解 題
(1)本書第二巻は、本多書記長が、六九年四月二七日逮捕・投獄されて約二年、未決勾留期間中に主要に構想を練り、七二年六月に発表した画期的な労作「戦争と革命の基本問題」をはじめとして、この論文によって基礎づけられた内戦論をさらに発展させ、カクマル反革命とのたたかいを指導した時期の重要な政治論文、および中間主義党派批判、さらに重要な論文として天皇制ボナパルテイズム論など、一二篇を収録している。とくに巻頭論文は、こんにちの武装し戦う革共同の背骨、その魂をかたちづくつたともいえる綱領的基本文献であり、マルクス主義暴力革命論の復権を基礎に、内乱・内戦――蜂起の総路線をこのうえない明晰さをもって定式化し、さらに二重対峙・対カクマル戦争論をがっちりと基礎づけ、こんにちの革共同の先制的内戦戦略(津久井良策「朝鮮侵略戦争の歴史的前夜における革命党の基本的任務体系」『共産主義者』二七号、織田武雄 「激動する内外情勢と先制的内戦戦略」『共産主義者』二八号)の実質的な内容を展開している党文献である。
最初に各論文の掲載紙、誌、日付をかかげる。
T 戦争と革命の基本問題
1 戦争と革命の基本問題(『共産主義者』二三号一九七三年六月)
2 「戦争と革命の基本問題」の学び方について(遺稿一九七三年秋)
3 暴力の復権のために(『破防法研究』三号一九六九年十一月)
U カクマル反革命打倒 反ファッショ解放戦争勝利へ
1 革命闘争と革命党の事業の堅実で全面的な発展のために(『前進』六四六号一九七三年八月六日)
2 革命的対峙段階の戦取にむけて(『前進』六五五号一九七三年十月一五日)
3 いまこそ戦略的総反攻へ(『革共同通信』二九号一九七四年八月五日)
4 七五年決戦で総反攻完遂せよ(『前進』七一五号一九七五年一月一日)
V 中間主義党派批判
1 社青同解放派の「共産主義」論批判(マルクス主義学生同盟中核派早大支部 社弁研双書T 梶山史雄一九六六年六月)
2 共産主義の喪失――第二次ブント批判(『前進』三四二号、三四四号一九六七年七月一〇日、二四日)
3 第四インターの歴史的破産(『前進』五九〇号、五九一号一九七二年七月三日、一〇日)
W 天皇制・天皇制イデオロギー粉砕
1 天皇制ボナパルティズム論(一九六〇年十一月)
2 亡国の記念日――紀元節復活とその背景(『前進』四二二号、四二三号一九六九年二月一七日、二四日)
(2) Tの二論文は、本多書記長が六九年四月から七一年三月までの約二年間の未決勾留期間中に、戦争理論の古典をなす『孫子』『戦争論』、なかんずくクラウゼヴィッツ『戦争論』の徹底した批判的摂取をなしとげ、独自の創造的な暴力の社会史的本質の唯物史観的な把握を基礎に、プロレタリア暴力革命論の理論としての革命戦争論、帝国主義国における武装解放闘争の理論、内乱・内戦――蜂起の総路線をこのうえない明晰さをもって究明した偉大な労作である。
こんにちの武装し戦う革共同の二重対峙・対カクマル戦争の理論的・実践的指針は、まさにここに与えられているといってよい。
また遺稿は、「戦争と革命の基本問題」にたいする自注ともいうべく、同志諸君がこの論文を学習する際の適切な導きの糸を与えているものである。したがってこの遺稿が.最良の解題をなしているといってよい。
それゆえ本文と重復するが、以下ごく簡潔に論文の目的と重点を記しておこう。
「『基本問題』の主要な実践的目標は、マルクス主義的な軍事思想を構築する立場から、(1)戦争と革命の関連性とその相互転化の構造、(2)戦争と革命の軍事的な法則性とその合法則的な指導原則の二点について、一般理論として構成しようとしたところにある」「『基本問題』の主要な目的は、反帝・反スタのプロレタリア革命の軍事思想の基礎を解明するところにある。しかし、同志諸君が『基本問題』を研究する方法としては、全体の通読にふまえたうえで、まずもって『第三章 の暴力革命論の基礎』をしっかりと確認し、それを理論的に深化する作業からはじめることが有効であると考える。『第二章 暴力の構造――戦争と社会』は、このような見地からは補論としての意義をもつものとなる。
研究上の前提についてまず確認するとしよう。
第一には、暴力革命論は、プロレタリア革命の本質をなすものである。スターリン主義者の種々の平和革命論、カクマルの『一定の段階』論や『敵が身の程を知らずに反撃してきた場合』論などは、プロレタリア革命の本質論を現象論の次元にすりかえるものであり、革命の本質的内容を破壊するものである。………
第二には、戦争と革命の関連性、その相互の転化の問題、政治と軍事の指導原則の問題について、それを統一的に把握する論理は暴力革命論にある、という点である。帝国主義の戦争、スターリン主義の戦争をプロレタリア世界革命のための革命戦争に転化する闘争の原理的基礎をなすものは、マルクスの暴力革命論である」(本書九五――九六ページ)
この原理的重要性の確認のうえにたって、著者は、プロレタリア暴力革命の歴史的必然性を五点にわたって提起し、このたたかいを一斉武装蜂起にいたる革命的前衛党によって指導された革命戦争、内乱・内戦――蜂起の総路線として定式化しているのである。この論理をきずきあげるうえで、クラウゼヴィッツ『戦争論』の徹底した批判的摂取が、重要な意義をもっている。本多書記長は、「フランス革命戦争――ナポレオン戦争――同盟諸国の戦争という近代ブルジョア戦争の大爆発と、その内乱的性格にたいし確固とした考察をくわえ、戦争の政治的本質とその軍事的特質を洞察する重大な手がかりを与えている」(本書二三ページ)クラウゼヴィッツを「戦争論の分野において」「哲学におけるヘーゲル、経済学におけるスミスの役割を」(本書二四ページ)はたしている、と高い評価を与え、レーニンを手がかりにその批判的摂取による革命戦争の指導原則の構築にむかうのである(第一章(二)(三))。
本多書記長による二重対時・対カクマル戦争の政治的・軍事的な指導原則も、右の論理にもとづいて展開されているのである。それは第一に、まさに二重対峙・対カクマル戦争として、二つの十一月の勝利にたいする日帝国家権力の破防法型弾圧と、それを補完する民間反革命カクマルとのたたかいを、革命党と革命勢力の戦略的たたかいとして、有機的一体のたたかいとして歴史的に位置づけているのである(卑俗な内ゲバ論を粉砕)。第二に、この戦争を絶対戦争として本質をあきらかにし、党と革命勢力のそれにふさわしい戦争体制の構築を指導した点にある。第三に、わが革共同の根本的な政治目的を、たえず徹底的に主張し、あきらかにし、政治と、その継続としての戦争、その手段としての軍事、という点についてきわめて原則的な確認がなされていること、すなわち階級的正義を確信した軍隊の強さと、人民の不断の結集と支持を獲得しつつたたかっていく党の強さを生みだす基礎をつくっていることである。第四に、せん滅戦の意義をきわめて具体的に提起し、革命対反革命の絶対戦争のなかに明快に位置づけたことである。
(3)Uは、七三年八月の六四六号論文にはじまって、七五年一月一日の新年号論文にいたるまでの四篇よりなる。七一年十二・四反革命の深刻性を戦略的にふかく把握した本多書記長は、全党を二重対峙・対カクマル戦争の戦争体制にきびしくうちかためるため、すさまじい気魄をもって、政治的・軍事的指導を展開して行くのであるが、四篇の論文は、この「内戦としての内戦」の戦略的防御、戦略的対峙、戦略的総反攻のそれぞれの時期の指導的論文である。
1は、七三年八月に発表された有名な六四六号論文である。きわめて明快かつ率直な組織的総括のうえにたって、革命的情勢への過渡期の成熟という重大な情勢規定をうちだし、この情勢に即応した革命党の三つの義務を提起し、二重対峙・対カクマル戦争をこれとの関連で位置づけている。
2は、わが党の歴史に永遠に記録されるであろう、かの偉大な七三年九・二一=戦略的対峙段階への突入のたたかいの直後執筆された指導論文である。
3は、七四年八月、歴史的な戦略的総反攻の大号令である。
4は、七五年『前進』新年号論文である。本多書記長の絶筆となった本論文は、二重対峙・対カクマル戦争の戦略的総反攻段階への突入以来約半年間のたたかいにふまえて、カクマル完全打倒=総反攻完遂の七五年への突入をよびかけるものであり、勝利の展望を曇りなくあきらかにし、全党・全軍に勝利の確信を与え、勝利への不退転の決意を促すものである。その整然かつ緻密な論理において、敵反革命を圧倒する烈々たる気魄において、この八〇枚の論稿は、本多書記長の面目躍如たるものがある。われわれは、この論文のなかに、革共同創成以来の、第三次分裂以来の、激動の七ヵ月以来の、二つの十一月以来の、七一年十二・四以来の、そして七三年九・二一――七四年八・三以来の、一貫した第一人者、最高指導者本多書記長の、その最後の日まで最前線にたってたたかいの道をさし示してきた偉大な生涯の凝縮した姿を見てとることができるのである。
これらの論文は、まさにこんにちのわが同盟の生きた指針としてわれわれを鼓舞してやまないのである。
(4)Vは、社青同解放派、第二次ブント(その初期の指導部マル戦派)、第四インターのそれぞれの批判である。注意ぶかい読者は、本多書記長が、おそろしく手きびしく批判の対象を裁断しているように見えながら、まさにそのきびしさのなかに、批判の対象たる党派が問題としている立論の誤りをていねいにときほぐし、その問題領域におけるマルクス主義=レーニン主義を正しくふまえた積極的な立論を堂々と展開し、反論の余地をいっさい与えることなく、その誤りを止揚し去っている明快さに気づくであろう。
1は、一九六六年早大学費学館闘争のさなかにおける解放派批判であり、一〇年の歳月を経ているが、こんにちもなお妥当する革命的批判である。
2は、六六年に思想的統一を欠いたまま野合した連合ブント(第二次ブント)の指導部を形成したマル戦派の経済主義的日和見主義の根源が、共産主義の喪失にあることを鋭くえぐりだした論文である。六七年七月に執筆されたものだが、その直後の十・八羽田闘争によってきりひらかれた激動の七ヵ月の過程で、このたたかいに右翼的に敵対したマル戦派は完全に没落し、連合ブントの指導部からも放逐されていく。その後、新指導部を形成した関西ブント系によって指導された連合ブントとのあいだにわれわれは統一戦線を形成し、六八年十・二一闘争、六九年四・二八沖縄奪還大闘争を組織するが、四・二八闘争の総括をめぐって連合ブントは大分解をとげ、第一の十一月の時点ではもはや戦力とはなりえない小集団となってしまう。かかる第二次ブントの分解の根源は、本多書記長が鋭くえぐりだしたとおり、共産主義の喪失にあることは、すでに歴史の証明するところとなっているのである。
3は、トロッキー主義、およびトロッキー主義の弱点の拡大再生産としての第四インターの歴史的破産を全面的にあばきだし、わが革命的共産主義運動の綱領的優位性をつきだした歴史的文献である。
(5)Wは、本多書記長のユニークな天皇制ボナパルティズム論を内容とする。
1は、一九六〇年十一月に発表され、六二年一月に短いまえがきを付して『批判と展望』第二集にふたたび発表され、その後前進社より七一年二月に労働者文庫の一冊として三たび発刊されたものである。2は、一九六九年二月慶応大学でおこなわれた講演をまとめたものである。
本多書記長の主張する天皇制ボナパルティズム論とはなにか?それは、日共スターリン主義の戦前――戦争直後の綱領論争のひとつの頂点をなすといえる志賀――神山論争の批判的総括をとおして、前者の不確定戦略的・日和見主義的天皇制ファシズム論、後者の天皇制絶対主義論(一九四五年八・一五まで)をともに批判・止揚し、天皇制を、凶暴な侵略と戦争の政治を遂行した日本帝国主義の統治形態として、「近代的な国家形態」(エンゲルス)としてのボナパルティズムとして科学的に規定している点に、他のなんぴとの追随をもゆるさぬユニークにして光彩を放つものがあるのである。同時にこの規定は、労農派――講座派のあいだにたたかわされた日本資本主義論争をも根底的に止揚する拠点としての意義をもっているのである。なぜならば、本来戦略論争として出発したはずの日本資本主義論争が、国家権力の弾圧(治安維持法)に屈して、とくに労農派においては天皇制を禁句として避けてとおる経済主義・合法主義の社会経済分析にもとづくカウツキー的社会主義革命論に堕落し、他方講座派においても三二テーゼによるスターリン主義的二段階戦略の固定化、その頂点たる山田盛太郎(『日本資本主義分析』一九三四年)における「半封建的土地所有制=半農奴制的零細農耕」を日本資本主義の「基柢」として、「基礎規定」として、固定的に規定する事実上の日本帝国主義否定論となって、ともにプロレタリア暴力革命を否定し、労働者階級人民を武装解除する役割をはたしたのであった。ここで多くを語ることはできないが、簡潔に述べるならばかかる講座派――労農派に共通する誤りは、日本の資本主義化が、世界史的には資本主義の帝国主義段階への推転の時期におこなわれたことの把握の欠如、すなわちレーニン『帝国主義』論の世界史的、段階論的視点が完全に欠落している点にあるのであり、かかる一国主義の根底には、日帝の朝鮮、台湾の植民地支配、中国大陸への侵略戦争にたいするレーニン主義的、実践的な立場の放棄、抑圧民族としての恥ずべき堕落があったのである。そしてさらに、この侵略戦争を指導し遂行した日本帝国主義の権力たる天皇制にたいする屈服があったのである。
神山茂夫『天皇制に関する理論的諸問題』(一九三九年)は、資本主義論争のブルジョア・アカデミズム的堕落のなかで、天皇制問題に真正面からとりくんだ、唯一の例外的スターリン主義的文献である。戦争直後から五〇年代初期にいたる時期に日本の左翼戦線を風靡した観さえあったこの神山理論は、しかし日共スターリン主義党内部においては、苛酷な政治的迫害をうけ、理論外的に封殺され、結局こんにちでは、歴史学研究会をはじめとする「進歩的歴史家」たちは、圧倒的に天皇制ファシズム論を、その無内容性に無自覚のまま自己の所説としているのである。
本多書記長の天皇制ボナパルティズム論は、明治維新以来の日本資本主義の歴史的発達と、朝鮮、台湾、中国への侵略と戦争の政治の遂行主体=天皇制にたいする透徹したマルクス主義・レーニン主義的歴史把握をもって、神山茂夫の天皇制絶対主義論を止揚し、あわせて志賀義雄の天皇制ファシズム論にトドメを刺すすぐれて革命的な、唯一のマルクス主義的天皇制理論なのである。この場合、本多書記長が駆使したマルクス主義・レーニン主義の武器とは、主要には、レーニン『帝国主義論』『四月テーゼ』によって確立されたレーニン主義革命論の精髄であり(本書第一巻T、第二巻T参照)、さらにいうまでもなく、マルクス主義ボナパルティズム国家論である。前者についてはすでにふれてきたので、ここでは読者の学習の便宜のために、ボナパルティズム国家論にかんするマルクス主義の古典的規定をつぎにかかげよう。
本多書記長は、「2 亡国の記念日」で、「明治絶対主義政府が自己の生存のために資本主義を発展させたこと、この過程で形成されるブルジョアジーが自己と対抗的に登場してくるプロレタリアートに対抗するために、旧体制と妥協し、それと同盟を結びながら、その内部で絶対政府をきりくずしブルジョアジーの階級的利益を貫徹させていったことを指摘しましたが、わたしは、このような特殊な国家形態をボナパルティズムと規定すべきだと考えています。ボナパルティズムは、歴史的にいうとナポレオン・ボナパルトによって代表された形態、さらに四八年の革命から反革命へ転じていく過程のナポレオン三世のルイ・ボナパルトの形態、そしてこんにちではドゴール型とでもいうべき形態の三つを典型としてあげることができますが、トロッキーは、この三つを比較して 『ナポレオン・ボナパルトのボナパルティズムは若気のいたりのボナパルテイズムである。ルイ・ボナパルトのボナパルティズムは、すでに頭の禿に気づきはじめたボナパルティズムである。そして二〇世紀に登場するボナパルティズムは、自分の老いの身を自覚したボナパルテイズムである』というようなことをもうしております。このようなフランスの典型的なボナパルティズムにたいして、ドイツにおけるカイゼル主義=ビスマルク主義、ロシアにおけるツァーリズム=ストルイピン主義、そして日本の天皇制主義といわれている三つのタイプも、ボナパルテイズム的形態をもって絶対主義国家から近代ブルジョア国家に移行していったもの、ないしは移行していこうとしたものだと見ることができます」(本書四二八――四二九ページ)と簡潔に歴史的な本質規定を与えているが、それはつぎのようなマルクス主義的古典的規定に照らしてみたとき、その正しさがきわめて鮮明となろう。
「ここに【一八四八年六月パリ反乱にたいして――引用者】はじめてブルジョアジーは示したのだ、プロレタリアートがかれらに対立する別個の階級として、自分自身の利益と要求とをかかげて登場するやいなや、ブルジョアジーがいかに凶暴な残酷な復讐にかりたてられるかということを。けれども一八四八年は 一八七一年のかれらの凶暴にくらべるなら、まだ児戯にひとしかった。
その罰はたちどころにいたった。プロレタリアートはまだフランスを支配することができなかったが、ブルジョアジーもまたもはや支配できなくなっていた。すくなくとも、その頃にはできなかった。というのは、ブルジョアジーの大部分はまだ君主主義的な考えをもっており、三つの王党派と一つの共和派とにわかれていたからである。ブルジョア内部のこの争いを利用して、山師のルイ・ボナパルトがすべての権力地位――軍隊、警察、行政機構――を手にいれ、一八五一年十二月二日にはブルジョアジーの最後の堅固な城であった国民議会を破壊することとなった。第二帝政〔一八五一――七〇年〕がはじまり、一むれの政治上・金融上の山師がフランスを搾取しはじめた。だが同時に産業の発達もまたはじまった。それは、ルイ・フィリップ治下の狭量小心な制度のもとでは、またブルジョアジーのごく一小部分の独占的支配によっては、まったく望めなかったものである。ルイ・ボナパルトは、ブルジョアジーを労働者にたいして、また労働者をブルジョアジーにたいしてまもってやるという口実で、資本家たちから権力をうばいとった。しかし、そのかわり、かれの政府は投機と産業上の活動、つまりブルジョアジーの勃興と富の増加とを、これまでになかったほどにたすけてやった。けれどももちろん、それよりもっとはげしく、腐敗と大泥棒がすすんで宮廷に集って、このブルジョアジーの増加した富から多分のうわまえをはねたのである。
ところで、第二帝政とは、フランスの排外主義に訴えるものであり、一八一四年に失った第一帝政時代〔一八〇四――一四年〕の国境、すくなくとも第一共和国時代〔一七九三――一八〇四年〕の国境をとりもどそうと要求するものであった」(エンゲルス『フランスの内乱』第三版への序文一八九一年 大月書店版マルクス・エンゲルス選集第二巻三七四――三七五ページ ゴジックは引用者)「ボナパルティズムは、労働者階級が都市においてはその発展の高い段階に達しているが、数のうえでは農村における小農民(クライネ・パウエルン)に圧倒されており、資本家階級との大革命闘争においては小ブルジョア層と軍隊とにうちやぶられた国における必然的な国家形態である。フランスでは、一八四八年六月の大戦闘にパリ労働者がうちやぶられたとき、ブルジョアジーもこの勝利のためにすっかりつかれはててしまった。ブルジョアジーは、このような勝利には二度と耐えられないことを意識していた。かれらは、名目上はまだ支配していたが、支配するにはあまりに弱かった。先頭には真の勝利者、軍隊が、軍隊補充の主たる源泉をなしていた階級、すなわち都市の暴動者のまえに平静をたもとうとしていた小農民に依拠して、たっていた。この支配の形態が、あきらかに軍事的専制政治であり、その真の首領、軍事的専制政治の生まれながらの相続人がルイ・ボナパルトである。労働者ならびに資本家に対立して、ボナパルティズムは、かれらをして相互に戦端をひらかせないことをその特徴とする。すなわちボナパルティズムは、労働者の強行的な攻撃からブルジョアジーをまもり、これら両階級間の些細でおだやかな小ぜりあいを促し、そしてそのうえ両者のいずれからも政治権力のすべての痕跡をうばいさった」(エンゲルス『プロシャ軍事問題と労働者党』一八六五年 同前第三巻四二――四三ページ ゴジックは引用者)「プロシャでは、なお依然として強力な、土地を所有する貴族とならんで、いままでフランスにおいてのように直接的な政治的支配をたたかいとったこともなく、またイギリスのように多かれすくなかれ間接な政治的支配をたたかいとったこともない比較的に若い、そしてことにひどく瞭病なブルジョアジーがいる。だがこれら両階級にならんで急激に増大しつつあり、知的にはいちじるしく発達した、そして日々ますます組織されつつあるプロレタリアートがいる。したがってわれわれはここに、古い絶対王制の基本条件、すなわち土地貴族とブルジョアジーとのあいだの均衡とならんで、近代ボナパルティズムの基本条件、すなわちブルジョアジーとプロレタリアートとのあいだの均衡を見いだすのである。
ただ古い絶対王制においても、近代ボナパルト王制においても、現実の政治権力は特殊の士官=官僚閥の手中にある。そしてこの士官=官僚閥は、プロシャでは、一部はかれら自身から、一部は小さな嫡子貴族から、まれには大貴族から、その極小部分はブルジョアジーから補充されている。社会の外部に、いわばそのうえにたつかにみえるこの閥族の独自性は、社会にたいする独自性の外見を国家に与えている。
プロシャでは(そしてその範にならってドイツの新帝国憲法でも)この矛盾にみちた社会的状態から必然の結果として生まれた国家形態は、外見的立憲主義である。この形態は、古い絶対王制のこんにちの解消形態であるとともにボナパルト的王制の存在形態である。プロシャでは一八四八年から一八六六年までの外見的立憲主義は、絶対王制の徐々の死を隠蔽し媒介したにすぎなかった。しかし一八六六年からは、そしてことに一八七〇年からは、社会状態の変革が、そしてそれとともに旧国家の解体が、万人の眼前で、かつ急激におこった」(エンゲルス『住宅問題』一八七三年 同前第一二巻一四七――一四八ページ ゴジックは引用者)
「産業の急激な発展はユンカーとブルジョアとの闘争をして、ブルジョアと労働者との闘争に席をゆずらせ、そのため、旧国家の社会的基礎は内部においても完全な変革を経験したのである。一八四〇年以来徐々に変質しつつある君主制は、貴族とブルジョアジーとの闘争を基礎条件とし、そこに平衡をたもっていた。もはやブルジョアジーの進出にたいして貴族をまもることではなく、労働者階級の進出にたいしてすべての所有者階級をまもることが問題となった瞬間から、旧絶対君主制は、とくにこの目的のためにつくりだされた国家形態たるボナパルト君主制に完全に移行しなければならなかった。ボナパルティズムへのプロシャのこの移行を、わたしはすでに別の個所で分析しておいた(『住宅問題』前項引用個所)。そこで強調する必要はなかったが、しかしここで非常に本質的なことは、この移行こそ、プロシャが一八四八年以来なしとげた最大の進歩であった、ということである。……ボナパルティズムは、とにかく封建制の除去を前提とする近代的な国家形態である」(エンゲルス『ドイツ農民戦争』一八七五年第三版序文 同前一五五――一五六ページ。ゴジックは引用者、傍点は原文)
以上で、やや長すぎたが、一九世紀フランスおよびドイツのボナパルティズムにかんする引用を終ることとしよう。
この古典的規定をレーニン主義革命論を媒介に二〇世紀帝国主義現代の日本天皇制に適用するならば、本多書記長の展開した規定が唯一の正しい科学的なものであることを、読者諸君は比較的容易に理解されるであろう。
本多書記長は、本書四〇九ページで、明治二九年(一八九六年)――三一年(一八九八年)ころから、大正二年――七年――一三年(一九二四年)に天皇制ボナパルテイズムへの移行がおこなわれた、と指摘し、ここにおいて、天皇制が日本帝国主義の近代的国家形態として、日帝の国家権力構造、なによりも天皇の軍隊、警察、膨大な官僚=行政機構の首脳部として、まさにプロレタリア暴力革命をもって打倒すべき対象として自己を完成したことをあきらかにし、それによってプロレタリア日本革命の戦略構想を、国家論的分析=経済的、社会構成体的分析の側面から基礎づけることができたのであった。【神山国家論は、レーニン帝国主義段階論と四月テーゼをもってレーニン主義の最高の到達点とする立場から、レーニン主義革命論をとらえる立場にたちえず、それゆえ日本帝国主義を金融資本支配の確立した資本主義的帝国主義としてとらえることに失敗し、「軍事的=封建的帝国主義」規定と絶対主義君主制規定に足をすくわれてしまい、結局、コミンテルン三二テーゼの二段階戦略を結論としているのである。】
まさに、右の理由からして、本多書記長の天皇制ボナパルティズム論は、労農派=講座派の、社会民主主義とスターリン主義との解決なき不毛の論争に、マルクス主義・レーニン主義の立場から革命的止揚を与えうる唯一の拠点であり、戦後マルクス主義理論戦線の最高峰をなすものである。
【なおここでスターリン主義者をはじめ、学界の通説となっている天皇制ファシズム論の誤りについてふれておこう。戦前、戦時の天皇制についてファシズム規定をとることは、ファシズムをたんなる暴政一般という無内容性に解消しさり、およそマルクス主義的国家論の論議の土俵からはずれることを意味するものである。
ファシズムはなによりも、革命勢力の強大化、前革命情勢の到来といった革命的危機のもとで、小ブルジョア大衆、最下級層の一団、プロレタリアートの一部などの、金融資本じしんが絶望と憤怒のなかに落としこんでいる集団を、ナチスに典型的に見られるようにエセ反体制的綱領のもとに組織し、公然隠然と国家権力によって援助された組織的な大衆運動によって、公然たる流血の内戦をとおして、エセ反革命として革命を粉砕することによって成立する政権である。ボナパルテイズムは、天皇制に典型的に見られるように、階級を超越した権威によって階級的激突を抑圧することをとおして、全所有階級の利益をまもることを本質とするのである。
「ボナパルティズム、すなわち、軍隊的、警察的独裁にもとづく『国内平和』と、ファシズム、すなわち、プロレタリアートにたいする公然たる内戦の体制とのあいだの、社会的、政治的差異を認めぬことによって、テールマンはあらかじめ、その目前に生起しつつあることを理解する可能性を、自分から奪っている」(トロッキー『社会ファシズム論批判』三〇九ページ)。
右の規定から見たとき、カクマルこそ現代のファシストであることがよく理解されよう。】
だがわれわれは、戦前天皇制にかんする本多書記長の天皇制ボナパルティズム論を拠点として、さらに戦後天皇制について、明確な国家論的規定性を与えなければならない。たしかに日本一の財閥としての、日本一の大地主としての物質的基礎は大幅に解体・縮小され、天皇制軍隊もまた解体された。だがこれをもって天皇制は解体・消滅したとみなしうるであろうか。否! 絶対に否である。三千万朝鮮・中国人民を虐殺した日本帝国主義の侵略戦争、帝国主義戦争の最高責任者、戦争犯罪人としての天皇は完全に免罪され、憲法第一条に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として銘記されることによって、日帝の侵略と戦争の政治、アジア人民にたいする日帝の民族抑圧的関係を日米安保同盟を媒介に固定化せしめ、戦後天皇制として延命するにいたったのである。日米安保同盟と天皇制・天皇制イデオロギーの不可分の結びつきを絶対的前提としてはじめて、日帝の戦後的再建はなされたのであり、二〇世紀後半の帝国主義戦後世界体制のアメリカ帝国主義を基軸国とした再建の歴史的過程における、敗戦帝国主義国の帝国主義的延命のための「特殊な立憲君主制」として天皇制は存続・再編され、一九六七年紀元節復活の法制的・イデオロギー的攻撃以降、さらに強化にむかい、こんにち朝鮮――アジア侵略へいっそう反動的役割を積極的にはたそうとしていることは明白である。いまや統治形態の天皇制ボナパルティズムへの推転が画策されていることは明白である。
日本帝国主義の国家権力=政治的上部構造として、一貫して日本労働者階級人民に君臨してきた天皇制と日本帝国主義ブルジョアジーとの結合が客体面における戦前と戦後の連続性であるとするならば、象徴天皇制――戦後民主主義のもとで、戦前の日帝のアジア侵略への自己の加担をなんら自己批判することなく、戦後革命の敗北を十分教訓化することなく、またいまだに戦犯天皇裕仁の処刑すらなしえていない日本労働者階級人民の存在、敗北と屈辱の歴史の継続こそ、日本労働者階級人民の主体面における連続性にはかならない。
われわれは、天皇制を一貫して擁護し、近代主義的に美化する「陛下のカクマル」を総せん滅し、この反革命の鮮血の返り血をもってみずからの身を清め、主体面における連続性に終止符をうち、天皇制=日帝国家権力を打倒しなければならない。本多書記長の天皇制ボナパルティズム論は、このたたかいの最良の武器である。
一九七六年三月 前進社出版部