますが、まさにこのような疑問を徹底的にほりさげることこそ、いま全世界の労働者階級に課せられている緊急の任務なのです。
 なぜならばフランス帝国主義にたいする中国スターリン主義官僚のこのような政策は、すでに指摘したように、中国共産党の例外的・偶然的な行為ではなくして、逆に、中国共寝党の<平和共存と一国社会主義>というスターリン主義的原則からの論理的帰結であり、反労働者的な工業化に熱病的に傾斜した中国社会と<一国社会主義>的現実(じつは官僚制的国有経済)の内部矛盾からの必然的な結果であるからです。このような現実的根拠を把握することなしには、中国スターリン主義官僚の対外政策の真の解明と批判は不可能です。
 同時にここで確認しておかねばならないことは、日中貿易を拡大するという方法では、中国革命の今日の危機をけっして克服できないということです。先進的資本主義国からの生産財の輸入の拡大と東南アジアへの消費雑貨の飢餓輸出は、中国工業化の熱病的な衝動をつくりだすでありましょうが、実際には中国経済の消費手段の欠乏を構造化することによって、労働者と農民の窮乏をより深刻化させずにはおかないでしょう。もちろん、一方における工業生産の発展と、他方における消費手段の欠乏という状態は、官僚と労働者・農民との矛盾を深化させることによって、プロレタリア的解決の客観的条件を成熟させているといえます。だが、中国における反官僚制のプロレタリア革命は、日本革命を先駆とする一連の先進国革命およびソ連・東欧における反官僚制のプロレタリア革命と結合することなしには、けっして最後の勝利をうることは不可能でありましょう。
 欧米における革命運動の危機的な現状は、スターリン主義との根底的な決別が、革命運動の形成と前進の不可欠の前提であることを明白に示しています。
 第四インターの今日の衰退と解体は、反スターリン主義を徹底化しえぬところに根本的原因があります。現代革命の綱領的立場は、<反帝国主義・反スターリン主義>以外にありえないのです。国際プロレタリアートが、世界革命の途上において、中ソ論争の二者択一的な次元をみずからのりこえて、帝国主義の打倒とともに、スターリン主義の打倒を不可分の過程として日程にのぼらせることは疑いありません。マルクスの<革命が必要であるのは、たんに支配階級が他のどんな方法によってもうちたおされないからだけではない。さらに、うちたおす階級が、ただ革命においてのみ一切のふるい汚物をはらいのけて、社会のあたらしい樹立の力を与えられうるようになりうるからである>(『ドイツ・イデオロギー』)という言葉は、現代革命の内的関連を深刻に示唆しているといえます。
 したがって、中国をはじめとする世界の革命的プロレタリアートは、中国革命のこのような危機と変質をもたらした主体的客体的条件を根底的にきりひらくために、その思想的・階級的根拠を解明しつつ、<官僚的支配の党>としての中国共産党を打倒し、<反帝国主義・反スターリン主義>世界革命の一環として、中国第四次革命を準備しうる革命的労働者党を、中国工業プロレタリアートの深部に形成するためにたたかわねばなりません。このような党のための闘争は、けっして容易なものではないと思います。だが、中国大陸における工業化の発展は、三千万人にものぼる巨大な工業プロレタリアートを産出し、生活消費財の欠乏と低賃金にたいする不満と反抗は、しだいに表面化する傾向を示しています。農民のあいだでの増大する抵抗は、ますます反政府的な傾向をとりはじめています。
 おそらくは、このような不満と抵抗は、中国経済の若干の好転による大衆消費財の部分的な市場化と中央政府の非妥協的な農民的統制の強化の挟撃によって一時的にはうち破られ、より露骨な官僚制的農民支配が強化されることでしょう。だが、中ソ論争の激化は、一方では無意味な中国民族主義を謳歌させるとともに、他方では<社会主義とはなにか>という新しい疑問を広範に生みだしています。<スターリンの神話>の崩壊は、政治的、経済的不満と結合することによって、都市民衆の動揺を不可避とすることでしょう。中国共産党の<スターリン批判>への病的な敵意は、じつに、自己の官僚制的な抑圧と収奪にたいする増大する民衆への敵意にほかならないのです。
【注】中ソ論争にかんして完全に沈黙していた山本派(自称革マル派)は、わが同盟の系統的な中ソ論争にかんする分析と批判にたいして、わが同盟の内部に北京派的動揺があるからだとして、自己の怠慢を慰めていましたが、さいきんになって、ほかならぬ山本派の内部に<前進派>的傾向が成長していること(山本派内部通信『解放』一七号)に狼狽して、われわれの論文にたいして揚げ足とり的な<批判>を開始しています。
 たとえば「宮田剣一」などというニセ商標で「中ソ論争とわれわれの組織課題」という珍妙な論文(『解放』一五号)を密売している山本勝彦(黒田寛一)は、そのなかで、武井が(1)スターリンの『レーニン主義の基礎』第二版に<オルグられて>一国社会主義論に転落したこと、(2)毛沢東の「新民主主義論」に<オルグられて>二段階戦略論に転落したこと、の二点をなんとか証明しようとして愚にもつかぬ努力をつづけています。だが、このような粗悪品の密売は、山本勝彦の頭脳の衰弱と現実感覚の喪失を暴露するだけです。その惨状は以下のとおり――。
 (1)武井(本多)の<一国社会主義への転落>の神話と山本の錯乱について。
 山本の錯乱の直接の原因は、本来は、武井が「レーニンの忠実な弟子を装っていた官僚スターリンは一九二四年の四月にスヴェルドロフ大学における講演においてつぎのようにいっていたのです」として、スターリンの『レーニン主義の基礎』初版の一部を引用した(本論文三〇二ページ参照)ところが、印刷の過程で「四月」を「九月」に誤植してしまったことにあります。
 武井になんとかケチをつけようという潜在的病質におかされていた山本は、文章をロクに読まずに(?)、引用文を「第二版」(スターリンが一国社会主義論に転向したのちの改訂版)のものだと早合点して、精神の平静を失ってしまったわけです。しかも、そのうえご苦労にもスターリンの『レーニン主義の基礎』第二版が、一九二四年の九月にすでに出版されていたかのような自己の事項的誤謬まで暴露してしまったわけです。というのは、一九二四年の九月のスターリンは、すくなくとも対外的にはいぜんとしてレーニンの世界革命論の立場に立っていたからです。スターリンの「一国社会主義論」が公然と提起されたのは、一九二四年の十二月ですから、この誤植は論理的には許されうる誤りですが、一九二四年九月に、すでにスターリンが『レーニン主義の基礎』第二版を出版していたなぞというデマは許しがたい歴史の偽造です。自己のセクト根性を満足させるために、スターリンの世界革命論から一国社会主義論への転換という国際共産主義運動史上の決定的事項を、勝手に歪曲するようなことは、絶対に慎しむべきです。
 ところで、もっと重要な点は、引用文そのものを読めば、スターリンが、ここでは、ロシア「一国における社会主義の終局的勝利」の可能性を否定していることは明白であるにもかかわらず、これをスターリンが一国社会主義可能論を展開したものだとして読みえた、山本の読解力? です。同じ文中で宮田(山本)は、「黒田(山本)同志が『現代における平和と革命』一五〇ページにおいて右記論文(筆一版のこと――筆者)を一国社会主義論と規定し批判した基本的立場を断乎継承し……」などと自分で自分への賛美の手本を書いたりしていますが、その『平和と革命』の一四九ページでは、黒田(山本)は、「社会主義の終局的勝利、社会主義生産の組織のためには、一国、ことにロシア農民の勢力(「ロシアのような農民国の努力」の誤り――筆者)だけでは不十分である。そのためには、いくつかの先週国の(「プロレタリアートの」が脱落――筆者)統一的な努力が必要である」という初版の一節を引用して、「ボルシェビキ党の根本的な立場をほぼうけついでいる」と書いています。
 いったい、一九六三年の宮田(山本)は、一九五八年の黒田(山本)のスターリンにかんする規定を「断乎継承」しているのでしょうか。それとも『平和と革命』の著者としての宮田(黒田)は、「スターリンにオルグられて一国社会主義論に転落」していたのでしょうか。したがって、山本は<『レーニン主義の基礎』を正当化する武井健人は……>などと得意になっていますが、第二版と初版とを混同して第二版を美化しているのは、ほかならぬ山本(黒田)その人だということです。結論――自分で書いたものをまず自分で読みかえすべし。
 (2)武井の<二段階戦格への転落>の神話と黒田の世界革命の<絶対精神>について。
 かつて自分の引用した「レーニン主義の基礎」初版の文章を忘れて、第二版(一国社会主義論)のものだと早合点するほど頭脳衰弱した山本は、ここでも同様に、武井が二段階戦略にたっていると誤解しようとして苦心しています。つまり、わが黒田によると、中国革命が<民族自決権の獲得>と<土地改革を焦点とする「ブルジョア民主革命的」な諸課題>に直面していたことを認めることは、「後進国の革命戦略をブルジョア民主主義革命と性格づけることを意味する」のだそうですが、このような独断は二重の意味で明白に誤っています。なぜか――。
 まず第一には、黒田は、中国革命における民族問題と農民問題の意義にかんして、まったく無知であり無感覚であることです。中国革命の過去から民族問題と農民問題という二つの課題の設定を拒否し、追放することは、革命過程そのものから自己を拒否し、追放するものです。
 第二には、かつては黒田も認めていたように、二〇世紀革命の主要な問題の一つは、このような「ブルジョア民主主義革命的」な課題を、プロレタリア世界革命の一環として解決していくことにありますが、黒田は課題の設定そのものを二段階戦略だと主張しています。つまり、わが黒田は、プロレタリア革命は、純粋にプロレタリア社会主義革命的な課題(プロレタリア革命の絶対精神)から直接に成長するものと空想しているのです。なお、かつて、わが山本(黒田)は、日本革命の過渡的要求の第一要求に<米軍の撤退>――『M綱領草案』――をあげ、日本資本主義の(対米従属規定)――『平和と革命』をとりましたが、このような日本革命にかんする誤った規定とプロレタリア革命にかんする純粋概念とはけっして矛盾しているわけではありません。両者はプロレタリアートの現実の階級闘争にかんする観念論として同居しうるものです。
 だが、プロレタリア革命運動の創成期にありがちなこのような<小児病>を克服することなしには、<反帝国主義・反スターリン主義>の革命党を幾百万のプロレタリア大衆自身の行為としての日本社会主義革命の前衛党にまで鍛えあげることは不可能です。黒田のように、中国革命の危機と官僚制的変質(もっとも黒田は、『平和と革命』四五ページでは<中国革命の勝利>と、手放しで賛美してますが……)の原因をただただ毛沢東の<新民主主義論>の論理的誤謬のなかにみいだそうとするのは、観念論的方法であるばかりか、中国革命にかんする伝統的な左翼反対派の客観主義の一形態であるといえます。なぜならば毛沢東の批判は、同時に、都市プロレタリアートを実体とする新しい革命党の創成と農民戦争と呼応した都市革命の問題を鋭く提起しているからです。抗日戦争と農民の反地主戦争にたいする中国トロツキストの召還主義的態度と、第三次中国革命における工業プロレタリアートの受動性とは、けっして無関係ではないと思います。
 ところで、黒田の拡声器である森茂(石田六郎)は、『早稲田新聞』に掲載した論文でわれわれへの批判を試みていますが、その内容たるや、例のごとく黒田の口うつしで、しかも前半では農民革命などはないと断言しながら、書き加えられた後半では「党=軍隊=農民といった等式がほぼ実現しうるような権力構成」などというほど支離滅裂なもので、いまさらながらどうということはありません。だが、一点だけ黒田論文にないところがあります。
 すなわち、第三次中国革命にかんする<スターリニスト革命>という規定です。この規定にたいして黒田がどういう態度かわかりませんが、いずれにしても、<スターリニスト革命>という規定が、階級的実体の分析すら放棄したところの現象論であることは明白です。中国革命およびキューバ革命とその官僚制的変質にかんして、社会科学的に分析し、批判する努力を放棄して、スターリニスト革命などという現象論的規定をもちだすことは、二月革命にたいして(メンシェビキ革命)という規定を与えるようなもので、理論外的な方法だといわねばならないものです。
 しかも、もっと重大な意味は、このような<スターリニスト革命>説が、<スターリン主義は帝国主義を打倒する>というプロ(親)スターリン主義的な新説(だから反帝国主義には反対というのだから変な話です!)と結合して提起されているところにあります。したがって、われわれは、スターリン主義を神秘化し、スターリン主義的指導性を超階級的なものに絶対視する、このような黒田派の「反スターリン主義からブルジョア社会学への堕落」を粉砕し、中国革命およびキューバ革命にかんする階級的諸過程の解明をさらに追究しつつ、帝国主義とスターリン主義の分割支配を前提とする複合的な現代世界の新しい構造的変動と、そこにおける国際プロレタリアートの革命的任務をあきらかにするために前進しなければならないと思います。
         (『共産主義者』九号一九六四年三月に掲載)