四 反革命カクマルの総路線的破産
 
 
 1 吉川文書にみるカクマルの惨状
 2 「松井文書」にあばかれた反革命カクマルの腐敗
 
 
1 吉川文書にみるカクマルの惨状
 
 二重対峙・対カクマル戦は、先進帝国主義国であるわが国において、プロレタリア革命を武装解放闘争として実現しようとするわが同盟の先制的内戦戦略の基軸中の基軸をなす戦いである。
 したがって当然のことながら、この戦争は、あくまでもマルクス主義的政治理論に徹底した基礎をおく軍事として戦われなければならない。『革共同通信』八号(七四年三月)から六回にわたって連載された吉川文書の革命的暴露は、この原則にたって、反革命カクマルにたいするイデオロギー的攻撃の第一弾として、本多同志の手によってかちとられ、以後の革命的奪取文書の暴露の典型をきりひらいた画期的論文である。発表時の筆名は細川耕一。
 
 
 はじめに/(1)吉川撃沈の偉大な戦略的意義/(2)吉川文書の 入手はカクマルにさらに決定的打撃を与えた/(3)吉川撃沈の直前、九州カクマル組織は崩壊的危機にみまわれていた /(4)一年間にわたる吉川の九州/(5)Gt問題で崩壊寸前の大混乱/(6)カクマルと吉川は革命的報復戦の開始を直視することさえできなかった/(7)「平和幼想」をふきとばした 横須賀寄港時決戦――土門撃沈/(8)十・二〇襲撃、時間ぎれのとん挫/(9)十・二二国学院反革命分子せん滅はカクマルを恐慌状態にたたきこんだ/(10)宮崎大への第一弾ではやくも九州カクマルは崩壊過程に突入した/(11)九州の危機はいたる所で拡大する/(12)田中・佐竹問題、朝倉撃沈に吉川は惨めな対応無能力を示した/(13)鹿大分子せん滅の日、吉川は九州総破綻について報告していた/(14)閑話休題。山代=今賀先生の今後が不安な話について/(15)十一・二六狭山闘争上京団への白色襲撃策動とそのとん挫/(16)鹿島吉秀の腐敗と破綻は九州カクマルの未来を予知させた/(17)十二・一 五九州集会の失敗を契機に総破綻はさらに深まった
 
 
 はじめに
 権力の大弾圧、あらたなK=K連合策動、そのもとでの反革命カクマルの卑劣な謀略と白色襲撃のたくらみをつきやぶって、いまや、われわれは、二重対峙・対カクマル戦の決定的な前進、かつてない高度の政治的、軍事的な質をもった赤色テロルの爆発をかちとろうとしている。
 権力の露骨な激励と援助によって、死の淵からかろうじて救出された反革命カクマルどもは、北小路、陶山の両同志に姑息な白色襲撃を加えるとともに、産別常任やその子分ども(昨年八月の全国会議で、アミダ様を自称する黒田からさえ、産別主義者、スターリンと同じ構造の政治技術主義と面罵された小官僚たち)を使って、破防法弁護団や知識人にたいするファシスト的な脅迫政治、中核派の内部分裂の虚構(願望!)を維持するための見えすいた謀略ビラづくりのための絶望的あがきを開始した。
 戦争の発展についての真の展望も、また、そのための真の態勢ももちえない反革命の卑劣漢どもは、こんな姑息なやり方で九・二一以来のかれらの敗勢、やられっぱなしの「唯物論」的現実をはねかえすことができるかのように幻想している。未来をうしなった人間には、事実よりも願望の方がはるかに現実らしくみえるのであろう。
 
 (1) 吉川撃沈の偉大な戦略的意義
 
 だが、われわれが昨年八月に宣言し、九・二一から冬期大攻勢にかけての革命的対峙戦をとおしてたたかいとった戦略的陣地は、権力の大弾圧、あらたなK=K連合策動によっても、また権力の激励と援助のもとでの反革命カクマルの腰のはいらぬ白色襲撃によっても、けっして奪いかえすことはできないのだ。われわれの二重対峙・対カクマル戦の勝利の展望とその態勢は、ますます強固なものとなっている。一・二四の歴史的勝利とそれにひきつづく一連のたたかいの大爆発は、反革命カクマルの底なしの恐慌状態を根底的に規定しているのだ。「人ごろし」だの「火つけ」だのという反革命分子のみっともない悲鳴は、かれらの恐怖がいかに深刻なものであるかを、自己暴露するだけのことである。事実、黒田をはじめとする反革命の卑劣な頭目ども、学生戦線や労働戦線のこまっちゃくれた小官僚どもは、うわべの空威張りとはうらはらに、開始されんとする春期大攻勢のまえに完全にビビリはじめているのだ。
 反革命カクマルの完全打倒にかけた革命党と革命勢力の勝利の確信、勝利の展望、勝利の態勢は、もはやなんぴとによってもつきくずすことはできない。今日の複雑な情勢を基本的につらぬいている根底的な力関係、根底的な発展方向をはっきりとつかみとり、その基礎のうえに堅実に前進するならば、われわれの勝利は鉄の必然である。従来の作戦計画にもとづいて報復戦をひきつづき強化発展させつつ、敵の完全打倒のための戦略とその態勢をいっそう本格的にねりあげ、それにそっていっそう計画的に、いっそう系統的に反革命カクマルのせん滅と解体をなしとげること――まさに、このようなものとして春期大攻勢は開始されようとしているのである。
 われわれのこのような勝利の道にたいし、わが反革命の頭目どもは、権力の激励と援助にもかかわらず「勝利」の展望も態勢もうちだすことができないでいる。「アト一撃論」も「おせおせスタイル」も無惨に破産してしまい、「最終的解体のためのたたかい」なるものももはやうつろな虚構になってしまった反革命カクマルの頭目どもは、権力の援助でひとまず延命できたことに心底から安堵するのに精一杯であり、することといったら「政治的包囲」の名のもとに、ファシスト的脅迫政治や謀略ビラづくりをおこなうことしかないのである。
 まさに、このようなかれらの腰のはいらぬ対応の根底にあるものは、反革命カクマルの総路線的破産の度しがたいふかまり、反革命組織の全国的な混乱と衰退であり、わが革命的対峙戦の激烈な発展によって完全に追いつめられ、もはや「アト一撃論」の虚構の維持が不可能となったばかりか、反革命白色襲撃路線そのものの破産が問題とならざるをえないような敗勢的現実である。ともあれ、このような反革命カクマルの惨たんたる現状をみごとに証明してくれたものこそ、十二・四反革命当時、反革命カクマルの関西地方委員会議長であり、解体状況にある九州地方のたてなおしのために黒田から七三年一月に九州地方委員会議長として、直々派遣された吉川(鶴田)の詳細きわまる文書である。
 すでに確認されているように、われわれの吉川撃沈のたたかいは、年末年始闘争の頂点をなすものであり、土門、楠、朝倉らの撃沈とならんで敵指導系統の決定的な崩壊をもたらす重大な勝利である。まさに、これらの敵指導中枢への致命的な打撃は、一・二四を頂点とする敵戦闘主力への圧倒的せん滅戦の展開、十二・一五、十二・二三と連続的にかちとられた大会戦・集団戦の大勝利とともに、わが革命的対峙戦の偉大な勝利をかたちづくっているのである。
 さしあたって、吉川撃沈の直接の政治的、軍事的な意義について検討すると、おおよそつぎのような諸点が問題となるであろう。
 第一には、辻、正田両同志を虐殺した七一年十二月四日の反革命的行為にたいする正義の報復であるということである。
 七一年十二月四日早朝、反革命カクマルは、権力の全面的な援助のもとに全国的な白色襲撃を開始した。黒田の直接の指示にもとづいて関西での白色襲撃を計画した吉川は、早大カクマルの応援をもうけて関大バリケード闘争にたいする武装襲撃をおこない、辻、正田の両同志を虐殺したのである。
 七一年「第二の十一月」は、七〇年代階級闘争の革命的、内乱的、武装的発展の偉大な火柱をなすものであった。松尾全学連委員長に破防法を適用し、中核派系とみられるいっさいの政治集会を禁止する暴虐な弾圧を、権力がこれにたいしておこなったにもかかわらず、わが同盟を先頭とする労働者人民は、この大弾圧を戦闘的にうちやぶって沖縄――渋谷――日比谷の大暴動闘争をたたかいとり、さらに十二月総決起にむかって英雄的に前進し、権力の破防法攻撃の破産をつきだしていったのである。
 権力による破防法型弾圧のこのような行きづまりを突破するために権力がとったあらたな手段こそ、民間武装反革命を内乱的に動員することによって革命党と革命勢力を鎮圧し、階級闘争の革命的、内乱的な発展を阻止しようとするところのK=K連合政策であった。まさに、このような権力に「無上の喜び」をもってまっさきにとびついたものこそ、警視庁公安部のスパイを志願したという黒いキズあとをもつ黒田寛一であり、その第一の腹心であった吉川である(十二・四反革命がまずもって黒田直系の関西で開始されたことは偶然ではない!)。われわれの吉川撃沈の偉大なたたかいは、黒田――吉川のこのような反階級的罪状にたいする無慈悲な回答である。
 第二には、二重対峙・対カクマル戦、とりわけ革命的対峙戦の前進をかちとるうえで、その頂点のひとつをなす軍事的勝利である、ということである。
 吉川撃沈のたたかいは、激烈をきわめた年末年始闘争のなかでも、ずばぬけた高地をなし、土門、朝倉、楠らの撃沈とならんで戦争の局面をいちだんと決定的に前進させるものであった。今日にいたるも、反革命カクマルの卑怯者どもは、吉川の「事実上の虐殺」などという珍無類な非難をくりかえしているが、それは、かれらのうけた軍事的打撃感がいかに深刻なものであるかを、はっきりと示しているのだ。まさに、かれらは、十二・一五、十二・二三の大会戦、集団戦における壊滅的な大敗北、一・二四闘争とそれにひきつづく一連のたたかいとともに、その底なしの打撃感からたちなおることができないのである。
 第三には、反革命カクマルの指導中枢の崩壊を決定的に促進する重大な一打である、ということである。
 十・六の土門撃沈、十一・一九の朝倉撃沈によって、すでに反革命カクマルの政治的指導部は事実上の崩壊をとげている。森茂が逃走し、土門、朝倉がぶざまに撃沈されたあと、残っている指導部らしきものといえば、学者?の道に未練たっぷりで、政治的には無能な山代、およそ理論的な能力がなく、その肉体派的な体質を黒田へのゴマすりでおしかくしている西条、漫談をやることしか能のない梅津、長い文章をかいては、いつも黒田から無内容といって批判されてばかりいる小野田、数年にわたって一本の論文もかかせてもらえない若林……といったみじめな状態である。だから、昨年暮の全国拡大常任会議では政治局から基調報告をできるものがひとりもいなくなってしまい、仕方がないのでテープにふきこまれたアミダ様ならぬクロダ様のお説教をみんなして聞いてかえる、という漫画的な情景がくりひろげられたのである。
 六〇年ブントの戦旗派的な体質をいまだに脱却できない北海道、東海、北陸などの小官僚どもが、これではいくらなんでもひどすぎると、不満たらたらになったのは、けだし当然であるが、こうしたなかでもっともみじめだったのは、黒田に忠実であるにもかかわらず、いな、忠実であるがゆえに、敗けっぱなしで崩壊寸前となっている関西、中国、九州の小官僚どもであった。かれらは、自己の地方の敗勢や崩壊的現実を精一杯自己批判することによってアミダ様への忠誠をちかい、黒田直系の位置をかろうじて維持したのである。黒田にとっても、いまとなって頼りになるのは、どんな欠点があろうとも、吉川配下の関西、九州であった。その吉川がなんと完全にパンクしてしまったのである。主体性がひとかけらもなく、無能であるがゆえに、十数年にわたって黒田の第一の直系としてのテープレコーダーたりえた吉川はまた、すべてが唯物論的に決算される戦争のなかで、その没主体性、無能力性があばきだされ、死の墓に生きながら葬むられる破目におちいったのであるく
 第四には、九州地方の反革命組織の崩壊と衰滅は、もはや完全に時間の問題になった、ということである。
 もともと、吉川の九州行きそのものが、六七年夏以来の九州地方委員会の大混乱、二宮、野見山、大薮、梯らの旧戦旗派指導部による中央指導への陰然とした抵抗、門司支部をはじめとする動労門司地本内カクマル分子の総くずれをたてなおすことを目的としたものであった。事実、吉川は、アミダ様の権威をカサにきて九州にのりこみ、二宮ら旧指導部をつぎつぎと追放し、吉川体制をつくろうとしたのであったが、宮崎、鹿児島、熊本の反革命組織は、反発と離反、動揺と衰退の一路をたどり、九州地方委員会を機関として維持することすら不可能となったのである。しかも、肝心の福岡は労学両戦線にわたって衰弱し、その指導部? も混乱につぐ混乱におちいっていたのであった。
 九州カクマルのこのような総くずれ状態を一挙にあばきだし、その崩壊的危機をいっそう促進したものこそ、われわれの革命的報復戦の激烈な進展であった。報復の一撃一撃は、きわめて的確にカクマル九州地方組織を壊滅にみちびいたのだ。宮崎、鹿児島はふっとび、熊本はガタガタとなった。動労前中央青年部長Mをはじめとするひとにぎりの動労カクマルは、「党派闘争ニヒリズム」におちいり、職場では、「中央青年部長スタイル」の官僚主義が破産し、代々木や協会派におされっぱなしとなった。しかも福岡の吉川指導部は、報復戦の衝撃により完全にパンクしてしまったのである。
 すなわち、わずか数名の指導者のうち、学生戦線の責任者であり、白色襲撃の隊長である岩下は、十・二〇白色襲撃の破綻をはじめとする度重なる失敗で完全に権威失墜し、降格となった。十二・一五反革命集会の基調報告者であり、教組関係の産別担当である鹿島は、その腐敗した活動態度のゆえにたえず批判の対象となり、指導者としての失格が確認される始末である。そこにもってきて吉川の撃沈である。
 要約するならば、吉川撃沈のたたかいは、それ自体(1)辻、正田の両同志虐殺の最高責任者にたいする正義の報復、(2)二重対峙・対カクマル戦上の重大な軍事的勝利、(3)黒田指導系統の決定的崩壊、(4)九州カクマルの事実上の解体、としての直接の政治的、軍事的な意義をもっており、反革命カクマルの完全打倒をかちとっていくうえでじつに巨大な戦略的位置をもっている。だが、しかし、吉川撃沈の意義はそれにとどまるものではない。
 われわれは、吉川撃沈という政治的、軍事的勝利をとおしてもうひとつの重大な戦略的勝利をかちとった。すなわち、吉川文書の革命的入手である。
 
 (2) 吉川文書の入手はカクマルにさらに決定的打撃を与えた
 
 では、吉川文書の革命的入手とその解明は、いったいわれわれになにをもたらしたであろうか。吉川撃沈のもたらしたもうひとつの戦略的勝利を真の戦略的勝利に転化する観点から、吉川文書を徹底的に利用しつくさなくてはならない。われわれは、つぎつぎとその成果を基礎資料にふまえつつあきらかにしていくであろうが、とりあえず、総括的にその核心的な内容を指摘しておくと、おおよそつぎのようなことが問題となるであろう。
 
 (a) 赤色テロの第一級の基礎資料
 
 第一には、反革命カクマルの指導系統、その組織構成について尨大な第一級の基礎資料を提供してくれた、ということである。
 中央、関西、中国、九州、動労の反革命分子の動向や構成についてのわれわれの調査活動は、ここに決定的な飛躍の素材をあたえられたのである。十・二二の国学院カクマル撃沈と、それをとおしての国学院文書の革命的入手によって、国学院カクマルの動向、同盟員からシンパ、工作対象にいたる組織実態を解読するカギをあたえられたように、いまや、われわれは、中央、関西、中国、九州、動労といった広大な領域にわたって敵の指導系統、組織実態を捕捉する第一級資料を獲得したのである。われわれは、やがてこの基礎のうえに報復戦の画期的前進をきりひらくであろう。
 
 (b) 敗勢的現実をカクマルが確認
 
 第二には、二重対峙・対カクマル戦の画期的な前進、とりわけ革命的報復戦が敵にあたえた打撃の深刻さ、その敗北感、消耗感が敵自身のことばをとおしてはっきりと確認された、ということである。
 七一年十二・四反革命から七三年夏までの約二年のあいだ、われわれの側の戦略的防御に規定されて、反革命カクマルは、基本的には一方的攻撃者、相対的優位者の立場にたつことができた。ところが、われわれが二重対峙・対カクマル戦を戦略的防御の段階から戦略的対峙の段階に前進させることを昨年夏に決定し、二ヵ月間の準備ののちに九・二一を突破口として革命的報復戦を開始するや、反革命カクマルの尊大な優位性は一挙に崩壊し、それにかわって反革命カクマルの政治的展開力の急速な収縮、指導中枢の破産と無能ぶり、各地方組織、各産別組織の腐敗と衰退がまたたくまにあばきだされ、軍事的敗勢がただちに政治的破産、組織的破産をつきだしつつ全体化していったのである。
 反革命カクマルの卑劣な頭目どもは、反革命特有の資質にもとづき、敗勢的現実をなかなかみとめようとはしない。かれらは、つねに小ブル的尊大さでおのれをかざりたてることしかできないのである。しかし、反革命の手合どもがおのれの現実にどのような幻想をいだこうとも、戦争の現実は無慈悲に虚構をひきはがしていく。かれらは、七三年幕にいたって、ついに「やられっぱなしの現実」を承認せざるをえなくなり、アト一撃論・おせおせスタイルの破産を組織内部でこっそりと確認しなければならなかったのである。アミダ様ならぬクロダ様の意気消沈した泣きごとというかたちをとってであれ、かれらは、戦争における底なしの敗勢、底なしの恐慌状態におそれおののき、どんな卑劣な手段をつかっても白色襲撃路線をたてなおすことを、絶望的にちかいあっているにすぎないのである。
 
 (c) 「党派闘争論」の破産を暴露
 
 第三には、田中・佐竹問題という姿をとってあばきだされた反革命白色襲撃路線の総路線的な破産である。
 すでにおおくの機会をとおしてあばきだされてきたように、反革命カクマルの総路線なるものは、階級闘争の革命的、内乱的な発展を権力と一体となって内乱鎮圧的に阻止しようとすることにある。そのさいかれらが口実とする反革命的手段が、組織現実論なるものと党派闘争論なるものの二つのペテン的主張である。すなわち、かれらは、一方では組織現実論の名のもとに階級闘争の体制内的な発展、労働運動の組合主義的歪曲をおしすすめるとともに、他方では、党派闘争論の名のもとに階級闘争の革命的、内乱的な発展の前衛部隊をなす革命党と革命勢力への白色襲撃、K=K連合策動への屈服をおしすすめてきた。
 川口同志虐殺と、それにたいするかれらのペテン的な居直りにみられるように、かれらの党派闘争論の核心をなすところのものは、権力打倒をめざす革命的党派にたいして、権力の援助のもとに暴力行使の権利なるものを合理化しようとするところにある。
 かれらは、権力にたいしていちども行使したことのない暴力を、権力とたたかう革命的党派にたいしてのみ行使し、それをペテン的な言辞をもってかざりたててきたのである。それゆえ、川口同志虐殺とそれにたいする四万早大生の弾劾の嵐のなかで、反革命カクマルは、暴力の荒廃なるものについて小ブル的な言辞をろうし、党派闘争の未熟なるものへの自己批判をおこなったのであったが、その真の狙いは、白色襲撃の高度化、つまり、K=K連合の枠のなかでの、それをはみださない形態で白色襲撃を継続することにあったのである。
 ところが、早大全中日委員長の田中、早大一文自治会書記長の佐竹は、川口同志虐殺の革命的報復から卑怯にものがれるために権力のふところににげこみ、反革命的な暴力行使についての責任回避、革命的な赤色テロルへの恐怖からの自己保全を「暴力一般」の否定、暴力による党派闘争の荒廃なるものにもとめようとしたのである。いいかえるならば、田中・佐竹は、反革命カクマルが優勢であるあいだは反革命的暴力の行使の権利について尊大にかたりつづけ、反革命カクマルの優位が崩壊し、革命的暴力の正義の行使がはじまるや、暴力反対の小ブル的スローガンにしがみついたのである。表面では暴力の荒廃についてかたりながら、その背後で陰険に暴力を行使するという黒田のペテン的やり方がここにその矛盾をあばきだされたのである。
 もとより反革命カクマルとしての独自性に「生への未練」をたちきれない黒田は、白色襲撃路線の清算が、同時に反革命カクマルの最期であることをもっともよくしつているがゆえに、田中・佐竹が「川口虐殺についての反革命的自己批判」の矛盾を開花させてしまったことにあわてふためき、川口問題についての自己批判の本質が、白色襲撃の高度化にあることを懸命になって再確認しなければならなかったのである。まさに、田中・佐竹の恥ずべき行為(黒田によると、これでも田中・佐竹は中核派よりもずっと高度なのだそうである!)は、黒田の党派闘争論、小ブル的な論理と倫理でかざりたてられた反革命的暴力論の矛盾を開花させ、白色襲撃路線の破産を証明してみせたところにあるのである。
 反革命カクマルの尊大な態度にもかかわらず、かれらの地方組織は、革命的報復戦のはじまる以前からすでに衰弱した組織状態におちいり、崩壊的危機をふかめていたのであったが、九・二一以来の革命的報復戦の戦略的展開は、カクマル地方組織のこのような惨状を一挙的にあばきだし、その衰退と解体をいっそう促進するものとなったのである。
 黒田直系の関西カクマルは、七三年四・二大会戦・集団戦の大敗北以来完全に党派闘争ニヒリズムにおちいり、数すくない労働者同盟員は組合主義、産別主義の泥沼にまよいこんでしまった。関西議長の楠が撃沈されても「人違い説」ににげこみ、その報復の宣言すらうちだすことができない。関西のあまりのふがいなさに狼狽した黒田は、東海、北陸の反革命分子どもを投入することによって、かろうじて関西カクマルの壊滅をひきのばし、対峙の虚構を維持しようとしているが、関西カクマルの底なしの敗北感は、いまやとどまるところをしらぬありさまである。
 
 (d) 九州組織の想像をこえる衰退
 
 第四には、九州をはじめカクマル地方組織の想像をこえる衰退と危機をじつにあざやかな事実をもって証明してみせた、ということである。
 広島を中心とする中国地方のカクマル残党は、われわれの革命的報復戦のまえに、泣きわめく以外になにひとつ対応できない状況におちいってしまった。「防衛を基礎にして反撃・攻撃を考えていかねばならない」これが黒田の唯一の実践方針である。
 九州カクマルも「やられっぱなし」のままである。つまり、黒田直系の三地方のカクマルは、どこもかしこも崩壊寸前なのである。わが革命的武装勢力による「西日本制圧」は、黒田――吉川の貧弱な頭脳でも、もはや認知せざるをえない客観的現実となりつつあるのだ。
 ところで、関西、中国、九州のこのような崩壊的危機のふかまりにたいし不満をもち、土門、朝倉の撃沈や田中・佐竹問題をめぐって中央不信をつのらせているのが、東海、北陸、北海道などの旧戦旗派系の小官僚どもであり、社会党以下の体制派になりさがった沖縄マルドウの小官僚どもである。かれらは、土門、朝倉の撃沈、田中・佐竹問題の発生、関西・中国・九州カクマルの危機などをあげつらうことによって、おのれの五十歩百歩の現実をなんとかとりつくろおうとしている。
 これにたいして、黒田は必死のまきかえしをはかる。北海道は、権力の一九ヵ所にわたるガサによって全同盟組織を丸裸にしてしまったではないか。北陸・信越では「表面では狭山推進、本音は中核解体」という重大な決定をLCだけでなくズンドーに下までおろすから、中核派に証拠をにぎられてしまう破目におちいったではないか。東海は、重要な人物をつぎつぎにやられている。名古屋では産別か地区かをめぐって大混乱がうまれているではないか。中央への批判はあくまでもおのれの組織の反省にふまえてだされるべきである。こう黒田は、全国拡大常任会議で恫喝する。つまり五十歩百歩だというのである。
 
 (e) 指導中枢の破産と腐敗
 
 第五には、中央指導部の完全な破産、その無能ぶりと腐敗ぶりのあまりにもみごとな露呈である。
 昨年暮の全国拡大常任会議において中央指導部からだれひとりとして基調報告者をだすことができず、黒田のテープをもってそれにかえざるをえなかったことについては、すでに指摘したところであるが、カクマル中央のこのような惨状は、しかし、七三年暮となって突如うみだされたものではないのである。
 もともと黒田――朝倉指導体制は、七〇年安保闘争におけるカクマル総路線の破産、黒田――森茂体制の破産をペテン的にのりきるためのものであった。七〇年安保闘争でのカクマルの方針の大破産と、それをとりつくろうための六九年秋の過渡的要求のスローガンの提起と、その直後の撤回というジグザグは、まさに、反革命カクマルの総路線そのものの大破産を意味するものであった。ところが、わが卑劣漢、黒田寛一は、ブルジョア的人間の論理と倫理に忠実なやり方で、すべての政治的責任を森茂におしつけるとともに、ペテンと窃盗以外にさしたる能力もない朝倉をむりやり書記長の地位につけることによって、七〇年代反革命に徹底的に呼応した反動的コース、すなわち組合主義と白色襲撃を結合した、あらたな反革命の道を遊泳しはじめた。
 だが、黒田――朝倉体制のしあわせは、ほんのわずかの期間しか通用しなかった。K=K連合とそのもとでの白色襲撃にたいして、われわれの二重対峙・対カクマル戦が本格的に発展し、赤色テロルの戦略的展開を基軸として革命的対峙戦がはじまるとともに、朝倉の無能力と、それをおしかくすペテン師的なやり口は、はやばやと露呈したのである。
 われわれが七三年夏の段階で公々然と革命的報復を宣言し、その準備のために全組織をあげてとりくんでいたにもかかわらず、われわれの報復戦への警戒を提起しようともせずにバラ色の願望にふけって、多くの仲間を犠牲にさらした黒田、朝倉。十・二〇の一斉襲撃に過度の期待をもち、それをうちどめにしようと考えてわれわれの手痛い反撃をゆるした黒田、朝倉。十一・八早稲田のりきりにすっかり安堵し、われわれの怒濤の十一月攻勢にしたたかうちのめされた黒田、朝倉。まさに、反革命カクマルの最高指導部、黒田――朝倉体制は、革命的対峙戦のほんのはじめの局面ではやくもパンクしたのであった。
 かくして黒田は、九月――十一月の敗北の責任をぶざまに撃沈された朝倉にすべておしつけて、今度は西条とくむことによってカクマルの敗勢の一挙的なとりかえしをはかったのであったが、そのようなあわい願望は、十二・一五――二三の二度にわたる大敗北によってこっぱみじんにふきとばされてしまったのである。いまや、わが反革命分子どもは、無謬の神話にしがみつく黒田をのぞいて、ただのひとりも指導者といえるものをもっていないのである。
 
 (f) 小ブル生活にひたる労働者
 
 第六には、カクマル労働者組織の小ブル性とその無残な破産がかんぷなきまでにあばきだされた、ということである。
 もともと反革命カクマルの労働戦線についての路線は、(1)革命運動と労働運動を機械的に分離し、後者を組合主義的に自立化させること、(2)革命党を産別フラク連合に解体し、本来の戦線の名のもとに組合フラクをもって党を反動的に代位すること、(3)内乱・内戦――蜂起の戦略的総路線に敵対し、労働運動の任務を社共との体制内的せり合いにひきもどそうとすること、の三点において、基本的に反階級的なものであるが、こうした問題性は、たえずカクマル労働者組織の破産として噴出せざるをえないのである。
 たとえば、昨年八月の段階で露呈し、今日もひきつづき紛糾しているところの中央労対常任どもの「腐敗」した活動態度は、きわめて特徴的である。黒田によると、カクマル中央の常任たちは、任務分担主義、産別セクト主義であり、党派闘争にたいして傍観主義的であり、ものの考え方がスターリンと同じ構造になっている、というのである。ある小官僚にいたっては、医者のタマゴの彼女のブルジョア趣味にまったく埋没し、高級大型車をのりまわして喜んでおり、九州地方への派遣を左遷とうけとり、なんだかんだと口実をもうけていっこうにうけいれようとしないのだそうである。ところが、他の小官僚どもも大同小異であるから、このブルジョア根性となれあうだけで、だれも真面目に批判しようとしない。
 ところで、問題は常任の側だけにあるのではない。むしろ主要な難点は、かの「革命的労働者」なるもののダラ幹候補生的な腐敗にあるのである。「大衆うけばかり狙って話しに内容がない」と吉川からさえ批判されてしまう松崎。本部青年部長の腐敗したスタイルがぬけず、職場で協会や代々木におしまくられているばかりか、党派闘争にニヒリズムを表明するM。動労の九月運転保安闘争におけるカクマルのあまりに露骨な裏切りに反発し、独自活動をはじめた元本部青年部長のUなど、問題はつぎつぎとまきおこり、吉川をして「現場の労働者の小ブル性へのおもねりをなくさなくてはだめだ」と反省せしめるほどなのである。
 
 (g) 学生組織の崩壊が進行
 
 第七には、学生カクマル組織の衰弱、大学の過疎的な白色支配の崩壊がきわめて急速にすすんでいることがはっきりと確認できた、ということである。
 もともと反革命カクマルの白色支配、学生組織の一定の伸長は、かれらの路線の正当性をしめすものではなく、その反動性の結果である。いわば七〇年安保闘争に党派としての運命をかけてたたかいぬいた結果として、ブントが自己分解によって解体し、中核派が大弾圧によって一定の後退をしいられている特殊な情勢のなかで、かれらは一時的にその空白をうめたにすぎないのである。反革命分子は、学生大衆を真に結集する路線も信望ももちあわせていないのである。
 それゆえ、九・二一を突破口として革命的報復戦が激烈にはじめられるや、反革命カクマルの散漫な展開力はただちに破綻し、いわゆるダンゴ化の現象がかれらをがっちりととらえはじめたのである。野放図にのびきった学生カクマルの陣形は、革命的報復戦の適当な目標をつくりだし、その反動として敵の急速な収縮をよびおこしたのである。黒田は、無責任にも学生カクマルに大学活動の継続と維持を要求している。だが、黒田がどのように絶望的願望をかたろうとも、赤色テロルの圧倒的な展開は、学生カクマルをじわじわとしめつけつつあり、その展開力を確実にうばいつつある。一・二四闘争とそれにひきつづく一連のたたかいの爆発は、学生カクマルとその周辺分子にたいし決定的な打撃感をもたらし、それらのいっそうの収縮をうみだしているのである。
 
 (h) イデオロギー闘争の敗北認める
 
 第八には、われわれとのイデオロギー闘争においてかれらがおされっぱなしであることをかれらも認めている、ということである。
 黒田は、革命的暴力論、戦争論・内乱論の領域においても、また、それらの特殊的な適用としての七〇年代階級闘争論、二重対峙・対カクマル戦争論の領域においても、われわれに対抗しえないおのれの理論的な脆弱性をたなにあげて、反革命通信の論文の破産ぶりをつぎつぎと指摘する。本多のエセ革命論の批判がやられていない。津久井論文の批判がない。中核派の二重対峙・対カクマル戦にたいする革命的批判がない。二九一号論文は、唯物論ではない。中核派の出方にたいし政治主義的に対応しているだけで、その掘りさげがない。田中・佐竹問題では批判されっぱなしだ。朝倉撃沈への対応がまるでない。――といった具合である。
 読書界の虚名をなによりも大切にする黒田は、われわれとの論争で反革命通信があまりにも劣勢なのが、なんともくやしくて仕方がないので、やたらと当りちらすのである。だがしかし、その真の責任はどこにあるのか。黒田は、けっしておのれの主体的な責任においてその答えをひきだそうとはしない。黒田における暴力論の欠如、暴力の手段的手段化論への形式主義的すりかえ、暴力革命論への敵対、暴力革命の条件主義的位置づけ、戦争論・革命戦争論・内乱論の欠如、敵との和解のための戦争というブルジョア戦争論への屈服など、問題の核心はすべて黒田そのものの誤りにあるのだ。だが、政治的問題のすべてにおいてそうであるように、黒田はここにおいても、その敗北の責任をすべて編集部の無能と腐敗のせいにしてしまうのである。かりにも理論家であることを自負している人間にとって、これほどひどい腐敗があるだろうか。ともあれ、黒田は、このような卑劣な方法であるとはいえ、イデオロギー闘争における敗北を確認してしまったのである。われわれにとって、それはそれで悪いものではない。
 さて、われわれは、吉川文書の革命的入手がもたらした戦略的意義について、ひとまず総括的に整理をしてみたわけであるが、われわれは、つぎに、いよいよその核心的な問題点にそって吉川文書を具体的に分析し、その真実の姿をありのままに、同志諸君、読者諸氏に提起しなくてはならない。生の事実のもつ雄弁さにわれわれはふみこむのである。
 次回は九州編である。その導入路としてひとまず、吉川の七四年の年頭所感なるものを紹介しておくことにしよう。これだけでも、われわれは万巻の書物よりもはるかに克明に九州カクマルの危機的現実をみてとることができるであろう。
 
  吉川の年頭所感
 
  一九七四年一月一日(火)午前二時。
 
 一九七四年の新年があけた。ラジオで「おめでとう! おめでとう!」の声が繰りかえしくりかえしながれてくるなかで、一人新年を迎えているわけである。別にどうということは全くないが、しかし、新しい年を迎えることを点機(原文のママ)にして、新たな決意を自らのなかに再確認することもまた必要なことである。
 Q〔九州〕に移行してやがて満一年を迎えるわけである。昨年正月四日の朝、福岡についた。××さんが迎えにきた。Q――R〔九州カクマル〕の再建の闘いは、まず腐敗しきったO〔組織〕の「けずりおとし」を、原則的なO的思想闘争のO化をキソにつくりだすことをもって開始された。ほぼ八月のQR拡大合宿をとおして一応の区切りをつけ、いわばQR再建の第二段階に突入したわけであるが、しかし、いぜんとしてPr〔問題〕は深刻である。
 この過程は、同時にSS〔党派闘争=白色襲撃〕の過程であった。ウジ〔中核派〕根絶の闘いを全O力を投入して実現する過程であった。そして主観的にはQB〔九州地方委員会〕のQRの総力を結集すべく闘いぬいてきた。
 だが、この過程においてSSへのO的とりくみの破綻を生みだしてしまった。これはきわめて深刻なPrであった。QにおけるSSのあいつぐ敗北にふまえれば、アミダの批判は基本的に正当なものがあった。しかし、気持の上で卒直に納得しえないものを残してきたことも事実である。とくに「O的観点でなく女房防衛するためのSSであった」という批判はどうにもなっとくしえなかった。学生の客観主義的ひきまわしとか、MUT〔吉川〕の無能力とかいうことについても、果してかかるものとして切開されなければならないか、ということですっきりしない。批判のしかたのなかに、中央LC〔中央指導部〕のすりかえがはらまれていないか、とも感ずるわけである。
 かかる心情なまま、新年を迎えた。このことについて明確な区切りをつけなければならない。全面的な自己批判的総括をバネとして自らとQR強化の拠点を再度うち固めなくてはならない。
 
 (3) 吉川撃沈の直前、九州カクマル組織は崩壊的危機にみまわれていた
 
 一九七四年の新年、つまり、みずからの撃沈のちょうど四日まえ、黒田の第一の直系であり、辻・正田両同志虐殺の張本人であった吉川は、年頭所感なるものをかきちらし、そこで九州カクマル組織の底なしの崩壊状態についてなげきかなしみ、わが身と反革命分子の迫りくる没落の運命について、ある種のあきらめの気持をもらしていたのであった。
 ところで、およそ政治的に無能で、ひとかけらの主体性もないこの人物が、天才的? ともいえる直感力を発揮しておのれの迫りくる没落を予知し、おのれの身をもって反革命カクマルの「未来を体現する」名誉をになうことができたのは、いったいなぜであろうか。われわれは、それを明らかにするためには、ひとまず昨年暮の反革命カクマルの拡大POB〔第二回拡大常任会議〕における吉川批判なるもの、つまり、吉川に、みずからの没落をまがりなりにも予知させたひとつの出来事、その位置と本質について検討してみることが必要である。
 昨年暮の十二月二八、二九日の両日、反革命カクマルの腐敗した常任どもは、敗けっぱなしの「唯物論的」現実をなぐさめあうために千葉県のある旅館にあっまっていた。敗勢の一挙的とりかえしをかけておこなった十二・一五、二三の集団戦的な白色襲撃はみるも無残に大敗北し、個人テロルはともかく正規戦なら……という最後の望みもうしなった反革命のテープレコーダー集団は、アミダ様〔黒田〕の救いをもとめてはるばるやってきたのだ。
 だが、もうそこには、かつてのようなアミダ信仰のヒエラルキーは残っていなかった。アミダならぬクロダのうすぎたない権威を利用してペテン師的な才覚で念仏場を機能主義的にとりしきっていた朝倉(池上)は、すでにその場にはいなかった。わがアサ知恵氏はわれわれの革命的報復戦によって、政治的にも肉体的にも撃沈されてしまっていた。また旧戦旗派出身のためにクロダ様の信任をえられず、その負担をとりのぞくためにカクマル危機の政治的のりきりの手段としてボロボロになってはたらいてきた土門(根本)は、九・一五の清水・金築のせん滅についての評価をめぐつて、「非戦闘員の死」といった「許しがたい反階級的態度」をとった責任をとわれている消耗のさなかに撃沈され、その政治的死を決定されてしまっていた。わがノリキリ氏は、いまや没落の極にたっし、大衆のまえにそのぶざまな顔をさらすことすらできなくなってしまっているのである。〔なお、わが反革命分子どもは、朝倉撃沈についてこれを内部では「ペーパー問題」とよんでいる。吹けばとぶような男の話、というわけである。〕
 一方、わが卑劣漢黒田は、われわれの革命的報復戦がおそろしくて、みずから召集した信徒たちのあつまりにもでてこれない。十二・四反革命以来、反革命分子どもの政治集会や学習集会にも出席できず、録音テープでその醜態をとりつくろってきたかれは、いまや最高の組織会議にも顔をだすことができなくなるまで恐怖にとりつかれてしまい、みずからをみずからの手で「彼岸」(あの世)におくつてしまったのである。
 さて、問題の拡大POBであるが、もはやそこでは信仰についての僧侶たち(アミダの代理人?)の秩序はくずれさっていた。山代〔白井〕や西条〔木下〕や梅津〔つつみ〕ではあまりにもお粗末である。そこで、テープにふきこまれたアミダ様のありがたいおしえをきくことでその場をとりつくろうことにした、というところまでは、前回でかいた。しかし、まだそのつづきがあったのである。
 というのは、おそらくみずからの弁解のつもりでもあったと思うが、黒田はそのテープ報告で黒田直系の三地方組織(関西、中国、九州)についてゴマカシの批判をおこなった。〔黒田報告については、わが『武装』第三号を参照せよ。〕
 ところが、それがきっかけとなって、中央常任や地方常任のあいだから吉川の指導についての不満や批判がどっとふきだしたのであった。アミダ様のお墨付をふりかざして、いつも「いい格好」ばかりしてきた吉川のみえすいたやりくちにたいする日ごろの反感がその根底にあったのであろうが、ともあれ敗戦つづきのやり場のない気持が、吉川への責任転嫁となって、この機会に爆発したわけである。
 すっかり消耗してしまった吉川は、拡大POB会議の直後の中央指導部会議で、気の毒におもった他のメンバーからいささかのはげましをうけたのであったが、かえっていっそう落胆してしまい、警戒心もすっかり忘れて飛行機にのりこみ、そのまま九州の家までまいもどってしまったのである。
 帰福のあと、ともかく「年頭所感」なるものをかきあげた吉川は、やっとのことで気をとりなおしてタカチホ〔福岡指導部〕ののこりすくない仲間たちにつぎつぎとあって根廻しをし、アミダおよび中央常任のむごいしうちにたいする泣きごとをくどくどと話してあるいたのであった。だが、福岡のかつての子分たち、つまり、吉川から「緊張感がない」とか「無能力だ」「主体性がない」だとか面罵されてきたタカチホやFOB〔福岡事務局〕の小官僚どもは、手のひらをかえすような冷酷な態度で吉川をむかえたのであった。
 情勢のあまりの悪化におどろいた吉川は、こんどは年頭所感でのうらみがましい調子をすこしかえて、つぎのような骨子の自己批判を一月二日の福岡指導部会議でボソボソとつぶやいたのであった。
 
   一九七四年一月二日(水)。
 
 議題としては(1)全国拡大常任会議で問われたことについての総括、@アミダ提起について、AQ〔九州〕におけるSS〔党派闘争=白色襲撃〕へのO〔組織〕的とりくみのハタンについて、(2)全学連大会、動労大会、動労フラクなどで論議されたことについて、(3)Ici問題およびNi移行後の新体制について、(4)QにおけるSSの今後の方針について、などがある。しかし、やはり焦点は、アミダ提起の問題である。
 アミダによるMut〔吉川〕批判の核心は、(1)一方ではビビリズム、他方では安心主義という、SSへの基本的態度における二重性、(2)彼女防衛を自己目的化していること、彼女との関係ですべてボロをだしていること、(3)過剰防衛主義、防衛のための防衛主義、(4)SSへのとりくみが労学分離、同盟としての基本的とりくみにおける破綻、(5)ビビリズムにもとづく学生戦線の機能主義的ひきまわしなどである。当初なっとくしえない点もあったが、自己批判的に切開していきたい。
 このような吉川の自己批判なるものにたいし、福岡指導部内のわずかな反革命分子どもは、いまさらのように九州カクマルの崩壊ぶりに暗たんたる気分にうちしずみながらも、その責任を吉川の指導の破産にもとめ、つぎのような消耗なやりとりをくりかえしたのであった。
  Su。防衛のための防衛になるのはなぜなのか。そこがほりさげられていない。だいたいQの場合、労学ともアジトがBr〔中核〕につかまれている。吉川をはじめAP〔常任〕のメンバーの移転はスピーディでない。吉川はただちに引っこすべきだ。防衛がなっていない。
 吉川。ねらわれているからかわる、というのではかえってビビリズムだ。
 Su。そんなことではだめだ。Brの動向の分析が弱い。ビビリズムにもとづく機能主義的ひきまわしには不満がでている。不確定な情報で部隊出動させるな。部隊は精神的肉体的にニヒルだ。彼女防衛の自己目的化はまずい。
 吉川。彼女との同居を前提としているというわけではない。別居するカマエでもあった。やはりやられるかもしれない。部屋をかえることにしょう。
 Dg。QBとしてどうSSに対処したかが問題だ。QBの指導は客観主義だ。原則的には労働運動→外側からSSをみる、という構造となっている。そこの責任がない。APは異常ななかの保守性におちいっている。
 Sa。吉川それじたい、自己批判的切開としてはすすんでいないのではないか。SSの指導の反省がない。労学分離主義ではパーだ。後方支援主義をやめるべきだ。
 吉川。SSへの自分のカマエに問題があることはみとめる。客観主義的かかわりだった。現場のプロへの小ブル的おもねりが問題だ。Qのプロはとくに問題がおおい。飛躍をかけてがんばる。
 Sa。そんなことではすりかえだ。根拠が切開されていない。これでは情勢をかえられない。
ところが、吉川は、かつての子分たちの遠慮のない批判にすっかり「アタマに来て」、帰宅したあと、ただちにつぎのような感想をノートし、そのうっぷんをまぎらそうとしたのである。
 
  一九七四年一月三日(木)。
 
 議論のトーンはどうであったか。
 Saの〔吉川〕批判は形式的だ。どうも感覚のズレがあるように思われる。吉川それじたい自己批判的切開がすすんでいないのではないか(傍点、吉川)などという批判であったが、Sa指導の過程的な反省が欠如しているのではないか。チェックの内容がどうだったのか問われる。「学生の方は手がまわらない」などといっていた点が問題とされなくてはならないわけである。
 切開としてほりさげられなければならない問題。
(1) QRとしてSSへのO的とりくみがS――f〔学生戦線〕は直接的SSをやる+P――f〔労働戦線〕は後方支援をやる→労学一体となった闘い、という構図になっていて、
@P――fにおけるBr解体のためのゴリQ〔電話などを使った脅迫〕がどのようにすすめられてきたのか、
A直接的なSSにP――fのRF〔カクマルの幹部メンバー〕、LF〔カクマル労働者組織〕のメンバーが部分的に参加することが要請されたがスムーズに実現せず、
BBrの最後的解体のためのたたかいでのQにおけるSSのO的とりくみのハタン、その克服のためになにが問われているのか、
 Saと吉川の感覚のズレ!
・労学両戦線でやることへのSaのカマエが急務。産別のたたかいを犠牲にしない形でやる。
・直接的なSSにかんする具体的諸問題は、Saにまかせてみる。しかし具体的SS、Inf〔調査〕、軍の活動について報告をきくだけのスタイルを切開。Saの問題を具体的に点検。
 産別のたたかいを原則的におしすすめつつ、QR再建をやる考え方それじたいの切開。SSへのO的とりくみのハタンの克服。すっきりすること。〔ここで中断。筆者〕
 わが吉川は、われわれの革命的報復戦によって撃沈され、卑劣な反革命分子の政治主義によって生きながら「死の墓に葬られる」わずか二日まえ、このようにかいて、そこで尨大なノートに終止符をうった。やられそうな気がするので、反革命の同志への不満をくよくよとならべながら「移転」の仕事をおそるおそるすすめていたので、もうノートをかく余裕もなくなっていたのである。
 
 (4)一年間にわたる吉川の九州――破産につぐ破産で組織衰退を促進
 
 さて、すでにのべたように、吉川は、そのみじめな最期をもって反革命分子の「未来」をもっとも鮮明にてらしだしたのであったが、しかし、九州におけるその「生」もけっして祝福にあたいするものではなかった。いな、それどころか、七三年一月四日から七四年一月五日までの吉川の九州生活は、まったく破産、破産、破産の連続であった。
 反革命の観念主義者どもは、死を生から機械的に分離しその固有の価値をみいだそうとする。かれらは死そのものに独立した意義をみいだそうとするのだ。だが、唯物論者であるわれわれは、死の意義を生の価値においてそれを総括するものとしてとらえようとする。いかに生きたか――それが死の語るもののすべてなのだ。だから、われわれは、吉川における「事実上の死」の意味をとらえかえすためには、吉川における「死への生のいとなみ」について、いささか検討してみることが必要となるのである。
 一九七三年の正月、吉川はひとり博多駅についた。七二年九・四相模原の大敗北〔モンロー問題〕や同年十一・八の川口同志の虐殺〔Kg問題〕と、それにたいする早大四万学生の糾弾闘争によってすでに意気消沈していた吉川は、それでもみずからの出身地・九州への派遣については、それなりの期待もなくはなかった。
 考えてみると、一九六〇年春に熊本商大を卒業し、国労大阪地本の書記に「就職」してから一三年ぶりの本格的な九州行きである。六〇年から六二年暮までの三年間は、たしかに吉川にとって愉快なものではなかった。関西地方委員とは名ばかりで、黒田の手紙をオームがえしする吉川の没主体的な態度には関西の同志たちは、だれもまともに相手にしようとはしなかった。しかし、六三年春、わが関西地方組織から数人の仲間とともに脱走したあとの十年間は、吉川なりに楽しいものであった。黒田にせっせと手紙をかき、黒田の手紙をレコーダーのようにくりかえす――ただそれだけで東の朝倉とならぶ黒田直系になりあがることができたのである。黒田の内命をうけ、権力の援助のもとに、まがりなりにも十二・四反革命を指導し、辻・正田の両同志を虐殺した。関西では、楠、野原などの台頭によって邪魔物あつかいされそうになっていたが、幸か不幸か、こんどは郷里の九州行きだ。アミダ様のご威光にまつろわぬ「腐敗分子」を追放して、純カクマルの九州をつくるのだ。ざっとこんな調子で吉川は博多についたのであった。
 だがしかし、希望と現実は別であった。中央の権威をふりかざして六一年以来の旧指導部のメンバーをつぎつぎと追放し、吉川の唯一体制をつくりだしたまではよかったが、その結果、さもなくとも衰弱の一途をたどっていたカクマル九州組織は、完全にガタガタになってしまったのである。二宮、・野見山、大薮、梯らの六一年以来の指導的メンバーはまったく排除され、それにともなって産別や各県の古参メンバーが吉川体制に反発してはなれていってしまった。宮崎、鹿児島、熊本、大分などの残存組織は衰弱し、連絡も十分にとれないありさまとなった。QBを再建したくとも指導部を構成する人材がいないのだ。全九州から活動家をかきあつめてどうやら体裁をととのえたものの、福岡の組織もニヒルそのものである。
 産別組織も例外ではない。産別への組合主義まるだしのとりくみにもかかわらず、青労研集会はじめどこでも他党派におされっぱなしである。動労K地本ではカクマルの影響はつぎつぎとしめだされてしまい、肝心のMg地本では協会派や代々木に敗けっぱなしで、どうにも打開策がない。わずかに残存する自治労や教組でもSSニヒリズムでどうにもならない、といった調子である。
 それでも吉川はがんばる。東京からSakuをおくってもらい、Iciをかえしてもらい、そのうえIdeにも来てもらおうとする。そうでなくては、QBはおろか福岡の指導部すらなりたたないのだ。つまり、九州出身のメンバーはみんな問題があるので、輸入した人材? で吉川体制をなんとかかためようとしたのである。
 ようやくのことで、七三年八月未になって全九州のR〔カクマル〕メンバーを「QR〔九州カクマル〕総会」〔略称、Vita合宿〕に招集するところまでこぎつける。しかし「腐敗した部分」を「けずりおとし」たあとに残ったQRは、わずか二名にすぎない。すなわち、Ya、Ur、Tb、Si、Se、Nog、Ka、Ko、それに福岡のLC(Mut、Sada、Saku)である。まだ夏だというのに、秋風が冷たく、敗残の反革命分子どもの体のなかを吹きぬけていったのである。
 ともあれ、このQR合宿なるものは、吉川の自己確認によると、およそつぎのような内容でおこなわれた。一般的にいって、わが反革命分子どもは、指導部や産別の規模で三月下旬や七、八月の夏休み、九月下旬、十二月下旬のころに旅館などをかりて合宿をする習慣をもっているが、これもそういった合法主義まるだしの行事のひとつとしてもたれたわけである。革命的報復戦をおしすすめていくうえでも、いろいろと参考になるところもあろうと思うので、いささか紹介しておくことにしよう。
 
   七三年九月五日(水)。
  (1) 八月QR合宿〔拡大QR会議〕の核心的課題。
 ・QR建設上において問われた思想的=組織的問題に区切りをつけ、その全同盟的な教訓化、再武装のたたかいを基礎にQR建設をあらたな段階にひきあげること。
 ・それは同時に、一方では、この間の内部闘争の必然的な帰結としての一定の組織的措置の貫徹(そぎおとし)として、他方では、O支社設立にむけての全同盟的再武装を実現するものとして追求されなくてはならない。
 ・かかる観点から具体的な問題として@基調報告――一月以降のたたかいの経過とその現段階、A各me〔メンバー〕の自己総括、B学習をおこなった。
 (2) QR合宿の経過とその特徴点。
・第一日、基調報告と若干の論議。
 第二日午前、Kashi報告とそれをめぐる論議。基調報告のうけとめ。
   〃 午後、レクリエーション。
   〃 夜、テープ 〔黒田〕
 第三日午前、合理化論。
  〃 午後、労働者主義からの訣別。
・特徴と意義。
@QR建設上の一つの決定的区切りという点では一応成功した。
AVitaメンバーのRへの対決、QR建設の自覚を大きく促すものとしてきわめて意義があった。
B学習会のフンイキ、スタイルを一応つくりだした。しかし、内容的には多くのことが残された。
Cレクリエーションなどをとおしての交流、きたえなおし。
(3) 残された問題点。
・第一。基調報告が組織問題の整理のみにとどまり、運動――組織づくり上の諸問題や、LFづくり、SS上の整理報告がなされず、全面的に残された。
 ・第二。このことは、他の報告でも共通している。不可避であるとはいえ、そうした弱点が全面的に残っていることについてははっきりしておかねばならない。
 ・第三。Mz〔宮崎〕、とくにSeのPF以前的事態がバクロされたこと。Tbの質が問われたこと。
 ・第四。組織問題の結着に力点をおいたことから学習の準備、指導が不十分であったこと。
 ・第五。すべては今後のたたかいにかかっていること。
 (4) 各メンバーのうけとめの特徴とその問題点。(略)
 すべては今後の問題だ、と吉川は、八月末に確認した。九州カクマルは、けずりおとしにけずりおとされた。つぎは建設だ、と。ところが九州カクマルの本当の危機はこれからやってきたのである。
 最初の危機は静かなかたちでやってきた。すなわち、Ide問題とSaku問題の発生である。吉川は、まずもって指導体制の建設についての展望をうしなってしまい、絶望の暗い影にとらわれてしまうのであった。
 
   七三年九月三日(月)。
   九・二Hachi〔中央〕より電話。
  (1)Ideの九州行きは再度パンクしてしまった。Ide自体の腐敗のゆえに担いえないとの判断で。
@Ideの受けとめの問題。
・かれは九州行きをとばされる″という意識でうけとめている。
・G産別の指導からはずすが、しかし、いまさら学生戦線にもどってもうまくやれはしないだろう。
・地方常任になることを格下げみたいにうけとめるようではまるでダメ。きわめて政治主義的であり、中央WOBの一員であることにアグラをかいている。これではG産別の指導そのものが担いうるはずがない。
A彼女との問題。
・Ideの相手〔の女性〕はRF〔カクマルの幹部メンバー〕で医者のタマゴ。しかし非常にわがままで小ブル的。豪華な車をのりまわして喜ろこんでいる。関係のつくり方そのものがパー。わかれる以外に解決がないことを確認した。しかしのりうつり的、結果論的な同一性にすぎない。わかれればいいわけですね、という調子。心情は彼女の方にむいている。
・彼女との関係でけじめをつけることができない。九州行きにともなって最後のけじめをつけることが問われているのだが、彼女と闘争ができない。
BLC〔指導部〕での論議。
・この間、G委員会で他の同志から支えられてなんとかやれてきたにもかかわらず、そのことを過程的に反省できない。中央WOBであることに安住。
・結論として学生戦線(M書記局)のもとでもみなおすことにした。しかし、もつかどうか。
・代わりにおくれる人はまったくいない。
(2) 九州の学生戦線の展望にかんして。
@Sakuをもどす問題。
・九州のピンチはわかるが、やはり遅くとも来年四月までに東京にもどす。その後の展望はいまはでず。
・問題になること。一つはKing〔白色襲撃の統括機関〕の指導をどうするか。二つはIciとの学生戦線におけるE〔思想〕闘争。
ASaのIci批判。
・第二九州MSの組織的パンクの切開が玉つき型。運動――組織づくりの段階での切開が欠如し、各人の実体ボッタテ路線的な傾向をもっている。
・第二。東京でのKg〔川口同志虐殺〕問題の総パンクがIciの組織づくり上の問題にはねかえってきている。しかし、その内容的な反省ができない。グチばかりいっている。
・第三。指導部だけでなく下部でもグチを不用意にいう。
Mut〔吉川〕の若干の意見。
・ヒドイ現実は出発点。問題は内容的な切開。グチではダメ。
(3)QRの問題について。
・J〔自治労〕産別の指導がまったくよくない。春の段階の〔批判の〕うけとめが結果論的であり、実践的にやられていない。ET問題について論議は若干の手直しのみで、理論のレベルでうけとめにとまっている。
 ・担当者をやめさせる。
(4)S的動きについて。
 ・とくになし。
 ・Brは防衛を軸にやっている。W大授業開始にやる、と強がっている。したがって、それ以前にやる!
 IdeのパンクやSakuのもどりの問題について吉川が頭をいためているところで、またしてもおこったのが、国鉄カクマルの衰退の総括をめぐる大混乱であり、Kashiの活動上の破綻の露呈であり、自治労カクマルの責任者Kibuの深刻な動揺であった。
 
   七三年九月五日(水)。
 (1) 九月Ne〔ネーブル=国鉄カクマル会議〕〔日時は略〕で主要にとりくんだもの。設定とその結果。
 @職場におけるM――Oづくりの上のゆがみの問題。その組合主義的、経験主義的のめりこみの傾向からの根底的克服をめぐる論議。××と××の対立。
 AP研〔政研〕へのO的かかわり上の欠陥の切開。とくにMg地本大会での人事問題の完全敗北や、その主体的=O的な根拠の切開。E〔思想〕的、O的な混乱の結着。
 B九月反合闘争のO化にむけての情宣と方針、とくに統廃合問題についてのイデ闘争上の弱さの克服。
 CR――Fへの自己止揚の追求。
           (以下、略)
 
   七三年九月八日(士)。
 
 (1) Kaの活動上の問題点への批判。FOB〔反革命九州支社の事務局会議〕で。
 @またも二時間以上も遅刻したこと。ねすごしたことの根拠について。緊張感の欠如、勤務のルーズさ。FOB員としての自覚の弱さ。しかも連絡なし。
 A主体的に計画をたてて責任をもって遂行していくようになっていない。事態対応的。その日ぐらし的対応。やすうけあいスタイル。メッセンジャー・ボーイ・スタイル。
 B計画の質において、ごまかしすぎる面がある。
 CFDの基調報告の内容的破産。
 D問題。〔中央からの〕人の派遣。
(2) Kibu〔自治労カクマルの指導的メンバー〕のOrg問題。
 @Kiそれ自身が動揺し、現状維持的に対象に投入してしまったことの自己反省がパー。R主義者としての原則からの逸脱についての自覚の欠如。
 A「二人の関係」の小ブル的な固定化と腐敗の結果として、このような事態がうみだされたということ。
 Bたんなる活動家ではなく、J――FのLC的担い手としてのKiの問題。その影響は無視できない。
 CJにおけるこの種の問題についての論議が原則主義、天下り的であること。そのため、他方ではかかえこみ的なものを残していること。アタマではわかるが、自分はやっていけない、という自己分裂の温存。         (以下、略)
 
 (5) Gt問題で崩壊寸前の大混乱、動てんぶり
 
 かくして、吉川の九州派遣にもかかわらず、いな、そのことによっていっそううながされるかたちで、九州における反革命カクマル組織の崩壊的危機は、しずかに運行しつつあったのである。吉川は、八月末のQR合宿によって九州カクマルの解体状態は「一応の区切り」をつけるものと考えていた。だが、それは、崩壊と没落へのスタート・ラインでしかなかったのである。
 九州カクマルを崩壊寸前においこんだ最初の嵐は、まずもってGt問題〔反革命カクマルによる神大白色襲撃と、そこにおける清水・金築せん滅の問題〕をめぐる大混乱としてやってきた。吉川をはじめ九州カクマルの指導的? メンバーは、ひとりの例外もなく神大白色襲撃の失敗、清水・金築のせん滅に気をうしなわんばかりに動転してしまい、殺すのはいやだなあ、殺されるのもいやだなあ、いったい中央はなにをやっているのか、と愚にもつかぬ感想をのべあってなぐさめあっていたのである。
 とりあえず、吉川自身の弁解をきいてみることにしよう。
 
   七三年九月二六日(水)。
  (1) 中央における当初のうけとめのゆがみ。
事件直後、Kaza〔中央〕からつぎのような連絡と問題提起をうけた。
@Gt闘争は失敗した。MO〔七二年九・四大敗北〕問題と同じ性格のパンクをうみだしたことを反省せざるをえない。失敗の要因としては、二つの問題が存在している。
A第一には、ラチされたことが連絡されていたにもかかわらず、それを作戦本部につたえなかったこと。そのため救出活動ができなかった。
B第二には、三号館〔襲撃〕の隊長Owariが現場で日和り、中途半端な攻撃しかしていないこと。したがって、逃げだした部分がリンチに加わった。任務をまっとうしていない。これがアオの狂乱化に一つの条件をあたえた。
 殺されずにすんだものが殺された。MO問題が再度問われたのだ。これがわれわれ〔中央 LC〕にとってもっとも深刻な問題である。
(2) 当時における吉川のうけとめ。
@一五日午後三時ごろKazaの電話ではじめて事件を知り、やられたとアタマにきた。朝の電話では大勝利との報告をうけており、こちらの二人がラチされ殺されたこととの関係がわからなかった。なぜ三時半までわからなかったのか、強く疑問におもった。
Aしかし一六日にKazaとの電話討論があったので「やっぱりそうか」とKaの提起を肯定的にうけとめていた。
(3)一九日正午Dogより電話。
 Ka提起への批判。
@Ka提起は結果解釈主義でまずい。MO問題と同じとはいえない。まず弱いメンバーがあれだけやれたという点をみとめてやるべきではないか。
A同時に存在論主義的な断定である。事実経過はこうである。一つは、三号館をおとすことが主要任務であった。当初は軽くたたくつもりであったが、権力の対応にも規定されて、きわめて長時間の闘いとなった。救出にすべりおとし入れるわけにはいかないものであった。万一、犠牲者がでても、それとしてはいたし方がなかった。二つにはあっち〔救出〕にいった場合、戦場が拡大しすぎ、とてももてる体制ではなかった。三つには、地理的条件が非常に悪く、せめにくい場所にあった。以上の結果として「二人の死」はやむをえなかった。
B「もっとやれていれば」という考え方は願望を現実にすりかえるものだ。
CR――Fのなかで消耗感が部分的にうみだされている。殺しても殺されても、というSSニヒリズム的傾向がでている。殺されたといって空気がはいってはまずい。ごり押しスタイルはまずい。
(4) 吉川の若干の反省。
@自分を現場に入れ、現場の具体的諸条件を分析してアプローチすることが欠如していた。
A結果解釈主義であった。
B自分の場合、学生戦線におけるO建設は大変だなあ、といった意識状況であった。
(5) Qにおける各Fme〔メンバー〕のうけとめの傾向と問題点。
@もっとも悪い部分。客観主義でSSそのものからの完全なずりおち!(JのFu、Ogなど)
こういう部分はR――Fから格下げする。
A「学生の問題だ」との感覚で一定の拒絶をもってうけとめ、評論する傾向。
  ・弱いLFme〔KgのT、JのNaやNe=国鉄〕
A′殺し殺されることへの恐怖感をもってうけとめる傾向。(GのT、E、B=全逓のAなど)
B一応アタマにくるが全体的に事実関係をアレコレ気にもみ、推測するといった傾向。(YC=教労委、Ur、Tb)
C感性的うけとめぬきにまえのめり的にアオとの対決の構えを強調する傾向。(J――FのLC)
D怒りをもやし、主体的にみずからのこれまでのSY――E〔社青同――解放派〕との対決を反省し、最後的な解体にむけ決意、構えを明確にさせる傾向。
 以上のみじめったらしい吉川の弁解をとおして、われわれが「うけとめうる」問題は、おおよそつぎのようなものであろう。
 第一には、吉川自身の主体性がどんなものかじつにはっきりする、ということである。
 吉川によると、最初はKa(中央I)の電話をうけて敗北という総括(うけとめT′)をもったが、その後、Dog(中央U)の電話でKa批判をきかされて勝利という評価(うけとめU′)となった、というのである。なんとも「主体的で」「実践的な」話しではなかろうか。〔ところで、わが客観主義者、吉川は、Gt問題をめぐって九州カクマルがおおゆれにゆれていた九月一五日――二五日のあいだ、吉川文書にはなにひとつGt問題についての自分の見解をかきしるしていない。他の問題についてはあいかわらずのおしゃべりぶりを発揮しているにもかかわらず……。そして、かれがようやくペンをとるのは、九月二七日、二八日の第一回拡大POB会議のための方針を手にしてからであった。〕
 第二には、九州カクマルにおいてGt問題について「正しい態度」をとりえたものがひとりもいなかった、ということである。
 吉川をはじめ九州カクマルの指導的? メンバーは、ただひとりの例外もなく、清水、金築のせん滅のまえに動転し、なすすべもなくなってしまったのであった。せいぜいかれらのなしうるところといったならば「アオは正規戦でなく非戦闘員をラチしたのはひどい」といったような見当はずれの憤慨をつぶやいたり、「こちらもミスがあったのではないかなあ。悲劇的な死だなあ」などと確認しあっていただけなのである。
 第三には、反革命カクマルの中央指導部は当初、Gt闘争を九・四大敗北、七三年春の三連敗につづく失敗としてとらえ、まったく消耗していたのであったが、その後、政治主義的に「大勝利論」にすりかえていった、ということである。
 第四には、反革命カクマルの神大白色襲撃が、警察権力の完全な援助のもとにおこなわれたことをかれら自身がみとめている、ということである。〔なお、山代=白井は、十・一五反革命集会で機動隊が四時間も出動しなかったのは「老人の日」だったからと説明しているが、なんとも奇妙な話しである。〕
 第五には、清水、金築は、カクマル中央指導部によって組織的に見殺しにされたことがはっきり証明された、ということである。ブルジョア的人間の倫理と論理に忠実な反革命のチビボスどもは、三号館における解放派へのリンチの喜びにひたりきって、仲間の危機にみむきもしなかったのである。〔第三、第四、第五の問題については、やがて章をあらためて詳細に分析されることになろう。〕
 さて、いよいよわれわれの革命的報復戦のはじまりである。九州カクマルの崩壊的危機がどう進行するのか、以下の展開にご期待あれ!
 
 (6) カクマルと吉川は、革命的報復戦の開始を直視することさえできなかった
 
 一九七三年九月二一日、反革命カクマルにたいする正義の革命的報復戦が開始された。二重対峙・対カクマル戦の画期的前進、すなわち戦略的防御段階から革命的対峙段階への移行が激烈におしすすめられたのである。
 ところが、七一年十二・四反革命以来の一時的な情勢のなかで一方的攻撃者としての地位を「謳歌」してきた反革命カクマル指導部は、開始された革命的報復戦の意義と展望について勇気をもって直視することができなかったのである。つまり、わが反革命の卑劣漢どもは、十二・四反革命以来の一時的な優位なるものが、基本的には日帝権力のK=K連合政策に規定されていること、したがってまた、われわれがこの新情勢を根底的に突破するために二重対峙・対カクマル戦の本格的な構築をめざして段階的前進の戦略をとり、まずもって戦略的防御の段階から出発したことに規定されていることについて、「唯物論的」に認識できなかったのであるが、それとまったく同様に、わが革命的報復戦がやがてきりひらくであろう情勢の根底的な転換についても、「唯物論的」に見とおすことができなかったのである。
 いいかえるならば、かれらは、自分たちの来たるべき暗い運命を直視する勇気がなく、過去のみせかけの栄光にすがりつくことしかできなかったために、われわれが七三年夏に、公然と革命的対峙戦への突入を宣言し、そのために猛然たる準備をおしすすめていることを知っていたにもかかわらず、それに的確に対処することができなかったのである。ブルジョア的人間の論理と倫理の実践者、わが黒田寛一にいたっては、『前進』六四六号論文の批判と称して「中核派は、戦略的防御から二重対峙・対カクマル戦に移行しようとしているのだ」などという見当はずれもはなはだしい評価をうちだして得々としていたのである。〔もっとも、十二月はじめになって黒田は、この評価が「誤り」であることをようやく認めるにいたるのであるが、ここでは事実の指摘にとどめておくとしよう。〕
 さて、九・二一が九州カクマル分子どもにあたえた衝撃について分析するにあたって、まず最初に、カクマルの情勢予測能力、情報収集能力の「すばらしさ」から見ていくことにする。以後だんだんとあばかれていくであろうが、「情報のカクマル」の正体はこんなものなのである。
 まず、九・二一以前の吉川の見とおしなるものをみてみよう。
   七三年九月一九日(水)。
  SY――Eへの糾弾の闘いについて。(中略)
 (4) 今後の闘いの大枠。
 @見とおしとしてSY――E、中核が再び構える気持ちはまったくなくなっている。小ブル雑派解体にむけてのこの三日間の激闘によって最後的あがきにとどめがさされたのだ。したがって当面、暴力的衝突はあまり考えられない。(傍点、筆者)
 A思想闘争の強化が不可欠。
 B労働戦線におけるビラ入れに呼応した内側からアオをいじめる闘争。――Jのアオを追いつめる。
  電話を使ったナーバス。
 Cそのために、内部的には一方では権力への弱さ、他方ではSSにかんするドンカンさ、うしろ向、ニヒル的傾向が克服されねばならない。(以下、略)つぎに、九・二一以後の評価なるものについてみてみよう。
 
  七三年九月二五日(水)。
 Haciより電話。
 (1) 全国拡大POB会議の招集。
 @解放派とのSS上の諸問題について。
・うけとめ上の種々の混乱を止揚し、主体的にうけとめに立脚しつつ、解放派との対決の強化が不可欠。
 A中核派の最後的あがきの問題について。
  (イ)中核派九・二一集会で「第二、第三の清水、金築を!」。
  (ロ)九・二一外大を襲う。「横須賀に近づけない」ための姑息な策動。
  (ハ)反戦〔カクマル〕の動員とりやめ、Zだけが行く。約三〇〇名。
  (ニ)九・二二東工大で中核にちょっと襲われた。九・二五千葉大でも一人。
  (ホ)すこしばかり反撃する必要がある。このままではしめしがつかない。
 (2) 日時、場所について。(以下、略)
 この二つの文章を比較してみると、九・二一を前後してカクマルの戦局認識がガラリと変化していることがわかる。しかし、まだ吉川は、この戦局変化が九州カクマルの崩壊につながっていくことには気づいていない。それにはあと三ヵ月半の月日が必要なのだ。ともあれ、吉川は、二六日に福岡指導部の会議を招集し、前日の中央からの電話の線にそってGt問題についてのつじつまのあわない釈明をしたのち、あわただしく上京し、九月二八日――二九日の第一回拡大POB会議に出席する。二九日夕方よりPBに出席、三〇日午前に飛行機で福岡に帰る。
 第一回拡大POB会議では「SSの中心的対象はやはり中核」であること(Aメモ)が確認されたが、しかし吉川の空虚な思考力は、Gt問題をめぐって大揺れにゆれる九州カクマルの惨状をどうするかで、精一杯だったのである。
 
   七三年一〇月六日(土)。
 
   この二週間ぐらいは全く多忙な毎日であった。かの解放派によるリンチ殺人事件とそれへの反撃のたたかいを労学両戦線でO化するための追求を中心として連日連夜会議などに追われてきている。しかし、その主要な方向は、この問題のうけとめをめぐるわがR組織メンバー、RF――LFの全体としての思想的、組織的混乱を克服する点にむけられざるをえなかった。一定の論議の深化をつくりだしてきたとはいえ、今後に残された問題はすくなくない。とりあえず、この間の経過の概略を中央での論議を中心に整理しておくことにしよう。  (以下、略)
 
 七三年十月七日(日)。
 
タカチホ〔福岡カクマル指導部〕。
(1) チリ問題〔清水・金築のせん滅〕をめぐるうけとめの諸傾向とアオとの党派的問題について。
@九・三〇、A研におけるうけとめの論議の問題。Murao、Sezuri、Toboのうけとめのゆがみ。Se〔宮崎〕、Yama、Tuの問題。
AMuraoの自己批判と問題点。
BQ――H、YC〔教労委〕メンバーの点検とその問題の切開。
CMz〔宮崎〕、YCの総パンク。
D当面のSSの方向にかんして。
(2) 九月闘争の総括と当面の運動上の諸問題について。
@D〔動労〕九月闘争における反合にかかわるイデ闘争の弱さ。一〇、一一月反合闘争の再構築の闘い。
AP〔全逓〕の反合闘争。
BT〔教組〕、J〔自治労〕における闘い。
C青労研にむけてのO的とりくみ。
(3) 若干のO建設上の諸問題。
@Mz問題の克服。
AMurao問題の切開。
(イ)当初のうけとめと吉川の批判
(ロ)PAC〔自治労カクマル指導部〕指導のパンク。Fu〔自治労カクマルの指導的メンバー。神大白色襲撃のうけとめをめぐって吉川を批判し、離脱〕的腐敗への対決の欠如。Fu的腐敗への全体としてののめりこみ。
(ハ)現実のE〔解放派〕との対決における限界露呈。その打開をめぐる論議と方針のパンク。
(ニ)A研における自己バクロ。
(ホ)Jメンバーのくいちがいの露呈。
 
 七三年十月九日(火)。
チリ問題のうけとめをめぐる内部思想闘争の核心点について。(中略)
(2) その後の各産別での論議の経過とその特徴。
・D。一六日Ne〔ネーブル〕、その他Ore〔オレンジ〕。
・P。二三、二四日、アリ合宿。
・T。
・J、二〇日Pac、二九日スコッチ、十・二スコッチ、十・四Pac、十・一――八、Fuとの論議。
以上の特徴点。
@一方では、この間のOづくりの欠陥にも規定されて、全体としてうけとめが客観主義的であり、かつ無内容なまえのめり的傾向をもっており、その打開が不可欠であること。他方では、SY――Eとの直接的対決が迫られており、SSへむけてOの再武装ぬきには一歩も前進しないこと。そのため、うけとめをめぐる内部論議は執ようにつづけられてきた。しかし、いまだその諸問題は十分に克服されたとはいえない。
A国鉄、全逓などの若干のところでは、うけとめそれ自体にかんする内部論議の深化、SSにむけてのO再武装の闘いはかならずしもやられていない。
・うけとめそれ自体、即自的にくるっているとはいえない場合。
・打開どころか、うけとめにおける組合主義的傾向が温存されている場合。
・O指導上の欠陥があって、m的対抗にOをずらせていく場合。 
(3) うけとめの諸傾向とその問題点について。
@SSからのずりおち、逃亡パターンがごく一部にうみだされたということ。(JのFu)(中略)A「S――f(学生戦線)の問題だ」といった感覚で一定の距離をもって客観主義的に評論する傾向。
・弱いLFのメンバー。KG〔鹿児島〕。
・RFでは、Pac〔自治労〕のNa、アリ〔全逓〕のAsa、高木、Ne 〔国鉄〕のHashi、Aso他。(中略)
B死の結果に直面し、死の問題のみを全体の闘いから切り離し、抽出して論じ、失敗の教訓化を要求するような傾向。
・T〔教組〕のほとんど。
・Mz〔宮崎〕。(中略)
C一応アタマにくるが、全体的には事実関係をあれこれ気にもみ、他党派の新聞などを買いあさり、考えこむ傾向。実践的闘いを欠如した結果解釈主義。
・ペガサス〔福岡産別代表者会議〕。T〔全逓〕のYama、Taki他。(中略)
D殺し殺されることへの恐怖感、ニヒル感をもってうけとめる傾向。
・TのAda、Pの高木、江藤。
E政治的観点からみて安堵する傾向。感性のマヒ。
・KGの南。
・JのNa、Fu。
F怒りぱなし。内面的確信なし。
 
 (7) 「平和幻想」をふきとばした横須賀寄港時決戦――土門撃沈
 
 革命的報復戦は、じりじりと前進する。東京と大阪を両軸として赤色テロルの火柱がうちたてられ、反革命カクマルを着実に追いつめはじめた。十・五ミドウェイ横須賀寄港時決戦を白ヘル二千の最大動員でうちぬいたわれわれは、十月六日夜、ついに反革命カクマルの政治的中枢・土門肇こと根本仁を完全に捕捉し、撃沈した。危機に立つカクマルの政治的のりきりを本来の生業としてかろうじてカクマル指導部の一角に席をあたえられてきたこの人物は、「みずからの身をもって」カクマル的のりきりの破産をしめしてみせたのである。寄港時決戦の敗北と士門撃沈で恐怖のどん底におちいったカクマル最高指導部、黒田=朝倉体制は、はやくもその無能ぶりを暴露し、十・七、十・一〇の二度にわたって横須賀闘争からのみじめな逃亡をくりかえした。
 さすがの吉川も事態の意外な進展にびっくりした。半月まえまで「当面、暴力的衝突はないだろう」と自分の平和幻想によりすがって、SSニヒリズムを尊大なポーズでおしかくしてきた吉川は、われわれの革命的報復戦の迫力にすっかり動転してしまったのだ。Gt問題については、いまではすっきりと立派? な総括をやれるようになったが、今度は対中核のSSということになると、まったくしどろもどろである。文章ひとつまともにかけなくなってしまったのである。中央からの電話をそのままメモ化することしかできないのである。
 
  七三年一〇月一二日(金)。
 
  BrとのSSの新段階とわれわれの当面の闘いについて。
 (一) 中核による同志土門へのテロ行為という事態の発生。
 @事態そのもの。六日深夜、政治局からの帰り自宅前一〇〇mで襲撃される。逃げたが追いつかれた。ドロボウ″とでかい声をあげたが、ダメだった。
 A中核の動向。一〇・八集会(八〇〇)で「第二、第三の土門をやる」。関西集会(三五〇)で「東京で最高指導部をやった」。
 (二) 事態の意味するものとわれわれの基本的構え。
 @同志土門を最高LCであることを前提に襲撃してきたこと。全面的対決にふみきったということ。
 Aわれわれとしては、当然にも考慮していた政治的枠づけのなかでの中核とのSSという性格にふまえて「中核絶滅に向けての打ちどめなき闘い」と構えなおして全同盟的にたたかう。
 B具体的には、(イ)LCの防衛、(ロ)プロの防衛、(ハ)XYZ作戦〔一九日、二〇日の一斉白色襲撃〕
 (三) 中核派の動きについて。
@<三日間の激闘>以降、ものすごい危機意識で反Rテロ集団路線にふみきった。一〇〜二〇名の特殊部隊で周辺、中小大学でのすいかわり〔赤色テロル〕の連続的な展開。
・外大(九・二一)、千葉大(九・二二)、東工大(一〇・八)、ICU(一〇・八)、横国(一〇・九)、国学院(一〇・九)
A関西での動き。
 一〇・一市大、一〇・二指導部、一〇・二大経大。最高指導部をやられた。
B襲撃以降の中核の動き。
 (イ)土門襲撃で高揚。
 (ロ)特徴。最近は情報がとりにくい。特殊部隊は二〇×4と思われる。うち二隊は強い。
(四) この間のQにおける中核の動き。
 @六・一ごろよりRの尾行を強力にやりはじめる。
 A七月中、下旬よりRの調査に全力集中。
 B十月以降、強化。
 すっかり恐怖にかられた吉川は、中核派のレポがロン〔反革命カクマル九州支社〕をみはっていないか心配となり、事務所のまえに出てみる。そこでばったりと「レポ」氏に出会う。ロンの周囲にいる人間がすべて中核にみえたのだ。吉川は、はっとして思わず手にしていた護身用のコーラビンを大地に落してしまう。一目散に事務所に逃げこむ。そこで気をとりなおして尊大なポーズでOFBのメンバーにいう――中核のレポとの緊張した関係がつくりだされていない! と。いよいよ吉川の価値がためされるときがやってきたのだ。
 
   七三年一〇月一五日(月)。
 
   中核との緊張関係はかなり激化している。ロンのレポはまいかいの動きである。その目的、体制について十分分析しえていない。夜はキング関係でほとんどつぶれる。Ne〔動労カクマル会議〕に行く予定であったが、急拠中止しIci宅で対中核問題について論議。一六日午前二時にニュー・レモンに帰る。さしあたり第一に中核のレポへの反撃をO化すること、第二に攻撃的なレポ体制の早急な確立、第三に軍事的体制の確立と攻撃の追求などが具体化されなくてはならない。
 学生戦線で生みだされている傾向として第一に中核のレポの通常化に慣れてしまっていること、第二にそれへの攻撃的反撃が位置づけられず、うけ身的になっていること、第三には、そうしたことに関連して、冷静な科学的分析を欠如し、主観的な推測によって異常な警戒心が拡大してきていること、こうしたことが、早急に克服されなければならない。
 
 七三年一〇月一六日(火)。
 
 今日もロンドンを中核と思われる二人の男が夕方より午後九時ごろまで張りこんでいた。昨日と同じ人間であり、執ような張りこみである。その目的は何か。考えられる推論としては、第一には同志Koyamaの動きをはることでわれわれの動向、諸会議、労働戦線メンバーとのつながりをつかむこと、第二にはロン、KOの襲撃を前提としたはりこみ、KOの動きの法則性をつかむこと、第三にはロンへの出入り、とくに吉川の出入りをつかむこと、ぐらいである。夕方から夜までの張りこみという点では、第三の可能性がもっとも強いのではないか、と思われる。
 今日はレポ粉砕の体制を確立して反撃にでかけたが、昨日についでまた空ぶりであった。やむをえないような諸条件(急拠体制をとったこと、本隊を田島寮大会防衛に残さざるをえなかったこと)もあるが、しかし、反省的にとらえかえせば、つぎのような幾つかの問題があるように思える。
 @七時まえに張りこみの情報がつかめ、ただちに反撃をO化することを確認したが、出動は二時間も遅れてしまったこと。
 A現場部隊とロン(本部)との連絡体制がスムーズにいっていないこと。
 Bハサミ打ちの体制がつくられず、彼らのまえをとおりすぎようとして発見され、逃げられてしまったこと。
 C逃げられたあとの待期の仕方があまりにうけ身的になっていること
 DKoyamaが「全部中核にみえる。五〇人ぐらいいたのではないか」といったことにみられる精神状況。
 
 (8) 十・二〇襲撃、小田原評定のあげく、時間ぎれのとん挫
 
 追いつめられた反革命カクマルの指導部・黒田=朝倉体制は、一打逆転をねらって「一斉白色襲撃」にうってでようとする。われわれの二重対峙・対カクマル戦の本格的な発展、革命的報復戦の激烈な展開に恐怖したかれらは、無内容で、みてくればかりのアサ知恵な計画に一切合財をかけようとしたのである。十・二〇の一斉白色襲撃がそれである。
 
 七三年一〇月一七日(水)。
午前一時半、中央(同志Kg)との電話。
@このままではピンチなので、一九日、二〇日に一打逆転の大作戦をやる。
A関西も一九日、二〇日にやる。
B昨日の〔カクマル〕一〇・一五集会に中核が大規模なレポ体制をしいた。各駅に二名づつ。
 大手町には二〇名。
C中核の防御がかなり強固。ひきだしてたたこうとするが、ひっかからない。
午前一時半、Sga〔関西〕同志との電話討議。
@久しぶりに大阪産大に一〇名ちかくやってきた。こちらとしては、やられることをふんでいたので、ただちに三階に逃げた。しかし早く追いつかれ、二名がグランドへ逃げた。ピンチであったが運動部のおかげで救われた。五人逮捕。
A関西でもレポ強化。一三日のレポ狩りは決断がわるく失敗。
B一九日、二〇日、大規模な奴をやる。
 Hachiより電話。
@一九日、二〇日のあけ方に大作戦を追求する。一九日、中核村掃討、壊滅のたたかい。二〇日、小型の各事務所。
・反社会的存在としてキヤンペーンがはられる可能性。これへの対処。
A『前進』六五四号の「勝利の関門ひらく報復戦」は清丈だろう。すべて軍事の視点から書いている。本多と表現上にたところがあるが、視野がせまい。
 B同志土門をやったことで有頂点になっている。これによって戦略的防御路線でちぢこまっていた中核下部の意識が高揚しているのでまずい。この間、おびき出してたたく方針でやってきたが、この路線にのらない。鉄壁防御そのものを攻撃する以外には方法はない。
 C労働戦線における闘い。
 (イ)中核はTその他の名簿をつくり、尾行を全面的にやってる。
 (ロ)クラさん〔動労松崎〕――頂上作戦。クラの生活についてよく知っている。三つの家ともわかっている。家に帰らなくとも組合にはでてくるのでかなり危険。
 (a)われわれとしては、労働戦線でSSの全面的展開にはでられない。可能な形態で学生戦線と協力し徹底的におしすすめていく。
 (b)アジトの変更。公式の住所と非公式の住所の二本立。
 (c)財政。年末カンパの完納。
 (d)思想的に中核を追いつめる。
 
 七三年一〇月一八日(木)。
 Hachiより電話。
 @一九日の襲撃、一日延期。
 A今朝〔一八日〕関西の同志楠やられた。引き越しを予定していたが、そのままになっていた。
  いろいろとまずい。
 BHS〔広島〕が手うす。東京より防衛隊を送る。
 福教大やロンをめぐるレポ合戦が失敗つづきで、すっかりふさぎこんでいた吉川は、一打逆転の大作戦計画をきかされてすっかりうれしくなってしまった。東京もだいぶピンチのようだが、これでなんとかもちなおすだろう。そうだ九州でもやってみよう。もちろん襲撃するだけの勢力なんかありはしない。だけどなんとかやりたい。いい方法はないだろうか。そこで考えついたのが、わが九州支社の鍵をこわしてひきあげるという奇想天外の「大作戦」であった。黒田の第一の腹心の考えそうなことである。
 当然のことながら、Kingの責任者Iciは、このような無謀でノンセンスな計画に反対する。そこで、すったもんだの茶番劇がはじまる。いささか季節はずれの博多にわかであるが、その経過はつぎのような次第である。
 
   七三年一〇月二〇日(土)。
   中核派九州支社への攻撃、中核への怒りをこめた反撃の闘いは、一〇・二〇早朝とりあえず中止という結論をくださるをえなくなった。きわめて屈辱的なことであるが、キングにおける慎重な検討の結果であるかぎり、やむをえないことである。
   Iciそれ自体における一〇・二〇闘争そのものにたいするネガな気持と、それに規定されたとりくみの決定的立ち遅れ、主体的に打開すべきもののギリギリの追求の弱さなど、心残りなことが山積していることも事実である。しかし、鹿児島オルグから急拠よびよせたSadaも含めて学生戦線指導部全体が闘争回避に傾いているかぎり、それをも突破していくにはぼく自身としても限界を直感せざるをえなかったわけであり、中止に最終的に同意をあたえたのであった。
 総括上の問題を残しつつ、二〇闘争それ自体は中止し、むしろまえむきの体制にむけて再検討する以外にないといえよう。
 今回の一〇・二〇闘争は、中央からの天下り的指示という面もあって、その設定の出発点よりかなりジグザグしたものであった。Qにおける中核の動きが積極的であり、高姿勢であり、それへのわれわれの対応が直対応しつつふりまわされている、という事態、すなわち@一〇・一四福教大レポ問題と十五日いっぱいのそれへのふりまわされ、A一〇・一五ロンへのレポとそれへの反撃の失敗、B一〇・一六ロンへのレポとレポ狩りの失敗、C一〇・一七レポ狩り体制を前提とした闘いの失敗、Dその他、福中労などへのレポなど――をなんとしても打開するために、積極的な攻撃の闘いへの転換のきっかけをつくるものとして、一七日の労働戦線の会議〔労働戦線の情報活動の準備会議〕で提起したものであった。
 そこで主要に問題としたことは、
@この間の闘いが中核の動きに直対応し、ふりまわされてしまっており、中核はわれわれの対応を甘くみている。これを転換させること=攻撃的闘いに転換し中核を恐怖においこむ闘いに一歩くいこまないかぎり、防衛的意味でも危険であること。
Aそのためには、全国的な一斉反撃の闘いとも連帯呼応して、追求することが政治的意味でも大きい。設定としては現在可能な形態で一九日か二〇日に構えることが重要である。(この時期をのがした場合、次回はかなり困難になる。)
 Bしかし、現実的に設定する場合、調査活動の進展状態、中核の動き、主体的力量、権力の動向などを考慮してきめる以外にないし、ほとんど大反撃的なことはやれっこない。むしろ、われわれの姿勢の一端をつきつけること、中核追いだし作戦としても、残念であるが四〇一号への封じこめ作戦を追求してみようということ。
 C部隊(指導部)の自信喪失的状態をこの闘いをきっかけとして立て直していくことと、自信をなんとかつけさせることも重要であるということ。
 以上の四点ぐらいの問題意識であった。
 一七日深夜、以上の問題意識を同志Iciに提起した。彼は、そもそも二〇前後に設定することそのものに全くネガであり、かつ、カギアナ作戦的なイヤガラセをやることは消耗であり、危険性が高い、と主張した。そのうえ、彼は、部隊の担い手の弱さをもちだして基本的には否定する態度をとった。しかし、他に方法がないなかで、うけとめ検討することぬきに「やれない」ではまずいので、以上の点について実現してほしいということで電話討議は終った。
 十八日早朝(四時〜五時)、検討の結果として「やることに自信がない」「本来の調査活動などにコシをいれてやりたい」ということが連絡されてきた。@封じこめそれ自体としてはあまり意味がない、A権力との関係で犠牲が大きすぎる、B部隊が弱すぎ、ミスばかり多いので、その部隊では困難である、というトーンであった。下部指導部の自信なさならともかくIciそれ自体が「できない」というかぎり、やむをえないと了承した。
 一八日午後、教育大を襲撃された。このことの政治的意味は大きく、労働戦線への狂乱化した攻撃も予想せしむるものであった。しかも、われわれの闘いの限界、弱さに規定されて中核の動きが積極的であり、有項点となっていることもあり、これへの断乎たる反撃を無理してもつくりだすべきであることを決意し、しかも東京での攻撃が一日のびたこともあって、いったん中止した一九日の攻撃を二〇日に再度追求することをIciに提起した。
 一九日午前中の論議では、@全体的なムードのまずさは攻撃的な闘いで突破すること、A下部、とくにLCメンバーにいしゅくした傾向があること、Iciのあせりとドーカツでそれがますます強くなっていること、B指導体制がくずれていることから本来的な地道な調査が欠けていること、C指導体制を強化していくことを前提として二〇闘争をつくりだすしか道がないこと、D労働戦線内部の協力形態をつくりだすことなどを論議し、それにふまえて具体化すべく追求した。
 午後五時すぎ、SadaがKgから来福した。ただちにこの間の中核との闘いの経過と現段階的特徴、呼びよせたことの問題意識と任務について個別的に話しをした。そして七時半ごろより三人で最終的なつめの論議をやった。
 ここにおいて、Iciから再度「やれないなあ」「ムリだなあ」「自分には自信がない」ということが提出された。これは根本において「ビルへのわるさは下策だ」という意識が、現実的に具体化する段階ででてきたということである。危険性と部隊の弱さが、それをいかに突破するか、という方向ぬきに強調されてきたのであった。
 ここでは第一に明日朝決行という直前において一昨日の同様レベルの疑問がだされたということ、Iciの転換がいかなるものであり、それにふまえていかなる闘いを追求してきたのか、が問われるべきであること。かかる姿勢では下部への責任もった物質化ができないのではないか。第二に少なくとも可能性をギリギリまで追求することをぬきにして、常識的、経験的、直観的に「ムリだ、やれない」となっているように思われる。主体的打開の問題がでてこないのではないか。第三に現段階において具体的に追求することをぬきにしては権力の動向や中核の動きさえつかまれない。とりくむ過程での諸条件の分析による中止は、やむをえないけれども、始めからのネガな対応での中止は絶体まずい、などについて論議し、最終的には予定どおり決行することを決定した。
 この決定にふまえて、一方ではキングでの物質化を、他方では労働戦線での後方部隊としての諸任務、およびプロ関係のレポをやって徹夜体制でかまえていった。
 第一回レポについての報告の電話を一時半にやった際に、再々度「むずかしい」という意見がだされたのであった。「犠牲者をだすことになる」というが、結果として一、二名でることはやむをえないのではないか。いや一、二名ではすまない! トラノコ部隊の壊滅にもいきかねない! といった論議のくりかえしで、ぼく自体消耗してしまった。権力の出方、動きの分析、中核の動向を厳密に分析し、実現する方向で追求すべきことをいちおう確認して、一時間の論議をうちきった。
 二〇日午前四時半に再度Iciから電話があった。中止の方向だという。Sadaまでも同意見。直接的指導部での困難であり、@中止方針に最終的に同意した。とりあえず、@ただちに指導部会議をやるべきであること、A「F社」(前進社九州支社)周辺に接近すべきこと、そのことをとおして中核の現実的動向についてつかむこと、B「F社」ビル内に入ってみてはどうか、など、二、三点、気になることのみを伝えて二〇闘争については闘わずして集約せざるをえなかった。
  若干、解明しておくべきことがらとしては、以下のとおりである。
  @権力がどの程度の対応をするか。
  A中核の動きの分析。「三人の行動隊がせん滅される」という分析はどうか。
  B部隊の弱さ、LCの弱さ。Iciの恫喝となげきの関連でみるとどうか。
 二〇白色襲撃の惨たんたる失敗にすっかり消耗してしまった吉川のところに、追いうちをかけるように「アミダ」の手先から電話がはいる。一〇・二〇一斉白色襲撃は、みかけの派手さにくらべて、実際上の打撃があまりなかった、というのである。
 
   七三年一〇月二二日(月)。
  Dog〔中央〕より電話。
  @Ici問題についてPOBで検討した。
    このままQにおくことは不可能に近い。たんなるミスとか姿勢の悪さではない。根本にかかわる問題である。(イ)Q指導部の悪口ばかりいう。ぐちばかりで、内側でがんばるというねばりがない。(ロ)きちんとした組織のうえで機能主義的にやっていく能力はあるが、Qのように学生戦線が総パンクしているところではすぐに限界がでる。(ハ)性格上の問題。中央からきた人間という点でごうまんなところがある。一ヵ月ぐらいの展望でMの書記局でもみなおす。
 ・かわりに前委員長のKaya(Aki)を一ヵ月ぐらいの展望でおくる。O建設上の任務はSadaがやり、KayaはSSの指導という限定された任務のもとでやる。
 A 中核の動向について。
 ・出血させるような闘いはほとんどやれていない。軍事的ダメージは完全ではなかった。しかし一定の政治的効果はあったように思う。
 ・二一闘争の中核動員は意外と多い。
 ・中核はまだやる気だ。横国、上智で今日またやられた。
 BR内部の若干の問題点。
 ・ビビル人間がかなり出ている。
 ・部隊の亀裂がうみだされている。LCにケガが多い。つつこめ、といっても動かなかった部隊がでた。
 
 (9) 十・二二国学院反革命分子せん滅はカクマルを恐慌状態にたたきこんだ
 
 「崩壊寸前の九州カクマル」の執筆にそなえて吉川文書の整理をしていたところ、またしても九州の同志たちの快挙がつたえられる。九州カクマルのKing直属の部隊を車もろとも粉砕したとのことである。吉川文書の整理もなかなか愉快な仕事であるが、こういうニュースはもっともっと愉快である。聞くところによると、三月には九州カクマルは九州青労研集会におそるおそるビラまきにいって、解放派にしたたかうちのめされたそうである。泣き面に蜂とはいうこうことをいうのかもしれない。
 ともかく現実はどんどん進行する。どうやら九州カクマルは「崩壊寸前」どころではなくなっている。広島も関西もしかりである。反革命カクマルの指導中枢、黒田=朝倉体制は、厭戦思想まるだしの「勝利宣言」に逃げこもうとしているが、どっこいそうはいかない。反革命の徒が、まやかしの「休戦」で息つぎをし、ガタガタになった反革命組織のたてなおしをはかる余裕をあたえるほど、われわれはお人よしではない。春期大攻勢のいよいよ本格化する爆発は、反革命カクマルが四月にかけたあわい願望を無残にふみにじり、二重対峙・対カクマル戦の死力戦的発展、革命的対峙戦の第二期への勝利的突入をますますゆるぎないものにしているのである。
 
 さて、話は七三年十月下旬の九州にもどる。われわれは、前章で、十・二〇白色一斉襲撃の惨たんたる結果について確認した。すっかり息気消沈した吉川のところに、またしても深刻なニュースが東京の中央指導部から伝えられた。国学院大カクマルの中心メンバーがせん滅され、組織名簿が完全に中核派の手にわたってしまったというのである。
 
   七三年一〇月二三日(火)。
  Hachiより電話。
  @Kg〔国学院〕のRメンバーが昨夜二時に襲われた。かなりの負傷。
  AKg関係の住所録そっくりとられた。被害がひろがる危険がある。
  B住所録の件は秘密にしておく。L紙〔反革命通信〕で一般的に警戒をうながし、徹底させる。
  C危険なメンバーにはボデーガードを一人づつつけることにした。広島は学生組織が壊滅しているので北海道から三人動員する。六人につける。
  DQの場合、東北と同様、青解との関係で二正面作戦となる。
  EIciは決定どおり呼びもどす。
 十・二〇一斉白色襲撃にかけた反革命カクマル分子の「過大な期待」〔黒田テープ、『武装』一九七四年四月号〕はすっかり吹きとび、われわれの狙いすました激烈な赤色テロルが炸裂したのである。アサ知恵な計画の失敗に動転してしまった黒田=朝倉体制は、あわてふためいて十月下旬予定の第二回拡大POB会議を無期延期することを決定した。革命的報復がおそろしくて会議をやることもできなくなってしまったのである。
 
   七三年一〇月二七日(土)。
  Hachiより電話。
 @第二回拡大POBを延期する。かわりに一二月にNC〔全国委員会〕を召集。
 A中核の動きは活発。緊張は激化している。
 B一〇・二〇闘争の総括をめぐって内部に動揺がうみだされた。
(イ)武器のエスカレートについて反発する傾向が一部にある。
(ロ)関西の指導部のO的かかわり方があまりに問題が多い。まえからの誤りの延長とはいえ、すこしひどすぎる。指吸〔関西カクマル最高責任者楠徹〕が二度も自宅でやられた破産的事態とそれは不可分である。
(ハ)スブタ〔中央常任指導部〕の腐敗ぶりはあまりにひどい。有機的統一性がまったく弱い。
  産別担当連合的なものがいぜんとして打開しえない。
Mut〔吉川〕の若干の意見。
@中央LCのビビリズムまで切開がふかめられなくてはならないのではないか。腐敗の根拠が問題である。
AWB〔関西カクマル地方委〕の破産的事態を打開するためのO的E的根拠は何か。
 (イ)四・二敗北いらいの問題の切開。
 (ロ)中央LCとの論議(一〇月二五日〕においてSugは「自分がネガだといわれるのは反発を感じるが、積極的ではなかったことは認める」と発言したこと自体の反省的切開。
 (ハ)なぜSugはSSにコシが入ってないのか。なぜ一〇・二〇にコシが入ってないのか。学生にまかせてチェックするやり方の問題。
 (ニ)平常感覚でSSをとらえる問題。
 (ホ)Sugと南〔SS責任者〕との実体関係のつくりだし。
 (ヘ)力関係〔カクマル劣勢〕にふまえたSSの追求ということから、SSを現実にすっぽける問題。ビビリズム。
BQ――Rの立ち遅れの主体的な打開。
 九州カクマルの総破綻的な事態に内心では消耗しながらも、吉川は、黒田様の第一の直系として尊大なポーズで中央LCに注文をつける。このあたりは、黒田のやり方そっくりである。だが、ビビリズムにおちいり、九州カクマルの解体状況をO的に打開する方策を完全にうしない、その無能性を誰よりはっきりさせてしまっていたのは、つぎにみるように吉川そのひとなのである。
 
 (10) 宮崎大への第一弾ではやくも九州カクマルは崩壊過程に突入した
 
 七三年十月二三日、九州カクマルの反階級的な悪業にたいする最初の革命的報復が爆発した。二重対峙・対カクマル戦の烈々たる思想と革命的戦闘精神で武装した九州の革命的戦士たちは、九州カクマルの最弱の環、宮崎カクマルに的確な攻撃をがっちりとうちすえたのであった。すでに活動力が衰弱し、自然死の直前にあった宮崎大カクマルは、この革命的一撃でぶざまにすっとんでしまった。九州カクマルの学生戦線の壊滅過程は、ここにその現実的な歴史をふみだしたのであった。やがてそれは、佐賀、鹿児島、熊本、福岡とひきつがれていくのであるが、その具体的な惨状は、おいおいあきらかになっていくであろう。
 ところで、わが革命的第一撃は、宮崎大カクマルを粉砕しただけではなかった。同時にそれはなによりも、教組と日放労の片隅にほそぼそと残存してきた宮崎カクマル組織に致命的な打撃となってはねかえり、九州カクマル壊滅のもっとも根深いクサビに発展していくのである。
 とうとう九州でもやられたか、大変な事態になるなあ、そんな消耗感をいだきながら、吉川は、それでも宮崎カクマルのたてなおしのために無益な努力をつづける。七三年春以来、いつも吉川を悩ましてきた宮崎カクマルの破産状況は、今度という今度はどうにもとりつくろいようがなくなってしまったのである。そんな宮崎カクマルの惨状をまざまざとあばきだしてしまったものこそ、十月二八日(日)にひらかれた九州カクマルの各県代表者会議〔B研〕のみじめな状態である。九月三〇日のそれでは、チリ問題のうけとめをめぐっててんやわんやの大混乱におちいった九州カクマルは、いまや宮崎問題をめぐって収拾不可能の総破綻的事態におちいるのである。
 
 (a) 十・二八各県代表者会議での吉川報告にみる九州カクマルの惨状
 
 九州カクマルの崩壊寸前の状態をみごとに描写しているので、まず最初に、いささか長文になるが、B研への吉川報告の内容をそっくり紹介することにしよう。
 
   七三年一〇月三〇日(火)。
   議題。〔A〕中核とのSSの勝利的貫徹のために。1闘いの経過の素描、2われわれのO的とりくみの破綻とその教訓、3権力諸党派の現段階における動き、4当面の闘いの指針。〔B〕当面するm上の二、三の問題について。〔C〕若干のO問題について。
〔A〕小ブル雑派とのSSの勝利的貫徹のために。
 (1) この間の経過にかんする素描。
 @第一段階(九月中旬から一〇月一〇日まで)の特徴。
 (イ)アオ、中核との全面的な党派的対決。
 (ロ)チリ問題をめぐる内部的動揺とその打開のための闘い。SSを担いうるOへのつくり直しの闘い。
 (ハ)この過程でSSへのO的再武装がかならずしも成功的に実現しえなかった部分がうみだされたこと。
 (ニ)S――f〔学生〕の立ち遅れ。若干のInfでの「成果」のみ。しかも積み残し。
A第二段階(一〇月一七日まで)の特徴。
 (イ)労学両戦線での闘いの基本方針とその指導体制の確立(一一日)。本部長Ici、軍、Inf(山田)、政治(木山)。
 (ロ)中核の動き積極的。調査に大量投入。一〇日、政治集会、ペガサス〔福岡産別代表者会議〕一五日、六日、七日、ロン。この前後アルタ。
 (ハ)S――fにおける体制づくりの立ち遅れと種々の破綻的事態の露呈。
  @ 部隊編成ができないという事態。信用できない!
  A 隊編成過程での混乱。福教大へのレポによるビビリズム。
  B レポ狩りの失敗と総パンク的事態。
  C MS〔反革命学生組織〕中堅部分の自信喪失。
 (ニ)P――fの立ち遅れ。
B第三段階(二一日まで)の特徴。
 (イ)一方では中核の積極的な動き、O的反撃がつくりだされていないこと、他方ではS――fの立ち遅れ、ゆきづまり、P――fの立ち遅れの打開の開始。
 (ロ)全国的反撃の追求、それと連帯した闘いの設定とそのパンク。
 (ハ)中核の××への登場。
 (ニ)二〇闘争のパンクにかんする論議。SSへのネガの打開の闘い。
C第四段階(一〇月二二日以降)の特徴。
 (イ)中核の動き。二二日、国学院。二三日、宮崎大。二四日、ナポリ。二七日、Taki。
 (ロ)内部的とりくみ。二二日、O指導の再編成。二五日、Kaya〔中央派遣〕投入。二六日、合同会議。二九日、本部再編成。
 (ハ)P――fでは二〇・二一の敗北の打開のための再武装の追求。
 (ニ)全体として守勢からの脱却の追求。
(2) この間の闘いの教訓。
@P――fでSSへの主体的とりくみがはじめられたこと。
Aチリ問題の自己批判的な貫徹としてそれがなされたこと。とはいえ労働者的即自性への肯定的依拠、組合主義的傾向、O指導上の機能主義の克服は困難。
B当初のとりくみの過程でうみだされた若干の問題点。
 (イ)ビビリズムの広がり。他方、大丈夫だろうとの安住主義。
 (ロ)軍事力学主義的傾向。まえのめり。
 (ハ)軍曹主義。自己の指導性の質への内的反省の欠如。Oのパンク=ダンゴ化。
 (ニ)組織の機動性の軽視。
 (ホ)思想攻撃の弱さ。
C二〇闘争のパンクにおいて露呈したS――IのSS上の問題点。
 (イ)主観的にはうちどめなき闘いを願望。しかし現実的にはガラスばり化されていることへのビビった保守的対応。
 (ロ)他方ではゆうちょうな対応。権力や中核へのドラスティックな分析の欠如。
 (ハ)King――部隊への固定的な不信感。
 (ニ)軍曹主義。チビ幹スタイル。Saの過信への思想闘争のゆがみ。
 (ホ)O的根拠。SSへのO的とりくみのゆがみ。Kingの拡King化。現有部隊を機能主義的に動かすことしか考えられない。
 (ヘ)客観主義。解釈主義。
 (ト)Yato〔熊本責任者〕の破産。
D動労を中心にうみだされた組合主義的傾向からのSSへのかかわり。
 (イ)チリ問題のうけとめ。組合主義的、客観主義的傾向。
 (ロ)組合運動の窓から中核、アオをながめる腐敗した傾向。自覚の欠如!
 (ハ)平常感覚まるだし。倉川〔松崎〕の影響。
 (ニ)O指導上の問題。mにむけてOを動かす傾向を打破しえないこと。
EMz〔宮崎〕。Kg〔鹿児島〕。
 (イ)平常感覚。MZにはこない→そのうらがえしとしてのビビリズム。
 (ロ)ながめる傾向。O→O1がない。
 (ハ)組合運動への組合主義的没入。
(3)権力、中核の動き。
(4)当面のSSの方針。
@基本的構え。中核への襲撃を主要目標に設定。同時にアオをたたく構えと体制。
AO体制の構造化。本部、Mut。S――f、フェニックス=King(軍、Inf、政治、救対)。P――f、ニューレモン→チユリップ。
Bチュリップ活動のポイント。住所移転を前提に攻撃に転ずるための追求。
CS――fへの精神的物質的援助の強化。
D財政の打開。(イ)全国一律、三割。(ロ)特別カンパ、一口千円。LF一〇以上、RF三〇以上。
 (ハ)有志の特別カンパ。
E内部の再武装の闘いの強化。
F軍事訓練。
GO指導上の問題。B研、ペガサス、各F〔産別〕、LF。
 
 (b) 宮崎指導部の腐敗。「内部リンチ説」までとびだす
 
 つまり、吉川はもったいぶった口調で報告しているが、そのいわんとするところは、九州カクマルは、ビビリズムとポカばかりで消耗だが、しかし、さりとて局面を転換する方策があるわけでもない。まあ、ともかくしっかりガンバロウじゃないか、というわけである。だからもう討論になると、すっかりつっかえ棒がなくなって総グチ大会に発展する。おたがいになぐさめあって、それで終りである。ともあれ、つぎに「革命的論議」なるものについて吉川文書のつづきを追ってみることにしよう。各県指導部の無内容な総ざんげのみっともなさは、読んでいる方が赤面するほどである。
  討論。
  Si〔宮崎カクマル指導部〕。
 @中核とのSSで青年協運動どころではなかった。もうすこし自分でしっかりしなくては、という意識状況だ。
 A福岡において集約的にたたかわれている闘いを自分がいかに担うかが問題だが、ぜんぜんそうなっていない。現段階で宮崎でできることは、Seの制動をうち破って福岡に連帯するぐらいだ。
B中核による宮大MSの襲撃によって「とうとう宮崎まできたか」という恐怖がうみだされた。
CSeは本心からSSを担う構えがない。だから討論がまったくずりおちてしまうと感じる。
 日放労を中心とした中核の動向などをつかみとることを検討したが、具体的設定がわすれられている。Seとの間で任務分担主義におちいっている。
Dキグナス〔宮崎産別カクマル会議〕で宮大問題について「内部リンチ説」がでたが、事実説明があるまですぐ否定できないピンチな状況がうまれた。Si自身がもっと指導にかかわらなくてはと考えている。
Se〔宮崎カクマル責任者〕
@B研に参加するにあたって、中核と対決しえない自分の破産を自己批判する。宮崎での屈辱的事態をなんとしても打開していきたい。
AMaeharaの強化を媒介にして日放労での闘いをすすめたい。しかしMaeの腐敗を打開するのは容易でない。
B日放労中核分子へのSSの準備がいまだなしえていない根拠は何か。
 (イ)批准闘争や一二日の二時間ストのかかわりで精一杯で、チリ問題への主体的反省が位置づけられていなかった。
 (ロ)Hira、Tachigiが反発。まともに話しもしてくれない状況にある。形骸化した指導者意識への危機感と反発がある。やつらもだめだなあ、という心情である。
 (ハ)P集会〔一〇月一〇日の九州カクマルの反革命集会〕へのO化の破産的事態を考えるとアタマが痛い。Tachigiの参加拒否はまったくおかしい。
 (ニ)二三日の宮大は消耗だ。なめられたもんだなあ、という心情からぬけられない。
 (ホ)宮崎のO建設はSSを担いえない構造になっている。Maeは「ここまできたか。自分にもはねかえるのだなあ」という防衛的対応。LFは「一〇・二〇は拍手する気にはならない。学生戦線はきびしいようですね」といった調子だ。
Murao〔自治労担当・福岡指導部〕。
@A研〔九州カクマル指導部合宿〕から一ヵ月、中核との対決をなんとか担う構えでやってきたが、どうも構えばかりで自信がもてない。二〇日の闘争で自分の弱さを具体的につきつけられた。どう突破していくかどうもはっきりしない。
APacの指導でも、自分のことばでいえるが、内容的ひきあげができない。構えだけではダメだ。
B日常生活のスタイルが小ブル性を抜けだせない。
Ur〔教労カクマル・福岡指導部〕。
@二〇日の闘争の破綻について二人の同志への態度がつめたすぎる。
ARはゲバがもっと強いと思っていたが、そうでないことが実感でわかった。S――fの厳しさもわかった。
B自宅がはられたときは緊張した。
CYIO〔教労カクマル組織〕の弱さについて考えさせられた。mへのo的かかわりが完全にパーだ。電話での指導すらできなくなっている。
 Kashi〔支社事務局〕。
 @チューリップのCapとしての自分のかかわりに自身〔ママ〕がない。どうも軍曹スタイルになってしまう。チュの活動をやるとOFBの任務がパーになる。ポカが多すぎていやになる。
 Aプロ防衛の任務に一〇日前後からついたが体中が緊張でゴチゴチになった。どうも単ゲバ主義的にしか活動できない。
 Bダンゴになってそれにのめりこむスタイルとなってしまう。自分で考えてうごくことができない。各メンバーに教育できないのが気がかりだ。
 Ya〔熊本カクマル指導部〕。
@申しわけない気持だ。どうもタルんでいる。宮崎の報告をうけて闘いの厳しさを自覚した。
Aシャン〔全逓カクマル〕で現実への自分のかかわりについて感覚的にはよくわかる。しかし、やはりこわい。
Tob〔教労カクマル、福岡指導部〕。
@二〇日の闘争にはじめて参加した。中核の襲撃に直面したとき足がすくんだ。無我夢中だった。
A教訓化したこと。
 (イ)ちゃんと任務分担すること。
 (ロ)あのときほど連帯をヒシヒシ感じたことはなかった。Kashiの部隊がきたとき、本当にうれしかった。
 (ハ)バリのつくり方などまったく知らなかった。
Bチリ問題で自分をぼったてたつもりだったが、解釈していただけだったと実感。SSの厳しさがわかった。
Cしかし自分の任務がはっきりしない。
 Nog〔鹿児島カクマル責任者〕。
 @二〇日の現実化したなかでチリ問題のうけとめの客観主義がつきだされた。打開しなくては、と思う。
 A中核の動きは心臓がこおるおもいだ。ダメかなあ、という気持がいつまでも消えない。
 B尾行をまくだけでクタクタだ。緊張が一面的になり、やれることもやれない。
 CmづくりのO的追求も全然ダメだという実感。チッポケな自分をみつめなおしていきたい。
 
 (c) 宮崎指導部の実体的対立の深まり
 
 B研のあと、福岡カクマルは、二つのコースをたどって自壊の道をころげおちはじめる。
 ひとつは、SSの指導(とりわけKingの問題)をめぐる大混乱であり、Kashiこと鹿島吉秀のあいつぐ破産と動揺、その教労カクマルへのはねっかえり(UrとToboの対立、運動へのかかわりの完全な喪失)である。すでにIciが破産し、東京によびかえされたことはご存知のとおりだが、そのあと、Kingに関係するものは、KashiもUrもSaもSakuも、そして東京から助っ人にきたKayaもつぎつぎと破産していく。つまり、SSに「主体的」にかかわろうとすればするほど、かれらは、破局の運命をひきよせざるをえないのである。
 もうひとつは、動労カクマル(といっても門司、鳥栖などにわずかに残っているだけなのだが)におけるSSビビリズムの底なしの進行であり、門司地本におけるカクマルの運動的破産のふかまり、カクマル型労働運動路線の反革命的本質の露呈の際限のない進展である。そこに降ってわいたようにおこったのが「輝ける動労本部青年部長」であったHashiこと松本の脱落さわざであり、許すべからざる女性(差別)問題の顕在化である。
 しかし、ここではとりあえず、こうした興味ぶかい新テーマの検討はあとにまわすことにして、宮崎カクマルはその後どうなったのか、という、これまた興味ぶかい当該の問題について、決着をつけておくことにしよう。
 
   七三年二一月五日(水)。
  Mz問題についての若干の整理。
  @三楽〔宮崎カクマル〕の質的転換をどうしてもかちとることができない。
  ASe〔宮崎カクマル責任者〕との論議がうまくいかない。中味がくいちがいすぎるわけである。Mut〔吉川〕の批判によってSeは「やりなおす」と構えた。しかし、Seには、SSにビビっているMzの現実を主体的にえぐりだし、O的に打開していくことができない。
  BSeの打開されるべき問題点。
  (イ)Mae〔脱落分子〕の再オルグの失敗とその反省自体のパンクとしてしかSeの問題をうけとめていない。
   (ロ)Se自体が中核のスイカワリ〔一〇・二三宮崎大カクマルせん滅〕の打撃感をどう打開していくのか、そのO的構えが欠如している。
   (ハ)根拠としては、SSへの不信感があるのではないか。七〇年いらいのSS論の前進に確信がもててないのではなかろうか。
   (ニ)mへのかかわりが支部執行部としての闘いに解消され、フラク活動の解明が弱い。宮崎青年協mへのとりくみもやられていない。
CSeのうけとめ方。
 (イ)アタマではわかるが、現実にはわからない。宮崎におけるぶっこわれたO建設へのかかわりを打開せんとしてきたが、どうもうまくいかない。
 (ロ)三楽、キグナスの総パンク的な事態を打開するといっても、どこから手をつけていいかわからない。
 (ハ)Maeのオルグの失敗を反省し、その実践的打開にむけて闘いをおしすすめてきた。十二月二日は三時から二一時半まで話しをした。しかしMaeがとりあおうとしてくれない。腐敗がふかまっている。
Dその後の問題。またも約束を反古!
 (イ)地区青婦協集会へのとりくみを理由にして、また中核分子へのゴリQをサボった。
 (ロ)Seとしては中核との対決はそれ自体あまりやりたくない心情。
 (ハ)ひらきなおり。「中核を問題にすると自分がRであることを逆証明する。中核を指弾することは組合mの場面ではできない。自分が支部書記長になれたのは大衆の支持があったからだ。中核と対決すると大衆との関係がまずくなる。」という調子。
 
 七三年一二月八日(土)。
 MzにおけるSSへのとりくみの経過と現段階について。
Se。
@気持としては、直接的SSに参加したい。Taniがかわったなあと強く感じた。
Aしかし、自分のSSへのとりくみはうわずっている。どうしてかなあ。
BMaeのぼったてなおしの闘いが成功しない。努力してもMaeが応じてくれない。どうしてこうなってしまったのかなあ。Maeは六九年六・一五問題でも八派情勢にイカれ、右翼的にぶれたことがある。
CMaeとは結果的一致しかえられない自分もパーだ。相手の担いえない問題について切開できない。Maeを機能主義的に動かすだけになっている。
DHira、Tachigiの離反も克服できない。おちついて話せないことにいや気がさす。
 Fのメンバーとの実体関係のつくりかえを追求したが全然うまくいっていない。
ESSと〈よ〉闘争がぶっきれ、両方ともできなくなっている。
Si。
@Infについて。前提的な調査活動をやっただけで、O的とりくみが全体としてまずい。宮崎にきて、そのことをあらためて感じた。
A自分とSeとの実体関係づくりがピンチである。一一・二五闘争のとりくみをめぐってくいちがいが露呈した。
Mut〔吉川〕。
@問題のだし方が関係づくりのひとりあるきになっている。
A何の関係なのか、その内容は何か、が追求されなくてはならない。
Se
@中核に対決できない、ということで逃亡していた時期があった。
A執行部への進出、日放労の賃闘論の追求など組合mへの原則的かかわりをやっていくべきである。
BSiとの二人の実体関係にふまえて独特の活動をやっていきたい。
CそのためにもMi問題が打開されなくてはならない。チリ問題について内部虐殺説がでたことにひっかかっている。中核とのSSでも「自分にはねかえらないだろうか」。時間がないのでL紙を読ませることでオルグにかえている。
D大変だなあ。
 
 (11) 宮崎、佐賀、動労門司……九州の危機は、いたる所で拡大する
 
 九州カクマルの最弱の環、宮崎カクマルへの革命的一撃は、すでにみたように、教組と日放労の片隅で「民同右派」としてうごめいていたカクマル残党分子を一挙に崩壊においこんだ。幾度も幾度も自己批判してもいっこうに「SSニヒリズム」から脱却できないSe。吉川の命令で「三楽再建」のために宮崎にはりついたとはいうものの、Seに反発し不満をならべるだけで、実際にはなんの役にもたたないSi。九州カクマルの全体的な二つの傾向的特徴をみごとにしめしてくれるこの二人の角つきあいのなかで、かくして宮崎カクマルは崩壊の一路をころげおちる。
 つぎは、佐賀大カクマルである。もとより佐賀には組織らしい組織があるわけではない。福岡の付録のようなかたちで動労鳥栖支部にほんのわずかの残存カクマルがうごめいているだけである。それもカクマルが気がつかないうちに組合役選の日程をきめられてしまうぐらいだから、たいしたものであるわけがない。吉川は鳥栖出身の動労カクマル分子Asariに八ツ当りするが、それでどうなるものでもない。佐賀大カクマルは、それにくらべても話にならないほどポロポロで、支部すらなりたたないありさまである。それでも腐りきった尊大な態度で学生を恫喝してあるく。こういう手合には誰にでもわかる「説得的手段」がもっとも有効である。十一月七日、佐賀大カクマルの衰弱した姿に革命的報復の一打があびせかけられる。野口の撃沈とともに佐賀大カクマルの最期がおとずれる。学生大衆の歓呼の声におくられながら……。
 しかし、吉川は、その報せをきいたとき、それどころではなかった。肝腎かなめのKingや動労門司カクマルがガタガタになってしまい、それをどうしたらいいのか、すっかり途方にくれてしまっていたのだ。
 まず動労門司カクマルの危機の問題からみていくと、運動的にも組織的にも動労門司のカクマルが総破綻的事態におちいってしまったのである。東の青函とならぶ西の拠点として名声をたかめてきたその門司で、カクマルは決定的な衰退につきあたってしまったのである。そのうえ、かつての「輝ける動労本部青年部長」が二人の女性の愛情をふみにじっている事態が露呈し、すったもんだの脱落さわざがまきおこったのである。つぎのノートはほんのはじまりである。
 
   七三年十一月六日(火)。
  マウンティン〔国鉄カクマル指導部会議〕。議題。(1)国鉄戦線におけるSSへのO的とりくみの破綻について。(2)当面の運動上の諸問題。(3)O上の若干の問題点、@Hashi〔松本〕の女性問題について、Aクリープ〔国鉄カクマル会議〕、B各LF〔地区別の国鉄カクマル〕の指導上の問題点について。〔中略。やがて検討の機会がくるであろう――筆者〕 
 @Ha Shiの問題意識についてのSasaの批判。
  (イ)元本部青年部長スタイルがぬけない。組合としての教宣に埋没。
  (ロ)SSのきびしさ、深刻さを体験の反省などをきいてうけとめなおすべきだ。
  (ハ)自分でLのよみなおしと若干の対策的なものを考えるべき。
  (ニ)自分(Sasa)としても、渦中にある、狙われる、ということで構えなければと思うだけで、O的打開は放棄されている。
A核心的問題点。
 (イ)Hashiの転換なるもの(二三日の論議での確認)の内容が即自的であり、空虚であるということ。きびしさ、深刻さの中味が語られず、構えだけ。内容なし。(傍点。吉川)
 (ロ)基本的には、m上ののりこえ、それに従属した党派的、思想的、組織的闘いの強化の延長線上において今回のSS上の問題がアプローチされているにすぎない。SS的立場(O→O′)が明確にすわっていない。
 (ハ)かかる中味でしかないこともあって、自分自身の反省を主体的拠点としてOそのものの思想的、組織的再武装をいかに実現していくのかの観点がきわめて弱くなってしまっていること。二三日以降も実質上、SS関係の論議がされていないこと。Mg〔門司〕の総パンク(減速闘争の体制すらつくれない)の認識はあっても、それをO的に打開する観点がない。
 (ニ)O指導上においては、mに対応してOを動かしていくという機能主義、技術主義。
 (ホ)マウンティン内の思想闘争の欠如、ないし回避的傾向。なれあい主義。O建設論的には一種の任務分担主義であり、産別主義である。
 (ヘ)対家族闘争、結婚問題(別項参照)における非組織性。
B打開の方向性
 (イ)マウンティン。〔国鉄R指導部〕
 (ロ)クリープ〔国鉄R〕。
 (ハ)Ne〔ネーブル〕。〔国鉄産別〕
 (ニ)各LF〔各地区〕の指導。〔地区ごとの国鉄産別〕
 つぎに、SSへの組織的態勢の危機の問題についてみてみよう。ここでは例によって例のごとく「SSビビリズム」「ヘマとポカのQR」にかんする「なげき節」ばかりである。いいかえれば「QにおけるSSの立ち遅れ〔カクマル特有のいいまわしで敗勢と読むとほぼ正確な意味になる〕、中核との力関係の明瞭な逆転のとっかかり」すらつくりだしえない「屈辱的な事態」の責任についてのみじめったらしいおしつけあいである。
 
   七三年十一月八日(木)。
  合同King(八日)。議題。(1)早大七、八闘争の経過と総括。(略)(2)今後のSSの方向について。
   主要な問題は、QにおけるSSの立ち遅れ、中核との力関係の明瞭な逆転のとっかかりがつくれないばかりか、中核は優勢意識でふるまっているという屈辱的な事態をどう把えかえすか、その主体的=O的根拠は何んであり、いかに打開するか、ということであった。Infの立ち遅れを、その担い手の弱さとしてとらえかえし、Cap変更も展望して闘争しないとダメだ、というSaの見解をめぐって論議した。
  @担い手の弱さとしてあることは事実であるが、具体的にどこがどのように弱いのか、変更可能か否かを、指導する側の質の反省をも前提にして検討しなければまずい。
  A現段階としてCap変更を問題とするのはどうか。あらゆる諸条件を検討してひっこぬきを決めた経過もあるので、それをこえるメンバーを簡単につくりだしうるかどうか。
  BInf活動の立ち遅れは、担い手の弱さ、未経験、非常識その他、個々の問題もあるが、核心点としては、現段階における中核との力関係がいかなるもので、それをどのようにひっくりかえすのか、そのための当面の闘いの目標(直接的に攻撃目標)をどのように設定し、その目的の実現のためにいかなるInf活動が不可欠なのかについてのO的な武装がなしえていないことに最大の根拠があるのではないか。着実に準備をかさねて″以上のものではないのではないか。
  CこのことはSaの指導上の欠陥の反省が不充分であることとも関係していると思われる。
 (傍点、吉川)
 ・一〇・二九の失敗について――「体制ががっちりつくれないと反撃しようがない」という対応。「万全の体制づくり」を自立的に追求するだけで、現実的、具体的な作業について徹底しきれない弱さ。
 ・一一・五の破綻について――打開の無展望をO建設上の破綻に直接むすびつける傾向。
  「中だけ」〔MS指導部〕の建設の彼岸化。
  D一〇・二九論議で防衛から攻撃への転換の前提的ことがらが完了し、攻撃的闘いが確認されたにもかかわらず、その具体化の指導がなされていない。それもSaの転換があいまいなためではないか。Saは、失敗の責任をすぐに担い手の問題にすりかえるが、Saの転換の自己切開それ自体が問題なのではないか。
 ・一一・七、八の三七七七作戦の連続的な失敗の責任は?
 
  七三年一一月一〇日(土)。
合同Kingで中心的に論議されたこと。
@Sa、KaYaの論議が実質上まったくやられていないことがはっきりした。いわばSaがSS上の問題を含めたO全体をみ、KaYaが助け人的な自己限定を前提にSS上、とくに Inf、軍事の現場指導を分担する構造になっている。KaYaが臨時的な担当〔Iciの失敗をとりつくろうために中央からQ派遣〕という面もあって中途半端。それへのSa不満と反発〔もっとOそのものの総パンクに目をむけるべし〕があること。
AKingですべてが集約され論議されているが、JacのCapがKing会議に入っていないことから全体的動向にうとく、とりくみに欠ける面がうみだされていること。
B「中だけ」がやれない、ということを大前提として、それをSaの個別オルグ方針で補うというスタイルが固定されているということ。その結果としてSaの肉体的、精神的な限界があばきだされているということ。
C実践的打開としては、第一にSa、KaYa、それに吉川の指導部の論議をつくりだすこと。第二に現在のKingをSa、KaYa、Ur、Kiの四人とし、拡大KingにInf、JacのCapを参加させること。第三に「中だけ」は原則的つくりだし。Oそのものの強化を軸足にすえること。
 さらに、Kashiを中心とするチューリップ〔プロ防衛部隊本部〕の動向をみると、ここでは、一方では一〇・二〇白色一斉襲撃への「過度の期待」〔SSビビリズムの裏返されたあらわれ〕、他方ではわが革命的報復戦へのどしがたい恐怖が特徴的である。吉川の単純な内部世界が、この報告レジメにみごとに対象化されている。
 
   七三年一一月一五日(木)。
  拡大チューリップ。
  (1) 中核の現段階とQにおける党派関係の特徴。
  @中核の現状。二〇以降どうしようもない組織的状況。
  Aこれまでの動向分析の一面性の反省。中核への過大評価。
  BQにおける動きの特徴。
  (2) Qにおける中核とのSS立ち遅れの現実とその切開。
  @立ち遅れ。「QRはつぶれるのかなあ」というニヒリズム。
  Aその大きな一要因として、
   (イ)プロ防衛主義になっていること。法大Zメンバーの「撃沈」の影響。
    (ロ)プロのSSへのとりくみのゆがみ。
  Bこれまでの具体的かかわり方の反省。
   (イ)四段階――過程的にとらえた場合のその核心的意義と、場所的にとわれている任務。
   (ロ)従来は四つの任務″。
  後方部隊主義。
 (3) 今後の具体的方針。(略)
 【付記】なお、法政へのカクマル潜入分子撃沈のたたかいが、反革命分子にどんなに大きな衝撃をあたえたか、吉川文書のこの部分を読むとじつによくわかる。吉川は、第二回全国拡大常任会議(拡大POB)への報告準備の原稿でも、その点にふれている。黒田もまた、第二回拡大PO Bのテープ報告で「中央LCが不用意に地方に報告したためビビリを促進した」と指摘し、あくまでこれはRに無関係と強弁すべきだと命令している。カクマルの一般市民論、一般学生論の本質的な構造がまことによくしめされているといえよう。
 (12) 田中・佐竹問題、朝倉撃沈に吉川は惨めな対応無能力を示した
 
 ところで、内憂外患こぞりてきたるの感ある吉川のもとに、またしてもうっとおしい戦報が中央からもたらされた。
 ひとつは、いわゆるTS問題である。すなわち、早大「全中自」委員長、一文「自治会」委員長であり、川口同志虐殺問題のペテン的のりきりで「出色のはたらき」をした田中が、別件で入獄中のところ、突如「転向声明」を発表し、係争中の裁判も分離すると通告してきたというのである。田中〔現在も早大「全中自」委員長であることに注意〕は川口同志虐殺の際、たまたま現場にいあわせなかったことをいいことにして、反革命カクマルのペテン的居直り策動の主役として登場したのであったが、別件で入獄すると、接見はおろか「反革命通信」すら差し入れされない冷遇をうけることとなった。
 川口同志の虐殺にたいして、一方ではペテン的自己批判をうちだしながら、他方では「SSの高度化」の名のもとに白色襲撃をいっそう悪質なやり方で継続しようとしたカクマル指導部。その指導のもとに、早大四万学生の川口君虐殺弾劾・早大解放のたたかいに敵対しつづけた田中。もっとも「たたかった」がゆえに、もっとも「たたかい」のむなしさを実感していたこの男は、すでに獄外にいるときからその内面はボロボロになっていたのだ。だからこそ、入獄するともう救対のサボをいいことに「反革命通信」を読むことすらやめてしまったのである。
 つづいて、早大一文「書記長」であり、十・二〇白色一斉襲撃の首謀者のひとりでもあった佐竹が、権力にむかって自己批判し、川口同志虐殺の全過程を自供したというのである。十・二〇白色一斉襲撃に失敗し、十・二一反戦デーでも中核派の動員に惨敗してしまったことをよく知っていたこの男は、SSの展望にすっかり「ニヒル」となり、権力のふところふかく逃げこむことになったのである。いいかえるならば、カクマル小官僚としていつも使いすてられてきた佐竹は、実際には川口同志虐殺の責任をもちながら、ていよく佐竹らに責任転嫁し、のうのうとしているカクマル指導部、とりわけ山代、土門への反発をこうしたかたちで表現したのである。もっとも、K=K連合のもとでは、カクマル指導部の中枢への権力の追及はおこなわれるはずもないのだが……。
 
   七三年一一月七日(火)。
  Kaiz〔中央〕より電話。
 (1) 山崩れ問題の発生。
 @田中〔早大「全中自」委員長、一文「自治会」委員長〕が検事に転向声明を出した。弁選をきり、分離公判を要求。
 A二月二日に釈放の予定であったが、公害(川口君虐殺問題)で逮捕され、どうも「四、五年ぶちこむぞ」と恫喝され、ガックリしてしまったらしい。Tの場合、アリバイがあるのに、もう四、五年もいれられてはという気持になったらしい。
B別件で入獄中であったが、救対の破産的事態によって半年間も接見がなかった。六月以来L紙も入っていなかった。権力情報、ブル新だけで判断。内的に破綻してしまっていた。
C佐竹〔一文「自治会」書記長〕も全面的に自供。同盟指導部の中枢への権力の攻撃が不可避になる。土門があぶない。山代も。
(2) 山崩れ問題の否定的な教訓。
 第一点。権力の異常な弾圧、集中的な攻撃の激化など、赤軍なみであり、それ以上であるということ。
 デッチあげ、別件逮捕、長期勾留、長時間連続取調べなど、従来にない予想外の権力の出方。権力による一方的デマニュースのもちこみ――Rは弱体化しておかしくなってしまった、おさきまっくらだ、神大では敗北し、二人が死んだ、SSで中核におされっぱなしだ、など――を田中、佐竹が信じてしまった。
 第二点。田中には、権力によって一方的ニュースがなされていたのであったが、それを粉砕し、獄中の仲間と本質的に連帯したたたかいをつくりだし、O的に支えをつくりだすことを追求していったわけであるが、権力の一方的ニュースの注入、謀略的な恫喝をはねのけて、それを粉砕するたたかいが十分つくりだしえなかったこと。Q対活動の破綻的事態の反省。
 とりわけ、公害問題の否定的教訓をうちかためつつ、つくりだしてきた、この間のSSの質、その現実的たたかいの革命的意義を十分に獄中のメンバーに物質化していくための思想闘争が不充分であった。
 第三点。田中、佐竹の二人の思想的、人間的弱さを否定的につきださざるをえない。一方的ニュースが注入され、恫喝されるなかで、Rはおさきまっくらであり、自分はアリバイがあるのに四、五年もはいるのはイヤだ、などと決定的瞬間に転向することは、共産主義者として、革命家としての人間的弱さといわざるをえない。
 若き文学青年的なひよわさ、ボンボン育ちの弱さ、小ブル的な生活感覚などの過去のおのれから訣別するたたかいを努力してきていた。しかし、人間的、性格的な弱さの克服が根本においてかちとられていなかった。人間変革、自己変革を場所的につくりだすことの困難さ、思想的、O的変革の厳しさ、困難さを克服して、Oの強化をかちとっていかなければならない。
 さらに、より根本的には、ガンバリの質がどうであったのかを問いかえさなければならない。わが反スタ運動を公害問題の克服として明確に位置づけ、自らのist〔共産主義者〕としての飛躍をかけてがんばりぬいたのかどうか。昨年二月――今年三月のもっとも困難な時期においてW〔早稲田〕では田中がひとりでガンバリぬいたが、それも自治会役員という責任が前面に出たガンバリではなかったのか。そうであるがゆえに権力の一方的な注入によってRとともに生きかつ死ぬということがくるってしまったのではないか。山崩れ問題の否定的教訓をよりいっそう場所化し、RのO的強化をかちとらなくてはならない。
  ・SS論を理論的につかんでも、実践する場合、その主体の人間性などが根本的に問われるのである。自己をどう変革していくか。
  ・Rにおける対権力関係の弱さを山崩れ問題の否定的教訓の場所化をとおしてどう克服していくか。
 もうひとつは、反革命カクマル書記長朝倉の撃沈である。十一月大攻勢の基軸がどこにあるか理解できず、ともかく十一・八が「のりきれた」と有頂点になってしまったわがアサ知恵男は、カクマル小官僚どもには帰宅を禁止しておきながら、自分はのこのこと女房の住んでいる団地にかえり、毎日パジャマをきたままごろごろしていたのである。たとえ吹けばとぶような人物とはいえ、このような「必要不可欠な任務」の遂行を放置することは、われわれのみならず、カクマル小官僚の諸君としても我慢ならないところである。わが革命的部隊は、まさに万人の歓呼のもとに勇猛果敢な赤色テロルをたたきつけ、カクマル官僚打倒の決定的一打をおみまいしたのである。
 
   七三年一一月二〇日(火)。
  Uko〔中央〕より電話。
 @同志朝倉がおそわれた。頭はそれほど重くない。四ヵ所。手、足は重い。これまでの最高のケガ。
 A自宅にいた問題。この間、自宅に帰らないよう対処をとってきたが、早稲田祭その他の件で自宅に帰っていた。中核を戦術的に軽視するキライがあった点は事実。襲撃との対応でも不充分さがあった。→O内部に動揺もあるのでL紙に急拠、今回の問題をつっこんだ。関西の「衝突」を大勝利としてうちだす。当初、大衆闘争を主要なトーンにしていたが、SSへさらにコシを入れなおすトーンにかえた。
 Bさしあたり明日のPOBで物質化。
 ・今後どうするかについて。従来われわれはテロ合戦という陰湿なものはやってきていない。さけてきた〔なんという錯乱!〕。しかし、かれらの対応に規定されて一定程度やることもやむをえない。そうせざるをえない面もあることをふまえてSSへのコシを入れなおしていく。
 ・体制のつくりなおし。同志朝倉は年内いっぱいはダメ。再起は困難。あたらしい体制で全面的にコシをいれなおすことにする。
 C中核の動向。この間かなり精力的に動いている。O〔沖縄〕で二名、W〔関西〕で二名。東京でKg〔国学院〕一名、Ty〔東洋〕大二名など。キズが重くなっている。中核は一八日――二二日までを山にするといっている。
 DSSニヒリズムが部分的にうみだされている。E的、O的にのりこえるためのたたかいをやる。L紙の強化。
 わが革命的報復戦によって、アサ知恵書記長は、肉体的にも政治的にも完全にダウンしてしまったのである。朝倉撃沈にあわてふためいたカクマル指導部は、その深刻な打撃感をおしかくすために大敗北した十一・一六の大阪集団戦を「勝利」にすりかえ、大々的にうちだすという大ペテンにうったえたのである。かくして当初、二面の片隅にのる予定であった十一・一六のデタラメ記事は、かきかえられて一面トップにおどりだすのである。
 ところで、問題は、この二つの衝撃的な事態にたいする吉川の不甲斐ない対応である。すでに九州におけるSSの総敗北にすっかり意気消沈してしまった吉川は、もうTS問題もペーパー問題も考えたり、論議したりしている余裕がなくなってしまったのである。Gt問題のときには、一ヵ月にわたって種々の対応パターンの分析にふけることができた。しかしもう吉川には、自分の意見をまとめることもできない。そんな気力もないのだ。中央からの電話をノートにかきうつし、それをオームがえしにくりかえすだけである。おかわいそうに。むかし、いつもヘマをやってはベソをかいていたあの吉川の姿が目にうかぶようではないか。
 【追記】もっとも考えてみると、TS問題とペーパー問題について対応無能力におちいったのは ひとり吉川だけではなかった。もっとも消耗してしまったのは黒田そのひとである。反革命分子のなかでも権力への恐怖感でひときわ群をぬいており、およそ権力者にむかって抵抗した経験をひとかけらももっていないこの卑劣漢は、TS問題の話をきくともうこわくなってしまった。土門や山代は大丈夫だろうか、自分のところまでこないだろうか、例によって電話で大さわざであった。朝倉撃沈の報に接するともう大変である。あわてふためき、わめきちらし、やっと機動隊の保護のもとに府中御殿から逃亡という具合である。だから総括どころではなかった。例のテープでは「あれはまずかった」とひとことだけ。いったい「まずかった」のはなぜなのか。この重大問題について黒田は、「原則的内部思想闘争」を提起することができない。なぜなら、黒田そのひとがその日まで権力の保護を唯一のたよりにして、ブルジョア家族制度のなかでぬくぬくと生活していたのだから……。
 
 (13) 鹿大分子せん滅の日、吉川は九州総破綻について報告していた
 
 さて、いよいよ九州カクマルの総くずれのはじまり、はじまりである。
 吉川の一年間の「原則的内部思想闘争」とその「生命力にみちた躍動」なるものによって、九州カクマルはもはや修復不可能のところまで亀裂がきざみこまれてしまったのである。崩壊への転落にあたって、あと必要なものは「外側からの一撃」である。
 十二月八日、わが九州の革命的部隊は、九州カクマルの最大の「虚点」鹿児島大カクマルをせん滅し、まさに鹿児島がカクマルにとって「うつろな点」でしかないことを実践的にあばきだした。かれらは学生戦線において衰弱しきったばかりか、労働戦線においても、そのわずかばかりの残存分子が分解状況におちいってしまっていたのである。
 ところが、くしくもこの同じ日、吉川らは福岡で「拡大QR総会」なるものをひらいていた。そこで、わが吉川は、九州カクマルの総くずれ的事態について、いささか自虐的ともいえる手法でえがきだしていたのである。九州カクマルの総破綻的な事態をトータルに展望する意味で、ここではとりあえず、この拡大QR総会への吉川の報告原案を紹介しておくことにしよう。
 
   七三年一二月八日(土)。
  拡大OR総会。議題。
  (1)前回B研〔一〇・三〇――各県代表者会議〕以降のSSと当面の課題。
  (2)七三年末闘争へのQRのO的とりくみのゆがみ。m上、O上の核心的総括点。
  (3)新たに問われたKashi問題の根本的打開のために。
  (4)D――R〔動労カクマル〕のO的たてなおしのために。
  (5)J――f〔自治労カクマル〕のSSへのO的とりくみの教訓。
  (6)Yc〔教労カクマル〕におけるSSへのとりくみにおける再度のパンク。
  (7)Mz〔宮崎〕におけるこの間の闘いの経過と問題点。
  (8)Kg〔鹿児島〕問題について。
   △Qにおける二月以降の中核解体のたたかいの総括と当面の組織的課題。
  (1)B研以降のたたかいの経過と特徴。
   @一〇月B研で主要に問題とした点。
   A一一月前半(一一・一四緊急拡大R)までの闘いとその問題点。
   B一一・一四以降あらたに追求したことと三つの闘いの核心的意義。
   C一一・二六闘争の断念〔狭山闘争への武装襲撃計画とその失敗〕と、それ以降主要に追求してきたこと。
(2)中核、権力のその後の動き。
@一二月以降の特徴的動き。
 (イ)調査、襲撃が積極的。Nog、Urの尾行つよまる。
 (ロ)沖縄の照屋(R)襲撃さる。組織資料うばわれた。
 (ハ)Kg〔鹿児島〕大でも。七時半ごろ市内で。五人で住んでいるアジトに一人でバイクで帰ったところ、細い路地で前後から襲撃された。素手で抵抗したが頭部などうたれ重傷。
 ・活動家の動揺深刻。一年生すべて脱落。緊急に人をおくる。
 ・下宿すべて判明。すぐうつること。
 (ニ)専修、東海でやられる。
 (ホ)創造社、ナポリ、W大、国学院などへのレポ強化。
A二本立路線への移行と中核の現段階のO的現実。
 (イ)一方ではテロル、他方では六四六号路線の密輸入。
 (ロ)しかし、L紙はF〔『前進』〕の諸論文への政治的対応におわっており、革命論的批判がやられていない。
 (ハ)中核のist二三、二五号の本多論文→ist三〇号、F紙六四六号の本多論文→ist三一号の学習が不可欠。
B権力の動き。(イ)田中、佐竹問題、(ロ)北海道、(ハ)九州(フェニ、ロン)。
(3)当面の中核解体の闘いの方向。
@B1〔白色襲撃〕の着実な積み重ねの追求。(略)
A調査活動のより一層の高度化。(略)
B中核労働者の切り離し。政治的に利用されているシンパの切り離し。ドウカツ電話。(略)
C内部の思想的、O的再武装の闘い。
(4)いくつかの偏行〔ママ〕。
@運動に敵対するから闘う、という右翼的トーン。
ASSを担うこと=運転手、レポ、本部づめをやることに単純化される傾向。
 ・Tob――軸点がくるっている。二月中旬までよく本部づめしていたが、その後、組合運動に没入。
 ・Jのメンバー。
B中核の現段階への革命論的分析――批判がなされず、中核の動向への直対応、政治的対応にとどまってしまっている傾向。
 ・学生戦線――中核への現実的認識のくるいの発生。路線がちがうという程度の認識。
 ・労働戦線――中核の現段階、その路線への対決がきわめて不充分。ist三〇号論文、今賀論文がほとんどよまれていない。
C運動へのO的とりくみの弱さ。SSと組合活動へのO的とりくみの分離的傾向。
 ・T〔教組カクマル〕――一二・四ストへのとりくみがまったくO的に問題とならない。 ・C2〔動労Mgカクマル〕――HashiとSasaの二人における同一性の欠如。支部運動へのもぐりこみ。その内容における組合主義的傾向。反面、減速減産闘争がちゃんとやれていない。組合不信も部分的に生みだされている。
 D以上の主体的根拠としてQRのO的とりくみにおいて露呈している諸欠陥が反省されねばならない。
  (イ)QRのSS本部、Kingへの解消。S――fのKingへの解消。P――fでも各産別諸組織の基本的な論議がなされず、アル中〔代表者会議〕に解消。
  (ロ)各QRメンバーにおける種々のゆがみの露呈とその組織的打開がうまくいっていない問題
 ・Kashi問題。
 ・Yc――Urの問題。(a)場当り的消化スタイル、(b)全体的視野の欠如、(c)O内思想闘争へのネガな対応、(d)自己点検、自己反省、ほりさげの欠如、(e)PFとして問われたことについての主体的打開の欠如。
  ・Murao〔自治労カクマル〕問題。コンマ以下。
 
(14) 閑話休題。山代=今賀先生の今後が不安な話について
 
 山代冬樹こと白井健一という男は、なかなか奇特な人物のようである。よせばよいのに「今賀千安」などという小ブル的保守根性まるだしのペン・ネームで、わが革命的報復戦の宣言にたいする「不安」を吐露したのは、たしか昨年九月のことであったと思う。山代の「不安」は、ただちに九・二一以来の赤色テロルの爆発として実現された。十・一七反革命集会で基調報告をやり、党派闘争の「困難さ」を訴えると、事実そのとおりになる。つぎは、四・二〇反革命集会でまたしても党派闘争の「厳しさ」について語ると、またそのとおりになる。味方にはいささか迷惑であるが、敵方にはなかなか評判のよいのがこの奇特な人物の身上である。
 ところで、こんどは、吉川文書についての弁明である〔反革命通信三一六号〕。四・二〇集会の基調報告を読んですっかり楽しくなってしまったわが同志諸君は、かの世界に冠たる「今賀」先生が、吉川文書についての応援団に参加したときいて、またまた大喜びである。読みもしないうちから読者をワクワクさせるのだから、わが「今賀」大先生もたいしたものである。細川論文のもっとも熱心な読者がわがカクマルの諸君で、今賀=山代論文のもっとも熱心な歓迎者が、わが同志諸君であるという冗談も、まんざら真実をついていなくもなかろう。
 さて、今賀論文であるが、この大先生によると、吉川文書にあばかれた反革命カクマルの惨状は「生々とした内部思想闘争の躍動を示すもの」なのだそうである。ただ、黒田の第二回拡大POBテープのうち、若干の部分、すなわち、「一〇・一七集会以降、山代報告の一面性もその根拠となしつつ……」とか、「高知のように小ブル的観点から反暴力主義をまきちらし……」とかいうような「悪印象を与えるようなデツチあげ」をおりこんだところがまずいのだそうである。
 換言するならば、わが今賀先生は山代や高知に「悪印象」を与えるところがまずいといっているのであって、「中央指導部のSSへの組織的とりくみの欠陥と腐敗と偏向」とか「地方組織の立ち遅れ」とかいった他の部分については、別にまずくもなんともない、というのである。なんとも正直なものである。この二つの部分が真実そのものであることは、やがてテープの公開とともにあきらかになるところであるが、なにはともあれ、この二つの部分についてしか、わが今賀先生は「歪曲」?点を指摘することができないのである。この事実は、しっかりと確認しておいてよいだろう。
 それどころか、わが今賀先生は、吉川文書暴露への反論にことよせて、つぎのような朝倉、土門 への「悪意」あるあてこすりの文章をこっそり挿入する。
  「集団指導制をとっているわが同盟は、指導部の一定のメンバーがたとえ部分的に傷ついたとしても、それをもって微動だにすることはありえない」と。
 つまり、土門が撃沈されても、朝倉が撃沈されても、わが反革命集団は「微動」だにしないのだ、と今賀=山代はいうのである。土門や朝倉は、いてもいなくてもいいのだ、というわけである。黒田=朝倉指導体制にたいする今賀=山代の無責任な態度がみごとにうつしだされているではないか。〔みずからの政治的無能をとりつくろうために、カクマル内の私的収奪機関「こぶし書房」を物的基礎にして黒田=渡辺=山代ファミリーを形成し、それをもって朝倉=土門=西条に対抗する山代の醜悪なやり方については、やがて全面的にあばきだされる日がくるであろう。〕
 ところで、この「九州篇」(崩壊寸前の九州カクマル)であるが、これについては、わが今賀=山代先生はつぎのようにつぶやくことしかできない。
  「『通信』10・12・15号に掲載されている『九州篇』なるものはきわめて悪質なものである。そのデタラメな『解読』はさておいてほとんど何らの分析や解説も加えられないままなされているこの『暴露』の目的は唯一、権力に資料を提供し解読してもらうためのタレコミ以外のなにものでもない。まさにこれこそは、彼らの反動的で、反階級的な行為の行きつく先である」あとにも先にも、かれのいうことはこれだけである。つまり、真実であるからケシカランというのである。しかし、それにしても、「生々とした内部思想闘争の躍動」をありのままに発表したといって怒るとは、わが今賀先生も不思議な人である。〔なお、山代は、吉川文書の暴露は「権力へのタレコミ」だなどと見当はずれなことをいっているが、かえりみて他をいえ、とはこのことである。他党派の組織情報を警視庁公安部に売って、その費用で党の財政をまかなうといった独創的な警察社会主義者ならでは考えつかない屁理屈であるというはかない。そういえばわが反革命カクマルの諸君は、他党派の内部事情の暴露なるものがお好きのようであるが、かれらはどうやらこういうカタチでもタレコンデいるわけである。尊大なポーズでみえすいたことをいうから、こういう不幸にであうことになるのだ。〕
 山代君よ、今が千安を夢みるのも結構だ。帝国主義の体制的危機を否定し、反革命カクマルの総路線的な破産(ガタガタの現実)を否定するのも、それは君の勝手だ。しかし、君がどんなに今が千安を祈ろうとも、君の今後が不安で一杯なことは現実に否定することはできない。山代君よ、勇気を出して前をみてみたまえ。ほらそこに、第二の吉川の運命が君を待っているのだ。
 
 (15) 十一・二六狭山闘争上京団への白色襲撃策動とそのとん挫
 
 吉川文書にきざみこまれた九州カクマルの惨状は、けっして過去の話ではない。吉川が歴史の舞台から退場したあと、そこに残った三文役者たちが、その後どうなっていくのか、それはある意味ではもっとも興味ある今日の問題である。鹿島はどうなったのか。Sadaは、Sakuはどうなったのか。Urは、Toboはどうしているのか。Muraoは、Yaはなにをしているのか。わが革命的部隊は、疲れをしらぬ勇猛果敢さで、つぎつぎと現実の回答を実践的にひきだしていく。崩壊寸前の九州カクマルから九州カクマルの崩壊へ! 歴史は一歩一歩、着実に前進していく。われわれは、現実に進行する実践的営為を信頼と確信をもってみすえつつ、ふたたび「吉川の世界」へもどっていくことにしよう。
 前々章において、われわれは、鹿児島カクマルの弔鐘がなりひびいた七三年十二月八日、全九州から集ったひとにぎりの人物たちをまえにして拡大?QR総会なるものの報告をしている寒々とした光景をみる機会をもった。そこで吉川の口から流れでてくる言葉は、ことごとく「立ち遅れ」を永遠にぬけだしえない九州カクマルのみじめな現実にたいする泣きごと、うらみごとである。「内部思想闘争の生々とした躍動」とカクマルがいうのを聞いたら、われわれは、こうした光景をおもいうかべればよいわけである。
 さて、そこで吉川は「一一・二六闘争の断念とそれ以降主要に追求してきたこと」といった。では十一・二六闘争とはなんであったのか。なぜ断念せざるをえなかったのか。その後どうしているのか。われわれは、例によって例のごとく「分析」も「解説」も加えず、吉川の語るところをきくとしよう。
 
   七三年二月二九日(木)。
  QにおけるSSの中間総括と当面の課題。
  (1)一一・二六闘争の失敗。
   一一・二六闘争は断念せざるをえなかった。QにおけるSSの敗北的事態の止揚として、それにむけてOを再武装し、労学両戦線において全力の準備と体制を固めつつ、とりくんできた闘いであったが、一一・二七狭山裁判への中核のとりくみの内情が掌握しえず、最終的には一一・二六闘争を断念することをやむなくされたわけである。
   一一・二六闘争の断念それ自体は、たしかに残念なことであるが、しかし結果的に失敗″とか破産″とかというように解釈すべきではない。むしろ、この闘いにむけての労学両戦線におけるOの再武装の闘いを基礎として、この闘いの過程において、三つの攻撃的闘いをわれわれは成功的に貫徹してきたという核心的意義を明確におさえて、それを可能にしてきた主体的=O的根拠を全O的に教訓化するとともに、まえむきに、さらなるOの再武装とSSの新たな地平をきりひらくべく万全の準備を強化するのでなければならない。一一・二六闘争の断念それ自体は、現在の主客の諸条件においてやむをえないものなのである。外側からの情報収集の限界をあらためてつきつけられたものとして、そのまえむきの打開をただちにかちとるのでなければならない。
(2)SSへのO的とりくみの今後の方向。
 ところで一一・二六闘争の断念は、今後のQにおける中核とのSSの方向性についても種々検討しなければならない問題を提起している。
 第一には、当面、今回設定したような決定打的な闘いは困難となるだろうということである。むしろB1の小規模なものを着実につみかさね、中核の制圧的事態をすこしずつはねかえしていくほかないであろう。
 第二には、そのことから決定的に重要な問題として、Inf活動のより一層の強化であり、その技術的、機能的な高度化の追求である。これまでの外側からのレポの限界を突破し、@周辺分子からの内側の情報の収集、A中核中枢へのオタマ〔スパイ〕のおくりこみ、Bはりこみ、尾行などの強化が追求されなくてはならない。
 第三には、以上のことから当面、一六にむけ最大限動員した部隊の縮小=強化が不可欠となる。それは、一方では大学活動の防衛という観点から(福教、鹿大、熊商大)、他方ではSSの体制上、Infを軸にし、Jacの精鋭〔コンバット6〕でとりあえず日常的に維持していこうということである。
 第四には、B1とともに、今後重要な闘いとしてのパターンの闘いの追求である。直接的には中核職場へのビラ入れ、シンパ、脱落者、資金提供者への種々の神経戦的ないやがらせである。
 第五には、われわれの内部的なうちかためであり、一部にうみだされているSSからのずりおち、SSビビリズムを克服する闘いである。QにおけるSSの破綻的事態の打開にむかって、この間、労学両戦線でかなり無理した闘いにとりくんできた。こうしたなかで一一・二六闘争のとりくみがおこなわれてきたのであったが、同時に、この過程で多くのヒズミが生みだされたことも事実である。
 S――fにおいて再度脱落者がうみだされた(二五日)。MSの総パンク的事態のなかで軍団化した部隊から脱落者が再度うみだされたことの反省的切開がなされなくてはならない。
 P――fにおいて、さしあたり問題としなければならないことは、一、この間のSSを担ってきた産別メンバーそれ自体の教育の立ち遅れ、若干の動揺と停滞である。二、R――O〔カクマル組織〕そのもののO活動上のゆがみである。SSへの直接的な対応に追いまくられ、QRとしてのO的とりくみの弱さ、各産別のR――Oのたてなおしの弱さが露呈してしまった。KashiとMutoとの腐敗した関係との闘争にもかかわる問題である。三つは、年末闘争をふくむ当面の運動へのQRとしてのO的とりくみの弱さの露呈ということである。四つは、この間のSSから「とりこぼされた部分」の露呈とその打開がかならずしもうまくいっていない、ということである。これは全体的にも個別的にもいえることである。運動を中心的に担う部分(それ自体、組合主義的欠陥におちいっていることが多いが)と、SSを中心的に担う部分との任務分担主義的傾向が生みだされていること。たとえば全逓産別におけるKi、Ada、北九産別の教育の立ち遅れ、自治労産別における井上、Baとの闘争の遅れなどであり、その他方では、年末闘争へのO的とりくみの放棄という事態である。
 吉川を貧弱な頭目とする九州カクマルは、九州におけるSSの決定的な敗勢を打開するために、なんと十一・二七狭山公判闘争に参加する上京団のバスを白色襲撃する計画をねっていたのである。もとよりわが革命的部隊は適切な措置をとることによって、反革命分子の許しがたい策動をみごとにうちやぶり、またしても敵に「空振り」を強制した。とはいえ、われわれは、反革命カクマルどもが中央の統括のもとで狭山上京団への白色襲撃をくわだてていた事態をだんじて許すことはできない。当時かれらは、狭山闘争への従来の露骨な敵対策動の破産をとりつくろうために、種々のペテンをつかって介入=内部からの闘争破壊の道をさがしもとめていたのであったが、まさにそのときに、それと併行して、狭山闘争への外側からの反人民的破壊策動のためにうごめいていたわけである。このような狭山闘争への敵対的態度は、つぎの中央からの電話のメモによっておぎなってみると、いっそう明白となる。
 
   七三年二一月一日(土)。
  Kazu〔中央〕より電話。
  @拡大POBはなんとか年内にやる。動揺をくいとめる必要がある。
  A政治集会は、R一三日、中核一五日となった。
  B一二月六、七、八日にサヤマ裁判。われわれも介入する。
  ・一一・二七のサヤマ闘争。解同六〇〇〇、中核一一〇〇、ブンド一〇〇、NR〔ノンセクト〕二五〇、労組七〇〇など九〇〇〇。
 ・予想をこえる結集。このままではムサイ。だんこ介入する。のりこえ〔ふまえ・ふみにじり〕の論理でいく。
  C現段階の中核の動き。
   ・二九、三〇の段階で準備をととのえ、一二・一以降かなりエスカレートしたスイカわりをねらってくるだろう。
  ・AS〔朝倉〕をやって中核は空気がはいっている。このままではまずい。
  D権力の攻撃はいつになく厳しい。T・Sが事件の核心をしゃべっている。追求が上までのびそうだ。
  EASのケガはおもわしくない。下村も三ヵ月だ。
 
 (16) 鹿島吉秀の腐敗と破綻は九州カクマルの未来を予知させた
 
 いよいよつぎは、Kashiの番である。反革命九州支社の事務局員であるこの人物は、吉川につづいて革命的報復の鉄槌を当然にもうける運命にあったのであるが、さしあたりここでは、またしても「緊張感の欠如」した、「勤務についてルーズ」な小官僚として登場する。七三年八月の拡大QR総会の合宿では基調報告までおこない、また、十二・一五九州カクマル政治集会の基調報告者に予定されているというのに、Kashiの内面的世界は、かくも「ボロボロ」となっているのである。尊大なポーズのかげにかくれたカクマルの真の姿は、さしあたってKashiをみつめることで十分の基本パターンをつかみとることができるのである。
 
   七三年一一月二七日(火)。
  当面追求すべきことについて。
 (1)OFB〔支社事務局〕会議。
 @OFB活動それ自体にかんする諸問題。
 AP――fにおけるSSへのとりくみの現段階と今後の方向。
 BMuto〔Kashiの彼女〕問題。
 CKashiの自己変革=思想形成にかかわる諸問題。
 (2)九州におけるSSの総括と当面の課題について。
 @現段階における諸党派の動向、その特徴。
 Aこの間の経過と主要な問題点。
 B当面の核心的課題。
 (3)MZ問題について。
 (4)一一・二六闘争の総括。
 @O的とりくみの前提。
 A一一・二六闘争の現実、その空ぶり。
B打開。
 七三年一一月三〇日(金)。
OFB会議。
(1)九月出発点で確認したこと。
@任務体制。
A当面の主要な任務。
Bとくに考慮しておくべきこと。
CKashiの若干の活動上の問題点。
 (イ)遅刻、ねすごし。緊張感の欠如、勤務についてのルーズさ、OFB員としての自覚の弱さ。
 (ロ)事態対応的、その日ぐらし的。主体的に計画をたて責任をもって遂行するようになっていない。やすうけあいスタイル。
 (ハ)計画の質がこまかすぎる。視野がせまい。大枠的なこと、全体的なことにふまえた部分の位置づけがない。
 (ニ)区切り、ケジメの曖昧さ。つぎからつぎへの新たな任務への移行。OFB活動のリズムをつくることが不可欠。
(2) 三ヵ月間の活動を経て自分の現状と問題点をどう自覚しているか。
@まず構えそのものについて。九月時点よりも後退しているのはなぜか。OFBのO的位置の決定的な重要さと、その担い手としての自己の不断の変革にむけての苦闘の内実はどうか。
 ・元気がない。
 ・ねばりが足らない。
 ・勉強していない。
A勤務態度、生活スタイル。忙しさに追われルーズになっている面はないか。
BOFB活動のゆがみ。雑用的任務の重要さはあるが、それゆえにそれに没中することはまずい
 ・財政手続きの遅れ、乱脈さの露呈。
 ・L紙の放置。
 ・書籍代の混乱。
  →事務能力上の限界露呈。
CRの担い手としての自己変革にかんする意識的追求の後景化。雑用係への安住的傾向の露呈。
 ・創意性の欠如。
 ・創造性、構想力の欠如。
(3) Kashiの破産の自覚の欠如。
@Mutoとの闘争のパンクとそれへの無自覚。Mutoとの腐敗した関係の肯定化。現状維持路線におちいってしまっていること。
 ・Mutoの腐敗した反階級的行為を弾劾し、闘争することが全くなしえていない。
 ・むしろ結果的にはMutoのごきげんとりになっている。
Aこの間のKaの消耗の原因――Mutoがおちついているかどうか、それがKaそれ自身のO活動にはねかえっているという深刻な事態。
 ・Mutoとの関係が、一方ではOのタガで結びつき(したがって気持が通じない。しっくりいかないものがいつも残る)、他方では小ブル的夫婦関係、小ブル個人主義的なものへの温存としてあらわれている。
 ・そもそもMutoの実体分析がなしえない。ないし狂っている。R派としての思想性、O性、人間的資質がMutoには欠如している。そのMutoへの美化。
Bこのことは、Mutoとの対決における自分の問題についての内的反省の欠如とも関係している。そもそも二人の関係のパンク意識がない。否定的自覚なし。
CMutoについて。
  (イ)形成過程。母との関係、家族主義。
  (ロ)小ブル個人主義。
  (ハ)職場およびKaとの夫婦関係の腐敗。
  (ニ)mへのかかわり、バネの小ブル性。
 
(17) 十二・一五九州カクマル集会の失敗を契機に総破綻はさらに深まった
 
 そうこうしているうちにはやくも十二・一五反革命集会の日どりがやってきてしまった。あとでみるように、九州カクマルは、われわれの革命的報復戦の猛追のまえにガタガタとなってしまっており、実際は政治集会どころではないのである。「いま政治集会をやるのは組織暴露になるのではないか」という不安が、残りすくないかれらのメンバーからつぎつぎとつぶやかれる。それでも、吉川は「大カクマルの面子」にかけて政治集会を強行する。事実それが吉川たちの命とりとなることもしらずに……。
 しかし、さしあたって吉川は、政治集会を強行することで「中央への面子」をたてることができた。とはいえ、その内実はじつに惨たんたるものであった。
 まず、吉川はというと、われわれの赤色テロルがおそろしくて会場にちかづくこともできない。鹿島はといえば、大きな声をだして外面だけは「元気」がよさそうだが、中身はまるで空虚である。またしても「Kashiの問題」が増えたわけである。大きな会場に全九州からあっまった数十名が身をよせあって、その寒々とした光景をたしかめあう。その頭上を鹿島の「うつろ」な声がむなしく通りすぎていくのである。
 吉川は、会場からとおくはなれた「クラ」のなかで、孤独にさいなまれながら、力なく机に向かう。
 
   一九七三年一二月一五日(土)。
  @今日はR派政治集会である。防衛体制の破産からP〔福教〕大にはいかれなかった。政治集会はわれわれのO的闘いの一つの集約の場であり、参加せずにいることは、どうもよくない。もうやがて終る時間であるが、どうも心配である。今夜および明日にかけて集中的なオルグの機会をつくりださなくてはならない。やるべきことはつぎの三つである。第一はMz問題の根本的打開のとっかかりをつけること、第二にはKgの破産的事態の点検とSug、Igchiの論議の切開、第三にはNgオルグにかかわる問題である。
A新年号にむけてQBとしての決意表明をかかなければならない。明日中である。一〇枚(三〇〇字)である。何をかくべきか、ねらなくてはならない。しかし、内容がうわずってしまう危険がある。積極的な表現にしようと思う。
B明日の合同F〔産別〕会議について。
 (a)二月合同会議の総括と一二月合同F会議の課題。
  (イ)二月合同F会議で問われたことは何か。
  (ロ)それ以降、各Fでのとりくみの経過と主要な問題点。
  (ハ)一二月合同F会議の課題。
 (b)小ブル雑派とのSSの現段階と主要な問題点。
 (c)一二・四闘争へのO的とりくみの総括。
 (d)Mz、Kg問題。
CQにおける中核解体の闘いの現段階と任務上の問題点について。〔第二回拡大POBへの〕Qからの地方報告の骨子。
 (a)小ブル解体の闘いの現段階と直面している困難な問題。
 (b)QにおけるSSへのO的とりくみにおいて生みだされた主要な欠陥。
    (イ)防衛のための防衛、防衛のための攻撃的な傾向。
    (ロ)QBのQBとしてのSSへのO的かかわり方の問題点。Kingへ投入する傾向、Kingそれ自体の質の低下。
    (ハ)中核とSSのにおいて生みだされている幾つかの否定的事態。この間のSSへのO的とりくみから実質上ずりおちている部分の打開がうまくいっていない問題。「SSを担うこと」=運転手、レポ、本部づめに単純化する傾向。中核の動向への直対応、政治的対応にとどまってしまう傾向。
 ではこのような総破綻的事態を打開するためにはどうしたらいいのか。吉川にはどうしてもその答えがでてこない。考えあぐんでいるうちに、東神奈川駅での白色襲撃の大敗北のしらせがつたわる。
  「中核はやった、やったといっている。大会戦の勝利に空気がはいっている」
 しかし、もう日記に整理するゆとりはない。手帳の片隅にこう書きこんで、吉川は、またしても「中央向け」のいいわけについて考えこんでしまう。一晩あければ、合同産別会議である。またしても「生々とした内部思想闘争の躍動」である。
 
   七三年一二月一六日(日)。
  全九州合同産別会議。
  議題。@合同産別会議の総括とその後の経過。A中核とのSSの現段階。B一二・四へのO的とりくみ。C宮崎、鹿児島報告。D当面の課題、スケジュール。
(1)一一・四合同産別会議の総括。
@九月の三日間の激闘、チリ問題のうけとめのゆがみ。
 ・内部に問題があったのではないか。
 ・客観主義的傾向。
A意義と限界。
 ・宮崎問題へのとりくみ。
 ・産別づくりにかんする混乱と停滞。
(2)一二・四以降のO的闘いの経過。
@実践的転換の即自性への固定化。
 (a)SSを担っている質そのもののあいまいさ。
 (b)istすら読んでいない事態。中核とは何であり、なぜ解体しなければならないのか。その位置づけの不明さ。
 (c)クルミの防衛。
 (d)RF――LFの論議がなされていない。
Taki。
(1) 中核の現状の分析について。
@対カクマル戦オンリー主義を経た上での六四六号路線。
Aその根拠。
B九州における中核の動向。
(2) 当面の闘いの指針。
@中核の内情のあらいだし。
Aβ1。一打逆転は無理なので、小さい攻撃をつみあげる。
Bα。(イデオロギー的攻撃)
C内部の再武装の闘い。
 (イ)ズレの拡大。
 (ロ)直接的SSへのビビリ。いかない!
 (ハ)ズリおちたメンバー。
(3) 打開すべき核心的問題。
@カクテル〔教組カクマル〕の不一致。対中核、対権力の緊張感が喪失した対応。
 (イ)エド――結果を一面的にとらえ、個人プレイ的にやっている。
 (ロ)Kimura〔吉川の彼女〕の職場での人間関係づくりのゆがみ。「変におもわれたくない」という心情→組合員への無防備な対応。
 (ハ)SSについての自己総括、内的反省の放棄。(O討議が従来のように原則的におこないえなくなったなかで、Oの有機的関係をいかにつくりだすかがなされていないことを根拠として)
AHiはその日ぐらし的対応に追われている。SSにたいする実践的指導を放棄している。
B一二・四〔スト〕へのO的とりくみがこわれている。
CKgのパンク的事態。
 (イ)井口(Igchi)発言――「自分も弱いからなあ」「現段階のSSについて自分の内面に否定しえない恐怖心がある」
 (ロ)杉〔Sug〕の問題をエグリだされずにきている。だしにくいフンイキを自分がつくってきたのかなあ。
 (ハ)実体的対応関係ぬき! Sug――Igが表面的一致のみ。Ig問題がつかめず。
D一二・一五政治集会のO化がピンチ。
 (イ)北九州……Hei、Yana→Ta、Ko、Ori。
 (ロ)デ2……ゼロ。
Yama。
(1)一二・四へのO的とりくみ。
@一二・四の否定的現実にほとんどくいこめず。
 (イ)九――一〇月段階のカクテル。ある程度とりくむ。
 (ロ)一一月以降。一二・四へのO的とりくみの論議をまったく放棄。
A反省。
 (イ)SSと組合mへのかかわりが分裂。
 (ロ)O的とりくみが崩壊しているなかでO的打開の欠如。崩壊の自覚の内実を問いかえすべき。
(2) 集会のO化におけるピンチさ。
 @Taはまったくネガ。その内面のエグリだし。
 (イ)義務的。いわれたからいく。それ以上自己追求がない。
 (ロ)権力、中核との関係がきびしいなかで政治集会をやるのはO的バクロになるのではないか。
 (ハ)組合運動の面からみている。
 Kg〔鹿児島〕。
@一二・四はとりくめていない。SSの討議で精一杯。
G一一・四以降の追求。
 (イ)チリ問題での客観主義的傾向の克服。
 (ロ)中核との対決。
B井口との闘争。
 (イ)一一・四以降、文章だそうとせず。
 (ロ)「自分も弱いからなあ」「自分としてぶつかっている問題がある」「中核とのSSがこわい。山の中の一軒家で自動車がくればビクとする」「鍵はしめてねる」
 (ハ)チリ問題。LCはもうすこしちゃんとやれなかったのかなあ。
 (ニ)家族問題へののめりこみ。
 (ホ)組合役職が多い。県青年部副部長、地区協議長、支部執行委(青年部担当)、分会長。組合会議に追われどうしでL紙も読めない。
 Mu。
@YaはMuに無関心という感じだ。家にきても積極的に論議しようとしない。あまり立ち入らず、すべてHiまかせだ。
AMuの方でも、うまくHiとやっていけない。前回のカクテルでもぶつかってしまった。しかし、Yaは不満をきくだけでおわりだ。最近は会うこともほとんどない。Hiのところには遊びにいく気もしない。
B一二・四のとりくみはパー。SSへの客観主義的傾向の克服で精一杯で、それどころではない。
 (イ)Muの場合、組合運動へのとりくみの余裕がない。
 Yaの場合、その過程でのそれなりのとりくみがあったはずだけど、それが出てこない。
 (ロ)LFのメンバーへくいこめない。その主体的根拠がつかめない。
 Kim。
@LF、合同会議についてとっかかりができたと思う。その後もやられているはずだが、それが生きていない。
A一二・四について。連絡をとろうと思ったが、とらなかった。
Mu。
@なんとかしてSSへの客観主義的うけとめを切開しようとするが、それがうまくいかない。
 Ya。
 @一一・二五闘争について、Y〔青年〕協以降、実践的O化を追求し、北九州などで若干の前進はあったが、全体としてチビっている。
 AAG〔反戦〕責任者としてS(向坂派)、O(太田派)の敵対云々のまえに、まずO的任務として行くカマエでやった。しかし、どういうものか、についてはこれまでのU――m〔組合運動〕でのO化との関係ではとらえられないのではないか。
 
 九州カクマル指導系統略解
 
(1)基本的な組織構成。
 R――RF――LF(P――f)=労働者
  ――MS――ZF(S――f)=学生
(2)九州カクマルの指導系統。
  @OB〔カクマル九州地方委員会〕は解体状況。
  AQR総会〔Vita研、Vita合宿〕や代表者会議〔A研、B研などと略称〕で代行させている。前者は年四回、後者は月一回ぐらいの割合でひらかれる。
  B通常の指導は事実上、福岡の指導部〔タカチホ、週一回会議〕があたる。
  C九州支社〔ロン〕の運営はOFB。
  D中央・各県との恒常的な連絡、意志統一は電話を使用。
(3)各県カクマル指導部。
 @福岡。吉川、Sada、Saku、Ici、Ur、Tobo〔教労〕、Murao〔自治労〕。
 A熊本=Yato、鹿児島=Nog、宮崎=Se、Si。
(4)King〔白色襲撃本部〕。吉川、Sada、Ici、Ur〔Inf〕、Kaya(中央)など。
(5)産別指導系統。
 @国鉄。マウンティン、Ne〔ネーブル〕、クリープなどを仮称(以下同様)。
 A全逓。シャンペン。アリ。
 B教組。YC、QH、ウオッカ、カクテル。
 C自治労。Pac、スコッチ。
     (『革共同通信』八、一〇、一二、一五、一八、二一号一九七四年三月一一日、二五日、四月八日、二九日、五月二〇日、六月一〇日に掲載)
 
 
 
 
 
 
 
2 「松井文書」にあばかれた反革命カクマルの腐敗
  黒田――松崎――松井の醜い関係
 
    吉川文書の革命的暴露の連載がおわらないうちに、八・三によって口火をきった戦略的総反攻は怒涛の進撃を開始し、わが軍はつぎつぎと戦果をかちとった。ために、その目的の大半を果たした吉川文書の暴露は中断され、あらたに本稿の対象である第一次松井文書の全面的暴露が予告され息もつかせぬ戦闘の勝利とあいまって、反革命カクマルの心胆を寒からしめたのである。
 
 
 わが革共同大阪南部地区委員であり、全国部落研連の指導部の一員であった中山久夫同志を虐殺した関西カクマルの絶望的なあがきにたいし、革命的報復の第二弾が猛然と炸裂した。関西カクマルの残りすくない戦闘主力二〇名を一挙に撃破、せん滅した十・八大阪道頓堀集団戦の大勝利について、関西カクマル指導部、松井章にたいする容赦ない復讐の鉄槌がうちおろされたのである。
 わが革命的武装勢力は、この巨大な勝利にふまえ、それを突破口にしてさらに前進し、杉山楠、(指吸)、野原(北井)、片村ら中山同志虐殺の首謀者どもをひとりのこらず報復しつくすであろう。総崩れ的事態にあえぐ関西カクマルの完全打倒は、もはや時間の問題である。
 ところで、このような関西カクマルの底なしの大敗走のなかで、茶番まるだしの悲喜劇を演じてみせてくれたのが、敗軍の将?松井そのひとである。すなわち、撃沈のあと権力によって手厚く救出された松井は「盟友」の顔をみて安心したのか、虫の息のもとではあれ、警察当局につぎのような泣きごとをくりかえしたのである。関西地方の商業新聞の報道によると、松井が警察当局に語ったところのものはおおよそつぎのようなことである。
  「自分はどのセクトにも所属していない。それなのに自分を襲撃するのは腑におちない。善処を要望する」
 つまり、松井は、六二年以来の関西カクマルの指導部員であり、同志中山虐殺の首謀者であることが明白であるにもかかわらず、陰謀的に大阪総評にもぐりこみ、これまで社会党員の偽装をとりつつけてきたことをいいことにして、あたかも自分の撃沈が誤爆″であったかのようにすりかえることによって、関西カクマルの大敗走の現実をおしかくし、そのうえ国家権力の手をかりてうらみをはらそうとしているのである。いかにも松井らしい卑劣なやり方である。黒田といい、朝倉といい、松崎といい、どうもカクマル指導部は卑劣さで勝負するのが得意であるらしい。
 では、松井は本当に「どのセクトにも所属していない」のだろうか。とんでもない真赤なウソである。松井がカクマルの古参メンバーであることは、およそ「新左軍に関係したものなら、だれでも知っている公然の事実である。とはいえ、ウソをつくことでは抜群の才をみせるカクマルのことである。なんといいだすかしれたものではない。
 しかし、わが松井よ、われわれは、ペテン的いいのがれを許さない完全な物的証拠をがっちりとにぎっているのだ。それは、六三年に松井が反革命的活動を開始して以来、一二年間にわたって克明に記録されてきた松井の日誌である。一メートルをこえるこの日誌には、松井のあまりにも腐敗した日常生活、その反革命的な策動、カクマルの会議議事録や組織構成がぎっしりとかきこまれている。ついにわれわれは、吉川文書、創造社文書、前川文書につづいて、松井文書という重大資料を革命的に入手するにいたったのである。
 例によって例のごとく、われわれは、松井文書をまずもって軍事的観点から徹底的に利用しつくすであろう。いな、そもそも松井撃沈そのものが松井文書の実践的成果なのである。この奇妙なナゾはやがて歴史がすすむにしたがっておのずから判明していくであろう。しかし、われわれは、当面する軍事情勢に関連した部分の内容をただちに公表するわけにはいかない。読者諸君にはもうしわけないが、そのところは我慢していただくことにして、とりあえずは、松井文書のなかでもかなり古い日誌の部分から系統的に発表し、カクマル一二年の腐敗の歴史を根底からあばきだす作業にとりかかることにしよう。
 今回はその予告編のようなものである。しかし、それでも、賢明な読者諸君は、反革命カクマルの腐敗ぶり、黒田、松崎、松井のドス黒い関係をあばきだす重要な手がかりを得ることができるであろう。
 
 ★松崎明は、反革命カクマルの副議長であり、労働者組織委員会(WOB)議長である。
 
   「六三年五月三、四、五日
  二全代
   中央WOB確立 未
                責任者 倉川
    〃 SOB 〃 既
                  〃  土門
  しかしPBをつくりだせない。八月ごろ大会を開いて体制をきめたい。
   全体の責任者(議長)山本
   書記局  森、大石、森川
   機関紙  久保
   地方からの連絡先
            こぶし書房」
  【注1】倉川=松崎、大石=朝倉。
  【注2】森川=石井は六九年に脱落。
 
★黒田のスパイ問題について松井は疑問をもちながらもカクマルに追従した。
 「六四年五月一九日。KK〔黒田〕との会議。万願寺。
 ……(前略)。大川のスパイ問題についてどうか。
 大川はスパイかどうかわからない。日共の内部情報を(警察に)売ったからといって、そういえるかどうか。スタとの闘いがかさなっている。
 五九年NC結成のとき、大川をどうするか問題になった。クサイものは排除するというのが 第一回会議の決議。田宮、山村らがつよく主張。自分もそれに従った。
 KKの責任がはっきりしない。(後略)」
 【注1】田宮=本多。
 【注2】第一回会議では、黒田が自己批判させられた。この事実を黒田はその後かれ自身の小ブル的自己保身のためおしかくそうとしている。
 
★松崎の組合主義的腐敗は、六〇年代中期から深刻であり、カクマル内部でも批判の的であった。
 「六五年一一月二一日。三労総AL会議。
……(前略)。倉川のケルン主義とその裏返しとしての大衆闘争主義(中略)。ist六号の倉川論文以上に出ていない。あれひとつとっても平和革命路線。(中略)構改派の運動路線批判ぬきで横断賃金論に追従。奥田八二の合理化論ベッタリ。協会派運動との関係もおさえられない。
(後略)」
 【注1】AL(全線)=国鉄委員会。
 【注2】会議では倉川に批判集中して大混乱。(ちかく全文を発表する。)
 【注3】その後、黒田の権威をバックに松崎は、「批判者たち」をつぎつぎとしめだしていった。
         (『革共同通信』四二号一九七四年十一月四日に掲載)